基督者の自由について/第二十二節

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 今まで述べたことに對して若干の譬喩を用ひよう、信仰によって、また神の純粋な恩寵から値なしに義とされかつ救はれてをる基督者のわざを、人は、パラダ イスにおけるアダムとエヴのわざとがあったやうに考へる以外には考へてならないのである。そのことについては、創世記第二章(十五節)にも書いてある、『神その造り給へる人をエデンの園に置き、之を耕しまた守らしめ給へり』。さて、アダムは、神によって義に造られ正しく造られた、罪が無かった、彼の勞働や看守によって義とされ正しくされる必要が無いためであった。それでも、彼が怠けないために、神は彼に勞働を與(あた)へて、エデンの園を耕さしめ、守らしめ給ふた。そのわざは、只だ神に氣に入る以外、他のことの爲には少しも爲されなかった、全く自由なわざであった、義に到るために爲されたわざではなかった、アダムは、既にその義を有してゐた、またその義はわれゝゝ凡ての者に生具してゐたものであった、信仰ある人のわざもこれと同じわけだ。彼の信仰によって、彼は再びエデンの園に移され、新しく造られ、義とされるためにわざを必要としないのである。反之、彼が怠けないために、彼の肉體を勞働させ維持させるために、かくのごとき自由なわざを爲すことが彼に命ぜられてをるので、神に気に入るためにすぎない。

 更に、そのことは聖別された監督にも、同様に、當(あ)て箝(は)まることだ。彼が教會を聖別すると生き、堅信式を執行するとき、その他彼の職務のわざを執行するとき、これらのわ ざが始めて彼を監督にするわけではない。否な寧ろ、彼が以前に監督として聖別されてゐなかったなら、彼のこれらのわざの孰れも無効であったらう、全くた・わ・け・た・わざであったらう。同様に、信仰によって聖別されて善きわざを爲す基督者は、その善きわざによって、より多く若しくはより善く聖別されて基督者になるわけではない(信仰を増すこと以外、より多くまたより善く、人を基督者にするものはない)。否な、彼が前以て信じて基督者でなかったなら、彼の一切のわざは役に立たないばかりでなく、全く愚かな詛はるべき、罰せられるべき罪でもあるだらう。