太平記/巻第一

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巻第一

蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。


1 後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事

爰に本朝人皇の始、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当て、武臣相摸守平高時と云者あり。此時上乖君之徳、下失臣之礼。従之四海大に乱て、一日も未安。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦年中に鎌倉の右大将頼朝卿、追討平家而有其功之時、後白河院叡感之余に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始て諸国に守護を立、庄園に地頭を置。彼頼朝の長男左衛門督頼家、次男右大臣実朝公、相続で皆征夷将軍の武将に備る。是を号三代将軍。然を頼家卿は為実朝討れ、実朝は頼家の子為悪禅師公暁討れて、父子三代僅に四十二年にして而尽ぬ。其後頼朝卿の舅、遠江守平時政子息、前陸奥守義時、自然に執天下権柄勢漸欲覆四海。此時の大上天皇は、後鳥羽院也。武威振下、朝憲廃上事歎思召て、義時を亡さんとし給しに、承久の乱出来て、天下暫も静ならず。遂に旌旗日に掠て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦未終一日、官軍忽に敗北せしかば、後鳥羽院は隠岐国へ遷されさせ給て、義時弥八荒を掌に握る。其より後武蔵守泰時・修理亮時氏・武蔵守経時・相摸守時頼・左馬権頭時宗・相摸守貞時、相続で七代、政武家より出で、徳窮民を撫するに足り、威万人の上に被といへ共、位四品の際を不越、謙に居て仁恩を施し、己を責て礼義を正す。是を以て高しと云ども危からず、盈りと云ども溢れず。承久より以来、儲王摂家の間に、理世安民の器に相当り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉て、征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨の礼を事とす。同三年に、始て洛中に両人の一族を居て、両六波羅と号して、西国の沙汰を執行せ、京都の警衛に備らる。又永仁元年より、鎮西に一人の探題を下し、九州の成敗を司しめ、異賊襲来の守を堅す。されば一天下、普彼下知に不随と云処もなく、四海の外も、均く其権勢に服せずと云者は無りけり。朝陽不犯ども、残星光を奪る、習なれば、必しも、武家より公家を蔑し奉としもは無れども、所には地頭強して、領家は弱、国には守護重して、国司は軽。此故に朝廷は年々に衰、武家は日々に盛也。因茲代々の聖主、遠くは承久の宸襟を休めんが為、近くは朝議の陵廃を歎き思食て、東夷を亡さばやと、常に叡慮を回されしかども、或は勢微にして不叶、或は時未到して、黙止給ひける処に、時政九代の後胤、前相摸守平高時入道崇鑒が代に至て、天地命を革むべき危機云顕れたり。倩古を引て今を視に、行跡甚軽して人の嘲を不顧、政道不正して民の弊を不思、唯日夜に逸遊を事として、前烈を地下に羞しめ、朝暮に奇物を翫て、傾廃を生前に致さんとす。衛の懿公が鶴を乗せし楽早尽き、秦の李斯が犬を牽し恨今に来なんとす。見人眉を顰め、聴人唇を翻す。此時の帝後醍醐天王と申せしは、後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹にて御座せしを、相摸守が計として、御年三十一の時、御位に即奉る。御在位之間、内には三綱五常の儀を正して、周公孔子の道に順、外には万機百司の政不怠給、延喜天暦の跡を追れしかば、四海風を望で悦び、万民徳に帰して楽む。凡諸道の廃たるを興し、一事の善をも被賞しかば、寺社禅律の繁昌、爰に時を得、顕密儒道の碩才も、皆望を達せり。誠に天に受たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其徳を称じ、其化に誇らぬ者は無りけり。


2 関所停止事

夫四境七道の関所は、国の大禁を知しめ、時の非常を誡んが為也。然に今壟断の利に依て、商売往来の弊、年貢運送の煩ありとて、大津・葛葉の外は、悉く所々の新関を止らる。又元亨元年の夏、大旱地を枯て、田服の外百里の間、空く赤土のみ有て、青苗無し。餓■野に満て、飢人地に倒る。此年銭三百を以て、粟一斗を買。君遥に天下の飢饉を聞召て、朕不徳あらば、天予一人を罪すべし。黎民何の咎有てか、此災に逢ると、自帝徳の天に背ける事を歎き思召て、朝餉の供御を止られて、飢人窮民の施行に引れけるこそ難有けれ。是も猶万民の飢を助くべきに非ずとて、検非違使の別当に仰て、当時富祐の輩が、利倍の為に畜積る米穀を点検して、二条町に仮屋を建られ、検使自断て、直を定て売せらる。されば商買共に利を得て、人皆九年の畜有が如し。訴訟の人出来の時、若下情上に達せざる事もやあらんとて、記録所へ出御成て、直に訴を聞召明め、理非を決断せられしかば、虞■の訴忽に停て、刑鞭も朽はて、諌鼓も撃人無りけり。誠に理世安民の政、若機巧に付て是を見ば、命世亜聖の才とも称じつべし。惟恨らくは斉桓覇を行、楚人弓を遺しに、叡慮少き似たる事を。是則所以草創雖合一天守文不越三載也。


3 立后事付三位殿御局事

文保二年八月三日、後西園寺大政大臣実兼公の御女、后妃の位に備て、弘徽殿に入せ給ふ。此家に女御を立られたる事已に五代、是も承久以後、相摸守代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌恰天下の耳目を驚せり。君も関東の聞へ可然と思食て、取分立后の御沙汰も有けるにや。御齢已に二八にして、金鶏障の下に傅れて、玉楼殿の内に入給へば、夭桃の春を傷る粧ひ、垂柳の風を含る御形、毛■・西施も面を恥、絳樹・青琴も鏡を掩ふ程なれば、君の御覚も定て類あらじと覚へしに、君恩葉よりも薄かりしかば、一生空く玉顔に近かせ給はず。深宮の中に向て、春の日の暮難き事を歎き、秋の夜の長恨に沈ませ給ふ。金屋に人無して、皎々たる残燈の壁に背ける影、薫篭に香消て、蕭々たる暗雨の窓を打声、物毎に皆御泪を添る媒と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書たりしも、理也と覚たり。其比安野中将公廉の女に、三位殿の局と申ける女房、中宮の御方に候れけるを、君一度御覧ぜられて、他に異なる御覚あり。三千の寵愛一身に在しかば、六宮の粉黛は、顔色無が如也。都て三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一女御・曁後宮の美人・楽府の妓女と云へども、天子顧眄の御心を付られず。只殊艶尤態の独能是を致のみに非ず、蓋し善巧便佞叡旨に先て、奇を争しかば、花の下の春の遊、月の前の秋の宴、駕すれば輦を共にし、幸すれば席を専にし給ふ。是より君王朝政をし給はず。忽に准后の宣旨を下されしかば、人皆皇后元妃の思をなせり。驚見る、光彩の始て門戸に生ることを。此時天の人、男を生む事を軽じて、女を生む事を重ぜり。されば御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后の御口入とだに云てげれば、上卿も忠なきに賞を与、奉行も理有を非とせり。関雎は楽而不淫、哀而不傷。詩人採て后妃の徳とす。奈何かせん、傾城傾国の乱今に有ぬと覚て、浅増かりし事共也。


4 儲王御事

螽斯の化行れて、皇后元妃の外、君恩に誇る官女、甚多かりければ、宮々次第に御誕生有て、十六人までぞ御座しける。中にも第一宮尊良親王は、御子左大納言為世卿女、贈従三位為子の御腹にて御坐しを、吉田内大臣定房公養君にし奉しかば、志学の歳の始より、六義の道に長じさせ給へり。されば富緒河の清き流を汲、浅香山の故き跡を蹈で、嘯風弄月に御心を傷め給ふ。第二宮も同御腹にてぞ御坐しける。総角の御時より妙法院の門跡に御入室有て、釈氏の教を受させ給ふ。是も瑜伽三密の間には、歌道数奇の御翫有しかば、高祖大師の旧業にも不恥、慈鎮和尚の風雅にも越たり。第三宮は民部卿三位殿の御腹也。御幼稚の時より、利根聡明に御坐せしかば、君御位をば此宮に社と思食したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と、代々持せ給べしと、後嵯峨院の御時より被定しかば、今度の春宮をば持明院殿御方に立進せらる。天下の事小大となく、関東の計として、叡慮にも任られざりしかば、御元服の義を改られ、梨本の門跡に御入室有て、承鎮親王の御門弟と成せ給ひて、一を聞て十を悟る御器量、世に又類も無りしかば、一実円頓の花匂を、荊渓の風に薫じ、三諦即是の月の光を、玉泉の流に浸せり。されば消なんとする法燈を挑げ、絶なんとする恵命を継んこと、只此門主の御時なるべしと、一山掌を合せて悦、九院首を傾て仰奉る。第四の宮も同御腹にてぞをはしける。是は聖護院二品親王の御附弟にてをはせしかば、法水を三井の流に汲、記■を慈尊の暁に期し給ふ。此外儲君儲王の選、竹苑椒庭の備、誠に王業再興の運、福祚長久基、時を得たりとぞ見へたりける。


5 中宮御産御祈之事付俊基偽篭居事

元亨二年の春の比より、中宮懐姙の御祈とて、諸寺・諸山の貴僧・高僧に仰て様々の大法・秘法を行はせらる。中にも法勝寺の円観上人、小野文観僧正二人は、別勅を承て、金闕に壇を構、玉体に近き奉て、肝胆を砕てぞ祈られける。仏眼、金輪、五壇の法・一宿五反孔雀経・七仏薬師熾盛光・烏蒭沙摩、変成男子の法・五大虚空蔵・六観音・六字訶臨、訶利帝母・八字文殊、普賢延命、金剛童子の法、護摩煙は内苑に満、振鈴の声は掖殿に響て、何なる悪魔怨霊なりとも、障碍を難成とぞ見へたりける。加様に功を積、日を重て、御祈の精誠を尽されけれども、三年まで曾て御産の御事は無りけり。後に子細を尋れば、関東調伏の為に、事を中宮の御産に寄て、加様に秘法を修せられけると也。是程の重事を思食立事なれば、諸臣の異見をも窺ひ度思召けれども、事多聞に及ばゝ、武家に漏れ聞る事や有んと、憚り思召れける間、深慮智化の老臣、近侍の人々にも仰合らるゝ事もなし。只日野中納言資朝・蔵人右少弁俊基・四条中納言隆資・尹大納言師賢・平宰相成輔計に、潛に仰合られて、さりぬべき兵を召けるに、錦織の判官代、足助次郎重成、南都北嶺の衆徒、少々勅定に応じてげり。彼俊基は累葉の儒業を継で、才学優長成しかば、顕職に召仕れて、官蘭台に至り、職々事を司れり。然る間出仕事繁して、籌策に隙無りければ、何にもして暫篭居して、謀叛の計畧を回さんと思ける処に、山門横川の衆徒、款状を捧て、禁庭に訴る事あり。俊基彼奏状を披て読申れけるが、読誤りたる体にて、楞厳院を慢厳院とぞ読たりける。座中の諸卿是を聞て目を合て、「相の字をば、篇に付ても作に付ても、もくとこそ読べかりける。」と、掌を拍てぞ笑はれける。俊基大に恥たる気色にて、面を赤て退出す。夫より恥辱に逢て、篭居すと披露して、半年計出仕を止、山臥の形に身を易て、大和・河内に行て、城郭に成ぬべき処々を見置、東国・西国に下て、国の風俗、人の分限をぞ窺見られける。


6 無礼講事付玄恵文談事

爰に美濃国住人、土岐伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長と云者あり。共に清和源氏の後胤として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々の縁を尋て、眤び近かれ、朋友の交已に浅からざりけれども、是程の一大事を無左右知せん事、如何か有べからんと思はれければ、猶も能々其心を窺見ん為に、無礼講と云事をぞ始られける。其人数には、尹大納言師賢・四条中納言隆資・洞院左衛門督実世・蔵人右少弁俊基・伊達三位房游雅・聖護院庁の法眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎次郎国長等也。其交会遊宴の体、見聞耳目を驚せり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱で髻を放ち、法師は衣を不着して白衣になり、年十七八なる女の、盻形優に、膚殊に清らかなるをに十余人、褊の単へ計を着せて、酌を取せければ、雪の膚すき通て、大液の芙蓉新に水を出たるに異ならず。山海の珍物を尽し、旨酒泉の如くに湛て、遊戯舞歌ふ。其間には只東夷を可亡企の外は他事なし。其事と無く、常に会交せば、人の思咎むる事もや有んとて、事を文談に寄んが為に、其比才覚無双の聞へありける玄恵法印と云文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行せける。彼法印謀叛の企とは夢にも不知、会合の日毎に、其席に臨で玄を談じ理を折。彼文集の中に、「昌黎赴潮州」と云長篇有り。此処に至て、談義を聞人々、「是皆不吉の書なりけり。呉子・孫子・六韜・三略なんど社、可然当用の文なれ。」とて、昌黎文集の談義を止てげり。此韓昌黎と申は、晩唐の季に出て、文才優長の人なりけり。詩は杜子美・李太白に肩を双べ、文章は漢・魏・晋・宋の間に傑出せり。昌黎が猶子韓湘と云者あり。是は文字をも嗜ず、詩篇にも携らず、只道士の術を学で、無為を業とし、無事を事とす。或時昌黎韓湘に向て申けるは、「汝天地の中に化生して、仁義の外に逍遥す。是君子の恥処、小人の専とする処也。我常に汝が為に是を悲むこと切也。と教訓しければ、韓湘大にあざ笑て、「仁義は大道の廃たる処に出、学教は大偽の起時に盛也。吾無為の境に優遊して、是非の外に自得す。されば真宰の臂を掣て、壷中に天地を蔵し、造化の工を奪て、橘裡に山川を峙つ。却て悲らくは、公の只古人の糟粕を甘て、空く一生を区々の中に誤る事を。」と答ければ、昌黎重曰、「汝が所言我未信、今則造化の工を奪事を得てんや。」と問に、韓湘答事無して、前に置たる瑠璃の盆を打覆て、軈て又引仰向けたるを見れば、忽に碧玉の牡丹の花の嬋娟たる一枝あり。昌黎驚て是を見に、花中に金字に書る一聯の句有り。「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思を成して、是を読で一唱三嘆するに、句の優美遠長なる体製のみ有て、其趣向落着の所を難知。手に採て是を見んとすれば、忽然として消失ぬ。是よりしてこそ、韓湘仙術の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後昌黎仏法を破て、儒教を貴べき由、奏状を奉ける咎に依て、潮州へ流さる。日暮馬泥で前途程遠し。遥に故郷の方を顧ば、秦嶺に雲横て、来つらん方も不覚。悼で万仞の嶮に登らんとすれば、藍関に雪満て行べき末の路も無し。進退歩を失て、頭を回す処に、何より来れるともなく、韓湘悖然として傍にあり。昌黎悦で馬より下、韓湘が袖を引て、泪の中に申けるは、「先年碧玉の花の中に見へたりし一聯の句は、汝我に予左遷の愁を告知せるなり。今又汝爰に来れり。料り知ぬ、我遂に謫居に愁死して、帰事を得じと。再会期無して、遠別今にあり。豈悲に堪んや。」とて、前の一聯に句を続で、八句一首と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此詩を袖に入て、泣々東西に別にけり。誠哉、「痴人面前に不説夢」云事を。此談義を聞ける人々の忌思けるこそ愚なれ。


7 頼員回忠事

謀反人の与党、土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行斉藤太郎左衛門尉利行が女と嫁して、最愛したりけるが、世中已に乱て、合戦出来りなば、千に一も討死せずと云事有まじと思ける間、兼て余波や惜かりけん、或夜の寝覚の物語に、「一樹の陰に宿り、同流を汲も、皆是多生の縁不浅、況や相馴奉て已三年に余れり。等閑ならぬ志の程をば、気色に付け、折に触ても思知り給ふらん。去ても定なきは人間の習、相逢中の契なれば、今若我身はかなく成ぬと聞給ふ事有ば、無らん跡までも貞女の心を失はで、我後世を問給へ。人間に帰らば、再び夫婦の契を結び、浄土に生れば、同蓮の台に半座を分て待べし。」と、其事と無くかきくどき、泪を流てぞ申ける。女つく/゛\と聞て、「怪や何事の侍ぞや。明日までの契の程も知らぬ世に、後世までの荒増は、忘んとての情にてこそ侍らめ。さらでは、かゝるべしとも覚ず。」と、泣恨て問ければ、男は心浅して、「さればよ、我不慮の勅命を蒙て、君に憑れ奉る間、辞するに道無して、御謀反に与しぬる間、千に一も命の生んずる事難し。無端存る程に、近づく別の悲さに、兼加様に申也。此事穴賢人に知させ給ふな。」と、能々口をぞ堅めける。彼女性心の賢き者也ければ、夙にをきて、つく/゛\と此事を思ふに、君の御謀叛事ならずば、憑たる男忽に誅せらるべし。若又武家亡なば、我親類誰かは一人も残るべき。さらば是を父利行に語て、左近蔵人を回忠の者に成し、是をも助け、親類をも扶けばやと思て、急ぎ父が許に行、忍やかに此事を有の侭にぞ語りける。斉藤大に驚き、軈て左近蔵人を呼寄せ、「卦る不思議を承る、誠にて候やらん。今の世に加様の事、思企給はんは、偏に石を抱て淵に入る者にて候べし。若他人の口より漏なば、我等に至まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急御辺の告知せたる由を、六波羅殿に申て、共に其咎を遁んと思ふは、何か計給ふぞ。」と、問ければ、是程の一大事を、女性に知らする程の心にて、なじかは仰天せざるべき、「此事は同名頼貞・多治見四郎二郎が勧に依て、同意仕て候。只兎も角も、身の咎を助る様に御計候へ。」とぞ申ける。夜未明に、斉藤急ぎ六波羅へ参て、事の子細を委く告げ申ければ、則時をかへず鎌倉へ早馬を立て、京中・洛外の武士どもを六波羅へ召集て、先着到をぞ付られける。其比摂津国葛葉と云処に、地下人代官を背て合戦に及事あり。彼本所の雑掌を、六波羅の沙汰として、庄家にしすへん為に、四十八箇所の篝、並在京人を催さるゝ由を被披露。是は謀叛の輩を落さじが為の謀也。土岐も多治見も、吾身の上とは思も寄らず、明日は葛葉へ向ふべき用意して、皆己が宿所にぞ居たりける。去程に、明れば元徳元年九月十九日の卯刻に、軍勢雲霞の如に六波羅へ馳参る。小串三郎左衛門尉範行・山本九郎時綱、御紋の旗を給て、打手の大将を承て、六条河原へ打出、三千余騎を二手に分て、多治見が宿所錦小路高倉、土岐十郎が宿所、三条堀河へ寄けるが、時綱かくては如何様大事の敵を打漏ぬと思けるにや、大勢をば態と三条河原に留て、時綱只一騎、中間二人に長刀持せて、忍やかに土岐が宿所へ馳て行き、門前に馬をば乗捨て、小門より内へつと入て、中門の方を見れば、宿直しける者よと覚て、物具・太刀・々、枕に取散し、高鼾かきて寝入たり。廐の後を回て、何にか匿地の有と見れば、後は皆築地にて、門より外は路も無し。さては心安しと思て、客殿の奥なる二間を颯と引あけたれば、土岐十郎只今起あがりたりと覚て、鬢髪を撫揚て結けるが、山本九郎を屹と見て、「心得たり。」と云侭に、立たる大刀を取、傍なる障子を一間蹈破り、六間の客殿へ跳出、天井に大刀を打付じと、払切にぞ切たりける。時綱は態敵を広庭へ帯出し、透間も有らば生虜んと志て、打払ては退、打流しては飛のき、人交もせず戦て、後を屹と見たれば、後陣の大勢二千余騎、二の関よりこみ入て、同音に時を作る。土岐十郎久く戦ては、中々生捕れんとや思けん、本の寝所へ走帰て、腹十文字にかき切て、北枕にこそ臥たりけれ。中間に寝たりける若党どもゝ、思々に討死して、遁るゝ者一人も無りけり。首を取て鋒に貫て、山本九郎は是より六波羅へ馳参る。多治見が宿所へは、小串三郎左衛門範行を先として、三千余騎にて推寄たり。多治見は終夜の酒に飲酔て、前後も不知臥たりけるが、時の声に驚て、是は何事ぞと周障騒ぐ。傍に臥たる遊君、物馴たる女也ければ、枕なる鎧取て打着せ、上帯強く縮させて、猶寝入たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六、傾城に驚されて、太刀計を取て、中門に走出で、目を磨々四方を岐と見ければ、車の輪の旗一流、築地の上より見へたり。孫六内へ入て、「六波羅より打手の向て候ける。此間の御謀反早顕たりと覚候。早面々太刀の目貫の堪ゑん程は切合て、腹を切れ。」と呼て、腹巻取て肩になげかけ、廾四差たる胡■と、繁藤の弓とを提て、門の上なる櫓へ走上り、中差取て打番ひ、狭間の板八文字に排て、「あらこと/゛\しの大勢や。我等が手柄のほどこそ顕たれ。抑討手の大将は誰と申人の向れて候やらん。近付て箭一請て御覧候へ。」と云侭に、十二束三伏、忘るゝ計引しぼりて、切て放つ。真前に進だる狩野下野前司が若党に、衣摺助房が胄のまつかう、鉢付の板まで、矢先白く射通して、馬より倒に射落す。是を始として、鎧の袖・草摺・胄鉢とも不言、指詰て思様に射けるに、面に立たる兵廾四人、矢の下に射て落す。今一筋胡■に残たる矢を抜て、胡■をば櫓の下へからりと投落し、「此矢一をば冥途の旅の用心に持べし。」と云て腰にさし、「日本一の剛者、謀叛に与し自害する有様見置て人に語れ。」と高声に呼て、太刀の鋒を口に呀て、櫓より倒に飛落て、貫てこそ死にけれ。此間に多治見を始として、一族若党廾余人物具ひし/\と堅め、大庭に跳出で、門の関の木差て待懸たり。寄手雲霞の如しと云へども、思切たる者どもが、死狂をせんと引篭たるがこはさに、内へ切て入んとする者も無りける処に、伊藤彦次郎父子兄弟四人、門の扉の少し破たる処より、這て内へぞ入たりける。志の程は武けれども、待請たる敵の中へ、這て入たる事なれば、敵に打違るまでも無て、皆門の脇にて討れにけり。寄手是を見て、弥近く者も無りける間、内より門の扉を推開て、「討手を承るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉。早是へ御入候へ。我等が頭共引出物に進せん。」と、恥しめてこそ立たりけれ。寄手共敵にあくまで欺れて、先陣五百余人馬を乗放して、歩立に成、喚て庭へこみ入。楯篭る所の兵ども、とても遁じと思切たる事なれば、何へか一足も引べき。二十余人の者ども、大勢の中へ乱入て、面もふらず切て廻る。先駈の寄手五百余人、散々に切立られて、門より外へ颯と引く。されども寄手は大勢なれば、先陣引けば二陣喚て懸入。々々ば追出、々々せば懸入り、辰刻の始より午刻の終まで、火出る程こそ戦けれ。加様に大手の軍強ければ、佐々木判官が手者千余人、後へ廻て錦小路より、在家を打破て乱入る。多治見今は是までとや思けん、中門に並居て、二十二人の者ども、互に差違々々、算を散せる如く臥たりける。追手の寄手共が、門を破りける其間に、搦手の勢共乱入り、首を取て六波羅へ馳帰る。二時計の合戦に、手負死人を数るに、二百七十三人也。


8 資朝俊基関東下向事付御告文事

土岐・多治見討れて後、君の御謀叛次第に隠れ無りければ、東使長崎四郎左衛門泰光、南条次郎左衛門宗直二人上洛して、五月十日資朝・俊基両人を召取奉る。土岐が討れし時、生虜の者一人も無りしかば、白状はよも有らじ、さりとも我等が事は顕れじと、無墓憑に油断して、曾て其用意も無りければ、妻子東西に逃迷ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝は大路に引散されて、馬蹄の塵と成にけり。彼資朝卿は日野の一門にて、職大理を経、官中納言に至りしかば、君の御覚へも他に異して、家の繁昌時を得たりき。俊基朝臣は身儒雅の下より出で、望勲業の上に達せしかば、同官も肥馬の塵を望み、長者も残盃の冷に随ふ。宜哉「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是孔子の善言、魯論に記する処なれば、なじかは違べき。夢の中に楽尽て、眼前の悲云に来れり。彼を見是を聞ける人毎に、盛者必衰の理を知らでも、袖をしぼりゑず。同二十七日、東使両人、資朝・俊基を具足し奉て、鎌倉へ下着す。此人々は殊更謀叛の張本なれば、軈て誅せられぬと覚しかども、倶に朝廷の近臣として、才覚優長の人たりしかば、世の譏り君の御憤を憚て、嗷問の沙汰にも不及、只尋常の放召人の如にて、侍所にぞ預置れける。七月七日、今夜は牽牛・織女の二星、烏鵲橋を渡して、一年の懐抱を解夜なれば、宮人の風俗、竹竿に願糸を懸け、庭前に嘉菓を列て、乞巧奠を修る夜なれ共、世上騒しき時節なれば、詩歌を奉る騒人も無く、絃管を調る伶倫もなし。適上臥したる月卿雲客も、何と無く世中の乱、又誰身上にか来んずらんと、魂を消し肝を冷す時分なれば、皆眉を顰め面を低てぞ候ける。夜痛深て、「誰か候。」と召れければ、「吉田中納言冬房候。」とて御前に候す。主上席を近て仰有けるは、「資朝・俊基が囚れし後、東風猶未静、中夏常に危を蹈む。此上に又何なる沙汰をか致んずらんと、叡慮更に不穏。如何して先東夷を定べき謀有ん。」と、勅問有ければ、冬房謹で申けるは、「資朝・俊基が白状有りとも承候はねば、武臣此上の沙汰には及ばじと存候へども、近日東夷の行事、楚忽の義多候へば、御油断有まじきにて候。先告文一紙を下されて、相摸入道が忿を静め候ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食れけん、「さらば軈て冬房書。」と仰有ければ、則御前にして草案をして、是を奏覧す。君且叡覧有て、御泪の告文にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭はせ給へば、御前に候ける老臣、皆悲啼を含まぬは無りけり。頓て万里小路大納言宣房卿を勅使として、此告文を関東へ下さる。相摸入道、秋田城介を以て告文を請取て、則披見せんとしけるを、二階堂出羽入道々蘊、堅く諌めて申けるは、「天子武臣に対して直に告文を被下たる事、異国にも我朝にも未其例を承ず。然を等閑に披見せられん事、冥見に付て其恐あり。只文箱を啓ずして、勅使に返進せらるべきか。」と、再往申けるを、相摸入道、「何か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行に読進せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読ける時に、利行俄に眩衄たりければ、読はてずして退出す。其日より喉下に悪瘡出て、七日が中に血を吐て死にけり。時澆季に及で、道塗炭に落ぬと云ども、君臣上下の礼違則は、さすが仏神の罰も有けりと、是を聞ける人毎に、懼恐ぬは無りけり。「何様資朝・俊基の隠謀、叡慮より出し事なれば、縦告文を下されたりと云ども、其に依るべからず。主上をば遠国へ遷し奉べし。」と、初は評定一決してけれども、勅使宣房卿の被申趣げにもと覚る上、告文読たりし利行、俄に血を吐て死たりけるに、諸人皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道も、さすが天慮其憚有りけるにや、「御治世の御事は朝議に任せ奉る上は、武家綺ひ申べきに非ず。」と、勅答を申て、告文を返進せらる。宣房卿則帰洛して、此由を奏し申れけるにこそ、宸襟始て解て、群臣色をば直されけれ。去程に俊基朝臣は罪の疑しきを軽じて赦免せられ、資朝卿は死罪一等を宥められて、佐渡国へぞ流されける。