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基督者の自由について/第六節

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 併し、かくも大いなるめぐみを與へる神の言とは何か、また神の言を余が用ふる用法は如何、と汝は問うか。余は答える、神の言とは、福音書が含んでをるやうな基督について生じた説教以外のものではないと。その説教は、次のやうなものであるべきであり、また次のやうに爲さるべきものだ、即ち、その説教は、汝の全生涯と汝のあら ゆるわざとが神の前に無であり、寧ろ、汝は汝の裏に存する凡てのものと共に永遠に滅亡を免かれ得ない、と汝の神が汝が聽くやうな説教だ。このことを、汝が信ずる義務があるやうに眞に信ずるなら、汝は汝自身に失望し、『おゝイスラエルよ、汝の衷には滅亡以外何物も存することなし、されど汝の助けは我にのみ存す』といふホゼアの言が眞實であることを告白するよりほかなくなるのである。併し、汝が、汝から、即ち、汝の堕落から、脱し得るために、神はその愛子イエス・キリストを汝の前に立て、基督の生ける、慰めある言によって、汝の如く汝に語らしめ給ふのである、『汝は、不變不動の信仰を以て基督に汝自身を委ね、勇敢に基督に信頼しなければならぬ、そのとき、汝の信仰ゆゑに、汝の凡ての罪は赦され、汝のすべての堕落は征服され汝は正しくなり、眞實であり、満足的せしめられ、義であり、凡ての掟は充たされるのである。汝は萬物から解放されるのである。聖パウロが、羅馬書第一章(十七節)において、『義とされたる基督者は只だ彼の信仰によりて生く』と言ふとほりだ。また更に羅馬書第十三章(四節)において言ふとほりだ、「キリストは凡て信ずるものの義とせられん爲に律法の終わりとなり給へり」。