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太平記/巻第二十九

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巻第二十九

242 宮方京攻事

暫時の智謀事成しかば、三条左兵衛督入道慧源と吉野殿と御合体有て、慧源は大和の越智が許に坐ければ、和田・楠を始として大和・河内・和泉・紀伊国の宮方共、我も我もと三条殿に馳参る。是のみならず、洛中辺土の武士共も、面々に参ると聞へしかば、無弐の将軍方にて、楠退治の為に、石河々原に向城を取て被居たりける畠山阿波将監国清も、其勢千余騎にて馳参る。謳歌の説巷に満て、南方の勢已に京へ寄すると聞へけれ。京都の警固にて坐ける宰相中将義詮朝臣より早馬を立て、備前の福岡に、将軍九州下向の為とて座しける所へ、急を被告事頻並也。依之将軍より飛脚を以て、越後守師泰が、石見の三角の城退治せんとて居たりけるを、其国は兔も角もあれ、先京都一大事なれば、夜を日に継で可上洛由をぞ被告ける。飛脚の行帰る程日数を経ければ、師泰が参否の左右を待までもなしとて、将軍急福岡を立て、に千余騎にて上洛し給ふ。入道左兵衛督此由を聞て、さらば京都に勢の著ぬ前に、先義詮を責落せとて、観応二年正月七日、七千余騎にて八幡山に陣を取る。桃井右馬権頭直常、其比越中の守護にて在国したりけるが、兼て相図を定たりければ、同正月八日越中を立て、能登・加賀・越前の勢を相催し、七千余騎にて夜を日に継で責上る。折節雪をびたゝしく降て、馬の足も不立ければ、兵を皆馬より下し、橇を懸させ、二万余人を前に立て、道を蹈せて過たるに、山の雪氷て如鏡なれば、中々馬の蹄を不労して、七里半の山中をば馬人容易越はてゝ、比叡山の東坂本にぞ著にける。足利宰相中将義詮は其比京都に坐しけるが、八幡山、比叡坂本に大敵を請て、非可由断、著到を付て勢を見よとて、正月八日より、日々に著到を被付けり。初日は三万騎と註したりけるが、翌日は一万騎に減ず。翌日は三千騎になる。是は如何様御方の軍勢敵になると覚ゆるぞ。道々に関を居よとて、淀・赤井・今路・関山に関を居たれば、関守共に打連て、我も我もと敵に馳著ける程に、同十二日の暮程には、御内・外様の御勢五百騎に不足とぞ注したる。さる程に十三日の夜より、桃井山上に陣を取ぬと見へて、大篝を焼けば、八幡山にも相図の篝を焼つゞけたり。是を見て、仁木・細川以下宗との人人評定有て、「合戦は始終の勝こそ肝要にて候へ。此小勢にて彼大敵にあわん事、千に一も勝事を難得覚候。其上将軍已に西国より御上候なれば、今は摂津国辺にも著せ給て候覧。只京都を無事故御開候て、将軍の御勢と一になり、則京都へ寄られ候はゞ、などか思ふ図に合戦一度せでは候べき。」と被申ければ、義詮卿、「義は宜に順ふに不如。」とて、正月十五日早旦に、西国を差て落給へば、同日の午刻に、桃井都へ入り替る。治承の古へ平家都を落たりしか共、木曾は猶天台山に陣を取て十一日まで都へ不入。是全入洛を非不急、敵を欺かざる故なり。又は軍勢の狼藉を静めん為なりき。武略に長ぜる人は、慎む処加様にこそ堅かるべし。今直常敵の落ぬといへばとて、人に兵粮をもつかはせず、馬に糠をもかはせず、楚忽に都へ入替る事其要何事ぞや。敵若偽て引退き、却て又寄来事あらば、直常打負ぬと云はぬ人こそ無りけれ。又桃井を引者は、敵御方勝負を決すべきならば、争か敵を欺ざるべき。未落ぬ先にも入洛すべし。まして敵落なば、何しにすこしも擬議すべき。如何にも入洛を急てこそ、日比の所存も達しぬべけれ。若敵偽て引退き、又帰寄る事あらば、京都にて尸を曝したらん事何か苦かるべき。又軍勢の狼藉は、入洛の遅速に依べからず。其上深き了簡もをはすらんと、申族も多かりけり。


243 将軍上洛事付阿保秋山河原軍事

義詮心細く都を落て、桂河を打渡り、向明神を南へ打過させ給んとする処に、物集女の前西の岡に当て、馬煙夥しく立て、勢の多少は未見、旗二三十流翻て、小松原より懸出たり。義詮馬を控て、「是は若八幡より搦手に廻る敵にてや有らん。」とて、先人をみせに被遣たれば、八幡の敵にはあらで、将軍と武蔵守師直、山陽道の勢を駆具し、二万余騎を率して上洛し給ふにてぞ有ける。義詮を始奉て、諸軍勢に至るまで、只窮子の他国より帰て、父の長者に逢へるが如、悦び合事限なし。さらば軈取て返して洛中へ打寄せ、桃井を責落せと、将軍父子の御勢都合二万余騎を桂川より三手に分て、大手は武蔵守を大将として、仁木兵部大輔頼章・舎弟右馬権助義長・細河阿波将監清氏・今河駿河守、五千余騎四条を東へ押寄る。佐々木佐渡判官入道は、手勢七百余騎を引分て、東寺の前を東へ打通りて、今比叡の辺に控へ、大手の合戦半ならん時、思も寄ぬ方より、敵の後へ蒐出んと、旗竿を引側め笠符を巻隠し、東山へ打上る。将軍と宰相中将殿は、一万余騎を一手に合、大宮を上に打通り、二条を東へ法勝寺の前に打出んと、相図を定て寄せ給ふ。是は桃井東山に陣を取たりと聞ければ、四条より寄る勢に向て、合戦は定て川原にてぞ有んずらん。御方偽て京中へ引退かば、桃井定勝に乗て進まん歟、其時道誉桃井が陣の後へ蒐出て、不意に戦を致さば前後の大敵に遮られて、進退度を失はん時、将軍の大勢北白河へ懸出て、敵の後へ廻る程ならば、桃井武しと云共引かではやはか戦と、謀を廻す処也。如案中の手大宮にて旗を下して、直に四条川原へ懸出たれば、桃井は東山を後にあて賀茂河を前に堺て、赤旗一揆・扇一揆・鈴付一揆・二千余騎を三所に控て、射手をば面に進ませ、帖楯二三百帖つき並べて、敵懸らば共に蒐り合ふて、広みにて勝負を決せんと、静り返て待懸たり。両陣旗を上て、時の声をば揚たれ共、寄手は搦手の勢の相図を待て未懸ず。桃井は八幡の勢の攻寄んずる程を待て、態事を延さんとす。互に勇気を励す程に、或は五騎十騎馬を懸居懸廻、かけ引自在に当らんと、馬を乗浮もあり。或は母衣袋より母衣取出して、是を先途の戦と思へる気色顕れて、最後と出立人もあり。斯る処に、桃井が扇一揆の中より、長七尺許なる男の、ひげ黒に血眼なるが、火威の鎧に五枚甲の緒を縮、鍬形の間に、紅の扇の月日出したるを不残開て夕陽に耀かし、樫木の棒の一丈余りに見へたるを、八角に削て両方に石突入れ、右の小脇に引側めて、白瓦毛なる馬の太く逞しきに、白泡かませて、只一騎河原面に進出て、高声に申けるは、「戦場に臨む人毎に、討死を不志云者なし。然共今日の合戦には、某殊更死を軽じて、日来の広言をげにもと人に云れんと存也。其名人に知らるべき身にても候はぬ間、余にこと/゛\しき様に候へ共、名字を申にて候也。是は清和源氏の後胤に、秋山新蔵人光政と申者候。出王氏雖不遠、已に武略の家に生れて、数代只弓箭を把て、名を高せん事を存ぜし間、幼稚の昔より長年の今に至まで、兵法を哢び嗜む事隙なし。但黄石公が子房に授し所は、天下の為にして、匹夫の勇に非ざれば、吾未学、鞍馬の奥僧正谷にて愛宕・高雄の天狗共が、九郎判官義経に授し所の兵法に於ては、光政是を不残伝へ得たる処なり。仁木・細河・高家の御中に、吾と思はん人々名乗て是へ御出候へ。声花なる打物して見物の衆の睡醒さん。」と呼はて、勢ひ当りを撥て西頭に馬をぞ控へたる。仁木・細河・武蔵守が内に、手柄を顕し名を知れたる兵多といへ共、如何思けん、互に目を賦て吾是に懸合て勝負をせんと云者もなかりける処に、丹の党に阿保肥後守忠実と云ける兵、連銭葦毛なる馬に厚総懸て、唐綾威の鎧竜頭の甲の緒を縮め、四尺六寸の貝鏑の太刀を抜て、鞘をば河中へ投入れ、三尺二寸の豹の皮の尻鞘かけたる金作の小太刀帯副て、只一騎大勢の中より懸出て、「事珍しく耳に立ても承る秋山殿の御詞哉。是は執事の御内に阿保肥前守忠実と申者にて候。幼稚の昔より東国に居住して、明暮は山野の獣を追ひ、江河の鱗を漁て業とせし間、張良が一巻の書をも呉氏・孫氏が伝へし所をも、曾て名をだに不聞。され共変化時に応じて敵の為に気を発する処は、勇士の己れと心に得る道なれば、元弘建武以後三百余箇度の合戦に、敵を靡け御方を助け、強きを破り堅きを砕く事其数を不知。白引の精兵、畠水練の言にをづる人非じ。忠実が手柄の程試て後、左様の広言をば吐給へ。」と高かに呼はて、閑々と馬をぞ歩ませたる。両陣の兵あれ見よとて、軍を止て手を拳る。数万の見物衆は、戦場とも不云走寄て、かたづを呑て是を見る。誠に今日の軍の花は、只是に不如とぞ見へたりける。相近になれば阿保と秋山とにつこと打笑て、弓手に懸違へ馬手に開合て、秋山はたと打てば、阿保うけ太刀に成て請流す。阿保持て開てしとゞ切れば、秋山棒にて打側く。三度逢三度別ると見へしかば、秋山は棒を五尺許切折れて、手本僅に残り、阿保は太刀を鐔本より打折れて、帯添の小太刀許憑たり。武蔵守是を見て、「忠実は打物取て手はきゝたれ共、力量なき者なれば、力勝りに逢て始終は叶はじと覚るぞ、あれ討すな。秋山を射て落せ。」とぞ被下知。究竟の精兵七八人河原面に立渡て、雨の降るが如く散々に射る。秋山件の棒を以て、只中を指て当る矢二十三筋まで打落す。忠実も情ある者也ければ、今は秋山を討んともせず、剰御方より射矢を制して矢面にこそ塞りけれ。かゝる名人を無代に射殺さんずる事を惜て、制しけるこそやさしけれ。角て両方打除て、諸人の目をぞさましける。されば其比、霊仏霊社の御手向、扇団扇のばさら絵にも、阿保・秋山が河原軍とて書せぬ人はなし。其後合戦始て、桃井が七千余騎、仁木・細河が一万余騎と、白河を西へまくり東へ追靡け、七八度が程懸合たるに、討るゝ者三百人、疵を被る者数を不知。両陣互に戦屈して控息を継処に、兼の相図を守て、佐々木判官入道々誉七百余騎にて、思も寄らぬ中霊山の南より、時をどつと作て桃井が陣の後へ懸出たり。桃井が兵是に驚きあらけて、二手に分て相戦ふ。桃井は西南の敵に破立られて、兵引色にみへける間、兄弟二人態と馬より飛で下り、敷皮の上に著座して、「運は天にあり、一足も引事有べからず。只討死をせよ。」とぞ下知しける。去程に日已に夕陽に及て、戦数剋に成ぬれども、八幡の大勢は曾不攻合せ、北国の兵気疲れて暫東山に引上んとしける処に、将軍並羽林の両勢五千余騎、二条を東へ懸出て、桃井を山上へ又引返させじと、跡を隔てぞ取巻ける。桃井終日の合戦に入替る勢もなくて、戦疲れたる上、三方の大敵に囲れて、叶じとや思けん、粟田口を東へ山科越に引て行。され共尚東坂本までは引返さで、其夜は関山に陣を取て、大篝を焼てぞ居たりける。


244 将軍親子御退失事付井原石窟事

将軍都へ立帰給て、桃井合戦に打負ぬれば、今は八幡の御敵共も、大略将軍へぞ馳参らんと、諸人推量を廻して、今はかうと思れけるに、案に相違して、十五日の夜半許に、京都の勢又大半落て八幡の勢にぞ加りける。「こはそも何事ぞ。戦に利あれば、御方の兵弥敵になる事は、よく早尊氏を背く者多かりける。角ては洛中にて再び戦を致し難し。暫く西国の方へ引退て、中国の勢を催し、東国の者共に牒し合て、却て敵を責ばや。」と、将軍頻に仰あれば、諸人、「可然覚へ候。」と同じて、正月十六日の早旦に丹波路を西へ落給ふ。昨日は将軍都に立帰て桃井戦に負しかば、洛中には是を悦び八幡には聞て悲む。今日は又将軍都を落給て桃井軈て入替ると聞へしかば、八幡には是を悦び洛中には潜に悲む。吉凶は糾る縄の如く。哀楽時を易たり。何を悦び何事を可歎共不定め。将軍は昨日都を東嶺の暁の霞と共に立隔り、今日は旅を山陰の夕の雲に引別て、西国へと赴き給ひけるが、名将一処に集らん事は計略なきに似たりとて、御子息宰相中将殿に、仁木左京大夫頼章・舎弟右京大夫義長を相副て二千余騎、丹波の井原石龕に止めらる。此寺の衆徒、元来無弐志を存せしかば、軍勢の兵粮、馬の糟藁に至るまで、如山積上たり。此所は岸高く峯聳て、四方皆嶮岨なれば、城郭の便りも心安く覚へたる上、荻野・波波伯部・久下・長沢、一人も不残馳参て、日夜の用心隙無りければ、他日窮困の軍勢共、只翰鳥の■を出、轍魚の水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。相公登山し給し日より、岩室寺の衆徒、坐醒さずに勝軍毘沙門の法をぞ行ける。七日に当りたりし日、当寺の院主雲暁僧都、巻数を捧げて参けり。相公則僧都に対面し給て、当寺開山の事の起り、本尊霊験顕し給ひし様など、様々問ける次に、「さても何れの薩■を帰敬し、何なる秘法を修してか、天下を静め大敵を亡す要術に叶ひ候べき。」と宣ひければ、雲暁僧都畏て申けるは、「凡、諸仏薩■の利生方便区々にして、彼を是し此を非する覚へ、応用言ば辺々に候へば、何れをまさり何れを劣たりとは難申候へども、須弥の四方を領して、鬼門の方を守護し、摧伏の形を現じて、専ら勝軍の利を施し給ふ事は、昆沙門の徳にしくは候べからず。是我寺の本尊にて候へばとて、無謂申にて候はず。古玄宗皇帝の御宇、天宝十二年に安西と申所に軍起て、数万の官軍戦ふ度毎に打負ずと云事なし。「今は人力の及処に非ず如何がすべき。」と玄宗有司に問給ふに、皆同く答て申さく、「是誠に天の擁護に不懸ば静むる事を難得。只不空三蔵を召れて、大法を行せらるべき歟。」と申ける間、帝則不空三蔵を召て昆沙門の法を行せられけるに、一夜の中に鉄の牙ある金鼠数百万安西に出来て、謀叛人の太刀・々・甲・冑・矢の筈・弓の弦に至まで、一も不残食破り食切、剰人をさへ咀殺し候ける程に、凶徒是を防ぎかねて、首をのべて軍門に降しかば、官軍矢の一をも不射して若干の賊徒を平げ候き。又吾朝に朱雀院の御宇に、金銅の四天王を天台山に安置し奉て、将門を亡されぬ。聖徳太子昆沙門の像を刻て、甲の真甲に戴て、守屋の逆臣を誅せらる。此等の奇特世の知処、人の仰ぐ処にて候へば、御不審あるべきに非ず。然るに今武将幸に多門示現の霊地に御陣を召れ候事、古の佳例に違まじきにて候へば、天下を一時に静られて、敵軍を千里の外に掃はれ候ん事、何の疑か候べき。」と、誠憑し気に被申たりければ、相公信心を発れて、丹波国小川庄を被寄附、永代の寺領にぞ被成ける。


245 越後守自石見引返事

越後守師泰は、此時まで三角城を退治せんとて猶石見国に居たりけるを、師直が許より飛脚を立て、「摂津国播磨の間に合戦事已に急也。早く其国の合戦を閣て馳上らるべし。若中国の者共かゝる時の弊に乗て、道を塞んずる事もや有んずらんと存候間、武蔵五郎を兼て備前へ差遣す。中国の蜂起を静めて、待申べし。」とぞ告たりける。越後守此使に驚て石見を立て上れば、武蔵五郎の相図を違へじと播磨を立て、備後の石崎にぞ付にける。将軍は八幡比叡山の敵に襲れて、播磨の書写坂本へ落下り、越後守は三角城を責兼て、引退と聞へしかば、上杉弾正少弼八幡より舟路を経て、備後の鞆へあがる。是を聞て備後・備中・安芸・周防の兵共、我劣じと馳付ける程に、其勢雲霞の如にて、靡ぬ草木もなかりけり。去程に武蔵五郎、越後守を待付て、中国には暫も逗留せず、やがて上洛すと聞へければ、上杉取物も取敢ず、跡を追て打止よとて、其勢二千余騎、正月十三日の早旦に、草井地より打立て、跡を追てぞ寄にける。越後守は夢にも是を知ず、片時も行末を急ぐ道なれば、疋馬に鞭を進て勢山を打越ぬ。小旗一揆・川津・高橋・陶山兄弟は、遥の後陣に引殿て、未竜山の此方に支たり。先陣後陣相阻て勢の多少も見分ねば、上杉が先懸の五百余騎、一の後陣に打ける陶山が百余騎の勢を目に懸て、楯のはを敲て時を作る。陶山元来軍の陣に臨む時、仮にも人に後を見せぬ者共なれば、鬨を合て、矢一筋射違るほどこそあれ、大勢の中へ懸入て責けれども、魚鱗鶴翼の陣、旌旗電戟の光、須臾に変化して、万方に相当れば、野草紅に染て汗馬の蹄血を蹴たて、河水派せかれて、士卒の尸忽流れをたつ。かゝりけれども、前陣は隔て知ず、後陣にはつゞく御方もなし。只今を限と戦ける程に、陶山又次郎高直、脇の下・内冑・吹返の迦、三所突れて打れにけり。弟の又五郎是を見て、哀れよからんずる敵に組で、指違ばやと思処に、火威の鎧紅の母衣懸たる武者一騎、合近に寄合ふたる。「誰そ。」と問ば、土屋平三と名乗。陶山莞爾と笑て、「敵をば嫌まじ、よれ組ん。」と云侭に、引組で二疋が中へどうど落る。落付処にて、陶山上になりければ、土屋を取て押て頚をかゝんとするを見て、道口七郎落合て陶山が上に乗懸る。陶山下なる土屋をば左の手にて押へ、上なる道口をかい掴で、捩頚にせんと振返て見ける処を、道口が郎等落重て陶山がひつしきの板を畳上、あげさまに三刀指たりければ、道口・土屋は助て陶山は命を留たり。陶山が一族郎等是を見て、「何の為に命を惜むべき。」とて、長谷与一・原八郎左衛門・小池新平衛以下の一族若党共、大勢の中へ破ては入、/\、一足も引ず皆切死にこそ死にけれ。上杉若干の手者を打せ乍ら、後陣の軍には勝にけり。宮下野守兼信は、始七十騎にて中の手に有けるが、後陣の軍に御方打負ぬと聞て、何の間にか落失けん、只六騎に成にけり。兼信四方を屹と見て、「よし/\有るにかいなき大臆病の奴原は、足纏に成に、落失たるこそ逸物なれ。敵未人馬の息を休ぬ先に、倡懸らん。」と云侭に、六騎馬の鼻を双て懸入。是を見て、小旗一揆に、河津・高橋、五百余騎喚て懸りける程に、上杉が大勢跡より引立て、一度も遂に返さず、混引に引ける間、上杉深手を負のみに非ず、打るゝ兵三百余騎、疵を蒙る者は数を知ず。其道三里が間には、鎧・腹巻・小手・髄当・弓矢・太刀・々を捨たる事、足の踏所も無りけり。備中の合戦には、越後守師泰念なく打勝ぬ。是より播磨までは、道のほど異なる事あらじと思処に、美作国の住人、芳賀・角田の者共相集て七百余騎、杉坂の道を切塞で、越後守を打留んとす。只今備中の軍に打勝て、勢ひ天地を凌ぐ河津・高橋が両一揆、一矢をも射させず、抜つれて懸りける程に、敵一たまりもたまらず、谷底へまくり落て、大略皆討れにけり。両国の軍に事故なく打勝て、越後守師泰・武蔵五郎師夏、喜悦の眉を開き、観応二年二月に、将軍の陣を取てをわしける書写坂本へ馳参る。


246 光明寺合戦事付師直怪異事

去程に八幡より、石堂右馬権頭を大将にて、愛曾伊勢守、矢野遠江守以下五千余騎にて書写坂本へ寄んとて下向しけるが、書写坂本へは越後守が大勢にて著たる由を聞て、播磨の光明寺に陣を取て、尚八幡へ勢をぞ乞れける。将軍此由を聞給て、光明寺に勢を著ぬ前に、先是を打散さんとて、同二月三日将軍書写坂本を打立て、一万余騎の勢を卒、光明寺の四方を取巻給ふ。石堂城を堅て光明寺に篭しかば、将軍は引尾に陣を取り、師直は泣尾に陣をとる。名詮自性の理寄手の為に、何れも忌々しくこそ聞へけれ。同四日より矢合して、寄手高倉の尾より責上れば、愛曾は二王堂の前に支て相戦ふ。城中には死生不知のあぶれ者共、此を先途と命を捨て戦ふ。寄手は功高く禄重き大名共が、只御方の大勢を憑む許にて、誠に吾一大事と思入たる事なければ、毎日の軍に、城の中勝に不乗云事なし。赤松律師則祐は、七百余騎にて泣尾へ向ひたりけるが、遥に城の体を見て、「敵は無勢なりけるを、一責々て見よ。」と下知しければ、浦上七郎兵衛行景・同五郎左衛門景嗣・吉田弾正忠盛清・長田民部丞資真・菅野五郎左衛門景文、さしも岨しき泣尾の坂を責上て、掻楯の際まで著たりける。此時に自余の道々よりも寄手同時に責上る程ならば、城をば一息に攻落すべかりしを、何となくとも今宵か明日か心落に落んずる城を骨折に責ては何かすべきとて、数万の寄手徒に見物して居たりければ、浦上七郎兵衛を始として、責入寄手一人も不残掻楯の下に射臥られて、元の陣へぞ引返しける。手合の合戦に敵を退て城中聊気を得たりといへ共、寄手は大勢也。城の構未拵、始終いかゞ有べからんと、石堂・上杉安き心も無りける処に、伊勢の愛曾が召仕ひける童一人、俄に物に狂て、十丈許飛上りて跳りけるが、「吾に伊勢太神宮乗居させ給て、此城守護の為に、三本杉の上に御坐あり。寄手縦何なる大勢なりとも、吾角てあらん程は城を被落事有べからず。悪行身を責、師直・師泰等、今七日が中に滅さんずるをば不知や。あらあつや堪がたや。いで三熱の焔さまさん。」とて、閼伽井の中へ飛漬りたれば、げにも閼伽井の水湧返てわかせる湯の如し。城中の人々是を聞て渇仰の首を不傾云事なし。寄手の赤松律師も此事を伝聞て、さては此軍墓々しからじと、気に障りて思ける処に、子息肥前権守朝範が、冑を枕にして少し目睡たる夢に、寄手一万余騎同時に掻楯の際に寄て火を懸しかば、八幡山・金峯山の方より、山鳩数千飛来て翅を水に浸して、櫓掻楯に燃著火を打消とぞ見へたりける。朝範軈て此夢を則祐に語る。則祐是を聞て、「さればこそ此城を責落さん事有難しなどやらんと思つるが、果して神明の擁護有けり。哀事の難義にならぬ前に引て帰らばや。」と思ける処に、美作より敵起て、赤松へ寄する由聞へければ、則祐光明寺の陣を捨て白旗城へ帰にけり。軍の習、一騎も勢の加る時には人の心勇み、一人もすく時は兵の気たゆむ習なれば、寄手の勢次第に減ずるを見て、武蔵守が兵共弥軍懈て、皆帷幕の中に休息して居たりける処に、巽の方より怪気なる雲一群立出て風に随て飛揚す。百千万の鳶烏其下に飛散て、雲居る山の風早み、散乱れたる木葉の空にのみして行が如し。近付に随て是を見れば、雲にも霞にも非ず、無文の白旗一流天より飛降にてぞ有ける。是は八幡大菩薩の擁護の手を加へ給ふ奇瑞也。此旗の落留らんずる方ぞ軍には打勝んずらんとて、寄手も城中も手を叉へ礼を成して、祈念を不致云人なし。此旗城の上に飛上飛下て暫く翩翻しけるが、梢の風に吹れて又寄手の上に翻る。数万の軍勢頭を地に著て、吾陣に天降せら給ふと信心を凝す処に、飛鳥十方に飛散て、旗は忽に師直が幕の中にぞ落たりける。諸人同く見て、「目出し。」と感じける声、暫しは静りも得ざりけり。師直甲を脱で、左の袖に受留め、三度礼して委く是を見れば、旌にはあらで、何共なき反古を二三十枚続集て、裏に二首の歌をぞ書たりける。吉野山峯の嵐のはげしさに高き梢の花ぞ散行限あれば秋も暮ぬと武蔵野の草はみながら霜枯にけり師直傍への人に、「此歌の吉凶何ぞ。」と問ければ、聞人毎に、穴浅猿や、高き梢の花ぞ散行とあるは、高家の人可亡事にやあるらん。然も吉野山峯の嵐のはげしさにとあるも、先年蔵王堂を被焼たりし罪、一人にや帰すらん。武蔵野の草はみながら霜枯にけりとあるも、名字の国なれば、旁以不吉なる歌と、忌々しくは思ひけれ共、「目出き歌共にてこそ候へ。」とぞ会尺しける。


247 小清水合戦事付瑞夢事

去程に其日の暮程に、摂津国の守護赤松信濃守範資、使者を以て申けるは、「八幡より石堂中務大輔・畠山阿波守国清・上杉蔵人大夫を大将にて、七千余騎を光明寺の後攻の為にとて、被差下也。前には光明寺の城堅く守て、後に荒手の大敵懸りなば、ゆゝしき御大事にて候べし。只先其城をば閣れ候て、討手の下向を相支へ、神尾・十林寺・小清水の辺にて御合戦候はゞ、敵の敗北非疑処。御方一戦に利を得ば、敵所々に軍すと云ふ共、いつまでか怺へ候べき。是只一挙に戦を決して、万方に勝事を計る処にて候べし。」と、追々早馬を打せて、一日に三度までこそ申されけれ。将軍を始奉て師直・師泰に至るまで、げにも聞ゆる如ならば、敵は小勢也。御方は是に十倍せり。岨しき山の城を責ればこそ叶はね、平場に懸合て勝負を決せんに、御方不勝と云事不可有。さらば此城を閣て、先向なる敵に懸れとて、二月十三日、将軍も執事兄弟も、光明寺の麓を御立有て兵庫湊川へ馳向はる。畠山阿波守国清は、三千余騎にて播磨の東条に有けるが、此事を聞て、さては何くにてもあれ、執事兄弟のあらんずる所へこそ向めとて、湯山を南へ打越て、打出の北なる小山に陣をとる。光明寺に楯篭つる石堂右馬頭・上杉左馬助も光明寺をば打捨て皆畠山が陣へ馳加る。同十七日夜、将軍執事の勢二万余騎御影浜に押寄、追手搦手二手に分らる。「軍は追手より始て戦半ならん時、搦手の浜の南より押寄て、敵を中に取篭よ。」と被下知ける。薬師寺次郎左衛門公義は、今度の戦如何様大勢を憑て御方為損じぬと思ひければ、弥吾大事と気を励しけるにや、自余の勢に紛れじと、絹三幅を長さ五尺に縫合せて、両方に赤き手を著たる旌をぞ差たりける。一族の手勢二百余騎雀松原の木陰に控て、追手の軍今や始まると待処に、兼ての相図なれば、河津左衛門氏明・高橋中務英光、大旌一揆の六千余騎、畠山が陣へ押寄て時を作る。畠山が兵静り返て、態と時の声をも不合、此の薮陰、彼この木陰に立隠て、差攻引攻散々に射けるに、面に立つ寄手数百人、馬より真倒に射落されければ、後陣はひき足に成て不進得。河津左衛門是を見て、「矢軍許にては叶まじきぞ、抜て蒐れ。」と下知して、弓をば薮へからりと投棄て、三尺七寸の太刀を抜て、敵の群りたる中へ会尺もなく懸入んと、一段高き岸の上へ懸上ける処に、十方より鏃を汰て射ける矢に、馬の平頚草わき、弓手の小かいな、右の膝口、四所まで箆深に射られて、馬は小ひざら折てどうと臥す。乗手は朱に成て下立たり。是を見て畠山が二百余騎喚て蒐りければ、跡に控たる寄手の大勢共荒手を入替て戦はんともせず、手負を助けん共せず。鞭に鐙を合て一度にはつとぞ引たりける。石堂右馬頭が陣は、是より十余町を隔てたれば、未御方の打勝たるをも不知、「打出の浜に旌の三流見へたるは、敵か御方か見て帰れ。」と云れければ、原三郎左衛門義実只一騎、馳向て是を見に、三幅の小旗に赤き手を両方に著たり。さては敵也と見課て馳帰けるが、徒に馬の足を疲かさじとや思けん、扇を挙て御方の勢をさし招き、「浜の南に磬へたる勢は敵にて候ぞ。而も追手の軍は御方打勝たりと見へ候。早懸らせ給へ。」と、声を挙てぞ呼りける。元より気早なる石堂・上杉の兵共是を聞て何かは少しも可思惟。七百余騎の兵共、馬の轡を並べて喚て懸けるに、薬師寺が迹に扣たる執事兄弟の大勢共、未矢の一をも不被射懸、捨鞭を打てぞ逃たりける。梶原孫六・同弾正忠二人は追手の勢の中に有て、心ならず御方に被引立六七町落たりけるが、後代の名をや恥たりけん、只二騎引返して大勢の中へ懸入る。暫が程は二人一所にて戦けるが、後には別々に成て、只命を限りとぞ戦ける。孫六は敵三騎切て落して、裏へつと懸抜たるに、続く御方もなく、又見とがむる敵も無りければ、紛れて助からんよと思て、笠符を取て袖の下に収め、西宮へ打通て、夜に入ければ、小船に乗て将軍の陣へぞ参りける。弾正忠は偏に敵に紛れもせず、懸入ては戦ひ戦ひ、七八度まで馬烟を立て戦けるが、藤田小次郎と猪股弾正左衛門と、二騎に被取篭討れにけり。後に、「あはれ剛の者や、誰と云者やらん。名字を知ばや。」とて是を見るに、梅花を一枝折て箙の上に著たり。さては元暦の古、一谷の合戦に、二度の懸して名を揚し梶原平三景時が、其末にてぞ有らんと、名のらで名をぞ被知ける。薬師寺二郎左衛門公義は御方の追手搦手二万余騎、崩れ懸て引共少も不騒、二百五十騎の勢にて、石堂・上杉が七百余騎の勢を山際までまくり付て、続く御方を待処に、一騎も扣たる兵なければ、又浪打際に扣て居たるに、石堂・畠山が大勢共、「手著たる旌は薬師寺と見るぞ、一人も余すな。」とて追懸たり。公義が二百五十騎、敵後に近付ば、一度に馬を屹と引返して戦ひ、敵先を遮れば、一同にわつと喚て懸破り、打出浜の東より御景浜の松原まで、十六度迄返して戦けるに、或は討れ或は敵に被懸散、一所に控たる勢とては、弾正左衛門義冬・勘解由左衛門義治、已上六騎に成にけり。兵共暫馬の息を継せて傍を屹と見たるに、輪違の笠符著たる武者一騎、馬を白砂に馳通して、敵七騎に被取篭たり。弾正左衛門義冬是を見て、「是は松田左近将監と覚る。目前にて討るゝ御方を不助云事やあるべき。」とて、六騎抜連て懸れば、七騎の敵引退て松田は命を助てげり。松田・薬師寺七騎に成て暫し扣たる処、彼等手の者共彼方より馳付て、又百騎許に成ければ、石堂・畠山先懸して兵を三町許追返したるに、敵も勇気や疲れけん、其後よりは不追ければ、軍は此にて止にけり。薬師寺は鎧に立処の矢少し折懸て湊川へ馳帰たれば、敵の旌をだにも不見して引返しつる二万余騎の兵共、勇気を失、落方を求て、只泥に酔たる魚の小水にいきづくに異らず。さても合戦をつら/\案ずるに、勢の多少兵の勝劣、天地各別なり。何事にか是程に無念可打負。是非直事と思ふに合て、其前の夜、武蔵五郎・河津左衛門と、少も不替二人見たりける夢こそ不思議なれ。所は何く共不知渺々たる平野に、西には師直・師泰以下、高家の一族其郎従数万騎打集て、轡を双て控たる。東には錦小路禅門・石堂・畠山・上杉民部大輔、千余騎にて相向ふ。両陣鬨を合せて、其戦未半時、石堂・畠山が勢旌を巻て引退く。師直・師泰勝に乗て追蒐る処に、雲の上より錦の旌一流差挙て、勢の程百騎許懸出たり。左右に分れたる大将を誰ぞと見れば、左は吉野の金剛蔵王権現、頭に角生て八の足ある馬に被召たり。小守勝手の明神、金の鎧に鉄の楯を引側めて、馬の前後に順ひ給ふ。右は天王寺の聖徳太子、甲斐の黒駒に白鞍置て被召たり。蘇我馬子大臣甲冑を帯し、妹子大臣・跡見の赤梼・秦河勝、弓箭を取て真前に進む。師直・師泰以下の旌共、太子の御勢を小勢と見て、中に篭て討んとするに、金剛蔵王御目をいらゝげて、「あれ射て落せ。」と下知し給へば、小守・勝手・赤梼・河勝、四方に颯と走りけり。同時に引て放つ矢、師直・師泰・武蔵五郎・越後将監が眉間の真中を徹て、馬より倒に地を響して落ると見て、夢は則醒にけり。朝に此夢を語て、今日の軍如何あらんずらんと危ぶみけるが、果して軍に打負ぬ。此後とても、角ては憑しくも不思と、聞人心に思ぬはなし。此夢の記録吉野の寺僧所持して、其隠なき事也。


248 松岡城周章事

小清水の軍に打負て、引退兵二万余騎、四方四町に足ぬ松岡の城へ、我も我もとこみ入ける程に、沓の子を打たるが如にて、少もはたらくべき様も無りけり。角ては叶まじ、宗との人々より外は内へ不可入とて、人の郎従若党たる者は、皆そとへ追出して、四方の関下したれば、元来落心地の付たる者共、是に事名付て、「無憑甲斐執事の有様哉。さては誰が為にか討死をもすべき。」と、面々につぶやきて打連/\落行。今は定て路々に敵有て、落得じと思ふ人は、或は釣する海人に紛れて、破れたる簔を身に纏ひ、福良の渡・淡路の迫門を、船にて落る人もあり。或は草苅をのこに窶つゝ、竹の簣を肩に懸、須磨の上野・生田の奥へ、跣にて逃る人もあり。運の傾く僻なれ共、臆病神の著たる人程見苦き者はなし。夜已に深ければ、さしもせき合つる城中さび返て、更に人ありとも見へざりけり。将軍執事兄弟を召近付て宣けるは、「無云甲斐者共が、只一軍に負たればとて、落行事こそ不思議なれ。さりとも饗庭命鶴・高橋・海老名六郎は、よも落去じな。」と問給へば、「それも早落て候。」「長井治部少輔・佐竹加賀は早落つるか。」「いやそれも皆落て候。」「さては残る勢幾程かある。」「今は御内の御勢、師直が郎従・赤松信濃守勢、彼是五百騎に過候はじ。」と申せば、将軍、「さては世中今夜を限りござんなれ、面々に其用意有べし。」とて、鎧をば脱て推除小具足許になり給ふ。是を見て高武蔵守師直・越後守師泰・武蔵五郎師夏・越後将監師世・高豊前五郎・高備前守・遠江次郎・彦部・鹿目・河津以下、高家の一族七人、宗との侍二十三人、十二間の客殿に二行に坐を列て、各諸天に焼香し、鎧直垂の上をば取て抛除、袴許に掛羅懸て、将軍御自害あらば御供申さんと、腰の刀に手を懸て、静り返てぞ居たりける。厩侍には、赤松信乃守範資上坐して、一族若党三十二人、膝を屈して並居たりけるが、「いざや最後の酒盛して、自害の思ひざしせん。」とて、大なる酒樽に酒を湛へ、銚子に盃取副て、家城源十郎師政酌をとる。信濃守次男信濃五郎直頼が、此年十三にて内に有けるを、父呼出し、「鳥之将死其鳴也。哀。人之将死其言也。善と云り。吾一言汝が耳に留らば、庭訓を不忘、身を慎て先祖を恥しむる事なかるべし。将軍已に御自害あらんずる間、範資も御供申さんずるなり。日来の好を思はゞ家の子若党共も、皆吾と共に無力死に赴かんとぞ思定たるらん。但汝は未幼少なり。今共に腹を不切共、人強に指をさす事有まじ。則祐已に汝を猶子にすべき由、兼て約束有しかば、赤松へ帰て則祐を真の父と憑て、生涯を其安否に任するか、不然は又僧法師にもなりて、吾後生をも訪らひ汝が身をも助かるべし。」と、泣々庭訓を残して涙を押拭へば、坐中の人々げにもと、同く涙を流しけれ。直頼熟と父の遺訓を聞て、扇取直して申けるは、「人の幼少程と申は、五や六や乃至十歳に足ぬ時にてこそ候へ。吾已善悪をさとる程に成て、適此坐に在合ながら、御自害を見捨て一人故郷へ帰ては、誰をか父と憑み、誰にか面を向べき。又禅僧に成たらば、沙弥喝食に指をさゝれ、聖道に成たらば、児共に被笑ずと云事不可有。縦又何なる果報有て、後の栄花を開候とも、をくれ進せては、ながらふべき心地もせず。色代は時に依る事にて候。腹切の最後の盃にて候へば、誰にか論じ申さまし。我先飲て思ざし申さん。」とて、前なる盃を少し取傾る体にて、糟谷新左衛門尉保連にさし給へば、三度飲て、糟谷新左衛門尉伊朝・奥次郎左衛門尉・岡本次郎左衛門・中山助五郎、次第に飲下、無明の酒の酔の中に、近付命ぞ哀なる。


249 師直師泰出家事付薬師寺遁世事

斯る処に、東の木戸を荒らかに敲く人あり。諸人驚て、「誰そ。」と問へば、夜部落たりと沙汰せし饗庭命鶴丸が声にて、「御合体に成て、合戦は有まじきにて候ぞ。楚忽に御自害候な。」とぞ呼はりける。こはそも何とある事ぞやとて急ぎ木戸を開きたれば、命鶴将軍の御前に参て、「夜部事の由をも申さで、罷出候しが、早落たりとぞ思召候つらん。御方の軍勢の気を失、色を損じたる体を見候しに、角ては戦ふ共難勝、落共延させ給はじと覚へ候たる間、畠山阿波将監が陣へ罷向候て、御合体の由を申て候へば、錦小路殿も、只暮々其事をのみこそ仰候へ。執事兄弟の不義も、只一往思知するまでにて候へば、執事深く被誅伐までの義も候まじ。親にも超てむつましきは、同気兄弟の愛也。子にも不劣なつかしきは、多年主従の好也。禽獣も皆其心あり。況人倫に於てをや。縦合戦に及ぶ共、無情沙汰を致すなと、八幡より給て候御文数通候とて、取出して見せられ候つる。」と、命鶴委細に申ければ、将軍も執事兄弟も、さては子細非じとて、其夜の自害は留りてげり。さても三条殿は御兄弟の御事なれば、将軍をこそ悪と不思召とも、師直去年の振舞をば、尚もにくしと思召ぬ事不可有。げにも頭を延て参る位ならば、出家をして参るか、不然は将軍を赤松の城へ遣進せて、師直は四国へや落ると評定有けるを、薬師寺次郎左衛門公義、「など加様に無力事をば仰候ぞ。六条判官為義が、己が咎を謝せん為に、入道に成て出候しをば、義朝子の身としてだにも、首を刎候しぞかし。縦御出家候て、何なる持戒持律の僧と成せ給て候共、三条殿の御意も安まり、上杉・畠山の一族達、憤を散候べしとは覚候はず。剃髪の尸墨染の衣の袖に血を淋て、憂名を後代に残れ候はん事、只口惜かるべき事にて候はずや。将軍を赤松の城へ入進せて、師直を四国へ落さばやと承候事も、都て可然共覚候はず。細川陸奥守も、三条殿の召に依て、大勢早三石に著て候と聞へ候へば、将軍こそ摂州の軍に負て、赤松へ引せ給と聞て、打止奉らんと思はぬ事や候べき。又四国へ落させ給はん事も不可叶。用意の舟も候はで、此彼の浦々にて、渡海の順風を待て御渡り候はんに、敵追懸て寄候はゞ、誰か矢の一をも、墓々敷射出す人候べき。御方の兵共の有様は、昨日の軍に曇りなく被見透候者を、人に無剛臆、気に有進退と申事候間、人の心の習ひ、敵に打懸らんとする時は、心武くなり、一足も引となれば、心臆病に成者にて候。只御方の勢の未すかぬ前に、混討死と思召定て、一度敵に懸りて御覧候より外は、余義あるべし共覚候はず。」と、言を残さで申けれ共、執事兄弟只曚々としたる許にて、降参出家の儀に落伏しければ、公義泪をはら/\と流して、「嗚呼豎子不堪倶計と、范増が云けるも理り哉。運尽ぬる人の有様程、浅猿き者は無りけり。我此人と死を共にしても、何の高名かあるべき。しかじ憂世を捨て、此人々の後生を訪んには。」と、俄に思定て、取ばうし取ねば人の数ならず捨べき物は弓矢也けりと、加様に詠じつゝ、自髻押きりて、墨染に身を替て、高野山へぞ上りける。三間茅屋千株松風、ことに人間の外の天地也けりと、心もすみ身も安く覚へければ、高野山憂世の夢も覚ぬべしその暁を松の嵐にと読て、暫しは閑居幽隠の人とぞ成たりける。仏種は縁より起事なれば、かやうに次を以て、浮世を思捨たるは、やさしく優なる様なれ共、越後中太が義仲を諌かねて、自害をしたりしには、無下に劣りてぞ覚たる。


250 師冬自害事付諏方五郎事

高播磨守は師直が猶子也しを、将軍の三男左馬頭殿の執事になして、鎌倉へ下りしかば、上杉民部大輔と相共に東国の管領にて、勢八箇国に振へり。西国こそ加様に師直を背く者多く共、東国はよも子細非じ、事の真に難儀ならば、兵庫より船に乗て、鎌倉へ下て師冬と一にならんと、執事兄弟潜に被評定ける処に、二十五日の夜半許に、甲斐国より時衆一人来て、忍やかに、「去年の十二月に、上杉民部大輔が養子に、左衛門蔵人、父が代官にて上野の守護にて候しが、謀叛を起て鎌倉殿方を仕る由聞へしかば、父民部大輔是を為誅伐下向の由を称して、上野に下著、則左衛門蔵人と同心して、武蔵国へ打越へ、坂東の八平氏武蔵の七党を付順ふ。播州師冬是を被聞候て、八箇国の勢を被催に、更に一騎も不馳寄。角ては叶まじ。さらば左馬頭殿を先立進せて上杉を退治せんとて、僅に五百騎を卒して、上野へ発向候し路次にて、さりとも弐ろ非じと憑切たる兵共心変りして、左馬頭殿を奪奉る間、左馬頭殿御後見三戸七郎は、其夜同士打せられて半死半生に候しが、行方を不知成候ぬ。是より上杉には弥勢加り、播州師冬には付順ふ者候はざりし間、一歩も落て此方の様をも聞ばやとて、甲斐国へ落て、州沢城被篭候処に、諏方下宮祝部六千余騎にて打寄、三日三夜の手負討死其数を不知。敵皆大手へ向ふにより、城中勢大略大手にをり下て、防戦ふ隙を得て、山の案内者後へ廻て、かさより落し懸る間、八代の某一足も不引討死仕る。城已に落んとし候時、御烏帽子々に候し諏方五郎、初は祝部に属して城を責候しが、城の弱りたるをみて、「抑吾執事の烏帽子々にて、父子の契約を致しながら、世挙て背けばとて、不義の振舞をば如何が可致。曾参は復車於勝母之郷、孔子は忍渇於盜泉之水といへり。君子は其於不為処名をだにも恐る。況乎義の違ふ処に於乎。」とて、祝部に最後の暇乞て城中へ入り、却て寄手を防ぐ事、身命を不惜。去程に城の後ろより破れて、敵四方より追しかば、諏方五郎と播州とは手に手を取違へ、腹掻切て臥給ふ。此外義を重じ名を惜む侍共六十四人、同時に皆自害して、名を九原上の苔に残し、尸を一戦場の土に曝さる。其後は東国・北国残りなく、高倉殿の御方へ成て候。世は今はさてとこそ見へて候へ。」と、泣々執事にぞ語られける。筑紫九国は兵衛佐殿に順付ぬと聞ゆ。四国は細川陸奥守に属して既に須磨大蔵谷の辺まで寄たりと告たり。今は東国をこそ、さり共と憑たれば、師冬さへ討れにけり。さては何くへか落誰をか可憑とて、さしも勇し人々の気色、皆心細見へたりける。命は能難棄物也けり。執事兄弟、かくても若命や助かると、心も発らぬ出家して、師直入道々常、師泰入道々勝とて、裳なし衣に提鞘さげて、降人に成て出ければ、見人毎に爪弾して、出家の功徳莫太なれば、後生の罪は免る共、今生の命は難助と、欺ぬ人は無りけり。


251 師直以下被誅事付仁義血気勇者事

同二十六日に、将軍已に御合体にて上洛し給へば、執事兄弟も、同遁世者に打紛て、無常の岐に策をうつ。折節春雨しめやかに降て、数万の敵此彼に控たる中を打通れば、それよと人に被見知じと、蓮の葉笠を打傾け、袖にて顔を引隠せ共、中々紛れぬ天が下、身のせばき程こそ哀なれ。将軍に離れ奉ては、道にても何なる事かあらんずらんと危て少しもさがらず、馬を早めて打けるを、上杉・畠山の兵共、兼て儀したる事なれば、路の両方に百騎、二百騎、五十騎、三十騎、処々に控へて待ける者共、すはや執事よと見てければ、将軍と執事とのあはいを次第に隔んと鷹角一揆七十余騎、会尺色代もなく、馬を中へ打こみ/\しける程に、心ならず押隔られて、武庫川の辺を過ける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔山を阻て、五十町許に成にけり。哀なる哉、盛衰刹那の間に替れる事、修羅帝釈の軍に負て、藕花の穴に身を隠し、天人の五衰の日に逢て、歓喜苑にさまよふ覧も角やと被思知たり。此人天下の執事にて有つる程は、何なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾の禄、万戸の侯を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪を負て焼原を過ぎ、雷を戴て大江を渡が如恐れき。何況将軍と打双て、馬を進め給はんずる其中へ、誰か隔て先立人有べきに、名も知ぬ田舎武士、無云許人の若党共に押隔られ/\、馬ざくりの水を蹴懸られて、衣深泥にまみれぬれば、身を知る雨の止時なく、泪や袖をぬらすらん。執事兄弟武庫川を打渡て、小堤の上を過ける時、三浦八郎左衛門が中間二人走寄て、「此なる遁世者の、顔を蔵すは何者ぞ。其笠ぬげ。」とて、執事の著られたる蓮葉笠を引切て捨るに、ほうかぶりはづれて片顔の少し見へたるを、三浦八郎左衛門、「哀敵や、所願の幸哉。」と悦て、長刀の柄を取延て、筒中を切て落さんと、右の肩崎より左の小脇まで、鋒さがりに切付られて、あつと云処を、重て二打うつ、打れて馬よりどうど落ければ、三浦馬より飛で下り、頚を掻落して、長刀の鋒に貫て差上たり。越後入道は半町許隔たりて打けるが、是を見て馬を懸のけんとしけるを、迹に打ける吉江小四郎、鑓を以て胛骨より左の乳の下へ突徹す。突れて鑓に取付、懐に指たる打刀を抜んとしける処に、吉江が中間走寄、鐙の鼻を返して引落す。落れば首を掻切て、あぎとを喉へ貫、とつ付に著馳て行。高豊前五郎をば、小柴新左衛門是を討。高備前守をば、井野弥四郎組で落て首を取る。越後将監をば、長尾彦四郎先馬の諸膝切て、落る所を二太刀うつ。打れて少弱る時、押へて軈て首を切る。遠江次郎をば小田左衛門五郎切て落す。山口入道をば小林又次郎引組で差殺す。彦部七郎をば、小林掃部助後より太刀にて切けるに、太刀影に馬驚て深田の中へ落にけり。彦部引返て、「御方はなきか、一所に馳寄て、思々に討死せよ。」と呼りけるを、小林が中間三人走寄て、馬より倒に引落し踏へて首を切て、主の手にこそ渡しけれ。梶原孫六をば佐々宇六郎左衛門是を打。山口新左衛門をば高山又次郎切て落す。梶原孫七は十余町前に打けるが、跡に軍有て執事の討れぬるやと人の云けるを聞て、取て返して打刀を抜て戦けるが、自害を半にしかけて、路の傍に伏たりけるを、阿佐美三郎左衛門、年来の知音なりけるが、人手に懸んよりはとて、泣々首を取てけり。鹿目平次左衛門は、山口が討るゝを見て、身の上とや思けん、跡なる長尾三郎左衛門に抜て懸りけるを、長尾少も不騒、「御事の身の上にては候はぬ者を、僻事し出して、命失はせ給ふな。」と云れて、をめ/\と太刀を指て、物語して行けるを、長尾中間にきつと目くはせしたれば、中間二人鹿目が馬につひ傍て、「御馬の沓切て捨候はん。」とて、抜たる刀を取直し、肘のかゝりを二刀刺て、馬より取て引落し、主に首をばかゝせけり。河津左衛門は、小清水の合戦に痛手を負たりける間、馬には乗得ずして、塵取にかゝれて、遥の迹に来けるが、執事こそ已に討れさせ給つれと、人の云を聞て、とある辻堂の有けるに、輿を舁居させ、腹掻切て死にけり。執事の子息武蔵五郎をば、西左衛門四郎是を生虜て、高手小手に禁て、其日の暮をぞ相待ける。此人は二条前関白太臣の御妹、無止事御腹に生れたりしかば、貌容人に勝れ心様優にやさしかりき。されば将軍も御覚へ異于他、世人ときめき合へる事限なし。才あるも才なきも、其子を悲むは人の父たる習なり。況乎最愛の子なりしかば、塵をも足に蹈せじ荒き風にもあてじとて、あつかい、ゝつき、かしづきしに、いつの間に尽終たる果報ぞや。年未十五に不満、荒き武士に生虜て、暮を待間の露の命、消ん事こそ哀なれ。夜に入ければ、誡たる縄をときゆるして已に切んとしけるが、此人の心の程をみんとて、「命惜く候はゞ、今夜速に髻を切て僧か念仏衆かに成せ給て、一期心安く暮らさせ給へ。」と申ければ、先其返事をばせで、「執事は何と成せ給て候とか聞へ候。」と問ければ、西左衛門四郎、「執事は早討れさせ給て候也。」と答ふ。「さては誰が為にか暫の命をも惜み候べき。死手の山三途大河とかやをも、共に渡らばやと存候へば、只急ぎ首を被召候へ。」と、死を請て敷皮の上に居直れば、切手泪を流して、暫しは目をも不持上、後ろに立て泣居たり。角てさてあるべきにあらねば、西に向念仏十遍許唱て、遂に首を打落す。小清水の合戦の後、執事方の兵共十方に分散して、残る人なしと云ながら、今朝松岡の城を打出るまでは、まさしく六七百騎もありと見しに、此人々の討るゝを見て何ちへか逃隠れけん、今討るゝ処十四人の外は、其中間下部に至るまで、一人もなく成にけり。十四人と申も、日来皆度々の合戦に、名を揚力を逞しくしたる者共なり。縦運命尽なば始終こそ不叶共、心を同して戦はゞ、などか分々の敵に合て死せざるべきに、一人も敵に太刀を打著たる者なくして、切ては被落押へては頚を被掻、無代に皆討れつる事、天の責とは知ながら、うたてかりける不覚哉。夫兵は仁義の勇者、血気の勇者とて二つあり。血気の勇者と申は、合戦に臨毎に勇進んで臂を張り強きを破り堅きを砕く事、如鬼忿神の如く速かなり。然共此人若敵の為に以利含め、御方の勢を失ふ日は、逋るに便あれば、或は降下に成て恥を忘れ、或は心も発らぬ世を背く。如此なるは則是血気の勇者也。仁義の勇者と申は必も人と先を争い、敵を見て勇むに高声多言にして勢を振ひ臂を張ざれ共、一度約をなして憑れぬる後は、弐を不存ぜ心不変して臨大節志を奪れず、傾所に命を軽ず。如此なるは則仁義の勇者なり。今の世聖人去て久く、梟悪に染ること多ければ、仁義の勇者は少し。血気の勇者は是多し。されば異朝には漢楚七十度の戦、日本には源平三箇年の軍に、勝負互に易しか共、誰か二度と降下に出たる人あるべき。今元弘以後君と臣との争に、世の変ずる事僅に両度に不過、天下の人五度十度、敵に属し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。故に天下の争ひ止時無して、合戦雌雄未決。是を以て、今師直・師泰が兵共の有様を見るに、日来の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。さらずはなどか此時に、千騎二千騎も討死して、後代の名を挙ざらん。仁者必有勇、々者必不仁と、文宣王の聖言、げにもと被思知たり。