思い出す事など

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 ようやくの事でまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑いあさゆうを送ったのももう三カ月の昔になる。そのころは二階のひさしから六尺に余るほどの長いよしずひよけに差し出して、ほてりの強いえんがわいくぶんか暗くしてあった。その縁側にぜこうから貰ったかえでぼんさいと、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈もしのぎ暑さもまぎらしていた。むこうに見える高い宿屋のものほしまっぱだかの男が二人出て、ひざかりを事ともせず、らんかんの上をあぶなく渡ったり、または細長い横木の上にわざとあおむけに寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんなたくましい体格になって見たいとうらやんだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云うふたしかな点において、夢と同じくはかない過去である。

 病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度のやまいかかって、寝たまま東京へ戻ってようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門はくぐらずにつりだいに乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。

 帰る日は立つしゅぜんじも雨、着く東京も雨であった。たすけられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼にらなかった。もくれいをする事のできたのはそのうちの二三に過ぎなかった。思うほどのえしゃくもならないうちに余は早く釣台の上によこたえられていた。たそがれの雨を防ぐために釣台にはとうゆを掛けた。余はあなの底に寝かされたような心持で、時々暗い中で眼をいた。鼻には桐油の臭がした。耳には桐油をつ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい人の声がかすかながらとぎれとぎれに聞えた。けれども眼には何物も映らなかった。汽車の中でもりなりさんがまくらもとしんげんぶくろの口にし込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。

  釣台に野菊も見えぬ桐油かな

 これはその時の光景を後から十七字にちぢめたものである。余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へげられて、三カ月ぜんに親しんだ白いベッドの上に、安らかにせた手足を延べた。雨の音の多い静かな夜であった。余の病室のあるむねには患者が三四名しかいないので、人声も自然絶え勝に、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。

 この静かなよいここちよく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受取った。一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」と書いてあった。そうしてその差出人は満洲にいるなかむらぜこうであった。他の一通を開けて見ると、やはり無事御帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の相違もなかった。余は平凡ながらこのあんごうを面白く眺めつつ、誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。ステトと云うのは、すずきていじすずきときこかしらもじを組み合わしたもので、さいいもととそのおっとの事であった。余は二ツの電報を折り重ねて、あすまたきたるべき妻の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。

 病室は畳も青かった。ふすまえてあった。壁もあらたに塗ったばかりであった。よろず居心よく整っていた。杉本副院長が再度修善寺へ診察に来た時、たたみがえをして待っていますと妻に云い置かれた言葉をすぐに思い出したほどきれいである。その約束の日から指を折ってかんじょうして見ると、すでに十六七日目になる。青い畳もだいぶ久しく人を待ったらしい。

思いけりすでにいくよきりぎりす

 その夜から余は当分またこの病院を第二の家とする事にした。



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 病院に帰り着いた十一日の晩、回診の後藤さんにこの頃院長の御病気はどうですかと聞いたら、ええひとしきりはだいぶ好い方でしたが、近来また少し寒くなったものですから……と云う答だったので、余はどうぞおあいの節はよろしくとあいさつした。その晩はそれぎり何の気もつかずに寝てしまった。するとあくるひの朝さいが来て枕元にすわるや否や、実はあなたに隠しておりましたがながよさんはせんげついつかくなられました。葬式にはひがしさんに代理を頼みました。悪くなったのは八月末ちょうどあなたのきとくだった時分ですと云う。余はこの時始めてつきそいのものが、院長のをことさらに秘して、余に告げなかった事と、またその告げなかった意味とを悟った。そうして生き残る自分やら、死んだ院長やらをとかくに比較して、しばらくはぼうぜんとしたまま黙っていた。

 院長は今年の春から具合が悪かったので、このぜん入院した時にも六週間の間ついぞ顔を見合せた事がなかった。余の病気のよしを聞いて、それは残念だ、自分が健康でさえあれば治療に尽力して上げるのにと云うことづてがあった。そのも副院長を通じて、よろしくと云うことづてが時々あった。

 しゅぜんじで病気がぶり返して、社から見舞のためもりなりさんを特別に頼んでくれた時、着いた森成さんが、病院の都合上とても長くはと云っているその晩に、院長はわざわざ直接森成さんに電報を打って、できるだけ余の便宜をはからってくれた。その文句は寝ている余の目には無論触れなかった。けれども枕元にいるせっちょうくんから聞いたその文句のおんだけは、いまだに好意の記憶として余の耳に残っている。それは当分その地にとどまり、充分看護に心を尽くすべしとか云う、森成さんに取ってはずいぶんおごそかに聞える命令的なものであった。

 院長のようだいが悪くなったのは余の危篤におちいったのとほぼ同時だそうである。余が鮮血を多量にいてぼうじんからとうてい回復の見込がないように思われた二三日あと、森成さんが病院の用事だからと云って、ちょっと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、それから十日ほどって、また病院の用事ができて二度東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそうである。

 当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をしてくれた院長はかくのごとくしだいに死に近づきつつある間に、余は不思議にも命のはばちぢまってほとんど絹糸のごとく細くなった上を、ようやく無難に通り越した。院長の死が一基の墓標で永くたしかめられたとき、辛抱強く骨の上にからみついていてくれた余の命の根は、かろうじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営み初めた。院長の墓の前に供えられる花が、いくたびか枯れ、幾度か代って、萩、ききょうおみなえしから白菊と黄菊に秋を進んで来た一カ月のち、余はまたその一カ月余の間に盛返し得るほどの血潮を皮下にもりえて、再び院長の建てたこの胃腸病院に帰って来た。そうしてその間いまだかつて院長の死んだと云う事を知らなかった。帰るあくる朝さいが来て実はこれこれでと話をするまで、院長は余の病気の経過を東京にいて承知しているものと信じていた。そうして回復の上病院を出たら礼にでも行こうと思っていた。もし病院で会えたらあつく謝意でも述べようと思っていた。

  く人にとどまる人にきたかり

 考えると余が無事に東京まで帰れたのはてんこうである。こうなるのが当り前のように思うのは、いまだに生きているからのわるどきょうに過ぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱をはずした人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない。

ただ一羽る夜ありけり月のかり


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 ジェームス教授のに接したのは長与院長の死を耳にしたあくるひの朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六ページ繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でもおおやけにしたのか知らんと思いながら読んで見ると、意外にもそれがえいみんの報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもってかるとあるから、指を折ってかんじょうして見ると、ちょうど院長のようだいがしだいに悪い方へ傾いて、はたのものがちゅうやまゆひそめている頃である。また余が多量の血を一度に失って、しせいさかいほうこうしていた頃である。思うに教授のいきを引き取ったのは、おそらく余の命が、せこけたてくびに、有るとも無いとも片付かない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。

 教授の最後の著書「多元的宇宙」を読み出したのは今年の夏の事である。しゅぜんじへ立つとき、むこうへ持って行って読み残した分を片付けようと思って、それを五六巻の書物とともにかばんの中に入れた。ところが着いたあくるひから心持が悪くて、出歩く事もならない始末になった。けれども宿の二階にねころびながら、いちにちふつかは少しずつでも前の続きを読む事ができた。無論病勢のつのるにれて読書は全くさなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書を再び手に取る機会はなかった。

 びょうしょうにありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでからいつかめになるだろう。今から顧みると当時の余は恐ろしく衰弱していた。あおむけに寝て、両方のひじふとんに支えて、あのくらいの本を持ちこたえているのにずいぶんと骨が折れた。五分とたないうちに、貧血の結果手がしびれるので、持ち直して見たり、甲をでて見たりした。けれども頭は比較的疲れていなかったと見えて、書いてある事はもなくえとくができた。頭だけはもう使えるなと云う自信の出たのは大吐血以後この時がはじめてであった。うれしいので、さいを呼んで、からだの割に頭は丈夫なものだねと云って訳を話すと、妻がいったいあなたの頭は丈夫過ぎます。あのあぶなかった二三日の間などは取り扱いにくくて大変弱らせられましたと答えた。

 多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読みおわった。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、アナロジーで哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちにダイアレクチックきらうものではない。またみだりにインテレクチュアリズムいといもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じてひしあいよるような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授がフランスの学者ベルグソンの説を紹介するあたりを、坂に車を転がすようないきおいけ抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。

 今でも覚えている。ひとまおいて隣にいるひがしくんをわざわざ枕元へ呼んで、ジェームスは実にのうぶんかだと教えるように云って聞かした。その時東君は別にこれというめいりょうな答をしなかったので、余は、君、西洋人の書物を読んで、この人のはりゅうちょうだとか、あの人のはさいちだとか、すべて特色のあるところがその書きぶりで、読みながら解るかいと失敬な事を問いただした。

 教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常になんじゅうな文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記をしらべて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスをおわる。好い本を読んだと思う」とおぼつかないもんじしたためてある。名前や標題にだまされて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。

 余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれたながよびょういんちょうは、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、くうばくなる余の頭にりくりの光彩をんでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。

  菊の雨われにかんあるやまいかな

  菊の色えんいまだこのあした

(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余のいかんとするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は Time and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。)


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 やまいの重かった時は、もとよりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変って行った。自分にもわが心の水のように流れ去る様がよく分った。自白すれば雲と同じくかつりかつきたるわがのうりの現象は、きわめて平凡なものであった。それも自覚していた。しょうがいに一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、はじとも思わず無邪気に重ねつつ移って行くうちに、それでも他日の参考に日ごとの心を日ごとに書いておく事ができたならと思い出した。その時の余は無論手がかなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭をかすめてる心のはもんは、したがっておこるかと思えばしたがって消えてしまった。余は薄ぼけてかすかに遠きに行くわが記憶の影を眺めては、寝ながらそれを呼び返したいような心持がした。ミュンステルベルグと云う学者の家に賊が入ったひきあいで、他日彼がほうていへ呼び出されたとき、彼の陳述はほとんど事実に相違する事ばかりであったと云う話がある。正確をむねとするきちょうめんな学者の記憶でも、記憶はこれほどにふたしかなものである。「思い出す事など」の中に思い出す事が、日をれば経るに従って色彩を失うのはもちろんである。

 わが手のかぬ先にわが失えるものはすでに多い。わが手筆を持つの力を得てよりいっするものまた少からずと云ってもうそにはならない。わが病気の経過と、病気の経過にれて起る内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほど好くなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんなかるはずみをしてやりそこなわなければいいがと心配してくれたものもある。

 その中で一番にがい顔をしたのはいけべさんざんくんであった。余が原稿を書いたと聞くや否や、たちまち余計な事だと叱りつけた。しかもその声はもっともぶあいそうな声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人のたいくつしのぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさる事だが、友人の許可を得なければいかんと云うのが三山君のあいさつであった。それから二三日して三山君が宮本博士に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃にさんく恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。

 その時余は三山君に、

遺却新詩無処尋 嗒然隔牖対遥林

斜陽満径照僧遠。 黄葉一村蔵寺深

懸偈壁間焚仏意。 見雲天上抱琴心

人間至楽江湖老。 犬吠鶏鳴共好音

と云う詩をおくった。こうせつは論外として、病院にいる余が窓から寺を望む訳もなし、また室内にことを置く必要もないから、この詩は全くの実況に反しているにはちがいないが、ただ当時の余の心持をえいじたものとしてはすこぶるかっこうである。宮本博士が退屈をするとさんがたまると云ったごとく、ぼうさつされて酸が出過ぎる事も、余は親しく経験している。せんずるところ、人間はかんてききょうがいに立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりともむさぼる今の身の嬉しさが、この五十六字に形を変じたのである。

 もっともおもむきから云えばまことにふるい趣である。何の奇もなく、何の新もないと云ってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代りこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっしてあずからざる境地に存している。げんこんわれらが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今の吾等が苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」にあおられて、三百六十五日の間、わきめもふらず、しかく人世をかんじたら、人世は定めし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段のしんいを吾らの内面生活上に放射するかも知れない。余はやまいってこのちんぷな幸福とらんじゅくくつろぎを得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。

「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、病に因ってわずかにけえたこののどかな心持を早くも失わんとしつつある。まだとこを離れるほどに足腰がかないうちに、三山君に遺った詩が、すでにこの太平の趣をうたうべき最後の作ではなかろうかと、自分ながらけねんしているくらいである。「思い出す事など」は平凡で低調な個人の病中におけるじゅっかいと叙事に過ぎないが、そのうちにはこのちんぷながらふっていおもむきが、珍らしくだいぶはいって来るつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新らしい人々と今の苦しい人々と共に、この古いかおりなつかしみたいと思う。



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 しゅぜんじにいる間はあおむけに寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中にんだ。時々は面倒なひょうそくを合わして漢詩さえ作って見た。そうしてその漢詩も一つ残らずみていこうとして日記の中に書きつけた。

 余は年来俳句にうとくなりまさった者である。漢詩に至っては、ほとんど当初からの門外漢と云ってもいい。詩にせよ句にせよ、病中にでき上ったものが、病中の本人にはどれほど得意であっても、それが専門家の眼に整って(ことに現代的に整って)映るとは無論思わない。

 けれども余が病中に作り得た俳句と漢詩の価値は、余自身から云うと、全くその出来不出来に関係しないのである。へいぜいはいかに心持の好くない時でも、いやしくもじんじえ得るだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われはじょうじゅうにちや共にせいぞんきょうそうりに立つ悪戦の人である。ぶつごで形容すれば絶えずかたくを受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められる事もあり、たまにはみずから進む事もあって、ふと十七字を並べて見たりまたはきしょうてんけつの四句ぐらい組み合せないとも限らないけれどもいつもどこかにすきがあるような心持がして、くまも残さず心をくるんで、詩と句の中に放り込む事ができない。それは歓楽をねたむ実生活の鬼の影が風流にまつわるためかも知れず、または句に熱し詩に狂するのあまり、かえって句と詩にほんろうされて、いらいらすまじき風流にいらいらする結果かも知れないが、それではいくらかくこうしができたにしても、る当人の愉快はただ二三どうこうの評判だけで、その評判を差し引くと、あとに残るものは多量の不安と苦痛に過ぎない事に帰着してしまう。

 ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。ひとも自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらにはいちにんまえ働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めないのどかな春がその間からいて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、できばえいかんはまずいて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらいとうといか分らない。病中に得た句と詩は、退屈をまぎらすため、かんいられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由にね返って、むっちりとした余裕を得た時、ゆうぜんみなぎり浮かんだてんらいさいもんである。吾ともなく興の起るのがすでにうれしい、その興をとらえて横にたてくだいて、これを句なり詩なりに仕立上げる順序過程がまた嬉しい。ようやく成った暁には、形のないおもむきはっきりと眼の前に創造したような心持がしてさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みるいとまさえない。

 病中は知ると知らざるとを通じて四方の同情者から懇切なみまいを受けた。衰弱の今の身ではその一々に一々の好意にそむかないほどにくわしい礼状を出して、自分がつい死にもせずこんにちに至った経過を報ずる訳にも行かない。「思い出す事など」をしょうじょうに書き始めたのは、これがためである。――めいめいに向けて云い送るべきはずのところを、略してぶんげいらんの一隅にのみ載せて、余のごときもののために時と心を使われたありがたい人々にわが近況を知らせるためである。

 したがって「思い出す事など」の中に詩や俳句をはさむのは、単に詩人俳人としての余の立場を見て貰うつもりではない。実を云うとその善悪などはむしろどうでもいとまで思っている。ただ当時の余はかくのごとき情調に支配されて生きていたという消息が、いちべつきうちに、読者の胸に伝われば満足なのである。

  秋のに打ち込むくいの響かな

 これは生き返ってから約十日ばかりしてふとできた句である。澄み渡る秋の空、広き江、遠くよりする杭の響、この三つのじそうに相応したような情調が当時絶えずわがかすかなる頭の中をそらいした事はいまだに覚えている。

  秋の空あさぎに澄めり杉におの

 これも同じ心のふけりをほかの言葉で云い現したものである。

  別るるやゆめひとすじの天の川

 何という意味かその時も知らず、今でも分らないが、あるいはほのかとうようじょうと別れる折の連想が夢のような頭の中にはいまわって、こうこつとでき上ったものではないかと思う。

 当時の余は西洋の語にほとんど見当らぬ風流と云う趣をのみ愛していた。その風流のうちでもここにげた句に現れるような一種の趣だけをとくに愛していた。

  秋風やからくれないのどぼとけ

という句はむしろ実況であるが、何だか殺気があってがんちくが足りなくて、口に浮かんだ時からすでに変な心持がした。

風流人未死。 病裡領清閑

日々山中事。 朝々見碧山

 けんてんのないのはしょうじに紙がってないようなさびしい感じがするので、自分で丸を付けた。余のごときひょうそくもよくわきまえず、いんきゃくもうろ覚えにしか覚えていないものが何を苦しんで、支那人にだけしかききめのないくふうをあえてしたかと云うと、実は自分にも分らない。けれども(平仄いんじはさておいて)、詩のおもむきは王朝以後の伝習で久しく日本化されてこんにちに至ったものだから、吾々くらいの年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去る事ができない。余は平生事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となるとおっくうでなお手をくださない。ただかように現実界を遠くに見て、はるかな心にすこしのわだかまりのないときだけ、句も自然とき、詩も興に乗じて種々な形のもとに浮んでくる。そうしてあとから顧みると、それが自分のしょうがいうちで一番幸福な時期なのである。風流を盛るべきうつわが、ぶさほうな十七字と、きっくつな漢字以外に日本で発明されたらいざ知らず、さもなければ、余はかかる時、かかる場合に臨んで、いつでもその無作法とその佶屈とを忍んで、風流をしゃりに楽しんで悔いざるものである。そうして日本に他のかっこうな詩形のないのをうらみとはけっして思わないものである。



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 始めて読書欲のきざした頃、東京のげんじくんから小包ですいこどうけんそうれつせんでんを送ってくれた。この列仙伝はちついりとうほんで、少し手荒に取扱うと紙がぴりぴり破れそうに見えるほどの古い――古いと云うよりもむしろ汚ない――本であった。余は寝ながらこの汚ない本を取り上げて、その中にある仙人のさしえを一々ていねいに見た。そうしてこれら仙人のひげの模様だの、頭のかっこうだのを互に比較して楽んだ。その時はえかきの筆癖から来る特色を忘れて、こう云う頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだろうと思ったり、またこう云うまばらな髯を風に吹かせなければ仙人のむれる事はおぼつかないのだろうと思ったりして、ひたすら彼等のようぼうに表われてくる共通な骨相をかず眺めた。本文も無論読んで見た。平生気の短かい時にはとても見出す事のできないゆうちょうな心をめでたく意識しながら読んで見た。――余は今の青年のうちに列仙伝を一枚でも読む勇気と時間をもっているものは一人もあるまいと思う。年を取った余も実を云うとこの時始めて列仙伝と云う書物を開けたのである。

 けれども惜しい事に本文は挿画ほどに行かなかった。中には欲のかたまりうかしたような俗な仙人もあった。それでも読んで行くうちには多少気に入ったのもできてきた。一番むぞうさでかつおかしいと思ったのは、何ぞと云うと、手のあかはなくそを丸めてがんやくを作って、それを人にやる道楽のある仙人であったが、今ではその名を忘れてしまった。

 しかしさしえよりも本文よりも余の注意をいたのは巻末にある附録であった。これは手軽にいうとちょうじゅほうとかようじょうくんとか称するものを諸方から取り集めて来て、いっしょに並べたもののように思われた。もっとも仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違って、すこぶる抽象的で、実際解るとも解らぬとも片のつかぬ文字であるが、病中の余にはそれが面白かったと見えて、その二三節をわざわざ日記の中に書き抜いている。日記をしらべて見ると「せいこれをせいとなせば心そのうちにあり、どうこれを心となせば性其中にあり、心しょうずれば性めっし、心滅すれば性生ず」というようなむずかしい漢文が曲がりくねりにはんページばかりをうずめている。

 その時の余はインキの切れたまんねんふでの端をつまんで、ペン先へ墨の通うように一二度るのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手でかしの六尺棒を振り廻すよりもつらいくらいであった。それほど衰弱のはげしい時にですら、わざわざとこんなどうきょうめいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えてもまことに愉快である。子供の時せいどうの図書館へ通って、そらいけんえんじっぴつをむやみに写し取った昔を、しょうがいにただ一度繰り返し得たような心持が起って来る。昔の余のしょさが単に写すという以外には全く無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見出して喜んでいる。ながいきくふうのための列仙伝が、長生もしかねまじきほどゆうちょうな心のもとに、病後の余からかく気楽に取扱われたのは、余に取って全くの偶然であり、また再びきたるまじき奇縁である。

 フランスの老画家アルピニーはもう九十一二の高齢である。それでもひとなみの気力はあると見えて、この間のスチュージオにはめざましい木炭画が十種ほど載っていた。こくちょうりくかししょうの初にあるしんとくせんの序には、けんりゅうていがいかごちょうしゅうしんとくせんしょす時に年九十有五。とわざわざ断ってある。ながいきの結構な事は云うまでもない。長生をしてこの二人のように頭がたしかに使えるのはなおさらめでたい。ふわくよわいを越すと間もなく死のうとして、わずかに助かった余は、これからいつまで生きられるかもとより分らない。思うに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であろう。その上頭が使えたらなおありがたいと云わなければなるまい。ハイズンは世間から二へんも死んだと評判された。一度はちょうしまで作ってもらった。それにもかかわらず彼は依然として生きていた。余も当時はある新聞から死んだと書かれたそうである。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返し得るほどに生き延びた。それだけでも弱い余に取っては非常な幸福である。その頃ある知らない人から、先生死にたもう事なかれ、先生死にたもうことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余をよろこぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余を悦んだ。



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 ウォードの著わした社会学の標題にはダイナミックという形容詞をわざわざかんしてあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。ところがこの本のかつてロシアごに翻訳された時、ろこくの当局者はただちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由をざいろの友人に聞き合せた。すると友人から、自分にもよくは分らぬが、おそらく標題に力学的という字とソシオロジーという字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイト及び社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事が来たそうである。

 魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少からぬ注意を払った一人である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常にき足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこのへいおちいりやすく、また陥りつつあるように見えるのをいかんと批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学なるものを一読したいと思っていた。実は自分のはじを白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本のていさいからしてがすでにスペンサーのそうごうてつがくに類した古風なものである。けれどもまた恐ろしくぶあつに書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなす事はできにくい。それでやむをえず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味をしっしたこの頃の読物としては適当だろうとふと考えついたので、それをうちから取り寄せてとうとうダイナミックソシオロジーを病院で研究する事にした。

 ところが読み出して見ると、恐ろしく玄関の広い前置の長い本であった。そうしてかんじんの社会学そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的がはなはだ心細くなるほどに手荒に取扱われていた。今更ウォードの著述に批評をくだすのは余の目的でない、ただついでに云うだけではあるが、今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出て来なかった時には、ちょうどハレーすいせいの尾で地球が包まれべき当日を、何の変化もなく無事に経過したほどあっけない心持がした。

 けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様で面白かった。そのうちコスモジェニーと云ういかめしい標題を掲げた所へ来た時、余は覚えずむかし学校で先生から教わったせいうんせつの記憶を呼び起して微笑せざるを得なかった。そうしてふと考えた。――

 自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常なしあわせのように喜んでいる。そうして自分のなおりつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かしておきたいとのみこいねがっている。自分のかいほうを受けた妻や医者や看護婦や若い人達をありがたく思っている。世話をしてくれたほうゆうやら、見舞に来てくれたたれかれやらにはあつい感謝の念を抱いている。そうしてここに人間らしいあるものがひそんでいると信じている。そのしょうこにはここに始めて生きがいのあると思われるほど深い強い快よい感じがみなぎっているからである。

 しかしこれは人間相互の関係である。よしわれわれを宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪のさたである。さんぜわたる生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則にって無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間にかすかな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。

 限りなきせいそうを経てかたまりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なおぼうちょうしてガスに変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、こんにちまで分離して運行した軌道と軌道の間がすきまなくたされた時、今の秩序ある太陽系はじつげつせいしんの区別を失って、らんたる一大火雲のごとくにばんせんするだろう。さらに想像をさかさまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部のいっぺんを振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれえんえんたるいっかいの瓦斯に過ぎないという結論になる。面目のほうふつたる今日からさかのぼって、科学の法則を、想像だも及ばざる昔にひっぱれば、いっしも乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽のおかげによって生息するわれら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――えいごうに展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――をむさぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。

 平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつてこころづかいさえした事がない。そのこころねただすと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――かっぱつなる酸素が地上の固形物とほうごうしてしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、げっきゅうの表面にガスのかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠くく他人を悲しみ、友をなつかしみ敵をにくんで、内輪だけのかっけいに甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。

 進んで無機有機を通じ、動植両界をつらぬき、それらを万里一条の鉄のごとくにすきまなく発展して来た進化の歴史とみなすとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一ページうずむべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、ひゃくせきかんとうのぼりつめたと自任する人間のうぬぼれはまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらにさかのぼっては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理にがてんせしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らはからきジスイリュージョンをめている。

 種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一ぴきたらが毎年生む子の数は百万疋とか聞く。かきになるとそれが二百万の倍数にのぼるという。そのうちで生長するのはわずかすひきに過ぎないのだから、自然は経済的に非常ならんぴしゃであり、徳義上には恐るべく残酷なふぼである。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場をえて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただしとうの成行で、そこに喜びそこに悲しむりくつごうも存在していないだろう。

 こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間おおいそくなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のためにたむけの句を作った。

有る程の菊げ入れよかんの中


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 忘るべからざる八月二十四日のきたる二週間ほど前から余はすでに病んでいた。えんがわを絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのがになって、し暑い時ですらしょうじは常にて切っていた。三度三度こんだてを持ってあつらえを聞きにくる婆さんに、ふたしなみしな口に合いそうなものを注文はしても、ぜんの上にそろった皿を眺めると共に、どこからともなく反感が起って、はしる気にはまるでなれなかった。そのうちにはきけが来た。

 始めはせんやくに似たきぐろい水をしたたかに吐いた。吐いたあとは多少気分がなおるので、いささかの物はのどを越した。しかし越したうれしさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃のとどこうる重き苦しみにえ切れなくなって来た。そうしてまた吐いた。吐くものは大概水である。その色がだんだん変って、しまいにはろくしょうのような美くしい液体になった。しかもいちりゅうの飯さえあえて胃に送り得ぬ恐怖と用心のもとに、卒然として容赦なく食道をさかさまに流れ出た。

 青いものがまた色を変えた。始めてくまを水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、かなだらいになみなみともどした時、医者はまゆを寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰った方が好かろうと注告した。余は金盥の中をゆびさしていったい何が出るのかと質問した。医者はきょうのない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の眼にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少しくれないを含んで、咽喉を出る時なまぐさかおりがぷんと鼻をいたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云った。げんじくんが驚ろいてもりなりさんにさかもと君を添えてわざわざしゅぜんじまで寄こしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へつたわって、そこからまたすぐに社へ通じたからである。別館からけて来たとうようじょうまくらべに立って、今日東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時は全く救われたような気がした。

 この時の余はほとんど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をもぬほどにはげしく活動する胸をいだいてあさゆう悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあると見えた余の頭脳は、ただこのせつぜんたる一苦痛を秒ごとに深くいんるばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただひといろもだえとまつされて、さいじょうほうさんずんあたりを日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分のからだうちで、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔におかされて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかる後おうような心持をゆたかに抱いて、さわやかな秋の日の光りに、両の眼をさっけたかった。少くとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室にはいって、そこにあおむけに倒れていたかった。

 森成さんが来てもこの苦しみはちょっとれなかった。胸の中を棒でぜられるような、また胃のが不規則な大波をその全面に向って層々と描き出すような、な心持にえかねて、とこの上に起き返りながら、吐いて見ましょうかと云って、なまぐさいものをのあたりのどの奥からかなだらいの中に傾けた事もあった。森成さんのおかげでこの苦しみがだいぶいた時ですら、動くたびに腥いおくびは常に鼻をつらぬいた。血は絶えず腸に向って流れていたのである。

 このはんもんくらべると、忘るべからざる二十四日の出来事以後に生きた余は、いかに安住の地を得て静穏に生を営んだか分らない。その静穏の日がすなわち余のいっしょうがいにあって最も恐るべき危険の日であったのだと云う事を後から知った時、余はしものような詩を作った。

円覚曾参棒喝禅。 瞎児何処触機縁

青山不拒庸人骨。 回首九原月在天


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 忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向いかけると、何だか急に気が進まなくなったのでまた記憶をさかさまに向け直して、あともどりをした。

 東京を立つときから余ははげしく咽喉を痛めていた。いっしょに来るべきはずでつい乗りおくれたとうようじょうの電報を汽車中で受け取って、その意のごとくにごてんばで一時間ほど待ち合せていたに、余は不用になった一枚の切符代を割り戻して貰うために、駅長室へはいって行った。するとそこによういなんじゃくとでも形容すべきほど大きな西洋人が、いすに腰をかけてしきりにえはがきの表に何かしたためていた。余は駅長に向って当用を弁ずるかたわら、思いがけない所に思いがけない人がいるものだという好奇心を禁じ得なかった。するとその大男が突然立ち上がって、あなたは英語を話すかと聞くから、れた声でわずかにイエスと答えた。男は次にこれから京都へ行くにはどの汽車へ乗ったら好いか教えてくれと云った。はなはだ簡単なようむきであるから平生ならばどうともあいさつができるのだけれども、声量を全く失っていた当時の余には、それが非常の困難であった。もとより云う事はあるのだから、何か云おうとするのだが、その云おうとする言葉がのどを通るときちすじれでもするごとくに、口へ出て来る時分には全くつやを失ってほとんど用をなさなかった。余は英語に通ずる駅員のたすけりて、ようやくのことこの大男を無事に京都へ送り届けた事とは思うが、その時の不愉快はいまだに忘れない。

 しゅぜんじに着いてからものどはいっこう好くならなかった。医者から薬を貰ったり、東洋城のこしらえてくれた手製のがんそうを用いたりなどして、からく日常の用を弁ずるだけの言葉を使ってすましていた。その頃修善寺にはきたしらかわみやがおいでになっていた。東洋城はしじゅうそちらの方のつとめに追われて、つい一丁ほどしか隔っていない菊屋の別館からも、容易に余の宿までは来る事ができない様子であった。すべてを片づけてから、夜の十時過になって、始めてかやの外まで来て、ひとこと見舞を云うのが常であった。

 そういうの事であったか、または昼の話であったか今は忘れたが、ある時いつものように顔を合わせると、東洋城が突然、殿下からあなたに何か講話をして貰いたいという御注文があったと云い出した。この思いがけないごしょもうを耳にした余は少からず驚いた。けれども自分でさえ聞かずにすめば、聞かずにいたいような不愉快な声を出して、殿下に御話などをする勇気はとても出なかった。その上はおりはかまも持ち合せなかった。そうして余のごとき位階のないものが、みだりにたっとい殿下の前に出てしかるべきであるかないかそれが第一分らなかった。実際は東洋城も独断で先例のない事をあえてするのをはばかって、しかとした御受はしなかったのだそうである。

 余の苦痛が咽喉から胃に移る間もなく、東洋城はふるさとにある母のやまいを見舞うべく、去る人と入れ代ってひとまず東京に帰った。殿下もそれからほどなくおたちになった。そうして忘るべからざる二十四日の来た頃、東洋城は余に関する何の消息も知らずに、また東海道を汽車で西へ下って行った。その時彼は四五分の停車時間をぬすんで、三島から余にわざわざ一通の手紙を書いた。その手紙は途中で紛失してしまって、つい宿へ着かなかったけれども、東洋城がおいとまごいに上がった時、余の病気の事を御忘れにならなかった殿下から、もしう機会があったなら、どうか大事にするようにというようなあつい意味の御言葉を承ったため、それをわざわざ病中の余に知らせたのだそうである。咽喉の病もえ、胃の苦しみも去った今の余は、つつしんで殿下に御礼を申上げなければならない。また殿下の健康を祈らなければならない。



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 雨がしきりに降った。裏山の絶壁をまさかくだかけいの竹が、青く冷たく光って見えた幾日を、ものうへやの中にしんぎんしつつ暮していた。人がねしずまると始めて夢をおそう(らんかんから六尺余りの所を流れる)水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなった。そのうち水が出るとか出たとか云う声がどこからともなく耳に響いた。

 おせんと云う下女が来て、ゆうべかつらがわの水が増したので門の前のこいえではおおかたの荷をこしらえて、預けに来たという話をした。ついでにどことかでは家がまるで流されてしまって、そうしてその家の宝物がどことかから掘り出されたと云う話もした。この下女は伊東の生れで、浜辺か畑中に立って人を呼ぶような大きな声を出す癖のあるすこぶる殺風景な女であったが、雨にとざされた山の中の宿屋で、こういう昔の物語めいた、うそまことか分らないことを聞かされたときは、おとぎばなしでも読んだ子供の時のような気がして、何となく古めかしいにおいに包まれた。その上家が流されたのがどこで、宝物を掘出したのがどこか、まるで不明なのをいっこう構わずに、それが当然であるごとくに話して行く様子が、いかにも自分の今いるの宿を、浮世から遠くへりかくして、どんなたよりもうわさのほかにははいってこられない山里に変化してしまったところに一種の面白味があった。

 とかくするうちにこのたのしい空想が、不便な事実となって現れ始めた。東京から来る郵便も新聞もことごとくおくれ出した。たまたま着くものは墨がにじむほどびしょびしょにれていた。湿ったページを破けないように開けて見て、始めて都には今こうずいでさかっているという報道を、あざやかな活字の上にまのあたり見たのは、いつかの事であったか、今たしかには覚えていないけれども、不安な未来を眼先にひかえて、その日その日のできばえを案じながら病む身には、けっしてうれしい便りではなかった。夜中に胃の痛みで自然と眼がめて、からだの置所がないほどくるしい時には、東京と自分とをつなぐ交通の縁が当分切れたその頃の状態を、多少心細いものに観じない訳に行かなかった。余の病気は帰るには余りはげし過ぎた。そうして東京の方から余のいる所まで来るには、道路があまりうちこわれ過ぎた。のみならず東京その物がすでに水につかっていた。余はほとんどがけと共にくずれるわがやの光景と、さきで海に押し流されつつある吾子供らを、夢に見ようとした。雨のしたたか降る前に余はさいに宛てて手紙を出しておいた。それには好い部屋がないから四五日したら帰ると書いた。また病気が再発してくるしんでいると云う事はわざと知らせずにおいた。そうしてその手紙も着いたか着かないか分らないくらいに考えて寝ていた。

 そこへ電報が来た。それは恐るべき長い時間と労力をついやして、やっとの事無事にあてなの人に通ずるや否や、その宛名の人をして封を切らぬ先に少しはっと思わせた電報であった。しかし中は、今度の水害でこちらは無事だが、そちらはどうかという、見舞とへいしんをかねたものに過ぎなかった。出した局の名が本郷とあるのを見てこれはそうへいくんわずらわしたものと知った。

 雨はますます降り続いた。余の病気はしだいに悪い方へかたぶいて行った。その時、余は夜の十二時頃長距離電話をかけられて、かたい胸を抑えながら受信器を耳に着けた。茅ヶ崎の子供も無事、東京の家も無事という事だけがかすかに分った。しかしその他は全く不得要領で、ほとんど風と話をするごとくにまとまらない雑音がぼうぼうと鼓膜に響くのみであった。第一かけた当人がわがさいであるという事さえさとらずにこちらからあなたという敬語を何遍か繰返したくらいぼんやりした電話であった。東京のたよりが雨と風と洪水の中に、悩んでいる余の眼に始めて暸然と映ったのは、坐る暇もないほどいそがしい思いをした妻が、当時の事情をありのままにしたためたこさいの手紙がようやく余の手に落ちた時の事であった。余はその手紙を見て自分のやまいを忘れるほど驚いた。

病んで夢む天の川よりでみずかな


十一[編集]

 さいの手紙は全部の引用を許さぬほど長いものであった。冒頭に東洋城から余の病気の報知を受けた由と、それがため少からず心を悩ましているむねを記して、看病に行きたいにも汽車が不通で仕方がないから、せめて電話だけでもと思って、その日の中には通じかねるところを、無理な至急報にしてもらって、やはんに山田の奥さんの所からかけたという説明が書いてあった。さきにいる子供の安否についてもひとかたならぬ心配をしたものらしかった。じっけんざかしたという所は水害の恐れがないけれども、もし万一の事があれば、郵便局から電報で宅まで知らせて貰うはずになっていると、余に安心させるため、わざわざ断ってあった。そのほか市中たいていのひらちは水害を受けて、現に江戸川通などはやらいの交番の少し下までつかったため、舟に乗ってゆききをしているという報知も書き込んであった。しかしその頃はおくれながらも新聞が着いたから、一般の模様は妻の便りがなくてもほぼ分っていた。余の心を動かすべき現象はばくぜんたる大社会の雨や水やと戦う有様にあると云うよりも、むしろおのれだけに密接の関係ある個人の消息にあった。そうしてその個人の二人までに、この雨と水が命のまぎわまでたたったてんまつを、余はこの書面のうちに見出したのである。

 一つは横浜にとついだ妻の妹の運命に関した報知であった。手紙にはこう書いてある。

「……梅子事すえの弟をれてとうさわふくずみへ参り居りそうろう処、水害のため福住はなみに押し流され、よくかく六十名のうち十五名ゆくえふめいとの事にて、生死の程も分らず、いかんとも致し方なく、横浜へは汽車不通にて参る事かなわず、電話は申込者多数にて一日を待たねば通じもうさず……」

 あとには、いろいろ込み入ったくめんをして電話をかけた手続が書いてあって、その末に会社の小使とかが徒歩で箱根まで探しに行ったあげく、幽霊のようにあわれな姿をしたかのおんなを伴れて戻った模様が述べてあった。余はそこまで読んで来て、つい二三日前宿の下女から、ある所で水が出て家が流されて、その家の宝物がまたある所から掘り出されたという昔話のような物語を聞きながら、その裏には自分と利害の糸をからあわせなければならない恐ろしい事実がひそんでいるとも気がつかずに、おかしらもない夢とのみ打ち興じてすましていた自分の無智に驚いた。またその無智を人間にいる運命の威力を恐れた。

 もう一つ余の心をおどらしたのは、草平君に関するしらせであった。さいが本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞のつもりでやなぎちょうの低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、ここらだがと思いながら、表から奥をのぞいて見ると、かねてみおぼえのある家がくしゃりとつぶれていたそうである。

うちの人達は無事ですか、どこへ行きましたかと聞いたら、まきやおかみさんが、昨晩の十二時頃にがけくずれましたが、幸いにどなたもおけがはございません。ひとまず柳町のこういう所へ御引移りになりましたと、教えてくれましたから、柳町へ来て見ると、まだ水の引き切らないゆかしたのぴたぴたにれた貸家にたたみたてぐも何も入れずに、荷物だけ運んでありました。実に何と云って好いかあわれな姿でおたねさんが、わたしの顔を見るとけ出して来ました。……晩の御飯をこしらえる事もできないだろうと思って、おすしあつらえて御夕飯の代りに上げました……」

 草平君はふだんから崖崩れを恐れて、できるだけ表へ寄って寝るとか聞いていたが、家のつぶれた時には、ほかのものがまるで無難であったにもかかわらず、自分だけは少し顔へけがをしたそうである。その怪我の事も手紙のうちに書いてあった。余はそれを読んで怪我だけでまず仕合せだと思った。

 家を流し崖を崩すすさまじい雨と水の中に都のものは幾万となく恐るべき叫び声をげた。同じ雨と同じ水の中に余と関係の深い二人は身をもってまぬかれた。そうして余はごうも二人の災難を知らずに、遠いでゆの村に雲とけぶりと、雨の糸を眺め暮していた。そうして二人の安全であるというしらせが着いたときは、余のやまいがしだいしだいに危険の方へ進んで行った時であった。

風に聞けいずれか先に散る


十二[編集]

 つづく雨のよいに、すこしやまいひまぬすんで、下の風呂場へ降りて見ると、はんきれを三尺ばかりのながさに切って、それを細長くたてりつけた壁の色が、暗く映るの陰に、ふと余の視線をいた。余はゆつぼわきに立ちながら、からだめす前に、まずこの異様の広告めいたものを読む気になった。真中にしろうと落語大会と書いて、その下にさいしゅはだかれんと記してある。場所は「山荘にて」と断って、もよおしのあるべき日取をその傍に書き添えた。余はすぐ裸連のなんびとなるかをさとり得た。裸連とは余の隣座敷にいる泊り客の自撰にかかるいみょうである。きのうひるふすまごしに聞いていると、たろうかじゃがどうのこうのと長い評議の末、そこんところでやるまいぞ、やるまいぞにしたら好いじゃねえかと云うような相談があった。そのしゅこうは寝ている余とはもとより無関係だから、知ろうはずもなかったが、とにかくこの議決が山荘でのもよおしに一異彩を加えた事はたしかに違ないと思った。余は風呂場のはりがみに注意してある日付と、はだかれんの趣向をらしていた時刻を照らし合せつつ、この落語会なるものの、すでにとどこおりなくすんだ昨日の午後を顧みて、裸連――少くとも裸連の首脳のかたちづくる隣座敷の泊り客……の成功を祝せざるを得なかった。

 この泊り客はごにんづれひとまはいっていた。そのうちの一番としかさに見える三十代の男に、その妻君と娘を合せるとすでに三人になる。妻君はひんのいい静かな女であった。子供はなおさらおとなしかった。その代り夫はすこぶる騒々しかった。あとの二人はいずれも二十代の青年で、その一人は一行のうちでもっともやかましくふるまっていた。

 誰でも中年以後になって、二十一二時代の自分を眼の前におもい浮べて見ると、いろいろ回想のむらがる中に、きはずかしくて冷汗の流れそうな一断面を見出すものである。余は隣のへやしんぎんしながら、この若い男の言葉使いやたちいを注意すべく余儀なくされた結果として、二十年の昔に経過した、自分のしょうがいのうちで、はなはだ不面目と思わざるを得ない生意気さ加減を今更のように恐れた。

 この男は何の必要があってか知らないけれども、絶えずだいどうで講演でもするように大きな声を出して得意であった。そうして下女が来ると、必ずつうかくめいたいきがりを連発した。それをとなりざしきで聞いていると、ウィットにもならなければヒューモーにもなっていないのだから、いかにも無理やりに、(しかも大得意に、)はんかもしくはしはんかを殺風景にどなりつけているとしか思われなかった。ところが下女の方では、またそれを聞くたびに不必要にふんだんな笑い方をした。本気ともおせじとも片のつかない笑い方だけれども、声帯に異状のあるような恐ろしい笑い方をした。病気にのみくったくする余も、これには少からず悩まされた。

 裸連の一部は下座敷にもいた。すべてで九人いるので、みずから九人組ともとなえていた。その九人組が丸裸になって幅六尺のえんがわへ出て踊をおどって一晩ね廻った。便所へ行く必要があって、しょうじの外へ出たら、九人組はおどくたびれて、すはだかのまま縁側にあぐらをかいていた。余は邪魔になるしりすねの間をまたいで用を足して来た。

 長い雨がようやくんで、東京への汽車がほぼ通ずるようになった頃、裸連は九人とも申し合せたように、どっと東京へ引き上げた。それと入れ代りに、森成さんとせっちょうくんさいとが前後して東京から来てくれた。そうして裸連のいた部屋を借り切った。その次の部屋もまた借り切った。しまいには新築の二階座敷をよまともにわがゆうとした。余は比較的閑寂な月日のもとに、すいのみから牛乳を飲んで生きていた。一度はさじで突きくだいたすいかの底からいて出る赤い汁を飲ましてもらった。こうぼうさまで花火のあがったよいは、縁近く寝床をらして、横になったまま、はつあきそらやはんぢかくまで見守っていた。そうして忘るべからざる二十四日の来るのを無意識に待っていた。

はぎに置く露の重きに病む身かな


十三[編集]

 その日は東京から杉本さんが診察に来るてはずになっていた。雪鳥君がおおひとまでむかえに出たのは何時頃か覚えていないが、山の中を照らす日がまだ山の下に隠れないひるすぎであったと思う。その山の中を照らす日を、床を離れる事のできない、またへやを出る事のかなわない余は、朝から晩までほとんど仰ぎ見た試しがないのだから、こう云うのも実はひさしの先に余る空のはしだけをめあてに想像したこくげんである。――余はしゅぜんじふたつきいつかほど滞在しながら、どちらが東で、どちらが西か、どれが伊東へ越す山で、どれが下田へ出る街道か、まるで知らずに帰ったのである。

 杉本さんは予定のごとく宿へ着いた。余はその少し前に、さいの手からすいのみを受け取って、細長いガラスの口からなまぬるい牛乳を一合ほど飲んだ。血が出てから、安静状態と流動食事とは固く守らなければならないおきてのようになっていたからである。その上できるだけ病人に営養を与えて、体力の回復の方から、かいようの出血を抑えつけるという療治法を受けつつあった際だから、いやおうなしに飲んだ。実を云うとこの日は朝から食慾がきざさなかったので、吸飲の中に、動く事のできぬほど濁った白い色のみなぎる様を見せられた時は、すぐと重苦しく舌の先にたまるしつい乳の味を予想して、手に取らない前からすでに反感を起した。強いられた時、余はやむなく細長くかえった硝子のくだを傾けて、湯とも水ともさばけないしるを、舌の上にすべらせようと試みた。それが流れてのどくだあとには、いさぎよからぬねばり強いみだりに残った。半分は口直しのつもりであとからアイスクリームを一杯取って貰った。ところがいつものさわやかさに引き更えて、のどを越すときいったんけたものが、胃の中で再び固まったように妙に落ちつきが悪かった。それから二時間ほどして余は杉本さんの診察を受けたのである。

 診察の結果として意外にもさほど悪くないと云う報告を得た時、平生森成さんから病気のたちが面白くないと聞いていた雪鳥君は、喜びの余りすぐ社へ向けて好いという電報を打ってしまった。忘るべからざる八百グラムの吐血は、この吉報を逆襲すべく、診察後一時間後の暮方に、突如として起ったのである。

 かく多量の血を一度に吐いた余は、その暮方の光景から、日のない真夜中を通して、明る日の天明に至る有様をこさい残らず記憶している気でいた。ほどへさいこころおぼえにつけた日記を読んで見て、その中に、ノウヒンケツ(ろうばいした妻は脳貧血をかくのごとく書いている)を起し人事不省におちいるとあるのに気がついた時、余は妻はまくらべに呼んで、当時の模様をくわしく聞く事ができた。徹頭徹尾めいりょうな意識を有して注射を受けたとのみ考えていた余は、実に三十分の長い間死んでいたのであった。

 夕暮間近く、にわかに胸苦しいある物のために襲われた余は、もだえたさの余りに、せっかく親切に床のわきすわっていてくれた妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへいてくれとじゃけんに命令した。それでもえられなかったので、安静に身をよこたうべき医師からの注意にそむいて、あおむけいちから右を下に寝返ろうと試みた。余の記憶にのぼらない人事不省の状態は、寝ながらむきを換えにかかったこの努力に伴う脳貧血の結果だと云う。

 余はその時さっとほとばしる血潮を、驚ろいて余に寄り添おうとした妻のゆかたに、べっとりきかけたそうである。雪鳥君は声をふるわしながら、奥さんしっかりしなくてはいけませんと云ったそうである。社へ電報をかけるのに、手がわなないて字が書けなかったそうである。医師は追っかけ追っかけ注射を試みたそうである。後から森成さんにその数を聞いたら、十六とうまでは覚えていますと答えた。

淋漓絳血腹中文。 嘔照黄昏漾綺紋

入夜空疑身是骨。 臥牀如石夢寒雲


十四[編集]

 眼を開けて見ると、右向になったまま、せとびきかなだらいの中に、べっとり血を吐いていた。金盥が枕に近く押付けてあったので、血は鼻の先に鮮かに見えた。その色はこんにちまでのように酸の作用をこうむったふめいりょうなものではなかった。白い底に大きな動物のきものごとくどろりと固まっていたように思う。その時枕元でうがいを上げましょうという森成さんの声が聞えた。

 余は黙って含嗽をした。そうして、つい今しがたそばにいる妻に、少しそっちへ退いてくれと云ったほどのはんもんこつぜんどこかへ消えてなくなった事を自覚した。余は何より先にまあよかったと思った。金盥に吐いたものが鮮血であろうと何であろうと、そんな事はいっこう気にかからなかった。日頃からの苦痛のかたまりを一度にどさりと打ちやり切ったという落ちつきをもって、枕元の人がざわざわする様子をほとんどよそごとのように見ていた。余は右の胸の上部に大きな針を刺されてそれから多量の食塩水を注射された。その時、食塩を注射されるくらいだから、多少危険なようだいせまっているのだろうとは思ったが、それもほとんど心配にはならなかった。ただくだの先から水がれて肩の方へ流れるのがいやであった。左右の腕にも注射を受けたような気がした。しかしそれははっきり覚えていない。

 さいが杉本さんに、これでも元のようになるでしょうかと聞く声が耳にった。さようかいようではこれまで随分多量の血をめた事もありますが……と云う杉本さんの返事が聞えた。すると床の上に釣るした電気灯がぐらぐらと動いた。ガラスの中にわんきょくした一本の光が、せんこうはなびのようにきらめいた。余は生れてからこの時ほど強くまた恐ろしく光力を感じた事がなかった。そのとっさせつなにすら、いなずまひとみに焼きつけるとはこれだと思った。時に突然電気灯が消えて気が遠くなった。

 カンフル、カンフルと云う杉本さんの声が聞えた。杉本さんは余の右のてくびをしかと握っていた。カンフルは非常によくくね、注射し切らない内から、もう反響があると杉本さんがまた森成さんに云った。森成さんはええと答えたばかりで、別にはかばかしい返事はしなかった。それからすぐ電気灯に紙のおおいをした。

 はたがひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二人の医師に絶えず握られていた。その二人は眼を閉じている余を中にはさんでしものような話をした(その単語はことごとくドイツごであった)。

「弱い」

「ええ」

「駄目だろう」

「ええ」

「子供に会わしたらどうだろう」

「そう」

 今まで落ちついていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。またけっして死ぬ必要のないほど、楽な気持でいたからである。医師が余をこんすいの状態にあるものと思い誤って、きたんなき話を続けているうちに、みれんな余は、めいもく不動の姿勢にありながら、なかば無気味な夢に襲われていた。そのうち自分の生死に関するかように大胆な批評を、第三者として床の上にじっと聞かせられるのが苦痛になって来た。しまいには多少腹が立った。徳義上もう少しは遠慮してもよさそうなものだと思った。ついに先がそう云うりょうけんならこっちにも考えがあるという気になった。――人間が今死のうとしつつあるまぎわにも、まだこれほどに機略をろうし得るものかと、回復期に向った時、余はしばしば当夜の反抗心を思い出してはほほえんでいる。――もっとも苦痛が全く取れて、あんがの地位を平静に保っていた余には、充分それだけの余裕があったのであろう。

 余は今まで閉じていた眼を急に開けた。そうしてできるだけ大きな声とめいりょうな調子で、わたしは子供などに会いたくはありませんと云った。杉本さんは何事をも意に介せぬごとく、そうですかと軽く答えたのみであった。やがて食いかけた食事を済まして来るとか云ってへやを出て行った。それからは左右の手を左右に開いて、その一つずつを森成さんと雪鳥君に握られたまま、三人とも無言のうちに天明に達した。

冷やかな脈をまもりぬよあけがた


十五[編集]

 いてねがえりを右に打とうとした余と、枕元のかなだらいに鮮血を認めた余とは、いちぶすきもなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本のかみげはさむ余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほどさいから、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。子供のときいたずらをして気絶をした事は二三度あるから、それから推測して、死とはおおかたこんなものだろうぐらいにはかねて想像していたが、半時間の長き間、その経験を繰返しながら、少しも気がつかずに一カ月あまりを当然のごとくに過したかと思うと、はなはだ不思議な心持がする。実を云うとこの経験――第一経験と云い得るかが疑問である。普通の経験と経験の間に挟まってごうもその連結をさまたげ得ないほど内容に乏しいこの――余は何と云ってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。余は眠からめたという自覚さえなかった。かげからに出たとも思わなかった。かすかなはおと、遠きに去る物の響、逃げて行く夢のにおい、古い記憶の影、消える印象のなごり――すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽してようやくほうふつすべき霊妙なきょうがいを通過したとは無論考えなかった。ただむなぐるしくなって枕の上の頭を右に傾むけようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。その間にんだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とはそれほどはかないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然ときらめいた生死二面の対照の、いかにも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこのかけへだった二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得できなかった。よし同じ自分がとっさの際に二つの世界を横断したにせよ、その二つの世界がいかなる関係を有するがために、余をしてたちまち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、ぼうぜんとして自失せざるを得なかった。

 生死とはかんきゅう、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常ひとたばに使用される言葉である。よしばんきんの心理学者の唱うるごとく、この二つのものもまた普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにしたところで、かくてのひらひるがえすと一般に、とうとつなるかけ離れた二フェーゼスが前後して我をとりこにするならば、我はこのかけ離れた二象面を、どうして同性質のものとして、その関係をあとづける事ができよう。

 人が余に一個の柿を与えて、今日は半分喰え、あすは残りの半分の半分を喰え、そのあくるひはまたその半分の半分を喰え、かくして毎日現に余れるものの半分ずつを喰えと云うならば、余は喰い出してからいくかめかに、ついにこの命令にそむいて、残る全部をことごとく喰い尽すか、または半分に割る能力の極度に達したため、手をこまぬいてむなしくのこれる柿のいっぺんを見つめなければならない時機が来るだろう。もし想像の論理を許すならば、この条件のもとに与えられたる一個の柿は、しょうがい喰っても喰い切れる訳がない。ギリシャの昔ゼノが足のきアキリスと歩みののろい亀との間に成立する競争にことばを託して、いかなるアキリスもけっして亀に追いつく事はできないと説いたのは取も直さずこの消息である。わが生活の内容をかたちづくる個々の意識もまたかくのごとくに、日ごとか月ごとに、そのなかばずつを失って、知らぬ間にいつか死に近づくならば、いくら死に近づいても死ねないと云う非事実な論理にぐろうされるかも知れないが、こう一足飛びに片方から片方に落ち込むような思索上の不調和をまぬかれて、生から死に行くけいろを、何の不思議もなく最も自然に感じ得るだろう。がぜんとして死し、俄然としてわれかえるものは、否、吾に還ったのだと、人から云い聞かさるるものは、ただ寒くなるばかりである。

縹緲玄黄外。 死生交謝時。 寄託冥然去

我心何所之。 帰来覓命根。 杳窅竟難知

孤愁空遶夢。 宛動粛瑟悲。 江山秋已老

粥薬髩将衰。 廓寥天尚在。 高樹独余枝

晩懐如此澹。 風露入詩遅


十六[編集]

 安らかな夜はしだいに明けた。へやを包む影法師がとこを離れてとおのくに従って、余はまた常のごとくまくらべに寄る人々の顔を見る事ができた。その顔は常の顔であった。そうして余の心もまた常の心であった。やまいのどこにあるかを知り得ぬほどに落ちついた身を床の上によこたえて、少しだに動く必要をもたぬ余に、死のなお近くはいかいしていようとは全く思い設けぬところであった。眼を開けた時余はゆうべの騒ぎを(たとい忘れないまでも)ただ過去の夢のごとく遠くに眺めた。そうして死は明け渡る夜と共にいたのだろうぐらいの度胸でもすわったものと見えて、何らのけねんもない気分を、しょうじから射し込む朝日の光に、ここちよくさらしていた。実は無知な余をいつわりおおせた死は、いつの間にか余の血管にもぐり込んで、ともしい血を追い廻しつつ流れていたのだそうである。「ようだいを聞くと、危険なれどごく安静にしていれば持ち直すかも知れぬという」とは、さいのこの日の朝の部に書き込んだ日記の一句である。余が夜明まで生きようとは、誰も期待していなかったのだとは後から聞いて始めて知った。

 余は今でも白いかなだらいの底に吐き出された血の色とかっこうとを、ありありとわが眼の前に思い浮べる事ができる。ましてその当分はかんてんのように固まりかけたなまぐさいものが常に眼先に散らついていた。そうしてが想像に映る血の分量と、それに起因した衰弱とを比較しては、どうしてあれだけの出血が、こうはげしくからだこたえるのだろうといつでも不審にえなかった。人間は脈の中の血を半分失うと死に、三分の一失うとこんすいするものだと聞いて、それにわれとも知らずさいの肩に吐きかけたなまちかさを想像のてんびんに盛って、命の向う側におもりとして付け加えた時ですら、余はこれほど無理なくめんをして生き延びたのだとは思えなかった。

 杉本さんが東京へ帰るや否や、――杉本さんはその朝すぐ東京へ帰った。もっとおりたいが忙がしいから失礼します、その代り手当は充分するつもりでありますと云って、新らしいえりえりかざりを着けえて、余の枕辺に坐ったとき、余はゆうべよなかに、ゆきたけの足りない宿のゆかたを着たまま、そっとしょうじを開けながら、どうかとひとこと森成さんに余の様子を聞いていたかのひとの様子を思い出した。余の記憶にはただそれだけしかとまらなかった杉本さんが、出がけに妻を顧みて、もう一遍吐血があれば、どうしても回復の見込はないものとおあきらめなさらなければいけませんと注意を与えたそうである。実は昨夕にもこの恐るべき再度の吐血が来そうなので、わざわざモルヒネまで注射してそれを防ぎ止めたのだとは、のちになってそのてんまつつまびらかにした余に取って、全く思いがけない報知であった。あれほど胸のうちは落ちついていたものをと云いたいくらいに、余はへいぜいの心持で苦痛なくその夜を明したのである。――話がついれてしまった。

 杉本さんは東京へ帰るや否や、自分で電話を看護婦会へかけて、看護婦を二人すぐ余の出先へ送るように頼んでくれた。その時、早く行かんと間に合わないかも知れないからと電話口でいたので、看護婦は汽車で走るみちみちも、もういけない頃ではなかろうかと、絶えず余の生命に疑いをさしはさんでいた。せっかく行っても、行き着いて見たら、遅過ぎて間に合わなかったと云うような事があってはつまらないと語り合って来た。――これも回復期に向いた頃、びょうしょうつれづれに看護婦と世間話をしたついでに、彼等の口からじかに聞いたたよりである。

 かくすべての人に十の九まで見放されたまなかに、何事も知らぬ余は、こうやに捨てられたあかごのごとく、ぽかんとしていた。苦痛なき生は余に向って何らのはんもんをも与えなかった。余は寝ながらただ苦痛なく生きておるという一事実を認めるだけであった。そうしてこの事実が、はからざるやまいのために、周囲の人のていちょうな保護を受けて、健康な時に比べると、一歩浮世の風のあたにくい安全な地に移って来たように感じた。実際余と余の妻とは、生存競争のからい空気が、じかに通わない山の底に住んでいたのである。

露けさの里にてしずかなるやまい


十七[編集]

 臆病者の特権として、余はかねてよりようかいう資格があると思っていた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れている。文明の肉が社会の鋭どきむちもといしゅくするとき、余は常に幽霊を信じた。けれどもコレラおそれて虎烈剌にかからぬ人のごとく、神に祈って神にてられた子のごとく、余はきょうまでこれと云う不思議な現象に遭遇する機会もなく過ぎた。それを残念と思うほどの好奇心もたまには起るが、平生はまずであわないのを当然と心得てすまして来た。

 自白すれば、八九年前アンドリュ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先のともしびを一時に寒く眺めた。一年ほど前にも「霊妙なる心力」と云う標題に引かされてフランマリオンという人の書籍を、わざわざ外国から取り寄せた事があった。先頃はまたオリヴァー・ロッジの「死後の生」を読んだ。

 死後の生! 名からしてがすでに妙である。我々の個性が我々の死んだのちまでも残る、活動する、機会があれば、地上の人と言葉をかわす。スピリチズムの研究をもって有名であったマイエルはたしかにこう信じていたらしい。そのマイエルに自己の著述を捧げたロッジも同じ考えのように思われる。ついこの間出たポドモアの遺著もおそらくは同系統のものだろう。

 ドイツのフェヒナーは十九世紀の中頃すでに地球その物に意識の存すべきゆえんを説いた。石と土とあらがねに霊があると云うならば、有るとするをさまたげる自分ではない。しかしせめてこの仮定から出立して、地球の意識とはいかなる性質のものであろうぐらいの想像はあってしかるべきだと思う。

 吾々の意識には敷居のような境界線があって、その線の下は暗く、その線の上は明らかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論のように見えるし、またわが経験に照らしてもしごくと思われるが、肉体と共に活動する心的現象にかようの作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受取れない。

 大いなるものは小さいものを含んで、その小さいものに気がついているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、おのれらの寄り集ってこしらえている全部に対してはふうばぎゅうのごとくむとんじゃくであるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、また結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識もまたより大いなる意識のうちに含まれながら、しかもその存在を自覚せずに、孤立するごとくに考えているのだろうとは、彼がこのるいすいよりくだきたるスピリチズムに都合よき仮定である。

 仮定は人々の随意であり、また時にとって研究上必要の活力でもある。しかしただ仮定だけでは、いかに臆病の結果幽霊を見ようとする、また迷信のきょく不可思議を夢みんとする余も、信力をもって彼らの説を奉ずる事ができない。

 物理学者は分子の容積を計算してかいこの卵にも及ばぬ(長さ高さともに一ミリメターの)立方体に一千万を三乗した数がはいると断言した。一千万を三乗した数とは一の下にれいを二十一付けたばくだいなものである。想像をほしいままにする権利を有するわれわれもこの一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。

 けいじかの物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみもっともとうなずくだけである。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云うまでもない。よし物理学者の分子に対するごときめいりょうな知識が、ごじんの内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできない限り、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。

 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事だけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識とめいごうできよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議をひとに待つばかりである。

むかいびいてたれ待つはおり


十八[編集]

 ただ驚ろかれたのはからだの変化である。騒動のあったあくる朝、何かの必要にうながされて、あばらの左右に横たえた手を、顔の所まで持ってようとすると、急に持主でも変ったように、自分の腕ながらまるで動かなかった。人をわずらわすてかずいとって、無理にひじつえとして、てくびから起しかけたはかけたが、わずか何寸かの距離を通して、宙に短かい弧線を描く努力と時間とは容易のものでなかった。ようやく浮き上ったきんの力を利用して、高い方へ引くだけの精気に乏しいので、途中から断念して、再び元の位置にわが腕を落そうとすると、それがまた安くは落ちなかった。無論そのままにして心を放せば、自然の重みでもとに倒れるだけの事ではあるが、その倒れる時の激動が、いかに全身に響き渡るかと考えると、非常に恐ろしくなって、ついに思い切る勇気が出なかった。余はおろす事も上げる事も、また半途に支える事もできない腕を意識しつつそのやりどころに窮した。ようやくはたのものの気がついて、自分の手をわが手に添えて、無理のないように顔の所まで持って来てくれて、帰りにもまた二つ腕をいっしょにしてやっととこの上まで戻した時には、どうしてこう自己が空虚になったものか、我ながらほとんど想像がつかなかった。後から考えて見て、あれは全くゴムふうせんに穴がいて、その穴から空気が一度に走り出したため、風船の皮がたちまちしゅっという音と共に収縮したと一般の吐血だから、それでああからだこたえたのだろうと判断した。それにしても風船はただちぢまるだけである。不幸にして余の皮は血液のほかに大きな長い骨をたくさんに包んでいた。その骨が――

 余は生れてより以来この時ほど吾骨の硬さを自覚した事がない。その朝眼がめた時の第一の記憶は、実にわが全身に満ち渡る骨の痛みの声であった。そうしてその痛みが、よいに、酒をこうぶったいきおいで、多数を相手にはげしいけんかいどんだ末、さんざんに打ちえられて、手も足もかなくなった時のごとくに吾をにぶたたきこなしていた。きぬたたれた布は、こうもあろうかとまで考えた。それほど正体なくきめつけられおわった状態を適当に形容するには、ぶちのめすと云う下等社会で用いる言葉が、ただ一つあるばかりである。少しでも身体を動かそうとすると、ふしぶしがみしみしと鳴った。

 きのうまで狭いふとんかくされた余の天地は、急にまた狭くなった。その布団のうちの一部分よりほかに出る能力を失った今の余には、きのうまで狭く感ぜられた布団がさらに大きく見えた。余の世界と接触する点は、ここに至ってただ肩と背中と細長く伸べた足の裏側に過ぎなくなった。――頭は無論枕に着いていた。

 これほどに切りつめられた世界に住む事すら、ゆうべは許されそうに見えなかったのにと、はたのものは心のうちで余のために観じてくれたろう。何事もわきまえぬ余にさえそれがあわれであった。ただ身の布団に触れる所のみがわが世界であるだけに、そうしてその触れる所が少しも変らないために、我と世界との関係は、非常に単純であった。全くスタチック(せい)であった。したがって安全であった。わたを敷いたかんの中に長く寝て、われ棺を出でず、人棺をおそわざるもうじゃの気分は――もし亡者に気分が有り得るならば、――この時の余のそれと余りかけへだってはいなかったろう。

 しばらくすると、頭がしびれ始めた。腰の骨が骨だけになって板の上にせられているような気がした。足が重くなった。かくして社会的の危険から安全に保証された余いちにんの狭い天地にもまた相応の苦しみができた。そうしてその苦痛をのがれるべく余はいっすんのほかにさえ出る能力を持たなかった。枕元にどんな人がどうしてすわっているか、まるで気がつかなかった。余を看護するために、余の視線の届かぬかたわらを占めた人々の姿は、余に取って神のそれと一般であった。

 余はこの安らかながら痛み多き小世界にじっとあおむけに寝たまま、身の及ばざるところに時々眼を走らした。そうしててんじょうから釣った長いひょうのうの糸をしばしば見つめた。その糸は冷たい袋と共に、胃の上でぴくりぴくりと鋭どい脈を打っていた。

あささむや生きたる骨を動かさず


十九[編集]

 余はこの心持をどう形容すべきかに迷う。

 力をあきないにするすもうが、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分とたないうちに、恐るべき波をじょうげに描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球がいくすじとなく背中を流れ出す。

 最も安全に見える彼等の姿勢は、この波とこの汗の辛うじてもたらす努力の結果である。静かなのはあいこくする血と骨の、わずかに平均を得た象徴である。これをごさつという。二三十秒の現状を維持するに、彼等がどれほどのきはくしょうこうせねばならぬかを思うとき、る人は始めて残酷の感を起すだろう。

 自活のはかりごとに追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。われらは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らのさいしとに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、にちにち自己と世間との間に、互殺の平和をみいだそうとつとめつつある。そとに出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いのうちさつばつの気にちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、えこういんのそれのように、いっぷんたらずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実におもい至るならば、我等は神経衰弱におちいるべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる。

 かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、ほうゆうもある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、けいぜんとしてひとりその間に老ゆるものは、みじめと評するよりほかに評しようがない。

 古臭いぐちを繰返すなという声がしきりに聞えた。今でも聞える。それを聞き捨てにして、古臭い愚痴を繰返すのは、しみじみそう感じたからばかりではない、しみじみそう感じた心持を、急に病気が来てくつがえしたからである。

 血を吐いた余は土俵の上にたおれた相撲と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただあおむけに寝て、わずかないきをあえてしながら、こわい世間を遠くに見た。病気が床のぐるりびょうぶのように取り巻いて、寒い心を暖かにした。

 今までは手を打たなければ、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくらしようとあせっても、ととのわない事が多かった。それが病気になると、がらりと変った。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。さいが来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。

「安心して療養せよ」と云う電報が満洲から、血を吐いた翌日に来た。思いがけないちきや朋友が代る代るまくらもとに来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは眼の前にせまる結婚を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。あおむけに寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。にくいとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。

 四十を越した男、自然にとうたせられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、いそがしい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、やまいに生きかえると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれにうちこわす者を、永久の敵とすべく心に誓った。

馬上青年老。 鏡中白髪新

幸生天子国。 願作太平民


二十[編集]

 ツルゲニェフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイェフスキーには、人の知るごとく、小供の時分からてんかんほっさがあった。われら日本人は癲癇と聞くと、ただ白い泡を連想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なるやまいとなえていた。この神聖なる疾にかされる時、あるいはその少し前に、ドストイェフスキーは普通の人が大音楽を聞いて始めていたり得るような一種微妙の快感に支配されたそうである。それは自己と外界との円満に調和した境地で、ちょうど天体の端から、無限の空間に足をすべらして落ちるような心持だとか聞いた。

「神聖なる疾」にかかった事のない余は、不幸にしてこの年になるまで、そう云うおもむきに一瞬間も捕われた記憶をもたない。ただ大吐血後五六日――つか経たないうちに、時々一種の精神状態におちいった。それからは毎日のように同じ状態を繰り返した。ついには来ぬ先にそれを予期するようになった。そうして自分とは縁の遠いドストイェフスキーのけたと云う不可解の歓喜をひそかに想像してみた。それを想像するか思い出すほどに、余の精神状態は尋常を飛び越えていたからである。ドクインセイのこまかに書き残した驚くべきあへんの世界も余の連想にのぼった。けれども読者のしんもくげんわくするに足るようれいな彼の叙述が、にぶい色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思うと、それを自分の精神状態に比較するのが急にいやになった。

 余は当時十分と続けて人と話をするわずらわしさを感じた。声となって耳に響く空気の波が心につたわって、平らかな気分をことさらにざわつかせるように覚えた。口を閉じてこがねなりという古い言葉を思い出して、ただあおむけに寝ていた。ありがたい事にへやひさしと、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。その空が秋のつゆに洗われつつしだいに高くなる時節であった。余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾むけてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。また何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、ひょうびょうとでも形容してよい気分であった。

 そのうち穏かな心のすみが、いつか薄くぼかされて、そこを照らす意識の色がかすかになった。すると、ヴェイルに似たもやが軽く全面に向ってまんべんなくびて来た。そうして総体の意識がどこもかしこもきはくになった。それは普通の夢のように濃いものではなかった。尋常の自覚のように混雑したものでもなかった。またその中間によこたわる重い影でもなかった。魂がからだを抜けると云ってはすでに語弊がある。霊がこまかい神経の末端にまで行きわたって、泥でできた肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚からはるかに遠からしめた状態であった。余は余の周囲に何事が起りつつあるかを自覚した。同時にその自覚がようちょうとして地のにおいを帯びぬ一種特別のものであると云う事を知った。ゆかの下に水が廻って、自然と畳が浮き出すように、余の心はおのれの宿る身体と共に、ふとんから浮き上がった。より適当に云えば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団がどこかへ行ってしまったのに、心と身体は元の位置に安くただよっていた。ほっさぜんに起るドストイェフスキーの歓喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命をしてもしかるべき性質のものとか聞いている。余のそれはさように強烈のものではなかった。むしろこうこつとしてかすかなおもむきを生活面の全部に軽くかつ深くいんし去ったのみであった。したがって余にはドストイェフスキーの受けたようなゆううつせいの反動が来なかった。余は朝からしばしばこの状態にった。ひるすぎにもよくこのとうようあじわった。そうしてめたときはいつでもその楽しい記憶をいだいて幸福の記念としたくらいであった。

 ドストイェフスキーのきょうがいは、生理上彼のやまいのまさに至らんとする予言である。生をなかばに薄めた余の興致は、単に貧血の結果であったらしい。

仰臥人如唖。 黙然見大空

大空雲不動。 終日杳相同


二十一[編集]

 同じドストイェフスキーもまた死のかどぐちまでられながら、かろうじて後戻りをする事のできた幸福な人である。けれども彼の命をあやめにかかったわざわいは、余の場合におけるがごときあくらつな病気ではなかった。彼は人の手に作り上げられた法と云う器械の敵となって、どんと心臓をかれようとしたのである。

 彼は彼のクラブで時事を談じた。やむなくんばただいっきあるのみと叫んだ。そうしてとらわれた。八カ月の長い間うすくらい獄舎の日光に浴したのち、彼はあおぞらもとに引き出されて、新たに刑壇の上に立った。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度のしもに、シャツ一枚のはだかすがたとなって、もうしわたしの終るのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然としてこまくに受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、かたわらに立つどうしゅうに問うた言葉である。……白いハンケチを合図に振った。兵士はねらいを定めたつつぐちを下に伏せた。ドストイェフスキーはかくして法律のね丸めた熱いなまりたままずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。

 彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間とたぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないと云う時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命をひっさげて、まさにきたるべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当ると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、――余のごとき神経質ではこの三フェーゼスの一つにすらえ得まいと思う。現にドストイェフスキーと運命を同じくした同囚のいちにんは、これがためにその場で気が狂ってしまった。

 それにもかかわらず、回復期に向った余は、びょうしょうの上に寝ながら、しばしばドストイェフスキーの事を考えた。ことに彼が死の宣告からよみがえった最後の一幕を眼に浮べた。――寒い空、新らしい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、襯衣一枚のままふるえている彼の姿、――ことごとく鮮やかな想像の鏡に映った。ひとり彼が死刑をまぬかれたと自覚し得たとっさの表情が、どうしてもはっきり映らなかった。しかも余はただこの咄嗟の表情が見たいばかりに、すべての画面を組み立てていたのである。

 余は自然の手にかかって死のうとした。現に少しの間死んでいた。後から当時の記憶を呼び起した上、なおところどころの穴へ、さいから聞いたてんまつめて、始めて全くでき上る構図をふり返って見ると、いわゆるりつぜんと云う感じに打たれなければやまなかった。その恐ろしさに比例して、きゅうじんに失った命をいっきに取り留めるうれしさはまた特別であった。この死この生に伴う恐ろしさと嬉しさが紙の裏表のごとく重なったため、余は連想上常にドストイェフスキーを思い出したのである。

「もし最後の一節を欠いたなら、余はけっして正気ではいられなかったろう」と彼自身が物語っている。気が狂うほどの緊張を幸いに受けずとすんだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度をはかり得ぬと云う方がむしろ適当かも知れぬ。それであればこそ、がりゅうてんせいとも云うべきかんじんせつなの表情が、どう想像してもばくとして眼の前に描き出せないのだろう。運命のきんしょうを感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。

 それにもかかわらず、余はしばしばドストイェフスキーを想像してやまなかった。そうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、シャツ一枚でふるえている彼の姿とを、根気よく描き去り描ききたってやまなかった。

 今はこの想像の鏡もいつとなく曇って来た。同時に、生き返ったわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかって行く。あの嬉しさがしじゅうわがかたわらにあるならば、――ドストイェフスキーは自己の幸福に対して、しょうがい感謝する事を忘れぬ人であった。



二十二[編集]

 余はうとうとしながらいつのにか夢にった。するとこいねる音でたちまち眼がめた。

 余が寝ている二階座敷の下はすぐ中庭の池で、中には鯉がたくさんに飼ってあった。その鯉が五分に一度ぐらいは必ず高い音を立ててぱしゃりと水を打つ。昼のうちでも折々は耳に入った。夜はことにはなはだしい。隣りの部屋も、下の風呂場も、向うの三階も、裏の山もことごとく静まり返ったまなかに、余は絶えずこの音で眼を覚ました。

 犬の眠りと云う英語を知ったのはいつの昔か忘れてしまったが、犬の眠りと云う意味を実地に経験したのはこの頃が始めてであった。余は犬の眠りのためにごと悩まされた。ようやく寝ついてありがたいと思う間もなく、すぐ眼がいて、まだ空は白まないだろうかと、いくたびあかつきびた。とこしばりつけられた人の、しんとしたよなかに、ただひとり生きている長さは存外な長さである。――鯉がいきおいよく水を切った。自分の描いた波の上をたたく尾の音で、余は眼を覚ました。

 へやの中は夕暮よりもなお暗い光で照らされていた。天井から下がっている電気灯のたまくろぬのすきまなくおいがしてあった。弱い光りはこの黒布の目をれて、かすかに八畳の室を射た。そうしてこの薄暗いひかげに、真白な着物を着た人間が二人すわっていた。二人とも口をかなかった。二人とも動かなかった。二人ともひざの上へ手を置いて、互いの肩を並べたままじっとしていた。

 黒い布で包んだ球を見たとき、余はしゃきんぱくを巻いたちょうきの頭を思い出した。このもしょうと関係のある球の中から出る光線によって、薄く照らされたはくいの看護婦は、静かなる点において、行儀の好い点において、幽霊のひなのように見えた。そうしてその雛は必要のあるたびに無言のまま必ず動いた。

 余は声も出さなかった。呼びもしなかった。それでも余の寝ている位置に、少しの変化さえあれば彼等はきっと動いた。手をけっとのうちで、もじつかせても、心持肩を右から左へゆすっても、頭を――頭は眼がめるたびに必ずしびれていた。あるいは麻痺れるので眼が覚めるのかも知れなかった。――その頭を枕の上でいっすんらしても、あるいは足――足はよくねざめの種となった。ふだんの癖で時々、かたかたを片方の上へ重ねて、そのままとろとろとなると、下になった方の骨がたくわんいしでも載せられたように、みしみしと痛んで眼が覚めた。そうして余は必ず強い痛さと重たさとを忍んで足の位置を変えなければならなかった。――これらのあらゆる場合に、わが変化に応じて、白い着物の動かない事はけっしてなかった。時にはわが動作を予期して、向うから動くと思われる場合もあった。時には手も足も頭も動かさないのに、眠りが尽きてふと眼を開けさえすれば、白い着物はすぐ顔のそばへ来た。余には白い着物を着ている女の心持が少しも分らなかった。けれども白い着物を着ている女は余の心をく悟った。そうして影の形にしたがうごとくに変化した。響の物に応ずるごとくに働らいた。黒いぬのの目かられる薄暗い光のもとに、真白な着物を着た女が、わが肉体のせんを越して、ひそひそと、しかも規則正しく、わが心のままに動くのは恐ろしいものであった。

 余はこの気味の悪い心持を抱いて、眼を開けると共に、ぼんやりひとみに映るへやの天井を眺めた。そうして黒い布で包んだ電気灯のたまと、その黒い布の織目から洩れてくる光に照らされた白い着物を着た女を見た。見たか見ないうちに白い着物が動いて余に近づいて来た。

秋風鳴万木。 山雨撼高楼

病骨稜如剣。 一灯青欲愁


二十三[編集]

 余は好意のひからびた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感じた。

 人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論ありがたい。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも何でもない。したがって義務の結果に浴する自分は、ありがたいと思いながらも、義務を果した先方に向って、感謝の念をおこにくい。それが好意となると、相手のしょさが一挙一動ことごとく自分を目的にして働いてくるので、いきものの自分にその一挙一動がことごとくこたえる。そこに互をつなぐ暖い糸があって、器械的な世をたのもしく思わせる。電車に乗って一区をまたたく間に走るよりも、人の背に負われて浅瀬を越した方がなさけが深い。

 義務さえすなおには尽くして呉れる人のない世の中に、また自分の義務さえろくに尽くしもしない世の中に、こんなぜいたくを並べるのは過分である。そうとは知りながら余は好意のひからびた社会に存在する自分をせつにぎごちなく感じた。――或る人の書いたものの中に、余りせちがらい世間だから、じようしゃを節倹する格で、当分良心を質に入れたとあったが、質に入れるのはもとより一時の融通を計るべんぎに過ぎない。今の大多数は質に置くべき好意さえてんで持っているものが少なそうに見えた。いかにくめんがついても受出そうとは思えなかった。とは悟りながらやはり好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。

 今の青年は、筆をっても、口をいても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面からうけたまわれば、こにくらしい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてしてはばかるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首をくくったり身を投げたりすると同程度に悲惨なはんもんが含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。

 こうは解釈するようなものの、依然として余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向ってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、みずからぎごちなく感じた。そうしてやまいかかった。そうして病の重い間、このぎごちなさをどこへか忘れた。

 看護婦は五十グラムのかゆをコップの中に入れて、それをたいみそと混ぜ合わして、ひとさじずつ自分の口に運んでくれた。余はすずめの子かからすの子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事のこんだてひょうを作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものをえらんで、あとはそれぎりほごにした。

 医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るがゆえに、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、ふたもない話である。けれども彼等の義務のうちに、半分の好意をんで、それを病人の眼からかして見たら、彼等のしょさがどれほどたっとくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈してひとりでうれしかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。

 子供と違ってたいじんは、なまじい一つの物をとすじ二十筋のあやからできたようにみきわめる力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情をほしいままに吸収する場合がきわめて少ない。本当に嬉しかった、本当にありがたかった、本当にたっとかったと、しょうがいに何度思えるか、かんじょうすればいくばくもない。たとい純潔でなくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓のまんなかに保存したいと願っている。そうしてこの感情が遠からず単にいっぺんの記憶と変化してしまいそうなのをせつに恐れている。――好意のひからびた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感ずるからである。

天下自多事。 被吹天下風。 高秋悲鬢白

衰病夢顔紅。 送鳥天無尽。 看雲道不窮

残存吾骨貴。 慎勿妄磨※〈[#「石+龍」、638-7]〉


二十四[編集]

 小供のとき家に五六十幅のがあった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時はむしぼしの折に、余はかわる交るそれを見た。そうしてかけものの前にひとうずくまって、黙然と時を過すのをたのしみとした。今でもおもちゃばこひっくり返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方がはるかに心持が好い。

 画のうちではさいしきを使ったなんがが一番面白かった。惜しい事に余の家のぞうふくにはその南画が少なかった。子供の事だから画のこうせつなどは無論分ろうはずはなかった。きらいと云ったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれでうれしかったのである。

 鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するのへいはあったろうが、名前によって画を論ずるのそしりもおかさずにすんだ。ちょうど画を前後して余のしこうのぼった詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきかにくむべきかいずれとも意見を有していない。)

 ある時、青くて丸い山を向うに控えた、またてきれきと春に照る梅を庭に植えた、またさいもんまんまえを流れる小河を、垣に沿うてゆるめぐらした、家を見て――無論えぎぬの上に――どうかしょうがいに一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、そばにいる友人に語った。友人は余のまじめな顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうに云った。この友人はいわてのものであった。余はなるほどと始めて自分のうかつずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。

 それは二十四五年も前の事であった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。がけを降りてたにがわへ水をみに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になってあおむけに寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。

 すると小宮君がうたまろにしきえを葉書にったのを送ってくれた。余はそのいろあいの長い間におのずびたくすみ方にみとれて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬ事が書いてあったので、こんなやにっこいいろおとこだいきらいだ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然のが好きだと答えてくれとはたのものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へすわって、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説をきかけるので、余は小宮君をつらまえて御前はあおにさいだとののしった。――それくらい病中の余は自然をなつかしく思っていた。

 空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日があおい所を目の届くかぎり照らした。余はそのいかえしの大地にあまねき内にしんとしてひとぬくもった。そうして眼の前に群がる無数のあかとんぼを見た。そうして日記に書いた。――「人よりも空、よりももく。……肩に来て人なつかしやあかとんぼ

 これは東京へ帰った以後のけしきである。東京へ帰ったあともしばらくは、絶えず美くしい自然の画が、子供の時と同じように、余を支配していたのである。

秋露下南礀。 黄花粲照顔

欲行沿澗遠。 却得与雲還


二十五[編集]

 子供が来たから見てやれとさいが耳のそばへ口を着けて云う。からだを動かす力がないので余は元の姿勢のままただ視線だけをその方に移すと、子供は枕を去る六尺ほどの所に坐っていた。

 余の寝ている八畳に付いた床の間は、余の足の方にあった。余の枕元は隣の間を仕切るふすまなかばふさいであった。余は左右に開かれたふすまの間から敷居越しに余の子供を見たのである。

 頭の上の方にいるものをへやを隔てて見る視力が、不自然な努力を要するためか、そこに坐っている子供の姿は存外遠方に見えた。無理ないちべつもとに余のひとみに映った顔は、うたとしるすよりもむしろ眺めたと書く方が適当なくらい離れていた。余はこの一瞥よりほかにまた子供の影を見なかった。余の眸はすぐと自然の角度に復した。けれども余はこの一瞥の短きうちにすべてを見た。

 子供は三人いた。十二からとお、十から八つと順に一列になって隣座敷の真中に並ばされていた。そうして三人ともに女であった。彼等は未来の健康のため、ひとなつさきに過すべく、ふぼから命ぜられて、兄弟五人できのうまでうみべけ廻っていたのである。父がきとくの報知によって、親戚のものにれられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、しゅぜんじまで見舞に来たのである。

 けれども危篤の何を意味しているかを知るには彼らはあまりぎた。彼らは死と云う名前を覚えていた。けれども死の恐ろしさとこわさとは、彼らの若いひたいの奥に、いまだかつて影さえ宿さなかった。死にとらえられた父の身体が、これからどう変化するか彼らには想像ができなかった。父が死んだあとで自分らの運命にどんな結果が来るか、彼らには無論考え得られなかった。彼らはただ人に伴われて父の病気を見舞うべく、父の旅先まで汽車に乗って来たのである。

 彼らの顔にはこの会見が最後かも知れぬと云ううれいの表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。そうしていろいろ人のいる中に、三人特別な席に並んで坐らせられて、厳粛な空気にじっと行儀よく取りすます窮屈を、切なく感じているらしく思われた。

 余はただいちべつの努力に彼らを見ただけであった。そうしてやまいを解し得ぬ可憐な小さいものを、わざわざ遠くまで引張り出して、しゅしょうに枕元に坐らせておくのをかえって残酷に思った。さいを呼んで、せっかく来たものだから、そこいらを見物させてやれと命じた。もしその時の余に、あるいはこれが親子の見納めになるかも知れないと云うけねんがあったならば、余はもう少ししみじみ彼らの姿を見守ったかも知れなかった。しかし余は医師やはたのものが余に対して抱いていたような危険を余の病の上にみずから感じていなかったのである。

 子供はじきに東京へ帰った。一週間ほどしてから、彼らはめいめいに見舞状を書いて、それを一つ封に入れて、余の宿に届けた。十二になるふでこのは、四角な字を入れた整わないそうろうぶんで、「おばばさまが雨がふっても風がふいても毎日毎日一日もかかさず御しゃか様へおまいりを遊ばすおひゃくどをなされ御父様の御病気一日も早く御全快を祈り遊ばされまた高田のおんおば様どこかの御宮へか御詣り遊ばすとのことにござそうろうふさ、きよみ、むめの三人の連中は毎日猫の墓へ水をとりかえ花を差し上げて早く御父様の全快を御祈りに居り候」とあった。とおになるつねこのは尋常であった。やつになるえい子のは全く片仮名だけで書いてあった。字をめて読みやすくすると、「御父様の御病気はいかがでございますか、私は無事に暮しておりますから御安心なさいませ。御父様も私の事を思わずに御病気を早く直して早く御帰りなさいませ。私は毎日休まずに学校へ行って居ります。また御母様によろしく」と云うのである。

 余は日記の一ページを寝ながらいて、それに、留守のうちはおとなしくおばばさまの云う事を聞かなくてはいけない、今についでのあった時しゅぜんじおみやげを届けてやるからと書いて、すぐ郵便でさいに出さした。子供は余が東京へ帰ってからも、平気で遊んでいる。修善寺のみやげはもう壊してしまったろう。彼等が大きくなったとき父のこの文を読む機会がもしあったなら、彼等ははたしてどんな感じがするだろう。

傷心秋已到。 嘔血骨猶存

病起期何日。 夕陽還一村


二十六[編集]

 五十グラムと云うと日本の二勺半にしか当らない。ただそれだけの飲料で、このからだを終日こたえていたかと思えば、自分ながら気の毒でもあるし、かわいらしくもある。また馬鹿らしくもある。

 余は五十グラムのくずゆうやうやしく飲んだ。そうして左右の腕にあさゆう二回ずつの注射を受けた。腕は両方とも針のあとまっていた。医師は余に今日はどっちの腕にするかと聞いた。余はどっちにもしたくなかった。薬液を皿に溶いたり、それを注射器に吸い込ましたり、針をていねいぬぐったり、針の先に泡のようにこまかい薬を吹かして眺めたりする注射の準備ははなはだものぎれいで心持が好いけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへ無理に薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師に全体そのとびいろの液は何だと聞いた。もりなりさんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。

 やがて日に二回の注射が一回に減じた。その一回もまたしばらくするとめになった。そうして葛湯の分量が少しずつ増して来た。同時に口の中がしゅうねねばり始めた。さわやかな飲料で絶えず舌とあごのどを洗っていなくてはいたたまれなかった。余は医師に氷を請求した。医師は固いかけらがすべって胃のに落ち込む危険を恐れた。余はてんじょうを眺めながら、腹膜炎をわずらったはたちの昔を思い出した。その時は病気にさわるとかで、すべての飲物を禁ぜられていた。ただ冷水でうがいをするだけの自由を医師から得たので、余は一時間のうちに、何度となく含嗽をさせて貰った。そうしてそのつど人に知れないように、そっと含嗽の水を幾分かずつ胃の中に飲み下して、やっとりつくようなかわきまぎらしていた。

 昔のはかりごとを繰り返す勇気のなかった余は、こうちゅううるおすための氷を歯でくだいては、正直に残らず吐き出した。その代り日に数回ひらのすいを一口ずつ飲まして貰う事にした。平野水がくんくんと音を立てるような勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった。けれども咽喉を通り越すや否やすぐとまた飲みたくなった。余はよなかにしばしば看護婦から平野水をコップいで貰って、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している。

 かつはしだいにんだ。そうして渇よりも恐ろしいひもじさが腹の中を荒して歩くようになった。余は寝ながら美くしいしょくぜんなんとおりとなく想像でこしらえて、それを眼の前に並べて楽んでいた。そればかりではない、同じこんだてを何人前もととのえておいて、多数の朋友にそれを想像で食わして喜こんだ。今考えると普通のものの嬉しがるようなくいものはちっともなかった。こう云う自分にすらあまりありがたくはないおぜんばかりを眼の前に浮べていたのである。

 森成さんがもうくずゆきたろうと云って、わざわざ東京から米を取り寄せておもゆを作ってくれた時は、重湯を生れて始めてすする余には大いな期待があった。けれども一口飲んで始めてそのまずいのに驚ろいた余は、それぎり重湯というものを近づけなかった。その代りカジノビスケットをひときれ貰った折のうれしさはいまだに忘れられない。わざわざ看護婦を医師のへやまでやって、特に礼を述べたくらいである。

 やがてかゆを許された。そのうまさはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。ひがしくんはわざわざさいの所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のようにしじゅうくいものの話ばかりしていておかしいと告げた。

はらわたに春したたるや粥の味


二十七[編集]

 オイッケンは精神生活と云う事をまむきに主張する学者である。学者の習慣として、自己の説をとなうる前には、あらゆる他のイズムを打破する必要を感ずるものと見えて、彼は彼のいわゆる精神生活を新たならしむるため、その用意として、現代生活に影響を与うる在来からの処生上の主義に一も二もなく非難を加えた。自然主義もやられる、社会主義もたたかれる。すべての主義が彼の眼から見て存在の権利を失ったかのごとくに説き去られた時、彼は始めて精神生活の四字をねんしゅつした。そうして精神生活の特色は自由である、自由であるとれんこした。

 試みに彼に向って自由なる精神生活とはどんな生活かと問えば、たんてきにこんなものだとはけっして答えない。ただ立派な言葉を秩序よく並べ立てる。むずかしそうなりくつえんえんいくえにも重ねて行く。そこに学者らしいてぎわはあるかも知れないが、とぐろの中に巻き込まれるしろうとぼんやりしてしまうだけである。

 しばらく哲学者の言葉を平民に解るように翻訳して見ると、オイッケンのいわゆる自由なる精神生活とは、こんなものではなかろうか。――我々は普通衣食のために働らいている。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分のこうお撰択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。そう云う風にほかからしつけられた仕事では精神生活とは名づけられない。いやしくも精神的に生活しようと思うなら、義務なきところに向ってみずから進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、おのれ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。こう解釈した時、誰も彼の精神生活を評してつまらないとは云うまい。コムトはアンニュイをもって社会の進歩をうながす原因と見たくらいである。倦怠の極やむをえずして仕事を見つけ出すよりも、内におさえがたき或るものがわだかまって、じっとこたえられない活力を、自然の勢から生命の波動としてびょうしゅつきたる方が実際ったかたと云わなければなるまい。舞踏でも音楽でもしいかでも、すべて芸術の価値はここに存していると評してもさしつかえない。

 けれども学者オイッケンの頭の中でまとめ上げた精神生活が、現に事実となって世の中に存在し得るや否やに至ってはおのずから別問題である。彼オイッケン自身が純一無雑に自由なる精神生活を送り得るや否やを想像して見てもぶんみょうな話ではないか。間断なきこの種の生活に身を託せんとする前に、吾人は少なくとも早くすでに職業なき閑人として存在しなければならないはずである。

 豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心のはずまないときはけっして豆をかなかったならしょうばいにはならない。さらに進んで、おのれの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおの事商買にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平のともしけなければならない。公平と云う美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。いっぷんの遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端をしちぶさんぶとかろくぶしぶとかにわして自己にべんぎなようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべくてんから余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでにけがされてしまうのは当然である。芸術家としての彼はおのれにあつき作品を自然の気乗りで作り上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、うれだかの多いものをおおやけにしなくてはならぬからである。

 すでに個人の性格及び教育次第で融通のかなくなりそうなオイッケンのいわゆる自由なる精神生活は、現今の社会組織の上から見ても、これほど応用の範囲の狭いものになる。それを一般にわたって実行のできる大主義のごとくに説き去る彼は、学者の通弊として統一病にかかったのだと酷評を加えてもよいが、たまたま文芸を好んで文芸を職業としながら、同時に職業としての文芸をんでいる余のごときものの注意を呼び起して、その批評心をしげきする力は充分ある。大患にかかった余は、親の厄介になった子供の時以来久しぶりで始めてこの精神生活の光に浴した。けれどもそれはわずか一二カ月の中であった。やまいなおるにれ、自己がしだいに実世間に押し出されるに伴れ、こう云う議論を公けにして得意なオイッケンをうらやまずにはいられなくなって来た。



二十八[編集]

 学校を出た当時小石川のある寺に下宿をしていた事がある。そこのおしょうは内職に身の上判断をやるので、薄暗い玄関の次の間に、さんぎぜいちくを見るのが常であった。もとより看板をかけてのおもてむきしょうばいでなかったせいか、うらないたのみに来るものは多くて日に四五人、少ない時はまるで筮竹をむ音さえ聞えない夜もあった。えきだんに重きを置かない余は、固よりこの道において和尚と無縁の姿であったから、ただ折々ふすまごしに、和尚の、そりゃ当人の望み通りにした方が好うがすななどと云う縁談に関するじょごんを耳にさしはさむくらいなもので、面と向き合っては互に何も語らずに久しく過ぎた。

 ある時何かのついでに、話がつい人相とか方位とか云う和尚のなわばり内にんだので、冗談半分わたしの未来はどうでしょうと聞いて見たら、和尚は眼をえて余の顔をじっと眺めたあとで、大して悪い事もありませんなと答えた。大して悪い事もないと云うのは、大して好い事もないと云ったも同然で、すなわち御前の運命は平凡だと宣告したようなものである。余は仕方がないから黙っていた。すると和尚が、あなたは親の死目にはえませんねと云った。余はそうですかと答えた。すると今度はあなたは西へ西へと行く相があると云った。余はまたそうですかと答えた。最後に和尚は、早くあごの下へひげを生やして、地面を買ってうちを御建てなさいと勧めた。余は地面を買って居宅を建て得る身分なら何も君の所に厄介になっちゃいないと答えたかった。けれども顋の下の髯と、地面やしきとはどんな関係があるか知りたかったので、それだけちょっと聞き返して見た。すると和尚はまじめな顔をして、あなたの顔を半分に割ると上の方が長くって、下の方が短か過ぎる。したがって落ちつかない。だから早く顋髯を生やして上下のつりあいを取るようにすれば、顔のいすわりがよくなって動かなくなりますと答えた。余は余の顔のぞうさくに向って加えられたこの物理的もしくは美学的の批判が、優に余の未来の運命を支配するかのごとく容易に説き去った和尚を少しおかしく感じた。そうしてなるほどと答えた。

 一年ならずして余は松山に行った。それからまた熊本に移った。熊本からまたロンドンに向った。和尚の云った通り西へ西へとおもむいたのである。余の母は余の十三四の時に死んだ。その時は同じ東京におりながら、つい臨終の席にははんべらなかった。父の死んだ電報を東京から受け取ったのは、熊本にいる頃の事であった。これで見ると、親の死目にえないと云った和尚の言葉もどうかこうか的中している。ただあごひげに至ってはその時からこんにちに至るまで、ねいじつなくり続けに剃っているから、地面とやしきがはたして髯と共にわが手にるかどうかいまだにはんぜんせずにいた。

 ところがしゅぜんじで病気をして寝つくや否や、頬がざらざらし始めた。それが五六日すると一本一本につまめるようになった。またしばらくすると、頬からあごすきまなく隠れるようになった。おしょうじょごんは十七八年ぶりで始めて役に立ちそうなけしきに髯は延びて来た。さいはいっそおはやしなすったら好いでしょうと云った。余も半分その気になって、しきりにその辺をで廻していた。ところがいくかとなく洗いもくしけずりもしない髪が、あぶらあかで余の頭をうずくそうとするむさくるしさにえられなくなって、ある日床屋を呼んで、不充分ながら寝たまま頭に手を入れて顔にかみそりを当てた。その時地面と居宅の持主たるべき資格をまたきれいに失ってしまった。はたのものは若くなった若くなったと云ってしきりにはやし立てた。ひとり妻だけはおやすっかりっておしまいになったんですかと云って、少し残り惜しそうな顔をした。妻は夫の病気が本復した上にも、なお地面と居宅が欲しかったのである。余といえども、髯を落さなければ地面と居宅がきっと手にると保証されるならば、あの顋はそのままに保存しておいたはずである。

 その髯は始終剃った。朝早く床の上に起き直って、向うの三階の屋根とわがへやしょうじの間にわずかばかり見える山のいただきを眺めるたびに、わが頬のいさぎよく剃り落してあるなめらかさをで廻してはうれしがった。地面と居宅は当分断念したか、または老後の楽しみにあとあとまで取っておくつもりだったと見える。

客夢回時一鳥鳴。 夜来山雨暁来晴

孤峯頂上孤松色。 早映紅暾欝々明


二十九[編集]

 しゅぜんじが村の名でかねて寺の名であると云う事は、行かぬ前からとくに承知していた。しかしその寺で鐘の代りに太鼓をたたこうとはかつておもい至らなかった。それを始めて聞いたのはいつの頃であったか全く忘れてしまった。ただ今でも余が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと時々響く事がある。すると余は必ず去年の病気をおもい出す。

 余は去年の病気と共に、新らしいてんじょうと、新らしいとこにかけた大島将軍の従軍の詩を憶い出す。そうしてその詩を朝から晩までに何遍となく読み返した当時を明らさまに憶い出す。新らしい天井と、新らしい床の間と、新らしい柱と、新らし過ぎてあけたての不自由なしょうじは、今でも眼の前にありありと浮べる事ができるが、朝から晩までに何遍となく読み返した大島将軍の詩は、読んでは忘れ、読んでは忘れして、今ではしらかべのように白い絹の上を、どこまでも同じ幅で走って、おかしらともにぷつりと折れてしまう黒い線を認めるだけである。句に至っては、始めのけんげきという二字よりほか憶い出せない。

 余は余のこまくの上に、想像の太鼓がどん――どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。これらのものの中に、じっとあおむいて、尻の痛さをまぎらしつつ、のつそつ夜明を待ちびたその当時を回顧すると、しゅぜんじの太鼓のは、一種云うべからざる連想をもって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。

 その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てた上、中間だけを、やけに夜陰に向ってたたきつけるように、ぶっきら棒な鳴り方をした。そうして、一つどんとそっけなく鳴ると共にぱたりと留った。余は耳をそばだてた。一度静まった夜の空気は容易に動こうとはしなかった。ややしばらくして、今のは錯覚ではなかろうかと思い直す頃に、また一つどんと鳴った。そうしてあいそのない音は、水に落ちた石のように、急に夜の中に消えたぎり、しんとした表に何の活動も伝えなかった。寝られない余は、待ち伏せをする兵士のごとく次のの至るを思いつめて待った。その次の音はやはり容易には来なかった。ようやくのこと第一第二と同じくきわめてからった響が――響とはにくい。黒い空気の中に、突然無遠慮な点をどっと打ってすぐ筆を隠したような音が、余のじだたたいて去るあとで、余はつくづくと夜を長いものに観じた。

 もっとも夜は長くなる頃であった。暑さもしだいに過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思い切って朝からあわせを着るかしなければ、はださむを防ぐたよりとならなかった時節である。山の端に落ち込む日は、常の短かい日よりもなおの事短かく昼をはしおって、は容易にいた。そうしては中々明けなかった。余はじりじりと昼に食い入る夜長を夜ごとに恐れた。眼がくときっと夜であった。これから何時間ぐらいこうしてしんと夜の中に生きながらうずもっている事かと思うと、我ながらわが病気にえられなかった。新らしい天井と、新らしい柱と、新らしい障子を見つめるに堪えなかった。真白な絹に書いた大きな字のかけものには最も堪えなかった。ああ早く夜が明けてくれればいいのにと思った。

 修禅寺の太鼓はこの時にどんと鳴るのである。そうしてことさらに余を待ち遠しがらせるごとくまばらな間隔を取って、暗い夜をぽつりぽつりと縫い始める。それが五分とち七分と経つうちに、しだいに調子づいて、ついに夕立のあまだれよりもしげせまって来る変化は、余から云うともう日の出に間もないと云う報知であった。太鼓を打ち切ってしばらくののちに、看護婦がやっと起きてへやの廊下の所だけ雨戸を開けてくれるのは何よりも嬉しかった。外はいつでも薄暗く見えた。

 修善寺に行って、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい。その結果として余は今でも時々どんと云うよいんのないぶっ切ったような響を余の鼓膜の上に錯覚のごとく受ける。そうして一種云うべからざる心持を繰り返している。

夢繞星潢泫露幽。 夜分形影暗灯愁

旗亭病近修禅寺。 一榥疎鐘已九秋


三十[編集]

 山を分けて谷一面のゆりくまで眺めようと心にきめたあくるひから床の上にたおれた。想像はその時限りなく咲き続く白い花をごいしのように点々と見た。それをおぐらく包もうとする緑の奥には、重いが沈んで、風に揺られる折々を待つほどに、葉は息苦しく重なり合った。――この間宿の客が山から取って来てへいした一輪の白さと大きさとかおりから推して、余は有るまじき広々としたを頭の中に描いた。

 聖書にある野の百合とは今云うからしょうぶの事だと、その唐菖蒲を床に活けておいた時、始めてかいしゅうくんから教わって、それではまるで野の百合の感じが違うようだがと話し合ったひとつきまえも思い出された。聖書と関係の薄い余にさえ、ひおうぎを熱帯的にはでに仕立てたような唐菖蒲は、深い沈んだおもむきを表わすにはあまり強過ぎるとしか思われなかった。唐菖蒲はどうでもよい。余が想像に描いたかすかな花は、一輪も見る機会のないうちに立秋にった。百合はつゆと共にくだけた。

 人は病むもののために裏の山にって、ここかしこから手の届くいくくきの草花を折って来た。裏の山は余のへやから廊下伝いにすぐのぼたよりのあるくらい近かった。しょうじさえ明けておけば、寝ながらえんがわらんまの間をうずめる一部分を鼻の先にながめる事もできた。その一部分は岩と草と、岩のすそを縫うてうかいしてのぼこみちとから成り立っていた。余は余のために山にのぼるものの姿が、縁の高さを辞して欄間の高さに達するまでに、一遍影を隠して、また反対の位地から現われて、ついに余の視線のほかに没してしまうのを大いなる変化のごとくに眺めた。そうして同じ彼等の姿が再び欄間の上から曲折してくだって来るのをうとい眼で眺めた。彼らは必ずあらしまかしゆかたを着て、日の照る時はてぬぐいほおかむりをしていた。そばみちを行くべきものとも思われないその姿が、花をかかえて岩のそばにぬっと現われると、一種芝居にでも有りそうな感じを病人に与えるくらいつりあいがおかしかった。

 彼等のって来てくれるものは色彩のきわめて乏しい野生の秋草であった。

 ある日しんとした真昼に、長いすすきが畳に伏さるように活けてあったら、いつどこから来たとも知れないきりぎりすがたった一つ、おとなしく中ほどにとまっていた。その時薄は虫の重みでしないそうに見えた。そうしてふくろどに張った新らしい銀の上に映る幾分かの緑が、ぼかしたように淡くかつふぶんみょうに、ひとみを誘うので、なおさら運動の感覚をしげきした。

 薄は大概すぐちぢれた。比較的長く持つおみなえしさえ眺めるにはあまり色素が足りなかった。ようやく秋草のさみしさをものうく思い出した時、始めてしょっこうあおいとか云う燃えるような赤いはなびらを見た。留守居の婆さんにぜにをやって、もっと折らせろと云ったら、銭はりません、花は預かり物だから上げられませんと断わったそうである。余はその話を聞いて、どんな所に花が咲いていて、どんな婆さんがどんな顔をして花の番をしているか、見たくてたまらなかった。蜀紅葵のはなびらは燃えながら、あくるひ散ってしまった。

 かつらがわの岸伝いに行くといくらでも咲いていると云うコスモスも時々病室を照らした。コスモスはすべてのうちで最もたんかんでかつ長く持った。余はその薄くて規則正しい花片と、くうに浮んだように超然と取り合わぬ咲き具合とを見て、コスモスはひがしに似ていると評した。なぜですかと聞いたものがあった。のりよりはかもりの作ったと云う菊を分けて貰って来たのはそれからよほどのちの事である。墓守は鉢に植えた菊を貸して上げようかと云ったそうである。この墓守の顔も見たかった。しまいにははたけやましろあとからあけびと云うものを取って来てへいはさんだ。それは色のめたなすの色をしていた。そうしてその一つを鳥がつついてうつろにしていた。――瓶にす草と花がしだいに変るうちに気節はようやく深い秋にった。

日似三春永。 心随野水空

牀頭花一片。 閑落小眠中


三十一[編集]

 若い時兄を二人失った。二人とも長い間とこについていたから、死んだ時はいずれも苦しみ抜いたやまいの影を肉の上にきざんでいた。けれどもその長い間に延びた髪とひげは、死んだあとまでもうるしのように黒くかつ濃かった。髪はそれほどでもないが、る事のできないで不本意らしくじじむさそうに生えたひげに至っては、見るからあわれであった。余は一人の兄の太くたくましい髯の色をいまだに記憶している。死ぬ頃の彼の顔がいかにも気の毒なくらいおとろえてちいさく見えるのに引きえて、髯だけは健康な壮者をしのいきおいで延びて来た一種の対照を、気味悪くまたなさけなく感じたためでもあろう。

 大患にかかって生か死かと騒がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死とも片づかぬくうりに過ぎた。存亡の領域がやや明かになった頃、まずわが存在を確めたいと云う願から、とりあえず鏡を取ってわが顔を照らして見た。すると何年か前に世を去った兄のおもかげが、卒然として冷かな鏡の裏をかすめて去った。骨ばかり意地悪く高く残った頬、人間らしいあたたかみを失ったあおく黄色い皮、落ち込んで動く余裕のない眼、それから無遠慮に延びた髪と髯、――どう見ても兄の記念であった。

 ただ兄の髪と髯が死ぬまでうるしのように黒かったのにかかわらず、余のそれらにはいつの間にか銀の筋がまばらに交っていた。考えて見ると兄はしらがの生える前に死んだのである。死ぬとすればその方がいさぎよいかも知れない。白髪にびんや頬をぽつぽつ冒されながら、まだ生き延びるくふうに余念のない余は、今を盛りの年頃に容赦なく世を捨ててく壮者にくらべると、何だかきまりが悪いほど未練らしかった。鏡に映るわが表情のうちには、無論はかないと云う心持もあったが、そくなったと云うはじも少しは交っていた。また「ヴァージニバス・ピュエリスク」の中に、人はいくら年を取っても、少年の時と同じような性情を失わないものだと書いてあったのを、なるほどとうなずいて読んだ当時をおもい出して、ただその当時に立ち戻りたいような気もした。

「ヴァージニバス・ピュエリスク」の著者は、長い病苦に責められながらも、よくその快活の性情をしゅうえんまで持ち続けたから、うそは云わない男である。けれども惜しい事に髪の黒いうちに死んでしまった。もし彼が生きて六十七十の高齢に達したら、あるいはこうは云い切れなかったろうと思えば、思われない事もない。自分が二十の時、三十の人を見れば大変に懸隔があるように思いながら、いつか三十が来ると、二十の昔と同じ気分な事が分ったり、わが三十の時、四十の人に接すると、非常な差違を認めながら、四十に達して三十の過去をふり返れば、依然として同じ性情に活きつつある自己を悟ったりするので、スチーヴンソンの言葉ももっともと受けて、きょうまで世をたようなものの、外部からきざして来るろうたいの徴候を、いくけいかの白髪に認めて、健康の常時とは心意のおもむきことにするびょうりの鏡に臨んだせつなの感情には、若い影はさらにさなかったからである。

 白髪にいられて、思い切りよくおいの敷居をまたいでしまおうか、白髪を隠して、なお若いちまたはいかいしようか、――そこまでは鏡を見た瞬間には考えなかった。また考える必要のないまでに、病める余は若い人々を遠くに見た。病気にかかる前、ある友人と会食したら、その友人が短かくった余のもみあげを眺めて、そこから白髪におかされるのを苦にしてだんだん上の方へげるのではないかと聞いた。その時の余にはこう聞かれるだけの色気は充分あった。けれどもやまいかかった余は、しらがを看板にして事をしたいくらいまでにあきらめよく落ちついていた。

 病のえたこんにちの余は、病中の余を引き延ばした心に活きているのだろうか、または友人と食卓についたびょうきぜんの若さに立ち戻っているだろうか。はたしてスチーヴンソンの云った通りを歩く気だろうか、または中年に死んだ彼の言葉を否定してようやく老境に進むつもりだろうか。――白髪と人生の間に迷うものは若い人たちから見たらおかしいに違ない。けれども彼等若い人達にもやがて墓と浮世の間に立って去就を決しかねる時期が来るだろう。

桃花馬上少年時。 笑拠銀鞍払柳枝

緑水至今迢逓去。 月明来照鬢如糸


三十二[編集]

 初めはただばくぜんと空を見て寝ていた。それからしばらくしていつ帰れるのだろうと思い出した。ある時はすぐにも帰りたいような心持がした。けれども床の上に起き直る気力すらないものが、どうして汽車に揺られて半日の遠きを行くにえ得ようかと考えると、帰りたいと念ずる自分がかなり馬鹿気て見えた。したがってはたのものに自分はいつ帰れるかとただした事もなかった。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空はしだいに高くかつあおくわが上をおおい始めた。

 もう動かしても大事なかろうと云う頃になって、東京から別に二人の医者を迎えてその意見を確めたら、今二週間ののちにと云うあいさつであった。挨拶があったあくるひから余は自分の寝ている地と、寝ているへやを見捨るのが急に惜しくなった。約束の二週間がなるべくゆっくり廻転するようにとねがった。かつて英国にいた頃、せいいっぱい英国をにくんだ事がある。それはハイネが英国を悪んだごとくいんごうに英国を悪んだのである。けれども立つまぎわになって、知らぬ人間のうずを巻いて流れているロンドンの海を見渡したら、彼らを包むとびいろの空気の奥に、余の呼吸に適する一種のガスが含まれているような気がし出した。余は空を仰いで町のまなかたたずんだ。二週間の後この地を去るべき今の余も、病むからだよこたえて、とこの上にひとり佇ずまざるを得なかった。余は特に余のために造って貰った高さ一尺五寸ほどの偉大なわらぶとんに佇ずんだ。静かな庭のせきばくを破るこいの水を切る音に佇ずんだ。あさつゆれたやねがわらの上をおちこちと尾をうごかし歩くせきれいに佇ずんだ。枕元のかへいにも佇ずんだ。廊下のすぐ下をちょろちょろと流れる水のにも佇ずんだ。かくわが身をめぐる多くのものにていかいしつつ、予定の通り二週間の過ぎ去るのを待った。

 その二週間は待ち遠いはがゆさもなく、またあっけない不足もなく普通の二週間のごとくに来て、尋常の二週間のごとくに去った。そうして雨のもうもうと降る暁を最後の記念として与えた。暗い空をかして、余は雨かと聞いたら、人は雨だと答えた。

 人は余を運搬する目的をもって、一種妙なものをこしらえて、それを座敷のうちれた。長さは六尺もあったろう、幅はわずか二尺に足らないくらい狭かった。その一部は畳を離れて一尺ほどの高さまで上にかえるように工夫してあった。そうして全部を白いぬのいた。余は抱かれて、この高く反った前方に背を託して、平たい方に足を長く横たえた時、これは葬式だなと思った。生きたものに葬式と云う言葉は穏当でないが、この白い布で包んだねだいともねがんとも片のつかないものの上に横になった人は、生きながらとむらわれるとしか余には受け取れなかった。余は口の中で、第二の葬式と云う言葉をしきりに繰り返した。人の一度は必ずやって貰う葬式を、余だけはどうしても二へん執行しなければすまないと思ったからである。

 かれてへやを出るときはたいらであったが、はしごだんを降りるきわには、台が傾いて、急にこしから落ちそうになった。玄関に来ると同宿のよくかくが大勢並んで、左右から白い輿をもくそうしていた。いずれも葬式の時のように静かに控えていた。余の寝台はその間を通り抜けて、雨の降るひさしの外にかつぎ出された。外にも見物人はたくさんいた。やがて輿をたてに馬車の中に渡して、前後相対する席と席とで支えた。あらかじめ寸法を取ってこしらえたので、輿はきっしりとうまく馬車の中に納った。馬は降る中を動き出した。余は寝ながらほろを打つ雨の音を聞いた。そうして、ぎょしゃだいと幌の間に見える窮屈な空間から、大きな岩や、松や、水の断片をありがたく拝した。たけやぶの色、かきもみじいもの葉、むくげがき、熟した稲の、すべてを見るたびに、なるほど今はこんなものの有るべき季節であると、生れ返ったようにおもい出してはうれしがった。さらに進んでわが帰るべき所には、いかなる新らしい天地が、寝ぼけた古い記憶を蘇生せしむるために展開すべく待ち構えているだろうかと想像してひとり楽しんだ。同時にきのうまでていかいしたわらぶとんせきれいも秋草もこいも小河もことごとく消えてしまった。

万事休時一息回。 余生豈忍比残灰

風過古澗秋声起。 日落幽篁瞑色来

漫道山中三月滞。 詎知門外一天開

帰期勿後黄花節。 恐有羇魂夢旧苔


三十三[編集]

 正月を病院でした経験はしょうがいにたったいっぺんしかない。

 松飾りの影が眼先に散らつくほど暮が押しつまった頃、余は始めてこの珍らしい経験を目前に控えた自分を異様に考え出した。同時にそのかんがえが単に頭だけに働らいて、ごうも心臓の鼓動に響を伝えなかったのを不思議に思った。

 余は白いベッドの上に寝ては、自分と病院ときたるべき春とをかくのごとくいっしょに結びつける運命のすいきょうさ加減をねんごろにしょうりょうした。けれども起き直って机に向ったり、ぜんに着いたりする折は、もうここがわがいえだと云う気分に心をまかして少しも怪しまなかった。それで歳は暮れても春はせまっても別に感慨と云うほどのものは浮ばなかった。余はそれほど長く病院にいて、それほど親しく患者の生活に根をおろしたからである。

 いよいよおおみそかが来た時、余はさい松を二本買って、それを自分の病室の入口に立てようかと思った。しかし松を支えるためにくぎを打ち込んで美くしい柱にきずをつけるのも悪いと思ってやめにした。看護婦が表へ出て梅でも買って参りましょうと云うから買って貰う事にした。

 この看護婦はしゅぜんじ以来余が病院を出るまではんねんの間しじゅう余のそばに附き切りに附いていた女である。余はことさらに彼の本名を呼んでまちいいしこじょう町井石子嬢と云っていた。時々は間違えてみょうじと名前をてんどうして、石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首をかしげながらそう改めた方が好いようでございますねと云った。しまいには遠慮がなくなって、とうとういたちと云うあだなをつけてやった。ある時何かのついでに、時に御前の顔は何かに似ているよと云ったら、どうせろくなものに似ているのじゃございますまいと答えたので、およそ人間として何かに似ている以上は、まず動物にきまっている。ほかに似ようたって容易に似られる訳のものじゃないと言って聞かせると、そりゃ植物に似ちゃ大変ですとぜっきょうして以来、とうとう鼬ときまってしまったのである。

 鼬の町井さんはやがて紅白の梅を二枝げて帰って来た。白い方をぞうたくの竹のの前にして、あかい方は太いたけづつの中に投げ込んだなり、ふくろどの上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白いをしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、あしたはきっとおぞうにが祝えるに違ないと云って余を慰めた。

 じょやの夢は例年の通り枕の上に落ちた。こう云う大患にかかったあげく、病院の人となって幾つの月を重ねた末、雑煮までここで祝うのかと考えると、頭の中にはアイロニーと云うローマじが明らかにつづられて見える。それにもかかわらず、感にえぬおもむきは少しも胸を刺さずに、四十四年の春はおのずから南向の縁から明け放れた。そうして町井さんの予言の通りかたばかりとは云いながら、さいひときれもちが元日らしく病人のひとみに映じた。余はこの一椀の雑煮に自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小さな餅のきれを平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった。

 二月の末になって、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は医師のゆるしを得て、再び広い世界の人となった。ふり返って見ると、入院中に、余と運命のいっかくを同じくしながら、ついに広い世界を見る機会が来ないでくなった人は少なくない。あるほっこくの患者は入院以後病勢がしだいにつのるので、つきそいむすこが心配して、おおみそかになって、無理に郷里に連れて帰ったら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んでしまった。ひとま置いて隣りの人は自分で死期を自覚して、あきらめてしまえば死ぬと云う事は何でもないものだと云って、気の毒なほどおとなしい往生を遂げた。向うのはずれにいたかいようかんじゃの高いせきごとに薄らいで行くので、大方落ちついたのだろうと思って町井さんに尋ねて見ると、衰弱の結果いつの間にか死んでいた。そうかと思うと、がんで見込のない病人の癖に、から景気をつけて、回診の時に医師の顔を見るや否や、すぐ起き直ってしりまくるというのがあった。附添の女房をたりったりするので、女房が洗面所へ来て泣いているのを、看護婦がみかねて慰めていましたと町井さんが話した事も覚えている。あるしょくどうきょうさくの患者は病院にははいっているようなものの迷いに迷い抜いて、きゅうてんしを連れて来て灸をえたり、かいそうって来てせんじて飲んだりして、ひたすら不治のがんしょうなおそうとしていた。……

 余はこれらの人と、一つ屋根の下に寝て、一つまかないの給仕を受けて、同じく一つ春を迎えたのである。退院後一カ月こんにちになって、過去をひとつかみにして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語はますます鮮やかに頭の中にねんしゅつされる。そうしていつの間にかこのアイロニーに一種の実感が伴って、ふたつのものが互にてんめんして来た。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、ぞうにも、――あらゆる尋常の景趣はことごとく消えたのに、ただ当時の自分と今の自分との対照だけがはっきりと残るためだろうか。

この作品は1927年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。