大塩平八郎 (森鴎外)
一、西町奉行所
八年 の 二月十九日の 七つ に、大阪 の門を くものがある。西町奉行所と云ふのは、大阪城の の方角から、 を西へ行つて、 に掛からうとする北側にあつた。此頃はもう四年前から引き続いての で、やれ 、やれ と、 も用事が えない。それにきのふの に、 の 奉行所へ に つて帰つてからは、奉行 は何かひどく心せはしい様子で、急に 吉田 を呼び寄せて、長い間密談をした。それから東町奉行所との間に して、けふ十九日にある であつた堀の の巡見が になつた。それから家老 を て、 のもの一同に、 と 、格別に用心するやうにと云ふ しがあつた。そこで門を かれた時、門番がすぐに立つて出て、外に来たものの姓名と用事とを聞き取つた。
門外に来てゐるのは二
の少年であつた。一 は東組町 の 、今一人は同組同心 の倅 と つた。 は一大事があつて吉見九郎右衛門の を持参したのを、ぢきにお に差し出したいと云ふことである。何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。門番は なく をあけて二人の少年を入れた。まだ の けた光が の を に つてゐる時で、 の空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。 は十六歳、 は十八歳である。
「お奉行様にぢきに差し上げる
があるのだな。」門番は念を押した。「はい。ここに持つてをります。」英太郎が
を さした。「お前がその吉見九郎右衛門の
か。なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」「父は病気で寝てをります。」
「
東のお奉行所 のものの なら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」「西のお奉行様にでなくては申し上げられぬと、父が申しました。」
「ふん。さうか。」門番は
の方に向いた。「お前はなぜ附いて来たのか。」「大切な事だから、
の無いやうに で けと、吉見のをぢさんが言ひ附けました。」「ふん。お前は河合と言つたな。お前の
は承知してお前をよこしたのかい。」「父は正月の二十七日に出た
、帰つて来ません。」「さうか。」
門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。吉見の父が少年二人を
に出したので、門番も を起さずに応対して、 つて運びが好かつた。門番の聞き取つた所を、当番のものが に届ける。中泉が堀に申し上げる。間もなく堀の指図で、中泉が二人を長屋に呼び入れて、一応取り調べた上 を受け取つた。堀は
の を いで、去年十一月に西町奉行になつて、やう/\今月二日に到着した。東西の町奉行は をして職務を つてゐて、今月は堀が である。東町奉行 も去年四月に現職に任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、 に 一 の があるので、堀は き して ふと云ふ風になつてゐる。町奉行になつて大阪に来たものは、 と云つて、前からゐる町奉行と一しよに三度に分けて市中を巡見する。 が 、二度目が南組、三度目が である。北組、南組とは は 北側、 は 、 以西は を にして、市中を二分してあるのである。 とは北組の になつてゐる より更に北方に当る地域で、東は から西は の までの間、 の 、 、 等を含んでゐる。北組が二百五十町、南組が二百六十一町、天満組が百九町ある。予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に 附近の に出て、 七つ には天満橋筋 を東に る北側の、 東組与力 が屋敷で休息するのであつた。 とは新任の奉行を迎へに江戸に往つて、 の総代として を述べ、引き続いて其奉行の在勤中、 の用を す与力一 同心二 で、朝岡は其与力である。 るにきのふの御用日の朝、月番 の東町奉行所へ に往くと、其前日十七日の夜東組同心 と云ふものの の事を聞せられた。一大事と云ふ が堀の耳を打つたのは が であつた。それからはどんな事が起つて来るかと、 も 寝ずに心配してゐる。今 が一大事の訴状を持つて二人の少年が来たと云ふのを聞くと、堀はすぐにあの事だなと思つた。堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した の内容は、 の事の発明ではなくて、 の事の として期待せられてゐるのである。堀は訴状を
した。胸を らせながら最初から読んで行くと、 してきのふ に聞いた、あの事である。 の 、その などの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の である。堀が今少しく しく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、 、 である。きのふから気に掛かつてゐる 一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考へながら読むので、 もすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。はつと思つては又読み返す。やう/\読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐる事の外に、これ の事が残つた。陰謀の与党の中で、筆者と東組与力 、同組同心 との三人は首領を めて陰謀を めさせようとした。 し首領が聴かぬ。そこで河合は した。筆者は正月三日 に風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を て首領にことわらせた。 では事を挙げられる日になつても 働く事は出来ぬから、切腹して びようと云つたのである。渡辺は首領の返事を伝へた。そんならゆる/\保養しろ。場合によつては ち けと云ふことである。これを伝へると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退を共にすると決心したことを話した。次いで首領は と渡辺とを見舞によこした。筆者は病中やう/\の事で訴状を書いた。それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、 を頼むべき人が無い。そこで を らつて をする。筆者は自分と倅英太郎以下の血族との を願ひたい。 も自分は を し られる時には、 召し捕つて ひたい。或は に自殺するかも知れない。 、 けなどゝ云ふことにせられては、病体で ぎ ねるから、それは にして貰ひたい。倅英太郎は首領の立てゝゐる塾で、 のやうになつてゐて帰つて来ない。 に 自分と一族とを して貰ひたい。それから西組 に と云ふものがある。これは首領に まれてゐるから、保護を加へて貰ひたいと云ふのである。読んでしまつて、堀は前から
いてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の の念を起さずにはゐられなかつた。形式に まれた役人生涯に慣れてはゐても、成立してゐる秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある を、 の忠誠だと ることは、 れ附いた人間の感情が許さない。その上自分の心中の を去ることを んずる人程 つて他人の意中の を くに なるものである。九郎右衛門は一しよに し られたいと云ふ。それは を引く い心ではなくて、与党を れ、世間を る臆病である。又自殺するかも知れぬと云ふ。それは ない。自殺することが出来るなら、なぜ づ自殺して後に訴状を さうとはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて るものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、 らずに めば るまいとする筈である。 だなとは思つたが、 れた堀は、 のお役に立つ のものを の間にも非難しようとはしない。家老に言ひ付けて、少年二人を りへ出させた。「吉見英太郎と云ふのはお前か。」
「はい。」
らしい目を見張つて、存外 れた様子もなく堀を ぎ た。「父九郎右衛門は病気で寝てをるのぢやな。」
「
の で持病の が起りまして、 が ひませぬ。」「
にはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる
に けて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞に参つた時の事でございます。それから一しよに塾にゐる河合 と相談いたしまして、昨晩 つ に抜けて帰りました。先生の所にはお客が ありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を んだ。堀は
く待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。「それからどういたした」と、堀が問うた。「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」
「さうか。」東組与力瀬田
、同小泉 の二人が に加はつてゐると云ふことは、平山の にもあつたのである。堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か。」
「はい。」
の い英太郎と違つて、これは な少年であるが、同じやうに が いてゐて、 する は無い。「お前の父はどういたしたのぢや。」
「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、
で せられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の を連れて、 へ参ると云つて出ましたが、それ どちらへ参つたか、帰りません。」「さうか。もう
しい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。「いかが取り計らひませう」と、中泉が主人の
を伺つた。「番人を附けて
め置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。堀は居間に帰つて不安らしい様子をしてゐたが、
しげに手紙を書き出した。これは東町奉行に宛てて、当方にも があつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、 参上すると書いたのである。堀はそれを持たせて を出した で、暫く をして ひて気を落ち着けようとしてゐた。堀はきのふ
に陰謀者の を聞いた。けふの巡見を取り止めたのはそのためである。 るに 三月と書いて日附をせぬ吉見の訴状には、その方略は書いてない。吉見が未明に を に出したのを見ると方略を知らぬのではない。書き入れる がなかつたのだらう。東町奉行所へ訴へた平山は、今月十五日に渡辺良左衛門が来て、十九日の を話し、翌十六日に同志一同が集まつた席で、首領が方略を打ち明けたと云つたさうである。それは跡部と自分とが与力朝岡の に休息してゐる所へ つて ようと云ふのである。一体吉見の訴状にはなんと云つてあつたか、それに添へてある にはどう書いてあるか、好く見て置かうと堀は考へて、書類を の中から出した。堀は不安らしい
をして、二つの をあちこち べた。陰謀に対してどう云ふ手段を取らうと云ふ成案がないので、すぐに の所へ往かずに書面を つたが、安座して考へても、思案が まらない。 し何かせずにはゐられぬので、文書を調べ始めたのである。訴状には「
、 、 の 」と書いてある。 には の役人を し、次に金持の町人共を すと云つてある。 に 恐ろしい陰謀である。昨晩跡部からの書状には、 な与力共の によれば、さ程の事でないかも知れぬから、 て打ち合せたやうに を出すことは せてくれと云つてあつた。それで少し安心して、こつちから吉田を出すことも控へて置いた。併し の がかう符合して見れば、容易な事ではあるまい。跡部はどうする だらうか。手紙を つたのだから、なんとか云つて来さうなものだ。こんな事を考へて、堀は時の移るのをも知らずにゐた。
二、東町奉行所
東町奉行所で、奉行
が堀の手紙を受け取つたのは、 六つ 頃であつた。大阪の東町奉行所は城の
の外、京橋 と との で、 の 東側にあつた。東は城、西は谷町の通である。南の には街を隔てて がある。北は京橋通の で、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。 庭の に梅の があつて、少し展望を るだけである。跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の
した陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、 は東組与力の中で、あれかこれかと なものを り抜いて、とう/\ 、 、 の三人を呼び出した。 と四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。「あの先生は学問はえらいが、 で困ります」などと、四郎助が云つたこともある。「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに して来て、六寸もある を頭からめり/\と ん食べたさうでございます」と云つた。それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍 にしてゐる。そこを見込んで跡部が呼び出したのである。さて
の事を言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、 久しく顔を見合せて考へた上で云つた。平山が はいかにも とは信ぜられない。例の の放言を に受けたのではあるまいか。お はいたすが、 ながら様子を見て、いよ/\ と知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を のあたり見た跡部は、一層切実に しい陰謀事件が かも知れぬと云ふ想像に伴ふ、一種の安心を感じた。そこで逮捕を見合せた。跡部は
等の話を聞いてから考へて見て、平山に今一度一大事を聞いた前後の事を しく聞いて置けば好かつたと後悔した。をとつひの夜平山が来て、 野々村次平に取り次いで つて、 一大事の をした時、跡部は急に思案して、 な手段を取つた。尋常なら平山を め いて、陰謀を鎮圧する手段を取るべきであるのに、跡部はその決心が出来なかつた。若し平山を留め置いたら、陰謀者が露顕を悟つて、急に事を挙げはすまいかと れ、さりとて平山を手放して此土地に置くのも ないと思つたのである。そこで江戸で勘定奉行になつてゐる前任西町奉行矢部 定謙に当てた私信を書いて、平山にそれを持たせて、急に江戸へ立たせたのである。平山はきのふ 七つ に、 、 を連れて大阪を立つた。そして 十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が に着いた。意志の確かでない跡部は、荻野等三人の
をたやすく き れて、逮捕の事を せたが、既にそれを見合せて置いて見ると、その見合せが自分の責任に帰すると云ふ所から、 が生じて来た。延期は自分が めて堀に言つて つた。 し手遅れと云ふ問題が起ると、堀は れて自分は免れぬのである。跡部が丁度この に生じた に悩まされてゐる所へ、堀の が手紙を持つて来た。同じ陰謀に就いて西奉行所へも が出た、今日当番の瀬田、小泉に油断をするなと云ふ手紙である。跡部は此手紙を読んで突然決心して、当番の瀬田、小泉に手を着けることにした。此決心には少し不思議な処がある。堀の手紙には何一つ前に平山が訴へたより以上の事実を書いては無い。瀬田、小泉が陰謀の与党だと云ふことは、既に平山が云つたので、荻野等三人に内命を下すにも、跡部は綿密な警戒をした。さうして見れば、堀の手紙によつて得た所は、今まで平山一人の
で聞いてゐた事が、更に吉見と云ふものの訴で繰り返されたと云ふに過ぎない。これには決心を す動機としての価値は 無い。 るにその決心が跡部には出来て、前には に るやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする。これは一昨日の夜平山の を聞いた時にすべき決心を、今偶然の機縁に触れてしたやうなものである。跡部は荻野等を呼んで、二
を へることを命じた。その はかうである。奉行所に詰めるものは、 づ刀を して の に ける。そこで ばかり してゐて、奉行に呼ばれると、脇差をも に抜いて置いて、 で の に出る。この御用談の間に呼んで捕へようと云ふのが手筈である。 し万一の事があつたら切り棄てる ないと云ふので、奉行所に せた剣術の師 が の役を引き受けた。さて跡部は瀬田、小泉の二人を呼ばせた。それを聞いた時、瀬田は「
を」と云つて便所に つた。小泉は一人いつもの まで来て、脇差を抜いて下に置かうとした。此畳廊下の横手に奉行の 部屋がある。小泉が脇差を下に置くや や、その近習部屋から一人の男が飛び出して、脇差に手を掛けた。「はつ」と思つた小泉は、一旦手を放した脇差を又 んだ。引き合ふはずみに つて、とう/\、小泉が手に が残つた。様子を見てゐた跡部が、「それ、切り棄てい」と云ふと、弓の まで踏み出した小泉の から、一条が の下へ二寸程切り附けた。次に右の を四寸程切り込んだ。小泉がよろめく所を、右の へ を一本食はせた。東組与力小泉 は十八歳を として、陰謀第一の犠牲として を した。花のやうな の妻があつたさうである。便所にゐた瀬田は
で庭へ飛び出して、一本の梅の木を足場にして、奉行所の北側の を乗り越した。そして を北へ渡つて、陰謀の首領 の家へ つた。
三、四軒屋敷
を東に つて、 から二軒目の南側で、 四軒屋敷の中に、東組与力 の がある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田 の弟に生れたのを、養父平八郎が つて置いて、七年前にお になる時、 に立たせたのである。 し此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。
玄関を上がつて右が
と云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を つて寄宿したものがある。左は講堂で、 と云ふ が かつてゐる。これだけの建物の内に してゐるものは、家族でも学生でも、 く平八郎が独裁の の に を屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる の学生に比べて、 の特権をも有してをらぬのである。東町奉行所で
の を れて、瀬田 が此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を の として聞くやうな、平穏無事の ではなかつた。 の はもう十日前に く ち かせてある。平八郎が二十六歳で に出た年に雇つた 、 の茶屋大黒屋 の娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、 の庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇 の二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ を附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ ち かせたのである。女子供がをらぬばかりでは無い。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それは
て門人の籍にゐる兵庫 の 、 縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が をする に、科料の に父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に つてからそれを く運び出させ、土蔵にあつた などをさへそれに加へて、書店 、同 、同 、同 の四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために する人民に すのだと云つて、 五丁目の で、親類や門下生に縁故のある 三十三町村のもの一万軒に、一 一 の を て配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、 はがらんとしてしまつた。今一つ此家の外貌が
けられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。 は武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は 与力 の門人で、 の を使ふ。当主格之助は同組同心故人 の門人で、中島流の を打つ。中にも砲術家は大筒をも へ火薬をも製する ではあるが、此家では が格別に になつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格之助の師 の 、孫 の両人を呼んで、今年の春 七 が で格之助に をさせる相談をした。それから平八郎、格之助の部屋の附近に をして、塾生を使つて火薬を製させる。 、 を作らせる。職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。 の材木を き切つた の大工 などがそれである。かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。 は人から買ひ取つた が一 、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人 の百姓兼質商 が土蔵の の松の木を つて作つた が二挺ある。 は石を運ぶ台だと云つて作らせた。要するに此半年ばかりの間に、 の地が次第に と雑 とを常とする になつてゐたのである。家がそんな
になつてゐて、そこへ つた門人共の寄り合つて、 の けるまで還らぬことが、此頃次第に なつて来てゐる。昨夜は隠居と当主との の家元、 の庄屋橋本忠兵衛、 で大塩家の生計を助けてゐる摂津 の百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心 、同組同心の倅近藤 、般若寺村の百姓 源右衛門、同倅 、 三番村の百姓 の八人が酒を飲みながら話をしてゐて、 いつもの人を するやうな調子の、隠居の声が漏れた。平生最も隠居に んでゐる此八人の門人は、とう/\屋敷に泊まつてしまつた。此頃は客があつてもなくても、勝手の は、兼て塾の をしてゐる が、人夫を使つて取り つてゐる。杉山は の庄屋で、何か があつて になつたものださうである。手近な用を すのは、格之助の若党 の曾我 、 、 である。女はうたと云ふ女中が一人、 のりつがお部屋に附いて ち いた で、 に を ひたがるのを、 め して き めてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、 杉山、若党曾我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫 がゐたのである。瀬田
はかう云ふ中へ駆け込んで来た。
四、宇津木と岡田と
新塾にゐる学生のうちに、三年前に来て寄宿し、翌年一旦立ち去つて、去年再び来た
と云ふものがある。平八郎の した の を した一 で、大塩の門人中学力の れた方である。此宇津木が一昨年九州に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎 の医師岡田 の子で、名を と云ふ。宇津木に連れられて親元を離れた時が十四歳だから、今年十六歳になつてゐる。
この岡田と云ふ少年が、けさ六つ半に目を
ました。職人が多く り むやうになつてから、随分騒がしい家ではあるが、けさは又格別である。がた/\、めり/\、みし/\と、物を打ち す音がする。しかと聴き定めようとして、 の上にすわつてゐるうちに、今毀してゐる物が だと云ふことが分かつた。それに つて人声がする。「役に立たぬものは ち棄てい」と云ふ がはつきり聞えた。岡田は な、思慮のある少年であつたが、余り思ひ掛けぬ事なので、一旦夢ではないかと思つた。それから宇津木先生はどうしてゐるかと思つて、 を ばして見ると、先生はいつもの に の を の下に むやうにして寝てゐる。物音は次第に しくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。岡田は
ね きた。宇津木の にゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。
「先生。えらい騒ぎでございますが。」
「うん。知つてをる。
は余り人を信じ過ぎて、君をまで に置いた。こらへてくれ へ。去年の秋からの の が、 だとは も思つた。それに門人中の 数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい をする。それを しいとは も思つた。 し己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。 が君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来て ると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、 り席を つて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お はどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。 は一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生 の学を めてゐる。あれは根本の だ。 るに今の天下の形勢は を んでゐる。民の は まつてゐる。 あらば、 しく るべしである。天下のために を除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」「はあ」と云つて、岡田は目を
つた。「先づ
の所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を つてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」「そんなら今
を げるのですね。」「さうだ。家には火を掛け、
せぬものは てゝ つと云ふのだらう。 しあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し がある。まあ、聞き へ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。 は明朝御返事をすると云つて一時を した。 し める機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ まらせよう。それが出来なかつたら、師となり となつたのが だ、 んじて死なうと決心した。そこで君だがね。」岡田は又「はあ」と云つて耳を
てた。「君は中斎先生の弟子ではない。
は君に此場を立ち いて ひたい。挙兵の時期が最も い。 しどうすると問ふものがあつたら、お をすると云ひ へ。さう云つて置いて逃げるのだ。 はゆうべ寝られぬから を した。それを今書いて君に る。それから京都 の と云ふものに、己の心血を いだ が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄 の へ往つて大林 と云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら はゆつくり起きて、机に れたが、 に筆を して、有り合せた 二枚に、一字の もなく の文章を書いた。書き つて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。岡田は草稿を受け取りながら、「
し先生」と何やら言ひ出しさうにした。宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。
手に草稿を持つた
、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。「先生の
、宇津木を つてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き れた門人 の声である。 の で、名は と云ふ。三十五歳になる。「
しい。しつかり り へ。」これは の声である。 の で、三十三歳になる。岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」
「
い。君早く逃げてくれ給へ。」「
し。」「早くせんと駄目だ。」
廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を
に ぢ込んで、机の所へ のやうに走り戻つて、鉄の を手に持つた。そして で庭に飛び下りて、 の中を つて、 にぴつたり身を寄せた。大井は
を手にして新塾に つて来た。先づ の みを つてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち まつた。 くして便所の戸に手を掛けて開けた。中から
の宇津木が、 たる態度で出て来た。大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀を
へながら らしく「先生のお だ」と云つた。宇津木は「うん」と云つた
、 に立つてゐる。大井は
を虎が ひ ねるやうに、 久しく立ち んでゐたが、やう/\思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて を けて切り した。宇津木が刀を受け取るやうに、 になつたので、 の が に六寸程骨まで切れた。宇津木は 立つてゐる。大井は少し てながら、二の で宇津木の腹を刺した。刀は の上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は へ押し倒して を刺した。にゐた岡田は、宇津木の を見届けるや や、塀に沿うて の へ抜ける非常口に駆け附けた。そして を で けて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。
五、門出
が東町奉行所の危急を れて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、 六つを少し過ぎた時であつた。
書斎の
をあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の 、その の医師の で に十四歳になる松本 、 五丁目の商人阿部 、 の百姓 、 門真三番村の百姓 、河内 の百姓 、河内 の百姓 、 西村の百姓 、 小川村の医師 、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は の上に してゐた。の 五尺五六寸の、 な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い は つてゐるが、 の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い に がある。 は短く めて つてゐる。 は薄い。一度 したことがあつて、口の悪い男には と云はれたと云ふが、 にもと かれる。
「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。
「さうだらう。
が になつたには、 がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の だ。」「小泉は
られました。」「さうか。」
目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。
平八郎は一座をずつと見わたした。「
ての の通りに打ち立たう。棄て置き いのは宇津木一 だが、その処置は大井と安田に任せる。」大井、安田の二
はすぐに たうとした。「まあ待て。打ち立つてからの順序は、
第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢや。」第一段とは朝岡の家を ふことで、第二段とは へ進むことである。これは に めてあつたのである。「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を
みると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた 伝七と、 を配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした を へ運び出す音がし出した。平八郎は
してゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに し、いかに生長し、いかなる曲折を て今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。 が自分の と とによつて、 として し げられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた 元年は泰平であつた。民の が の に つてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に に復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に が出来る。 がある。とう/\去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は があり、東北を として全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述に にして、 、 、同 、 、 の刻本が次第に完成し、 を富士山の に し、又 の によつて、宮崎、林崎の両文庫に めて、学者としての をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を いで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に かなることが出来なかつた。 もする。 に制限も加へる。 し民の は増すばかりで減じはせぬ。 に去年から与力内山を使つて東町奉行 の つてゐる が気に食はぬ。 によつて江戸へ米を するのは好い。 し しの米を京都に ることをも んで、 が大阪へ に出ると、 するのは何事だ。 は王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。 の と の とがこれまでになつたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以て せば、これが 必然の だとして するか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を し富豪を して其 を散ずるかの三つより あるまい。 は此不平に甘んじて してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために つてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\ と とによつて事を さうと思ひ立つた。 の財を発するには、 の を さんではならぬと考へたのだ。己が意を に決し、 を に し、格之助に をさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を うて加はつても、準備の つて行くのを顧みて、 を に求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に する もないが、又 する もない。準備をしてゐる久しい間には、 成功の時の光景が のやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に を く金持、それから の風に くやうに り する諸民が見えた。それが近頃はもうそんな も見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、 殿に信任せられて、 教徒を逮捕したり、 を したり、破戒僧を したりしてゐながら、老婆 の になる所や、 の切腹する所や、 の坊主が にせられる所を に見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、 の胸には一度も が さなかつた。今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が づ に動いて、 の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、 でも用に立てられる を握つてゐるやうに思つて、それを にした で、 もすれば其準備を永く準備の で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の つて来たのは、事柄其物が自然に つて来たのだと云つても好い。 が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を して走つたのだと云つても好い。一体 終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に
つて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、 の をする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を ち したとか、今 に積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、 に平八郎は そつちを見る である。さていよ/\
をすることになつた。場所は て東照宮の を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の の いてゐたのを知つた。行列の つ に押し立てたのは救民と書いた四 の である。次に中に 、右に 、左に と書いた旗、五七の に二つ の旗を立てゝ行く。次に が二 行く。次は大井と庄司とで を持つ。次に格之助が で、 の を めて行く。 の がそれに引き添ふ。次に が二挺と を持つた とが行く。次に 格之助と同じ支度の平八郎が、 の羽織、 で行く。 と杉山とが を持つて左右に随ふ。 と 、 とが に附き添ふ。次に の太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等 つた人々で、 に平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同 で、多くは を持つ。 へは 一 を かせ、 の 二十人を随へた瀬田で、 に若党 、中間 が附いてゐる。百余人が屋敷に火を掛け、 の を押し倒して繰り出したのが、朝五つ である。 づ主人の出勤した の、 朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、 の に出て、南へ まで進んで、 を西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、 して に向はうとするのである。
六、坂本鉉之助
東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の
を随へて来た。 は堀と相談して、 六つ にやう/\三箇条の をした。 の代官 に の を托したのが一つ。 の代官池田 に の東照宮、 方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力 が をしてゐる所へ を つて、 平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして 近くへ往くと、もう大塩の が繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ り、又 れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。大西へ
を つた で、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した を大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、 に火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。 は 近寄れぬと云つて帰つた。両奉行は鉄砲奉行
、 に、鉄砲同心を借りに つた。同心は二 の部下を せて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、 遠藤 に加勢を願つた。遠藤は公用人 に命じて、玉造組与力で 同心支配をしてゐる坂本 を に呼び出した。坂本は
の砲術者で、けさ をすると云つて、門人を城の にある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い へ出た。そこに月番の玉造組 、 三二郎、小島 が出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の だと告げた。これは大塩の屋敷に する猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡 に告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に の用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は へ呼ばれたのである。の伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の を答へて、上屋敷から大番所へ廻つて をした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、 の与力二人には 、本多 を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人 すことにした。集合の場所は と極めた。京橋組への伝達には、当番与力 勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。
が済んで、坂本は に帰つた。そして 、 で、 を持つて へ出向いた。 と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた は、 に二度催促せられて、京橋口へ つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一 を めて置いて、集合地を発した。 を西へ、東町奉行所を して進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。
坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡
と西組与力近藤三右衛門とが応接して、 を用意して ひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口 へ遣つた。昼 つ に跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した の展望を害する梅の木を ること、 に面した南手の と松の木とに丸太を結び附けて、 の板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が〈[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]〉との橋板をこはせと言ひ付けた。
から南へ したことを聞いた。そして の一組に と坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配
、 に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口 が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて らうと云つた。広瀬は
で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、 お に の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の が分かり兼ねます。 はどう考へられますか。」坂本は目を
つた。「 自分の役柄は も心得てをります。 し 遠藤殿の であつて見れば、 ひ を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の 拙者は をいたしてをります。」「いや。それは
御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の を るやうなわけで、体面にも るではありませんか。先年 の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の の者を貸すことは相成らぬと やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」「それは御同意がなり兼ねます。
の なら、拙者は誰の にでも附いて働きます。その上 が起つた場合は などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で へお になつて下さい。」「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し
しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」「
むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」「
らばお しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。そこへ京橋口を廻つて来た
が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、 くして同心三十人を連れて来た。 し自分は矢張 で、 も何も持たなかつた。坂本は庭に出て、今工事を片付けて
に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ は、 堀を城代 の所へ報告に つて置いて、書院から降りて来た。そして の火事を見てゐた。強くはないが、方角の まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか/\こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。
七、船場
大塩平八郎は
を西へ進みながら、平生 のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、 の から を南へ折れた。それから天満宮の を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、 て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に せ加はつたものの中に、砲術の のある と云ふ彦根浪人もあつた。平八郎は天神橋のこはされたのを見て、
を西に進んで、 を渡り、 を の に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた が、今難波橋の橋板を がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は の を見て、ばら/\と散つた。北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、
に がつてゐるので、もう く の にある。平八郎は 格之助、瀬田以下の つた人々を呼んで、 の に取り掛かれと命じた。北側の には 善右衛門、 庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の がゐる。南側の には三井、 等の がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと は、 方略に り めてあつたので、ここでも は自然に発展した。只 の だけは全く予定した所と相違して、 は身に られる の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち いてしまつた。 の は、大抵 を破壊せられたので、今橋筋には が道にばら いてあつた。平八郎は〈[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]〉の に を立てさせて、白井、橋本、其外 を にをらせ、腰に附けて出た を みながら、砲声の き渡り、 の え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した の を感じてゐた。昼八つ に平八郎は の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやう/\百五十人 りであつた。その つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を すことは出来たが、窮民を すことが出来ないからである。 発散した の財を、 に の衆の み取るに任せたからである。
人々は黙つて平八郎の
を つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。 くして瀬田が「まだ が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を り されたやうに を つて、「 い、そんなら をせう」と云つた。そして の を に分けて、自分達親子の一手は を渡り、瀬田の一手は を渡つて、 の に向ふことにした。
八、高麗橋、平野橋、淡路町
土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、
に土井の を伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と
とを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた すわつてゐた。堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや
や、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に を持たせて来てゐた。「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら
に立て」と堀が号令した。同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の
を聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き めて、西組与力同心の前に立つた。堀の手は
を西へ まで進んだ。丁度大塩 の ゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に が見えた。「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
広瀬が同心等に「打て」と云つた。
同心等の持つてゐた三
五 が のやうな音を立てた。堀の乗つてゐた馬が驚いて
ねた。堀はころりと馬から ちた。それを見て同心等は「それ、お が打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は に馬を かせて、 の に つて休息した。部下を失つた広瀬は、 をして京橋口に帰つて、同役馬場に を話して、一しよに東町奉行所前まで来て、 を隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。から高麗橋までは三丁余あるので、三 五 の射撃を、大塩の は知らずにしまつた。
堀が出た
の東町奉行所へ、玉造口へ往つた が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を すると、遠藤は岡 に当てて、 四人に大筒を持たせて、目附 方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百 を一 、脇勝太郎、 に三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ つた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。 は坂本が手の者と、今到着した与力四人とを せて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、 を南に折れ、それから へ出て、再び西へ曲らうとした。此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが
の に落ち合つて、南へ まで押して行き、 数軒に火を掛けて の に引き上げてゐた。さうすると から、 の の角をこつちへ曲がつて来る の が見えた。二町足らず隔たつた を に、格之助は を打たせた。跡部の手は停止した。与力
や同心 が、坂本に「打ちませうか/\」と催促した。坂本は敵が見えぬので、「待て/\」と制しながら、
の の角に立つて見てゐると、やう/\烟の中に の口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに をつるべかけた。烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が
まで開いてゐる。 近く進んで見ると、 が一人打たれて死んでゐた。坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に
んで引き返した。そして て敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、 を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう/\落馬した。思案橋を渡つて、
を西へ進む坂本の跡には、本多、 の外、同心山崎弥四郎、 等が切れ/″\に続いた。平野橋で跡部の手と衝突した大塩の
は、又逃亡者が出たので百人 になり、 を つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今 を西へ退く所である。北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の
を坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一 と との交叉点では、もう敵が見えなかつた。〈[#「着た」は底本では「来た」]〉大男がそれを かせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は 西側の紙屋の戸口に の積んであるのを に取つて、十 で らしい、 黒羽織を ふ。さうすると 東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が で坂本を狙ふ。坂本の にゐた本多が金助を見付けて、自分の で金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十 前へ出た。三人の筒は 同時に発射せられた。
との交叉点に来た時、坂本はやう/\敵の砲車を認めた。 を着た坂本の玉は
の腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の をかすつたが、坂本は 顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の は く をはづれた。坂本等は
久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に えて来る。四辻の に敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、 、 内一挺車台付、 三挺、其外 、旗、太鼓、火薬 、 、 等であつた。 のうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の だと云つた。玉に
つて死んだものは、 の大筒方の外には、淡路町の北側に が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に に倒れてゐた。 の 六尺余の大男で、 の黒羽織の下には、 の 、 の を着て、 をからげ、 も も着ずに、 に を いて、立派な の を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、 二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、 では の看板が の巣のやうに かれ、 の瓦が かれてゐたのである。は の首を斬らせて、 に かせ、 を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の が、途中から大塩の に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
跡部が
の辻にゐた所へ、堀が せた。堀は の で休息してゐると、一旦散つた が又ぽつ/\寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が の敵を ち けたので、堀は会所を出て、 で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて を命じ、 を南へ 迄出て、西に折れて を渡つた。これは本町を西に進んで、 して敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。 し のものが く へ/\とすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつ/\ つて、 では十三四人になつてしまふ。そのうち と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう/\ を北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の
まで引き上げて、二 は を分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ つた。坂本、本多、 、柴田、脇 に同心等は、 の で跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。
九、八軒屋、新築地、下寺町
梅田の
かせて行く を、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る/\ つて、 の車を く にも事を くやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が 無節制の状態に り掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、 勝手に射撃する。平八郎は くそれを見てゐたが、 つた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、 此場を ち いて、 るべく処決せられい」と云ひ渡した。集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、
、高橋、父 、西村、杉山と瀬田の若党 とであつたが、平八郎の を聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、 はなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして に固まつてゐる の残兵に の詞を伝達した。それを聞いて
と手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構へたやうに持つてゐた 、 つてゐた荷を棄てて、 に逃げるものもある。大抵は此場を け出ることが出来たが、安田が一 逃げおくれて、 に潜伏したために捕へられた。此時同勢の に の をして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩 の供がしたいと云つて つた。 な職人 から平八郎が の私欲を離れた処に感心したので、 ひて与党に入れられた を忘れて、生死を共にする気になつたのである。平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、
二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の へ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、 ぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く を ますことが出来た。此時
の方角は、もう騒動が済んでから く立つたので、焼けた家の から青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物にか して、黒く げた柱、地に ねた のかけらの を離れ兼ねてゐるやうな人、 の の る所に、 や の寄るやうに、何物をか し にうろついてゐる人などが、 に顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の ち く邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に になつて来て、 な、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。まだ鉄砲や を持つてゐる十四人は、 もなく、 に の町を つて、影のやうに を運びつつ の へ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の だけ残つた中に、青い火がちよろ/\と えてゐるのを、平八郎が足を めて見て、 から巻物を出して の中に投げた。これは陰謀の と軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた であつた。十四人はたつた今七八十人の同勢を
ゐて渡つた を、 世を隔てたやうな をして、同じ方向に渡つた。 に沿うて曲つて、 を過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、 に一 の舟が いであつた。船頭が一人 の方に つてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、 のやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に はせをして、此舟に飛び乗つた。 から十三人がどや/\と んだ。「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。
不意を打たれた船頭は器械的に
つて を解いた。舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十
、其外の人々は を水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆 を いで、これも水中に投げた。「どつちへでも好いから
いでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭に を らせた。火災に つたものの荷物を運び出す舟が、 にはばら いたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれに つて つたり だつたりしてゐても、誰も めるものはない。し器械的に働いてゐる船頭は、次第に して来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「 どこへお りなさいます。」
「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。
平八郎は
にゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」「へえ。これは済みません。直吉と申します。」
これからは船頭が素直に指図を聞いた。平八郎は
れてゐた を挙げて、「これから の をお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存と云ふのは大略かうである。 の は を して を つと云ふ事と、 を いて を救ふと云ふ事との二つを した者である。 るに は く敗れ、 は成るに として けた。主謀たる自分は天をも まず、人をも めない。 気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお である。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の として、 を分つて に り、 く処決して ひたい。自分等 は 思ひ置くこともないが、 には女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の へ往き、 するやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。平八郎の 以下は、初め の橋本方へ ち いて、それから の紙屋某 へ往つたのである。後に彼等が に いたのは京都であつたが、それは二人の妾が を残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。六つ頃から、 の人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父 、西村、 、高橋と瀬田に を貰つた との五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子を して つた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で になつて、 で死に、植松は京都で捕はれた。
に残つた人々は から に つて、 に上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎に つて を問うたが、 「いづれ れぬ身ながら、少し がある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は のないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。
一行は
く四つ橋の に立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ を求めに往くにしても、 を してゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助 、人々もこれに従つて刀を投げて、皆 ばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩く に附いて、一同 まで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても は尽きぬと云つて、 をした。後に白井は杉山を連れて、 の伯父の家に往き、 を借りて杉山と に髪を り、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち
で火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は で を かして、 から 、 を経て、自分と前後して へ つた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや
があるとは云つたが、別にかうと まつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。 は今暫く世の を見てゐようと思ふ。 も なく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共 を見届けます」と云つて、 から へ ることを に勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る の の に消えた。
十、城
けふの騒動が
て大阪の 土井の耳に つたのは、東町奉行 が 遠藤に加勢を うた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに を受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ
に 、 、 の面々を呼び集めた。城代土井は
の城主である。其下に居る のうち、まだ着任しない京橋口定番 は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は の城主である。定番の下には一年交代の が二人ゐる。東大番頭は の 、西大番頭は の北条 である。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各 四人、 四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。これ では守備が不足なので、幕府は の大名に 一万石 を つて に取つてゐる。 の一加番が越前大野の 、 の二加番が越後 の井伊 、 の三加番が の 、 の四加番が の小笠原 である。加番は各 五人、 六人、 九人、 六人、 七人、 二百二十四人を ゐて入城する。其内に 六十 弓二十 がある。又 が三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。定番、大番、加番の集まつた所で、土井は
九つ に城内を巡見するから、それまでに を固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは を ぎ出す。 上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行 は を分配する。 の つてゐた もあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は ならぬ混雑であつた。九つ時になると、両
が先導になつて、土井は 、 の諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井は 六つ に改めて巡見することにした。二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、
、 、 、 などから繰り出した兵が到着してゐる。に いてゐる城の は土井の である。 は門内の北にある。門前には を ひ、 を立て、土俵を築き上げて、 二門を ゑ、別に 二門が置いてある。門内には が控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平 の一番手三百三十余人が西向に陣取る。 同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に り、次いで の要求によつて 、 へ往つた。後に の一二番手も大手に加はつた。
大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、
の に京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部 の一番手二百余人、高槻の永井 の手、 淀の手が備へてゐる。京橋口定番の詰所の東隣は
である。焔硝蔵と の の青屋口との中間に、本丸に入る が掛かつてゐる。極楽橋から つた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、
の井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、 加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に を立ててゐる。玉造口
の詰所は に開いてゐる。玉造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には の三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内
を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。 に つてからは、城の内外の に を き ねて、 を すのであつた。跡部の には伏見奉行 、堀の役宅には堺奉行 が、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ
は、日暮頃から始まつたが、はか/″\しい働きも出来なかつた。 で の神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇 の所へ の向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して に飛び込んだ。 奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を したのも二十一日である。朝五つ時に
から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、 の にひろがつた。天満は東が川崎、西が 、 、 、越後町、 、南が大川、北が与力町を とし、大手前から へ掛けての市街は、 一丁目から三丁目までを 、 みそ筋から 筋までを 、 、 、 、 、 、 を 、大川、土佐堀川を として、一面の焦土となつた。 東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く えて来たので、 七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度 が谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、 六つ に谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の 五つ半である。 で言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、 、 で言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が に つたのである。
十一、二月十九日の後の一、信貴越
大阪
の が城内の と共に を し、 の原には避難した病人産婦の を聞く二月十九日の夜、 のとある に を寄せ合つて寒さを いでゐる四人があつた。これは の けぬ に へ越さうとして、身も心も疲れ果て、 一歩も進むことの出来なくなつた平八郎 と瀬田、渡辺とである。四人は翌二十日に
の に つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、 を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やう/\ の を見付けて け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の にならぬやうにすると云つて、手早く を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り が つたので、 助からぬと めて、平八郎が した。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は に四十を越したばかりであつた。二十一日の
になつても、大風雨は みさうな もない。平八郎 と瀬田とは、渡辺の を に残して、 の を出た。土地の百姓が死骸を見出して へたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は である。三人は風雨を
して、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやう/\ に んだが、肌まで れ つて、寒さは身に みる。 うじて の支流幾つかを渡つて、 に入つて に着いた。さて例の 人家を避けて、 の辻堂を捜し当てた。近辺から を集めて来て、おそる/\ をしてゐると、瀬田が して来た。いつも血色の悪い、 い顔が、 をしたやうに になつて、持前の が つてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其 は焚火の前に つて、 とも とも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を いで平八郎に ねさせたので、誰よりも強く寒さに されたものだらう。平八郎は瀬田に、 に 人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に を百姓家のある方へ往かせた。其 を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして の方角を して、格之助と一しよに、又 を歩き出した。瀬田は頭がぼんやりして、
ぢゆうの脈が を打つやうに耳に響く。狭い田の を踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。 もすれば の間の つた泥に足を み込む。やう/\一軒の百姓家の戸の から明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、 く休息させて ひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な ら顔の いさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、 の まうともせずに、 の に寄つて休めと云つた。 あさんが を がせて、足を洗つてくれた。瀬田は火の に横になるや や、目を閉ぢてすぐに をかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、 を抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。 の下にすわつた婆あさんは、 れて夫の を見送つた。瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は
けて行く。 から の人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、 鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに 満足して、 追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は に を打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の くなつたのを知つた。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程 に判断することが出来た。瀬田は
ね きた。 の りさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前に いさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。 の の あさんは、又 れてそれを見送つた。百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて
の がある。その奥を かして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田は く積もつた竹の葉を んで、松の下に往つて を探つた。懐には偶然 があつた。それを出してほぐして、低い枝に足を み めて、高い枝に投げ掛けた。そして を作つて自分の に掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい を遂げた。村役人を連れて帰つた いさんが、 の に死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉 に届けた。平八郎は格之助の
れ になるのを叱り励まして、二十二日の午後に の に入つた。それから日暮に で格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に つた。 くすると出て来て、「お前も頭を るのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が になつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の 六つ頃であつた。寺にゐた間は平八郎が
一 も物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」格之助も
には驚いた。「でも帰りましたら。」「
いから黙つて附いて来い。」平八郎は足の裏が
えるやうに逃げて来た道を、 したものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。 から見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺で と とに い を はれてからは、 を服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。 し一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふ が念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。
十二、二月十九日後の二、美吉屋
大阪
の、 を南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目に と云ふ の がある。主人五郎兵衛は六十二歳、妻つねは五十歳になつて、娘かつ、孫娘かくの 、 に 五人、 一人を使つてゐる。上下十人暮しである。五郎兵衛は年来大塩家に出入して、 の用を したこともあるので、二月十九日に暴動のあつた後は、町奉行所の で になつてゐる。此
で二月二十四日の晩に、いつものやうに主人が勝手に寝て、家族や奉公人を二階と台所とに寝させてゐると、 の五つ過に表の門を くものがある。主人が起きて だと問へば、 八五郎の だと云ふ。河内屋は て をしてゐる家なので、どんな用事があつて、 に つて人をよこしたかと りながら、庭へ降りて を開けた。戸があくとすぐに、衣の上に
の をはおつた僧侶が二人つと つて、低い声に力を入れて、早くその戸を めろと指図した。驚きながら見れば、二人共 に な を左の手に持つてゐる。五郎兵衛はがた/\震えて、返事もせず、身動きもしない。先に這入つた年上の僧が はせをすると、 から這入つた若い僧が五郎兵衛を押し けて をした。二人は
に腰を掛けて、 の を き始めた。五郎兵衛はそれを見てゐるうちに、再び驚いた。 をおろして は変つてゐても、大塩親子だと分かつたからである。「や。大塩様ではございませんか。」「名なんぞを言ふな」と、平八郎が叱るやうに云つた。二人は黙つて奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、
の小部屋に案内した。五郎兵衛が、「どうなさる か」と問ふと、平八郎は 「当分厄介になる」とだけ云つた。陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。
し平八郎の言ふことは、年来 のやうに此 いさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは 出来ない。其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく の功を奏してゐる。五郎兵衛は只二人を留めて置いて、 し人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、 を未来に し る工夫をするより外ない。そこで小部屋の をぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を へて運ぶことにした。一日立つ。二日立つ。いつは
ち いてくれるかと、老人夫婦は客の様子を つてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。 い人が来ては奥の間へ通ることもあるので、 の先にお を置くのが心配に堪へない。 に の家には、 の に がある。 は になつてゐて、 との間には、小さい戸口の附いた がある。それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る に附いてゐる。此離座敷なら家族も出入せぬから、奉公人に知られる もない。そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。そして を つて勝手へ出す時、 に取り分け、 、 、 の などを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。それを親子 で するのである。するうちに三月になつて、 にも奉公人の があつた。その時女中の一人が の に帰つてこんな話をした。美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様に へるのだらうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。
平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、
と云ふ土着のものが支配してゐる。其中の 平左衛門、 九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、 の に訴へた。陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。土井が 内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代の へ出して用を聞せる与力である。五郎兵衛は内山に せられて、すぐに実を告げた。土井は大目附〈[#ルビの「しやうごらう」は底本では「しやうごろう」]〉、菊地 の八人を附けて、これに逮捕を命じた。
に、岡野 、菊地鉄平、 啓次郎、 、 、 勇之助、斎藤三月二十六日の
四つ 、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに をして中屋敷に集合させた。中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の摸様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を にするやうにと云ふ城代の注文を告げた。岡野某は相談して、時田から を受け取つた。それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番を で めて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。岡野は重ねて、自分は 五十歳を過ぎて、 の もあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つて つて、次の二番から八番までの を人々に引かせたいと云つた。これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。二十七日の
八つ 過、土井の家老 十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに 彦四郎を添へて、偵察に ることを告げた。岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に の処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから、手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。七つ半過に が に来て、内山の口上を伝へて、 五丁目の へ案内した。時田以下の九人は を先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。 く本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。 の である。 では、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、 に向ふ と、 に向ふ とに分れることになつた。は内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、 は同心二人、遠山、 、 、斎藤、時田の七人である。此二手は総年寄今井官之助、 、 七三郎三人の率ゐた に て取り巻かせてある へ、六つ半時に出向いた。 は一歩先に進んで西裏口を固めた。 は続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。鉄平は一人では ないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。
追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。お前は
の戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。内の五郎兵衛はお けになつてゐるので、今 のお役人が来られた。どうぞちよいとの間 の から外へ出てゐて下さいと云ふのだ。間違へてはならぬぞ」と云つた。つねは顔色が
つ になつたが、やう/\先に立つて板塀の戸口に往つて、もし/\と声を掛けた。 し教へられた口上を言ふことは出来なかつた。暫くすると戸口が細目に
いた。内から いたのは の平八郎である。平八郎は と顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。「平八郎
だ。これへ出い。」「待て」と、平八郎が
の雨戸の内から叫んだ。岡野等は
くためらつてゐた。の内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の ち いた で く待つてゐたが、 の戸口で手間の取れる様子を見て、 になつてゐる表の庭を、縁側の に附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。
「
しうございませう」と同心が答へた。鉄平は戸口をつと
つて、正面にある の雨戸を で きこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬の がした。鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。
離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を
ひ、 の障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、 えながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の に、平八郎は を払つた を持つて立つてゐたが、踏み込んだ を見て、其 を横に に突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。投げた脇差は、
と一しよに半棒で火を払ひ けてゐる菊地弥六の頭を越し、 から袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、 ぎ掛けたやうに血が附いた。火は次第に燃えひろがつた。捕手は皆
を避けて、板塀の戸口から へ出た。弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。
し火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には がありますから、引つ掛けて き寄せませう」と云つた。脇差は く掻き寄せられた。 は で、 が一尺八寸あつた。は一歩先に に来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、 ん に道を け、逃げ出したら にしようと待つてゐた。そのうち余り るので、安立、遠山、斎藤の三人が きに這入つた。離座敷には人声がしてゐる。又 に帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。三人が又 きに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。 し火気が なので、此手のものも這入ることが出来なかつた。
そこへ内山が来て、「もう
は火を消せば好いのですから、 に任せてはいかがでせう」と云つた。遠山が云つた。「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」
遠山はかう云つて、
と一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、 が段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。今井が を指揮して、焼けた材木を り けさせた。其下から吉兵衛と云ふ人足が づ格之助らしい死骸を引き出した。胸が し いてある。平生歯が出てゐたが、其歯を き出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これは を突いて してゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。平八郎の首は焼けふくらんで、肩に まつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、 を見定めた。格之助は の様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。今井は近所の といふ医者の家から、 を二 出させて、それに死骸を載せた。
二つの死骸は美吉屋夫婦と共に
へ送られた。道筋には見物人の山を いた。
十三、二月十九日後の三、評定
大塩平八郎が陰謀事件の
は、六月七日に江戸の に命ぜられた。大岡 の預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、 英太郎、河合 、大井正一郎、 、大西 、 五郎兵衛、 つね、 西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした の僧 、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の 、西村の死骸を つた浅草 の 等が呼び出されて、七月十六日から が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年 四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、〈[#ルビの「いばらだ」はママ]〉、高橋、父 、倅柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた の医師横山 、同国 の百姓木村 との十九人、それから をし掛けて した 万太郎は になつた。 るに九月十八日に で刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一 である。 の十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、 江戸へ廻された大井迄 く牢死したので、 には の死骸を懸けた。中にも平八郎 は焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓を たれた。
松本、堀井、杉山、
、 、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の 、深尾の募集に応じた の百姓忠右衛門と 新右衛門とは 、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井 の 、 の百姓 は死罪、平八郎の ゆう、美吉屋の女房つね、大西与五郎と白井孝右衛門の で、 い時大塩の塾にゐたこともあり、父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは 、安田と杉山を剃髪させた の伯父、 の僧 、西村の逃亡を助けた同人の 、堺の医師 の二 とは追放になつた。 し此人々も杉山、上田、大西、倅白井の四人の外は、皆刑の執行前に牢死した。をした平山と父吉見とは の になり、吉見英太郎、河合 は 銀五十枚を はつた。 で酒井 へ になつてゐた平山は、番人の便所に立つた留守に の棚の から脇差を取り出して自殺した。
城代土井以下賞与を受けたものは十九人あつた。中にも坂本
は になつて、 の に進められた。併し両町奉行には賞与がなかつた。
〈[#改頁]〉
附録
私が大塩平八郎の事を調べて見ようと思ひ立つたのは、鈴木本次郎君に一冊の写本を借りて見た時からの事である。写本は
二十七枚の美濃紙本で、表紙に「大阪大塩平八郎 」と題してある。表紙の右肩には「川辺文庫」の印がある。 君が鈴木君に贈与したものださうである。の内容は、松平 の家来稲垣 と云ふ者が、見聞した事を数度に主家へ注進した文書である。松平遠江守とは 尼崎の城主松平 の事であらう。
万記録は
風説が大部分を占めてゐるので、其中から史実を み出さうとして見ると、獲ものは 乏しい。 し記事が穴だらけなだけに、私はそれに空想を せられた。そこで現に公にせられてゐる、大塩に関した書籍の中で、一番多くの史料を使つて、一番
しく書いてある 君の「大塩平八郎」を読み、同君の新小説に出した同題の記事を読んだ。そして古い大阪の地図や、「大阪城志」を参考して、伝へられた事実を時間と空間との経緯に配列して見た。こんな事をしてゐる間、私の頭の中を
久しく大塩平八郎と云ふ人物が占領してゐた。私は友人に逢ふ に、平八郎の話をし出して、これに関係した史料や史論を聞かうとした。 君は平八郎の塾にゐた宇津木矩之允と岡田良之進との事に就いて、在来の記録に無い事実を聞かせてくれ、又 君、 君は多少 つた評論を聞せてくれた。そのうち私の旧主人が建ててゐる
の創立記念会があつた。私は講話を頼まれて、外に何も考へてゐなかつた為め、大塩平八郎を題とした二時間ばかりの話をした。そしてとうとう平八郎の事に就いて何か書かうと云ふ気になつた。
――――――――――――――――――――〈[#直線は中央に配置]〉
私は無遠慮に「大塩平八郎」と題した一篇を書いた。それは中央公論に載せられた。
平八郎の暴動は天保八年二月十九日である。私は史実に推測を加へて、此二月十九日と云ふ一日の間の出来事を書いたのである。史実として時刻の考へられるものは、
ね左の通である。天保八年二月十九日
今の時刻 昔の時刻 事実
午前四時 暁七時(寅) 吉見英太郎、河合八十次郎の二少年吉見の父九郎右衛門の告発書を大阪西町奉行
に呈す。六時 明六時(卯) 東町奉行
は代官二人に防備を命じ、大塩平八郎の母兄大西与五郎に平八郎を ひて処決せしむることを す。七時 朝五時(辰) 平八郎家宅に放火して事を挙ぐ。
十時 昼四時(巳) 跡部坂本
に東町奉行所の防備を命ず。十一時 昼四半時 城代
城内の防備を命ず。十二時 昼九時(午) 平八郎の隊北浜に至る。土井初めて城内を巡視す。
午後四時 夕七時(申) 平八郎等八軒屋に至りて船に上る。
六時 暮六時(酉) 平八郎に附随せる与党の一部上陸す。土井再び城内を巡視す。
時刻の知れてゐるこれだけの事実の前後と中間とに、伝へられてゐる一日間の一切の事実を盛り込んで、矛盾が生じなければ、それで一切の事実が正確だと云ふことは証明せられぬまでも、記載の信用は可なり高まるわけである。私は
てそれを試みた。そして其間に推測を くしたには相違ないが、余り暴力的な や、人を馬鹿にした はしなかつた。――――――――――――――――――――〈[#直線は中央に配置]〉
私の「大塩平八郎」は一日間の事を書くを主としてはゐたのだが、其一日の間に活動してゐる平八郎と周囲の人物とは、皆それぞれの過去を持つてゐる。記憶を持つてゐる。
に外生活だけを するに甘んじないで、幾分か内生活に立ち入つて書くことになると、過去の記憶は比較的大きい影響を其人々の上に加へなくてはならない。さう云ふ場合を書く時、一目に見わたしの付くやうに、私は平八郎の年譜を作つた。原稿には次第に種々な事を書き入れたので、 に の空白をも残さぬばかりでなく、文字と文字とが重なり合つて、他人が見てはなんの だか分からぬやうになつた。ここにはそれを省略して載せる。
大塩平八郎年譜
橋本氏 某─┬─忠兵衛─┬─みね │ │ └ゆう └松次郎 │ ┌太一郎 │ │ │┌格之助 大西氏 某─┼与五郎─善之進 ├┤ │ │└いく └女 │ │ │ │ ┌平八郎 ├────┤ │ └忠之丞 大塩氏 ┌平八郎 ┌喜内─政之丞─┤ 某─┤ └志摩 └助左衛門 │ │┌発太郎 │├とく │├いく ├┼新次郎 │├ゑい │└辰三郎 │ 宮脇氏 日向─┬りか └むつ
是年平八郎後素の祖父成余四十二歳、父敬高二十四歳。
六年甲寅 平八郎二歳。成余四十三歳。敬高二十五歳。
七年乙卯 平八郎三歳。成余四十四歳。敬高二十六歳。
八年丙辰 平八郎四歳。成余四十五歳。敬高二十七歳。橋本忠兵衛生る。
九年丁巳 平八郎五歳。成余四十六歳。敬高二十八歳。
十年戊午 平八郎六歳。成余四十七歳。敬高二十九歳。大黒屋和市の女ひろ生る。後橋本氏ゆうと改名し、平八郎の
となる。十一年己未 平八郎七歳。成余四十八歳。五月十一日敬高三十歳にして歿す。平八郎の弟忠之丞生る。
十二年庚申 平八郎八歳。成余四十九歳。七月二十五日忠之丞歿す。九月二十日平八郎の母大西氏歿す。
享和元年辛酉 平八郎九歳。成余五十歳。宮脇りか生る。
二年壬戌 平八郎十歳。成余五十一歳。
三年癸亥 平八郎十一歳。成余五十二歳。
文化元年甲子 平八郎十二歳。成余五十三歳。
二年乙丑 平八郎十三歳。成余五十四歳。
三年丙寅 平八郎十四歳。此頃番方見習となる。成余五十五歳。
四年丁卯 平八郎十五歳。家譜を読みて志を立つ。成余五十六歳。
五年戊辰 平八郎十六歳。成余五十七歳。
六年己巳 平八郎十七歳。成余五十八歳。
七年庚午 平八郎十八歳。成余五十九歳。豊田貢斎藤伊織に離別せられ、水野軍記の徒弟となる。
八年辛未 平八郎十九歳。成余六十歳。
九年壬申 平八郎二十歳。成余六十一歳。
十年癸酉 平八郎二十一歳。始て学問す。成余六十二歳。西組与力
新右衛門地方役たり。十一年甲戌 平八郎二十二歳。此頃竹上万太郎平八郎の門人となる。成余六十三歳。
十二年乙亥 平八郎二十三歳。成余六十四歳。
十三年丙子 平八郎二十四歳。成余六十五歳。京屋きぬ水野の徒弟となる。
十四年丁丑 平八郎二十五歳。成余六十六歳。
文政元年戊寅 六月二日成余六十七歳にして歿す。平八郎二十六歳にして番代を命ぜらる。妾ゆうを
る。二十一歳。宮脇むつ生る。二年己卯 平八郎二十七歳。
三年庚辰 平八郎二十八歳。目安役並証文役たり。十一月高井山城守実徳東町奉行となる。
四年辛巳 平八郎二十九歳。平山助次郎十六歳にして入門す。四月坂本鉉之助始て平八郎を訪ふ。橋本みね生る。
五年壬午 平八郎三十歳。
六年癸未 平八郎三十一歳。平八郎の叔父志摩宮脇氏の婿養子となり、りかに配せらる。是年大井正一郎入門す。水野軍記の妻そへ歿す。
七年甲申 平八郎三十二歳。宮脇発太郎生る。庄司義左衛門、堀井儀三郎入門す。庄司は二十七歳。水野軍記大阪木屋町に歿す。
八年乙酉 平八郎三十三歳。正月十四日洗心洞学舎東掲西掲を書す。白井孝右衛門三十七歳にして入門す。
九年丙戌 平八郎三十四歳。宮脇とく生る。
十年丁亥 平八郎三十五歳。吟味役たり。正月京屋さの、四月京屋きぬ、六月豊田貢、閏六月より七月に至り、水野軍記の関係者皆逮捕せらる。さの五十六歳、きぬ五十九歳、貢五十四歳、所謂邪宗門事件なり。
十一年戊子 平八郎三十六歳。吉見九郎右衛門三十八歳にして入門す。十月邪宗門事件評定所に移さる。
十二年己丑 平八郎三十七歳。三月弓削新右衛門糺弾事件あり。平八郎の妾ゆう
す。十二月五日邪宗門事件落着す。貢、きぬ、さの、外三人 に処せらる。きぬ、さのは を磔す。是年宮脇いく生る。上田孝太郎入門す。木村司馬之助、横山文哉 を す。天保元年庚寅 平八郎三十八歳。三月破戒僧検挙事件あり。七月高井実徳西丸留守居に転ず。平八郎勤仕十三年にして暇を乞ひ、養子格之助番代を命ぜらる。格之助妾橋本みねを納る。九月平八郎名古屋の宗家を訪ひ、展墓す。
序を作りて送る。十一月大阪に帰る。是年松本隣太夫、茨田軍次、白井儀次郎入門す。松本は めて七歳なりき。二年辛卯 平八郎三十九歳。父祖の墓石を天満東寺町成正寺に建つ。吉見英太郎、河合八十次郎入門す。彼は十歳、此は十二歳なり。
三年壬辰 平八郎四十歳。四月頼襄京都より至り、古本
に序せんことを約す。六月大学刮目に自序す。同月近江国小川村なる中江藤樹の遺蹟を訪ふ。帰途舟に上りて大溝より坂本に至り、風波に逢ふ。秋頼襄京都に病む。平八郎往いて訪へば既に し。是年宮脇いくを養ひて女とす。柴屋長太夫三十六歳にして入門す。四年癸巳 平八郎四十一歳。四月
に自序し、これを刻す。頼余一に一本を る。又一本を佐藤 に寄せ、手書して志を言ふ。七月十七日富士山に登り、剳記を石室に蔵す。八月足代弘訓の により、剳記を宮崎、林崎の両文庫に む。九月 に序す。十二月 に自序す。是年柏岡伝七、塩屋喜代蔵入門す。五年甲午 平八郎四十二歳。秋
を刻す。十一月 に序す。是年宇津木矩之允入塾す。柏岡源右衛門入門す。此頃高橋九右衛門も亦入門す。六年乙未 平八郎四十三歳。四月孝経彙註を刻す。夏剳記及附録抄の版を
に与ふ。七年丙申 平八郎四十四歳。七月跡部良弼東町奉行となる。九月格之助砲術を試みんとすと称し、火薬を製す。十一月百目筒三挺を買ひ又借る。十二月檄文を印刷す。同月格之助の子弓太郎生る。安田図書、服部末次郎入門す。宇津木矩之允再び入塾す。天保四年以後飢饉にして、是歳最も甚し。
八年丁酉(一八三七年) 平八郎四十五歳。正月八日吉見、平山、庄司連判状に署名す。十八日柏岡源右衛門、同伝七署名す。二十八日茨田、高橋署名す。是月白井孝右衛門、橋本、大井も亦署名す。二月二日西町奉行堀利堅就任す。七日ゆう、みね、弓太郎、いく般若寺村橋本の家に
る。上旬中書籍を売りて、金を窮民に施す。十三日竹上署名す。吉見父子平八郎の陰謀を告発せんと る。十五日上田署名す。木村、横山も亦此頃署名す。十六日より与党日々平八郎の家に会す。十七日夜平山陰謀を跡部に告発す。十八日 六 跡部平山を江戸矢部定謙の に る。堀と共に次日市内を巡視することを む。十九日暁七時吉見英太郎、河合八十次郎英太郎が父の書を にして、平八郎の陰謀を堀利堅に告発す。東町奉行所に跡部平八郎の与党小泉淵次郎を斬らしめ、瀬田済之助を逸す。瀬田逃れて平八郎の家に至る。平八郎宇津木を殺さしめ、朝五時事を挙ぐ。昼九時北浜に至る。鴻池等を襲ふ。跡部の兵と平野橋、淡路町に闘ふ。二十日夜兵火 む。二十四日夕平八郎父子油懸町美吉屋五郎兵衛の家に む。三月二十七日平八郎父子死す。九年戊戌 八月二十一日平八郎等の獄定まる。九月十八日平八郎以下二十人を鳶田に磔す。竹上一人を除く外、皆
なり。十月江戸日本橋に捨札を掲ぐ。二月十九日中の事を書くに、十九日前の事を回顧する必要があるやうに、十九日後の事も多少書き足さなくてはならない。それは平八郎の末路を明にして置きたいからである。平八郎は十九日の夜大阪下寺町を彷徨してゐた。それから二十四日の夕方同所油懸町の美吉屋に来て潜伏するまでの道行は不確である。併し下寺町で平八郎と一しよに彷徨してゐた渡辺良左衛門は河内国志紀郡田井中村で切腹してをり、瀬田済之助は同国高安郡恩地村で
してをつて、二人の死骸は二十二日に発見せられた。そこで大阪下寺町、河内田井中村、同恩地村の三箇所を貫いて線を引いて見ると、大阪から河内国を横断して、大和国に入る道筋になる。平八郎が二十日の朝から二十四日の暮までの間に、大阪、田井中、恩地の間を往反したことは、 疑を れない。又下寺町から田井中へ出るには、平野郷口から出たことも、 推定することが出来る。 恩地から先をどの方向にどれ丈歩いたかが不明である。試みに大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の変換と行程の延長とを避けて、大和境に向けて引いて見ると、
は南に偏し、十三峠は北に偏してゐて、恩地と相隣してゐる から をするのが順路だと云ひたくなる。かう云ふ理由で、私は平八郎父子に信貴越をさせた。そして美吉屋を叙する前に、信貴越の一段を挿入した。二月十九日後の記事は一、信貴越 二、美吉屋 三、評定と云ふことになつた。
――――――――――――――――――――〈[#直線は中央に配置]〉
平八郎が暴動の原因は、簡単に言へば飢饉である。外に種々の説があつても、大抵
である。大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方に
があつても、すぐに大影響を る。市内の賤民が飢饉に苦むのに、官吏や富豪が奢侈を にしてゐる。平八郎はそれを つた。それから幕府の命令で江戸に米を して、京都へ らない。それをも不公平だと思つた。江戸の米の需要に比すれば、京都の米の需要は 僅少であるから、京都への米の運送を絶たなくても好ささうなものである。全国の を幕府、諸大名、御料、皇族並公卿、社寺に配当したのを見るに、左の通である。石高実数(単位万石) 全国石高に対する百分比例 徳川幕府 800 29.2 諸大名 1900 69.4 御料 3 0.1 皇族并公卿 4.7 0.2 社寺 30 1.2 ―――――――――――――――――――― 計 2737.7 100
天保元年、二年は豊作であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために、江戸で白米が一両に付四斗、百文に付四合とまでなつた。
は文政頃一両に付二石であつたのである。五年になつても江戸で最高価格が前年と同じであつた。七年には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両に付一斗二升、百文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしいが、当時大阪総年寄をしてゐた今井官之助、後に克復と云つた人の話に、一石二十七匁五分の白米が二百匁近くなつてゐたと云ふことである。いかにも一石百八十七匁と云ふ記載がある。金一両銀六十匁銭六貫五百文の比例で換算して見ると、平常の一石二十七匁五分は一両に付二石一斗八升となり、一石百八十七匁は一両に付三斗二升となる。百文に付四合九勺である。此年の全国の作割と云ふものがある。五畿内東山道 45% 東海道 45 関八州 30―40 奥州 28 羽州 40 北陸道 54 山陰道 32 山陽道及南海道 55 西海道 50 ――――――――――――― ○ 42.4%
これから古米食込高一二%を入れ戻せば、三〇、四%の収穫となる。七年の不良な景況は、八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五升俵として換算すれば、一両に付三斗四合である。
平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。
若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の
に放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎
には不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を はせる余地があつたら、暴動は起らなかつただらう。この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破壊して
を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。未だ醒覚せざる社会主義は、独り平八郎が懐抱してゐたばかりではない。天保より前に、天明の飢饉と云ふのがあつた。天明七年には江戸で白米が一両に付一斗二升、小売百文に付三合五勺になつた。此年の五月十二日に大阪で米屋こはしと云ふことが始まつた。貧民が群をなして米店を破壊したのである。同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた米商富人の家が千七百戸に及んだ。次いで天保の飢饉になつても、天保七年五月十二日に大阪の貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も同じ暴動をした。此等の貧民の頭の中には、皆未だ醒覚せざる社会主義があつたのである。彼等は食ふべき米を得ることが出来ない。そして富家と米商とが其資本を運転して、買占其他の策を施し、貧民の膏血を
らして自ら肥えるのを見てゐる。彼等はこれに処するにどう云ふ方法を以てして好いか知らない。彼等は未だ醒覚してゐない。唯盲目な暴力を以て富家と米商とに反抗するのである。平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。
平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。
――――――――――――――――――――〈[#直線は中央に配置]〉
平八郎が陰謀の与党は養子格之助、叔父宮脇志摩を除く外、殆皆門人である。それ以外には家塾の
、格之助の若党、 、瀬田済之助の若党、中間、大工が一人、猟師が一人ゐる位のものである。橋本忠兵衛は平八郎の妾の義兄、格之助の妾の実父であるが、これも同時に門人になつてゐた。暴動の翌年天保九年八月二十一日の裁決によつて、磔に処せられた二十人は左の通である。
大塩平八郎 美吉屋にて自刃す
大塩格之助 東組与力西田青太夫実子 美吉屋にて死す
渡辺良左衛門 東組同心 河内田井中にて切腹す
瀬田済之助 東組与力 河内恩地にて縊死す
小泉淵次郎 郡山柳沢甲斐守家来春木弥之助実子、東組与力養子 東町奉行所にて斬らる
庄司義左衛門 河内丹北郡東瓜破村助右衛門実子、東組同心養子 奈良にて捕はる
近藤梶五郎 東組同心 自宅焼跡にて切腹す
大井正一郎 玉造口与力倅 京都にて捕はる
深尾才次郎 河内交野郡尊延寺村百姓 能登にて自殺す
茨田郡次 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す
高橋九右衛門 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す
柏岡源右衛門 摂津東成郡般若寺村百姓 支配役場へ自首す
柏岡伝七 同上倅 自宅にて捕はる
西村利三郎 河内志紀郡弓削村百姓 江戸にて願人となり病死す
宮脇志摩 摂津三島郡吹田村神主 自宅にて切腹入水す
橋本忠兵衛 摂津東成郡般若寺村庄屋 京都にて捕はる
白井孝右衛門 摂津守口村百姓兼質屋 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる
横山文哉 肥前三原村の人、摂津東成郡森小路村の医師となる 捕はる
木村司馬之助 摂津東成郡猪飼野村百姓 捕はる
竹上万太郎 弓奉行組同心 捕はる
次に左の十一人は獄門に処せられた。
松本隣太夫 大阪船場医師倅 捕はる
堀井儀三郎 播磨加東郡西村百姓 捕はる
杉山三平 大塩塾賄方 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる
曾我岩蔵 大塩若党 大阪にて捕はる
植松周次 瀬田若党 京都にて捕はる
作兵衛 天満北木幡町大工 京都にて捕はる
金助 摂津東成郡下辻村猟師 捕はる
美吉屋五郎兵衛 油懸町手拭地職 自宅にて捕はる
浅佶 瀬田中間 捕はる
新兵衛 河内尊延寺村無宿、深尾才次郎の募に応ず 捕はる
忠右衛門 同村百姓、同上 捕はる
次に左の三人は死罪に処せられた。
上田孝太郎 摂津東成郡沢上江村百姓 捕はる
白井儀次郎 河内渋河郡衣摺村百姓、白井孝右衛門従弟 捕はる
卯兵衛 摂津東成郡般若寺村百姓 捕はる
次に左の四人は遠島に処せられた。
大西与五郎 東組与力、平八郎の母兄 捕はる
白井彦右衛門 孝右衛門倅 大和に往く途中捕はる
橋本氏ゆう 実は曾根崎新地茶屋町大黒屋和市娘ひろ 京都にて捕はる
美吉屋つね 五郎兵衛妻 自宅にて捕はる
次に左の三人は追放に処せられた。
安田図書 伊勢山田外宮御師 淡路町附近にて捕はる
寛輔 堺北糸町医師、西村の姉婿、西村の逃亡を
す 捕はる正方 河内渋河郡大蓮寺隠居、杉山の伯父にして杉山をして剃髪せしむ 捕はる
以上重罪者三十一人の中で、刑を執行せられる時生存してゐたものは、竹上、杉山、上田、大西、白井彦右衛門の五人丈である。他の二十六人は〈[#ルビの「ぐわんにんばうず」は底本では「ぐわんにんぼうず」]〉になつて死んだ西村 は、浅草遍照院に つた死骸が腐つてゐたので、墓を たれた。
く死んでゐて、内平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇六人は自殺、小泉は他殺、格之助は他殺の疑、西村は逮捕せられずに病死、残余の十七人は牢死である。九月十八日には鳶田で にした屍首を 、獄門台に けた。江戸で当時の罪人は一年以内には必ず死ぬる牢屋に入れられ、死んでから刑の宣告を受け、塩詰にした死骸を磔柱などに懸けられたものである。これは
平八郎の与党のみではない。平八郎が前に吟味役として取り扱つた邪宗門事件の罪人も、同じ処置に逢つたのである。――――――――――――――――――――〈[#直線は中央に配置]〉
近い頃のロシアの小説に、
を かぬ小学生徒と云ふものを書いたのがある。我事も人の事も、有の儘を教師に告げる。そこで に憎まれてゐたたまらなくなるのである。又ドイツの或る新聞は「小学教師は生徒に傍輩の非行を告発することを強制すべきものなりや否や」と云ふ問題を出して、諸方面の名士の答案を募つた。答案は であつた。個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを
むべき行為にしてゐた。秩序を維持する一の手段として奨励したのである。中にも非行の同類が告発をするのを と称して、これに忠と云ふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものである。平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。
平山助次郎 東組同心 暴動に先だつこと二日、東町奉行跡部良弼に密訴す
吉見九郎右衛門 東組同心 暴動当日の
、西町奉行堀利堅に上書す吉見英太郎 九郎右衛門倅 九郎右衛門の訴状を堀に呈す
河合八十次郎 平八郎の陰謀に
し、半途にして逃亡し、遂に行方不明になりし東組同心郷左衛門の なり、陰謀事件の関係者中行方不明になりしは、此郷左衛門と近江小川村医師志村力之助との二人のみ 九郎右衛門の訴状を堀に呈す評定の結果として、平山、吉見は取高の儘
入を命ぜられ、英太郎、八十次郎の二少年は賞銀を賜はつた。然るに平山は評定の局を結んだ天保九年 四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられてゐた安房勝山の城主酒井大和守 の で、人間らしく自殺を遂げた。
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