基督者の自由について/第十二節

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 信仰は、たましひをして神の言に同化せしめ、すべての恩寵にみちさせ、自由であらしめ、幸福であらしめるばかりでなく、一人の新婦がその新郎と一體になるやうに、たましひを基督と一體ならしめるのである。此結婚から、聖パウロが言ふやうに

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エペソ五・三十)基督とたましひとが一體になることが生ずるのである。同様に、兩者の寶・幸・不幸及びすべてのものは、共同のものとなり、基督が有し給ふものは信仰あるたましひのものとなり、たましひが有するものは、基督のものとなるのである。基督はすべての寶と祝福とを有し給ふから、それはたましひのものとなる、同様に、たましひは凡ての不徳と罪とを有するから、それは基督自身のものとなる。ここに、今や、喜ばしい交換とたたかひ(祝福なる)が始まる。基督は決して一度も罪を犯し給ふたことのない、神にして人であるから、また彼の義は征服され得ないものであり、永遠的なものであり、また全能的なものであるから、基督は、信仰あるたましひの罪を、たましひの指輪即ち信仰によって、自己のものとなし、たましひの罪を自ら犯せる罪であるかのやうに見給ふから、たましひの罪は、必然、基督のうちに呑み込まれ、溺死させられるのである。そは、基督の征服されがたい義はどんな罪が來ても勝ち得て餘りあるものであるからだ。かくして、たましひは、たましひの指輪即ち信仰のゆゑに、一切の罪から純潔になり、裸になり、自由になり、彼女の新郎基督の永遠の義を與えられるのである。富める、気高き、義なる新郎基督が、貧しき、軽蔑された、惡しき淫婦と結婚し凡ての惡より彼女を解放し、すべての寶をもって彼女を飾り給ふなら、今や、それは、喜ば

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しい家政ではないか。かくして罪がたましひを罰するといふことは可能でないのだ、そは、罪は今や基督の上に横はり、基督のうちに呑み込まれてゐるからである。同様に、たましひは、その新郎基督において、今や、甚だ豊かな義を有するからである。即ち、凡ての罪がたましひのうへに横はってゐても、たましひは、敢然として凡ての罪に對抗し得る義を有するのである。そのことについて、聖パウロは、コリント前書十五章(五十七節)に言ってをる、『神は讃美され感謝さるべきかな、死が罪と共に呑み込まるるが如き勝利を我らに與へ給ひぬ』。