基督者の自由について/第十三節

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 併し、こゝに汝が知ることは、どういふ理由から、信仰に、かくも大いなる力―――凡ての掟を充たし、信仰以外のすべての他のわざを抜きにして人を義とする―――が、歸せられても不當でないかといふことだ。そは、『汝の神を崇むべし』と命ずる第

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一の掟を、信仰のみが満たすことを、汝は、こゝに知るからだ。さて、汝が爪先まで善きわざだけから成り立ってをるとしても、それでも汝は義とはならないだらうし、また神に何らの栄光をも歸さないだらうし、かくして第一の掟を充たさないだらう。そは神は崇められ得ないからだ、また神には眞理と凡ての善とが、歸せられるのが正しいやうに歸せられないからだ。併し、神には眞理と凡ての善とを歸するものは、善きわざではなく心の信仰のみだ。ゆゑに信仰のみが、人間の義であり、凡ての掟をも充たすからである。併し、わざは死物だ、神を崇めることも讃へることもできないのだ。なるほど、わざは、神を崇めたり神を讃へたりする目的のために、生じたり爲されたりするかもしれぬが、しかしわれわれは、わざのやうに爲されるものを求めているのではなく、神を崇めてわざを爲すところの、自發的行為者またわざを支配する人を求めてをるのである。かくの如き人は、心の信仰以外の何物でもない、心の信仰は義のかしら(首)であり、義の全体の本質なのだ。ゆゑに、人が神の掟をわざを以て充たすことを教へるなら、それは、危險な、無知な教理だ、神の掟を充たすことは、凡てのわざの前に、信仰によって生じなければならないことなのだ、またわざは、これから後われゝゝが學ぶ

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やうに、神の掟を充たした後に生ずべきものなのだ。