基督者の自由について/第二十一節

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動

[74]

 併し、前述に述べたやうなわざは、それによって人が神の前に義とされようとする考において生じてはならない、そは、その誤れる考を、信仰は忍び得ないからである、信仰のみが神の前に義であり、また義であるに相違ないからだ、反對に、わざは、次のやうな考えにおいてのみ生ずべきである、それは肉体が從順になり、その惡しき慾より浄められるといふことだ、また眼は只だ惡しき慾を追ひだす目的で惡しき慾を見るといふことだ。そはたましひは、信仰によって、純潔であり、また神を愛するから、同様に、萬物も、純潔であり、殊に、自己の肉體が純潔であることを、喜んで求めた、また各人が、たましひと共に、神を愛し神を讃美することを、喜んで求めた。かくして、人が、彼自身の肉體のゆゑに、怠けてをることができないで、肉体を抑えつける

[75]

ために、多くの善きわざを用ゐなければならなくなるのである。それにも拘らず、わざは、人をして神の前に義であらしめ正しからしめる眞の善ではない、寧ろ、自由な愛から、報酬を求めないで、神に気に入るために、わざを爲せ、その時、神に気に入ること以外―――神の意志のために彼は喜んで最善に爲す―――何物をも求めてはならぬし見てはならないのである。喜んで神の意志を最善に爲すといふことを標準として、各人は、肉體を抑えへつける限度や適度を自ら定めることができるのである。そは、各人は、肉體の所謂反對な意志を鎮める爲に、肉體にとって必要であると思ふだけ、断食し、徹宵し労働するからである。併し、わざによって義とされようと思ふたの人々は、肉體の所謂反對な意志を苦しめることを顧慮しないで、わざを見るだけだ、只だ多くのわざや大いなるわざをな爲しさへすると、わざが善く爲され義とされてをると思ふのだ。屢々、彼らは、わざのために、彼らの頭脳を破壊し肉体を衰弱させる、彼らが、信仰を抜きにして、わざによって義とされ救はれようとすることは、大いなる愚かさであり、基督者の生活や信仰を知らないことだ。