半七捕物帳 第四巻/狐と僧

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動

狐(きつね)と僧[編集]

[編集]

「これも狐の話ですよ。しかし、これはわたくしが自身に手がけた事件です」と、半七老人は笑った。
嘉永(かえい)二年の秋である。江戸の谷中(やなか)の時光寺(じこうじ)という古い寺で不思議の噂󠄀(うわさ)が伝えられた。それはその寺の住職の英善(えいぜん)というのが、いつの間にか狐になっていたと云うのである。実に途方もない奇怪な出来事ではあるが、寺の方からその届け出があった以上、寺社奉行も単にばかばかしいと云って捨てて置くわけにも行かなかった。
時光寺はあまり大きい寺ではないが、由緒ある寺で、その寺格も低くなかった。住職の英善は今年四十一歳で、七年ほど前から先住のあとを受けついで、これまで変った噂󠄀もきこえなかった。ほかに善了(ぜんりょう)という二十一歳の納所(なっしょ)と、英俊(えいしゅん)という十三歳の小坊主と、伴助(ばんすけ)という五十五歳の寺男と、あわせて三人がこの寺内に住んでいた。伴助は耳の遠い男であったが、正直者として住職に可愛がられていた。
こうして何事もなく過ぎているうちに、思いもよらない事件が出来(しゅったい)して、檀家(だんか)は勿論、世間の人びとをもおどろかしたのである。事件の起る前夜、住職の英善は、根岸(ねぎし)の伊賀屋(いがや)という道具屋の仏事にまねかれて、小坊主の英俊を連れて出たが、四ツ(午後十時)少し前に英俊だけが帰って来た。師匠は途中でこれからほかへ廻るから、おまえは先へ帰れと云ったので、小坊主はそのまま別れて来たのであった。
夜なかになっても住職は戻らないので、寺でも心配した。伴助は提灯(ちょうちん)を持って幾たびか途中まで迎いに出て行ったが、英善の姿はみえなかった。こうして不安の一夜を送った後、この寺から二町ほど距(はな)れた無総寺(むそうじ)という寺のまえの大きい溝(どぶ)のなかに、英善によく似た者のすがたが発見された。それはあくる朝のことで、いつも早起きの無総寺の寺男が見つけ出したのであるが、溝にはまり込んで死んでいたのは、人間ではなかった。それは法衣(ころも)や袈裟(けさ)をつけている狐であった。寺男はびっくりして、ほかの人びとにも報告したので、たちまちにこのあたりの大騒ぎとなった。
袈裟や法衣をつけている者の正体はたしかに年経(ふ)る狐に相違なかった。死体の傍には数珠も落ちていた。小さい折本(おりほん)の観音経も落ちていた。履物はどこにも見えなかったが、その袈裟と法衣と、数珠と経文と、それらの品々がことごとく時光寺の住職の持ち物に符合するばかりか、その経文の折本のうちには時光寺と明らかに書いてあるので、誰もそれをうたがうことは出来なかった。殊にその本人の英善がゆうべから戻って来ないのであるから、諸人はいよいよこの奇怪な出来事を信ずるよりほかはなかった。ただ、ここに残された問題は、英善がゆうべこの狐にたぶらかされて、その衣類や持ち物を奪われたのか、あるいはその以前から本人の正体はどこへか消えてしまって、狐が住職になり澄ましていたのかと云うことで、その疑問は容易に解決されなかった。
無総寺の寺男の話によると、夜なかに門前で頻(しき)りに犬の吠える声を聴いたと云うのである。英善に化けた狐は狗の群れに追いつめられて、この溝のなかへはまり込んで死んだのであろうと彼は云った。ほかの人びともそんなことであろうと思った。
「なるほど、そういえば此の頃は、うちのお住持さまは大変に犬を嫌っていなすった」と、時光寺の納所もそう云った。
以前はそうでもなかったが、この一、二ヵ月まえから住職の英善がひどく犬を嫌うようになったことは納所の善了も寺男の伴助も認めていた。これらの事実を綜合してかんがえると、人間の英善はこの夏の末頃から消えてなくなって、狐の英善が住職になり代っていたらしい。伯蔵主(はくぞうす)の狐や茂林寺(もりんじ)の狸のむかし話なども思いあわされて、諸人も奇異の感にうたれながら、ともかくにも一ヵ月住職の身のうえにこういう椿事(ちんじ)が出来(しゅったい)したのであるから、単に不思議がってばかりはいられなくなった。時光寺からは有りのままに届け出て、寺社奉行はその詮索(せんさく)に取りかかったのであった。
時光寺の納所も小坊主も寺男も、みな厳重に吟味された。奇怪な死体をはじめて発見したという無総寺の寺男も勿論取調べられた。しかもかれらの口から何の手がかりを聴き出すことも出来なかった。住職は近ごろ犬を嫌うようになったと云う以外には、時光寺の者どもも別に思いあたることはないと申立た。もしや住職の死骸を発見することもあろうかと、時光寺の床下や物置、庭の大木の根もとなども掘り返してみたが、死骸はおろか、それかと思われるようにな骨一つすらも見いだされなかった。檀家の主なるものも調べられた。その当夜、自宅の仏事に時光寺の住職を招いたと云う根岸の伊賀屋嘉右衛門(かえもん)も吟味をうけたが、伊賀屋でも当夜の住職の挙動について別に怪しい点を認めなかったと答えた。
寺社奉行の方でもこの上に詮議のしようもなかった。時光寺の住職はゆくえ不明になって、いうの間にか狐がその姿になりかわっていたと云うほかには、なんとも判断の下しようもないので、その詮議はひとまずこれで打切ることになった。


[編集]

九月の末には陰(くも)った日がつづいた。神田の半七は近所の葬式(とむらい)を見送って谷中の或る寺まで行った。ゆう七ツ(午後四時)過ぎに寺を出て、ほかの会葬者よりもひと足先にぶらぶら帰ってくると、秋の空はいよいよ暗くなった。寺の多い谷中のきびしい道には、木の葉が雨のように降っていた。まだ暮れ切らないのに、どこかの森の中で狐の声がきこえた。半七はこのごろ世間の噂󠄀になっている時光寺の一件をふと思い出した。彼は町奉行付きで、寺社奉行の方には直接の係り合いはないのであるが、それでも自分の役目として、今度の奇怪な出来事に相当の注意を払っていた。
「無総寺というのはこの辺かしら」
そう思いながら歩いてくると、ある寺の土塀に沿うた大きい溝(どぶ)のふちに、ひとりの少年が腹這(はらば)いになっているのを見た。少年は十三、四歳の小坊主で、土の上に俯伏(うつぶ)しながら何か溝のなかの物を拾おうとしているらしかった。半七はそのまま通り過ぎるようにして、なに心なくその寺の門を見あげると、門の額には無総寺とあったので、彼は俄かに立停まった。時光寺の住職に化けていた狐の死骸は、この大溝から発見されたと云うのである。その溝のふちに小坊主が腹這いになって何か探しているらしいのを、半七は見すごすことが出来なかった。半七は立寄って声をかけた。
「お小僧さん。なにか落したのかえ」
それが耳にもはいらないらしく、小坊主は熱心になにか拾おうとしていた。しかしまだ十三、四の子供の手では溝の底までとどかないので、彼は思い切って下駄をぬいで、石垣を伝って降りようとするらしかった。半七は再び声をかけた。
「もし、もし、お小僧さん。なにを取ろうとするんだ。なにか落したのなら、わたしが取ってあげる」
小坊主は初めて振りかえったが、返事もしないで黙っていた。半七は屈(かが)んで溝をのぞくと、底はさのみ深くもなかった。苔(こけ)の多い石垣のあいだから幾株の芒(すすき)や秋草が水の上に垂れかかって、岸の近いところには、湿(ぬ)れた泥があらわれていた。それを見まわしているうちに、ある物が半七の眼についた。
「おまえさん。あれを取ろうと云うのかえ」と、半七は溝のなかを指さして訊(き)いた。
小坊主は黙ってうなずいた。こんなことには馴れている半七は、草履の片足を石垣のなかほどに蹈(ふ)みかけて、片手に芒の根をつかみながら、からだを落すようにして岸に近い泥のなかへ片手を突っ込んだ。彼がやがて摑(つか)み出したのは小さい仏の像であった。仏は二寸にも足らないもので、なにか黒ずんだ金物で作られているらしく、小さい割合にはなかなか目方があった。
「この仏さまをお前さんは知っているのかえ」と、半七は泥だらけになっている仏像を小坊主の眼先へ突きつけると、彼はそれをうやうやしく受取って、自分の法衣(ころも)の袖のうえに乗せた。
「おまえさんのお寺はどこだね」と、半七はまた訊いた。
「時光寺でございます」
「むむ。時光寺か」
半七はあらためてその小坊主の顔を見た。彼は色の白い、眼の大きい、見るからに悧巧(りこう)そうな少年であった。
「じゃあ、このあいだ和尚さんの一件のあったお寺だな。そこで、その仏さまはお前さんが落したのかえ」
「いまここで見つけたのです」
「じゃあ、おまえさんのじゃあ無いんだね」
小坊主はその返答に躊躇(ちゅうちょ)しているようであったが、結局これは自分の寺のものであるらしいと云った。
「お寺の物がどうしてこの溝のなかに落ちていたんだろう」と、半七は彼の顔色をうかがいながら訊いたが、小坊主はやはり何か躊躇しているらしく、口脣(くちびる)をむすんだままで少し俯向いていた。
この小さい仏像について何かの秘密があるらしいと睨(にら)んだので、半七はたたみかけて訊いた。
「和尚さんは、ここらの溝のなかに死んでいたんだそうだね」
「はい」
「そこにその仏像が落ちていて、しかもそれがお寺の物だと云う。そうすると、和尚さんの落ちた時に、それも一緒に落したのかね」
「そうかも知れません」
「隠しちゃあいけねえ。正直に云って貰いたい」と、半七はすこしく詞(ことば)をあらためた。「実はわたしは町方(まちかた)の御用聞だ。寺社とはお係りは違うけれど、こういうところへ来あわせては、調べるだけのことは調べて置かなければならねえ。その晩、和尚さんがその仏さまを持って出たのかえ」
相手の身分を聴くと共に、小坊主の態度は俄かに変った。彼は今までとは打って変って、半七の問いに対して、何でもはきはきと答えた。
彼は時光寺の英峻であった。師匠の英善がゆくえ不明になった晩、彼は師匠の供をして根岸の伊賀屋へ行った。読経(どきょう)がすんで、一緒に連立って帰る途中、師匠はほかへ路寄(みちよ)りすると云って別れたまま再び戻って来ない。そうして、そのあくる朝、師匠の袈裟法衣をつけた狐の死骸がこの溝の中に発見されたのである。それはどう考えても判らないので、彼は絶えずそれを考えつめていると、今日この溝のふちを通るときに、測(はか)らずも泥のなかに何か薄黒く光るようなものを見つけたのであった。
仏像はおそらく師匠の袂(たもと)かふところに入れてあって、ここへ転げ込むときに水のなかへ滑り落ちたのを誰も見つけ出さなかったのであろう。毎日陰(くも)ってはいるが、この頃すこし雨がないので、溝の水もだんだんに乾いて、泥に埋められていた仏像が自然にその形をあらわしたのであろう。自分にもよく判らないが、これは寺の秘仏として大切に保管されているものであるらしい。なんでも遠い昔に異朝から渡来したもので、その胎内には更に小さい黄金仏が孕(はら)ませてあると云いつたえられている。自分は九つの年から寺に入って、足かけ五年のあいだに三度しか拝んだことはないが、これはどうもその仏像であるらしいと彼は説明した。
それほど大切の秘仏を住職がなぜむやみに持出したか、それが半七にも判らなかった。英俊にも判らなかった。
「しかしこれをみると、狐がお住持に化けていたなどと云うのは嘘です」と、英俊は云った。
「わたしも最初から疑わしいと思っていましたが、もし狐ならばこういうものを持出す筈がありません。狐や狸は尊い仏を恐れる筈です」
それはいかにも仏弟子らしい解釈であった。半七は又それと違った解釈で、時光寺の住職の正体が狐でないことを確かめた。
「お住持は……お師匠さまは……」と、英俊は俄かに泣き出した。
「おい。どうした、どうした」
と、半七は彼の肩に手をかけた。
英俊はその肩をゆすぶって泣きつづけた。彼の涙は法衣の袖にほろほろとこぼれて、大切にささげていた異国の仏像の御首(みぐし)にも流れ落ちた。
「泣くことはねえ。おれがその仇を取ってやる」と、半七は云った。「その代り、おまえの灯って居るだけのことは何でも話してくれねえじゃあいけねえ。といって、いつまでもここらで立話も出来めえ。あしたの朝、わたしの家まで来てくれ。神田の三河町(みかわちょう)で、半七と聞けばすぐ判る」


[編集]

あくる朝、英俊は約束通りに半七をたずねて来た。そうして、師匠の英善の身のうえに就いて自分の知っているだけのことを詳しく話して帰った。帰る時に、半七は彼に何事をか教えてやった。それからすぐに身支度をして、半七も寺社奉行の役宅へ出て行った。
寺社方の許可を得て、彼は何かの活動に取りかかるらしく、役宅から帰ると更に子分の松吉(まつきち)と亀八(かめはち)を呼びよせた。
「ひょっとすると草鞋(わらじ)を穿(は)くかも知れねえ。そのつもりで支度をして置け」
午(ひる)すぎになって英俊がふたたび来た。
「親分さん。安蔵寺(あんぞうじ)の三人はきのうの朝、一挺(いっちょう)の駕籠(かご)を吊らせて帰ったそうです」
「駕籠は一挺か」と、半七は少し考えた。「そこで、どうだろう。その頭(あたま)の坊主は……」
「昌典(しょうてん)という人はまだ残っているらしいのです」
「よし。じゃあ、すぐに出かけよう。一日の違いなら何とかなるだろう。もう一日早ければ訳はなかったのだが、どうも仕方がねえ」
半七は二人の子分をつれて、俄かに甲州街道の方角へ旅立ちをすることになった。彼は見識人として英峻をも連れて行かなければならなかったが、まだ十三の少年が足の早いかれらと共にあるくことは出来そうもないのと、かれらもゆく手を急ぐのとで、四挺の駕籠を雇って神田を出たのは其の日の八ツ(午後二時)を過ぎた頃であった。
先をいそぐ四人は御用の旅という触れ込みで、むやみに駕籠を急がせた。新宿(しんじゅく)で駕籠をかえて其の晩のうちに府中(ふちゅう)の宿(しゅく)まで乗りつけた。あくる朝七ツ(午前四時)ごろに宿屋を発(た)って、日野(ひの)、八王子(はちおうじ)、駒木野(こまぎの)、小仏(こぼとけ)、小原(おはら)、吉野(よしの)、関野(せきの)、上(うえ)の原(はら)、鶴川(つるかわ)、野田尻(のだじり)、犬目(いぬめ)、下鳥沢(しもとりさわ)、鳥沢(とりさわ)の宿々あわせて十五里あまりを駕籠で急がせた。自分たちはともかくも、旅馴れない上に年のゆかない英俊がもし途中で弱ることがあってはならないと、立場(たてば)たて場へ着くたびに半七は彼に気つけの薬を飲ませて介抱したが、英俊はちっとも弱らなかった。彼は一刻も早くお師匠さまを救ってくれと、そればかりを繰返していた。
「お小僧さん、なかなか強いな」と、子分たちも励ますように云った。
鳥沢の宿へはいったのは夜の五ツ頃で、夕方から細かい雨がしとしとと降り出していた。今夜のうちに次の宿の猿橋(さるはし)まで乗込みたいと思ったが、あいにく雨が降るのと、駕籠屋も疲れ切っているのとで、半七はここで今日の旅を終ることにして、駕籠のなかから声をかけた。
「おい、若い衆さん。この宿(しゅく)でどこかいい家(うち)へつけてくれ」
「はい、はい」
雨がだんだん強くなって来たのと、泊りの時間をもう過ぎたのとで、暗い宿(しゅく)の旅籠屋(はたごや)では大戸をおろしているのもあった。四挺の駕籠が宿の中ほどまで来かかると、左側の小さい旅籠屋のまえに一挺の駕籠のおろされているのが眼についたので、半七は自分の駕籠の垂簾(たれ)をあげて透かして視(み)ると、その駕籠は今この旅籠屋に乗りつけたらしく、駕籠のそばには二人の男が立っていた。ひとりは内にはいって店の番頭となにか掛合っているらしかった。その三人がいずれも旅僧であることを覚った時、半七はすぐに自分の駕籠を停めさせた。その合図を聞いて子分の松吉と亀八もつづいて駕籠を出た。英俊も出た。四人は雨のなかを滑りながら駈け出して、ばらばらとその旅籠屋の店先へはいった。
駕籠の脇に立っている旅僧の一人は、英俊の顔を見て俄かに狼狽(うろたえ)たらしく、あわててほかの僧を見かえる間に、松吉と亀八はもうその後を取巻くように迫っていた。
「失礼でございますが、このお駕籠にはどなたがお乗りです」と、半七は丁寧に訊いた。
ふたりの僧は黙っていた。
「では、御免(ごめん)を蒙(こうむ)って、ちょっとのぞかせて頂きます」
再び丁寧にことわって、半七は桐油(とうゆ)を着せてある垂簾を少しまくりあげると、中には白い着物を着ている僧が乗っていた。英俊は泣き声をあげてその前にひざまずいた。
「お師匠さま」
僧は眼を動かすばかりで、口を利かなかった。彼はいつまでも無言であった。英俊は彼の袖にすがって再び呼んだ。
「お師匠さま」
無言の僧は時光寺の住職英善であった。彼が無言であるのは、声を出すことの出来ないような一種の薬を飲まされていたのであった。


「もうここまで来れば、あとは詳しく云うまでもありますまい」と、半七老人は云った。「どころで、なぜこんな事件が起ったかと云うと、この宗旨の本山の方に何か面倒な事件があって、今日(こんにち)の詞(ことば)でいえば、本山擁護派と本山反対派の二派にわかれて暗闘を始めていたと云うわけなんです。それがだんだんに激しくなって、本山の方から幾人(いくたり)かの坊主が出府(しゅっぷ)して、江戸の末寺を説き伏せようとする。末寺の方では思い思いに党を組んで騒ぎ立てる。その中でも時光寺の住職は有力な反対派の一人で、まかり間違えば寺社奉行まで持出して採決を仰ごうという意気込みなので、本山派の方で持て余して、なんとかしてこの住職をなき者にしよう……。といつて、出家同士のことですから、まさか殺すわけにも行かないので、この住職を本山へ連れて行って、当分押込めて置こうと云うことになったのです。そこで住職がいつの晩には根岸の檀家へ出かけて行くというのを知って、帰る途中を待ち受けて、腕ずくで取っ捉まえて下谷坂本(しもやさかもと)の安蔵寺という本山派の寺へ連れ込んでしまったのです。そうして、口を利くことの出来ないように、毒薬を飲ませたのだそうです」
「そうなると、例の狐はその身代りなんですね」
「そうです、そうです」と、老人はうなずいた。「一ヵ寺の住職がただ消えてなくなったと云うのでは詮議がむずかしかろうという懸念から、住職の袈裟や法衣をはぎ取って、それを狐に着せて……。いや、今から考えると子供だましのようですが、それでもよっぽど知恵を絞ったのでしょう」
「ところで、大切の仏像というのはどうしたんです。やはりその住職が持っていたんですか」
「いつの代でも、なにかの問題で騒ぎ立てれば相当の運動費がいります。時光寺は本来小さい寺である上に、住職が本山反対運動に奔走しているので、その内証(ないしょう)は余程苦しい。まして寺社奉行へでも持出すとすれば、また相当の費用もかかる。それらの運動費を調達するために、住職は大切の秘仏をそっと持出して、それを形(かた)に伊賀屋から幾らか借り出そうとして、仏事の晩にそれを厨子(ずし)に納めて持込んだのですが、ほかに大勢の人がいたので、云い出す機(おり)がなくって、自分ひとりで伊賀屋へまた引っ返す途中、運悪く本山派の罠(わな)にかかって、持っていた厨子は無論に取りあげられてしまったのですが、その時住職が手早く仏像だけをぬき出して自分の袂へ隠したのを、相手の者は気がつかなかったと見えます」
「その落着(らくちゃく)はどうなりました」
「事件もこうなると大問題です」と、老人は眉をしかめて云った。「無論に寺社方の裁判になりました。本山から出府している坊主は十一人ありましたが、ほかの寺に宿を取っていた七人はこの事件に関係がないと云うので免(ゆる)されました。安蔵寺に泊っていた四人、その三人は住職の駕籠について行き、一人は江戸に残っていましたが、いずれも召捕って入牢(じゅろう)申付けられ、その中で二人は牢死、二人は遠島になりました。時光寺の納所の善了も本山派に内通していたという疑いをうけて、寺を逐(お)い出されたそうです。この事件も手をひろげたら随分大きくなるでしょうが、本山の方へは一切手を漬けずに、江戸だけで片付けてしまいましたから、前に云った四人のほかには罪人も出ませんでした。時光寺の住職はその後に療治をして、すこしは声が出るようになったので、やはり元の寺に勤めていましたが、上野の戦争のときに彰義隊の落武者をかくまったと云うので、寺にも居にくくなって、京都の方へ行ったそうです。英俊は悧巧な小僧で、その時に師匠と一緒に行って、今では京都の大きい寺の住職になっていると聞きました。なにしろこの探索では小坊主が大立物(おおたてもの)で、その口から本山派と反対派の捫着(もんちゃく)を聴いたので、わたくしもそれから初めて探索の筋道をたてたようなわけですからね。今でも時どきあるようですが、むかしも寺々の捫着はたびたびで、寺社奉行を手古摺(てこず)らせたものですよ」
しかしそこにはまだ一つの疑問が残されていた。それは時光寺の住職がかの事件の起る以前から俄かに犬を嫌うようになったと云うことである。わたしはそれを聞きただすと、老人は笑って答えた。
「それはなんにも係り合いのないことなんです。住職が犬を嫌うようになったと云うので、おそらく狐が化けていたのだろうなどという疑いも起って来たんですが、だんだんに調べてみると斯(こ)ういうわけでした。住職は出家のことで、ふだんから畜類を可愛がっていたんですが、本山反対の運動を起してから、今日の詞でいえば神経が興奮したとでも云うのでしょう。なんだか苛々(いらいら)したような気分になって、今まで可愛がっていた犬などにも眼をくれず、犬の方から尻尾(しっぽ)をふって近寄っても、怖い顔をして追っ払うという風になった。そこへ例の一件が出来(しゅったい)したもんですから、それがまた何だか仔細ありげに云い触らされるようになったのです。一体この事件に限らず、私どもの方ではよくこんな事でいろいろ思い違いや見込み違いをすることがあります。無事の時ならばなんでもないことが、大仰(おおぎょう)に仔細ありげに考えられますから、よっぽど注意しないといけません。探索という上から見れば、髪の毛一本でも決して見逃してはなりませんが、所詮は大体のうえに眼をつけて、それから細かい処へ踏み込んで行かないと、前にも云ったような、飛んだ見込み違いで横道へそれてしまうことがありますよ」

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。