文づかひ
それがしの宮の催したまひし が の に、洋行がへりの将校次を うて身の上ばなしせし時のことなりしが、こよひはおん身が物語聞くべきはずなり、殿下も ねておはすればと促されて、まだ になりてほどもあらじと見ゆる小林といふ少年士官、口に へし 取りて の中へ灰振り落して語りは始めぬ。
わがザックセン軍団につけられて、秋の演習にゆきし折、ラァゲヰッツ村の辺にて、対抗は既に果てて仮設敵を攻むべき日とはなりぬ。小高き丘の上に、まばらに兵を配りて、敵と定めおき、地形の
、 、 などを に に取りて、 より するさま、めづらしき なりければ、 の民ここにかしこに をなし、中に りたる らが黒 の 晴れがましう、小皿伏せたるやうなる 狭き笠に 插したるもをかしと、 へし目がね はしくかなたこなたを らすほどに、向ひの岡なる一群きは てゆかしう覚えぬ。九月はじめの秋の空は、けふしもここに稀なるあゐ色になりて、空気
りたれば、残る なくあざやかに見ゆるこの群の に、馬車 めさせて、年若き貴婦人いくたりか乗りたれば、さまざまの の色相映じて、花 、にしき一団、目もあやに、立ちたる人の 、坐りたる人の の などを、風ひらひらと かしたり。その に馬立てたる白髪の は どめにせし緑の に、うすき いろの帽を けるのみなれど、何となく ありげに見ゆ。すこし引下がりて白き 控へたる 、わが目がねはしばしこれに留まりぬ。 いろの馬のり に着て、白き薄絹巻きたる黒帽子を りたる身の けだかく、今かなたの森蔭より、むらむらと打出でたる猟兵の勇ましさ見むとて、人々騒げどかへりみぬさま心憎し。「
なるかたに心 めたまふものかな。」といひて軽く 肩を ちし長き の なる少年士官は、おなじ大隊の本部につけられたる にて、 フォン・メエルハイムといふ人なり。「かしこなるは我が れるデウベンの城のぬしビュロオ が一族なり。本部のこよひの宿はかの城と定まりたれば、君も人々に交りたまふたつきあらむ。」と る時、猟兵やうやうわが左翼に迫るを見て、メエルハイムは りぬ。この人と我が交りそめしは、まだ久しからぬほどなれど、 き とおもはれぬ。丘の下まで進みて、けふの演習をはり、例の審判も果つるほどに、われはメエルハイムと に大隊長の につきて、こよひの宿へいそぎゆくに、 に造りし「ショッセエ」道美しく切株残れる麦畑の間をうねりて、をりをり水音の耳に入るは、 の を流るるムルデ河に近づきたるなるべし。大隊長は四十の上を三つ四つも えたらむとおもはるる人にて、髪はまだふかき いろを失はねど、その赤き を見れば、はや の波いちじるし。 なれば言葉すくなきに、 めには、「われ一個人にとりては」とことわる あり。 にメエルハイムのかたへ向きて、「君がいひなづけの妻の待ちてやあるらむ、」といひぬ。「許し玉へ、 の君。われにはまだ の妻といふものなし。」「さなりや。 をあしう思ひとり玉ふな。イイダの君を、われ一個人にとりてはかくおもひぬ。」かく二人の物語する間に、道はデウベン城の前にいでぬ。 をかこめる低き をみぎひだりに結ひし に長く、その果つるところに りたる石門あり。 りて見れば、しろ の花咲きみだれたる奥に、 塗りたる の高どのあり。その南のかたに高き石の塔あるは の にならひて造れりと覚ゆ。けふの のことを知りて出迎へし「リフレエ」着たる に引かれて、 の のぼりゆくとき、園の木立を るゆふ日 の く赤く、階の に りたる の「スフィンクス」を照したり。わがはじめて入る独逸貴族の城のさまいかならむ。さきに遠く望みし馬上の美人はいかなる人にか。これらも皆解きあへぬ なるべし。
の壁と とには、 さまざまの形を き、「トルウヘ」といふ めきたるものをところどころに ゑ、柱には みたる の 、古代の 、 などを懸けつらねたる 、いくつか過ぎて、 に引かれぬ。
ビュロオ伯は常の服とおぼしき黒の
のいと きに へて、伯爵夫人とともにここにをり、かねて相識れる中なれば、大隊長と心よげに握手し、われをも引合はさせて、胸の底より出づるやうなる声にてみづから り、メエルハイムには「よくぞ来玉ひし、」と軽く しぬ。夫人は伯よりおいたりと見ゆるほどに 重けれど、こころの優しさ の色に出でたり。メエルハイムを へ呼びて、何やらむしばしささやくほどに、伯。「けふの さぞあらむ。まかりて ひ玉へ。」と人して部屋へ はせぬ。われとメエルハイムとは一つ部屋にて東向なり。ムルデの河波は窓の
のいしづゑを洗ひて、むかひの岸の草むらは緑まだあせず。そのうしろなる の林にゆふ かかれり。 めての方にて折れ、こなたの 膝がしらの如く出でたるところに田舎家二、三軒ありて、 なる粉ひき車の輪 に え、ゆん には水に みてつき出したる の あり。この「バルコン」めきたるところの窓、打見るほどに開きて、少女のかしら三つ四つ、をり なりてこなたを きしが、白き馬に りたりし人はあらざりき。軍服ぬぎて の傍へ らむとせしメエルハイムは、「かしこは若き婦人がたの居間なり、 なれどその窓の戸 くさしてよ、」とわれに ひぬ。日暮れて食堂に招かれ、メエルハイムと
にゆくをり、「この家に若き たちの多きことよ、」と問ひつるに。「もと ありしが、一人はわが友なるファブリイス伯に ぎて、のこれるは なり。」「ファブリイスとは国務大臣の家ならずや。」「さなり、大臣の夫人はここのあるじの姉にて、わが友といふは大臣のよつぎの子なり。」食卓に就きてみれば、五人の姫たちみなおもひおもひの
したる、その美しさいづれはあらぬに、上の一人の上衣も も黒きを着たるさま、めづらしと見れば、これなんさきに白き馬に騎りたりし人なりける。 の姫たちは日本人めづらしく、伯爵夫人のわが軍服 めたまふ言葉の尾につきて、「黒き地に黒き つきたれば、ブラウンシュワイヒの士官に似たり、」と一人いへば、桃色の顔したる末の姫、「さにてもなし、」とまだいわけなくもいやしむいろえ包までいふに、皆をかしさに へねば、あかめし顔を 盛れる皿の上に れぬれど、黒き の姫は だに さざりき。 しありて き姫、さきの罪 はむとやおもひけむ、「されどかの君の軍服は上も下もくろければイイダや好みたまはむ、」といふを聞きて、黒き衣の姫振向きて みぬ。この目は常にをち方にのみ迷ふやうなれど、一たび人の に向ひては、言葉にも増して心をあらはせり。いま睨みしさまは を帯びて りきと覚ゆ。われはこの末の姫の言葉にて知りぬ、さきに大隊長がメエルハイムのいひなづけの妻ならむといひしイイダの君とは、この人のことなるを。かく心づきてみれば、メエルハイムが言葉も振舞も、この君をうやまひ づと見えぬはなし。さてはこの はビュロオ伯夫婦もこころに許したまふなるべし。イイダといふ姫は 高く にて、五人の若き貴婦人のうち、この君のみ髪黒し。かの善くものいふ をよそにしては、外の姫たちに立ちこえて美しとおもふところもなく、 の間にはいつも 少しあり。面のいろの う見ゆるは、黒き衣のためにや。食終りてつぎの間にいづれば、ここはちひさき
めきたるところにて、軟き 、「ゾファ」などの きはめて短きをおほく ゑたり。ここにて の あり。給仕のをとこ に のたぐひいくつか いだるを てく。あるじの外には誰も取らず、ただ大隊長のみは、「われ一個人にとりては『シャルトリョオズ』をこそ、」とて一息に飲みぬ。この時わが立ちし背のほの暗きかたにて、「一個人、一個人」とあやしき声して呼ぶものあるに、おどろきて みれば、この間の隅にはおほいなる がねの ありて、そが中なる 、かねて聞きしことある大隊長のこと葉をまねびしなりけり。姫たち、「あな の鳥や」とつぶやけば、大隊長もみづからこわ高に笑ひぬ。は大隊長と巻烟草 みて、銃猟の せばやと、 のかたへゆくほどに、われはさきよりこなたを りて、珍らしき日本人にものいひたげなる末の姫に向ひて、「このさかしき鳥はおん身のにや、」とゑみつつ問へば。「 、 のとも定らねど、われも でたきものにこそ思ひ れ。さいつ頃までは、 あまた飼ひしが、あまりに馴れて、身に はるものをイイダいたく嫌へば、皆人に取らせつ。この鸚鵡のみは、いかにしてかあの姉君を憎めるがこぼれ にて、今も飼はれ侍り。さならずや。」と鸚鵡のかたへ さしいだしていふに、姉君憎むてふ鳥は、まがりたる を開きて、「さならずや、さならずや」と繰返しぬ。
この
にメエルハイムはイイダひめの傍に りて、なに事をかこひ求むれど、 りてうけひかざりしに、伯爵夫人も言葉を添へ玉ふと見えしが、姫つと立ちて「ピヤノ」にむかひぬ。 いそがはしく をみぎひだりに立つれば、メエルハイムは「いづれの譜をかまゐらすべき、」と楽器のかたはらなる にあゆみ寄らむとせしに、イイダ姫「否、譜なくても」とて、おもむろに す に触れて起すや金石の響。しらべ繁くなりまさるにつれて、あさ の如きいろ、姫が に れ つ。ゆるらかに幾尺の水晶の を引くときは、ムルデの河もしばし流をとどむべく、 ち迫りて く鳴るときは、むかし を ししこの城の も の夢を破られやせむ。あはれ、この少女のこころは に狭き胸の内に閉ぢられて、こと葉となりてあらはるる なければ、その たる よりほとばしり出づるにやあらむ。 覚ゆ、 の波はこのデウベン城をただよはせて、人もわれも浮きつ沈みつ流れゆくを。曲 に になりて、この楽器のうちに みしさまざまの の鬼、ひとりびとりに なき を訴へをはりて、いまや たてて むやうなるとき、 かしや、城外に笛の 起りて、たどたどしうも姫が「ピヤノ」にあはせむとす。じほれたるイイダ姫は、暫く心附かでありしが、かの笛の音ふと耳に入りぬと覚しく にしらべを りて、楽器の も くるやうなる音をせさせ、座を起ちたるおもては、常より かりき。姫たち顔見合せて、「また のをこなる しけるよ。」とささやくほどに、 なる笛の音絶えぬ。
主人の伯は小部屋より出でて、「物くるほしきイイダが当座の曲は、いつものことにて珍らしからねど、君はさこそ驚きたまひけめ、」とわれに会釈しぬ。
絶えしものの音わが耳にはなほ聞えて、うつつごころならず部屋へ
りしが、こよひ見聞しことに心奪はれていもねられず。床をならべしメエルハイムを見れば、これもまだ めたり。問はまほしきことはさはなれど、さすがに るところなきにあらねば、「さきの怪しき笛の音は誰が ししか知りてやおはする、」と にいふに、男爵こなたに向きて、「それにつきては のもの あり、われもこよひは何ゆゑか られねば、起きて語り聞かせむ。」と ひぬ。われらはまだ
まらぬ を降りて、まどの なる小机にいむかひ、 らすほどに、さきの笛の音、また窓の外におこりて、 ち断えたちまち続き、ひな のこころみに鳴く如し。メエルハイムは して語りいでぬ。「
ばかり前のことなるべし、ここより遠からぬブリョオゼンといふ村にあはれなる ありけり。六つ七つのとき の時疫にふた親みななくなりしに、 にていと かりければ、かへりみるものなくほとほと に迫りしが、ある日 の乾きたるやあると、この城へもとめに来ぬ。その頃イイダの君はとをばかりなりしが、あはれがりて物とらせつ。 の笛ありしを与へて、『これ吹いて見よ、』といへど、欠唇なればえ まず。イイダの君、『あの見ぐるしき口なほして得させよ、』とむつかりて まず。母なる夫人聞きて、幼きものの心やさしういふなればとて して はせ玉ひぬ。」「その時よりかの
は城にとどまりて、 となりしが、 はりしもてあそびの笛を離さず、 にはみづから木を りて笛を作り、ひたすら吹きならふほどに、たれ教ふるものなけれど、自然にかかる を すやうになりぬ。」「
の夏わが休暇たまはりてここに来たりし頃、城の一族とほ せむと出でしが、イイダの君が白き すぐれて く、われのみ きゆくをり、狭き道のまがり角にて、かれ草うづ高く積める荷車に ひぬ。馬はおびえて一躍し、姫は うじて にこらへたり。わがすくひにゆかむとするを待たで、 なる高草の裏にあと叫ぶ声すと聞く に、羊飼の 飛ぶごとくに り、姫が馬の ぎは と握りておし めぬ。この童が のいとまだにあれば、見えがくれにわが ふを、姫これより知りて、人してものかづけなどはし玉ひしが、いかなる故にか、 を許されず、童も姫がたまたま逢ひても、こと葉かけたまはぬにて、おのれを嫌ひ玉ふと知り、はてはみづから避くるやうになりしが、いまも遠きわたりより ることを忘れず、好みて姫が住める部屋の窓の下に ぎて、夜も枯草の に眠れり。」き りて に就くころは、ひがし窓の はやほの暗うなりて、笛の音も断えたりしが、この夜イイダ姫おも影に見えぬ。その りたる馬のみるみる黒くなるを、怪しとおもひて く れば、人の にて欠唇なり。されど夢ごころには、姫がこれに騎りたるを、よのつねの事のやうに覚えて、しばしまた眺めたるに、姫とおもひしは「スフィンクス」の にて、 なき目なかば開きたり。馬と見しは前足おとなしく並べたる なり。さてこの「スフィンクス」の の上には、 止まりて、わが面を見て笑ふさまいと憎し。
つとめて起き、窓おしあくれば、朝日の光
の林を染め、 はムルデの河づらに細紋をゑがき、水に近き草原には、ひと群の羊あり。 の「キッテル」といふ衣短く、黒き をあらはしたる童、身の きはめて低きが、おどろなす赤髪ふり乱して、手に持たる 面白げに鳴らしぬ。この日は
の珈琲を部屋にて飲み、 頃大隊長と にグリンマといふところの銃猟仲間の会堂にゆきて演習見に来たまひぬる国王の にあづかるべきはずなれば、正服着て待つほどに、あるじの伯は馬車を借して の上まで見送りぬ。われは外国士官といふをもて、将官、佐官をのみつどふるけふの会に招かれしが、メエルハイムは城に残りき。田舎なれど会堂おもひの に美しく、食卓の器は王宮よりはこび来ぬとて、純銀の皿、マイセン焼の ものなどあり。この国のやき物は東洋のを にしつといへど、染いだしたる草花などの色は、我 などのものに似もやらず。されどドレスデンの宮には、陶ものの といふありて、 日本の の おほかた れりとぞいふなる。国王 にはいま始めて す。すがた やさしき白髪の にて、ダンテの『神曲』訳したまひきといふヨハン王のおん なればにや、応接いと にて、「わがザックセンに日本の公使置かれむをりは、いまの にて、おん身の むを待たむ、」など に えさせ玉ふ。わが邦にては きよしみある人をとて、 ばるるやうなる なく、かかる任に当るには、別に履歴なうては はぬことを、知ろしめさぬなるべし。ここにつどへる将校百三十余人の中にて、騎兵の服着たる老将官の きはめて なるは、国務大臣ファブリイス伯なりき。夕暮に城にかへれば、
らの笑ひさざめく声、石門の まで聞ゆ。車停むるところへ、はや馴れたる末の姫走り来て、「姉君たち『クロケット』の したまへば、おん身も になりたまはずや、」とわれに めぬ。大隊長、「姫君の機嫌損じたまふな。われ一個人にとりては、 脱ぎかへて ふべし。」といふをあとに聞きなして くに、 の下の園にて姫たちいま遊の なり。芝生のところどころに黒がねの弓伏せて植ゑおき、 の もて押へたる の を、 ひて に打ち、かの弓の下をくぐらするに、 なるは百に一つを失はねど、 きはあやまちて足など撃ちぬとてあわてふためく。われも いてこれに雑り、打てども打てども、球あらぬ へのみ飛ぶぞ なき。姫たち声を併せて笑ふところへ、イイダ姫メエルハイムが に 掛けてかへりしが、うち解けたりとおもふさまも見えず。メエルハイムはわれに向ひて、「いかに、けふの宴おもしろかりしや、」と問ひかけて答を待たず、「われをも組に入れ玉へ、」と群のかたへ歩みよりぬ。姫たちは顔見あはせて打笑ひ、「あそびには
みたり、姉ぎみと共にいづくへか きたまひし、」と問へば、「見晴らしよき岩角わたりまでゆきしが、この には かず、 ぬしは明日わが隊とともにムッチェンのかたへ立ちたまふべければ、君たちの中にて一人塔の へ し、粉ひき車のあなたに、 の 見ゆるところをも見せ玉はずや、」といひぬ。口
きすゑの姫もまだ何とも答へぬ間に、「われこそ」といひしは、おもひも掛けぬイイダ姫なり。物おほくいはぬ人の とて、 に ししこと葉と共に、顔さと めしが、はや先に立ちて ふに、われは りつつも随ひ行きぬ。あとにては姫たちメエルハイムがめぐりに集まりて、「 までにおもしろき話一つ聞かせ玉へ、」と迫りたりき。この塔は園に向きたるかたに、
みたる をつくりてその顛を にしたれば、階段をのぼりおりする人も、顔に立ちたる人も下より に見ゆべければ、イイダ姫が事もなくみづから案内せむといひしも、深く むに足らず。姫はほとほと走るやうに塔の にゆきて、こなたを顧みたれば、われも急ぎて追付き、段の石をば先に立ちて踏みはじめぬ。ひと足遅れてのぼり来る姫の息 りて苦しげなれば、あまたたび休みて、 う上にいたりて見るに、ここはおもひの外に広く、めぐりに低き鉄欄干をつくり、中央に大なる切石一つ据ゑたり。今やわれ下界を離れたるこの塔の顛にて、きのふラアゲヰッツの丘の上より
に初対面せしときより、怪しくもこころを引かれて、いやしき物好にもあらず、いろなる心にもあらねど、夢に見、 におもふ少女と差向ひになりぬ。ここより望むべきザックセン平野のけしきはいかに美しくとも、茂れる林もあるべく、深き もあるべしとおもはるるこの少女が心には、いかでか かむ。しく高き石級をのぼり来て、 にさしたる の色まだ せぬに、まばゆきほどなるゆふ日の光に照されて、苦しき胸を めむためにや、この顛の真中なる切石に腰うち掛け、かの物いふ目の瞳をきとわが に注ぎしときは、常は見ばえせざりし姫なれど、さきに珍らしき空想の曲かなでし時にもまして美しきに、いかなればか、 の刻みし墓上の石像に似たりとおもはれぬ。
姫はこと葉
しく、「われ君が心を知りての あり。かくいはばきのふはじめて相見て、こと葉もまだかはさぬにいかでと怪み玉はむ。されどわれはたやすく ふものにあらず。君演習済みてドレスデンにゆき玉はば、王宮にも招かれ国務大臣の にも迎へられ玉ふべし。」といひかけ、衣の間より封じたる を取出でてわれに渡し、「これを人知れず大臣の夫人に届け玉へ、人知れず、」と頼みぬ。大臣の夫人はこの君の にあたりて、姉君さへかの家にゆきておはすといふに、始めて逢へること の助を借らでものことなるべく、またこの城の人に知らせじとならば、ひそかに郵便に附しても善からむに、かく気をかねて なる振舞したまふを見れば、この姫こころ狂ひたるにはあらずやとおもはれぬ。されどこはただしばしの事なりき。姫の目は くものいふのみにあらず、人のいはぬことをも能く聞きたりけむ。 のやうに語を ぎて、「ファブリイス伯爵夫人のわが伯母なることは、聞きてやおはさむ。わが姉もかしこにあれど、それにも知られぬを願ひて、君が を借らむとこそおもひ れ。ここの人への心づかひのみならば、郵便もあめれど、それすら 出づること稀なる身には、 ひがたきをおもひやり玉へ。」といふに、げに故あることならむとおもひて ひぬ。入日は城門近き木立より虹の如く洩りたるに、河霧たち添ひて、おぼろけになる頃塔を下れば、姫たちメエルハイムが話ききはててわれらを待受け、うち連れて
にともし火をかがやかしたる食堂に入りぬ。こよひはイイダ姫きのふに変りて、楽しげにもてなせば、メエルハイムが にも喜のいろ見えにき。あくる朝ムッチェンのかたをこころざしてここを立ちぬ。
秋の演習はこれより五日ばかりにて終り、わが隊はドレスデンにかへりしかば、われはゼエ・ストラアセなる館をたづねて、さきにフォン・ビュロオ伯が娘イイダ姫に誓ひしことを果さむとせしが、
よりところの習にては、冬になりて交際の時節 ぬ内、かかる に逢はむことたやすからず、隊附の士官などの常の訪問といふは、玄関の なる一間に かれて、名簿に筆染むることなればおもふのみにて みぬ。その年も隊務いそがはしき中に暮れて、エルベがは上流の
にはちす葉の如き氷塊、みどりの波にただよふとき、王宮の新年はなばなしく、足もと き きの を み、国王のおん前近う進みて、正服うるはしき立姿を拝し、それよりふつか三日過ぎて、国務大臣フォン・ファブリイス伯の夜会に招かれ、 、バワリア、北 などの公使の挨拶 りて、人々こほり菓子に を下す を ひ、伯爵夫人の に歩寄り、事のもと手短に べて、首尾好くイイダ姫が文をわたしぬ。一月中旬に入りて昇進任命などにあへる士官とともに、奥のおん
えをゆるされ、正服着て宮に参り、人々と輪なりに に立ちて を待つほどに、ゆがみよろぼひたる式部官に案内せられて 出でたまひ、式部官に名をいはせて、ひとりびとりこと葉を掛け、手袋はづしたる右の手の甲に せしめ玉ふ。妃は髪黒く 低く、 いろの あまり見映せぬかはりには、 いとやさしく、「おん身は の に功ありしそれがしが なりや、」など にものし玉へば、いづれも嬉しとおもふなるべし。したがひ し式の女官は奥の入口の の上まで出で、 に みたる を持ちたるままに直立したる、その姿いといと気高く、 柱を にしたる一面の画図に似たりけり。われは心ともなくその を見しに、この はイイダ姫なりき。ここにはそもそも して。王都の中央にてエルベ河を横ぎる鉄橋の上より望めば、シュロス・ガッセに
りたる王宮の窓、こよひは殊更にひかりかがやきたり。われも数には漏れで、けふの舞踏会にまねかれたれば、アウグスツスの こうぢに余りて列をなしたる馬車の間をくぐり、いま玄関に横づけにせし より出でたる貴婦人、毛革の肩掛を にわたして車箱の へかくさせ、美しくゆひ上げたるこがね色の髪と、まばゆきまで白き とを して、車の扉開きし びたる をかへりみもせで入りし跡にて、その乗りたりし車はまだ動かず、次に待ちたる車もまだ寄せぬ間をはかり、槍取りて左右にならびたる の の前を過ぎ、赤き を一筋に敷きたる の をのぼりぬ。階の のところどころには、 にみどりと白との りたる「リフレエ」を着て、 の を いたる男、 を めて もせず立ちたり。むかしはここに立つ人おのおの 持つ習なりしが、いま廊下、階段に 用ゐることとなりて、それは みぬ。階の上なる広間よりは、 を存ぜる の の火遠く光の波を らせ、数知らぬ勲章、肩じるし、女服の飾などを射て、祖先よよの の肖像の間に挾まれたる大鏡に されたる、いへば なり。式部官が突く
ついたる 、「パルケット」の板に触れてとうとうと鳴りひびけば、 ばりの扉一時に音もなくさとあきて、広間のまなかに の道おのづから開け、こよひ六百人と聞えし客、みなくの字なりに身を曲げ、背の中ほどまでも りあけてみせたる貴婦人の 、 の ある軍人の 、また の などの間を王族の一行 りたまふ。 にはむかしながらの巻毛の をかぶりたる 二人、ひきつづいて王妃両陛下、ザックセン、マイニンゲンのよつぎの君夫婦、ワイマル、ショオンベルヒの両公子、これにおもなる女官数人 へり。ザックセン王宮の女官はみにくしといふ世の むなしからず、いづれも よからぬに、人の世の春さへはや過ぎたるが多く、なかにはおい みて 一つ一つに数ふべき胸を、式なればえも隠さで したるなどを、 しにうち見るほどに、 せしその人は来ずして、一行はや果てなむとす。そのときまだ年若き宮女一人、 めきてゆたかに歩みくるを、それかあらぬかと げば、これなんわがイイダ姫なりける。王族広間の
のはてに き玉ひて、国々の公使、またはその夫人などこれを囲むとき、かねて高廊の に控へたる狙撃聯隊の楽人がひと声鳴らす とともに「ポロネエズ」といふ はじまりぬ。こはただおのおの にあひての婦人の指をつまみて、この間をひと するなり。列のかしらは軍装したる国王、紅衣のマイニンゲン夫人を き、つづいて の を召したる妃にならびしはマイニンゲンの公子なりき。 に五十 ばかりの列めぐりをはるとき、妃は のしるしつきたる椅子に りて、公使の夫人たちを にをらせたまへば、国王向ひの座敷なる のかたへうつり玉ひぬ。この時まことの舞踏はじまりて、群客たちこめたる中央の狭きところを、いと
にめぐりありくを見れば、おほくは少年士官の宮女たちをあひ手にしたるなり。わがメエルハイムの見えぬはいかにとおもひしが、げに ならぬ士官はおほむね招かれぬものをと悟りぬ。さてイイダ姫の舞ふさまいかにと、芝居にて の みるここちしてうち りたるに、胸にさうびの自然花を のままに着けたるほかに、飾といふべきもの一つもあらぬ水色ぎぬの 、狭き間をくぐりながち まぬ輪を きて、 の露 るるあだし貴人の服のおもげなるを きぬ。時
るにつれて黄蝋の火は次第に の におかされて暗うなり、 ながくしたたりて、 の上には れたる 、落ちたるはな あり。前座敷の にかよふ足やうやう繁くなりたるをりしも、わが前をとほり過ぐるやうにして、 かたぶけたる顔こなたへふり向け、なかば開けるまひ に のわたりを持たせて、「われをばはや見忘れやし玉ひつらむ、」といふはイイダ姫なり。「いかで」といらへつつ、 附きてゆけば、「かしこなる の 見たまひしや、東洋産の に知らぬ草木鳥獣など染めつけたるを、われに きあかさむ人おん身の になし、いざ、」といひて伴ひゆきぬ。ここは
の壁に造付けたる白石の棚に、 の君が美術に志ありてあつめたまひぬる国々のおほ花瓶、かぞふる指いとなきまで並べたるが、 の如く白き、 の如く き、さては五色まばゆき のいろなるなど、蔭になりたる壁より浮きいでて はし。されどこの に慣れたるまらうどたちは、こよひこれに心留むべくもあらねば、前座敷にゆきかふ人のをりをり見ゆるのみにて、足をとどむるものほとほとなかりき。の淡き地におなじいろの濃きから草織出したる長椅子に、姫は水いろぎぬの裳のけだかきおほ の、舞の後ながらつゆ れぬを、身をひねりて横ざまに折りて腰掛け、 に中の棚の花瓶を扇の もてゆびさしてわれに語りはじめぬ。
「はや
のむかしとなりぬ。ゆくりなく君を文づかひにして、ゐや申すたつきを得ざりければ、わが身の事いかにおもひとり玉ひけむ。されど我を の よりすくひいで玉ひし君、心の中には も忘れ らず。」「
日本の風俗書きしふみ一つ二つ買はせて読みしに、おん国にては親の結ぶ縁ありて、まことの愛知らぬ夫婦多しと、こなたの旅人のいやしむやうに記したるありしが、こはまだよくも考へぬ にて、かかることはこの にもなからずやは。いひなづけするまでの 久しく、かたみに心の底まで知りあふ は とも ともいはるる中にこそあらめ、貴族仲間にては早くより目上の人にきめられたる夫婦、こころ合はでも まむよしなきに、日々にあひ見て むこころ くまで りたる時、これに添はする さりとてはことわりなの世や。」「メエルハイムはおん身が友なり。悪しといはば弁護もやしたまはむ。否、我とてもその
なる心を知り、 にくからぬを見る目なきにあらねど、年頃つきあひしすゑ、わが胸にうづみ火ほどのあたたまりも ず。ただ ふにはゆるは の親切にて、ふた親のゆるしし交際の 、かひな借さるることもあれど、唯二人になりたるときは、家も園もゆくかたもなう せく覚えて、こころともなく太き息せられても、かしら熱くなるまで忍びがたうなりぬ。何ゆゑと問ひたまふな。そを誰か知らむ。恋ふるも恋ふるゆゑに恋ふるとこそ聞け、嫌ふもまたさならむ。」「あるとき父の機嫌
きを て、わがくるしさいひ出でむとせしに、 を見てなかば言はせず。『世に貴族と生れしものは、 やまがつなどの如くわがままなる振舞、おもひもよらぬことなり。血の権の は人の権なり。われ たれど、人の 忘れたりなど、ゆめな思ひそ。向ひの壁に掛けたるわが母君の を見よ。心もあの のやうに しく、われにあだし心おこさせ玉はず、世のたのしみをば失ひぬれど、 の間いやしき血 まぜしことなき家の はすくひぬ。』といつも軍人ぶりのこと葉つきあらあらしきに似ぬやさしさに、兼ねてといはむかく答へむとおもひし 、胸にたたみたるままにてえもめぐらさず、 心のみ弱うなりてやみぬ。」「
より父に向ひてはかへすこと葉知らぬ母に、わがこころ して何にかせむ。されど貴族の子に生れたりとて、われも人なり。いまいましき門閥、血統、迷信の土くれと りては、我胸の中に投入るべきところなし。いやしき恋にうき身 さば、姫ごぜの恥ともならめど、この の にいでむとするを誰か支ふべき。『カトリック』教の国には になる人ありといへど、ここ新教のザックセンにてはそれもえならず。そよや、かの の寺にひとしく、礼知りてなさけ知らぬ宮の内こそわが なれ。」「わが家もこの国にて聞ゆる
なるに、いま勢ある国務大臣ファブリイス伯とはかさなる あり。この事おもてより願はばいと からむとおもへど、それの はぬは父君の うごかしがたきゆゑのみならず。われ として人とともに歎き、人とともに笑ひ、愛憎二つの目もて久しく見らるることを嫌へば、かかる望をかれに伝へ、これにいひ継がれて、あるは められ、あるは勧められむ はしさに へず。いはんやメエルハイムの如く心浅々しき人に、イイダ姫嫌ひて避けむとすなどと、おのれ一人にのみ係ることのやうにおもひ されむこと しからむ。われよりの願と人に知られで宮づかへする もがなとおもひ悩むほどに、この国をしばしの宿にして、われらを路傍の岩木などのやうに見もすべきおん身が、心の底にゆるぎなき誠をつつみたまふと知りて、かねて我身いとほしみたまふファブリイス夫人への 、ひそかに頼みまつりぬ。」「されどこの
のことはファブリイス夫人こころに秘めて にだに知らせ玉はず、女官の あればしばしの にとて呼寄せ、 のおん もだしがたしとて遂にとどめられぬ。」「うき世の波にただよはされて泳ぐ
知らぬメエルハイムがごとき男は、わが身忘れむとてしら 生やすこともなからむ。 痛ましきはおん身のやどりたまひし夜、わが糸の手とどめし なり。わが立ちし後も、よなよな をわが窓の下に繋ぎて ししが、ある 羊小屋の扉のあかぬにこころづきて、人々岸辺にゆきて見しに、波虚しき船を打ちて、残れるはかれ草の上なる の笛のみなりきと聞きつ。」かたりをはるとき
の時計ほがらかに鳴りて、はや舞踏の となり、妃はおほとのごもり玉ふべきをりなれば、イイダ姫あわただしく坐を ちて、こなたへ差しのばしたる の指に、わが唇触るるとき、隅の観兵の に設けたる に急ぐまらうど、群立ちてここを過ぎぬ。姫の姿はその間にまじり、次第に遠ざかりゆきて、をりをり人の肩のすきまに見ゆる、けふの の水いろのみぞ名残なりける。
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