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地理学家朱思本

 
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地理学家朱思本
 
 元代の地理学家として、朱思本の名は学者の間に知れ渡りたる所なり。元史に於ては地理志の後に附せられたる河源に関する記事中に見え、翰林学士潘昻霄〈金石例の著者〉が河源の探検者たる都実の弟濶濶出より其説を得て、撰して河源志と為せしに、臨川の朱思本は又八里吉思の家より、帝師が蔵せる梵字図書を得て華文を以て之を訳したるが、昂霄が志せる所と互に詳略ありとて、元志には本文に昻霄の志を挙げて、思本の訳文をば其間に附註したり。之によりて思本は江西臨川の人にして、〈梵字恐らくは西蔵字ならん〉にも通じたる地理学家なりしことは知れたるが、更に思本の著書としては、広与図一書ありて、数百年間支那の地理学界の権威たりき。思本の広興図原本は今現存せる者あらざるが如きも、明代に於て之に拠りて修訂せる広与図は往々にして存せり。京都帝国大学の蔵本は、明の嘉靖の季年に刻せる羅念庵〈名は洪先と曰ひ、有名の学者なり。〉の興興図を万暦七年に山東にて重刻せる者なるが、巻首に思本の自序あり。

予幼読書。知九州山川。及観史司馬氏周遊天下。慨然慕焉。後登会稽。泛オープンアクセスNDLJP:212 洞庭。縦遊荆襄。流覧淮泗。歴韓魏斉魯之郊。結轍燕趙。而京都実在焉。繇是奉天子命。祠嵩高。南至于桐柏。又南至于祝融。至于海。往往訊遺黎。尋故迹。考郡邑之因革。覈河山之名実。験諸溢陽安陸石刻禹迹図。建安混一六合郡邑図。乃知前人所作。殊為乖謬。思構為図以正之。閱魏酈道元註水経、唐通典、元和郡県志宋元豊九域志、今秘府大一統志。参攷古今。量校遠近。既得其説。而未敢自是也。中朝士夫。使于四方。退通攸同。冠蓋相望。則毎嘱以質諸藩府。博采羣言。随地為図。乃合而為一。自至大辛亥迄延祐庚申。而功始成。其間河山繍錯。城連径属。旁通正出。布置曲折。靡不精到。若夫漲海之東南。沙漠之西北。諸蕃異域。雖朝貢時至。而遼絶罕稽。言之者既不能詳。詳者又未可信。故於斯類。姑用闕如。嗟乎予自総角。志于四方。及今二毛。討論殆遍。茲図盖其平生之志。而十年之力也。後之覧者。庶知其非苟云。是歳日南至。臨川朱思本本初父自叙[1]

とあり。此を以て其の広興図を作るに至りし由来を知ることを得れども、而かも忠本が伝記は羅念庵の時より、既に之を詳かにせざりしと見え、羅氏の序に朱為撫之臨川人。博学多聞。踪跡徧海内。といへるのみにて然考郡志。不載姓名。といひ、絶て其余に及ばず。

 然るに近年鳥程の張鈞衡が適園叢書中に収められたる貞一斎詩文稿二巻は、即ち朱思本の集にして之によりて略ぼ朱思本の行事を知ることを得るに至れり。今先づ其の行履を徴すべき材料を刺取し、次に興図の著述に関することに及ばんとす。

 貞一薬には、至治三年、范樽、劉有慶及び欧陽応丙の序、秦定二年、虞集の序、泰定四年、呉全節の序、天暦元年、柳貫の序あり。其の欧陽応丙の序に、

本初大父以科挙仕宋。至淮陰宰。

といひ、劉有慶の序には、

吾友朱公本初。故礼義家。

といひ、呉全節の序には

臨川朱本初儒家子也。

といふに拠りて、其の生家を知るべく、又呉序に

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為黄冠。与予同道。居龍虎。与予同山。処京師。与予同朝。雅志詩文。与予同好。

とあり劉序に

厭世溷濁。霞裾星弁。訪歴名山大川。与太初溟滓。游於無窮。而嗜聖経史伝諸子百家。若飢渇然。

とあるによりて、其の南方道教の本山にして、張天師の住する江西信州の龍虎山に入りて道士と為りしことを知るべし。明の呉寛は此集の跋中に上清宮にて出家せしといへり。范梈の序にも上清朱君といへば呉跋の言ふ所と合せり。

 元の世祖は道教を重んじ、至元十三年、江南を平ぐると共に、三十六代の天師張宗演を召し、待するに客礼を以てせり。其後三十七代の天師張与棣、三十八代の天師張与材、三十九代の天師張嗣成等、いづれも世祖成宗、武宗、仁宗各帝に優遇せられたるが、其の最も信用せられたるは、張宗演の門下たる張留孫にして、初め張宗演と共に入朝せし時より世祖の旨に称ひ、大都乃ち燕京に留められて崇真宮を主とり、天師と為さんとの命を受けたれども、固辞したるが、遂に開府儀同三司上卿輔成[2]賛化保運玄教大宗師知集賢院事領諸路道教事に至り、至治元年に七十四歳にて卒したり。其道を嗣ぎて玄教大宗師と為りしは、即ち呉全節にして、後に特進上卿となり、崇文弘道玄徳真人と称せり。呉全節は至元二十四年京師に至り、張留孫に従て世祖に見え、それより大都に留まりし者の如し。朱思本が始めて大都に入りしは何の年に在るかは明らかならざるも、之と最も親しく、詩の応酬も最も多かりし虞集の泰定二年序に

集与朱君本初従於京師。廿有余年矣。

とあるを見れば、或は大徳年間三十歳前後の時に在りしならんか。初めは張留孫に師事し、後に呉全節を助けて、江南道教管理の事に従ひしが如く、呉全節は已に成宗朝に於て、五岳四浜等の名山大川を天子に代りて祀るの命を奉じたりしが、思本も亦其後屢次同様の命を受けたることありしが如く、柳貫の序に、

比年奉将使指。代祀名山。車轍馬迹。半天下矣。

といひ、思本も亦其の詩藁中に、

至大四年辛亥。予年卅九。承応中朝。奉詔代祀海岳。冬十二月還京師。云オープンアクセスNDLJP:214 々。

と題せるものあり、又衡岳賦序に

仁宗皇帝践祚之初元。〈即ち皇慶元年なり〉思本以外史承応中朝。奉詔代祀。

とあり、又遊廬山記に、

延祐三年冬。余行役江淮。

とあれば、其の地理学に関する智識は多く此間に得たる者なるが如し。

 思本は至治元年に張留孫の卒せし頃までは大都に在りしこと、祭玄教大宗師張上卿文、及び開府大宗師張公誅によりて知らるゝが、其の聖治太平宮神龍記に、

至治三年冬十一月。予被玄檄。至江州聖治太平宮。

とあり、同年の范樽が序に、

来南州。君主玉隆別館。去年冬。行県田。有烏山小兵。馳田間。得君寄詩二章。

とあり、同年の劉有慶が序に

曁主教玉隆。余来江右。云々。

とあれば、至治二年頃より江西玉隆宮に住したるが如く、送相師沈無庵序に、泰定改元春暮。訪予玉隆。とあれば、此年まで玉隆宮に在りしなるべし。又遊廬山記に

泰定二年春三月。奉詔芘衛玄教。思本乗伝。播告江南。云々。

とあれば、此事以後、又呉全節の補佐として大都に入りたるが如く、其の江南に至りしは、特に一時播告の為に過ぎざるなるべし。又詩薬中に

至順二年夏五月二十八日。自通州登舟南帰。

と題せる者あり、其の頃の作と覚しき発都中詩に、

疇昔居上京。結交輸墨場。壮志日以舒。帰心已遺忘。重来感班鬢。故旧半存亡。(中略)浩然発幽興。駕言還旧郷。(下略)

とあるを見れば、大都に居ること前後二次にして、此時又南帰せんとする際なること知るべし。

 思本の生卒は、集中の詩によりて、其の生年を知ることを得るも、卒年は未だ詳らかならず、

至大四年辛亥。予年卅九。承応中朝。奉詔代祀海岳。冬十二月還京師。与オープンアクセスNDLJP:215 欧陽翰林同舎守歳。賦詩和東坡龍錘卅九労生已強半韻。至治元年辛酉。又与欧陽偕留京師。除夕用韻述懐。通来十年。春秋五十有九矣。云々。

この詩序は次の詩並に序と合す。即ち

戊辰年臘月。大雪弥旬。云々。

の序ある詩中に、

掲来五十六。老態日夕至。

とあり。戊辰は天暦元年に当れば、之を推算するに、至大四年云々の詩序中に云ふ所と密合す。思本は実に元の世祖の至元十年に生れたるなり。其の卒年に至りては、明徴すべき資料なし。但呉全節の序中に

予長於本初四歳。

とあり、元史の釈老伝によれば、全節卒年八十有二とあり。されば至大辛亥に四十三歳なりし呉全節は、至正十年に卒したるべきが、貞一藁の詩文並びに呉全節の死歿に関する者なければ、恐らくは朱思本は呉よりも以前に死:歿せしならんか。故に仮に之を帝の初年元統、後至元間に当つるも不可なきが如し。

 思本が詩文の才は、当時学士大夫に推重されたる者の如く、其集の序を作れる人々は、虞集道園が元代第一の大家にして、而かも思本と交態極めて篤く、序中に、

其治事也。討論如議礼。厳分若持憲。立志之堅確精敏類如此。施之功業。必不苟且循習而已。然既従事於道家之学。不屑於世用。乃折而託之文章。宜其過人之遠也。

といへるに論なく、范梈は其詩を称して、六朝庾鮑而唐太白之流也。といひ、欧陽応丙は、其の四十余の頃、排体五言学工部。長句与文。則馳驟老坡間。と称し、又、久之文進於韓。復進於選。迄今十有余年。其所進方未已也。と称せり。明の呉寛は貞一藁に跋して、

故元文章之盛。雖方外道流。亦有其人。如呉全節、薛玄卿、張伯雨輩。是已。此則朱本初所著貞一稿。観其所得。尤為精深。

といへば、同時学者の称揚が、必ずしも従諛に出でしにあらざることを知るべし。且つ思本の所作を見れば、其の性質は又寧ろ儒家文人たるに適し、公卿大夫との交遊を喜びたる者の如く、其の同臭味たる呉全節さへも之に対しては頗る微詞あるオープンアクセスNDLJP:216 を免がれざりしなり。呉序の中に

予自四十来。言語詞章。漸刊落而無為。非無為也。吾聞諸教父。曰為道日損。損之又損。以至於無為。無為而無不為矣。今観本初示子貞一斎藁。其文皆四十後作。而用志方鋭也。用志鋭則学日益矣。損与益二者。又不可同日語焉。或曰。本初其亦良賈之深蔵者歟。方其処山林也則以損。及升於朝也則以益。蓋山林以道相尚。而朝廷以才学相雄長。本初又不得不資益之道以自混其処焉。亦孔子斉人之猟較也。若是者又豈吾之所望於本初乎。孔子曰。行有余力。則以学文。是則本初之志哉。

といへり。然るに思本の長処は亦実に其の性行に至るまで、尽く通儒の風あるに在り。集中に星命者説及び答族孫好謙書ありて、星命術士に反対する理由を詳述し、君子居易を以て其の主持とせるが如き、又送相師沈無庵詩序に於て相術を信ぜざることを明言し、且つ前代の善相者と称せられたる唐挙許負等をさへも、若人之儔と一抹し去りたるが如き、与欧陽南陽書に、燥烈の性ある薬を服することを戒めたる如き、其の識見の超凡なる、羽流黄冠の人と思はれざる程にて、其の思想は全く儒家より来れる者の如し。其の詩文も恰かも其の為人の如く、真作家の風ありて、宋の白真人等の若き道家の特色を認むべき者なし。蓋し元明の際は、僧家に在りても全室等の如きは亦全く文人作家と趨向を同じうし、作る所の詩文所謂蔬筍の気なかりしが、朱思本の集を見れば、当時道家にも同一種の人ありしことを知るべく、時世風気の然らしむる所たるに似たり。

(大正九年一月芸文第十一編第一号)


 朱思本の広与図に就きては、一に其の書名、二に其の著述の年代、用意、並に当時に於ける評隠、三に其の典拠とせられし期間の三節に分ちて之を説かんとす。

 朱思本の原図は、恐らくは今存せざるべきを以て、之を典拠とせる最旧の本、即ち羅念庵本を見るに、広与図と題せり。然るに貞一斎雑著に載せたる序文には『与地図自序』とあり。且つ羅念庵の広興図序の中に

於是悉所見聞。増其未備。因広其図。至于数十。

とあれば、朱思本の原本は単に輿地図と称し、羅念庵が増補の際、改めて広与図と称したる者なることを推定し得べし。

オープンアクセスNDLJP:217  次に其の著述の年代は、前に挙げたる自序に、自至大辛亥迄延祐庚申。而功始成といへるに拠れば、思本が三十九歳より四十八歳に至る十年間に成りしことを知るべし。其原図の何様なる体製なりしかは羅念庵の序に

訪求三年。偶得元人朱思本図。共図有計里画方之法。而形実自是可拠。従而分合。東西相侔。不至背舛。

といひ、又

朱図長広七尺。不便巻舒。今拠画方。易以編簡。

といひ、又朱思本の自序に

博采群言。随地為図。乃合而為一。

とあるに拠れば、朱思本は初め各地の分割図を製し、再び之を合して、長広七尺の一大図とし、計里画方の法を以て、其の正確を期したりしなり。

 抑も支那に於ける地図の計里画方の法は朱思本に始まりたるにあらずして、遠く晋の装秀の禹貢地域図に起りたりと称せらる。禹貢地域図は今存せざれども晋書の裴秀伝に其の序文を載せたり。之によれば当時秘書には、既に三代の地図もなく、又漢の蕭何が得たる秦の図籍もなくして、唯だ漢代の興地及び括地諸雑図のみあり、各分率を設けず、又準望を考正せずといひ、而して秀が作れる地図は十八篇ありて、其の制図の体としては、

制図之体有六焉。一曰分率。所以弁広輪之度也。二曰準望。所以正彼此之体也。三曰道里。所以定所由之数也。四曰高下。五曰方邪。六曰迂直。此三者各因地而制宜。所以校夷険之異也。有図象而無分率。則無以審遠近之差有分率而無準望。雖得之於一隅。必失之於他方。有準望而無道里。則施於山海絶隔之地。不能以相通。有道里而無高下方邪迂直之校。則径路之数。必与遠近之実相違。失準望之正矣。故以此六者。参而攷之。然遠近之実。定於分率。彼此之実。定於道里。度数之実。定於高下方邪迂直之算。故雖有峻山鉅海之隔。絶域殊方之週。登降詭曲之因。皆可得挙而定者。準望之法既正。則曲直遠近。無所隠其形也。

と見え、清の胡渭は禹貢錐指に之を引きて、

今按分率者計里画方。毎方百里五十里之謂也。準望者弁方正位。某地在東オープンアクセスNDLJP:218 西。某地在南北之謂也。道里者人跡経由之路。自此至彼。里数若干之謂也。路有高下方邪迂直之不同。高謂岡巒。下謂原野。方如矩之鉤。邪如弓之弦。迂如羊膓九折。直如鳥飛準縄。三者皆道路夷険之別也。人跡而出於高与方与迂也。則為登降屈曲之処。其路遠。人跡而出於下与邪与直也。則為平行径度之地。其路近。然此道里之数。皆以著地人跡計。非準望遠近之実也。準望遠近之実。必測虚空鳥道以定数。然後可以登諸図。而八方彼此之体皆正否則得之於一隅。必失之於他方。而不可以為図矣。

と解釈せるを見れば計里画方の法は実に西晋の初より之あり、且つ高下方邪迂直之算をも具へて後世の支那地図に比すれば、精密を極めたりし者の如し。〈裴秀は晋の泰始七年(西暦二七一)に年四十八にて没せり。〉但し近時清の馬徴麟が裴氏十八篇、以二寸為千里といへるは果して何の拠るありやを詳かにする能はず。其後唐の貞元の頃、宰相賈耽は又計里画方図を製せるが如く、新唐書の耽が伝に、

図海内華夷。広三丈。従三丈三尺。以寸為百里。並識古今郡国県道四夷。述其中国。本之禹貢。外夷本班固漢書。古郡国題以墨。今州県以朱。

といへるを見れば、賈耽は計里画方の法の外に、更に後世、王光魯の閱史約書、六厳の歴代地理図等、朱套本地図の祖と為りしが如し。賈耽の図も今存せざれども、其の遺制ならんと思はるゝ地図は阜昌石刻禹跡図なり。此図は偽斉の劉予が阜昌七年四月に刻石せし所にして、現に西安の碑林中に存せり。長広各我が曲尺二尺六寸許りにして、横七十方縦七十三方に画し、毎方折地百里とし、禹貢山川名、古今州郡名、古今山水地名を載せたり。其の石刻に係るを以て、朱墨を分つ能はざるも、賈耽が図の縮本として視るべき者の如し。且つ西安には此図と倶に阜昌七年十月に刻せる石刻華夷図なる者あり、計里画方の法を用ゐざるも、其の同一人の作たることを推定し得べき者にして、之に載せたる四方蕃夷の国名は唐の賈魏公〈耽は魏国公に封ぜれらたり〉 の図に載する所より取りたることを記したれば、禹跡図も同じく賈耽に出でたることを疑はず。されば賈耽が計里画方図は宋代まで存したることも亦疑なく、思本が見たる滏陽安陸の石刻禹跡図、建安混一六合図等が、阜昌禹跡図と関係の有無は今知るべからざるも、思本が計里画方図の本づく所あることは、以て推知するに足る。羅念庵が

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至其所為画方之法。則巧思者不逮也。

といひ、又近時清の李兆洛が貞一斎雑著に題して

蓋地図之計里定方。自思本始也。

といひしは考を失せるに似たり。

 思本が興地図の作あることは、已に范樽の序にも見えたるが、之に関して口を極めて称揚したる者は虞道園なり。

至於職方之学。尤所偏善。遇輸軒遠至。輒抽簡載管。累訳而問焉。山川険要。道運遠近。城邑沿革。人物土産風俗。必参伍詢誥。会同其実。雖糜金帛費時日不厭也。

とはその序中に見えたる所にして、之を其の自序に参看して、其の用心の勤めたることを見るべく、併せて其の学の已に当時に重ぜられたるをも知るべし。

 思本の地図が典拠とせられし時代は、実に数百年間に弥れり。羅念庵の広興図は其の重輯の後、二十年を経て、嘉靖四十年に浙江布政使胡松の手によりて、更に倭、琉球の両図を補て刊行せられ、其後数年にして、同四十五年又韓君恩の為に補刊せられ、万暦七年に至り、銭岱の為に重刊せられたるは、現存羅図の各序を観て知るべく、此刊本までは猶朱思本及び羅念庵の序を存したるが、其後万暦三十二年汪作舟の刊行せる広興考には朱序羅序以下、朱図の源流を徴すべき各序は総べて之を刊り去りたるも、図中に於て其の朱図を典拠とせる痕迹は、猶ほ全く掩ふべからざる者ありて存せり。

 貞一斎雑著中、与地図自序の後に連りて、北海釈、和寧釈、八番釈、両江釈の四条あり、蓋し図中の地名を釈せる文を節取したる者なり。其の和寧釈に曰く、

和寧即哈剌禾林。乃聖武始都之地。今嶺北行中書省治所。常以勲旧重臣為之。外則諸王星布棊列。於以藩屏朔方。控制西域。実一巨鎮云。

然るに羅図には朔漠図なる者ありて、明の成祖が北征の地名等を載せたるも、其原図が朱思本に出でたるの証拠は、図中に

和寧即哈剌禾林。元初建都於此。名元昌路。太宗建万安宮迦堅茶寒殿於図蘇湖迎駕殿。後為嶺北行中書省。常以動旧領之。元之巨鎮也。

とあるによりて明白に、其の文に互に詳略あるのみなり。而して汪作舟の広与考オープンアクセスNDLJP:220 にも同じく朔漠図ありて、和寧に関する文は羅図と一字を違へず、是れ汪図も亦羅図に拠りたること明白なり。

明末に至り陳組綬は皇明職方図を著したるが、巻首に載せたる或問によれば、地図之修。肇于乙亥之春王正月。越八月而編次訖。丙子初夏。而剖国竣。凡十有六月図成。

されば此地図は崇禎八年九年(西一六三)の間に成れる者なるが、著者は或問に於て、此図が羅念庵の広興図に仍りたるにもかゝはらず、其の書名を改めたる所以を弁じて、其の広さが同じからざるによる、即ち広与図に載せたるものゝ中、北は和林に及ばず、南は交趾に至らず、東は日本に及ばず西は織皮に及ばずといひ、又此の著者は既に利瑪竇の万国図を見たれども、所謂五大洲は存して論ぜずといひ、単に明の職方司の司る所に限りたるよしを説きたれども、其実広興図に載せたる朔漠図は依然として其中に収載し、而して和林に関する文は、広興図、広与考と全く同一なり。

 以上余が見たる古地図にして、朱思本地図の系統に属する者は、此の職方地図を最後とせるが、思本が図の成りし以後、実に三百十六年間は、明らかに其の典拠として用ゐられし痕迹を認むるを得るなり。余は清初の地図に就て識る所あらざるも、恐らくは耶蘇会宣教師の手によりて康熙内府地図の成るまでは、依然として広興図が行はれしにあらずやと思はるゝなり。

 但だ朱思本図の成りし後に於ても、其の系統に属せざる他の地図が行はれ居りしことも亦歴然たる証拠あり。西本願寺の所蔵にして、明の建文二年に朝鮮にて製せられし混一疆理図は、都会等に於て明代の地名を見るも、大体に於ては元代の地図に拠りしこと明らかなる者なるが、小川如舟博士は甞て其の製図の法が元史天文志に載せたる西域儀象中、苦来亦阿児子漢言地理志といへる者に符合することを説かれたり。然るに此図と朱思本図とは、余が今日迄の研究にては何等の関係ある痕迹を発見する能はざるを以て、之を同時代に行はれたる異種の者と断ぜざるを得ず。

(大正九年二月芸文第十一編第二号)

オープンアクセスNDLJP:221   参考

至元十年(西暦一二七三)大徳元年(一二九七)至大辛亥即四年(一三一一)皇慶元年(一三一二)延祐元年(一三一四)至治元年(一三二一)泰定元年(一三二四)天暦元年(一三二八)至順二年(一三三一)元統元年(一三三三)後至元元年(一三三五)至正元年(一三四一)延祐庚申即七年(一三二〇)阜昌七年(一一三七)嘉靖四十年(一五六一)万暦七年(一五七九)崇禎八年(一六三五)建文二年(一四〇〇)

  附註

  1. 広奥図の首に載せたる朱思本の自序は、之を貞一斎雑著に載せたる者と、往々異同あり、建安混一六合郡邑図が樵川混一六合郡邑図に作られ、今秘府大一統志が皇元一統志に作られ、詳者又未可信の未の下に必字あるが如き、其の著しき者なり。其余の小異は之を略す。
  2. 張留孫の賜号は元史釈老志及び貞一斎雑著中、開府大宗師張公誅による。祭玄教大宗師張上卿文には輸成二字を輸相に作る。

(昭和四年三月記)

  附記

近時印行せる姚際恒の好古堂書目によれば地理部に

 興図〈元朱思本〉  大本一本

あり、然らば則ち朱思本の原図は清の康熙年間まで存したりしなり。

(昭和四年四月記)

 
 

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