太平記/巻第六

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動

巻第六

37 民部卿三位局御夢想事

夫年光不停如奔箭下流水、哀楽互替似紅栄黄落樹。尓れば此世中の有様、只夢とやいはん幻とやいはん。憂喜共に感ずれば、袂の露を催す事雖不始今、去年九月に笠置城破れて、先帝隠岐国へ被遷させ給し後は、百司の旧臣悲を抱て所々に篭居し、三千の宮女涙を流して面々に臥沈給ふ有様、誠に憂世の中の習と云ながら、殊更哀に聞へしは、民部卿三位殿御局にて留たり。其を如何にと申に、先朝の御寵愛不浅上、大塔の宮御母堂にて渡せ給しかば、傍への女御・后は、花の側の深山木の色香も無が如く〔也〕。而るを世間静ならざりし後は、万づ引替たる九重の内の御住居も不定、荒のみ増る浪の上に、舟流したる海士の心地して、寄る方もなき御思の上に打添て、君は西海の帰らぬ波に浮沈み、泪無隙御袖の気色と承りしかば、空傾思於万里之暁月、宮は又南山の道なき雲に踏迷はせ給て、狂浮たる御住居と聞ゆれど、難託書於三春之暮雁。云彼云此一方ならぬ御歎に、青糸の髪疎にして、いつの間に老は来ぬらんと被怪、紅玉膚消て、今日を限の命共がなと思召ける御悲の遣方なさに、年来の御祈の師とて、御誦経・御撫物なんど奉りける、北野の社僧の坊に御坐して、一七日参篭の御志ある由を被仰ければ、此折節武家の聞も無憚には非ねども、日来の御恩も重く、今程の御有様も御痛しければ、無情は如何と思て、拝殿の傍に僅なる一間を拵て、尋常の青女房なんどの参篭したる由にて置奉りけり。哀古へならば、錦帳に妝を篭、紗窓に艶を閉て、左右の侍女其数を不知、当りを輝て仮傅奉べきに、いつしか引替たる御忍の物篭なれば、都近けれ共事問かわす人もなし。只一夜松の嵐に御夢を被覚、主忘れぬ梅が香に、昔の春を思召出すにも、昌泰の年の末に荒人神と成せ玉ひし、心づくしの御旅宿までも、今は君の御思に擬へ、又は御身の歎に被思召知たる、哀の色の数々に、御念誦を暫被止て、御涙の内にかくばかり、忘ずは神も哀れと思しれ心づくしの古への旅と遊て、少し御目睡有ける其夜の御夢に、衣冠正しくしたる老翁の、年八十有余なるが、左の手に梅の花を一枝持、右の手に鳩の杖をつき、最苦しげなる体にて、御局の臥給たる枕の辺に立給へり。御夢心地に思召けるは、篠の小篠の一節も、可問人も覚ぬ都の外の蓬生に、怪しや誰人の道蹈迷へるやすらひぞやと御尋有ければ、此老翁世に哀なる気色にて、云ひ出せる詞は無て、持たる梅花を御前に指置て立帰けり。不思議やと思召て御覧ずれば、一首の歌を短冊にかけり。廻りきて遂にすむべき月影のしばし陰を何歎くらん御夢覚て歌の心を案じ給に、君遂に還幸成て雲の上に住ませ可給瑞夢也。と、憑敷思召けり。誠に彼聖廟と申奉るは、大慈大悲の本地、天満天神の垂迹にて渡らせ給へば、一度歩を運ぶ人、二世の悉地を成就し、僅に御名を唱る輩、万事の所願を満足す。況乎千行万行の紅涙を滴尽て、七日七夜の丹誠を致させ給へば、懇誠暗に通じて感応忽に告あり。世既澆季に雖及、信心誠ある時は霊艦新なりと、弥憑敷ぞ思食ける。


38 楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事

元弘二年三月五日、左近将監時益、越後守仲時、両六波羅に被補て、関東より上洛す。此三四年は、常葉駿河守範貞一人として、両六波羅の成敗を司て在しが、堅く辞し申けるに依てとぞ聞へし。楠兵衛正成は、去年赤坂の城にて自害して、焼死たる真似をして落たりしを、実と心得て、武家より、其跡に湯浅孫六入道定仏を地頭に居置たりければ、今は河内国に於ては殊なる事あらじと、心安く思ける処に、同四月三日楠五百余騎を率して、俄に湯浅が城へ押寄て、息をも不継責戦ふ。城中に兵粮の用意乏しかりけるにや、湯浅が所領紀伊国の阿瀬河より、人夫五六百人に兵粮を持せて、夜中に城へ入んとする由を、楠風聞て、兵を道の切所へ差遣、悉是を奪取て其俵に物具を入替て、馬に負せ人夫に持せて、兵を二三百人兵士の様に出立せて、城中へ入んとす。楠が勢是を追散さんとする真似をして、追つ返つ同士軍をぞしたりける。湯浅入道是を見て、我兵粮入るゝ兵共が、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より打て出で、そゞろなる敵の兵共を城中へぞ引入ける。楠が勢共思の侭に城中に入すまして、俵の中より物具共取出し、ひし/\と堅めて、則時の声をぞ揚たりける。城の外の勢、同時に木戸を破り、屏を越て責入ける間、湯浅入道内外の敵に取篭られて、可戦様も無りければ、忽に頚を伸て降人に出づ。楠其勢を合せて、七百余騎にて和泉・河内の両国を靡けて、大勢に成ければ、五月十七日に先住吉・天王寺辺へ打て出で、渡部の橋より南に陣を取る。然間和泉・河内の早馬敷並を打、楠已に京都へ責上る由告ければ、洛中の騒動不斜。武士東西に馳散りて貴賎上下周章事窮りなし。斯りければ両六波羅には畿内近国の勢如雲霞の馳集て、楠今や責上ると待けれ共、敢て其義もなければ、聞にも不似、楠小勢にてぞ有覧、此方より押寄て打散せとて、隅田・高橋を両六波羅の軍奉行として、四十八箇所の篝、並に在京人、畿内近国の勢を合せて、天王寺へ被指向。其勢都合五千余騎、同二十日京都を立て、尼崎・神崎・柱松の辺に陣を取て、遠篝を焼て其夜を遅しと待明す。楠是を聞て、二千余騎を三手に分け、宗との勢をば住吉・天王寺に隠て、僅に三百騎許を渡部の橋の南に磬させ、大篝二三箇所に焼せて相向へり。是は態と敵に橋を渡させて、水の深みに追はめ、雌雄を一時に決せんが為と也。去程に明れば五月二十一日に、六波羅の勢五千余騎、所々の陣を一所に合せ、渡部の橋まで打臨で、河向に引へたる敵の勢を見渡せば、僅に二三百騎には不過、剰痩たる馬に縄手綱懸たる体の武者共也。隅田・高橋是を見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際、さこそ有らめと思ふに合せて、はか/゛\しき敵は一人も無りけり。此奴原一々に召捕て六条河原に切懸て、六波羅殿の御感に預らんと云侭に、隅田・高橋人交もせず橋より下を一文字にぞ渡ける。五千余騎の兵共是を見て、我先にと馬を進めて、或は橋の上を歩ませ或は河瀬を渡して、向の岸に懸驤る。楠勢是を見て、遠矢少々射捨て、一戦もせず天王寺の方へ引退く。六波羅の勢是を見て、勝に乗り、人馬の息をも不継せ、天王寺の北の在家まで、揉に揉でぞ追たりける。楠思程敵の人馬を疲らかして、二千騎を三手に分て、一手は天王寺の東より敵を弓手に請て懸出づ。一手は西門の石の鳥居より魚鱗懸に懸出づ。一手は住吉の松陰より懸出で、鶴翼に立て開合す。六波羅の勢を見合すれば、対揚すべき迄もなき大勢なりけれ共、陣の張様しどろにて、却て小勢に囲れぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋是を見て、「敵後ろに大勢を陰してたばかりけるぞ。此辺は馬の足立悪して叶はじ。広みへ敵を帯き出し、勢の分際を見計ふて、懸合々々勝負を決せよ。」と、下知しければ、五千余騎の兵共、敵に後ろを被切ぬ先にと、渡部の橋を指て引退く。楠が勢是に利を得て、三方より勝時を作て追懸くる。橋近く成ければ、隅田・高橋是を見て、「敵は大勢にては無りけるぞ、此にて不返合大河後ろに在て悪かりぬべし。返せや兵共。」と、馬の足を立直し/\下知しけれども、大勢の引立たる事なれば、一返も不返、只我先にと橋の危をも不云、馳集りける間、人馬共に被推落て、水に溺るゝ者不知数、或淵瀬をも不知渡し懸て死ぬる者も有り、或は岸より馬を馳倒て其侭被討者も有。只馬・物具を脱捨て、逃延んとする者は有れ共、返合せて戦はんとする者は無りけり。而れば五千余騎の兵共、残少なに被打成て這々京へぞ上りける。其翌日に何者か仕たりけん、六条河原に高札を立て一首の歌をぞ書たりける。渡部の水いか許早ければ高橋落て隅田流るらん京童の僻なれば、此落書を歌に作て歌ひ、或は語伝て笑ひける間、隅田・高橋面目を失ひ、且は出仕を逗め、虚病してぞ居たりける。両六波羅是を聞て、安からぬ事に被思ければ、重て寄せんと被議けり。其比京都余に無勢なりとて関東より被上たる宇都宮治部大輔を呼寄評定有けるは、「合戦の習ひ運に依て雌雄替る事古へより無に非ず。然共今度南方の軍負ぬる事、偏に将の計の拙に由れり。又士卒の臆病なるが故也。天下嘲哢口を塞ぐに所なし。就中に仲時罷上し後、重て御上洛の事は、凶徒若蜂起せば、御向ひ有て静謐候との為なり。今の如んば、敗軍の兵を駈集て何度むけて候とも、はか/゛\しき合戦しつ共不覚候。且は天下の一大事、此時にて候へば、御向候て御退治候へかし。」と宣ひければ、宇都宮辞退の気色無して被申けるは、「大軍已に利を失て後、小勢にて罷向候はん事、如何と存候へども、関東を罷出し始より、加様の御大事に逢て命を軽くせん事を存候き。今の時分、必しも合戦の勝負を見所にては候はねば、一人にて候共、先罷向て一合戦仕り、及難儀候はゞ、重御勢をこそ申候はめ。」と、誠に思定たる体に見へてぞ帰りける。宇都宮一人武命を含で大敵に向はん事、命を可惜に非ざりければ、態と宿所へも不帰、六波羅より直に、七月十九日午刻に都を出で、天王寺へぞ下りける。東寺辺までは主従僅に十四五騎が程とみへしが、洛中にあらゆる所の手者共馳加りける間、四塚・作道にては、五百余騎にぞ成にける。路次に行逢者をば、権門勢家を不云、乗馬を奪ひ人夫を駈立て通りける間、行旅の往反路を曲げ、閭里の民屋戸を閉づ。其夜は柱松に陣を取て明るを待つ。其志一人も生て帰らんと思者は無りけり。去程に河内国の住人和田孫三郎此由を聞て、楠が前に来て云けるは、「先日の合戦に負腹を立て京より宇都宮を向候なる。今夜既に柱松に着て候が其勢僅に六七百騎には過じと聞へ候。先に隅田・高橋が五千余騎にて向て候しをだに、我等僅の小勢にて追散して候しぞかし。其上今度は御方勝に乗て大勢也。敵は機を失て小勢也。宇都宮縦ひ武勇の達人なりとも、何程の事か候べき。今夜逆寄にして打散して捨候ばや。」と云けるを、楠暫思案して云けるは、「合戦の勝負必しも大勢小勢に不依、只士卒の志を一にするとせざると也。されば「大敵を見ては欺き、小勢を見ては畏れよ」と申す事是なり。先思案するに、先度の軍に大勢打負て引退く跡へ、宇都宮一人小勢にて相向ふ志、一人も生て帰らんと思者よも候はじ。其上宇都宮は坂東一の弓矢取也。紀清両党の兵、元来戦場に臨で命を棄る事塵芥よりも尚軽くす。其兵七百余騎志を一つにして戦を決せば、当手の兵縦退く心なく共、大半は必可被討。天下の事全今般の戦に不可依。行末遥の合戦に、多からぬ御方初度の軍に被討なば、後日の戦に誰か力を可合。「良将は不戦して勝」と申事候へば、正成に於ては、明日態と此陣を去て引退き、敵に一面目在る様に思はせ、四五日を経て後、方々の峯に篝を焼て、一蒸蒸程ならば、坂東武者の習、無程機疲て、「いや/\長居しては悪かりなん。一面目有時去来や引返さん。」と云ぬ者は候はじ。されば「懸るも引も折による」とは、加様の事を申也。夜已に暁天に及べり。敵定て今は近付らん。去来させ給へ。」とて、楠天王寺を立ければ、和田・湯浅も諸共に打連てぞ引たりける。夜明ければ、宇都宮七百余騎の勢にて天王寺へ押寄せ、古宇都の在家に火を懸け、時の声を揚たれ共、敵なければ不出合。「たばかりぞすらん。此辺は馬の足立悪して、道狭き間、懸入敵に中を被破な、後ろを被裹な。」と下知して、紀清両党馬の足をそろへて、天王寺の東西の口より懸入て、二三度まで懸入々々しけれ共、敵一人も無して、焼捨たる篝に燈残て、夜はほの/゛\と明にけり。宇都宮不戦先に一勝したる心地して、本堂の前にて馬より下り、上宮太子を伏拝み奉り、是偏に武力の非所致、只然神明仏陀の擁護に懸れりと、信心を傾け歓喜の思を成せり。頓て京都へ早馬を立て、「天王寺の敵をば即時に追落し候ぬ。」と申たりければ、両六波羅を始として、御内外様の諸軍勢に至まで、宇都宮が今度の振舞抜群也。と、誉ぬ人も無りけり。宇都宮、天王寺の敵を輒く追散したる心地にて、一面目は有体なれ共、軈て続て敵の陣へ責入らん事も、無勢なれば不叶、又誠の軍一度も不為して引返さん事もさすがなれば、進退谷たる処に、四五日を経て後、和田・楠、和泉・河内の野伏共を四五千人駈集て、可然兵二三百騎差副、天王寺辺に遠篝火をぞ焼せける。すはや敵こそ打出たれと騒動して、深行侭に是を見れば、秋篠や外山の里、生駒の岳に見ゆる火は、晴たる夜の星よりも数く、藻塩草志城津の浦、住吉・難波の里に焼篝は、漁舟に燃す居去火の、波を焼かと怪しまる。総て大和・河内・紀伊国にありとある所の山々浦々に、篝を焼ぬ所は無りけり。其勢幾万騎あらんと推量してをびたゝし。如此する事両三夜に及び、次第に相近付けば、弥東西南北四維上下に充満して、闇夜に昼を易たり。宇都宮是を見て、敵寄来らば一軍して、雌雄を一時に決せんと志して、馬の鞍をも不息、鎧の上帯をも不解待懸たれ共、軍は無して敵の取廻す勢ひに、勇気疲れ武力怠で、哀れ引退かばやと思ふ心着けり。斯る処に紀清両党の輩も、「我等が僅の小勢にて此大敵に当らん事は、始終如何と覚候。先日当所の敵を無事故追落して候つるを、一面目にして御上洛候へかし。」と申せば、諸人皆此義に同じ、七月二十七日夜半許に宇都宮天王寺を引上洛すれば、翌日早旦に楠頓て入替りたり。誠に宇都宮と楠と相戦て勝負を決せば、両虎二龍の闘として、何れも死を共にすべし。されば互に是を思ひけるにや、一度は楠引て謀を千里の外に運し、一度は宇都宮退て名を一戦の後に不失。是皆智謀深く、慮り遠き良将なりし故也。と、誉ぬ人も無りけり。去程に楠兵衛正成は、天王寺に打出て、威猛を雖逞、民屋に煩ひをも不為して、士卒に礼を厚くしける間、近国は不及申、遐壌遠境の人牧までも、是を聞伝へて、我も我もと馳加りける程に、其勢ひ漸強大にして、今は京都よりも、討手を無左右被下事は難叶とぞ見へたりける。


39 正成天王寺未来記披見事 

元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉に参詣し、神馬三疋献之。翌日天王寺に詣て白鞍置たる馬、白輻輪の太刀、鎧一両副て引進す。是は大般若経転読の御布施なり。啓白事終て、宿老の寺僧巻数を捧て来れり。楠則対面して申けるは、「正成、不肖の身として、此一大事を思立て候事、涯分を不計に似たりといへ共、勅命の不軽礼儀を存ずるに依て、身命の危きを忘たり。然に両度の合戦聊勝に乗て、諸国の兵不招馳加れり。是天の時を与へ、仏神擁護の眸を被回歟と覚候。誠やらん伝承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を勘て、日本一州の未来記を書置せ給て候なる。拝見若不苦候はゞ、今の時に当り候はん巻許、一見仕候ばや。」と云ければ、宿老の寺僧答て云、「太子守屋の逆臣を討て、始て此寺を建て、仏法を被弘候し後、神代より始て、持統天皇の御宇に至までを被記たる書三十巻をば、前代旧事本記とて、卜部の宿祢是を相伝して有職の家を立候。其外に又一巻の秘書を被留て候。是は持統天皇以来末世代々の王業、天下の治乱を被記て候。是をば輒く人の披見する事は候はね共、以別儀密に見参に入候べし。」とて、即秘府の銀鑰を開て、金軸の書一巻を取出せり。正成悦て則是を披覧するに、不思議の記文一段あり。其文に云、当人王九十五代。天下一乱而主不安。此時東魚来呑四海。日没西天三百七十余箇日。西鳥来食東魚を。其後海内帰一三年。如■猴者掠天下三十余年。大凶変帰一元。云云。正成不思議に覚へて、能々思案して此文を考るに、先帝既に人王の始より九十五代に当り給へり。「天下一度乱て主不安」とあるは是此時なるべし。「東魚来て呑四海」とは逆臣相摸入道の一類なるべし。「西鳥食東魚を」とあるは関東を滅す人可有。「日没西天に」とは、先帝隠岐国へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百七十余箇日」とは、明年の春の比此君隠岐国より還幸成て、再び帝位に即かせ可給事なるべしと、文の心を明に勘に、天下の反覆久しからじと憑敷覚ければ、金作の太刀一振此老僧に与へて、此書をば本の秘府に納させけり。後に思合するに、正成が勘へたる所、更に一事も不違。是誠に大権聖者の末代を鑒て記し置給し事なれ共、文質三統の礼変、少しも違はざりけるは、不思議なりし讖文也。


40 赤松入道円心賜大塔宮令旨事

其比播磨国の住人、村上天皇第七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて弓矢取て無双の勇士有り。元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思はざりければ、此時絶たるを継廃たるを興して、名を顕し忠を抽ばやと思けるに、此二三年大塔宮に属纒奉て、吉野十津川の艱難を経ける円心が子息律師則祐、令旨を捧て来れり。披覧するに、「不日に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者、恩賞宜依請」之由、被戴。委細事書十七箇条の恩裁被添たり。条々何れも家の面目、世の所望する事なれば、円心不斜悦で、先当国佐用庄苔縄の山に城を構て、与力の輩を相招く。其威漸近国に振ひければ、国中の兵共馳集て、無程其勢一千余騎に成にけり。只秦の世已に傾んとせし弊に乗て、楚の陳勝が異蒼頭にして大沢に起りしに異ならず。頓て杉坂・山の里二箇所に関を居、山陽・山陰の両道を差塞ぐ。是より西国の道止て、国々の勢上洛する事を得ざりけり。


41 関東大勢上洛事

去程に畿内西国の凶徒、日を逐て蜂起する由、六波羅より早馬を立て関東へ被注進。相摸入道大に驚て、さらば討手を指遣せとて、相摸守の一族、其外東八箇国の中に、可然大名共を催し立て被差上。先一族には、阿曾弾正少弼・名越遠江入道・大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助、外様の人々には、千葉大介・宇都宮三河守・小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道・葦名判官・三浦若狭五郎・千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守・結城七郎左衛門尉・小田常陸前司・長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉・長江弥六左衛門尉・長沼駿河守・渋谷遠江守・河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司・同大和入道・安藤藤内左衛門尉・宇佐美摂津前司・二階堂出羽入道・同下野判官・同常陸介・安保左衛門入道・南部次郎・山城四郎左衛門尉、此等を始として、宗との大名百三十二人、都合其勢三十万七千五百余騎、九月二十日鎌倉を立て、十月八日先陣既に京都に着けば後陣は未だ足柄・筥根に支へたり。是のみならず河野九郎四国の勢を率して、大船三百余艘にて尼崎より襄て下京に着。厚東入道・大内介・安芸熊谷、周防・長門の勢を引具して、兵船二百余艘にて、兵庫より襄て西の京に着。甲斐・信濃の源氏七千余騎、中山道を経て東山に着。江馬越前守・淡河右京亮、北陸道七箇国の勢を率して、三万余騎にて東坂本を経て上京に着。総じて諸国七道の軍勢我も我もと馳上りける間、京白河の家々に居余り、醍醐・小栗栖・日野・勧修寺・嵯峨・仁和寺・太秦の辺・西山・北山・賀茂・北野・革堂・河崎・清水・六角堂の門の下、鐘楼の中迄も、軍勢の宿らぬ所は無りけり。日本雖小国是程に人の多かりけりと始て驚く許也。去程に元弘三年正月晦日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分て、吉野・赤坂・金剛山、三の城へぞ被向ける。先吉野へは二階堂出羽入道々蘊を太将として、態と他の勢を交へず、二万七千余騎にて、上道・下道・中道より、三手に成て相向ふ。赤坂へは阿曾弾正少弼を大将として、其勢八万余騎、先天王寺・住吉に陣を張る。金剛山へは陸奥右馬助、搦手の大将として、其勢二十万騎、奈良路よりこそ被向けれ。中にも長崎悪四郎左衛門尉は、別して侍大将を承て、大手へ向ひけるが、態己が勢の程を人に被知とや思けん。一日引さがりてぞ向ひける。其行妝見物の目をぞ驚しける。先旗差、其次に逞しき馬に厚総懸て、一様の鎧着る兵八百余騎、二町計先き立てゝ、馬を静めて打せたり。我身は其次に纐纈の鎧直垂に、精好の大口を張せ、紫下濃の鎧に、白星の五枚甲に八竜を金にて打て付たるを猪頚に着成し、銀の瑩付の脛当に金作の太刀に振帯て、一部黒とて、五尺三寸有ける坂東一の名馬に塩干潟の捨小舟を金貝に磨たる鞍を置て、款冬色の厚総懸て、三十六差たる白磨の銀筈の大中黒の矢に、本滋藤の弓の真中握て、小路を狭しと歩ませたり。片小手に腹当して、諸具足したる中間五百余人、二行に列を引き、馬の前後に随て、閑に路次をぞ歩みける。其後四五町引さがりて、思々に鎧たる兵十万余騎、甲の星を輝かし、鎧の袖を重て、沓の子を打たるが如くに道五六里が程支たり。其勢ひ決然として天地を響かし山川を動す許也。此外々様の大名五千騎・三千騎、引分々々昼夜十三日迄、引も切らでぞ向ひける。我朝は不及申、唐土・天竺・太元・南蛮も、未是程の大軍を発す事難有かりし事也。と思はぬ人こそ無りけれ。


42 赤坂合戦事付人見本間抜懸事

去程に赤坂の城へ向ひける大将、阿曾弾正少弼、後陣の勢を待調へんが為に、天王寺に両日逗留有て、同二月二日午刻に、可有矢合、於抜懸之輩者、可為罪科之由をぞ被触ける。爰に武蔵国の住人に人見四郎入道恩阿と云者あり。此恩阿、本間九郎資貞に向て語りけるは、「御方の軍勢雲霞の如くなれば、敵陣を責落さん事疑なし。但事の様を案ずるに、関東天下を治て権を執る事已に七代に余れり。天道欠盈理遁るゝ処なし。其上臣として君を流し奉る積悪、豈果して其身を滅さゞらんや。某不肖の身なりと云へ共、武恩を蒙て齢已に七旬に余れり。今日より後差たる思出もなき身の、そゞろに長生して武運の傾かんを見んも、老後の恨臨終の障共成ぬべければ、明日の合戦に先懸して、一番に討死して、其名を末代に遺さんと存ずる也。」と語りければ、本間九郎心中にはげにもと思ながら、「枝葉の事を宣者哉。是程なる打囲の軍に、そゞろなる先懸して討死したりとも、差て高名とも云れまじ。されば只某は人なみに可振舞也。」と云ければ、人見よにも無興気にて、本堂の方へ行けるを、本間怪み思て、人を付て見せければ、矢立を取出して、石の鳥居に何事とは不知一筆書付て、己が宿へぞ帰りける。本間九郎、さればこそ此者に一定明日先懸せられぬと、心ゆるし無りければ、まだ宵より打立て、唯一騎東条を指て向けり。石川々原にて夜を明すに、朝霞の晴間より、南の方を見ければ、紺唐綾威の鎧に白母衣懸て、鹿毛なる馬に乗たる武者一騎、赤坂の城へぞ向ひける。何者やらんと馬打寄せて是を見れば、人見四郎入道なりけり。人見本間を見付て云けるは、「夜部宣し事を実と思なば、孫程の人に被出抜まし。」と打笑てぞ、頻に馬を早めける。本間跡に付て、「今は互に先を争ひ申に及ず、一所にて尸を曝し、冥途までも同道申さんずるぞよ。」と云ければ、人見、「申にや及ばん。」と返事して、跡になり先になり物語して打けるが、赤坂城の近く成ければ、二人の者共馬の鼻を双て懸驤り、堀の際まで打寄て、鐙踏張弓杖突て、大音声を揚て名乗けるは、「武蔵国の住人に、人見四郎入道恩阿、年積て七十三、相摸国の住人本間九郎資貞、生年三十七、鎌倉を出しより軍の先陣を懸て、尸を戦場に曝さん事を存じて相向へり。我と思はん人々は、出合て手なみの程を御覧ぜよ。」と声々に呼て城を睨で引へたり。城中の者共是を見て、是ぞとよ、坂東武者の風情とは。只是熊谷・平山が一谷の先懸を伝聞て、羨敷思へる者共也。跡を見るに続く武者もなし。又さまで大名とも見へず。溢れ者の不敵武者に跳り合て、命失て何かせん。只置て事の様を見よ、とて、東西鳴を静めて返事もせず。人見腹を立て、「早旦より向て名乗れ共、城より矢の一をも射出さぬは、臆病の至り歟、敵を侮る歟、いで其義ならば手柄の程を見せん。」とて、馬より飛下て、堀の上なる細橋さら/\と走渡り、二人の者共出し屏の脇に引傍て、木戸を切落さんとしける間、城中是に騒で、土小間・櫓の上より、雨の降が如くに射ける矢、二人の者共が鎧に、蓑毛の如くにぞ立たりける。本間も人見も、元より討死せんと思立たる事なれば、何かは一足も可引。命を限に二人共に一所にて被討けり。是まで付従ふて最後の十念勧めつる聖、二人が首を乞得て、天王寺に持て帰り、本間が子息源内兵衛資忠に始よりの有様を語る。資忠父が首を一目見て、一言をも不出、只涙に咽で居たりけるが、如何思けん、鐙を肩に投懸、馬に鞍置て只一人打出んとす。聖怪み思て、鎧の袖を引留め、「是はそも如何なる事にて候ぞ。御親父も此合戦に先懸して、只名を天下の人に被知と許思召さば、父子共に打連てこそ向はせ給ふべけれ共、命をば相摸殿に献り、恩賞をば子孫の栄花に貽さんと思召ける故にこそ、人より先に討死をばし給らめ。而るに思ひ篭給へる所もなく、又敵陣に懸入て、父子共に打死し給ひなば、誰か其跡を継ぎ誰か其恩賞を可蒙。子孫無窮に栄るを以て、父祖の孝行を呈す道とは申也。御悲歎の余りに無是非死を共にせんと思召は理なれ共、暫止らせ給へ。」と堅く制しければ、資忠涙を押へて無力着たる鎧を脱置たり。聖さては制止に拘りぬと喜しく思て、本間が首を小袖に裹み、葬礼の為に、側なる野辺へ越ける其間に、資忠今は可止人なければ、則打出て、先上宮太子の御前に参り、今生の栄耀は、今日を限りの命なれば、祈る所に非ず、唯大悲の弘誓の誠有らば、父にて候者の討死仕候し戦場の同じ苔の下に埋れて、九品安養の同台に生るゝ身と成させ給へと、泣々祈念を凝して泪と共に立出けり。石の鳥居を過るとて見れば我父と共に討死しける人見四郎入道が書付たる歌あり。是ぞ誠に後世までの物語に可留事よと思ければ、右の小指を喰切て、其血を以て一首を側に書添て、赤坂の城へぞ向ひける。城近く成ぬる所にて馬より下り、弓を脇に挟で城戸を叩き、「城中の人々に可申事あり。」と呼りけり。良暫く在て、兵二人櫓の小間より顔を指出して、「誰人にて御渡候哉。」と問ければ、「是は今朝此城に向て打死して候つる、本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠と申者にて候也。人の親の子を憶ふ哀み、心の闇に迷ふ習にて候間、共に打死せん事を悲て、我に不知して、只一人打死しけるにて候。相伴ふ者無て、中有の途に迷ふ覧。さこそと被思遣候へば、同く打死仕て、無迹まで父に孝道を尽し候ばやと存じて、只一騎相向て候也。城の大将に此由を被申候て、木戸を被開候へ。父が打死の所にて、同く命を止めて、其望を達し候はん。」と、慇懃に事を請ひ泪に咽でぞ立たりける。一の木戸を堅めたる兵五十余人、其志孝行にして、相向ふ処やさしく哀なるを感じて、則木戸を開き、逆茂木を引のけしかば、資忠馬に打乗り、城中へ懸入て、五十余人の敵と火を散てぞ切合ける。遂に父が被討し其迹にて、太刀を口に呀て覆しに倒て、貫かれてこそ失にけれ。惜哉、父の資貞は、無双の弓矢取にて国の為に要須たり。又子息資忠は、ためしなき忠孝の勇士にて家の為に栄名あり。人見は年老齢傾きぬれ共、義を知て命を思ふ事、時と共に消息す。此三人同時に討死しぬと聞へければ、知も知ぬもをしなべて、歎かぬ人は無りけり。既に先懸の兵共、ぬけ/\に赤坂の城へ向て、討死する由披露有ければ、大将則天王寺を打立て馳向ひけるが、上宮太子の御前にて馬より下り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、花さかぬ老木の桜朽ぬとも其名は苔の下に隠れじと一首の歌を書て、其次に、「武蔵国の住人人見四郎恩阿、生年七十三、正慶二年二月二日、赤坂の城へ向て、武恩を報ぜん為に討死仕畢ぬ。」とぞ書たりける。又右の柱を見れば、まてしばし子を思ふ闇に迷らん六の街の道しるべせんと書て、「相摸国の住人本間九郎資貞嫡子、源内兵衛資忠生年十八歳、正慶二年仲春二日、父が死骸を枕にして、同戦場に命を止め畢ぬ。」とぞ書たりける。父子の恩義君臣の忠貞、此二首の歌に顕れて、骨は化して黄壌一堆の下に朽ぬれど、名は留て青雲九天の上に高し。されば今に至るまで、石碑の上に消残れる三十一字を見る人、感涙を流さぬは無りけり。去程に阿曾弾正少弼、八万余騎の勢を率して、赤坂へ押寄せ、城の四方二十余町、雲霞の如くに取巻て、先時の声をぞ揚たりける。其音山を動し地を震ふに、蒼涯も忽に可裂。此城三方は岸高して、屏風を立たるが如し。南の方許こそ平地に継ひて、堀を広く深く掘切て、岸の額に屏を塗り、其上に櫓を掻双べたれば、如何なる大力早態なりとも、輒く可責様ぞなき。され共寄手大勢なれば、思侮て楯にはづれ矢面に進で、堀の中へ走り下て、切岸を襄らんとしける処を、屏の中より究竟の射手共、鏃を支て思様に射ける間、軍の度毎に、手負死人五百人六百人、不被射出時はなかりけり。是をも不痛荒手を入替々々、十三日までぞ責たりける。され共城中少も不弱見へけり。爰に播磨国の住人、吉河八郎と云者、大将の前に来て申けるは、「此城の為体、力責にし候はゞ無左右不可落候。楠此一両年が間、和泉・河内を管領して、若干の兵粮を取入て候なれば、兵粮も無左右尽候まじ。倩思案を廻し候に、此城三方は谷深して地に不継、一方は平地にて而も山遠く隔れり。されば何くに水可有とも見へぬに、火矢を射れば水弾にて打消候。近来は雨の降る事も候はぬに、是程まで水の卓散に候は、如何様南の山の奥より、地の底に樋を伏て、城中へ水を懸入るゝ歟と覚候。哀人夫を集めて、山の腰を掘きらせて、御覧候へかし。」と申ければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ継きたる山の尾を、一文字に掘切て見れば、案の如く、土の底に二丈余りの下に樋を伏せて、側に石を畳み、上に真木の瓦を覆て、水を十町余の外よりぞ懸たりける。此揚水を被止て後、城中に水乏して、軍勢口中の渇難忍ければ、四五日が程は、草葉に置ける朝の露を嘗め、夜気に潤へる地に身を当て、雨を待けれ共雨不降。寄手是に利を得、隙なく火矢を射ける間、大手の櫓二つをば焼落しぬ。城中の兵水を飲まで十二日に成ければ、今は精力尽はてゝ、可防方便も無りけり。死たる者は再び帰る事なし。去来や、とても死なんずる命を、各力の未だ墜ぬ先に打出で、敵に指違へ、思様に打死せんと、城の木戸を開て、同時に打出んとしけるを、城の本人平野将監入道、高櫓より走下り、袖をひかへて云けるは、「暫く楚忽の事な仕給ふそ。今は是程に力尽き喉乾て疲れぬれば、思ふ敵に相逢ん事有難し。名もなき人の中間・下部共に被虜て、恥を曝さん事可心憂。倩事の様を案ずるに、吉野・金剛山の城、未相支て勝負を不決。西国の乱未だ静まらざるに、今降人に成て出たらん者をば、人に見こらせじとて、討事不可有と存ずる也。とても叶はぬ我等なれば、暫事を謀て降人に成、命を全して時至らん事を可待。」といへば、諸卒皆此義に同じて、其日の討死をば止めてけり。去程に次日軍の最中に、平野入道高櫓に上て、「大将の御方へ可申子細候。暫く合戦を止て、聞食候へ。」と云ければ、大将渋谷十郎を以て、事の様を尋るに、平野木戸口に出合て、「楠和泉・河内の両国を平げて威を振ひ候し刻に、一旦の難を遁れん為に、不心御敵に属して候き。此子細京都に参じ候て、申入候はんと仕候処に、已に大勢を以て被押懸申候間、弓矢取身の習ひにて候へば、一矢仕りたるにて候。其罪科をだに可有御免にて候はゞ、頚を伸て降人に可参候。若叶ふまじきとの御定にて候はゞ、無力一矢仕て、尸を陣中に曝すべきにて候。此様を具に被申候へ。」と云ければ、大将大に喜て、本領安堵の御教書を成し、殊に功あらん者には、則恩賞を可申沙汰由返答して、合戦をぞ止めける。城中に篭る所の兵二百八十二人、明日死なんずる命をも不知、水に渇せる難堪さに、皆降人に成てぞ出たりける。長崎九郎左衛門尉是を請取て、先降人の法なればとて、物具・太刀・刀を奪取り、高手小手に禁て六波羅へぞ渡しける。降人の輩、如此ならば只討死すべかりける者をと、後悔すれ共無甲斐。日を経て京都に着しかば、六波羅に誡置て、合戦の事始なれば、軍神に祭て人に見懲させよとて、六条河原に引出し、一人も不残首を刎て被懸けり。是を聞てぞ、吉野・金剛山に篭りたる兵共も、弥獅子の歯嚼をして、降人に出んと思ふ者は無りけり。「罪を緩ふするは将の謀也。」と云事を知らざりける六波羅の成敗を、皆人毎押なべて、悪かりけりと申しが、幾程も無して悉亡びけるこそ不思議なれ。情は人の為ならず。余に驕を極めつゝ、雅意に任て振舞へば、武運も早く尽にけり。因果の道理を知るならば、可有心事共也。