基督者の自由について/第四節

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 同様に、肉體は、聖衣を纏はふと―――司祭や牧師が爲すやうに―――それはたましひには少しも益するところとならないのだ。肉體が觀念もしくは聖なる場所にゐてもやはり同じことだ。肉體が聖なる事物と關係するときもやはり同じだ。肉體が形式的に祈禱し、斷食し、巡禮し、また肉體によって、また肉體において永遠に生じ得るべき凡ての善きわざを爲しても、やはり同じだ。たましひに義と自由とを齎し且つ與へるものは、全く異なれる或ものであるからだ。そは、これらの凡ての、列擧されたもの、わざ、及び仕方を、邪悪な者、虛言者、僞善者も、もともと持つことができるし、また用ふることができるからである。かくの如きことによっては、僞善者が生ずる以外にほかのいかな

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る人々も生じないのである。反對に、肉體は聖衣ならざるものを纏っても、聖ならざる場所にゐても、飮食しても、巡禮しなくとも、祈禱しなくとも、既に名ざされた僞善者が爲す凡てのわざを爲さずに置いても、そのことはたましひに何らの損害をも與へるものではない。