惣太の経験

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惣太の経験

 彼は仲間には気早きばや惣太そうたで通っていた。彼の本姓を知りたい人は警視庁へ行けば、指紋と共にちゃんと分る筈であるが、姓などは彼自身さえ必要に迫られて時折思い出す位なもので、この話には関係がない。

 惣太は生れつきのあわて者で、驚くべき気早である。ある時彼は銀行へ忍び込んで、金庫の前の金網戸を開けた。中へ這入はいって文字盤を出鱈目でたらめに引搔き廻していると、金庫が彼と共にスーと上へ昇った。彼はエレべーターの中へ這入っていたのであった。或時彼は或る家の雨戸をこじ開けて忍び込んだ。廊下の突当りに箪笥たんすがあったので、力まかせに押破ると彼は外へ出てしまった。箪笥と思ったのは戸袋だったのである。――こんな話が仲間内に誠しやかに伝えられる程彼はあわて者であった。多分こんな話は作り事で、現に惣太は銀行の金庫を破る程の高級な盗人でない事は分るが、手提金庫だと思って鉄瓶を提げて来たり、ラジオのラッパのつもりで水牛の角をさらったりする事は、彼にとっては朝飯前であった。こういう粗忽そこつ者が永年泥棒を働いて、たまにしか捕まらなかったのは、一に彼の幸運に帰すべきだが、彼が生活のためにしか盗みをしなかった事も大きな原因である。

 生活のために盗みをすると云う事は大して楽な事ではなかった。もし惣太の父親が盗人でなく、母親が父親の刑務所入りの留守中、何か生活を支持すべき仕事があったか、又は彼が両親に死に別れてから、仲間に羽振りの利く親分に養われなかったら、彼は何か別の職業を撰んで愛嬌者と唄われて一生を送ったかも知れない。もっとも彼は一度正業につこうと思って、一日土方をやって見た事がある。けれども恐ろママしく力の要る仕事で、それに朝から晚まで、コツコツ穴を掘っている様な単調な事は、彼はとてもやっていられなかった。彼は豆だらけの手で、一品料理屋の出前持になった。ところが彼は配り先を間違えてばかりいた。その上集めに行く段になると、配り先をケロリと忘れていた。それで、二日目にむこうから断られてしまった。彼はむなく彼には一番適した夜盗を生業なりわいにした。その代り彼は貪らなかった。かなり倹約つつましい生活をして、金がなくなると、威勢よくかせぎに出かけた。

 或る時、惣太は洋館に忍び込んで見たいと云う慾望を起した。別にどうと云う理由もなかったが、洋館に這入って見たくなった。後には洋館にはどうかすると西洋人が住んでいて、西洋人と云うものは家中に無暗に錠を下して、ややともするとピストルを打放ぶつぱなすものであると云う事が分ったので、滅多に這入って見たいなどとは思わなくなったが、その時は何分始ママめての事であるし、とにかく這入って見たくなったので、彼は昼間目星めぼしい洋館を物色して歩いた。で、上野公園の奥、鶯谷うぐいすだにの方へ出ようとする所に、こんもりと森に囲まれた、三軒の同じような建て方の洋館を発見して、大嫌いな犬がいない事を確めると、忽ちその真中の家に這入ってやろうと決心した。

 上野の森の夜は早く来る。殊に時に二月の末で、寒さが未だきびしい折だったから、十時過ぎにはもうこの辺を通る人はない。さっきから待ち草臥くたびれた気早の惣太、もうたまらなくなった。そっと低い石垣を乗り越えて建物にちかづくと、コツコツと窓の辺で音を立てていたが、忽ちヒラリと中へ躍り込んだ。

 飛び込んだ所は、もとより勝手などを知っていたのではないが、かなり広い部屋で客間らしかった。懐中電燈で照らして見ると、壁には大きな額が懸かっていて、床には厚い絨緞が敷きつめてあり、ドッシリとした調度が、惣太の眼にはかなり賛沢に思われた。彼はホクホク喜びながら、いきなり煖炉の前の棚に乗せてある黄金きん色をした置き物に手をかけた。その時である。部屋の電燈がパッと点いた。

 惣太の狼狽は気の毒なようであった。彼は洋館の電燈は戸口にあるスイッチで、外から点けられるものだと云う事を知らなかったのだ。続いてドアの外の話声を耳にすると、彼は無我夢中で窓際の長椅子の下に這い込んだ。

 彼が長椅子の下で腹這いになって、息を凝らしていると、ドアの開く気配がしてコツコツと足音が響いた。二人らしい。その人達は長椅子にちかづいたかと思うと、いきなりその上へドシンと腰を下したのである。長椅子は御承知の通り、バネがついていて、腰をかける人にはフワフワして気持のいいものだが、バネは上から重みが加わるにつれ、幾分下へ出張る事になつているから下に潜っている人には不愉快千万で、惣太は押し潰されたかわずのように手足を伸びる丈伸ばして、腹を床にピタリとつけるより仕方がなかった。それでも上でフワフワする度に、コツンコツンと背中へ堅いものが当る。

 腰をかけたのは一人は洋服を着た男に違いなかった。揃えた足が二本彼の鼻先でじっとしている。他に二本、これも人間の足には違いないのだが、床の上二三寸の所を、まるで章魚たこの足のようにピンピン跳ねて、惣太の鼻先をかすめる、その度に彼は、せいぜい五分位しか動かす余裕のない顔を、一生懸命に引込めて、それを避けねばならなかった。始めは素足かと思ったが、薄い肉色の絹の靴下を穿いているのだった。華奢な恐ろしく踵の高い靴を穿いている。つまり洋装した女の足なのだ。男の膝に腰をかけて両足をピンピン振っているのだ。大方おおかた両手で男の頸にブラ下っているのだろう。惣太はようやくこれは西洋人夫婦だなと思った。しかし彼はそれを直ぐに取消した。日本人に違いないと思った。足で区別したのではない、頭上の会話がまぎれもない日本語だったからである。

「よく来て下すったわねえ」女の声。

「うん――」男の声。

「ほんとうにわたし待っていたのよ」

「そうか」

「あなた。あれ持って来て下すって」

「うん、持って来たよ」

「まあ、嬉しい、あなたはほんとうに実があるわねえ」

 女の足が急に運動を止めたかと思うと、チュッと云う異樣な音が聞えママた。

 惣太は思わず低声こごえで畜生! と云った。もし長椅子がも少し軽いか、それとも男の方が腰をかけていなかったら、この長椅子は女を乗せたまま躍り上ったかも知れない。いずれにしても、惣太が腹を立てたにもかかわらず、長椅子がビクともしなかったのは、彼にとっても女にとっても幸な事であった。

「あなた、なぜそんなに妾をじろじろ見るの」

「余り美しいからさ」

「あら、お世辞が好いのね」

「君位美しいとずいぶん惚れ手があるだろうね」

「ないわよ。誰も惚れてなんかくれないわ」

「そんな事があるもんか、誰だって惚れるよ」

「じゃ、あなたでも」

「無論さ、でも片思いだから仕方がない」

「あら、片思いはないでしょう。あたしの方がよっぽど片思いだわ」

「――」

「あら、また恐い顔をするのね、あなた今晩は何だか変だわ。どうかなすったの」

「どうもしやしない」

「じゃ、機嫌をよくして下さいな」

 惣太は長椅子の下でへた張りながら又チェッと云った。女の足は相変らず、ブランブランと彼の鼻を掠める。気早の惣太もう我慢がならなかった。飛び出そうとするとたんに、不思議な事が起った。ブランブランしている足のさきから靴がパッと床に落ちた。いや女が脱いだのだ。惣太は驚いた。踵の高い女靴がああ簡単に脱げるものとは思わなかった。が、もっと驚いた事は、女の白い手がスゥーと上から降りて来て、靴に近づいたかと思うと、キラリ、靴の中へ小さな光るものを落し込んだ。次の瞬間にそそくさと足尖あしさきが靴を引っかけたと思うと、又ブランブラン始めた。

「おや」惣太は首を縮めた。「この女は仲間かな」

「あなた、今日は陽気に一つ飲みましょうね」上では会話が始まる。

「僕はだめだよ」

「あら、そんな野暮な事を云わないで飲みましょう、ね、ウイスキー? ブラン?」

「そんなきつい酒はとても飲めないよ」

「まあ、お飲みなさいよ」

 女の細い足がヒラリと床について、暫く見えなくなると、やがて盆の上にグラスのふれ合う音がして、又女の足が見えた。

「あたしも飲みますから、あなたも飲んで頂戴。だって今日はあたしの望みが叶って、こんな嬉しい事はないんですもの」

「うん、のむよ」男の不精々々答える声が聞えた。

 惣太はさっきから考えていたが、どうも仲間内にはこんな女は思い出せない。畜生! 太いあまだ。ここはきっと淫売宿に違いない――それにしても洋館なのが不思議だ――淫売なら淫売で好い。客を喰え込んで、持物を掠めるとは太い奴だ。よしこっちにも覚悟があるぞ。そう思って、惣太は機会をねらっていた。

 やがて女は又長椅子に腰をかけて、思いきり足をブランブラン振り出した。惣太は不自由な身体を曲げて、やっと片手を出すと、矢頃を計って、鼻先へやって来た靴にちょっと指を触れた。はずみで、予期した通りに、靴はポロリと落ちた。彼は素早く手を入れて中のものを摑み出すと、用意して置いた洋服の腕からもぎ取ったボタンを入れた。断って置くが、惣太は安物の洋服を着ていた。彼は何となく洋館に忍び込むには洋服を着て行かねばならんと思ったので――。

 女はあわてて靴に足をつっ込んだが、指輪がボ夕ンに化けた事は気がつかなかったらしい。

 それから暫く女ははしゃいで喋りつづけた。男の方はうんとか、そうかとか言葉少なに受流していたがだんだん返事がなくなって、やがて四辺あたりがしんとした。

 気早の惣太、椅子の下で腹をへこまして肘を張って鎌首をもたげて見ると、女の足はもう見えないで、男の足だけが、斜めによじれたようになって、椅子から下っていた。じっとして動かない。惣太はちょっと突ついてみた。じっとしている。今度は力を入れてついて見た。矢張動かない。少ししやくに障ってきたので、思い切って突き飛ばすと、足は忽ち動いたが、すぐ元通りに斜になって静止する。惣太はそろそろ長椅子の下から這い出した。

 立上って見ると、椅子にもたれて、一人の男がだらしなく寝そべっている。安心すると共に惣太はのうのうと大きなのびをしたが、伸をしている中に彼はカッとなった。酔払ってグウグウ寝ている、それは未だ好いとして、あんな女に引かかる奴はどうせ青二才の腰抜野郎だと思っていた所が、こいつはどうだ、四十男の髯面だ。どう見たって女に好かれる顔じゃない。なんと云うざまだ。惣太はいきなり横面をり飛ばそうと思ったが、その瞬間に彼の職業意識が蘇えママった。金鎖がチョッキの胸で光っている。彼は忽ちチョッキのボタンを外した。内懐うちふところを探ると、手に当ったのは、一束の紙幣、天の与えである。彼は素早く、紙幣さつ束をズボンのポケットに押し込むと、さっさと窓を開けて外へ飛び下りた。生活のための職業だ。これ以上は時計だろうが、宝石だろうが振り向く惣太じゃない。



 窓から飛び下りると、例の低い石垣を乗り越えて、惣太はスタスタと鶯谷の方へ歩き出した。まだ十二時前だ。彼は鼻唄でも歌いたいような気分である。

 ものの半町とも行かぬ中に、暗闇からモシモシと呼び留めるものがある。

 惣太は飛上った。女の声ではあるが、よし刑事でないにせよ、この夜更、しかも上野の森の中で、だしぬけに呼び留められるのは好い気持じゃない。夜遅く淋しい路を歩いて行って、暗がりからいきなり白い猫に飛びつかれた経験のある人は、今の惣太がそれだと思えば好い。

「――」彼は立止って闇をすかし見た。

「あの――」暗闇から出て来たのは確にママ女だった。みすぼらしい身装みなり赤坊あかんぼうを背負っている。遠くの街燈をたよりに、おぼろげながらにやつれた顔が見える。「お呼び止めして甚だ失礼でございますが、あなたは今あの家からお出になったと存じますが」女は洋館を指した。

 惣太はヒヤリとした。が相手は多寡たかが女一人だ。

「ええ、そうです」平気で返事をした。

「あれは一体どう云う家でございましょうか」女の問は意外である。

 惣太は弱った。

 実は彼にもどう云う家だか分らないのだ。

「どう云う家って?」彼は言葉を濁した。

「実は私の夫が今あの家にいるのでございます」女はちょっと言葉を切った。泣いているらしい。

「いいえ、あの家へ連れ込まれたのでございます。あの女が連れ込んだのです。あ、悪魔です、あの女は」おかみさんは到頭泣き出した。

 惣太の好奇心は極度に緊張した。

「あの人があんたの亭主かね、四十位の年配の髯を生やした――」

「お見かけになりましたか。お恥しい事でございます。いかにもあれが夫でございます。夫はあの女にすっかりだまされまして、うつつを抜かしております。貧しい銀行員の身で、無理工面をいたしまして、御覧の通り、私達には乞食同様の真似をさして、あの女に注ぎ込むのでございます。自力で稼ぎましたお金なら、男の甲斐性と申す事もございますが、あ、あの人は」女は泣きじゃくりながら、雄弁に口説くどき立てる。「あの人は銀行の金を盗んだのでございます。前々から可笑おかしいとは思っておりましたが、現在の夫が盗人とは思いもよりませんでした。女にうつつを抜かして、人様のものを盗む とは何と見下げ果てた事でございましょう」

 無論あたりに人は居なかったが、こう度々盗人と云われるのは、惣太にとっては有難くない事だった。

「おかみさん」惣太は云った。「もっともだけれども、いくらなんでも往来で盗人なんて大きな声を出すのは止したらどうだい。自分の亭主の事じゃないか」

「お言葉でございますが、盗人はどこまでも盗人に相違ございません」――こいつあ手がつけられねえなと惣太は心の内で思った。災難だと諦めて黙って聞く事にしよう。――おかみさんは涙声で訴え続ける。

「今日も今日とて、又女から無心でも云われたのでございましょう。銀行からお金を持出したのでございます。阿漕あこぎうらも度重なれば何とやら、銀行の方でも気がつかずには置きません。先程宅へ課長さんが見えまして、これ迄の所は又の話として、今日持出した五百円は明日の朝までに返えママして置かねば、表沙汰になるかも知れんから、早く、つかってしまわぬ中に、連れ戻すようにとの事でございます。私はこの子を背負まママして、半狂乱でうちを飛び出しまして、心当りをあちこちと訪ね歩き、ようやく居場所いどころを突留めた所でございます。けれども、私はどうもあの家に這入り兼ねるのでございます。女の顔を見るのが身を切るより辛いのでございます。それに遭わせてくれるかどうか、それさえ分りません。丁度お通り合せのあなた様、一生のお願いでございます。何とかお力添え下さいませんでしょうか」

 惣太はさっきからズボンのポケットへ手を入れて、紙幣さつ束を摑みながら、うずうずしていた。早くおかみさんの話がすめばいいと、きっかけを待っていたのである。ちゃんと五百円耳が揃っているかどうか分らぬが、とにかくこれはあの男が銀行から盗んで来たものに違いない。盗んだ金を盗んだ訳で、考えて見りゃ、あいこで、この金は俺に授ったものだけれども。こうおかみさんに口説かれては見殺しにする訳に行かない。ええ、元々だ、返えママしてやれ、――彼はこう思ったのである。思ったからには気早の惣太、おかみさんの話に区切りがつくと、忽ち紙幣束を突きつけた。

「そいつは気の毒だ。だがね、おかみさん、御亭主はもうその金を持っていないぜ。きっと女にくれてやったに違いない。これからあの宅へ行って、すったもんだと騒ぎ廻っても、無事に戻るかどうか分らない、第一亭主の恥をさらすばかりだ。幸いと私はここに少しばかり持合せがある。足りるか足りないか知らないが、課長さんに頼めば、どうとかしてくれるだろう。亭主の方の始末は俺が引受けるから、とにかくこれを持って、一度帰りなさい」

 一気にこう云い切ると、惣太は驚くおかみさんの手に紙幣束を無理やりに握らして、きびすを返すと、さっさと元来た道に引返えママした。おかみさんは後を追おうともせず、ぼんやり立っていた。

 惣太は元の洋館に引返えママすと、忽ち窓を破って飛び込んだ。中でキャッと異様な叫声が聞えた。はっと驚く想太の前に、背の高い年寄の西洋人がピストルを突きつけて立っている。その後ろに婆さんが震えている。

「だれ! だれ!」西洋人は叫んだ。

「こいつはいけねえ、あぶねえあぶねえ」惣太は手を振った。

「早く、出て行くよろし。ピストル打つぞ」西洋人は呶嗚った。

 惣太は毬の如く窓から飛び出した。何が何やら分らなかったが、つまり惣太は以前の洋館の隣へ這入ったのだった。

「驚いた、驚いた。ピストル打つぞと来やがった。ドンとやられてたまるもんけえ」

 惣太は隣の洋館に近寄った。窓から燈火あかりが洩れている。覗いて見ると、さっきの男が、チョッキのボタンをはずしたまま長椅子に長々と寝ている。

 窓から飛び込むと、ピストルの恨みもある、惣太はいきなり男の頰をり飛ばした。男はムニャムニャと云っただけで、又眠ろうとする。二発、三発目にようやく男は起き上った。

「痛いっ! 何をするのだ」彼は寝惚ねぼまなこをこすって惣太の立姿を見ると、タジタジと後へ下った。

「誰だ! き、君は!」

「誰も蜂の頭もあるもんけえ。鼻の下を長くしやがって、ちったあ女房の事でも考えろ」

「あら、乱暴じゃありませんか。誰なの?」

 女の声が後ろでした。

 振り向くと、くちびるの真赤な洋服女、無論それが巴里パリーの職業女の厚化粧の真似とは、惣太知る由もなかったが、虫酢むしずが走った。

「おや、出たな。化物め! 指輪をくすねて靴の中へ入れやがって、――」

 惣太が尚も云おうとすると、蒼くなった女はツカツカと惣太の傍へ来てさえぎった。惣太の袖を引きながら、低声こごえで云った。

「誰だか知らないけれども、指輪の事は云わないで下さい、ね、きっとお礼するから」

 この様子を眺めていた男は、始ママめて腹を立てるのに気が付いたように怒号した。

「どこのどいつだ。断りなしに俺を撲った奴は!」

「へん、はばかりながら手前のような性質たちの悪い盗人にゃ、俺の名前は聞かされねえ。女に熱くなって銀行の金をくすねるような卑怯な奴は、俺達の仲間にゃねえんだ」

 男の顔は忽ち蒼白まつさおになった。ブルブル震えだして、口が利けなかった。

ざま見ろ!」想太は勝誇って云った。「手前達は紳士の――」想太はちよっとつかえた。彼には紳士に対する女性の言葉が急に出て来なかった。「何のかのたって、俺のようにに生活のために盗みをするものより余程心は汚いのだ。へボ盗人め、気をつけやがれ」

 次の瞬間彼の姿は消えた。



 それから暫く惣太は稼ぎに出なかった。さらって来た指輪を宿主のけいず買いの助五郎に見せると、この老爺おやじは踏み倒しやで、仲間から毛嫌いされているのだが、それでも十五円に買ってくれたので、生活のたつ間は稼ぎに出ないのが、惣太の定めだったからである。

 でも十五円の金は一週間とは保たなかった。

 一週間後に彼は又出かけた。洋館には懲りたから、今度は日本家をねらった。

 下町で、ちよっと妾宅と云った構えの粋な見つきの家が無人らしかったので、その家へ忍び込んだ。十二時はとうに過ぎていたのだが、奥の一間に近づくと、燈火あかりが洩れてコソコソ話し声が聞えママる。惣太は立止まった。

 女二人らしい。どうも聞き覚えのある声なので、そっとふすまの隙間から覗いて見ると、一人はまぎれもない先達せんだつて洋館にいた女で、今日は和服でだらしない風で足を投げ出して坐っている。驚いた事には、もう一人の女は例の暗闇から出て惣太を搔き口説いた女である。化粧などしてこざっぱりとした身装みなりをしている。

「結局あたいの負かね」

「そうともさ、お前さんが男をだまして金をとるには、いい身装をして、色仕掛けに限ると云ったからさ、あたいもふと逆らう気になって、汚い身装で泣き落しても男は誑せると云って、つい賭になったんだが、ああ旨く行こうとは思わなかったよ」

 おや、と惣太は耳を傾けた。

「あたいだって、成功していたんだがなあ。あの男はあの晚ちゃんとお金を持って来たんだものねえ。もっともあたいもまずかったの。例のから貰った指輪をはめていてね、あの男はそら嫉妬やきもちやきで、殊に例のと来ると、一層妬くんでしょう。それに何だか機嫌が悪くってね、あとで考えれば悪い訳があったんだが、その時は気がつかずさ、指輪を見られちゃ拙いと思ってそっと抜いて靴の中へ隠しちゃったり、お酒飲ませたり、そりゃ苦心したもんよ。ところがいつの間にか御存じの泥棒が出て来て、おじゃんさ。おまけにあの男の前で指輪の事を云い出して困ったわ、それから男の金も銀行から盗んで来たって事を知ってたのよ」

「あら、銀行から盗んで来たの」「そうらしいの、あの泥坊ママが、銀行から盗んだ卑怯者めと云うと、あの男は蒼くなって黙っちゃったわ」

「そう、それじゃ、女房の事を云わなくて」

「云ったようだわよ。女房の事を考えろとかなんとか」

「じゃ、あたいが云った事なのよ。あの家に私の亭主が銀行の金を盗んで、女と一緒に居りますって」

「じゃ、それを本気にして飛び込んで来たのね」

「そうよ、きっと」

「そうすると、銀行泥坊って云うのは、お前さんの作り事で、まぐれ当りだったのね」

「そうよ、オホホホホ」

「オホホホホ」

 畜生! 惣太は烈火の如くなった。畜生、飛び出して恥を搔かしてやろう。だが待てよ、口じゃとてもこの二人には勝てねえぞ、惣太はこう思うと、ちょっと二の足を踏んだ。

「でも、あの泥坊はさっぱりしていて好い男だわ。あたい惚れても好い」

 惣太はちょっと首を縮めて舌を出した。

「あたいも満更でもないわ、第一気前がよし」

「そりゃったおかねだもの」

「でも、ああ気前好く行くもんじゃないわ。あたい、お前さんの客がさ、お金を持っているに違いないから、誑してやろうと構えていたけれども、機会おりがなくて駄目さ。暫く家の廻りをウロついているとあの泥坊が窓から這入って、やがて出て来たから、ちょっと一狂言書いたのだけれども、真逆まさか三百円くれようとは思わなかったね」

 もう我慢がならなかった。惣太は二人の前へ躍り出ようとしたが、まて、金を取り戻してやろう、もう少し様子を見た方が好い、と思い直した。

「とにかく、賭はあたいの負だから出すわよ」

 この家の主人らしい方が立って、用箪笥をコトコトさしていたが、やがて百円紙幣を一枚出した。

「有難う。じゃ貰っとくわよ。三百円も未だ持ってるのよ」

 女は手提袋から脹れた紙入れを出すと、その中へ百円紙幣を押し込んだ。その時である。

「御用だ、神妙にしろ」惣太はふすま越しに叫んだ。

 二人の女はキャッと云って逃げ出した。

 惣太はこの言葉がそう利目があるとは思わなかった。第一この頃の警官がこんな旧式な言葉を使うかどうかさえ、知らなかった。ただ講釈で聞き覚えた言葉を応用して見たのだった。

 惣太は落ちていた手提袋を拾うと悠々と外へ出た。

「これで 一、二ケ月は楽に暮せるか。だが気早と云う事は考えものだなあ。少し改良しなくちゃいけねえかな」

 独言ひとりごとを云い云い、惣太は上機嫌で家路に歩いて行った。

(「苦楽」大正十五年七月号)

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