怒れる神の御手の中にある罪人
― 申命記32章35節 彼らはその時すべる
主題聖句
[編集]この聖句で、邪悪で不信仰な民に対して、真の神の報復が近づいていることが示されています。この民は目に見える神の民であって、恵みの礼典の中に住み、主の力あるみわざを見ていたにも関わらず、思慮分別に欠けていました。神に育成されていた民が毒の実を結んでしまいました。
- すべりやすい場所にいたら、転ぶのは当然です。詩篇73:18「まことに主は彼らをすべりやすいところにおき、かれらを滅亡に陥れられます。」
- 滅びは突然です。詩篇73:19「主は彼らをすべりやすいところにおかれ、彼らは突然に滅ぼされます。」
- 誰かの手によらなくても、自分で倒れてしまいます。
- 彼らがまだ倒れていないのは、その時が来ていないからに過ぎません。
ここで語っているのは、人間はそのままでは滅びるしかないので、いま地獄に落ちていないのは、ただ神のみこころによると言う事です。
考察
[編集]さらに理由をのべます。
- 神様が人間を地獄に落とす力に不足なさることはありません。
- 人間が地獄に落とされるのは当然の報いです。
- 人間は地獄に落ちるという有罪宣告をすでに受けています。
- 人間はすでに地獄の苦しみにおいてあらわされている、神の怒りの対象となっています。
- 彼らは悪魔の所有物なので、神がその守りをやめてしまわれた時に、彼らを滅ぼすために悪魔は待機しています。
- 神を信じない人の魂には、地獄の因子があります。罪が抑制されないままになると、燃える地獄になります。
- すぐに死んでしまうような原因がないように見えても、神を信じない人にとって、安全地帯はありません。まだ回心していない人は、地獄の上にわたされた腐った板の上をあるいているようなものです。
- 生まれながらの人が努力しても安全を得るためには無駄です。
- キリストを信じないで、邪悪の中に留まっている人たちが、地獄に落ちないように努力しても、守られることはありません。でも人間は自分が地獄に落ちないと思っています。愚かな人間は自分の力、自分の知恵に対する幻想を持っています。
- 真の神は生まれながらの人間が地獄に落ちないようにする義務を持っていません。永遠のいのち、救いについて、キリストの恵みの契約以外に、約束はありません。キリストを信じるようになるまでは、その人が敬虔なふるまいをしたとしても、神にそういった人たちを永遠の地獄から保護する義務はありません。
生まれながらの人は、神の御手の中で地獄の上に吊り下げられています。地獄が彼らにふさわしく、地獄に落ちる有罪宣告はすでに出ています。神は激しく怒っておられるのであり、その神の怒りは現時点でよみで苦しんでいる人たちが受けている怒りと同等のものです。そして、彼らは神の怒りから逃れるために必要なことをしておらず、神にそういった人たちを支える義務はありません。悪魔が待機していて、地獄は彼らを呑みこむのを待っています。彼らをのみこむ炎が燃えています。人の中の火はあらわになろうとしています。彼らは仲保者を知らず、守るものはありません。逃れ場もなく、ささえる手すりもありません。いま彼らが地獄に落ちないようにしているのは、彼らに対して激しく怒っておられる神のみこころ、忍耐だけです。
適用
[編集]この主題は恐ろしいものですが、まだ回心していない人たちの目を開かせるためです。ここで語られたことは、キリストを信じていないすべての人に適用される問題です。
悲惨な世界の地獄の池は、あなた方のすぐそばにあります。神の怒りの燃える恐ろしい地獄が開いています。けれども、立っている場所も、身をささえる手すりもありません。地獄とあなたの間には空気しかないのです。ただ神の御心と御力によって、そこにまだ落ちていません。
これが現実のこととは思われないかもしれません。いま地獄にいないことを知っていても、それが神の御手によることを知りません。ふだんの健康や生活について考えています。しかし、それはささいなことに過ぎず、神が支えている御手をどかされると、あなたを支えるものはありません。
邪悪なあなたがたは重いので、そのまままっさかさまに地獄に向かいます。神が御手をのかされると、そこに落ちてしまいます。健康について思い、計画を立て、善良に振る舞っても、それはクモの巣が石の落下をとめられないように、地獄に落ちないようにすることはできません。神が保っておられなければ、地があなたを支えることはありません。地にとってあなたは重すぎて、被造物は苦しんでいます。被造物は堕落したあなたを嫌っていないわけではありません。
太陽は罪とサタンの奴隷であるあなたがたを照らしたくはなく、土地は罪の欲望を満足させるための実りを与えたくはないのです。空気は神の敵であるあなたに呼吸させたいわけではありません。神が創造なさったものはよいものであったので、本来は神に仕える人間のためのものですが、悪い事のために用いられるときは苦しむのです。神の御手がなければ、この世界はあなたを吐き出します。神の怒りが悪天候のように、近づいています。神がその嵐を制御されなくなれば、籾殻を吹き飛ばすように、あなたを吹き飛ばします。
神の怒りは、氾濫しそうになっている川のようです。その水かさがまして川が長時間せきとめられれば、その時間が長いほど、水の勢いは激しくなります。今まであなたの悪に対する裁きはまだとどめられていましたが、あなたはさらに罪に罪を重ねたので、神の怒りはましています。水かさはさらにましています。この水をおさえているのは神の御心にほかなりません。神がこれをおさえている御手をはなされた時、神の怒りの洪水があなたを直撃します。あなたにいくら力があって、仮に地獄の悪魔より強力な力を有していたとしても、これに耐えることなどできません。
神の怒りの矢が弦につけられ、弓は引かれ、裁きの矢があなたの心臓を的として狙っています。この矢があなたの血に酔わないようにしているのは、何の義務もないのに、それをとどめている怒れる神の御心だけです。罪に死んだ状態から、聖霊によって新しく生まれていない人は、すべて、怒れる神の御手の中にあります。よい生活を送って、宗教的な心をもって、家庭、自室、教会で宗教的な儀式を行なっても、いま永遠の地獄に落ちていないのは、それが神の御心だからです。
これが事実であると思えなくても、それを認めるしかなくなります。そのような状態で死んだ人たちが経験したことです。そのような人たちは、彼らが思ってもいないときに滅んでしまいました。平安だ、平安だ、と言っていた時に滅んでしまったのです。彼らが安全のためにとった行動は無駄でした。
蜘蛛や気持ち悪い虫を人間は嫌います。地獄の上にあなたを吊り下げておられる神も、あなたを嫌い、怒っておられます。神の怒りはあなたに向かって燃えています。神にとってあなたは地獄の火になげこまれるだけの存在なのです。聖なる神の目はあなたの悪を見るに耐えません。あなたは毒蛇のように忌まわしい存在です。反逆者が王を怒らせるよりも激しく、あなたは神を怒らせてしまいました。それでも、神の御手はあなたをまだ地獄に落としていません。あなたが昨日地獄に落ちずに、朝起きる事ができたのも、また、朝起きてからまだ地獄に落ちていないのも、神の御手です。教会に来ても神を怒らせている罪深いあなたが、今まだ地獄に落ちていない理由はそれだけです。
罪深い人よ!あなたが直面している恐ろしい危険について考えなさい。神の怒りの火の炉の上に、あなたは神の御手で吊り下げられています。神のはげしい怒りはすでに滅んだ人たちに対するのと同じように、あなたにも向かっています。あなたは細い糸で吊り下げられているようなもので、神の怒りの炎によって、その糸は切れそうです。しかし、あなたは仲保者を知ろうとせず、神の怒りからのがれるすべをもたず、あなたが赦され、神様に評価されるために必要な行ないはなにもありませんでした。
次にこのことを考えてください。
1. これは誰の怒りですか。無限の神の怒りです。最高権力者のものであっても、それが人間の怒りであれば気にしなくても良いかも知れません。専制君主は生殺与奪の権限を行使するので、その怒りは恐ろしい事があります。箴言20章2節に「王のいかりは獅子のほゆるがごとし、彼を怒らす者はおのれのいのちを害う」とあります。暴君を怒らせた家来は、人間が考えた拷問を受けるでしょう。しかしその地上の権力者がみいつをまとっていても、天地の創造主からすれば蛆虫に過ぎません。地上の権力者が怒っている時でも対応は難しいのです。それでも、すべての権力者は神の御前ではイナゴ、無に等しい存在、いやそれ以下であり、彼らのいだく愛も憎しみも嫌悪の対象です。偉大な威光をまとった王の王であられるお方の怒りは、地上の者らと比べものにならないほど恐ろしいのです。ルカ12:4-5「我が友たる汝らに告ぐ。身を殺して後に何をも爲し得ぬ者どもを懼るな。懼るべきものを汝らに示さん。殺したる後ゲヘナに投げ入るる權威ある者を懼れよ。われ汝らに告ぐ、げに之を懼れよ。」
2. あなたが直面しているのは、神の激しい怒りです。聖書には神の激しい怒りについて書いてあります。イザヤ59:18「かれらの作にしたがひて報をなし敵にむかひていかり仇にむかひて報をなし また島々にむくいをなし給はん」、イザヤ66:15「視よ主は火中にあらはれて來りたまふその 車輦ははやちのごとし 烈しき威勢をもてその怒をもらし火のほのほをもてその譴をほどこし給はん」、ヨハネが受けたキリストの啓示19:15「また自ら全能の神の烈しき怒の酒槽を踐みたまふ。」このみことばは、とても恐ろしいです。ただ「神の怒り」としか書かれていなくても、非常に恐ろしいことだったでしょうけれども、さらに「神の激しい怒り」と書かれてあります。神の激しい怒り、主の激しさ。おお、それは何と激烈なものでしょう。ここで表現されている意味を、ことばで説明し尽くすには限界があります。しかもここに、「全能の神の激しい怒り」と書かれています。はげしく怒った神が御力を行使される有様の表現です。その結果はどうですか。神の怒りを受けるあわれな虫けらは、どうなりますか。脱力しませんか。誰の心であっても、耐えることなどできないでしょう。その怒りを受ける人たちは、考えようもない苦しみに落とされるほかないのです。
ここにいる人で、聖霊によって新しく生まれていない人たちは、考えてください。神が怒りに燃えられるというこの意味は、あなたにあわれみもなく怒りを向けられるということです。神は永遠の暗闇に落ちて行くあなたに対して同情などなさいません。神は怒りをもって報い、それが軽減されることもなく、一切の手加減もあわれみもないのです。正義が要求する報いを公正に与えることの他に、あなたへの苦しみの耐えがたさを考慮されることはありません。
エゼキエル8:18「わたしはおしまず、あわれまない」とあります。しかし、いま現在はあわれみの時です。ただし、このあわれみの時が過ぎると、あなたが苦しんで叫んでも、無駄です。神に完全に捨てられます。神はただあなたに苦しみを与えるだけです。その理由は、あなたが滅ぼされるにふさわしい、怒りの器だからです。容器に例えられますが、あなたは神の怒りが満たされるために使用される容器だということです。
神は、あなたが苦しんで声を出すと、あわれむこともなく、ただ「笑い、あざける」(箴言1:26)のです。偉大な神のみことばは恐ろしいものです。「われ怒りによりてかれらをふみ、いきどおりによりてかれらを踏みにじりたれば、かれらの血わが衣にそそぎ、わが服飾をことごとく汚したり」(イザヤ63:3)これ以上に、人への侮蔑、憎悪、憤りの激しさをあらわした表現は考えることはできないでしょう。神に慈悲を求めても、神は悲しいあなたをあわれむことなく、踏みにじるだけなのです。全能の神はあなたが踏みつけられてその重荷に耐えられないのを十分にご承知の上で、あなたを踏みにじられます。神に踏み砕かれたあなたの血は飛び散り、神の衣は返り血で汚れてしまいます。神はあなたを憎み、軽蔑されます。あなたは泥と同じ存在であり、踏みつけられるにふさわしいのです。
3. あなたがたが直面する苦しみは、主なる神の怒りが示されるためです。神は御使いと人間に対して、その至高の愛と、すさまじい怒りを示されます。この世の王は怒らせた者に刑罰を与え、その怒りを示すことがあります。傲慢なネブカドネザルは、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対して怒ったとき、怒りを示すのを、ためらいませんでした。そのため彼らを投げ込む炉を、普段の7倍も熱く燃やすように命じました。その炉は人間の技術で熱くなりました。
偉大な神は恐るべき力で、神の敵が受ける極度の苦しみによって、神の怒りを示そうとしておられます。「もし神怒りをあらわし、その力をしめさんために、ほろびにそなわれる器を永くたえ忍ぶことをなしたまえば、いかならむ」(ローマ9:22)と書いてあります。主の心からの激しさ、怒り、憤りがどれほど恐ろしいかを示すことは、神の御旨なのですから、神はその通りなされます。見る者には恐ろしいことでしょう。