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奴児干永寧寺二碑補考

 
オープンアクセスNDLJP:288 奴児干永寧寺記碑 (表面)竪三尺三寸六分横一尺五寸三分

オープンアクセスNDLJP:289 オープンアクセスNDLJP:290  奴児干永寧寺記碑(背面及側面) 側面幅八寸

  背面は女直文及び蒙古文

  側面は漢、蒙古、西蔵、女直四体文

オープンアクセスNDLJP:291 オープンアクセスNDLJP:292  重建永寧寺記碑 竪三尺九寸横二尺三寸

オープンアクセスNDLJP:293 オープンアクセスNDLJP:294 

 
奴児干永寧寺二碑補考
 
 今先づ二碑の全文を補訂すること左の如し
 
勅修奴児干永寧寺碑記
 

 伏聞天之徳高明故能覆転地之徳博厚故能持載聖人之徳神聖故能悦近而服遠博施而済衆洪惟我」朝統一以来天下太平五十年矣九夷八蛮□山航海駢肩接踵稽類於」国庭之下者□莫枚挙惟東北奴児干国道在三訳之表其民曰吉列迷及諸種野人雑居焉皆□□慕化未能自至况其地不生五穀不産布帛畜養惟狗或野」 □□□□□□□□□物□以捕魚為業食肉而衣皮如弓矢諸般衣食之艱不勝為言是以」□法女直国□□□恐□□□矣」□□而未善永楽九年春特遣内官亦失哈等率官軍一千余人巨船二十五艘復至其国開設奴児干都司□遼金時□□故業 □□□□□□今日復見而」□矣□上□朝□□□都司□余人」□□□印信□□衣服□□布鈔□□而□依土立与□□収集□部人民使之自相統属十年冬」□命中オープンアクセスNDLJP:295 官亦失哈等載至其国□海西抵奴児干及海外苦夷諸民賜男婦以衣服噐用給以穀米宴以酒食□□□懽忻無一人梗化不率者」□□□□□□択地而建□柔化斯民使知敬順」□□□相□之□十一年秋卜奴児干西有站満涇站之左山高而秀麗先是已建観音堂於其上今造寺塑仏形勢□雅粲然可観国之老幼遠近済々争趨」 □□高□□□□□威□永無属疫而安□矣既而曰亘古以来未聞若斯」朝」民之□ □□上忻下至吾子々孫々臣服永無□意矣以斯観之万方之外率土之民不飢不寒歓□感戴難矣尭舜之治大□□□不過九州之内今我」□□□□□□□□□蛮夷戎秋不仮兵威莫不朝貢内属中庸曰天之所覆地之所載日月所照霜露所墜凢有血気者莫不尊親故曰配天正謂我」朝□□□誠無息与天同体□無尚也□盛□ 故為文以記庶万年不朽云爾

永薬十一年九月□□日

張童児 張定安 鎮国将軍都指揮同知張旺」撫総正千戸王迷失帖 王木哈里 □□衛指揮失禿魯苦 弟禿花哈 妻叭麻」 指揮 徹里  □□ 王謹 弗提衛指揮僉事禿称哈 母小彦 男弗提衛千戸納蘭 〈以下不明〉」千戸 呉者因帖木児 奪□ 馬兀良哈 朱誠 王五十六 □□  黄武 王□君 □〈以下不明〉」 百戸高中 劉官永奴 孫□ □得試 奴 □□ 李敬 劉賽因不花 傅□ □□里帖木□ 韓□ 張甫 金□  □原 高遷 葉勝 〈以下不明〉」 趙鎖古奴 王官音保 王阿哈納 崔□ 鬼三 □□ 康速合 阿卜哈 哈赤白 李道安 □道 閏□  総旗李速右〈以下不明〉」 所鎮撫王溥 戴得賢 宋不花 王速不哈 李海赤 高歹都 李均美 都事席□ 医士陳恭 郭口 総吏黄顕 費□」 監造千戸金双頂 撰碑記行人銅台那枢 書丹寧憲 書蒙古字阿魯不花 書女直字康□ 鑚字匠羅泰安」来降快活城安楽州千戸王児卜 木答兀 卜里哈衛鎮撫阿可里 阿剌卜 百戸阿剌帖木□納 所鎮撫 賽因塔 把禿不花 付里住火羅孫」 自在州千戸□剌□哈弗□的 阿里哥出 百戸満禿 木匠作頭石不哥児 金卯白 掲英 粧塑匠方善慶 宋福 漆匠李八回」□匠 昔三児 史信郎 焼磚瓦窰匠総旗熊閏  軍人 張豬弟 泥水匠王六十 張察罕帖木」都指揮同知康旺オープンアクセスNDLJP:296 都指揮僉事王肇舟 佟答剌哈 経歴 劉興 吏劉妙勝

 
重建永寧寺
 

 □天之高覆四時行万物生焉地之厚載二気合万物育焉□人之至徳五常明万姓帰焉□故□□仁昭而□」□□所化□無為而治□□□□□者恭惟我」朝布徳□ □□而逾明□□□□□□久矣□□蛮夷戎狄聞風□□而朝□貢者絡繹不絶惟奴児干国□□」□之表道□余里人有□□□野人吉列迷苦夷□重訳莫暁其言非威□□□其心非□舟□□其地□□□」□□其居風俗之□弗能備述洪武間遣使至其国而未通永楽中」上命内官亦失哈□□□□大航五至其国撫諭□□設奴児干都司其官□□□斯民□□□捕海青方物朝貢」上嘉其来服□給賞□□遠之 朝廷□□□□□命□使柔化之十一年秋択地満淫之左扨」寺国民所観□□□曰 □□亘古以来未有□此□□也宣徳初復遣太監亦失哈部衆再至〈以下不明〉」聖天子与」天同躰明如日月□徳之□□□□□□□之其民□服且整帰 仏寺大会而還七年」上命太監亦失哈同都指揮康政率官軍二千巨紅五十□至民皆如故独永寧寺 □□基址有焉究□□其□人」吉列□□□者皆悚惧戦慄憂之以戮而太監亦失哈等躰」皇上好生□逸之意深加□□斯民謁□□宴以酒食□□□愈撫□於是人無老少踴躍歓忻成噴々曰」天朝有□□之居乃有啓処之方我属無患矣時从□□□ □□□敢不優□遂委官重造合工塑仏不費而□」華麗典雅復勝於先国人無遠近皆来頓首□曰我等臣服□無疑矣以斯観之此我」聖朝□□□□道高尭舜存心於天下加意於□民使八□四裔□士万姓無一飢寒者其太監亦失哈都指揮康」政□ 能□仁厚徳政治普化□□□夷□□□□偉歟懋哉正□聖主布徳施恵非求報於百姓也郊望稀嘗非」求報於鬼神也山致其高雲雨起焉水致其深蛟龍生焉君子致其道徳而福禄帰焉是故有陰徳必有陽報有」隠行必有昭名此之謂也故為文記万世不朽云」

 大明宣徳八年癸丑歳季春朔日立」

 欽差都知監太監亦失哈 御馬監左少監三金内官范桂 □□ 阮落 □藍  阮通 給事中□旦」

オープンアクセスNDLJP:297 

遼東都司都指揮康政 指揮高勗 崔源 高□李□〈以下不明〉

金宝 金□ 崔越 〈以下不明〉

高□ □□ 馬旺 黄督 馬□〈中間不明〉 医士□□〈以下不明〉

□□ 王□ □□ □春 陸□〈以下不明〉

海西□□等衛指揮 木答兀哈 弗家奴 李希塔 木兀花□ □□□ 剌木兀哈〈以下不明〉

〈以上不明〉 周□ □□ 金海 王全 □□ 羣英□□ 通事百戸康安 書丹□□張兟」

画匠□升 孫義 木匠 □成 石匠 □□ 余海 泥水匠□□ 鉄匠雷遇春〈以下不要〉

□□□都指揮康福 王肇舟 佟勝 経歴孫□ 吏劉観」

 永楽碑記の釈読に就きては、照像三種、拓本二種に、吉林通志金石志、石沢発身氏 〈今の大倉発身氏〉の「白山黒水」〈明治三十三年十一月発行〉を参攷したり。碑中に見えたる行人那枢に就きては、殊域周咨録の外にも、使職文献通編 〈殊域固杏録と同じく明の行人司行人魁従簡が嘉靖中に撰せる所なり〉巻之七使範篇に伝あり。

那枢字九成畿内長垣人。徳行文学。倶為後生尊仰。洪武初。以明経任行人。前後三使奴児干。嘗卻吉烈迷国女色。発開元人遺布。同使知県張斌病且卒。知枢正大。持白金百両。托寄妻子。枢帰。悉還之。有詩文行於世。

と見えたり。其の外編東北夷女直篇に見えたる紀事は、大抵殊域周咨録と同じ。又東夷考略には、

永楽元年。遣行人那枢招諭奴児干諸部野人酋長来朝。因悉境附。九年春。遣中使治巨艦。勒水軍江上。召集諸会長。縻以官賞。於是康旺、佟答剌哈、王肇州、瑣勝哥四会率衆降。始設奴児干都司。自開原東北至松花江以西。先後置建州、毛憐、塔山等衛一百八十四。兀者等所二十。官其曽為都督、都指揮、指揮千百戸、鎮撫。賜勅印。各分部。復置站、地面各七、寨一。不領于衛所。令歳以冬月従開原入朝貢。唯野人女直僻遠。無常期。諸部願内附者。開原設安楽州。遼陽設自在州処之。

とあるは、記事率ね碑文と合して、尤も参攷すべきに足り更に「近獲の二三史料」に出したる阿什哈達磨崖と合観せば、因て以て明初東北経略の迹を窺ひ知るべし。考オープンアクセスNDLJP:298 略に中使とあるは即ち亦失哈のことをいへるなるべく、阿什哈達磨崖は、亦吉林が当時造船発軍の要地にして、後世まで地名を船廠と称せられし由来を徴すべき者なり。又王肇州は碑文に王肇舟に作れども、同一人なること勿論にして、考略の瑣勝哥のみは碑に見えず。康旺以下四人の事に就きては、清朝乾隆官撰の八旗満洲氏族通譜巻之十九、馬察地方佟佳氏の条下に、

按佟佳氏初巴虎特克慎生七子。長曰屯図墨図。次曰達爾漢図墨図。三日顔図墨図。四曰揚嘉図墨図。五曰坦図墨図。六曰額赫礼図墨図。七曰噶爾漢図墨図。

とあり、其の巻之二十、佟佳地方佟佳氏の条下には

佟養正鍍黄旗人。世居佟佳地方。其祖逹爾漢図墨図於明時同東旺、王肇州、索勝格等、往来近辺貿易。遂寓居於開原。継遷撫順。

とあれば、この佟佳氏の達爾漢図墨図は即ち碑文の佟答剌哈〈明訳の答剌哈は清訳の達爾漢と対音同じ〉にして、満洲の著姓として清初に帰順したる佟養正、佟養性等の祖先なることを知る。氏族通譜には考略の康旺を東旺〈通譜の満文にもdung wangとあれば、偶然の写訛にはあらず。〉に作り、瑣勝哥を索勝格に作れり。但し康氏は明初女直の著姓なれば、通譜の東氏とせるは誤伝なること勿論なり。

 重建碑記は照像三種、拓本一種及び吉林通志金石志に拠りて釈読したり。文中、五至其国といひ、又一旦衰廃に帰せし永寧寺を再建せしことも見ゆれば、此時までは明の威令の東北荒陲に及びしこと疑ふべくもあらず。

 余は又明実録に就て、太宗、宣宗二朝の記事、奴児干に関する者を抄出せるに、頗る都司設立並びに碑中の人物に関する始末を詳らかにするを得たり。即ち左に其文を遂録す。文中圏点を附したるは直接に碑文に関係ある事項にして、宣徳七年五月の一項のみは、阿什哈達磨崖に関係ある者なり。

永楽二年二月〈壬申朔〉癸酉。忽剌温等処女直野人頭目把剌答哈来朝。置奴児干衛。以把剌答哈、阿剌孫等四人為指揮同知。古驢等為千戸所鎮撫。賜誥印冠帯襲衣及鈔幣有差。

七年三月〈甲辰朔〉癸已。奴児干韃靼頭目忽剌冬奴等六十五人来朝。置伏里其、乞勒尼二衛、敷答河千戸所。命忽剌冬奴等為指揮千百戸。賜誥印冠帯襲衣及鈔オープンアクセスNDLJP:299 幣有差。

閏四月〈癸卯朔〉己酉。設奴児干都指揮使司。初頭目忽剌冬奴等来朝。已立衛。至是復奏其地術要。宜立元帥府。故置都司。以東寧衛指揮康旺為都指揮同知。千戸王肇舟等為都指揮僉事。統属其衆。歳貢海青貂皮等物。仍設狗站逓送。

六月〈壬寅朔〉己未。置奴児干指揮使司経歴司経歴一員

十二年閏九月〈辛丑朔〉壬子。命遼東都司。以兵三百往〈奴児干都司〉護印。先嘗与兵二百。至是都指揮同知康旺請益。故有是命。且勅旺踰二年遣還。

宣徳三年正月〈甲申朔〉庚寅。命〈都指揮康旺〉〈王肇舟〉〈佟答剌哈〉往奴児干之地建立奴児干都指揮使司。并賜都司銀印一、経歴司銅印一。

六年六月〈癸巳朔〉癸丑。命都指揮同知佟答剌哈姪勝襲為都指揮僉事。佟答剌哈永楽中在辺多効労勤。陞奴児干都司都指揮僉事。後陞都指揮同知。于三万衛帯支百戸俸而卒。勝告襲。行在兵部言都指揮流官不応襲上曰懐撫遠人勿拘常例。特命襲都指揮僉事。仍食百戸俸。

七年五月〈戊午朔〉丙寅。以松花江造船軍士多未還。勅海西地面都指揮塔失納答、野人指揮頭目葛郎哥納等。曰比遣中官亦失哈等往使奴児干等処令都指揮劉清領軍松花江造船運粮。今各官還朝。而軍士未還者五百余人。朕以爾等帰心朝廷。野人女直亦遵法度。未必誘引蔵匿。勅至即為尋究。遣人送遼東総兵官処。庶見爾等帰向之誠。

八年七月〈壬子朔〉壬申。奴児干都司故都指揮同知佟答剌哈妻王氏来朝。貢馬及方物。

八月〈辛巳朔〉壬辰。亦麻河等衛野人指揮僉事抄剌你、奴児干弗朶河等衛野人指揮同知必里加答等来朝。貢方物。

甲午。奴児干都司都指揮同知康福等貢馬弗提衛女直指揮同知仏家奴等十七人従中官亦失哈往奴児干還。貢方物。賜之綵幣表裏絹布有差。

戊戌。賜奴児干都司故都指揮同知佟答剌哈妻王氏等、亦麻河衛野人指揮僉事

抄剌你等、弗朶河衛野人指揮同知必里加答等、鈔綵幣絹布及紵糸襲衣絹衣有差。庚子。兀世右等衛指揮同知忽失禿等来朝。貢方物。

オープンアクセスNDLJP:300 己酉。賜奴児干都司都指揮同知康福、兀世右衛指揮同知忽失禿等鈔繰幣絹布及紵糸襲衣有差。

閏八月辛亥朔乙亥。奴児干喜申衛吉列迷車卜来朝。奏願居遼東東寧衛。命為百戸。賜金織襲衣鈔布。仍命遼東都司給房屋器物如例。

己卯。以奴児干都司都指揮同知王肇舟老疾命其子貴襲為都指揮僉事。食副千戸俸。肇舟初自副千戸陞都指揮。貴屢使奴児干之地。諳其土俗。至是衆請以貴代肇舟。従之。

楊賔の柳辺紀略にも、以上諸項の大部分を引用して、奴児干都司の注としたるが、紀略には更に左の一項あり。

宣徳八年八月。以都指揮使康旺之孫康禄。襲為都指揮同知。

紀略の引用には、日を書せざれども、其の甲午(十四日)以前に在るべきは明らかなり。尤も昭代叢書本の紀略には康旺を康班に作れるが、其の訛字たること疑なく、又康禄も康福の訛なるべし。

 亦失哈以下、宦官の官名は重建碑に至りて詳載せられたり。都知監は明史職官志、王弇州別集中官考等によるに、宦官十二監の一にして、各監の行移関知勘合の事を掌るといへば、内官中にて文字ある者の任ぜらるゝ職なり。御馬監も十二監の一にして、其下に騰驤四衛営等あり。凡そ十二監には各太監ありて正四品たり、左右少監ありて従四品たりしなり。御馬監は洪武二十八年の置く所にして、都知監は同三十年の置く所なり。

 其他碑中に見えたる官職は、東夷考略に述べたる所にて粗ぼ明らかなるも、指揮僉事、都事、経歴、総旗等は考略に載せざれば、左に明史職官志に拠りて少しく記すべし。

 明代の地方官は布政司、按察司の外に都指揮使司ありて、前者は治民の官にして、後者は治軍の官なり、朝廷の吉凶等に表箋を上る時は、都司は布按二司の上に序でられたり。軍と民とは戸籍よりして区別せられ、軍官軍人は都司の管轄に帰せり、永楽碑中、軍人とあるは、即ち軍籍の人をいへるなり。都司の官は

都指揮使一人〈正二品〉都指揮同知二人〈従二品〉都指揮僉事四人〈正三品〉

にして其属には

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経歴司経歴〈正六品〉都事〈正七品〉文移を典る

断事司断事〈正六品〉副断事〈正七品〉刑獄を理む

二司には各吏目一人あり

又衛指揮使司ありて

指揮使一人〈正三品〉指揮同知二人〈従三品〉指揮僉事四人〈正四品〉鎮撫司鎮撫二人〈従五品〉

其の属には経歴〈従七品〉知事〈正八品〉吏目〈従九品〉あり

所には千戸所、百戸所あり、千戸所には、

所正千戸一人正五品副千戸二人従五品鎮撫二人従六品其属に吏目あり

かくて百戸所十を轄し、

百戸十人正六品総旗二十人、小旗百人

等の官之に属したり。遼東都司に於ては都指揮使以下、皆女直著姓を以て之に任じ、頗る之を優遇せしことは、明実録及び此の二碑によりて明らかに、特に康、佟、王三氏の如きは、其の職を世襲し得る特典を与へられしなり。

(昭和四年六月記)

 
 

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