太平記/巻第十七

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巻第十七

145 山攻事付日吉神託事

主上二度山門へ臨幸なりしかば、三千の衆徒去ぬる春の勝軍に習て、弐ろなく君を擁護し奉り、北国・奥州の勢を待由聞へければ、将軍・左馬頭・高・上杉の人々、東寺に会合して合戦の評定あり。事延引して義貞に勢付なば叶まじ。勢未だ微なるに乗て山門を可攻とて、六月二日四方の手分を定て、追手・搦手五十万騎の勢を、山門へ差向らる。追手には、吉良・石堂・渋河・畠山を大将として、其勢五万余騎、大津・松本の東西の宿・園城寺の焼跡・志賀・唐崎・如意が岳まで充満したり。搦手には、仁木・細河・今川・荒河を大将として、四国・中国の勢八万余騎、今道越に三石の麓を経て、無動寺へ寄んと志す。西坂本へは、高豊前守師重・高土佐守・高伊予守・南部遠江守・岩松・桃井等を大将として三十万騎、八瀬・薮里・しづ原・松崎・赤山・下松・修学院・北白川まで支て、音無の滝・不動堂・白鳥よりぞ寄たりける。山門には、敵是まで可寄とは思も寄ざりけるにや、道々をも警固せず、関・逆木の構もせざりければ、さしも嶮しき道なれ共、岩石に馴たる馬共なれば、上らぬ所も無りけり。其時しも新田左兵衛督を始として、千葉・宇都宮・土肥・得能に至るまで東坂本に集居て、山上には行歩も叶はぬ宿老、稽古の窓を閉たる修学者の外は、兵一人も無りけり。此時若西坂より寄る大勢共、暫も滞りなく、四明の巓まで打挙りたらましかば、山上も坂本も、防に便り無して、一時に落べかりしを、猶も山王大師の御加護や有けん、俄に朝霧深立隠して、咫尺の内をも見ぬ程なりければ、前陣に作る御方の時の音を、敵の防ぐ矢叫の声ぞと聞誤て、後陣の大勢つゞかねば、そゞろに時をぞ移しける。懸る処に、大宮へをり下て三塔会合しける大衆上下帰山して、将門の童堂の辺に相支て、こゝを前途と防ける間、面に進みける寄手三百人被討、前陣敢て懸らねば、後陣は弥不得進、只水飲の木陰に陣をとり、堀切を堺て、掻楯を掻、互に遠矢を射違て、其日は徒に暮にけり。西坂に軍始りぬと覚へて、時声山に響て聞へければ、志賀・唐崎の寄手十万余騎、東坂本の西穴生の前へ押寄て、時声をぞ揚たりける。爰にて敵の陣を見渡せば、無動寺の麓より、湖の波打際まで、から堀を二丈余に堀通して処々に橋を懸け、岸の上に屏を塗、関・逆木を密しくして、渡櫓・高櫓三百余箇所掻双べたり。屏の上より見越せば、是こそ大将の陣と覚へて中黒の旗三十余流山下風に吹れて、竜蛇の如くに翻りたる其下に、陣屋を双て油幕を引、爽に鎧たる兵二三万騎、馬を後に引立させて、一勢々々並居たり。無動寺の麓、白鳥の方を向上たりければ、千葉・宇都宮・土肥・得能・四国・中国の兵こゝを堅めたりと覚へて、左巴・右巴・月に星・片引両・傍折敷に三文字書たる旗共六十余流木々の梢に翻て、片々たる其陰に、甲の緒を縮たる兵三万余騎、敵近付かば横合にかさより落さんと、轡を双て磬たり。又湖上の方を直下たれば、西国・北国・東海道の、船軍に馴たる兵共と覚て、亀甲・下濃・瓜の紋・連銭・三星・四目結・赤幡・水色・三■、家々の紋画たる旗、三百余流、塩ならぬ海に影見へて、漕双べたる舷に、射手と覚へたる兵数万人、掻楯の陰に弓杖を突て横矢を射んと構へたり。寄手誠に大勢なりといへども、敵の勢に機を被呑て、矢懸りまでも進み得ず、大津・唐崎・志賀の里三百余箇所に陣を取て、遠攻にこそしたりけれ。六月六日、追手の大将の中より西坂の寄手の中へ使者を立て、「此方の敵陣を伺見候へば、新田・宇都宮・千葉・河野を始として、宗との武士共、大畧皆東坂本を堅たりとみへて候。西坂をば嶮きを憑て、公家の人々、さては山法師共を差向て候なる。一軍手痛く攻て御覧候へ。はか/\しき合戦はよも候はじ、思図に大岳の敵を追落されて候はゞ、大講堂・文殊楼の辺に引へて、火を被挙候へ。同時に攻合せて、東坂本の敵を一人も余さず、湖水に追はめて亡し候べし。」とぞ牒せられける。西坂の大将高豊前守是を聞て、諸軍勢に向て法を出しけるは、「山門を攻落すべき諸方の相図明日にあり。此合戦に一足も退たらん者は、縦先々抜群の忠ありと云とも、無に処して本領を没収し、其身を可追出。一太刀も敵に打違へて、陣を破り、分捕をもしたらんずる者をば、凡下ならば侍になし、御家人ならば、直に恩賞を可申与。さればとて独高名せんとて抜懸すべからず。又傍輩の忠を猜で危き処を見放つべからず。互に力を合せ、共に志を一にして、斬共射共不用、乗越々々進べし。敵引退かば、立帰さぬさきに攻立て、山上に攻上り、堂舎・仏閣に火を懸て、一宇も不残焼払ひ、三千の衆徒の頚を一々に、大講堂の庭に斬懸て、将軍の御感に預り給へかし。」と、諸人を励まして下知しける、悪逆の程こそ浅猿けれ。諸国の軍勢等此命を聞て、勇み前まぬ者なし。夜已に明ければ、三石・松尾・水飲より、三手に分れて二十万騎、太刀・長刀の鋒を双べ、射向の袖を差かざして、ゑい/\声を出してぞ揚たりける。先一番に中書王の副将軍に被憑たりける千種宰相中将忠顕卿・坊門少将正忠、三百余騎にて被防けるが、松尾より攻上る敵に後を被裹て一人も不残討れてけり。是を見て後陣に支へて防ぎける護正院・禅智坊・道場坊以下の衆徒七千余人、一太刀打ては引上暫支ては引退、次第々々に引ける間、寄手弥勝に乗て、追立々々一息をも継せず、さしも嶮き雲母坂・蛇池を弓手に見成て、大岳までぞ攻あがりける。去程に院々に早鐘撞て、西坂已に被攻破ぬと、本院の谷々に騒ぎ喚りければ、行歩も叶はぬ老僧は鳩の杖に携て、中堂・常行堂なんどへ参て、本尊と共に焼死なんと悲み、稽古鑽仰をのみ事とする修学者などは、経論聖教を腹に当て、落行悪僧の太刀・長刀を奪取て、四郎谷の南、箸塚の上に走挙り、命を捨て闘ける。爰に数万人の中より只一人備後国住人、江田源八泰氏と名乗て、洗革の大鎧に五枚甲の緒を縮、四尺余の太刀所々さびたるに血を付て、ましくらにぞ上たりける。是を見て、杉本の山神大夫定範と云ける悪僧、黒糸の鎧に竜頭の甲の緒をしめ、大立挙の髄当に、三尺八寸の長刀茎短に取て乱足を蹈み、人交もせず只二人、火を散してぞ斬合ける。源八遥の坂を上て、数箇度の戦に腕緩く機疲れけるにや、動ればうけ太刀に成けるを、定範得たり賢しと、長刀の柄を取延源八が甲の鉢を破よ砕よと、重打にぞ打たりける。源八甲の吹返を目の上へ切さげられて、著直さんと推仰きける処を、定範長刀をからりと打棄て、走懸てむずと組。二人が蹈ける力足に、山の片岸崩て足もたまらざりければ、二人引組ながら、数千丈高き小篠原を、上になり下になり覆けるが、中程より別々に成て両方の谷の底へぞ落たりける。此外十四の禅侶、法花堂の衆に至るまで、忍辱の衣の袖を結て肩にかけ、降魔の利剣を提て、向ふ敵に走懸々々、命を風塵よりも軽して防ぎ戦ける程に、寄手の大勢進兼て、四明の巓・西谷口、今三町許に向上て一気休てぞゆらへける。爰に何者か為たりけん、大講堂の鐘を鳴して、事の急を告たりける間、篠の峯を堅めんとて、昨日横川へ被向たりける宇都宮五百余騎、鞭に鐙を合て西谷口へ馳来る。皇居を守護して東坂本に被坐ける新田左中将義貞、六千余騎を率して四明の上へ馳上て、紀清両党を虎韜にすゝませ、江田・大館を魚鱗に連ねて真倒に懸立られけるに、寄手二十万騎の兵共、水飲の南北の谷へ被懸落て、馬人上が上に落重りしかば、さしも深き谷二つ死人に埋て平地になる。寄手此日の合戦に討負て、相図の支度相違しければ、水飲より下に陣を取て、敵の隙を伺ふ。義貞は東坂本を閣て、大岳を陣に取り、昼夜旦暮に闘て、互に陣を不被破、西坂の合戦此侭にて休ぬ。其翌日高豊前守大津へ使を立て、「宗との敵共は、皆大岳へ向たりと見へて候。急追手の合戦を被始て東坂本を攻破り、神社・仏閣・僧坊・民屋に至るまで、一宇も不残焼払て、敵を山上に追上、東西両塔の間に打上て、煙を被挙候はゞ、大岳の敵ども前後に心を迷はして、進退定て度を失つと覚へ候。其時此方より同攻上戦の雌雄を一時に可決。」とぞ牒せられける。吉良・石堂・仁木・細川の人々是を聞て、「昨日は已に追手の勧に依て高家の一族共手の定の合戦を致しつ。今日は又搦手より此陣の合戦を被勧事誠に理に当れり、非可黙止。」とて、十八万騎を三手に分て、田中・浜道・山傍より、態夕日に敵を向て、東坂本へぞ寄たりける。城中の大将には、義貞の舎弟脇屋右衛門佐義助を被置たりければ、東国・西国の強弓・手足を汰へて、土矢間・櫓の上にをき、土肥・得能・仁科・春日部・伯耆守以下の四国・北国の懸武者共二万余騎、白鳥が岳に磬へさせ、船軍に馴たる国々の兵に、和仁・堅田の地下人共を差添て五千余人、兵船七百余艘に掻楯を掻て、湖水の澳に被浮たり。敵陣の構密くして、人の近付べき様なしといへども、軍をせでは敵の落べき様やあるとて、三方の寄手八十万騎相近付て時を作りければ、城中の勢六万余騎、矢間の板を鳴し、舷を敲て時声を合す。大地も為之裂、大山も此時に崩やすらんとをびたゝし。寄手已に堀の前までかづき寄せ、埋草を以て堀をうめ、焼草を積で櫓を落さんとしける時、三百余箇所の櫓・土さま・出屏の内より、雨の降如射出しける矢、更に浮矢一つも無りければ、楯のはづれ旗下に射臥られて、死生の堺を不知者三千人に余れり。寄手余に射殺されける間、持楯の陰に隠んと、少色めきける処を、城中より見澄して、脇屋・堀口・江田・大館の人々六千余騎、三の関を開せて、驀直に敵の中へ懸入る。土肥・得能・仁科・伯耆が勢二千余騎、白鳥より懸下て横合にあふ。湖水に浮べる国々の兵共、唐崎の一松の辺へ漕寄て、さし矢・遠矢・すぢかひ矢に、矢種を不惜射たりける。寄手大勢なりといへ共、山と海と横矢に射白され、田中・白鳥の官軍に被懸立、叶はじとや思けん、又本陣へ引返す。其後よりは日夜朝暮に兵を出し、矢軍許をばしけれ共、寄手は遠攻に為たる許を態にし、官軍は城を不被落を勝にして、はか/゛\しき軍は無りけり。同十六日熊野の八庄司共、五百余騎にて上洛したりけるが、荒手なれば一軍せんとて、軈て西坂へぞ向ひたりける。黒糸の鎧甲に、指のさきまで鎖りたる篭手・髄当・半頬・膝鎧、無透処一様に裹つれたる事がら、誠に尋常の兵共の出立たる体には事替て、物の用に立ぬと見へければ、高豊前守悦思事不斜、軈て対面して、合戦の意見を訪ければ、湯河庄司殊更進出て申けるは、「紀伊国そだちの者共は、少きより悪処岩石に馴て、鷹をつかひ、狩を仕る者にて候間、馬の通はぬ程の嶮岨をも、平地の如に存ずるにて候。ましてや申さん、此山なんどを見て、難所なりと思事は、露許も候まじ。威毛こそ能も候はね共、我等が手づから撓拵て候物具をば、何なる筑紫の八郎殿も、左右なく裏かゝする程の事はよも候はじ。将軍の御大事此時にて候へば、我等武士の矢面に立て、敵矢を射ば物具に請留め、斬らば其太刀・長刀に取付、敵の中へわり入程ならば、何なる新田殿共のたまへ、やわか怺へ候や。」と傍若無人に申せば、聞人見人何れも偏執の思を成にけり。「さらば軈て是をさき武者として攻よ。」とて、六月十七日の辰刻に、二十万騎の大勢、熊野の八庄司が五百余人を先に立て、松尾坂の尾崎よりかづきつれてぞ上たりける。官軍の方に綿貫五郎左衛門・池田五郎・本間孫四郎・相馬四郎左衛門とて、十万騎が中より勝出されたる強弓の手垂あり。池田と綿貫とは、時節東坂本へ遣はされて不居合ば、本間と相馬と二人、義貞の御前に候けるが、熊野人共の真黒に裹つれて攻上けるを、遥に直下し、から/\と打笑ひ、「今日の軍に御方の兵に太刀をも抜せ候まじ。矢一をも射させ候まじ。我等二人罷向て、一矢仕て奴原に肝つぶさせ候はん。」と申、最閑に座席をぞ立たりける。猶も弓を強引ん為に、著たる鎧を脱置て、脇立許に大童になり、白木の弓のほこ短には見へけれ共、尋常の弓に立双べたりければ、今二尺余ほこ長にて、曲高なるを大木共に押撓、ゆら/\と押張、白鳥の羽にてはぎたる矢の、十五束三臥有けるを、百矢の中より只二筋抜て弓に取副、訛歌うたふて、閑々と向の尾へ渡れば、跡に立たる相馬、銀のつく打たる弓の普通の弓四五人張合たる程なるを、左の肩に打かたげて、金磁頭二つ箆撓に取添て、道々撓直爪よりて一村茂る松陰に、人交もなく只二人、弓杖突てぞ立たりける。爰に是ぞ聞へたる八庄司が内の大力よと覚へて、長八尺許なる男の、一荒々たるが、鎖の上に黒皮の鎧を著、五枚甲の緒を縮、半頬の面に朱をさして、九尺に見る樫木の棒を左の手に拳り、猪の目透したる鉞の歯の亘一尺許あるを、右の肩に振かたげて、少もためらふ気色なく、小跳して登る形勢は、摩醯脩羅王・夜叉・羅刹の怒れる姿に不異。あはひ二町許近付て、本間小松の陰より立顕れ、件の弓に十五束三臥、忘るゝ許引しぼり、ひやうと射渡す。志す処の矢坪を些も不違、鎧の弦走より総角付の板まで、裡面五重を懸ず射徹して、矢さき三寸許ちしほに染て出たりければ、鬼歟神と見へつる熊野人、持ける鉞を打捨て、小篠の上にどうど臥す。其次に是も熊野人歟と覚へて、先の男に一かさ倍て、二王を作損じたる如なる武者の、眼さかさまに裂、鬚左右へ分れたるが、火威の鎧に竜頭の甲の緒を縮、六尺三寸の長刀に、四尺余の太刀帯て、射向の袖をさしかざし、後を吃とみて、「遠矢な射そ。矢だうなに。」と云侭に、鎧づきして上ける処を、相馬四郎左衛門、五人張に十四束三臥の金磁頭、くつ巻を残さず引つめて、弦音高く切て放つ。手答とすがい拍子に聞へて、甲の直向より眉間の脳を砕て、鉢著の板の横縫きれて、矢じりの見る許に射篭たりければ、あつと云声と共に倒れて、矢庭に二人死にけり。跡に継ける熊野勢五百余人、此矢二筋を見て、前へも不進後ろへも不帰、皆背をくゝめてぞ立たりける。本間と相馬と二人ながら是をば少しもみぬ由にて、御方の兵の二町許隔たりける向の尾に陣を取て居りけるに向て、「例ならず敵共のはたらき候は、軍の候はんずるやらん。ならしに一矢づゝ射て見候はん。何にても的に立させ給へ。」と云ければ、「是を遊ばし候へ。」とて、みな紅の扇に月出したるを矢に挟て遠的場だてにぞ立たりける。本間は前に立、相馬は後に立て、月を射ば天の恐も有ぬべし。両方のはづれを射んずるぞと約束して、本間はたと射れば、相馬もはたと射る。矢所約束に不違、中なる月をぞ残しける。其後百矢二腰取寄て、張がへの弓の寸引して、「相摸国の住人本間孫四郎資氏、下総国の住人相馬四郎左衛門尉忠重二人、此陣を堅て候ぞ。矢少々うけて、物具の仁の程御覧候へ。」と高らかに名乗ければ、跡なる寄手二十万騎、誰追としも無れども、我先にとふためきて、又本の陣へ引返す。如今矢軍許にて日を暮し夜を明さば、何年責る共、山落る事やは可有と、諸人攻あぐんで思ける処に、山徒金輪院の律師光澄が許より、今木の少納言隆賢と申ける同宿を使にて、高豊前守に申けるは、「新田殿の被支候四明山の下は、山上第一の難所にて候へば、輒く攻破られん事難叶とこそ存候へ。能物馴て候はんずる西国方の兵を四五百人、此隆賢に被相副、無動寺の方より忍入り、文殊楼の辺四王院の傍にて時声を被揚候はゞ、光澄与力の衆徒等、東西両塔の間に、旗を挙時声を合て、山門をば時の間に、攻落し候べし。」とぞ申ける。あわれ山徒の中に御方する者の一人なり共出来あれかしと、念願しける処に、隆賢忍やかに来、夜討すべき様を申ければ、高豊前守大に喜で、播磨・美作・備前・備中四箇国の勢の中より、夜討に馴たる兵五百余人を勝て、六月十八日の夕闇に四明の巓へぞ上せける。隆賢多年の案内者なる上、敵の有所無所委見置たる事なれば、少しも道に迷べきにては無りけるが、天罰にてや有けん、俄に目くれ心迷て、終夜四明の麓を北南へ迷ありきける程に、夜已に明ければ紀清両党に見付られて、中に被取篭ける間、迹なる武者共百余人討れて、谷底へ皆ころび落ぬ。隆賢一人は、深手数箇所負て、腹を切んとしけるが、上帯を解隙に被組て生虜れにけり。大逆の張本なれば、軈てこそ斬らるべかりしを、大将山徒の号に宥如して、御方にある一族の中へ遣はされ、「生て置ん共、殺されんとも意に可任。」と被仰ければ、今木中務丞範顕畏て、「承候。」とて、則使者の見ける前にて、其首を刎てぞ捨たりける。忝も万乗の聖主、医王山王の擁護を御憑有て、臨幸成たる故に、三千の衆徒悉仏法と王法と可相比理を存じて、弐なく忠戦を致す処に、金輪院一人山徒の身として我山を背き、武士の家に非して将軍に属し、剰弟子同宿を出し立て、山門を亡んと企ける心の程こそ浅猿けれ。されば悪逆忽に顕て、手引しつる同宿ども、或は討れ或は生虜れぬ。光澄は無幾程して、最愛の子に殺されぬ。其子は又一腹一生の弟に討れて、世に類なき不思議を顕ける神罰の程こそ怖しけれ。去程に越前の守護尾張守高経・北陸道の勢を率して、仰木より押寄て、横川を可攻と聞へければ、楞厳院九谷の衆徒、処々のつまり/\に関を拵へ逆木を引て要害を構へける。其比大師の御廟修造の為とて、材木を多く山上に引のぼせたりけるを、櫓の柱、矢間の板にせんとて坂中へぞ運ける。其日、般若院の法印が許に召仕ける童、俄に物に狂て様々の事を口走けるが、「我に大八王子の権現つかせ給たり。」と名乗て、「此御廟の材木、急本の処へ返し運ぶべし。」とぞ申ける。大衆是を不審して、「誠に八王子権現のつかせ給たる物ならば、本地内証朗にして諸教の通儀明かなるべし。」とて、古来碩学の相承し来る一念三千の法門、唯受一人の口決共を様々にぞ問たりける。此童から/\と打笑て、「我和光の塵に交る事久して、三世了達の智も浅く成ぬといへ共、如来出世の御時会座に列て聞し事なれば、あら/\云て聞かせん。」とて、大衆の立てつる処の不審、一々に言に花をさかせ理に玉を聯ねて答へける。大衆皆是に信を取て、重て山門の安否、軍の勝負を問ふに、此物つき涙をはら/\と流して申けるは、「我内には円宗の教法を守り、外には百王の鎮護を致さん為に、当山開基の初より跡を垂し事なれば、何にも吾山の繁昌、朝廷の静謐をこそ、心に懸て思ふ事なれ共、叡慮の向ふ所も、富貴栄耀の為にして、理民治世の政に非ず、衆徒の願ふ心も、皆驕奢放逸の基にして、仏法紹隆の為に非ざる間、諸天善神も擁護の手を休め、四所三聖も加被の力を不被回。悲哉、今より後朝儀久く塗炭に落て、公卿大臣蛮夷の奴となり、国主はるかに帝都を去て、臣は君を殺し、子は父を殺す世にならんずる事の浅猿さよ。大逆の積り却て其身を譴る事なれば、逆臣猛威を振はん事も、又久しからじ。嗚呼恨乎、師重が吾山を攻落して堂舎・仏閣を焼払はんと議する事、看々人々、明日の午刻に早尾大行事を差遣して、逆徒を四方に退けんずる者を。此上は吾山に何の怖畏か可有。其材木皆如元運返せ。」と託宣して、此童自四五人して持程なる大木を一つ打かつぎ、御廟の前に打捨、手足を縮めて振ひけるが、「明日の午刻に、敵を追払ふべしと云神託、余りに事遠からで、誠共覚へず、一事も若相違せば、申処皆虚説になるべし。暫く明日の様を見て思合する事あらば、後日にこそ奏聞を経め。」と申して、其日の奏し事を止めければ、神託空く衆徒の胸中に蔵れて、知人更に無りけり。山門には西坂に軍あらば、本院の鐘をつき、東坂本に合戦あらば、生源寺の鐘を鳴すべしと方々の約束を定たりける。爰に六月二十日の早旦に早尾の社の猿共数群来て、生源寺の鐘を東西両塔に響渡る程こそ撞たりけれ。諸方の官軍、九院の衆徒是を聞て、すはや相図の鐘を鳴すは。さらば攻口へ馳向て防がんとて、我劣らじと渡り合ふ。東西の寄手此形勢を見て、山より逆寄に寄するぞと心得て、水飲・今路・八瀬・薮里・志賀・唐崎・大津・松本の寄手共、楯よ物具よと、周章色めきける間、官軍是に利を得て、山上・坂本の勢十万余騎、木戸を開、逆木を引のけて打て出たりける。寄手の大将蹈留て、「敵は小勢ぞ、引て討るな。きたなし返せ。」と下知して、暫支たりけれ共、引立たる大勢なれば一足も不留。脇屋右衛門佐義助の兵五千余騎、志賀の炎魔堂の辺に有ける敵の向ひ城に、五百余箇所に東西火を懸て、をめき叫で揉だりける。敵陣こゝより破て、寄手の百八十万騎、さしも嶮しき今路・古道・音無の滝・白鳥・三石・大岳より、人雪頽をつかせてぞ逃たりける。谷深して行さきつまりたる所なれば、馬人上が上に落重て死ける有様は、伝聞治承の古へ、平家十万余騎の兵、木曾が夜討に被懸立て、くりから谷に埋れけるも、是には過じと覚へたり。大将高豊前守は太股を我太刀に突貫て引兼たりけるを、舟田長門守が手者是を生虜り白昼に東坂本を渡し、大将新田左中将の前に面縛す。是は仏敵・神敵の最たれば、「重衡卿の例に任すべし。」とて、山門の大衆是を申請て、則唐崎の浜に首を刎てぞ被懸ける。此豊前守は将軍の執事高武蔵守師直が猶子の弟にて、一方の大将を承る程の者なれば、身に替らんと思者共幾千万と云数を不知しか共、若党の一人も無して、無云甲斐敵に被生取けるは、偏に医王山王の御罰也けりと、今日は昨日の神託に、げにやと被思合て、身の毛も弥立つ許なり。


146 京都両度軍事

六月五日より同二十日まで、山門数日の合戦に討るゝ者疵を被る者、何千万と云数を不知。結句寄手東西の坂より被追立、引退たる兵共は、京中にも猶足を留めず、十方へ落行ける間、洛中以外に無勢に成て、如何はせんと仰天す。此時しも山門より時日を回らさず寄たらましかば、敵重て都にはよも怺へじと見へけるを、山門に様々の異義有て、空く十余日を過されける程に、辺土洛外に逃隠たる兵共、機を直して又立帰ける間、洛中の勢又大勢に成にけり。是をば不知、山門には京中無勢也と聞て、六月晦日十万余騎を二手に分て、今路・西坂よりぞ寄たりける。将軍始は態と小勢を河原へ出して、矢一筋射違へて引んとせられける間、千葉・宇都宮・土肥・得能・仁科・高梨が勢、勝に乗て京中へ追懸て攻入る。飽まで敵を近付て後、東寺より用意の兵五十万騎を出して、竪小路・横小路に機変の陣をはり、敵を東西南北より押隔て、四方に当り八方に囲で余さじと闘。寄手片時が間に五百余人被討て西坂を差て引返す。さてこそ京勢は又勢に乗り山門方は力を落して、牛角の戦に成にけり。角て暫は合戦も無りけるに、二条の大納言師基卿、北国より、敷地・上木・山岸・瓜生・河島・深町以下の者三千余騎を率して、七月五日東坂本へ著給ふ。山門是に又力を得て同十八日京都へぞ被寄ける。前には京中を経て、遥々と東寺まで寄ればこそ、小路ぎりに前後左右の敵を防かねて其囲をば破かねつれ、此度は、一勢は二条を西へ内野へ懸出て、大宮を下りに押寄せ、一勢は河原を下りに押寄せ、東西より京を中に挿て、焼攻にすべしとぞ被議ける。此謀いかなる野心の者か京都へ告たりけん、将軍是を聞すましてげれば、六十万騎の勢を三手に分、二十万騎をば東山と七条河原に被置たり。是は河原より寄んずる敵を、東西より却て中に取篭ん為なり。二十万騎をば船岳山の麓、神祇官の南に被隠置たり。是は内野より寄んずる敵を、南北より引裹まん為也。残る二十万騎をば西八条東寺の辺に磬へさせて、軍門の前に被置たり。是は諸方の陣族の被懸散ば、悪手に替らん為也。去程に明れば十八日卯刻に、山門の勢、北白河・八瀬・薮里・下松・修学院の前に押寄て東西二陣の手を分つ。新田の一族五万余騎は、糾杜を南に見て、紫野を内野へ懸通る。二条師基卿・千葉介・宇都宮・仁科・高梨、真如堂を西へ打過て、河原を下りに押寄る。其手の足軽共走散り、京中の在家数百箇所に火を懸たりければ、猛火天に満ち翻て、黒烟四方に吹覆ふ。五条河原より軍始て、射る矢は雨〔の〕如く、剣戟電の如し。軈て内野にも合戦始て、右近の馬場の東西、神祇官の南北に、汗馬の馳違音、時声に相交て、只百千の雷の大地に振ふが如く也。暫有て五条川原の寄手、一戦に討負て引たりける程に、内野の大勢弥重て、新田左中将兄弟の勢を、十重・二十重に取巻て、をめき叫で攻戦ふ。され共義貞の兵共、元来機変磬控百鍛千錬して、己が物と得たる所なれば、一挙に百重の囲を解て、左副右衛一人も討れず、返合々々戦て、又山へ引帰す。夫武の七書に言、云、「将謀泄則軍無利、外窺内則禍不制。」とて、此度の洛中の合戦に官軍即討負ぬる事、たゞ敵内通の者共の御方に有ける故也とて、互に心を置あへり。


147 山門牒送南都事

官軍両度の軍に討負て、気疲れ勢ひ薄く成てげれば、山上・坂本に何なる野心の者か出来て、不慮の儀あらんずらんと、主上玉■を安くし給はず、叡襟を傾けさせ給ければ、先衆徒の心を勇しめん為に、七社の霊神九院の仏閣へ、各大庄二三箇所づゝを寄附せらる。其外一所住とて、衆徒八百余人早尾に群集して、軍勢の兵粮已下の事取沙汰しける衆の中へ、江州の闕所分三百余箇所を被行て、当国の国衙を山門永代管領すべき由、永宣旨を成て被補任。若今官軍勝事を得ば、山門の繁昌、此時に有ぬと見へけれ共、三千の衆徒悉此抽賞に誇らば、誰か稽古の窓に向て三諦止観の月を弄び、鑽仰の嶺に攀て一色一香の花を折らん。富貴の季には却て法滅の基たるべければ、神慮も如何有らんと智ある人は是を不悦。同十七日三千の衆徒、大講堂の大庭に三塔会合して僉議しけるは、「夫吾山者当王城之鬼門、為神徳之霊地。是以保百王之宝祚、依一山之懇誠。鎮四夷之擾乱、唯任七社之擁護。爰有源家余裔尊氏・直義者。将傾王化亡仏法。訪大逆於異国、禄山比不堪。尋積悪於本朝、守屋却可浅。抑普天之下無不王土。縦使雖為釈門之徒、此時蓋尽致命之忠義。故北嶺天子本命之伽藍也。何運朝廷輔危之計略。南都博之氏寺也。須救藤氏類家之淹屈。然早牒送東大・興福両寺、可被結義戦戮力之一諾。」、三千一同に僉議して、則南都へ牒状を送りける。其詞に云、延暦寺牒興福寺衙請早廻両寺一味籌策、御追罰朝敵源尊氏・直義以下逆徒、弥致仏法・王法昌栄状。牒、仏法伝吾邦兮七百余歳、祝皇統益蒼生者、法相円頓之秘■最勝。神明垂権跡兮七千余座、鎮宝祚耀威光者、四所三聖之霊験異他。是以先者淡海公建興福寺、以瑩八識五重之明鏡、後者桓武帝開比叡山、以挑四教三観之法灯。爾以降南都北嶺共掌護国護王之精祈。天台法相互究権教実教之奥旨。寔是以仏法守王法濫觴、以王法弘仏法根源也。因茲当山有愁之時、通白疏而談懇情。朝家有故之日、同丹心而祈安静。五六年以来天下大乱民間不静。就中尊氏・直義等、起自辺鄙之酋長、飽浴超涯之皇沢。未知君臣之道、忽有犲狼之心。樹党而誘引戎虜、矯詔而賊害藩籬。倩思王業再興之聖運、更非尊氏一人之武功、企叛逆無其辞。以義貞称其敵、貪天功而為己力、咎犯之所恥也。仮朝錯挙逆謀、劉■之所亡也。為臣犯君忘恩背義、開闢以来未聞其迹。遂乃去春之初、猛火甚於燎原、九重之城闕成灰燼。暴風扇于区宇、無辜之民黎堕塗炭。論其濫悪誰不歎息。且為避当時之災■、且為仰和光之神助、廻仙蹕於七社之瑞籬、任安全於四明之懇府。衆徒之心、此時豈敢乎。爰三千一揆、忘身命扶義兵。老少同心、代冥威伏異賊。王道未衰、神感潜通之故也。逆党巻旗而奔西、凶徒倒戈而敗北。喩猶紅炉之消雪、相似団石之圧卵。昔晉之祈八公也。早覆符堅之兵、唐之感四王也。乍却吐蕃之陣。蓋乃斯謂歟。遂使儼鸞輿之威儀促鳳城之還幸。天掃■搶、上下同見慶雲之色。海剪鯨鯢、遠近尽歇逆浪之声。然是学侶群侶之精誠也。豈非医王山王之加護哉。而今賊党再窺覦帝城、官軍暫彷徨征途。仍慣先度之朝儀、重及当社之臨幸。山上山下興廃只在此時。仏法王法盛衰豈非今日乎。天台之教法、七社之霊験、偏共安危於朝廷。法相之護持、四所之冥応、盍加贔屓於国家。貴寺若存報国之忠貞者、衆徒須運輔君之計略矣。満山之愁訴、猶通音問而成合体。一朝之治乱、何随群議、而無与力。仍勒事由、牒送如件。敢勿猶予。故牒。延元々年六月日延暦寺三千衆徒等とぞ被書たる。状披閲の後、南都大衆則山門に同心して返牒を送る。其状云、

興福寺衆徒牒延暦寺衙来牒一紙牒、夫観行五品之居勝位也。学円頓於河淮之流。等覚無垢之円上果也。敷了義於印度之境。是以隋高祖之崇玄文、玉泉水清。唐文皇奮神藻、瑶花風芳。遂使一夏敷揚之奥■遥伝于叡山。三国相承之真宗、独留于吾寺以降、及于千祀、軌垂百王。寔是弘仏法之宏規、護皇基之洪緒者也。彼尊氏・直義等、遠蛮之亡虜、東夷之降卒也。雖非鷹犬之才、屡忝爪牙之任。乍忘朝奨還挿野心。討揚氏兮為辞、在藩渓兮作逆。劫略州県、掠虜吏民。帝都悉焼残、仏閣多魔滅。軼赤眉之入咸陽、超黄巾寇河北。濫吹之甚、自古未聞。天誅之所覃、冥譴何得遁。因茲去春之初、鋤■棘矜一摧関中焉、匹馬倚輪纔遁海西矣。今聚其敗軍擁彼余衆、不恐雷霆之威、重待斧鉞之罪。六軍徘徊、群兇益振。是則孟津再駕之役、独夫所亡也。城濮三舎之謀、侍臣攸敗也。夫違天者有大咎。失道者其助寡。積暴之勢豈又能久乎。方今廻皇輿於花洛之外、張軍幕於猶渓之辺。三千群侶、定合懇祈之掌、七社霊神、鎮廻擁護之眸者歟。彼代宗之屯長安也。観師於香積寺之中。勾践之在会稽也。陣兵天台山之北。事叶先蹤、寧非佳摸乎。爰当寺衆徒等、自翠花北幸、抽丹棘中庭。専祈宝祚之長久、只期妖■之滅亡。精誠無弐、冥助豈空乎。就中寺辺之若輩、国中之勇士、頻有加官軍之志、屡廻退凶徒之策。然而南北境阻、風馬之蹄不及、山川地殊、雲鳥之勢難接矣。矧亦賊徒構謀、寇迫松■之下。人心未和、禍在蕭牆之中。前対燕然之虜、後有宛城之軍、攻守之間進退失度。但綸命屡降、牒送難黙止。速率鋭師、早征凶党、今以状牒。々到准状。故牒。延元々年六月日興福寺衆徒等とぞ書たりける。南都已に山門に与力しぬと聞へければ、畿内・近国に軍の勝負を計かねて何方へか著べきと案じ煩ひける兵共、皆山門に志を通じ、力を合せんとす。雖然堺敵陣を隔てければ、坂本へ馳参事不可叶、「大将を給て陣を取て京都を攻落し候べし。」とぞ申ける。「さらば。」とて、八幡へは四条中納言隆資卿を被差遣。真木・葛葉・禁野・片野・宇殿・賀島・神崎・天王寺・賀茂・三日の原の者共馳集て、三千余騎大渡の橋より西に陣を取て、川尻の道を差塞。宇治へは、中院中将定平を被遣。宇治・田原・醍醐・小栗栖・木津・梨間・市野辺山・城脇の者共馳集て、二千余騎、宇治橋二三間引落て、橘の小島が崎に陣をとる。北丹波道へは、大覚寺の宮を大将とし奉て、額田左馬助を被遣。其勢三百余騎、白昼に京中を打通て、長坂に打上る。嵯峨・仁和寺・高雄・栂尾・志宇知・山内・芋毛・村雲の者共馳集て、千余騎京中を足の下に直下して、京見峠・嵐山・高雄・栂尾に陣をとる。此外鞍馬道をば西塔より塞で、勢多をば愛智・信楽より指塞ぐ。今は四方七つの道、纔に唐櫃越許あきたれば、国々の運送道絶て洛中の士卒兵粮に疲れたり。暫は馬を売、物具を沽、口中の食を継けるが、後には京白川の在家・寺々へ打入て、衣裳を剥取、食物を奪ひくう。卿相雲客も兵火の為に焼出されて、此の辻堂、彼の拝殿に身を側め、僧俗男女は道路に食を乞て、築地の陰、唐居敷の上に飢臥す。開闢以来兵革の起る事多しといへ共、是程の無道は未記処也。京勢は疲れて、山門又つよる由聞へければ、国々の勢百騎・二百騎、東坂本へと馳参る事引もきらず。中にも阿波・淡路より、阿間・志知・小笠原の人々、三千余騎にて参りければ、諸卿皆憑しき事に被思けるにや、今はいつをか可期、四方より牒し合せて、四国の勢を阿弥陀が峯へ差向て、夜々篝をぞ焼せられける。其光二三里が間に連て、一天の星斗落て欄干たるに不異。或夜東寺の軍勢ども、楼門に上て是をみけるが、「あらをびたゝしの阿弥陀が峯の篝や。」と申ければ、高駿河守とりも敢ず、多く共四十八にはよも過じ阿弥陀峯に灯す篝火と一首の狂歌に取成して戯ければ、満座皆ゑつぼに入てぞ笑ける。今一度京都に寄せて、先途の合戦あるべしと、諸方の相図定りにければ、士卒の志を勇めんが為に、忝も十善の天子、紅の御袴をぬがせ給ひ、三寸づゝ切て、所望の兵共にぞ被下ける。七月十三日、大将新田左中将義貞、度々の軍に、打残されたる一族四十三人引具して先皇居へ参ぜらる。主上龍顔麗しく群下を照臨有て、「今日の合戦何よりも忠を尽すべし。」と被仰下ければ、義貞士卒の意に代て、「合戦の雌雄は時の運による事にて候へば、兼て勝負を定めがたく候。但今日の軍に於ては、尊氏が篭て候東寺の中へ、箭一つ射入候はでは、罷帰るまじきにて候なり。」と申て、御前をぞ被退出ける。諸軍勢、大将の前後に馬を早めて、白鳥の前を打過ける時、見物しける女童部、名和伯耆守長年が引さがりて打けるを見て、「此比天下に結城・伯耆・楠木・千種頭中将、三木一草といはれて、飽まで朝恩に誇たる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残たる事よ。」と申けるを、長年遥に聞て、さては長年が今まで討死せぬ事を、人皆云甲斐なしと云沙汰すればこそ、女童部までもか様には云らめ。今日の合戦に御方若討負ば、一人なり共引留て、討死せん者をと独言して、是を最後の合戦と思定てぞ向ける。


148 隆資卿自八幡被寄事

京都の合戦は、十三日の巳刻と、兼て諸方へ触送たりければ、東坂本より寄る勢、関山・今路の辺に引へて、時剋を待ける処に、敵や謀て火を懸たりけん、北白川に焼失出来て、烟蒼天に充満したり。八幡より寄んずる宮方の勢共是を見て、「すはや山門より寄て、京中に火を懸たるは。今日の軍に為をくれば、何の面目か有べき。」とて、相図の剋限をも不相待、其勢纔に三千余騎にて、鳥羽の作道より東寺の南大門の前へぞ寄たりける。東寺の勢、山門より寄る敵を防んとて、河合・北白河の辺へ皆向たりければ、卿相雲客、或は将軍近習の老者・児なんど許集り居て、此敵を可防兵は更になかりけり。寄手の足軽共、鳥羽田の面の畔をつたひ、四塚・羅精門のくろの上に立渡り、散々に射ける間、作道まで打出たりける、高武蔵守師直が五百余騎、被射立て引退く。敵弥勝に乗て、持楯ひしき楯を突寄々々、かづき入て攻ける程に、坤の角なる出屏の上の高櫓一つ、念なく被攻破て焼けり。城中是に躁れて、声々にひしめき合けれ共、将軍は些共不驚給、鎮守の御宝前に看経しておはしける。其前に問注所の信濃入道々大と土岐伯耆入道存孝と二人倶して候けるが、存孝傍を屹と見て、「あはれ愚息にて候悪源太を上の手へ向候はで、是に留て候はゞ、此敵をば輒く追払はせ候はんずる者を。」と申ける処に、悪源太つと参りたり。存孝うれしげに打見て、「いかに上の手の軍は未始まらぬか。」「いやそれは未存知仕候はず。三条河原まで罷向て候つるが、東寺の坤に当て、烟の見へ候間、取て返して馳参じて候。御方の御合戦は何と候やらん。」と申ければ、武蔵守、「只今作道の軍に打負て引退くといへ共、是御陣の兵多からねば、入替事叶はず、已に坤の角の出屏を被打破て、櫓を被焼落上は、将軍の御大事此時也。一騎なりとも御辺打出て此敵を払へかし。」畏て、「承り候。」とて、悪源太御前を立けるを、将軍、「暫。」とて、いつも帯副にし給ける御所作り兵庫鎖の御太刀を、引出物にぞせられける。悪源太此太刀を給て、などか心の勇まざらん。洗皮の鎧に、白星の甲の緒を縮て、只今給りたる金作りの太刀の上に、三尺八寸の黒塗の太刀帯副、三十六差たる山鳥の引尾の征矢、森の如にときみだし、三人張の弓にせき絃かけて噛しめし、態臑当をばせざりけり。時々は馬より飛下りて、深田を歩まんが為也けり。北の小門より打出て、羅精門の西へ打廻り、馬をば畔の陰に乗放て、三町余が外に村立たる敵を、さしつめ引つめ散々にぞ射たりける。一矢に二人三人をば射落せども、あだ矢は一も無りければ、南大門の前に攻寄たる寄手の兵千余人、一度にはつと引退く。悪源太是に利を得て、かけ足逸物馬に打乗、さしも深き鳥羽田中を真平地に懸立て、敵六騎切て落し、十一騎に手負せて、仰たる太刀を押直し、東寺の方を屹と見て、気色ばうたる有様は、いかなる和泉小次郎・朝夷那三郎も是には過じとぞみへたりける。悪源太一人に被懸立て、数万の寄手皆しどろに成ぬと見へければ、高武蔵守師直千余騎にて、又作道を下りに追かくる。越後守師泰は、七百余騎にて竹田を下りに要合せんとす。已に引立たる大勢なれば、なじかは足を留むべき。討るゝをも顧ず、手負をも不助、我先にと逃散て、元の八幡へ引返す。


149 義貞軍事付長年討死事

一方の寄手の破れたるをも不知、相図の剋限よく成ぬとて、追手の大将新田義貞・脇屋義助、二万余騎を率して、今路・西坂本より下て、三手に分れて押寄る。一手は義貞・義助・江田・大館・千葉・宇都宮、其勢一万余騎、大中黒・月に星・左巴、丹・児玉のうちわの旗、三十余流連りて、糾すを西へ打通り、大宮を下りに被押寄。一手には伯耆守長年・仁科・高梨・土居・得能・春日部、以下の国々の勢集て五千余騎、大将義貞の旗を守て鶴翼魚鱗の陣をなし、猪隈を下りに押寄る。一手は二条大納言・洞院左衛門督を両大将にて五千余騎、牡丹の旗・扇の旗、只二流差揚て、敵に跡を切られじと、四条を東へ引亘して、さきへは態進まれず。兼てより阿弥陀が峯に陣を取たりし阿波・淡路の勢千余騎は、未京中へは入ず、泉涌寺の前今熊野辺までをり下て、相図の煙を上たれば、長坂に陣を取たる額田が勢八百余騎、嵯峨・仁和寺の辺に打散、所々に火を懸たり。京方は大勢なれども、人疲れ馬疲れ、而も今朝の軍に矢種は皆射尽したり。寄るは小勢なれ共、さしも名将の義貞、先日度々の軍に打負て、此度会稽の恥を雪んと、牙を咀名を恥づと聞ぬれば、御治世両統の聖運も、新田・足利多年の憤も、只今日の軍に定りぬと、気をつめぬ人は無りけり。去程に六条大宮より軍始て、将軍の二十万騎と義貞の二万騎と入乱て戦たり。射違る矢は、夕立の軒端を過る音よりも猶滋く、打合ふ太刀の鍔音は、空に応る山彦の、鳴り止む隙も無りけり。京勢は小路々々を立塞で、敵を東西より取篭、進まば先を遮り、左右へ分れば中をわらんと、変化機に応じて戦ければ、義貞の兵少も散らで、中をも不破、退て、跡よりも揉で、向ふ敵に懸立々々、大宮を下りにましくらに懸りける程に、仁木・細川・今川・荒川・土岐・佐々木・逸見・武田・小早河、此を被打散、彼に被追立、所々に磬へたれば、義貞の兵二万余騎、東寺の小門前に推寄て、一度に時をどつと作る。義貞坂本を打出し時、先皇居に参て、「天下の落居は聖運に任せ候へば、心とする処に候はず。何様今度の軍に於ては、尊氏が篭て候東寺の中へ矢一射入候はでは、帰参るまじきにて候。」と申て出たりし其言に不違、敵を一と的場の内に攻寄せたれば、今はかうと大に悦で、旗の陰に馬を打すへ城を睨み、弓杖にすがつて、高らかに宣ひけるは、「天下の乱休事無して、無罪人民身を安くせざる事年久し。是国主両統御争とは申ながら、只義貞と尊氏卿との所にあり。纔に一身の大功を立ん為に多くの人を苦しめんより、独身にして戦を決せんと思故に、義貞自此軍門に罷向て候也。それかあらぬか、矢一受て知給へ。」とて、二人張に十三束二臥、飽まで堅めて引しぼり、弦音高く切て放つ。其矢二重に掻たる高櫓の上を越て、将軍の座し給る帷幕の中を、本堂の艮の柱に一ゆり/\て、くつまき過てぞ立たりける。将軍是を見給、「我此軍を起して鎌倉を立しより、全君を傾け奉んと思ふに非。只義貞に逢ひて、憤を散ぜん為也。き。然れば彼と我と、独身にして戦を決せん事元来悦ぶ所也。其門開け、討て出ん。」と宣ひけるを、上杉伊豆守、「是はいかなる御事にて候ぞ。楚の項羽が漢の高祖に向ひ、独身にして戦んと申しをば、高祖あざ笑て汝を討に刑徒を以てすべしと欺き候はずや。義貞そゞろに深入して、引方のなさに能敵にや遭と、ふてゝ仕候を、軽々しく御出ある事や候べき。思も寄ぬ御事に候。」とて、鎧の御袖に取付ければ、将軍無力義者の諌に順ふて、忿を押へて坐し給ふ。懸る処に、土岐弾正少弼頼遠、三百余騎にて、上賀茂に引へて有けるが、五条大宮に引へたる旗を見てければ、大将は皆公家の人々よと見てければ、後ろより時を吐と作て、喚き叫でぞ懸たりける。「すはや後ろより取回しけるは。川原へ引て、広みにて戦へ」と云程こそ有けれ、一戦も不戦、五条川原へはつと追出されて、些も足を不蹈留、西坂本を差して逃たりける。土岐頼遠、五条大宮の合戦に打勝て、勝時を揚ければ、此彼より勢共数千騎馳集て、大宮を下りに、義貞の後へ攻よする。神祇官に磬へたる仁木・細川・吉良・石堂が勢二万余騎は、朱雀を直違に西八条へ推寄る。東よりは小弐・大友・厚東・大内、四国・中国の兵共三万余騎、七条河原を下りに、針・唐橋へ引回して、敵を一人も不討洩引裹。三方は如此百重千重に取巻て、天を翔り地に潜て出るより外は、漏ても可逃方なし。前には城郭堅く守て、数万の兵鏃をそろへて散々に射る。義貞今日を限の運命也と思定給ければ、二万余騎を只一手に成て、八条・九条に引へたる敵十万余騎四角八方へ懸散し、三条河原へ颯と引て出たるを、千葉・宇都宮も、はや所々に引分れ、名和伯耆守長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千余騎一手に成て、一条を東へ引けるが、三百余騎被討て鷺の森へ懸抜たり。長年は二百余騎にて大宮にて返し合せ、我と後の関をさして一人も不残死してけり。其後処々の軍に勝ほこりたる敵三十万騎、纔に討残されたる義貞の勢を真中に又取篭る。義貞も思切たる体にて、一引も引んとはし給はず、馬を皆西頭に立て、討死せんとし給ける処に、主上の恩賜の御衣を切て、笠符に付たる兵共所々より馳集り、二千余騎、戦ひ疲たる大敵を懸立々々揉だりけるに、雲霞の如くなる敵共、馬の足を立兼て、京中へはつと引ければ、義貞・義助・江田・大館、万死を出て一生に逢ひ、又坂本へ被引返。


150 江州軍事

京都を中に篭て四方より寄せば、今度はさりともと憑しく覚へしに、諸方の相図相違して、寄手又打負しかば、四条中納言も、八幡を落て坂本へ被参ぬ。阿弥陀が峯に陣を取し阿波・淡路の兵共も、細川卿律師に打負て、坂本へ帰ぬ。長坂を堅めたりし額田も落て、山上へ帰参しければ、京勢は篭の中を出たる鳥の如く悦、宮方は穴に篭りたる獣の如く縮れり。南都の大衆も山門に可与力由返牒を送しかば、定て力を合せんずらんと待れしかども、将軍より数箇所の庄園を寄附して、被語ける程に、目の前の慾に身の後の恥を忘ければ、山門与力の合戦を翻して、武家合体の約諾をぞなしける。今は君の御憑有ける方とては、備後の桜山、備中の那須五郎、備前の児島・今木・大富が兵船を汰て近日上洛の由申けると、伊勢の愛州が、当国の敵を退治して、江州へ発向すべしと注進したりし許也。山門の衆徒財産を尽して、士卒の兵粮を出すといへ共、公家・武家の従類、上下二十万人に余りたる人数を、六月の始より、九月の中旬まで養ければ、家財悉尽て、共に首陽に莅んとす。剰北国の道をば、足利尾張守高経差塞で人を不通。近江の国も、小笠原信濃守、野路・篠原に陣を取て、湖上往返の舟を留めける間、只官軍朝暮の飢を嗜むのみに非ず、三千の聖供の運送の道塞て、谷々の講演も絶はてゝ、社々の祭礼も無りけり。山門角ては叶まじとて、先江州の敵を退治して、美濃・尾張の通路を開くべしとて、九月十七日に、三塔の衆徒五千余人、志那の浜より襄て、野路・篠原へ押寄る。小笠原、山門の大勢を見て、さしもなき平城に篭て、取巻れなば叶まじとて、逆よせに平野に懸合せて戦ける程に、道場坊注記祐覚、一軍に打負て、立足もなく引ければ、成願坊律師入替て、一人も不残討にけり。山門弥憤を深して、同二十三日、三塔の衆徒の中より五百房の悪僧を勝て、二万余人兵船を連て推渡る。小笠原が勢共、重て寄る山門の大勢に聞懼して大半落失ければ、勢纔三百騎にも不足けり。是を聞て例の大早の極めなき大衆共なれば、後陣の勢をも待調へず我前にとぞ進みける。此大勢を敵に受て落留る程の者共なれば、なじかは些も気を可屈す。小笠原が三百余騎、山徒の向ひ陣を取たりける四十九院の宿へ、未卯刻に推寄て、懸立々々戦けるに、宗との山徒理教坊の阿闍梨を始として、三千余人まで討れにければ、湖上の舟に棹て堅田を差して漕もどる。懸る処に佐々木佐渡判官入道導誉、京より潜に若狭路を廻て、東坂本へ降参して申けるは、「江州は代々当家守護の国にて候を、小笠原上洛の路に滞て、不慮に両度の合戦を致し、其功を以て軈て管領仕候事、導誉面目を失ふ所にて候。若当国の守護職を被恩補候はゞ、則彼国へ罷向ひ、小笠原を追落し、国中を打平げて、官軍に力を著ん事、時日を移すまじきにて候。」とぞ申ける。主上も義貞も、出抜て申とは不知給、「事誠に可然。」とて、導誉が申請る旨に任せて、当国の守護職並に便宜の闕所数十箇所、導誉が恩賞に被行て江州へぞ被遣ける。元来斟て申つる事なれば、導誉江州へ推渡て後、当国をば将軍より給りたる由を申す間、小笠原軈て国を捨て上洛しぬ。導誉忽に国を管領して、弥坂本を遠攻に攻ければ、山徒の遠類・親類、宮方の被管・所縁の者までも、近江国中には迹を可止様ぞ無りける。「さては導誉出抜けり、時刻を不移退治せよ。」と、脇屋右衛門佐を大将にて、二千余騎を江州へ被差向。此勢志那の渡をして、舟より下ける処へ、三千余騎にて推寄せ、上も立ず戦ひける程に、或は遠浅に舟を乗すへ、襄り場に馬を下し兼て、被射落被切臥兵数を不知。此日の軍にも官軍又打負て、纔坂本へ漕返る。此後よりは山上・坂本に弥兵粮尽て、始め百騎二百騎有し者、五騎十騎になり、五騎十騎有し人は、馬にも不乗成にけり。


151 自山門還幸事

斯る処に、将軍より内々使者を主上へ進じて被申けるは、「去々年の冬、近臣の讒に依て勅勘を蒙り候し時、身を法体に替て死を無罪賜らんと存候し処に、義貞・義助等、事を逆鱗に寄て日来の鬱憤を散ぜんと仕候し間、止事を不得して此乱天下に及候。是全く君に向ひ奉て反逆を企てしに候はず。只義貞が一類を亡して、向後の讒臣をこらさんと存ずる許也。若天鑒誠を照されば、臣が讒にをち罪を哀み思召て、竜駕を九重の月に被廻鳳暦を万歳の春に被複候へ。供奉の諸卿、並降参の輩に至で、罪科の軽重を不云、悉本官本領に複し、天下の成敗を公家に任せ進せ候べし。」と、「且は条々御不審を散ぜん為に、一紙別に進覧候也。」とて、大師勧請の起請文を副て、浄土寺の忠円僧正の方へぞ被進ける。主上是を叡覧有て、「告文を進する上、偽てはよも申されじ。」と被思召ければ、傍の元老・智臣にも不被仰合、軈て還幸成べき由を被仰出けり。将軍勅答の趣を聞て、「さては叡智不浅と申せ共、欺くに安かりけり。」と悦て、さも有ぬべき大名の許へ、縁に触れ趣きを伺て、潜に状を通じてぞ被語ける。去程に還幸の儀事潜に定ければ、降参の志ある者共、兼てより今路・西坂本の辺まで抜々に行設けて、還幸の時分をぞ相待ける。中にも江田兵部少輔行義・大館左馬助氏明は、新田の一族にて何も一方の大将たりしかば、安否を当家の存亡にこそ被任べかりしが、いかなる深き所存か有けん、二人共降参せんとて、九日暁より先山上に登てぞ居たりける。義貞朝臣斯る事とは不知給、参仕の軍勢に対面して事なき様にておはしける処へ、洞院左衛門督実世卿の方より、「只今主上京都へ還幸可成とて、供奉の人を召候。御存知候やらん。」と被告たりければ、義貞、「さる事や可有。御使の聞誤にてぞ有覧。」とて、最騒がれたる気色も無りけるを、堀口美濃守貞満聞も敢ず、「江田・大館が、何の用ともなきに、此暁中堂へ参るとて、登山仕つるが怪く覚候。貞満先内裏へ参て、事の様を見奉り候はん。」とて、郎等に被著たる鎧取て肩に投懸け、馬の上にて上帯を縮、諸鐙合せて参ぜらる。皇居近く成ければ、馬より下、甲を脱で中間に持せ、四方を屹と見渡すに、臨幸只今の程とみへて、供奉の月卿雲客、衣冠を帯せるもあり、未鳳輦を大床に差寄て、新典侍、内侍所の櫃を取出し奉れば、頭弁範国、剣璽の役に随て、御簾の前に跪く。貞満左右に少し揖して御前に参、鳳輦の轅に取付、涙を流して被申けるは、「還幸の事、児如の説幽に耳に触候つれ共、義貞存知仕らぬ由を申候つる間、伝説の誤かと存て候へば、事の儀式早誠にて候ける。抑義貞が不義何事にて候へば、多年の粉骨忠功を被思召捨て、大逆無道の尊氏に叡慮を被移候けるぞや。去元弘の始、義貞不肖の身也といへ共、忝も綸旨を蒙て関東の大敵を数日の内に亡し、海西の宸襟を三年の間に休め進せ候し事、恐は上古の忠臣にも類少く、近日義卒も皆功を譲る処にて候き。其尊氏が反逆顕しより以来、大軍を靡して其師を虜にし、万死を出て一生に逢こと勝計るに不遑。されば義を重じて命を墜す一族百三十二人、節に臨で尸を曝す郎従八千余人也。然共今洛中数箇度の戦に、朝敵勢盛にして官軍頻に利を失候事、全戦の咎に非ず、只帝徳の欠る処に候歟。仍御方に参る勢の少き故にて候はずや。詮ずる処当家累年の忠義を被捨て、京都へ臨幸可成にて候はゞ、只義貞を始として当家の氏族五十余人を御前へ被召出、首を刎て伍子胥が罪に比、胸を割て比干が刑に被処候べし。」と、忿る面に泪を流し、理を砕て申ければ、君も御誤を悔させ給へる御気色になり、供奉の人々も皆理に服し義を感じて、首を低てぞ坐られける。


152 立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事

暫有て、義貞朝臣父子兄弟三人、兵三千余騎を召具して被参内たり。其気色皆忿れる心有といへ共、而も礼儀みだりならず、階下の庭上に袖を連ねて並居たり。主上例よりも殊に玉顔を和げさせ給て、義貞・義助を御前近く召れ、御涙を浮べて被仰けるは、「貞満が朕を恨申つる処、一儀其謂あるに似たりといへ共、猶遠慮の不足に当れり。尊氏超涯の皇沢に誇て、朝家を傾んとせし刻、義貞も其一家なれば、定て逆党にぞ与せんと覚しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助て命を天に懸しかば、叡感更に不浅。只汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治めん事をこそ思召つるに、天運時未到して兵疲れ勢ひ廃れぬれば、尊氏に一旦和睦の儀を謀て、且くの時を待ん為に、還幸の由をば被仰出也。此事兼も内々知せ度は有つれ共、事遠聞に達せば却て難儀なる事も有ぬべければ、期に臨でこそ被仰めと打置つるを、貞満が恨申に付て朕が謬を知れり。越前国へは、川島の維頼先立て下されつれば、国の事定て子細あらじと覚る上、気比の社の神官等敦賀の津に城を拵へて、御方を仕由聞ゆれば、先彼へ下て且く兵の機を助け、北国を打随へ、重て大軍を起して天下の藩屏となるべし。但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし。朕已に汝が為に勾践の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡が謀を廻らせ。」と、御涙を押へて被仰ければ、さしも忿れる貞満も、理を知らぬ夷共も、首を低れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日は事騒き受禅の儀、還幸の装に日暮ぬ。夜更る程に成て、新田左中将潜に日吉の大宮権現に参社し玉ひて、閑に啓白し給けるを、「臣苟も和光の御願を憑で日を送り、逆縁を結事日已に久し。願は征路万里の末迄も擁護の御眸を廻らされて、再大軍を起し朝敵を亡す力を加へ給へ。我縦不幸にして命の中に此望を不達と云共、祈念冥慮に不違ば、子孫の中に必大軍を起者有て、父祖の尸を清めん事を請ふ。此二の内一も達する事を得ば、末葉永く当社の檀度と成て霊神の威光を耀し奉るべし。」と、信心を凝して祈誓し、当家累代重宝に鬼切と云太刀を社壇にぞ被篭ける。


153 義貞北国落事

明れば十月十日の巳刻に、主上は腰輿にめされて今路を西へ還幸なれば、春宮は竜蹄にめされ、戸津を北へ行啓なる。還幸の供奉にて京都へ出ける人々には、吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・御子左中納言為定・侍従中納言公明・坊門宰相清忠・勧修寺中納言経顕・民部卿光経・左中将藤長・頭弁範国、武家の人々には、大館左馬頭氏明・江田兵部少輔行義・宇都宮治部大輔公縄・菊池肥後守武俊・仁科信濃守重貞・春日部左近蔵人家縄・南部甲斐守為重・伊達蔵人家貞・江戸民部丞景氏・本間孫四郎資氏・山徒の道場坊助注記祐覚、都合其勢七百余騎、腰輿の前後に相順ふ。行啓の御供にて、北国へ落ける人々には、一宮中務卿親王・洞院左衛門督実世・同少将定世・三条侍従泰季・御子左少将為次・頭大夫行房・子息少将行尹、武士には新田左中将義貞・子息越後守義顕・脇屋右衛門佐義助・子息式部大夫義治・堀口美濃守貞満・一井兵部大輔義時・額田左馬助為縄・里見大膳亮義益・大江田式部大夫義政・鳥山修理亮義俊・桃井駿河守義繁・山名兵庫助忠家・千葉介貞胤・宇都宮信濃将監泰藤・同狩野将監泰氏・河野備後守通治・同備中守通縄・土岐出羽守頼直・一条駿河守為治、其外山徒少々相雑て、都合其勢七千余騎、案内者を前に打せて、竜駕の前後に打囲む。此外妙法院の宮は御舟に被召て、遠江国へ落させ給ふ。阿曾宮は山臥の姿に成て吉野の奥へ忍ばせ給ふ。四条中納言隆資卿は紀伊国へ下り、中院少将定平は河内国へ隠れ給ふ。其有様、偏に只歌舒翰安禄山に打負て、玄宗蜀の国へ落させ給し時、公子・内宮、悉、或は玉趾を跣にして剣閣の雲に蹈迷ひ、或は衣冠を汚して野径の草に逃蔵れし昔の悲に相似たり。昨日一昨日までも、聖運遂に開けば、錦を著て古郷へ帰り、知ぬ里、みぬ浦山の旅宿をも語り出さば、中々にうかりし節も悲きも、忘形見と成ぬべし、心々の有様に身を慰めて有つるに、君臣父子万里に隔り、兄弟夫婦十方に別行けば、或は再会の期なき事を悲み、或は一身の置処なき事を思へり。今も逆旅の中にして、重て行、々も敵の陣帰るも敵の陣なれば、誰か先に討れて哀と聞んずらん、誰か後に死て、なき数を添んずらんと、詞に出ては云はね共、心に思はぬ人はなし。「南翔北嚮、難附寒温於春鴈。東出西流、只寄贍望於暁月。」江相公の書たりし、別れに送る筆の迹、今の涙と成にけり。


154 還幸供奉人々被禁殺事


還幸已に法勝寺辺まで近付ければ、左馬頭直義五百余騎にて参向し、先三種の神器を当今の御方へ可被渡由を被申ければ、主上兼より御用意有ける似せ物を取替て、内侍の方へぞ被渡ける。其後主上をば花山院へ入進せて、四門を閉て警固を居へ、降参の武士をば大名共の方へ一人づゝ預て、召人の体にてぞ被置ける。可斯とだに知たらば、義貞朝臣と諸共に北国へ落て、兎も角も成べかりける者をと、後悔すれ共甲斐ぞなき。十余日を経て後、菊池肥後守は、警固の宥くありける隙を得て本国へ逃下りぬ。又宇都宮は、放召人の如にて、逃ぬべき隙も多かりけれ共、出家の体に成て徒に向居たりけるを、悪しと思ふ者や為たりけん、門の扉に山雀を絵書、其下に一首の歌をぞ書たりける。山がらがさのみもどりをうつのみや都に入て出もやらぬは本間孫四郎は、元より将軍家来の者なりしが、去る正月十六日の合戦より新田左中将に属して、兵庫の合戦の時は、遠矢を射て弓勢の程をあらはし、雲母坂の軍の時は、扇を射て手垂の程を見せたりし、度々の振舞悪ければとて、六条川原へ引出して首を被刎けり。山徒の道場坊助注記祐覚は、元は法勝寺の律僧にて有しが、先帝船上に御座ありし時、大衣を脱で山徒の貌に替へ、弓箭に携て一時の栄華を開けり。山門両度の臨幸に軍用を支し事、偏に祐覚が為処也しかば、山徒の中の張本也とて、十二月二十九日、阿弥陀が峯にて切られけるが、一首の歌を法勝寺の上人の方へぞ送りける。大方の年の暮ぞと思しに我身のはても今夜成けり此外山門より供奉して被出たる三公九卿、纔に死罪一等を被宥たれ共、解官停任せられて、有も無が如くの身に成給ければ、傍人の光彩に向て面を泥沙の塵に低、後生の栄耀を望で涙を犬羊の天に淋く。住にし迹に帰り給けれ共、庭には秋の草

茂て通し道露深く、閨には夜の月のみさし入て塵打払ふ人もなし。顔子が一瓢水清して、独道ある事を知るといへ共、相如が四壁風冷して衣なきに堪ず、五衰退没の今の悲に、大梵高台の昔の楽を思出し給ふにも、世の憂事は数添て、涙の尽る時はなし。


155 北国下向勢凍死事

同十一日は、義貞朝臣七千余騎にて、塩津・海津に著給ふ。七里半の山中をば、越前の守護尾張守高経大勢にて差塞だりと聞へしかば、是より道を替て木目峠をぞ越給ひける。北国の習に、十月の初より、高き峯々に雪降て、麓の時雨止時なし。今年は例よりも陰寒早くして、風紛に降る山路の雪、甲冑に洒き、鎧の袖を翻して、面を撲こと烈しかりければ、士卒寒谷に道を失ひ、暮山に宿無して、木の下岩の陰にしゞまりふす。適火を求得たる人は、弓矢を折焼て薪とし、未友を不離者は、互に抱付て身を暖む。元より薄衣なる人、飼事無りし馬共、此や彼に凍死で、行人道を不去敢。彼叫喚大叫喚の声耳に満て、紅蓮大紅蓮の苦み眼に遮る。今だにかゝり、後の世を思遣るこそ悲しけれ。河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。同十三日義貞朝臣敦賀津に著給へば、気比弥三郎大夫三百余騎にて御迎に参じ、東宮・一宮・総大将父子兄弟を先金崎の城へ入奉り、自余の軍勢をば津の在家に宿を点じて、長途の窮屈を相助く。爰に一日逗留有て後、此勢一所に集り居ては叶はじと、大将を国々の城へぞ被分ける。大将義貞は東宮に付進せて、金崎の城に止給ふ。子息越後守義顕には北国の勢二千余騎を副て越後国へ下さる。脇屋右衛門佐義助は千余騎を副て瓜生が杣山の城へ遣はさる。是は皆国々の勢を相付て、金崎の後攻をせよとの為也。


156 瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事

同十四日、義助・義顕三千余騎にて、敦賀の津を立て、先杣山へ打越給ふ。瓜生判官保・舎弟兵庫助重・弾正左衛門照、兄弟三人種々の酒肴舁せて鯖並の宿へ参向す。此外人夫五六百人に兵粮を持せて諸軍勢に下行し、毎事是を一大事と取沙汰したる様、誠に他事もなげに見へければ、大将も士卒も、皆たのもしき思をなし給。献酌順に下て後、右衛門佐殿の飲給ひたる盃を、瓜生判官席を去て三度傾ける時、白幅輪の紺糸の鎧一領引給ふ。面目身に余りてぞみへたりける。其後判官己が館に帰て、両大将へ色々小袖二十重調進す。此外御内・外様の軍勢共の、余に薄衣なるがいたはしければ、先小袖一充仕立てゝ送るべしとて、倉の内より絹綿数千取出して、俄に是をぞ裁縫せける。斯る処に足利尾張守の方より潜に使者を通じ、前帝より成れたりとて、義貞が一類可御追罰由の綸旨をぞ被送ける。瓜生判官是を見て、元より心遠慮なき者なりければ、将軍より謀て被申成たる綸旨とは思も寄ず。さては勅勘武敵の人々を許容して大軍を動さん事、天の恐も有べしと、忽に心を反じて杣山の城へ取上り、関を閉てぞ居たりける。爰に判官が弟に義鑑房と云禅僧の有けるが、鯖並の宿へ参じて申けるは、「兄にて候保は、愚痴なる者にて候間、将軍より押へて被申成候綸旨を誠と存て、忽に違反の志を挿み候。義鑑房弓箭を取身にてだに候はゞ、差違て共に死ぬべく候へ共、僧体に恥ぢ仏見に憚て、黙止候事こそ口惜覚候へ。但倩愚案を廻し候に、保、事の様を承り開き候程ならば、遂には御方に参じ候ぬと存候。若御幼稚の公達数た御坐候はゞ一人是に被留置進候へ。義鑑懐の中、衣の下にも隠し置進せて、時を得候はゞ御旗を挙て、金崎の御後攻を仕候はん。」と申も敢ず、涙をはらはらとこぼしければ、両大将是が気色を見給て、偽てはよも申さじと疑の心をなし給はず、則席を近付て潜に被仰けるは、「主上坂本を御出有し時、「尊氏若強て申事あらば、休事を得ずして、義貞追罰の綸旨をなしつと覚るぞ。汝かりにも朝敵の名を取らんずる事不可然。春宮に位を譲奉て万乗の政を任せ進らすべし。義貞股肱の臣として王業再び本に複する大功を致せ」と被仰下、三種の神器を春宮に渡し進ぜられし上は、縦先帝の綸旨とて、尊氏申成たり共、思慮あらん人は用るに足ぬ所也と思ふべし。然れ共判官この是非に迷へる上は、重て子細を尽すに及ばず、急で兵を引て、又金崎へ可打帰事已に難儀に及時分、一人兄弟の儀を変じて忠義を顕さるゝ条、殊に有難くこそ覚て候へ。御心中憑もしく覚れば、幼稚の息男義治をば、僧に預申候べし。彼が生涯の様、兎も角も御計候へ。」と宣て、脇屋右衛門佐殿の子息に式部大夫義治とて、今年十三に成給ひけるを、義鑑坊にぞ預けらる。此人鍾愛他に異なる幼少の一子にて坐すれば、一日片時も傍を離れ給はず、荒き風にもあてじとこそ労り哀み給ひしに、身近き若党一人をも付ず、心も知ぬ人に預て、敵の中に留置き給へば、恩愛の別も悲くて、再会の其期知がたし。夜明れば右衛門佐は金崎へ打帰り、越後国へ下んとて、宿中にて勢をそろへ給ふに、瓜生が心替を聞ていつの間にか落行けん、昨日までは三千五百余騎と注したりし軍勢、纔二百五十騎に成にけり。此勢にては、何として越後まで遥々と敵陣を経ては下べし。さらば共に金崎へ引返てこそ、舟に乗て下らめとて、義助も義顕も、鯖並の宿より打連て、又敦賀へぞ打帰り給ける。爰に当国の住人今庄九郎入道浄慶、此道より落人の多く下る由を聞て、打留めん為に、近辺の野伏共を催し集て、嶮岨に鹿垣をゆひ、要害に逆木を引て、鏃を調へてぞ待かけたる。義助朝臣是を見給て、「是は何様今庄法眼久経と云し者の、当手に属して坂本まで有しが一族共にてぞ有らん。其者共ならばさすが旧功を忘じと覚るぞ。誰かある、近付て事の様を尋きけ。」と宣ひければ、由良越前守光氏畏て、「承候。」とて、只一騎馬を磬て、「脇屋右衛門佐殿の合戦評定の為に、杣山の城より金崎へ、かりそめに御越候を、旁存知候はでばし、加様に道を被塞候やらん。若矢一筋をも被射出候なば、何くに身を置て罪科を遁れんと思はれ候ぞ、早く弓を伏せ甲を脱で通申され候へ。」と高らかに申ければ、今庄入道馬より下りて、「親にて候卿法眼久経御手に属して軍忠を致し候しかば、御恩の末も忝存候へ共、浄慶父子各別の身と成て尾張守殿に属し申たる事にて候間、此所をば支申さで通し進せん事は、其罪科難遁存候程に、態と矢一仕り候はんずるにて候。是全く身の本意にて候はねば、あはれ御供仕候人々の中に、名字さりぬべからんずる人を一両人出し給り候へかし。其首を取て合戦仕たる支証に備へて、身の咎を扶り候はん。」とぞ申ける。光氏打帰て此由を申せば、右衛門佐殿進退谷りたる体にて、兎角の言も出されざりければ、越後守見給て、「浄慶が申所も其謂ありと覚ゆれ共、今まで付纏たる士卒の志、親子よりも重かるべし。されば彼等が命に義顕は替るとも、我命に士卒を替がたし。光氏今一度打向て、此旨を問答して見よ。猶難儀の由を申さば、力なく我等も士卒と共に討死して、将の士を重んずる義を後世に伝へん。」とぞ宣ひける。光氏又打向て此由を申に、浄慶猶心とけずして、数刻を移しける間、光氏馬より下て、鎧の上帯切て投捨、「天下の為に重かるべき大将の御身としてだにも、軍勢の命に替らんとし給ぞかし。況や義に依て命を軽ずべき郎従の身として、主の御命に替らぬ事や有べき。さらば早光氏が首を取て、大将を通し進らせよ。」と云もはてず、腰の刀を抜て自腹を切んとす。其忠義を見に、浄慶さすがに肝に銘じけるにや、走寄て光氏が刀に取付、「御自害の事怒々候べからず。げにも大将の仰も士卒の所存も皆理りに覚へ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当られ候共、争でか情なき振舞をば仕り候べき。早御通り候へ。」と申て、弓を伏逆木を引のけて、泣々道の傍に畏る。両大将大に感ぜられて、「我等はたとひ戦場の塵に没すとも、若一家の内に世を保つ者出来ば、是をしるしに出して今の忠義を顕さるべし。」とて、射向の袖にさしたる金作の太刀を抜て、浄慶にぞ被与ける。光氏は主の危を見て命に替らん事を請、浄慶は敵の義を感じて後の罪科を不顧、何れも理りの中なれば、是をきゝ見る人ごとに、称嘆せぬは無りけり。


157 十六騎勢入金崎事

始浄慶が問答の難儀なりしを聞て、金崎へ通らん事叶はじとや思けん、只今まで二百五十騎有つる軍勢、いづちともなく落失て纔十六騎に成にけり。深山寺の辺にて樵の行合たるに、金崎の様を問給へば、「昨日の朝より国々の勢二三万騎にて、城を百重千重に取巻て、攻候也。」とぞ申ける。「さてはいかゞすべき。是より東山道を経て忍で越後へや下る、只爰にて腹をや切る。」と異儀区なりけるを、栗生左衛門進出て申けるは、「何くの道を経ても、越後まで遥々と落させ給はん事叶はじとこそ存候へ。下人の独をもつれぬ旅人の、疲て道を通り候はんを、誰か落人よと見ぬ事の候べき。又面々に爰にて腹を切候はんずる事も、楚忽に覚へ候へば、今夜は此山中に忍て夜を明して、まだ篠目の明はてざらん比をひ、杣山の城より後攻するぞと呼はりて、敵の中へ懸入て戦んに、敵若騒ひで攻口を引退事あらば、差違ふて城へ入候べし。忻て路を遮り候はゞ、思ふ程太刀打して、惣大将の被御覧御目の前にて討死仕て候はんこそ、後までの名も九原の骨にも留り候はんずれ。」と申ければ、十六人の人々皆此義にぞ被同ける。去ば大勢なる体を敵に見する様に謀れとて、十六人が鉢巻と上帯とを解て、青竹の末に結付て旗の様にみせて、此の木の梢、彼の陰に立置て、明るを遅しとぞ待れける。金鶏三たび唱て、雪よりしらむ山の端に、横雲漸引渡りければ、十六騎の人々、中黒の旗一流差挙、深山寺の木陰より、敵陣の後へ懸出て、「瓜生・富樫・野尻・井口・豊原・平泉寺、並に剣・白山の衆徒等、二万余騎にて後攻仕候ぞ。城中の人々被出向候て、先懸者共の剛臆の振舞委く御覧じて、後の証拠に立れ候へ。」と、声々に喚て時の声をぞ揚たりける。其真前に前みける武田五郎は、京都の合戦に切れたりし右の指未痊ずして、太刀のつかを拳るべき様も無りければ、杉の板を以て木太刀を作て、右の腕にぞ結付たりける。二番に前ける栗生左衛門は帯副の太刀無りける間、深山柏の回り一尺許なるを、一丈余に打切て金才棒の如に見せ、右の小脇にかい挟て、大勢の中へ破て入。是を見て金崎を取巻たる寄手三万余騎、「すはや杣山より後攻の勢懸けるは。」とて、馬よ物具よと周章騒ぐ。案の如深山寺に立並たる旗共の、木々の嵐に翻るを見て、後攻の勢げにも大勢なりけりと心得て、攻口に有ける若狭・越前の勢共、楯を捨て弓矢を忘れてはつと引。城中の勢八百余人是に利を得て、浜面の西へ、大鳥居の前へ打出たりける間、雲霞の如くに充満したる大勢共、度を失て十方へ逃散。或は迹に引を敵の追と心得て、返し合せて同士打をし、或要て逃を敵とみて、立留て腹を切もあり、二里三里が外にも猶不止、誰が追としもなき遠引して、皆己が国々へぞ帰りける。


158 金崎船遊事付白魚入船事

去程に、百重千重に城を囲みたりつる敵共、一時の謀に被破て、近辺に今は敵と云者一人も無りければ、是只事に非ずとて、城中の人々の悦合る事限なし。十月二十日の曙に、江山雪晴て漁舟一蓬の月を載せ、帷幕風捲て貞松千株の花を敷り。此興都にて未被御覧風流なれば、逆旅の御心をも慰められん為に、浦々の船を点ぜられ、竜頭鷁首に准て、雪中の景をぞ興ぜさせ給ける。春宮・一宮は御琵琶、洞院左衛門督実世卿は琴の役、義貞は横笛、義助は箏の笛、維頼は打物にて、蘇合香の三帖・万寿楽の破、繁絃急管の声、一唱三嘆の調べ、融々洩々として、正始の音に叶ひしかば、天衆も爰に天降り、竜神も納受する程也。簫韶九奏すれば鳳舞ひ魚跳る感也。誠に心なき鱗までも、是を感ずる事や有けん、水中に魚跳御舟の中へ飛入ける。実世卿是を見給て、「昔周武王八百の諸侯を率し、殷の紂を討ん為に孟津を渡りし時、白魚跳て武王の舟に入けり。武王是を取て天に祭る。果して戦に勝事を得しかば、殷の世を遂に亡して、周八百の祚を保り。今の奇瑞古に同じ。早く是を天に祭て寿をなすべし。」と、屠人是を調て其胙を東宮に奉。春宮御盃を傾させ給ける時、島寺の袖と云ける遊君御酌に立たりけるが、柏子を打て、「翠帳紅閨、万事之礼法雖異、舟中波上、一生之歓会是同。」と、時の調子の真中を三重にしほり歌ひたりければ、儲君儲王忝も叡感の御心を被傾、武将官軍も齊く嗚咽の袖をぞぬらされける。


159 金崎城攻事付野中八郎事

杣山より引返す十六騎の勢に被出抜、金崎の寄手四方に退散しぬる由京都へ聞へければ、将軍大に忿りを成して、軈て大勢をぞ被下ける。当国の守護尾張守高経は、北陸道の勢五千余騎を率して、蕪木より向はる。仁木伊賀守頼章は、丹波・美作の勢千余騎を率して、塩津より向はる。今河駿河守は但馬・若狭の勢七百余騎を率して、小浜より向はる。荒河参川守は丹後の勢八百余騎を率して疋壇より向はる。細川源蔵人は四国の勢二万余騎を率して、東近江より向はる。高越後守師泰は、美濃・尾張・遠江の勢六千余騎を率して、荒血中山より向はる。小笠原信濃守は、信濃国の勢五千余騎を率して、新道より向ふ。佐々木塩冶判官高貞は、出雲・伯耆の勢三千余騎を率して、兵船五百余艘に取乗て海上よりぞ向ひける。其勢都合六万余騎、山には役所を作双べ、海には舟筏を組で、城の四方を囲ぬる事、隙透間も無りけり。彼城の有様、三方は海に依て岸高く巌滑也。巽の方に当れる山一つ、城より少し高ふして、寄手城中を目の下に直下すといへ共、岸絶地僻にして、近付寄ぬれば、城郭一片の雲の上に峙ち、遠して射れば、其矢万仞の谷の底に落つ。さればいかなる巧を出して攻る共、切岸の辺までも可近付様は無りけれ共、小勢にて而も新田の名将一族を尽して被篭たり。寄手大勢にて而も将軍の家礼威を振て向はれたれば、両家の争ひ只此城の勝負に有べしと、各機を張心を専にして、攻戦ふ事片時もたゆまず。矢に当て疵を病、石に打れて骨を砕く者、毎日千人・二千人に及べ共、逆木一本をだにも破られず。是を見て小笠原信濃守、究竟の兵八百人を勝て、東の山の麓より巽角の尾を直違に、かづき連てぞ揚たりける。城には此や被破べき所なりけん、城の中の兵三百余人、二の関を開て、同時に打て出たり。両方相近に成ければ、矢を止て打物になる。防ぐ兵は、此を引ば継て攻入られぬと危みて、一足も不退戦。寄手は無云甲斐引て、敵・御方不被笑と、命を捨てぞ攻たりける。敵さすがに小勢なれば、戦疲れてみへける処に、例の栗生左衛門、火威の鎧に竜頭の甲を夕日に耀かし、五尺三寸の太刀に、樫の棒の八角に削たるが、長さ一丈二三尺も有らんと覚へたるを打振て、大勢の中へ走り懸り、片手打に二三十、重ね打に打たりける。寄手の兵四五十人、犬居にどうと打居られ、中天にづんと被打挙、沙の上に倒れ伏。後陣の勢是を見て、しどろに成て浪打際に村立所へ、気比の大宮司太郎・大学助・矢島七郎・赤松大田の帥法眼、四人無透間打て懸りける間、叶はじとや思けん、小笠原が八百余人の兵、一度にはつと引て本の陣へぞ帰りける。今河駿河守此日の合戦を見て推量するに、「此が如何様被破ぬべき所なればこそ、城より此を先途と出ては戦らめ。陸地より寄せばこそ足立悪て輒く敵には被払つれ。舟て一攻々て見よ。」とて、小舟百余艘に取乗て、昨日小笠原が攻たりし浜際よりぞ上ける。寄と均く切岸の下なる鹿垣一重引破て、軈て出屏の下へ著んとしける処へ、又城より裹まれたる兵二百余人、抜連て打出たりけるに、寄手五百余人真逆に被巻落、我先にと舟にぞ込乗ける。遥に舟を押出して跡を顧に、中村六郎と云者痛手を負て舟に乗殿れ、礒陰なる小松の陰に太刀を倒について、「其舟寄よ。」と招共、あれ/\と許にて、助んとする者も無りけり。爰に播磨国の住人野中八郎貞国と云ける者是を見て、「しらで有んは無力。御方の兵の舟に乗殿れて、敵に討れんとするを、親り見ながら助ぬと云事や有べき。此舟漕戻せ。中村助ん。」と云けれ共、人敢て耳にも不聞入。貞国大に忿て、人の指櫓を引奪て、逆櫓に立、自舟を押返し、遠浅より下立て、只一人中村が前へ歩行。城の兵共是を見て、「手負て引兼たる者は何様宗との人なれば社、是を討せじと、遥に引たる敵共は、又返合すらん。下合て首を取れ。」とて、十二三人が程、中村が後へ走懸りけるを、貞国些も不騒、長刀の石づき取伸て、向敵一人諸膝薙で切居、其頚を取て鋒に貫き、中村を肩に引懸て、閑に舟に乗ければ、敵も御方も是を見て、「哀剛の者哉。」と、誉ぬ人こそ無りけれ。其後よりは、寄手大勢也といへ共、敵手痛く防ければ、攻屈して、只帰り、逆木引、向櫓を掻て、徒に矢軍許にてぞ日を暮しける。