北條民雄日記 (1937年)

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動


一九三七年 (昭和十二年)


北條民雄


 一月一日。

 昨夜から神経痛と急性結節にて元日から床の中にゐる。

 東條耿ーが酒を飲んでやつて来た。

 光岡良二、於泉信夫が見舞ひに来た。

 式場氏 (『文學界』編輯部) より賀状。

 佐藤君よりパンを送つて来た。夜は神経痛激しく、加ふるに両肩が痛み、横向きに寝ても仰向いても、どうしても痛くてたまらぬ。その上に例の神経症的な全身ケイレンが連続して、文字通り七転八倒であつた。実にみじめな正月なり。於泉に二度按摩をしてもらふ。これは寝ながら書いてゐる。


 一月二日。

 今日も一日床の中で暮した。

 S君より来信あり、彼がなつかしい。手紙の様子ではS子さんと喧嘩をしたらしい。痛みは相変らずである。

 夜、東條耿一来る。昨日の勢ひはなく、しよげてゐる。そして禁酒したといふ。

 痛いので小説も読めず、考へることも出来ず、残念である。手袋をはめて床の中であるから、日記も書けない。腹が立つ。


 一月三日。

 今日は大分調子が良かつたが、それでも一日床の中で暮す。嫌になつた。

 昼頃、原田樫子、光岡良二来る。書初をして帰る。

病眼閉して万人を憐れむ 樫子

勁剛の神経、駿鋭の感覚、不逞の心魂 良二

 原田氏は流石に立派な字であるが、光岡のは高等小学二年生の習字といふ恰好である。二人のを見てゐると急に自分も書きたくなつたので、手袋をはめたまま書いてみる。指の自由を失つてゐるし、元来下手くそと来てゐるので怪しげな字である。

実に静かな新年であつた。これで良い。 民雄

 夜は誰も来ず、なんとなく淋しくてならぬ。


 一月四日。

 昨日案外良いと思つたが、今日は猛烈に痛む。

 十一時頃、五十嵐女医来診。

 ベッドが空いてをらぬので十日頃まで入室出来まい、とのことである。

 二時頃、東條耿一が来た。

 腕の中が焼けるやうである。この分ではなかなか良くなるまい。小説を書けんのが残念である。夜、光岡良二が来た。

 看護婦が来、注射。テトロドトキシン〇・五、カルボール〇・五。


 一月十日。

 痛みが激しく今日まで日記が書けなかつたが、今日は大変良い。

 朝、光岡良二来り、力ニ缶を開いて食ふ。

 川端さんと創元社とに手紙を出した。

 午後、東條耿一来る。『文學界』の二月号に彼の詩が載つた。めでたし。

 夜、於泉信夫来る。 近頃便秘が始まつて腹工合が悪くてならぬ。

 少し本を読んだ。何か随筆が書きたい。入室はよした。


 一月十一日。

 痛みがやうやく止つたので、床をあげる。午前中東條の所へ遊びに行く。寒いので頰かむりをして行く。怪しげな恰好だと言つて笑はれた。

 昼からは机の前に坐つて、ぼんやりと過す。どうしても気持が熟して来ないので、小説が書き出せない。この小(註1)は自信がある。だからこれを考へてゐると、自然痛快な気持になつて来る。早く書きたし。三百枚くらゐの予定である。

 夜少し痛んだ。注射をうちに看護婦Mが来た。テト〇・三をやつて貰ふ。


 一月十二日。

 九時頃床の中でうつらうつらしてゐると、突然斎藤看護婦に呼ばれた。寝衣のまま出て見ると、かねて頼んであつたレコードを持つて来て呉れたのであつた。

 於泉の所へ遊びに行く。雑談二時間。昼食後故郷の父と上村君とに手紙を書く。後レコードをかけて一人楽しむ。永いこと音楽を聴かなかつたせゐであらう、急に体の調子が生き生きして来て、便が出たくなつた。音楽で便秘が癒つたのは痛快なり。

 川端さんと中村光夫氏より来信。中村氏よりはそれに小包で『二葉亭論』と『ベラミ』を送つて貰つた。中村氏は実に立派な批評家なり。


 一月十三日。

 『二葉亭論』読了。

 夜、東條耿一来る。

 床につくと又痛み出した。


 一月十四日。

 また床を出して、一日寝て暮す。

 この調子では冬中何も出来ないのではあるまいかと思はれて、少々悲観。午前中於泉信夫、東條耿一来り、ガチャガチャとレコードを鳴らせてうるさし。


 一月十五日。

 『文學界』二月号を読む。

 座談会は今までのうち第一の出来なり。小林秀雄氏の身振りに同感す。亀井勝一郎氏の時評立派なり。小説は読まず。

 夜、『ベラミ』を読み始めしもすぐ嫌になる。

 七時頃、H看護婦来り注射。明方に痛み激し。


 一月十六日。

 床の中で暮す。

 無意味な一日なり。苛立たし。


 一月十七日。

 一日床の中で例の如し。

 午後、式場隆三郎氏突然来訪さる。試験室まで出掛ける。四十四五歳に見える良く肥えた人なり。流石に第一流の人なれば語気温和にして、自分如き者に対しても、恰も友人の如し。心より敬愛の念湧けり。本病院の医師日東氏の師とか。


 一月二十二日。

 日東氏がお手紙を呉れた。目下学位論文を作製中とか。元気のいい文面なり。式場氏よりお手紙にて、北條によろしくと伝言ありとある。返事を書く。

 神経痛全快せず。夜、注射。


 一月二十三日。

 相変らず同じやうな一日なり。

 光岡良二来る。夜、注射。小説のことしきりに頭の中を往来す。


 一月二十四日。

 於泉信夫が『アンナ・カレーニナ』を返して来た。今朝四時頃から七時頃まで疼痛激しく、唸り続けた。痛む時はうんうん唸ることが僅かの救ひなり。おまけに左腕の神経が脹れて来た。このうへ右まで痛み出しては堪らんがどうも致方なし。


 一月二十八日。

 民衆から……を奪つたら後に何が残るか。なんにも残りはしないのだ。彼等はこの言葉の中に自己の心の在り場所を求めようとしてゐる。それは何千年かの間に築かれた××であるにしろ、しかし彼等はこの……によつて心の安定を得てゐるのだ。それは国家そのものに対する態度である。現在の彼等にとつては、これのみが残された唯一の……なのだ。重要なのはこの点だ。


 一月二十九日。

 午後四時半、七号室へ入室。

 恐るべき世界なり。悪夢の如し。自殺がふと頭を掠める。周囲を見るに堪へず。

 ドストエフスキー『地下生活者の手記』を読み始む。読書のみが救ひなり。


 一月三十日。

『地下生活者の手記』読了。

 思想乱れて統一せず。


 朝、空の色に不思議な美しさを覚ゆ。太陽が出始めて黄色であったのだ。

 夜、於泉信夫来る。自殺の話をす。


 一月三十一日。

 光岡良二が見舞ひの品を持つて来て呉れた。

 非常に喋りたくてならなかつた。が、喋りつつ喋つてゐる自分の言葉に不快を覚ゆ。

 夜、東條耿一来る。彼の詩を読む。彼近来の力作なり。気持少しづつ落着き始めたが、落着いた後に来るものは、恐らくは更に深い懐疑と苦悩であらう。『未成年』を読み始める。


 二月一日。

 朝、レコードをS・M子君に返す。彼女は某看護手と二人でゐた。このことに自分は奇妙な不快を覚え、更にさういふことに不快を感じてゐる自分が不快であつた。

 自分は女を愛してはならぬのである。恋をしてはならぬのである。青春の血を空しく時間の中に埋めねばならぬのである。

×

 夜、光岡良二来る。十時近くまで語る。十七歳の時、………………の洗礼を受けた自分は、一切の「権威」といふものを失つてしまひ、そのために心の置場なく揺ぎ続けてゐるのだ。彼は形而上のもの、即ち神を持つてゐる。しかし自分には神はない。人間すらも信じ切れぬ。


 二月二日。

 ラヂオが取りつけられたので終日うるさし。ラヂオは全く愚劣である。本も読めず、考へることも出来ぬ。おまけに今日は「………」と来てゐる。…… (これがまた話にならん俗物である。) が………、……を従へてぞろぞろとやつて来る。……が一人々々……………る。自分の番の時は実にたまらなく不快であつた。こんなことは書く価値なし。

 夕方、光岡良二来る。彼は私の床の中にもぐり込んで語る。ベッドが狭いのでひどく窮屈であつた。

 夜、東條耿一、於泉信夫、H子、T子来る。女たちは先に帰り、後、うどんをうでて喰ふ。於泉に包帯を巻かせる。何といふ不様。彼は何をやらせても下手くそであ る。みんな帰り、ひとりになると急に気持が暗くなる。Mの姿など浮び淋しくてならぬ。よろしいか、お前は女に惚れてはならぬ。


 二月三日。

 昨夜眠れなかつたのですつかり今朝は寝過してしまひ、朝食は食ひはぐれてしまつた。痛みは殆ど止つたので、もう病室にゐるのが嫌になつた。今日は節分であるといふ。

 終日、正岡子規の随筆を読み暮す。

 創元社より手紙。

 昨夜食つたうどんがたたつて、今日は腹工合が悪く、下痢三回。

 明日からはこの病室にゐる連中の人物描写をやるつもりである。


 二月四日。

 私は自分が癩者であることによつて、他人より受ける侮辱や嫌悪は何とも思はない。人に嫌はれるといふことはいやなことであるけれど、それは要するに自分に孤独に堪へる力があればいいのだ。私をして死を思はしめるものは、人より受ける同情である。同情! これほどたまらないものが他にあるだらうか。同情されるとは何か。それは同情されねばならんほど自分が無価値で無意義な存在を証明するものだ。これが俺にはたまらんのだ。

 近頃、なんとなく頭がバカになつてゆくやうな気がする。


 二月五日。

 屈辱! なんといふ屈辱であらう。こんな恥辱をも忍んで自分は生きねばならんのか。この前の……の時といひ、……の態度といひ、今夜の………の態度といひ、凡て侮辱に満ちてゐる。俺は今夜こそは泣き出したいばかりであつた。それは下らないちよつとしたことだ。今までにもこんなことはもう何度もあつた。しかし今夜は実にたまらなかつた。昨日記したことは全部嘘だ。俺は何よりも侮辱を受けることがたまらないのだ。

 俺はもう今後自己を卑下することは一切止す。俺は断じて彼等と同一ではない。俺は彼等如きと同日に談じられる人間ではないのだ。俺の頭脳は彼等よりはるかに優れてをり、俺は彼等の手のとどかぬところで苦悶する人間である。彼等凡俗に俺が判つてたまるものか。

 至高孤独の精神に生きるベし。


 二月六日。

 川端さんより来信。重病室日誌を書けとのこと。

 夜、東條耿一、光岡良二来る。東條は早くかへり、光岡は九時過ぎまでゐる。政治・文学・哲学・人世・社会、百般を語る。

 十時頃、自分から三つばかり離れた寝台にゐるノドキリ氏苦しみ始める。力ニューレの下の方に何かが引つかかつて呼吸困難に陥ちたのである。だが他の連中はその苦しむさまを眺めてげらげらと笑つてゐる。Yの如きはその横にゐて苦しむ様の真似をしてゐる有様である。彼等は隣りの者がどんな生死の境に苦しんでゐても、平然たるものであるのみでなく、滑稽にすら思つてゐるのだ。


 二月七日。

 終日霖雨降り、佗しき一日なり。

 訪客なく、終日横 (た) はつて暮す。

 暫く逢はないうちに鮮人の文さんが盲目になつてゐる。「前から山でもぶつかつて来るやうで危くて歩けやしない。」と彼は語る。

 昼頃、隣り寝台の李さんが、職工手帳を出して私に見ろといふ。

「……………修繕工場職工手帳、鋳工」と表紙に印刷してある。もうぼろぼろになつてをり、それをところどころはりつけて入念に手入れしてある。彼はそれを眺めてゐる私に向つて得意気にニヤリとする。これが彼の過去の凡てであり、彼の現在はこの手帳に支へられてゐるのである。


 二月八日。

 昨日からの霖雨がやまず、今日も午前中はしよぼしよぼと降り続き、午後になつてやうやく止んだ。頭がひどく重苦しく、侘しく陰鬱でならなかつた。かういふ日はちよつとでも気に触 (障) ることがあると、もうむつと腹が立つて、物をいふのも嫌になる。

 三時半頃於泉信夫が来て、ホーレン草をうでて呉れた。彼の作としては上出来なり。

 四時半頃からやうやく雲が動き始め、空のところどころに青い穴が開いて行く。その曇天の穴から、落ちかかつた太陽の光線がさつと射し出て来る。私は生きかへつたやうな気持になつて、なんだか友が恋しくなつて来る。お喋りがしたくなつたのだ。(午後四時半記)


 二月九日。晴。

 眼をさますと朝日がさつと射し込んで来て、真蒼な空が見える。青空! これを見た瞬間、なんとなく気持が明るくなり、何時もうるさく腹の立つラヂオ体操さへが、うれしく楽しく聴える。生きてゐるといふことが今朝ほどうれしかつたことはない。珍しい気持だ。隣りのMさんが眼の手術をして来た。絶対安静とのこと。が、その横でYは下劣な女の話をしながらMさんをからかつてゐる。右隣りの李さんが不意に、「天の神よ、一日も早く私を天国に連れて行つて、あなたの所へ置いて下さいませ。アーメン。」と祈りを始める。十二時頃から光岡良二の所へ遊びに行く。二時間ばかり話す。夜、東條耿一来る。

 ノド掃除のことをH附添夫は鉄管掃除と呼ぶ。

 読書――小林秀雄「続々文芸評論」。ドストエフスキー『妻への書簡』。


 二月十日。

 痛み全くとまり朝から良い気持である。Mさんも工合が良いと見えて、いくらか冗談を言ふやうになつた。外科治療日のこととて、午前中は読書も出来なかつた。午後M君が来たので二人で舎へ出かけて見る。久振りに書棚の前に坐つてみる。帰りに図書館に寄つて新聞を見る。もう六十日も見なかつた新聞であるが、別段気にかかることも書いてない。文芸襴も勿論覗いて見たが、ここも十年一日の如く、誰もみな間に合せの議論と見えた。誰が書いてゐたのか名前も思ひ出せない。新刊紹介に自分の本のことを書いてあるのを見て、うんざりして不快になる。近頃あの本のことを思ふたびに嫌な気持になつて憂鬱になる。


 二月十一日。

 昨夜の不眠がたたつて今朝は睡くてたまらなかつた。朝食後ぼんやりした気持で窓外を眺めてゐると、急に九号病室の方で死亡通知の鐘の音が聞え出した。また誰か死んだのだ。寒いうちが最も死亡者が多い。地球が冷えかかるからであらうか? 九時頃になつて死体を乗せた担架が窓下を通つて行つた。担架を中にして、二三十名の患者達がぞろぞろと従って行った。今日の中に解剖され、明朝は野辺送りであらう。空はどんより曇つて陰鬱である。昼食後、散歩に出かけて於泉の所に寄り、久振りで碁を打つて見る。二勝一敗。夜、また不意に奇怪な不安と絶望とが蘇つて来てたまらない気持になつて来る。室内の悪臭が鼻につき始め、泣き出しでもしなければもう居ても立つてもゐられない。で、また廊下をぐるぐると散歩に出かける。歩き廻ることだけが僅かの救ひである。歩き廻るとは何か? それは自己の肉体を持て余し、どうしやうもなくなつた場合に於ける一種の身振りである。

 読書、ドストエフスキー『妻への書簡』。


 二月十二日。

 昨夜はどうしても睡れず (といつて毎夜二時過ぎまで眠れぬのであるが) 肩が凝り、全身が硬直したやうになつて痛くてたまらず、午前二時頃起き上つてベッドの上で体操を始める。両手、首、上体の運動を二十分くらゐする。


 三月六日。

 久々で病院を出て来た。だが、もうあの病院へ這入つてから帰省するのはこれで三度目である故、何の刺戟も受けない。

 東京は例の如く平凡にて、退屈するより他はなんとも致方なき所なり。一日の出来事など記しても詮なし。

 夜、××の旅館で泊る。原稿紙を出してみたが、何も書きたくない。

 なんといふ平凡な、陳腐な、そして憂鬱な人生であらう。生きてゐることの味けなさ、つまらなさ、一晚中死ぬことばかりを考へる。(××の宿屋で)


 三月七日。

 なんのために出て来たのか、さつぱり判らぬ。田舎へなんぞ行きたくもないし、それかといつて東京にゐる気もせぬ。我が身の消えてなくなることだけが今は救ひであるのかも知れぬ。トランクの中に、マクス・スチルナアを入れて来た。これはよかつた。俺はなにものにも無関心だ。孤独々々。だがなんとなく草津の山へ行くのも嫌でならぬ。今夜は××でも買つてみませうか。

 九時頃、Uの所へ出かけ、彼の妻君を加へ三人で映画を見た。石川達三氏原作の「蒼氓」。力作である。実に立派な出来と感心する。とりわけ子供の描写の素晴しさは今もなほ生々しい力をもつて心の中に焼きついてゐる。

 夜、汽車に乗り、一晚中揺られ続けて一睡も出来ず××に着いた時には文字通りへトへトなり。波止場から海を眺めたが、何の感じもない。なんだか頭が白痴のやうになつてゐる。これは決して汽車の疲れのみではない。ここまで来たが、やつぱり田舎へ行く気が起つて来ない。なんとなく空しく不安で、心が落着かぬ。いつそこのまま東京へ引つかへしてしまはうと思ひ、東京行きの切符を買ふ。が、東京へ行くのには余りに疲れてゐる。で、宿を求め、昼間からぐつすり眠つた。今日はここで一泊し、明日は東京へ引き上げる。なんのためにこんな××くんだりまで来たのか判らぬ。今の自分の気持は一体なんであらう。自分でも判らぬ。ただ淋しいのだ。切ないのだ。人生が嫌なのだ。


 三月二十日。

 才能とは、厭ふべき特権なり、とシエストフは言つた。


 三月二十一日。

 今は一輪の花、一羽の小雀を与へよ。

 さらば我は天使の如く生きん。


 三月二十二日。

 先づ盲目になる。それから指も足も感覚がなくなる。続いて顔、手、足に疵が出来る。目玉をえぐり抜く。指の爪が全部落ちる。頭のてつぺんに穴があき、そこから膿がだらだらと出る。向う脛に谷のやうな深い長い疵が出来る。包帯の間にフォークを挟んで飯を食ふ。鼻血がだらだらと茶碗の中に流れ落ち、真赤に染まった飯を食ふ。さてそのうちに咽喉のどがやられ力ニュ―レで呼吸をする。毎日々々金魚のやうにあつぷあつぷと苦しがりながら寝台の上で寝て暮す。夏ともなれば姐が湧き、冬ともなれば死んぢまふ。それ、焼場で鐘が鳴つてゐる。北條民雄が死んだのだ。


 三月二十三日。

 富にも女にも酒にも名声にも離れるより他にない。しかしそれから離れたら、人間果して生きられるだらうか。

 フロオベルの書簡を読む。フロオベルだつて随分幸福であつたのだ。あれで自分を不幸者としてゐるとは、さてさて人間といふ奴は……。


 三月二十四日。

 考へてみると、俺は今まで、自分の中にある死にたいといふ慾望と、生きたいといふ慾望とに挟まれて、もだえてばかりゐたのだ。

 小説を書くのを止してしまひたい。しかし書くのを止せば、一体どうして毎日が過せるか。気が狂ふだけではないか。厭でも応でも小説を書く宿命を負はされてゐるのであらうか。


 三月二十五日。

 昨夜は遂に一睡も出来なかったので、今日は一日中ぼんやりとしてゐた。原稿はまるではかどらず、体は綿のやうに疲れてゐる。

×

 どこからも手紙が来ず、淋しい一日だつた。

×

 もう四月がそこまで来た。春といふものがあるのである。だが、ああなんといふ暗い春か。

 夜は死ぬことばかり考へる。色々と計画する。果して死ねるかどうか?


 三月二十六日。

 とにかくこの小説は書き上げてしまはうと思ふ。題は「道化芝居」とつけた。少し古いが、これでよい。一日書き続け、やつと六枚。全部で三十六枚と三行になつた。

 表現も何も考へぬ。熱で書かう。

 夜、お湯からあがつて来て久々で髪を梳き、油をつけて机の前に坐る。しかし書けぬ。また例の憂愁が襲つて来る。心が暗鬱に閉ざされて、大声で慟哭したい。しかし泣いて見たとてはじまらぬと思ひ、自殺の方法その他を考へる。机の中から赤い絹紐を取り出して、ためしに首を締めてみる。縊つて締めるのはあまり呼吸にさしさはりがないが、顎に引つかけて引き上げるとわけなく呼吸がつまる。


 三月二十七日。

 『文學界』四月号、待てども遂に来ず。勿論文藝春秋社からは発送されてゐるに定つてゐる。しかし俺の手許までは届かないのだ。………にストップしてゐるのだ。これで『文學界』の来ないこと二度。前には「柊の垣のうちから」を載せた十一月号だ。あの雑誌では式場氏に電報をうつたりして迷惑をかけた。「癩院受胎」の載つた 『中央公論』は一日遅れて手に入つた。その他手紙などの遅れることは枚挙にいとまあらず。なんといふ……であらう。あの……………………が浮んで来る。いつそ叩き殺して俺も死んでしまはうか? 四月号は東條耿一の名で買つて貰つた。こんなことを考へるともう仕事も手につかぬ。………………焼き払つてしまひたくなる。ああ原稿は検閲を受けねばならんのだ。

 しかし…………よ、……は余にこれだけの侮辱を与へてそれで楽しいのか?

 しかしこんなことを言つたとて解る……ではない。彼等の頭は不死身なのだ。低俗なる頭には全く手のつけやうもない。

 Uの文章を読むと、………は癩文学を保護してゐるのださうだ。笑はせやがる。Uには二度会つたことがあるが、愚劣極る男だ。私も十二年癩文学のために努力して来ましたよと、何度もくり返して平然としてゐられる男だ。誠にもつて…………………にはろくな人間がをらぬ。


 四月二日。

 原稿を書けば検閲を考へて苦しまねばならず、手紙を書けば向うへ着いてゐるかどうか心配せねばならず、雑誌に作品が載れば雑誌を買ふのに気をもまねばならぬ。なんといふことだ、なんといふことだ。

 のびのびとした、平和な、自由な、なんのさしさはりもない気持で作品を書きたい。日々を送りたい。その上に病気の苦痛は否応なく迫つて来る。


 四月三日。

 「道化芝居」八十六枚となる。なんとなく小説の恰好をしてゐないやうな気がする。が、小説にならなければならぬといふことはないのだ。 創元社からも川端さんからも返事なし。果して向うに着いてゐるのかどうか疑はしい。さう考へると腹が立つて来て仕事をやめてしまふ。………を呪ひたくなる。この原稿だつて……、……、…………に見せなくちやならんのだ。俺が全身をぶち込んだ作を、彼等はまるで卑俗な品物のやうに取り扱ふのだ。そして勝手に赤線など引いて返すのだ。しかもあの頭脳低劣なる、文学の………も判らぬ連中なのだ。ああ屈辱の日々よ。


 八月九日。

 六時十分起床。

 朝食後仕事にかかり昼までに四枚、昼から五枚半、都合今日の仕事は九枚半である。心楽し。昼、西瓜を持つて光岡を見舞ふ。彼は大分元気が出たやうだ。

 夕方T君と共に労働風呂に出かけ、お互に体を流し合ふ。T君は…・……事件の…………に活躍し、北満国境に送られて一ヶ年守備隊にゐたといふ。今年二十四歳、余と同年なり。

 夜、於泉信夫を訪ね、碁の話に花を咲かせる。さて明日もまた十枚は書くこと。今は九時四十分なり。


 八月十日。

 昨夜作品のことを考へてゐると興奮してしまひ、一時になっても睡れぬので、思ひ切つて睡眠薬を服用。そのためか今朝は頭が重く、体がだるくてまるで仕事にならない。で、あきらめて注射場へ出かけ、久しぶりで大楓子油五グラム、左大腿部にうつ。ひどく痛み、眩暈めまひがしさうであった。

 午後三枚ばかり書く。締切は二十日であるが、検閲に三日、郵便に一日の時間が取られるので、どうしても十五日までには仕上げねばならない。

 随筆が書きたくてならぬ。

 花園を散歩する。今は、百日草、カンナ、ダリヤ、グラヂオラス等盛りなり。

 胃腸は依然悪く、今日も下痢。しかも今日の献立は、朝の味噌汁はまあ別としても、

昼、ハゼの佃煮。

夜、こんにやくと大根のごつた煮。

 食ふものなし。夕方風呂に出かけたが、石道の上を歩くと腹にひびいて苦し。


 八月十一日。

 体の調子悪く仕事にならず。下痢。

 頭重く、苛立たし。夕方、於泉信夫来るも物言ふ気力なし。


 八月十二日。

 六時起床。

 午前中に二枚、午後また二枚書く。全部で都合三十六枚になつた。あと十四五枚で終るだらう。

 頭重し。下痢。

 昼寝してゐると小林秀雄氏の夢を見て苦笑する。

 夕方、T、K両君と共に風呂に行く。風呂に這入るのが唯一の楽しみなり。

 夜、光岡を六号病室に見舞ふ。東條、於泉来り、西瓜を喰つて雑談。八号では百合舎の女の子が死にかかつてゐる。脈は百四十、体温四十二度なり。帰つて来て床をとる。八時が鳴る。今日もまた一日終つた。生気のない灰色の一日――。

 こんな日が何年も何年も続くことだらう。


 八月十三日。

 六時十分起床。

 朝のうち五枚執筆。

 ここ二三日、良い音楽が聴きたくてしやうがない。ドストエフスキーの『白痴』を読み出した。以前読んだ時はなんだか面白くなかつたが、今度はばかに面白い。

 誰か良い音楽を聴かせてくれないかな。じつと耳を澄ませて聴いてゐたら、どんなにいいだらうなあ。

 夜、東條と人生論。今更の如く彼の苦悩に驚き、しみじみ深い尊敬を覚える。私は良い友を持つた。幸福である。


 八月十四日。

 四時二十分、起床。外はまだ仄暗い。散歩をする。花園ではまだ花々が霧の中に眠つてゐる。五時より七時までに一枚書く。一行毎に窓の空が明るくなるのも楽しみである。初めは黄色く、次に金色に、やがて白金のやうな鋭い光線が窓にさし込む。

 七時朝食。八時より九時半まで仕事。三十分休息してまた始める。今の自分の体力では二時間続けて仕事することが出来ない。今日は全部で七枚、明日は朝のうちに完成するつもり。 夕方六時風呂に出掛ける。今はこの風呂だけが楽しみである。三十分間、わいわいと連中の騒いでゐる中で、黙々と悠々と浸つてゐるのはいい気持である。彼らのとりどりの姿体を眺める。あがつて光岡を見舞ふ。彼元気なり。パインアップルを食ひながら語る。

 支那騒然たり。

 ヨーロッバ険悪なり。

 果して人類は何処に行くのか? 痛ましき限りである。


 八月十五日。

 小(註2)書き上る。五十一枚。

 明日検閲に出すつもり。

 下痢続き、全身ぐつたりしてゐる。下らん作なれど、とにかく五十一枚書いたんだから、まあよろし。


 九月二十四日。

 良い天気。

 胃腸病悪化。

 午後西原女医来診。明日九号病室に入室すべし、と。これで今年は入室二度目なり。

 しかし、かう体を悪くしたのも、元を質せば自ら招けるものなり。あきらめよ我が心。

 けれどかう体が瘦せてはなんだか無気味だ。ふと、このまま病室へ行つたきり出て来られなくなつてしまふやうな気がする。

 あの病室ではAが死んだ。彼は肺病だった。


 九月二十五日。

 良い天気、涼しい風が吹いてゐる。

 朝、東條、光岡、見舞ひに来る。

 東條の妻君に虫ぼしをやつて貰ふ。今年の春、ナフタリンを入れなかつたので、セル、シャツなどかなり食はれた。柳行李の蓋をあけると、虫の奴がうようよしてゐる。気味も悪いが、しかしなんとなく好奇心も湧いて来て眺める。茶色つぽい虫だ。ここにも生物の世界がある。

 東條の妻君には随分世話になる。感謝々々。けれど人の妻君の世話になつてばかりゐるのは、ちよつと惨めな気もする。しかし、自分はこんな風で生涯を終るだらう。これでよろし。などと展げた着物の下で思ふ。

 夕食後入室。

 舎の連中が例のやうに蒲団などかついで送つて来て呉れた。七号へ入室した時ほどの激動〔シヨツク〕は受けない。ベッドの上に仰向いてゐると、南天にすばらしい光度の星が一つだけ見え、日が暮れるにつれてますます鮮明に輝き、木星であらう、瞬き一つせず悠々と天空にかかつてゐる。

 この病室は色々と思出のある病室だ。まづ第一に思ひ出すのは死んだAのことだ。自分のベッドの隣りで彼は死んだのである。彼が新隔離病室からこちらへ転室して来た時、自分は丁度その病室の附添をやつてゐた。

 次にさきの首相林銑十郎。彼のゴマシホの髯を近々と眺めたのもこの病室で附添をしてゐた時である。その時自分は当直であつたので、白い予防服を着て室の中央に立つて彼を迎へた。彼は顔をしかめながら、かなり深刻な顔つきで、院長その他に附添はれながらやつて来ると、途中で余にちよつと頭を下げて通り抜けて行つた。


 九月二十六日。

 朝、実に爽快な気持であつた。晴れ渡つた空には白い雲がふんわりふんわり流れてゐる。澄明な空気が窓から静かに流れ込んで来る。まだ太陽も首を出したばかりで、窓下の青桐の梢だけが朝日を受けて赤らんでゐる。大地は適度に湿つて黒ずんでゐる。その土を踏んで散歩してみたい欲望がしきりに湧くが、あきらめるより致方もない。

 七時、朝食。

 散薬を飲んでぼんやりしてゐると光岡が来た。『文藝』十月号を貸してやる。

 今日は日曜故室内は静かである。あちこちのベッドでぼそぼそと話声がする程度。体温は朝三十六度九分。午後、頭が痛むと思つてゐると、八度七分あった。朝の爽快な気分は朝食後消えてしまひ、腹の中に食つた物が消化せず溜つてゐるので、気持の悪いこと一通りでない。便所へ四度出かけてがん張つたが遂に出ず、五度目になつてほんの小量脱糞した。これでかなり気持が良くなつた。しかしまだ十分でない。腹痛がする。

 創元社の小林氏より来信。早く長篇が欲しいと言はれる。この調子では何時になつたら出来ることやら。


 九月二十七日。

 林房雄氏の『上海戦線』を読む。

 やはり作家が出かけて行つただけのことはあつたのである。あの文章はやはり作家の文章であつて、それ以外の者には書けないものである。リアリズムとかロマンチシズムとかいふが、かういふ事実にぶつかつた場合、作家は本能的に真なるものに肉迫しようとする。と同時に、作家は真に対して本能的な嗅覚を持つのである。林氏は率直、素朴に自己の嗅覚を打つたものを捉へ、いつはりなく反省し、告白し、表現してゐる。

「人を殺したり殺されたりすることは誰しもいやです。これは人情です。軍人にも殺人や破壊を好きでやるものは一人もゐません。現地に来て特に感じることですが、どの軍人に会つても、近くは東洋平和、遠くは地球平和を理想として持つてゐないものは一人もありません。にも拘らず、戦はなければならないのです。支那人も戦ひます。ソヴェート・ロシヤも厖大な軍備を擁してゐます。戦はざる国民には滅亡があるのみです。一国の非戦論は敗戦主義と亡国に通じます。どんなに厭でもどんなに怖しくとも戦はなければなりません。戦ふ国民のみが真の地球平和をもたらすのです。歴史の宿命です。」

 かういふ言葉も現実に直接触れた言葉として我々を打つのである。

「……………………」――不明。ママ

 右は加茂儀一氏『家畜文化史』の序文の一節であるが、これを読んだ時眼からぼろぼろ涙が出て弱つたことがあるが、それにしても何時になつたら地球は平和になるのであらう。「戦争を通じて地球の平和は必ず来る。」と林氏も言つていられるし、これだけがただ一つの理想ではあるが、ひよつとしたら永遠に人類の平和は来ないのではあるまいか、といふやうな不安が湧いてならぬ。

 ソヴェートに絶望したアンドレ・ジイドのその後の心事はどんなであらうか。彼は今後何を理想として生きて行くであらうか。いや絶望する以前ソヴェートに対してつてゐたと同一の理想を今後も続けて有ち得るであらうか。有ち得るとせばどんな現実を足がかりとするであらうか。


 窓下のコスモス、昨日までは一つも開いてゐなかつたのに、今見るとはや白いのが一つ咲き出してゐる。他の蕾たちもずつとふくらみ、明日は幾つかまた開くであらう。別段病人気分になる訳ではないが、やはりベッドについてゐると、かういふ自然界の動きが、非常に身近く感じられ自づと親しみが湧くのである。

 この病室へ入室したのは夕暮近くであつたが、その時には窓の外を蜻蛉とんぼが群がり飛んでゐた。送つて来てくれた舎の連中が帰つてしまふと、自分はその蜻蛉をぼんやり眺めてゐた。室内はもう幾度も書いたやうに、重病人と、絆創膏と義足と曲つた指と、――そんなことはもう書きたくもないし見たくもない。すいすい飛んでゐる蜻蛉の方がよつぽど気持がいいのである。ぼんやり蜻蛉を見てゐると、いつの間にか薄暗がりが迫つて来て、不意に大きな遊星が南空に見え出した。全く不意に光り出したやうな感じで、やがて闇が深まるに連れて、その星は少しづつ西方に移つて行きながら耀やきを増していつた。金星かなと初めは思つたが、考へてみると金星は今は内合して、太陽よりも早く夜明けの天空に光つてゐる筈である。それならあの輝きは多分木星であらう。

 さう思ひながら『科学画報』の十月号を見ると、――以下不明。ママ


 九月二十八日。

 今日は病院の創立記念日とあつて、昼食は白飯と豚肉、夜はうどんの御馳走日だ。

 白飯はありがたいがお粥をくれないのには弱つた。夜はうどんで飯もお粥もない。これだと御馳走などない方が余程ましだ。

 向うベッドの肺結核患者のところへ家から父母が見舞ひに来た。


 朝のうち、光岡君来る。そこへ日東君来り、三人で快談。日東氏は四五日前市川の式場隆三郎氏の所へ行つて来たばかりであると。学生の狂人が一番多いとのこと。ちよつと考へさせられる。『文學界』より稿料来る。武拾武円也。

 隣りの空ベッドへ、夜、女が入室した。


 十月十七日。

 しみじみと思ふ。怖しい病気に憑かれしものかな、と。

 慟哭したし。

 泣き叫びたし。

 この心如何にせん。


 十一月二日。

 午前六時、林檎汁一杯。

 七時二十分、朝食。粥半椀、味噌汁半椀。

 九時、散薬服用。(白頭土ナレバ片栗粉ニ溶イテ服ス)

 十時半、昼食。(リンゴ一ケ) 十二時、散薬。牛乳一合。

 午後三時半、粥一椀、馬鈴薯小量、梅干半ケ、大根オロシ小量。

 四時、散薬服用。(下痢止メ)

 六時、散薬服用。(白頭土ナレバ片栗ニテ服用)

 体温、午前、三七度六分。午後、三七度八分。


 十一月三日。

 今日は明治節なり。故に朝から白飯にて閉口す。

 七時三十分、朝食。飯一椀、ミソ汁一椀。散薬服用。(下痢止メ)

 昼食は食はず。

 十一時半、リンゴ半ケ、牛乳一合。散薬。(白頭土ナレバ片栗ニテ)

 一時三十分、散薬。(下痢止メ)

 二時十五分、葛ニテ白頭土服用。

 三時半、夕食。散薬服用。

夕食ハ赤飯 (アヅキ飯) ニテ、更ニ豚肉トアツテ閉口。シカシ他二食フ物ナイノデ赤飯半椀。

サカナ四キレ。コレハ昼食ニクレ夕刺身ナリ。コレニ熱湯ヲ注ギ、大根オロシニテ食ス。

 六時半、白頭土ヲ葛ニテ服用。

 午後、頭重し。

 衰弱更に加はりたるが、便所に通ふ以外はベッドより降るのが頗る苦痛なり。

 夜、熱が幾分下つたらしく、久々に新聞を見る。記事凡て読み尽し、広告も全部見る。うち、食料品の広告に最も興をそそらる。

 体温、午前、三七度五分。午後、三八度二分。


 十一月四日。

六時、洗眼。

朝食。(七時二十分)

粥一椀、味噌汁一杯。

散薬。(八時)

白頭土。(九時)

昼食。(十一時)トロロ汁にて粥が出ず。

 麦飯一椀、トロロ一椀、牛乳一合。

散薬。(十一時半)

白頭土。(一時)

夜、粥一椀、ナッパ煮三箸、梅干半ケ。

散薬。(四時)

白頭土。(六時)

リンゴ一ケ。(十時)

幾分良し。


 十一月五日。

 本日はいささか悪食せり。注意すべし。

 朝食、粥一椀、味噌汁一椀、椎茸光タク煮二キレ。散薬。白頭土。

 昼食、粥一椀、味噌汁一椀、卵ーケ、椎茸一キレ、リンゴ一ケ。散薬。牛乳一合。(十二時)

 白頭土。(一時半)

 夜、粥一惋、梅干一ケ、大根煮四五キレ。散薬、白頭土。

 自殺は考へるな。

 川端先生の愛情だけでも生きる義務がある。治つたら潔よく独りで草津へ行くべし。なんとかなる。自意識のどうどう廻りは何の役にも立たぬ。行動すべし。実行すべし。


 十一月六日。

 朝食。(七時半)

 粥半椀、梅干半ケ。(食慾ナシ)

 散薬、白頭土。(九時)

 昼食。(十時半)

 粥半椀、梅干半ケ、豆腐小量。

 散薬。(十二時) 牛乳一合、林檎汁小量。

 十時頃、於泉信夫が、母より送つて来たものだと言つて、柿を八個持つて来てくれたが、一個も食はず。全部隣りの病人にくれてやる。


 十一月七日。

 久々の晴天にて気分良好。腹工合もかなり良い。一週間の努力の効か。今月一ぱい今の調子にて頑張るべし。さうすればきつと治る。

 新宿三越より「かんづめ」発送の通知あり。創元社の小林氏よりの贈物なり。深く小林氏に感謝す。早く原稿を書いてこれに報ゆるべし。


 十一月九日。

 小林氏より書簡あり。かん詰発送の通知なり。変らぬ氏の厚情に深く感謝す。

 小林氏、川端先生等の親切な心を思ふ度に、自分は父を思ひ出す。そして氏等の半分の親切心を自分に持つてくれたらと、しみじみさせられる。所詮自分は肉身に捨てらるべく運命づけられてゐるのであらう。死んだ兄が懐しい。

註1 この頃の三百枚くらゐのものといへば、未発表、

断片のまま遺されてゐるが、長篇「鬼神」であ

ると思ふ。他の覚書の中にも「鬼神」のことが

書かれてゐる。

註2 「望郷歌」なり。

この著作物は、1937年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。

 

出典[編集]

  1. 光岡良ニ 『いのちの火影』 新潮社、1970年、139頁。