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塵塚物語

 
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緒言
 
塵塚物語は、専ら風教に稗益あるべき逸事逸聞をはじめ、足利氏季世の巷談街説を集録す。当時の著聞集ともいふべきものなり。作者詳ならず。尤も其の奥書に、天文二十一年十一月日藤某判とあれば、後奈良天皇時代の公家の手に成れるものなるべし。元禄二年版行す。
 

  大正元年八月一日

   古谷知新識

 
 
 
目次
 
 

 
 
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塵塚物語
 
 
巻第一
 
 
 

飛鳥井あすかゐ老翁一日語られていはく、常徳院じやうとくゐん内大臣ないだいじん義尚公よしなほこうは天性をいうにうけさせ給ひて、武芸の御いとまには和歌に心をふけりまして、御才覚ごさいかくもおとなしくましける。高官かうくわん眤近ぢつきんの公家つねにまゐらるゝ時は、かりそめの御雑談ござふだんもなく、歌のはうへんのみ談じ給ひけるとなん。其比そのころの和歌の達者某大納言、はじめは歌のさまなど心やすく御指南ごしなん申されけるが、御年二十に過させ給ひては、彼卿かへつて風情をうかゞはれけるとなん。いみじき国主たれども、たゞ御よはひ壮年にみたせ給はざりつるは口をしき御事など、申あへりけるとなん。曽而かつて江州がうしうにひさしく御留陣ごりうぢんおはしましけるに、一日御遊のために湖水のほとりへ出御しゆつぎよなり、すなはちおほくの舟どもをかざり、御饗膳ごきやうぜんめづらかにとゝのへて、諸道の達人たつじん数輩すはい供奉ぐぶせしめらる。公方くぼうあまねく湖水のみぎはを御らんましけるに、童子二人こぶねにのりてたはぶれけるを、あれは何ものぞととはせたまへば、梅がはらのものにて御座候と申けるを、大樹たいじゆきこしめして、御心にふと思ひよりたまふ句あり。

オープンアクセス NDLJP:161  湖辺自異山林興 童子尋ねて小船

此二句を御こゝろにうかばせたまひて、此対句つゐくもがなとしばし案じましませども、つひによろしき句もうかばずして還御くわんぎよありしに、其夜御ゆめのうちに、男体なんたいの人来て彼句にたして七言四句となれば、御ゆめのうちによろこばせ給ひて、程なく覚けるとなん。其句近習きんじふの人に仰られて書とめさせ給と云々、その後皆人其二句を失念しつねんによりて無其詮と云々、あたら事なり。是のみならず、去比さんぬるころ又逆敵近隣をかすめけるに、いそぎ御進発ごしんぽつありけり。時しも炎天えんてんのみぎはにて五万ばかりの軍兵をめしつれ給ひけるが、士卒此あつさにたへかねて練汁れんじふのごとくなる汗をかき、馬もこらへかねて多くはひざまづきければ、人皆仰天ぎやうてんしてしどろになりにけり。

そのところ鏡山のふもとにてありければ、大樹の御うたに、

  けふばかりくもれあふみのかゞみ山たびのやつれの影のみゆるに

とあそばされ、しばらく木陰にやすらひ給ふに、すこし程ありて天くもり涼風おもむろに吹来れば、諸ぐんぜいも中秋ちうしう夕暮のおもひをなして、たちまちよみがへるが如しと云々、上古末代しやうこまつだいまで高名の御ほまれなり。まことに一句のちからにて、数万の軍兵ぐんぴやうくるしみをやめらるゝ事、天感不測てんかんふしきの君なりといへり。

 
 

鎌倉かまくら左馬頭基氏さまのかみもつうぢは、武勇たくましくして慈悲のこゝろも人にこえ、いと正直なるうまれつきなりけりと云伝へ侍る。歌道にもをさ執心しふしんせられて、をりふしは五首十首づつよみおきて、公家へ遣して褒貶はうへんを頼まれけるといへり。いとやさしき事にも伝るならし。しかうしてつねに美食をこのみて賞翫しやうくわんし侍るに、或時庖丁人をよびよせ、ふなを取寄て曰く、この魚よくやきてのちあつものにすべし。相かまへてさたに仕るなと、きびしくいひ付て内へ入られけるとなん。庖人はうにんかしこまりて、右ふなをよくあぶりてみそしるをもて熟くこしらへ、煮て膳部にそなへけり。扨陪膳はいぜんのもの是を持て基氏もとうぢへすゑたり。基氏椀のふたを取てふなをみれば、よきほどに火とほりて愛すべしとみえてければ、かたを食して又うちかへして食はんとし給へば、則一方は生にてぞ有ける。庖人の不運ふうんにや、此魚ぶ沙汰にはせざれども、片身かたみきらしく生にて有るあひだ、基氏大きにいかり給ひて、やがて執事をよびよせて、彼庖人を召つれて可罷出よし責られけり。執事しつじも此ものをふびんに思ひながら主命もだしがたくして、つひに庖人を引つれ、客殿きやくでんの二間を過ておくへ入れば、庖人もすは覚悟かくごしてけり。あつぱれ爰にて御手うちにあひぬるものをと、色をうしなうてひざまづき居けり。時にもとうぢわきざしを腰に横へ、かたなをばひだりの手にひさげて、ちかとあゆみより、おのれすでに日来ひごろの不忠心にあるゆゑに、今かやうの失あり、すみやかにいのちをうしなふべきなれども、先此度はゆるしおくものなり。自今以後よく心得て料理いたすべし。さりながら此度も唯にはあらじ。はだかにして此えんのはしへまゐりひざオープンアクセス NDLJP:162まづきて居るべし。ゆるしなき内は、はたらくべからずといひて、又たかがりに出られける。彼料理人れうりにんいとかなしき姿にて、ひろ縁すのこのはしにうづくまりてゐたりけるが、もとうぢ他行たぎやうせられけるをみて、執権しつけんのものひそかにいひけるは、殿の御留守にはくるしからじ。台所へ罷出まかりいでよとゆるす間、此ものおそろしながら執事の言葉ことばをたのみてだい所へ出で、きる物を著して居けり。もとうぢは終日あそびてかへられけるに、門を入らるゝとひとしく、彼庖人はだかになりて件の縁のうへに罷出けり。もとうぢおくの間へとほるとて見たまひて、おのれはいまだはだかにてありけるにや、ゆるしおくものなりとのたまふ間、かたじけなき気色けしきにて立退たちのきけり。

扨執権をよびよせて、あの庖人めはさせる失にはあらねど、後日のために所課しよくわするものなり、いかに我がいひつくるなればとて、終日赤はだかにてさし置条未練みれん第一のふるまひなり。かさねてよく心得て諸事はからふべし。凡そ我が善悪をたゞすもの汝が外はあるまじ。さあるによからぬはからひをする候、彼庖人が困窮こんきう汝が所為なりと申されけるとなん。いと正しきの事なり。国をしらんものはかくある事にや。

 
 

天満宮てんまんぐうの御事威力ゐりき澆季げうきの世にさかんにして、万人丹精たんせいをぬきんづるともがら、其瑞験ずゐげんをかうぶらずといふことなし。むかし大江匡衡朝臣おほえたゞひらあそん聖廟せいべう御宝前ごはうぜんへ種々供物くもつ色々いろ幣帛へいはくをたてまつらる。其奏状に云云、抑右天満大自在天神塩梅於天下、輔導於一人、或日月於天上照臨出万民、就中文道之大祖風月之本主也。翰林人尤風夙可勤労とかゝれたる句あり。然して其夜たゞひらの見られける夢こそあらたなれ。天神、御殿ごでんのとびらを押ひらかせ給ひて仰られけるは、我にたむくるところ文筆ぶんぴつみな心肝しんかんにそむところなり。但抑日月於天上と云句は神ならずして何ぞや、可摧汝既に神道に通ずとす。我は是本地十一面観音なり。極楽にては称して無量寿むりやうじゆとす。しやばにては則北野天神きたのてんじんとす云々、夢さめてきいのかんるゐをながされけるとなん。これよりして、天神をば十一面くわん音と申つたへたり。古今ここん歴然れきぜんたる神言なり。此尊神の御事挙世信伏せずといふことなし。聖主御歌の会日も、月次つきなみ二十五日とさだめさせ給ふ。三公、九卿、諸侯、大夫、凡卑ぼんぴ蒼生さうせいのともがら世に人といはるゝほどのもの、皆仰がずといふ事なし。三善清行みよしきよゆき菅右相府くわんうしやうふに奉る書にも、翰林かんりんより走て槐位くわいゐにのぼり給ふ、吉備公きびこうの外名をおなじうする人なしと云々、吉備公きびこう巨益こえき尤和朝ゆゐ一の重臣てうしんたり。然れ共中人以下土農卑夫のものにいたりて、其徳をもしらず名をさへしらぬもありけり。天神の至徳申すも愚かなり。かやうに挙げて仰たてまつる霊神れいじんためしすくなき御事なり。去延徳二年の春式文人、此前に祭文さいぶんをさゝげて御示現ごじげんに預るといふこと明白なり。之予しかのみならず一とせ宿願しゆくゞわんを申上げ、立所たちどころに利生に預れり。諸神も皆御威光照々せうたれども、翰林より大臣にいたり、御死去ののち聖廟せいべうとあがめたてまつる事比類なき御事なり。或人の云く、御一代の御詠歌ごえいかに恋の歌すくなし。是を以て御在世の其世には、不義尾籠ふぎびろうの事のみもてあそオープンアクセス NDLJP:163たりとみえたり。是其代の風味ふうみなるにや、今の世に似つかず思ひ侍る。されど聖廟の御在世をつらつらたづね奉るに、金鉄きんてつ御行跡ごかうせきうたがひなきものなり。しかれば歌仙才人かせんさいじん恋執不義れんしふふぎの聞えあるをば、其世の風俗とは申がたきか。

 
 

応長おうちやうの比より世に連歌れんがをもてあそぶ事さかりになれりと、或歌のせうに見えたり。就中文正のころよりこのかた、連歌れんが名師めいしありて、四かい一同にもてあそびきたりて、今れんめんこのころある連歌しけるもの、生得しやうとくぶき量にしてはなはだ執すといへども、人のくちにひろまりがたくてとしをふるに、独おこたる事なし。ある人の云く、年五十にいたるまで上手じやうずにならざる芸をばすつべきなり。はげみならふべき行末もなしと、古人もいへり。吾子ごしすでに五十になんたり。行さきいかほどの余命ありてか、不堪ふかんの身をもて世にしられん事をねがふぞや、すみやかにすつべきなりと、さまいさめけれど、此もの曽而かつて承伏しようふくせず、いよ勤めけるに、やうやく人にもしられて師の名をもあらはしたり。此もの外のわざには下根げこんなれども、連歌れんがには終日終夜座をかさぬれどくたびれもせず、生れつきやまひ深く侍れど、連歌にはこれを事ともせず、人々ふしぎに思ひけり。此人一日いひけるは、道は篤実とくじつをもて至極とす。われ全身ぶきやうにしてつとむる所はかんのう也。かるがゆゑにいましばらくに名をひろむと云々、又曰く京極人道きやうごくにふだうは一生八十にして、平生病気せまりなやまれけれど、公事くじ雑務ざふむ歌道かだう等をつまびらかにしるして一日も怠らぬ人なり。彼卿日記の中にも、けふは痰気たんきにせまりなやみ、今日はなにのやまひによりくるしむなど、一世のうちこゝろよき日はなし。然れ共篤実をもて百世に名をのこさるゝものなり。根機こんきといふはやまひと又別の品なりと見えたり。しかのみならず、つらゆきは一しゆの歌を二十日まで工夫おこたらず。ふぢはらの長能ながよし公任卿きんたふきやうに歌を難ぜられて死し、宮内卿くないきやうはうたをふかくあんじいりて、血をはきなやみしと云へり。又宗祇そうぎは連歌にしふして句をあんじ入て、朋友の机前にとひくるをしらず。此ほか名人の道にしつしたる事かぞへがたし。漢家の潘安仁はんあんじんといふ人は、詩を沈思ちんしして、已に白はつの翁となれりといへり。人として堪能かんのうにして実あるものはすくなし。不堪ふかんながらも道に執篤しふとくすればつひに其極にいたる。たとへばわれは物わすれありて文をみれども覚えず、我はかご耳にして用にたゝずと人ごとにいふめれど、それは皆すかざるによりて也。たとへかごにて水をくむ程の健忘者けんぼうじやなりとも、其籠を平生水にしづむれば、其中に水自然しぜんとみてり。学文も平生不退ふたいにしてまなこを書にさらせば、久しくしてつひに其あぢはひをしるとぞ。是併かごを水中にしづむるに水満たりとおなじと、傍若無人ぼうじやくぶじんに申けり。此事は唯人たゞびともしれる事ながら、時にとりてのたとへをかしく侍る也。とかく大功は遅く成就すと云事を忘るべからずとぞ。

 
 
いにしへ命松丸みやうまつまるといふもの歌よみにて、兼好けんかうが弟子也けるが、兼好をはりて後、いま川伊予入道のもオープンアクセス NDLJP:164とにふかくあはれみて、つね歌の物がたりなどせられけるとなん。つねは南朝へもかよひ侍るとなん。此命松丸みやうまつまる入道して、南朝のありさま物がたりにつくりて、歌などまじへてやさしくその時のさまをのべたり。其中にいはく、くすの木帯刀たてはき正行がはか所に石たふを立たる其まへに、いかなる物かしたりけん、書つけて侍る。

  くすの木の跡のしるしをきてみればまことの石となりにけるかな

おなじ物がたりにいはく、やよひのころ日のうらゝかなるに、女院の御所の庭にちりつもりける花のいと多かりければ、伴のみやつこめさせ給ひて、ひとつ所にあつめさせ給へば、高さ五尺ばかりがほとの山のなりにてありけるを、いと興ぜさせたまひて、よしのゝはなをうつせし山なればとて、あらし山となづけさせ給ひて、人々に歌よましうへにもけいし給ひければ、あすのほどにわたらせ給ひてんとの給はせたまひけるに、其夜風のはげしくふきていひがひなくなりにけり。つとめてべん内侍ないしのかたへ、兵衛のすけのつぼね、

  みよしのゝ花をあつめし山の名も今朝はあらしの跡にこそあれ

とありけるを、そうし給ひければ、

  千はやふる神代もきかず夜のほどに山をあらしの吹ちらすとは

との給はせて、いといたうをかしがらせ給ひにけりと云々、此物語の中のうたおほくは命松翁がわざなるにや。彼ものゝ歌のていに似たる言葉ことばをさ見えたり。

 
 
小松天皇は仁明天皇第二の御子也。此みかどは、親王にて御座ありしとき常陸の大守中務卿上野大守式部卿太宰だざいそつなど経させたまひてのち、御とし五十五歳にして思召しよらず御くらゐにつかせたまふと云々。

むかし唯人たゞびとにておはしませしときより、つねに松をこのませたまひて、御庭にあまたの小松をうゑさせたまふ。御くらゐのとき、御としすでにたけさせ給ふゆゑ、小松も大木になりて枝はびこりたれば、御くるまをいれんとせしに、松にさゝへられて入るべきやうもなし。諸臣せんぎありて此まつをきるべきよし奏す。その時勅諚にいはく、朕いまくらゐにつく事天せう大じんより御ゆづりのくらゐならば、此まつの中を車やるべし。松さはらずばくらゐにつくべし。さはらば位につくまじとおほせらるるによりて、諸臣も是非なく御くるまをとほすに、松ども左右へ枝わかれて御くるま大路おほぢを引くが如し。此聖徳によりて小松の天皇と申たてまつるとぞ。まことに本朝不双ほんてうぶさうの賢王にて渡らせ給ふ御事、諸史に載せ奉らずといふことなし。又つねにめくら法師をふかく不便ふびんがらせ給うて、大隅の国を下されけるとなん。その聖恩わすれずして今の世までもとぶらひたてまつるとなん。二月十六日彼御国忌みこくきめくら法師ほうしどもあつまりつゝ、石塔しやくたふといふ法会ほふゑ執行しゆぎやう乞たてまつるといへり。六条河原にいでて石のたオープンアクセス NDLJP:165ふをつみてとぶらひたてまつるゆゑに、石塔しやくたふと申とぞ。

 
 
或人のいはく、伊勢物がたりに、むかしみかど住吉にみゆきならせたまふ事をのせたり。此帝は文徳天皇にて天安元年に行幸ましますといへども、国史にも実録にもみえず。新古今に此詞書ことばがきのごとくすみよしにみゆきありし時と載せたれども、いづれのみかどの行幸とはしるさず。国史にもしるしもらしけるにやおぼつかなし。此事さだかにしる人なし。きかまほしきことゝいへるに、折ふし予かたはらにありあはせていはく、先年ある所にて文ども見侍る中に、後小松院御宸翰ごしんかんなりといひて一冊あり、題して伊勢二門極理灌頂撰阿古弥浦口伝ほくでん抄とあり。此書はむかし高くらの院御在位の時、神道議論しんだうぎろんのうへにて勅して書かしめ給ふと云々、その中にいはく、住よし行幸のみかど文徳もんとく清和せいわ両帝なり。天安元年五月十八日辰一点たつのいつてんに帝都をたゝせ給ふ。此時業平なりひら供奉ぐぶせられ侍るとあり。此ほか住吉の神秘じんひ業平の来由らいゆなどくはしくのせたり。我これをみ侍りつといふに、かの人大きにきそくへんじて、あな大切の御事や壁に耳といふことはさも侍る。高声かうじやうにの給なと口くばせをしてさらぬ体にて其座をたちさりける。さてその翌の日、文してねんごろにまねきよせて此事をたづねられ侍り。もとより予辞する事にあらねば、彼文の内にありつる事覚えつるまゝに、つまびらかにかたりければ、稀有けうのよろこびをなしてやがてしるしとめられける。此事予があながちにもし侍らねども、此に取て花文を覚悟するは、人のためには大切なる事もこそあれと思ひ侍りて、そのゝちみづからも又手日記にのせ侍りける。
 
 
坂の上のたむらまろは古今独歩こゝんどつぽのゆうしなり。事毎にしるしとゞめつれば、其来由あながち勘へずもありなん。

いにし春、日本後記をよみ侍るに、さがの天皇の巻に云く、

田村麻呂者、正四位下左京大夫苅田麻呂之子也。身長五尺七寸、胸厚一尺九寸、目如蒼鶏鬚編金糸、有事而欲身、則三百一斤、欲軽則六十四斤、怒而博視目、禽獣懼伏、平居談笑者、老少馴親云々。

此外類聚史譜るゐじゆしふ等にも田むらを美称せり。すべてわが国にならびなき勇質なりとみえたり。しかれども終に不其死然といひつたへ侍る。又仏家ぶつけの人のいへるは、田むら丸壮年のいにしへ武術のきこえありければ、桓武天皇めさせ給ひて勅問ちよくもんあり。抑なんぢは生得しやうとくの武術あり、いみじき事なりとおほせ下されけるに、田むらめいはく、まことに恐れがら剣戟けんげきをとりて有情うじやうにおそれらるゝといへども、此まゝにてやみなん事口惜くもまかり過候。それにつき、君は日本聖皇第一の御むまれつき有、此国には過させ給ふとみ奉る。あはれ異国の御望しかるべく思ひ奉る。しからば征伐せいばつ節使せつしには身不肖なりといへども、田むらまろを御ゆるし下さるゝにおいては、まかり向ひて大唐たいたうを平治つかまつり、君を和漢オープンアクセス NDLJP:166両朝の御あるじと仰奉るべしと、傍若無人ぼうじやくぶじんに申されければ、みかどわらはせ給ひて、大きにまことしからずと仰られけり。田むらかさねて申さく、御不審ふしん御尤に覚え奉る。心みに術をみせ奉らんといひて、無罪のもの五百人あつめて太刀のはに墨をひき、一ふりうごかしければ、五百人のくび墨にてひきたる跡あり。是御覧なされ候へ、此術をもつて人を殺さん事百万もやすき事に覚え候まゝ、仰ゆるされ候はゞやと望みけるあひだ、帝も御仰天ごぎやうてんありて、その事ならばゆるしめんと仰下され、既に田むらわが国をたちたまひける。異こくにも此前表せんべういちじるくして、雨江水をふらし侍るによりて、唐帝清龍寺せいりようじ恵果和尚けいくわをしやうに命じて大元明王の法をおこなはしむるに、明王海をわたりたまひ、田むら出船の所はかたといふにて、首を取てかへらせ給ひ、此首を清龍寺のつかにこめて置賜ふとなん。此事いかなる文にも有ともしらず侍る、仏家ぶつけの沙汰なり。

 
 
昔宇治のくわんばくよりみち公平等院びやうどうゐんを御こんりふあそばされて、善つくし美つくされて、おほくの貨財くわざいをなげたまひけるとぞ。扨本尊は天下無双ぶさう仏工定朝法眼ぶつこうぢやうてうほうげんが一刀三いあみだによらいにて、しやう厳七宝ごんしつぼうをつくして赫々かくたり。内陣ないぢんへきのさいしきの絵は、わが国にならびなき画どころの為業ためなりが筆といへり。観経くわんきんの文は、詩文能書御ほまれます具平親王の御筆跡ひつせきにて、飛龍廻天ひりようくわいてんのいきほひを得給ひたりし字画じくわくなりと云々。此がらんこんりふのいにしへより、既に五百年の星霜せいさうをふれども、いまだ一きよのわざはひなければ、依然いぜんとして上古のかざり光彰くわうしやうをます、誠にまたたぐひなき霊場れいぢやうなり。むかし茂仁もちひとのしんわう御むほんのとき、源三位よりまさ入道、いのちをかろくし義をおもくし一戦の功をはげますといへども、大軍の責めまぬかれがたくして、かばねを古岸のこけにさらし、名を長流のなみにたゞよはせしも此所なり。此軍中のさうげきにも一椽一尾の損亡そんぼうなくいまにめでたく霊地れいち也。扨惣門そうもんはきたむきなり。これはいにしへ当寺たうじ草創さうころ頼通公よりみちこうまづ惣門そうもんのびんぎをわづらはせたまひけるをりふしに、四条の大納言公任卿きんたふきやうまゐらせ給ひて雑談ざふだんありけるに、よりみち公ののたまはく、此地はひがしに川みなみは山西はうしろにて、北よりほかに大門をたつべきたよりなし。きたに惣門のある寺やはべるとたづねたまひけるに、さしも和漢わかんの才ひろき公任卿も覚悟なかりけるに、江帥かうのそつたゞふさそのときはいまだ弱冠じやくゝわんにして、車のしりにあひのりしておなじくまゐられたるに、もしさやうの寺や候ととはれければ、たゞふさのいはく、先わがてうには六波羅密寺ろくはらみつじ空や上人所住のてら、漢土には西明寺さいみやうじ円側国師ゑんそくこくし所住の寺、天ぢくには大ならんだじ三国に通じて例侍ると、傍若無人ぼうじやくぶじんに申されければ、博達はくたつの公任卿も奇異のおもひをなして感動かんどうしばらくやまざりけり。頼通公も御悦喜えつきにて、扨はさやうの例もありけるにや、しさいなき事やとて、やがて北向に惣門を立られけるとなん、すなはちいまの山門の事なりとぞ。〈私にいはく、うぢは方角外よりの見聞抜羣相違あり。川はきたへむかひながるゝといへり。くはしく彼里民にとふべし。〉


 
 
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ちか比一休宗純きうそうじゆんといふ人は、後小松院の後胤こういんにして、わが朝にならびなき道人だうじんなり。勝雲院殿しようゝんゐんどの御代の後あまねくきこえありて、人たふとみけり。其身風漢経遽ふうかんきやうげきの人にて、欲する所の作業一としてとげずといふ事なし。頓智とんち叡智えいち悟道ごだうの人なれば、所業いづれも節にあたりて、世には釈尊牟尼しやくそんむに応化おうげなりと申あへり。壮年のころおもひ立所ありて、山陽のちまたにかゝり、播州のかたへおもむかれけるに、まづ一のたにゝいたり亡卒のむかしを思ひいでて、追悼つゐたうの語をはき、一りやう日も宿してそのわたりのこらず見めぐり、扨五里以上の路次に日なのめになれば、いづくともしらぬ野原のつゆをかたしきて、日くらし夜をあかされけるとなん。此所より明石あかしの浦人丸の塚に詣でられけるに、ふところより料紙れうしゑぐをとり出して、件のかみに人丸のすがたを絵かきさんせられける。

  歌道根原即化身 若非菩薩仏歟神 至今明石浦朝霧 有島有舟無此人

かくのごとくの巧言とんさくをのべて、自画自書じぐわじしよしてこもられけるとなん。

その後此わたりたび軍卒のためにさうどうし、あるひは野伏のぶしあぶれもの所々乱入し、宝蔵はうざうぢう物の善悪をいはず引ちらしとりのきけるが、もしさやうの事にやありけん、永正の以後は件の画賛ぐわさんのさたなし云々。

 
 
千本釈迦念仏しやかねんぶつといふは、きさらぎ中旬ちうじゆん、大報恩寺釈迦堂遺教経の法事についての事なり。つれ草にいはく、千本釈迦念仏文永年中如輪上人はじめられけると云々、是念仏ねんぶつ濫觴らんしやうにあらず。此ねんぶつ寛仁年中のいにしへ源信僧都げんしんそうづの高弟に、定覚上人ぢやうかくしやうにんといふあり。是則釈迦念仏しやかねんぶつ〈音乱名号大念と云、俗にしやか仏念仏と申来り〉

始祖しそたり。其後一旦はめつして又弐百五十年ののち、亀山院御宇、文永年中に如輪上人によりんしやうにん〈一云明院律師〉といふ人ふたゝび此念仏を執行しふぎやうせらるゝ云々。件の定覚上人の事、本朝僧伝譜ならびに元亨釈書げんかうしやくしよ等にもみえず。山門横川の記にのせたり。

釈定覚姓政田氏、肥之後州之人也。居台嶺三十、源信之徒行心観妙理、雖然常修金剛密宗禅門等矣。寛仁之始、為法界四姓、音乱名号、大念仏開発三所焉。破滅之後乃明鏡律師如輪継之、故以覚為念仏之始祖。凡開基繁花之地、一旦破却而遥経年序後、又再興之例多之、到于後世縁起開基之行状等失墜云々。

   永和元年三月日 首楞厳院比丘  厳誓判

右山門之記文分明云々

如斯のうへは、定覚上人といふ人のさうにて、釈迦念仏しやかねんぶつ之祖たり。如輪は定覚より二百五六十年後、しかうして彼念仏破却をなげいてふたゝび発起ほつきせる物ならし。加之彼しかのみならず寺の鐘康暦元年七月に鋳たると云々、此銘にも粗有之。

同所名木の桜あり。〈普賢像云々。〉

オープンアクセス NDLJP:168此さくらの花盛を待て一枝を公方家へ進上して、翌日より念仏を始むると云々、下行米五十石を給ふと也。

一、昔応永年中鹿苑相国ろくをんしやうごくよしみつ公、北山の別業べつげふにおはしまし、後小松院行幸を申請させ給ふ。 〈此事北山行幸記にあり云々。〉即別業に於て御止宿ごしゝゆく廿余日、此けいえいによりて二月中旬の念仏しばらく延引ありて、三月にわたり、花の時分をまちて行ふと云々。〈此事左にみえたり。〉

一、北山行幸の比は応永十五年春となり。即釈迦念仏恒例の法事にあたり、洛中らくちうぐんをなして喧しかりけるあひだ、停止ちやうじすべきのよし、将軍家義満公より仰下さると云々。即上使斯波治部大輔義重をもつて、彼寺へ仰ありて云、此てらのさくら名木のよし上聞に達す。一枝をさゝぐべし。因之彼住僧大枝を手折てをりて進上す。その時将軍家大きに御立ぷくまし、かさねては小枝を切てさし上べし。名木の大枝無情非折取と云々。扨御下行米げぎやうまいを下されてより、当世まで退転たいてんなきは右之謂みぎのいはれなり。

一、普賢像ふげんざうといふは、古来より名だかき花木なりといへり。宇多天皇うだてんわう雲林院うんりんゐん御幸あそばされて、はなをえいらんせさせ給ふ。此時菅家くわんけ御供し給ひて、青色を謝し給ひ、勅命によりて詩賦御作文しぶごさくぶんの事、当代までつたふる事也。此ふげんざうは其種流しゆりうなりと云々。

一此寺の由来を縁起えんきとう失散しつさんして不分明。是応仁よりこのかた舟岡山合戦に及びて、度々のたゝかひに武家の陣舎ぢんやとなれり。故に重宝ちやうはうみな失散す云々。

 
 
去比、宗祇法師そうぎほうし本にて名高くして冠家くわんかの人にもこれをはぢて法伝をうけらるゝ事あり、其身斗藪とそうに住して一所不定のきこえ有り。其比天下に連歌師れんがしおほく侍る。所謂肖柏桜井弥四良基佐宗長など、其外も類おほく侍る。宗祇は随一ずゐいちにして、歌道の骨柱こつちうたりとみえたり。其比宗祇以下の連歌師五六輩をえりて、五万句の連歌を張行ちやうかうせしめ、かたじけなくも先院勅点せんゐんちよくてんをくだしめ給ふ。衆輩しゆはい皆宗祇に不点数すくなし。誠俗生ぞくしやういやしなどいへど、歌徳によりて其名は摂家せつけ清花せいくわも及給はず。尤此みちの逸人いつじん也。或時宗祇嵯峨〈[#「峨」は底本では「蛾」]〉のあだしのゝ北に草庵さうあん有るをみて、便路べんろに立よりて侍る、庭にの花咲ける。あるじの野僧立いでて侍るに、其坊主ぼうず鼻高く見にくかりければ、宗祇かへるさに、彼花に短尺たんざくして、

  さかばうのはなにきてなけほとゝぎす

宗祇かへれば、あるじの野僧やそう此短尺をみて、にくき所為かなと思ひて、客僧御留り候へとよばりけるとなん。宗祇立かへれば、此句をよみきかせ給へといふ。宗祇さかはうの――とよみければ、さては仔細なく候。我は此句を嵯峨坊の鼻にきてなけと心えて候故、扨はにくき事也とおもひ、よびかへしつるといへり。をかしき事也と云々。凡そふぐのものは人にまじはるごとにむかふの人のいふことばを、よろづ我不具に推してきくもの也。是かたはものゝ毎々ある事也と云、此僧も同日之談か。宗祇も下の心がらはあつぱれ鼻をよそへたる句なればとみゆれば、たはふれたるとみえたり。

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人皇五十七代陽成院のわうじ元良親王は、玄妙幽げんめういう歌仙かせんにて、御自詠あまた人口に多し。徒然草にいはく、此親王元日の奏賀そうがこゑ甚しゆしようにして、大ごくでんより鳥羽とばのつくり道まできこゆるよし、李部王重明親王の記に侍るなどいへり。此李部王の御記は、名目みやうもく高くしてまれなる物なりとぞ。勿論もちろん貴族等には所持しよぢもありつらめ、なれども挙世大切の記なりとみえたり。今川伊予入道貞世九州探題職をかうぶり罷下るのみぎり、公方より申預り書写し侍ると云一説有之、其後其記何かたへかちりつらん、又兵火のためにや灰燼くわいじんとなりつらん、あたら事といへり。近代ある人、歌書の抄物せうものなど述せらるゝ中に、やゝもすれば、此記を証文にひかれたる所おほし。此人若所持せられたるか、又外にてたまたま一覧もありつるか、又ふるき抄物の切句などに、李部王記をひきける事おほし。若其類を用ひて載挙のせあげられけるにや、如何様不審いかさまふしんにおぼえ侍る。兼好さへおぼつかなくいへり。しかるを二百余年の後輩こうはいとして、たやすく此記を沙汰するは、後生こうせいおそるべき事か、如何々々。扨右にしるすごとく元良親王の御声は、大極殿だいごくでんより鳥羽のつくり道まできこゆと云。また僧伝にいはく、釈静安西大寺の常騰法師じやうとうほうしにしたがひて法相はつさうをまなび、曽て江州ひらの山に居し、十二仏名経をよみて礼拝修懺らいはいしゆせんす。そのこゑ帝闕ていけつに聞ゆ。又諸州のあひだにも聞之ものありと云々。此事頗元良親王と同日の談乎。又古史にいはく、足利又太郎忠綱が声十里を去て聞ゆと云々、是又一同之談なり。凡そ漢家にも此ためしありといへども、本朝には間おほくいひつたへたり。此説いさゝか所謂しよいありげに聞え侍る。しかりといへども、凡そ愚の今料簡するには、不心にもおぼえ侍れど、古伝こでん所記しよきなれば、あざむくべからず、ふべからず。かやうの事は仏家ぶつけのものに沙汰すれば、さまわが道に引入て、義理ふかくとりなす物なり。されど仏法以前にかやうの談、異国にも其例あれば、今釈氏のいへるまゝにも有るべからず。
 
 
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巻第二
 
 
 

天文の初、洛陽らくやうに名高き目盲法師もくまうほうしありて、高官かうくわん有職いうそくの人々へつねにまゐり、さまの芸をつくして侍る間、都下とかの人きいの思ひをなせり。かくのごとくる芸なれば、富貴ふつきの町人すべて、彼目盲法師が門戸に市をなしてもてなしあへり。同五年あらたまの御礼を申などいひて、先公家がたへおもむきけるに、此盲者の手を引くもの、田舎よりのばりて諸事無下むげなれば、常々教訓して召仕ひけるが、今日手を引くに付て、さまの事をしへていはく、内裏だいり築地ついぢのうちへ入る時は、町屋まちやの心え仕るまじ。位たかき御かたさまなればつゝしむべし。もし長袖ながそで御人体ごじんたいとみるならば、半町もまへかたより此方へ申べし、ひざまづき礼をなすべしと庭訓ていきんをふくめける。さて正親町おほぎまちおもての御門より入る時、手引きに云付けるは、是より内かた様は皆雲上なり、かまへてあやしき人相にんさうの御かたとみるならば、我に告ぐべし。貴人堂上きにんだうじやうの御かたさまは、平人へいにんと衣ふくも替りて長袖ながそでなり。但長袖といふにしさいあり、必ず御かしらに物をいたゞかせたまふ、是則御公家おくげ也。たとへ又長袖の人なりとも、つぶりにものゝなきは凡人ぼんにん也。よく見分て我にしらすべしとくりかへし申しける。扨御門を入るとひとしく彼手ひきのもの告ていはく、御申の御かた様これへ御こしとさゝやきければ、盲者膝折頓首ひざをりとんしゆして、白砂に手をつき、しかのものにて御座候と一礼をのぶれども、何の御こたへもなし。又使をたまはりて御太儀と云事もなかりけり。扨如此して下馬する事、一町の間に十所ばかりもひざまづきければ、ひねもその礼には、百四五十所もつくばはせけるあひだ、身もひえ水衣も沙泥すなどろになりてみぐるしければ、道に行あふ人ごとにつまはじきをしてわらひけるとぞ。かやうに路次ろじにておほくひざまづけども、一度も御ことばに預る事なかりけり。盲者もくたびれて、もはやいつしか手引と共にかへりてけり。扨宿へかへりてしばらくやすみて、彼手引に申しけるは、毎年の御礼には上方様うへつがたさまより御詞を被下る。又さほど下馬もせず唯御やかたへ参る計なり。さて今日の下馬の事ふしぎ也。若なんぢ人たがへして、我につげぬるか。又御公家おくげならば、さだめておなじ御かたへ幾たびも礼を致させたるにてぞあるらん。いぶかしき事也。最前さいぜんよりよく示し教へけるにといへば、彼手引がいはく、先刻より御教の御方ならでは、御告を申さずと云ふ。猶不審ふしんにおぼえて、かしらには物をいたゞかせ給かととひければ、いかにも左様に候と云ふ。さてはいよおぼつかなしと思ひてまたとふ、長袖をめしたるにや。彼引手こたへて云、いかにも長袖にて大紋だいもんのかたびらをめし、御手にはつゞみをもたせたまひ、御供の人人はみなふくろをもち給と云。彼盲者仰天ぎやうてんして、扨は仔細なき万歳楽まんざいらくなり、口惜くちをしき礼をもしつる物かなと云て、その手引をしばらく追ひこめけれどもかひなく、後には盲者もをかしきことにおもひ、また公家くげのひとへ、かさねて御礼を申あらためて、この事をかたりわらひけるとかや。をかしきこオープンアクセス NDLJP:171となり。

 
 

妙心寺関山ゑげん禅師ぜんじは、そのかみ濃州に山居せられて、智行兼備ちかうけんびの道人本朝にならびなき禅哲ぜんてつなりといへり。去建武之後、大徳禅院大灯妙長の令名れいめい世に比類なく、王侯大人一同に帰依きえせしめたまふ。これによつて五山大刹だいせつ長老ちやうらうも机前のもりをはらはんことをのぞみ、隠遁無為いんとくむゐの尊徳もかへつて残盃ざんぱいの冷にしたがふ。四海にる事雷霹らいへきの如しと云ふ。しかれども門弟曽て大灯の心にかなひがたく、唯龍の勢ありておそるゝのみといへり。一日門弟論義せるに、問説心せつしんに叶はざるにや、大灯立て首をうたれけるが、あまりにつよく打擲ちやうちやくせられて弟子をうちころされけるとなん。これよりいよおそれをなして、門下の輩しんしやくのていにみえて、敢てつかうまつる事人にゆづりあひて、悟道ごだうを耳のよそになせり。此事げて天下にかくれなく、あるひはたふとびあるひはさらずともなどいひて、かたぶけけるものもおほしとなり。関山此事をつたへきゝて、是則我のぞむ所なり。あつぱれ師や、かゝる人にこそ、師資しゝ盟約めいやくもなすらめとて、急ぎわらんづをはきしたゝめ常住じやうぢうていにて上洛あり。即時に大灯だいとう禅院ぜんゐんのたづねゆきて、しかのものなりとことわられければ、大灯やがて立て出合はれけるに、関山庭上に立ちながら、急に法問ほふもん二三度に及ぶ時、大灯歎じて曰く、あゝなんぢ我をしれりや、はからざりき、けふすでに汝に会せんとは云々。大灯もこゝろよく、問談数廻もんだんすくわいにおよびて、是より彼禅師を吹挙合体すゐきよがつたいせらるゝと云々。かゝるたふとくおそろしき教化けうげを聞きつたへて、不日に上洛ありて、法問におよぶ事、まことに未曽有みそうと云つべきか。凡本朝の禅師といふは、関山くわんざんを称して云といへり。是若経者よりしてこれをいはゞ、等覚とうがく再来さいらいとも称美しようびすべきかと云々。扨はなぞのゝ勅願所ちよくゞわんしよ御影堂めいだう法塔ほふたふ山門さんもん鐘楼しゆろう五山に超えて美々しくいらかをならべ、寺門一しうの開山たり。 〈妙心寺の僧の云く、寺は大徳寺へゆづり、宗は妙心寺へゆづり給ふと云、大灯の語ありと云々。宜哉今にいたりて、益々門人□林尤義と云々。〉ある人のいはく、恵玄妙心寺住せられしころ、天龍寺てんりうじ夢窓国師むさうこくし嵯峨より入京の折ふし、寺前を過ぎたまひける間、人をして関山をとはせられけるに、折よく関山住坊にまして、やがてやぶれごろもをとゝのへ走出、先御入寺せしめ給へとて引導いんだうして、住坊に入り、こゝろよく対談たいだんありて後、国師こくしへきやうをぞ致すべきが、貧賤なれば心外しんぐわいなりとて破れたるすゞりばこより銭四五銭をとり出して、近隣きんりん在家ざいけへ小僧をはせて、やきもちといふるのを買はしめ、夢窓むそうへもてなされけるとぞ。夢窓もこれを見給ていぶせきながら、関山の志の切なるを感じ入て賞食しやうしよくありて、こゝろよく謝して退出せられけるとなん。軽忽きやうこつのもてなしなどいふもおろか也といへり。彼夢窓国師むそうこくしは四海の智識にて、当時天下の大人渇仰かつがううへ、世こぞつて崇敬そうぎやうし奉ること言舌ごんぜつに述べがたし。富貴にして柔潤優廉にうじゆんいうれんのきこえ又かまびそし。殊に和こく風詠ふうえい其妙、より公門をはづかしめらるると云、かた有道の師、言語道断ごんごだうだんにして、五山第二の列にそなはられ、風水怪石をもてあそびて、其こゝろざし悠々閑然たりといへり。

オープンアクセス NDLJP:172かゝる止事やんごとなき高徳を、関山のもてなしつくろはずかざらずして、唯そのまゝのてい未曽有みそうの事どもなりと、ある人かたられ侍りし。

 
 
信州おく山の中に、草津といふ所あり。其所に熱泉ねつせんあり。此所いたりて山中にして人倫じんりんまれなる所なり。浅間の山のふもとより七八里も奥山なりと云。此温湯をんたうはきはめてあつくして、勢ひ又強く其味しぶれり。是いはゆる仏説に、東海の北国に草津といふ所あり、其所に熱湯ねつたうありて衆痾しうあを治すと云々、則此湯なりといひつたへたり。しかれども、此湯の性つよくさかんなるがゆゑに、病によりて忌之といへり。凡瘡毒難治さうどくなんちにして骨にからみ、又悪血ありて腫物しゆもつを発し、春秋寒暑の節にいたりて再作するの類は、かならず十人に八九は治すと云。されば此湯を頼むものは、まづ深切にその人の虚実強柔きよじつがうじうの質器をみあきらめて、しかうして後に可之と云。〈猶此事、医術の人に相談し、且又此湯を用ひたる人に、再往たづねとふべし。〉此事は前年、彼湯にいりてしば其しるしをえたるものかたり侍し。和国第一の熱泉ねつせん也。一たび湯治してかへるもの其太刀たち脇差わきざし衣服いふく器財きざいの類、惣じて色を変ぜずといふことなし、てぬぐひを彼湯にひたすに、白潔はくけつの布たちまち柿渋かきしぶの汁にて染めたるがごとし。やぶるゝ事なくして、其布かさね畳む所の折目よりすなはちをれ切るといへり。かやうの湯もある事にや。扨三月より中秋まで、遠近のもの爰に来り、其程すぎぬれば、入湯にふたう叶と云。

〈其所の民俗語て云く、九月より以後は、此所の山神参会し給ふ故、重陽の比より此所の旅館の人も去て里に下り、又来年の期を待て此所に来たりて、旅人をもてなしあつかふと云。秋去もし此説然れるか、又重陽より以後は至て寒きが故か、両条いかゞ。〉又此湯より猶おく山へいれば、おそろしく焼上る山おほしと云。昼は其やくる時いたりても見分がたし。夜に入て焼る刻限こくげんには、四面皆火也と云。外国のものたま此事をきけば、身の毛もよだつておのゝく事也。古僧の説にいはく、焼上る山は皆地ごくなり。此国むかしより人情強頂がうちやうにして邪欲無道じやよくむだうなり。道を説すゝめがたし。此ゆゑに善光寺の本尊はると西邦より此国にうつらせ給ふは、此いはれなりと云々。又或人のいはく、武蔵むさしの国ちゝぶの辺に穴あり。此あなに入れば前途いく程といふことを知らず。地ごくの相をうつし異人奇形の物に逢といへり。 〈わたくしに云、此説いかゞなり。先年此郡のものに此よしたづれ侍るに、古僧と同日之談也。此事然りや否。又云、いつはらと云所に地ごくへつたふ穴ありと云。是則武蔵の国也。地ごくの事はしらず、穴あるは実也と云々。〉

古来こらいの文どもにも武蔵野の下に地ごく有りといひつたへたり。もし然らば、頗相似たる説也、しひて地ごくの沙汰を決するにはあらず、かたりしまゝをしるしとゞむ。

 
 
鎌倉かまくら執権しつけん上杉民部入道道昌うへすぎみんぶにふだうだうしやうといふもの、発明利根はつめいりこんのうつはもの也。あるとき領内りやうないの土民松山を論じて隣里りんりのともがらと度々いひ合ひいさかひ侍るが、いやしきもの共なれば、後の慮もなく、又時代の用捨もなく、唯わがまゝをのみたがひにふるまひて、後は一揆がましくなりて、さび矢をみがき竹鑓たけやりなどの物用意し、不日ふじつ難儀なんぎに及ばんとす。これによりて近郷きんがうの百姓より代官だいくわんまでひそかに告うたへける間、時の代官田中源太左衛門なにがしと云もの、つぶさに聞届け大きにおどろき、やがて執権まで此事をオープンアクセス NDLJP:173うかゞふ。家臣も唯ならずおもひけるに依て道昌だうしやうへ達しける。此山の論に就て事々しき仔細あれども、畢竟ひつきやう山のいたゞきよりふもとまでの間尺けんしやくを積りあきらめずしては、此論決しがたしと云々。先家老代官からうだいくわん相共に被論評ろんじやうの百姓のうも、たうを立る者四五人をよびよせて対決たいけつせせしむ。然してたがひの究極きうきよく、此山の高さをつもらねば勝負しようぶ決しがたきによつて、さし当り人々も弁へかねて、此事いかゞすべしといふ。代官も山の間尺をぢきに知る事同朋の中に不心なれば、かつて承知仕らず申けり。かくのごとくしてやうやく時をうつすところに、道昌は此事耳のよそにして、大やうに下知もなく、最前より百姓の一揆何条きなんでふの事かあるべきとあざむかれ侍りけるが、けふは折ふし浴室へ入りて、しばらく垢などすらせ、只今風呂ふろよりあがりさまに、障子をへだてゝこの事を立ぎきせられけるが、もどかしくやおもはれけん、やがて身をぬぐひ刀を手にひさげてたち出で直訴をきかれけり。扨山の間尺をつもるに至りて、かやうかやうにして、其山の間尺毛髪も違ひなしと云て、此公事わけられ諍論じやうろんもしづまりけると云。凡山の間尺を直さまにつもり知るといふは、先其山いたゞきに何にてもあれ目あてのしるしを置き、其所に人を置き、扨又一人は三間にても五間にてもあれ竿をこしらへ、其先に印を付け山のいたゞきより次第に山路をくだり、此竿の先のしるしと山のいたゞきの印とおなじやうなる時、山上のものとたがひに声をかけて、両方のしるし同じやうなりといふ時、下の竿をもちたる者立留れば、其所にて何間何尺とつもり、又山上の印を其所へ持下りて置き、最前さいぜんのしるしを持たるもの坂を下りて前のごとくにして、何間とつもり次第に間尺を書しるし、ふもとまで下りて惣の間尺何程とつもるに、毫髪がうはつもたがひなしと云々。たとへ山路の曲折きよくせつ何十町ありといふとも、直上して間尺を知るときは纔也といへり。直上百間の山は普通に超て、人の目にたつといへり。富士山もすぐに立てみるに、九十六町ならではなしと云。しかうして京口よりのぼる時は、山路十二里有と云々。道昌武勇万人にこえたる人なれば、尤其道は鍛錬たんれんせられめ、あらぬ事までも覚悟しけるは、まことにたゞ人にはあらず。若軍書の中にありけるにや、いかさまふしぎの事共也と云。又一日道昌遊宴の後遁世とんせい者びは法師ほうしなどよびあつめられて、四方山の物語せさせてなぐさまれけるに、彼の者ども、我いちはやしと様々の珍説ちんせつをのみ云出侍りしに、其中より云く、御領の其寺に五重の塔あり、高さ何十間有と云。かたはらより申けるは、左にあらず、それぞれの間尺有といひて、相互に虚空こくうなる穿鑿せんさくをして時をうつしけるを、道昌又聞微笑びせうして、なんぢらが論義共に穏当をんたうならず、皆以て人のいひしまゝを聞いて、我しりがほに論ずれども、ひとつもあたらざる也。塔は何重にてもあれ、下の重の四方を間を取ばしるゝ物也、たとへば下の重三間四方ありて五重ならば、升形ますがたまで十五間有る物なり。又五間四方ならば、二十五間あるものとしるべし。三間四方にて、三重ならば九間也。如斯一重づつ五間三間にてもあれ、四角に積り扨やねをふき立る物なり。上下の重に甲乙あれば、塔のかたちみにくゝ、又暴風ぼうふう大雨のとき、甚あやうくして損亡する物也と云々。則なんぢらが今僉儀せんぎする塔を右の如くに積るべしと云て、人を遣して右の如くにして少しもオープンアクセス NDLJP:174相違なしと、又九輪くりんは其たふにしたがひてしなあるものなり。如此にこゝろえべしと、かたられけるとなん。まことにきい人也。〈此事、先年鎌倉の家来の末かたりしまゝ也。然哉否暫く老工を待つ。〉
 
 
鹿苑院殿ろくをんゐんどの大相国だいしやうこく義満公よしみつこう去御応永十五年春、後小松院行幸をきた山の別業に申入させたまふ。此経営けいえいによりて増々金殿きんでん紫閣しかくをみがきつくりそへさせ給ひ、滝水を引き池をほらしめ、池中に洲崎すさきをかまへ、水中に伊勢島さい賀の名石をならべ、海島の意味になぞらへ風情ふぜいをつくして結構けつこうあり。是かたじけなくも天子鳳輦ほうれんをうながしめ給ふによつてなり。そのうへ義満公後小松院御猶子ごいうしの御約東有之に依て、わきて奔走せさせたまふも御理おんことわりなり。扨池の汀に南面にかまへたる三重の閣あり。

〈四壁に、金ばくを押て彩色の絵あれば、俗に金かくと云。〉此閣より水上をのぞむに、澰灔れいえんたる池崎、うき草をうごかし、陰森いんしんたる縁樹えんじゆかげしづん魚鼈ぎよべつ枝にあそぶ。又遠山をみれば、白雲花色をうばひ、薄霞山岳はくかさんがくをゑどる、絶景無二の壮観さうくわん也。これによりて、天子も龍顔りようがん殊にうるはしく、二十余日の止宿しゝゆくとぞきこえけり。扨彼金かく三重の上の天井をば、一枚の板をもつて方一丈をふさがれけるとなん。もつともふしぎの大木にてもありぬると、此事人口にいみじく、今の世までも云ひ伝ふる人侍る。去る中秋ある武家の会合に、此閣の物語ありて、座中耳をかたぶけ感情かんせい止まざる所に、奥より富士の神職しんしよく大宮の住中務と云もの走出て、さみしていはく、凡花洛くわらくの人人はおほくは外を御存知候方すくなし。此ゆゑに、此一枚の天井板をみづからいみし、御雑談ござふだんある事なり。富士山のむもれ木といふは、彼板に倍せる木おほく侍る。先づは某が茅屋に二間の杉障子あり、是則一枚板なり。御不審ごふしんにおいては、御供申罷下御見参に入候べしとつぶやきければ、座中の人々手をうつて、是より外のうはさはやみにけり。すべて六十余州の日本にさへ遠国をんごくには耳なれぬ事のみ多し、いはんや唐土てんぢくのさかひ、さぞあるらんと思ふ計也。香といふものもあぶらのこりたる木なり。みさまはあやしくて、その匂ひえもいはれず。栴檀せんだんといふものもふしぎの香也。いみじき物のみかぞへがたし。

 
 
尼子あまこ伊予のかみつねひさは、雲州うんしうの国主として武勇人にすぐれ、万卒ばんそつ身にしたがつて不足なく、家門の栄耀えいえう天下にならびなき人にてぞ有ける。是はむかし大御所おほごしよ等持院とうぢゐんどの尊氏公御存生の時、執事しつじ武州もろ直に讒せられて、命を雲陽のちまたにおとせし、塩冶はんぐわん五代の後胤こういんなりと云々。然るに高貞生害しやうがいの後、其子三歳のちごを法師にして、尼の弟子として養育せり。成人の後還俗げんぞくして、其師名を貴び、故に名字を尼子と名乗けるとぞ。経久つねひさまでは五代なりとぞ。是も其先宇多天皇より出て、佐々木一流の名家也と云つたへ侍る。

さてこのつねひさは、天性無欲正直の人にて、らう人を扶助ふじよし、民とともに苦楽くらくを一にし、ことにふれて困窮人をすくはれけるあひだ、これに因りて、かの門下にかしらをふせ渇仰かつがうするもの多し。せいの孟しオープンアクセス NDLJP:175やうくんが食客三千のむかしも、今雲州に再興せるかと人みな賞しほめあへり。去る永正八年船岡山の一乱の後、京城しばらく静るといへども、国々在々郡々は私の武よくによつて、干戈かんくわしばらくも止事なし。此時経久は雲州の居城に有之、先暫休そく活計くわつけいせられけるとなん。扨此つね久親族の大みやうにてもあれ、又出入拝趨はいすうのさぶらひにてもあれ、常にとぶらひくる人ごとに、四方山の雑談ざふだんにして、後所持の物をほむれば、則其身もよろこびて、さほどいみじく称美しようびの上は、貴方へつかはすなど云て、墨跡ぼくせき、衣ふく、太刀、刀、馬鞍等にいたるまで、即時に其人におくられけるとなん。これによりて経久の風をしれる人、かさねてとぶらふ折からは、何にても所持の道ぐをみせらるれども、人々斟酌しんしやくしてほめもせず、目にふるゝばかりにてやみけるとなん。年々の暮ごとに所持の衣ふくをぬいて家来のものにとらせ、わが身は薄わたの小袖一つを著て、五三日をすごされけれども、寒気面貌かんきかほかたちへもあらはれず、手あしもこゞえるさまなし。あたかも暮春煖気の人相をみるがごとしといへり。あるとき、出入でいりの某といふものとぶらひ来て、きげんうかゞひものがたりせるに、折節その前の庭に大きなる松あり、えだのふりやうわざとならずして、景気すぐれて見事なりければ、彼出入のものも、経久平生のふるまひはよくしれども、さればとて樹木までほめぬも座体ざていさながら無骨ぶこつなりとおもひて、扨々御庭の古松木立こだちえならずおもしろく一らん仕候。此木はそもいづかたより誰がし殿の御進上にて候ぞや、又むかしより御庭におのづから生じたる松にて御座候や。かやうのめづらしき松は、いまだ見申さず。御ひさうあそばされ候べしといひてかへりけり。その翌日家来にいひ付て、此木をよくほらせ人夫をあつめて、才覚さいかくめぐらしそこなはぬやうにして、きのふ来たりし某が方へつかはすべしといひ付て、内へ入られければ、家の子かしこまりて候とて、くだんの松をほらせ、くるまにのせんとすれども、すぐれたる大松なれば、くるまにもつみやすからず。長さは十間あまりもある木なれば、通路せばくして枝はびこりたれば、只めいわくするのみにて、途方とはうをうしなひて、また経久にかくと申上ければ、つね久其事ならん、其儀ならば是非なし。其松をこまかに切てつかはすべしとて、つひに此木を切りくだき、牛ぐるまにのせてのこらず送り侍となん。ふしぎといふもおろかなる人なりとぞ。此事細川の某伝へきゝていはく、夫攻伐は武道の第一、人々わすれざる所也。是本大欲に似たれども、其あひだにおほくの品なり。あるひは君につかへて朋友ほういう浸潤しんじゆんの讒にあひ、あるひは傍輩はうばい著座ちやくざ上下により、あるひは不意におそひ来る敵あり。あるひは一言の失をあたへられて、後代の恥を思ふ。かくのごとくの品繁々なり。此類よりして、蜂起ほうき闘諍とうじやうしあるひは打まくる人あり。或は打勝て敵国を我有とする事あり。是自然なり。あながち欲より出づるのみにあらず。経久武勇の家に生れ、攻伐は其業なれば各別の事也。平生かやうのふるまひまことに古今いまだきかず、武士たる者のよきてほん也。侍は一朝命安をんに居しがたし。此ゆゑにかねて人に約しがたし。況や後子の栄枯えいこを思はんや。予はつねひさが行跡にこゝろをよせはべり。若かのふるまひをあざむくもの有るべけれど、実は人々の及ばざるところオープンアクセス NDLJP:176なり。かやうの無欲をこそ行しがたくとも、せめて聚斂しうれんせざるやうに、身を持べき事なりとぞ申されける。

 
 
鹿苑院ろくをんゐん大相国だいしやうこく源よしみつ公は、大御所おほごしよぞう左天臣等良公の御辞、木朝不変の将軍にておはしましげる。宝篋院殿御他界ごたかいの後、わづかに十歳のほどにて御世をしろしめされて、四十余年が間天下をたもち給ふ。御在世には仏家に帰依きえし給ひ、禅院寺ぜんゐんじたふ建立こんりふあり、栄耀えいえう時をえ給ひ、後小松院御猶子いうしの御ちぎりいますによりて、御他界の後、天皇号まで贈らせ給しを辞せさせ給ひけるとなん。かやうの御贈号古今例なき御事也。公方の号は此時よりはじまりけるとぞ。つねの御心ばへはなだらかにやさしくおはします。よろづ人にふびんせさせ給ひければ、皆人あがめ奉るとみえたり。御存生ごぞんじやうの御事かの家の御記文にくはしければ、しるすにおよばず。一とせ西国御下向ごげかうの折ふし、長門の国にあみだ寺へ御参詣ごさんけいあり。其時院主ゐんしゆ申ていはく、此所に平氏亡卒の霊蟹れいかに化生けしやうして、此うみに住候。これこれ御上覧に入奉らんとて、かの平家がにを一つ進上しければ、よしみつ公つく御らんじて、寿永元暦のむかしのあはれ御心にいたましくおぼして、追悼の御作文をあそばしける折から、やさしき御風情申もおろかなりとぞ。其御追悼の詞言、

嗚呼悲哉、三がい流転るてんのしゆらの業は、跋提河ばつたいがのながれにおとされて、苦海くがいのなみにしづみ、かゝる蟹のすがたと化生けしやうせしもの歟、可憐々々。すぎし元暦のいにしへをも、今の事よとあやまたれ、もろきなみだ袖にあまる。つら人間盛衰をあんずるに、たゞ是かんたん一時のねぶりにもたらず。平家わづかに二十余年のおごりも、盛者必衰しやうじやひつすゐの夢のうちにきたりて、つひに東夷とうい武威ぶゐにくだかれ、寿永の秋の一葉に掉さして、西海の波濤はたうにたゞよひ、浮沈ふちんのながれに身をよせしも、いとあはれなりし有様なり。比しも元暦二ねんの春の半ば、官軍諸所の軍に打まけて、つくしぞさして落塩おちしほの、天子をはじめ、月卿雲客げつけいうんかくも皆一ほう滴露てきろに涙を比し、帆をひやうはくの浪にまかせて、豊前の国柳がうらに著かせ給て、しばしは君しんきんを休めたまひしかば、官軍一まづ安堵あんどの思ひをなせり。斯りしところに、三月二十二日とかや、おもはざるに範頼よしつね、兵船数千さうにておしよせ、幡旗を春風にひるがへし、矢をいる事雨のごとし。櫓楫掉歌ろかひたうかは天をふるはし、鯢波げいは数声すせい海底かいていをとゞろかす。されば兵は凶器きようき、武は逆徳ぎやくとくとはいへども、王土に身をよせし武士共ものゝふどもなさけなくも先帝の御座船ござぶね、天子の龍の天績をはゞからず、七重八畳に打困うちかこむ。官軍今をかぎりいくさすといへども天運てんうんにしてたちまちまけ、女院いけどられ給しかば今は是迄也と、二位の禅尼ぜんに進み出て、安徳天皇八歳の君を左の脇にいだき奉り、右の手に宝劔をぬき持、海ていに飛いりたまへば、諸卿しよきやう百官ひやくゝわん諸司、平家の一ぞく公達きんだちも、一つながれに身を沈め、水の泡立つ時の間に、消えて姿もなき跡は、よせくる浪ぞ名残なる。そもそも官軍此蟹と化生する事いかなれば、なれぬ海路のたゝかひに、七手八脚てだてつき、しんいオープンアクセス NDLJP:177強情がうせいのうらみきえやらず、弘誓ぐぜいのふねにほだされ、随縁真如ずゐえんしんによの浪おこつて、八苦のうみにしづみ、ぼんなうの波瀾はらんにたゞよひて、万卒まんそつのこんぱく天源にかへる事能はず、終に水底にるてんして、よる所なきまゝに、虫にして此かにとなれるもの歟。今かれがすがたを見しよりも、むかしのあはれに袖ぬれて、

   過し世のあはれに沈む君が名をとゞめ置きぬる門司のせきもり

   よるべなき身は今かにと生れきて浪のあはれにしづむはかなさ

かやうの御追善ごつゐぜん大樹たいじゆの御身にて、たぐひなくやさしく覚え侍る。則此御筆跡を彼寺にをさめて今にありといへり。生前の富貴死後の文章といふ本文有り。いけらんうちのさかえは、皆浮虚ふきよのたのしびなり。死して後名をのこすは文章なり。いさゝかの事にてもかきおく人は、其心ばへやさしく覚え侍る。いはんや公方くぼうの身をや。いうに覚え侍る物ならし。

 
 
関東くわんとうの管領さまのかみ氏満公は、常に酒を好て宴せられ、雨天になれば近習外様きんじふとざまとなく召しあつめて、気かろげに辞をかけらるゝ間、空くもれば、すはや殿の御遊はじまりぬらんと、上戸のともがらいさみあへり。一年五月雨さみだれの空いつもよりうちつゞきて、はれ間なくさびしさまさりければ、かの酒宴ひたものうちつゞき、座体ざてい尊卑をいはず、主従もろともに無礼講といふべきほどに興じられけるに、氏満のいはく、天子も人なり、将軍も人なり、又我も人なり、我に仕ふる汝等も又人倫なり。智をいはばなんぢらこそ、結句われにもこゆべし。いかにといふに、つねに下民卑賤げみんひせんのわざを見て、人情をこまかに目にふるゝによつて、ものゝ思ひやり下臣の身ほどくはしかるべし、如此一等々々の序次じよじ人間ほど品あるものはあらじ。書を見ても目にふれず、哀を間近くきかざれば、おもひはかる所の情けにはすくなかるべし。折々は主従を引かへて世を治めたらんこそ、よかるべき物とたはぶれ給へるに、近習の人々かつて此返答を申ものなし。やゝ有て、はるかの末座まつざにひざまづきたる森元権之助信光といふもの罷出て、こは勿体なき御意にてこそ侍れ、上ありての下にてこそ候へ。さて主君のよろしきと申は、唯おほやけなるが物にさはらずしてよくおはしまし候。凡そ大君の御利発ごりはつ、下従のごとくなるはあしく、けつく下としてよろづの法をはからひがたく、なまじひに御利根すぐるれば、民のために却つて煩に罷成り候べし。いかにと申すに、とても三皇五帝の聖代のごときも、今時はおはしますまじ。又泰時時頼のごとくに、人を撫育してあきたらず、尚頭人評定とうにんひやうじやうのものまひなひにふけりて、民をなやます事もこそあんなれと、諸こくを斗藪とそうして、下農商旅の唯ならぬをあはれみ、天下ひとしくたひらかにをさめらるゝ事、古今にためしなき事に申あへり。其よりのちの将軍家、又管領奉行頭人評定のこゝろざしをみ侍るに、おほくは皆わたくしあり。人を害する事をかへりみず。此いはれに兵乱うちつゞき候。さはいへど、天下のぬしとむまれさせたまふ人は、只人たゞびとにてはあるまじ。そのゆゑオープンアクセス NDLJP:178は、右大将家よりこのかた、代々の国主御逝去ごせいきよのときにのぞんで、天変地化てんぺんちくわ万人のまなこにさへぎる。是併其表事天下に徹するがいはれ也。大御所おほごしよ尊氏たかうぢ御逝去ごせいきよのとき、さる沢の池水、色変じ皆泡になると申候。又宝篋院大樹御死去の時も、虚空こくう哀慟あいどうの声一両夜あひつゞき、これをもつてみれば、只凡人ぼんじんにあらざ事あきらけし。惣じて人界にんがいの品を工夫くふう仕るに、たとへば五重の塔に比して申さば、御国主は九輪くりんのうへの宝形なり。それより下の重は、皆一ぞくの類、又其下の重は大名だいみやう高家かうけ、それより一重づつ下は、皆それの役人、領知りやうち相応に位も劣りもかろし。扨下の土代どだいのごときは、御中間小人恩沢おんたくに預かり渡世するものども也。是等は皆御扶助ごふじよに預かる人にたぐへ、扨塔の具をはなれて、そのほかのくさむらの露にいのちをつなぐむしのごときものは、皆農工商のともがらなり。是は天露てんろをなめ潤雨じゆんうのめぐみならではいきがたし。此事おそれながら、よく御案じ候うて、向来ゆくすゑあはれみをおこさせたまふやうにおぼしめさるべく候と申ければ、氏満大に悦喜有て、只今のたとへ時に取りておもしろし。よくぞ申たりとて、酒たうべさせて、大禄をくだされけるとなん。彼上杉が余流のものがたり侍る。その時は侍従傍輩も大汗になりて、無用のたとへと思ひしが、大禄の後はあつぱれてがら也。森元ならではとほめぬ人もなかりしとぞ。

世の中のほめそしる事は、善悪によらぬものなり。人間の用捨のみ貧福にありといふ本文、まことなりけり。

 
 
相模の国の住人本間孫四郎資氏といふ者、去る建武以後そのほまれ天下にかまびそしく、弓馬相まじへて、古今独歩こゝんどつぽの達者也。〈世に本間方と云て、一流の祖也。〉扨此孫四郎事在世のてがら、さま也と云へり。しかるをちうばつの後おほく世にかきもらせると云々。勝定院しやうぢやうゐん殿大樹義持公、弓馬の御稽古のはじめ、日本の弓馬の書召集めらる。此時作州の牢浪人らうにん、稲村元澄といふものゝ許より、差上げたる弓馬奥義書数帙すちつあり。其中に本間が手がら不残挙たる書あり。近比其写したる本なりとて、ある所にて見侍るに、世に書もらしたる事不挙算、あたら事也。むかし兵庫和田の御さきにおいてかけ鳥を射たるふるまひ、又塩消判官高貞がもとより龍馬りうめ献上けんじやう之時、天下馬道の達人、皆此馬に辟易へきえきして近づくものなし。独り此資氏すけうぢ勅命をかうぶりて、これにのればたちまも飛龍ひりようくもをかけるの憤虎ふんこ山をふるはす為体ていたらく、又ことの葉に述がたしと云々。馬も馬なり、御者も御者なりといひて、異口同音いくどうおん感動かんどうあり。是より其名天がしたにあふれ、門人彼が風骨ふうこつを学ばん事をねがふものおほし。それ諸芸しよげい諸道を学べるもの、初心しよしん後心ごしん堪能かんのう不堪ふかんの品ある事、世こぞつて然り。凡稽古のもの何にてもあれ、其みちのさし口一二ヶ条を半途習ふ時、早此事をみづからあざむき、一等飛んで又其上を欲するがゆゑに、終にその道にいたるものすくなしと云。習れのはしめより、悟文の後まで、一級々々の品を正し、はしごをのぼる如くする、是則篤実によりて然かり。嗚呼あゝ道をつとむるの士、すくなき事ひさし。豈其両端をあぢはへるもオープンアクセス NDLJP:179の、其中道深遠之理をしる事あらんや。然して天下の人こぞりて本間をたつとび、習つとむるといへども、終に資氏が心に叶はず。如何となれば、彼所謂一より五六に飛、其次を除て十に至らん事をねがふによつてなり。門弟の中、あるもの一日本間に申しけるは、凡そ貴方の御奥義何が条候哉、さだめて千万の秘術ひじゆつも御座候はんといふに、本間につこと笑ひて、その事なり、千万の術は一をよくすればそのほかは自然に満足す。第一の大事といふは、かけはしをのるに口伝くでん有り。これをならひ得れば、のこる所は、すべてこゝろざしにしたがふものなり。しかれども此故実こじつたやすく伝へがたしと云へば、此ものすはやとおもひて、いまだ十の内一二もいたらずして、早千万の奥蔵あうざうを遂げまくおもひて、ぜひとも御師伝にあづかり候はん。たとへ一朝に命をまゐらすといふともかならんと、手をあはせて懇望しける間、本間もぜひなくして、さらば伝申べし。此所にてはつたへがたし。すなはち山谷に行てつたふべしまゐられよと、師弟相ともに誘引して、道のほど三里ばかりも行つれ、或谷川の上にかけはしあり。本間は先に乗り弟子は迹につづきてのりけるが、彼かけはしのもとにて、本間ゆらりと馬より飛おり、此ところ大事に候。よく御覧あれと云て、馬の口を引き、しづとかけはしをわたし、扨又其馬にのりてけり。弟子是をみて、希有けうのおもひをなし、扨いかなるふるまひにて候ぞやととへば、其事なり、をこの高名はせぬにしかずと云本文有り。此かけはしなくとも、一鞭あてたらんに、五間三間の谷合たにあひはたやすく飛こえさすべし。いはんやかけはしのうへをのらんをや。若我乗りてみせんに、貴方はやそれに心をかたぶけ、毎々か様のわざをこのまば、これ則あやふきををしゆる張本ちやうほん也。道は不得心ふとくしんにして、大事はさえぎりて懇望あり。是無用の第一なり。梯に不限あやふき所の高名はせぬもの也。ひつきやう大事といふは、身をまたうする所をいふ。若やむことを得ずして、敵大勢おそひかゝり、不意に取まきなば、すみやかに死すべき事肝要也。梯の外、軒ば渡し、くわんぬき通し、其外のわざは、皆人の目をよろこばしむるのみ也。相かまへて自今以後此事をつゝしみて、無用の軽わざをこのみたまふなと教へけるとぞ。まことに、此もの馬道の長者なれば、弟子に示すところいはれなきにあらず。尤をかしきふるまひと云々。
 
 
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巻第三
 
 
 
青蓮院前門主しやうれんゐんさきのもんしゆの御弟子に、藤原のなにがしといふ人、当流たうりうにかんのうのきこえあり。御門主も此人をこそとおぼしめして、つねの御懇切ごゝんせつ他にことなりしが、或時御機嫌のよき折から仰られて云く、近代なに事もおとろへゆくこと、皆おなじといへども、手跡しゆせき中比なかごろより以外おとれり。そのゆゑは、わが家流の大祖伏見、後伏見の両院、風雅ふうがれいとしてもろこしの筆法をあらはされ、しかも其のすがたの中に、和朝わてう体忽然ていこつぜんとしてそなはれり。これ則家流にかぎらず、中古相かなひたる宸翰しんかんなり、更に凡慮ほんりよのおよふべきところにあらず。扨法親王尊円の御手跡は、又これよりをさいやしと云々。むかし伏見後ふしみ御在世の御時、尊円そんゑんはいまだ御幼稚にして、手翰しゆかん名誉のしるしあらはれ、是によりて益々院にもいつくしみふかく、愛せさせ給ひけるとなん。十七歳の御時法然房ほふねんぼうの作られし一枚きしやうといふものをあそばされて、筆体ひつていにすこし私のいみじき所をくはへたまひて、えいらんにそなへたてまつらるとなり。此時院御らんぜさせ賜ひて、御ふくりふ以外なりと云々。その故はかたましきをとりていみじく書賜ふ故、其さまいやしく思召によりてとぞきこえし。其後は尊円と筆跡ひつせきの論によりて、御中よからぬ事もありといへり。然れども、尊円以降このかた法親王ほふしんわう滔々たうとして皆おとれり。尊円に比並ひひやうすれば十が二三也とみゆ。

殊に近世予が如きは、竹の枯枝を折て交へたるに似たり。あへて其門に不及。畢竟尊円の筆跡にしくはなきものなり。さはいへど、近代惣て筆法うすくなりて、文字たよわくなる其みなもとは、尊円よりおこると言ふ。いかなればまなびがたきによりて、不堪ふかんよりしひて此手跡に似ん事をねがふものは、あるひはつたなくいやしくなりもてゆく事也。尊円の流義りうぎは、普通の琢磨たくまにては、人の目にも立がたし。然ども此筆志をわするゝものは、他流又いたりがたし。此筆をよくまなぶ時は、衆流おのづから至極せずといふことなし。凡そ文字は亡命ぼうめいの後のたましひ也。正しく書しるしてしかるべし。たとへ名墨めいぼくたりといふとも、死後によみがたき文字は、悪筆におとれり。そのうへ古来より筆をたしめと云本文をみず、たゞつとめまなんで書をよめとこそみえたれ。此事皆人しる事なれば、時にとりてわきまへぬものあり、かるがゆゑに、しかいふ。又世尊寺せそんじも行能経朝より以後の筆法は、皆かなはず、さながらつくろひたる体にみえて、あぢきなし。乍去正しくみゆる文字は、皆よき手跡しゆせきといふべし。あまがち其人の流義りうぎにはよるべからず。中止よりなま才覚さいかく禅僧ぜんそうごときもの、あるひは和朝わてうの風はつたなし、あるひはまつたき文字はいやしなど、さま人をさみして、おのれが手跡しゆせきはかつて心えず、文字のわかちのみえぬを本として、自負するありさまいとあさましき事ども也。この比禅僧やうの物折々たづねきたりて、筆下にたゝん事をねがふ者もありつれど、予あへて此ものにくみせず。たオープンアクセス NDLJP:181ちかへりてはいよわが家をさみすべしなど、こまやかに申されけるとなり。此事を聞く人々、尤の仰せ至極せりなどほめたてまつる人もありし。

 
 
昔慈照院殿御在世に、さまの道具古き筆簡など、もろこしわが朝の名人をつくして高覧あり。これによりて将軍家拝趨の人々、皆めづらしき筆跡を各まゐらせられけり。あるひは宸翰しんかんのたぐひ、其外のかける物ども宛も山のごとくにあつまり侍るとぞ。そのしなは申におよばず、たぐひなき見物なりしといひつたへたり。其中にむさし坊弁慶が筆跡とて、文二十通計あなたこなたよりあつまれり。其こと葉は皆かり状なり。あるひはやせたる馬一疋御かし候へ、あるひは沙金しやきんすこし預けたまへ、或はきぬ一たん粮米らうまい一俵かし給へと、あらぬ事までかりとゝのへたる文どもなり。是第一の見物なりとて、上下喜悦してわらひあひ給へりとぞ。将軍仰せけるは、纔に取残したる今の文どもさへかくの如くのかり状なり。在世にはいくらの物をかかりつらんといとをかし。此文をみて無欲のものといふ事あきらか也。一日のたくはへあれば、明日は又人の芳志によりて日をくらしつるとみえたり。如斯うへはさだめて其かり物を返弁へんべんする事もなかるべきか、畢竟ひつきやう聚歛しうれんせざる者といふ所あらはれて殊勝のよし、大樹も御感ありとぞ。唯今の僧俗弁慶そうぞくべんけいがふるまひならば、人にうとまるゝ事あるべからず。扨弁慶が姿を恐ろしくいぶせく絵にかき来れり。大きなるひが事と見えたり。右の反故ほごの中に弁慶を美僧なりといふ事、あまた其世の僧共の文あり。各別千万の事也。
 
 
洛東の高山を如意が岳といふ。是むかし如意によい輪堂りんだうありて美々敷盛なりと云々。此山に滝あり。急雨五月の比、京より此山を望むに、瀑布ありと見えていみじき壮景也。むかし当寺繁昌の折から、此瀑布のかたはらに楼門ろうもんあり。是則三井寺の境地にして西方の門也。かるがゆゑに号して楼門ろうもんの滝といへり。往古三井寺へ役する者此道を往還すと云伝ふ。京より彼寺へ行時は、外の海道より嶮なれ共、ことに近きによりてなり。此山の城墎じやうくわく去る比公方いみじくしふしたまひけれど、後不吉の聞えありといひて廃荒せり。又此わたりに、むかし平氏の世に俊寛僧都やすより入道その外の人々、後しら河院へ勧め奉りて、平族をほろぼすべきとの相談ありし山庄の跡也といひてすゑいし有り。すべて此一山はいにしへさまざまの寺院山庄ありて、軒を並べいみじき所なりといへど、廃亡はいばうは時なればせん方なし。扨去比、此所の城盛んなりし折から、不思議のばけものありて、人をたえ入らしむと云つたふ。奥の矢倉やぐらの下につとめ守るさぶらひ共、雨天物さびしき折から、碁すぐ六などもてあそびたはぶれける時、あかりさうじの破れたる所より、面のひろさ三尺ばかりにして、三目両口の鬼形きぎやうのもの内をきつと見入れければ、やがて人々興をさまし、身の毛も立て怖ろしとなん。すべて夜ふけぬれば虚空こくうさうどうし、かぶら矢太刀の音などきこえて、化生けしやうの物まなこに遮り、怖ろしき山なりと云々。此事常徳院殿御家来某オープンアクセス NDLJP:182といふもの、ちかく迄長命して、修学院の辺に牢浪らうらうとして閑居しけるがくはしくかたり侍る。ある人のいはく、凡そ山中広野を過るに、書夜をわかたず心得あるべし。ひとげまれなる所にて、天狗魔魅てんぐまみのたぐひ、或は蝮蛇猛獣を見つけたらば、逃かくるゝ時かならず目をみ合すべからず。おそろしき物をみれば、いかなるたけき人も、頭髪たちて足にちからなくふるひ出て、暁鐘げうじようをならす事勿論也。是一心顛倒てんたうするによりてかゝる事あり。此時まなこを見合すれば、ことく彼ものに気をうばはれて即時に死すもの也。外の物はみる共、かまへてまなこ計はうかゞふべからず、是秘蔵ひさうの事也。たとへばあつき比、天に向ひて日輪をみる事しばらく間あれば、たちまち昏盲こんばうとして目みえず。是太陽の光明さかんなるが故に、肉眼の明をもつて是を窺へば、終に眼根をうしなふが如し。万人を降して平等びやうどうにあはれみたまふ日天さへかくのごとし。いはんや魔魅障礙まみしやうげのものをや。毫髪がうはつなりとも便りを得て、其物に化して真気をうばはんとうかゞふ時、目をみるべからずとぞ。
 
 
ある真言師しんごんしの云く、大みねは奥州湯殿山ゆどのさん金胎両部きんたいりやうぶの山なり。此山至て高く諸木枝をつらねて茂れるによりて、たやすく日光をだにみる事あたはずと云へり。昔役君開闢の後、一旦蝮蛇毒鬼ふくじやどくきのために人跡もたえ、延喜のころは此山すでに魔界まかいとなりて参詣する人もなければ、聞きつたふるのみなり。しかるところに醍醐寺の聖宝しやうほうといふ修練しうれん験徳げんとくの人、此山の霊験鬼蛇のためにうしなはん事をなげきて、一日発起して、入山せられ侍るに、毒蛇道によこたはりて前途をふさぐ。聖宝これを事ともせずして、忽ち鉄履を以てふみころされければ、其蛇すなはち白骨となれり。其白骨今に残りて醍醐に侍るとぞ。扨それより次第に登山せられけるに、いろあやしきもの出て、聖宝をうかゞふといへども、聖宝曽て物のかずともせず、密呪みつじゆをもつて封ぜらるゝに、天狗化物てんぐばけものやうの物力つきてゆるしをこひ、向来此山の守護をいたすべきよし降参してうせにけるとなり。又其後帝子日蔵上人此山の奥、しやうのいはやと云所にちつして、塩穀えんこくをたちて修せられ、蔵王の擁護をうごにあづかりたまふ。此上人修練いまだ熟せざる時は、蛇に追はれて命をうしなはんとせる事たびなりとかや。凡蛇の追来になまぐさき息をふきかく。そのいきはなはだあつくなまぐさくして、眼もくらみ方角もしらぬ物なりとぞ。其追はるゝ時、先鼻を蔽うて逃ぐべしと云。日蔵の住たまふ所は、普通の験者けんじやの行がたき所なり。此いはやより執金剛神にいざなはれ、蔵王の御前にいたりて、日蔵九々年月擁護といふ金札を給はり、此八字の趣向日蔵しゆかうにちざうも解しがたくあんじ給ひける時、西天より菅公大政威徳天くわんこうだいしやうゐとくてん来たり蔵王と列座まします。日蔵此金札八字を威徳聖廟に問はせ給へば、天神仰られて云、日は大日也、蔵は胎蔵なり、九々は年月なり、擁護は蔵王の加護なり、いふこゝろは日蔵といふ名、一しうに過分なり、今名をかへたらんにおいては、九々八十一年の命をたもつべし。そのまゝの日蔵ならば、九々八十一月に寿命ちゞまるべし。速に改名せば、九々八十一年の期まで蔵王護し給ふべしとの意也と申させ給へば、日蔵もかんるゐをのごはれ、其後名を道賢だうけんオープンアクセス NDLJP:183とあらためたまふとぞ。此事元亨釈書げんかうしやくしよにもみえたる。くはしくは大峯の縁起えんぎにありと云々。いみじき事共也。此わたりに巌穴いはあなあり。良香が脱戸仙術だつこせんじゆつを得し所と云。其外此山に仙家ありて往々に異人に逢ふ輩おほし。此山順逆の外入るものすくなし。つねに人跡まれにして、幽邃いうすゐたれば鳥もすむ事なし。木葉は五六尺、所によりて一丈も深ければ、むしもなく唯山嵐やまあらし枝をならす音のみ也とかや。まことに霊山異人のすむべき地也とぞ。円満院ゑんまんゐん門主行尊僧正もんじゆぎやうぞんそうじやう此山にて卯月うづきばかりに桜をみて、花よりほかにしる人もなしとよめる歌の意味は、彼山へ入ずしてはしれがたしとぞ、二条家の人申されき。近比は衆人もたやすく入るといへど、多くは半腹はんぷくまでいたりてかへりつゝ、さまの事みたりといふ。ことに国々の下山伏など、旦那の前にてはゆゝしくかたれども、実はふもとよりかへるとぞ。彼の山のこと一切外の人へもらすことなりがたし。その法式ありて、峯入みねいりのとき、僧俗ともにちかひを立てしむとなり。
 
 
南朝なんてう弁内侍べんのないしと申は、右少弁俊基朝臣のむすめなりとぞ。かたちいとうるはしく侍りけるを、いつの比なるにや、武さしのかみ師直みそめ侍りつゝ、あけくれこゝろにかけて思ひくらしけるに、御門みかどかくれさせ給ひてのち、よき時分と思ひて、文つかはして、忍びいでさせ給へ、御むかひをまゐらせてんと度々いひやりけれど、かへり事もしたまはざりければ、いとにくしとおもひて、行氏卿ゆきうぢきやうへかよひけるをんなのありけるを求め出して、北の方へかゝる事なん侍る、共にはからはせ給うて、本意ほい遂げなんには、しらさせ給はん所をもあまたつげ侍りなん。三位殿の官位を進とすゝめて言ひおこすれば、さらぬだに世の中の人のおそれぬはなきに、いとたのもしくきこえければ、御文をとゝのへ給うて、内侍のきみに、本仕へし梅が枝といひし女をそへて、はからはせ給へかしときこえけるに、いとよろこびて、命をかけてちぎりけるさぶらひ二十人ばかりえらびて、梅が枝にそへて吉野へつかはしける。内侍の君に、梅が枝が北の御かたの文をもちてこそといひ入けるに、御こひしうおもひて過しつるに、こなたへとめされて御ふみたてまつるに、はるかにこそわたらせたまへ、山ざとの御すまひさこそと思ひやらるゝ、今袖をこそしぼりあへ給はね、御こひしさのいとせめて、すみよしへまうではべりしほどに、道のたよりもしかるべければ、逢たてまつらん事をおもひて、かうちの国とかや、たかやすのほとりにしりたる人のさぶらふに、まゐりてこそ待ちたてまつれ。はかなき世のましてみだれがはしければ、このたびならではいかで相見んなど、こまやかに書きたまうて、

  あひみんとおもふこゝろをさきだてゝ袖にしられぬ道しばの露

御つかひも御ふみのこゝろにかきくどきければ、まことの御母君にすてられ参られしよりは、それにもまさりておもひまゐらせし御なさけの忘られで、あさゆふこひしうおもひたてまつりつれとて、君に御いとまをけいし給ひて、とりあへずいでさせ給へり。にようばうふたり青さぶらひみたり、御供オープンアクセス NDLJP:184にはつかうまつりけるに、道に人出あひて、たかやすに待せ給ひけれども、人多くてむつかしければ、すみよしまでまかるにこそ。若御出もさふらはゞ、あれまでぐしたてまつれとおほせおかれさふらへばとて、人あまたいでてとりこめたてまつる。いとこゝろ得ぬ事にこそ。すみよしまではるばるといかで行なん。御こしをかへせとのたまはすれば、あをさぶらひども御こしをかへしなんとしければ、たゞ住吉までいそぎたまへとひきたつるに、いかにもかなふまじけれと引とゞむるを、さないはせそとて、三人ともに打ころしてけり。君はいとおそろしく、鬼にとらへられ給へる心ちしたまひて、ただなきになかせ給へり。ものゝあはれをもわきまへぬものゝふども、なさけなうこよひ住吉迄いそぎなん、殿もそれまでいでむかひおはさんなどいひのゝしりて、いしかはといふ所までゐてゆきけり。たてはきまさつらが、吉野殿へめされてまゐるに行あうて、其ほど過しなんとかたはらなる木かげにたちしのぶを、こゝろもとなく思ひて、たちとまりて事のさまをとひけるに、つぼねがたのすみよしにまうでさせたまひけるといふに、さてはとて過なんとするに、ないしの泣きたまへるこゑをきゝて、おして御こしのほとりへたちよりてよくとへば、かうのことになんとの給はすに、いかさまにもあやしければ、そうしなんほどは皆めしとれとて、のこらずからめとりてけり。恥を思へる者三人四人ありて、抜合せ戦ひけれどもつひにうち殺しぬ。吉野へ参りて事のよしを奏し奉れば、梅が枝をすかしてとはせ給へば、はかりつる事を申しけるに、侍共は皆きられて、梅がえは尼になし給うてかゝるありさまを、北のかたへよくけいせよとてかへされにけり。まさつらがなかりせば、くちをしからましに、よくこそはからひつれとて、弁のないしをまさつらにたまはせんとみことのりありければ、かしこまりてかくこそ詠じける。

  とても世にながらふべくもあらぬ身のかりのちぎりをいかでむすばん

とそうして辞退しけり。その時はこゝろえがたくおぼえしが、後におもひ合はされていとほしみあひにけり。

 
 
凡そ武勇人の子には男女にかぎらず強勢の人あり。是勿論もちろんそのぶゆう膂力りよりきの種子なればにや、むかし新たいけん門院に伊賀のつぼねといへる人は、新田さちうじやう義貞朝臣のさぶらひ篠塚しのづか伊賀守がむすめなりとぞ。女院の御所はくわうきよの西の方にて、山につゞけるところなりけるが、さんぬる正平ひのとの亥のとしのはるのころ、おそろしき化物ばけもの有りとて人々さわぎおそれたまへり。そのかたちをしかと見さだめたるものもなし。これにゆきあひけるものは、こゝちくらくなりにけり。内裏だいりよりとのゐ人あまたまゐらせたまうてひきめなど射させければ、そのほどはしづまりにけるとぞ。みな月十日あまりのほどに、いとあつきころなりければ、此つぼね庭にいでてたゝずみたるに、月のさし出てあかゝりければ、

オープンアクセス NDLJP:185  すゞしさを松ふく風にわすられてたもとにやどす夜半よはの月かげ

とたれきく人もあらじとひとりごとしてたちけるに、松のこずゑのかたよりからびたる声して、唯よくこゝろしづかなれば則身は涼しといふ、ふるき詩の下の句をいふに、見あげければ、さながら鬼の形にて、つばさのおい出でたりけるが、まなこは月よりもひかりわたるに、たけきものゝこゝろもきえうせぬべきを、此つぼねうちわらひて、まことに左にこそありけれ、さもあらばあれ、抑いかなるものにかあるらん、あやしくおぼゆるにこそ、名のり給へと問はれて、我はふぢはらのもととほにこそはべれ。女院の御ためにいのちをたてまつりさふらひしに、せめてはなきあとをとはせ給はん事にこそあれ。それさへなくさふらへば、いとつみふかくして、かゝるかたちになりてくるしき事のいやまされば、うらみたてまつらんとおもひて、此春のころよりうしろやまにさぶらへども、御前には恐れてまゐらぬにこそあれ。此よし啓してたまひなんとこたへければ、げに左はきゝおよびし。されどうらみたてまつるべきことかは。世のみだれにおもひすぐし給へるぞかし。その事ばかりならばけいしとぶらひてん。さるにても御のりにはいかなる御事かよかるべき、こゝろにまかせ侍らんとのたまへば、唯その事ばかりにさふらへ、御とぶらひには唯法華経にしくはあらじ。さらばかへりなんといふに、かへらん所はいづくにかととひければ、露ときえにし野のはらにこそ、なきたまはうかれさふらへとて、北をさしてひかりもてゆくをみおくりて後、女院の御まへにまゐりてけいしはべりければ、まことにおもひわすれてこそ過しつれとて、あけの日よしみつの法印にみことのりありて、御だうにて三七日法華きやうをくやうしたまひけるに、そののちあへてことなる事もなかりけり。浮びてやあらんといとたのもしく侍ると云伝へたり。

 
 
むかし良峯よしみね衆樹もろきと云人、才学優長いうちやうにして平生怒りすくなく、仏神に帰依きえしたてまつる事無二也けり。此ゆゑに一会の賓客ももゝとせのまじはりをねがひ、多年の朋友はいよ懇切の志をぬきんずといへり。此もろき延喜十三年のころ、石清水八幡宮いはしみづはちまんぐうへまゐりけるをりふし、俄に雨ふりて四方のそらもくらくなりて、よろづいぶせきまゝに、御まへなるたちばなの木陰こかげにたちよりて、雨天をしのぎけり。此橘木も半に枯れておとろへたれば、

  ちはやふるおまへのまへの橘ももろ木もともに老いにけるかな

とよみてしばらくたちやすらひけるに、大ぼさつもあはれにをかしくやおぼしめされけん、半かれたる橘の枝俄にみどりにかへりけり。衆樹も天気晴ければ、再三神前に稽首けいしゆして罷りかへりけるとぞ。凡そむかしより信をいたす人利益に預らずといふ事なし。土大根つちおほねさへひとを利する例あり、いはんや人としてこれをおもはざらんや。嗚呼人生信ある事すくなし。胡為なんすれぞ書をよみ理を聞てこれにもとるぞや。たまかやうの瑞験ずいけんをきく人、其こゝろざしの不信なるにたくらべて是をあざむき、かへつオープンアクセス NDLJP:186て人心のまことを害す、是すなはち賊なり。更に強窃がうせつ二盗をいふのみにあらず、各これをはぢてますふかくまことをいたすべきなり。世間の人をみるに、おろかにつたなき物にかへつてずゐある事おほし、是何ぞや。其きくところを直に胸中にうけて是を心に判ぜず、恐れ恐るゝ事いたつてふかし。此ゆゑにかみほとけの感応かんおうもあり。されど国家君臣の要道にいたりてもちゆるにたらず、身をほろぼしうれへを子孫にのこし、あるひはすこしきになづんで大をすつ。其外あまたの害ある事は、皆愚盲のしわざなり。信有て聖賢のをしへをたつとび仏神に帰し、ひろく学て自得する人今古すくなし。しからばいかゞせんや。古人のいはく、学に弊あり、不学にまことあり、学に信あり、不学に害ありと云々。このこといたれるかな。

 
 
いにしへ高野の山荒れすたれて、すでに六十よねんなりけり。衆木しげりてかげくらく、すゞの細みちあとたえて、いづくに堂たふありとも見えざりしを、持経上人ぢきやうしやうにんといひし人、はじめてたづねあらためてしゆざうせられけるとかや。堀かはの院御在位の御とき、さんぬる寛治二年正月十五日せんとうにて御遊宴のみぎり、種々の御談義ごだんぎどもありし時、当時天竺に正身しやうじん如来によらいしゆつせして、せつほう利生りしやうしたまふとうけたまはり及ばんに、おのあゆみをはこびかうべをかたぶけたなごころをあはせて、参り給ひなんやといふ一義の出でたりけるに、皆参るべきよしを申さるゝその中に、がうそつたゞふさの卿といひし人、その時は未だ左大弁の宰相にて末座に侍はれけるが、進み出でて申されけるは、人々は皆参るべきのよしを申させ給へども、たゞふさにおいては、参るべしともおばえ候はずと申されければ、諸卿一どうに疑心をなして、各は皆まゐるべきよしを申さるゝ中に、御へん一人は参らじと申さるるは其仔細いかやうぞや。その時江帥申されけるは、本朝大そうの間はよのつねの渡海とかいなれば、おのづからやすく渡る事もさふらひなんず。天ぢくしんたんのさかひ、流沙葱嶺りうさそうれいのけんなん、わたり難うこえがたきみちなり。まづそうれいといふ山は、西北は大雪山につゞきて東南は海くうにそびえいでたり。銀漢にのぞんで日をくらし、白雲をふんで天にのぼる。みちのとうざい八千より、草木もおひず水もなし。雲のうはぎをぬぎさきて、苔のころもゝきぬ山の岩のかどをかゝへつゝ、廿日にこそこえはつなれ。此みねをさがつてにしをてんぢくといひ、ひんがしをしんたんと名づけたり。其中にことにそびえたる山あり。けいはらさいなんとも名づけたり。御みねにのぼりぬれば三千世界の広狭はまなこの前にあらはれ、一ゑんぶたいの遠近は足のしたにあつめたり。又流沙といふ川あり。水を渡りてはかはらを行き、河原をゆきては水をわたる、かやうにする事八ヶ日があひだに、六百三十七度なり。白浪みなぎり落て岩間をうがち、青淵あをふち水まひて木葉をしづむ。昼は劫風ふきたてゝすなをとばして雨のごとし。夜は妖鬼えうきはしり散て火をともす事星に似たり。たとへ深淵しんゑんをばわたるとも、妖鬼の害難がいなんはのがれがたし。たとへ鬼魅きみの怖畏をば免るとも、水波のへうなんはさりがたし。されば玄しオープンアクセス NDLJP:187やう三ざうも六度まで此道におもむいて命をうしなひ給ひけり。次の受生じゆしやうの時にこそ、法をばつたへ給ひけれ。しかるを天ぢくにも震旦しんたんにもさふらはず、わがてうの高野山かうやさん正身しやうじん大師だいし入定にふぢやうしておはします。かゝる霊地をだにも未だ蹈まずして、むなしく年月をおくる身が、たちまち十万よりのけんなんをしのびて、霊鷲山りやうじゆせんのみぎりにいたるべしともおぼえさふらはず。天竺の釈迦如来しやかによらいと吾てうの弘法大師は、そくしん成仏じやうぶつ現証げんしようこれあらたなり。そのゆゑはむかしさがの天わうのおん時、大師清涼殿せいりやうでんにして四しうの大乗宗のせきとくたちをあつめて、顕密論談けんみつろんだん法門ほふもんいたさるゝ事ありけり。法相宗ほつさうしう源仁げんにん三論宗さんろんしう道昌だうしやう花厳宗けごんしう道雄だうゆう天台宗てんだいしう円澄ゑんちよう真言宗しんごんしう弘法こうぼふ、おの我宗の目出度やうを立申されけり。まづ法相ほつさう源仁げんにん、わが宗には三時教じけうをたてゝ一さいの聖教しやうけうを判ず。三時教といふは、所謂有空中うくうちう是なりと云々。三論宗の道昌、我宗には二蔵をたてゝ、一さいの聖教しやうけうをしめす。二蔵といつぱ。ぼさつ蔵声聞蔵ざうしやうもんざう是なりと云々。花厳宗けごんしうの道雄、我宗には五教をたてゝ一切の聖教しやうけうををしゆ。五教といふは、小乗教せうじようけう始教しけう終教しうけう頓教とんけう円教ゑんけうこれなりと云々。天台宗のゑんてう、我宗には四けう五味をたてゝ一さいの聖教を判ず。四教といふは、蔵、通、別、円、五味は乳、酪、熟、醍、酬是なりと云々。真言宗しんごんしうの弘法、我宗にはしばらく事相教相じさうけうさうたつといへども、真の即身成仏そくしんじやうぶつの義を立。その時四家の大乗宗の碩徳達せきとくたち、真言の即身成仏の義を一同にうたがひ申されける。先づ法相宗の源仁難じていはく、それ一代三時の教文を見候に、三こふ成仏の文のみあつて、真言の即身成仏の文なし。いづれの聖教の文を以て即身成仏の義をたてらるゝぞや、其文あらばすみやかに文証をいたされて、衆会しゆゑ疑網ぎまうをはらされよとぞいはれける。大師答へてのたまはく、誠になんぢらが崇する所の聖教の中には、三劫成仏の文のみあつて、真言の即身成仏の文なし。且々先文証を出さんとて、若人求仏恵通達菩提心父母所生身即証大〔覚歟〕位、これをはじめて文証をひきたまふこと其かず繁多なり。源仁かさねていはく、まことに文証をば出されたり。此文のごとくそのむねをえたる人証はたれ人ぞや。大師こたへてのたまはく、とほくは大日金剛薩埵こんがうさつた、ちかくは我身すなはち是也とて、かたじけなくも龍顔りようがんにむかひたてまつり、手に三つ印をにぎり口に仏語をじゆし、心にくわんねんを凝して身にぎゝをそなふ。生身しやうじん肉身にくしんへんじて忽ちに紫磨しまわうごんのはだへとなり、かしらに五仏のはうくわんを現じ、光明さう天をてらして日輪のひかりをうばひたまふ。朝廷にはかにかゞやいて、浄土じやうど荘厳しやうごんをあらはす。時にていわう御座をさりて礼をなし、臣下きやうがくして身をまげ、南都六宗の賓地にひざまづいて稽首し、北嶺ほくれい四明しめいの客庭上にふして摂足す。成仏ちそくの立派には、だうおう道昌も口をとぢ、ほうしんしきしやうのなんたうには、源仁ゑんてうも舌をまく。つひに四宗きぶくして門葉もんえふくはゝり、一朝はじめて信仰しんかうして道流だうりうをうく。三みつの水四海にみちて慶垢ぢんくをあらひ、六大無碍だいむげの月一天にかゞやいて長夜をてらす。されば御在世ののちも生身しやうじんふへんにして、慈尊じそんの出世をまち、六じやうかはらずして祈念きねん法音ほふいんをきこしめす。此ゆゑに現世のりしやうもたのみあり、後生ごしやうのいんだうもうたがひなき御事なりとぞ申オープンアクセス NDLJP:188されける。上皇大きにおどろかせ給ひて、これほどの事いまゝでおぼしめしよられざりつる事こそ、かへすもおろかなれとて、やがて明日高野御幸のよし仰下さる。江そつ申されけるは、明日の御かうもあまりそつじにおぼえ候。むかし釈尊霊鷲山しやくそんりようじゆせんにて御説法ありしみぎりに、十六の大こくの諸王達の御幸なりし規式ぎしきは、金銀をのべて宝輿ほうよをなし、珠玉をつらねて冠蓋くわんがいをかざりたまへり。これすなはち希有難遭えうなんさうのあゆみをこらして、帰依きえかつがうのこゝろざしをいたし給ふ作法なり。いま君の御かうもそれにはたがはせたまふべからず。わがてうの高野の山をば、てんぢくの霊鷲山とおぼしめし、弘法大師をば正身のしやかによらいとくわんぜさせたまひて、御かうのぎしきをひきつくろはせたまふべうもや候ふらんと申されたりければ、此義もつともしかるべしとて、日かず三十日を相のべらる。其間に供奉の公卿殿上人くぎやうでんじやうびとも、綾羅りようらきんしうをあつめて衣装をとゝのへ、金銀をちりばめて鞍馬くらむまをかざりたまへり。是ぞ高野御幸の初めなりとぞ。
 
 
南都諸大寺のたから物一にあらず、種々の霊宝あり。就中こうふくじ宝蔵はうざうの中さまの仏像そのほかの重財等あり。その中にまろきはこあり。そのうちに女の髪有、たけ一丈余、其黒き事比類なし。ひすゐをあざむくべし。まことに和漢の中ためしすくなき物なり。是則光明皇后御壮年のころの御ぐしなりとぞ。是を取りてみれば、おそろしき物なり。さらに今やうの髪に似ず。かゝるものもありけるにやと覚え侍る。九百年に及ぶむかしの御すがたも、今みるやうの心地せり。御かたちのやんごとなきありさまは、国史等にくはしければ、今更申に及ばず。観音さつたの御さいたんなればにや、申もおろかなる事なり。しかのみならず、よしのどろ川と云所のおくに、てんの川といふ所に弁才天べんざいてんあり。此所によしつねの妾白拍子しづかが髪とてあり。長八尺ばかり、是さへいみじくおもひ侍るに、光明皇后の御事ふしぎといふもあまり有り。又此所に七なんがすゝ毛といふ物あり、長五丈ばかり、其縁起えんぎをきけば甚だ尾籠びろうの事共なり。たゞし此ものは、吉野にかぎらず往々に諸所にありとぞ。
 
 

後嵯峨院の御宇、行能卿としすでに七旬におよびて、一子もなし。是已にわが家断絶のもとゐなるにやと、あさ夕かなしまれけれども、如何ともする事なし。寛元元年に清水寺へ七日さんろうありて、此事をいのられけるに、ずいけんあらたにして、不思議ふしぎの一子をまうけられける。白河の三品経朝卿是なり。此経朝康元年中に生年十三さいにして、大内の番帳ばんちやうをかきまゐらせらる。筆簡妙絶ひつかんめうぜつの人なりと云々。そのゝち六十余におよびて、冥途めいどの請におもむいて閻王宮に到られけり。閻魔えんま王此人にめいじて額をかゝしむ。此時七日があひだ気息きそくえ身はあたたかなり。すでに七日をへて蘇生そせいせられけるとなん。同朋とぶらひて且はよろこび且はあやしき思ひをなして、とかくとひかたりたまひけるが、そののちいく程なくして、つひに死去せられけるとぞ。希代きたいの事なり。参議佐理卿は三島明神の神言にオープンアクセス NDLJP:189よりて、日本惣鎮守三島大明神といへる額を書き給ひけるとぞ。凡そ上代には、異人権化いじんごんげ僧俗そうぞくおほし。いかんぞ今澆薄げうはくの世なればとて、一人もなく又おとにもきかず、あさましき事どもなり。当代半学の儒士、古来の奇異を聞て、皆いつはりなりと云は、理りにも侍るか、是異人なければなり。されど末代迄品々の霊験をのこしおきたまふうへは、更にうたがふまじき事也。

 
 
南帝御くらゐに居させたまひける初めつ方、伊予の国大館左馬助おほだちさまのすけうぢあきらの許より、世にためしなき程の逸物いちもつなりとて、はいたか一もとたてまつられしを、四条の大納言たかすけ卿にあづけさせたまひて、折々御覧じさせたまひけるに、誠にすぐれたる鷹なり。その比皇居のうへなる山のしげみよりよないでて、からすの声に似て内裏だいりに響きわたりて鳴を、あやしき鳥にてあらん、諸士に仰せて射させたまひけれども、ところさだめざりければ、かれもこれもかなはずしてやみにけり。ある時かの鷹をふもとの野べにて雉にあはせたまひけるに、きじには目もかけずして、山のかたへそれゆきけるを、さしもかしこうおぼしめす御鷹をとて、行方にむらがり行に、しげみのうちに入りけるを、いかにせんとてまぼり居けるほどに、鶴のおほきさなるくろき鳥を追出して、空にてくみあひともにおちけるを、人々立よりてころしてけり。かたちはからすのごとくにして、右ひだりのつばさをひきのばしてみければ、七尺あまりありけり。いちもつのたかも胸のほどをくはれて、しばし程ありて死にけり。夜ななきつるは此鳥にてやありけん、そののちはおともせざりけり。いづれにたゞ事にてはあらじとて、二つの鳥をつかにつきこめて、その上にちひさきやしろをたてゝ、鳥塚といひて今にありけるとぞ。あやしき事にこそ有りつれ。
 
 
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巻第四
 
 
 
往年東奥の住士語ていはく、世に空海の奇特きどくおほく史伝に載す。悉く天下の貴賤知る所なれば、いまさら述ぶるに不及。就中人のために重宝なる事をせさせ給ふ事あり。我住国の内、或山中に塩川といふ所あり。此ところは渓谷けいこく幽栖いうせいにて、人民四五十屋ばかりあり。凡そ此近隣は海辺へとほく数十里の道をへだてたれば、つねに米穀もとぼし。第一塩を得る事自由ならず。昔大師廻国くわいこくありしとき、此所の人民物語してしかの事にて候とてなげきければ、大師是をきかせたまひて、不便ふびんの事也、急ぎ呪力じゆりきを以て塩を涌出ゆしゆつせしめ、後世民家のたすけとすべしと仰られて、あたらしく桶をこしらへさせて、谷川の真中まんなかに居ゑ給ひけるに、其日よりかのをけの中へよどみ入る水計、内にて海潮となりて其桶の下流へはすこしもからき味ひちらず、常の水なり。其所の民近隣の人々、此所へ行きてかのをけの中の水をくんで釜へ入て塩とし、あるひはやきて塩とし、扶けとなす。いまにおいて彼川の桶は大師のつくらせたまふまゝなりといふ。洪水暴流こうずゐぼうりうの折からも、砂石にうづまれずして中流にあり。かやうの奇異は後の世まで人をたすくる聖術せいじゆつなり。言語道断げんごだうだん言ふべからずと云々。しかのみならず今の世にあしの葉の中に、三寸ばかり間をへだてゝしわのよりたる二所有り。是も大師のたはぶれの御所為なりといへり。ちまきをまく人を見給ひて、汝がまくちまきにはくゝりに大小ありて見にくし。よきほどに粽を置てこれへ見すべし。明年より諸国のあしの葉にしるしをつけて置べしと仰られければ、彼もの葉の上に粽をおきてこれほどがよき比におはしますといへば、大師そのところに御つめにて跡をつけたまひて、明年よりあしの葉に二つのしわあるべし。其しわに此今の爪あとをくらべてみるべし、違ふまじ。此しわの中に粽を置てまくべしと仰られけるとなり。扨其翌年より天下の蘆の葉にしわ有ける。今の蘆の二つのしわは此いはれなりとかや。不思議といふもおろかなり。

扨国々郡々村々まで、大師の御覧なき所はなしと云。寿命は六十余なり。此内御在唐に久しく、いとまあらず。扨国々修行あり。又世に大師御筆跡ごひつせきほど多きはなし。御作文詩序あまた有り。いかなればかやうに纔六十年の内おほくの作業有事ぞや、まことに不双ぶさう権化ごんげなりとぞ。高野山碩学の僧、先年ある人にいはく、我山は大師如意宝珠によいはうじゆを封じてうづめさせ賜ふ。此ゆゑに後世にいたりて万法滅すれども、当山は弥々繁昌すると云々。其時かたはらに人有りて申けるは、伝教大師でんけうだいしは日本無双の権者ごんじやにて、ことに我山の衰微を好み給ひけるによりて、次第に山門はおとろへ、高野は右の如くに末々ほど繁昌すと云。然共叙岳えいがくの衰微は開山かいざんの本意也と云伝ふといへば、前の真言僧、それは天台家のへらぬ口にて候べし。如何なる無欲の人なりとも、我が宗の末々栄えて群生を救はんをきらふ事や侍らんと云合ければ、いとをかしく覚え侍る。扨右の塩川の事に付て、つら案ずるに、和朝は海辺へさまでとオープンアクセス NDLJP:191ほき所もなし。此所に塩をもちふる事とぼしからず。夫塩は五味の第一にて、万食に味を添ふ。此ものなくてはかなひがたし、身命をもたもちがたしと云々。まことに我国は小国なれども、万物満足して世界第一の豊家也。漢唐には肉味をほしいまゝにして、汚穢不浄をゑふじやうをいまず、虫蛇猛獣の類一として食せずといふ事なし。此のゆゑにより食毒にあてられ、是が為にいのちをうしなふともがらかぞへがたし。皆悪味あくみのしからしむる所なり。そのうへ塩といふものは、中州にいたりて海辺へ数千里へだてたれば、常にとぼしとみえたり。されど自然の妙有て池塩、石塩、井塩とて此三所より塩を取て五味満足す。是又天地造化ざうくわの功はかるべからざる事なり。わが国は太古神代より肉味を忌来れり。是併万品そなはりたる豊国なればにや、肉味にあらずして食物とぼしからざるが故なりと云々。

 
 

鎌倉右大将頼朝卿平族追討し給ひ、四海漸くやすき思ひをなし、益天子を崇敬そうきやうありしかば、後白河院叡感のあまりに、六十六ヶ国の惣追捕使そうつゐふしになされけり。これよりして武威さかんになりて、朝廷衰微すゐびせり。彼頼朝卿は容貌優美にして、実証分明なりし人なりとぞ。此卿逝去せいきよし給し時、いろの天変ふしぎあり。鎌倉の海水紅に色かはるとぞ。其御子頼家実朝卿の時もふしぎありとなん。しかれども時代はるかに押うつりたる事なれば、さまでくはしくかきける物も見きたらず。間近くは御当代の曩祖なうそ大御所おほごしよ尊氏公御逝去ごせいきよの時、猿沢の池水へんじて紅にみゆ。其外天変地兆てんゝぺんちてう一にあらず。先公方御他界ごたかいまで一として表事あらずと云事なし。是尤国主なれば、自然の徳化天地に徹してふしぎとあるなるべし。常徳院殿の御時は、白日斜陽はくじつしややうになりて色赤く光なく、おぼろなる事三十日とかや云伝ふ。かゝるふしぎの天地にこたふる事、まことにやん事なくおはし侍る。下ざまの人そしりかたぶけ申す事勿体なき事なり。たとへ行跡かうせきあしければとて、さみし奉るまじきを、ましてことなる御はからひもなく、尋常にして終らせ給ふ国主の御沙汰、かならず無用の事なりとみえたり。

 
 
野相公たかむらは、弘仁帝の御時つかうまつりて、三ぼくいたり博学得業はくがくとくげふの人にて、古今にすくなき歌仙なり。此人一代の詩文和歌げてかぞふべからず、比類なき達人なり。文華秀麗文粋等ぶんくわしうれいもんずゐとうの書にもをさをさのせたり。されどおほく世にもれたる作文ありとみえたり。恵林院殿御世に、公家の人々あつめさせ給ひて詩文の御雑談あり。漢家かんけ文人もんにんはいとめづらしからず。和国の才人の述作に、をかしく奇妙る文やあると問はせ給へば、ある人書きてまゐらせられける。小野篁奉右大臣三守書其詞云、

学生小野篁誠恐誠惶謹言

れば、仁山受塵、滔漢之勢寔、智露、浴日之潤良流、是以尼夫結交於縲維之生、呂公附嬪於掖庭之士、剛柔之位、不而失也。配偶之道、其来尚矣。伝承賢第十二之娘、四徳無双、六行不闕焉。所謂君子之好幸、良人之高媛者也。篁村非馬卿、弾能身、非鳳史簫猶拙オープンアクセス NDLJP:192寒窓、恨日月之ことを_、独臥冷席長夜之不明、幸願蒙府君之恩、許し玉へ同穴偕老之義、不宵蛾払燭之迷、敢切朝曜□□之務、篁謹言。

是は右大臣三守公のむすめをしたひて、めあはせたまへと願ひて、三守へおくりける文なりとぞ。まことに文字のつゞけやう、故事のうつりはたらきて、金玉のこと葉なり。当座に覚悟して書出さるゝ事、又高名なりとて、此文かきまゐらせし人のもとへ、おほく禄給ひける。

 
 
応永よりこのかた、管領三職の人々以ての外に威をまし、四海挙て崇敬する事将軍にまされり。これも御当家前代のうち、あるひは還俗げんぞくの国主もあり、あるひは早世の君もあり。赤松がごとき君を弑し奉る逆罪の聞えもあり。その外の事大小となく、公方は耳のよそにきこしめして、万人三職のはからひにて、御家督の口入も取りつくろひけるによりて、おのづから代々に勢を加へ、万卒これにおそるゝ事虎狼こらうのごとし。就中去る管領右京大夫勝元は、一家不変の栄耀えいえう人にて、さまのもてあそびに財宝をつひやし、奢侈しやしのきこえもありといへり。平生の珍膳妙衣ちんぜんめうえは申に及ばず、客殿屋形きやくでんやかたの美々しき事言語道断ごんごだうだんなりと云々。

此人つねに鯉をこのみて食せられけるに、御家来の大名彼勝元におもねりて、鯉をおくる事かぞへ難し。一日ある人のもとへ勝元を招請して、さまの料理をつくしてもてなしけり。此奔走にも鯉をつくりて出しけり。相伴しやうばんの人三四人うやしく陪膳はいぜんせり。扨鯉を人々おほく賞翫しやうくわんせられて侍るに、勝元もおなじく一礼をのべられけるが、此鯉はよろしき料理と計ほめて外の言葉ことばはなかりけるを、勝元すゝんで、是は名物と覚え候。さだめて客もてなしのために、使をはせて求められ候とみえたり。人々のほめやう無骨ぶこつなり。それはおほやう膳部を賞翫するまでの礼也。切角せつかくのもてなしに品をいはざる事あるべうもなし。此鯉は淀より遠来ゑんらいの物とみえたり。そのしるしあり。外国の鯉はつくりて酒にひたす時、一両箸に及べば其汁にごれり。淀鯉はしからず、いかほどひたせども汁はうすくしてにごりなし。是名物のしるし也。かさねてもてなしの人あらば、勝元がをしへつる言葉ことばをわすれずしてほめ給ふべしと申されけるとなり。

まことに淀鯉のみにかぎらず、名物は大小となくその徳あるべきものなり。かやうの心をもちて、よろづにこゝろをくばりて味ふべきことと、そのときの陪膳はいぜんのひとの子、あるひとのもとにてかたり侍る。

 
 
源三位入道頼政は、世の人のしるごとく、摂津守頼光より五代の後胤参河守頼つなが孫、兵庫頭仲正が子なり。文武兼備の侍にて、殊更和歌の達者也。其世の人々多く頼政が風雅ふうがを味ひて、門に入る輩あまたありとぞ。一代の秀歌しうかは家々の日記にしるしたれば、誰もしる所なり。其中ことに秀吟しうぎんときこえオープンアクセス NDLJP:193し歌は、庭の面はまだかわかぬに夕だちのそらさりげなき月をみるかな。是前代秀逸しういつの人おほく褒賞ほうしやうありし歌なり。されど不幸にして一生の中大国をも得られず、よしなきむねもりのふるまひによりて、三位入道衰老のやいばに命をうしなはれしは、をしき事也といひ伝へたり。東山殿御歌の御稽古には、頼政が風をいみじくおぼして、つね彼体を味はせ給うてけるとぞ。前代大乱打つゞき、世の政務思召まゝならねば、人々のふるまひうとましく味気あぢきなくおぼして、東山一庭の月に心をすまし、茶の湯連歌れんがを友として、世のさかしまを耳のよそに聞しめしけるとぞ。此時大位小職だいゐせうしよくの人々日々歩行をうながされて御幽栖へとぶらはれ、さまの物がたりはじめて、なぐさめ参らせられけるとなん。頼政がぬえをいたりと申事両度なり。皆射おほせて比類なき名をのこし候。ことに闇夜におよびて目ざすともしらぬ比、かゝる怪鳥けてうをいたる事、是はそも何を目あてとして仕たるにや、いみじくもおぼつかなくもおもひ入て候と申されければ、義政すこしゑませ給ひて、その事なり、いみじう射おほせ侍る。されど目あてもなきに射たりしなど、不審ある事然るべからず。凡弓法には天狗てんぐ、ばけ物、魔魅まみの類おそるゝ手便たより候。其法ある矢を用ふればあながち目あてによるべからず、つる音にて彼化怪のものおのづから矢に当ると申伝へて候。されど普通の芸にてはかやうの物おそれず。頼政は達人なれば、矢をつがふとひとしく化鳥けてう射課いおほせたりといふ事、手にこたへたりみえたり。目あてにむかひて射る矢の的に当る事、いとめづらしからずと仰られければ、人々も快喜くわいきして、仰せ勿論もちろんの御事にていみじく覚え奉ると申されけるとぞ。かさねて大樹公の仰せに、かやうの事人々もてあつかはれざるがゆゑに、いぶかしく思ひまうけ給ふるなり。人々の所作をゐなかうどのたふとみたるとひとしき事也。あやしみをなすにたらずとの給ひて、後はさま世のとりさたになりて、をかしき事どもかたりあひたまうけるとぞ。
 
 
京極黄門定家卿きやうごくくわうもんていかきやうは古今に名だかき歌仙かせんなり。詞花子孫につたへてかうばしく、言葉ますしげりて後裔こうえいをおほふ。いま澆世無味げうせむみのみぎり、彼高風をあふがんとすれば、いよたかし。愚口に味はんとすれどもくちかなはず。是時代はふれて人あさましくなりもて行くによつてなり。其上黄門くわうもんの時世には、詩序しゞよのもてあそびなども人々つたなからずして、秀作しうさくのきこえあまたつたへ侍る。黄門も随分詩作秀逸のほまれありて、叡聞にも達せられ侍るとみえたり。彼卿の明月記めいげつきの中にも、往々にのせられ侍る。つねに白氏文集をもてあそびて、居易が風味ふうみをしたひ、人々にもすゝめてよましめられけるとなん。手跡しゆせきはよろしからざるといふ事、応永の比の記にほゞ見え侍れど、苦しかるまじき事なり。古来より名人の筆跡ひつせきあしき人もまゝつたへきゝ侍り。そのうへいま彼卿の筆法をみるに、おほく文字のしなかはりて、さまにかゝれ侍る。凡五六品にもわかれてみゆ。今やうの人のさらにおよぶべくもあらず。あしきといへるもゆゑあるべき歟。なかんづく上根じやうこん無双ぶさうの人にて侍るにや、おほく他家の記録オープンアクセス NDLJP:194をみるに、黄門の明月記ほどくはしきはなし。其身は洛に居住して、別業べつげふを九条小倉にいとなみ、つねに彼所へいたりて窮身を山野にたのしまれ侍るよし、くはしく記中に見えたり。一とせ人々詩序につらなり、当座たうざのほまれありつる句、

  見鐘響近松風暮 鳳輦蹤遺草露春

又建仁の比、上皇南山へ御幸ならせたまひしにも、彼卿供奉ぐぶせられ、発心ほつしん門のはしらに書付られ侍る詩歌なども記にみえたり。本文にいはく、

建仁元年十月十五日午刻計、著発心門、宿于南無房宅、此道常不筆硯、又有思、未一事

 此門之柱始而書詩一首〈門之巽角柱閑所也。〉

 慧日光前懺罪根 大悲道上発心門 南山月下結縁力 西刹雲中弔旅魂

 いりがたきみのりの門はけふすぎぬいまよりむつの道にかへすな

又南山の御逗留のうち、御狩とやらんの御留守にさぶらひて、

旅亭晩月明 草寝夏風清 遠水茫々処 望郷夢未

おもかげはわが身はなれず立そひてみやこの月にいまやねぬらん

これのみならず、定長入道寂蓮じやくれんをはりけるにも、黄門悲歎の言葉一段をかゝれ侍る。是また殊勝しゆしようの事也。

建仁二年七月二十日午刻計、参上左中弁少輔入道逝去之由、其子天王寺之院主申内府云々、未聞及歟。聞之即退出、已依軽服之身也。浮生無常雖驚、今聞之哀慟之思難禁、自幼少之昔、久相馴而既及数十囘、況於和歌之道者、傍輩誰人乎、已以奇異之逸物也。今既帰泉為道可恨、於身可悲云々。

 玉きはるよのことわりもたどられず思へばつらし住よしの神

此ほか自記のうち、釈典しやくてんの図などまで叮嚀ていねいにしるしおかれ侍り。いとこまやかなる事、今尤世のかゞみとなれり。いみじきふるまひなり。往歳わうさいいつころにや、仙洞参仕せんとうさんしの人々おほくあつまりて、酒茶をたのしびて、いろの清談はじめられけるついでに、ある人の申されしは、定家卿はよろづにするどのふるまひをせられて、我はわれ人は人なる心ばえありと見えて、其世の人々どもおほくはこゝろよからざる聞えも侍り。その事のよしあしはまさしくしるしたる文も見あたらねば、しれがたく侍れど、今しばらくしりぞいて愚案をめぐらし侍るに、人々のふるまひはいざしらず、定家においてはすげなくしてそひよりもなく、礼義もするどなる事あきらけし。その故は、人としておほくしれる内、一人二人などは中あしききこえもある物なり。是いまの世の人々にもあるべき所なり。定家卿は其ころの人みな下心にあしさまにもおもへりといへり。是黄門のふるまひ足らざるがいたす所なり。いかんぞオープンアクセス NDLJP:195黄門一人にくみして、多くの人をわろしといはんや。是たゞしき証拠しようこなりと申されけり。予其かたはらにありて申しけるは、尤もことわりはきこえて侍れど、またさにもあるべからず。その故はもろこしてうあひだに、むかしより至人しじん名士めいし挺生ちやうしやうせるに、其世の人々おほくそしりきらふためし侍るといへり。是外事をそしりていふにあらず、皆その盛徳技芸の、おのれがちからに及ばざる所をにくみてそしれり。其技能ぎのうそしれる人ありとて、一がいにその一人をあしきともさだめがたし。西天にもかやうのためしあるべけれど、それはいとはかなの間なれば、たづぬるにいとまあらず。もろこしに至て、まさしく唯一不双ゆゐいつぶさうの孔子をそしれるものもありとみえたり。仲尼は聖人なり。そしれるものは悪賊なり。孔子仁義をいたきて世のさま貧欲攻伐どんよくこうばつのふるまひになり行をいたみて、彼らにしめさんがために、あまねくくにをめぐりたまひしを、さまざまにさみして、おのれをしらずなどいひし人もありと云り。此そしり他なし。唯その聖徳のわれにあたはざるをもつて也。仲尼はて給ひてのち、かやうの例おほし。又扁鵲へんじやくといふ人自然に医の四智を得て、みな人のやまひなさとして年寿長短ねんじゆちやうたんの未然をきはむるほどの此技能によりて、秦の大医の令李害といふものにころされけるよし、史記にも侍るとかや。此殺害せつがいも他事にあらず。彼いみじき芸能げいのうのわれにあたはざるをにくみてなり。すべて和漢両朝のあひだ其才芸さいげいによりて、あるひはころされあるひは遠つ島へうつされ、あるひは讒せられ侍るためし多く侍るとみえたり。今黄門在世不快の人をはかるに、そしれる事他にあらず、和歌のたくみなるによりてなり。しからば名歌によつてそしらるゝは、定家卿の身においては規模きぼなるべし、いかゞ侍らんやと申ければ、人々さもいはれたりなとさだめあひたまひける。

 
 
みづからいみじきとおもへるものがたりも、人おほき中にてははるかにおとれるものなり。予むかしをさなく侍るころ、ある殿上人でんじやうびとのもとへまかり侍るに、あまたの人々よりあひつゝ詩歌しか褒貶はうへんなどさだめあひて、いづれもかしこく沙汰せられ侍りけるが、後には例の酒宴になりて、かまびそしくなりけり。これもしばらくしづまりつるまゝに、予申し侍るは、此程めづらしき事を承り侍る。物がたりして、人々に興じさせ侍らん、きゝ給へ。東福寺なにがしの長老がめしつかひける小僧、あるものゝ方へまかり侍るに、亭主たはぶれて、さても美しき御僧に侍る。むかしよりおほくの僧たちを見来たるに、いまだ貴僧のごとくなるよそほひをみず。又俗中にもたぐひなかるべし。是かならず親父御母儀しんぷごぼぎの間すぐれたる器量なるべし。いみじき御むまれつきにも覚え侍る。御僧はそも御親父の子にて侍るやらん、御母の子にておはするやらん、こまやかにうけたまはりたき事にて侍ると申ければ、小僧申けるは、仰かしこまり候。まことにいやしきむまれつきにて侍れど、今さらせんかたなく侍る。しかるを御褒美にあづかるでう面目とや申さん、又恥辱とや申べけん、いづれにわかちがたく、扨仰られ候御返答申べく侍れど、すこし又うけ給はり度事も侍る。先これをとひ奉りて後申侍るべしとぞ。手オープンアクセス NDLJP:196をうちて、此鳴りたる方は右の手にて侍るやらん、ひだりの手にて候やらん、仰きかされ候へと申ければ、亭主それはふしんも待らぬ事なり。両方の手をうち合ひたるひゞきなり。右の方にも侍らず左の手にても侍らずと申ければ、小僧さればこそ、さきに仰らるも父が子か母が子かと御ふしんあるも、かやうのたぐひなるべし。父母まじはりての子也。ちゝ一人の子にもあらず、母一人の子にも侍らず。かたちの善悪は父母にたづね給へと申侍るまゝ、亭主もはたとつまりて、これはやんごとなき返答也。尤至極の御ことわりなれとて、感じ入てもてなし侍るとかやつたへ承り候とて、語りければ、座中の人々も、をかしき物がたりをもせられ侍るものかなとて、わらひあひ興に入られけり。又かたはらよりある人の申され侍るは、勿論一座の興にて、をさなき人の物がたりにはいみじき事也。されど、かやうの例はいにしへより侍るとみえたり。そのかみ世尊西天に出生まして、おほくの御のりをとかせたまひ衆生しゆじやう済度さいどし給ひければ、彼外道魔族げだうまぞくのともがらひとつにあつまりて、瞿曇沙弥くどんしやみがふるまひいとにくき事也。いかにもしてめづらしき事をとひかけて、そのこたへにつまりたらば、彼法をやぶらんと議したり。その中にかしこき外道人げだうにんすゝみ出て申けるは、よき御はからひ也。それがしにまかせ給へ、やがて彼法をやぶり侍らんとて、いきたる小鳥を壱羽手ににぎり、釈尊の御前にてかの小鳥を手ににぎりつゝさしいだし、此鳥はいきて侍るか御あきらめ候へ、若相違あらば難義を申かけんといひければ、世尊つくと御らんじて御返答もなくして、門の口へ出たまひ、しきゐをまたげさせ給ひて、いかに外道げだう、唯今われは門より外へ出るものか、門よりうちへ入る者か、よく工夫して申すべし。若それに相違あらば、大きにわざはひをかうぶり侍るべしと申させたまひければ、さしもかしこき外道なれど、此世尊の御ふるまひを見て、さらにこたへにもおよばで、いづくともなくにげ去り侍るとかや。まへに外道の手をさし出し、鳥は生きたるか死たるかととひ侍るは、如来によらいもしいきたるとこたへたまはゞ、此鳥を手のうちにてしめころして、是が生て侍るかと世尊をつまらせ申べし。又死したりとこたへ給はゞ、則生ながらさし出し、是が死して候かといづれのみちにも返答あらば、我が方が勝たるべしとおもひはかりてとひ奉る。是外道のたくみ侍るかしこき所也。されど三世了達れうたつの如来なれば、かほどの事いかであぐませたまふべき。終に返答もあそばされず門のしきゐをまたげたまひ、内かそとかととはせたまへば、たちまちおそれてにげ去りけるとかや。外道もし内へ入給ふといはゞ、片足を出して是が内入るかとこたへたまふべし。又外へと申さば、外のかた足をうちへ入させ給ひ、是が外へいづるものかと、御こたへあるべきためなり。これ世尊の御はからひなり。此ふるまひをさとりて逃げたりける外道もいとかしこし。かやうのためし仏書にも侍り。さきの小僧のふるまひも、かゝるためしのはしをきゝつゞりて、こたへ侍るにやと申されければ、座中の人々これは大汗おほあせをながし、感情かんせいしばらくやまざりけり。みづからをさなごころにいみじく思ひしものがたりも、いたづらになりて、はづかしくはべれど、またその恥によりて、大きなる徳もうけたまはりまうけ侍オープンアクセス NDLJP:197りし。
 
 
あるひとのいへるは、大こくとえびすと対して、あるひは木像をきざみ、あるひは絵にかきて富貴をいのる本主ほんしゆとせり。世間こぞりて一家一館にこれを安置せずといふことなし。但しえびすの事は其本説もありとみゆれど、大黒といふ事、いづれの比よりいはひそめたりといふ本説たしかに見侍らず。ことわざにいふ説はまちなれども、多くはみな虚説きよせつにしてもちゐがたし。此事いぶかしく侍る。そのうへ世にえびす大こくといへば、蛭子ひること対するいはれもありけるにやといひ侍るに、又あるひと来りていはく、尤いはれありげに侍る。以往に兼倶が説をうけたまはりしに、大黒といふは、元大国主たいこくしゆのみことなり。大已貴おほあなむち連族れんぞくにして、むかし天下を経営し給ふ神也。大已貴とおなじく天下をめぐりたまふ時、彼大国主ふくろのやうなる物を身にしたがへて、其中へ旅産をいれて廻国くわいこくせらるゝに、その入物いれものの中のかてをもちゐつくしぬれば、又自然にみてり。それによりて後世に福神といひてたふとむは此いはれなりと云々。しかうしてそののち、弘法大師彼大国の文字をあらためて、大黒とかきたまひけるといへり。しからば、蛭子ひることは本一族たれば、対するいはれなきにあらず。福神とあがめはじめたる、はいづれ世より、誰人の濫觴らんしやうといふ事はしらず。大黒と文字をあらためられしは弘法なりといへり。是兼倶が説なりとかや。
 
 
又近代民家の町をみるに、僧俗のわかちもみえぬもの、淡島の本縁ほんゑんをいひ立てすゝめふれてありき侍る。その利生りしやうをきけば、女人腰下によにんえうかのやまひにかぎりたるやうにのゝしれり。甚以てをかしき事也。されどすこしはその拠もなきにあらず。淡島といふはすくなひこのみこと也といへり。神代医術の御神也。くらまのゆき大明神、五条の天神、あはしまは皆一体の神なるよし分明なり。しからばかならず女性によしやうのこしけにはかぎるべからず。男女諸疾の平復をいのらんにかならず利益りやくあるべし。ことに末代医術を習はんものは、皆此神を尊崇すべきことなり。

去る永正年中に、山しろの国大住おほすみといへる里に藪くすしあり。宿願しゆくゞわんの事ありて、五条の天神へまうでて通夜つやしけるが、夢に老翁きたりてつげていはく、皆以神慮にあたはず。但しいまよりのち医の道をいよはげみて、第一民俗を不便せば、漸々にして家門さかゆべしと云々。夢覚て御示現ごじげんあらたなりと思ひ、神託しんたくのごとくにつとめければ、益々門葉もんえふしげくして、財宝所せばしといへり。是うたがひなき事なり。

 
 
中古天下に徳政をいふふしぎの法をたてゝ、我がまゝをふるまひきたれり。そのおこりをたづぬれば、世のみだれうちつゞき、軍産ぐんさんとぼしき故に、かれこれの商人職人の金銀をうばひ、あるひは借りとりオープンアクセス NDLJP:198てそのぬしにかへさず、さればとて此事おとなしからざれば、彼の人のきく所もうとましく思ひて、よりより此法をおこなふ。たとへば、かりたる物はかしぬしのそん、かしたる物はかり主の徳となれり。これを一国平均こくへうきん徳政とくせいといへり。我国神代よりこのかたかゝる無理なる法をきかずといへり。此事公方にはしらせ給はず。彼三職のごとき人のふるまひなりといへり。やゝもすれば、これらのともがら家督かとくをあらそひて、恥にもならぬ事を一家の恥辱なりと号して、唯今まで無二の親しき中も、たちまち虎狼こらうのこゝろをさしはさみ戦におよぶ。さればとて、その張本ちやうぼんのともがらばかり討死にするにもあらず。それの家の子郎従をひきゐて、おほくる人をそこなはしむ。是ふびんの事なり。およそ武勇人の戦場にのぞみて、高名はいとやすき事といへり。されどかたきながら見しらぬ人也。又主人のためにこそあたならめ。郎従下部らうじうしもべごときに至て、いまだ一ことのいさかひもせざる人なれば、あたりへさまよひきたる敵も、わが心おくれてうちがたき物也。とかく義ばかりこそおもからめ。その外は皆ふびんの心のみおこりて、おほくはうちはづす事敵も味方もひとし。又戦場にいたりては、いかなる白日晴天も朦朧もうろうとくもりて物のわかちも見えがたく、扨漸々たゝかひつかれ、日もくるればたがひに幕のうちへいりて、けふはまづいきのびたりなど大いきしてやすみ、しばらくこゝろもしづまりぬれば、故郷のちゝはゝ妻子の事を思ひ出し、又唯今夜討もや来るらんと心いそがはしく、いさゝかもゆるがせなる間なしといへり。近比軍に出でし武士かやうの物がたり申侍しが、尤さもあるべき事也。しからば足もとの敵をも、うちはづし見はづし侍ることわりなり。されば大人はおほかたのはぢにはこらへて、たゝかはざるがおとなしく侍るべし。これしかしながら、おほくの家臣僮僕どうぼくのためなり。中昔よりさまざまのいくさうちつゞきて、いたましき事のみおほし。其つひえをおぎなふものはたれ人ぞや。皆竹園ちくゑん椒房しくばう出世しゆつせ坊官ばうくわん商人あきびと村民むらたみ所持しよぢのものなり。いにし比より将命御教書みげうしよをわがふもの、武家の外おほくは先徳政たりとも不易たるべきのよしを、第一にねがひのぞむとみえたり。たとへば、今度何々品に就て粉骨ふんこつをぬきんで御馳走申上は、たとへ徳政の法度これ有といふとも、御下知のむねにまかせて、買得分の田畠並借けす、米銭、しち物、預り状、永地之事一切改動あるべからず。若相もしあひ違犯の輩於之者、成敗を加ふべきの状、仍如件。およそかやうのたぐひおほし、又ある人の申けるは、去る文明の比の徳政に、をかしき事ありしと申つたへたり。其の比三条五条のわたりに、おほくの旅人とまり侍れば、にぎはしかりけり。此折から徳政のふれちかくあるべきとの風聞しけるあひだ、亭主の町人よきついでなり、たからをまうけ侍るべしとたくみて、かの旅人の所持の物をいち見て、このわきざししばらくかしたまへ。此つゝみたる物は何にて侍るやらん、くるしからずばかし給へと申けるあひだ、旅客此事たくみていへるとは夢にもしらざれば、やすきほどの御事なり。御用に立ん物は何にてもかし申べしとうけがひける間、おほくの旅民の所持しよぢの具どもに、皆かし給へといふ一こと葉をそへたり。かくのごとくして、一両日もすぎ侍るに、案のごとく、公儀よりのふれなりとて、貝をオープンアクセス NDLJP:199ふきたて鐘をならして、辻々に徳政とくせい御法度ごはつとありとのゝしりける。そののち彼亭主旅人をあつめて申けるは、さてうとましき事をも申かけ侍るものかな。此徳政と申はかたじけなくもうへさまよりの御触也。此下知のこゝろは、何にてもかり侍ると申言葉をかけたる物は皆かりぬしへたまはり、かしたる物は皆ぬしのそんにて、天下のかしかりを平らかにひとしくせさせ給ふ御法なり。されば此ほどかし給へと申物は、皆此はうの物なり。是わたくしならず。則唯今の御ふれこれなりとさもきらしく申けるに、旅人は何のわきまへもなく、これはいかなる御ふれぞとばかりいひて、人々目を見あはせ仰天ぎやうてんしてとはうにくれて居たり。中にいとこさかしものありて罷いでて申けるは、よしたがひにくるしからず、うへさまの御ふれそむき侍らず。かすべしと申したる物は皆そのはうへとりたまへ。但し此ふれにつきていたましく思ひ侍る事あれど、それも是非なし。かりそめに貴殿の御やどをかり侍る事是時節也。今さら此家をかへすべき事に侍らず。さればむかしより久しく所持したまふ家なるべけれど、折あしく惜りあはせ、妻子所従しよじうひきつれたちのき給はん事笑止せうしに侍ると申せば、亭主もこれは理不尽の仰にて候とあらそひけれど、とかくわたすまじといへるあひだ、かれこれ大事になりて、奉行所ぶぎやうしよへうたへ侍るに、家主をめされてにくきふるまひかな、いそぎ立出候べし。厳重のさばきなれば力およばず大かた家をとられて、いづくともしらずのき侍るといひつたへたりとかたり侍し。家主がすこしのよくにふけりて、あさましき目にあひたりとて、その比天下の口にわらはれしと也。
 
 
オープンアクセス NDLJP:199
 
巻第五
 
 
 
去る江州一乱の時、浅井のなにがしといへる者、落むしやとなりてひえの山の雲母坂きらゝざかをくだりて京へおもむき、ふしぎのものにあひたりといへり。老人とみれば、又にはかにわかくなり、若くみれば又忽然こつぜんとしてしわよりてみゆ。一さい人にして分明ならぬくせものなり。浅井にかたり侍るは、そのはうが家かならず末さかえて貴族の名を得べし。たのもしく覚ゆべし。つゝしみなくば又うれへもあるべしなどいひし間、浅井なにがしちかくよりてかたらんとすれば、立どころにきえとなりてうせにけるとぞ。

みだれたる世には、かならず魔障ましやうありといへること有り、かやうのたぐひなるにや。されど此くせ者はよき事を申侍れば、たゞ物にはあらざるべし。

 
 
先亡藤原某卿は、近代に名高き能書のうしよ也。彼家にても行能以後の名翰也といへり。これによりてかなたこなたよりさまの文字をたのみきたりてかゝしむ。ことに額をかけるに妙処ありといへり。凡すこしきの芸あるものも、人これをもてはやすれば、はやその芸を自負じふして、人々にとやかくとむつかしくオープンアクセス NDLJP:200やすからぬ事におもはするはつねのならひ也。されどおほかたはいやしき人のする所なり。此藤原卿はしからず。天性心かろき人にて侍りければ、何事によらず人のたのむほどの事すみやかに達せられ、ことに文筆の望みあるもの来れば、それに待給へとて、時をうつさずかゝれ侍る間、結句けつく人おほく崇敬して、弥々名もたかし。一日或人来りて、慧日寺ゑにちじといふ三字の額を所望せり。彼卿やすきほどの事なり、それにまちたまへとて、件の三字をならべ書て出されければ、所望の人申けるは、つたへうけ給はりしにまさりて、いとありがたき御ふるまひにも覚え侍る。ことに見申せば、客殿きやくでんに御人の声も多くきこえ侍る、はかりたてまつるに御珍客ごちんきやくと覚えて侍る。しかるを今日始めて御見参ごげんざんに入、ことにむづかしきしなをたのみたてまつる事、以外もつてのほか率爾そつじにも思奉れど、こと人はたのみ奉るに足らず。とかく時うつりまかりすぎ侍る処に、今早速に御筆をそめ下さるゝ事、言語道断ごんごだうだんかたじけなき仕合に思奉り畢ぬ。その上此三字は字画じくわくに甲乙御座候。しかるを慧日寺と三字並べさせ給ふに、いづれもひとしく見え侍る事、はゞかりながら古今にためし少く思ひ奉る。是も又堅額たてがくにあそばされば、文字の甲乙もあながちめにも立まじく思ひたてまつれど、それは勅額ちよくがくの外にはあそばされがたく侍るやうにつたへうけ給はり候。いづれの文字にてもあれ、横さまにならべさせたまふ事いとやすからぬ御事にも思ひ侍ると、さまのこと葉をそへて褒美しければ、あるじの卿、それはさも候はめなれど、我らごときものゝ書字かくじのふるまひいとおもてつよき事にも侍る。されど所望のうへといひ、又いやしくも其家なれば、身の堪否かんふはぜひなく侍る。およそ筆翰妙絶の人は、字画じくわくにきらひなく侍るやうにうけ給り侍る。それぞれの文字は画おほく、その文字は画すくなく、あるひは文字のとりあひあしく、あるひはそれがしが流義にかやうの筆をもちゐ侍るなど、さまの秘伝をそへて自負するものあり。是至れる人とや申さん、又つたなきとや申べし。かやうの事、予は取らず。いかほどに姸をとりてつくろひたりとも、其人のたけならでは見え侍らず。とかくむづかしき品を添侍らずして、うつはもののまゝにやすと書たるがよろしかるべし。高野大師の御筆跡をうかゞふに、さま異体いていをまじへさせ給ふ中、ことにふるくちぎれたる筆にてあそばしめ給ふとみゆる文字は、猶筆骨ひつこつのやんごとなき品あらはれ侍りて、いみじくまねもなりがたく侍る。畢竟文字の大小にかぎらず、器のおよぶほどに書侍るがよしと承り侍る。今慧日寺の文字をならべたるが書にくしといはゞ、もし又明日一峯寺といふ額を望む人あらんに、いかゞはからふべきかと申されければ、まへの所望の人も口をつぐみて、感涙かんるゐをながして退出し侍るとなり。能書のうしよの人なればにや、をかしきこたへをもせられ侍ると人々甲ける。在世に多くの額をかき侍るに、皆いみじく人のもてはやし侍る。やんごとなき人なりしとぞ。
 
 
先将軍よしたね公は、御こゝろ正直にしてやさしき御生れつきなり。武臣家僕のともがらは申におよばず、公家の人々へも心をくばらせ給ひて、不便せさせおはします。されど乱世の国主たれば、将軍オープンアクセス NDLJP:201の御名ばかりにてよろづ下ざまのともがらはからひて、上意と号して我まゝをふるまふ間、これによりて御科なくして、人の口にかゝらせたまふ事もいさゝか侍りし。このゆゑに武臣のつみを大将軍へうらみて、いよ騒動もしづまりがたしとみえたり。近比公方の御ありさま見奉るに、将軍は一ヶ寺の長老にて、武臣は其塔頭たつちうの寺僧のごとし。長老は貴とけれども、寺僧よこたはりて住持をもどき侍りて、我まゝを行ふ風情ぶぜいなり。或時大納言なにがしをめされて、閑所において御談笑だんせうありし次でに、仰られけるは、およそ大人は書籍をみるにもとばしからず、天下のひろきをも一瞬に見る事かたからず、よろづ心にかなひて、四海のぬしたれば、おほくの人民日々にいたましき事をうたへきたるに、その事耳に入て不便なれば、まのあたりならねば、あながち身にしみたる哀みもなし。畢竟ひつきやう我がくるしみにあはざるものは、人のかなしみをしらざる也。われ一とせ政元が事にくるしめるにより、下民のいたはりを思ひなぞらへ侍る。是死を恐るゝにあらねども、ちかく方人かたうどのなき折ふしは、心ばそきものなり。鰥寡孤独くわんくわこどくのもの平生ちからなくおもはん事おしはかれり。慈悲の心なきものは、いけるかひなし。いはんや天下をしらんものをや。第一不便を先とすべき物なり。つら古今をかんがふるに、泰時、時頼は唯人にあらず。我朝の武賢といはんはかれらがふるまひたるべし。予壮年よりつねに下僕を撫で匹夫を憐れむ心のみあれど、我身さへ心にまかせぬ世なれば、事行かでうち過侍る。いましばし世のさまをうかゞひて、我志をとげまくおもふ事侍れど、月日は逝ぬ、年やうやくかたぶき行ば、終に其思慮をむなしうして、いきどほりを泉下せんかにとゞむべしと思へり。人々も当時衰朽そのかみすゐきうの身なれど、みづからを察して心をあきらめらるべし。一日もいけらんうち、身に応じて人を扶助し給べしと、しめやかに御雑談有ければ、彼亜相あさうもつら上意をうけたまはりて、かりぎぬ袖をしぼられ、とかうの返答もなかりしとかや。まことに大樹の身としてかゝる御心ばへ世にありがたき事に侍る。ゐなかへうつらせたまひしのちは、貴賤みなくらきともしびのきえたるやうに思ひ侍り。その折からも人々へ御いとまごひありて、おほせおかれし事は、皆やさしき御ふるまひなりと、今の時まで申出し侍る人おほし。
 
 
いにしへ細川武蔵入道常久は、知仁勇の三徳を兼備して、四海第一の勇士なりといへり。いつの比なるにや、鹿苑院殿ろくをんゐんでん月見つきみの御会のむしろにこうして、君にあらっけなきいさめを申されけるに、公方しばらく御ふくりふまして、御勘気ごかんきのきこえありければ、頼之も仰のむね至極して、是非なく外国へ蟄居ちつきよし、後に入道して常久とは申けるとぞ。其後又宥助いうじよありて、ふたゝび執事の職に任ずる事諸書のつたへ皆異儀なし。されど此事につき甚だふかき意味ありといへり。そのゆゑは頼之はよしみつ公御幼稚のむかしより、天下の執権しつけんをうけ給はりて四海の骨肉たれば、其威勢日々に重畳して天下の尊卑ことくかれが為にこびをなし、奔走する事なのめならず。しかりといへども、頼之嘗て身の為に驕りをなさオープンアクセス NDLJP:202ず、庶民しよみんを撫育してます忠烈ちゆうれつをはげます。このゆゑに公方の御威光は、蛍火のごとくにして、執事の栄光は大陽世界をてらすがごとし。さるによりて執事つら思慮しりよをめぐらし、君臣礼節れいせつ工夫くふう昼夜におこたる事なし。

ある夜深更におよびて、ひそかに御座ちかくしかうして、近習きんじふの人々を皆ことごとく退かしめて、御ひざ元まではひよりて、さゝやき申上げられけるは、いま疋夫ひつぷ尺寸の忠義をつくすに、身に取りて過分くわぶんのいきほひあり。是しかしながら、君恩のおもきがいたす所なり。しかりといへども、伏してこれをおもんみるに、臣として君候の寵遇にあまり、衆輩皆我を尊敬せば、君いましてなきが如し。久しき時は終にみづから身を恥かしめて、そしりを人口に残する時いたるべし。遠くおもんぱかるに、臣たるの道、今尤しばらく偽りて身を恥かしめ、ちつして君の御思慮の深きを諸人にしらしめば、君臣の道熟して節に当るべし。君と偽りはかりて、次であしくあらけなきいさめを申上べし。その時御勘気ごかんきの美談厳重におほせ下されて、近習外様とざま大名だいみやう高家かうけ頭人とうにん評定ひやうぢやう以下のものまでも、臣をはづかしめ給へる御よそほひをあきらかにしらしめたまふべしと、君臣合体の佯諾やうだくをきはめて、右の御勘気におよぶといふ事、たしかに天龍相国の記物の中にみえたりと云々。事実においてはむかしより今の世までのあひだにためしなかるべし。およそかやうのふるまひは、正成か頼之ならではおよぶまじき事に申あへり。

 
 
東福寺の虎関禅師の門弟の中に、いときようなる僧一人侍りて、此人後には碩学のほまれもあるべきと人みな申あへり。ある時学窓がくそうの中にて道家の書の程をねんごろに見侍りて、是ならではと思ふ気色きしよく見えけるを、虎関すき間より見給ひて、よびよせていはく、およそ大きなる学問になさんこゝろざしあらば、必いづれのみちにてもあれ、注解になづみて是に時をうつすべからず。彼是に時うつり行ままに、終に老年におよぶ。先づ初心しよしんのもの注に日を暮さずして、五経、三史、孔孟の経伝けいでんをよみて、大やうその理をあきらめたるにおいては、それよりひろく何にても益ある文をみるべし。それの文の中に、深き意味ありて、師伝をうけずしてはみづからしがたき所あらば、その処はうかゞふべし。大かたの事のしれがたき所はすておきて、先へゆけば其理つひにはとけぬべし。かならずこゝもとの詩文のはしのすこしきをあぢはひて、それに時刻をうつせば、大なる道なりがたし。大功は細きんをかへりみずといふことわざをわするべからず。此文の中のそこにはしがたき所あり、かの詩文のいづれのことばはおぼつかなしとて、日をくらすべからず。文をおほくみれば、おのづからひとりしらるべき事也。始めより一枚二枚のふみにても、のこらず見解けんげせんとする事なりがたかるべし。功をつもればおのづからことわり分明なりと申されけるとなり。ひろく名をあらはす人は、各別の意味ある事にぞ。
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むかしの武士のかける文は、いさゝかの事にもやさしく、文言がちにて義理をこめてかきたりとみゆ。今の世の文はしからず、多くはわらはべのふるまひのやうに覚え侍る。一とせみづからひそかに東国へおもむき侍り、筥根権現はこねごんげんにまうでて来由をたづね侍ると、弘法大師四体の経文、たかむらが書など侍り。其の中に曽我の五郎時むねが在世に、当社の近辺失火におよびける折から、とぶらひ越たる文とて侍る。

その文にいはく、

  夜前之隣火忽消訖、貴寺安全之悦、千万々々、委曲期面謁而已。

此事ばかり一紙に書て名乗なのりをかけり。外の言葉ことばをまじへざるは、尤しかるべきふるまひなりと覚え侍る。扨彼山はいと長々しき坂のみありて、かちより行くにかなひがたし。おほく人夫をやとひて往還の人路をしのぐ。予微僕して此小路に草臥くたびれ侍るまゝ、此わたりの人三四人やとひ出して、これらをちからとして坂道をよぎれり。道すがら夫は何ものぞ、此近所の農人かと思ひ侍れば、さにあらず、御はづかしながら、皆当社職のものにて侍れど、やしろはむかしより衰微すゐびして、神職のものは子孫はびこり申間、田畠の所務ばかりにてはくらしがたく侍るにより、往来の夫力ぶりきになりて渡世とせいつかまつり侍ると申ける間、いとかなしかりき。それよりかちより行て、かの夫をなだめ侍る。乱世つゞきたれば、当社にかぎらず世皆かくのごとし。我国にむまるゝもの第一神社を崇敬する事をわするべからず。又先年田舎にて楠が文なりといひて、書とめたるを見侍り。

急投飛戟思懐候訖。然者頃尊氏直義起鎮西蘇軍卒、羣勇三十万騎而、分列於海陸二道、近日責上之風声流聞矣。於事実者天下之大変不時、因之馳向于兵庫、可防戦之旨、勅宣太以急也。正成情傾軍慮之、官軍微卒而何豈当大敵哉。依屢雖諫奏、君曽而無御許容、空垂涙痕、今日発京師、赴戦場畢。嗚呼懸命養由之矢前、比義紀信之忠、欲戦死之条無他事、亦又元弘中自

天子

御勅与之、愛染明王為子孫武運、宜置貴院、路次迎仏之僧一人、到于兵庫、而可差越候。委曲期其節、可浜説者、謹言。

是は正成京より兵庫へ下りし比、菩提所ぼだいしよ坊主ぼうずのもとへ送りたる文とみえたり。此外の物どもしるすにいとまあらず。いとやさしきこと葉なるべし。

 
 
後観音院左大臣実宣公は、利口無双りこうぶさうの人にておはしけり。毎度をかしき雑談のみ申さるゝによりて、会合の人々も興を増して、いさゝかの事にも請待して侍る。去る比、ある亭へまかられ侍るに、其座オープンアクセス NDLJP:204に一向嫡流かうちやくりう之僧堂々と座せり。左府の入来をみてしばらく座をくだりて、慇懃いんぎんの法を謝して侍りけるに、左府今日の参会たま也。折から乱世うちつゞきて、我輩つねにせぐくまり侍れば、退屈申計なし。唯今は無礼講のむかしをうつして、やすく対談申べしとて、平臥へいぐわのさまにておはしければ、彼僧もくつろいで侍る。左府のいはく、昔より今にいたるまで、おほくの止事やんごとなき品々もほろびうせて、跡かたなきもまた侍れど、仏法のみさかんして、いかなる横逆わうぎやくのものも、おそろしくいさめる心をしづむるには、仏道なり。まことに此国にかなひたる道にや、末ほど繁昌せり。たとへ一宿の旅人にも先宗門しうもんはいかやうの法をねがふなどといひてとがむ。いはんや外国のもの他しよにすみ侍るには、いよいよ吟味せるとみえたり。扨々やんごとなき事に侍る。ことに御僧の法流ほふりうは事すくなくして、卑賤を度するに道ちかく覚え侍るなど挨拶あいさつありければ、彼の僧まことにおろかなる宗門にて侍れど、末世の人の無機根むきこんなるには相応さうおうして侍ると覚え候。すべて仏家には道ひろく事おほくすゝめたるは、濁世じよくせにはかなひがたく、名のみことしくて悟道ごだうの人すくなし。我しう法然ほふねんの支派にてよろづ愚にかへりてまことをすゝめしむ。弥陀みだ一仏の外神といふも仏と申も、しんらまんざうおしなべて雑行と観じ、雑修ざつしゆと号して余行をきらふ。今人界にんかいへ生をうけ侍るは、如来恩徳によらいおんとくなり。此故に人生をうくれば後世成仏ごしやうじやうぶつ勿論もちろんなり。されば在世に申念仏、おほくは報恩謝徳ほうおんしやとくにして、あながち未来のためにもあらず。今如来の恩救報じがたきのみをなげく、なんぞ其あまりの品をもちゐん。念仏に万象まんざうをこめたまへば、雨ふらばふれ風ふかばふけ。此念仏をさへ申せば、外に味なし、おそるゝ所もなし、あやしむ事もなしとすゝめ侍ると、一流のしなをつまびらかにして義をつくされけり。左府微笑さふびせうして、まことに弁語分明べんごぶんみやうにして、勧化殊勝くわんけしゆしようの事に覚え侍る。みづからも此一宗に心をよせ侍れど、世々相続さうぞく宗門しうもんなれば、今さら受法せんも事あたらしく、且は親族の所存もはかりがたし。しばらくやみ侍る。扨万法を念仏にこめ、余行よぎやうをきらひておそるゝ事なしと承るに、いさゝか不審あり。品によりていかにもおそるゝ事も侍るべしやとのたまへば、彼僧何をかおそれ何をかおぢ侍らん。念仏にこめ候物をと申されければ、又左府の申されけるは、いやしからず、いつぞや門前を通り侍りてみれば、寺のうしとらを恐れて在家ざいけのごとくにかきて侍る。是則鬼神明霊きじんみやうれいのたゝりをおそれてしかある事也。すでに世間にひとしくかき用ふる鬼門きもん雑行ざふぎやうなるを、是計をもちゐらるゝは私なり。雑行雑修のことわり立がたしと申されければ、かの僧もことばなくして、外をかへりみて他のうはさを申されける。座中の体をかしく侍りし。
 
 
此左府一とせの夏、妙法院の招請せうじやうによりてまゐり侍られけるに、其座にやん事なき人四五人もおはして、連歌囲碁れんがゐごなどなぐさみ給ひける。その日あしたよりいとあつくしてたへがたければ、人々なぐさみのしなもとりおきて、後には只物語のみになりけり。日中に少しかたぶきて、いぬゐの山頂より雲おこオープンアクセス NDLJP:205り出て、すでに四方の空くらくなり、いなびかりしきりにして、いかづちのこゑおびたゞし。後には闇夜あんやのごとくに成りていぶせくおそろしかりければ、人々興さめて、四方をながめたるよりほかはなし。他所たしよより御見まひなど人はしかゝるほどにて、そこへおちたり、こなたへもおちたるなり、此御所にはかはる御事もなきかといひて、下部やうの者もしばらくさわぎもしづまらず。天やうやくはれたるまゝに、御門主ごもんしゆ庄客しやうきやくおしなべて、さて今日の夕雨いかづちのおそろしさは、近年ためしなき御事にて侍ると雑談ありしに、ある人末席より出て申されけるは、そもいかづちと云事、さまざまの説おほく一決いたしがたきよしに侍る。あるひは天地の陽火やうくわはなはだしきがゆるに、自然と雲気湧出ゆしゆつしてとゞろき、あるひは金を焼て水中に入れ侍るごとくといひ、雷神はいづれの世にはじまり、稲光いなびかりは東王公が所為しよゐなり。あるひは仏家にさまの説を立て、又あるひは中天にけだ物ありて、陽火やうくわにおどろきおつると云々。かくのごとくさまの説あり。畢竟ひつきやういづれにてもあれ実は火なり。おちたる所をみれど、ちやうちん鞠の勢なる火のころびはしるのみにて、外はみえず唯くらき計也。そのうへ天地自然の猛火みやうくわなれば、えんせうの薫りのごとくして、こげたる物のにほひなり。陽火やうくわたかぶりて水すくなきゆゑに、其平を得ずして鳴る。鳴る時に中天のけだものおどろきて雲間よりふみはづしおちたるとみえたり。此説さもあるべきと申ける人ありしに、かたはらより又人出で、天地極火てんちごくくわの説聞えたれども、けだものなりといふ事得心とくしんなりがたし。いかにたけき獣なりとて、火の中に住むべきやうやある。そのうへ屋舎をくしや樹木へおちてなにの物をつかみたるといふは非なるべし。極火盛なるがゆゑに、此火にふれたるものつかみさがしたるやうに、恐ろしくみゆるなるべしと申されければ、此義げにもなるべしやなど、さだめありけるに、左府申させ給ふは、いかづちの事にかぎらず、かやうの類の目に見えぬものは、まづむかしよりあるものなりと計こゝろえ侍るべし。さまのことわりをそへたらんに、たれか此批判をわくべき。これも一説也、かれも一説也と見て、実はきはまらざる物也。すべて何によらず、説々多き事は其実体しれがたきが故に、さある事なり。猛火みやうくわの中にけだものあるまじとも申がたかるべし。つたへきく肥前の国いづれの山とやらんに熱泉ねつせんありといへり。此湯のあつき事たとふべき物なし。大魚をくさりにてつなぎ、彼湯に入て引上るに、その魚骨肉のわかちもなくあめの如くに解くるといふ。あつき程は是にて了簡すべし。彼無間むげんの釜の湯も人を解き侍るとはうけたまはらず。しかるを此熱湯の上に、ほたるのごとくなる虫ありてうかびありくと云。是外の虫いかでか彼熱泉にすむべきなれど、又其熱泉より湧出る無分別の虫もあればぜひなし。いかづちをけだものなりといふも、一概にいなとも申されまじ。天地極火ごくくわのあつき中にも、嗚呼をこのけだものありて住まばせんかたなし。かやうのみえぬ所のあらそひは、おほかた弁口のたくみなる人の方へ、理も付もの也と申されければ、をかしき事をものたふなど、人々きようじたまふとなり。
 
 
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高武蔵守師直かうむさしのかみもろなほ婬欲為盤いんよくしせいなる事をと書きしろして世につたへたれ此外の不義はかりがたしとみえたり。ちか比ある武士、年久しく所持して侍るをかしき草子なりとて見せ侍り。その中には、師直が一生のいん事のしなを挙げて、同じく其女を記しとゞめたる物なり。始終見侍るに、世にいへる事は十の物二三ばかりなるべし。中々かたはらいたくにくきふるまひ言葉にいひつくしがたし。当代いささか遠慮の人々もあれば、其姓名しやうみやうをしるし其しなをあらはしがたき事も侍る。就中にくきふるまひなりと覚えしは、彼もろなほが家僕おほき中に、うつくし女房とつれたりしさぶらひをえり出し、その女房共のかたちをみんために、年五十ばかりなる女房したゝめ、もろなほ室家のきげんよろしき女房也と号して、かれらが方へ、何となくわたくしのとぶらひのやうにして、折々つかはしければ、なじかはほんそうせざるべき。主君御出頭の上らふの御とぶらひなりとて、やがておくの間へ請じ入れ、あるじの女房よそほひをかざりつゝ出てもてなし侍る。かくのごとくして彼よき女房の数を見つくし、もろなほに申ける間、師直よろこび、その後一両月をすぎてかれらが許へいひつかはしけるは、執事しつじさまの御奥よりたれがしの内室に御用の事有り、はやまゐられて御目見えいたされよと、右の老女をつかはしける間、何の御用にて侍るやらん、かしこまり候と、いづれも御請を申て、皆師直が方へ祗候しこうしたり。けふはれがましき御目みえなりとて、われおとらじとかざり出たれば、彼しう褒姒はうじ、秦の花陽くわやうかん李夫人りふじん昭君せうくん貴妃きひがごときの美女、今爰に再現せるとあやしまれける。人々まばゆくして、彼女房どもの容貌ようばうを二目と見るともがらもなし。やゝありて、奥より申出侍るは、唯今大勢にて奥へ御目見えあるべき事しかるべからず。うへにも一人づつめしいだせと、御諚意ごぢやういある間、いづれの御かたにても、まづ一人まゐらせたまへとて、かの女房の中ひとりをともなひ、奥の座敷へとほりける時に、師直奥と口との間に一間をかこひかくれ居て、彼女房の足おと聞とひとしくたちいでとらへて返し、あるひはけさうじなど尾籠びろうをつくして、理不尽りふじんのふるまひなれば、女房どもゝ是非なく心ならずして、師直が所存にしたがひけり。かくのごとくして、おほくの女房とたはぶれつゝ、かへしけるとぞ。その時のさまさこそは物ぐるはしくことやうにも侍るべしと、かたはらいたく覚え侍る。女房どもかへり侍れど、かゝる事いひあかすべきにもあらねば、けふは御機嫌よろしといひつるまでにてやみにけり。その後は切々御めしあるといひてよびよせけるとぞ。唯此事をもらすべきにもあらねど、天しり地知り汝知り我しれりといふ本文あれば、なじかは四知をはづるべき。自然としてかの女房の夫ども聞つけ、何となくよりあつまりて議定ぎぢやうしけるは、そも主君として臣を撫で、下として上に忠節を尽す事、古来人生の大倫なり。その間にしなありて、あるひはすこしきの扶助ふじよに身をかへ、あるひは大なる禄に命をうり、繁々のしなありといへども、その一命をたてまつる所の義は一なり。是によりて、いさゝかの騒乱さうらんにもいちはやく命を主君の前程にうしなひ、名を武口ぶこうにとゞめん事を思へり。うちつゞき軍戦かまびそしく、人々胸をひやし侍る折からなるに、主従のへだてありとオープンアクセス NDLJP:207て、かゝるふるまひ狂人にもおとれり。そのうへ現当二世かけてちぎれる女房を、やみととられ侍りては武名乞食ぶめいこつじきにもおとりて覚え侍る。人々はいかにはからひ給ふ。われにおいては不日におしよせ腹きらせんと存ずる。すみやかに群議ぐんぎ決し給ふべしとて、かたはらよりいきまきてのゝしるまま、一座のともがら尤と同じて、すでにおしよせんとざゝめきけるその中より、ある武勇者すゝみ出て申けるは、人々の奮激ふんげきことわり至極たり。されどいましばらくおもんばかりみじかし。そのゆゑは此座中の人々の俸禄ほうろくの甲乙ありといへども、皆主君奉公のともがら也。家人けにんの妻子をやしなひ家僕をめしつかひて、主人にたくして威を世上にふるふ事、しかしながら主君の恩沢にして禄のいたす所なり。妻子家僕は我が物なりといへど、其実は主人の扶助なり。しからば我らが女房は本主人のやつこにして、当時あづかりたりと了簡し、御用の折々は貢役勤仕こうやくきんじと心得て侍れば、いさゝかうらみなし。かならずわが者と思ひとりたる心より、さまのわざはひいきどほりもおこる物なり。予がみにくき女房は、おのおのの内室以前よりめさるゝ事たびなれど、この料簡れうけんをくはへ侍れば、うらみさらになしとまうしければ、座中の奮激いたづらになりて、さてかはりたる思慮かな。かやうのはからひは今日決しがたし。しばらく後日を侍つべしといひて、果ては大きなるわらひになりて、人々立ちわかれければ、あへて一がましき沙汰もなかりけるとなり。まことに悟道ごだうのあきらめなるべしと、同朋わらひしとなり。

 
 
江州高島郡二尊寺といふ寺に、赤松律師あかまつりつしが兵書のうつしなりとて、巻物侍り。その中にむかし九郎判官義経、くらま山にて天狗より相伝さうでんせられ侍るといひて、兵法口舌ひやうはふくぜつ気といふ事しるし侍り。則一つ書にして、

早朝に小便をするに心を付侍るべし。沫のたつは吉事なるべし。沫不立日は深く用心すべし。

他方へゆくに、湯、茶、酒をのみて出づべし。其時何にてものみたる物順にめぐるは吉事にたちてよろし。逆にめぐらば出づべからずと云々。

めしの湯に我影のうつらざる時は可忌。

鼻のさきに、たてに筋あるはいむ事也。青色なるは我を害せんとする人ありとしるべし。むらさき色は毒をかはんとするとしるべし。

手のうちにつばきを吐て見るに、沫たゝばよし、不立はあしきと知るべし。

目のうちに竪さまに筋あるに吉凶あり。目かしらにあるはよろこびなり。目尻にある時は三日の中に大事にあふべきと知るべし。

手のうちむらとあかくなる事あり。是はけがれたるとおもひて身をあらためて、まりし尊天そんてんを念ずべしと云々。

オープンアクセス NDLJP:208手の中とありのとわたりとかゆくなりたらば、大事ありと知べし。但し右の手の中かゆくば吉也。

耳俄に鳴る事あり。子寅辰巳午申の時ならば吉事なり。丑卯未酉戌亥の時はあしゝ。

おとがひと手の脈を一度にうかゞふに、和合して同じやうにうつは吉、ちがひたるはいむべし。是を生死両舌しやうしりやうぜつの気といへり。

行道ぎやうだうの先を、いたちの横へとほる事あり。ひだりへとほらばくるしからず。右へ通らば其道ゆくべからず。

 右の分ひらがなにてしるし置けり。是は武家によらず、すべて重宝ちやうはうとみゆればしるし侍るもの也

 
 
建武以後軍戦うちつゞき、武士立身の最中なれど、此みぎり武芸の達人天下にとぼしきいはれはいかにと了簡するに、博奕ばくえきゆゑとぞきこえ侍る。群卒帷幕ゐばくの中のなぐさみは、大将より下つかた、与力足軽よりきあしあがる〈[#ルビ「よりき」は底本では「よきり」]〉の者どもにいたるまで彼博奕をこのみて、あるひは一たてに五貫十貫沙金しやきん五両十両をたてつゞけ侍る間、山をあざむくほどの金銀も、暫時のほどにまけ侍る者、後は博用のたからも懸けて、あるひは武具馬具ぶぐばぐの品ことくとられておもはぬ辛労しけるもありといひつたふ。畠山某が手のもの、ある戦場へむかひけるに、甲ばかり著て直肌すはだの武者もあり、よろひ著ながら、太刀甲たちかぶと払底ふつていしたるものもあり。中下の士卒の出立は、大かた不具にことやうなり。されどその時の高名おほくは彼不具の者にありといへり。是博奕にうち入て困窮至極こんきうしごくの仕合なれば、此度一定必死とこゝろえ、此所をすゝがんとの一心によりてなるべし。中昔徳政といふその起り、おほくは彼たはふれが本元なりといひ侍る。応仁文明の比の博奕には、人もさかしくなりけるにや、武具馬具に不具はなし。はじめのほどは金銀もたてつれど、次第に一銭の所持もなくなり侍れば、京の町人のたれがしが土蔵をいま博奕のたて物にする人も有り、寺僧神主かんぬしの蔵などを立てたる者もありけると也。勝たる時は蔵代くらしろいか程とつもりて金銀をうけとり、又負たる時はいつの夜、彼蔵々のたからをうばひて遣すべしとさだめあひたるほどに、後は其座に銭といふものは一銭もなくて、唯言葉のみにて勝負をしけるといひつたへたり。是則二六時中の慰みなり。末代といひながらかゝるふるまひも有る事にや、をかしといふも余りあり。かやうのたはぶれに心おくれて、第一の家業をわすれ、ほれとして人にあざむかれ、疲のうへのつかれとなりて、前後忘却の為体ていたらくあさましかりしふるまひなり。
 
 
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巻第六
 
 
 

去延徳初元の比ほひ、或武辺ぶへんのさぶらひ匹夫よりはたらきいでて、十余年が程に半国の領する身となりければ、家門さかえ所従しよじう馬牛にとぼしからず。彼のもろこしの陳渉ちんせふがふるまひも及ばずながら彷彿はうほつせり。此もの昔より、父母孝養かうやうの志ふかく侍りしが、不幸にして子の富貴をまたで二親ともに果てたりけり。当時は唯姉一人のみ存生せりていれば、此姉を両親とあがめて朝夕の心づかひおこたらず、増々ます奔走をつくしけり。衣食居所のいみじさは、公方大人にひとしくもてなして、猶々これにも不足なりとおもひとりて、いよ崇孝深切そうけうしんせつの思慮をめぐらしけり。一日独言で申侍るは、我親に孝の思慮ふかく侍れど、不運にして困窮のいにしへ二親死去せり。今姉ならでは兄弟もなし。衣服、食物、居所のいみじきも身に応じてめづらしからず。つらはかるに、人性にんしやうのたのしび恋慕れんぼにしかず。我むかしよりの苦楽のなかに、此一道ほどあかざる物はなし。我身は男なれば、此一事おもふまゝなり。姉は女性なれば心のまゝならず、明暮さぞや心にかけらるべし。このたのしびを何とぞあたへたき事なりと一義を決し、家来けらいの内年若く無病にして、気根無双きこんぶさう強士がうしを一人えらび出して、しばらく按摩といふ事をならはせけり。ある時此ものをよびて申侍るは、汝あながち按摩を琢磨たくませずともくるしからず、唯大やうをこゝろえてあねがもとに朝夕仕へて、いひしまゝをそむくべからず。常に持病と称する間看護かんごのために付置もの也。相かまへてはだへ肥痩ひさうをうかゞひて、若、やまひ疲きざすべきしなあらば、その時は此方へ申べし。向来かうらい予が扶助ふじよにてつかふる主人はあねなりと思ふべしと、庭訓ていきんをふくめければ、委細畏り奉る。忠勤の守るうへは、いかやうにも御掟ごぢやうにしたがひたてまつると申間、扨はうれしき事也、あなかしこ、此事人にもらすなといひふくめて、あねがもとへつかはしけり。扨ちかくよりてかやうの仰にてまゐり侍る間、いかやうの御事なりとも仰下さるべしと、つゝしんで口上しければ、あね立いでて、扨々心を付られたまはる事古今ためしすくなし。折から此程持病ぢびやうきざしてなやめり。ちかくまゐりてさすりてたべと申ける間、いひしまゝに立ちよりて、経絡けいらくを按摩し侍れば、病すみやかにいえたりとよろこびたり。あしたより夕べにいたるまでつかへける。はじめの程はかの姉も慇懃いんぎんがましくふるまひしが、後は不礼の為体ていたらくにて、こゝをもさすれとかしこをもなでよといひて、終に彼男をはだかになして、我ふところの中へ入れけり。按摩師あんましもいぶせくめいわくながら、ぜひもなくふところの内へ入りたれど、とし五十有余の痩女なれば、いづくもしわたゝみ骨たかくしていとこのましからず。漸く有て休息仕度よしにて罷出、閑所へかへりて大息ついで難儀の為体ていたらくなりしに、又めしよせらるゝといひて使来りければ、しぶながらまゐりて、その役をつとめけるが、年月かさなりければ、さしも無病の強力者がうりきものもよろとかじけて、楚人のむかしも思ひ出でられ侍る程なり。今オープンアクセス NDLJP:210はもはや御奉公御赦免ごしやめん下され候へと、強而しいて愁訴しうそにおよびければ、さほど用事に立がたきほどならば、向来よく衛生ゑいせいの工夫をしてすこやかにならん時、又つかへ侍るべしといひて、いとまをつかひけるとぞ。ふしぎなりし孝行也。按摩師も後は朋友にあかして申けるは、さて此月ごろの難義いふべからず。合戦のはたらきに心をつくさば、子孫のためとも申すべし。あいなきもてなしにあひて、ためしなき奉公もしつる物かなと、懺悔さんげしけるとぞ。

 
 
むかし宗祇法師そうぎほうし廻国くわいこくして、和朝ことく歴覧し、名所旧蹟きうせきにいたりては、腰折歌こしをれうた連歌れんが発句ほつくなどあぢはひけるときこえ侍る。此法師すべて風流のざれ物にて、発句などに文字おほく書きて、人に心えず思はする短尺たんじやく世におほく侍る。此ほどある人の見せ侍る短尺の句に、

  日光山をてらするさくらかな

  二十五日は天神のまつりかな

これらの句よくきこえて侍れど、不堪ふかんの人さしあたりて、いとわきまへがたく思ひ侍ることありといへるはことわりなり。

又彼法師が書ける反故の中に、するがの国三穂みほの松原にいたりて、そのわたりの人にたづね侍るに、此所の松は生ひいで侍るより、大木の後までいさゝかゆがみたる木はなし。皆すぐにたてり。是則名物なりといひしが、まことの林の松どもおほくすなほなり。又伊勢の国に、いそ山といへるむらあり。そのわたりに松のはやしあり。此所の木は生ひ立よりすぐなるはなし。土の上一寸ばかりの比より、大小にいたりて皆風流に曲折ありていと興ありといへり。是則当所の名物なりとかや。いづれも曲直ともわざとならずして、いとえならぬ松にて侍る。すべてむかしより、名物は草木にかきらず、皆やんごとなく覚え侍るとしるしけり。

 
 

ちかき比東国の武士、あるやんごとなき歌人のもとへまゐりて、ゐなかめきたる物語などいひ出侍るに、あるじもあづまの名所はいにしへより歌にもおほくよみ侍れば、いとなつかしといひて、たがひにかたりあひて興じられけり。その折ふし、彼ものゝふはゞかりおほき所望にも思ひ奉れど、伊勢物語と申は、我国の草子にてやんごとなきしなおほくしるして侍り。唯よみたるばかりにてはこゝろえがたく侍り。東国にてはかやうのことわりしやくしてきかすべき人も侍らず。あはれ御いとまの折々御釈ありてきかさせたまはゞ、いとありがたくも思ひたてまつるべしなど、かきくどきて申侍るに、あるじの歌人もいなびがたくて、やすきほどの事なり、いつの日とぶらひたまへと約せられければ、いとかたじけなくも思ひたてまつるとて、かへり侍りしが、約束したる日になりて、あしたよりきたりてオープンアクセス NDLJP:211侍るに、あるじいでてかたのごとくもてなしなどせられて、ときうつりければ、やうやくひるのまへよりよみはじめて、ことわり分明に釈せられければ、ゐなか人もかうべをかたむけて、よねんなく見え侍る、とてもの御事に、終日きかさせたまへ、ものゝふはかさねての約かねてさだめがたく侍るとのぞみけるまゝ、あるじもぜひなくいひしにしたがひて、さるこくばかりにいたるまで、座もたゝずしてよみつゞけられければ、口もかわきいきもつきぐるしかりけるによりて、けふはこれまでなり、大やういひほどき侍るといひてやみたまふに、彼ぶしまことに御窮屈のほど察し奉る。今日はわりなき望みをも仕るものかな。さても業平と申人は、きゝしにまさりておとなしからぬふるまひにも侍る。かやうの尾籠びろうをつくされけるに、その世の人々は、何として此人をいましめたまはずや。但しいづれもおなじ尾籠びろうの世なるにや、いと心えがたき事に思ひ奉る。しかれどもさいはひの人なるにや、天下の人々にもゆるされ、後々まで其悪性あくしやうをいみじく記せり。是唯人にはあらざるべし。若今の世に生れ出侍らば、よも安穏あんをんにては置侍らじ。向来女子などにみせまじき物は此草子なり。人々さまにもかゝるあしきふるまひをば、よきほどに好ませたまへ、今はゆるしげなし、かさねては聞侍るによしなしといひて立出侍りしが、つひにまうでこざりけるとぞ、まことにをかしき事に侍る。

 
 
ちかき比、藤黄門ふぢくわうもんなにがしの申され侍るは、近代畿内隣国の大乱つゞきて世の中おだやかならず。されど仏説ぶつせつといふはたふときものとみえたり。おとゝしの夏中げちうより、城北なにがしの寺に、住僧説法をはじめて、諸人にすゝめ侍るに、此僧弁舌べんぜつ人にすぐれ博学大智にして、火をも水にいおほするほどの説僧なれば、都下とげこぞりあつまり、ゆうとして聴聞ちやうもんしけり。法談はふだんのさし口仏語ぶつごを二十字ばかり挙げて、それより他宗たしうのいづれの語は我宗の何の所にあたれりと、自他配当じたはいたうの理をめ、此間にさまざまの譬をまじへて、畢竟はまぼろしの世なれば、身をのどかにおもはずして金銀財宝をすて、仏事にくやうし、他の世事をおもふ事なかれとて、いさめ侍るまゝ、にぎはしき町人職者止事やんごとなき人の老母まで、分限相応に毎年あつめたるたからを寺へ送り、此錦は今の世にまれなる物に侍る、御寺へ寄附したてまつる、幡天蓋はたてんがいにせさせたまはれといふもあり、あるひは来る何月いづれの日は其父の年忌にあたり侍る、二三夜の御仏事をいとなみたてまつらんとおもひ侍れど、又ゆくすゑに年忌もまれに侍れば、七ヶ日御説法せさせ下さるべしといひて、おもひに財宝をなげうち侍れば、後は威勢くらべのやうになりて、仏法はよそになり行ける。まことに一家仁人ありて一国仁をおこし、一人貪戻たんれいにして一国乱をおこすといへる聖言にもるゝ事なく、一人のわざ世の人におよぼす段至極たれば、此寺へはこびおくる物山の如くにして、むかしの貧僧いつしか珍膳妙衣ちんぜんめうえに飽きけり。いにしへ夢窓国師むそうこくしを貴族たちのたふとび給ひしも、かくやとあやしむばかりなり。然るに天性彼僧大欲のきこえありて、人人にはいさぎよくすゝめ、涙をながさしめてもて運ぶ所のたからをひろひ集めて金銀にかへ、聚歛しうれんオープンアクセス NDLJP:212汲々きふとして土蔵につみかさねたれば、寺僧役者じそうやくしや等にいたるまで、いさゝかほどこしもせず。このふるまひをつたへきく者は、あなたふとや、施物せもつをおろそかにせさせ給はぬ事、ふかきいはれもあるべし。さあるを上人の御袖の下にて、いのちをつなぐ寺僧小童が分として、口のさがなきふるまひ、ひとへに樹木の鳥のその枝をふみ枯するがごとしといひて、いよたふとみけるとぞ。ある夜法談ほふだんのまぎれに、いかなるもののしわざなるにや、柱に、

  後のためたからをまけとすゝめつゝ跡よりひろふ僧のかしこさ

といふ歌をつけ侍るに、住僧もいさゝかこゝろにやかゝりけん、其後は法談もやめ隠居と号して、寺を後住ごぢうにわたし侍るとかたられき。

 
 
いにしへ元興寺ぐわんごうじ明詮みやうせんといへる名知識めいちしきは、三十有余の晩年ばんねんよりつとめて朝夕おこたりなかりければ、後は比類もなき碩学せきがくにいたりて、慈恵僧正とも法問せられ侍り。仏家の文ことくあきらめられけるとぞ。

そのむかしある殿閣でんかくの軒の下にて、雨やどりせられける に、やのむねよりあつまり、軒よりおつるしづくにて、下の石くぼみて侍るをみてさとられ侍るは、雨水といふ物よろづにあたりて砕くる、やはらかなる物なり。されば功をつめば、此雫にてかたき石をもくぼめしむ。我おろかなりといふとも、まめやかに勤めば、などかはいたらざるべきとおもひとり、此こころおこたらずして、終に其名を四海にひろめたまへりとぞ。又むかしくすの木正成、春日の御やしろにまうでて、東大寺のうちのこらず見まはり侍るに、鐘楼しゆろうのもとにかしこくみゆる人おほくあつまりゐて、此かねは、日本第一の大がねなり。三十人計りしておしたらんに、いさゝかうごく事もありなんやといへるに、又かたはらより一人すゝみいでて、仰のごとく三十人ばかりのちからならでは中々うごくまじ。されどみづからは工夫をもつて、一人して一日の中にはうごかし侍らんと申侍るを、そこになみゐたるもの大きにあざむきわらひて、いつもかやうのかしこがほなることをのたまへど、つひにその手もとをいまだ見申さずと申侍れば、かの一人重ねて申けるは、仰尤の事なれど、遂に御所望もなき大事をかろしく、こなたよりいかでかあらはすべき。まことふしぎにおもひたまはゞ、明日にてもこれへつれだち侍りて、みづからが申すごとくにして、此かねうごきたらば、みづから所望のたからをこなたへたまはるべし。又もしうごかしえずば、御のぞみにしたがひて、いかやうの物もたてまつらんものをといきまきて、後はたがひにこと葉あらくなりて、僉議せんぎも決せざれば、正成もひさしく居るによしなし、一人工夫してうごかさんといふ所至極たり、おほかたさとり侍り、いみじき思慮かなとほめてかへりける。めしつかふものいとこゝろえずながら、宿所にかへりて、さてさとらせ給ふ御ふるまひはいかやうの御事に侍るや、うけたまはりたく思ひ奉ると申けるに、まさしげ申けるは、いとやすき事なり、かさねて参るべし、オープンアクセス NDLJP:213こゝろみて見せんといひて、四五日すぎてひそかに彼やつこどもをめしつれて、東大寺のしゆろうのもとにいたりて、僕の中一人ちからつよきものをえりいだし、高さ二尺ばかりの箱をとりよせ、かねの下におきて、彼うへにのぼりて、なんぢ此かねをおすべし、つよくおすべからず。いつもおなじころにおしては休み、おしてはやすみ侍るべし。その程をたがへず手のひらを鐘につけて、えいといひてはおし、えいといひてはおし侍るべし。かならずうごかずとてたいくつせず、いつも甲乙なくおすべしといひをしへて、巳の刻ばかりより押いだして、申の刻計までおこたる事なかりけり。されどかねもうごくことなかりしに、正成今すこしのほどおせよと下知しけるに、龍頭りゆうづのほどきりとなりければ、さればこそと思ひ侍るうちに、すこしづつ動きいでて、ゆらとし侍れば、やつこどもきもをけし、さておくふかき御はからひかなとて、かんるゐをながし侍るとぞ。是正成が例のふかき慮り也。

さればすみやかにうごかさんとすれば、三十人ばかりのちからにもおよばざるかね、一人のちからをもつて、功をつもればうごく事、三十人にもまされり。是懈怠げたいなく篤実よりおこりてしるなり。か様の事つたへきゝ侍るに、其実否じつぷはしらねども、関東勢の大軍をわづかの手の者にてあひしらひ侍るは、ふかき慮なるべし。

 
 

むかし古き文をよみ侍りけるに、その中にいはく、いにしへ白河院御在世のみぎり、法勝寺にて御願の御経くやうあそばさるべしとて、吉日をえらばせたまひて、既に来るいつの日は当日なり、御だうし寺僧著座の公卿その外の役人等たれと、兼て御さだめましけり。さてその日になりてあかつきがたより雨そゝぎて、路次ろじの程難渋におよびければ、此日しかるべからずとて、御法事やみにけり。さて又その日より、四五日もほどすぎて、いつの日よろしかるべしなどさだめさせたまひて、まへの如くその御仏事の役々をきはめさせ給へば、人々も用意し給ひけるに、又其日も宵より雨天なりけり。かくのごとくして、すでに両日ともに御供養はやみにけり。又其後御日さだめありければ、又雨ふりける事両三度におよびけるとなり。院大きに逆鱗げきりんいまして、憎き事なり如何せんとの勅諚ちよくぢやうありつれど、誰人におほせて罪すべき事ならねば、公卿僉議くぎやうせんぎもいたづらになりて、事行ざりけり。いよはらだたせたまひて、つひに其の雨をうつはものに入れて禁獄せしめ給ひて、きびしく番をつけさせたまふとなん。此事いとをかしくおろかにもきこえけれど、もつとも御道理至極也と申す人もありとかや。そのいはれは、大人小人によらず、一旦のいかりには、親子の差別もなく、朋友の信もなし。唯心気のみさかのぼりて、主君の命をもわすれ、人のいさめをもきゝいれざること、高貴卑賤をわかたず、世間みな一同也。唯其人のたかきといやしきとによりて、あるひは身をかへりみて其怒りをおもてへうつさず、胸のほどにこめてしばらく時をうつせば、すなはちいかりもやみて事なきものなり。されど是は大やオープンアクセス NDLJP:214うたかき人のふるまひなりとみえたり。又僕童下賤のともがらは、至ておろかなれば、その事にこらへ難くして、いかりをそのおもてへうつして、はてはさまあしくなるをもかへりみず、仁義といふ事もしらねば、まして法礼をもわきまへず、唯一遍の我意のみにて、心のまゝに口外へいだす。そのしのぶとしのばざるとは、大方尊卑によるとみえたり。必ずつねに物さかしく、学窓にこもりて文義ぶんぎを自負する人などに、身のわきまへをしらぬ事おほし。されどいたりて害ならぬ事には、あながちとがめずもありなんや。皆人つねにやんごとなくみゆるも、時により折にふれては、いかりなくんばあるべからず。前にいへる院の御ふるまひの如きは、尤やさしくおほやけに思ひたてまつる。一天の御あるじとして、万人のうへに仰がれさせたまふ御身の、たれをはぢてか御堪忍あり、たれに恐れてか御つつしみあるべきや。但しかくいへば、天子大人はあしき御ふるまひありても、くるしからぬにやと言ふ人も有るべけれど、それは事によりしなによるべし。雨ごときの物をおしこめさせ給ふ御こゝろは、いとやさしくおぼしたてまつる。又ある人一日雨中のつれ物わびしとて、予がもとへまうできたりてかたられしは、うへがたの御ふるまひ上らふめさせたまひて、よろづおろしくわたらせたまひつる世が、むかしわがてう王道の最中也。よりともきやうのはて給ひて後、承久にみかど御むほんおこさせ給へども、事ゆかで終に遠つ島へうつさせ給へり。これ北条があくまで武権にほこり、朝憲をさみしたてまつりしによりてなり。されどいますこしは、時節をはからはせ給はぬ御事口惜くも思ひ奉る。天子の御身としていやしき武芸をもてあそび給ひ、おほやけならぬ御ふるまひ、人々もかたぶけたてまつりけるとぞ。此事世にふりて人ごとにしる所なれど、つれなれば申侍る。むかし後鳥羽院建久八年に、御くらゐを一のみや土御門院にゆづりたてまつり給ふ、是則後にあはの院と申せし御事也。そののちまた建暦元年に一院の御二のみや順徳院に御譲国あり、これは一院の御愛子にてわたらせ給ふ。そのゝち十一年をへて、承久三年に当今たうぎんにはかに御くらゐをすべらせたまひて、御子に譲りまゐらせ給ふ、よつて新院とぞ申ける。土御門の院をば中院と申奉る。一院と新院と御心をひとつにして思召けるは、頼とも兵権をとりて、天下をしづめしかば、法皇も御ちからおよばせたまはでやみ給ひぬ。又其子ども皆ほろびぬ。今は左京大夫よしとき家人としておほせにもしたがはず、むねんのいたりこの事なり。すでに王法のつきぬるにこそと思召たちて、くわんとうをほろぼさるべきになりぬ。其時中院のおほせに、是は時いたらぬ事なり、あしき御はからひかなと、ずゐぶんいさめ申させたまひけれども、つひにかなはせたまはず。ひしとおぼしめしたちて、諸こくのぐんぜいをめされける。畿内きんごく皆馳参はせまゐる。近習の月卿雲客げつけいうんかくも興あることにいさみあへり。すでに同五月十五日、くわんとうの代官伊賀のはんぐわん藤原の光季〈武蔵守秀郷後胤伊賀守朝光子〉うたれけり。民部少輔大江親広法印〈法名蓮頭大膳大夫広元子〉これも関東の代官として在京したりけるを、院へめされてまゐりける程に、くわんとうへも、さりぬべきさぶらひどものかたへ、よし時うつべきよし院宣をなし下さる。かまくらにこのオープンアクセス NDLJP:215事きこえて、二位の尼よし時くわんとうへさるべきさぶらひをよびて、三代将軍の恩をわすれずば、此たび忠をいたすべきむねを触らる。侍ども一とうに、故殿のあとをむなしくなさん事いかでかなげかざるべき。今度においては身命をすて合戦をいたすべしと申す。さては時刻をのべて、あしかるべしとて、五月二日より当座たうざの勢をさしのぼせけり。東海道へは義時がちやくしむさしのかみ泰時、北陸道は二男遠江守朝時、東山道は義時が舎弟相模守時ふさ、三手に二十万八千余騎にて攻のぼせ、近江国にて一手になりて、六月十三日宇治瀬田より京へ入る。都には院の近習の人々、西国畿内の勢を以て防がせらる。宇治へは甲斐宰相中将大将軍にて発向す。されども泰時大勢にて佐々木四郎左衛門尉源信綱先陣として、河をわたりて合戦するほどに、同十四日に京方やぶれてちりに成り、敵対てきたいにおよばず、あるひはうたれあるひはおちうせぬ。同十六日泰時入洛せり。おなじき七月十三日、一院をば隠岐の国へうつしたてまつる。同二十日新院をば佐渡の国へ遷したてまつる。扨中院は此事に御同心なくして、いさめ申させ給ひけれとて、みやこにとゞめたてまつりけるを、一院かくならせたまふうへは、一人とゞまるべきにあらずとて、閏十月十日、中院あはの国へくだらせ給ひけり。もつともかしこき御事なり。かくのごときの賢王にておはしましければにや、この御末の君、後には御位にましけるこそ、いみじけれ。およそ延喜天暦のみかどをこそ、聖代とも申つたへ侍れど、土御門院はそれにもなほまさらせたまふと思ひたてまつる。かゝるかしこき御ふるまひ、わがてうにためしなき御事也。その御むくいいみじくて、此みかどの御ながれすゑまで御位をふませ給ふとぞ。又よしときが事をにくませたまふも、御ことわりとは申すべけれど、此一乱も白拍子しらびやうし亀ぎくがさゝへ申たるより、事おこるといへり。そのうへかのよし時も、たゞ人にはあらず。軍勢をわけてのぼせける時、舎弟時ふさは仰かしこまり候とて、あとをもみかへらずいさみすゝんでのぼり侍る。嫡子泰時もおなじく父が命をかうぶりて進発せられけるが、礼義あつく思慮ふかき人なればにや、道のほど五六里もうちたちて引かへし、いま一たびうかゞひ申たき御事はべりて、罷かへり申なり。いそぎ出させたまへと申されて、其身は庭上にたちてぞ居られける。よし時何事にかとおどろきて、いそぎたちいで対面ありしに、泰時御らんじて申されけるは、今度の御合戦は、一大事の御事也。よく再三御思慮あそばさるべし。御てきと申は、一天の君なり。たとひ御ふるまひあしければとて、下として敵対したてまつる事、一のとがあり。そのうへもし官軍にさきだちて、忝くも御鳳輦ほうれんすゝめさせ給はゞ、それとてもおそれず、射たてまつるべきや、此事愚慮ぐりよ落著らくちやくつかまつらざるによりて、道よりかへりうかがひ申所なりとて、しほとせられければ、義時大きに感悦して、よくも申されけり、わが子ながらかやうのふるまひよのつねのおよぶべきにあらず、その事なり、もし官軍にさきだちて御鳳輦をむけさせ給はゞ、それこそ当家運命のつきぬる所なり。相かまへて弓矢をきりすて太刀ををり甲をぬいで、いかやうとも御心のまゝに身をまかせたてまつるべし。もし又官軍ばかりさしむけらるゝにオープンアクセス NDLJP:216おいては、一日も早くもみおとし、すゝんで入洛じゆらくあるべし、これまで也、倉卒うらたちたまへと申されて、奥へ入られける間、泰時いまは心にかゝる事なし、いさめや人々とて、夜を日についで上洛しやうらくせられけるに、はかしからぬ官軍、少々さしむけられける間、不日にもみおとし、本意をとげられけると也。

此一事を以てみれば、よし時父子も唯人にはあらず、たぐひなきふるまひ也。さればそのむくいにや、子孫にかしこき人のみむまれ出でつゝ、九代までめでたかりけるを、高時といふいたづらもの世世相続の家をほろぼし、身を一生の不覚にはづかしめ、名を後の代の人口にけがさるゝ事、是すなはち時也。口をしきふるまひかなと思ひ侍る。此事わたくしならず、ふるき文にしるしたれば、人みなしる所也と申侍りき。

 
 
ある人のいはく、むかし光明峰寺こうみやうぶじ関白道家公円爾大禅師ゑんにだいぜんじ帰依きえせさせたまひて、東福寺御こんりふありしころ、番匠ばんしやう役人やくにんその外此いたなるに入るべきほどの入数をあしもつめさせそれのものは何ほどのあたひにて成就すべきにやと、しなの事とひはからはせ給ひて、かれらがつもりける金銀の数に一ばいしてたまはりけると申つたへたり。これによりて、彼寺のいとなみにかゝはるほどのもの、其身は申におよばず、妻子親族等まで、にぎしくよろこびあへる事かぎりなしといへり。しかうして事をはりて貴賤たふとみけるによりて、いまの世にいたるまで、はんじやうして火難なし。凡仏道をねがひ一宇を建立こんりふせんと思ふ人は、まづかねてこゝろえて、かやうのためしを工夫すべき事なり。あたひをすくなくして、仏閣をいみじくせんとならば、先こんりふは無益むやくなりといへり。両雄相ねたむ世のならひなれば、それの造作をたれはいか程にしてん、あたひはいかほどといひて、こと人にはからはせんに、たとへまのあたりの損亡有としりながらも、人にまけじとのゝしるあひだ、あたひは次第にすくなくして、はてはいつはり、そのいとなむところはおろそかにして、遂に心からの辛苦におよびて、胸にほのほをたく、これによりてそのほのほはたして仏閣にかゝる。これ番匠人夫のともがら心からのくるしみなりといへど、まことは其願主のふるまひよからざるがゆゑなりとぞ。さればとて彼等かれらにうち任せてあたひをとらせなば、いかほどの望みをか、たくみて申すべしと云人もあるべけれど、さはあるまじき事也。勿論人情あきたらぬ世のならひなれば、人々むさぼりたるがうへにも、貨財をねがふはよのつねなり。されど又人性のもとは善なりといへる金言もあり。うちまかせたる事に、わたくしはなりがたきものなり。さればそのいとなみのはじめより、それの役人に正直のきこえあるものをたづねあつめて、彼等かれらによくしめしてはからはせたらんに、いかでか疎略するものあらんや。なまじひにその事したり顔に、たばかられじとふるまへど、まことはしらぬが本なれば、つひにはかられぬべし。総てはからざる火難にたびあへるときこゆ寺舎は、皆人夫オープンアクセス NDLJP:217工商のいきどほりなりとみえたる。俗家ぞくけをつくるは、又いさゝかことなるはからひもあるとみえたれども、おほやう寺舎こんりふの心えをもちたるが宜しかるべきといへり。後の世に寺社こんりふの願あるひとは、殿の御ふるまひをわするべからずといへり。此事はかなき雑談なれど、むかしよりおほくあなたこなたのがらんはやけほろぶるにも、かの寺は一きよのわざはひなしといひつたふる事侍れば、さもあることにや。此峰殿はいにしへよりひとほめ奉りし御事なり。御子もあまたまします御中に、御ちやくしは九条殿関白教実公、御二男二条殿関白良実公、御三男は一条殿関白実経公にておはします。

一条殿最末にておはせども、御器用なりと大殿見まゐらせ給ひて、御嫡流ごちやくりうたるべきよし御おき文をそへられ、一流の御文書等のこらず一紙にゆづらせ給ひをはんぬ。しかうして三流の御中に、今の世までも一条殿家には、御才学もすぐれておはせば、大殿の御ゆづりもかしこく覚え侍るなど、ふるき文にもしるし侍る。

 
 
万里小路藤房卿までのこうぢふぢふさきやうはいとけなきよりおほくの文ども明らめ給ひて、うへの御ためには又なき重臣にておはしけるが、一とせのいさめをもちゐさせ給はざりしかば、藤房ももはや浮世の望をたちて、ひそかに家を出でられ行方ゆくかたしらずなり給ひけるが、終に堅固にして、とんの道をたもちてをはられ侍けりとぞ。其むかしいとけなき時よりいとかしこくよろしき人なればにや、人々もほめられたりとぞ。十歳の春、うへより人々へ、年のはじめの祝詠つかまつり侍るべしとおほせ下されけるに、あるひは金玉のこと葉をはき、あるひは幽妙いうめうをつくして、人々詩歌をつかうまつられけるに、藤房も十歳なれば、はかばかしくうへにもきこしめされざりつるに、詩つくりたてまつられたりけるとぞ。

  春来品物都青容 木母花開香正濃 今日太平三朝旦 家々酔賞更飛鍾

此詩をかきてしかの事よろしく奏せられければ、龍顔りようがんことにうるはしき御事に侍りて、此をさなものよろしくつとめしむべしなど、父卿へ仰せくだされ侍りけるとぞ。世に名を知らるべき人は、かりそめの事にも唯ならず覚え侍る。此藤房卿遁世とんせいの後、あなたこなたにかくれて、上古の隠士いんしの風をあぢはひ給ひける。あなたこなたにてみたりしなどいひて、さまの説をいふ人もあれど、皆はかりていへるものなりとぞ。およそよき人はのちにいたりて、おほくあやしき事どもしるしそへて賞美せる事おほし。先年ある人のもとにて、藤房をほめける巻物をみせ侍るに、其中みなあやしき褒美のみにて、彼卿のためには面目ならぬ事ども有り。彼卿の徳をしらぬ人のかける物にや。

 
 
むかししら河の院の御時、人々に清談せいだんあるべしと勅諚ちよくぢやうなされけるに、あるひと申されけるは、むかし秦の始皇泰山封禅たいざんほうぜんのまつりをせられけるとき、雨を松樹のもとにいとはれけるに、松俄に大木となりオープンアクセス NDLJP:218て雨をもらさずと云々。此時の褒賞に、大夫に被成けり。則五大夫と云て、是より我朝までにいひつたへて、松を大夫とよばるゝ事いみじき事なりと語られけるとなん。此事ふりて今めづらしからざれども、非情ひじやう極官ごくゝわんに任ぜしめらるゝ事をかたり合て興じ給ふけるとぞ。

〈秦の大夫は、則三公也。常に心得る諸大夫に非ず。此方にて云、左右大臣の類なりと云。〉此時江帥ごうそつはいまだをさなくておはしけるが、折ふし列座せられて、此事をきゝて申されけるは、大夫の松、和漢両朝の間古今未曽有の重職たれど、又大きなるかきん也。其故は、上三皇五帝三王の御世か、又は周公孔孟こうまう如きの聖人に賞せられたりといはゞ、たとへ枝はびこらずとして雨をもらすとも、又三公の大夫にのぼらずとも、めでたき後世の規模たりともいふべし。何ぞや、桀紂けつちうに倍せる悪王に賞せられたるを面目といふべきや。是則始皇の宣によりて、万年の宝樹たちまち枝ち葉しぼみ、其名又万世に汚さること其恥いふべからず。只色かへぬ万年枝など云ては、賞すべき事也。予はかやうの雑談に興せず、便なき説也と、臂をはり目をいからかして放言せられたると也。〈此事良基闕白殿御日記にあり。〉江帥ごうそつの説のごとく、的当てきたうのことわり分明なりとて、後まで人口に有ていみじく覚え侍りける。大方悪人に褒賞せられたるより、善人にわらはれたるが高運也とみえたり。かやうの事めづらしからねど、諸事の工夫に便りありてよき手本也と云々。当代和朝の風滔々ふうたうと零落し、人僻み我曲れり。かゝる世の不義の栄人えいじんに押て賞せられける人おほくみえ侍る。さやうの人は、工夫を増して大夫官を了簡あるべき事専用なり。

 
 
さきの公方御酒宴の後、或利口の近習者、戯に物語申けるは、源判官義経は古今第一の頓智連哲人とんちれんてつのひとにて、貴賤老少皆知る所にて御座候。一とせ吉野あがたをしのび通られけるとき、或民屋のまへにわらはべあまたあそびたはぶれける中に、十歳あまりのわらは、三四歳なる子を負うてあそばしめけるが、彼負はれける子も負へる童も、互に伯父をぢ々々と云てければ、九郎判官此事をきかれて莞爾につことしてわらひて、嗚呼不義のやつばら哉といひて過給ひけり。人々心得ず思計にてとほりけるが、武蔵坊弁慶は此事を心得ずながら、故ある事にやと思ひ、ふかく案じ煩ひ侍れども、終に其刻得心きざみとくしんなりがたかりけるとなん。扨其日もくるゝまゝに、旅屋を借りて宿し、終夜これを案じ、漸工夫ほどけて独言にいはく、ああ判官義経君は百世にも超たる頓智とんち御生得ごしやうとくたり。然といへども、当時不幸不運にしてかゝるあさましき御有様、口をしく勿体なき事也。吾工夫君に不ことはるかなりとて、其後は同朋共にかたりて、互に感じ興じけるとなん。

彼たがひにをぢと云事を思案するに、仮へば夫婦の中に男女二人の子ありて、其男子は母親に通じて男子一人をうみ、又女子は其ちゝに通じて男子一人を生む。其父と娘と嫁してうむ子と、其母と男子と嫁してうむ子と、二人を一所へ寄ていふ時は、則両方共にをぢ也。〈猶能々分別すれば、其断分明なり。〉右にあそびて、たがひにをぢといへる二人の子は、如斯の類なりと云々。

オープンアクセス NDLJP:219かやうのむつかしき工夫をも、指当りて速に自得じとくせらるゝ事、当意即妙たういそくめう利根りこんなれども、其身の奢侈しやし悪粧あくさうの事は曽てみえざりけるにや、人のいさのをも承引せられず、身の工夫もうすかりけるとみえて、終には身を東奥の夷にたぐへて、かばね衣川ころもがはのいさごにうづまるゝ事、口をしき事なりと、語り申けるとなん。

 
 
山名金吾入道宗全、いにし大乱のころほひ或大臣家に参りて、当代乱世にて諸人これに苦しむなど、さまものがたりして侍りける折ふし、亭の大臣ふるきれいをひき給ひて、さまかしこく申されけるに、宗全たけくいさめる者なれば、臆したる気色もなく申侍るは、君のおほせ事、一往はきこえ侍れど、あながちそれに乗じて、例をひかせらるゝ事しかるべからず。およそ例といふ文字をば、向後きやうこうは時といふ文字にかへて御心えあるべし。それ一切の事はむかしの例にまかせて、何々を決行あるといふ事、此宗全も少しはしる所也。雲のうへの御さたも、伏してかんがふるに、勿論もちろんなるべし。夫和国神代より、天位相つゞきたる所の貴をいはゞ、建武元弘より当代までは、皆法をたゞしあらたむべき事なり。乍憚君公もし礼節をつとめらるゝに、いにしへ大極殿だいごくでんのそこにて、何の法礼ありといふ例を用ゐば、後代其殿ほろびたるにいたりては、是非なく又別殿にて行はるべき事也。又其別殿も時ありて若後代亡失せば、いたづらになるべきが、凢そ例と云は其時が例也。大法不易政道は例を引て宜しかるべし。其外の事いさゝかにも例をひかるゝ事心えず。一概に例になづみて時をしられざるゆゑに、あるひは衰微すいびして門家とぼしく、あるひは官位のみ競望して其智節をいはず。如此して終に武家に恥かしめれて、天下うばはれ、こびをなす。若しひて古来の例の文字を今沙汰せば、宗全ごときの匹夫、君に対して如此同輩の談をのべ侍らんや。是はそも古来いづれの代の例ぞや。是則時なるべし。我今いふ所おそれおほしといへども、又併後世に、われより増悪ぞうあくのものもなきにはあるべからす。其時のていによらば、其者にも過分のこびをなさるゝにてあるべし。いまよりのちは、ゆめ以てこゝろなきえびすにむかひて、我方の例をのたまふべからず。もし時をしり給はゞ、身不肖なりといへども、宗全がはたらきを以て、尊主君公皆扶持ふちしたてまつるべしと、苦々しく申ければ、彼大臣も閉口ありて、はじめ興ありつる物がたりも、皆いたづらに成けるとぞ、つたへきゝ侍し。是か非か。

本文にいはく

 天文二十一年十一月日 藤某判
 
 

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