太平記/巻第三十

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巻第三十

252 将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事

志合則胡越も不隔地。況や同く父母の出懐抱浮沈を共にし、一日も不離咫尺、連枝兄弟の御中也。一旦師直・師泰等が、不義を罰するまでにてこそあれ、何事にか骨肉を離るゝ心可有とて、将軍と高倉殿と御合体有ければ、将軍は播磨より上洛し、宰相中将義詮は丹波石龕より上洛し、錦小路殿は八幡より入洛し給ふ。三人軈会合し給て、一献の礼有けれ共、此間の確執流石片腹いたき心地して、互の言ば少く無興気にてぞ被帰ける。高倉殿は元来仁者の行を借て、世の譏を憚る人也ければ、いつしか軈天下の政を執て、威を可振其機を出されねども、世の人重んじ仰ぎ奉る事、日来に勝れて、其被官の族、触事に気色は不増云事なし。車馬門前に立列て出入側身を、賓客堂上に群集して、揖譲の礼を慎めり。如此目出度事のみある中に、高倉殿最愛の一子今年四に成給ひてけるが、今月二十六日俄に失給ひければ、母儀を始奉上下万人泣悲む事限なし。さても西国東国の合戦、符を合せたるが如く同時に起て、師直・師泰兄弟父子の頚、皆京都に上ければ、等持寺の長老旨別源、葬礼を取営て下火の仏事をし給ひけるに、昨夜春園風雨暴。和枝吹落棣棠花。と云句の有けるを聞て、皆人感涙をぞ流しける。此二十余年執事の被官に身を寄て、恩顧に誇る人幾千万ぞ。昨日まで烏帽子の折様、衣紋のため様をまねて、「此こそ執事の内人よ。」とて、世に重んぜられん事を求しに、今日はいつしか引替て貌を窶し面を側めて、「すはや御敵方の者よ。」とて、人にしられん事を恐懼す。用則鼠も為虎、不用則虎も為鼠と云置し、東方朔が虎鼠の論、誠に当れる一言なり。将軍兄弟こそ、誠に繊芥の隔もなく、和睦にて所存もなく坐けれ。其門葉に有て、附鳳の勢ひを貪て、攀竜の望を期する族は、人の時を得たるを見ては猜み、己が威を失へるを顧ては、憤を不含云事なし。されば石塔・上杉・桃井は、様々の讒を構て、将軍に付順ひ奉る人々を失はゞやと思ひ、仁木・細川・土岐・佐々木は、種々の謀を廻して、錦小路殿に、又人もなげに振舞ふ者共を滅さばやとぞ巧ける。天魔波旬は斯る所を伺ふ者なれば、如何なる天狗共の態にてか有けん、夜にだに入ければ、何くより馳寄共知ぬ兵共、五百騎三百騎、鹿の谷・北白河・阿弥陀け峯・紫野辺に集て、勢ぞろへをする事度々に及ぶ。是を聞て将軍方の人は、「あはや高倉殿より寄らるゝは。」とて肝を冷し、高倉殿方の人は、「いかさま将軍より討手を向らるゝは。」とて用心を致す。禍利欲より起て、息ことを得ざれば、終に己が分国へ下て、本意を達せんとや思けん、仁木左京大夫頼章は病と称して有馬の湯へ下る。舎弟の右馬権助義長は伊勢へ下る。細川刑部大輔頼春は讃岐へ下る。佐々木佐渡判官入道々誉は近江へ下る。赤松筑前守貞範・甥の弥次郎師範・舎弟信濃五郎範直は、播磨へ逃下る。土岐刑部少輔頼康は、憚る気色もなく白書に都を立て、三百余騎混ら合戦用意して、美濃国へぞ下りける。赤松律師則祐は、初より上洛せで赤松に居たりけるが、吉野殿より、故兵部卿親王の若宮を大将に申下し進せて、西国の成敗を司て、近国の勢を集て、吉野・戸津河・和田・楠と牒し合せ、已に都へ攻上ばやなんど聞へければ、又天下三に分れて、合戦息時非じと、世の人安き心も無りけり。


253 高倉殿京都退去事付殷紂王事

同七月晦日、石塔入道・桃井右馬権頭直常二人、高倉殿へ参て申けるは、「仁木・細河・土岐・佐々木、皆己が国々へ逃下て、謀叛を起し候なる。是も何様将軍の御意を請候歟、宰相中将殿の御教書を以て、勢を催すかにてぞ候らん。又赤松律師が大塔若宮を申下て、宮方を仕ると聞へ候も、実は寄事於宮方に、勢を催して後、宰相中将殿へ参らんとぞ存候らん。勢も少く御用心も無沙汰にて都に御坐候はん事如何とこそ存候へ。只今夜々紛れに、篠峯越に北国の方へ御下候て、木目・荒血の中山を差塞がれ候はゞ、越前に修理大夫高経、加賀に富樫介、能登に吉見、信濃に諏方下宮祝部、皆無弐の御方にて候へば、此国々へは何なる敵か足をも蹈入候べき。甲斐国と越中とは我等が已に分国として、相交る敵候はねば、旁以安かるべきにて候。先北国へ御下候て、東国・西国へ御教書を成下され候はんに、誰か応じ申さぬ者候べき。」と、又予儀もなく申ければ、禅門少しの思安もなく、「さらば軈て下るべし。」とて、取物も不取敢、御前に有逢たる人々許を召具して、七月晦日の夜半許に、篠の峯越に落給。騒がしかりし有様也。是を聞て、御内の者は不及申、外様の大名、国々の守護、四十八箇所の篝三百余人、在京人、畿内・近国・四国・九州より、此間上り集りたる軍勢共、我も我もと跡を追て落行ける程に、今は公家被官の者より外、京中に人あり共更に不見けり。夜明ければ、宰相中将殿将軍の御屋形へ被参て、「今夜京中のひしめき、非直事覚て候。落行ける兵共大勢にて候なれば、若立帰て寄る事もや候はんずらん。」と申されければ、将軍些も不騒給、「運は天にあり、何の用心かすべき。」とて、褒貶の探冊取出し、心閑に詠吟、打嘯てぞ坐ける。高倉殿已に越前の敦賀津に坐して、著到を著られけるに、初は一万三千余騎有けるが、勢日々に加て六万余騎と注せり。此時若此大勢を率して京都へ寄たらましかば、将軍も宰相中将殿も、戦ふまでも御坐まさじを、そゞろなる長僉議、道も立ぬなま才学に時移て、数日を徒に過にけり。抑是は誰が依意見、高倉殿は加様に兄弟叔父甥の間、合戦をしながらさすが無道を誅して、世を鎮めんとする所を計ひ給ふと尋れば、禅律の奉行にて被召仕ける南家の儒者、藤原少納言有範が、より/\申ける儀を用ひ給ひける故とぞ承る。「さる程に昔殷の帝武乙と申しゝ王の位に即て、悪を好む事頻也。我天子として一天四海を掌に握るといへ共、猶日月の明暗を心に不任、雨風の暴く劇しき事を止得ぬこそ安からねとて、何にもして天を亡さばやとぞ被巧ける。先木を以て人を作て、是を天神と名けて帝自是と博奕をなす。神真の神ならず、人代はて賽を打ち石を仕ふ博奕なれば、帝などか勝給はざらん。勝給へば、天負たりとて、木にて作れる神の形を手足を切り頭を刎ね、打擲蹂躪して獄門に是を曝しけり。又革を以人を作て血を入て、是を高き木の梢に懸け、天を射ると号して射るに、血出て地に洒く事をびたゝし。加様の悪行身に余りければ、帝武乙河渭に猟せし時、俄に雷落懸りて御身を分々に引裂てぞ捨たりける。其後御孫の小子帝位に即給ふ。是を殷の紂王とぞ申ける。紂王長り給て後、智は諌を拒、是非の端を餝るに足れり。勇は人に過て、手づから猛獣を挌に難しとせず。人臣に矜るに能を以てし、天下にたかぶるに声を以てせしかば、人皆己が下より出たりとて、諌諍の臣をも不被置、先王の法にも不順。妲己と云美人を愛して、万事只是が申侭に付給ひしかば、罪無して死を賜ふ者多く只積悪のみあり。鉅鹿と云郷に、まはり三十里の倉を作りて、米穀を積余し、朝歌と云所に高さ二十丈の台を立て、銭貨を積満り。又沙丘に廻一千里の苑台を造て、酒を湛へ池とし、肉を懸て林とす。其中に若く清らかなる男三百人、みめ貌勝れたる女三百人を裸になして、相逐て婚姻をなさしむ。酒の池には、竜頭鷁首の舟を浮て長時に酔をなし、肉の林には、北里の舞、新婬の楽を奏して不退の楽を尽す。天上の婬楽快楽も、是には及ばじとぞ見へたりける。或時后妲己、南庭の花の夕ばえを詠て寂寞として立給ふ。紂王見に不耐して、「何事か御意に叶ぬ事の侍る。」と問給へば、妲己、「哀炮格の法とやらんを見ばやと思ふを、心に叶はぬ事にし侍る。」と宣ければ、紂王、「安き程の事也。」とて、軈て南庭に炮格を建て、后の見物にぞ成れける。夫炮格の法と申は、五丈の銅の柱を二本東西に立て、上に鉄の縄を張て、下炭火ををき、鉄湯炉壇の如くにをこして、罪人の背に石を負せ、官人戈を取て罪人を柱の上に責上せ、鉄の縄を渡る時、罪人気力に疲て炉壇の中に落入、灰燼と成て焦れ死ぬ。焼熱大焼熱の苦患を移せる形なれば炮格の法とは名けたり。后是を見給て、無類事に興じ給ひければ、野人村老日毎に子を被殺親を失て、泣悲む声無休時。此時周の文王未西伯にて坐けるが、密に是を見て人の悲み世の謗、天下の乱と成ぬと歎給ひけるを、崇侯虎と云ける者聞て殷紂王にぞ告たりける。紂王大に忿て、則西伯を囚へて■里の獄舎に押篭奉る。西伯が臣に■夭と云ける人、沙金三千両・大宛馬百疋・嬋妍幽艶なる女百人を汰へて、紂王に奉て、西伯の囚を乞受ければ、元来色に婬し宝を好む事、後の禍をも不顧、此一を以ても西伯を免すに足ぬべし、況哉其多をやと、心飽まで悦て、則西伯をぞ免しける。西伯故郷に帰て、我命の活たる事をばさしも不悦給、只炮格の罪に逢て、無咎人民共が、毎日毎夜に十人二十人被焼殺事を、我身に当れる苦の如哀に悲く覚しければ、洛西の地三百里を、紂王の后に献じて、炮格の刑を被止事をぞ被請ける。后も同く欲に染む心深くをはしければ、則洛西の地に替て、炮格の刑を止らる。剰感悦猶是には不足けるにや、西伯に弓矢斧鉞を賜て、天下の権を執武を収ける官を授給ひければ、只龍の水を得て雲上に挙るに不異。其後西伯渭浜の陽に田せんとし給ひけるに、史編と云ける人占て申けるは、「今日の獲物は非熊非羆、天君に師を可与ふ。」とぞ占ける。西伯大に悦て潔斉し給ふ事七日、渭水の陽に出て見給ふに、太公望が半簔の烟雨水冷して、釣を垂るゝ事人に替れるあり。是則史編が占ふ所也とて、車の右に乗せて帰給ふ。則武成王と仰て、文王是を師とし仕ふる事不疎、逐に太公望が謀に依て西伯徳を行ひしかば、其子武王の世に当て、天下の人皆殷を背て周に帰せしかば、武王逐に天下を執て永く八百余年を保ちき。古への事を引て今の世を見候に、只羽林相公の淫乱、頗る殷紂王の無道に相似たり、君仁を行はせ給ひて、是を亡されんに何の子細か候べき。」と、禅門をば文王の徳に比し、我身をば太公望に准て、時節に付て申けるを、信ぜられけるこそ愚かなれ。さればとて禅門の行迹、泰伯が有徳の甥、文王に譲し仁にも非ず。又周公の無道の兄、管叔を討せし義にも非ず。権道覇業、両ながら欠たる人とぞ見へたりける。


254 直義追罰宣旨御使事付鴨社鳴動事

同八月十八日、征夷将軍源二位大納言尊氏卿、高倉入道左兵衛督追討の宣旨を給て、近江国に下著して鏡宿に陣を取る。都を被立時までは其勢纔に三百騎にも不足けるが、佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱は、当国勢三千余騎を卒して馳参る。仁木右馬権頭義長は伊賀・伊勢の兵四千余騎を率して馳参る。土岐刑部少輔頼康は、美濃国の勢二千余騎を率して馳参りける間、其勢無程一万余騎に及ぶ。今は何なる大敵に戦ふ共、勢の不足とは不見けり。去程に高倉入道左兵衛督、石塔・畠山・桃井三人を大将として、各二万余騎の勢を差副、同九月七日近江国へ打出、八相山に陣を取る。両陣堅く守て其戦を不決。其日の未の剋に、都には鴨の糾の神殿鳴動する事良久して、流鏑矢二筋天を鳴響し、艮の方を差て去ぬとぞ奏聞しける。是は何様将軍兄弟の合戦に、吉凶を被示怪異にてぞあるらんと、諸人推量しけるが、果して翌日の午剋に、佐々木佐渡判官入道が手の者共に、多賀将監と秋山新蔵人と、楚忽の合戦し出して、秋山討れにければ、桃井大に忿て、重て可戦由を申けれ共、自余の大将に異儀有て、結句越前国へ引返す。其後畠山阿波将監国清、頻に、「御兄弟只御中なをり候て、天下の政務を宰相殿に持せ進せられ候へかし。」と申けるを、禅門許容し不給ければ、国清大に忿て、己が勢七百余騎を引分て、将軍へぞ参ける。此外縁を尋て降下になり、五騎十騎打連々々、将軍方へと参ける間、角ては越前に御坐候はん事は叶はじと、桃井頻に勧申されければ、十月八日高倉禅門又越前を立て、北陸道を打通り、鎌倉へぞ下り給ひける。


255 薩多山合戦事

将軍は八相山の合戦に打勝て、軈上洛し給ひけるを、十月十三日、又直義入道可誅罰之由、重被成宣旨ければ、翌日軈都を立て鎌倉へ下給ふ。混に洛中に勢を残さゞらんも、南方の敵に隙を窺はれつべしとて、宰相中将義詮朝臣をば、都の守護にぞ被留ける。将軍已に駿河国に著給ひけれ共、遠江より東し、東国・北国の勢共、早悉高倉殿へ馳属てければ、将軍へはゝか/゛\しき勢も不参。角て無左右鎌倉へ寄ん事難叶。先且く要害に陣を取てこそ勢をも催めとて、十一月晦日駿河薩■山に打上り、東北に陣を張給ふ。相順ふ兵には、仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・畠山阿波守国清兄弟四人・今河五郎入道心省・子息伊予守・武田陸奥守・千葉介・長井兄弟・二階堂信濃入道・同山城判官、其勢僅に三千余騎には不過けり。去程に将軍已薩■山に陣を取て、宇都宮が馳参るを待給ふ由聞へければ、高倉殿先宇都宮へ討手を下さでは難義なるべしとて、桃井播磨守直常に、長尾左衛門尉、並に北陸道七箇国の勢を付て、一万余騎上野国へ被差向。高倉禅門も同日に鎌倉を立て、薩■山へ向ひ給ふ。一方には上杉民部大輔憲顕を大手の大将として、二十万余騎由井・蒲原へ被向。一方には石堂入道・子息右馬頭頼房を搦手大将として、十万余騎宇都部佐へ廻て押寄する。高倉禅門は寄手の惣大将なれば、宗との勢十万余騎を順へて、未伊豆府にぞ控られける。彼薩■山と申は、三方は嶮岨にて谷深く切れ、一方は海にて岸高く峙り。敵縦ひ何万騎あり共、難近付とは見へながら、取巻く寄手は五十万騎、防ぐ兵三千余騎、而も馬疲れ粮乏しければ、何までか其山に怺へ給ふべきと、哀なる様に覚て、掌に入れたる心地しければ、強急に攻落さんともせず、只千重万重に取巻たる許にて、未矢軍をだにもせざりけり。宇都宮は、薬師寺次郎左衛門入道元可が勧に依て、兼てより将軍に志を存ければ、武蔵守師直が一族に、三戸七郎と云者、其辺に忍て居たりけるを大将に取立て、薩■山の後攻をせんと企ける処に、上野国住人、大胡・山上の一族共、人に先をせられじとや思けん。新田の大島を大将に取立て五百余騎薩■山の後攻の為とて、笠懸の原へ打出たり。長尾孫六・同平三・三百余騎にて騎上野国警固の為に、兼てより世良田に居たりけるが、是を聞と均く笠懸の原へ打寄、敵に一矢をも射させず、抜連て懸立ける程に、大島が五百余騎十方に被懸散、行方も不知成にけり。宇都宮是を聞て、「此人々憖なる事為出して敵に気を著つる事よ。」と興醒て思けれ共、「其に不可依。」と機を取直して、十二月十五日宇都宮を立て薩■山へぞ急ける。相伴ふ勢には、氏家大宰小弐周綱・同下総守・同三河守・同備中守・同遠江守・芳賀伊賀守貞経・同肥後守・紀党増子出雲守・薬師寺次郎左衛門入道元可・舎弟修理進義夏・同勘解由左衛門義春・同掃部助助義・武蔵国住人猪俣兵庫入道・安保信濃守・岡部新左衛門入道・子息出羽守、都合其勢千五百騎、十六日午剋に、下野国天命宿に打出たり。此日佐野・佐貫の一族等五百余騎にて馳加ける間、兵皆勇進で、夜明れば桃井が勢には目も不懸、打連て薩■山へ懸らんと評定しける処に、大将に取立たる三戸七郎、俄に狂気に成て自害をして死にけり。是を見て門出悪しとや思けん、道にて馳著つる勢共一騎も不残落失て、始宇都宮にて一味同心せし勢許に成ければ、僅に七百騎にも不足けり。角ては如何が有んと諸人色を失ひけるを、薬師寺入道暫思案して、「吉凶は如糾索いへり。是は何様宇都宮の大明神、大将を氏子に授給はん為に、斯る事は出来る也。暫も御逗留不可有。」と申ければ、諸人げにもと気を直して路に少しの滞もなく、引懸々々打程に、同十九日の午剋に、戸禰河を打渡て、那和庄に著にけり。此にて跡に立たる馬煙を、馳著く御方歟と見ればさにあらで、桃井播磨守・長尾左衛門、一万余騎にて迹に著て押寄たり。宇都宮、「さらば陣を張て戦へ。」とて、小溝の流れたるを前にあて、平々としたる野中に、紀清両党七百余騎は大手に向て北の端に控たり。氏家太宰小弐は、二百余騎中の手に引へ、薬師寺入道元可兄弟が勢五百余騎は、搦手に対して南の端に控、両陣互に相待て、半時計時を移す処に、桃井が勢七千余騎、時の声を揚て、宇都宮に打て懸る。長尾左衛門が勢三千余騎、魚鱗に連て、薬師寺に打て係る。長尾孫六・同平三、二人が勢五百余騎は皆馬より飛下り、徒立に成て射向の袖を差簪し、太刀長刀の鋒をそろへて、閑々と小跳して、氏家が陣へ打て係る。飽まで広き平野の、馬の足に懸る草木の一本もなき所にて、敵御方一万二千余騎、東に開け西に靡けて、追つ返つ半時計戦たるに、長尾孫六が下立たる一揆の勢五百余人、縦横に懸悩まされて、一人も不残被打ければ、桃井も長尾左衛門も、叶はじとや思ひけん、十方に分れて落行けり。軍畢て四五箇月の後までも、戦場二三里が間は草腥して血原野に淋き、地嵬くして尸路径に横れり。是のみならず、吉江中務が武蔵国の守護代にて勢を集て居たりけるも、那和の合戦と同日に、津山弾正左衛門並野与の一党に被寄、忽に討れければ、今は武蔵・上野両国の間に敵と云者一人もなく成て、宇都宮に付勢三万余騎に成にけり。宇都宮已に所々の合戦に打勝て、後攻に廻る由、薩■山の寄手の方へ聞へければ、諸軍勢皆一同に、「あはれ後攻の近付ぬ前に薩■山を被責落候べし。」と云けれ共、傾く運にや引れけん、石堂・上杉、曾不許容ければ、余りに身を揉で、児玉党三千余騎、極めて嶮しき桜野より、薩■山へぞ寄たりける。此坂をば今河上総守・南部一族・羽切遠江守、三百余騎にて堅めたりけるが、坂中に一段高き所の有けるを切払て、石弓を多く張たりける間、一度にばつと切て落す。大石共に先陣の寄手数百人、楯の板ながら打摯がれて、矢庭に死する者数を不知、後陣の兵是に色めいて、少し引色に見へける処へ、南部・羽切抜連て係りける間、大類弾正・富田以下を宗として、児玉党十七人一所にして被討けり。「此陣の合戦は加様也とも、五十万騎に余りたる陣々の寄手共、同時に皆責上らば、薩■山をば一時に責落すべかりしを、何となく共今に可落城を、高名顔に合戦して討れたるはかなさよ。」と、面々に笑嘲ける心の程こそ浅猿けれ。去程に同二十七日、後攻の勢三万余騎、足柄山の敵を追散して、竹下に陣を取る。小山判官も宇都宮に力を合て、七百余騎同日に古宇津に著ければ、焼続けたる篝火の数、震く見へける間、大手搦手五十万騎の寄手共、暫も不忍十方へ落て行。仁木越後守義長勝に乗て、三百余騎にて逃る勢を追立て、伊豆府へ押寄ける間、高倉禅門一支も不支して、北条へぞ落行給ひける。上杉民部太輔・長尾左衛門が勢二万余騎は、信濃を志て落けるを、千葉介が一族共五百騎許にて追蒐、早河尻にて打留めんとしけるが、落行大勢に被取篭、一人も不残被討けり。さてこそ其道開けて、心安く上杉・長尾左衛門は、無為に信濃の国へは落たりけれ。高倉禅門は余に気を失て、北条にも猶たまり不得、伊豆の御山へ引て、大息ついて坐しけるが、忍て何地へも一まど落てや見る、自害をやすると案じ煩給ひける処に、又和睦の儀有て、将軍より様々に御文を被遣、畠山阿波守国清・仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長を御迎に被進たりければ、今の命の捨難さに、後の恥をや忘れ給ひけん、禅門降人に成て、将軍に打連奉て、正月六日の夜に入て、鎌倉へぞ帰給ひける。


256 慧源禅門逝去事

斯し後は、高倉殿に付順ひ奉る侍の一人もなし。篭の如くなる屋形の荒て久きに、警固の武士を被居、事に触たる悲み耳に満て心を傷しめければ、今は憂世の中にながらへても、よしや命も何かはせんと思ふべき、我身さへ無用物に歎給ひけるが、無幾程其年の観応三年壬辰二月二十六日に、忽に死去し給ひけり。俄に黄疽と云病に被犯、無墓成せ給けりと、外には披露ありけれ共、実には鴆毒の故に、逝去し給けるとぞさゝやきける。去々年の秋は師直、上杉を亡し、去年の春は禅門、師直を被誅、今年の春は禅門又怨敵の為に毒を呑て、失給けるこそ哀なれ。三過門間老病死、一弾指頃去来今とも、加様の事をや申べき。因果歴然の理は、今に不始事なれども、三年の中に日を不替、酬ひけるこそ不思議なれ。さても此禅門は、随分政道をも心にかけ、仁義をも存給しが、加様に自滅し給ふ事、何なる罪の報ぞと案ずれば、此禅門依被申、将軍鎌倉にて偽て一紙の告文を残されし故に其御罰にて、御兄弟の中も悪く成給て、終に失給歟。又大塔宮を奉殺、将軍宮を毒害し給事、此人の御態なれば、其御憤深して、如此亡給ふ歟。災患本無種、悪事を以て種とすといへり。実なる哉、武勇の家に生れ弓箭を専にすとも、慈悲を先とし業報を可恐。我が威勢のある時は、冥の昭覧をも不憚、人の辛苦をも不痛、思様に振舞ぬれば、楽尽て悲来り、我と身を責る事、哀に愚かなる事共也。


257 吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事

足利宰相中将義詮朝臣は、将軍鎌倉へ下り給し時京都守護の為に被残坐しけるが、関東の合戦の左右は未聞へず、京都は以外に無勢也。角ては如何様、和田・楠に被寄て、無云甲斐京を被落ぬとをぼしければ、一旦事を謀て、暫洛中を無為ならしめん為に、吉野殿へ使者を立て、「自今以後は、御治世の御事と、国衙の郷保、並に本家領家、年来進止の地に於ては、武家一向其綺を可止にて候。只承久以後新補の率法並国々の守護職、地頭御家人所帯を武家の成敗に被許て、君臣和睦の恩慧を被施候は、武臣七徳の干戈を収て、聖主万歳の宝祚を可奉仰。」頻に奏聞をぞ被経ける。依之諸卿僉議有て、先に直義入道和睦の由を申て、言下に変じぬ。是も亦偽て申条無子細覚れ共、謀の一途たれば、先義詮が被任申旨、帝都還幸の儀を催し、而後に、義詮をば畿内・近国の勢を以て退治し、尊氏をば義貞が子共に仰付て、則被御追罰何の子細か可有とて、御問答再往にも不及、御合体の事子細非じとぞ被仰出ける。両方互に偽給へる趣、誰かは可知なれば、此間持明院殿方に被拝趨ける諸卿、皆賀名生殿へ被参。先当職の公卿には二条関白太政大臣良基公・近衛右大臣道嗣公・久我内大臣右大将通相公・葉室大納言長光・鷹司大納言左大将冬通・洞院大納言実夏・三条大納言公忠・三条大納言実継・松殿大納言忠嗣・今小路大納言良冬・西園寺大納言実俊・裏築地大納言忠季・大炊御門中納言家信・四条中納言隆持・菊亭中納言公直・二条中納言師良・華山院中納言兼定・葉室中納言長顕・万里小路中納言仲房・徳大寺中納言実時・二条宰相為明・勘解由小路左大弁宰相兼綱・堀河宰相中将家賢・三条宰相公豊・坊城右大弁宰相経方・日野宰相教光・中御門宰相宣明、殿上人には日野左中弁時光・四条左中将隆家・日野右中弁保光・権右中弁親顕・日野左少弁忠光・右少弁平信兼・勘解由次官行知・右兵衛佐嗣房等也。此外先官の公卿、非参議、七弁八座、五位六位、乃至山門園城の僧綱、三門跡の貫首、諸院家の僧綱、並に禅律の長老、寺社の別当神主に至まで我先にと馳参りける間、さしも浅猿く賎しげなりし賀名生の山中、如花隠映して、如何なる辻堂、温室、風呂までも、幔幕引かぬ所も無りけり。今参候する所の諸卿の叙位転任は、悉持明院殿より被成たる官途なればとて各一汲一階を被貶けるに、三条坊門大納言通冬卿と、御子左大納言為定卿と許は、本の官位に被復せけり。是は内々吉野殿へ被申通ける故。京都より被参仕たる月卿雲客をば、降参人とて官職を被貶、山中伺候の公卿殿上人をば、多年の労功ありとて、超涯不次の賞を被行ける間、窮達忽に地を易たり。故三位殿御局と申しは、今天子の母后にて御坐せば、院号蒙せ給て、新待賢門院とぞ申ける。北畠入道源大納言は、准后の宣旨を蒙て華著たる大童子を召具し、輦に駕して宮中を出入すべき粧、天下耳目を驚かせり。此人は故奥州の国司顕家卿の父、今皇后厳君にてをはすれば、武功と云華族と云、申に及ぬ所なれ共、竹園摂家の外に未准后の宣旨を被下たる例なし。平相国清盛入道出家の後、准后の宣旨を蒙りたりしは、皇后の父たるのみに非ず、安徳天皇の外祖たり。又忠盛が子とは名付ながら、正く白河院の御子なりしかば、華族も栄達も今の例には引がたし。日野護持院僧正頼意は、東寺の長者醍醐の座主に被補て、仁和寺諸院家を兼たり。大塔僧正忠雲は、梨本大塔の両門跡を兼て、鎌倉の大御堂、天王寺の別当職に被補。此外山中伺候の人々、名家は清華を超、庶子は嫡家を越て、官職雅意に任たり。若如今にて天下定らば、歎人は多して悦者は可少。元弘一統の政道如此にて乱しを、取て誡とせざりける心の程こそ愚かなれ。憂かりし正平六年の歳晩て、あらたまの春立ぬれども、皇居は猶も山中なれば、白馬蹈歌の節会なんどは不被行。寅の時の四方拝、三日の月奏許有て、後七日御修法は文観僧正承て、帝都の真言院にて被行。十五日過ければ、武家より貢馬十疋・沙金三千両奏進之。其外別進貢馬三十疋・巻絹三百疋・沙金五百両、女院皇后三公九卿、無漏方引進。二月二十六日、主上已に山中を御出有て、腰輿を先東条へ被促。剣璽の役人計衣冠正くして被供奉。其外の月卿・雲客・衛府・諸司の尉は皆甲冑を帯して、前騎後乗に相順ふ。東条に一夜御逗留有て、翌日頓て住吉へ行幸なれば、和田・楠以下、真木野・三輪・湯浅入道・山本判官・熊野の八庄司吉野十八郷の兵、七千余騎、路次を警固仕る。皇居は当社の神主津守国夏が宿所を俄に造替て臨幸なし奉りけり。国夏則上階して従三位に被成。先例未なき殿上の交り、時に取ての面目なり。住吉に臨幸成て三日に当りける日、社頭に一の不思議あり。勅使神馬を献て奉幣を捧げたりける時、風も不吹に、瑞籬の前なる大松一本中より折て、南に向て倒れにけり。勅使驚て子細を奏聞しければ、伝奏吉田中納言宗房卿、「妖は不勝徳。」と宣てさまでも驚給はず。伊達三位有雅が武者所に在けるが、此事を聞て、「穴浅猿や、此度の臨幸成せ給はん事は難有。其故は昔殷帝大戊の時、世の傾んずる兆を呈して、庭に桑穀の木一夜に生て二十余丈に迸れり。帝大戊懼て伊陟に問給ふ。伊陟が申く、「臣聞妖は不勝徳に、君の政の闕る事あるに依て、天此兆を降す者也。君早徳を脩め給へ。」と申ければ、帝則諌に順て正政撫民、招賢退佞給しかば、此桑穀の木又一夜の中に枯て、霜露の如くに消失たりき。加様の聖徳を被行こそ、妖をば除く事なるに、今の御政道に於て其徳何事なれば、妖不勝徳とは、伝奏の被申やらん。返々も難心得才学哉。」と、眉を顰てぞ申ける。其夜何なる嗚呼の者かしたりけん。此松を押削て一首の古歌を翻案してぞ書たりける。君が代の短かるべきためしには兼てぞ折し住吉の松と落書にぞしたりける。住吉に十八日御逗留有て、潤二月十五日天王寺へ行幸なる。此時伊勢の国司中院衛門督顕能、伊賀・伊勢の勢三千余騎を率して被馳参けり。同十九日八幡へ行幸成て、田中法印が坊を皇居に被成、赤井・大渡に関を居へて、兵山上山下に充満たるは、混ら合戦の御用意也と、洛中の聞へ不穏。依之義詮朝臣、法勝寺の慧鎮上人を使にて、「臣不臣の罪を謝して、勅免を可蒙由申入るゝ処に、照臨已に下情を被恤、上下和睦の義、事定り候ぬる上は、何事の用心か候べきに、和田・楠以下の官軍等、混合戦の企ある由承及候。如何様の子細にて候やらん。」と被申たり。主上直に上人に御対面有て、「天下未恐懼を懐く間、只非常を誡めん為に、官軍を被召具いへ共、君臣已に和睦の上は更に異変の義不可有。縦讒者の説あり共、胡越の心を不存ば太平の基たるべし。」と、勅答有てぞ被返ける。綸言已に如此。士女の説何ぞ用る処ならんとて、義詮朝臣を始として、京都の軍勢、曾て今被出抜とは夢にも不知、由断して居たる処に、同二十七日の辰刻に、中院右衛門督顕能、三千余騎にて鳥羽より推寄て、東寺の南、羅城門の東西にして、旗の手を解、千種少将顕経五百余騎にて、丹波路唐櫃越より押寄て、西の七条に火を上る。和田・楠・三輪・越知・真木・神宮寺、其勢都合五千余騎、宵より桂川を打渡て、まだ篠目の明ぬ間に、七条大宮の南北七八町に村立て、時の声をぞ揚たりける。東寺・大宮の時声、七条口の烟を見て、「すはや楠寄たり。」と、京中の貴賎上下遽騒事不斜。細川陸奥守顕氏は、千本に宿して居たりけるが、遥に西七条の烟を見て、先東寺へ馳寄らんと、僅に百四五十騎にて、西の朱雀を下りに打けるが、七条大宮に控たる楠が勢に被取篭、陸奥守の甥、細河八郎矢庭に被討ければ、顕氏主従八騎に成て、若狭を指てぞ落ける。細河讃岐守頼春は、時の侍所也ければ、東寺辺へ打出て勢を集んとて、手勢三百騎許にて、是も大宮を下りに打けるが、六条辺にて敵の旗を見て、「著到も勢汰も今はいらぬ所也。何様まづ此なる敵を一散し々さでは、何くへか可行。」とて、三千余騎控たる和田・楠が勢に相向ふ。楠が兵兼ての巧有て、一枚楯の裏の算を繁く打て、如階認らへたりければ、在家の垣に打懸々々て、究竟の射手三百余人、家の上に登て目の下なる敵を直下して射ける間、面を向べき様も無て進兼たる処を見て、和田・楠五百余騎轡を双てぞ懸たりける。讃岐守が五百余騎、左右へ颯と被懸阻又取て返さんとする処に、讃岐守が乗たる馬、敵の打太刀に驚て、弓杖三杖計ぞ飛たりける。飛時鞍に被余真倒にどうど落つ。落ると均く敵三騎落合て、起しも不立切けるを、讃岐守乍寐二人の敵の諸膝薙で切居へ、起揚らんとする処を、和田が中間走懸て、鑓の柄を取延て、喉吭を突て突倒す。倒るゝ処に落合て頚をば和田に被取にけり。


258 相公江州落事

細河讃岐守は被討ぬ。陸奥守は何地共不知落行ぬ。今は重て可戦兵無りければ、宰相中将義詮朝臣、僅に百四五十騎にて、近江を差て落給。下賀・高山の源氏共、兼て相図を定めて、勢多の橋をば焼落しぬ。舟はこなたに一艘もなし。山門へも、大慈院法印を天王寺より被遣て、山徒皆君の御方に成ぬと聞へつれば、落行処を幸いと、勢多へも定て懸るらん。只都にて討死すべかりつる者を、蓬なく是まで落て、尸を湖水の底に沈め、名を外都の土に埋まん事、心憂かるべき恥辱哉と後悔せぬ人も無りけり。敵の旗の見へば腹を切んとて、義詮朝臣を始として、鎧をば皆脱置て、腰刀許にて、白沙の上に並居給ふ。爰に相模国住人に曾我左衛門と云ける者、水練の達者也ければ、向の岸に游ぎ著て、子舟の有けるを一艘領して、自櫓を推して漕寄する。則大将を始として、宗との人々二十余人一艘に込乗て、先向の岸に著給ふ。其後又小舟三艘求出して、百五十騎の兵共皆渡してけり。是までも猶敵の追て懸る事無ければ、棄たる馬も物具も次第/\に渡し終て、舟蹈返し突流して、「今こそ活たる命なれ。」と、手を拍て咄とぞ被笑ける。大将軍無事故、近江の四十九院に坐する由聞へければ、土岐・大高伊予守、東坂本へ落たりけるが、舟に乗て馳参る。佐々木の一党は不及申、美濃・尾張・伊勢・遠江の勢共、我も我もと馳参る程に、宰相中将又大勢を著て、山陽・山陰に牒し合せ、都を攻んと議し給ふ。


259 持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事

去程に敵は都を落たれ共、吉野の帝は洛中へ臨幸も不成、只北畠入道准后・顕能卿父子計京都に坐して、諸事の成敗を司り給て、其外の月卿雲客は、皆主上の御坐に付て、八幡にぞ祠候し給ける。同二十三日、中院中将具忠を勅使にて、都の内裡に御坐す三種の神器を吉野の主上へ渡し奉る。是は先帝山門より武家へ御出し有し時、ありもあらぬ物を取替て、持明院殿へ被渡たりし物なればとて、璽の御箱をば被棄、宝剣と内侍所とをば、近習の雲客に被下て、衛府の太刀・装束の鏡にぞ被成ける。げにも誠の三種神器にてはなけれ共、已に三度大嘗会に逢て、毎日の御神拝・清署堂の御神楽、二十余年に成ぬれば、神霊もなどか無かるべきに、余に無恐凡俗の器物に被成ぬる事、如何あるべからんと、申す族も多かりけり。同二十七日北畠右衛門督顕能、兵五百余騎を率して持明院殿へ参り、先其辺の辻々門々を堅めさせければ、「すはや武士共が参りて、院・内を失ひ進らせんとするは。」とて女院・皇后御心を迷はして臥沈ませ給ひ、内侍・上童・上臈・女房などは、向後も不知逃ふためいて此彼に立吟ふ。され共顕能卿、穏に西の小門より参て、四条大納言隆蔭卿を以て、「世の静り候はん程は、皇居を南山に移し進らすべしとの勅定にて候。」と被奏ければ、両院・主上・東宮あきれさせ給へる許にて、兔角の御言にも不及、只御泪にのみほれさせ給て、羅穀の御袂絞る計に成にけり。良暫有て、新院泪を抑て被仰けるは、「天下乱に向ふ後、僅に帝位を雖践、叡慮より起りたる事に非れば一事も世の政を御心に不任。北辰光消て、中夏道闇時なれば、共に椿嶺の陰にも寄り、遠く花山の跡をも追ばやとこそ思召つれ共、其も叶はぬ折節の憂さ豈叡察なからんや。今天運膺図に万人望を達する時至れり。乾臨曲て恩免を蒙らば、速に釈門の徒と成て、辺鄙に幽居を占んと思ふ。此一事具に可有奏達。」と被仰出けれ共、顕能再往の勅答に不及、「已に綸命を蒙る上は、押へては如何が奏聞を経候べき。」とて、御車を二両差寄せ、「余りに時刻移候。」と急げば、本院・新院・主上・東宮、御同車有て、南の門より出御なる。さらでだに霞める花の木の間の月、是や限の御泪に、常よりも尚朧也。女院・皇后は、御簾の内、几帳の陰に臥沈ませ給へば、此の馬道、彼この局には、声もつゝまず泣悲む。御車を暁の月に輾て、東洞院を下りに過ければ、故卿の梢漸幽にして、東嶺に響く鐘の声、明行雲に横はる。東寺までは、月卿雲客数た被供奉たりけれ共、叶ふまじき由を顕能被申ければ、三条中将実音・典薬頭篤直計を召具せられて、見馴ぬ兵に被打囲、鳥羽まで御幸成たれば、夜は早若々と明はてぬ。此に御車を駐て、怪しげなる網代輿に召替させ進らせ、日を経て吉野の奥賀名生と云所へ御幸成し奉る。此辺の民共が吾君とて仰奉る吉野の帝の皇居だにも、黒木の柱、竹椽、囲ふ垣ほのしばしだにも栖れぬべくもなき宿り也。況敵の為に被囚、配所の如くなる御栖居なれば、年経て頽ける庵室の、軒を受たる杉の板屋、目もあはぬ夜の寥しさを事問雨の音までも御袖を湿す便りなり。衆籟暁寒して月庭前の松に懸り、群猿暮に叫で風洞庭の雲を送る。外にて聞し住憂さは数にもあらぬ深山哉と、主上・上皇いつとなく被仰出度び毎に御泪の乾く隙もなし。梶井二品親王は此時天台座主にて坐しけるが、同く被召捕させ給て、金剛山の麓にぞ坐しける。此宮は本院の御弟、慈覚大師の嫡流にて、三度天台座主に成せ給ひしかば、門迹の富貴無双、御門徒の群集如雲。師子・田楽を被召、日夜に舞歌はせ、茶飲み、連歌士を集めて、朝夕遊び興ぜさせ給しかば、世の譏り山門の訟は止時無りしか共、御心の中の楽は類非じと見へたりしに、今引替たる配所の如くなる御棲居、山深く里遠くして鳥の声だにも幽かなるに、御力者一人より外は被召仕人もなし。隙あらはなる柴の庵に袖を片敷苔筵、露は枕に結べども、都に帰る夢はなしと、御心を傷しめ給ふに就けも、仏種は従縁起る事なれば、よしや世中角ても遂にはてなば三千の貫頂の名を捨て混桑門の客と成んと思食けるこそ哀なれ。天下若皇統に定て世も閑ならば、御遁世の御有増も末通りぬべし。若又武家強て南方の官軍打負けば、失ひ奉る事も何様有ぬべしと思召つゞくる時にこそ、さしも浮世を此侭にて、頓てもさらば静まれかしと、還て御祈念も深かりけり。