基督者の自由について/第七節

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 ゆゑに、神の言と基督とを、よく心のなかに形造らしめ、かくのごとき信仰を絶えず用ゐ、且つ此信仰を強めることこそ、當然、凡ての基督者の唯一のわざであるべ

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きだ。そは、此唯一のわざ以外のいかなるわざも、人を基督者とすることはできないからで、基督がユダヤ人に言われはれたとほりだ。ヨハネ第六章(二十八節以下)。神的な、また基督教的なわざを爲すためには、如何なる種類のわざを爲すべきであるかと、ユダヤ人が基督に尋ねたとき、基督は、『神のわざはその遣わし給へる者を信ずる是なり』と答え給ふた。父なる神のみが、人をして基督を信ぜしめるやうに定め給ふたのである。ゆゑに、基督における正しい信仰こそ、全く潤澤な富である。そは此信仰は凡ての祝福を將來し、凡ての祝福ならざることを取り去るからである。マルコ傳の最後の章に(十六・十六)、信じて洗禮を受くる者は救はるべし、然れど信ぜざる者は罪に定めらるべし』とあるとほりだ。ゆゑに、預言者イザヤは、此信仰の富を見て言った、『神は地上に僅少の者を殘し給わん。その僅少の者はノアの洪水の如く義を注がれん」第十章(二十二節)、即ち、凡ての掟を充たすことを縮入させてをる信仰は、その信仰を有する凡ての人々は、その信仰を有する凡ての人々を、豊かに義とするのである、従って、その人々は、正しくまた義であるためには信仰以外の何物をももはや必要としないのである、聖パウロも羅馬書第十章(十六節)においてかく言ってをる、『衷心より信ずることが、或人を正しく義とす』。