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半七捕物帳 第三巻/蝶合戦

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蝶合戦

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江戸っ子は他国の土(つち)を踏まないのを一種の誇りとしているので、大体に旅嫌いであるが、半七老人もやはりその一人で、若い時からよんどころない場合のほかには、めったに旅をしたことが無いそうである。それがめずらしく旅行したと云うことで、わたしが訪ねたときは留守であった。老婢(ばあや)の話によると、宇都宮(うつのみや)の在にいる老人の甥の娘とかが今度婿を取るについて、わざわざ呼ばれて行ったのだと云うことであった。それから十日ほど経つと、老人から老婢を使によこして、先日は留守で失礼をしたが、きのう帰宅しました。これはめずらしくもない物だが、お土産(みやげ)のおしるしでございますと云って、日光羊羹(にっこうようかん)と乾瓢(かんぴょう)とを届けてくれた。
その挨拶ながら私が赤坂の家(うち)をたずねたのは、あくる日のゆう方で、六月なかばの梅雨(つゆ)らしい細雨(こさめ)がしとしとと降っていた。襟に落ちる雨だれに首をすくめながら、入口の格子をあけると、老人がすぐに顔を出した。
「はは、ばあやにしてはちっと早い。きっとあなただろうと思いました」
いつもの笑顔に迎えられて、わたしは奥の横六畳の座敷へ通った。ばあやは近所へ買物に行ったと云うことで、老人は自身に茶を淹(い)れたり、菓子を出したりした。ひと通りの挨拶が済んで、老人は機嫌よく話し出した。
「あなたは義理が堅い。この降るのによくお出かけでしたね。あっちにいるあいだも、とかくに降られがちで困りましたよ」
「なにか面白いことはありませんでしたか」と、わたしは茶を飲みながら訊いた。
「いや、もう」と、老人は顔をしかめながら頭(かぶり)をふってみせた。「なにしろ、宇都宮から三里あまりも引っ込んでいる田舎ですからね。いや、それでもわたくしの行っているあいだに、雀合戦があると云うのが大(おお)評判で、わたくしも一度見物に出かけましたよ。何万羽(びき)といかいう評判ほどではありませんでしたが、それでも五、六百羽ぐらいは入りみだれて合戦する。あれはどう云うわけでしょうかね」
「東京でも嘗(かつ)てそんな噂󠄀を聴いたことがありましたね」
「雀合戦、蛙合戦、江戸時代にはよくあったものです。この頃そんな噂󠄀の絶えたのは、雀や蛙がだんだんに減って来たせいでしょう。あいつらも大勢いると、自然縄張り争いか何かで仲間喧嘩をするようになるのかも知れません。まあ、人間と同じことでしょうよ。ははははは」
それから枝(えだ)がさいて、江戸時代の蛙やすずめの合戦話が始まった頃に、ばあやが帰って来た。雨の音が又ひとしきり強くきこえた。
「よく振りますね」と、老人は雨の音に耳をかたむけながら又云い出した。「今もお話し申した雀合戦、蛙合戦のほかに螢合戦、蝶合戦などと云うのもあります。螢合戦もわたくしは一度、落合(おちあい)の方で見たことがあります。それから蝶合戦……。いや、その蝶合戦について一つのお話がありますが、まだお聴かせ申しませんでしたかね」
「まだ伺いません。聴かしてください」と、わたしはひと膝のり出した。「その蝶合戦が何か捕物と関係があるんですか」
「大ありで、それが妙なんですよ」
これが口切りで、わたしは今夜もひとつの新しい話を聴き出すことが出来た。


万延(まんえん)元年六月の末頃から本所(ほんじょ)の堅川(たてかわ)通りを中心として、その附近にたくさんの白い蝶が群がって来た。はじめは千匹か二千匹、それでもかなりに諸人の注意をひいて、近所の子供らは竹竿や箒(ほうき)などを持出して、面白半分に追いかけまわしていると、それが日ましに殖(ふ)えて来て、六月晦日(みそか)にはその数が実に幾万の多きに達した。なにしろ雪のように白い蝶の群が幾万となく乱れて飛ぶのであるから、まったく一種の奇観であったに相違ない。
「蝶々(ちょうちょう)合戦だ」と、みな口々に云った。
むらがる蝶は狂っているのか戦っているのか能(よ)く判(わか)らなかったが、ともかくも入りみだれて追いつ追われつ、あるいは高く、あるいは低く、縺(もつ)れ合って飛んでいる。疲れたのか傷ついたのか、水の上にはらはらと舞い落ちるのもある。風に吹きやられて大空にひらひらと高く舞いあがるのもある。そこらは時ならぬ花吹雪とも見られる景色であるので、屋敷の者も町家(まちや)の者も総出になって、この不思議なありまさまを見物しているうちに、誰が云い出すともなく、こんな噂󠄀(うわさ)がそれからそれへと囁(ささや)かれた。
「やっぱり善昌(ぜんしょう)さんの云うことはほんとうだ。弁天さまのお告げに噓はない。これは何かのお報(しら)せに相違あるまい」
気の早いのは松坂町(まつざかちょう)の弁天堂へ駈けつけて、おうかがいを立てるのもあった。松坂町はかの吉良上野介(きらこうずのすけ)の屋敷のあった跡で、今はおおかた町家となっている。その露路の奥に善昌という尼が住んでいる。以前は小鶴(こづる)といって、そこらを托鉢の比丘尼(びくに)であったが、六、七年前から自分の家に弁財天(べんざいてん)を祭って諸人に参拝させることにした。本所には窟(いわや)の弁天、藁(わら)づと弁天、鉈(鉈)作り弁天など、弁天の社(やしろ)はなかなか多いのであるが、彼女(かれ)が祀(まつ)っているのは光明(こうみょう)弁天と云うのであった。彼女自身の云うところによれば、ある夜更けに下谷(したや)の御成道(おなりみち)を通ると、路ばたの町家の雨戸の隙間(すきま)からただならぬ光りが洩れているので、不思議に思って覗(のぞ)いてみると、それは古道具屋で、店先にかざってある木彫(きぼり)の弁天の像から赫灼(かくやく)たる光明を放っていた。いよいよ不思議を感じて帰って来ると、その夜の夢にかの弁財天が小鶴の枕もとにあらわれて、われを祀って信仰すれば、諸人の災厄をはらい、諸人に福運を授けると告げたので、彼女翌朝早々(そうそう)に下谷へ行ってその尊像を買い求めて来たのである。その話が世間に伝わって、それを拝みに来る者がだんだんに殖えて来た。
小鶴はその名を善昌とあらためた。今までは長屋同様の小さい家であったのを建て換えて、一つの弁天堂のように作りあげた。彼女は托鉢をやめて、堂守(どうもり)のような形でそこに住んでいたが、参詣者の頼みに因(よ)っては一種の祈禱のようなこともした。身の上判断もした。彼女がこうして諸人の信仰や尊敬をうけるようになったのは、弁財天の霊験あらたかなるに因ること勿論で、二、三年前にもこういう実例があった。ある日の午後、独身者(ひとりもの)の善昌が近所へ用達(ようたし)に出ると、その留守へやはり近所のお国(くに)という女が参詣に来た。
ここでお国をおどろかしたのは、一人の若い男が仏前に倒れ苦しんでいることであった。男は口からおびただしい血を吐いて、虫の息で倒れている。お国はびっくりして声をあげると、近所の人たちも駈け集まって来て、一体(いったい)どうしたことかと詮議(せんぎ)したが、男はもう口を利(き)くことが出来なかった。彼はそこにころげている餅や菓子を指さしたままで息が絶えた。それからだんだんに調べてみると、彼は賽銭箱(さいせんばこ)の錠(じょう)をこじあけて賽銭をぬすみ出したのである。そればかりでなく、仏具のなかでも金目(かねめ)になりそうな物を手あたり次第にぬすみ取り、風呂敷につつんで背負い出そうとしたが、それでもまだ飽き足りないで、仏前にそなえてある餅や菓子を食い、水を飲んだ、そうして何かの毒に中(あた)って死んだらしいと云うことが判った。
取りあえずそれを善昌の出先へ報(しら)せてやると、彼女も驚いて帰って来た。かの男はどうして死んだのか判らないが、仏前の餅や菓子に毒のはいっている筈はないと善昌は云った。顔所は諸人のうたがいを解くために、かれらの見ている前でその餅や菓子を食ってみせたが、別になんにも変ったことはなかった。そんならかの男はなぜ死んだか。彼は盗人(ぬすっと)で、賽銭をぬすみ、仏具をぬすみ、あまつさえ仏前の供物(くもつ)まで盗み啖(くら)ったので、たちまちその罰を蒙って供物が毒に変じたのであろうと、諸人は判断した。かれらは今更のように弁財天の霊験あらたかなるに驚嘆して、信心いよいよ胆(きも)に銘じた。その噂󠄀がまた世間にひろまって、信者は以前に幾倍するようになった。諸方からの寄進も多分にあつまって、弁天堂は再び改築されたので、狭い露地の奥にありながらも、その赫灼たる燈明のひかりは往来からも拝まれて、まことに光明弁天の名にそむかないように尊く見られた。
その善昌が今年の三月、弁財天のお告げであると称して、一種の予言めいたことを信者に云い聞かせた。今年はおそるべき厄年(やくどし)であって、井伊(いい)大老の死ぐらいは愚かなことである。五年前の大地震、四年前の大風雨(おおあらし)、二年前の大コロリ、それにも増したる大きいわざわいが江戸じゅうに襲いかかって来るに相違ない。但しそれには必ず何かの前兆(ぜんちょう)があるから、いずれも用心を怠ってはならぬと云うのであった。附近の信者はみなそれを信じた。大地震、大風雨、大コロリ、黒船(くろふね)騒ぎ、大老邀撃(ようげき)、それからそれへと変災椿事が打ちつづいて、人の心が落着かないところへ、又もやこの恐ろしいご託宣(たくせん)を聴かされたのであるから、かれらの胸に動悸の高まるのも無理はなかった。
かならず何かの前兆があると善昌は云った。その警告においえているかれらの眼のまえに、不思議の蝶合戦が起ったのである。気の早い者はあわてて弁天堂へ駈け漬けると、仏前の燈明はすべて消えていた。幾匹かの白い蝶がどこからか飛んで来て、燈明の火を片端から消してしまったのであると、善昌は不思議そうに話した。


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蝶の最も出盛ったのは、朝の四ツ時(午前十時)頃から昼の八ツ時(午後二時)までで、八ツを過ぎることから無数の蝶の群れもだんだんに崩れ出して、鐘撞堂のゆう七ツ(午後四時)がきこえる頃には、消えるように何処(どこ)へか散り失せてしまった。水に落ちたものは流れもあえずに、夏の日の暮れ果てるまで堅川を白く埋めて、涼みがてらの見物を騒がせていたが、あくる朝は一匹もその姿をとどめなかった。
「弁天さまのお告げに噓はない。おそろしいことでござります」
善昌は再び信者たちに云い聞かせた。信者たちももう疑う余地はないので、善昌と相談の上で、七月の朔日(ついたち)から盂蘭盆(うらぼん)の十五日まで半月の間、弁天堂で大護摩(おおごま)を焚くことになった。護摩料や燈明料は云うまでもなく、そのほかにもいろいろの奉納物が山のように積まれた。
こうして、はじめの七日は無事に済んだがたなばた祭りもきのうと過ぎた八日の朝になって、善昌は突然に仏前の御戸帳(みとちょう)をおろした。今までは何人(なんびと)にも拝ませていた光明弁天の尊像をむらさきの帳(とばり)の奥に隠してしまったのである。これは夢枕に立った弁財天のお告げで、今後百日のあいだは我が姿を人に見せるな、その間にわざわいの日は過ぎ去ってしまうとのことであったと、善昌は説明した。そうして引きつづいて護摩を焚き、祈禱を行なっていたのであるが、それから三日と過ぎ、四日と経つうちに、誰が云うともなしにこんな噂󠄀がまた伝わった。
「御戸帳のなかは空(から)だ。弁天様はなくなってしまったらしい」
信者のなかでも有力の三、四人がその噂󠄀を気に病んで、諸人のうたがいと解くために、たといひと目でいいから御戸帳の奥を覗かせてくれと交渉したが、善昌は頑として肯(き)かなかった。本尊の秘仏を厨子(ずし)に納めて、何人にも直接に拝むことを許さない例は幾らもある。おまえ方のうちに浅草観世音のご本体を見た者があるか、それでも諸人は渇仰(かつごう)参拝するではないか。百日のあいだは我が姿を人にみせるなと云うお告げにそむいて、みだりに奥をうかがう時は、仏罰によつて眼が潰れるか、気が狂うか、どんな禍(わざわ)いを蒙らないとも限らない。おまえ方はおそろしい禍いを避けるために、護摩を焚き、祈禱を行なっていながら、却って仏罰を蒙るようなことを仕出来(しでか)して、どうする積りか。尊像のあるか無いかは百日を過ぎれば自然と判ることである。それを疑うものは参拝をやめたらよかろうと、彼女はきっぱりと云い切った。
こう云われると一言もないので、誰も彼もみな黙ってしまった。そうして、日々の祈禱は今までの通りに続けられたが、尊像紛失のうたがいはまだ全く消えないで、信者のあいだにはいろいろの噂󠄀が伝えられているうちに、いよいよ盂蘭盆の十五日が来た。祈禱はこの日を限りでとどこおりなく終った。
あくる十六日の朝になっても、弁天堂の扉はあかなかった。日々の祈禱の疲れで、きょうは善昌さんも朝寝坊をしているのであろうと、近所の者は初めのうちは怪しまなかったが、やがて午(ひる)ごろになっても扉があかないので、不思議に思って裏口へまわって窺うと、水口(みずぐち)の戸には錠がおろしてないとみえて、自由にさらりとあいた。幾たびか声をかけても返事がないので、近所の二、三人が思い切って薄暗い奥へはいると、どこにも善昌のすがたが見えなかった。彼女は六畳の小座敷に寝起きしている筈であるが、そこには蚊帳(かや)さえも釣ってなかった。
ひとり者であるから、今までにも家をあけて出ることは珍らしくなかったが、午頃までも表の扉をあけないというのは不思議である。それを聞き伝えて、信者の誰かれもあつまって来て、大勢が立会いの上で堂内をあらためたが、どこも綺麗に片付いていて、別に怪しむべき形跡もなかった。そのうちに一人が云い出した。
「善昌さんはもしや駈落(かけおち)をしたのではあるまいか」
弁財天の尊像紛失はやはり事実で、彼女はその申訳なさに、十五日間の祈禱料や賽銭のあぐいを掻きあつめて、どこへか駈落をしたのではあるまいかと云うのである。あるいはそんなことが無いとも云えない。それでなくとも、このあいだから諸人の疑問になっているので、大勢は立寄って恐るおそるその帳(とばり)をあけると、かの尊像のおん姿は常のごとく拝まれたので、一同は案に相違した。善昌の云ったのは嘘でなかった。その疑いが解けると同時に、それならばなぜ善昌はその姿をかくしたかと云う新しい疑いが更に深くなった。
弁天堂は信者の寄進によって善昌が作りあげたのであるが、こういう事件が起った以上、この露路のなかを差配している家主にも一応ことわって置かなければならないと云うので、誰かがそれを届けにゆくと、家主もとりあえず出て来た。そこで相談の上、あらためて家捜(やさが)しをすることになって、念のために床下までもあらためると、台所の揚板(あげいた)の下には炭俵が二、三俵押込んである。その一つのあき俵のなかに首を突っ込んで、善昌が俯向(うつむ)きに倒れているのを発見したとき、大勢は思わず驚きの声をあげた。善昌は手足をあら縄で厳重に縛(くく)られていた。
それだけでも諸人をおどろかすに十分であるのに、更に人びとをおどろかしたのは、二、三人がそのからだを抱き起そうとすると、あき俵をかぶせられている善昌には首がなかった。彼女は首を斬り落されているのであった。今度は誰も声を出す者がない、いずれも唖(おし)のように眼を見あわせているばかりであった。
「善昌さんの首がない」
その噂󠄀が隣り町(ちょう)まで伝わって、他の信者たちもおどろいて駈けつけた。見物の野次馬も続々あつまって来た。狭い露地のなかは人を以(もっ)て埋められた。おくれ馳せに来た者は往来にあふれ出して、唯(ただ)いたずらにがやがやと罵りさわいでいるのであった。
善昌の死――その仔細は誰にも容易に想像された。この十五日間、厄除(やくよけ)の祈禱をおこなって、護摩料や祈禱料や賽銭が多分にあつまっているので、それを知っている何物かが忍び込んで彼女を殺害したのであろう。善昌は抵抗したために殺されたのか、あるいはまず善昌を殺して置いて、それから仕事に取りかかったのか、その順序はよく判らなかったが、いずれにしても其の首を斬り落すのは余りに残酷である。床板を引きめくって縁の下を隈(くま)なくあらためたが、その首はどうしても見付からなかった。
首のない尼の死骸は六畳の間(ま)に横たえられて、役人の検視をうけることになった。本所は朝五郎(あさごろう)という男の縄張りであったが、朝五郎は千葉の親類に不幸があって、あいにくにきのうの午(ひる)すぎから旅に出ているので、半七が神田から呼び出された。半七はちょうど来あわせている子分の熊蔵(くまぞう)を連れて駈けつけた。地獄の釜の蓋(ふた)があくという盂蘭盆の十六日は朝から晴れて、八ツ(午後二時)頃の日ざかりは灼けるように暑かった。ふたりは眼にしみる汗をふきながら両国橋(りょうごくばし)をいそいで渡ると、回向院(えこういん)の近所には藪入(やぶいり)の小僧たちが押合うように群がっていた。
「ここの閻魔(えんま)さまは相変らずはやるね」と、熊蔵は云った。
「はやるのは結構だが、閻魔さまもちっと睨みを利かしてくれねえじゃあ困る。盆ちゅうにも人殺しをするような奴があるんだからな」
こんなことを云いながら二人は弁天堂にゆき着くと、露路の内そとには大勢の見物人がいっぱいに集まっている。それを掻きわけてはいってゆくと、検視の町(まち)役人ももう出張っていた。
「どうも遅くなりました。皆さん、ご苦労さまでございます」
半七は一応の挨拶をして、まず善昌の死骸を丁寧にあらためた。死骸の手足はあら縄で厳重にくくられていたが、ほとんど無抵抗で縄にかかったらしいことは、多年の経験ですぐに覚(さと)られた。そこらの畳には血の痕らしいものは見えなかった。もしや綺麗に拭き取ったのかと、半七は犬のように腹這って畳の上をかいでみた。
「尼さんは酒を飲みますかえ」と、半七はそこに控えていた信者の一人に訊いた。
当人は飲まないと云っていた。身分柄としても云わなければならないのであろうが、内証(ないしょ)で溶きどきに少しぐらい飲んでいたこともあるらしいと云う信者の答えを聴いて、半七はうなずいた。畳には新しい酒の香が残っていた。なにか紛失物はないかと訊くと、それはよく判らないが、尼が大切にしている革文庫がみえない。そのなかに金のしまってあるのを知って盗み出したのではあるまいかと云うのであった。半七はまたうなずいた。
式(かた)の通りの検視が済んで、そのあと調べを半七にまかせて、役人たちは引揚げた。町(ちょう)役人や家主も一旦(いったん)帰った。あとに残されたのは町内の薪屋(まきや)の亭主五兵衛(ごへえ)と小間物屋の亭主伊助(いすけ)で、この二人は信者のうちの有力者と見なされ、いわゆる講親(こうおや)とか先達(せんだつ)とかいう格で万事の胆煎(きもいり)をしていたのである。半七はこの二人を残して置いて、善昌の身許(みもと)詮議をはじめた。
「善昌は幾つですね」
「自分でもはっきり云ったことはありませんが、なんでも三十二、三か、それとも五、六ぐらいになっていましょうか。見かけは若々しい人でございました」と、五兵衛は答えた。
「ひとり者で、ほかに身寄りらしい者もないんですね」
「自分は孤児(みなしご)で、天にも地にもまったくの独り者だと、ふだんから云っていました」と、伊助は答えた。
「よそへ泊って来たことがありますかえ」
「祈禱などを頼まれて、夜も昼も出あるくことはありましたが、遅くもきっと帰って来まして、家をあけたことはひと晩もなかったようです」と、伊助はまた答えた。
これを口切りに善昌がふだんの行状から先頃の蝶合戦のこと、それから続いて今度の祈禱のことを、半七は残らず聞きただした。それが済んでから彼(か)の問題の尊像というのを一応あらためると、木彫の弁財天は高さ三尺ばかりで、かなりに古びたものであった。半七はその木像を撫でまわして、更に二、三ヵ所嗅(か)いでみた。そうして、小声で熊蔵に云った。
「熊や、おめえも嗅いでみろ」

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「尼さんには用のねえ商売だが、男か女の髪結(かみゆい)で、ここの家へ心安く出這入(ではい)りをするものがありますかえ」と、半七は訊いた。
伊助は小間物屋であるだけに、その人をよく識っていた。それは隣り町に住んでいるお国という女髪結で、善昌とは古いなじみでもあり、もちろん信者の一人でもあるので、ふだんから近しく出入りをしている。これも独り者で、年頃は四十を一つ二つ越しているかも知れないと云った。
「それじゃあすぐに呼んでください」
「かしこまりました」
伊助は怱々(そうそう)に出て行ったが、やがて引返して来て、お国はゆうべから家(うち)へ帰らないと云った。独り者であるから、いつも朝から家を閉めて商売に出歩いている。親類の家へ泊るとか云って、夜も帰らないことがしばしばある。きのうも夕方に帰って来て、湯に入ってから何処へか出かけたぎりで帰らない。大かた親類へでも泊りに行って、きょうは藪入で商売は休みであるから、どこかを遊び歩いているのであろうとのことであった。
「それじゃあいつ帰るか判らねえ」
思案しながら、半七は再び善昌の死骸に眼をやると、首のない尼は白い麻の法衣(ころも)を着て横たわっていた。半七はその冷たい手を握ってみた。
もしもお国が帰って来たならば、そっと自分のところまで報(しら)せてくれと頼んで置いて、半七はひとまず此処(ここ)を引揚ることになった。暑い時分のことであるから、信者たちがあつまってすぐに死骸の始末をすると五兵衛は云っていた。
「勿論、このまま打っちゃっても置かれめえが、火葬にするのはお見合せなさい。この死骸について、後日(ごじつ)またどんなお調べがないとも限りませんから」と、半七は注意した。
「では、土葬にいたして置きます」
五兵衛と伊助に見送られて、半七はここを出た。
さっきから余ほどの時間が経ったようであるが、七月なかばの日はまだ沈みそうもなかった。片蔭のない堅川の通りをふたりは再び汗になって歩いた。
「蝶合戦のあったと云うのはここらだな」
「そうでしょう」と、熊蔵は云った。「わっしは見なかったが、なんでも大変な評判でしたよ」
「むむ。評判だけは俺も聴いている」と、半七は立停(たちど)まって川の水をながめていたが、やがて子分にささやいた。「おい、おめえはさっきのあの木像を嗅いで、どんな匂いがした」
「なんだか髪の油臭いような匂いがしましたよ」
「むむ」と、半七はうなずいた。「善昌は尼だ。髪の油に用はねえ筈だ。なんでも油いじりをする奴があの木像に手をつけたに相違ねえ」
「すると、そのお国とかいう女髪結がいじくったかも知れませんね」
「おめえはあの死骸を誰だと思う」
「え」と、熊蔵は親分の顔をながめた。
「おれの鑑定では、あれがお国という女髪結だな」
「そうでしょうか」と、熊蔵は眼を見はった。「どうしてわかりましたか」
「あの死骸の手にも油の匂いがしている。梳(す)き油や鬢付(びんつ)けの匂いだ。元結(もっとい)を始終あつかっていることは、その指をみても知れる。善昌は三十二、三だというのに、あの肉や肌の工合が、どうも四十以上の女らしい。足の裏も随分堅いから、毎日出あるく女に相違ねえ」
「それじゃあお国の首を斬って、その胴に善昌の法衣(ころも)を着せて置いたんでしょうか」
「まずそうらしいな。お国はゆうべから帰らねえと云うが、おそらく来年の盆までは娑婆(しゃば)へ帰っちゃあ来(こ)ねえだろうよ」と、半七は苦笑(にがわ)らいをした。「それにしても、なぜお国を殺したかが詮議物だ。お国を自分の替え玉にして残して置いて、本人の善昌はどこかに隠れているに相違ねえ。おめえはこれから引っ返して、お国という女の身許や、ふだんの行状をよく洗って来てくれ。そうしたら何かの手がかりが付くだろう」
「ようがす。すぐ行って来ます」
「いや、待ってくれ。おれも一緒に行こう。こんなことは早く埒(らち)をあける方がいい」
ふたりは連れ立ってまた引返した。
お国の家は弁天堂の隣り町(ちょう)で、これも狭い露地の奥の長屋であった。近所でだんだんに聞きあわせると、お国の評判はどうもよくない。若いときから二、三人の亭主をかえて、今では独身(ひとりみ)で暮らしているが、絶えず一人ふたりの男にかかり合っているらしく、親類の家へ泊りにゆくと云うのも嘘かほんとうか判らない。その菩提寺(ぼだいじ)の住職が去年死んで、その後は若い住職に変ったが、その僧とも何かの係り合いが出来て、時どきにそっと泊り込みにゆくらしいという噂󠄀もある。それらの事実を探り出して、ふたりはここを立去った。
「さあ、もうひと息だ」
半七は先に立って歩いた。お国の菩提寺は、中(なか)の郷(ごう)の普在寺(ふざいじ)であると聞いたのを頼りに訪ねてゆくと、その寺はすぐに知れた。小さい寺ではあるが、門内の掃除は綺麗に行きとどいて、白い百日紅(さるすべり)の大樹が眼についた。入口の花やで要りもしない線香と樒(しきみ)を買って、半七はそこの小娘にそっと訊いた。
「ここのお住持はなんという人だえ」
「覚ひかり(かっこう)さんと云います」
「本所からお国さんという髪結さんが時どき来るかえ」
「ええ」と、娘はうなずいた。
「泊って行くこともあるかえ」
娘はだまっていた。
「それから、やっぱり本所の方から尼さんが来やあしないかえ」
「ええ」と、娘は又うなずいた。
「なんという人だえ」
娘はなにか云おうとする時に、婆さんが手桶をさげて帰って来た。彼女(かれ)は娘を眼で刺しながら、半七らに向ってひと通りの世辞などを云い出した。そのうちに又ひと組の参詣人が花や線香を買いに来たので、半七は思い切って店を出た。
「この線香をどうしますえ」と、熊蔵は小声で訊いた。
「棄てるわけにも行くめえ。無縁の仏にでも供えて置こう」
残暑の強いこの頃ではあるが、墓場にはもう秋らしい虫が鳴いていた。半七は何物をかかたずねるように石塔のあいだを根気よく縫い歩いていると、墓場の奥の方に紫苑(しおん)が五、六本ひょろひょろ高く伸びていて、そのそばに新しい卒塔婆(そとば)が立っているのを見つけた。卒塔婆は唯一本で、それには俗名も戒名も書いてなかったが、きのう今日掘り返された新しい墓であることはひと目に覚られた。
「ここに新ぼとけがある。ここらへ供えて置きましょうか」と、熊蔵は手に持っている樒と線香とを見せた。
「馬鹿。飛んでもねえこおをするな」と、半七は叱った。「それほど邪魔になるなら、どこへでも打っちゃってしまえ。手前のようなどじはねえ。そんなものはこっちへよこせ」
熊蔵の手から樒と線香とを引ったくって、半七はすたすたと歩き出した。

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「これからの道行(みちゆき)を下手(へた)に長ながと講釈していると、却ってご退屈でしょうから、もうここらで種明かしをしましょうよ」と、半七老人は云った。「今の人はみんな頭がいいから、ここまでお話すれば、もう大抵お判りになったでしょうが、弁天堂で死んでいたのはやっぱり髪結のお国で、善昌は生きていたんです」
「善昌が殺したんですか」と、わたしは訊いた。
「そうです。善昌という尼はひどい奴で、当人はいちいち白状しませんでしたけれど、前にもいろいろの悪いことをしていたらしいんです。勿論、お国という女も無事に済まない身の上で、こうなるのも心柄です。初めにお話し申した通り、弁天堂のお賽銭や仏具をぬすみ出そうとして菓子や餅の毒に中(あた)って死んだ若い男がある。あれは仏の罰(ばち)でも何でもない。善昌とお国が共謀して殺したんです。誰もそれに気がつかないで、可哀そうにその男は身許不詳の空巣(あきす)ねらいにされて、近所の寺へ投げ込まれてしまったんですが、実は善昌のむかしの亭主の弟だそうです。
善昌は越中(えっちゅう)富山(とやま)の生れで、早く亭主に死に別れて江戸へ出て来て、本所で托鉢の比丘尼をしているうちに、どこからか弁天様を見つけ出して来て、いい加減の出鱈目(でたらめ)を吹聴すると、その山がうまくあたって、だんだんにお有難連(ありがたれん)の信者がふえて来た。ところへ、ひょっくりと出て来たのが先の亭主の弟で与次郎(よじろう)という、堀川(ほりかわ)の猿回し見たような名前の男で、これがどうして善昌の居どころを知ったのか、だしぬけに訪ねて来て何とか世話をしてくれと云う。よんどころなしに幾らか恵んで追っ払うったのですが、こいつもおとなくしない奴とみえて、なんとか因縁をつけて無心に来る。断われば何か忌(いや)がらせを云う。こんな者が繁々(しげしげ)入り込んでは、ほかの信者の手前もあり、もう一つには善昌の方にも何かうしろ暗いことがあて――これは当人がどうしても白状せず、なにぶん遠い国のことですからよく判りませんでしたが、善昌は先(せん)の亭主を殺して江戸へ逃げて来たのを、弟の与次郎が薄うす知っていて、それを種にして善昌を強請(ゆす)っていたのではないかとも思われます――そんなわけで、この与次郎を生かして置いては為にならないと思ったので、ふだんから仲のいいお国と相談して、与次郎を殺す段取りになったんです。善昌の申立てによると、自分は殺すほどの気はなかったが、お国がいっそ後腹(あとばら)の病めないように殺してしまえと勧めたのだと云うことです。いずれにしても与次郎を亡き者にすることに決めたが、勿論、むやみに殺すことは出来ない。そこで、善昌は与次郎に向ってこういう相談を持ちかけたんです。
わたしも出来るだけはお前の世話はしてあげたいが、今の身分ではなかなか思うようには行かない。就いてはお前の方でこの弁天様をもっと流行(はや)らせてくれまいか。信者がふえれば賽銭もふえる。寄進もふえる。したがってお前の為にもなると云うわけであるから、その積りで一つ芝居を打ってくれと云うことになったのです。その芝居というのは、与次郎が泥坊の振りをして弁天堂に忍び込んで、賽銭や仏具をぬすみ出そうとすると、からだが竦(すく)んで動かれなくなる。そこへお国が来て騒ぎ立てる。近所の者も集まって来る。いい頃を見計らって善昌が帰って来て、これも弁天様のお罰(ばち)だと云って何かのご祈禱をすると、与次郎のからだが元の通りになる。ほかの者が縛って突き出そうと云っても善昌がなだめて免(ゆる)してやる。さあ、こうなれば諸人の信仰はいよいよ増して、弁天様の霊験あらたかであるという評判がいよいよ高くなる。信者が俄かにふえる。収入(みいり)も多くなる。
この相談を持ちかけられて、与次郎という奴は馬鹿かずうずうしいのか、それは面白いと請け合って、とうとうその芝居を実地にやってみることになったんです。そこで筋書の通りに運んで行って、再選を袂に入れる。金目になりそうな仏具を背負い出すという段になると、留守のはず善昌が裏から出て来て、からだが竦むと云うだけではいけない。これを食って苦しむ真似をしてくれと云って、仏前に供えてある菓子と餅とをとって与次郎の口へ押込んだので、なに心なくむしゃむしゃと食うと、さあ大変、与次郎はほんとうに苦しみ出して、口や鼻から血を吐くという騒ぎ。お国も置くで様子を窺っていて、与次郎がもう虫の息になった頃をみすまして、善昌は裏からそっと出て行く。お国は表へ廻って来て、今初めてそれを見つけたように騒ぎ立てる。与次郎は一杯食わされて、さぞ口惜(くやし)かったでしょうが、もう口を利く元気もない。餅と菓子とを指さしただけで、苦しみ死(じに)に死んでしまったのです。遠国(おんごく)の者ではあり、下谷あたりの木賃宿(きちんやど)にころがっている宿無し同様の人間ですから、死ねば死に損で誰も詮議する者もないい。心柄とは云いながら、ずいぶん可哀そうな終りでした。
禍いを転じて福となすとか云うのは此の事でしょう。善昌の方ではこの芝居が大あたりで、邪魔な与次郎を休(やす)めてしまった上、案の通りに信者はますます殖えてくる。万事がとんとん拍子に行って、弁天堂を立派に再建(さいこん)するほどの景気にもなったんですが、与次郎の代りにお国というものが出て来て、これが時どき無心に来る。しかしこれは女のことでもあり、自分も与次郎毒殺の一味徒党であるから、そんな暴(あら)っぽいことは云わない。それで二人はまず仲よく附合っていたんですが、さらに一つの捫着(もんちゃく)が出来(しゅったい)したんです」
ここまで話して来て、老人は息つぎの茶をひと口飲んだ。普在寺の覚光という若い住職を中心にして、尼と女髪結とのあいだに色情問題の葛藤が起ったらしいことを、私はひそかに想像していると、老人の説明も果してその通りであった。
「お国は勿論ですが、善昌も行儀のよくない奴で、うわべは殊勝(しゅしょう)らしく見せかけて、かげへ廻っては茶碗酒をあおるという始末、仲のいいお国は飲み友達で、夜が更けてからお国が酒や肴をこっそりと運び込んで、六畳の小座敷で飲んでいる。そればかりでなく、ふたりは花を引く。これは三人でないとどうも面白くないので、お国が善昌を誘い出して時どきにかの普在寺へ遊びに行く。この寺の覚光という青坊主がまたお話にならない堕落坊主で、酒は飲む、博奕は打つ、女狂いはするという奴だから溜まらない。同気求むる三人があつまって、酒を飲んだり、花をひいたりして遊んでいるうちに、善昌の金廻りのいいのを見て、色と恋とで覚光は係り合いを付けてしまった。覚光というのはまったく悪い奴で、尼と女髪結とを両手にあやなして、双方から絞り取った金で吉原(よしわら)通いをしている。この吉原通いのことはお国も善昌も知らなかったが、おたがい同士の秘密はいつか露顕したので、自然両方が角(つの)突き合いになったんですが、なにぶんにも善昌の方が、お国よりは女振りが少しよい上に、年も若い。おまけに金廻りもいいと来ているので、お国の方では妬(や)けてたまらない。善昌をつかまえて、さあ、覚光と手を切るか、さもなければお前がふだんの行状を残らず信者に触れて歩くぞと云って、うるさく責め付けると云うわけです。
しかし善昌も堕落坊主も思い切ることは出来ない。お国はいよいよ躍起(やっき)になって、どうしても男と手を切らなければ与次郎殺しの一件を訴人するから覚悟しろと云う。おそろしい手詰めの談判になって来たので善昌もいよいよ困った。勿論、お国も与次郎殺しの徒党ですから、迂闊にそれを口走れば自分の身が危(あぶな)いので、ただ嚇かすばかりで思い切ったことも出来ない。それを知って、善昌もいい加減にあしらっているので、お国はますます焦(じ)れ込んで、何がなしに善昌を困らせてやろうと思って、祈禱の中日(なかび)の前夜に掛けて行って、大事の弁天様を無理無体にかつぎ出してしまったのです。これには善昌もまったく困って、信者にはいい加減の出鱈目(でたらめ)を云って、誤魔化しておいて、お国の方へいろいろに泣きを入れると、お国もようよう納得して、きっと覚光と手を切るならば戻してやると云って、十五日の夜ふけにかの木像を返しに来たんです。
それから先のことは、なにぶん一方のお国が死んでいるので、善昌の片口(かたくち)だけではよく判りませんが、ともかくも二人が酒を飲むことになって、お国が油断して酔ってしまったところを、善昌が不意に絞め殺したらしいのです。本人は一時の出来心だと云っていましたが、どうも前から巧(たく)んだことらしい。善昌はどうしても覚光のことが思い切れない。さりとて打っちゃって置けば何を云い出すか判らないという懸念があるので、とうとうこんなことになってしまったんです。お国の死骸には自分の法衣(ころも)を着せかえて、わざと手足を縛って、台所の揚板の下へ引摺って行って、まだ少し息の通っている女の首を……。いや、どうも残酷な奴です。
こうして、自分が強盗に殺されたように仕組んだ以上、うかうかしてはいられないので、有り金は勿論、目ぼしい物はひと包みにして弁天堂を逃げ出すことになりました。お国の首は滅多なところへ隠されないので、これも抱え込んで行ったのです。ゆく先は普在寺で、覚光に一切(いっさい)のことを打明けて、当分はここに隠まってくれと云われた時には、さすがの覚光も顔の色を変えて驚いたが、迂闊に善昌を突き出すと、自分の女犯(にょぼん)その他の不行跡が残らず露顕する虞(おそ)れがあるので、迷惑ながらもともかくも隠(かく)まうことにして、お国の首は墓地の隅に埋めて置いたと云うわけです。わたくしも新しい卒塔婆をたてた墓がどうもおかしい、そこを掘ったらばお国の首が出るだろうと思ったんですが、むかしでも墓荒しは非常にやかましいのですから、そのときは一旦無事に引揚げて、町方(まちかた)からあらためて寺社奉行の方へ届けた上で、わたくしどもが捕り方に出向きました」
「善昌は素直につかまりましたか」
「わたくしがまず住職の覚光に逢って、光明弁天堂の善昌という尼がこの寺内にいる筈だから引渡すしてくれと云うと、坊主も最初は不知(しら)を切っていましたが、そんなら墓地の新しい墓を掘らせてくれと云うと、坊主ももう真蒼(まっさお)になりました。善昌も覚悟したとみえて、この掛合いのあいだに裏口から抜け出そうとするところを、そこに張り込んでいた熊蔵に取押さえられました。こいつも強情で、最初はなんとか彼(か)とか云い抜けようとしていました。木造に油の匂いがする、死骸の手にも油の匂いがする。墓地からはお国の首が出ると云うのですから、もう逃(のが)れようはありません。とうとう恐れ入って白状しました。善昌は無論に獄門です。覚光も一旦は入牢(じゅろう)申付けられ、日本橋(にほんばし)に晒(さら)しの上で追放になりました。
そこで、問題の蝶合戦ですが、善昌も覚光という相手が出来て、それに入れ揚げる金が要るので、なにか金儲けの種をこしらえようと思っているところへ、井伊大老の桜田(さくらだ)事件などが出来(しゅったい)して、世間がなんだかざわ付いているので、そこへ付け込んで今年も大騒動があるなどと触れ散らし、祈禱料でも巻きあげる算段をしていると、丁度かの蝶合戦があったので、お有難連はすっかり烟(けむ)にまかれて、これはきっと何かの前兆だと云うことになったので、善昌は万事思う壺にはまって内心大喜びでいると、それがお国には面白くない。善昌が金儲けをすれば、きっと覚光のところへ運んで行くだろうと思うと、いよいよ妬(や)けて堪まらないので、本尊の木像をかつぎ出すやら、坊主と手を切れと責めるやら、大騒ぎをやった挙げ句の果てが、更にこんな大騒ぎを仕出来してしまったんです」
「その弁天様はどうなりましたか」と、わたしは訊いた。
「善昌の仕置がいまると、弁天堂は取毀(とりこわ)されましたが、始末に困ったのはその木像で、かりにも弁天様と名の付くものをどうすることも出来ない。さりとて引取る者もないので、とうとう評議の上で川へ流すことになりました。それが流れて行くときに一匹の白い蛇が巻き付いていたという評判で、それは善昌の魂(たま)だなどと云い触らす者もありましたが、なに、それはみんな噓の皮で、むかしの人はややもすると斯(こ)ういうことを云い触らす。又すぐにそれを信用する。畢竟(ひっきょう)それだから善昌の尼などの喰いものになったのでしょうね。おや、雨の音がいつの間にかやんだようです」
老人は起(た)って縁側の雨戸をあけると、わたしがこの長い話に聴き惚れている間に、飴はとうに晴れたとみえて、小さい庭にはびっくりするような明るい月の光がさし込んでいた。

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。