コンテンツにスキップ

半七捕物帳 第六巻/菊人形の昔

提供:Wikisource

菊人形の昔

[編集]

[編集]
『幽霊の観世物(みせもの)』の話が終ると、半七老人は更にこんな話を始めた。
「観世物ではまだこんなお話があります。こんにちでも繁昌している団子坂(だんござか)の菊人形、あれは江戸でも旧(ふる)いものじゃあありません。いったい江戸の菊細工は――などと、あなたがたの前で物識(ものし)りぶるわけではありませんが、文化(ぶんか)九年の秋、巣鴨(すがも)の染井(そめい)の植木屋で菊人形を作り出したのが始まりで、それが大当りを取ったので、それを真似(まね)て方々で菊細工が出来ました。明治以後はほとんど団子坂の一手専売のようになって、菊細工といえば団子坂に決められてしまいましたが、団子坂の植木屋で菊細工を始めたのは、染井よりも四十余年後の安政(あんせい)三年だと覚えています。あの坂の名は汐見坂(しおみざか)と云うのだそうですが、坂の中途に団子屋があるので、いつか団子坂と云い慣(なら)わして、江戸末期の絵画にもダンゴ坂と書いてあります。
そこで、このお話は文久(ぶんきゅう)元年の九月、ことしの団子坂は忠臣蔵の菊人形が大評判で繁昌しました。その人形をこしらえたのは、たしか植梅という植木屋であったと思います。ほかの植木屋でも、思い思いの人形をこしらえました。その頃の団子坂附近は、坂の両側にこそ町家(まちや)がならんでいましたが、裏通りは武家屋敷や寺や畑ばかりで、ふだんは田舎のように寂しい所でしたが、菊人形の繁昌する時節だけは江戸じゅうの人が押しかけて来るので、たいへんな混雑でした。それを当て込みに、臨時の休み茶屋や食い物店なども出来る。柿や栗や芒(すすき)の木菟(みみずく)などの土産物を売る店も出る。まったく平日と大違いの繁昌でした。
ところが、その繁昌の最中に一つの事件が出来(しゅったい)しました。と云うのは、九月二十四日昼八ツ(午後二時)頃(ころ)に、三人づれの外国人がこの菊人形を見物に来たんです。その頃はみんな異人と云っていましたが、これは横浜(よこはま)の居留地に来ている英国の商人で、男ふたりはいずれも三十七八、女は二十五六、なにかの用向きをかねて江戸見物に出て来て、その前夜は高輪(たかなわ)東禅寺(とうぜんじ)の英国仮領事館に一泊して、きょうは上野(うえの)から団子坂へ廻って来たと云うわけで……。勿論(もちろん)、その頃のことですから、異人たちの独り歩きは出来ません。東禅寺に詰めている幕府の別手組(べってぐみ)の侍ふたりが警固と案内をかねて、一緒に付いて来ました。異人三人も別手組ふたりも、みんな騎馬でした。
前にも申す通り、根津(ねず)から団子坂へかかって来ると、ここらは大変な混雑、殊にこんにちと違って道幅も狭いのですから、とても騎馬では通られない。そこで、五人は馬から降りて、坂下の空地をさがして五匹の馬を立ち木につないで置きました。馬丁を連れていないので、別手組のひとりはここに馬の番をしていることになって、他のひとりが異人たちを案内して坂を登って行きました。異人のめずらしい時代ですから、往来の人たちはみんな立停まって眺めている。又そのあとへぞろぞろと付いて来るのもある。そのうち一人の女が男の異人に摺(す)れ違ったかと思うと、素早くそのポケットの紙入れを抜き取った。しかし異人の方でも油断していなかったと見えて、すぐその女を取押さえました。
付いていた別手組もおどろいて、その女を押えると、女は何も取った覚えはないと云う。袂(たもと)や内ぶところや帯のあいだを探しても、紙入れは見付からない。異人はどうしても取ったと云う。女は取らないと云う。なにしろその品物を持っていないんだから、女の方が強味です。女は仕舞いには大きな声を出して、この異人はあたしに云いがかりをする。取りもしないものを取ったと云って、あたしに泥坊の濡衣(ぬれぎぬ)を着せる。皆さんどうぞ加勢をして下さいと、泣き声で呶鳴(どな)るという始末。
異人嫌いの時代ですから、こうなると堪(た)まりません。この毛唐人め、ふてえ奴(やつ)だ。取りもしねえものを取ったと云って、日本人を泥坊扱いにしやあがる。こいつ勘弁が出来ねえと云うので、気の早い二、三人が飛びかかって、その異人をなぐり付ける。さあ、大変です。たちまちに弥次馬が大勢集まって来て、三人の異人を袋叩(ふくろだた)きにするという騒ぎになりました。付添いの別手組もたった一人ではどうすることも出来ない。まさかに刀を抜いて斬(き)り払うわけにも行かないので、騒ぐなとか、静かにしろとか云って、しきりに制しているけれども、弥次馬連はなかなか鎮まらない。そのうちには石を投げ付ける者もあるのでいよいよあぶない。現に異人の男のひとりは、左の頬(ほお)を石に撃たれて血が流れ出した。
なにを云うにも多勢に無勢ですから、こうなったら逃げるようりほかはない。異人たちは真蒼(まっさお)になって坂下の方へ逃げました。別手組も一緒に逃げました。弥次馬連は鬨(とき)の声をあげて追って来る。事の仔細(しさい)をよくも知らないで、相手が異人だから遣(や)っ付けてしまえと、無我夢中で加勢に出て来る者もある。敵はだんだんに殖えて来るばかりで、中には屋根に昇って瓦(かわら)を投げる者がある。石ころでも竹切れでも、薪雑棒(まきざつぼう)でも、手あたり次第に投げつけるのだから防ぎ切れない。異人たち三人も別手組もみな大小の疵(きず)を負って、血だらけになって逃げる。いや、飛んだ災難で気の毒でした。
この騒ぎを聞きつけて、もう一人の別手組が駈(か)けて来たが、これもどうすることも出来ない。早く馬に乗って逃げろと注意したんですが、大勢の敵に隔てられて、馬をつないである空地の方角へ行くことが出来ない。結局、馬は置き捨てにして、命からがら池(いけ)の端(はた)の辺まで逃げました。異人たちはここへ来る途中で何か買物なぞをして来たんですが、それみんな抛(ほう)り出してしまい、帽子もステッキもなくなって、散らし髪の血だらけという姿、実に眼も当てられません。
追って来る連中ももう倦(あ)きたと見えて、途中からだんだんに減ってしまって、池の端まで来る頃には誰(だれ)も付いて来ない。これでまずほっとしたんですが、さて困ったのは馬の一件で、そのままに捨てて帰るわけには行かない。といって、迂闊(うかつ)に引っ返すと又どんな目に遇(あ)うかも知れないので、異人たちは怖がって帰らない。女の異人などは顔の色をかえて顫(ふる)えている。別手組二人で五匹の馬の始末はちっと困ると思ったが、ともかくも牽(ひ)いて来ることにして、二人の侍は元の空地へ戻ってみると、五匹のうちで二匹はゆくえ知れずになっている。この騒ぎにまぎれて、誰かが盗んで行ったに相違ない。一匹は女異人の乗っていた馬で、一匹は別手組の市川又太郎(いちかわまたたろう)をいう人の馬でした。
今更ここで詮議(せんぎ)をしていることも出来ないので、異人たちを三匹の馬に乗せて、ひと足さきへ帰すことにして、別手組の二人はあとから徒歩(かち)で帰りました。これでまあ済んだようなものですが、相手が異人ですから事が面倒になりました。殊に三人ながらみんな顔や手に負傷しているので、東禅寺の方からはむずかしい掛合いを持ち込んで来ました。まさかに償金を出せとも云いませんが、その乱暴者を処分して、今後を戒めるようにしてくれと云うのです。乱暴者の処分と云ったところで、大勢の弥次馬ですから誰が何をしたのか判(わか)る筈(はず)もありません。ただ、捨て置かれないのは、どさくさ紛(まぎ)れの馬泥坊です。異人の馬ばかりでなく、日本の侍の馬まで盗んで行ったんですから、こいつは何とかして探し出さなければなりません。
八丁堀(はっちょうぼり)同心丹沢五郎治(たんざわごろうじ)という人の屋敷へ呼ばれて、半七ご苦労だが働いてくれと云う命令です。まあ、仕方がない。かしこまりましたと請合(うけあ)って帰りました。かんがえて見ると、世の中にはいろいろの事件が絶えないものですね」


[編集]
半七は主な子分らをあつめて評議の末に、皆それぞれの役割を決めた。九月二十六日の朝、自分は子分の幸次郎(こうじろう)を連れて、ともかくも団子坂へ出てゆくと、菊人形は相変らず繁昌していた。別手組の日折が一緒に来てくれると、万事の調べに都合がいいと思ったのであるが、東禅寺警固の役目をおろそかに出来ないと云うので、現場へ同道することを断わられた。
しかし、別手組の人たちから詳しい話を聞いて来たので、まず大抵の見当は付いていた。半七は歩きながら云った。
「馬どろぼうとは別物だろうが、異人の紙入れを取ったとか取らねえとか云う女、それもついでに調べて置く方がよさそうだな」
「そうですね」と、幸次郎もうなずいた。「いずれ女の巾着切(きんちゃっき)りでしょう。異人の紙入れを掏(す)り取って、手早く相棒に渡してしまったに相違ありませんよ。江戸の巾着切りは手妻(てづま)があざやかだから、薄のろい毛唐人なんぞに判るものですか」
二人はそこらの休み茶屋へはいって、茶を飲みながらおとといの噂󠄀(うわさ)を訊(き)くと、ここらの人たちは皆よく知っていた。茶屋の女の話によると、その女は年ごろ二十八九の小粋(こいき)な風俗で、ほかに連れも無いらしかった。彼女(かれ)は騒動にまぎれてどこへか立去ったので、何者であるかを知る者はなかった。
女の人相などを詳しく訊きただして、二人はそこを出ると、幸次郎はすぐにささやいた。
「今の話で大抵わかりました。その女は蟹(かに)のお角(かく)と云って、両腕に蟹を一匹ずつ彫っている奴ですよ」
「そいつの巣はどこだ」
「どこと云って、巣を決めちゃあいねえようですが、お角と判れば調べようもあります」
二人は更に坂下の空地へまわると、秋草の乱れている中に五、六本の榛(はん)の木が立っていた。うしろは小笠原家(おがさわらけ)の下屋敷(しもやしき)で、一方は古い寺の生垣が見えた。一方には百姓の片手間に小商いをしているような小さい店が二、三軒つづいていた。それに囲まれた空地は五六百坪の草原に過ぎないで、芒のあいだに野菊などが白く咲いていた。五匹の馬をつないだのはかの榛の木に相違なく、そのあたりの草むらは随分踏み荒らされていた。
「馬を盗んで行った奴は素人でしょうね」と、幸次郎は云った。「商売人ならば日本馬か西洋馬か判る筈です。西洋馬なんぞ売りに行けばすぐに足が付くから、どうで盗むならば日本馬を二匹牽き出しそうなものだが、そこに気がつかねえのは素人で、手あたり次第に引っ張って行ったのでしょう」
「そうかな」と、半七は首をかしげた。
こんにちと違って、その時代における日本馬と西洋馬との相違は、誰が眼にも容易に鑑別される筈であった。第一に鞍(くら)と云い、鐙(あぶみ)と云い、手綱(たづな)と云い、いっさいの馬具が相違しているのであるから、いかなる素人でも西洋馬と知らずに牽き去るはずがないと、彼は思った。
なにか手がかりになるような拾い物はないかと、一応はそこらを見まわしたが、何分にも草深いので探すことは出来なかった。ともかくも地つづきの百姓家へたずねて行って、その日の様子を訊いてみようと、二人は引返して歩き出そうとする時、幸次郎は小声であっと行った。半七も振向いた。
江戸は繁昌と云っても、その頃の江戸市内に空地はめずらしくなかった。三百坪や四百坪の草原は到る所にある。まして半分は田舎のおような根津のあたりに、このくらいの草原を見るのは不思議でもなかったが、ここの空地は取分けて草が深い。その草のあいだに、古い小さい祠(ほこら)のようなものが沈んで見えるのを、二人は最初から知っていたが、今やかれらを少しく驚かしたのは、祠のうしろから一人の女の姿があらわれ出(い)でたことであった。
女は五十以上であるらしく、片手に小さい風呂敷(ふろしき)包みと梓(あずさ)の弓を持ち、片手に市女笠(いちめがさ)を持っているのを見て、それが市子(いちこ)であることを半七らはすぐに覚(さと)った。市子は梓の弓を鳴らして、生霊や死霊の口寄せをするもので、江戸時代の下流の人びとにはすこぶる信仰されていたのである。その市子が草にうもれた古祠(こし)のかげから突然にあらわれたのは、白昼でもなんだか気味のいいものでは無かった。二人は黙って見ていると、女の方から声をかけた。
「もし、おまえさんがたは何か探し物でもしていなさるのか」
「ええ、落し物をしたので……」と、幸次郎はあいまいに答えた。
「おまえさんがたの探す物は、ここらでは見付からないはずだ」と、老女は笑いながら云った。
「もっと西の方角へ行かなければ……」
市子は占い者や人相見ではない。その口から探し物の方角などを教えられても、おそらく信用する者はあるまい。まして半七らがその忠告をまじめに聴くはずはなかった。
「いや、ありがとう」と、幸次郎も笑いながら答えた。
それぎりで、二人は往来の方へあるき出すと、老女はそのあとを慕うように続いて来た。二人も無言、彼女(かれ)も無言である。草をかき分けて往来へ出て、二人は左へむかって行くと、彼女もおなじく左へむかって来た。彼女はなかなか達者であるらしく、わずかに一間ほどの距離を置いて、男のようにすたすたと歩いて来る。それが自分たちのあとを尾(つ)けて来るようにも思われるので、幸次郎は振返って訊いた。
「おめえはあすこに何をしていたのだ。あの祠を拝んでいたのかえ」
老女は黙っていた。
「あの祠には何が祭ってあるのだ」
「神様です」と、老女は答えた。
「神さまは判っているが、なんの神様だ」
「知りません」
「毎日拝みに来るのかえ」
「あの祠を拝みに行けというお告げがあったので、毎日拝みに来ます」
「おめえの家(うち)はどこだ」
「谷中(やなか)です」
「谷中はどこの辺だ」
「三崎(さんさき)です」
おめえは市子さんかえ」
「そうです」
「商売は繁昌するかえ」と、幸次郎は冗談のように訊いた。
「繁昌します」と、彼女はまじめに答えた。
そんなことを云っているうちに、半七らは百姓家の前に出た。それは片商売に荒物を売っている店で、十歳(とお)ばかりの男の児(こ)が店の前に立っていたが、半七らを見ると慌てて内へ逃げ込んだ。それに構わずに、二人は店へずっとはいると、三十二三の女房が奥の障子をあけて出た。彼女はまず子供を叱(しか)った。
「なんだねえ、お前は……。お客さまが来たのに、逃げることがあるものか」
「狐使(きつねつか)いだよ」と、男の児は表を指さすと、女房も表をちょっと覗(のぞ)いて、ふたたび子供を窘(たしな)めるように叱った。
男の児は半七らを恐れたのではなく、そのあとから付いて来た市子を恐れているのであろう。その口から洩(も)れた「狐使い」の一句が半七らの注意をひいて、二人は一度は表をみかえると、市子の老女は、かれらにうしろを見せて谷中の方角へだどって行った。
「あの市子は狐を使うのかえ」と、半七は訊いた。
「よく知りませんが、そんな噂󠄀があります」と、女房は答えた。
「ここらへも始終来るのかえ」
「この頃は毎日のようにここへ来て、あの祠を拝んでいるので、ここらの者は気味悪がっています」
「あの空地の祠はなんだね」
「わたくしも子供の時のことですから、詳しい話は知りませんが、あの空地のところは臼井様(うすいさま)とかいう小さいお旗本のお屋敷があったそうです」と、女房は説明した。「なにかの訳で殿様は切腹、お屋敷はお取潰(とりつぶ)しになりまして、その以来二十余年もあの通りの空地になっています。その当座は祟(たた)りがあるとか云って、誰も空地へはいる者もなかったのですが、この頃は子供たちが平気で蜻蛉(とんぼ)やばったなぞを捕りに行くようになりました。祠はその臼井様のお屋敷内にあったもので、お屋敷がお取払いになる時にもそのままに残ったのですから、一体なにを祭ってあるのか誰も知っている者もありません。ご覧の通り荒れ果ててしまって、自然に立ち腐れになるのでしょう。仮りにも神様と名のつくものを打っちゃって置くのも良くないから、なんとか手入れをしようかと云う人もあるのですが、障らぬ神に祟り無しで、うっかりした事をして何かの祟りでもあるといけないと云うので、まあそのままにしてあります。そこへこの頃あの市子さんが毎日ご参詣(さんけい)に来るのですが、狐を使うなぞという噂󠄀のある人だけに、なんだか気味が悪いと近所の者も云っています。子供たちまでその姿をみると、狐使いが来たと云って逃げるのです」
「市子さんの名は何を云うのだね」
おころさんと云うそうです」
「おころ……。めずらしい名だな」
半七らの詮議は市子や狐使いでない。そんなことは出先の拾い物に過ぎないのであるから、その詮索はこのくらいに打切って、二人はかの異人の一件について話し出した。
「おとといは大騒ぎだったと云うじゃあねえか」と、半七は何げなく訊いた。
「ええ、たいへんな騒ぎでした」と、女房はうなずいた。「異人を殺してしまえと云って、大勢が追っかけて来るので、どうなる事かと思いました。それでもまあみんな無事に逃げたそうです」
「五人の馬はそこの空地につないであったのかえ」
「そうです。そのうちの二匹がなくなったと云うのですが、どうしたのでしょうかね」
異人の騒ぎで、ここらの者はいずれも家(うち)を空明(がらあ)きにして駈け出した。その留守のあいだに、二匹の馬が紛失したのであるから、誰が牽き出したのか知っている者もない。別手組の侍が来ていろいろ詮議したが、誰も答えることが出来なかったと、女房は話した。
「年増(としま)のおんなが引っ張って行ったなんて云いますけれど、それもどうだか判りません」と、彼女はさらに付け加えた。
「女が引っ張って行った……」と、半七は訊きかえした。「それを誰か見たものがあるのかえ」
「いいえ、おれが確かに見たと云う者もないので……。誰が云い出すと無しに、そんな噂󠄀を聞きますが……。まさかに女が……。ねえ、お前さん」
女房はその噂󠄀を信じないように云った。

[編集]
半七と幸次郎は荒物屋の店を出て、再びかの空地のまん中に立った。五六百坪のところに屋敷を構えていたのであるから、昔ここに住んでいたと云う臼井なにがしはよほどの小旗本であろう。武家屋敷のうちに祭られているのは、まず稲荷(いなり)の祠が普通である。二人はその祠の正体を見とどけることにして、草の奥へ踏み込んで行った。
「ねえ、親分」と、幸次郎はあるきながら云った。「荒物屋のかみさんは気のないように云っていましたが、おんなが馬を引っ張って行ったと云うのも、聞き流しにゃあ出来ねえようですね。もしやお角じゃあありますめえか」
「おれも何だかそんな気がしねえでもねえ。勿論、最初から企(たくら)んだことでもあるめえが、どさくさまぎれの出来ごころで馬を引っ張り出したかも知れねえ。しかし女ひとりで二匹の馬を牽き出すのは、ちっと手際がよすぎるようだ。相棒の巾着切りが手伝ったのだろう」
「そうでしょうね。なに、お角の在所(ありか)が判れば、その相棒も自然に知れましょう」
云ううちに、二人は古祠の前に行き着いた。祠は間口九尺にも足りない小さい建物であるが、普請は相当に堅固に出来ていると見えて、二十年以上の雨風に晒(さら)されているにも拘(かかわ)らず、柱や扉などは案外にしっかりしているらしかった。扉をあけて覗くと、神体はすでに他へ移されたのであろう、古びた八束台(やつかだい)の上に一本の白い幣束(へいそく)が乗せてあるだけであった。その幣束の紙はまだ新しかった。
「ご幣は市子が納めたのだな」
半七はさらに隅ずみを見まわしたが、煤(すす)びた古祠のうちには何者も見いだされなかった。二人は祠のうしろへ廻って、草のあいだを暫(しばら)くあさりあるいたが、そこにも別に掘出し物はなかった。
「まあ、仕方がねえ。ここはこの位にして、いったん引揚げよう。おめえはそのお角という女の居どころを突き留めてくれ。おれはこれから足ついでに谷中へ廻って、三崎をうろ付いてみよう」
幸次郎に別れて、半七は谷中の方角へ足を向けた。千駄木(せんだぎ)の坂下から藍染川(あいぞめがわ)を渡って、笠森稲荷(かさもりいなり)を横に見ながら、新幡随院(しんばんずいいん)のあたりへ来かかると、ここらも寺の多いところで、町家は門前町(もんぜんまち)に過ぎなかった。その寺門前で市子のおころの家を訊くと、彼女(かれ)は蕎麦屋(そばや)と草履屋のあいだの狭い露路のなかに住んでいることが判った。
おころは孀婦(やもめ)ぐらしの独り者で、七、八年前からここへ来て、市子を商売にしている。別に悪い噂󠄀もないが、一種の変り者でほとんど近所の付合いをしない。彼女が狐を使うという噂󠄀は五、六年前にも一度伝えられたが、その噂󠄀もいつかやんだ。それがこの春頃から再び伝えられて、彼女は尾先狐(おさきぎつね)を使うとか、管狐(くだぎつね)を使うとか云う噂󠄀が立った。しかし彼女はいわゆる狐使いのように、自分の狐を放して他人に憑(つ)かせるなどと云うことはしないらしく、ただその狐の教えに依(よ)って、他人(ひと)の吉凶禍福や失せ物、または尋ねびとのありかを占うに過ぎないのである。したがって、別に他人に害をなすと云うのではないが、ともかくも狐使いの名がその時代の人びとを恐れさせて、彼女が付合いを好まないのを幸いに、近所の者も彼女と親しむことを避けていた。
そんなわけであるから、近所の者も彼女が出這入(ではい))りの姿を見るだけのことで、そのふだんの行状などについては多くを知らないと云うのである。半七は露路へはいっておころの家を窺(うかが)うと、江戸のまん中と違ってここらの露路の奥は案外に広かった。入口の狭いにも似ず、そこはかなりの空地があって、近所の人たちの物干場になっていた。おころの家には格子がなく、入口は明け放しの土間になっていたが、それでもふた間くらいの小ぢんまりした住居で、家内も綺麗(きれい)に片付いているらしかった。おころはさっき一度帰って来て、すぐまた出て行ったと、隣りの女房が話した。
半七はその女房をつかまえて、おころのことを何か聞き出そうとしたが、壁ひとえの隣りに住みながら彼女はなんにも知らないと云った。ただその女房の口からこんなことが洩らされた。
「よくは知りませんが、おころさんには息子があって、どこかの屋敷奉公をしているそうです」
「その息子は時どき訪ねて来ますかえ」
「めったに来たことはありませんが、一年に二、三度くらいは訪ねて来るようです」
「屋敷奉公といっても侍じゃああるめえ。足軽か中間だろうね」
「まあ、そうでしょうね」
「ここの家(うち)へ占いを頼みに来る人がありますかえ」と、半七は訊いた。
「ここへ頼みに来る人は少ないようです。大抵は自分の方から出て行くのです」
「それじゃあ狐を連れて行くのだね」
「そうかも知れません」
余り多くを語るをはばかるように、女房は口を噤(つぐ)んだ。半七もいい加減に打切ってそこを出た。おころという女がたとい狐を使うとしても、他人に格別の害をあたえない限りは、そのまま見逃して置くのがその時代の習いであるから、これだけの材料ではどうする事も出来ないのである。きょうは取留めた獲物も無しに、半七は神田(かんだ)の家へ帰った。
取留めた獲物は無いと云っても、どこかの女が彼(か)の馬を牽き出したらしいという噂󠄀と、おころの息子が屋敷奉公をしているという噂󠄀と、この二つを結びつけて半七は何事をか考えさせられたのであった。
その晩に亀吉(かめきち)が来た。その報告によると、けさから方々の博労(ばくろう)を問いあわせてみたが、どこへも馬を売りに来た者は無いらしいと云うのである。馬を盗む以上は、どこへか売りに行くのが普通であるが、あるいは詮議を恐れて当分は隠して置くのかも知れないと思われた。
あくる日の午(ひる)過ぎに幸次郎が来た。
「お角の居どころは知れました。浅草(あさくさ)の茅町(かやちょう)一丁目、第六天(だいろくてん)の門前に小さい駄菓子屋があります。おそよという婆さんと、お花(はな)という十三四の孫娘の二人暮らしで、その二階の三畳にお角はくすぶっているのです」
「商売は巾着切りか」と、半七は訊いた。
「若い時から矢場女(やばおんな)をしたり、旦那取(だんなど)りをしたり、いろいろのことをやって来たようですが、この頃は決まった亭主も無し、商売も無し、まあ巾着切りが本職でしょうね。女のくせに酒を飲む、博奕(ばくち)を打つ、殊に博奕が道楽と来ているのだから、他人(ひと)の巾着を稼いだぐらいじゃあ、あんまり旨(うま)い酒も飲めねえようですよ。それでもこの七月頃にゃあ、近所の近江屋(おうみや)という呉服屋の通い番頭を引っかけて、蟹の彫物の凄(すご)いところを見せて、三十両とか五十両とか捲(ま)き上げたそうです。駄菓子屋の婆さんも近所の手前、お角の評判の悪いのに困り切って、なんとかして追い出そうとしているが、お角がなかなか動かねえので持て余しているらしく、わっしにも頻(しき)りに愚痴を云っていましたよ」
「人の目につかねえ為でもあろうが、駄菓子屋の三畳にくすぶっているようじゃあ、お角という女もあんまり景気がよくねえと見えるな」と、半七は笑った。「だが、異人の紙入れに幾らあったかな。勿論、こっちの金に両替えしてあったろうが、外国の金だったら使い道はあるめえ。うっかり両替屋に持って行ったら藪蛇(やぶへび)だ。巾着切りの方は現場を見たわけでもねえから仕様がねえが、例の馬の一件、それが確かにお角の仕業だかどうだか、今のところじゃあ一向に手がかりがねえ。そこで、お角の相棒はどんな奴だ」
「駄菓子屋の婆さんの話じゃあ、色男だか相掏(あいす)りだか知らねえが、いろいろの男が四、五人たずねて来るそうで……。時によると、その狭い三畳で賽(さい)ころを振ったりするので、婆さんもひどく弱っているようでしたよ。来る奴らの居どこも名前も、婆さんはよく知らねえのですが、そのなかで一番近しく出入りをするのは、長(ちょう)さんと平(へい)さん……。平さんというのがお角の男らしいと云うのですが……」
「そいつの居どこもわからねえのか」
「確かにはわからねえが、その平公は何でも本郷片町(ほんごうかたまち)辺の屋敷にいる奴だそうで……」
「本郷の屋敷にいる……」
半七は偶然の掘出し物をしたように感じた。市子のおころの息子は屋敷奉公をしていると云う、それがもしやこの平さんなる者ではないかと思い泛(う)かんだのである。たとい取留めた証拠はなくとも、探索はこんな頼りないようなことを頼りにして、根よくあさって行くのが成功の秘訣であることを、半七は多年の経験によってよく知っていた。
しかし本郷片町というだけでは、どこの屋敷であるか判らない。平さんというだけでは、その人間を探し当てることも困難である。お角を調べたところで、それを素直に云う筈はない。さしあたりは駄菓子屋の近所に網を張って、平さんなる者の出入りを窺うのほかは無い。気の長い仕事のようであるが、まあ我慢して張り込んでくれと、半七は幸次郎に云い含めた。
「如才もあるめえが、そいつの帰る時に尾けて行って、なんという屋敷の何者だか突き留めるのだぜ」
「承知しました」
幸次郎は請合って帰ったが、それから二日ばかりは音沙汰もなかった。亀吉と善八は手を分けて近在までを詮議していたが、どこへも馬を売りに来たという噂󠄀を聞かなかった。ほかの物と違って、生馬を戸棚や縁の下に隠して置けるはずもないのであるから、近在の大きい農家か武家屋敷のうちにつないであるに相違ないと半七は鑑定して、亀吉らにもその注意をあたえて置いた。
十月朔日(ついたち)の朝である。けさは急に冬らしい風が吹き出したと云っているところへ、松吉が息を切って駈け込んで来た。
「親分。おころという市子が殺されました」


[編集]
松吉の報告によると、おころの死体はけさの六ツ半(午前七時)頃に、近所の人びとに発見された。但し谷中の自宅に死んでいたのではなく、かの団子坂下の空地に倒れていたのである。
その死体は古祠の前に横たわっていたが、よほど激しい格闘を演じたらしく、彼女(かれ)は髪をふり乱し、着物の胸をはだけて、かた手に白い幣束を持ちながら、仰向(あおむ)けに倒れていた。彼女はその顔をめちゃめちゃに掻(か)きむしられた上に、喉(のど)を絞められていたのであるが、その死因がすこぶる怪しかった。喉を絞められたと云うよりも、三枚の長い鋭い爪で頸(くび)の左右を強く刺されたような形で、爪のあとが皮肉のなかに深く喰(く)い込んでた。鋭い爪に脈を破られたと見えて、頸のあたりから流れ出した血汐(ちしお)が枯草を紅(あか)く染めていた。
死に場所といい、その死にざまの怪しいのを見て、狐使いの彼女が狐に殺されたのであろうと、近所の者はおどろき恐れた。彼女は狐を夫にしていたが、近ごろほかに情夫(おとこ)をこしらえた為に、狐が怒って彼女を殺したのであると、まことしやかに云い触らす者もあった。彼女は自分の商売の種を使いながら、碌々(ろくろく)に毎日の食い物もあたえないので、狐が怨(うら)んで彼女を殺したのであると伝える者もあった。いずれにしても、怪しい市子の怪しい死について、いろいろの怪奇な浮説がそれからそれへと伝えられているのは事実であった。
「なにしろすぐに行ってみよう」
松吉を連れて、半七は早々に団子坂へ駈けつけると、おころの死体は今や検視を終ったところであった。検視に出張ったのは、あたかもかの丹沢五郎治で、彼は半七の顔を見るとすぐに声をかけた。
「半七、早えな。又ここで変なことが始まったよ。この草ッ原はどうも鬼門だ」
「まったく困りました」
半七は挨拶(あいさつ)して、草のあいだに横たわっているおころの死体を一応あらためた。おころは大きい眼をむき出しにして死んでいた。
「狐に殺されたという噂󠄀だが、まさかにそんなこともあるめえ」と、丹沢は云った。「だが、爪のあとがちっとおかしい。まあ、よく調べてくれ。頼むぜ」
検視の役人はやがて引揚げて、市子の死体は長屋の者に引渡された。おころには息子があるらしいが、どこに住んでいるか判らないので、報(しら)せてやることも出来た。相長屋の人たちがあつまって通夜をして、翌日近所の寺へ葬ることになった。
その通夜の晩に、亀吉はおころの露路の近所をうろ付いていた。半七と松吉は荒物屋の店を足だまりにして、かの空地のあたりを見張っていた。
夜も九ツ(午後十二時)を過ぎた頃であろう。昼からの風は宵にやんだが、夜ふけの寒さは身に沁(し)みるので、半七と松吉は小さい火鉢に炭団(たどん)を入れてもらって、荒物屋の店の隅にすくんでいると、縁の下には鳴き弱ったこおろぎの声が切れぎれにきこえた。やがて表の暗いなかで犬の吠(ほ)える声がきこえた。つづいて二匹三匹の吠える声がきこえた。
「忌(いや)ですね。ゆうべも夜なかに犬が吠えました」と、店の女房がささやいた。
それを聞きながら、二人は起(た)ちあがった。月のない夜ではあるが、星の光りはきらめいている。それをたよりに跫音(あしおと)をぬすんで忍び出ると、犬の声は次第に近づいて、その犬の群れに追われながら、一つの黒い影が忍んで来るらしかった。注意して窺うと、犬の声はかの草原の方角にむかって行くのである。枯草を踏む犬の跫音ががさがさと聞えるので、人の跫音は確かに聞きわけかねたが、何者かが草原の奥へ忍んでゆくに相違ない。二人は息を殺して尾けてゆくと、犬の声はかの古祠のあたりに止まった。
ここまで来ると、犬はみな吠えなかった。かれらはただ低く唸(うな)るばかりであった。黒い影は祠の前で何事をしているのか、半七らの眼には見えなかった。この上はもう猶予すべきでない。半七は突然に声をかけた。
「もし、おまえさんは誰だね」
相手は返事をしなかった。
「wshしらは御用でここに張り込んでいるのだ。返事をしねえと、捕(つかま)えるよ」と、半七はふたたび云った。
相手はやはり返事をしなかった。
二度までも念を押して、相手が黙っている以上、手捕りにするのほかはないので、松吉は探り寄って取押えようとすると、相手はいつの間にか摺り抜けてしまったらしく、そこらに人らしい物はいなかった。
「いねえか」と、半七は小声で訊いた。
「はてな」と、松吉はそこらを探し廻っていた。
この時、犬の群れはまた吠え出して、何者かが草の上を這って行くらしいので、半七は走りかかって押え付けた。暗いなかで、その腰のあたりへ手をかけたかと思うと、相手は急に跳ね起きて両手で半七の喉を絞めようとした。半七はその手を取って、ふたたび草の上に捻(ね)じ伏せた。
「つかめえましたか」と、松吉は声をかけた。
「仕様がねえ。石橋山(いしばしやま)の組討だ」と、半七は笑った。「だが、もう大丈夫。女だ、女だ」
半七と松吉に引摺られて、荒物屋の店の灯の前に照らし出された曲者(くせもの)は、六十前後の老女であった。その人柄や身装(みなり)によって察すれば、彼女もおころと同様に市子か巫子(みこ)のたぐいであるらしかった。
店の框(かまち)に腰をかけながら、半七は訊いた。
「おめえはどこの者だ」
「信州(しんしゅう)から来ました」と、老女は案外におとなしく答えた。
信州といえば、戸隠山(とがくしやま)の鬼女を想像させるが、彼女はそのやつれた顔に一種の気品を具(そな)えていた。その物云いや行儀も正しかった。
「名は何といって、いつから江戸へ来ているのだ」
「お千(せん)と云います。江戸へはこの六月に出て来ました」
「それまで国にいたのか」
「いいえ。江戸へ一度出て来まして、それから出羽奥州(でわおうしゅう)、東海道(とうかいどう)、中仙道(なかせんどう)、京(きょう)、大坂(おおさか)、伊勢路(いせじ)から北国筋へまわって、十一年目に江戸へ来ました」
「なんでそんなに諸国を廻っていたのだ」
「尋ねる人がありまして……」
「たずねる人と云うのは……。市子のおころか」
「はい」
老女の眼は怪しく輝いた。
「ゆうべおころを殺したのはお前だな」
「はい」と、彼女は素直に白状した。
「今夜はここへ何しに来た」
「狐を取りに来ました」
膝(ひざ)の上に置いた彼女の両手の爪は、天狗のように長く伸びていた。取分けて人差指と中指と無名指(くすりゆび)の爪が一寸以上も長く鋭く伸びているのを見ると、おころの死因も容易に想像された。半七も危くその恐ろしい爪にかかるところであった。半七も危くその恐ろしい爪にかかるところであった。
「おまえも狐を使うのか」
「使います。おころはわたくしの狐をぬすんで逃げたのです」
お千は若いときから信州のある神社の巫子であったが、二十歳(はたち)を越えてから巫子をやめて、市子を自分の職業としていた。彼女(かれ)は一生独り身であった。彼女自身の申立てによると、彼女は一匹の管狐を養っていた。管狐は決してその姿を見せず、細い管のなかに身をひそめているのである。彼女は市子を本業としながら、その管狐の教えによって他人(ひと)の吉凶を占っていた。
あしかけ十一年の昔である。彼女は江戸へ出ようとして、信州から甲州へさしかかって石和(いさわ)の宿(しゅく)まで来た時に、風邪(かぜ)をこじらせて高熱に仆(たお)れた。それは木賃(きちん)同様の貧しい宿屋に泊った時のことで、相宿(あいやど)の女が親切に看病してくれた。女はかのおころで、同商売といい、女同士といい、その親切に油断して、管狐の秘密をおころに話した。それから半月ほどの後、お千がどうやら起きられるようになった頃に、おころはかの管狐をぬすんで逃げた。
それを知って、お千は狂喜の如くに怒った。彼女は病み挙げ句の不自由な身をおこして、すぐにおころの後を追いかけたが、そのゆくえは知れなかった。ともかくも江戸へ出て半年あまりも探しあるいたが、おころの在所(ありか)は遂に判らなかった。しかも彼女の決心は固かった。命のあらん限りは尋ねあるいて、どうしても管狐を取戻さなければ置かないと、それから足かけ十一年、ほとんど日本の半分以上をさまよい歩いて、ことしの六月、ふたたび江戸の土を踏んだのである。
かたきを尋ねる者は結局どこかでめぐり逢(あ)うと、昔から云い伝えている通り、彼女(かれ)は九月のはじめに、上野の広小路(ひろこうじ)でおころの姿を見つけた。ひそかにそのあとを尾けて行って、彼女が谷中の三崎に住んでいることを突きとめた。おころも最初はシラを切って、それは人違いであると云い抜けようとしたが、お千に激しく責めらあれて、彼女もとうとう白状した。彼女はその後二、三年のあいだ、伊豆相模(いずさがみ)のあたりを徘徊(はいかい)して、それから江戸へ戻って来たのである。しかし管狐を自分の家へ置くことは何だか気味が悪いばかりでなく、狐も人家に近いところに住むのを嫌うので、なるべく人家に遠いところを択(えら)んで養っていた。それも同じ場所では人の目につく虞(おそ)れがあるので、時どきに場所を変えることにして、この頃は道灌山(どうかんやま)の辺に隠してあるから、いずれ持ち帰ってお前に戻すと誓ったので、お千もいったんは得心して帰った。
「おころは狐を返したか」と、半七は訊いた。
「返しません」と、お千の窪(くぼ)んだ眼はいよいよ異様にかがやいた。「わたくしも油断なく気をつけていますと、道灌山に隠してあると云うのは嘘(うそ)で、ほかに隠してあるらしいのです。その上に、わたくしが幾たび催促しても返しません。きのうの夕方、池の端で逢いましたから、きょうこそは勘弁ならないと厳しく催促しますと、実は団子坂の空地の古祠のなかに隠してあるから、夜更けに行って取出すと云うのです。それでは九ツ過ぎに逢おうと約束しまして、その時刻にこの空地へ来てみますと、おころは、ひと足さきに来ていました。そこで祠の扉をあけると狐はいません。いつの間にか逃げたらしいと云うのでうsが、わたくしは本当にしません。わたくしを騙(だま)して、又どこへか隠したに相違ないとおころを激しく責めましたが、おころはどうしても知らないと云う。もういよいよ勘弁が出来なくなりましたから、その場で殺してしまいました」
「そこで、今夜は何しにここへ来たのだ」
「おころを殺しましたが、狐のありかは判りません。やっぱりここに隠してあるのかと思って、念のためにもう一度さがしに来たのです」


「まずこれで埒(らち)がきました」と、半七老人は笑った。
「そこで、馬の一件はどうなりました」と、わたしは訊いた。
「五、六日の後に幸次郎が平吉(へいきち)という奴を挙げて来ました。それがすなわち平さんというので、本郷片町の神原内蔵之助(かんばらくらのすけ)という三千石取りの旗本屋敷の馬丁でした。っこいつはちょっと苦み走った小粋な男で、どこかの賭場(とば)でお角と懇意になって、それから関係が出来てしまったんです。お角のところへたずねて来たのを、張り込んでいる幸次郎に見付けられて、あとを尾けられたのが運の尽きです。それからだんだん探ってみると、異人の馬は神原の屋敷の廐(うまや)につないであることが判りました」
「じゃあ、主人も承知なんですか」
「承知なんです。と云うと、主人の神原も馬泥坊のお仲間のようですが、それには訳があります。神原という人は馬術の達人で、近授流(きんじゅりゅう)の免許を受けていました。近授流というのは一場藤兵衛(いちばとうべえ)が師範で、文政(ぶんせい)の末に一場家滅亡と共にいったん断絶したのですが、天保(てんぽう)以後に再興して、その流儀を学ぶ者が出来ました。ご承知でもありましょうが、武家が馬術を学ぶのは自分の嗜(たしな)みにすることで、師範の家は格別、普通の者は馬術がよう出来るからといって立身出世することは出来ません。それですから、ひと通り以上に馬術を稽古(けいこ)するのは、馬に乗ることが好きだと云う人で、云わば本人の道楽です。神原は三千石の大身(たいしん)で、馬に乗るのが大好きでした。同じ道楽でも、武士としてはまことに結構な道楽で、広い屋敷内に馬場をこしらえて毎日乗りまわし、時には方々へ遠乗りに出る。廐には三匹の馬を飼って、二人の馬丁を置いていました。そのなかでも平吉がお気に入りで、遠乗りの時なぞには大抵この平吉がお供をしていました。
いつぞやお話をした『正雪の絵馬』と同じように、道楽が昂(こう)じると、とかくに何かの間違いが起り易いものです。神原という人も決して馬鹿な人物ではなかったんですが、好きなことには眼がくらむ。このごろ異人が日本んへ渡って来て、西洋馬に乗り歩くのを見ると、馬も立派であり、馬具のたぐいも珍らしい。といって、その当時にはいくら金を出しても、西洋馬や西洋馬具を手に入れることは出来ない。おれもああいう馬に西洋鞍を置いて一度乗り廻してみたいと、よだれを垂らしながら眺めているのほかはありません。
そのうちに、かの団子坂の騒動が起って、そこへちょうど馬丁の平吉が通りあわせました。見ると、空地には西洋馬三匹と日本馬二匹がつないである。どさくさまぎれにこれを盗んで行けば、殿様もよろこぶに相違ない。こういうと、大へん忠義者のようですが、実は殿様からご褒美をたんまり頂戴しようという慾心が先に立って、一匹の西洋馬をこっそりと牽き出しました。西洋馬にしましても、こっちは本職の馬丁ですから馬の扱い方には馴(な)れているので、難なく牽いて出かけるところへ、お角が来かかったのです」
「異人の紙入れを掏ったのは、やっぱりお角でしたか」
われわれの想像通り、蟹のお角でした。お角もあんな騒ぎになろうとは思わなかったんでしょうが、なにしろそれが勿怪(もっけ)の仕合せで、これもどさくさ騒ぎにまぎれてその場を立去る途中、西洋馬を牽いて来る平吉に出逢ったのです。おや、平さん、その馬はとお角が声をかけると、平吉は眼で制して、おめえも一匹引っ張って来いと、冗談半分に云って行き過ぎると、お角もひどい奴、女のくせに平吉の真似をして、これも日本馬を一匹牽き出して行ったというわけです。誰が云い出したのか知りませんが、年増の女が馬を牽いて行ったという噂󠄀は、決して噓ではなかったのです。
それから本郷の屋敷へ牽いてゆくと、主人の神原も少しおどろきました。異人の馬を盗んで来るなぞは、もちろん良くないに決まっている。そこで平吉を叱って、元へ返すように指図すればいいんですが、さてそこが道楽の禍いで、平生から欲しい欲しいと思っていた西洋馬や西洋馬具を眼の前に見せられると、たまらなく欲しいような気もする。平吉もそばから勧める。結局その気になって、神原は西洋馬を自分の廐につないで置くことにしました。屋敷内の馬場を乗り廻っているだけならば大丈夫、表へ乗り出さなければ露顕する気遣いはないと多寡をくくっていた。平吉はその褒美に十五両貰(もら)ったそうです。しかし日本馬は主人の気に入らない。むやみに売りに行けば、それから足が付く虞れがあるので、平吉は浅草あたりの皮剝屋(かわはぎや)へ牽いて行って、捨て値に売ってしまいました。殺して太鼓の皮に張るのです。
こうして日本馬は処分してしまい、西洋馬は旗本屋敷の廐にはいってしまえば、容易に知れそうも無い理窟ですが、やっぱり悪いことは出来ないもので、その秘密もたちまち露顕することになりました。
さっきもお話し申した通り、お角の借りている駄菓子屋の二階へは、長さんと平さんが一番近しく来ると云う。その長さんは長蔵(ちょうぞう)という奴で、お角が巾着切りの相棒です。こいつもお角に気があるんですが、お角は平吉ばかりを可愛がって、長蔵の相手にならない。幸次郎はこの長蔵を取っ捉(つか)まえて詮議すると、こいつは馬の一件は大抵知っている。そこで平吉に対するやきもちから、自分の知っているだけの事をべらべら喋(しゃべ)ってしまいました。昔から色恋の恨みはおそろしい。こいつが喋ったので何もかも露顕しました。
しかし相手が大身の旗本ですから、町方が迂闊に手を出すことは出来ません。そこで、町奉行所から神原家の用人をよび出して、その屋敷の馬丁平吉は行状よろしからざる者であるから、長の暇(いとま)を出したらよかろうと内々で注意しました。こう云われれば胸に釘で、用人もぎっくり堪(こた)えます。承知の上で屋敷へ帰って、平吉には因果をふくめて暇を出すと、門の外には幸次郎が待っていて、すぐ御用……」
「主人はどうなりました」
「本来ならば主人にも何かのお咎めもある筈ですが、もともと悪気でしたことでも無し、殊に幕末多事の際で、幕府も譜代の旗本を大事にする折柄ですから、馬を取返されただけのことで、そのまま無事に済んでしまいました。神原内蔵之助という人は、維新の際に用人堀川十兵衛(ほりかわじゅうべえ)と一緒に函館(はこだて)へ脱走して、五稜郭(ごりょうかく)で戦死したそうですから、本人としては馬泥坊の罪を償ったと思っていたでしょう」
「平吉はおころという女の息子ですか」
「おころの忰(せがれ)でした。しかし馬の一件と、狐の一件とはなんの係り合いも無かったのです」
「狐を馬に乗せたと云うわけですね」
「はは、しゃれちゃいけない。いや、その馬を取返すのが面白い。神原の屋敷から表向きに牽き出しては、事が面倒です。そこで、夕がたの薄暗い時分に、本郷の屋敷の裏門からそっと牽き出して、かの団子坂の空地に放して置くと、町方の者が待っていて牽いて帰る。つまりは、馬がどこからか戻って来て、元の空地に迷っているのを取押さえたと云うことにして、外国側へ引渡したのです。気の毒なのは別手組の侍で、この人の馬はもう皮を剝がれてしまったので、どうにも取返しが付きませんでした」
「お角はどうなりました」
「蟹のお角、これに就いてはまだいろいろのお話がありますが、この一件だけを申せば、幸次郎が平吉を召捕ると同時に、善八が茅町の駄菓子屋へ向ったところ、お角は早くも風をくらって、どこへか姿を隠しました」
最後に残ったのは、狐使いの問題である。それについて半七老人はこう説明した。
「今どきのかたがたにお話し申しても、とても本当にはなさるまいが、江戸時代には狐使いという者がありました。それにも種類があるんですが、まず管狐というのを飼っているのが多い。細い管のおなかに潜んでいて、滅多にその姿を見せないが、その狐がいろいろのことを教えてくれるので、狐使いは占いのようなことをやる、時にはその狐を他人(ひと)に憑けることもあると云うので、恐れられたり忌(いや)がられたりするのです。しかしその狐にはいろいろの供え物をしなければならないので、狐使いは一生貧乏すると云い伝えられました。
おころが死んでしまったので、問題の管狐はどうなったか判りません。どこにか隠してあるのか、逃げてしまったのか、そんなものが本当にあるか無いのか、それらのことも判りません。お千はきっとどこにか隠してあるに相違ないと云っていました。人殺しですから、当然死罪になりそうなものでしたが、遠島で落着(らくぢゃく)しました。女牢(おんなろう)にいるあいだにも、今に狐が迎えに来てくれるなぞと云って、相牢の女どもを怖がらせていたそうですが、島へ行ってからどうしたか、あとの話は聞きません。
わたくしも暫く団子坂へ行きませんが、新聞なぞを見ると、菊細工はますます繁昌して、人形も昔にくらべるとたいへん上手に出来ているようです。しかし団子坂の菊人形を見物に行く明治時代の人たちは、三十余年前にここで異人を殺してしまえと騒いだり、狐使いが殺されたりした事を夢にも知りますまい。世の中はまったく変りました。異人だの狐使いだのという言葉さえも消えてしまいました。菊人形の噂󠄀を聞くたびに、わたくしはその昔のことが思い出されます」
古歌に「月やあらぬ、春やむかしの春ならぬ、わが身ひとつは本(もと)の身にして」とある。半七老人の感慨もそれに似たものがあるらしい。わたしもさびしい心持で、この筆記の筆をおいた。

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。