尼港事件の顛末

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尼港事件の顛末[編集]

ウエリスター

日本全国は、ニ港事件の真相につき国論沸騰しつゝあり。死者する追悼会は各所に催され総ての新聞紙は此の不幸なる出来事の報道及び論説を以て満たされをれり。
事実此のニ港悲劇範圍甚大なり。六百人以上の日本人(その内には婦人も子供も混じをれり)は何の理由もなしに只血を見るに急なり悪魔の手にかゝりて虐殺されたり、此の苦しき瞬時に於て日本国民は苦しき思を胸に秘めて殪れたり総ての露国愛国者此等々にして同情禁ずる能はざると同時にパルチザンが此上もなき野蛮なる手段を以て露人を二千名迄もニ港に於て鏖殺したる露人日本人死屍はれり、吾等は復讐の日あるを祈れり、しかもそが不可能に終るなからんかを憂ふるものなり、国民的義憤に対する深き同情の外に露人吾々は尚日本人の前に何者が此の三月の虐殺の責任者たるやを説明せんと欲するものなり。
ニ港事件の道徳的責任者、そは過激派なり彼等は権力を奪ひて露人を支配せり。
他の階級に対して国民の一階級の市街戦に於て左の如き合言葉を以て国民破壊に著手せり
『他階級の有する全てのものを破壊せよ、汝に同意せざる者は全て殺戮せよ、法令道徳の羈絆より脱せよ、而して汝は自由の名の下に全ての行動をなせ』
斯くの如き合ひ言葉の下に過激派は露国民に毒殺を試み正義人道滅廃を敢てしたり、而し覚めたる露国民が過激派に面を背けたる時は彼は既に過激派の鉄鎖内に自己を見出したり、而して過激派は無政府主義にて麻痺し万物破壊突進する全ての人口の群を自己の身辺に集めたり。
ニ港に於ける虐殺の直接の責任者パルチザンは斯くの如き人々なりし也。
パルチザン──には決して露国々民にあらず、寧ろ吾々の仇敵也、彼等は知識階級の死と認めたる、黒旗を持つてニ港に現はれたる也、過激派は露国の各處にその主義を播布せんが為め各所随処に破壊合語標榜せり、彼等は新しき奉仕に服従するを潔しとせざる露国知識階級に擬するに兇悪なる打撃を以てせり。
ニ港事件は単に全露を赤血化したる過激革命の戦慄すべき歴史の一頁に過ぎず、露国々民は自由がれたる日本人れざざるべし、暗雲散じて露国に復活の曙光現はれるに至らば露国の子孫は故国の破壊者と戦ひて犠牲を出したる日本に対して深く感謝するに至るべし。

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。