太平記/巻第十一

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動

第十一

83 五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事

義貞已に鎌倉を定て、其威遠近に振ひしかば、東八箇国の大名・高家、手を束ね膝を不屈と云者なし。多日属随て忠を憑む人だにも如此。況や只今まで平氏の恩顧に順て、敵陣に在つる者共、生甲斐なき命を続ん為に、所縁に属し降人に成て、肥馬の前に塵を望み、高門の外に地を掃ても、己が咎を補はんと思へる心根なれば、今は浮世の望を捨て、僧法師に成たる平氏の一族達をも、寺々より引出して、法衣の上に血を淋き、二度は人に契らじと、髪をゝろし貌を替んとする亡夫の後室共をも、所々より捜出して、貞女の心を令失。悲哉、義を専にせんとして、忽に死せる人は、永く修羅の奴と成て、苦を多劫の間に受けん事を。痛哉、恥を忍で苟も生る者は、立ろに衰窮の身と成て、笑を万人の前に得たる事を。中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。何に付ても弐ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時をば汝に預置ぞ、如何なる方便をも廻し、是を隠し置き、時到りぬと見へば、取立て亡魂の恨を可謝。」と相摸入道宣ければ、宗繁、「仔細候はじ。」と領掌して、鎌倉の合戦の最中に、降人にぞ成たりける。角て二三日を経て後、平氏悉滅びしかば、関東皆源氏の顧命に随て、此彼に隠居たる平氏の一族共、数た捜出されて、捕手は所領を預り、隠せる者は忽に被誅事多し。五大院右衛門是を見て、いや/\果報尽はてたる人を扶持せんとて適遁得たる命を失はんよりは、此人の在所を知たる由、源氏の兵に告て、弐ろなき所を顕し、所領の一所をも安堵せばやと思ければ、或夜彼相摸太郎に向て申けるは、「是に御坐の事は、如何なる人も知候はじとこそ存じて候に、如何して漏聞へ候けん、船田入道明日是へ押寄候て、捜し奉らんと用意候由、只今或方より告知せて候。何様御座の在所を、今夜替候はでは叶まじく候。夜に紛れて、急ぎ伊豆の御山の方へ落させ給候へ。宗繁も御伴申度は存候へ共、一家を尽して落候なば、船田入道、さればこそと心付て、何くまでも尋求る事も候はんと存じ候間、態御伴をば申まじく候。」と、誠し顔に成て云ければ、相摸太郎げにもと身の置所なくて、五月二十七日の夜半計に、忍て鎌倉を落玉ふ。昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、仮初の物詣で・方違ひと云しにも、御内・外様の大名共、細馬に轡を噛せて、五百騎・三百騎前後に打囲で社往覆せしに、時移事替ぬる世の有様の浅猿さよ、怪しげなる中間一人に太刀持せて、伝馬にだにも乗らで、破たる草鞋に編笠着て、そこ共不知、泣々伊豆の御山を尋て、足に任て行給ひける、心の中こそ哀なれ。五大院右衛門は、加様にして此人をばすかし出しぬ。我と打て出さば、年来奉公の好を忘たる者よと、人に指を被差つべし。便宜好らんずる源氏の侍に討せて、勲功を分て知行せばやと思ければ、急船田入道が許に行て、「相摸の太郎殿の在所をこそ、委く聞出て候へ、他の勢を不交して、打て被出候はゞ、定て勲功異他候はんか。告申候忠には、一所懸命の地を安堵仕る様に、御吹挙に預り候はん。」と云ければ、船田入道、心中には悪き者の云様哉と乍思、「先子細非じ。」と約束して、五大院右衛門尉諸共に、相摸太郎の落行ける道を遮てぞ待せける。相摸太郎道に相待敵有とも不思寄、五月二十八日明ぼのに、浅猿げなる■れ姿にて、相摸河を渡らんと、渡し守を待て、岸の上に立たりけるを、五大院右衛門余所に立て、「あれこそ、すは件の人よ。」と教ければ、船田が郎等三騎、馬より飛で下り、透間もなく生捕奉る。俄の事にて張輿なんどもなければ、馬にのせ舟の縄にてしたゝかに是を誡め、中間二人に馬の口を引せて、白昼に鎌倉へ入れ奉る。是を見聞人毎に、袖をしぼらぬは無りけり。此人未だ幼稚の身なれば、何程の事か有べけれ共、朝敵の長男にてをはすれば、非可閣とて、則翌日の暁、潛に首を刎奉る。昔程嬰が我子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲が貌を変じて、旧君の恩を報ぜし、其までこそなからめ、年来の主を敵に打せて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有也。不道也と、見る人毎に爪弾をして悪みしかば、義貞げにもと聞給て、是をも可誅と、内々其儀定まりければ、宗繁是を伝聞て、此彼に隠れ行きけるが、梟悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る無人して、遂に乞食の如に成果て、道路の街にして、飢死にけるとぞ聞へし。


84 諸将被進早馬於船上事

都には五月十二日千種頭中将忠顕朝臣・足利治部大輔高氏・赤松入道円心等、追々早馬を立て、六波羅已に令没落之由船上へ奏聞す。依之諸卿僉議あて、則還幸可成否の意見を被献ぜ。時に勘解由次官光守、諌言を以て被申けるは、「両六波羅已に雖没落、千葉屋発向の朝敵等猶畿内に満て、勢ひ京洛を呑めり。又賎き諺に、「東八箇国の勢を以て、日本国の勢に対し、鎌倉中の勢を以て、東八箇国の勢に対す」といへり。されば承久の合戦に、伊賀判官光季を被追落し事は輒かりしか共、坂東勢重て上洛せし時、官軍戦ひに負て、天下久武家の権威に落ぬ。今一戦の雌雄を測るに、御方は纔に十〔に〕して其一二を得たり。「君子不近刑人」と申事候へば、暫く只皇居を被移候はで、諸国へ綸旨を被成下、東国の変違を可被御覧ぜや候らん。」と被申ければ、当座の諸卿悉此議にぞ被同ける。而れども、主上猶時宜定め難く被思召ければ、自周易を披かせ給て、還幸の吉凶を蓍筮に就てぞ被御覧ける。御占師卦に出て云、「師貞、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。小人勿用。王弼注云、処師之極、師之終也。大君之命不失功也。開国承家、以寧邦也。小人勿用、非其道也。」と注せり。御占已に如此。此上は何をか可疑とて、同二十三日伯耆の舟上を御立有て、腰輿を山陰の東にぞ被催ける。路次の行装例に替りて、頭大夫行房・勘解由次官光守二人許こそ、衣冠にて被供奉けれ。其外の月卿雲客・衛府諸司の助は、皆戎衣にて前騎後乗す。六軍悉甲冑を着し、弓箭を帯して、前後三十余里に支へたり。塩冶判官高貞は、千余騎にて、一日先立て前陣を仕る。又朝山太郎は、一日路引殿て、五百余騎にて後陣に打けり。金持大和守、錦の御旗を差て左に候し、伯耆守長年は、帯剣の役にて右に副ふ。雨師道を清め、風伯塵を払ふ。紫微北辰の拱陣も、角やと覚て厳重也。されば去年の春隠岐国へ被移させ給ひし時、そゞろに宸襟を被悩て、御泪の故と成し山雲海月の色、今は竜顔を令悦端と成て、松吹風も自ら万歳を呼ぶかと被奇、塩焼浦の煙まで、にぎわう民の竈と成る。


85 書写山行幸事付新田注進事

五月二十七日には、播磨国書写山へ行幸成て、先年の御宿願を被果、諸堂御順礼の次に、開山性空上人の御影堂を被開に、年来秘しける物と覚て、重宝ども多かりけり。当寺の宿老を一人召て、「是は如何なる由緒の物共ぞ。」と、御尋有ければ、宿老畏て一々に是を演説す。先杉原一枚を折て、法華経一部八巻並開結二経を細字に書たるあり。是は上人寂寞の扉に御坐て妙典を読誦し給ける時、第八の冥官一人の化人と成て、片時の程に書たりし御経也。又歯禿て僅に残れる杉の屐あり。是は上人当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道三十五里の間を一時が内に歩ませ給し屐也。又布にて縫たる香の袈裟あり。是は上人御身を不放、長時に懸させ給けるが、香の煙にすゝけたるを御覧じて、「哀洗ばや。」と被仰ける時、常随給仕の乙護法「是を洗て参候はん。」と申て、遥に西天を指して飛去ぬ。且く在て、此袈裟をば虚空に懸乾、恰も一片の雲の夕日に映ずるが如し。上人護法を呼て、「此袈裟をば如何なる水にて洗ひたりけるぞ。」と問はせ給へば、護法、「日本の内には可然清冷水候はで、天竺の無熱池の水にて濯で候也。」と、被答申たりし御袈裟也。生木化仏の観世音、稽首生木如意輪、能満有情福寿願、亦満往生極楽願、百千倶■悉所念と、天人降下供養し奉る像なり。毘首羯磨が作りし五大尊、是のみならず、法華読誦の砌には、不動・毘沙門の二童子に、形を現じて仕給也。又延暦寺の中堂供養の日は、上人当山に坐しながら、風に如来唄を引給しかば、梵音遠く叡山の雲に響て一会の奇特を顕せし事共、委細に演説仕りたれば、主上不斜信心を傾させ給て、則当国の安室郷を御寄附有て、不断如法経の料所にぞ被擬ける。今に至まで、其妙行片時も懈る事無して、如法如説の勤行たり。誠に滅罪生善の御願難有かりし事共也。二十八日に法華山へ行幸成て、御巡礼あり。是より龍駕を被早て、晦日は兵庫の福厳寺と云寺に、儲餉の在所を点じて、且く御坐有ける処に、其日赤松入道父子四人、五百余騎を率して参向す。竜顔殊に麗くして、「天下草創の功偏に汝等贔屓の忠戦によれり。恩賞は各望に可任。」と叡感有て、禁門の警固に奉侍せられけり。此寺に一日御逗留有て、供奉の行列還幸の儀式を被調ける処に、其日の午刻に、羽書を頚に懸たる早馬三騎、門前まで乗打にして、庭上に羽書を捧たり。諸卿驚て急披て是を見給へば、新田小太郎義貞の許より、相摸入道以下の一族従類等、不日に追討して、東国已に静謐の由を注進せり。西国・洛中の戦に、官軍勝に乗て両六波羅を雖責落、関東を被責事は、ゆゝしき大事成べしと、叡慮を被回ける処に、此注進到来しければ、主上を始進せて、諸卿一同に猶預の宸襟を休め、欣悦称嘆を被尽、則、「恩賞は宜依請。」と被宣下て、先使者三人に各勲功の賞をぞ被行ける。


86 正成参兵庫事付還幸事

兵庫に一日御逗留有て、六月二日被回腰輿処に、楠多門兵衛正成七千余騎にて参向す。其勢殊に勇々敷ぞ見へたりける。主上御簾を高く捲せて、正成を近く被召、「大儀早速の功、偏に汝が忠戦にあり。」と感じ被仰ければ、正成畏て、「是君の聖文神武の徳に不依ば、微臣争か尺寸の謀を以て、強敵の囲を可出候乎。」と功を辞して謙下す。兵庫を御立有ける日より、正成前陣を奉て、畿内の勢を相順へ、七千余騎にて前騎す。其道十八里が間、干戈戚揚相挟、左輔右弼列を引、六軍次でを守り、五雲閑に幸すれば、六月五日の暮程に、東寺まで臨幸成ければ、武士たる者は不及申、摂政・関白・太政大臣・左右の大将・大中納言・八座・七弁・五位・六位・内外の諸司・医陰両道に至まで、我劣じと参集りしかば、車馬門前に群集して、地府に布雲、青紫堂上に陰映して、天極に列星。翌日六月六日、東寺より二条の内裏へ還幸成て、其日先臨時の宣下有て、足利治部大輔高氏治部卿に任ず。舎弟兵部大輔直義左馬頭に任ず。去程に千種頭中将忠顕朝臣、帯剣の役にて、鳳輦の前に被供奉けるが、尚非常を慎む最中なればとて、帯刀の兵五百人二行に被歩。高氏・直義二人は後乗に順て、百官の後に被打。衛府の官なればとて、騎馬の兵五千余騎、甲冑を帯して被打。其次に宇都宮五百余騎、佐々木判官七百余騎、土居・得能二千余騎、此外正成・長年・円心・結城・長沼・塩冶已下諸国の大名は、五百騎・三百騎、其旗の次に一勢々々引分て、輦輅を中にして、閑に小路打たり。凡路次の行装、行列の儀式、前々の臨幸に事替て、百司の守衛厳重也。見物の貴賎岐に満て、只帝徳を頌し奉声、洋々として耳に盈り。


87 筑紫合戦事

京都・鎌倉は、已に高氏・義貞の武功に依て静謐しぬ。今は筑紫へ討手を被下て、九国の探題英時を可被責とて、二条大納言師基卿を太宰帥に被成て、既に下し奉らんとせられける処に、六月七日、菊池・小弐・大伴が許より、早馬同時に京着して、九州の朝敵無所残、退治候ぬと奏聞す。其合戦の次第を、後に委く尋ぬれば、主上未だ舟上に御座有し時、小弐入道妙慧・大伴入道具簡・菊池入道寂阿、三人同心して、御方に可参由を申入ける間、則綸旨に錦の御旗を副てぞ被下ける。其企彼等三人が心中に秘して、未色に雖不出、さすがに隠れ無りければ、此事頓て探題英時が方へ聞へければ、英時、彼等が野心の実否を能々伺ひ見ん為に、先菊池入道寂阿を博多へぞ呼ける。菊池此使に肝付て、是は如何様彼隠謀露顕して、我等を討ん為にぞ呼給ふ覧。さらんに於は、人に先をせられては叶ふまじ、此方より遮て博多へ寄て、覿面に勝負を決せんと思ければ、兼ての約諾に任て、小弐・大伴が方へ触遺しける処に、大伴、天下の落居未だ如何なるべしとも見定めざりければ、分明の返事に不及。小弐は又其比京都の合戦に、六波羅毎度勝に乗由聞へければ、己が咎を補はんとや思けん、日来の約を変じて、菊池が使八幡弥四郎宗安を討て、其頚を探題の方へぞ出したりける。菊池入道大に怒て、「日本一の不当人共を憑で、此一大事を思立けるこそ越度なれ。よし/\其人々の与せぬ軍はせられぬか。」とて元弘三年三月十三日の卯刻に、僅に百五十騎にて探題の館へぞ押寄ける。菊池入道櫛田の宮の前を打過ける時、軍の凶をや被示けん。又乗打に仕たりけるをや御尤め有けん。菊池が乗たる馬、俄にすくみて一足も前へ不進得。入道大に腹を立て、「如何なる神にてもをはせよ、寂阿が戦場へ向はんずる道にて、乗打を尤め可給様やある。其義ならば矢一つ進せん。受て御覧ぜよ。」とて、上差の鏑を抜き出し、神殿の扉を二矢までぞ射たりける。矢を放つと均く、馬のすくみ直りにければ、「さぞとよ。」とあざ笑て、則打通りける。其後社壇を見ければ、二丈許なる大蛇、菊池が鏑に当て死たりけるこそ不思議なれ。探題は、兼てより用意したる事なれば、大勢を城の木戸より外へ出して戦はしむるに、菊池小勢なりといへども、皆命を塵芥に比し、義を金石に類して、責戦ければ、防ぐ兵若干被打て、攻の城へ引篭る。菊池勝に乗て、屏を越関を切破て、透間もなく責入ける間、英時こらへかねて、既に自害をせんとしける処に、小弐・大友六千余騎にて、後攻をぞしたりける。菊池入道是を見て、嫡子に肥後守武重を喚て云けるは、「我今小弐・大友に被出抜て、戦場の死に赴くといへ共、義の当る所を思ふ故に、命を堕ん事を不悔。然れば寂阿に於ては、英時が城を枕にして可討死。汝は急我館へ帰て、城を堅し兵を起して、我が生前の恨を死後に報ぜよ。」と云含め、若党五十余騎を引分て武重に相副、肥後の国へぞ返しける。故郷に留置し妻子共は、出しを終の別れとも知らで、帰るを今やとこそ待らめと、哀に覚ければ、一首の歌を袖の笠符に書て故郷へぞ送ける。故郷に今夜許の命ともしらでや人の我を待らん肥後守武重は、「四十有余の独の親の、只今討死せんとて大敵に向ふ戦なれば、一所にてこそ兎も角も成候はめ。」と、再三申けれども、「汝をば天下の為に留るぞ。」と父が庭訓堅ければ、武重無力是を最後の別と見捨て、泣々肥後へ帰ける心の中こそ哀なれ。其後菊池入道は二男肥後三郎と相共に、百余騎を前後に立て、後攻の勢には目を不懸して探題の屋形へ責入、終に一足も引ず、敵に指違々々一人も不残打死す。専諸・荊卿が心は恩の為に仕はれ、侯生・予子が命は義に依て軽しとも、是等をや可申。さても小弐・大伴が今度の振舞人に非ずと天下の人に被譏ながら、暗知ずして世間の様を聞居たりける処に、五月七日両六波羅已に被責落て、千葉屋の寄手も悉南都へ引退ぬと聞へければ、小弐入道、こは可如何と仰天す。去ば我れ探題を奉討身の咎を遁ばやと思ければ、先菊池肥後守と大友入道とが許へ内々使者を遣して相語ふに、菊池は先に懲て耳にも不聞入。大友は我も咎ある身なれば、角てや助かると堅領掌してげり。今日や明日やと吉日を撰ける処に、英時、小弐が隠謀の企を聞て、事の実否を伺見よとて、長岡六郎を小弐が許へぞ遣しける。長岡則行向て、小弐に可見参由を云ければ、時節相労事有とて、対面に不及。長岡無力、小弐入道が子息筑後新小弐が許に行向、云入て、さりげなき様にて彼方此方を見るに、只今打立んずる形勢にて、楯を矯せ鏃を砺最中也。又遠侍を見るに、蝉本白くしたる青竹の旗竿あり。さればこそ、船上より錦の御旗を賜たりと聞へしが、実也けりと思て、対面せば頓て指違へんずる者をと思ける処に、新小弐何心もなげにて出合たり。長岡座席に着と均しく、「まさなき人々の謀反の企哉。」と云侭に、腰の刀を抜て、新小弐に飛で懸ける。新小弐飽まで心早き者なりければ、側なる将碁の盤をゝつ取て突刀を受留め、長岡にむずと引組で、上を下へぞ返しける。頓て小弐が郎従共あまた走寄て、上なる敵を三刀指て、下なる主を助けゝれば、長岡六郎本意を不達して、忽に命を失てげり。小弐筑後入道、さては我謀反の企、早探題に被知てげり。今は休事を得ぬ所也とて、大伴入道相共に七千余騎の軍兵を率して、同五月二十五日の午刻に、探題英時の館へ押寄ける。世の末の風俗、義を重ずる者は少く、利に趨る人は多ければ、只今まで付順つる筑紫九箇国の兵共も、恩を忘て落失せ、名をも惜まで翻りける間、一朝の間の戦に、英時遂に打負て、忽に自害しければ、一族郎従三百四十人、続て腹をぞ切たりける。哀哉、昨日は小弐・大友、英時に順て菊池を討、今日は又小弐・大友、官軍に属して、英時を討。「行路難、不在山兮、不在水、唯在人情反覆之間」と、白居易が書たりし筆の跡、今こそ被思知たれ。


88 長門探題降参事

長門の探題遠江守時直、京都の合戦難儀の由を聞て、六波羅に力を勠せんと、大船百余艘に取乗て、海上を上けるが、周防の鳴渡にて、京も鎌倉も早皆源氏の為に被滅て、天下悉王化に順ぬと聞へければ、鳴渡より舟を漕もどして、九州の探題と一所に成んと、心づくしへぞ赴きける。赤間が関に着て、九州の様を伺ひ聞給へば、「筑紫の探題英時も、昨日早小弐・大友が為に被亡て、九国二嶋悉公家のたすけと成ぬ。」と云ければ、一旦催促に依て、此まで属順たる兵共も、いつしか頓て心替して、己が様々に落行ける間、時直僅に五十余人に成て柳浦の浪に漂泊す。彼の浦に帆を下さんとすれば、敵鏃を支て待懸たり。此嶋に纜を結ばんとすれば、官軍楯を双べて討んとす。残留る人々にさへ、今は心を沖津波、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮舟の橈を絶、思はぬ風に漂へり。跡に留めし妻子共も、如何成ぬ〔ら〕んと、責て其行末を聞て後、心安く討死をもせばやと被思ければ、且の命を延ん為に、郎等を一人船よりあげて、小弐・嶋津が許へ、降人に可成由をぞ伝へける。小弐も嶋津も年来の好み浅からざりけるに、今の有様聞も哀にや思けん。急迎に来て、己が宿所に入奉る。其比峯の僧正俊雅と申しは、君の御外戚にてをはせしを、笠置の合戦の刻に筑前の国へ被流てをはしけるが、今一時に運を開て、国人皆其左右に慎み随ふ。九州の成敗、勅許以前は暫此僧正の計ひに在しかば、小弐・嶋津、彼時直を同道して降参の由をぞ申入ける。僧正、「子細あらじ。」と被仰て、則御前へ被召けり。時直膝行頓首して、敢て不平視、遥の末座に畏て、誠に平伏したる体を見給て、僧正泪を流して被仰けるは、「去元弘の始、無罪して此所に被遠流時、遠州我を以て寇とせしかば、或は過分の言の下に面を低て泪を推拭ひ、或は無礼の驕の前に手を束て恥を忍き。然に今天道謙に祐して、不測世の変化を見に、吉凶相乱れ栄枯地を易たり。夢現昨日は身の上の哀み、今日は人の上の悲也。「怨を報ずるに恩を以てす」と云事あれば、如何にもして命許を可申助。」と被仰ければ、時直頭を地に付て、両眼に泪を浮めたり。不日に飛脚を以て、此由を奏聞ありければ、則勅免有て懸命の地をぞ安堵せられける。時直無甲斐命を扶て、嘲を万人の指頭に受といへども、時を一家の再興に被待けるが、幾程もあらざるに、病の霧に被侵て、夕の露と消にけり。


89 越前牛原地頭自害事

淡河右京亮時治は、京都の合戦の最中、北国の蜂起を鎮めん為に越前の国に下て、大野郡牛原と云所にぞをはしける。幾程無して、六波羅没落の由聞へしかば、相順たる国の勢共、片時の程に落失て、妻子従類の外は事問人も無りけり。去程に平泉寺の衆徒、折を得て、彼跡を恩賞に申賜らん為に、自国・他国の軍勢を相語ひ、七千余騎を率して、五月十二日の白昼に牛原へ押寄る。時治敵の勢の雲霞の如なるを見て、戦共幾程が可怺と思ければ、二十余人有ける郎等に、向ふ敵を防がせて、あたり近き所に僧の坐しけるを請じて、女房少き人までも、皆髪に剃刀をあて、戒を受させて、偏に後生菩提の経営を、泪の中にぞ被致ける。戒の師帰て後、時治女房に向て「宣ひけるは、二人の子共は男子なれば、稚しとも敵よも命を助じと覚る間、冥途の旅に可伴。御事は女性にてをわすれば、縦ひ敵角と知とも命を失ひ奉るまでの事は非じ。さても此世に在存へ給はゞ、如何なる人にも相馴て、憂を慰む便に付可給。無跡までも心安てをはせんをこそ、草の陰・苔の下までもうれしくは思ふべけれ。」と、泪の中に掻口説て聞へければ、女房最と恨て、「水に住鴛、梁に巣燕も翼をかわす契を不忘。況や相馴進て不覚過ぬる十年余の袖の下に、二人の子共をそだてて、千代もと祈し無甲斐も、御身は今秋の霜の下に伏し、少き者共は朝の露に先立て、消はてなん後の悲を堪へ忍ては、時の間もながらふべき我身かや。とても思に堪かねば、生て可有命ならず。同は思ふ人と共にはかなく成て、埋れん苔の下までも、同穴の契を忘じ。」と、泪の床に臥沈む。去程に防矢射つる郎等共已に皆被討て、衆徒箱の渡を打越、後の山へ廻ると聞へければ、五と六とに成ける少き人を鎧唐櫃に入て、乳母二人に前後を舁せ、鎌倉河の淵に沈めよとて、遥に見送て立たれば、母儀の女房も、同其淵に身を沈めんと、唐櫃の緒に取付て歩行、心の中こそ悲しけれ。唐櫃を岸の上に舁居て、蓋を開たれば、二人の少き人顔を差挙て、「是はなう母御何くへ行給ふぞ。母御の歩にて歩ませ給ふが御痛敷候。是に乗らせ給へ。」と何心もなげに戯ければ、母上流るゝ泪を押へて、「此河は是極楽浄土の八功徳池とて、少き者の生れて遊び戯るゝ所也。我如く念仏申て此河の中へ被沈よ。」と教へければ、二人の少き人々母と共に手を合せ、念仏高らかに唱へて西に向て坐したるを、二人の乳母一人づゝ掻抱て、碧潭の底へ飛入ければ、母上も続て身を投て、同じ淵にぞ被沈ける。其後時治も自害して一堆の灰と成にけり。隔生則忘とは申ながら又一念五百生、繋念無量劫の業なれば、奈利八万の底までも、同じ思の炎と成て焦給ふらんと、哀也ける事共也。


90 越中守護自害事付怨霊事

越中の守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公・甥の兵庫助貞持三人は、出羽・越後の宮方北陸道を経て京都へ責上べしと聞へしかば、道にて是を支んとて、越中の二塚と云所に陣を取て、近国の勢共をぞ相催しける。斯る処に、六波羅已に被責落て後、東国にも軍起て、已に鎌倉へ寄けるなんど、様々に聞へければ、催促に順て、只今まで馳集つる能登・越中の兵共、放生津に引退て却て守護の陣へ押寄んとぞ企ける。是を見て、今まで身に代命に代らんと、義を存じ忠を致しつる郎従も、時の間に落失て、剰敵軍に加り、朝に来り暮に往て、交を結び情を深せし朋友も、忽に心変じて、却て害心を挿む。今は残留たる者とては、三族に不遁一家の輩、重恩を蒙し譜代の侍、僅に七十九人也。五月十七日の午刻に敵既に一万余騎にて寄ると聞へしかば、「我等此小勢にて合戦をすとも、何程の事をかし出すべき、憖なる軍して、無云甲斐敵の手に懸り、縲紲の恥に及ばん事、後代迄の嘲たるべし。」とて、敵の近付ぬ前に女性・少き人々をば舟に乗て澳に沈め、我身は城の内にて自害をせんとぞ出立ける。遠江守の女房は、偕老の契を結て今年二十一年になれば、恩愛の懐の内に二人の男子をそだてたり。兄は九弟は七にぞ成ける。修理亮有公が女房は、相馴て已に三年に余けるが、只ならぬ身に成て、早月比過にけり。兵庫助貞持が女房は、此四五日前に、京より迎へたりける上臈女房にてぞ有ける。其昔紅顔翠黛の世に無類有様、風に見初し珠簾の隙もあらばと心に懸て、三年余恋慕しが、兎角方便を廻して、偸出してぞ迎へたりける。語ひ得て纔に昨日今日の程なれば、逢に替んと歎来し命も今は被惜ける。恋悲みし月日は、天の羽衣撫尽すらん程よりも長く、相見て後のたゞちは、春の夜の夢よりも尚短し。忽に此悲に逢ける契の程こそ哀なれ。末の露本の雫、後れ先立つ道をこそ、悲き物と聞つるに、浪の上、煙の底に、沈み焦れん別れの憂さ、こはそもいかゞすべきと、互に名残を惜つゝ、伏まろびてぞ被泣ける。去程に、敵の早寄来るやらん、馬煙の東西に揚て見へ候と騒げば、女房・少き人々は、泣々皆舟に取乗て、遥の澳に漕出す。うらめしの追風や、しばしもやまで、行人を波路遥に吹送る。情なの引塩や、立も帰らで、漕舟を浦より外に誘らん。彼松浦佐用嬪が、玉嶋山にひれふりて、澳行舟を招しも、今の哀に被知たり。水手櫓をかいて、船を浪間に差留めたれば、一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取組で、同身をぞ投たりける。紅の衣絳袴の暫浪に漂しは、吉野・立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如に見へけるが、寄来る浪に紛れて、次第に沈むを見はてゝ後、城に残留たる人々上下七十九人、同時に腹を掻切て、兵火の底にぞ焼死ける。其幽魂亡霊、尚も此地に留て夫婦執着の妄念を遺しけるにや、近比越後より上る舟人、此浦を過けるに、俄に風向ひ波荒かりける間、碇を下して澳に舟を留めたるに、夜更浪静て、松涛の風、芦花の月、旅泊の体、万づ心すごき折節、遥の澳に女の声して泣悲む音しけり。是を怪しと聞居たる処に、又汀の方に男の声して、「其舟こゝへ寄せてたべ。」と、声々にぞ呼りける。舟人止む事を不得して、舟を渚に寄たれば、最清げなる男三人、「あの澳まで便船申さん。」とて、屋形にぞ乗たりける。舟人是を乗て澳津塩合に舟を差留めたれば、此三人の男舟より下て、漫々たる浪の上にぞ立たりける。暫あれば、年十六七二十許なる女房の、色々の衣に赤き袴踏くゝみたるが、三人浪の底より浮び出て、其事となく泣しほれたる様也。男よに眤しげなる気色にて、相互に寄近付んとする処に、猛火俄に燃出て、炎男女の中を隔ければ、三人の女房は、いもせの山の中々に、思焦れたる体にて、波の底に沈ぬ。男は又泣々浪の上を游帰て、二塚の方へぞ歩み行ける。余の不思議さに舟人此男の袖を引へて、「去にても誰人にて御渡候やらん。」と問たりければ、男答云、「我等は名越遠江守・同修理亮・並兵庫助。」と各名乗て、かき消様に失にけり。天竺の術婆伽は后を恋て、思の炎に身を焦し、我朝の宇治の橋姫は、夫を慕ひてかたしく袖を波に浸す。是皆上古の不思議、旧記に載る所也。親り斯る事の、うつゝに見へたりける亡念の程こそ罪深けれ。


91 金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事

京洛已に静まりぬといへ共、金剛山より引返したる平氏共、猶南都に留て、帝都を責んとする由聞へ有ければ、中院中将定平を大将として、五万余騎、大和路へ被差向。楠兵衛正成に畿内勢二万余騎を副て、河内国より搦手にぞ被向ける。南都に引篭る平氏の軍兵已に十方に雖退散、残留る兵尚五万騎に余たれば、今一度手痛き合戦あらんと覚るに、日来の儀勢尽はてゝ、いつしか小水の魚の沫に吻く体に成て、徒に日を送ける間、先一番に南都の一の木戸口般若寺を堅て居たりける宇都宮・紀清両党七百余騎、綸旨を給て上洛す。是を始として、百騎二百騎、五騎十騎、我先にと降参しける間、今平氏の一族の輩、譜代重恩の族の外は、一人も残留る者も無りけり。是に付ても、今は何に憑を懸てか命を可惜なれば、各打死して名を後代にこそ残すべかりけるに、攻ての業の程の浅猿さは、阿曾弾正少弼時治・大仏右馬助貞直・江馬遠江守・佐介安芸守を始として、宗との平氏十三人、並長崎四郎左衛門尉・二階堂出羽入道々蘊已下・関東権勢の侍五十余人、般若寺にして各入道出家して、律僧の形に成り、三衣を肩に懸、一鉢を手に提て、降人に成てぞ出たりける。定平朝臣是を請取て、高手小手に誡め、伝馬の鞍坪に縛屈めて、数万の官軍の前々を追立させ、白昼に京へぞ被帰ける。平治には悪源太義平、々家に被生捕て首被刎、元暦には内大臣宗盛公、源氏に被囚て大路を被渡。是は皆戦に臨む日、或は敵に被議、或は自害に無隙して、心ならず敵の手に懸りしをだに、今に至まで人口の嘲と成て、両家の末流是聞時、面を一百余年の後に令辱。況乎是は敵に被議たるにも非ず、又自害に隙なきにも非ず、勢ひ未尽先に自黒衣の身と成て、遁ぬ命を捨かねて、縲紲面縛の有様、前代未聞の恥辱也。囚人京都に着ければ、皆黒衣を脱せ、法名を元の名に改て、一人づゝ大名に預らる。其秋刑を待程に、禁錮の裏に起伏て、思ひ連ぬる浮世の中、涙の落ぬ隙もなし。さだかならぬ便に付て、鎌倉の事共を聞ば、偕老の枕の上に契を成し貞女も、むくつけゞなる田舎人どもに被奪て、王昭君が恨を貽し、富貴の薹の中に傅立し賢息も、傍へだにも寄ざりし凡下共の奴と成て、黄頭郎が夢をなせり。是等はせめて乍憂、未だ生たりときけば、猶も思の数ならず。昨日岐を過ぎ、今日は門にやすらふ行客の、穴哀や、道路に袖をひろげ、食を乞し女房の、倒て死しは誰が母也。短褐に貌を窶て縁を尋し旅人の、被捕て死せしは誰が親也と、風に語るを聞時は、今まで生ける我身の命を、憂しとぞ更に誣たれける。七月九日、阿曾弾正少弼・大仏右馬助・江馬遠江守・佐介安芸守・並長崎四郎左衛門、彼此十五人阿弥陀峯にて被誅けり。此君重祚の後、諸事の政未被行前に、刑罰を専にせられん事は、非仁政とて、潛に是を被切しかば、首を被渡までの事に及ばず、面々の尸骸便宜の寺々に被送、後世菩提をぞ被訪ける。二階堂出羽入道々蘊は、朝敵の最一、武家の輔佐たりしか共、賢才の誉、兼てより叡聞に達せしかば、召仕るべしとて、死罪一等を許され、懸命の地に安堵して居たりけるが、又陰謀の企有とて、同年の秋の季に、終に死刑に被行てげり。佐介左京亮貞俊は、平氏の門葉たる上武略才能共に兼たりしかば、定て一方の大将をもと身を高く思ける処に、相摸入道さまでの賞翫も無りければ、恨を含み憤を抱きながら、金剛山の寄手の中にぞ有ける。斯る処に千種頭中将綸旨を申与へて、御方に可参由を被仰ければ、去五月の初に千葉屋より降参して、京都にぞ歴回ける。去程に、平氏の一族皆出家して、召人に成し後は、武家被官の者共、悉所領を被召上、宿所を被追出て、僅なる身一をだに措かねて、貞俊も阿波の国へ被流て有しかば、今は召仕ふ若党・中間も身に不傍、昨日の楽今日の悲と成て、ます/\身を責る体に成行ければ、盛者必衰の理の中に在ながら、今更世中無情覚て、如何なる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。さても関東の様何とか成ぬらんと尋聞に、相摸入道殿を始として、一族以下一人も不残、皆被討給て、妻子従類も共に行方を不知成ぬと聞へければ、今は誰を憑み、何を可待世とも不覚、見に付聞に随て、いとゞ心を摧き、魂を消ける処に、関東奉公の者共は、一旦命を扶からん為に、降人に雖出と、遂には如何にも野心有ぬべければ、悉可被誅とて、貞俊又被召捕てげり。挺も心の留る浮世ならねば、命を惜とは思はねども、故郷に捨置し妻子共の行末、何ともきかで死なんずる事の、余に心に懸りければ、最期の十念勧ける聖に付て、年来身を放たざりける腰の刀を、預人の許より乞出して、故郷の妻子の許へぞ送ける。聖是を請取て、其行末を可尋申と領状しければ、貞俊無限喜て、敷皮の上に居直て、一首の歌を詠じ、十念高らかに唱て、閑に首をぞ打せける。皆人の世に有時は数ならで憂にはもれぬ我身也けり聖形見の刀と、貞俊が最期の時着たりける小袖とを持て、急鎌倉へ下、彼女房を尋出し、是を与へければ、妻室聞もあへず、只涙の床に臥沈て、悲に堪兼たる気色に見へけるが、側なる硯を引寄て、形見の小袖の妻に、誰見よと信を人の留めけん堪て有べき命ならぬにと書付て、記念の小袖を引かづき、其刀を胸につき立て、忽にはかなく成にけり。此外或は偕老の契空くして、夫に別たる妻室は、苟も二夫に嫁せん事を悲で、深き淵瀬に身を投、或は口養の資無して子に後れたる老母は、僅に一日の餐を求兼て自溝壑に倒れ伏す。承久より以来、平氏世を執て九代、暦数已に百六十余年に及ぬれば、一類天下にはびこりて、威を振ひ勢ひを専にせる所々の探題、国々の守護、其名を挙て天下に有者已に八百人に余りぬ。況其家々の郎従たる者幾万億と云数を不知。去ば縦六波羅こそ輒被責落共、筑紫と鎌倉をば十年・二十年にも被退治事難とこそ覚へしに、六十余州悉符を合たる如く、同時に軍起て、纔に四十三日の中に皆滅びぬる業報の程こそ不思議なれ。愚哉関東の勇士、久天下を保ち、威を遍海内に覆しかども、国を治る心無りしかば、堅甲利兵、徒に梃楚の為に被摧て、滅亡を瞬目の中に得たる事、驕れる者は失し倹なる者は存す。古へより今に至まで是あり。此裏に向て頭を回す人、天道は盈てるを欠事を不知して、猶人の欲心の厭ことなきに溺る。豈不迷乎。