基督者の自由について/序述
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思慮深くして賢明なる閣下よ、また好意ある友よ、閣下の尊敬すべき所の説教者ヨハン・エグラン學士は、閣下が、聖書―――それを閣下はまた熱心に告白し、人々の前に讃へることを止め給はない―――に對して有し給ふ愛と喜悦とを、甚だ余に讃へました。エグラン學氏は、余を閣下と相識の間にしようといたしますから、余はそのことを全く欲(ほっ)しておりますし、喜んで、その説得を受けました。そは神の眞理が愛されることは、余には、特別な喜悦であるからであります。悲しいかな、甚だ多くの人々、殊に眞理の名や稱號を誇る人々が、一切の權力や奸計をもって、神の眞理に抵抗するのである、恐らくそのことは、基督において、―――必然言い逆ひを受くる一つの躓き及びしるしとして置かれた基督において―――多くの人が躓いたり、倒れたり、起きあがったりするのと同じことである。ゆゑに、余は、われらの相識と友情の開始のために、此の論文にして説教を兼ねてゐるものを、ドイツ語に書いて、閣下に献げようと思った。余が此の一書をラテン語において法王に献げたのは、法皇権についての余の理論や記載やの根據を―――この根據が非難されるものでないことを、余が希望するように―あらゆる人の前に證明せんがためであった。此処に、閣下と神のすべてのめぐみとに余を委ねる。アァメン。
ヴィッテンベルクにて。1520年。