太平記/巻第十五

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巻第十五

116 園城寺戒壇事

山門二心なく君を擁護し奉て、北国・奥州の勢を相待由聞へければ、義貞に勢の著ぬ前に、東坂本を急可被責とて、細川卿律師定禅・同刑部少輔・並陸奥守を大将として、六万余騎を三井寺へ被差遣。是は何も山門に敵する寺なれば、衆徒の所存よも二心非じと被憑ける故也。随而衆徒被致忠節者、戒壇造営の事、武家殊に加力可成其功之由、被成御教書。抑園城寺の三摩耶戒壇の事は、前々已に公家尊崇の儀を以て、勅裁を被成、又関東贔負の威を添て取立しか共、山門嗷訴を恣にして猛威を振ふ間、干戈是より動き、回禄度々に及べり。其故を如何と尋るに、彼寺の開山高祖智証大師と申奉るは、最初叡山伝教大師の御弟子にて、顕密両宗の碩徳、智行兼備の権者にてぞ御坐しける。而るに伝教大師御入滅の後、智証大師の御弟子と、慈覚大師の御弟子と、聊法論の事有て、忽に確執に及ける間、智証大師の門徒修禅三百房引て、三井寺に移る。于時教待和尚百六十年行て祈出し給し生身の弥勒菩薩を智証大師に付属し給へり。大師是を受て、三密瑜伽の道場を構へ、一代説教の法席を展給けり。其後仁寿三年に、智証大師求法の為に御渡唐有けるに、悪風俄に吹来て、海上の御船忽にくつがへらんとせし時、大師舷に立出て、十方を一礼して誠礼を致させ給ひしかば、仏法護持の不動明王、金色の身相を現じて、船の舳に立給ふ。又新羅大明神親りに船の艫に化現して、自橈を取給ふ。依之御舟無恙明州津に著にけり。角て御在唐七箇年の間、寝食を忘て顕密の奥義を究め給ひて、天安三年に御帰朝あり。其後法流弥盛にして、一朝の綱領、四海の倚頼たりしかば、此寺四箇の大寺の其一つとして、論場の公請に随ひ、宝祚の護持を致事諸寺に卓犖せり。抑山門已に菩薩の大乗戒を建、南都は又声聞の小乗戒を立つ。園城寺何ぞ真言の三摩耶戒を建ざらんやとて、後朱雀院の御宇長暦年中に、三井寺の明尊僧正、頻りに勅許を蒙らんと奏聞しけるを、山門堅く支申ければ、彼寺の本主太政大臣大友皇子の後胤、大友夜須磨呂の氏族連署して、官府を申す。貞観六年十二月五日の状に曰、「望請長為延暦寺別院、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺別院之由、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂並氏人愁吟。弥為天台別院専祈天長地久之御願、可致四海八■之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、以園城寺可為天台別院云云。如之貞観九年十月三日智証大師記文云、円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒云云。然ば本末の号歴然たり。師弟の義何ぞ同からん。」証を引き理を立て支申ける間、君思食煩せ給て、「許否共に凡慮の及処に非れば、只可任冥慮。」とて、自告文を被遊て叡山根本中堂に被篭けり。其詞云、「戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現云云。」此告文を被篭て、七日に当りける夜、主上不思議の御夢想ありけり。無動寺の慶命僧正、一紙の消息を進て云、「自胎内之昔、至治天之今、忝雖奉祈請宝祚長久、三井寺戒壇院若被宣下者、可失本懐云云。」又其翌夜の御夢に彼慶命僧正参内して紫宸殿に被立たりけるが、大きに忿れる気色にて、「昨日一紙の状を雖進覧、叡慮更に不驚給、所詮三井寺の戒壇有勅許者、変年来之御祈、忽に可成怨心。」と宣ふ。又其翌の夜の御夢に、一人の老翁弓箭を帯して殿上に候す。主上、「汝は何者ぞ。」と御尋有ければ、「円宗擁護の赤山大明神にて候。三井寺の戒壇院執奏の人に向て、矢一つ仕ん為に参内して候也。」とぞ申れける。夜々の御夢想に、君も臣も恐て被成ければ、遂に寺門の所望被黙止、山門に道理をぞ被付ける。角て遥に程経て、白河院の御宇に、江帥匡房の兄に、三井寺の頼豪僧都とて、貴き人有けるを被召、皇子御誕生の御祈をぞ被仰付ける。頼豪勅を奉て肝胆を砕て祈請しけるに、陰徳忽に顕れて承保元年十二月十六日に皇子御誕生有てけり。帝叡感の余に、「御祷の観賞宜依請。」と被宣下。頼豪年来の所望也ければ、他の官禄一向是を閣て、園城寺の三摩耶戒壇造立の勅許をぞ申賜ける。山門又是を聴て款状を捧て禁庭に訴へ、先例を引て停廃せられんと奏しけれども、「綸言再び不複」とて勅許無りしかば、三塔嗷儀を以て谷々の講演を打止め、社々の門戸を閉て御願を止ける間、朝儀難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁をぞ被召返ける。頼豪是を忿て、百日の間髪をも不剃爪をも不切、炉壇の烟にふすぼり、嗔恚の炎に骨を焦て、我願は即身に大魔縁と成て、玉体を悩し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念を発して、遂に三七日が中に壇上にして死にけり。其怨霊果して邪毒を成ければ、頼豪が祈出し奉りし皇子、未母后の御膝の上を離させ給はで、忽に御隠有けり。叡襟是に依て不堪、山門の嗷訴、園城の効験、得失甚き事隠無りければ、且は山門の恥を洗ぎ、又は継体の儲を全せん為に、延暦寺座主良信大僧正を申請て、皇子御誕生の御祈をぞ被致ける。先御修法の間種々の奇瑞有て、承暦三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持隙無りければ、頼豪が怨霊も近付奉らざりけるにや、此宮遂に玉体無恙して、天子の位を践せ給ふ。御在位の後院号有て、堀河院と申しは、則此第二の宮の御事也。其後頼豪が亡霊忽に鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠と成て、比叡山に登り、仏像・経巻を噛破ける間、是を防に無術して、頼豪を一社の神に崇めて其怨念を鎮む。鼠の禿倉是也。懸し後は、三井寺も弥意趣深して、動ば戒壇の事を申達せんとし、山門も又以前の嗷儀を例として、理不尽に是を欲徹却と。去ば始天歴年中より、去文保元年に至迄、此戒壇故に園城寺の焼る事已に七箇度也。近年は是に依て、其企も無りつれば、中々寺門繁昌して三宝の住持も全かりつるに、今将軍妄に衆徒の心を取ん為に、山門の忿をも不顧、楚忽に被成御教書ければ、却て天魔の所行、法滅の因縁哉と、聞人毎に脣を翻しけり。


117 奥州勢著坂本事

去年十一月に、義貞朝臣打手の大将を承て、関東へ被下向時、奥州の国司北畠中納言顕家卿の方へ、合図の時をたがへず可攻合由綸旨を被下たりけるが、大軍を起す事不容易間、兎角延引す。剰路すがらの軍に日数を送りける間、心許は被急けれども、此彼の逗留に依て、箱根の合戦には迦れ給ひにけり。されども幾程もなく、鎌倉に打入給ひたれば、将軍は早箱根竹下の戦に打勝て、軈て上洛し給ひぬと申ければ、さらば迹より追てこそ上らめとて、夜を日に継でぞ被上洛ける。去程に越後・上野・常陸・下野に残りたる新田の一族、並千葉・宇都宮が手勢共、是を聞伝て此彼より馳加りける間、其勢無程五万余騎に成にけり。鎌倉より西には手さす者も無りければ、夜昼馬を早めて、正月十二日近江の愛智河の宿に被著けり。其日大館中務大輔、佐々木判官氏頼其比未幼稚にて楯篭りたる観音寺の城郭を責落て、敵を討事都て五百余人、翌日早馬を先立て事の由を坂本へ被申たりければ、主上を始進せて、敗軍の士卒悉悦をなし、志を不令蘇と云者なし。則道場坊の助註記祐覚に被仰付、湖上の船七百余艘を点じて志那浜より一日が中にぞ被渡ける。爰に宇都宮紀清両党、主の催促に依て五百余騎にて打連たりけるが、宇都宮は将軍方に在と聞へければ、面々に暇を請、色代して志那浜より引分れ、芋洗を廻て、京都へこそ上りけれ。


118 三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事

東国の勢既[に]坂本に著ければ、顕家卿・義貞朝臣、其外宗との人々、聖女の彼岸所に会合して、合戦の評定あり。「何様一両日は馬の足を休てこそ、京都へは寄候はめ。」と、顕家卿宣けるを、大館左馬助被申けるは、「長途に疲れたる馬を一日も休候はゞ中々血下て四五日は物の用に不可立。其上此勢坂本へ著たりと、敵縦聞及共、頓て可寄とはよも思寄候はじ。軍は起不意必敵を拉習也。只今夜の中に志賀・唐崎の辺迄打寄て、未明に三井寺へ押寄せ、四方より時を作て責入程ならば、御方治定の勝軍とこそ存候へ。」と被申ければ、義貞朝臣も楠判官正成も、「此義誠に可然候。」と被同て、頓て諸大将へぞ被触ける。今上りの千葉勢是を聞て、まだ宵より千余騎にて志賀の里に陣取る。大館左馬助・額田・羽川六千余騎にて、夜半に坂本を立て、唐崎の浜に陣を取る。戸津・比叡辻・和爾・堅田の者共は、小船七百余艘に取乗て、澳に浮て明るを待。山門の大衆は、二万余人、大略徒立なりければ、如意越を搦手に廻り、時の声を揚げば同時に落し合んと、鳴を静めて待明す。去程に坂本に大勢の著たる形勢、船の往反に見へて震しかりければ、三井寺の大将細川卿律師定禅、高大和守が方より、京都へ使を馳て、「東国の大勢坂本に著て、明日可寄由其聞へ候。急御勢を被添候へ。」と、三度迄被申たりけれ共、「関東より何勢が其程迄多は上るべきぞ。勢は大略宇都宮紀清の両党の者とこそ聞ゆれ。其勢縦誤て坂本へ著たりとも、宇都宮京に在と聞へなば、頓て主の許へこそ馳来んずらん。」とて、将軍事ともし給はざりければ、三井寺へは勢の一騎をも不被添。夜既に明方に成しかば源中納言顕家卿二万余騎、新田左兵衛督義貞三万余騎、脇屋・堀口・額田・鳥山の勢一万五千余騎、志賀・唐崎の浜路に駒を進て押寄て、後陣遅しとぞ待ける。前陣の勢先大津の西の浦、松本の宿に火をかけて時の声を揚ぐ。三井寺の勢共、兼てより用意したる事なれば、南院の坂口に下り合て、散々に射る。一番に千葉介千余騎にて推寄せ、一二の木戸打破り、城の中へ切て入り、三方に敵を受て、半時許闘ふたり。細川卿律師定禅が横合に懸りける四国の勢六千余騎に被取篭て、千葉新介矢庭に被打にければ、其手の兵百余騎に、当の敵を討んと懸入々々戦て、百五十騎被討にければ、後陣に譲て引退く。二番に顕家卿二万余騎にて、入替へ乱合て責戦ふ。其勢一軍して馬の足を休れば、三番に結城上野入道・伊達・信夫の者共五千余騎入替て面も不振責戦ふ。其勢三百余騎被討て引退ければ、敵勝に乗て、六万余騎を二手に分て、浜面へぞ打て出たりける。新田左衛門督是を見て、三万余騎を一手に合せて、利兵堅を破て被進たり。細川雖大勢と、北は大津の在家まで焼る最中なれば通り不得。東は湖海なれば、水深して廻んとするに便りなし。僅に半町にもたらぬ細道を只一順に前まんとすれば、和爾・堅田の者共が渚に舟を漕並て射ける横矢に被防て、懸引自在にも無りけり。官軍是に力を得て、透間もなく懸りける間、細川が六万余騎の勢五百余騎被打て、三井寺へぞ引返しける。額田・堀口・江田・大館七百余騎にて、逃る敵に追すがふて、城の中へ入んとしける処を、三井寺衆徒五百余人関の口に下り塞て、命を捨闘ける間、寄手の勢百余人堀の際にて被討ければ、後陣を待て不進得。其間に城中より木戸を下して堀の橋を引けり。義助是を見て、「無云甲斐者共の作法哉。僅の木戸一に被支て是程の小城を責落さずと云事やある。栗生・篠塚はなきか。あの木戸取て引破れ。畑・亘理はなきか。切て入れ。」とぞ被下知ける。栗生・篠塚是を聞て馬より飛で下り、木戸を引破らんと走寄て見れば、屏の前に深さ二丈余りの堀をほりて、両方の岸屏風を立たるが如くなるに、橋の板をば皆刎迦して、橋桁許ぞ立たりける。二人の者共如何して可渡と左右をきつと見処に、傍なる塚の上に、面三丈許有て、長さ五六丈もあるらんと覚へたりける大率都婆二本あり。爰にこそ究竟の橋板は有けれ。率都婆を立るも、橋を渡すも、功徳は同じ事なるべし。いざや是を取て渡さんと云侭に、二人の者共走寄て、小脇に挟てゑいやつと抜く。土の底五六尺掘入たる大木なれば、傍りの土一二尺が程くわつと崩て、率都婆は無念抜にけり。彼等二人、二本の率都婆を軽々と打かたげ、堀のはたに突立て、先自歎をこそしたりけれ。「異国には烏獲・樊■、吾朝には和泉小次郎・浅井那三郎、是皆世に双びなき大力と聞ゆれども、我等が力に幾程かまさるべき。云所傍若無人也と思ん人は、寄合て力根の程を御覧ぜよ。」と云侭に、二本の率都婆を同じ様に、向の岸へぞ倒し懸たりける。率都婆の面平にして、二本相並たれば宛四条・五条の橋の如し。爰に畑六郎左衛門・亘理新左衛門二人橋の爪に有けるが、「御辺達は橋渡しの判官に成り給へ。我等は合戦をせん。」と戯れて、二人共橋の上をさら/゛\と走渡り、堀の上なる逆木共取て引除、各木戸の脇にぞ著たりける。是を防ぎける兵共、三方の土矢間より鑓・長刀を差出して散々に突けるを、亘理新左衛門、十六迄奪てぞ捨たりける。畑六郎左衛門是を見て、「のけや亘理殿、其屏引破て心安く人々に合戦せさせん。」と云侭に、走懸り、右の足を揚て、木戸の関の木の辺を、二蹈三蹈ぞ蹈だりける。余に強く被蹈て、二筋渡せる八九寸の貫の木、中より折て、木戸の扉も屏柱も、同くどうど倒れければ、防がんとする兵五百余人、四方に散て颯とひく。一の木戸已に破ければ、新田の三万余騎の勢、城の中へ懸入て、先合図の火をぞ揚たりける。是を見て山門の大衆二万余人、如意越より落合て、則院々谷々へ乱入り、堂舎・仏閣に火を懸て呼き叫でぞ責たりける。猛火東西より吹懸て、敵南北に充満たれば、今は叶じとや思けん、三井寺の衆徒共、或は金堂に走入て猛火の中に腹を切て臥、或は聖教を抱て幽谷に倒れ転ぶ。多年止住の案内者だにも、時に取ては行方を失ふ。況乎四国・西国の兵共、方角もしらぬ烟の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼この木の下岩の陰に疲れて、自害をするより外の事は無りけり。されば半日許の合戦に、大津・松本・三井寺内に被討たる敵を数るに七千三百余人也。抑金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡せ給へば、角ては如何とて或衆徒御首許を取て、薮の中に隠し置たりけるが、多被討たる兵の首共の中に交りて、切目に血の付たりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立て、一首の歌に事書を書副たりける。「建武二年の春の比、何とやらん、事の騒しき様に聞へ侍りしかば、早三会の暁に成ぬるやらん。いでさらば八相成道して、説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立出たれば、業火盛に燃て修羅の闘諍四方に聞ゆ。こは何事かと思ひ分く方も無て居たるに、仏地坊の某とやらん、堂内に走入り、所以もなく、鋸を以て我が首を切し間、阿逸多といへ共不叶、堪兼たりし悲みの中に思ひつゞけて侍りし。山を我敵とはいかで思ひけん寺法師にぞ頚を切るゝ。」前々炎上の時は、寺門の衆徒是を一大事にして隠しける九乳の鳧鐘も取人なければ、空く焼て地に落たり。此鐘と申は、昔竜宮城より伝りたる鐘也。其故は承平の比俵藤太秀郷と云者有けり。或時此秀郷只一人勢多の橋を渡けるに、長二十丈許なる大蛇、橋の上に横て伏たり。両の眼は耀て、天に二の日を卦たるが如、双べる角尖にして、冬枯の森の梢に不異。鉄の牙上下に生ちがふて、紅の舌炎を吐かと怪まる。若尋常の人是を見ば、目もくれ魂消て則地にも倒つべし。されども秀郷天下第一の大剛の者也ければ更に一念も不動ぜして、彼大蛇の背の上を荒かに蹈で閑に上をぞ越たりける。然れ共大蛇も敢て不驚、秀郷も後ろを不顧して遥に行隔たりける処に、怪げなる小男一人忽然として秀郷が前に来て云けるは、「我此橋の下に住事已に二千余年也。貴賎往来の人を量り見るに、今御辺程に剛なる人を未見ず。我に年来地を争ふ敵有て、動ば彼が為に被悩。可然は御辺我敵を討てたび候へ。」と、懇にこそ語ひけれ。秀郷一義も不謂、「子細有まじ。」と領状して、則此男を前に立てゝ又勢多の方へぞ帰ける。二人共に湖水の波を分て、水中に入事五十余町有て一の楼門あり。開て内へ入るに、瑠璃の沙厚く玉の甃暖にして、落花自繽紛たり。朱楼紫殿玉欄干、金を鐺にし銀を柱とせり。其壮観奇麗、未曾て目にも不見耳にも聞ざりし所也。此怪しげなりつる男、先内へ入て、須臾の間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請ず。左右侍衛官前後花の装善尽し美尽せり。酒宴数刻に及で夜既に深ければ、敵の可寄程に成ぬと周章騒ぐ。秀郷は一生涯が間身を放たで持たりける五人張にせき弦懸て噛ひ湿し、三年竹の節近なるを十五束二伏に拵へて、鏃の中子を筈本迄打どほしにしたる矢、只三筋を手挟て、今や/\とぞ待たりける。夜半過る程に雨風一通り過て、電火の激する事隙なし。暫有て比良の高峯の方より、焼松二三千がほど二行に燃て、中に嶋の如なる物、此龍宮城を指てぞ近付ける。事の体を能々見に、二行にとぼせる焼松は皆己が左右の手にともしたりと見へたり。あはれ是は百足蜈蚣の化たるよと心得て、矢比近く成ければ、件の五人張に十五束三伏忘るゝ許引しぼりて、眉間の真中をぞ射たりける。其手答鉄を射る様に聞へて、筈を返してぞ不立ける。秀郷一の矢を射損て、不安思ひければ、二の矢を番て、一分も不違態前の矢所をぞ射たりける。此矢も又前の如くに躍り返て、是も身に不立けり。秀郷二つの矢をば皆射損じつ、憑所は矢一筋也。如何せんと思けるが、屹と案じ出したる事有て、此度射んとしける矢さきに、唾を吐懸て、又同矢所をぞ射たりける。此矢に毒を塗たる故にや依けん、又同矢坪を三度迄射たる故にや依けん、此矢眉間のたゞ中を徹りて喉の下迄羽ぶくら責てぞ立たりける。二三千見へつる焼松も、光忽に消て、島の如に有つる物、倒るゝ音大地を響かせり。立寄て是を見るに、果して百足の蜈蚣也。竜神は是を悦て、秀郷を様々にもてなしけるに、太刀一振・巻絹一・鎧一領・頚結たる俵一・赤銅の撞鐘一口を与て、「御辺の門葉に、必将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。秀郷都に帰て後此絹を切てつかふに、更に尽事なし。俵は中なる納物を、取ども/\尽ざりける間、財宝倉に満て衣裳身に余れり。故に其名を俵藤太とは云ける也。是は産業の財らなればとて是を倉廩に収む。鐘は梵砌の物なればとて三井寺へ是をたてまつる。文保二年三井寺炎上の時、此鐘を山門へ取寄て、朝夕是を撞けるに、敢てすこしも鳴ざりける間、山法師共、「悪し、其義ならば鳴様に撞。」とて、鐘木を大きに拵へて、二三十人立懸りて、破よとぞ撞たりける。其時此鐘海鯨の吼る声を出して、「三井寺へゆかふ。」とぞ鳴たりける。山徒弥是を悪みて、無動寺の上よりして数千丈高き岩の上をころばかしたりける間、此鐘微塵に砕にけり。今は何の用にか可立とて、其われを取集て本寺へぞ送りける。或時一尺許なる小蛇来て、此鐘を尾を以[て]扣きたりけるが、一夜の内に又本の鐘に成て、疵つける所一も無りけり。されば今に至るまで、三井寺に有て此鐘の声を聞人、無明長夜の夢を驚かして慈尊出世の暁を待。末代の不思議、奇特の事共也。


119 建武二年正月十六日合戦事

三井寺の敵無事故責落たりければ、長途に疲たる人馬、一両日機を扶てこそ又合戦をも致さめとて、顕家卿坂本へ被引返ければ、其勢二万余騎は、彼趣に相順ふ。新田左兵衛督も、同坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田長門守経政、馬を叩て申けるは、「軍の利、勝に乗る時、北るを追より外の質は非じと存候。此合戦に被打漏て、馬を棄物具を脱で、命許を助からんと落行候敵を追懸て、京中へ押寄る程ならば、臆病神の付たる大勢に被引立、自余の敵も定て機を失はん歟。さる程ならば、官軍敵の中へ紛れ入て、勢の分際を敵に不見せしとて、此に火をかけ、彼に時を作り、縦横無碍に懸立る者ならば、などか足利殿御兄弟の間に近付奉て、勝負を仕らでは候べき。落候つる敵、よも幾程も阻り候はじ。何様一追々懸て見候はゞや。」と申ければ、義貞、「我も此義を思ひつる処に、いしくも申たり。さらば頓て追懸よ。」とて、又旗の手を下して馬を進め給へば、新田の一族五千余人、其勢三万余騎、走る馬に鞭を進めて、落行敵をぞ追懸たる。敵今は遥に阻たりぬらんと覚る程なれば、逃るは大勢にて遅く、追は小勢にて早かりければ、山階辺にて漸敵にぞ追付ける。由良・長浜・吉江・高橋、真前に進で追けるが、大敵をば不可欺とて、広みにて敵の返し合つべき所迄はさまで不追、遠矢射懸々々、時を作る許にて、静々と是を追ひ、道迫りて、而も敵の行前難所なる山路にては、かさより落し懸て、透間もなく射落し切臥せける間、敵一度も返し不得、只我先にとぞ落行ける。されば手を負たる者は其侭馬人に被蹈殺、馬離たる者は引かねて無力腹を切けり。其死骸谷をうめ溝を埋みければ、追手の為には道平に成て、弥輪宝の山谷を平らぐるに不異、将軍三井寺に軍始たりと聞へて後、黒烟天に覆を見へければ、「御方如何様負軍したりと覚るぞ。急ぎ勢を遣せ。」とて、三条河原に打出、先勢揃をぞし給ひける。斯処に粟田口より馬烟を立て、其勢四五万騎が程引て出来たり。誰やらんと見給へば、三井寺へ向し四国・西国の勢共也。誠に皆軍手痛くしたりと見へて、薄手少々負はぬ者もなく、鎧の袖冑の吹返に、矢三筋四筋折懸ぬ人も無りけり。さる程に新田左兵衛督、二万三千余騎を三手に分て、一手をば将軍塚の上へ挙、一手をば真如堂の前より出し、一手をば法勝寺を後に当て、二条河原へ出して、則相図の烟をぞ被挙ける。自らは花頂山に打上て、敵の陣を見渡し給へば、上は河合森より、下は七条河原まで、馬の三頭に馬を打懸け、鎧の袖に袖を重て、東西南北四十余町が間、錐を立る許の地も不見、身を峙て打囲たり。義貞朝臣弓杖にすがり被下知けるは、「敵の勢に御方を合れば、大海の一滴、九牛が一毛也。只尋常の如くに軍をせば、勝事を得難し。相互に面をしり被知たらんずる侍共、五十騎づゝ手を分て、笠符を取捨、幡を巻て、敵の中に紛れ入り、此彼に叩々、暫可相待。将軍塚へ上せつる勢、既に軍を始むと見ば、此陣より兵を進めて可令闘。其時に至て、御辺達敵の前後左右に旗を差挙て、馬の足を不静め、前に在歟とせば後へぬけ、左に在かとせば右へ廻て、七縦八横に乱て敵に見する程ならば、敵の大勢は、還て御方の勢に見へて、同士打をする歟、引て退く歟、尊氏此二つの中を不可出。」韓信が謀を被出しかば、諸大将の中より、逞兵五十騎づゝ勝り出して、二千余騎各一様に、中黒の旗を巻て、文を隠し、笠符を取て袖の下に収め、三井寺より引をくれたる勢の真似をして、京勢の中へぞ馳加りける。敵斯る謀ありとは、将軍不思寄給、宗との侍共に向ふて被下知けるは、「新田はいつも平場の懸をこそ好と聞しに、山を後ろに当てゝ、頓ても懸出ぬは、如何様小勢の程を敵に見せじと思へる者也。将軍塚の上に取あがりたる敵を置てはいつまでか可守挙。師泰彼に馳向て追散せ。」と宣ければ、越後守畏て、「承候。」と申て、武蔵・相摸の勢二万余騎を率して、双林寺と中霊山とより、二手に成てぞ挙たりける。此には脇屋右衛門佐・堀口美濃守・大館左馬助・結城上野入道以下三千余騎にて向たりけるが、其中より逸物の射手六百余人を勝て、馬より下し、小松の陰を木楯に取て、指攻引攻散々にぞ射させたりける。嶮き山を挙かねたりける武蔵・相摸の勢共、物具を被徹て矢場に伏、馬を被射てはね落されける間、少猶予して見へける処を、「得たり賢し。」と、三千余騎の兵共抜連て、大山の崩るが如く、真倒に落し懸たりける間、師泰が兵二万余騎、一足をもためず、五条河原へ颯と引退。此にて、杉本判官・曾我二郎左衛門も被討にけり。官軍態長追をばせで、猶東山を後に当て勢の程をぞ見せざりける。搦手より軍始まりければ、大手音を受て時を作る。官軍の二万余騎と将軍の八十万騎と、入替入替天地を響して戦たる。漢楚八箇年の戦を一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になす共、猶是には不可過。寄手は小勢なれども皆心を一にして、懸時は一度に颯と懸て敵を追まくり、引時は手負を中に立て静に引く。京勢は大勢なりけれ共人の心不調して、懸時も不揃、引時も助けず、思々心々に闘ける間、午の剋より酉の終まで六十余度の懸合に、寄手の官軍度毎に勝に不乗と云事なし。されども将軍方大勢なれば、被討共勢もすかず、逃れども遠引せず、只一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交りたる一揆の勢共、将軍の前後左右に中黒の旗を差揚て、乱合てぞ戦ける。何れを敵何を御方共弁へ難ければ、東西南北呼叫で、只同士打をするより外の事ぞ無りける。将軍を始奉りて、吉良・石堂・高・上杉の人々是を見て、御方の者共が敵と作合て後矢を射よと被思ければ、心を置合て、高・上杉の人々は、山崎を指して引退き、将軍・吉良・石堂・仁木・細川の人々は、丹波路へ向て落給ふ。官軍弥勝に乗て短兵急に拉。将軍今は遁る所なしと思食けるにや、梅津、桂河辺にては、鎧の草摺畳み揚て腰の刀を抜んとし給ふ事、三箇度に及けり。されども将軍の御運や強かりけん、日既に暮けるを見て、追手桂河より引返ければ、将軍も且く松尾・葉室の間に引へて、梅酸の渇をぞ休められける。爰に細川卿律師定禅、四国の勢共に向て宣けるは、「軍の勝負は時の運に依事なれば、強に恥ならねども、今日の負は三井寺の合戦より事始りつる間、我等が瑕瑾、人の嘲を不遁。されば態他の勢を不交して、花やかなる軍一軍して、天下の人口を塞がばやと思也。推量するに、新田が勢は、終日の合戦に草伏て、敵に当り変に応ずる事自在なるまじ。其外の敵共は、京白河の財宝に目をかけて一所に不可在。其上赤松筑前守僅の勢にて下松に引へて有つるを、無代に討せたらんも可口惜。いざや殿原、蓮台野より北白河へ打廻て、赤松が勢と成合、新田が勢を一あて/\て見ん。」と宣へば、藤・橘・伴の者共、「子細候まじ。」とぞ同じける。定禅不斜喜で、態将軍にも知らせ不奉、伊予・讚岐の勢の中より三百余騎を勝て、北野の後ろより上賀茂を経て、潛に北白河へぞ廻りける。糾の前にて三百余騎の勢十方に分て、下松・薮里・静原・松崎・中賀茂、三十余箇所に火をかけて、此をば打捨て、一条・二条の間にて、三所に鬨をぞ挙たりける。げにも定禅律師推量の如く、敵京白河に分散して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞・義助一戦に利を失て、坂本を指して引返しけり。所々に打散たる兵共、俄に周章て引ける間、北白河・粟田口の辺にて、舟田入道・大館左近蔵人・由良三郎左衛門尉・高田七郎左衛門以下宗との官軍数百騎被討けり。卿律師、頓て早馬を立て、此由を将軍へ被申たりければ、山陽・山陰両道へ落行ける兵共、皆又京へぞ立帰る。義貞朝臣は、僅に二万騎勢を以て将軍の八十万騎を懸散し、定禅律師は、亦三百余騎の勢を以て、官軍の二万余騎を追落す。彼は項王が勇を心とし、是は張良が謀を宗とす。智謀勇力いづれも取々なりし人傑也。


120 正月二十七日合戦事

斯る処に去年十二月に、一宮関東へ御下有し時、搦手にて東山道より鎌倉へ御下有し大智院宮・弾正尹宮、竹下・箱根の合戦には、相図相違して逢せ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野・下野勢共馳参しかば、御勢雲霞の如に成て、鎌倉へ入せ給ふ。此にて事の様を問へば、「新田、竹下・箱根の合戦に打負て引返す。尊氏朝臣北を追て被上洛ぬ。其後奥州国司顕家卿、又尊氏朝臣の跡を追て、被責上候ぬ。」とぞ申ける。「さらば何様道にても新田蹈留らば合戦有ぬべし。鎌倉に可逗留様なし。」とて、公家には洞院左衛門督実世・持明院右衛門督入道・信濃国司堀河中納言・園中将基隆・二条少将為次、武士には、嶋津上野入道・同筑後前司・大伴・猿子の一党・落合の一族・相場・石谷・纐纈・伊木・津子・中村・々上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁、是等を宗との者として都合其勢二万余騎、正月二十日の晩景に東坂本にぞ著にける。官軍弥勢ひを得て翌日にも頓て京都へ寄んと議しけるが、打続き悪日也ける上、余に強く乗たる馬共なれば、皆竦て更はたらき得ざりける間、兎に角に延引して、今度の合戦は、二十七日にぞ被定ける。既其日に成ぬれば、人馬を休ん為に、宵より楠木・結城・伯耆、三千余騎にて、西坂を下々て、下松に陣を取る。顕家卿は三万余騎にて、大津を経て山科に陣を取る。洞院左衛門督二万余騎にて赤山に陣を取。山徒は一万余騎にて竜花越を廻て鹿谷に陣を取。新田左兵衛督兄弟は二万余騎の勢を率し、今道より向て、北白河に陣を取る。大手・搦手都合十万三千余騎、皆宵より陣を取寄たれども、敵に知せじと態篝火をば焼ざりけり。合戦は明日辰刻と被定けるを、機早なる若大衆共、武士に先をせられじとや思けん、まだ卯刻の始に神楽岡へぞ寄たりける。此岡には宇都宮・紀清両党城郭を構てぞ居たりける。去ば無左右寄著て人の可責様も無りけるを、助註記祐覚が同宿共三百余人、一番に木戸口に著て屏を阻て闘けるが、高櫓より大石数た被投懸て引退処に、南岸円宗院が同宿共五百余人、入替てぞ責たりける。是も城中に名誉の精兵共多かりければ、走廻て射けるに、多く物具を被徹て叶はじとや思ひけん、皆持楯の陰に隠れて、「悪手替れ。」とぞ招きける。爰に妙観院の因幡竪者全村とて、三塔名誉の悪僧あり。鎖の上に大荒目の鎧を重て、備前長刀のしのぎさがりに菖蒲形なるを脇に挟み、箆の太さは尋常の人の蟇目がらにする程なる三年竹を、もぎつけに押削て、長船打の鏃の五分鑿程なるを、筈本迄中子を打徹にしてねぢすげ、沓巻の上を琴の糸を以てねた巻に巻て、三十六差たるを、森の如に負成し、態弓をば不持、是は手衝にせんが為なりけり。切岸の面に二王立に立て名乗けるは、「先年三井寺の合戦の張本に被召て、越後国へ被流たりし妙観院高因幡全村と云は我事也。城中の人々此矢一つ進せ候はん。被遊て御覧候へ。」と云侭に、上差一筋抽出て、櫓の小間を手突にぞ突たりける。此矢不誤、矢間の陰に立たりける鎧武者のせんだんの板より、後の角総著の金物迄、裏表二重を徹て、矢前二寸許出たりける間、其兵櫓より落て、二言も不云死にけり。是を見ける敵共、「あなをびたゝし、凡夫の態に非ず。」と懼て色めきける処へ、禅智房護聖院の若者共、千余人抜連て責入ける間、宇都宮神楽岡を落て二条の手に馳加る。是よりしてぞ、全村を手突因幡とは名付ける。山法師鹿谷より寄て神楽岡の城を責る由、両党の中より申ければ、将軍頓て後攻をせよとて、今河・細川の一族に、三万余騎を差副て被遣けるが、城は早被責落、敵入替ければ、後攻の勢も徒に京中へぞ帰ける。去程に、楠判官・結城入道・伯耆守、三千余騎にて糾の前より押寄て、出雲路の辺に火を懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様神楽岡の勢共と覚るぞ、山法師ならば馬上の懸合は心にくからず、急ぎ向て懸散せ。」とて、上杉伊豆守・畠山修理大夫・足利尾張守に、五万余騎を差副てぞ被向ける。楠木は元来勇気無双の上智謀第一也ければ、一枚楯の軽々としたるを五六百帖はがせて、板の端に懸金と壷とを打て、敵の駆んとする時は、此楯の懸金を懸、城の掻楯の如く一二町が程につき並べて、透間より散々に射させ、敵引けば究竟の懸武者を五百余騎勝て、同時にばつと駆させける間、防手の上杉・畠山が五万余騎、楠木が五百余騎に被揉立て五条河原へ引退く。敵は是計歟と見処に、奥州国司顕家卿二万余騎にて粟田口より押寄て、車大路に火を被懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様北畠殿と覚るぞ、敵も敵にこそよれ、尊氏向はでは叶まじ。」とて、自五十万騎を率し、四条・五条の河原へ馳向て、追つ返つ、入替々々時移る迄ぞ被闘ける。尊氏卿は大勢なれども軍する勢少くして、大将已に戦ひくたびれ給ぬ。顕家卿は小勢なれば、入替る勢無して、諸卒忽に疲れぬ。両陣互に戦屈して忿りを抑へ、馬の息つぎ居たる処へ、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助・堀口美濃守貞満・大館左馬助氏明、三万余騎を三手に分け、双林寺・将軍塚・法勝寺の前より、中黒の旗五十余流差せて、二条河原に雲霞の如くに打囲たる敵の中を、真横様に懸通りて、敵の後を切んと、京中へこそ被懸入けれ。敵是を見て、「すはや例の中黒よ。」と云程こそあれ、鴨河・白河・京中に、稲麻竹葦の如に打囲ふだる大勢共、馬を馳倒し、弓矢をかなくり捨て、四角八方へ逃散事、秋の木の葉を山下風の吹立たるに不異。義貞朝臣は、態鎧を脱替へ馬を乗替て、只一騎敵の中へ懸入々々、何くにか尊氏卿の坐らん、撰び打に討んと伺ひ給ひけれども、将軍運強くして、遂に見へ給はざりければ、無力其勢を十方へ分て、逃る敵をぞ追はせられける。中にも里見・鳥山の人々は、僅に二十六騎の勢にて、丹波路の方へ落ける敵二三万騎有けるを、将軍にてぞ坐らんと心得て桂河の西まで追ける間、大勢に返合せられて一人も不残被討にけり。さてこそ十方に分れて追ける兵も、「そゞろに長追なせそ。」とて、皆京中へは引返しける。角て日已に暮ければ、楠判官総大将の前に来て申けるは、「今日御合戦、不慮に八方の衆を傾くと申せ共さして被討たる敵も候はず、将軍の落させ給ける方をも不知、御方僅の勢にて京中に居候程ならば、兵皆財宝に心を懸て、如何に申すとも、一所に打寄る事不可有候。去程ならば、前の如く又敵に取て被返て、度方を失事治定可有と覚候。敵に少しも機を付ぬれば、後の合戦しにくき事にて候。只此侭にて今日は引返させ給ひ候て、一日馬の足を休め、明後日の程に寄せて、今一あて手痛く戦ふ程ならば、などか敵を十里・二十里が外まで、追靡けでは候べき。」と申ければ、大将誠にげにもとて、坂本へぞ被引返ける。将軍は今度も丹波路へ引給んと、寺戸の辺までをはしたりけるが、京中には敵一人も不残皆引返したりと聞へければ、又京都へぞ帰り給ひける。此外八幡・山崎・宇治・勢多・嵯峨・仁和寺・鞍馬路へ懸りて、落行ける者共も是を聞て、みな我も我もと立帰りけり。入洛の体こそ恥かしけれども、今も敵の勢を見合すれば、百分が一もなきに、毎度かく被追立、見苦き負をのみするは非直事。我等朝敵たる故歟、山門に被咒詛故歟と、謀の拙き所をば閣て、人々怪しみ思はれける心の程こそ愚なれ。


121 将軍都落事付薬師丸帰京事

楠判官山門へ帰て、翌の朝律僧を二三十人作り立て京へ下し、此彼の戦場にして、尸骸をぞ求させける。京勢怪て事の由を問ければ、此僧共悲歎の泪を押へて、「昨日の合戦に、新田左兵衛督殿・北畠源中納言殿・楠木判官已下、宗との人々七人迄被討させ給ひ候程に、孝養の為に其尸骸を求候也。」とぞ答へける。将軍を始奉て、高・上杉の人々是を聞て、「あな不思議や、宗徒の敵共が皆一度に被討たりける。さては勝軍をばしながら官軍京をば引たりける。何くにか其頚共の有らん。取て獄門に懸、大路を渡せ。」とて、敵御方の尸骸共の中を求させけれ共、是こそとをぼしき頚も無りけり。余にあらまほしさに、此に面影の似たりける頭を二つ獄門の木に懸て、新田左兵衛督義貞・楠河内判官正成と書付をせられたりけるを、如何なるにくさうの者かしたりけん、其札の側に、「是はにた頚也。まさしげにも書ける虚事哉。」と、秀句をしてぞ書副て見せたりける。又同日の夜半許に、楠判官下部共に焼松を二三千燃し連させて、小原・鞍馬の方へぞ下しける。京中の勢共是を見て、「すはや山門の敵共こそ、大将を被討て、今夜方々へ落行げに候へ。」と申ければ、将軍もげにもとや思ひ給ひけん。「さらば落さぬ様に、方々へ勢を差向よ。」とて、鞍馬路へは三千余騎、小原口へ五千余騎、勢多へ一万余騎、宇治へ三千余騎、嵯峨・仁和寺の方迄、洩さぬ様に堅めよとて、千騎・二千騎差分て、勢を不被置方も無りけり。さてこそ京中の大勢大半減じて、残る兵も徒に用心するは無りけれ。去程に官軍宵より西坂をゝり下て、八瀬・薮里・鷺森・降松に陣を取る。諸大将は皆一手に成て、二十九日の卯刻に、二条河原へ押寄て、在々所所に火をかけ、三所に時をぞ揚たりける。京中の勢は、大勢なりし時だにも叶はで引し軍也。況て勢をば大略方々へ分ち被遣ぬ。敵可寄とは夢にも知ぬ事なれば、俄に周章ふためきて、或は丹波路を指て引もあり、或は山崎を志て逃るもあり、心も発らぬ出家して禅律の僧に成もあり。官軍はさまで遠く追ざりけるを、跡に引御方を追懸る敵ぞと心得て、久我畷・桂河辺には、自害をしたる者も数を不知ありけり。況馬・物具を棄たる事は、足の蹈所も無りけり。将軍は其日丹波の篠村を通り、曾地の内藤三郎左衛門入道々勝が館に著給へば、四国・西国の勢は、山崎を過て芥河にぞ著にける。親子兄弟骨肉主従互に行方を不知落行ければ、被討てぞ死しつらんと悲む。されども、「将軍は正しく別事無て、尾宅の宿を過させ給候也。」と分明に云者有ければ、兵庫湊河に落集りたる勢の中より丹波へ飛脚を立て、「急ぎ摂州へ御越候へ、勢を集て頓て京都へ責上り候はん。」と申ければ、二月二日将軍曾地を立て、摂津国へぞ越給ひける。此時熊野山の別当四郎法橋道有が、未に薬師丸とて童体にて御伴したりけるを、将軍喚寄給て、忍やかに宣けるは、「今度京都の合戦に、御方毎度打負たる事、全く戦の咎に非ず。倩事の心を案ずるに、只尊氏混朝敵たる故也。されば如何にもして持明院殿の院宣を申賜て、天下を君与君の御争に成て、合戦を致さばやと思也。御辺は日野中納言殿に所縁有と聞及ば、是より京都へ帰上て、院宣を伺ひ申て見よかし。」と被仰ければ、薬師丸、「畏て承り候。」とて、三草山より暇申て、則京へぞ上りける。


122 大樹摂津国豊嶋河原合戦事

将軍湊河に著給ければ、機を失つる軍勢共、又色を直して、方々より馳参りける間、無程其勢二十万騎に成にけり。此勢にて頓て責上り給はゞ、又官軍京にはたまるまじかりしを、湊河の宿に、其事となく三日迄逗留有ける間、宇都宮五百余騎道より引返して、官軍に属し、八幡に被置たる武田式部大輔も、堪かねて降人に成ぬ。其外此彼に隠れ居たりし兵共、義貞に属ける間、官軍弥大勢に成て、竜虎の勢を振へり。二月五日顕家卿・義貞朝臣、十万余騎にて都を立て、其日摂津国の芥河にぞ被著ける。将軍此由を聞給て、「さらば行向て合戦を致せ。」とて、将軍の舎弟左馬頭に、十六万騎を差副て、京都へぞ被上ける。さる程に両家の軍勢、二月六日の巳刻に、端なく豊嶋河原にてぞ行合ける。互に旗の手を下して、東西に陣を張り、南北に旅を屯す。奥州国司先二たび逢て、軍利あらず、引退て息を継ば、宇都宮入替て、一面目に備んと攻戦ふ。其勢二百余騎被討て引退けば、脇屋右衛門佐二千余騎にて入替たり。敵には仁木・細川・高・畠山、先日の恥を雪めんと命を棄て戦ふ。官軍には江田・大館・里見・鳥山、是を被破ては何くへか可引と、身を無者に成てぞ防ぎける。されば互に死を軽ぜしかども、遂に雌雄を不決して、其日は戦ひ暮てけり。爰に楠判官正成、殿馳にて下りけるが、合戦の体を見て、面よりは不懸、神崎より打廻て、浜の南よりぞ寄たりける。左馬頭の兵、終日の軍に戦くたびれたる上、敵に後をつゝまれじと思ければ、一戦もせで、兵庫を指て引退く。義貞頓て追懸て、西宮に著給へば、直義は猶相支て、湊河に陣をぞ被取ける。同七日の朝なぎに、遥の澳を見渡せば、大船五百余艘、順風に帆を揚て東を指て馳たり。何方に属勢にかと見る処に、二百余艘は梶を直して兵庫の嶋へ漕入る。三百余艘は帆をつゐて、西宮へぞ漕寄せける。是は大伴・厚東・大内介が、将軍方へ上りけると、伊予の土居・得能が、御所方へ参りけると漕連て、昨日迄は同湊に泊りたりしが、今日は両方へ引分て、心々にぞ著たりける。荒手の大勢両方へ著にければ、互に兵を進めて、小清水の辺に羽向合。将軍方は目に余る程の大勢なりけれども、日比の兵、荒手にせさせんとて、軍をせず。厚東・大伴は、又強に我等許が大事に非ずと思ければ、さしも勇める気色もなし。官軍方は双べて可云程もなき小勢なりけれども、元来の兵は、是人の大事に非ず、我身の上の安否と思ひ、荒手の土居・得能は、今日の合戦無云甲斐しては、河野の名を可失と、機をとき心を励せり。されば両陣未闘はざる前に安危の端機に顕れて、勝負の色暗に見たり。されども荒手の験しなれば、大伴・厚東・大内が勢三千余騎、一番に旗を進めたり。土居・得能後へつと懸抽て、左馬頭の引へ給へる打出宿の西の端へ懸通り、「葉武者共に目な懸そ、大将に組め。」と下知して、風の如くに散し雲の如くに集て、呼ひて懸入、々々ては戦ひ、戦ふては懸抽け、千騎が一騎に成迄も、引なと互に恥めて面も不振闘ひける間、左馬頭叶はじとや被思けん、又兵庫を指して引給ふ。千度百般戦へども、御方の軍勢の軍したる有様、見るに可叶とも覚ざりければ、将軍も早退屈の体見へ給ける処へ、大伴参て、「今の如くにては何としても御合戦よかるべしとも覚候はず。幸に船共数候へば、只先筑紫へ御開き候へかし。小弐筑後入道御方にて候なれば、九国の勢多く属進せ候はゞ、頓て大軍を動て京都を被責候はんに、何程の事か候べき。」と申ければ、将軍げにもとや思食けん、軈て大伴が舟にぞ乗給ひける。諸軍勢是を見て、「すはや将軍こそ御舟に被召て落させ給へ。」とのゝめき立て、取物も取不敢、乗をくれじとあはて騒ぐ。舟は僅に三百余艘也。乗んとする人は二十万騎に余れり。一艘に二千人許こみ乗ける間、大船一艘乗沈めて、一人も不残失にけり。自余の舟共是を見て、さのみは人を乗せじと纜を解て差出す。乗殿れたる兵共、物具衣裳を脱捨て、遥の澳に游出で、舟に取著んとすれば、太刀・長刀にて切殺し、櫓かいにて打落す。乗得ずして渚に帰る者は、徒に自害をして礒越す波に漂へり。尊氏卿は福原の京をさへ被追落て、長汀の月に心を傷しめ、曲浦の波に袖を濡して、心づくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高して、数万の降人を召具し、天下の士卒に将として花の都に帰給ふ。憂喜忽に相替て、うつゝもさながら夢の如くの世に成けり。


123 主上自山門還幸事

去月晦日逆徒都を落しかば、二月二日主上自山門還幸成て、花山院を皇居に被成にけり。同八日義貞朝臣、豊嶋・打出の合戦に打勝て、則朝敵を万里の波に漂せ、同降人の五刑の難を宥て京都へ帰給ふ。事体ゆゝしくぞ見へたりける。其時の降人一万余騎、皆元の笠符の文を書直して著たりけるが、墨の濃き薄き程見へて、あらはにしるかりけるにや、其次の日、五条の辻に高札を立て、一首の歌をぞ書たりける。二筋の中の白みを塗隠し新田々々しげな笠符哉都鄙数箇度の合戦の体、君殊に叡感不浅。則臨時除目を被行て、義貞を左近衛中将に被任ぜ、義助を右衛門佐に被任けり。天下の吉凶必しも是にはよらぬ事なれども、今の建武の年号は公家の為不吉也けりとて、二月二十五日に改元有て、延元に被移。近日朝廷已に逆臣の為に傾られんとせしか共、無程静謐に属して、一天下又泰平に帰せしかば、此君の聖徳天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾け可申と、群臣いつしか危を忘れて、慎む方の無りける、人の心ぞ愚かなる。


124 賀茂神主改補事

大凶一元に帰して万機の政を新たにせられしかば、愁を含み喜を懐く人多かりけり。中にも賀茂の社の神主職は、神職の中の重職として、恩補次第ある事なれば、咎無しては改動の沙汰も難有事なるを、今度尊氏卿貞久を改て、基久に被補任、彼れ眉を開く事僅に二十日を不過、天下又反覆せしかば、公家の御沙汰として貞久に被返付。此事今度の改動のみならず、両院の御治世替る毎に転変する事、掌を反すが如し。其逆鱗何事の起ぞと尋ぬれば、此基久に一人の女めあり。被養て深窓に在し時より、若紫の■匂殊に、初本結の寐乱髪、末如何ならんと、見るに心も迷ぬべし。齢已に二八にも成しかば、巫山の神女雲と成し夢の面影を留め、玉妃の太真院を出し春の媚を残せり。只容色嬋娟の世に勝れたるのみに非ず、小野小町が弄びし道を学び、優婆塞宮のすさみ給し跡を追しかば、月の前に琵琶を弾じては、傾く影を招き、花の下に歌を詠じては、うつろう色を悲めり。されば其情を聞き、其貌を見る人毎に、意を不悩と云事なし。其比先帝は未帥宮にて、幽かなる御棲居也。是は後宇多院第二の皇子後醍醐天王と申せし御事也。今の法皇は伏見院第一の皇子にて、既に春宮に立せ可給と云、時めき合へり。此宮々如何なる玉簾の隙にか被御覧たりけん。此女最あてやかに臈しとぞ被思食ける。されども、混すらなる御業は如何と思食煩て、荻の葉に伝ふ風の便に付け、萱の末葉に結ぶ露のかごとに寄せては、いひしらぬ御文の数、千束に余る程に成にけり。女も最物わびしう哀なる方に覚へけれども、吹も定ぬ浦風に靡きはつべき烟の末も、終にはうき名に立ぬべしと、心強き気色をのみ関守になして、早年の三年を過にけり。父は賎して母なん藤原なりければ、無止事御子達の御覚は等閑ならぬを聞て、などや今迄御いらへをも申さではやみにけるぞと、最痛ふ打侘れば、御消息伝へたる二りのなかだち次よしと思て、「たらちめの諌めも理りにこそ侍るめれ。早一方に御返事を。」と、かこち顔也ければ、女云ばかりなく打侘て、「いさや我とは争でか分く方可侍。たゞ此度の御文に、御歌の最憐れに覚へ侍らん方へこそ参らめ。」と云て、少し打笑ぬる気色を、二りの媒嬉しと聞て、急ぎ宮々の御方へ参てかくと申せば、頓て伏見宮の御方より、取手もくゆる許にこがれたる紅葉重の薄様に、何よりも言の葉過て、憐れなる程なり。思ひかね云んとすればかきくれて泪の外は言の葉もなしと被遊たり。此上の哀誰かと思へる処に、帥宮御文あり。是は指も色深からぬ花染のかほり返たるに、言は無て、数ならぬみのゝを山の夕時雨強面松は降かひもなしと被遊たり。此御歌を見て、女そゞろに心あこがれぬと覚て、手に持ながら詠じ伏たりければ、早何れをかと可云程もなければ、帥宮の御使そゞろに独笑みして帰り参りぬ。頓て其夜の深け過る程に、牛車さはやかに取まかないて、御迎に参りたり。滝口なりける人、中門の傍にやすらひかねて、夜もはや丑三に成ぬと急げば、女下簾を掲させて、被扶乗としける処に、父の基久外より帰りまうで来て、「是はいづ方へぞ。」と問に、母上、「帥宮召有て。」と聞ゆ。父痛く留て、「事の外なる態をも計ひ給ひける者哉。伏見宮は春宮に立せ給べき由御沙汰あれば、其御方へ参てこそ、深山隠の老木迄も、花さく春にも可逢に、行末とても憑みなき帥宮に参り仕へん事は、誰が為とても可待方や有。」と云留めければ、母上げにやと思返す心に成にけり。滝口は角ともしらで簾の前によりゐて、月の傾きぬる程を申せば、母上出合て、「只今俄に心地の例ならぬ事侍れば、後の夕べをこそ。」と申て、御車を返してげり。帥宮かゝる事侍とは、露もおぼしよらず、さのみやと今日の憑みに昨日の憂さを替て、度々御使有けるに、「思の外なる事候て、伏見宮の御方へ参りぬ。」と申ければ、おやしさけずば、東路の佐野の船橋さのみやは、堪ては人の恋渡るべきと、思ひ沈ませ給にも、御憤の末深かりければ、帥宮御治世の初、基久指たる咎は無りしかども、勅勘を蒙り神職を被解て、貞久に被補。其後天下大に乱て、二君三たび天位を替させ給しかば、基久・貞久纔に三四年が中に、三度被改補。夢幻の世の習、今に始ぬ事とは云ながら、殊更身の上に被知たる世の哀に、よしや今は兎ても角てもと思ければ、うたゝねの夢よりも尚化なるは此比見つる現なりけりと、基久一首の歌を書留めて、遂に出家遁世の身とぞ成にける。