半七捕物帳 第五巻/ズウフラ怪談

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ズウフラ怪談[編集]

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まず劈頭(へきとう)にズウフラの説明をしなければならない。江戸時代に遠方の人を呼ぶ機械があって、俗にズウフラと云う。それに就いて、わたしが曖昧(あいまい)の説明を試みるよりも、大槻文彦(おおつきふみひこ)博士の『言海(げんかい)』の註釈(ちゅうしゃく)をそのまま引用した方が、簡にして要を得ていると思う。言海の「る」の部に、こう書いてある。
――ルウフル(蘭語Roeperの訛(なまり))遠き人を呼ぶに、声を通はする器、蘭人の製と伝ふ。銅製、形ラッパの如く、長さ三尺余、口に当て、呼ぶ。訛(か)して、ズウフル、呼筒。――
「江戸時代にも、ズウフルというのが本当だと云っている人もありました」と、半七老人は云った。「しかし普通にはズウフラと云っていました。博士のお説によると、ルウフルが訛(なま)ってズウフル。それがまた訛ってズウフラとなったわけですが、これだから昔の人は馬鹿にされる筈ですね。はははははは。我われズウフラ仲間は今さら物識りぶっても仕方がない。やはり云い馴(な)れた通りのズウフラでお話をしますから、そのつもりでお聴きください。
あなたがたは無論ご承知でしょうが、江戸時代の滑稽本に『八笑人(はっしょうじん)』『和合人(わごうじん)』「七偏人(しちへんじん)』などというのがあります。そのなかの『和合人』――龍亭鯉丈(りゅうていりじょう)の作です――第三篇に、能楽仲間の土場六、矢場七という二人が、自分らの友達を嚇(おど)かすために、ズウフラという機械を借りて来て、秋雨の降るさびしい晩に、遠方から友達の名を呼ぶので、雨戸を明けてみると誰もいない。戸を閉めて内へはいると、外からまた呼ぶ。これは大かた狸(たぬき)の仕業であろうと云うので、臆病(おくびょう)の連中は大騒ぎになるという筋が面白おかしく書いてあります。その『和合人』第三篇は、たしか天保(てんぽう)十二年の作だと覚えていますから、これからお話する人たちも『和合人』のズウフラを知っていて、それから思い付いた仕事か、それとも誰の考えも同じことで、自然に一致したのか、ともかくズウフラがお話の種になるわけで、ズウフラ怪談とでも申しましょうか」


安政(あんせい)四年九月のことである。駒込(こまごめ)富士前町(ふじまえちょう)の裏手、俗に富士裏(ふじうら)というあたりから、鷹匠屋敷(たかじょうやしき)の附近にかけて、一種の怪しい噂󠄀(うわさ)が立った。ここら一円はすべて百姓地で、田畑のあいだに農家が散在していた。植木屋の多いのもここの特色であった。そればかりでなく、ここらは寺の多いところで、お富士様を祀った真光寺(しんこうじ)を始めとして、例の駒込吉祥寺(きちじょうじ)、目赤(めあか)の不動、大観音(おおかんのん)の光源寺(こうげんじ)、そのほか大小の寺々が隣りから隣りへと続いていて、表通りの町々の大抵は寺門前であるから、怪談などを流行(はや)らせるにはお誂(あつら)え向きと云ってよいのであった。
舞台は富士裏附近、時候は旧暦の秋の末、そこに伝えられた怪談は、闇夜(やみよ)にそこらを往来する者があると、誰とも知らず「おうい、おうい」と呼ぶのである。時にはその人の名を呼ぶこともある。その声が哀れに寂しく、この世の人とは思われないので、気の弱い者は耳をふさいで怱々(そうそう)に逃げ去るのである。たまに気丈の者が「おれを呼ぶのは誰だ」と大きい声で訊(き)き返すこともあるが、それに対してなんの答えもないので、そのままにして行き過ぎると、又もや悲しい声で呼びかける。それが遠いような、近いような、地の底からでも聞えるような、一種異様のひびきを伝えるので、大抵の者はしまいには鳥肌になって、敵にうしろを見せることになるのであった。
「貴公たちはこの噂󠄀をなんと思う」
こう云って一座の若者らを見渡したのは、鰻縄手(うなぎなわて)に住む奥州浪人の岩下左内(いわしたさない)であった。追分(おいわけ)から浅霞町(あさかちょう)へ通ずる奥州街道の一部を、俗に鰻縄手と云う。その地名の起りに就いてはいろいろの説もあるが、そんな考証はこの物語には必要がないから省略することにする。岩下左内という奥州浪人は、四、五年前からここに稽古所(けいこじょ)を開いて、昼は近所の子供たちに読書きを教え、夜はまた若い者どもをあつめて柔術や剣術を指南していた。
江戸末期の世はだんだんに鬧(さわ)がしくなって、異国の黒船とひと合戦あろうも知れないと云う、気味の悪いうわさが伝えられる時節である。太平の夢を破られた江戸市中には、武芸をこころざす者が俄(にわか)に殖えた。武士は勿論であるが、町人のあいだにも遊芸よりも武芸の稽古に通う若者があらわれて来たので、岩下左内の町道場も相当に繁昌して、武家の次三男と町人とをあわせて二、三十人の門弟が毎晩詰めかけていた。師匠の左内は四十前後で、色の黒い、眼の鋭い、筋骨の逞(たくま)しい、見るから一廉(ひとかど)の武芸者らしい人物であった。
ご新造(しんぞ)のお常(つね)は、この時代の夫婦としては不釣合いと云ってもいいほどに年の若い、二十七、八の上品な婦人で、ことばに幾分の奥州訛りを残していながらも、身装(みなり)も江戸馴れしていた。その上に、誰に対しても愛想がいいので、門弟らのあいだにも評判がよかった。
「先生はちっと困るが、ご新造がいいので助かる」
これらが門弟らの輿論(よろん)であった。左内も決して悪い人ではなかったが、誰に対しても厳格であった。殊に門弟らに対しては厳格を通り越して厳酷ともいうべき程であった。それでも昼の稽古に通う子供たちには、さすがに多少の勘弁もあったが、夜の道場に立った時には、すこしの過失も決して仮借しないで、声を厳しくして叱り付けた。武芸の稽古は命賭けでなければならぬと云うので、彼は息が止まるほどに門弟らを手ひどく絞め付け投げ付けた。眼が眩(くら)むほどに門弟らのお面やお胴をなぐり付けた。時には気が遠くなってぐったりしてしまうと、そんな弱いことで武芸の錬磨が出来るかと、引摺(ひきず)り起してまた殴られるのである。
いかに師匠とは云いながら、あまりに稽古が暴(あら)いと云うので、門弟のうちには窃(ひそ)かに左内を恨む者も出て来たが、その当時の駒込あたりには他に然るべき師匠もないので、不満ながらも痛い目を忍んでいるのであった。もう一つには前にも云う通り、師匠のご新造が愛想のいい人で、蔭へまわって優しく労(いたわ)ってくれるので、それを力に我慢しているのもあった。
今夜その道場で、かの富士裏の怪談の噂󠄀が出たのである。左内はその噂󠄀はかねて聴いていたので、一座の門弟らにむかって「貴公たちはこの噂󠄀をなんと思う」という質問を提出したが、その席にある十七、八人のうちに確かに答える者がなかった。あいまいな返事をすると、師匠に叱り付けられる。それが怖ろしいので、一同はただ顔を見合せているばかりであった。
「会談などと仔細(しさい)らしく云うが、世に妖怪変化(ようかいへんげ)のあろうはずがあい。所詮(しょせん)は臆病者が風の音か、狐狸(こり)か、あるいは鳥の声にでも驚かされて、あらぬ風説を唱えるに相違ない。貴公らのうちで誰かその正体を見とどけて来る者はないか」
一同はやはり顔を見合せているばかりで、進んでその役目を引受けるという者もなかった。左内は例の気性で、堪えかねたように呶鳴(どな)った。
「さりとては無念な。わしが不断から武芸を指南するのも、こういう時の用心ではないか。よしよし、貴公らが臆病に後込(しりご)みしているなら、この左内が自身で行く」
彼は帯を締め直して立上がった。これに励まされてばらばらと立上がったのは、旗本の次男池田喜平次(いけだきへいじ)、酒屋のせがれ伊太郎(いたろう)の二人であった。
「先生。わたくしどももお供いたします」
「むむ、誰でも勝手に来い」
左内はあとをも見返らずに、大刀を腰にさして出て行った。こういう場合留めても留まらないのを知っているので、ご新造のお常は黙って見送った。喜平次も伊太郎も袴(はかま)の紐(ひも)をむすび直しながら続いて出た。
九月末の暗い夜で、雨気(あまけ)を含んだ低い大空には影の薄い星が三つ四つ、あるか無きかのように光っていた。


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綱が立って綱が噂󠄀の雨夜かな――其角(きかく)の句である。渡辺綱(わたなべのつな)が羅生門(らしょうもん)の鬼退治に出て行ったあとを見送って、平井保昌(ひらいやすまさ)や坂田金時(さかたのきんとき)らが「綱の奴(やつ)め、首尾よく鬼を退治して来るだろうか」などと噂󠄀をしていると云うのである。古今変らぬ人情で、今夜も師匠や喜平次らの出て行ったあとで、他の十五、六人の門弟はその噂󠄀に時を移した。ご新造のお常も出て来て、その噂󠄀の仲間入りをした。縁の下にはこおろぎが鳴いて、この頃の夜寒が人びとの襟にしみた。
鰻縄手から富士裏まではさのみの道程(みちのり)でもないから、往復の時間は知れたものであるが、まだ夜が更けたと云うほどでも無いので、例の怪しい声が聞えないのではないか。師匠らはそれを待っているために、むなしく時を費しているのであろう。そんな意見が多きを占めて、さらに半時ほどを過したが、左内らはまだ帰らなかった。
「どうしたのでしょうねえ。まさか間違いはあるまいと思いますけれど……」と、お常は又もや不安らしく云った。
こうなると、ご新造の手前、人びとも落着いてはいられなくなったので、念のために様子を見て来ようと、七、八人がうながって出た。表は暗いので、お常は提灯(ちょうちん)を貸してやった。
ご新造の手前ばかりでなく、人びともなんだか一種の不安を感じて来たので、提灯持ちの一人を先に立てて、足早にあるき出した。どこという目あても無いが、ともかくも富士裏のあたりを探してみる事にして、高林寺(こうりんじ)門前から吉祥寺門前にさしかかると、細道から出て来た二人連れが提灯の灯を見て声をかけた。
「道場から来たのか」
それは池田喜平次と伊太郎の声であった。こちらでも声を揃えて答えた。
「そうだ、そうだ。先生はどうした」
「先生は……。途中で失(はぐ)れてしまった」
「先生にはぐれた……」
「どこを探しても見えないのだ」
喜平次らの報告によると、かれらは師匠の左内にしたがって、まず富士裏のあたりを一巡したが、怪しい声は聞えなかった。まだ時刻が早いせいかも知れないと云いながら田畑のあいだを歩き廻って、鷹匠屋敷から吉祥寺の裏手まで戻って来たが、聞えるものは草むらに鳴き弱っている虫の声と、そこらの森のこずえに啼(な)く梟(ふくろう)の声ばかりで、それらしい声は耳に入らなかった。やはり自分の推量の通り、臆病者が風の音や、狐(きつね)の声か、梟の声などを聞き誤っているに相違あるまいと、左内は笑った。
しかし、ここまで踏み出して来た以上、詮議に詮議を重ねなければならないと云うので、左内はふたたび富士裏の方角へ向って引っ返すことにした。暗い田圃路(たんぼみち)を縫って、大泉院(だいせんいん)の神明宮(しんめいぐう)の前を抜けて、さらに人家の無い畑地へ来かかると、路ばたには三百坪あまりの草原があって、その片隅には杉や欅(けやき)の大樹が木立を作っていた。その木立のあたりで「おうい、おうい」と微かに呼ぶ声がきこえたので、三人は俄に立停(たちど)まって耳を澄ますと、呼ぶ声はつづけて聞えた。もう猶予すべきでないので、左内はその声をたずねて進んだ。喜平次と伊太郎も続いて行った。しかも今夜はあいにくに暗い夜である。三人はもちろん無提灯である。ただその声をたよりに尋ねて行くのほかは無いので、かれらは秋草を踏み分けながら手探りで歩いた。
どうやら木立のあたりへたどり着いた頃には、怪しい声も止んでしまった。こうなると、見当が付かないので、三人は暗いなかに突っ立って暫(しばら)く耳を傾けていると、やがて違った方角で再び呼ぶ声がきこえた。しかも今度は「岩下左内、待て、待て」と云うのである。自分の名をはっきりと呼ぶからには、風の音や梟の声の聞き誤りではない。左内は「おれを呼ぶのは誰だ、何者だ。ここへ出て来い」と、呶鳴り返したが、声はそれには答えないで、左内の名を呼びつづけるのである。左内は焦(じ)れて、その声を追ってゆくと、さらにまた違った方角で「岩下左内やァい」と呼ぶのである。
喜平次と伊太郎は気味が悪くなって来た。世間で噂󠄀する通り、その声が普通の人間とは違っているばかりか、近いような、遠いような、悲しんで泣くような、嘲(あざけ)って笑うような、判断に苦しむこの声の主は何物であろう。もし人間なら跫音(あしおと)がきこえるはずであるに、それがあるいは前に、あるいは右に、音も無しに移動するのも不思議である。そう思うと、二人は何となく怯気(おじけ)が付いて、足の進みも自ずうと鈍って来たが、左内は頓着なしにその声を追って行った。怪しい声は嘲るようにこう云った。
「貴様たちに正体を見届けられるような俺だと思うか。おれはここらに年経(としふ)る白狐(びゃっこ)だぞ」
「畜生、よく名乗った。この古狐め」
左内は彼方をぬいてまっしぐらに追ってゆくと、声はそれっきりで絶えた。左内の足音音もやがて聞えなくなった。師匠を見失っては申訳がないと、喜平次と伊太郎はふたたび勇気を振い起して、つづいてそのあとを追って行ったが、左内の姿は闇に埋められてしまった。二人は先生先生と呼びつづけながら、木立のあいだは勿論、草原や畑道をむやみに駈けまわったが、どこからも左内の返事は聞かれなかった。あてども無しに駈けつづけて、二人は疲れ果てた。
「もう仕方が無い。道場へ帰って提灯を持って来て、手分けをして探そう」
よんどころなく引返して来る途中、あたかも吉祥寺門前で迎えの人びとに出逢ったのである。その報告を聞いて、人びとは俄に騒ぎ立った。提灯ひとつでは不足だと云うので、家の近い者は引返して自分の家から提灯を持って来た。その一人は道場へも報(しら)せに行ったので、残っている者もみんな駈け出した。喜平次と伊太郎を案内者にして、都合十七、八人が五つ六つの提灯を振り照らしながら、ふた組に分れて捜索にむかった。
江戸の絵図を見ても判るが、ここらの百姓地はなかなか広い、しかも人家は少ない。その大部分は田畑と森と草原である。ふた組の捜索隊は先生を呼びながら、闇の夜道をたずね歩いているうちに、伊太郎を先立ちのひと組が路ばたに倒れている師匠の死骸を発見した。そこには一本の大きい榛(はん)の木が立っていて、その下を細い田川が流れている。左内はその身に数ヵ所の傷を受けて、木の根を枕に倒れていたのである。


それから五日の後である。この頃は朝夕が肌寒くなって、きょうも秋時雨(あきしぐれ)と云いそうな薄陰(うすぐも)りの日の八ツ半(午後三時)頃に、ふたりの男が富士裏の田圃路をさまよっていた。半七とその子分の亀吉(かめきち)である。
「ねえ、親分。わっしにゃあまだ判らねえ。後生だから焦らさずに教せえておくんなせえ。その変な声と云うのがどうして聞えるのか、いくら考えても見当が付かねえ」と、亀吉はあるきながら云った。
「神田から駒込まで登って来るあいだに、まだ考え付かねえのか」と、半七は笑った。「おれにゃあちゃんと判っている。それはズウフラだ」
「ズウフラ……。ああ、判った、判った」と、亀吉も笑い出した。「和瀾(オランダ)渡りで遠くの人を呼ぶ道具……。吹矢の筒のようなもの……。成程それ違げえねえ。わっしも一度見たことがある」
「おれもある屋敷でたった一度見せて貰(もら)っただけだが、今度の一件を聞いてすぐにそれだろうと鑑定した。だが判らねえのは、なぜそのズウフラで往来の人間を嚇かすのか。ただのいたずらか、それとも何か仔細があるのか。なにしろ、そのズウフラから剣術の師匠が殺されたと云うのだから、ひと詮議しなけりゃあならねえ。早く聞き込むと好かったのだが、ちっと日数(ひかず)が経(た)っているので面倒だ。まあやれるだけやってみよう。ここらは寺門前が多いから、町方の手が届かねえ。それをいいことにして、悪い奴らが巣を喰っているのだろう」
そこらをひと廻りした後、半七はある植木屋の門口に立った。ここらに植木屋の多いのは前に云った通りである。半七は型ばかりの木戸をあけて声をかけた。
「おい。爺(じい)さんはいるかえ」
「やあ、親分……。ただいままいります」
柿の木の上で返事をして五十四五の男が笊(ざる)をかかえながら降りて来た。彼は植木屋の嘉兵衛(かへえ)である。
「柿はよく生(な)ったね」と、半七は赤い梢を見あげた。
「いえ、もう遅いので……。ことしは二百十日の風雨(あらし)で散ざんにやられてしまいました」
嘉兵衛は先に立って二人を内へ案内すると、女房は煙草盆(たばこぼん)などを持出して来たので、半七らは縁に腰をかけて煙草を吸いはじめた。
「どうだね。この頃はここらで変な声が聞えると云うじゃあねえか。狐か狸のいたずらだろう」と、半七は何げなく云った。
「そうですよ」と、嘉兵衛はうなずいた。「なんでもここらに棲(す)んでいる古狐の仕業だそうです」
「ここらに悪い狐が棲んでいるのかえ」
「今までそんな噂󠄀を聞いたこともありませんが、このあいだの晩、自分から名乗ったそうで……。おれはここらに年経る狐だとか云ったそうで、それは確かに訊いた人が二人もあるのですから、まあ本当でしょう」
その二人は池田の次男喜平次と、岡崎屋(おかざきや)という酒屋のせがれ伊太郎であると、嘉兵衛は説明した。
「だが、狐が人を斬り殺すはずはあるめえ、狐ならば喰い殺すだろう」と、亀吉は嘲るように云った。「世間にゃあいろいろの狐や狸がいるからな」
「まあ、余計なことを云うなよ」と、半七は窘(たしな)めるように云った。「そこで、爺さん、その池田の次男と岡崎屋の忰(せがれ)というのは、どんな男だか知らねえかえ」
それに就いて、嘉兵衛はこう答えた。
池田の屋敷は小石川原町(こいしかわはらまち)にあって、二百五十石の小普請組(こぶしんぐみ)である。自分はその隣りの屋敷へ出入りしているが、池田の屋敷は当主のほかに大勢の厄介があって、その内証はよほど逼迫(ひっぱく)しているらしい。次男の喜平次という人を一度も見たことは無いが、二十四五になるまで他家へ養子にも行かないで、実家の厄介になって剣術を修行していると云う噂󠄀である。
岡崎屋のせがれ伊太郎もやはり喜平次と同年配で、父の伊右衛門(いえもん)は五、六年前に世を去って、母のお国(くに)が残っている。伊太郎にはおそよという嫁があったが、ことしの三月に離縁になって実家へ帰った。岡崎屋は小石川の白山前町(はくさんまえちょう)にある。嫁のおそよの実家もやはり酒屋で、小石川指ヶ谷町(さすがやちょう)にある。双方が同商売で、しかも近所であるために、互いに得意先を奪い合ったのが喧嘩の基で、おそよは遂に不縁になったらしいと云う。その余のことは嘉兵衛も詳しくは知らなかった。
「いや、有難う。それで大抵は判った」と、半七はうなずいた。「爺さん。おめえあその声を聞いたことがあるかえ」
「ありませんよ。話の種に一度聞いて置きたいと思うのですが、運が無いのか、まだ聞いたことがありませんよ」
「聞いたところで、運がいいと云う訳でもあるめえ」と、半七は笑った。「そこで、その声はまだ聞えるのかえ」
「道場の先生が殺された晩から、ぱったりきこえなくなりましたが、ゆうべはまた聞えたという噂󠄀です。いや、噂󠄀どころじゃあない、現に怪我をしたという者があるのです」
「怪我をした者……。そりゃ誰だね」と、亀吉は顔を突き出した。
「わたくしと同商売で、吉祥寺裏に六蔵(ろくぞう)というのがあります。そこの若い者の長助(ちょうすけ)という奴が、ゆうべ血だらけになって帰って来たので、大かた喧嘩でもしたのだろうと思って、だんだん訊きただしてみると、やっぱり何かにやられたので……。なんでも暗い道を通って来ると、うしろから哀れな声で呼ぶ奴がある。こいつ、例の一件だなと思ったので、こっちも若い勢いで誰だだれだと云いながら、声のする方へむやみに向って行くと、いきなり真向(まっこう)をなぐられたので、額(ひたい)ぎわの左から顳顬(こめかみ)へかけて随分ひどく打割られて、顔じゅうが血だらけになってしまったのです。長助もいったん眼が眩んで、そばにある立木に寄りかかったまま暫くは夢のようだったが、やがて漸(ようや)く正気になって、どうにか無事に親方の家(うち)まで帰って来たのだそうです。道場の先生の殺されたのは別として、これなんぞはどうも狐の悪戯(いたずら)らしく思われますね。長助の傷は石か何かで打(ぶ)たれたらしいと云うことです」
剣術の師匠は殺され、植木屋の職人はなぐられ、とかくに気味の悪いことが続くので困ると、嘉兵衛は顔をしかめて話した。


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植木屋を出ると、空はいよいよ陰(くも)って来た。
「親分、これからどっちへ廻ります」と、亀吉は空を仰ぎながら訊いた。
「おめえは吉祥寺裏の植木屋へ行って、長助という若い奴に逢(あ)って、ゆうべ確かにその声聞いたかどうだか突き留めて来てくれ。如才もあるめえが、ほんとうになぐられたのか、出たらめの事を云うのか、よく念を押して訊きただしてくれ」と、半七は云った。
「あい、ようがす」
「おれは白山前から指ヶ谷町へまわって来る」
「どこで逢いますね」
「白山前に笹屋(ささや)という小料理屋がある。そこで待合わせることにしよう」
吉祥寺門前で亀吉に別れて、半七は土物店(つちものだな)から鰻縄手にさしかかった。岩下の道場の前を通りながら、門内をそつと覗(のぞ)いてみると、町道場といっても表には遠い家作(やづく)りで、ここらに多く見る杉の生垣のうちに小さい畑などもあるらしかった。師匠が死んで稽古は無いはずであるのに、家内は何かごたごたしていた。半七は指を折って、あしたは初七日、今夜はその逮夜(たいや)であることを知った。
それから五、六間ゆき過ぎると、若い町人風の男が半七に摺(す)れちがって通った。振返って見送ると、男は道場の門をあけてはいった。半七の眼に映った若い男は、年のころ二十三四で、色の小白い、忌味(いやみ)のない男振りであった。それが岡崎屋の伊太郎ではないかと思ったが、呼びかえして詮議する場合でないと思い直し、半七はそのまま白山前町へ足を向けた。
岡崎屋は相当の店がまえで、店には三人の若い者と二人の小僧が何か忙がしそうに働いていた。八丁味噌(はっちょうみそ)の古い看板なども見えた。帳場には四十四五の女房が坐っていた。それが伊太郎の母のお国であろうと、半七は想像した。さらに引返して指ヶ谷町へゆくと、そこには伊丹屋(いたみや)という酒屋の暖簾(のれん)が眼についた。ここが伊太郎の嫁の実家である。半七はずっと店へはいった。
「もし、お前さんは旦那ですかえ、番頭さんですかえ」と、半七は帳場にいう四十前後の男に声をかけた。
「はい。わたしは番頭でございあmす」と、男は帳面の筆をおいて答えた。
「旦那はお内ですかえ」
「いえ、こちらは女あるじで……」
「じゃあ、岡崎屋と同じことだね」
「左様で……」と、番頭はやや不審らしく半七の顔をみつめた。
「息子さんは無いのかね」
「息子はございますが、まだ肩揚げが取れませんので……」
「娘さんは幾人(いくたり)いるね」
「二人でございます」
「いや、こりゃわたしっが悪かった」と、半七は笑いながら云った。「だしぬけに押掛けて来て、よその家の人別を調べるから、お前さんにも変な顔をされるのだ。実はわたしはお上の御用を聞く者で、すこし調べる筋があって来たのだから、迷惑でもおかみさんに逢わしておくんなせえ」
御用聞と名乗られて、番頭も俄に態度をあらためた。すぐに起(た)って奥へ行ったが、やがてまだ出て来て、丁寧に半七を案内した。中庭にむかった八畳の座敷で、先代の主人の好みであろう、床の間や違い棚の造作もなかなか念入りに出来ていた。屋台骨のしっかりしている家(うち)らしいと、半七はひそかに思った。
やがて女あるじというお勝(かつ)が出て来て、これも丁寧に挨拶した。番頭もそばに控えていた。
「いや、別にむずかしいことを訊くのじゃあありません。立ち話でも済むことですが、店先ではちっと工合が悪いので、奥へ通して貰ったのです」と、半七はすぐに口を切った。「実はほかの事じゃあありませんが、こちらには娘さんが二人あるそうですね」
「はい。姉は下谷(しもや)の方に縁付いて居ります」と、お勝は答えた。「妹は近所へいったん片付きましたが……」
「じゃあ、それがおそよさんといって、白山前町の岡崎屋へ片付いたのですね。そこで、そのおそよさんが岡崎屋を不縁になったのは、同商売の競合(せりあ)いからだと云うような噂󠄀もありますが、そりゃあ本当ですか」
なんと返事をしていいかと云うように、お勝はそっと番頭を見かえると、番頭は引取って答えた。
「まあまあ、そんなような訳でございまして……。ご承知の通り、商売忌敵(いみがたき)とか申しまして……。いえ、別に喧嘩をいたしたと云うのではございませんが……。つまり縁が無いと申すのでしょうか……」
その口吻(くちぶり)と、女房の顔色とを見くらべながら、半七は除(しず)かに云った。
「ねえ、番頭さん。わたしも御用で来たのだから、隠し立てをされちゃあ困る。決してお前さんたちには迷惑を掛けねえから、みんな正直に云って貰おうじゃあありませんか。岡崎屋を不縁になったのは、何かほかに訳があるだろう。わたしはそれを訊きに来たのだ」
「お前さんのお言葉ですが、まったく同商売の得意争いと云うようなことをから、双方の親たちのあいだが面白く参りませんので……」と、番頭は押返して云った。
「親たちばかりでなく、当人同士の夫婦仲もなにぶん丸く参りませんので……」と、お勝もその尾に付いて云った。
おそよは、去年の五月、十八で岡崎屋へ嫁に行って、その当座はまず無事であったが、半年ほど過ぎると、とかくに折合いが悪く、とうとうこの三月に別れることになったので、ほかに仔細も無いと、母は説明した。
同商売の得意争いから、親たちが不和になると云うのは、随分ありそうなことである。当人同士の夫婦仲が悪いと云うのも珍らしくない。それで一同は離縁の理窟(りくつ)が立っているようであったが、半七はまだ不得心であった。
「どうもお前さんたちじゃあ判らねえ。そのおそよという娘をここへ呼んでおくんなせえ。本人に逢って訊くとしましょう」
「いえ、そお娘はただいま留守でございまして……」と、番頭はあわてて断わった。
「嘘(うそ)をついちゃあいけねえ」と、半七は叱り付けるように云った。「それじゃあ仕方がねえから、わたしの方から口を切ろう。岡崎屋の息子には別に女がある。それが捫着(もんちゃく)のたねで不縁になった。早く云えばそうだろね」
お勝と番頭はぎょっとしたように顔を見あわせた。半七は黙ってその返事を待っていると、うしろの襖の外で何かの声がきこえた。それは女のすすり泣きの声であるらしいので、半七は衝(つ)と起ってその襖をあけると、果してそこには若い女が蒼白い顔を袖にうずめて泣き伏していた。


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半七が伊丹屋を出て白山前へ引返したのは、その日ももう暮れかかる頃で、途中から秋時雨がさらさらと降り出して来た。傘を買う程でもないと思ったので、半七は手拭(てぬぐい)をかぶって笹屋という小料理屋へ駈け込むと、亀吉はひと足さきに来て門口に待っていた。
「とうとうぱら付いて来ましたね」
「この頃の癖で仕方がねえ」と、半七は先に立って二階へあがった。
座敷は狭い四畳半である。註文の酒肴(さけさかな)が来るあいだに、亀吉は小声で話し出した。
「あれから吉祥寺裏へ行くと、親方は留守でしたが、長助という若い奴が鉢巻をしていましたよ。取っ捉まえて訊いてみると、どっかへ小博奕(こばくち)か何かに行って、ゆうべの四ツ過ぎころに富士裏を帰って来ると、例の声で呼ばれたそうです。おうい、おういじゃあねえ。女のような声で、もしもしと呼んだと云うのです。確かに女の声かと念を押すと、どうも女のようだったと云うのですが……。野郎、何だかおどおどしていて、どうもはっきりした事を云わねえのです。なにしろ、誰だと云いながら向って行くと、石のようなもので額をがんとやられて、暫くは気が遠くなってしまったと云うだけで、詳しいことは自分でも覚えていねえと云うのです。小焦(こじ)れってえから、ちっと嚇かしてやったんですが、案外意気地(いくじ)のねえ野郎で、まったく噓いつわりは云いませんからどうか勘弁してくれと、真蒼(まっさお)な顔をして泣かねえばかりに云うので、まあいい加減にして引揚げて来ました」
「そうか」と、半七はうなずいた。「その長助という野郎も、ただは置かれねえ奴らしいが、そんな意気地なしならあと廻しでよかろう。おれは岡崎屋の嫁の里へ行って調べて来たが、岡崎屋の伊太郎は師匠の女房と不義を働いていて、それがために嫁のおそよは離縁になったのだ。おそよは亭主に未練があると見えて、可哀そうに泣いていたよ」
「すると、伊太郎が師匠を殺(や)ったのかね」
「そうだろうな。だが、伊太郎一人の仕業じゃああるめえ。その晩一緒に出て行ったと云う池田の次男……喜平次という奴も手伝ったのだろう」
「そいつも伊太郎に抱き込まれたのかね」
「池田の屋敷はひどく逼迫していると云うじゃあねえか。おまけに厄介者の次男坊だ。二十四や五になるまで実家の冷飯を食っているようじゃあ、小遣いだって楽じゃあねえ。おそらく慾に眼が眩んで師匠殺しの手伝いをしたのだろうな」
「ひどい奴らだ」と、亀吉は溜息をついた。「どうも世が悪くなったな」
「人殺しもいろいろあるが、親殺しは勿論、主(しゅ)殺しや師匠殺しと来ちゃあ重罪だ。だんだんに事が大きくなって来た。それにしても、ズウフラの一件はどう云うのかな」
「ズウフラで師匠を誘い出したのじゃあねえかね」
「そうすると、もう一人の同類が無けりゃあならねえ」と、半七は薄く眼を瞑(と)じた。「もっとも、大勢の中にゃあ抱き込まれる奴が無いとも限らねえが……。いかに世が悪くなったと云っても、師匠殺しの味方をする奴がそんなに幾人(いくたり)もあるだろうか。こりゃあ少し考(かん)げえものだ。いってえ、この江戸じゅうにズウフラなんぞを持っている奴がたくさんあるはずがねえから、その持主さえ判ればいいのだが……」
「ズウフラの方はまあ別として、ともかくもこれだけのことを寺社の方へ届けて、岡崎屋の伊太郎を引挙げてしまおうじゃありませんか」
「だが、まだ確かな証拠はねえ。ほかの事と違って重罪だ。むやみなことが出来るものか。まあ、もうちっと考えよう」
註文の酒肴を運んで来たので、二人は黙って飲みはじめた。時雨はひとしきりで通り過ぎたが、秋の日はまったく暮れ切って、女中が燭台(しょくだい)を持って来た。その蠟燭(ろうそく)のゆれる火を見つめながら、半七は暫く考えていたが、やがて思い出したように云った。
「今夜は殺された師匠の逮夜で、岩下の道場はごたごたしていたようだ。弟子たちも相当に集まるだろう。あの辺へ行って網を張っていたら、なにか引っかかる鴨(かも)があるかも知れねえ」
「そうしましょう」
二人は怱々に飯を食ってここを出た。鰻縄手へゆく途中で、半七はまた云い出した。
「おい、亀。おれもだんだん考えたが、あのズウフラというものは筒にどんな仕掛けがあるか知らねえが、遠くの人を呼ぶ以上、相当に大きな声を出さなけりゃあならねえ筈だ。いくら人通りの少ねえ畑や田圃路だといって、道のまん中に突っ立って呶鳴っていちゃあ、すぐに種が知れてしまうから、少し距(はな)れた所から低い声で呼ぶに相違ねえ。つまりその人のすぐ後にいねえと云うだけのことで、そんなに遠いところから呼ぶのじゃああるめえと思う。こっちが気を鎮めて窺(うかが)っていれば、大抵の見当は付く筈だのに、みんなびくびくして慌(あわ)てるからいけねえのだ」
「まったくお前さんの云う通り、そんなに遠いところから呼ぶのじゃああるめえ。今夜ひとつ張込んで見ましょうか」
「むむ。道場の模様次第で、張込んでみてもいいな」
そんなことを云いながら、二人は岩下の道場の近所まで引返して来た。縁の無い者がむやみに表門からはいるわけにも行かないので、杉の生垣のあいだから覗いてみると、座敷には障子が閉めてあるのでよくは判らないが、その障子に映る影を見ても、相当に大勢の人びとが集まっているらしく、僧侶の読経(どきょう)の声や鉦(かね)の音が洩(も)れてきこえた。
「なるほどごたごた押合っているようですね」と、亀吉はささやいた。
「むむ。押合っているだけじゃあ仕様がねえが、今になにか始まらねえとも限らねえ。まあ、もう少し我慢しよう」
半七の言葉が終らないうちに、果して一つの不思議が始まったのである。どこからとも知れず、怪しい低い声が座敷の障子にむかって呼びかけた。
「ご新造さん……。岩下のご新造さん……。お経なんぞ上げるのはお止しなさい」
その声に、おどろかされて、二人は俄にあたりを見まわしたが、夜は暗いので見当が付かなかった。内でもそれに驚かされたらしく、二、三人の男が障子をあけて縁側に出て来たが、やはり正体を見とどけ得ないで、何かこそこそ云いながら引っ込んでしまった。半七らは耳をすましていると、闇の中で怪しい声が又きこえた。
「ご新造さん……。ご新造さん……。仏さまは浮かびませんよ。今に幽霊になって出ますよ」
座敷の障子をあけて、今度は七、八人がどやどやと出て来た。かれらは暗い庭先を透かし視(み)て、怪しい声の方角を聞き定めようとするらしく、その二、三人は庭へ出て、そこらの隅ずみを探し歩いた。
「なんだろう」
「どこだろう」
かれらは口々に罵(ののし)り騒いでいた。内から仏前の蠟燭を持出して、庭先を照らしている者もあった。しかし怪しい物の姿はみえず、怪しい声もそれぎりで止(や)んでしまったので、かれらを根負けがして再び内へ戻ると、それを窺っていたように怪しい声はまた呼んだ。
「ご新造さん……。ご新造さん……」
さっきから耳を澄ましていた半七は、小声で亀吉に教えた。
「判った。あの屋根へ石を叩きつけろ」
東どなりには少しばかりの空地があって、その隣りは法衣屋(ころもや)であった。往来の人を相手にする商売でないので、宵から早く大戸をおろして、店のくぐり障子に灯の影がぼんやりと映っていた。怪しい声はその屋根から送られて来るものと、半七は鑑定したのである。
二人は探りながらに足もとの小石を拾って、隣りの屋根を目がけて投げ付けた。いわゆる闇夜の礫(つぶて)で、もちろん確かな的(まと)は見えないのであるが、当てずっぽうに投げ付ける小石がぱらぱらと飛んで、怪しい声の主をおびやかしたらしく、屋根の上を逃げて行くらしい跫音がきこえた。ここらは板葺(いたぶき)屋根が多いのであるが、隣りは平家(ひらや)ながら瓦葺(かわらぶき)であるために、夕方のひと時雨に瓦がぬれていたらしく、それに足をすべらせて何者かころげ落ちた。
「それ、逃がすな」
半七と亀吉は駈け寄った。


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「まず怪談はここらまででしょうね」と、半七老人は笑った。
「屋根から落ちた奴は何者です」と、わたしはすぐに訊いた。
「それは近所の質屋のせがれで辰次郎(たつじろう)という奴です。年は十九ですが、一人前には通用しない薄馬鹿で……。こいつがどうしてズウフラなんぞを持っていたかと云うと、自分の店で質に取った品です。お承知でもありましょうが、江戸時代にはオランダ人が五年に一度ずつ参府して、将軍にお目通りを許される事になっていました。たいてい二月の二十五日ごろに江戸に着いて、三月上旬に登城するのが習いで、オランダ人は日本橋石町(にほんばしこくちょう)三丁目の長崎屋(ながさきや)源右衛門(げんえもん)方に宿を取ることに決まっていました。その時には将軍家に種々の献上物をするのは勿論(もちろん)ですが、係りの諸役人にもそれぞれに土産物をくれます。かのズウフラも通辞役(つうじやく)の人にくれたのを、その人が何かの都合で質に入れたと云うわけです。質物は預かり物ですから、庫にしまって大切にして置くべきですが、物が珍らしいので薄馬鹿の辰公がそっと持出した。いや、辰公ばかりでなく、それをおだてた奴がほかにあるんです。それは吉祥寺裏の植木屋の若い者の長助という奴で、こいつ白ばっくれていながら、実は辰公をおだてて悪いいたずらをさせていたんですよ」
「じゃあ、その辰公はおもしろ半分にやっていたんですね」
「まあ、そうです。辰公も長助も別に深い料簡(りょうけん)もなく、ただ面白半分に往来の人を嚇かしていただけの事だったのですが、そのいたずらから枝が咲いて、師匠殺しという大事件が出来(しゅったい)したんです。さっきからお話し申した通り、岩下左内は武骨一辺の人物、女房のお常は年が十二三も違う上に江戸向きに出来ている女、そこでお常はいつか弟子の伊太郎と関係するようになってしまった。それでも世間の手前、伊太郎は伊丹屋の娘を嫁に貰ったんですが、一方にお常という女があるのですから、どうで丸く治まる筈がありません。嫁の里方でも伊太郎が師匠のご新造と怪しいと云うことを薄うす感付いたので、とうとう別れ話になったんです。
嫁の方はそれで片付いたにしても、済まないのはお常と伊太郎との関係で、こんな事がいつまで隠しおおせるものじゃあありません。弟子のうちで真っ先にそれを覚ったのが池田喜平次で、ひそかに伊太郎を嚇し付けて小遣い銭をいたぶっていたんです。この喜平次は貧乏旗本の次男で、二十四五になるまで実家の厄介になっていたんですが、武芸はなかなかよく出来るので、行くゆくは自分も道場を開く積りで勉強していた……。ここまではよかったんですが、ふいと魔がさした。と云うのは、辰公のズウフラ一件です。
岩下左内も悪い弟子を二人持ったのでした。一方の伊太郎は、万一自分たちの不義が露顕したら、日ごろの師匠の気質として捨て置く筈がない。即座に成敗されるに決まっている。いっそ師匠を亡きものにして、お常と末長く添い通そうと考えた。また一方の喜平次は、武芸にかけてはこの道場でおれに及ぶ者はない。いっそ師匠を亡き者にして、自分がこの道場を乗っ取ろうと考えた。つまり一方は色、一方は慾、どちらも目ざす相手は師匠の左内で、なんとかして師匠をほろぼす工夫はないかと、お互いに悪事を考えている矢先に、富士裏の怪談のうわさが立ったのが勿怪(もっけ)の幸い、師匠の左内に取っては飛んだ災難でした」
「そうすると、喜平次と伊太郎はその怪談を利用したわけなんですね」
「うまく師匠をばらしてしまえば、道場を乗っ取った上に、伊太郎からも相当の礼金が貰えるというわけで、喜平次はすっかり悪人になってしまったんです。そこで、二人は打合せをして置いて、師匠の前で富士裏の怪談をはじめると、左内は例の気質ですからその正体を見とどけに行くと云う。二人はそれに付いて出る。すべてが思う壺にはまって、左内は闇討ち……。手をおろしたのは喜平次でした。ほかの弟子たちの手前はいい加減に誤魔化して、検視も済み、葬式も済み、あしたは初七日の墓参り、今夜は逮夜と云うところまで漕ぎ着けると、その逮夜の晩に怪しい声が又きこえたんです。
なぜ辰公がそんないたずらをしたかと云うと、辰公は左内の殺された晩も、例のズウフラを持って富士裏のあたりを徘徊(はいかい)していて、喜平次らの闇討ちを木の陰か何かで窺っていたんです。暗い中だから誰だか判りそうも無いもんですが、やっぱり悪いことは出来ないもので、左内を仕留めてから喜平次と伊太郎とが何か話していた。おまけに、用意の袂提灯(たもとぢょうちん)を出して喜平次は血の付いた手を田川の水で洗った。そんなことで、下手人はこの二人だということを辰公に覚られてしまったんです。そこで辰公はその翌日、植木屋の長助にその話をすると、長助もいったんは驚いたが、そんなことを滅多に云ってはならないと、辰公に堅く口止めをしたんです。闇討ちが発覚すると、ズウフラの一件も発覚して、辰公は勿論、それを煽動(せんどう)した自分までが飛んだ係り合いになるのを恐れたからです。今でもそうですが、昔の人間はひどく引合いということを忌(いや)がりましたからね」
「長助を殴ったのは誰ですか。辰公じゃないんですか」
「お察しの通りですよ。長助は係り合いになるのを怖がって、闇討ち以来もうズウフラを持出すなと辰公に云い聞かせたので、その当座はやめていたんですが、根が薄馬鹿の辰公ですから、三日四日経つとまた持出した。そこへ丁度に長助が通り合せて、この馬鹿野郎とさんざん叱り付けた上に、そのズウフラを取上げようとすると、辰公も承知しない。いきなりズウフラを振上げて、相手の額を力まかせに殴り付けたんです。なにしろ長さは三尺あまりで、銅でこしらえた喇叭(らっぱ)のような物ですから、それで手ひどく殴られては堪まらない。馬鹿とあなどって不意討ちを喰(くら)った長助は、まったく眼が眩んで暫くぼんやりしているうちに、辰公は逃げて行ってしまった。と云って、表向きに辰公の家へ捻(ね)じ込む訳にも行かないので、長助はなぐられ損の泣き寝入り……。そこへ亀吉が調べに行ったので、長助はいよいよ閉口して、なにか出たらめを云って誤魔化していたと云う訳です。それがみんな露顕して、長助は所払いになりました。
そこで一方の辰公、いかに薄馬鹿の人間でも、見すみす闇討ちの一件を知っていながら、口を結んでいると云うことは、さすがに気が咎(とが)めてならない。そこで逮夜の晩、岩下の道場に大勢が集まっているのを知って、隣りの屋根からズウフラで呼びかけた。悪戯(いたずら)といえば悪戯ですが、本人としてはご新造にそれとなく注意をあたえようとしたので、馬鹿相当の知恵をだしたわけでしょう。勿論、岩下の女房と岡崎屋の忰との関係なぞは知らないんです。しかし馬鹿も馬鹿にはなりません。辰公が屋根から転げ落ちて、わたくしどもに取押さえられた為に、それから口が明いて闇討ちの秘密もはっきりと判ることになったんです」
「喜平次も伊太郎もお常も、みんな挙げられたんですね」
「岡崎屋は白山前町にあるので、寺社の方へもことわって伊太郎を召捕りました。お常も召捕られました。お常は伊太郎との不義を白状しただけで、闇討ちのことは知らないと強情を張っていましたが、相手の伊太郎がべらべら喋(しゃべ)ってしまったので、どちらも引廻しの上で磔刑(はりつけ)という重い仕置を受けました。喜平次はゆくえが知れません。何でもこの一件が親兄弟にも知れたので、表沙汰にならない先に、屋敷内で詰腹を切らされたという噂󠄀です。気の毒なのは通辞役の深沢さんという人で、ズウフラを質入れしたことが露顕して、別に表向きの咎(とが)めはありませんでしたが、世間に対してすこぶる面目を失ったと云うことです。辰公の親たちは不取締りのために質物を馬鹿息子に持出され、それからこんな騒動を引起したと云うので、きびしいお咎めを受けました。馬鹿息子が質物を持出して毎晩あるき廻っているのを、親たちも店の者も気がつかなかったと云うのは、あんまり迂闊(うかつ)な話ですから、どんなお咎めを蒙(こうむ)っても仕方がありません。片輪の子ほど可愛いとかいって、親たちが甘やかし過ぎたのが悪かったんです。辰公も吟味中、町内預けになっていたんですが、いつか抜け出して行って、富士裏の森で首を縊(くく)って死んでしまいました。そうなると、又その幽霊が出るとか云うのでひと騒ぎ、世の中に怪談の種は尽きないものです」

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。