太平記/巻第十八

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巻第十八

160 先帝潜幸芳野事

主上は重祚の御事相違候はじと、尊氏卿様々被申たりし偽の詞を御憑有て、自山門還幸成しか共、元来謀り進せん為なりしかば、花山院の故宮に被押篭させ給、宸襟を蕭颯たる寂寞の中に悩さる。霜に響く遠寺の鐘に御枕を欹て、楓橋の夜泊に、御哀を副られ、梢に余る北山の雪に御簾を撥ては、梁園の昔の御遊に御涙を催さる。紅顔花の如なりし三千の宮女も、一朝の嵐に誘引て、何地ともなく成しかば、夜のをとゞに入せ給ても、夢より外の昔もなし。紫宸に星を列し百司の老臣も満天の雲に被掩、参仕る人独もなければ、天下の事如何に成ぬ覧と、可被尋聞召便もなし。「抑朕が不徳何事なれば、か程に仏神にも放たれ奉て、逆臣の為に被犯覧。」と、旧業の程浅猿く、此世中も憑少く被思召ければ、寛平の遠き迹をも尋ね、花山の近き例をも追ばやと思召立せ給ける処に、刑部大輔景繁武家の許を得て、只一人伺候したりけるが、勾当内侍を以て潜に奏聞申けるは、「越前の金崎の合戦に、寄手毎度打負候なる間、加賀国・剣・白山の衆徒等御方に参り、富樫介が篭て候那多の城を責落して金崎の後攻を仕らんと企候なる。是を聞て、還幸の時供奉仕て京都へ罷上候し菊池掃部助武俊・日吉加賀法眼以下、皆己が国々へ逃下て義兵を挙、国中を打順へて候なる間、天下の反覆遠からじと、謳歌説満耳に候。急ぎ近日の間に、夜に紛れて大和の方へ臨幸成候て、吉野・十津川の辺に皇居を被定、諸国へ綸旨を被成下、義貞が忠心をも助られ、皇統の聖化を被耀候へかし。」と、委細にぞ申入たりける。主上事の様を具に被聞召、さては天下の武士猶帝徳を慕ふ者多かりけり。是天照太神の、景繁が心に入替せ給て、被示者也と被思召ければ、「明夜必寮の御馬を用意して、東の小門の辺に相待べし。」とぞ被仰出ける。相図の刻限にも成ければ、三種の神器をば、新勾当内侍に被持て、童部の蹈開たる築地の崩より、女房の姿にて忍出させ給ふ。景繁兼てより用意したる事なれば、主上をば寮の御馬に舁乗せ進せ、三種神器を自荷担して、未夜の中に大和路に懸て、梨間宿までぞ落し進せける。白昼に南都を如此にて通らせ給はゞ、人の怪め申事もこそあれとて、主上をば怪げなる張輿に召替させ進て、供奉の上北面共を輿舁になし、三種の神器をば足付たる行器に入て、物詣する人の破篭なんど入て持せたる様に見せて、景繁夫に成て是を持つ。何れも皆習はぬ態なれば、急ぐとすれども行やらで、其日の暮程に内山までぞ著せ給ける。此までも若敵の追蒐進らする事もや有んずらんと安き心も無りければ、今夜如何にもして吉野辺まで成進せんとて、此より寮の御馬を進せたれ共、八月二十八日の夜の事なれば道最暗して可行様も無りける処に、俄に春日山の上より金峯山の嶺まで、光物飛渡る勢ひに見へて、松明の如くなる光終夜天を耀し地を照しける間、行路分明に見へて程なく夜の曙に、大和国賀名生と云所へぞ落著せ給ける。此所の有様、里遠して人烟幽に山深して鳥の声も稀也。柴と云物をかこいて家とし、芋野老を堀て渡世許なれば皇居に可成所もなく、供御に備べき其儲も難尋。角ては如何可有なれば、吉野の大衆を語ひて君を入進せんと思て、景繁則吉野へ行向ひ、当寺の宿老吉水の法印に此由を申ければ、満山の衆徒を語ひ蔵王堂に集会して僉儀しけるは、「古へ清美原の天皇、大友の皇子に被襲、此所に幸成しも、無程天下泰平を被致。其先蹤に付て今仙蹕を被促事、衆徒何ぞ異儀に可及乎。就中昨夜の光物臨幸の道を照す。是然当山の鎮守蔵王権現・小守・勝手大明神、三種の神器を擁護し万乗の聖主を鎮衛し給ふ瑞光也。暫くも不可有猶予。」とて、若大衆三百余人、皆甲冑を帯して御迎にぞ参りける。此外楠帯刀正行・和田次郎・真木定観・三輪の西阿、紀伊国には、恩地・牲河・貴志・湯浅、五百騎・三百騎、引も切らず面々馳参ける間、雲霞の勢を腰輿の前後に囲ませて、無程吉野へ臨幸なる。春雷一たび動く時、蟄虫萌蘇する心地して、聖運忽に開けて、功臣既に顕れぬと、人皆歓喜の思をなす。


161 高野与根来不和事

先帝花山院を忍出させ玉て吉野に潜幸成りしかば、近国の軍勢は申に不及、諸寺・諸社の衆徒・神官に至まで、皆王化に随て、或は軍用を支へ、或は御祷を致しけるに、根来の大衆は一人も吉野へ参〔ら〕ず。是は必しも武家を贔負して、公家を背申には非ず。此君高野山を御崇敬有て、方々の所領を被寄、様々の御立願有と聞て、偏執の心を挿ける故也。抑為釈門徒者は、以柔和宗とし以忍辱衣とする事にてこそあるに、根来と高野と、依何事是程迄に霍執の心をば結ぶぞと、事の起りを尋ぬれば、中比高野伝法院に、覚鑁とて一人の上人御坐けり。一度三密瑜伽の道場に入しより、永四曼不離の行業に不懈、観法座闌して薫修年久しかりけるが、即身成仏と乍談、猶有漏の身を不替事を歎て、求聞持の法を七座迄行ふ。され共三品成就の内、何れを得たりとも覚ざりければ、覚洞院の清憲僧正の室に入、一印一明を受て、又百日行ひ給ひければ、其法忽に成就して、自然智を得給て、浅略深秘の奥義、不習底を極め、不聞旨を開けり。爰に我慢邪慢の大天狗共、如何にして人の心中に依託して、不退の行学を妨んとしけれ共、上人定力堅固なりければ、隙を伺事を不得。されども或時上人温室に入て、瘡をたでられけるが、心身快して纔の楽に婬著す。是時天狗共力を得て、造作魔の心をぞ付たりける。是より覚鑁伝法院を建立して、我門徒を昌にせばやと思ふ心懇に成ければ、鳥羽禅定法皇に経奏聞て、堂舎を立僧坊を作らる。されば一院の草創不日に事成りし後、覚鑁上人忽に入定の扉を閉て、慈尊の出世五十六億七千万歳の暁を待給ふ。高野の衆徒等是を聞て、「何条其御房我慢の心にて被堀埋、高祖大師の御入定に同じからんとすべき様やある。其儀ならば一院を破却せよ。」とて、伝法院へ押寄せ堂舎を焼払ひ、御廟を堀破て是を見に、上人は不動明王の形像にて、伽楼羅炎の内に座し給へり。或若大衆一人走り寄て、是を引立んとするに、其身磐石の如くにして、那羅延が力にても動し難く、金剛の杵も砕難ぞ見へたりける。悪僧等猶是にも不恐、「穴こと/\し。如何なる古狸・古狐なりとも、妖る程ならば是にや劣るべき。よし/\真の不動か、覚鑁が妖たる形か、打見よ。」とて、大なる石を拾ひ懸て十方より是を打に、投る飛礫の声大日の真言に聞へて、曾て其身に不中、あらけて微塵に砕去る。是時覚鑁、「去ばこそ汝等が打処の飛礫、全く我身に中る事不可有。」と、少し■慢の心被起ければ、一の飛礫上人の御額に中て、血の色漸にして見へたりけり。「さればこそ。」とて、大衆共同音にどつと笑ひ、各院々谷々へぞ帰りける。是より覚鑁上人の門徒五百坊、心憂事に思て、伝法院の御廟を根来へ移して、真言秘密の道場を建立す。其時の宿意相残て、高野・根来の両寺、動すれば確執の心を挿めり。


162 瓜生挙旗事

去程に、先帝は吉野に御座有て、近国の兵馳参る由聞へければ、京都の周章は申に不及、諸国の武士も又天下不穏と、安き心も無りけり。此事已に一両月に及けれ共、金崎の城には出入絶たるに依て、知人も無りける処に、十一月二日の朝暖に、櫛川の島崎より金崎を差て游者あり。海松・和布を被く海士人か、浪に漂ふ水鳥かと、目を付て是をみれば、其には非ずして、亘理新左衛門と云ける者、吉野の帝より被成たる綸旨を、髻には結付て游ぐにてぞ有ける。城の中の人々驚て、急ぎ開て見るに、先帝潜に吉野へ臨幸成て、近国の士卒悉馳参る間、不日に京都を可被責由被載たり。寄手は是を聞て、此際隠しつる事を、城中に早知ぬと不安思へば、城の内には助の兵共国々に出来て、今に寄手を追掃ぬと、悦の心身に余れり。中にも瓜生判官保、足利尾張守高経の手に属して金崎の責口にあり。其弟兵庫助重・弾正左衛門照・義鑑房三人は、未金崎へは向はで、杣山の城に有けるが、去月十一日に、新田の人々北国へ被落たりし時、義鑑房が隠置たりし、脇屋右衛門佐の子息、式部大輔義治を大将として、義兵を挙んと日々夜々にぞ巧ける。兄の判官此事を聞て、「此者共若楚忽に謀叛を発さば、我必存知せぬ事は非じとて、金崎にて討れぬ。」と思ければ、兄弟一に成てこそ、兎も角も成めと思返して、哀同心する人あれかしと、壁に耳を付て、心を人の腹に置て、兎角伺ひ聞ける折節、陣屋を双べて居たりける宇都宮美濃将監と、天野民部大輔と寄合て、四方山の雑談の次に、家々の旗の文共を云沙汰しける処に、誰とは不知末座なる者、「二引両と大中黒と、何れか勝れたる文にて候覧。」と問ければ、美濃将監、「文の善悪をば暫置く、吉凶を云者、大中黒程目出き文は非じと覚ゆ。其故は前代の文に三鱗形をせられしが滅びて、今の世二引両に成ぬ。是を又亡さんずる文は、一引両にてこそあらんずらん。」と申ければ、天野民部大輔、「勿論候、周易と申文には、一文字をばかたきなしと読て候なる。されば此御文は、如何様天下を治めて、五畿七道を悉敵無世に成ぬと覚て候。」と、文字に付て才学を吐ければ、又傍らなる者の、「天に口なし以人云しむ。」と、無憚所笑戯れければ、瓜生判官是を聞て、「さては此人々も、野心を挿む所存有けり。」と、嬉く思て、常に酒を送り茶を進て連々に睦近付て後、大儀を思立候由を語りければ、宇都宮も天野も、「子細非じ。」とぞ同じける。さらば軈て杣山へ帰て旗を挙んと評定しける処に、諸国の軍勢共、暇をも不乞、己が所領へ抜々に帰りけるを押留めん為に、高越後守、四方の口々に堅く兵士を居て人を不通。若は所用ありて、此道を通る人は、師泰が判形を取てぞ通りける。瓜生判官、さらば此関を謀て通らんと思て、越後守の許に行て、「御馬の大豆を召進せん為に、杣山へ人夫を百五十人可遣候。関所の御札を給り候へ。」と云ければ、師泰が執事山口入道、杉板を札に作て、「此人夫百五十人可通。」と書て判を居てぞ出しける。瓜生此札を請取て、下なる判形許を残し置て、上なる文字を皆押削て、「上下三百人可通。」と書直し、宇都宮・天野相共に、三山寺の関所を無事故通てげり。瓜生判官杣山に帰りければ、三人の弟共大に悦て、軈式部大輔義治を大将として、十一月八日飽和の社の前にて中黒の旗を挙ける程に、去ぬる十月坂本より落下ける軍勢、此彼に隠居たりけるが、此事を聞て何の間にか馳来りけん、無程千余騎に成にけり。則其勢を五百余騎差分て、鯖並の宿・湯尾の峠に関を居て、北国の道を差塞。昔の火打が城の巽に当る山の、水木足て嶮く峙たる峯を攻の城に拵て、兵粮七千余石積篭たり。是は千万蒐合の軍に打負る事あらば、楯篭らん為の用意也。越後守師泰は此由を聞て、「若遅く退治せば、剣・白山の衆徒等成合て、由々敷大事なるべし、時を不替杣山を打落して、金崎の城を心安く可責。」とて、能登・加賀・越中三箇国の勢六千余騎を、杣山の城へぞ差向ける。瓜生是を聞て、敵の陣を要害に取せじとて、新道・今庄・桑原・宅良・三尾・河内四五里が間の在家を一宇も不残焼払て、杣山の城の麓なる湯尾の宿許をば、態焼残してぞ置たりける。去程に、十一月二十三日、寄手六千余騎、深雪に橇をも懸ず、山路八里を一日に越て、湯尾の宿にぞ著たりける。此より杣山へは五十町を隔て、其際に大河あり。日暮て路に歩み疲れぬ、明日こそ相近付て、矢合をもせめとて、僅なる在家に攻り居て、火を焼身を温めて、前後も不知して寝たりける。瓜生は兼て案の図に敵を谷底へ帯き入て、今はかうと思ければ、其夜の夜半許に、野伏三千人を後の山へあげ、足軽の兵七百余人左右へ差回して、鬨声をぞ揚たりける。寝をびれたる寄手共、時声に驚て周章翊く処へ、宇都宮・紀清の両党乱入て、家々に火を懸たれば、物具したる者は太刀を不取、弓を持たる者は矢を不矯。五尺余降積たる雪の上に橇も不懸して走出たれば、胸の辺迄落入て、足を抜んとすれ共不叶。只泥に粘たる魚の如にて、被生虜者三百余人、被討者は不知数を。希有にして逃延たる人も、皆物具を捨て、弓箭を失はぬ者は無りけり。


163 越前府軍並金崎後攻事

北国の道塞て、後に敵あらば、金崎を責ん事難儀なるべし。如何にもして杣山の勢を、国中へはびこらぬ様にせでは叶まじとて、尾張守高経、北陸道四箇国の勢三千余騎を率して、十一月二十八日に、蕪木の浦より越前の府へ帰給ふ。瓜生此事を聞て、敵に少しも足をためさせては悪かるべしとて、同二十九日に、三千余騎にて押寄せ、一日一夜責戦て、遂に高経が楯篭たる新善光寺の城を責落す。此時又被討者三百余人、生虜百三十人が首を刎て、帆山河原に懸並ぶ。夫より式部大輔義治勢ひ漸く近国に振ひければ、平泉寺・豊原の衆徒、当国他国の地頭・御家人、引出物を捧げ酒肴を舁せて、日々に群集しけれども、義治よに無興げなる体にのみ見へ給ければ、義鑑房御前に近て、「是程目出き砌にて候に、などや勇みげなる御気色も候はぬやらん。」と申ければ、義治袖掻収め給て、「御方両度の軍に打勝て、敵を多く亡したる事、尤可悦処なれ共、春宮を始進せて、当家の人々金崎の城に被取篭御座あれば、さこそ兵粮にも詰り戦にも苦みて、心安き隙もなく御坐すらめと想像奉る間、酒宴に臨め共楽む心も候はず。」と宣へば、義鑑房畏て申けるは、「其事にて候はゞ、御心安く被思召候へ。此間は余りに雪吹烈くして、長途の歩立難儀に候間、天気の少し晴るゝ程を相待にて候。」とて、感涙を押へながら御前をぞ立にける。宇都宮と小野寺と牆越に是を聞て、「好堅樹は地の底に有て芽百囲をなし、頻伽羅は卵の中に有て声衆鳥に勝れたり」といへり。此人丈夫の心ねをはして、加様に思ひ給けるこそ憑しけれ。さらば軈て金崎の後攻をすべし。」とて、兵を集め楯を作せて、さ程雪の降ぬ日を門出にしてぞ相待ける。正月七日椀飯事終て、同十一日雪晴風止て、天気少し長閑なりければ、里見伊賀守を大将として、義治五千余人を金崎の後攻の為に敦賀へ被差向。其勢皆雪吹の用意をして、物具の上に蓑笠を著、踏組の上に橇を履で、山路八里が間の雪蹈分て、其日桑原迄ぞ寄たりける。高越後守も兼て用意したる事なれば、敦賀津より二十余町東に当て、究竟の用害の有ける処へ、今河駿河守を大将として、二万余騎を差向て、所々に掻楯掻せて、今や寄ると待懸たり。夜明ければ先一番に、宇都宮・紀清両党三百余人押寄て、坂中なる敵千余人を遥の峯へ巻り上て、軈二陣の敵に蒐らんとしけるが、両方の峯なる大勢に被射立、北なる峯へ引退く。二番に瓜生・天野・斉藤・小野寺七百余騎、鋒を調へて上りけるに、駿河守の堅めたる陣を三箇所被追破、はつと引ける処へ、越後守が勢三千余騎、荒手に代て相戦ふ処に、瓜生・小野寺が勢又追立られて、宇都宮と一に成んと、傍なる峯へ引上りけるを、里見伊賀守僅の勢にて、「蓬し、返せ。」とて横合に進まれたり。敵是を大将よと見てんげれば、自余の葉武者には懸らず、をつ取篭て討んとしけるを、瓜生と義鑑房と屹と見て、「我等爰にて討死せでは御方の勢は助るまじき処ぞ。」と自嘆して、只二人打て蒐り、敵の中へ破て入んとするを見て、判官が弟林次郎入道源琳・同舎弟兵庫助重・弾正左衛門照三人是を見て、遥に落延たりけるが、共に討死せんと取て返しけるを、義鑑房尻目に睨で、「日来再三謂し事をば何の程に忘れけるぞ。我等二人討死したらんは、永代の負にて有んずるを、思篭る心の無りける事の云甲斐なさよ。」と、あらゝかに申留めける間、三人の者共、現もと思返して少し猶予しける間、大勢の敵に中を被押隔、里見・瓜生・義鑑房三人は一所にて被討にけり。桑原より深雪を分て重鎧に肩をひける者共、数刻の合戦に入替る勢もなく戦疲れければ、返さんとするに力尽き引んとするに足たゆみぬ。されば此彼に引延て、腹を切者数を不知。適落延る兵も、弓矢・物具を棄ぬはなし。「さてこそ先日府・鯖並の軍に多く捨たりし兵具共をば、今皆取返たれ。」と、敦賀の寄手共は笑ける。是程に不定の人間、化なる身命を資とて、互に罪業を造り、長き世の苦みを受ん事こそ浅猿けれ。


164 瓜生判官老母事付程嬰杵臼事

去程に、敗軍の兵共杣山へ帰ければ、手負・死人の数を註すに、里見伊賀守・瓜生兄弟・甥の七郎が外、討死する者五十三人蒙疵者五百余人也。子は父に別れ弟は兄に殿れて、啼哭する声家々に充満り。去共瓜生判官が老母の尼公有けるが、敢て悲める気色もなし。此尼公大将義治の前に参て、「此度敦賀へ向ふて候者共が不覚にてこそ里見殿を討せ進せて候へ。さこそ被思召候らめと、御心中推量り進せて候。但是を見ながら、判官兄弟何れも無恙してばし帰り参りて候はゞ、如何に今一入うたてしさも無遣方候べきに、判官が伯父・甥三人の者、里見殿の御供申し、残の弟三人は、大将の御為に活残りて候へば、歎の中に悦とこそ覚て候へ。元来上の御為に此一大事を思立候ぬる上は、百千の甥子共が被討候共、可歎にては候はず。」と、涙を流して申つゝ、自酌を取て一献を進め奉りければ、機を失へる軍勢も、別を歎く者共も、愁を忘れて勇みをなす。抑義鑑房が討死しける時、弟三人が続て返しけるを、堅く制し留めける謂れを如何にと尋ぬれば、此義鑑房合戦に出ける度毎に、「若此軍難儀に及ばゞ、我等兄弟の中に一両人は討死をすべし。残の兄弟は命を全して、式部大輔殿を取立進すべし。」とぞ申ける。是も古への義を守り人を規とせし故也。昔秦の世に趙盾・智伯と云ける二人、趙の国を諍ふ事年久し。或時智伯已に趙盾がために被取巻、夜明なば討死せんとしける時、智伯が臣程嬰・杵臼と云ける二人の兵を呼寄て、「我已に運命極迄趙盾に囲まれぬ。夜明ば必討死すべし。汝等我に真実の志深くば、今夜潜に城を逃出て、我三歳の孤を隠置て、長ならば趙盾を亡して、我生前の恥を雪むべし。」とぞ宣ひける。程嬰・杵臼是を聞て、「臣等主君と共に討死仕ん事は近して易し。三歳の孤を隠して命を全せん事は遠して難し。雖然、為臣道豈易を取て難きを捨ん哉。必君の仰に可随。」とて、程嬰・杵臼は、潜に其夜紛れて城を落にけり。夜明ければ、智伯忽に討死して残る兵も無りしかば、多年諍ひし趙国終に趙盾に随ひけり。爰に程嬰・杵臼二人は、智伯が孤を隠さんとするに趙盾是を聞付て、討んとする事頻也。程嬰是を恐れて、杵臼に向て申けるは、「旧君三歳の孤を以て、此二人の臣に託たり。されば死て敵を欺かんと、暫く命を生て孤を取立んと、何れか難かるべき。」杵臼が云く、「死は一心の義に向ふ処に定り、生は百慮の智を尽す中に全し。然ば吾生を以て難しとす。」と。程嬰、「さらば吾は難きに付て命を全すべし。御辺は易きに付て討死せらるべし。」と云に、杵臼悦で許諾す。「さらば謀を回すべし。」とて、杵臼我子の三歳に成けるを旧主の孤なりと披露して、是を抱きかゝへ、程嬰は主の孤三になるを我子なりと云て、朝夕是を養育しける。角て杵臼は山深き栖に隠れ、程嬰は趙盾が許に行て、可降参由を申に、趙盾猶も心を置て是を不許。程嬰重て申けるは、「臣は元智伯が左右に仕へて、其行跡を見しに、遂に趙の国を失はんずる人なりとしれり。遥に君の徳恵を聞に、智伯に勝れ給へる事千里を隔たり。故に臣苟も趙盾に仕へん事を乞。豈亡国の先人の為に有徳の賢君を謀らんや。君若我をして臣たる道を許されば、亡君智伯が孤三歳になる此にあり。杵臼が養育深く隠置たる所我具にしれり。君是を失せ給ひ、趙国を永く令安給へ。」とぞ申たりける。趙盾是を聞給ひて、さては程嬰不偽吾が臣とならんと思けると信じて、程嬰に武官を授て、あたり近く被召仕けり。さて杵臼が隠したる所を委尋聞て、数千騎の兵を差遣して是を召捕らんとするに、杵臼兼て相謀し事なれば、未膝の上なる三歳の孤を差殺して、「亡君智伯の孤運命拙して謀已に顕れぬ。」と喚て、杵臼も腹掻切て死にけり。趙盾今より後は吾子孫の代を傾けんとする者は非じと悦で、弥程嬰に心をも不置。剰大禄を与へ高官を授て国の政を令司。爰に智伯が孤程嬰が家に長りしかば、程嬰忽に兵を発して三年が中に趙盾を亡し、遂に智伯が孤に趙国を保たせり。此大功然程嬰が謀より出しかば、趙王是を賞して大禄を与へんとせらる。程嬰是を不請。「我官に昇り禄を得て卑くも生を貪らば、杵臼と倶に計し道に非ず。」とて杵臼が尸を埋し古き墳の前にて、自剣の上に伏て、同苔にぞ埋れける。されば今の保と義鑑房と討死す。古への程嬰・杵臼が振舞にも劣るべしとも云がたし。


165 金崎城落事

金崎城には、瓜生が後攻をこそ命に懸て待れしに、判官打負て、軍勢若干討れぬと聞へければ、憑方なく成はて、心細ぞ覚ける。日々に随て兵粮乏く成ければ、或は江魚を釣て飢を資け、或は礒菜を取て日を過す。暫しが程こそ加様の物に命を続で軍をもしけれ。余りに事迫りければ、寮の御馬を始として諸大将の被立たる秘蔵の名馬共を、毎日一疋づゝ差殺して、各是をぞ朝夕の食には当たりける。是に付ても後攻する者なくては、此城今十日とも堪がたし。総大将御兄弟窃に城を御出候て杣山へ入せ給ひ、与力の軍勢を被催て、寄手を被追払候へかしと、面々に被勧申ければ、現にもとて、新田左中将義貞・脇屋右衛門佐義助・洞院左衛門督実世・河島左近蔵人惟頼を案内者にて上下七人、三月五日の夜半許に、城を忍び抜出て杣山へぞ落著せ給ひける。瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。其程は我等責口へ罷向て、相支候べし。見苦しからん物共をば、皆海へ入させられ候へ。」と申て、御前を立けるが、余りに疲れて足も快く立ざりければ、二の木戸の脇に被射殺伏たる死人の股の肉を切て、二十余人の兵共一口づゝ食て、是を力にしてぞ戦ける。河野備後守は、搦手より責入敵を支て、半時計戦けるが、今はゝや精力尽て、深手余多負ければ、攻口を一足も引退かず、三十二人腹切て、同枕にぞ伏たりける。新田越後守義顕は、一宮の御前に参て、「合戦の様今は是までと覚へ候。我等無力弓箭の名を惜む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様の御事は、縦敵の中へ御出候共、失ひ進するまでの事はよも候はじ。只加様にて御座有べしとこそ存候へ。」と被申ければ、一宮何よりも御快気に打笑せ給て、「主上帝都へ還幸成し時、以我元首将とし、以汝令為股肱臣。夫無股肱元首持事を得んや。されば吾命を白刃の上に縮めて、怨を黄泉の下に酬はんと思也。抑自害をば如何様にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕感涙を押へて、「加様に仕る者にて候。」と申もはてず、刀を抜て逆手に取直し、左の脇に突立て、右の小脇のあばら骨二三枚懸て掻破り、其刀を抜て宮の御前に差置て、うつぶしに成てぞ死にける。一宮軈て其刀を被召御覧ずるに、柄口に血余りすべりければ、御衣の袖にて刀の柄をきり/\と押巻せ給て、如雪なる御膚を顕し、御心の辺に突立、義顕が枕の上に伏させ給ふ。頭大夫行房・里見大炊助時義・武田与一・気比弥三郎大夫氏治・大田帥法眼以下御前に候けるが、いざゝらば宮の御供仕らんとて、同音に念仏唱て一度に皆腹を切る。是を見て庭上に並居たる兵三百余人、互に差違々々弥が上に重伏。気比大宮司太郎は、元来力人に勝て水練の達者なりければ、春宮を小舟に乗進せて、櫓かいも無れ共綱手を己が横手綱に結付、海上三十余町を游で蕪木の浦へぞ著進せける。是を知人更に無りければ、潜に杣山へ入進せん事は最安かりぬべかりしに、一宮を始進せて、城中人々不残自害する処に、我一人逃て命を活たらば、諸人の物笑なるべしと思ける間、春宮を怪しげなる浦人の家に預け置進せ、「是は日本国の主に成せ給ふべき人にて渡せ給ふぞ。如何にもして杣山の城へ入進せてくれよ。」と申含めて、蕪木の浦より取て返し、本の海上を游ぎ帰て、弥三郎大夫が自害して伏たる其上に、自我首を掻落て片手に提、大膚脱に成て死にけり。土岐阿波守・栗生左衛門・矢島七郎三人は、一所にて腹切んとて、岩の上に立並で居たりける処に、船田長門守来て、「抑新田殿の御一家の運爰にて悉極め給はゞ、誰々も不残討死すべけれ共、惣大将兄弟杣山に御座あり、公達も三四人迄、此彼に御座ある上は、我等一人も活残て御用に立んずるこそ、永代の忠功にて侍らめ。何と云沙汰もなく自害しつれて、敵に所得せさせての用は何事ぞや。いざゝせ給へ、若やと隠れて見ん。」と申ければ、三人の者共船田が迹に付て、遥の礒へぞ遠浅の浪を分て、半町許行たれば、礒打波に当りて大に穿たる岩穴あり。「爰こそ究竟の隠れ所なれ。」とて、四人共に此穴の中に隠れて、三日三夜を過しける心の中こそ悲しけれ。由良・長浜は、是までも猶木戸口に支へて、喉乾けば、己が疵より流るゝ血を受て飲み、力落疲るれば、前に伏たる死人の肉を切て食て、皆人々の自害しはてん迄と戦けるを、安間六郎左衛門走り下て、「何を期に合戦をばし給ぞ。大将は早御自害候つるぞや。」と申ければ、「いざやさらば、とても死なんずる命を、若やと寄手の大将のあたりへ紛れ寄て、よからんずる敵と倶に差違へて死ん。」とて、五十余人の兵共、三の木戸を同時に打出、責口一方の寄手三千余人を追巻り、其敵に相交て、高越後守が陣へぞ近付ける。如何に心許は弥武に思へ共、城より打出でたる者共の為体、枯槁憔悴して、尋常の人に可紛も無りければ、皆人是を見知て、押隔ける間、一人も能敵に合者無して、所々にて皆討れにけり。都て城中に篭る処の勢は百六十人、其中に降人に成て助かる者十二人、岩の中に隠れて活たる者四人、其外百五十一人は一時に自害して、皆戦場の土と成にけり。されば今に到迄其怨霊共此所に留て、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食の声啾々として、人の毛孔を寒からしむ。「誓掃匈奴不顧身、五千貂錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」と、己亥の歳の乱を見て、陳陶が作りし隴西行も角やと被思知たり。


166 春宮還御事付一宮御息所事

去程に夜明ければ、蕪木の浦より春宮御座の由告たりける間、島津駿河守忠治を御迎に進せて取奉る。去夜金崎にて討死自害の頚百五十一取並べて被実検けるに、新田の一族には、越後守義顕・里見大炊助義氏の頚許有て、義貞・義助二人の首は無りけり。さては如何様其辺の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人を入て被かせけれ共、曾不見ければ、足利尾張守、春宮の御前に参て、「義貞・義助二人が死骸、何くに有とも見へ候はぬは、何と成候けるやらん。」と被尋申ければ、春宮幼稚なる御心にも、彼人々杣山に有と敵に知せては、軈て押寄る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人、昨日の暮程に自害したりしを、手の者共が役所の内にして火葬にするとこそ云沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也けり。」とて、是を求るに不及。さてこそ杣山には墓々敷敵なければ、降人にぞ出んずらんとて、暫が程は閣けれ。我執と欲念とにつかはれて、互に害心を発す人々も、終には皆無常の殺鬼に逢ひ、被呵責ことも不久。哀に愚かなる事共なり。新田越後守義顕・並一族三人、其外宗徒の首七を持せ、春宮をば張輿に乗進せて、京都へ還し上せ奉る。諸大将事の体、皆美々敷ぞ見へたりける。越後守義顕の首をば、大路を渡して獄門に被懸。新帝御即位の初より三年の間は、天下の刑を不行法也。未河原の御禊、大甞会も不被遂行先に、首を被渡事は如何あるべからん。先帝重祚の初、規矩掃部助高政・糸田左近将監貞吉が首を被渡たりしも、不吉の例とこそ覚ゆれと、諸人の意見共有けれ共、是は朝敵の棟梁義貞の長男なればとて、終大路を被渡けり。春宮京都へ還御成ければ、軈楼の御所を拵へて、奉押篭。一宮の御頚をば、禅林寺の長老夢窓国師の方へ被送、御喪礼の儀式を引繕る。さても御匣殿の御歎、中々申も愚也。此御匣殿の一宮に参り初給し古への御心尽し、世に類なき事とこそ聞へしか。一宮已に初冠めされて、深宮の内に長せ給し後、御才学もいみじく容顔も世に勝れて御座かば、春宮に立せ給なんと、世の人時明逢へりしに、関東の計ひとして、慮の外に後二条院の第一の御子春宮に立せ給しかば、一宮に参り仕べき人々も、皆望を失ひ、宮も世中万づ打凋たる御心地して、明暮は只詩哥に御心を寄せ、風月に思を傷しめ給ふ。折節に付たる御遊などあれ共、差て興ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何なる宮腹、一の人の御女などを角と仰られば、御心を尽させ給ふまでもあらじと覚へしに、御心に染む色も無りけるにや、是をと被思召たる御気色もなく、只独のみ年月を送らせ給ける。或時関白左大臣の家にて、なま上達部・殿上人余た集て、絵合の有けるに、洞院の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞の宮の御女、少し真木柱に居隠て、琵琶を調べ給しに、雲隠れしたる月の俄に最あかく指出たれば、扇ならでも招べかりけりとて、撥を揚てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌て、匂やかなる気色云ばかりなく、筆を尽してぞ書たりける。一宮此絵を被御覧、無限御心に懸りければ、此絵を暫被召置、みるに慰む方もやとて、巻返々々御覧ぜらるれ共、御心更に不慰。昔漢李夫人甘泉殿の病の床に臥して無墓成給しを、武帝悲みに堪兼て返魂香を焼玉しに、李夫人の面影の烟の中に見へたりしを、似絵に書せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給けんも、現に理と思知せ給ふ。我ながら墓なの心迷やな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中の現とこそ思ひ捨る事なるに、是はそも何事の化し心ぞや。遍照僧正の哥の心を貫之が難じて、「歌のさまは得たれ共実少し。譬へば絵に書ける女を見て徒に心を動すが如し。」と云し、其類にも成ぬる者哉と思棄給へ共、尚文悪なる御心胸に充て、無限御物思に成ければ、傍への色異なる人を御覧じても、御目をだにも回らされず。況て時々の便りにつけて事問通し給ふ御方様へは、一急雨の過る程の笠宿りに可立寄心地にも思召さず。世中にさる人ありと伝聞て御心に懸らば、玉垂の隙求る風の便も有ぬべし。又僅に人を見し許なる御心当ならば、水の泡の消返りても、寄る瀬はなどか無るべきに、是は見しにも非ず聞しにも非ず、古の無墓物語、化なる筆の迹に御心を被悩ければ、無為方思召煩はせ給へば、せめて御心を遣方もやと、御車に被召、賀茂の糾の宮へ詣させ給ひ、御手洗河の川水を御手水に結ばれ、何となく河に逍遥せさせ給ふにも、昔業平中将、恋せじと御祓せし事も、哀なる様に思召出されて、祈る共神やはうけん影をのみ御手洗河の深き思をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨の過行程、木の下露に立濡て、御袖もしほれたるに、「日も早暮ぬ。」と申声して、御車を轟かして一条を西へ過させ給ふに、誰が栖宿とは不知、墻に苔むし瓦に松生て、年久く住荒したる宿の物さびし気なるに、撥音気高く青海波をぞ調べたる。「怪しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車を駐めさせて、遥に見入させ給ひたれば、見る人有とも不知体にて、暮居空の月影の、時雨の雲間より幽々と顕れ出たるに、御簾を高く巻上て、年の程二八許なる女房の、云ばかりなくあてやかなるが、秋の別を慕ふ琵琶を弾ずるにてぞ有ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯たる其声は、庭の落葉に紛つゝ、外には降らぬ急雨に、袖渋る許にぞ聞へたる。宮御目も文に熟々と御覧ずるに、此程漫に御心を尽して、夢にもせめて逢見ばやと、恋悲み給ひつる似絵に少しも不違、尚あてやかに臈闌て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地空に浮て、たど/\しき程に成せ給へば、御車より下させ給て、築山の松の木陰の立寄せ給へば、女房見る人有と物侘し気にて、琵琶をば几帳の傍らに指寄せて内へ紛れ入ぬ。引や裳裾の白地なる面影に、又立出る事もやとて、立徘徊はせ給たれば、怪げなる御所侍の、御隔子進する音して、早人定りぬれば、何迄角ても可有とて、宮還御成ぬ。絵にかきたりし形にだに、御心を悩されし御事也。まして実の色を被御覧て、何にせんと恋忍ばせ給も理哉。其後よりは太すらなる御気色に見へながら、流石御詞には不被出けるに、常に御会に参り給ふ二条中将為冬、「何ぞや賀茂の御帰さの、幽なりし宵の間の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其事ならば最安き事にてこそ侍るめれ。彼の女房の行末を委尋て候へば、今出河右大臣公顕の女にて候なるを、徳大寺左大将に乍申名、未皇太后宮の御匣にて候なる。切に思召れ候はゞ、歌の御会に申寄て彼亭へ入せ給て、玉垂の隙にも、自御心を露す御事にて候へかし。」と申せば、宮例ならず御快げに打笑せ給て、「軈今夜其亭にて可有褒貶御会。」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕忝と取りきらめきて、数寄の人余た集て、角と案内申せば、宮は為冬許を御供にて、彼亭へ入せ給ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意ならねば、只披講許にて、褒貶はなし。主の大臣こゆるぎの急ぎありて、土器もて参りたれば、宮常よりも興ぜさせ給て、郢曲絃歌の妙々に、御盃給はせ給ひたるに、主も痛く酔臥ぬ。宮も御枕を傾させ給へば、人皆定りて夜も已に深にけり。媒の左中将心有て酔ざりければ、其案内せさせて、彼女房の栖ける西の台へ忍入せ給て、墻の隙より見給へば、灯の幽なるに、花紅葉散乱たる屏風引回し、起もせず寝もせぬ体に打濡、只今人々の読たりつる哥の短冊取出して、顔打傾けたれば、こぼれ懸りたる鬢の端れより、匂やかに幽なる容せ、露を含める花の曙、風に随へる柳の夕の気色、絵に書共筆も難及、語るに言も無るべし。外ながら幽に見てし形の、世に又類ひもやあらんと、怪しきまでに思ひしは、尚数ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心も早ほれ/゛\と成て、不知我が魂も其袖の中にや入ぬらんと、ある身ともなく覚させ給ふ。時節辺に人も無て、灯さへ幽なれば、妻戸を少し押開て内へ入せ給たるに、女は驚く貌にも非ず、閑やかにもてなして、やはら衣引被て臥たる化妝、云知らずなよやかに閑麗なり。宮も傍に寄伏給て、有しながらの心尽し、哀なる迄に聞へけれ共、女はいらへも申さず、只思にしほれたる其気色、誠に匂深して、花薫り月霞む夜の手枕に、見終ぬ夢の化ある御心迷に、明るも不知語ひ給へ共、尚強顔気色にて程経ぬれば、己が翅を並べながら人の別をも思知ぬ八声の鳥も告渡り、涙の氷解やらず、衣々も冷やかに成て、類も怨き在明の、強顔影に立帰せ給ぬ。其後より度々御消息有て、云ばかりなき御文の数、早千束にも成ぬ覧と覚る程に積りければ、女も哀なる方に心引れて、のぼれば下る稲舟の、否には非ずと思へる気色になん顕れたり。され共尚互に人目を中の関守になして、月比過させ給けるに、式部少輔英房と云儒者、御文談に参じて、貞観政要を読けるに、「昔唐の太宗、鄭仁基が女を后に備へ、元和殿に冊入んとし玉ひしを、魏徴諌て、「此女は已に陸氏に約せり」と申せしかば、太宗其諌に随て、宮中に召るゝ事を休め給き。」と談じけるを、宮熟々と聞召て、何なれば古の君は、かく賢人の諌に付て、好色心を棄給けるぞ。何なる我なれば、已に人の云名付て事定りたる中をさけて、人の心を破るらん。古の様を恥、世の譏を思食て、只御心の中には恋悲ませ給ひけれ共、御詞には不被出、御文をだに書絶て、角とも聞へねば、百夜の榻の端書、今は我や数書ましと打侘て、海士の刈藻に思乱給ふ。角て月日も過ければ、徳大寺此事を聞及、「左様に宮なんどの御心に懸られんを、争でか便なうさる事可有。」とて、早あらぬ方に通ふ道有と聞へければ、宮も今は無御憚、重て御文の有しに、何よりも黒み過て、知せばや塩やく浦の煙だに思はぬ風になびく習ひを女もはや余りに強顔かりし心の程、我ながら憂物に思ひ返す心地になん成にければ、詞は無て、立ぬべき浮名を兼て思はずは風に烟のなびかざらめや其後よりは、彼方此方に結び置れし心の下紐打解て、小夜の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契に成しかば、生ては偕老の契深く、又死ては同苔の下にもと思召通して、十月余りに成にけるに、又天下の乱出来て、一宮は土佐の畑へ被流させ給しかば、御息所は独都に留らせ給て、明るも不知歎き沈せ給て、せめてなき世の別なりせば、憂に堪ぬ命にて、生れ逢ん後の契を可憑に、同世ながら海山を隔てゝ、互に風の便の音信をだにも書絶て、此日比召仕はれける青侍・官女の一人も参り通はず、万づ昔に替る世に成て、人の住荒したる蓬生の宿の露けきに、御袖の乾く隙もなく、思召入せ給ふ御有様、争でか涙の玉の緒も存へぬ覧と、怪き程の御事也。宮も都を御出有し日より、公の御事御身の悲み、一方ならず晴やらぬに、又打添て御息所の御名残、是や限と思召しかば、供御も聞召入られず、道の草葉の露共に、消はてさせ給ぬと見へさせ給ふ。惜共思食ぬ御命長らへて、土佐の畑と云所の浅猿く、此世の中とも覚へぬ浦の辺に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間もなき御歎、喩へて云ん方もなし。余りに思くづほれさせ給ふ御有様の、御痛敷見奉りければ、御警固に候ける有井庄司、「何か苦く候べき。御息所を忍で此へ入進せられ候へ。」とて、御衣一重し立て、道の程の用意迄細々に沙汰し進せければ、宮無限喜しと思召て、只一人召仕れける右衛門府生秦武文と申随身を、御迎に京へ上せらる。武文御文を給て、急京都へ上り、一条堀川の御所へ参りたれば、葎茂りて門を閉、松の葉積りて道もなし。音信通ふものとては、古き梢の夕嵐、軒もる月の影ならでは、問人もなく荒はてたり。さては何くにか立忍ばせ給ぬらんと、彼方此方の御行末を尋行程に、嵯峨の奥深草の里に、松の袖垣隙あらはなるに、蔦はい懸て池の姿も冷愁く、汀の松の嵐も秋冷く吹しほりて、誰栖ぬらんと見るも懶げなる宿の内に、琵琶を弾ずる音しけり。怪しやと立留て、是を聞ば、紛ふべくもなき御撥音也。武文喜しく思ひて、中々案内も不申、築地の破れより内へ入て、中門の縁の前に畏れば、破れたる御簾の内より、遥に被御覧、「あれや。」と許の御声幽に聞へながら、何共被仰出事もなく、女房達数たさゞめき合ひて、先泣声のみぞ聞へける。「武文御使に罷上り、是迄尋参りて候。」と申も不敢、縁に手を打懸てさめ/゛\と泣居たり。良有て、「只此迄。」と召あれば、武文御簾の前に跪き、「雲井の外に想像進らするも、堪忍び難き御事にて候へば、如何にもして田舎へ御下り候へとの御使に参て候。」とて、御文を捧たり。急ぎ披て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切なる色さもこそと覚て、言の葉毎に置露の、御袖に余る許なり。「よしや何なる夷の栖居なりとも、其憂にこそ責ては堪め。」とて、既に御門出有ければ、武文甲斐々々敷御輿なんど尋出し、先尼崎まで下し進せて、渡海の順風をぞ相待ける。懸りける折節、筑紫人に松浦五郎と云ける武士、此浦に風を待て居たりけるが、御息所の御形を垣の隙より見進せて、「こはそも天人の此土へ天降れる歟。」と、目枯もせず守り居たりけるが、「穴無端や。縦主ある人にてもあれ、又何なる女院・姫宮にても坐ませ。一夜の程に契を、百年の命に代んは何か惜からん。奪取て下らばや。」と思ける処に、武文が下部の浜の辺に出て行けるを呼寄て、酒飲せ引出物なんど取せて、「さるにても御辺が主の具足し奉て、船に召せんとする上臈は、何なる人にて御渡あるぞ。」と問ければ、下臈の墓なさは、酒にめで引出物に耽りて、事の様有の侭にぞ語りける。松浦大に悦で、「此比何なる宮にても御座せよ、謀反人にて流され給へる人の許へ、忍で下給はんずる女房を、奪捕たり共、差ての罪科はよも非じ。」と思ければ、郎等共に彼宿の案内能々見置せて、日の暮るをぞ相待ける。夜既に深て人定る程に成ければ、松浦が郎等三十余人、物具ひし/\と堅めて、続松に火を立て蔀・遣戸を蹈破り、前後より打て入。武文は京家の者と云ながら、心剛にして日比も度々手柄を顕したる者なりければ、強盜入たりと心得て、枕に立たる太刀をゝつ取て、中門に走出て、打入敵三人目の前に切臥せ、縁にあがりたる敵三十余人大庭へ颯と追出して、「武文と云大剛の者此にあり。取れぬ物を取らんとて、二つなき命を失な、盜人共。」と■て、仰たる太刀を押直し、門の脇にぞ立たりける。松浦が郎等共武文一人に被切立て、門より外へはつと逃たりけるが、「蓬し。敵は只一人ぞ。切て入。」とて、傍なる在家に火を懸て、又喚てぞ寄たりける。武文心は武しといへ共、浦風に吹覆はれたる烟に目暮て、可防様も無りければ、先御息所を掻負進せ、向ふ敵を打払て、澳なる船を招き、「何なる舟にてもあれ、女性暫乗進せてたび候へ。」と申て、汀にぞ立たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎に来たる舟是を聞て、一番に渚へ差寄たれば、武文大に悦で、屋形の内に打置奉り、取落したる御具足、御伴の女房達をも、舟に乗んとて走帰たれば、宿には早火懸て、我方様の人もなく成にけり。松浦は適我舟に此女房の乗せ給たる事、可然契の程哉と無限悦て、「是までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等・眷属百余人、捕物も不取敢、皆此舟に取乗て、眇の澳にぞ漕出したる。武文渚に帰来て、「其御舟被寄候へ。先に屋形の内に置進せつる上臈を、陸へ上進せん。」と喚りけれども、「耳にな聞入そ。」とて、順風に帆を上たれば、船は次第に隔りぬ。又手繰する海士の小船に打乗て、自櫓を推つゝ、何共して御舟に追著んとしけれ共、順風を得たる大船に、押手の小舟非可追付。遥の沖に向て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑声を聞て、「安からぬ者哉。其儀ならば只今の程に海底の竜神と成て、其舟をば遣まじき者を。」と忿て、腹十文字に掻切て、蒼海の底にぞ沈ける。御息所は夜討の入たりつる宵の間の騒より、肝心も御身に不副、只夢の浮橋浮沈、淵瀬をたどる心地して、何と成行事共知せ給はず。舟の中なる者共が、「あはれ大剛の者哉。主の女房を人に奪はれて、腹を切つる哀さよ。」と沙汰するを、武文が事やらんとは乍聞召、其方をだに見遣せ給はず。只衣引被て屋形の内に泣沈ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気なる髭男の、声最なまりて色飽まで黒きが、御傍に参て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。面白き道すがら、名所共を御覧じて御心をも慰ませ給候へ。左様にては何なる人も船には酔物にて候ぞ。」と、兎角慰め申せ共、御顔をも更擡させ給はず、只鬼を一車に載せて、巫の三峡に棹すらんも、是には過じと御心迷ひて、消入せ給ぬべければ、むくつけ男も舷に寄懸て、是さへあきれたる体なり。其夜は大物の浦に碇を下して、世を浦風に漂ひ給ふ。明れば風能成ぬとて、同じ泊りの船共、帆を引梶を取り、己が様々漕行けば、都は早迹の霞に隔りぬ。九国にいつか行著んずらんと、人の云を聞召すにぞ、さては心つくしに行旅也と、御心細きに付ても、北野天神荒人神に成せ給し其古への御悲み、思召知せ給はゞ、我を都へ帰し御座せと、御心の中に祈せ給。其日の暮程に、阿波の鳴戸を通る処に、俄に風替り塩向ふて、此船更に不行遣。舟人帆を引て、近辺の礒へ舟を寄んとすれば、澳の塩合に、大なる穴の底も見へぬが出来て、舟を海底に沈んとす。水主梶取周章て帆薦なんどを投入々々渦に巻せて、其間に船を漕通さんとするに、舟曾不去。渦巻くに随て浪と共に舟の廻る事、茶臼を推よりも尚速也。「是は何様竜神の財宝に目懸られたりと覚へたり。何をも海へ入よ。」とて、弓箭・太刀・々・鎧・腹巻、数を尽して投入たれ共、渦巻事尚不休。「さては若色ある衣裳にや目を見入たるらん。」とて、御息所の御衣、赤き袴を投入たれば、白浪色変じて、紅葉を浸せるが如くなり。是に渦巻き少し閑まりたれ共、船は尚本の所にぞ回居たる。角て三日三夜に成ければ、舟の中の人独も不起上、皆船底に酔臥て、声々に呼叫ぶ事無限。御息所は、さらでだに生る御心地もなき上に、此浪の騒になを御肝消て、更に人心も坐さず。よしや憂目を見んよりは、何なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召つれ共、さすがに今を限と叫ぶ声を聞召せば、千尋の底の水屑と成、深き罪に沈なん後の世をだに誰かは知て訪はんと思召す涙さへ尽て、今は更に御くしをも擡させ給はず。むくつけ男も早忙然と成て、「懸る無止事貴人を取奉り下る故に、竜神の咎めもある哉らん。無詮事をもしつる者哉。」と誠に後悔の気色なり。斯る処に梶取一人船底より這出て、「此鳴渡と申は、竜宮城の東門に当て候間、何にても候へ、竜神の欲しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様の不思議ある所にて候は、何様彼上臈を龍神の思懸申されたりと覚へ候。申も余に邪見に無情候へ共、此御事独の故に若干の者共が、皆非分の死を仕らん事は、不便の次第にて候へば、此上臈を海へ入進せて、百余人の命を助させ給へ。」とぞ申ける。松浦元来無情田舎人なれば、さても命や助かると、屋形の内へ参て、御息所を荒らかに引起し奉り、「余に強顔御気色をのみ見奉るも、無本意存候へば、海に沈め進すべきにて候。御契深くば土佐の畑へ流れよらせ給ひて、其宮とやらん堂とやらん、一つ浦に住せ給へ。」とて、無情掻抱き進せて、海へ投入奉んとす。是程の事に成ては、何の御詞か可有なれば、只夢の様に思召して、つや/\息をも出させ給はず、御心の中に仏の御名許を念じ思召て、早絶入せ給ぬるかと見へたり。是を見て僧の一人便船せられたりけるが、松浦が袖を磬て、「こは如何なる御事にて候ぞや。竜神と申も、南方無垢の成道を遂て、仏の授記を得たる者にて候へば、全く罪業の手向を不可受。而るを生ながら人を忽に海中に沈められば、弥竜神忿て、一人も助る者や候べき。只経を読み陀羅尼を満て法楽に備られ候はんずるこそ可然覚へ候へ。」と、堅く制止宥めければ、松浦理に折て、御息所を篷屋の内に荒らかに投棄奉る。「さらば僧の儀に付て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音に観音の名号を唱奉りける時、不思議の者共波の上に浮び出て見へたり。先一番に退紅著たる仕丁が、長持を舁て通ると見へて打失ぬ。其次に白葦毛の馬に白鞍置たるを、舎人八人して引て通ると見へて打失ぬ。其次に大物の浦にて腹切て死たりし、右衛門府生秦武文、赤糸威の鎧、同毛の五枚甲の緒を縮、黄■毛なる馬に乗て、弓杖にすがり、皆紅の扇を挙げ、松浦が舟に向て、其舟留まれと招く様に見へて、浪の底にぞ入にける。梶取是を見て、「灘を走る舟に、不思議の見ゆる事は常の事にて候へ共、是は如何様武文が怨霊と覚へ候。其験を御覧ぜん為に、小船を一艘下して此上臈を乗進せ、波の上に突流して、竜神の心を如何と御覧候へかし。」と申せば、「此儀げにも。」とて、小船を一艘引下して、水手一人と御息所とを乗せ奉て、渦の波に漲て巻却る波の上にぞ浮べける。彼早離・速離の海岸山に被放、「飢寒の愁深して、涙も尽ぬ。」と云けんも、人住島の中なれば、立寄方も有ぬべし。是は浦にも非ず、島にも非ず、如何に鳴渡の浪の上に、身を捨舟の浮沈み、塩瀬に回る泡の、消なん事こそ悲けれ。されば竜神もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分て、松浦が舟は西を指して吹れ行と見へけるが、一の谷の澳津より武庫山下風に被放て、行方不知成にけり。其後浪静り風止ければ、御息所の御船に被乗つる水主甲斐々々敷舟を漕寄て、淡路の武島と云所へ著奉り、此島の為体、回一里に足ぬ所にて、釣する海士の家ならでは、住人もなき島なれば、隙あらはなる葦の屋の、憂節滋き栖に入進せたるに、此四五日の波風に、御肝消御心弱りて、軈て絶入せ給ひけり。心なき海人の子共迄も、「是は如何にし奉らん。」と、泣悲み、御顔に水を灑き、櫓床を洗て御口に入なんどしければ、半時許して活出させ給へり。さらでだに涙の懸る御袖は乾く間も無るべきに、篷漏る滴藻塩草、可敷忍旅寝ならねば、「何迄角ても有佗ぶべき。土佐の畑と云浦へ送りてもやれかし。」と、打佗させ給へば、海士共皆同じ心に、「是程厳敷御渡候上臈を、我等が舟に乗進せて、遥々と土佐迄送り進せ候はんに、何の泊にてか、人の奪取進せぬ事の候べき。」と、叶まじき由を申せば、力及ばせ給はずして、浪の立居に御袖をしぼりつゝ、今年は此にて暮し給ふ。哀は類ひも無りけり。さて一宮は武文を京へ上せられし後は、月日遥に成ぬれ共、何共御左右を申さぬは、如何なる目にも逢ぬる歟と、静心なく思食て、京より下れる人に御尋有ければ、「去年の九月に御息所は都を御出有て、土佐へ御下り候しとこそ慥に承りしか。」と申ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋の底にも沈ぬる歟と、一方ならず思ひくづほれさせ給けるに、或夜御警固に参たる武士共、中門に宿直申て四方山の事共物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡を過て当国に渡りし時、船の梶に懸たりし衣を取上て見しかば、尋常の人の装束とも不見、厳かりし事よ。是は如何様院・内裏の上臈女房なんどの田舎へ下らせ給ふが、難風に逢て海に沈み給けん其装束にてぞ有らん。」と語て、「穴哀や。」なんど申合ければ、宮墻越に被聞召、若其行末にてや有らんと不審多く思食て、「聊御覧ぜられたき御事あり。其衣未あらば持て参れ。」と御使有ければ、「色こそ損じて候へ共未私に候。」とて召寄進せたり。宮能々是を御覧ずるに、御息所を御迎に武文を京へ上せられし時、有井庄司が仕立て進せたりし御衣也。穴不思議やとて、裁余したる切れを召出して、差合せられたるに、あやの文少も不違続きたれば、二目共不被御覧、此衣を御顔に押当て、御涙を押拭はせ給ふ。有井も御前に候けるが、涙を袖に懸つゝ罷立にけり。今は御息所の此世に坐す人とは露も不被思召、此衣の橈に懸りし日を、なき人の忌日に被定、自御経を書写せられ、念仏を唱へさせ給て、「過去聖霊藤原氏女、並物故秦武文共に三界の苦海を出て、速に九品の浄刹に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎の色こそ哀なれ。去程に其年の春の比より、諸国に軍起て、六波羅・鎌倉・九国・北国の朝敵共、同時に滅びしかば、先帝は隠岐国より還幸成り、一宮は土佐の畑より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉公家一統の御世と成て目出かりしか共、一宮は唯御息所の今世に坐さぬ事を歎思食ける処に、淡路の武島に未生て御坐有と聞へければ、急御迎を被下、都へ帰上らせ給ふ。只王質が仙より出て七世の孫に会ひ、方士が海に入て楊貴妃を見奉りしに不異。御息所は、「心づくしに趣し時の心憂さ、浪に回りし泡の消るを争そう命の程、堪兼たりし襟は御推量りも浅くや。」とて、御袖濡る許なり。宮は又「外渡る舟の梶の葉に、書共尽ぬ御歎、無跡問し月日の数、御身に積りし悲みは、語るも言は愚か也。」と書口説せ給ひける。さしも憂かりし世中の、時の間に引替て、人間の栄花、天上の娯楽、不極云事なく、不尽云御遊もなし。長生殿の裏には、梨花の雨不破壌を、不老門の前には、楊柳の風不鳴枝。今日を千年の始めと、目出きためしに思食たりしに、楽尽て悲み来る人間の習なれば、中一年有て、建武元年の冬の比より又天下乱て、公家の御世、武家の成敗に成しかば、一宮は終に越前金崎の城にて御自害有て、御首京都に上て、禅林寺長老夢窓国師、喪礼被執行など聞へしかば、御息所は余りの為方なさに御車に被助載て、禅林寺の辺まで浮れ出させ給へば、是ぞ其御事と覚敷て、墨染の夕の雲に立煙、松の嵐に打靡き、心細く澄上る。さらぬ別の悲さは、誰とても愚ならぬ涙なれ共、宮などの無止事御身を、剣の先に触て、秋の霜の下に消終させ給ぬる御事は、無類悲なれば、想像奉る今はの際の御有様も、今一入の思ひを添て、共に東岱前後の烟と立登り、北芒新丘の露共消なばやと、返る車の常盤に、臥沈ませ給ける、御心の中こそ哀なれ。行て訪旧跡、竹苑故宮月心を傷しめ、帰臥寒閨、椒房寡居の風夢を吹、著見に順聞に、御歎日毎に深く成行ければ、軈御息所も御心地煩ひて、御中陰の日数未終先に、無墓成せ給ひければ、聞人毎に押並て、類ひ少なき哀さに、皆袂をぞ濡しける。


167 比叡山開闢事

金崎の城被攻落て後、諸国の宮方失力けるにや。或は降参し、或は退散して、天下将軍の威に随ふ事、宛如吹風靡草木。在々所々に宮方の城有て、山門又如何なる事をかし出さんずらんと危まれし程こそ、衆徒の心を不違、山門の所領共に被成安堵たりしか、今天下已に武威に帰して静謐しぬる上は、何の憤か可有とて、以前の成敗の事を変じて、山門を三井寺の末寺にやなす、又若干の所領を塞げたるも無益なれば、只一円に九院を没倒し衆徒を追出して、其跡を軍勢にや可充行、高・上杉の人々、将軍の御前に参じて評定しける処に、北小路の玄慧法印出来れり。武蔵守師直、「此人こそ大智広学の物知にて候なれば、加様の事共も存知候はんずれ。此れに山門の事、委く尋問候はゞや。」と被申ければ、将軍、「げにも。」とて、「法印此方へ。」とぞ被呼ける。法印席に直て四海静謐の事共賀し申て、種々の物語共に及びける時、上杉伊豆守重能、法印に向て被申けるは、「以前山門両度の臨幸を許容申て将軍に敵し奉る事無他事。雖然武運合天命に故に、遂に朝敵を一時に亡して、太平を四海に致候き。抑山門毎年の祭礼に、洛中の人民を煩し、三千の聖供共に、国土の庄園を領する事、為世雖多費、公家武家不止之事は、只専御祈祷仰天下静謐故也。而に今為武家結怨、為朝敵致懇祈。是当家の蠧害、釈門の残賊なるべし。風に聞比叡山草創の事、時は延暦の末の年に当れり、君は桓武の治天に始まれり。此寺未立ざりし先に、聖主治国給ふ事相続て五十代、曾異国にも不被侵、妖怪にも不被悩、君巍々の徳を播し、民堂々の化に誇る。以是憶之、有て無益の者は山門也。無て可能山法師也。但山門無ては叶まじき故候哉覧。白河院も、「朕が心に不任は、双六の賽・賀茂河の水・山法師也。」と被仰候けんなる。其議誠に不審しく覚候。御物語候へ、次での才学に仕候はん。」とぞ被申ける。法印熟々と聞之、言語道断の事なり。閉口去塞耳帰らばやと思ひけれ共、若一言の下に、翻邪帰正事もやあらんずらんと思ひければ、中々旨に逆ひ儀を犯す言ばを留めて、長物語をぞ始られける。「夫斯国の起りは家々に伝る処格別にして其説区也といへ共、暫記する処の一儀に、天地已に分れて後、第九の減劫人寿二万歳の時、迦葉仏西天に出世し給ふ。于時大聖釈尊得其授記、住都率天給ひしが、我八相成道之後、遺教流布の地、可有何所と、此南瞻部州を遍く飛行して御覧じけるに、漫々たる大海の上に、一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易と立浪の音あり。釈尊是を聞召て、此波の流止らんずる所、一つの国と成て、吾教法弘通する霊地たるべしと思召ければ、則此浪の流行に随て、遥に十万里の蒼海を凌ぎ給ふ。此波忽に一葉の葦の海中に浮べるにぞ留りにける。此葦の葉果して一の島となる。今の比叡山の麓、大宮権現垂跡給ふ波止土濃也。是故に波止て土濃也とは書るなるべし。其後人寿百歳の時釈尊中天竺摩竭陀国浄飯王宮に降誕し給ふ。御歳十九にて二月上八の夜半に王宮を遁れ出、六年難行して雪山に捨身、寂場樹下に端坐し給ふ事、又六年の後夜に正覚を成し後、頓大三七日、遍小十二年、染浄虚融の演説三十年、一実無相の開顕八箇年、遂に滅度を抜提河の辺、双林樹下に唱給ふ。雖然、仏は元来本有常住周遍法界の妙体なれば、為遺教流布、昔葦の葉の国と成し南閻浮提豊葦原の中津国に到て見給ふに、時は鵜羽不葺合尊の御代なれば、人未仏法の名字をだにも不聞。然共此地大日遍照の本国として、仏法東漸の霊地たるべければ、何れの所にか可開応化利生之門、彼方此方を遍歴し給ふ処に、比叡山の麓楽々名美也志賀の浦の辺に、垂釣坐せる老翁あり。釈尊向之、「翁若此地の主たらば此山を吾に与よ。成結界地仏法を弘ん。」と宣ければ、此翁答曰、「我は人寿六千歳の始より、此所の主として、此湖の七度迄蘆原と変ぜしを見たり。但此地結界の地と成らば、釣する所を可失。釈尊早去て他国に求め給へ。」とぞ惜みける。此翁は是白髭明神也。釈尊因茲、寂光土に帰らんとし給ひける処に、東方浄瑠璃世界の教主医王善逝忽然として来り給へり。釈尊大に歓喜し給て、以前老翁が云つる事を語り給ふに、医王善逝称歎して宣はく、「善哉釈迦尊、此地に仏法を弘通し給はん事。我人寿二万歳の始より此国の地主也。彼老翁未知我。何此山を可奉惜哉。機縁時至て仏法東流せば、釈尊は教を伝る大師と成て、此山を開闢し給へ。我は此山の王と成て久く後五百歳の仏法を可護。」と誓約をなし、二仏各東西に去給にけり。角て千八百年を経て後、釈尊は伝教大師と成せ給ふ。延暦二十三年に始て求法の為に漢土に渡り給ふ。則顕密戒の三学淵底に玉を拾ひ、同二十四年に帰朝し給ぬ。爰に桓武皇帝、法の檀度と成せ給て比叡山を被草創始め、伝教大師承勅、根本中堂を建んとて地を引れけるに、紅蓮の如くなる人の舌一つ土の底に有て法華読誦の声不止。大師怪て其故を問給ふに、此舌答て曰く、「我古へ此山に住して、六万部の法華経を読誦せしが、寿命有限身已に雖壊、音声無尽舌は尚存せり。」とぞ申ける。又中堂造営事終て、為本尊大師御手から薬師の像を作り給しに、一度斧を下して、「像法転時、利益衆生、故号薬師、瑠璃光仏。」と唱へて、礼拝し給ける時に、木像の薬師屈首諾かせ給ひけり。其後大師は小比叡の峯に杉の庵を卜て、暫独住し坐ける。或時角ぞ詠じ給ひける。波母山や小比叡の杉の独居は嵐も寒し問人もなしと被遊、観月を澄して御坐ける処に、光明嚇奕たる三つの日輪、空中より飛下れり。其光の中に釈迦・薬師・弥陀の三尊光を並べて坐し給ふ。此三尊或は僧形を現或は俗体に変じて、大師を礼し奉て、「十方大菩薩・愍衆故行道・応生恭敬心・是則我大師。」と讚給ふ。大師大に礼敬し給て、「願は其御名を聞ん。」と問給ふに、三尊答曰、「竪の三点に横の一点を加へ、横の三点に竪の一点を添ふ。我内には円宗の教法を守り、外には済度の方便を助けん為に、此山に来れり。」と答給ふ。其光天に懸れる事、百練の鸞鏡の如し。大師此言を以て文字を成に、竪の三点に横の一点を加へては、山と云字也。横の三点に竪の一点を添ては王と云字也。山は是高大にして不動形、王は天・地・人の三才に経緯たる徳を顕し玉へる称号なるべしとて、其神を山王と崇め奉る。所謂大宮権現は久遠実成の古仏、天照太神の応作、専護円宗教法、久宿比叡山。故に法宿大菩薩とも奉申。既是三界の慈父、我等が本師也。聖真子は九品安養界の化主、八幡大菩薩の分身、光を和四明麓、速示三聖形。雖十悪猶引接事は、疾風の雲霧を披よりも甚し。雖一念必感応なる事は、喩之巨海納涓露。和光同塵は既に為結縁始。往生安楽は豈非得脱終乎。二の宮は初め大聖釈尊と約をなし給ひし東方浄瑠璃世界の如来、吾国秋津州の地主也。随所示願の誓ひ既に叶ふ。現世安隠人望、願生西方の願、豈非後生菩提指南乎。八王子は千手観音の垂跡、以無垢三昧力、済奈落伽重苦、潅頂大法王子也。故に云大八王子。本地清涼の月は雖処安養界、応化随縁の影は遥に顕麓祠露に。各所居の浄土を表ば、是然ら補陀楽山共申つべし。客人宮は十一面観音の応作、白山禅定の霊神也。而助山王行化を、出北陸之崇峯来東山之霊地、故号客人。現在生の中には得十種勝利を、臨命終の時には生九品蓮台。十禅師の宮は無仏世界の化王、地蔵薩■の応化也。忝も受牟尼遺教、懇預■利付嘱に。二仏中間の大導師、三聖執務の法体也。彼御託宣に云、「三千の衆徒を養て我子とし、一乗の教法を守て我命とす。」と示し給ふ。設ひ雖微少結縁也。宜蒙莫大利益。三の宮は普賢菩薩の権化、妙法蓮華の正体也。一乗読誦の窓の前には、影向を垂て哀愍を納受し給ふ。既是慚愧懺悔の教主たり。六根罪障の我等何不奉仰之哉。次に中七社、牛の御子は大威徳、大行事は毘沙門、早尾は不動、気比は聖観音、下八王子は虚空蔵、王子の宮は文殊、聖女は如意輪、次に下七社の小禅師は弥勒竜樹、悪王子は愛染明王、新行事は吉祥天女、岩滝は弁才天、山末は摩利支天、剣宮は不動、大宮の竃殿は大日、聖真子の竃殿は金剛界の大日、二宮竃殿は日光・月光各出大悲門趣利生之道給ふ。其後四所の菩薩、化を助けて十方より来至し、三七の霊神光を並べて四辺に囲繞し給ふ。夫済渡利生の区なる徳、百千劫の間に舌を暢て説共不可尽。山は戒定慧の三学を表し建三塔。人は一念三千の義を以て員とす。十二願王回眸故に、天下の治乱此冥応に不懸と云事なく、七社権現垂跡故に、海内の吉凶其玄鑒に不依と云事なし。されば朝廷に有事日は祈之除災致福。山門有訴時は傷之以非被理。爰に両度の臨幸を山門に許容申たりしは、一往衆徒の僻事に以て候へ共、窮鳥入懐時は狩人も哀之不殺事にて候。況乎十善の君の御恃あらんに誰か可不与申。譬ば其時の久執の輩、少々相残て野心を挿み候共、武将忘其恨、厚恩被行徳候者、敵の運を祈らんずる勤は却て一家の祈となり、朝敵を贔負せん心変じて、御方の御ために無弐者と成り候べし。」と、内外の理致明かに、尽言被申たりければ、将軍・左兵衛督を奉始、高・上杉・頭人・評定衆に至る迄、さては山門なくて、天下を治る事有まじかりけりと信仰して、則旧領安堵の外に、武家益々寄進の地をぞ被副ける。