基督者の自由について/第三節

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 われゝゝの前に、内なる、靈的な人を取り上げ、彼が義なる、自由な基督者でありまたかくの如き基督者であると呼ばれるために何が必要であるかを知らうとするなら、次のことが明瞭だ、それは、外的な何ものも―――それが何時も何と名付けられやうと―――基督者を自由にすることも義とすることも不可能であるといふ事だ。そは、基督者の義も自由も、反對に基督者の不義も自由でないことも、肉體的でもなければ、外的でもないからだ。肉體は監禁されなくとも、元気であらうと、健康であらうと、欲するが儘に、生活し飮食しやうと、それはたましひのために少しも彼に立たないではないか。反對に、肉體は、監禁され、痛み、疲れ、喜んで欲しないやうに、飢えたり、渇いたり苦しんだりしても、それは、たましひには少しも損害にならないではないか。これらの事柄の一つだにたましひに届いて、たましひを自由にしたり、たましひを自由でなくしたり、もしくは、たましひを義としたり、たましひを不義にしたりすることができないのである。