太平記/巻第七

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巻第七

43 吉野城軍事

元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊、六万余騎の勢にて大塔宮の篭らせ給へる吉野の城へ押寄る。菜摘河の川淀より、城の方を向上たれば、嶺には白旗・赤旗・錦の旗、深山下風に吹なびかされて、雲歟花歟と怪まる。麓には数千の官軍、冑の星を耀かし鎧の袖を連ねて、錦繍をしける地の如し。峯高して道細く、山嶮して苔滑なり。されば幾十万騎の勢にて責る共、輒く落すべしとは見へざりけり。同十八日の卯刻より、両陣互に矢合せして、入替々々責戦。官軍は物馴たる案内者共なれば、斯のつまり彼の難所に走散て、攻合せ開合せ散々に射る。寄手は死生不知の坂東武士なれば、親子打るれ共不顧、主従滅れども不屑、乗越々々責近づく。夜昼七日が間息をも不続相戦に、城中の勢三百余人打れければ、寄手も八百余人打れにけり。況乎矢に当り石に被打、生死の際を不知者は幾千万と云数を不知。血は草芥を染、尸は路径に横はれり。され共城の体少もよわらねば、寄手の兵多くは退屈してぞ見へたりける。爰に此山の案内者とて一方へ被向たりける吉野の執行岩菊丸、己が手の者を呼寄て申けるは、「東条の大将金沢右馬助殿は、既に赤坂の城を責落して金剛山へ被向たりと聞ゆ。当山の事我等案内者たるに依て、一方を承て向ひたる甲斐もなく、責落さで数日を送る事こそ遺恨なれ。倩事の様を按ずるに、此城を大手より責ば、人のみ被打て落す事有難し。推量するに、城の後の山金峯山には峻を憑で、敵さまで勢を置たる事あらじと覚るぞ。物馴たらんずる足軽の兵を百五十人すぐつて歩立になし、夜に紛れて金峯山より忍び入、愛染宝塔の上にて、夜のほの/゛\と明はてん時時の声を揚よ。城の兵鬨音に驚て度を失はん時、大手搦手三方より攻上て城を追落し、宮を生捕奉るべし。」とぞ下知しける。さらばとて、案内知たる兵百五十人をすぐて、其日の暮程より、金峯山へ廻て、岩を伝ひ谷を上るに、案の如く山の嶮きを憑けるにや、唯こゝかしこの梢に旗許を結付置て可防兵一人もなし。百余人の兵共、思の侭に忍入て、木の下岩の陰に、弓箭を臥て、冑を枕にして、夜の明るをぞ待たりける。あい図の比にも成にければ、大手五万余騎、三方より押寄て責上る。吉野の大衆五百余人、責口におり合て防戦ふ。寄手も城の内も、互に命を不惜、追上せ追下し、火を散してぞ戦たる。卦る処に金峯山より廻りたる、搦手の兵百五十人、愛染宝塔よりをり降て、在々所々に火を懸て、時の声をぞ揚たりける。吉野の大衆前後の敵を防ぎ兼て、或は自腹を掻切て、猛火の中へ走入て死るも有、或は向ふ敵に引組で、指ちがへて共に死るもあり。思々に討死をしける程に、大手の堀一重は、死人に埋りて平地になる。去程に、搦手の兵、思も寄ず勝手の明神の前より押寄て、宮の御坐有ける蔵王堂へ打て懸りける間、大塔宮今は遁れぬ処也。と思食切て、赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧のまだ巳の刻なるを、透間もなくめされ、竜頭の冑の緒をしめ、白檀磨の臑当に、三尺五寸の小長刀を脇に挟み、劣らぬ兵二十余人前後左右に立、敵の靉て引へたる中へ走り懸り、東西を掃ひ、南北へ追廻し、黒煙を立て切て廻らせ給ふに、寄手大勢也。と云へ共、纔の小勢に被切立て、木の葉の風に散が如く、四方の谷へ颯とひく。敵引ば、宮蔵王堂の大庭に並居させ給て、大幕打揚て、最後の御酒宴あり。宮の御鎧に立所の矢七筋、御頬さき二の御うで二箇所つかれさせ給て、血の流るゝ事滝の如し。然れ共立たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮の上に立ながら、大盃を三度傾させ給へば、木寺相摸四尺三寸の太刀の鋒に、敵の頚をさし貫て、宮の御前に畏り、「戈■剣戟をふらす事電光の如く也。磐石巌を飛す事春の雨に相同じ。然りとは云へ共、天帝の身には近づかで、修羅かれが為に破らる。」と、はやしを揚て舞たる有様は、漢・楚の鴻門に会せし時、楚の項伯と項荘とが、剣を抜て舞しに、樊■庭に立ながら、帷幕をかゝげて項王を睨し勢も、角やと覚る許也。大手の合戦事急也。と覚て、敵御方の時の声相交りて聞へけるが、げにも其戦に自ら相当る事多かりけりと見へて、村上彦四郎義光鎧に立処の矢十六筋、枯野に残る冬草の、風に臥たる如くに折懸て、宮の御前に参て申けるは、「大手の一の木戸、云甲斐なく責破られつる間、二の木戸に支て数刻相戦ひ候つる処に、御所中の御酒宴の声、冷く聞へ候つるに付て参て候。敵既にかさに取上て、御方気の疲れ候ぬれば、此城にて功を立ん事、今は叶はじと覚へ候。未敵の勢を余所へ回し候はぬ前に、一方より打破て、一歩落て可有御覧と存候。但迹に残り留て戦ふ兵なくば、御所の落させ給ふ者也。と心得て、敵何く迄もつゞきて追懸進せつと覚候へば、恐ある事にて候へ共、めされて候錦の御鎧直垂と、御物具とを下給て、御諱の字を犯して敵を欺き、御命に代り進せ候はん。」と申ければ、宮、「争でかさる事あるべき、死なば一所にてこそ兎も角もならめ。」と仰られけるを、義光言ばを荒らかにして、「かゝる浅猿き御事や候。漢の高祖■陽に囲れし時、紀信高祖の真似をして楚を欺かんと乞しをば、高祖是を許し給ひ候はずや。是程に云甲斐なき御所存にて、天下の大事を思食立ける事こそうたてけれ。はや其御物具を脱せ給ひ候へ。」と申て、御鎧の上帯をとき奉れば、宮げにもとや思食けん、御物の具・鎧直垂まで脱替させ給ひて、「我若生たらば、汝が後生を訪べし。共に敵の手にかゝらば、冥途までも同じ岐に伴ふべし。」と被仰て、御涙を流させ給ひながら、勝手の明神の御前を南へ向て落させ給へば、義光は二の木戸の高櫓に上り、遥に見送り奉て、宮の御後影の幽に隔らせ給ぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓のさまの板を切落して、身をあらはにして、大音声を揚て名乗けるは、「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。」と云侭に、鎧を脱で櫓より下へ投落し、錦の鎧直垂の袴許に、練貫の二小袖を押膚脱で、白く清げなる膚に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切て、腸掴で櫓の板になげつけ、太刀を口にくわへて、うつ伏に成てぞ臥たりける。大手・搦手の寄手是を見て、「すはや大塔宮の御自害あるは。我先に御頚を給らん。」とて、四方の囲を解て一所に集る。其間に宮は差違へて、天の河へぞ落させ給ける。南より廻りける吉野の執行が勢五百余騎、多年の案内者なれば、道を要りかさに廻りて、打留め奉んと取篭る。村上彦四郎義光が子息兵衛蔵人義隆は、父が自害しつる時、共に腹を切んと、二の木戸の櫓の下まで馳来りたりけるを、父大に諌て、「父子の義はさる事なれ共、且く生て宮の御先途を見はて進せよ。」と、庭訓を残しければ、力なく且くの命を延て、宮の御供にぞ候ける。落行道の軍、事既に急にして、打死せずば、宮落得させ給はじと覚ければ、義隆只一人蹈留りて、追てかゝる敵の馬の諸膝薙では切すへ、平頚切ては刎落させ、九折なる細道に、五百余騎の敵を相受て、半時許ぞ支たる。義隆、節、石の如く也。といへ共、其身金鉄ならざれば、敵の取巻て射ける矢に、義隆既に十余箇所の疵を被てけり。死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思けん、小竹の一村有ける中へ走入て、腹掻切て死にけり。村上父子が敵を防ぎ、討死しける其間に、宮は虎口に死を御遁有て、高野山へぞ落させ給ける。出羽入道々蘊は、村上が宮の御学をして、腹を切たりつるを真実と心得て、其頚を取て京都へ上せ、六波羅の実検にさらすに、ありもあらぬ者の頚也。と申ける。獄門にかくるまでもなくて、九原の苔に埋れにけり。道蘊は吉野の城を攻落したるは、専一の忠戦なれ共、大塔宮を打漏し奉りぬれば、猶安からず思て、軈て高野山へ押寄、大塔に陣を取て、宮の御在所を尋求けれ共、一山の衆徒皆心を合て宮を隠し奉りければ、数日の粉骨甲斐もなくて、千剣破の城へぞ向ひける。


44 千剣破城軍事

千剣破城の寄手は、前の勢八十万騎に、又赤坂の勢吉野の勢馳加て、百万騎に余りければ、城の四方二三里が間は、見物相撲の場の如く打囲で、尺寸の地をも余さず充満たり。旌旗の風に翻て靡く気色は、秋の野の尾花が末よりも繁く、剣戟の日に映じて耀ける有様は、暁の霜の枯草に布るが如く也。大軍の近づく処には、山勢是が為に動き、時の声の震ふ中には、坤軸須臾に摧けたり。此勢にも恐ずして、纔に千人に足ぬ小勢にて、誰を憑み何を待共なきに、城中にこらへて防ぎ戦ける楠が心の程こそ不敵なれ。此城東西は谷深く切て人の上るべき様もなし。南北は金剛山につゞきて而も峯絶たり。されども高さ二町許にて、廻り一里に足ぬ小城なれば、何程の事か有べき〔と〕、寄手是を見侮て、初一両日の程は向ひ陣をも取ず、責支度をも用意せず、我先にと城の木戸口の辺までかづきつれてぞ上たりける。城中の者共少しもさはがず、静まり帰て、高櫓の上より大石を投かけ/\、楯の板を微塵に打砕て、漂ふ処を差つめ/\射ける間、四方の坂よりころび落、落重て手を負、死をいたす者、一日が中に五六千人に及べり。長崎四郎左衛門尉、軍奉行にて有ければ、手負死人の実検をしけるに、執筆十二人、夜昼三日が間筆をも置ず注せり。さてこそ、「今より後は、大将の御許なくして、合戦したらんずる輩をば却て罪科に行るべし。」と触られければ、軍勢暫軍を止て、先己が陣々をぞ構へける。爰に赤坂の大将金沢右馬助、大仏奥州に向て宣ひけるは、「前日赤坂を攻落しつる事、全く士卒の高名に非ず。城中の構を推し出して、水を留て候しに依て、敵程なく降参仕候き。是を以て此城を見候に、是程纔なる山の巓に用水有べし共覚候はず。又あげ水なんどをよその山より懸べき便も候はぬに、城中に水卓散に有げに見ゆるは、如何様東の山の麓に流たる渓水を、夜々汲歟と覚て候。あはれ宗徒の人々一両人に仰付られて、此水を汲せぬ様に御計候へかし。」と被申ければ、両大将、「此義可然覚候。」とて、名越越前守を大将として其勢三千余騎を指分て、水の辺に陣を取せ、城より人をり下りぬべき道々に、逆木を引てぞ待懸ける。楠は元来勇気智謀相兼たる者なりければ、此城を拵へける始用水の便をみるに、五所の秘水とて、峯通る山伏の秘して汲水此峯に有て、滴る事一夜に五斛許也。此水いかなる旱にもひる事なければ、如形人の口中を濡さん事相違あるまじけれ共、合戦の最中は或は火矢を消さん為、又喉の乾く事繁ければ、此水許にては不足なるべしとて、大なる木を以て、水舟を二三百打せて、水を湛置たり。又数百箇所作り双べたる役所の軒に継樋を懸て、雨ふれば、霤を少しも余さず、舟にうけ入れ、舟の底に赤土を沈めて、水の性を損ぜぬ様にぞ被拵たりける。此水を以て、縦ひ五六十日雨不降ともこらへつべし。其中に又などかは雨降事無らんと、了簡しける智慮の程こそ浅からね。されば城よりは強に此谷水を汲んともせざりけるを、水ふせぎける兵共、夜毎に機をつめて、今や/\と待懸けるが、始の程こそ有けれ、後には次第々々に心懈り、機緩て、此水をば汲ざりけるぞとて、用心の体少し無沙汰にぞ成にける。楠是を見すまして、究竟の射手をそろへて二三百人夜に紛て城よりをろし、まだ篠目の明けはてぬ霞隠れより押寄せ、水辺に攻て居たる者共、二十余人切伏て、透間もなく切て懸りける間、名越越前守こらへ兼て、本の陣へぞ引れける。寄手数万の軍勢是を見て、渡り合せんとひしめけ共、谷を隔て尾を隔たる道なれば、輒く馳合する兵もなし。兎角しける其間に、捨置たる旗・大幕なんど取持せて、楠が勢、閑に城中へぞ引入ける。其翌日城の大手に三本唐笠の紋書たる旗と、同き文の幕とを引て、「是こそ皆名越殿より給て候つる御旗にて候へ、御文付て候間他人の為には無用に候。御中の人々是へ御入候て、被召候へかし。」と云て、同音にどつと笑ければ、天下の武士共是を見て、「あはれ名越殿の不覚や。」と、口々に云ぬ者こそ無りけれ。名越一家の人々此事を聞て、安からぬ事に被思ければ、「当手の軍勢共一人も不残、城の木戸を枕にして、討死をせよ。」とぞ被下知ける。依之彼手の兵五千余人、思切て討共射共用ず、乗越々々城の逆木一重引破て、切岸の下迄ぞ攻たりける。され共岸高して切立たれば、矢長に思へ共のぼり得ず、唯徒に城を睨、忿を押へて息つぎ居たり。此時城の中より、切岸の上に横へて置たる大木十計切て落し懸たりける間、将碁倒をする如く、寄手四五百人圧に被討て死にけり。是にちがはんとしどろに成て騒ぐ処を、十方の櫓より指落し、思様に射ける間、五千余人の兵共残すくなに討れて、其日の軍は果にけり。誠志の程は猛けれ共、唯し出したる事もなくて、若干討れにければ、「あはれ恥の上の損哉。」と、諸人の口遊は猶不止。尋常ならぬ合戦の体を見て、寄手も侮りにくゝや思けん、今は始の様に、勇進で攻んとする者も無りけり。長崎四郎左衛門尉此有様を見て、「此城を力責にする事は、人の討るゝ計にて、其功成難し。唯取巻て食責にせよ。」と下知して、軍を被止ければ、徒然に皆堪兼て、花の下の連歌し共を呼下し、一万句の連歌をぞ始たりける。其初日の発句をば長崎九郎左衛門師宗、さき懸てかつ色みせよ山桜としたりけるを、脇の句、工藤二郎右衛門尉嵐や花のかたきなるらんとぞ付たりける。誠に両句ともに、詞の縁巧にして句の体は優なれども、御方をば花になし、敵を嵐に喩へければ、禁忌也。ける表事哉と後にぞ思ひ知れける。大将の下知に随て、軍勢皆軍を止ければ、慰む方や無りけん、或は碁・双六を打て日を過し、或は百服茶・褒貶の歌合なんどを翫で夜を明す。是にこそ城中の兵は中々被悩たる心地して、心を遣方も無りける。少し程経て後、正成、「いでさらば、又寄手たばかりて居眠さまさん。」とて、芥を以て人長に人形を二三十作て、甲冑をきせ兵杖を持せて、夜中に城の麓に立置き、前に畳楯をつき双べ、其後ろにすぐりたる兵五百人を交へて、夜のほの/゛\と明ける霞の下より、同時に時をどつと作る。四方の寄手時の声を聞て、「すはや城の中より打出たるは、是こそ敵の運の尽る処の死狂よ。」とて我先にとぞ攻合せける。城の兵兼て巧たる事なれば、矢軍ちとする様にして大勢相近づけて、人形許を木がくれに残し置て、兵は皆次第々々に城の上へ引上る。寄手人形を実の兵ぞと心得て、是を打んと相集る。正成所存の如く敵をたばかり寄せて、大石を四五十、一度にばつと発す。一所に集りたる敵三百余人、矢庭に被討殺、半死半生の者五百余人に及り。軍はてゝ是を見れば、哀大剛の者哉と覚て、一足も引ざりつる兵、皆人にはあらで藁にて作れる人形也。是を討んと相集て、石に打れ矢に当て死せるも高名ならず、又是を危て進得ざりつるも臆病の程顕れて云甲斐なし。唯兎にも角にも万人の物笑ひとぞ成にける。是より後は弥合戦を止ける間、諸国の軍勢唯徒に城を守り上て居たる計にて、するわざ一も無りけり。爰に何なる者か読たりけん、一首の古歌を翻案して、大将の陣の前にぞ立たりける。余所にのみ見てやゝみなん葛城のたかまの山の峯の楠軍も無てそゞろに向ひ居たるつれ/゛\に、諸大将の陣々に、江口・神崎の傾城共を呼寄て、様々の遊をぞせられける。名越遠江入道と同兵庫助とは伯叔甥にて御座けるが、共に一方の大将にて、責口近く陣を取り、役所を双てぞ御座ける。或時遊君の前にて双六を打れけるが、賽の目を論じて聊の詞の違ひけるにや、伯叔甥二人突違てぞ死れける。両人の郎従共、何の意趣もなきに、差違へ差違へ、片時が間に死る者二百余人に及べり。城の中より是を見て、「十善の君に敵をし奉る天罰に依て、自滅する人々の有様見よ。」とぞ咲ける。誠に是直事に非ず。天魔波旬の所行歟と覚て、浅猿かりし珍事也。同三月四日関東より飛脚到来して、「軍を止て徒に日を送る事不可然。」と被下知ければ、宗との大将達評定有て、御方の向ひ陣と敵の城との際に、高く切立たる堀に橋を渡して、城へ打て入んとぞ巧まれける。為之京都より番匠を五百余人召下し、五六八九寸の材木を集て、広さ一丈五尺、長さ二十丈余に梯をぞ作らせける。梯既に作り出しければ、大縄を二三千筋付て、車木を以て巻立て、城の切岸の上へぞ倒し懸たりける。魯般が雲の梯も角やと覚て巧也。軈て早りおの兵共五六千人、橋の上を渡り、我先にと前だり。あはや此城只今打落されぬと見へたる処に、楠兼て用意やしたりけん、投松明のさきに火を付て、橋の上に薪を積るが如くに投集て、水弾を以て油を滝の流るゝ様に懸たりける間、火橋桁に燃付て、渓風炎を吹布たり。憖に渡り懸りたる兵共、前へ進んとすれば、猛火盛に燃て身を焦す、帰んとすれば後陣の大勢前の難儀をも不云支たり。そばへ飛をりんとすれば、谷深く巌そびへて肝冷し、如何せんと身を揉で押あふ程に、橋桁中より燃折て、谷底へどうど落ければ、数千の兵同時に猛の中へ落重て、一人も不残焼死にけり。其有様偏に八大地獄の罪人の刀山剣樹につらぬかれ、猛火鉄湯に身を焦す覧も、角やと被思知たり。去程に吉野・戸津河・宇多・内郡の野伏共、大塔宮の命を含で、相集る事七千余人、此の峯彼〔の〕谷に立隠て、千剣破寄手共の往来の路を差塞ぐ。依之諸国の兵の兵粮忽に尽て、人馬共に疲れければ、転漕に怺兼て百騎・二百騎引て帰る処を、案内者の野伏共、所々のつまり/゛\に待受て、討留ける間、日々夜々に討るゝ者数を知ず。希有にして命計を助かる者は、馬・物具を捨、衣裳を剥取れて裸なれば、或は破たる蓑を身に纏て、膚計を隠し、或は草の葉を腰に巻て、恥をあらはせる落人共、毎日に引も切らず十方へ逃散る。前代未聞の恥辱也。されば日本国の武士共の重代したる物具・太刀・刀は、皆此時に至て失にけり。名越遠江入道、同兵庫助二人は、無詮口論して共に死給ぬ。其外の軍勢共、親は討るれば子は髻を切てうせ、主疵を被れば、郎従助て引帰す間、始は八十万騎と聞へしか共、今は纔に十万余騎に成にけり。


45 新田義貞賜綸旨事

上野国住人新田小太郎義貞と申は、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家也。然共平氏世を執て四海皆其威に服する時節なれば、無力関東の催促に随て金剛山の搦手にぞ被向ける。爰に如何なる所存歟出来にけん、或時執事船田入道義昌を近づけて宣ひける、「古より源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源家是を鎮め、源氏上を侵す日は平家是を治む。義貞不肖也。と云へ共、当家の門■として、譜代弓矢の名を汚せり。而に今相摸入道の行迹を見に滅亡遠に非ず。我本国に帰て義兵を挙、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶まじ。如何して大塔宮の令旨を給て、此素懐を可達。」と問給ければ、舟田入道畏て、「大塔宮は此辺の山中に忍て御座候なれば、義昌方便を廻して、急で令旨を申出し候べし。」と、事安げに領掌申て、己が役所へぞ帰ける。其翌日舟田己が若党を三十余人、野伏の質に出立せて、夜中に葛城峯へ上せ、我身は落行勢の真似をして、朝まだきの霞隠に、追つ返つ半時計どし軍をぞしたりける、宇多・内郡の野伏共是を見て、御方の野伏ぞと心得、力を合せん為に余所の峯よりおり合て近付たりける処を、舟田が勢の中に取篭て、十一人まで生捕てげり。舟田此生捕どもを解脱して潛に申けるは、「今汝等をたばかり搦取たる事、全誅せん為に非ず。新田殿本国へ帰て、御旗を挙んとし給ふが、令旨なくては叶まじければ、汝等に大塔宮の御坐所を尋問ん為に召取つる也。命惜くば案内者して、此方の使をつれて、宮の御座あんなる所へ参れ。」と申ければ、野伏ども大に悦て、「其御意にて候はゞ、最安かるべき事にて候。此中に一人暫の暇を給候へ、令旨を申出て進せ候はん。」と申て、残り十人をば留置、一人宮の御方へとてぞ参ける。今や/\と相待処に、一日有て令旨を捧て来れり。開て是を見に、令旨にはあらで、綸旨の文章に書れたり。其詞云、被綸言称敷化理万国者明君徳也。撥乱鎮四海者武臣節也。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。元弘三年二月十一日左少将新田小太郎殿綸旨の文章、家の眉目に備つべき綸言なれば、義貞不斜悦て、其翌日より虚病して、急ぎ本国へぞ被下ける。宗徒の軍をもしつべき勢共は兎に角に事を寄て国々へ帰ぬ。兵粮運送の道絶て、千剣破の寄手以外に気を失へる由聞へければ、又六波羅より宇都宮をぞ下されける。紀清両党千余騎寄手に加はて、未屈荒手なれば、軈て城の堀の際まで責上て、夜昼少しも不引退、十余日までぞ責たりける。此時にぞ、屏の際なる鹿垣・逆木皆被引破て、城も少し防兼たる体にぞ見へたりける。され共紀清両党の者とても、斑足王の身をもからざれば天をも翔り難し。竜伯公が力を不得ば山をも擘難し。余に為方や無りけん、面なる兵には軍をさせて後なる者は手々に鋤・鍬を以て、山を掘倒さんとぞ企ける。げにも大手の櫓をば、夜昼三日が間に、念なく掘り崩してけり。諸人是を見て、唯始より軍を止て掘べかりける物を、と後悔して、我も我もと掘けれ共、廻り一里に余れる大山なれば左右なく掘倒さるべしとは見へざりけり。


46 赤松蜂起事

去程に楠が城強くして、京都は無勢也。と聞へしかば、赤松二郎入道円心、播磨国苔縄の城より打て出で、山陽・山陰の両道を差塞ぎ、山里・梨原の間に陣をとる。爰に備前・備中・備後・安芸・周防の勢共、六波羅の催促に依て上洛しけるが、三石の宿に打集て、山里の勢を追払て通んとしけるを、赤松筑前守舟坂山に支て、宗との敵二十余人を生捕てけり。然共赤松是を討せずして、情深く相交りける間、伊東大和二郎其恩を感じて、忽に武家与力の志を変じて、官軍合体の思をなしければ、先己が館の上なる三石山に城郭を構へ、軈て熊山へ取上りて、義兵を揚たるに、備前の守護加治源二郎左衛門一戦に利を失て、児嶋を指て落て行。是より西国の路弥塞て、中国の動乱不斜。西国より上洛する勢をば、伊東に支へさせて、後は思も無りければ、赤松軈て高田兵庫助が城を責落して、片時も足を不休、山陰道を指して責上る。路次の軍勢馳加て、無程七千余騎に成にけり。此勢にて六波羅を責落さん事は案の内なれ共、若戦ひ利を失事あらば、引退て、暫く人馬をも休ん為に、兵庫の北に当て、摩耶と云山寺の有けるに、先城郭を構て、敵を二十里が間に縮めたり。


47 河野謀叛事

六波羅には、一方の打手にはと被憑ける宇都宮は千剣破の城へ向ひつ、西国の勢は伊東に被支て不上得、今は四国勢を摩耶の城へは向べしと被評定ける処に、後の二月四日、伊予国より早馬を立て、「土居二郎・得能弥三郎、宮方に成て旗をあげ、当国の勢を相付て土佐国へ打越る処に、去月十二日長門の探題上野介時直、兵船三百余艘にて当国へ推渡り、星岡にして合戦を致す処に、長門・周防の勢一戦に打負て、死人・手負其数を不知。剰時直父子行方を不知云云。其より後四国の勢悉土居・得能に属する間、其勢已に六千余騎、宇多津・今張の湊に舟をそろへ、只今責上んと企候也。御用心有べし。」とぞ告たりける。


48 先帝船上臨幸事

畿内の軍未だ静ならざるに、又四国・西国日を追て乱ければ、人の心皆薄氷を履で国の危き事深淵に臨が如し。抑今如斯天下の乱るゝ事は偏に先帝の宸襟より事興れり。若逆徒差ちがふて奪取奉んとする事もこそあれ、相構て能々警固仕べしと、隠岐判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭・御家人を催して日番・夜廻隙もなく、宮門を閉て警固し奉る。閏二月下旬は、佐々木富士名判官が番にて、中門の警固に候けるが、如何が思けん、哀此君を取奉て、謀叛を起さばやと思心ぞ付にける。され共可申入便も無て、案じ煩ひける処に、或夜御前より官女を以て御盃を被下たり。判官是を給て、よき便也。と思ければ、潛に彼官女を以て申入けるは、「上様には未だ知し召れ候はずや、楠兵衛正成金剛山に城を構て楯篭候し処に、東国勢百万余騎にて上洛し、去二月の初より責戦候といへ共、城は剛して寄手已に引色に成て候。又備前には伊東大和二郎、三石と申所に城を構て、山陽道を差塞ぎ候。播磨には赤松入道円心、宮の令旨を給て、摂津国まで責上り、兵庫の摩耶と申処に陣を取て候。其勢已に三千余騎、京を縮め地を略して勢近国に振ひ候也。四国には河野の一族に、土居二郎・得能弥三郎、御方に参て旗を挙候処に、長門の探題上野介時直、彼に打負て、行方を不知落行候し後、四国の勢悉く土居・得能に属し候間、既に大船をそろへて、是へ御迎に参るべし共聞へ候。又先京都を責べし共披露す。御聖運開べき時已に至ぬとこそ覚て候へ。義綱が当番の間に忍やかに御出候て、千波の湊より御舟に被召、出雲・伯耆の間、何れの浦へも風に任て御舟を被寄、さりぬべからんずる武士を御憑候て、暫く御待候へ。義綱乍恐責進せん為に罷向体にて、軈て御方に参候べし。」とぞ奏し申ける。官女此由を申入ければ、主上猶も彼偽てや申覧と思食れける間、義綱が志の程を能々伺御覧ぜられん為に、彼官女を義綱にぞ被下ける。判官は面目身に余りて覚ける上、最愛又甚しかりければ、弥忠烈の志を顕しける。「さらば汝先出雲国へ越て、同心すべき一族を語て御迎に参れ。」と被仰下ける程に、義綱則出雲へ渡て塩冶判官を語ふに、塩冶如何思けん、義綱をゐこめて置て、隠岐国へ不帰。主上且くは義綱を御待有けるが、余に事滞りければ、唯運に任て御出有んと思食て、或夜の宵の紛に、三位殿の御局の御産の事近付たりとて、御所を御出ある由にて、主上其御輿にめされ、六条少将忠顕朝臣計を召具して、潛に御所をぞ御出有ける。此体にては人の怪め申べき上、駕輿丁も無りければ、御輿をば被停て、悉も十善の天子、自ら玉趾を草鞋の塵に汚して、自ら泥土の地を踏せ給けるこそ浅猿けれ。比は三月二十三日の事なれば、月待程の暗き夜に、そこ共不知遠き野の道を、たどりて歩せ給へば、今は遥に来ぬ覧と被思食たれば、迹なる山は未滝の響の風に聞ゆる程なり。若追懸進する事もやある覧と、恐しく思食ければ、一足も前へと御心許は進め共、いつ習はせ給べき道ならねば、夢路をたどる心地して、唯一所にのみやすらはせ給へば、こは如何せんと思煩ひて、忠顕朝臣、御手を引御腰を推て、今夜いかにもして、湊辺までと心遣給へ共、心身共に疲れ終て、野径の露に徘徊す。夜いたく深にければ、里遠からぬ鐘の声の、月に和して聞へけるを、道しるべに尋寄て、忠顕朝臣或家の門を扣き、「千波湊へは何方へ行ぞ。」と問ければ、内より怪げなる男一人出向て、主上の御有様を見進せけるが、心なき田夫野人なれ共、何となく痛敷や思進せけん、「千波湊へは是より纔五十町許候へ共、道南北へ分れて如何様御迷候ぬと存候へば、御道しるべ仕候はん。」と申て、主上を軽々と負進せ、程なく千波湊へぞ着にける。爰にて時打鼓の声を聞けば、夜は未だ五更の初也。此道の案内者仕たる男、甲斐々々敷湊中を走廻、伯耆の国へ漕もどる商人舟の有けるを、兎角語ひて、主上を屋形の内に乗せ進せ、其後暇申てぞ止りける。此男誠に唯人に非ざりけるにや、君御一統の御時に、尤忠賞有べしと国中を被尋けるに、我こそ其にて候へと申者遂に無りけり。夜も已に明ければ、舟人纜を解て順風に帆を揚、湊の外に漕出す。船頭主上の御有様を見奉て、唯人にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形の前に畏て申けるは、「加様の時御船を仕て候こそ、我等が生涯の面目にて候へ、何くの浦へ寄よと御定に随て、御舟の梶をば仕候べし。」と申て、実に他事もなげなる気色也。忠顕朝臣是を聞き給て、隠しては中々悪かりぬと思はれければ、此船頭を近く呼寄て、「是程に推し当られぬる上は何をか隠すべき、屋形の中に御座あるこそ、日本国の主、悉も十善の君にていらせ給へ。汝等も定て聞及ぬらん、去年より隠岐判官が館に被押篭て御座ありつるを、忠顕盜出し進せたる也。出雲・伯耆の間に、何くにてもさりぬべからんずる泊へ、急ぎ御舟を着てをろし進せよ。御運開ば、必汝を侍に申成て、所領一所の主に成べし。」と被仰ければ、船頭実に嬉しげなる気色にて、取梶・面梶取合せて、片帆にかけてぞ馳たりける。今は海上二三十里も過ぬらんと思ふ処に、同じ追風に帆懸たる舟十艘計、出雲・伯耆を指て馳来れり。筑紫舟か商人舟かと見れば、さもあらで、隠岐判官清高、主上を追奉る舟にてぞ有ける。船頭是を見て、「角ては叶候まじ、是に御隠れ候へ。」と申て、主上と忠顕朝臣とを、舟底にやどし進せて、其上に、あひ物とて乾たる魚の入たる俵を取積で、水手・梶取其上に立双で、櫓をぞ押たりける。去程に追手の舟一艘、御座舟に追付て、屋形の中に乗移り、こゝかしこ捜しけれ共、見出し奉らず。「さては此舟には召ざりけり。若あやしき舟や通りつる。」と問ければ、船頭、「今夜の子の刻計に、千波湊を出候つる舟にこそ、京上臈かと覚しくて、冠とやらん着たる人と、立烏帽子着たる人と、二人乗せ給て候つる。其舟は今は五六里も先立候ぬらん。」と申ければ、「さては疑もなき事也。早、舟をおせ。」とて、帆を引梶を直せば、此舟は軈て隔ぬ。今はかうと心安く覚て迹の浪路を顧れば、又一里許さがりて、追手の舟百余艘、御坐船を目に懸て、鳥の飛が如くに追懸たり。船頭是を見て帆の下に櫓を立て、万里を一時に渡らんと声を帆に挙て推けれ共、時節風たゆみ、塩向て御舟更に不進。水手・梶取如何せんと、あはて騒ぎける間、主上船底より御出有て、膚の御護より、仏舎利を一粒取出させ給て、御畳紙に乗せて、波の上にぞ浮られける。竜神是に納受やした〔り〕けん、海上俄に風替りて、御坐船をば東へ吹送り、追手の船をば西へ吹もどす。さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる。」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申。」とぞ被仰たりける。名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。長年近辺の在家に人を廻し、「思立事有て舟上に兵粮を上る事あり。我倉の内にある所の米穀を、一荷持て運びたらん者には、銭を五百づゝ取らすべし。」と触たりける間、十方より人夫五六千人出来して、我劣らじと持送る。一日が中に兵粮五千余石運びけり。其後家中の財宝悉人民百姓に与て、己が館に火をかけ、其勢百五十騎にて、船上に馳参り、皇居を警固仕る。長年が一族名和七郎と云ける者、武勇の謀有ければ、白布五百端有けるを旗にこしらへ、松の葉を焼て煙にふすべ、近国の武士共の家々の文を書て、此の木の本、彼の峯にぞ立置ける。此旗共峯の嵐に吹れて、陣々に翻りたる様、山中に大勢充満したりと見へてをびたゝし。


49 船上合戦事

去程に同二十九日、隠岐判官、佐々木弾正左衛門、其勢三千余騎にて南北より押寄たり。此舟上と申は、北は大山に継き峙ち、三方は地僻に、峯に懸れる白雲腰を廻れり。俄に拵へたる城なれば、未堀の一所をも不掘、屏の一重をも不塗、唯所々に大木少々切倒して、逆木にひき、坊舎の甍を破て、かひ楯にかける計也。寄手三千余騎、坂中まで責上て、城中をきつと向上たれば、松柏生茂ていと深き木陰に、勢の多少は知ね共、家々の旗四五百流、雲に翻り、日に映じて見へたり。さては早、近国の勢共の悉馳参りたりけり。此勢許にては責難しとや思けん、寄手皆心に危て不進得。城中の勢共は、敵に勢の分際を見へじと、木陰にぬはれ伏て、時々射手を出し、遠矢を射させて日を暮す。卦る所に一方の寄手なりける佐々木弾正左衛門尉、遥の麓にひかへて居たりけるが、何方より射る共しらぬ流矢に、右の眼を射ぬかれて、矢庭に伏て死にけり。依之其手の兵五百余騎色を失て軍をもせず。佐渡前司は八百余騎にて搦手へ向たりけるが、俄に旗を巻、甲を脱で降参す。隠岐判官は猶加様の事をも不知、搦手の勢は、定て今は責近きぬらんと心得て、一の木戸口に支て、悪手を入替々々、時移るまでぞ責たりける。日已に西山に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降事車軸の如く、雷の鳴事山を崩すが如し。寄手是におぢわなゝひて、斯彼の木陰に立寄てむらがり居たる所に、名和又太郎長年舎弟太郎左衛門長重、小次郎長生が、射手を左右に進めて散々に射させ、敵の楯の端のゆるぐ所を、得たりや賢しと、ぬきつれて打てかゝる。大手の寄手千余騎、谷底へ皆まくり落されて、己が太刀・長刀に貫れて命を墜す者其数を不知。隠岐判官計辛き命を助りて、小舟一艘に取乗、本国へ逃帰りけるを、国人いつしか心替して、津々浦々を堅めふせぎける間、波に任せ風に随て、越前の敦賀へ漂ひ寄たりけるが、幾程も無して、六波羅没落の時、江州番馬の辻堂にて、腹掻切て失にけり。世澆季に成ぬといへ共、天理未だ有けるにや、余に君を悩し奉りける隠岐判官が、三十余日が間に滅びはてゝ、首を軍門の幢に懸られけるこそ不思儀なれ。主上隠岐国より還幸成て、船上に御座有と聞へしかば、国々の兵共の馳参る事引も不切。先一番に出雲の守護塩谷判官高貞、富士名判官と打連、千余騎にて馳参る。其後浅山二郎八百余騎、金持の一党三百余騎、大山衆徒七百余騎、都て出雲・伯耆・因幡、三箇国の間に、弓矢に携る程の武士共の参らぬ者は無りけり。是のみならず、石見国には沢・三角の一族、安芸国に熊谷・小早河、美作国には菅家の一族・江見・方賀・渋谷・南三郷、備後国に江田・広沢・宮・三吉、備中に新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前に今木・大富太郎幸範・和田備後二郎範長・知間二郎親経・藤井・射越五郎左衛門範貞・小嶋・中吉・美濃権介・和気弥次郎季経・石生彦三郎、此外四国九州の兵までも聞伝々々、我前にと馳参りける間、其勢舟上山に居余りて、四方の麓二三里は、木の下・草の陰までも、人ならずと云所は無りけり。