吉備大臣入唐絵巻

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詞書[編集]

第二段[編集]

夜中ばかりになるらむとおもふほどに、雨降り、風吹きなどして、身の毛だちておほゆるに、戌亥の方より、鬼、うかがひ来たる。吉備、身を隠す風をつくりて、鬼に見えずながら、吉備の曰く、如何なる者ぞ。我はこれ日本国の王の御使ひなり。王事脆きことなし。鬼なむぞうかがふや、と云ふに、鬼、答へて曰く、最も嬉しきことなり。我も日本国の遣唐使にて、渡れりし者なり。物語せむと思ふ。と云ふに、吉備、答へて曰く、逢はむと思はば、鬼の形を変へて来たるべしと云うに、鬼、帰り去りて、衣冠をして出で来たり、吉備逢ひぬ。鬼、まづ曰く、我はこれ日本の遣唐使なり。わが子孫、阿部の家はべりや。このこと聞かむと思ふに、今にかなはぬなり。我は貴位にて、来たりて侍りたりしに、この楼に上せられて、食物を与へざりしかば、飢え死にて、かかる鬼となりて、この楼に住み侍るなり。人を害せむ心なけれども、我が姿を見るに絶へずして、死に遭ひたるなり。我が国のことを問はむとするにも、答ふることなし。今日幸いに、貴下に逢ひたてまつりたり。喜ぶところなり。我が子孫は官位ははべりやと云ふ。大臣、詳しく有様を語るを聞きて、鬼、大きに喜びて曰く、この恩には、この国のことを皆、語りまうさむと思ふなり、と云ふ。大臣、喜びて、最も大切なりと云ふに、夜明けなむとすれば、鬼、帰りぬ。

第三段[編集]

その明日に、楼を開きて、唐人、食物を持て来たるに、大臣ことなくてあるを見て、唐人、いよいよ怪しむ。また、この日本の使ひ、才能人に過ぎたり。文を読ませて、その誤りを笑はむと云ふなり。このよしを、鬼来て告ぐ。吉備、いかなる文ぞと問ふに、鬼の曰く、この国に、極めて読みにくき文なり。文選と云ふなり。大臣の云ひてむやと云ふに、鬼、我はかなはじ。貴下をあひくして、かの沙汰のところへ至りて、聞かせむと思ふなり。それに楼を閉じたるは、いかがして出でたまはむすると云ふに、吉備の曰く、我は飛行自在の術を知れり、と云ひて、楼のひまより共に出でて、文選講ずる帝王の宮に至りぬ。三十人の博士、夜もすがら読むを聞きて帰りぬ。鬼の曰く、聞き得たりや。大臣の曰く、聞きつ。古き暦十余巻たづねて、与へてむやと云ふに、鬼、すなはち求めて与へつ。

第四段[編集]

吉備、これを得て、文選の上帙十巻が端々を三、四枚づつ書きて、楼の内にやりちらしつ。その後一両日を経て、文選三十巻を具して、博士一人、勅使として楼に来たりて、心みむとするに、文選の端々を散らし置きたるを見て、唐人、怪しみて曰く、この文はいづれの所にはべりけるぞやと問へば、この文は、我が日本国に文選と云ひて、人の皆口づけたる文なりと云ふ。唐人、驚きて、持て帰る時に、吉備の曰く、我が持ちたる本に見合わせんと云ひて、文選を謀り取りつ。

第五段[編集]

さて、また唐人、議して曰く、才はありとも、芸はあらじ。碁を打たせて心みむと云ひて、白き石をば日本の人に打たせて、黒き石を我ら打ちて、このかたちに着けて、日本の使ひを殺さむと相ひ議す。鬼、またこの由しを告ぐ。大臣、これを聞きて、碁とは如何やうなるものぞ、と訊ぬれば、三百六十一目あるものの、聖目九はべるなりと云ふ。大臣、夜もすがら、天井の組みれに向かひて、案じえたり。

第六段[編集]

次の日、案の如く、この上手を遣はして、打たするに、勝負なし。その時に、吉備、唐の方の黒石を一つ盗みて飲みつ。勝ち負けを争ふ折り、唐人、負けぬ。怪しき事なりとて、石を数ふるに足らず。よりて占ふに、盗みて飲めるなり、と占ふ。吉備、大きに抗ふに、さらば、かりろぐ丸を服させて、致さむとするに、吉備、又ふむしとどめて、出ださず。ついに勝ちぬ。

備考[編集]

第一段、第七段以降を欠く。

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。