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利用者:Shin-ai naru dokusya e/shared copy

提供:Wikisource

Shared Copy

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このテキストはロビン・キンロス氏の文章を日本語訳したものです。 [1]

  タイポグラフィとは、言語を取り扱うものです。タイポグラフィによって、言語は複製され、印刷され、物理的なメディアとなります。メディアには、コンピュータの画面のようにデジタルに情報を複製する媒体も含まれます。同様に「文章」には「画像」が含まれます。情報をそっくりそのまま繰り返すというのは、複製された文章だけがもつ特徴で、手書きの文章にはないものです。この点についてより詳しく知りたい方は、ウィリアム・イヴィンスの『印刷と視覚伝達』やエリザベス・アインシュタインの『歴史を変えた印刷所』を参照するとよいでしょう。15・16世紀のヨーロッパ史において、印刷の役割は変化をもたらす手段としてだけでなく、その変化の根本的な一部である、とアインシュタインはしばしば言っているように思います。印刷によって人々は初めて、確実で信頼できる方法で、知識を共有し見聞を広めることができるようになったのです。その結果、科学や技術は発達し新しい考えが広まり、また新たな質問が提唱されました。着実で共通した文章により、人々が議論を発展させるために必要な土壌が整ったのです。

アインシュタインのような印刷文化を専門に扱う歴史家は、どうも書籍に特化しがちな傾向にあります。おそらく資料が一番多く残っていて手に入りやすいという単純な理由によるものでしょう。新聞や街角のポスターについて研究するのは、彼らにとっても大変なことです。まず現存する資料を手に入れるのに一難、それから当時における影響力を考察するとなると、その苦労は計りしれません。実際のところ、こういった歴史の横道はすべて「書籍の歴史」として一括りにされてしまっています。本は本来、部屋で、一人で、読むものです。二人で一つの本を読むことはほとんどありません。中にはこれに反対する人もいるでしょう。子供のころ学校や教会、施設、家で、一緒にやらされた(最近は減りましたが)音読の練習はどうだろうか、と。それに、バスや公園、図書館のような公共の場所で、一人で本を読むことだってあります。確かに、読書には目に見える社会的な側面もありますが、それは本当の読書の社会性ではないのです。読書の真の社会性とは、人が印刷物を手に取り、そこに書かれた記号を意味として理解した瞬間に存在するのではないでしょうか。そのとき初めてページ(コンピュータの画面でも同様です)が人と人とが出会う共通の場所になるのです。この出会いは時空間を超え、通常では全く知り得なかった二人や、出会うことのなかった二人を繋ぐことができます。あるいは、いつか人々は実際に出会い、その文章について議論を交わすのかもしれません。一つの文章によって導かれた人々がテーブルを囲んで、指摘し、引用し、議論し、考え込んだりするさまを想像してみてください。これこそ読書の真の社会性だと思います。

文章は、作家と編集者と印刷者によって作られます。運がよく彼らが理解ある人々なら、デザイナーもひょっこり顔を出すことがあります。文章は、構成、校正、修正、それからまた校正、修正、といった過程を経て完成します。その後複製され、配布されることになるのです。そして最後に、そのうちの一つが、共通する意味を解する誰かの手に届き、読まれるのです。

(略)


言語を共同体の財産としてとらえる考え方については、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』に詳しく書いてあります。この本はタイポグラファーが歴史や政治について学ぶのにも適しています。というのは、印刷技術についてきちんと紹介されており、さらに印刷はアンダーソンの理論の中核を担っているからです。この本の中で彼は、中央集権主義の勃興と印刷技術の広まりと言語の歴史から「愛国心の芽生え」の成り立ちまでを、一章を割いて説明しています。言語というのは得てして独断的に成り立っているものです。彼は表音文字としてのアルファベットを、表意文字と対比して論理を展開します。「表音文字のシステムは、音を組み立て部品のように扱うようにできています。非常に独断的なシステムです。」しかし、ここからがアンダーソンのポスト構成主義者らしからぬ部分です。「『組み立て部品』の考え方は方言のような小さな共同体の言語には役に立ちません。文法や統語法の中での言語的な資本主義です。それによって、機械による複製可能な言語を市場に送り出すことを可能にしたのです。」誤解しないでください。アンダーソンは資本家の利益搾取を批判したいわけではないのです。彼は次のように続けます。

これらの印刷言語は愛国主義に基づいたものです。…情報交換やコミュニケーションの場は、ラテン語(書き言葉)と各地域で話されている言葉(話し言葉)の区別がつけられるようになりました。フランス語、英語、スペイン語などを話す人々同士で、話し言葉を解することはほとんどできませんでした。しかし、印刷と紙によってお互いを理解することができるようになったのです。印刷技術は宗教や距離を超え、「親愛なる読者たち」を結びつけました。ここに「想像の共同体」の胎芽を目にすることができます。

この「想像の共同体」の発想を理解しがたいと感じる方もいるかもしれません。世界的な共通言語を母国語とする人ならなおさらです。しかし、英語が常用されている都市であっても、言葉は書き言葉は存在し、人々を結びつけるのに一役買っていることを忘れないでください。街角のたばこ屋で、ギリシア語やイタリア語、アイルランド語の新聞を売っているのをみたことがあるはずです。読者にとって、それは共通の言語を解する社会への生命線となっています。上の世代の方にはわかりやすい例でしょう。わたしたち英語を母国語とするものにとっても、また英語圏外から来た人々にとっても、新聞はコミュニケーションの場なのです。アンダーソンが言うように、読書という行為は「墓場」でするものかもしれません。でもそれは確かに社会と繋がる行為なのです。「親愛なる読者たち」とともに。

  1. ロビン・キンロス『親愛なる読者へ―多言語コミュニケーションについて』ハイフンプレス、ロンドン、1994