弘道館記 (愛誦集衍義)

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こうだうくわんき

こうだうとはなんぞ。よくみちひろむるなり。道とは何ぞ。てんちだいけいにして、せいみんしばらくはなべからざるものなり。弘道のくわんは、何のためまうくるや。うやしくおもんみるにじやうこしんせいきよくとうたまひ、天地くらゐし、ばんぶついくす。りくがふせうりんし、うだいとうぎよたまひしゆゑんのもの、未だかつの道にらずんばあらざるなり。ほうそ之を以てきはまく、こくたい之を以てそんげんに、そうせい之を以てあんねいに、ばんいじゆうてき之を以てしゆつぷくす。而してせいししんそんなほあへみづかれりとしたまはず、人に取りて以てぜんを爲すをたのしみ給へり。すなはせいどたうぐさんだいちけうの如き、りて以てくわうゆふたすけ給へり。ここに於てみちいよだいいよあきらかにしてまたくはふる無し。ちうせいいかうゐたんじやせつ民をひ世をまどはし、ぞくじゆきよくがくこれかれしたがひ、くわうくわりよういくわらんあひつぎ、だいだうあきらかならざるやけだまたひさし。我がとうせいぐうはつらんはんせいそんのうじやういまこと允にぶん、以てたいへいもとゐひらき、ゐこうじつほうとうどけ、つとやまとたけるのみことひとりをしたたてまつり、しんだうたふとぶびをさめ、ぎこうけいじゆつし、かつかんいせいはつし、さらじゆけうたふとび、りんあきらかにしたゞし以てこくかはんぺいたり。じらいひやくすうじうねんよゝゐしよけ、おんたくもくよくし、以て今日に至れり。則ちいやしくしんしたるもの、あに斯の道をすゐこうし、せんとくはつやうするゆゑんおもはざるけんや。これ則ちくわんまうけられゆゑんなり。そもそたけみかづちのかみまつれるは何ぞ。其のてんこうさうまいたすけ、ゐれいこのとゞむるを以て、其のはじめもとづき、其のもとむくい、民をしての道のつて來る所を知らしめんとほつすればなり。其のこうしべういとなめるは何ぞ。たうぐさんだいの道こゝせつちうせらるるを以て、其の德をうやまひ、其のをしへり、人をして斯の道のますだいに且あきらかなる、ぐうぜんにあらざるゆゑんを知らしめんとほつすればなり。あゝ我がこくちうしみんしゆくやおこたらず斯のくわんしゆつにふし、しんしうの道をほうせいどをしへり、ちうかうく、文武わかれず、がくもんじげふ其のかうことにせず、かみうやまじゆたふとへんたうある無く、しうしあつぐんりよくべ、以てこくかむきうおんほうぜば、則ち豈そそうこゝろざしちざるのみならんや、しんくわうざいてんれいも亦まさこうかんし給はんとす。斯の館をまうけ以て其のちけうぶる者は誰ぞ。ごんちうなごんじゆさんみみなもとのあそんなりあきなり。

 天保九年さいじつちのえいぬ春三月、なりあきせんぶんならびしよ及びてんがく

〔語釈〕[編集]

『弘道館』水戶藩主德川齊昭公が、藩內の士庶弟を敎育する爲に設立されたもので、弘道館記はこの學館設立の由來を、齊昭公が親ら筆を執つて書かれた文章である。弘道館公園內に八卦堂といふのがあつて、その中に公の親筆を刻した寒水石碑石が藏してある。

『弘道』論語の衞靈公篇に「人能弘道、非道弘人」と出てゐる。館名は之に原づいてつけたものである。乃ち道は天地開闢より存するものであるが、爾來幾千萬年、其の間、道に盛衰興亡があったが、之は皆當時の人に基づくものである。和氣淸麿一度出でて忠道天下に遍く、義公先倡して大義名分萬世に明かになつたことを思へば、道は人に依つて弘通することが明瞭である。

『大繼』經は常といふ意味で、恆久不變をいひ、天地の大道を指す。

『須臾も離る……』中庸に「道也者不須臾離、可離非道也」と出てゐる。人の生活する處には必ず道が伴なふものである。人が在れば親があり、兄弟があり、朋友がある。そこに孝道、友道、信義の道が自然に伴なつてくる。

『神聖』古事記の天御中主神、日本書紀の國常立尊以下の神祇をいふ。

『極を立て』極というのは至極の法で、天地の大經に基づいて、大法則を立てること。

『統を垂れ』道統を後世に傳へること。

『天地位し』位すといふのは其の處に安んするといふ意味。日月星辰の運行が其の度を失はず、風雨寒暑が其の度に合すること。

『萬物育す』民人及禽獸草木が各其の生を遂げ、育成すること。中庸に「中也者天下之大本山也。和也他者天下之達道也。致中和、天地位焉萬物育焉」と出てゐる。

『六合に照臨し』天下に君臨し給ふことで、六合とは天地四方をいう。

『宇內を統御す』天下を統御することで、尸子に「天地四方を宇といふ」と出てゐる。

『斯の道』上古神聖の立てられた道。

『寶祚』皇位。

『蒼生』民人。

『蠻夷戎狄……率服す』外國も相率ゐて服從する。三韓の朝貢、新羅王子及秦王の子孫が歸化した類を指す。支那では自國を中國と稱し、外國を方位に依つて東夷、西戎、南蠻、北狄と呼んでゐた。何れも之を賤んだ言葉である。

『聖子神係』御歷代の天皇。

『人に取りて……樂しむ』好んで他の善い處を取入れて己が資となすことを樂しみとした。孟子に『禹聞善言則拜。大舜有焉。善與人同。舍己從人、樂於人以爲善」と出てゐる。

『西土』支那。

『唐虞三代の治敎』唐は帝堯の姓、虞は帝舜の姓、三代は夏、殷、周の三朝をいふ。堯帝、舜帝、夏の禹王、殷の湯王、周の文王、武王、周公は何れも聖人で、此等の聖人の道を統合大成したのが孔子である。從つてここにいふ治敎とは孔子の敎と言つても儒敎といつてもよい。

『皇猷』天皇の御政治。猷は道又は謀の意。

『斯の道愈大に愈明かに』我が國の道は、元來日常行爲の間に自然に存してをつて、之に仁義忠孝友愛恭敬等の名義はついてゐない。儒道を取入れることになつて日常實踐の道に名義を結びつけ、且つ之を同化攝取して愈々宏大に愈々明瞭になつた。

『復た尙ふるなし』此の上につけ加へるものがない。

『中世以降』佛敎渡來以後をいふ。

『異端邪說』主として佛敎を指す。正しい道の外に別に一派を立てたものを異端と稱す。

『俗儒曲學』俗儒は大體に通ぜざる儒者、曲學は自信を枉げて人氣に阿ねる學者。

『此を舎て、彼に從ひ』正しい斯の道を捨てて、邪な異端に從ふ。

『陵夷』陵とは丘、夷とは平の意。丘陵が次第に平坦に歸するが如く、次第に衰頽するをいふ。

『東照宮』元和三年二月、朝廷、家康に東照大權現の神號を賜ひ、正保二年更に東照宮の號を賜ふ。

『撥亂反正』撥は治むる意、亂世を治め、正道に反す。

『尊王攘夷』尊王は供御の地を增し、皇居を造營申上げた類をいひ、攘夷は耶蘇敎を禁止したことを指す。

『吾が祖威公』水戶藩祖德川賴房。七歲の時水戶に封ぜらる。

『日本武尊の人と爲りを慕ひ』水戶領は往古日本武尊の餘烈の遍き所であると共に、尊を祭る吉田神社と水戶城とは千波湖を距てて相對してをるので、特に欽慕の情を深くしたものである。

『義公繼述し』義公光圀公は父の志を繼ぎ、父の事業をうけ廣めた。

『嘗て感を夷齊に發し』伯夷と叔齊は孤竹君の子で、父歿して後、兄弟互に國を讓つた美談がある。又、周の武王が殷の紂王を討つて當つては面を犯して利臣父子の大道を疾呼した。義公十八歲の時史記の伯夷傳を讀んで、其の高義と情義を欽慕した。

『倫を明かにし、名を正し』人倫長幼の序を明かにし、君臣上下の名分を正した。

『藩屛たり』藩はまがき、屛は家の外廓を守るもの、國家の守護となる意。

『建御雷神』武甕槌神とも書く、建御雷神は經津主神と共に天照大神の勅命を奉じて出雲に下り、大國主命をして國土を讓らしめ、尙命に從はさる諸神を驅除して、葦原中國を平定した。かくして天孫の御降臨となつたのである。

『天功を草昧に亮け』天祖の御事業を開闢の古に輔けた。草とは創、昧とは冥の意で、草創の際は恰かも冥昧の時の樣であるとの意味で大初の義となる。

『威靈を茲の土に……』鹿島神宮として祭られてゐること。

『其の始めに…….報ゆ』鹿島の神を祭りて、斯の道が何れに本づくか――乃ち天祖天照大神に淵源することを想見すると共に其の本に報い奉る意圖である。弘道館記述義に「參諸西土之禮、則天子始祖、非諸侯所祭。然則祀當時佐命之神、以寓報本之義、不亦善乎。今夫、中國之地、邪神避跡、妖鬼隱形、百姓萬民水浴皇化者、實建御雷神之賜、而推其本則無天祖之靈。故曰、原其始、報其本、使民知斯道所縣來也。」と出てゐる。

『折衷』折は定める、衷は心の意で、彼と此とを參酌して、其の中庸を定めること。聖神の道は上古より固有してをるけれども、應神天皇以來、彼の唐虞三代の道を取入れて、我が道を充實發展させたものである。

『偶然にあらざる所以……』固有の聖神の道に儒敎を攝取した、即ち人に取つて以て善を爲すの心掛で進んだ爲に、斯の道が愈々大に且つ明かになつたものである。

『夙夜』朝早くから夜おそくまで。

『神州の道』我が國固有の聖神の道。

『西土の敎』唐虞三代の敎で、儒敎を指す。

『忠孝二无く』忠と孝とは途を異にするけれども、歸する所は同じい。父に對しては孝と名づけ、君に對しては忠と呼ぶが、我が誠を盡す點については全く同一である。又君に事へて大義を全うすることは親に孝なる所以であつて、親を養ひ其の風敎を助けることは君に忠なる所以となるもので、忠と孝とは其の本は不二一體を爲すものである。

『文武岐れず』文武を兼修すること。岐は路の二つに分れる所をいふ。

『學問事業……』學問は道を知る途で、事業は道を行ふことである。道を會得しても之を行はなければ我にも人にも寸益がない、又道を知らないで行ふ時は往々過誤に陷るものである。であるから學問と事業とは相依り相應じて之が效を擧げなければならぬものである。

『偏黨あることなく』好む所に片寄らぬ。

『降鑑し給はん』天に在る皇祖の神靈も天降りしてみそなはし遊ばすであらう。

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