太平記/巻第十二

提供:Wikisource

巻第十二

92 公家一統政道事

先帝重祚之後、正慶の年号は廃帝の改元なればとて被棄之、本の元弘に帰さる。其二年の夏比、天下一時に評定して、賞罰法令悉く公家一統の政に出しかば、群俗帰風若被霜而照春日、中華懼軌若履刃而戴雷霆。同年の六月三日、大塔宮志貴の毘沙門堂に御座有と聞へしかば、畿内・近国の勢は不及申、京中・遠国の兵までも、人より先にと馳参ける間、其勢頗尽天下大半をぬらんと夥し。同十三日に可有御入洛被定たりしが、無其事と、延引有て、被召諸国兵、作楯砥鏃、合戦の御用意ありと聞へしかば、誰が身の上とは知ね共、京中の武士の心中更に不穏。依之主上右大弁宰相清忠を勅使にて被仰けるは、「天下已に鎮て偃七徳之余威、成九功之大化処に、猶動干戈被集士卒之条、其要何事乎、次四海騒乱の程は、為遁敵難、一旦其容を雖被替俗体、世已に静謐の上は急帰剃髪染衣姿、門迹相承の業を事とし給べし。」とぞ被仰ける。宮、清忠を御前近く被召、勅答申させ給けるは、「今四海一時に定て万民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣。而に足利治部大輔高氏僅に以一戦功、欲立其志於万人上。今若乗其勢微不討之、取高時法師逆悪加高氏威勢上に、者なるべし。是故に挙兵備武、全非臣罪。次剃髪の事、兆前に不鑒機者定て舌を翻さん歟。今逆徒不測滅て天下雖属無事、与党猶隠身伺隙、不可有不待時。此時上無威厳、下必可有暴慢心。されば文武の二道同く立て可治今の世也。我若帰剃髪染衣体捨虎賁猛将威、於武全朝家人誰哉。夫諸仏菩薩垂利生方便日、有折伏・摂受二門。其摂受者、作柔和・忍辱之貌慈悲為先、折伏者、現大勢忿怒形刑罰為宗。況聖明君求賢佐・武備才時、或は出塵の輩を帰俗体或退体の主を奉即帝位、和漢其例多し。所謂賈嶋浪仙は、釈門より出て成朝廷臣。我朝天武・孝謙は、替法体登重祚位。抑我栖台嶺幽渓、纔守一門迹、居幕府上将、遠静一天下、国家の用何れをか為吉。此両篇速に被下勅許様に可経奏聞。」被仰、則清忠をぞ被返ける。清忠卿帰参して、此由を奏聞しければ、主上具に被聞召、「居大樹位、全武備守、げにも為朝家似忘人嘲。高氏誅罰の事、彼不忠何事ぞ乎。太平の後天下の士卒猶抱恐懼心。若無罪行罰、諸卒豈成安堵思哉。然ば於大樹任不可有子細。至高氏誅罰事堅可留其企。」有聖断、被成征夷将軍宣旨。依之宮の御憤も散じけるにや、六月十七日志貴を御立有て、八幡に七日御逗留有て、同二十三日御入洛あり。其行列・行装尽天下壮観。先一番赤松入道円心、千余騎にて前陣を仕る。二番に殿法印良忠、七百余騎にて打つ。三番には四条少将隆資、五百余騎。四番には中院中将定平、八百余騎にて打る。其次に花やかに鎧ふたる兵五百人勝て、帯刀にて二行に被歩。其次に、宮は赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧の裾金物に、牡丹の陰に獅子の戯て、前後左右に追合たるを、草摺長に被召、兵庫鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘かけたるを、太刀懸の半に結てさげ、白篦に節陰許少塗て、鵠の羽を以て矧だる征矢の三十六指たるを筈高に負成、二所藤の弓の、銀のつく打たるを十文字に拳て、白瓦毛なる馬の、尾髪飽まで足て太逞に沃懸地の鞍置て、厚総の鞦の、只今染出たる如なるを、芝打長に懸成し、侍十二人に双口をさせ、千鳥足を蹈せて、小路を狭しと被歩。後乗には、千種頭中将忠顕朝臣千余騎にて被供奉。猶も御用心の最中なれば、御心安兵を以て非常を可被誡とて、国々の兵をば、混物具にて三千余騎、閑に小路を被打。其後陣には湯浅権大夫・山本四郎次郎忠行・伊東三郎行高・加藤太郎光直、畿内近国の勢打込に、二十万七千余騎、三日支てぞ打たりける。時移り事去て、万づ昔に替る世なれども、天台座主忽に蒙将軍宣旨、帯甲冑召具随兵、御入洛有し分野は、珍かりし壮観也。其後妙法院宮は四国の勢を被召具、讚岐国より御上洛あり。万里小路中納言藤房卿は、預人小田民部大輔相具して常陸国より被上洛。春宮大進季房は配所にて身罷にければ、父宣房卿悦の中の悲み、老後の泪満袖。法勝寺円観上人をば、預人結城上野入道奉具足上洛したりければ、君法体の無恙事を悦び思召て、軈て結城に本領安堵の被成下綸旨。文観上人は硫黄嶋より上洛し、忠円僧正は越後国より被帰洛。総じて此君笠置へ落させ給し刻、解官停任せられし人々、死罪流刑に逢し其子孫、此彼より被召出、一時に蟄懐を開けり。されば日来誇武威無本所を、権門高家の武士共、いつしか成諸庭奉公人、或は走軽軒香車後、或跪青侍恪勤前。世の盛衰時の転変、歎に叶はぬ習とは知ながら、今の如にて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人の如にて有べし。哀何なる不思議も出来て、武家執四海権世中に又成かしと思ふ人のみ多かりけり。同八月三日より可有軍勢恩賞沙汰とて、洞院左衛門督実世卿を被定上卿。依之諸国の軍勢、立軍忠支証捧申状望恩賞輩、何千万人と云数を不知。実に有忠者は憑功不諛、無忠者媚奥求竈、掠上聞間、数月の内に僅に二十余人の恩賞を被沙汰たりけれ共、事非正路軈被召返けり。さらば改上卿とて、万里小路中納言藤房卿を被成上卿、申状を被付渡。藤房請取之糾忠否分浅深、各申与んとし給ひける処に、依内奏秘計、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に無忠輩も五箇所・十箇所の所領を給ける間、藤房諌言を納かねて称病被辞奉行。角て非可黙止とて、九条民部卿を上卿に定て御沙汰有ける間、光経卿、諸大将に其手の忠否を委細尋究て申与んとし給ける処に、相摸入道の一跡をば、内裏の供御料所に被置。舎弟四郎左近大夫入道の跡をば、兵部卿親王へ被進。大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる。此外相州の一族、関東家風の輩が所領をば、無指事郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司・官女・官僧まで、一跡・二跡を合て、内奏より申給りければ、今は六十六箇国の内には、立錐の地も軍勢に可行闕所は無りけり。浩ければ光経卿も、心許は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給けれ共、叶はで年月をぞ被送ける。又雑訴の沙汰の為にとて、郁芳門の左右の脇に決断所を被造。其議定の人数には、才学優長の卿相・雲客・紀伝・明法・外記・官人を三番に分て、一月に六箇度の沙汰の日をぞ被定ける。凡事の体厳重に見へて堂々たり。去ども是尚理世安国の政に非りけり。或は自内奏訴人蒙勅許を、決断所にて論人に理を被付、又決断所にて本主給安堵、内奏より其地を別人の恩賞に被行。如此互に錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々の動乱更に無休時。去七月の初より中宮御心煩はせ給けるが、八月二日隠させ給ふ。是のみならず十一月三日、春宮崩御成にけり。是非只事、亡卒の怨霊共の所為なるべしとて、止其怨害、為令趣善所、仰四箇大寺、大蔵経五千三百巻を一日中に被書写、法勝寺にて則供養を遂られけり。


93 大内裏造営事付聖廟御事

翌年正月十二日、諸卿議奏して曰、「帝王の業、万機事繁して、百司設位。今の鳳闕僅方四町の内なれば、分内狭して調礼儀無所。四方へ一町宛被広、建殿造宮。是猶古の皇居に及ばねばとて、大内裏可被造。」とて安芸・周防を料国に被寄、日本国の地頭・御家人の所領の得分二十分一を被懸召。抑大内裡と申は、秦の始皇帝の都、咸陽宮の一殿を摸して被作たれば、南北三十六町、東西二十町の外、竜尾の置石を居へて、四方に十二の門を被立たり。東には陽明・待賢・郁芳門、南には美福・朱雀・皇嘉門、西には談天・藻壁・殷富門、北には安嘉・偉鑒・達智門、此外上東・上西、二門に至迄、守交戟衛伍長時に誡非常たり。三十六の後宮には、三千の淑女飾妝、七十二の前殿には文武の百司待詔。紫宸殿の東西に、清涼殿・温明殿。当北常寧殿・貞観殿。々々々と申は、后町の北の御匣殿也。校書殿と号せしは、清涼殿の南の弓場殿也。昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅坪、襲芳舎と申は雷鳴坪の事也。萩戸・陣座・滝口戸・鳥曹司・縫殿。兵衛陣、左は宣陽門、右陰明門。日花・月花の両門は、対陣座左右。大極殿・小安殿・蒼龍楼・白虎楼。豊楽院・清署堂、五節の宴水・大嘗会は此所にて被行。中和院は中院、内教坊は雅楽所也。御修法は真言院、神今食は神嘉殿、真弓・競馬をば、武徳殿にして被御覧。朝堂院と申は八省の諸寮是也。右近の陣の橘は昔を忍ぶ香を留め、御階に滋る竹の台幾世の霜を重ぬらん。在原中将の弓・胡■を身に添て、雷鳴騒ぐ終夜あばらなる屋に居たりしは、官の庁の八神殿、光源氏大将の、如物もなしと詠じつゝ、朧月夜に軻しは弘徽殿の細殿、江相公の古へ越の国へ下しに、旅の別を悲て、「後会期遥也。濡纓於鴻臚之暁涙」と、長篇の序に書たりしは、羅城門の南なる鴻臚館の名残なり。鬼の間・直盧・鈴の縄。荒海の障子をば、清涼殿に被立、賢聖の障子をば、紫宸殿にぞ被立ける。東の一の間には、馬周・房玄齢・杜如晦・魏徴、二の間には、諸葛亮・遽伯玉・張子房・第伍倫、三の間には、管仲・■禹・子産・蕭何、四の間には、伊尹・傅説・太公望・仲山甫、西の一の間には、李勣・虞世南・杜預・張華、二の間には、羊■・揚雄・陳寔・班固、三の間には、桓栄・鄭玄・蘇武・倪寛、四の間には、董仲舒・文翁・賈誼・叔孫通也。画図は金岡が筆、賛詞は小野道風が書たりけるとぞ承る。鳳の甍翔天虹の梁聳雲、さしもいみじく被造双たりし大内裏、天災消に無便、回禄度々に及で、今は昔の礎のみ残れり。尋回禄由、彼唐尭・虞舜の君は支那四百州の主として、其徳天地に応ぜしか共、「茆茨不剪、柴椽不削」とこそ申伝たれ。矧や粟散国の主として、此大内を被造たる事、其徳不可相応。後王若無徳にして欲令居安給はゞ、国財力も依之可尽と、高野大師鑒之、門々の額を書せ給けるに、大極殿の大の字の中を引切て、火と云字に成し、朱雀門の朱の字を米と云字にぞ遊しける。小野道風見之、大極殿は火極殿、朱雀門は米雀門とぞ難じたりける。大権の聖者鑒未来書給へる事を、凡俗として難じ申たりける罰にや、其後より道風執筆、手戦て文字正しからざれども、草書に得妙人なれば、戦て書けるも、軈て筆勢にぞ成にける。遂に大極殿より火出て、諸司八省悉焼にけり。無程又造営有しを、北野天神の御眷属火雷気毒神、清涼殿の坤柱に落掛給し時焼けるとぞ承る。抑彼天満大神と申は、風月の本主、文道の大祖たり。天に御坐ては日月に顕光照国土、地に降下ては塩梅の臣と成て群生を利し玉ふ。其始を申せば、菅原宰相是善卿の南庭に、五六歳許なる小児の容顔美麗なるが、詠前栽花只一人立給へり。菅相公怪しと見給て、「君は何の処の人、誰が家の男にて御坐ぞ。」と問玉に、「我は無父無母、願は相公を親とせんと思侍る也。」と被仰ければ、相公嬉く思召て、手から奉舁懐、鴛鴦の衾の下に、恩愛の養育を為事生育奉り、御名をば菅少将とぞ申ける。未習悟道、御才学世に又類も非じと見給しかば、十一歳に成せ給し時父菅相公御髪を掻撫て、「若詩や作り給ふべき。」と問進せ給ければ、少しも案じたる御気色も無て、月耀如晴雪。梅花似照星。可憐金鏡転。庭上玉芳馨。と寒夜の即事を、言ば明に五言の絶句にぞ作せ玉ける。其より後、詩は捲盛唐波瀾先七歩才、文は漱漢魏芳潤、諳万巻書玉しかば、貞観十二年三月二十三日対策及第して自詞場に折桂玉ふ。其年の春都良香の家に人集て弓を射ける所へ菅少将をはしたり。都良香、此公は無何と、学窓に聚蛍、稽古に無隙人なれば、弓の本末をも知玉はじ、的を射させ奉り咲ばやと思して、的矢に弓を取副て閣菅少将御前に、「春の始にて候に、一度遊ばし候へ。」とぞ被請ける。菅少将さしも辞退し給はず、番の逢手に立合て、如雪膚を押袒、打上て引下すより、暫しをりて堅めたる体、切て放たる矢色・弦音・弓倒し、五善何れも逞く勢有て、矢所一寸ものかず、五度の十をし給ければ、都良香感に堪兼て、自下て御手を引、酒宴及数刻、様々の引出物をぞ被進ける。同年の三月二十六日に、延喜帝未だ東宮にて御坐ありけるが、菅少将を被召て、「漢朝の李■は一夜に百首の詩を作けると見たり。汝盍如其才。一時に作十首詩可備天覧。」被仰下ければ、則十題を賜て、半時許に十首の詩をぞ作せ玉ける。送春不用動舟車。唯別残鴬与落花。若使韶光知我意。今宵旅宿在詩家。と云暮春の詩も其十首の絶句の内なるべし。才賢の誉・仁義の道、一として無所欠、君帰三皇五帝徳、世均周公・孔子治只在此人、君無限賞じ思召ければ、寛平九年六月に中納言より大納言に上、軈て大将に成玉ふ。同年十月に、延喜帝即御位給し後は、万機の政然自幕府上相出しかば、摂禄の臣も清花の家も無可比肩人。昌泰二年の二月に、大臣大将に成せ給ふ。此時本院大臣と申は、大織冠九代の孫、昭宣公第一の男、皇后御兄、村上天皇の御伯父也。摂家と云高貴と云、旁我に等き人非じと思ひ給けるに、官位・禄賞共に菅丞相に被越給ければ、御憤更無休時。光卿・定国卿・菅根朝臣などに内々相計て、召陰陽頭、王城の八方に埋人形祭冥衆、菅丞相を呪咀し給けれども、天道私なければ、御身に災難不来。さらば構讒沈罪科思て、本院大臣時々菅丞相天下の世務に有私、不知民愁、以非為理由被申ければ、帝さては乱世害民逆臣、諌非禁邪忠臣に非ずと被思召けるこそ浅猿けれ。「誰知、偽言巧似簧。勧君掩鼻君莫掩。使君夫婦為参商。請君捕峰君莫捕。使君母子成豺狼。」さしも可眤夫婦・父子の中をだに遠くるは讒者の偽也。況於君臣間乎。遂昌泰四年正月二十日菅丞相被遷太宰権帥、筑紫へ被流給べきに定りにければ、不堪左遷御悲、一首の歌に千般の恨を述て亭子院へ奉り給ふ。流行我はみくづとなりぬとも君しがらみと成てとゞめよ法皇此歌を御覧じて御泪御衣を濡しければ、左遷の罪を申宥させ給はんとて、御参内有けれ共、帝遂に出御無りければ、法皇御憤を含で空く還御成にけり。其後流刑定て、菅丞相忽に太宰府へ被流させ玉ふ。御子二十三人の中に、四人は男子にてをわせしかば、皆引分て四方の国々へ奉流。第一の姫君一人をば都に留め進せ、残君達十八人は、泣々都を立離れ、心つくしに赴せ玉ふ御有様こそ悲しけれ。年久く住馴給し、紅梅殿を立出させ玉へば、明方の月幽なるに、をり忘たる梅が香の御袖に余りたるも、今は是や古郷の春の形見と思食に、御涙さへ留らねば、東風吹ば匂をこせよ梅の花主なしとて春な忘れそと打詠給て、今夜淀の渡までと、追立の官人共に道を被急、御車にぞ被召ける。心なき草木までも馴し別を悲けるにや、東風吹風の便を得て、此梅飛去て配所の庭にぞ生たりける。されば夢の告有て、折人つらしと惜まれし、宰府の飛梅是也。去仁和の比、讚州の任に下給しには、解甘寧錦纜、蘭橈桂梶、敲舷於南海月、昌泰の今配所の道へ赴せ玉ふには、恩賜の御衣の袖を片敷て、浪の上篷の底、傷思於西府雲、都に留置進せし北御方・姫君の御事も、今は昨日を限の別と悲く、知ぬ国々へ被流遣十八人の君達も、さこそ思はぬ旅に趣て、苦身悩心らめと、一方ならず思食遣に、御泪更に乾間も無れば、旅泊の思を述させ給ける詩にも、自従勅使駈将去。父子一時五処離。口不能言眼中血。俯仰天神与地祇。北御方より被副ける御使の道より帰けるに御文あり。君が住宿の梢を行々も隠るゝまでにかへり見しはや心筑紫に生の松、待とはなしに明暮て、配所の西府に着せ玉へば、埴生の小屋のいぶせきに、奉送置、都の官人も帰りぬ。都府楼の瓦の色、観音寺の鐘の声、聞に随ひ見に付ての御悲、此秋は独我身の秋となれり。起臥露のとことはに、古郷を忍ぶ御涙、毎言葉繁ければ、さらでも重濡衣の、袖乾く間も無りけり、さても無実の讒によりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思召ければ、七日、間御身を清め一巻の告文を遊して高山に登り、竿の前に着て差挙、七日御足を翹させ給たるに、梵天・帝釈も其無実をや憐給けん。黒雲一群天より下さがりて、此告文を把て遥の天にぞ揚りける。其後延喜三年二月二十五日遂に沈左遷恨薨逝し給ぬ。今の安楽寺を御墓所と定て奉送置。惜哉北闕春花、随流不帰水、奈何西府夜月、入不晴虚命雲、されば貴賎滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。同年夏の末に、延暦寺第十三の座主、法性坊尊意贈僧正、四明山の上、十乗の床前に照観月、清心水御坐けるに、持仏堂の妻戸を、ほと/\と敲音しければ、押開て見玉ふに、過ぬる春筑紫にて正しく薨逝し給ぬと聞へし菅丞相にてぞ御坐ける。僧正奇思して、「先此方へ御入候へ。」と奉誘引、「さても御事は過にし二月二十五日に、筑紫にて御隠候ぬと、慥に承しかば、悲歎の涙を袖にかけて、後生菩提の御追善をのみ申居候に、少も不替元の御形にて入御候へば、夢幻の間難弁こそ覚て候へ。」と被申ければ、菅丞相御顔にはら/\とこぼれ懸りける御泪を押拭はせ給て、「我成朝廷臣、為令安天下、暫下生人間処に、君時平公が讒を御許容有て、終に無実の罪に被沈ぬる事、瞋恚の焔従劫火盛也。依之五蘊の形は雖壊、一霊の神は明にして在天。今得大小神祇・梵天・帝釈・四王許、為報其恨九重の帝闕に近づき、我につらかりし佞臣・讒者を一々に蹴殺さんと存ずる也。其時定て仰山門可被致総持法験。縦雖有勅定、相構不可有参内。」と被仰ければ、僧正曰、「貴方与愚僧師資之儀雖不浅、君与臣上下之礼尚深。勅請の旨一往雖辞申、及度々争か参内仕らで候べき。」と被申けるに、菅丞相御気色俄に損じて御肴に有ける柘榴を取てかみ摧き、持仏堂の妻戸に颯と吹懸させ給ければ、柘榴の核猛火と成て妻戸に燃付けるを、僧正少も不騒、向燃火灑水の印を結ばれければ、猛火忽に消て妻戸は半焦たる許也。此妻戸今に伝て在山門とぞ承る。其後菅丞相座席を立て天に昇らせ玉ふと見へければ、軈雷内裡の上に鳴落鳴騰、高天も落地大地も如裂。一人・百官縮身消魂給ふ。七日七夜が間雨暴風烈して世界如闇、洪水家々を漂はしければ、京白河の貴賎男女、喚き叫ぶ声叫喚・大叫喚の苦の如し。遂に雷電大内の清涼殿に落て、大納言清貫卿の表の衣に火燃付て伏転べども不消。右大弁希世朝臣は、心剛なる人なりければ、「縦何なる天雷也とも、王威に不威哉。」とて、弓に矢を取副て向給へば、五体すくみて覆倒にけり。近衛忠包鬢髪に火付焼死ぬ。紀蔭連は煙に咽で絶入にけり。本院大臣あはや我身に懸る神罰よと被思ければ、玉体に立副進せ太刀を抜懸て、「朝に仕へ給し時も我に礼を乱玉はず、縦ひ神と成玉ふとも、君臣上下の義を失玉はんや。金輪位高して擁護の神未捨玉、暫く静りて穏かに其徳を施し玉へ。」と理に当て宣ひければ、理にやしづまり玉けん、時平大臣も蹴殺され給はず、玉体も無恙、雷神天に上り玉ぬ。去ども雨風の降続事は尚不休。角ては世界国土皆流失ぬと見へければ、以法威神忿を宥申さるべしとて、法性坊の贈僧正を被召。一両度までは辞退申されけるが、勅宣及三度ければ、無力下洛し給けるに、鴨川をびたゝしく水増て、船ならでは道有まじかりけるを、僧正、「只其車水の中を遣れ。」と下知し給ふ。牛飼随命、漲たる河の中へ車を颯と遣懸たれば、洪水左右へ分、却て車は陸地を通りけり。僧正参内し給ふより、雨止風静て、神忿も忽に宥り給ぬと見へければ、僧正預叡感登山し玉ふ。山門の効験天下の称讚在之とぞ聞へし。其後本院大臣受病身心鎮に苦み給ふ。浄蔵貴所を奉請被加持けるに、大臣の左右の耳より、小青蛇頭を差出して、「良浄蔵貴所、我無実の讒に沈し恨を為散、此大臣を取殺んと思也。されば祈療共に以て不可有験。加様に云者をば誰とかしる。是こそ菅丞相の変化の神、天満大自在天神よ。」とぞ示給ける。浄蔵貴所示現の不思議に驚て、暫く罷加持出玉ければ、本院大臣忽に薨じ給ぬ。御息女の女御、御孫の東宮も軈て隠れさせ玉ぬ。二男八条大将保忠同重病に沈給けるが、験者薬師経を読む時、宮毘羅大将と打挙て読けるを、我が頚切らんと云声に聞成て、則絶入給けり。三男敦忠中納言も早世しぬ。其人こそあらめ、子孫まで一時に亡玉ける神罰の程こそをそろしけれ。其比延喜帝の御従兄弟に右大弁公忠と申人、悩事も無て頓死しけり。経三日蘇生給けるが、大息突出て、「可奏聞事あり、我を扶起て内裏へ参れ。」と宣ければ、子息信明・信孝二人左右の手を扶て参内し玉ふ。「事の故何ぞ。」と御尋有ければ、公忠わな/\と振て、「臣冥官の庁とてをそろしき所に至り候つるが、長一丈余なる人の衣冠正しきが、金軸の申文を捧て、「粟散辺地の主、延喜帝王、時平大臣が信讒無罪臣を被流候き。其誤尤重し、早被記庁御札、阿鼻地獄へ可被落。」と申しかば、三十余人並居玉へる冥官大に忿て、「不移時刻可及其責。」と同じ給しを、座中第二の冥官、「若年号を改て過を謝する道あらば、如何し候べき。」と宣しに、座中皆案じ煩たる体に見へて、其後、公忠蘇生仕候。」とぞ被奏ける。君大に驚思召て、軈て延喜の年号を延長に改て、菅丞相流罪の宣旨を焼捨て、官位を元の大臣に帰し、正二位の一階を被贈けり。其後天慶九年近江国比良の社の袮宜、神の良種に託して、大内の北野に千本の松一夜に生たりしかば、此に建社壇、奉崇天満大自在天神けり。御眷属十六万八千之神尚も静り玉ざりけるにや、天徳二年より天元五年に至迄二十五年の間に、諸司八省三度迄焼にけり。角て有べきにあらねば、内裏造営あるべしとて、運魯般斧新に造立たりける柱に一首の蝕の歌あり。造とも又も焼なん菅原や棟の板間の合ん限りは此歌に神慮尚も御納受なかりけりと驚思食て、一条院より正一位太政大臣の官位を賜らせ玉ふ。勅使安楽寺に下て詔書を読上ける時天に声有て一首の詩聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後よりは、神の嗔も静り国土も穏也。偉矣、尋本地、大慈大悲の観世音、弘誓の海深して、群生済度の船無不到彼岸。垂跡を申せば天満大自在天神の応化の身、利物日新にして、一来結縁の人所願任心成就す。是を以て上自一人、下至万民、渇仰の首を不傾云人はなし。誠奇特無双の霊社也。去程に、治暦四年八月十四日、内裏造営の事始有て、後三条院の御宇、延久四年四月十五日遷幸あり。文人献詩伶倫奏楽。目出かりしに、無幾程、又安元二年に日吉山王の依御祟、大内の諸寮一宇も不残焼にし後は、国の力衰て代々の聖主も今に至まで造営の御沙汰も無りつるに、今兵革の後、世未安、国費へ民苦て、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我朝には未用作紙銭、諸国の地頭・御家人の所領に被懸課役条、神慮にも違ひ驕誇の端とも成ぬと、顰眉智臣も多かりけり。


94 安鎮国家法事付諸大将恩賞事

元弘三年春の比、筑紫には規矩掃部助高政・糸田左近大夫将監貞義と云平氏の一族出来て、前亡の余類を集め、所々の逆党を招て国を乱らんとす。又河内国の賊徒等、佐々目憲法僧正と云ける者を取立て、飯盛山に城郭をぞ構ける。是のみならず、伊与国には赤橋駿河守が子息、駿河太郎重時と云者有て、立烏帽子峯に城を拵、四辺の庄園を掠領す。此等の凶徒、加法威於武力不退治者、早速に可難静謐とて、俄に紫宸殿の皇居に構壇、竹内慈厳僧正を被召て、天下安鎮の法をぞ被行ける。此法を行時、甲冑の武士四門を堅て、内弁・外弁、近衛、階下に陣を張り、伶人楽を奏する始、武家の輩南庭の左右に立双で、抜剣四方を鎮る事あり。四門の警固には、結城七郎左衛門親光・楠河内守正成・塩冶判官高貞・名和伯耆守長年也。南庭の陣には右は三浦介、左は千葉大介貞胤をぞ被召ける。此両人兼ては可随其役由を領状申たりけるが、臨其期千葉は三浦が相手に成ん事を嫌ひ、三浦は千葉が右に立ん事を忿て、共に出仕を留ければ、天魔の障礙、法会の違乱とぞ成にける。後に思合するに天下久無為なるまじき表示也けり。されども此法の効験にや、飯盛丸城は正成に被攻落、立烏帽子城は、土居・得能に被責破、筑紫は大友・小弐に打負て、朝敵の首京都に上しかば、共に被渡大路、軈て被懸獄門けり。東国・西国已静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦の者共、大船七百余艘にて参洛す。新田左馬助・舎弟兵庫助七千余騎にて被上洛。此外国々の武士共、一人も不残上り集ける間、京白河に充満して、王城の富貴日来に百倍せり。諸軍勢の恩賞は暫く延引すとも、先大功の輩の抽賞を可被行とて、足利治部大輔高氏に、武蔵・常陸・下総三箇国、舎弟左馬頭直義に遠江国、新田左馬助義貞に上野・播磨両国、子息義顕に越後国、舎弟兵部少輔義助に駿河国、楠判官正成に摂津国・河内、名和伯耆守長年に因幡・伯耆両国をぞ被行ける。其外公家・武家の輩、二箇国・三箇国を給りけるに、さしもの軍忠有し赤松入道円心に、佐用庄一所許を被行。播磨国の守護職をば無程被召返けり。されば建武の乱に円心俄に心替して、朝敵と成しも、此恨とぞ聞へし。其外五十余箇国の守護・国司・国々の闕所大庄をば悉公家被官の人々拝領しける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。


95 千種殿並文観僧正奢侈事付解脱上人事

中にも千種頭中将忠顕朝臣は、故六条内府有房公の孫にて御坐しかば文字の道をこそ、家業とも嗜まるべかりしに、弱冠の比より我道にもあらぬ笠懸・犬追物を好み、博奕・婬乱を事とせられける間、父有忠卿離父子義、不幸の由にてぞ被置ける。され共此朝臣、一時の栄花を可開過去の因縁にや有けん、主上隠岐国へ御遷幸の時供奉仕て、六波羅の討手に上りたりし忠功に依て、大国三箇国、闕所数十箇所被拝領たりしかば、朝恩身に余り、其侈り目を驚せり。其重恩を与へたる家人共に、毎日の巡酒を振舞せけるに、堂上に袖を連ぬる諸大夫・侍三百人に余れり。其酒肉珍膳の費へ、一度に万銭も尚不可足。又数十間の厩を作双べて、肉に余れる馬を五六十疋被立たり。宴罷で和興に時は、数百騎を相随へて内野・北山辺に打出て追出犬、小鷹狩に日を暮し給ふ。其衣裳は豹・虎皮を行縢に裁ち、金襴纐纈を直垂に縫へり。賎服貴服謂之僭上。々々無礼国凶賊也と、孔安国が誡を不恥ける社うたてけれ。是はせめて俗人なれば不足言。彼文観僧正の振舞を伝聞こそ不思議なれ。適一旦名利の境界を離れ、既に三密瑜伽の道場に入給し無益、只利欲・名聞にのみ■て、更に観念定坐の勤を忘たるに似り。何の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、傍に集武具士卒を逞す。成媚結交輩には、無忠賞を被申与ける間、文観僧正の手の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人。されば程遠からぬ参内の時も、輿の前後に数百騎の兵打囲で、路次を横行しければ、法衣忽汚馬蹄塵、律儀空落人口譏。彼廬山慧遠法師は一度辞風塵境、寂寞の室に坐し給しより、仮にも此山を不出と誓て、十八賢聖を結で、長日に六時礼讚を勤き。大梅常和尚は強不被世人知住処更に茅舎を移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆古〔も〕今も韜光消跡、暮山の雲に伴一池の蓮を衣として、行道清心こそ生涯を尽す事なるに、此僧正は如此名利の絆に羈れけるも非直事、何様天魔外道の其心に依託して、挙動せけるかと覚たり。以何云之ならば、文治の比洛陽に有一沙門。其名を解脱上人とぞ申ける。其母七歳の時、夢中に鈴を呑と見て設たりける子なりければ、非直人とて、三に成ける時より、其身を入釈門、遂に貴き聖とは成しける也。されば慈悲深重にして、三衣の破たる事を不悲、行業不退にして、一鉢の空き事を不愁。大隠は必しも市朝の内を不辞。身は雖交五濁塵、心は不犯三毒霧。任縁歳月を渡り、利生山川を抖薮し給けるが、或時伊勢太神宮に参て、内外宮を巡礼して、潛に自受法楽の法施をぞ被奉ける。大方自余の社には様替て、千木不曲形祖木不剃、是正直捨方便の形を顕せるかと見へ、古松垂枝老樹敷葉、皆下化衆生の相を表すと覚たり。垂迹の方便をきけば、仮に雖似忌三宝名、内証深心を思へば、其も尚有化俗結縁理覚て、そゞろに感涙袖を濡しければ、日暮けれ共在家なんどに可立宿心地もし給はず、外宮の御前に通夜念誦して、神路山の松風に眠をさまし、御裳濯川の月に心を清して御坐ける処に、俄に空掻曇雨風烈吹て、雲の上に車を轟、馬を馳る音して東西より来れり。「あな恐しや、此何物やらん。」と上人消肝見給へば、忽然として虚空に瑩玉鏤金たる宮殿楼閣出来て、庭上に引幔門前に張幕。爰に十方より所来の車馬の客、二三千も有らんと覚たるが左右に居流て、上座に一人の大人あり。其容甚非尋常、長二三十丈も有らんと見揚たるに、頭は如夜叉十二の面上に双べり。四十二の手有て左右に相連る。或は握日月、或は提剣戟八竜にぞ乗たりける。相順処の眷属共、皆非常人、八臂六足にして鉄の楯を挟み、三面一体にして金の鎧着せり。座定て後、上坐に居たる大人左右に向て申けるは、「此比帝釈の軍に打勝て手に握日月、身居須弥頂、一足に雖蹈大海、其眷属毎日数万人亡、故何事ぞと見れば、南胆部州扶桑国洛陽辺に解脱房と云一人の聖出来て、化導利生する間、法威盛にして天帝得力、魔障弱して修羅失勢。所詮彼が角て有ん程は、我等向天帝合戦する事叶ふまじ。何にもして彼が醒道心、可着■慢懈怠心。」申ければ、甲の真向に、第六天の魔王と金字に銘を打たる者座中に進出で、「彼醒道心候はん事は、可輒るにて候。先後鳥羽院に滅武家思召心を奉着、被攻六波羅、左京権大夫義時定て向官軍可致合戦。其時加力義時ば官軍敗北して、後鳥羽院遠国へ被流給はゞ、義時司天下成敗治天を計申さんに、必広瀬院第二の宮を可奉即位。さる程ならば、此解脱房彼宮の有御帰依聖なれば、被召官僧奉近竜顔、可刷出仕儀則。自是行業は日々に怠、■慢は時々に増て、破戒無慚の比丘と成んずる条、不可有子細、角てぞ我等も若干の眷属を可設候。」と申ければ、二行に並居たる悪魔外道共、「此儀尤可然覚候。」と同じて各東西に飛去にけり。上人聞此事給て、「是ぞ神明の我に道心を勧させ給ふ御利生よ。」と歓喜の泪を流し、其より軈京へは帰給はで、山城国笠置と云深山に卜一巌屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長発厭離穢土心鎮専欣求浄土勤し給ひける。角て三四年を過給ひける処に承久の合戦出来て、義時執天下権しかば、後鳥羽院被流させ給て、広瀬宮即天子位給ける。其時解脱上人在笠置窟聞召て、為官僧度々被下勅使被召けれ共、是こそ第六天の魔王共が云し事よと被思ければ、遂に不随勅定弥行澄してぞ御坐しける。智行徳開しかば、軈て成此寺開山、今に残仏法弘通紹隆給へり。以彼思此、うたてかりける文観上人の行儀哉と、迷愚蒙眼。遂無幾程建武の乱出来しかば、無法流相続門弟一人成孤独衰窮身、吉野の辺に漂泊して、終給けるとぞ聞へし。


96 広有射怪鳥事

元弘三年七月に改元有て建武に被移。是は後漢光武、治王莽之乱再続漢世佳例也とて、漢朝の年号を被摸けるとかや。今年天下に疫癘有て、病死する者甚多し。是のみならず、其秋の比より紫宸殿の上に怪鳥出来て、「いつまで/\。」とぞ鳴ける。其声響雲驚眠。聞人皆無不忌恐。即諸卿相議して曰、「異国の昔、尭の代に九の日出たりしを、■と云ける者承て、八の日を射落せり。我朝の古、堀川院の御在位時、有反化物、奉悩君しをば、前陸奥守義家承て、殿上の下口に候、三度弦音を鳴して鎮之。又近衛院の御在位の時、鵺と云鳥の雲中に翔て鳴しをば、源三位頼政卿蒙勅、射落したりし例あれば、源氏の中に誰か可射候者有。」と被尋けれ共、射はづしたらば生涯の恥辱と思けるにや、我承らんと申者無りけり。「さらば上北面・諸庭の侍共中に誰かさりぬべき者有。」と御尋有けるに、「二条関白左大臣殿の被召仕候、隠岐次郎左衛門広有と申者こそ、其器に堪たる者にて候へ。」と被申ければ、軈召之とて広有をぞ被召ける。広有承勅定鈴間辺に候けるが、げにも此鳥蚊の睫に巣くうなる■螟の如く少て不及矢も、虚空の外に翔飛ばゞ叶まじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸りならんずるに、何事ありとも射はづすまじき物をと思ければ、一義も不申畏て領掌す。則下人に持せたる弓与矢を執寄て、孫廂の陰に立隠て、此鳥の有様を伺見るに、八月十七夜の月殊に晴渡て、虚空清明たるに、大内山の上に黒雲一群懸て、鳥啼こと荐也。鳴時口より火炎を吐歟と覚て、声の内より電して、其光御簾の内へ散徹す。広有此鳥の在所を能々見課て、弓押張り弦くひしめして、流鏑矢を差番て立向へば、主上は南殿に出御成て叡覧あり。関白殿下・左右の大将・大中納言・八座・七弁・八省輔・諸家の侍、堂上堂下に連袖、文武百官見之、如何が有んずらんとかたづを呑で拳手。広有已に立向て、欲引弓けるが、聊思案する様有げにて、流鏑にすげたる狩俣を抜て打捨、二人張に十二束二伏、きり/\と引しぼりて無左右不放之、待鳥啼声たりける。此鳥例より飛下、紫宸殿の上に二十丈許が程に鳴ける処を聞清して、弦音高く兵と放つ。鏑紫宸殿の上を鳴り響し、雲の間に手答して、何とは不知、大盤石の如落懸聞へて、仁寿殿の軒の上より、ふたへに竹台の前へぞ落たりける。堂上堂下一同に、「あ射たり/\。」と感ずる声、半時許のゝめいて、且は不云休けり。衛士の司に松明を高く捕せて是を御覧ずるに、頭は如人して、身は蛇の形也。嘴の前曲て歯如鋸生違。両の足に長距有て、利如剣。羽崎を延て見之、長一丈六尺也。「さても広有射ける時、俄に雁俣を抜て捨つるは何ぞ。」と御尋有ければ、広有畏て、「此鳥当御殿上鳴候つる間、仕て候はんずる矢の落候はん時、宮殿の上に立候はんずるが禁忌しさに、雁俣をば抜て捨つるにて候。」と申ければ、主上弥叡感有て、其夜軈て広有を被成五位、次の日因幡国に大庄二箇所賜てけり。弓矢取の面目、後代までの名誉也。


97 神泉苑事

兵革の後、妖気猶示禍。銷其殃無如真言秘密効験とて、俄に神泉苑をぞ被修造ける。彼神泉園と申は、大内始て成し時、准周文王霊囿、方八町に被築たりし園囿也。其後桓武の御世に、始て朱雀門の東西に被建二寺。左をば名東寺右をば号西寺。東寺には高野大師安胎蔵界七百余尊守金輪宝祚。西寺には南都の周敏僧都金剛界五百余尊を顕して、被祈玉体長久。斯りし処に、桓武御宇延暦二十三年春比、弘法大師為求法御渡唐有けり。其間周敏僧都一人奉近竜顔被致朝夕加持ける。或時御門御手水を被召けるが、水氷て余につめたかりける程に、暫とて閣き給ひたりけるを、周敏向御手水結火印を給ける間、氷水忽に解て如沸湯也。御門被御覧て、余に不思議に被思召ければ、態火鉢に炭を多くをこさせて、障子を立廻し、火気を内に被篭たれば、臘裏風光宛如春三月也。帝御顔の汗を押拭はせ給て、「此火滅ばや。」と被仰ければ、守敏又向火水の印をぞ結び給ひける。依之炉火忽に消て空く冷灰に成にければ、寒気侵膚五体に如灑水。自此後、守敏加様の顕奇特不思議事如得神変。斯しかば帝是を帰依渇仰し給へる事不尋常。懸りける処に弘法大師有御帰朝。即参内し給ふ。帝異朝の事共有御尋後、守敏僧都の此間様々なりつる奇特共をぞ御物語有ける。大師聞召之、「馬鳴■帷、鬼神去閉口、栴檀礼塔支提破顕尸と申事候へば、空海が有んずる処にて、守敏よもさやうの奇特をば現し候はじ。」とぞ被欺ける。帝さらば両人の効験を施させて威徳の勝劣を被御覧思召て、或時大師御参内有けるを、傍に奉隠置、守敏応勅御前に候す。時に帝湯薬を進りけるが、建盞を閣せ給て、「余に此水つめたく覚る。例の様に加持して被暖候へかし。」とぞ被仰ける。守敏仔細候はじとて、向建盞結火印被加持けれども、水敢て不成湯。帝「こは何なる不思議ぞや。」と被仰、左右に目くわし有ければ、内侍の典主なる者、態熱く沸返たる湯をついで参たり。帝又湯を立させて進らんとし給ひけるが、又建盞を閣せ給ふ。「是は余に熱て、手にも不被捕。」と被仰ければ、守敏先にもこりず、又向建盞結水印たりけれ共、湯敢不醒、尚建盞の内にて沸返る。守敏前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師傍なる障子の内より御出有て、「何に守敏、空海是に有とは被存知候はざりける歟。星光は消朝日蛍火は隠暁月。」とぞ咲れける。守敏大に恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。自其守敏君を恨申す憤入骨髄深かりければ、天下に大旱魃をやりて、四海の民を無一人飢渇に合せんと思て、一大三千界の中にある所の竜神共を捕へて、僅なる水瓶の内に押篭てぞ置たりける。依之孟夏三月の間、雨降事無して、農民不勤耕作。天下の愁一人の罪にぞ帰しける。君遥に天災の民に害ある事を愁へ思召て、弘法大師を召請じて、雨の祈をぞ被仰付ける。大師承勅、先一七日の間入定、明に三千界の中を御覧ずるに、内海・外海の竜神共、悉守敏の以呪力、水瓶の中に駆篭て可降雨竜神無りけり。但北天竺の境大雪山の北に無熱池と云池の善女竜王、独守敏より上位の薩■にて御坐ける。大師定より出て、此由を奏聞有ければ、俄に大内の前に池を掘せ、清涼の水を湛て竜王をぞ勧請し給ける。于時彼善女龍王金色の八寸の竜に現じて、長九尺許の蛇の頂に乗て此池に来給ふ。則此由を奏す。公家殊に敬嘆せさせ給て、和気真綱を勅使として、以御幣種々物供龍王を祭せらる。其後湿雲油然として降雨事国土に普し。三日の間をやみ無して、災旱の憂永消ぬ。真言の道を被崇事自是弥盛也。守敏尚腹を立て、さらば弘法大師を奉調伏思て、西寺に引篭り、三角の壇を構へ本尊を北向に立て、軍荼利夜叉の法をぞ被行ける。大師此由を聞給て、則東寺に炉壇を構へ大威徳明王の法を修し給ふ。両人何れも徳行薫修の尊宿也しかば、二尊の射給ける流鏑矢空中に合て中に落る事、鳴休隙も無りけり。爰に大師、守敏を油断させんと思召て、俄に御入滅の由を被披露ければ、緇素流悲歎泪、貴賎呑哀慟声。守敏聞之、「法威成就しぬ。」と成悦則被破壇けり。此時守敏俄に目くれ鼻血垂て、心身被悩乱けるが、仏壇の前に倒伏て遂に無墓成にけり。「呪咀諸毒薬還着於本人」と説給ふ金言、誠に験有て、不思議なりし効験也。自是して東寺は繁昌し西寺滅亡す。大師茅と云草を結で、竜の形に作て壇上に立て行はせ給ける。法成就の後、聖衆を奉送給けるに、真の善女龍王をば、軈神泉園に留奉て、「竜華下生三会の暁まで、守此国治我法給へ。」と、御契約有ければ、今まで迹を留て彼池に住給ふ。彼茅の竜王は大龍に成て、無熱池へ飛帰玉ふとも云、或云聖衆と共に空に昇て、指東を、飛去、尾張国熱田の宮に留り玉ふ共云説あり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞なるにや。大師言、「若此竜王他界に移らば池浅く水少して国荒れ世乏らん。其時は我門徒加祈請、竜王を奉請留可助国。」宣へり。今は水浅く池あせたり。恐は竜王移他界玉へる歟。然共請雨経の法被行ごとに掲焉の霊験猶不絶、未国捨玉似たり、風雨叶時感応奇特の霊池也。代々の御門崇之家々の賢臣敬之。若旱魃起る時は先池を浄む。然を後鳥羽法皇をり居させ玉ひて後、建保の比より此所廃れ、荊棘路を閉るのみならず、猪鹿の害蛇放たれ、流鏑の音驚護法聴、飛蹄の響騒冥衆心。有心人不恐歎云事なし。承久の乱の後、故武州禅門潛に悲此事、高築垣堅門被止雑穢。其後涼燠数改て門牆漸不全。不浄汚穢之男女出入無制止、牛馬水草を求る往来無憚。定知竜神不快歟。早加修理可崇重給。崇此所国土可治也。


98 兵部卿親王流刑事付驪姫事

兵部卿親王天下の乱に向ふ程は、無力為遁其身難雖被替御法体、四海已に静謐せば、如元復三千貫長位、致仏法・王法紹隆給んこそ、仏意にも叶ひ叡慮にも違はせ給ふまじかりしを、備征夷将軍位可守天下武道とて、則勅許を被申しかば、聖慮不隠しか共、任御望遂に被下征夷将軍宣旨。斯りしかば、四海の倚頼として慎身可被重位御事なるに、御心の侭に極侈、世の譏を忘て婬楽をのみ事とし給しかば、天下の人皆再び世の危からん事を思へり。大乱の後は弓矢を裹て干戈袋にすとこそ申すに、何の用ともなきに、強弓射る者、大太刀仕ふ者とだに申せば、無忠被下厚恩、左右前後に仕承す。剰加様のそらがらくる者共、毎夜京白河を廻て、辻切をしける程に、路次に行合ふ児法師・女童部、此彼に被切倒、逢横死者無休時。是も只足利治部卿を討んと被思召ける故に、集兵被習武ける御挙動也。抑高氏卿今までは随分有忠仁にて、有過僻不聞、依何事兵部卿親王は、是程に御憤は深かりけるぞと、根元を尋ぬれば、去年の五月に官軍六波羅を責落したりし刻、殿法印の手の者共、京中の土蔵共を打破て、財宝共を運び取ける間、為鎮狼籍、足利殿の方より是を召捕て、二十余人六条河原に切ぞ被懸ける。其高札に、「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者共、於在々所々、昼強盜を致す間、所誅也。」とぞ被書たりける。殿法印此事を聞て不安事に被思ければ、様々の讒を構へ方便を廻して、兵部卿親王にぞ被訴申ける。加様の事共重畳して達上聞ければ、宮も憤り思召して、志貴に御座有し時より、高氏卿を討ばやと、連々に思召立けれ共、勅許無りしかば無力黙止給けるが、尚讒口不止けるにや、内々以隠密儀を、諸国へ被成令旨を、兵をぞ被召ける。高氏卿此事を聞て、内々奉属継母准后被奏聞けるは、「兵部卿親王為奉奪帝位、諸国の兵を召候也。其証拠分明に候。」とて、国々へ被成下処の令旨を取て、被備上覧けり。君大に逆鱗有て、「此宮を可処流罪。」とて、中殿の御会に寄事兵部卿親王をぞ被召ける。宮懸る事とは更に不思召寄、前駈二人・侍十余人召具して、忍やかに御参内有けるを、結城判官・伯耆守二人、兼てより承勅用意したりければ、鈴の間の辺に待受て奉捕之、則馬場殿に奉押篭。宮は一間なる所の蜘手結たる中に、参通ふ人独も無して、泪の床に起伏せ給ふにも、こは何なる我身なれば、弘元の始は武家のために隠身、木の下岩のはざまに露敷袖をほしかね、帰洛の今は一生の楽未一日終、為讒臣被罪、刑戮の中には苦むらんと、知ぬ前世の報までも思召残す方もなし。「虚名不久立」云事あれば、さり共君も可被聞召直思召ける処に、公儀已に遠流に定りぬと聞へければ、不堪御悲、内々御心よせの女房して、委細の御書を遊し、付伝奏急可経奏聞由を被仰遣。其消息云先以勅勘之身欲奏無罪之由、涙落心暗、愁結言短。唯以一令察万、加詞被恤悲者、臣愚生前之望云足而已。夫承久以来、武家把権朝廷棄政年尚矣。臣苟不忍看之、一解慈悲忍辱法衣、忽被怨敵降伏之堅甲。内恐破戒之罪、外受無慙之譏。雖然為君依忘身、為敵不顧死。当斯時忠臣孝子雖多朝、或不励志、或徒待運。臣独無尺鉄之資、揺義兵隠嶮隘之中窺敵軍。肆逆徒専以我為根元之間、四海下法、万戸以贖。誠是命雖在天奈何身無措処。昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜。撫龍鬚消魂、践虎尾冷胸幾千万矣。遂運策於帷幄之中、亡敵於斧鉞之下。竜駕方還都、鳳暦永則天、恐非微臣之忠功、其為誰乎。而今戦功未立、罪責忽来。風聞其科条、一事非吾所犯、虚説所起惟悲不被尋究。仰而将訴天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣。父子義絶、乾坤共棄。何愁如之乎。自今以後勲業為孰策。行蔵於世軽、綸宣儻被優死刑、永削竹園之名、速為桑門之客。君不見乎、申生死而晋国乱、扶蘇刑而秦世傾。浸潤之譖、膚受之愬、事起于小、禍皆逮大。乾臨何延古不鑒今。不堪懇歎之至、伏仰奏達。誠惶、誠恐謹言。三月五日護良前左大臣殿とぞ被遊ける。此御文、若達叡聞、宥免の御沙汰も有べかりしを、伝奏諸の憤を恐て、終に不奏聞ければ、上天隔听中心の訴へ不啓。此二三年宮に奉付副、致忠待賞御内の候人三十余人、潛に被誅之上は不及兎角申、遂に五月三日、宮を直義朝臣の方へ被渡ければ、以数百騎軍勢路次を警固し、鎌倉へ下し奉て、二階堂の谷に土篭を塗てぞ置進せける。南の御方と申ける上臈女房一人より外は、着副進する人もなく、月日の光も見へぬ闇室の内に向て、よこぎる雨に御袖濡し、岩の滴に御枕を干わびて、年の半を過し給ける御心の内こそ悲しけれ。君一旦の逆鱗に鎌倉へ下し進せられしかども是までの沙汰あれとは叡慮も不赴けるを、直義朝臣日来の宿意を以て、奉禁篭けるこそ浅猿けれ。孝子其父に雖有誠、継母其子を讒する時は傾国失家事古より其類多し。昔異国に晋の献公と云人坐しけり。其后斉姜三人の子を生給ふ。嫡子を申生と云、次男を重耳、三男を夷吾とぞ申ける。三人の子已に長成て後、母の斉姜病に侵されて、忽に無墓成にけり。献公歎之不浅しかども、別の日数漸遠く成しかば、移れば替る心の花に、昔の契を忘て、驪姫と云ける美人をぞ被迎ける。此驪姫只紅顔翠黛迷眼のみに非ず、又巧言令色君の心を令悦しかば、献公寵愛甚して、別し人の化は夢にも不見成にけり。角て経年月程に、驪姫又子を生り。是を奚齊とぞ名付る。奚齊未幼といへ共、母の寵愛に依て、父のをぼへ三人の太子に超たりしかば、献公常に前の后斉姜の子三人を捨て、今の驪姫が腹の子奚齊に、晋の国を譲んと思へり。驪姫心には嬉く乍思、上に偽て申けるは、「奚齊未だ幼くして不弁善悪を、賢愚更に不見前に、太子三人を超て、継此国事、是天下の人の可悪処。」と、時々に諌め申ければ、献公弥驪姫が心に無私、世の譏を恥、国の安からん事を思へる処を感じて、只万事を被任之しかば、其威倍々重く成て天下皆是に帰伏せり。或時嫡子の申生、母の追孝の為に、三牲の備を調へて、斉姜の死して埋れし曲沃の墳墓をぞ被祭ける。其胙の余を、父の献公の方へ奉給ふ。献公折節狩場に出給ひければ、此ひもろぎを裹で置たるに、驪姫潛に鴆と云恐毒を被入たり。献公狩場より帰て、軈此ひもろぎを食んとし給ひけるを、驪姫申されけるは、「外より贈れる物をば、先づ人に食せて後に、大人には進らする事ぞ。」とて御前なりける人に食られたるに、其人忽に血を吐て死にけり。こは何かなる事ぞとて、庭前なる鶏・犬に食せて見給へば、鶏・犬共に斃て死ぬ。献公大に驚て其余を土に捨給へば、捨たる処の土穿て、あたりの草木皆枯萎む。驪姫偽て泪を流し申けるは、「吾太子申生を思ふ事奚齊に不劣。されば奚齊を太子に立んとし給しをも、我こそ諌申て止つるに、さればよ此毒を以て、我と父とを殺して、早晋の国を捕んと被巧けるこそうたてけれ。是を以て思ふに、献公何にも成給なん後は、申生よも我と奚齊とをば、一日片時も生て置給はじ。願は君我を捨、奚齊を失て、申生の御心を休給へ。」と泣々献公にぞ申されける。献公元来智浅して讒を信ずる人なりければ、大に忿て太子申生を可討由、典獄の官に被仰付。諸群臣皆、申生の無罪して死に赴んずる事を悲て、「急他国へ落させ給ふべし。」とぞ告たりける。申生是を聞給て、「我少年の昔は母を失て、長年の今継母に逢へり。是不幸の上に妖命備れり。抑天地間何の所にか父子のなき国あらん、今為遁其死他国へ行て、是こそ父を殺んとて鴆毒を与へたりし大逆不幸の者よと、見る人ごとに悪れて、生ては何の顔かあらん。我不誤処をば天知之。只虚名の下に死を賜て、父の忿を休んには不如。」とて、討手の未来前に自剣に貫て、遂に空成にけり。其弟重耳・夷吾此事を聞て、驪姫が讒の又我身の上に成ん事を恐て、二人共に他国へぞ逃給ける。角て奚齊に晋国を譲得たりけるが、天命に背しかば、無幾程献公・奚齊父子共に、其臣里剋と云ける者に討れて、晋の国忽に滅びけり。抑今兵革一時に定て、廃帝重祚を践せ給ふ御事、偏に此宮の依武功に事なれば、縦雖有小過誡而可被宥かりしを、無是非被渡敵人手、被処遠流事は、朝廷再傾て武家又可蔓延瑞相にやと、人々申合けるが、果して大塔宮被失させ給し後、忽に天下皆将軍の代と成てけり。牝鶏晨するは家の尽る相なりと、古賢の云し言の末、げにもと被思知たり。