利用者:CES1596/西洋哲學史
文學博士 大西 祝󠄀先生遺󠄁稿
西洋哲學史上卷
東京 警醒社󠄁書店
明治卅二年五月獨逸󠄄ライプチヒにて撮影
故文󠄁學博士大西祝󠄀先生小傳
文󠄁學博士大西祝󠄀は岡山藩士木全󠄁正脩の三男にして元治元年八月七日岡山城下に生まる。十五歲にして叔父󠄁大西定道󠄁の家を嗣ぐ。幼にして鄕里の小學校󠄁に學び、明治十年九月京都󠄀同志社󠄁に入り十四年普通󠄁科を卒業󠄂し十七年神󠄀學科を卒業󠄂す。同年秋東京に出で翌年一月東京大學豫備門第三年級に入り、九月東京大學文󠄁學部に入り、文󠄁學部改まりて文󠄁科大學となるに及び其の哲學科を修め、每年特待生たり。二十二年七月文󠄁科大學硏究生たることを命ぜられ給費を受く。二十四年九月東京專門學校󠄁(早稻田大學)に聘せられて講󠄁師となり哲學に關する講󠄁義を擔當して卅一年二月に至る。此の間又󠄂先進󠄁學院に教頭として哲學の諸󠄀科を講󠄁じ、『六合雜誌』の編輯を負擔す。三十年十一月高等師範學校󠄁倫理科講󠄁師を囑託せらる。三十一年二月歐洲留學を命ぜられ先づ獨逸󠄉に行きイェーナ大學に遊󠄁ぶこと六ヶ月にして十一月ライプチヒ大學に移る。三十二年六月京都󠄀帝國大學より文󠄁科大學の學科及び組織取調を囑託せらる。これより先三十一年六月イェーナ大學在留中盲膓炎を病み翌年二月ライプチヒにてインフルエンザに罹り大いに健康を損す。尋󠄁いで神󠄀經衰弱󠄁症を起󠄁こし保養の爲め墺太利匈󠄃牙利を漫遊󠄁したれども効なく醫師の勸吿に從ひ七月歸朝󠄁の途󠄁に上り九月神󠄀戶に着し、それより東京及び鎌倉に病を養ふこと數月、稍〻癒ゆ。十一月羅馬字日本語書方取調委員を命ぜらる。七月博士會の上申により文󠄁學博士の學位を受く。同年三月京都󠄀に移りてより腦神󠄀經衰弱󠄁症俄に革まる、靜養すること半󠄃年にして漸く輕快に向ひ、十月下旬轉地療養の爲め鄕里岡山に歸る。三十一日夜半󠄃より激烈なる腹膜炎を發し十一月二日午前󠄁八時逝󠄁く。享年三十六歲三月。岡山の西郊妙林寺に葬る。明治二十六年松井幾子を娶り、一男二女を擧ぐ。長女を道󠄁子、長男を定彥、次女を安子といふ。號は操山、鄕里岡山なる
本集の編󠄁纂に就きて
一、本集は先生の遺󠄁稿の散佚するを恐れ、之れを一纏めにして、先生の面影を永く後世に傳へむが爲めに編󠄁纂したるもの、『大西博士全󠄁集』と名づけたるは、略〻先生の遺󠄁稿の主要なるものを網羅したればなり。
二、『論理學』、『倫理學』、『西洋哲學史󠄁』等は、もと早稻田大學の需めに應じ其の講義に揭げられしものにて、先生の蘊蓄を悉くされしにはあらず。雜著󠄁に載せたる評󠄁論創作等、亦其の時〳〵の塲合に臨み當座に作り成されしものにて、是れはた先生の全󠄁力を注がれしものにあらず。
三、本集の纏まりたる著󠄁述󠄁の中、完全󠄁せるは『論理學』と『良心起󠄃源論』との二つのみ、他は皆歐洲留學其の他の事故の爲め、半󠄁途󠄁にして筆をとどめられしものなり。
四、『西洋哲學史󠄁』は先生の口述󠄁により綱島榮一郞、五十嵐力、兩人の綴りし文󠄁に、更󠄃に先生の加筆せられしものなり。第十三章ソークラテース(一七六頁)までは綱島榮一郞の筆に成り、餘は五十嵐力の筆に成れり。卷中往々先生自らの文󠄁致と異なるものあるはこれが爲めなり。又󠄁鼇頭に星符(*)或は枠を施したるものは、先生が其の手控本に書入されたるを其のまゝに揭げたるなり。
五、先生の假名遣󠄁には先生一流の風あり、又󠄂年代によりて種々に變へ試みられたるありて、其の樣式必ずしも一定せず、又󠄁必ずしも世の假名遣󠄁と同じからず。それらは槪ね其のまゝに先生の手振を留めたり。
六、鼇頭、目次、及び和、英、獨對譯表等は、共に校󠄁訂者󠄁の新に加へしもの、讀者󠄁の便󠄁宜を謀れるに外ならず。
七、本集全󠄁體の編󠄁輯に就きては『早稻田哲學會』員、中桐確太郞、紀淑雄、島村瀧太郞、後藤寅之助、中島半󠄁次郞、綱島榮一郞、五十嵐力等各〻其の勞を分󠄁かてり。
但し『西洋哲學史󠄁』は谷本富氏歸朝󠄁早々三ヶ月を費やして專ら之れが校󠄁訂に當たられ、尙ほ綱島榮一郞、五十嵐力の両人更󠄃に最後の校󠄁訂に任じたり。
八、各卷出版の順序は一に編󠄁纂上の便󠄁宜に依りて定めたり。
九、本集の出版につきては、橫井時雄氏主として斡旋の勞を取られ、渡部董之介、谷本富、文󠄁學博士坪󠄁內雄藏、綱嶋佳吉、文󠄁學博士中嶋力造󠄁、松󠄁村介石、文󠄁學博士松󠄁本亦太郞、文󠄁學博士元良勇次郞の諸氏之れに與られたり。殊に法學博士高田早苗氏及び早稻田大學の厚意を受けしこと少なからず。
十、本書出版の由來等につきては本集完結の際に述󠄁ぶべし。
明治三十六年九月
編󠄁 者󠄁 識
西洋哲學史上卷
目次
一 |
一三 |
二〇 |
一四五 |
一九一 |
二九二 |
三三八 |
三六七 |
三九四 |
四三一 |
四四五 |
西洋哲學史上卷目次終
西洋哲學史上卷
緖論
《哲學は如何なる學問なるか。》〔一〕こゝに叙述せむとするは哲學の歷史なり。そも哲學と名づくるは如何なる學問なりや。其の問題の解釋の不變不易ならざるのみならず其の考究の範圍即ち哲學の問題それみづからも亦全く一定せりと謂ふべからず、當に如何なる事柄が斯學硏究の範圍に入るべきか、其の問題の眞に何處に存するかが是れ亦一の問題たるなり。この故に哲學史を講ずるにあたり、豫め或一派の哲學思想を取り來たりてそが特殊の見地より哲學を解せむは穩當の事と謂ふ可からず、こゝには之れを爲さざるべし。問題を呈出することの正しく又明らかなるを得ば是れやがて其の問題の眞實の解釋に一步を進めたるなり、明暸に正當に問題を言ひあらはさむは哲學硏究上決して容易き事にはあらじ。
《哲學硏究の起源。》〔二〕その問題とする所かくの如くなる哲學の硏究は如何にして起こりしか。吾人は自然界及び人間界の現象に對してその如何なるものなるかを驚き異しむのこゝろあり而して此のこゝろが哲學硏究の源をなせりとは古來學者のしばしば唱へたる所なり。凡そ純乎たる究理心に基づける眞理の探求は此の驚異の情に發す。吾人が究理の心を以て天地萬物に對するや種々の間題を念ひ浮かべ而して之れを念ひ浮かぶるや如何にかして其の解釋を得むと力む。しかも其の解釋を全からしめむとするに從うて吾が思想の漠然たること、其の相互の連絡を缺けること、其の自家撞着の點をさへ含めることに氣附かざるを得ず。常識上の觀念は以て多くの生活上の實用を達するには足れりとするも未だ以て究理心の要求を充たしむるに足らず。吾人が思考力の發達しゆくや早晚常識上の漠然たる觀念を以て滿足せずこれを明瞭にしその自家撞着の點を除かざれば休まざるに至る、而してこの不滿足はます〳〵吾人をして自然界及び人間界に對する吾が思想を統一して整然たる智識を得むの念をつよからしむ。この念こそ哲學の硏究を進ましむる動力なれ。
《哲學の性質。》〔三〕哲學は斯くして起こり又斯くして進みゆくものなりとせば其の大體の目的は當時代の人の以て興味ありとする限り、又吾が能力を以て硏究し得べしと信する限りに於いて組織的智識を得むとするにありといふべし。而して件の組織的智識には何物か其を統一する所以のものあらざるべからず、故に委しくいへば個々の現象を統括する根本原理を求むること及び人の知り得べしとする境界の全體を統合すること(約言すれば根元を究め以て全局を統一せむとすること)これを哲學的知識の特色となす。しかも全局の統一といふも其の時代によりておのづからその範圍を異にす、すなはち吾人の知り得べしと看る又は硏究するに價ひすと看る全體の範圍が或は廣く或は狹くなることあるなり。これを要するに吾人の限界に入り來たる諸現象の根本原理を認めてそが統一的智識を得むとする、これを哲學の性質又傾向といふべきなり。〈こゝに哲學といふは歐洲語に所謂フィロソフィーに宛て用ゐたる語なり。フィロソフィーは希臘語 φιλοσοφία より來たる。此のフィロソフィアといふ希臘語は字面上智慧を愛するといふの意義を有するが、ソークラテース以後の文書には總じて學術といふほどの意味に用ゐられたり。〉
上にもいへる如くこゝには敢て或一の哲學上の學派もしは立脚地より見て哲學の性質を定めむとはせざれども哲學史を講ずるにはまづほぼ哲學といふものの槪念を有せざるべからず、然らざれば應に哲學史中に如何なる事柄を攝入すべきかを定むる能はざれば也。而して哲學史を講ずるに方たりては哲學の槪念は右の如く解するを以て最も穩當なりと信ず。右の槪念もて果たして能く哲學史中に通常入るべきものとせらるゝ都べての事柄を蔽ひつくし得べきかは予輩の講述を進めゆくに從ひておのづから明らかになるべし。
《哲學史は人類文明史の一部。》〔四〕上に哲學の問題がその時代によりて異なりて其の範圍の或は廣く或は狹くなることありと云へりしが、かくいふは哲學が社會全體の變遷と關係する所ありといふと同じ。哲學は一時代一社會の文化、即ち當時代人心の全般の傾向、希望、信仰と決して全く離るべきものにあらず、故に廣義にて哲學史を人類文明史の一部と見るも不可なし。然れば哲學は吾人の生活全體の他部分と疎からざる關係を有するもの、換言すれば吾人の生活全體が特に智識的要求を中心として發表したるものなりといふべし。
斯く哲學が一時代一社會の全體の狀態を反映し又これに關係を有すといふものから凡べての哲學皆この點に於いてその趣を同じくすといふにはあらず、社會の狀態に影響さるゝことの甚だしく大なるものあれば又大ならざるものもあり。こは專ら當時の社會と哲學者個人との關係より生ずるの差異なれば劃一には論じ難けれど如何なる哲學者も多少は當時代の影響を受け之れと關係を有せざるはなし。故におしなべて如何なる哲學者も亦時代の子なりといふを得べし。
《哲學史講究の三方面。》〔五〕上述せしところによりて已に哲學の變遷に與りて力ある要素二あるを認むべし。一は社會の文化,一は個人これ也。こゝに個人といふは哲學上の學説を立てたる先輩とこれに影響さるゝ後進者とを指す。一學者が自ら一學說を創唱すといふものから悉皆獨創の見を立つるといふ如きことは殆んど無く、少なくともその中の或部分は先人の硏究の結果を繼紹せるもの也。しかも先人の影響をうくるにもその度に差あるは論なし。若し一學說出でて一定の形をなし而して後の學者これをそのまゝに繼紹して所謂學統を持績する傾あるときはおのづから先人の影響を受くること大なるべし。
此の如く個人の哲學思想が先人の學說に影響せられてその學風を後に持續するはこれ即ち哲學史上の固定的要素を成すものなるが、さて又こゝに時勢の影響が同じく學說の上に大體の一致を來たすに與りて力あることを記せざるべからず。盖し同時代に生まれ同時代の空氣を呼吸し同時代の埒內に制限せられたる趣はおのづから其の時代の學說に現はれざるを得ず。かく先人の影響は學說を固定ならしめ時勢の影響はこれを一致せしむるの傾ある者なるが、此等はただかくして哲學史上停止合同の要素を爲すのみならず又多少變動の起因をも含み居れり。社會は恒に一定の狀態に止まるものにあらず動きゆくものなれば其の個人に影響するところ亦決して永く同一なる能はず、又堅固なる所傅を有する學說もその內部に多少自家撞着の點を藏するが常なれば是れ亦久しくそのまゝの形狀を持續し難し、故に哲學史上停止合同の要素となる學派並びに時勢そのものにも亦變遷の種子を含み居れり。然れども變遷の主動力はこれらにあらず個人の創見にあり、哲學史上の變遷を見むには時勢幷びに學派の影響と共に個人的原素あるこどを認めざるべからず個人の獨創する所あるを許さざるべからず、約言すれば同じ時代又同じ先人の影響をうけながら尙ほ其の思想を異にする個人的差別あることを承認せざるべからず。かゝる個人の差別が何によりて生ずるかは如何やうに說明すとも此の如き差別ありてこれが實に哲學變遷の主動力となることは否むべからざる事實なり。哲學の歷史は今說明したる固定一致の傾向と變動の傾向とによりて織りなさるゝもの也。
かるが故に哲學史を硏究するには一には先人の學說に對する關係を見、一には其の時代の影響を見、又一には個人の特質獨創のところを見ざるべからず、哲學史は此の三方面より講究するを要するなり。
《生起上の關係を明らかにせざるべからず。》〔六〕右の三方面より哲學の變遷を見るを要する故に哲學史は唯だ學說を臚列するのみをもて足れりとすべからず、ただ學說を記述するにとどまらず其の學說の出で來し所以又その變遷し來たりし所以を說明せざるべからず、言ひかふればその生起上の關係を說明するを要するなり、而してかゝる生起上の關係は件の三方面より見て始めて明らかなるべし。哲學史家としてはまづ須らく事實を明らかにし變遷の跡を審にすべし、みだりに學說を是非褒貶するは史家の面目に愜はざるなり、そは旣往の歷史に徵するも萬人の承認すべき完全なる哲學未だ出でず哲學史はむしろ學說の變遷興廢のやまざるを示すものなれば也。この故に一哲學史家たとひ自己の哲學上の所信を懷抱すとも若しこれを唯一の標準として凡べての學說を是非褒貶することをせば偏僻の弊に陷り易し。偏へに史家一個の哲學上の見識よりするの批評は史家としてむしろ力めて控ふるを可とす。さもあらばあれ學說のあひつぎて生起したりし關係を叙するにあたりて彼れ此れを比較し其の優劣を論ずることをば全く排除するには及ばず、却りて多少優劣を論ずることなくしては完全に生起上の關係をも說明し得ざるべし、そは後の學說は前の學說に不滿をいだき之れを補はむがために出づること多ければ也。こゝを以て全く批評を用ゐざるは未だ史家としての職務を全うせざるものと謂ふべきなり。さはれ前にもいひし如く絕對の標準を立て之れに照らして凡べての學說を較量するは哲學といふもの又從うて哲學史といふものの今の狀態にある間は出來がたき事なれば歷史としては批評の根據を專ら批評せむとする學說そのものの內に置き又その前後及び同時代の學說との關係に置くこそ最も穩當なるべけれ。故に學說の價値を定むるは主として左の三點に於いてすべし。
二 學說の內部に自家撞着の點あるかなきか。
三 その實際達したる解釋が果たしてよく其の統合せむと欲したる事柄を悉く統合し得たるか。今こゝに哲學史を講ずるにあたり批評を要する塲合には專ら右揭ぐる如き當學說の內部に於いてする內在的批評を用ゐるべし。かゝる批評はこれを學說の生起上の關係を說明することの中に於いてするも不可なからむ。そは如何なる先人未發の問題及び解釋を提出したりしかと尋ぬるは是れ畢竟哲學史上生起したる思想のうちいづれを個人の特發獨創に歸すべきかと問ふと同一なり、又その問題および解釋が後人をして如何なる新思想を發揮せしめたるかと問ふは是れ畢竟生起上の關係を闡明する以外の事にあらず、又一學說の內部に自家撞着の點あるかなきかを見るは踵いで出でたる學說の生起したりし所以をあきらむるに缺くべからざる事なり、又たとひ其の學說の內部に彼れ此れ矛盾するところは無く形式上の統一だけは保てりとするも其の組織の狹隘なるに失してまさに統合すべかりし事柄のうち遺したるものはあらざるかと尋ぬるも是れ亦後の學說の生起上の關係を見るに必要なる事なり。かるが故に哲學史上もろ〳〵の學說の生起したりし所以を說明するには右揭ぐる三點についての批評を缺くべからず。されば謂ふところ生起の說明を解してかゝる批評を爲すことをも含めるものとするに不可なし。予輩はかゝる意味に解したる生起の說明を爲すものとして哲學史を講ぜむとす。但し專ら內在的批評をなすに方たりても多少史家みづからの哲學上の見識の露出することあるは免れ難き所なるべし。若し完全なる哲學上の見地よりして古來出現したるもろ〳〵の學說を批判し其の一終局に向かへる進步の跡を審にし得ばこゝに理想的哲學史を編みたりと云ふを得べきも是れ今の歷史家の正當に試み得べき所にあらず。
《西洋哲學史》〔七〕こゝに叙述せむとするは西洋哲學史なり。西洋哲學は其の源を希臘に發し一の連絡ある潮流をなして今日にいたりぬ。通常これを古代、中世、近世の三大期に分かつ、尚ほ細かにこれを分かち得れど大體の變遷を示すにはこの三期に分劃するを以て便利なりと考ふ。委しくは如何なる變遷の時期を西洋の哲學史に區劃し得べきかは講述を進むるに從ひて明らかになるべし。先づ古代の哲學史より講じ初めむ。
古代哲學史
緖言
《西洋古代の哲學史は殆んど全く希臘哲學史也。》〔一〕凡そ世界の哲學に東西の二大潮流あり。東洋哲學は古代印度(又其の一小部は古代支那)に起こり西洋哲學は古代の希臘に其の源を發したるものといふべし。西洋古代の哲學史はほとんど全く希臘哲學史とも謂ひつべきもの也。ただ希臘哲學の末期に至り其の思想羅馬帝國に散布し多少他人民の間に哲學思想を惹き起こしたるものあり、通常これを希‐臘‐羅‐馬の哲學といふ、さはれ其の時だに其の主なる思想は皆希臘人の唱へ出でたる所のものにして羅馬人及び其の他の國人の獨創せるところとては殆んどあらざりし也。盖し羅馬人が西洋文明の要素をなすに於いて力ありしは決して輕きにあらざりしかど哲學上發明獨創の見と云ふ可きものはなかりし也。今これより希臘哲學の如何にして發生し又如何に發達變遷せしかを叙述せむ。
《初代の天地開闢說。》〔二〕凡そ未開幼稚なる社會の常として種々荒唐なる神話及び天地開闢說などの流布せるあるが、希臘哲學の發生せし前にもまた種々の神話及び天地開闢說等夙くより言ひ傳へられ時の詩人に謳歌せられき。而してこれら希臘の傳說は大體上他國のに優りて特に高等なる段階にありきとは云ふべからざれど、希臘の詩人などの之れを謳歌せるうちには其の人民特有の優美なる想像のいとよく見え、且つ當時幼稚なる希臘人が如何さまに世界を觀ぜしかもよく現はれて興味多し。
ホメーロスの詩中には神々に關する說話夥多あれど天地開闢の事に就いては多く言はず、こは疑ふらくは當時俗間に傳はれる傳說に對して旣に慊らずなりし結果ならむか。しかるにヘーシオドス(西曆紀元前八百年頃の人)に至れば反りて細々と天地開闢諸神出生の事を記したり。さはれこは彼處此處に存在せりし傳說そのまゝを記しゝにはあらでむしろ俗間の言ひ傅へその儘を以て滿足せず多少之れを組織統合せむとせし要求の結果なりしならむ。ヘーシオドスは天地の生起を考へて太初にカーオス(χάος カーオスはもと深淵といふ意味の語源より來たれり、空々漠々たるさまを意味せるならむ)ありてこれよりガイーア(Γαῖα 地)とエロース(Έρως 生產力)と生り出で斯くて漸次に諸物諸神を生じぬとやうに說きたりき。又降りて西曆紀元前六世紀のころに至れば一層進步したる一層組織的なるファイレキデース等の天地開闢說あり。これら諸說は種々異同はあれど、要するに諸神と萬物とを打ちまぜて或は男女の婚媾して子を產むに擬へ或は一物より自然に他物を化生するになぞらへて諸神諸物の生出せし由來を想像したるものに外ならず。是等の說は專ら想像の生みなせる所なるにもせよ、兎に角諸神諸物の生起せし由來を考へ、まち〳〵に傳はれる俗間の傳說を統合組織せむとする精神は業に已にこれらのうちに顯然たりし也。
《希臘哲學の發生。》〔三〕右いふ天地開闢說が吾人の眼前に橫はれる物界の生起を說明せむとせしが如く希臘哲學も亦そのはじめはただ物界の說明を以てその目的となしゝ也。吾人の眼前に橫はれる天地萬象の由來を道理上說明せむとする自意識の明らかになれりしと共に希臘哲學は發生しぬといふべし。斯く眼にふるゝ物界を取りてそが生起の由來を說明せまくする所よりいへば同じく天地開闢の問題を繼紹せるものから其の說明の精神と方法とに至りては旣に大に異なれりといはざる可からず。そは從來の傳說は、天地開闢の物語を書きつづりたる如きものなりしかど希臘哲學の考究の動機は今現に吾人の服前に橫はれるまゝの天地萬物に對して、これを現實かくあらしむる物素は何ぞと問ひ來たれるにあり。又從來は天地の現象を以て偏へに天神地祇の所爲に歸し誰が日を照らし誰が雨を降らすといふが如きいと稚き想像的說明を以て足れりとしたりしかどこゝに至りては力めて物理上天地の現象を說明せまくせる也。こは要するに吾が理性の要求をますます明らかに自覺し來たりて舊感想、舊信仰に滿足せずなりし結果に外ならざる也。
《希臘哲學の生起に關し東方諸國民の思想上の影響の有無。》〔四〕此の如くして希臘哲學はその發端を開きしが、この新思想の起こりしには希臘人に先んじて已に文化に進みたりし東方諸國民の思想上の影響與りて力ありしか否か、これにつきて近世學者の說くところ一ならず。或學者は希臘哲學はもと埃及、波斯、印度等の思想を傅へ來たれるもののやういへれど、こは惟ふに東方文化の影響をあまりに重大視せし誤謬ならむ。げにや彼此其の思想の似かよひたるふし、少なからねど(輪廻轉生の說及び印度の服水論師、風仙論師、火論師等の說、四大の說、又極微の說などと同樣なる思想の希臘にもあるが如きその著るき例なり)しかも直ちに希臘の哲學は埃及、波斯、印度等より輸入せられたるもの也と斷言するほどに確實なる歷史上の證左を見ず。或は右の說に反して、印度のニヤーヤ、サンクヒヤなどのひとへに宗敎的、神祕的ならずして學術的といはるべき哲學組織は希臘學術の影響の然らしめしところなりと論ずる學者もあり。これを要するに天文及び數學に關して希臘の學術がはじめ其の資料を埃及およびバビロニヤに仰ぎし所あるは事實ならめどそれだに純粹に數學といひ天文學といふきはのものにはあらざりしならむ。すなはち希臘人がこれら數學幷びに天文上の智識の幾分を他より得來たりたるは否むべからざる事實ならむも、そを組織統合して學術的智識となしゝ功績はこれを彼等の天才と勞力とに歸せざるべからず。希臘人が美術、文學、學術に驚くべき天才を有せりしは後世の嘆美する所也。
《希臘哲學生起の因由及び生起の地。》〔五〕希臘哲學の起こりしは西曆紀元前第六世紀の頃に當たれり。當時希臘人は制度風敎に、社會生活の狀態に著るき動搖進步をなしつゝありき。就中小亞細亞の西南岸及びアイガイア海の島嶼に殖民せしイオニア種族は希臘史の當初に於いて全希臘人の代表者として東方の人民に知られ且つ早くよりフェイニキア人と通商貿易を開き又その(フェイニキア人の)海上の勢力の衰ふるに乘じて遠く地中海を往來し其の眼界は頓に廣まり其の市都は目覺ましき繁盛を來たしたり。又當時は君主政治已に倒れ貴族政治亦去りて民主政體之れに代はらむとし黨派の軋轢常に酷しく社會一般の事物を舉つて
《希臘哲學史の區分。》〔六〕希臘哲學史を分かちて五期となす。初期は專ら客觀なる天地萬物の現象を說明せむとせし時にしてこれを物界硏究の時代と名づくべし。第二期は考究の興味をさ〳〵吾人自己の事に傾きし時にしてこれを人事硏究の時代と名づくべし、是れ即ちかのソフィスト及びソークラテースの出でたる時なり。故に或は前の第一期をこの期と區別してソークラテース以前の時代ともいふ。第三期は組織的時代にしてかのプラトーン、アリストテレースの出でて大哲學組織を立てし時即ち希臘哲學全盛の時期なり。第四期を倫理硏究の時代となす、倫理の硏究を主眼として之れによりて以て個々人が安立の地を得むと欲せし時なり。第五期即ち末期は希臘哲學が漸く宗敎的傾向を帶び來たり人々出世間の處に安心立命の地を得まくせし時期なり、この期は東方殊に猶太的宗敎思想の影響をうけしこと著るき時にしてこれを前の尙ほ純粹なる希臘思想の立脚地に立てりし第四期と區別して希‐臘‐東‐邦的時代といふを得。又この第四第五の兩期を合してアリストテレース以後の時代と名づくるを得、所謂希‐臘‐羅‐馬の哲學は此の時代に屬せるものなり。
第一期 物界考究の時代
第一章 ミレートス學派
《ミレートス學派。》〔一〕希臘哲學の發端をミレートス學派とす。(ミレートス市に起こりし故しか名づく、或は之れを最初の物理學派又は最初のイオニア學派ともいふ)この學派の眼目とする所は萬物の大原たる一物素を指定して其の物素の變化と見て以て天地萬象の生起を說明せむとするにあり。されば諸現象の原理を見てそが統一的知識を得むとする哲學の大主眼は旣に業に此に現はれたりと謂ふべし。然れども先づ最初には萬物の本原たる一物素を求むるにも尙ほ未だ吾人日常の經驗に接近せる所、即ち吾人の直接に知覺し得る範圍の外に出でざりき。然るにかゝる範圍內にて如何なるものが最も萬物の物素と見做さるゝに適せるかといふに、まづ成るべく變化し易く、成るべく固定の形質なきものならむ。そは其の變化と見て以て萬象の生起を說明せむとすれば也。希臘哲學の鼻祖と稱せらるゝタレースは水を以て斯くの如き物素と見做しぬ。
タレース(Θαλῆς)
《タレースの傳。》〔二〕タレースは小亞細亞西南岸のイオニア族の一都府なるミレートスの市民にして其の生死の年月定かならず、まづ西曆紀元前六百年頃の人と思はば甚だしき誤謬なかるべし。その經歷及び學說については古來種々の傳說あれど信じがたきもの多し。唯だ埃及を遍歷して彼の國の僧侶より數學上の智識を得來たりぬといふことは疑ふべき理由なきが如し、彼れ初めて幾何學上の智識を埃及より傳へたりとは一般に言ひ傅へたる所なり。又彼れが西曆紀元前五百八十五年五月二十八日の日蝕を豫知しきといふことも實事なるべし。彼れは又世事に明らかにして當時の政治にも參與しきと思はる。これその常に希臘七賢人の第一に數へられたる所以なるべし。
《タレースの說、萬物は水より成る。》〔三〕さてタレースが學說の主點とせるところは萬物は水より成れりといふにあり。如何なる理由により水を以て萬物の本原となしゝかは今日よりこれを確知せむよしなし、又件の水は如何なる方法順序によりて萬物を生出すると說きしか今日よりこれを知らむよしなし。恐らくは彼れみづからも此等の點については明白なる意見を有せざりしならむ。
《タレースの說とその考證。》〔四〕アリストテレースがタレースの所說として明らかに記し置けるは(一)諸物の本原水にあり(二)世界は水上に浮かぶ(三)萬物は神々を以て充たさる(四)磁石の鐡を引くは靈魂(即ち生氣)あるによるといふの四點に過ぎず。(後に至るまで希臘の學者は久しく生氣即ち身體のいのちと靈魂とを同一視したり。)さて此の四點の中萬物は神々を以て充たさるといひ又磁石の鐵を引くは生氣あるによるといへるより或學者はタレースは諸物に生氣ありと思ひ又萬物の本原たる水には根本的活力とも謂ふべきものありてこの活力(生氣又は靈魂)によりて能く萬物が生出せらると考へしならむといふ。或は然らむ。若し果たして然らばタレースは物活說(物體と生氣とを相離さず物に具はれる活力によりて物界の諸現象を生ずといふ說)を唱へたる者と見らるべし。さはれ吾人はこれをタレースみづからの言又は其の他の憑據によりて確證する能はざる也。それは兎まれ角まれ彼れが水を以て諸物の根原となしゝは疑ふべからざることにしてこの一事以て彼れが希臘哲學史上の位置を定むるに足るべし。彼れは從來の天地開闢說の物語を超脫して森羅萬象を一物素の成せる所と見むと試み而してこゝに希臘哲學を開ける也。次ぎに說かむとするアナクシマンドロスに至ればミレートス學派は既に明らかにその步を進めたり。
アナクシマンドロス(Ἀναξίμανδρος)
《アナクシマンドロス、其の生涯、著述。》〔五〕タレースに踵いで起こりしアナクシマンドロスも同じくミレートスの市民にしてその生まれしはアポルロドーロスに從へば西曆紀元前六百十一(乃至十)年頃なるべし。タレースに學びたりと言ひ傳ふれど親しく就いて學びしことありしか否か確かには知られず。天文幷びに地理上の知識に秀で初めて地體圖やうのものを製しきとぞ。萬物生起の理に關し『ペリ、フィゼオース』(περὶ φύσεως)と名づくる書を著しきと言ひ傳へらるれど、こは早くより失せて今は唯だその中の一句を傳ふるのみ。(ペリ、フィゼオースはフィジス論といはむが如し、フィジス(φύσις)はこゝには諸物の原性又は物原といふ意義に解すべし)アナクシマンドロスは希臘學術の發生上重要なる位地を占むる學者なり。
《其の說、萬物の本原はト、アパイロンなり。》〔六〕タレースは水を以て萬物の本原となせしがアナクシマンドロスはト、アパイロンを以て萬物の本原となしぬ。ト、アパイロン(τὸ ἄπειρον)とは際限なきものといふ義なり。そも水といふ一物より萬物生起すとは考へがたし。萬物の本原(ἀρχή)たるべきものは固定の形なく堺限なきものたるべし、しからざれば如何でかよく一切の物となり得む。水は所詮水たる一定の性質を有するもの卽ち定限あるものなればこれによりて到底天地の森羅萬象を說明すべくもあらず、又若し水にして際限なきものならむには萬物を容れずして却て悉くこれを水となし了はるべしと、斯く思ひ到らむこと敢て難きにあらざるべし。アナクシマンドロスが萬物の大原を際限なきもの即ちト、アパイロンならざるべからずと考へしは能く一切の物を生じて盡きざらむには其の原物は必ず無盡藏なるべく無盡藏にして能く萬物とならむには萬物中の(例へば水といふ如き)一種物にてあるべからず、未だ何れの物と限られずして能く何れの物ともなり得るものならざる可からずと思ひしに據れるや盖し疑ひなからむ。即ちアナクシマンドロスはト、アパイロンを以て時として存せざるなく處として在らざるなき無限、無邊のものとなし、此のもの普く萬物を包被し萬物これより生出すと考へたりしなり。
《ト、アパイロンとは何ぞ。》〔七〕上述せる程のことは確實と見て可ならむが、更に精しくト、アパイロンの性質を說かむとすれば哲學史家の間に異論を生ず。(イ)或はこれを解して諸物の相混じて雜在せる有樣なりといひ、(ロ)或は性質上單純無差別のものなりといふ《(イ)リンテル(ロ)ヘルバルト等》。前說に從へば諸物はみな個々各自の性を有しながらト、アパイロンの中に混在せるなり、後說に從へばト、アパイロンより出でて後はじめて個々各自の性質を具ふるに至りそれまでは性質上無差別のものとして存する也。思ふにアナクシマンドロスみづからはかゝる精細なる點にまでは考へ及ばず、ただ吾人の實際五官を以て知覺する個々物ほどに性質上定限せられたるものにはあらでしかもよく差別の性質を有する個々物を生出するものとやうにいと大らかに考へたりしならむ。ト、アパイロンの物體的のものなる即ち空間を塡充する底のものなることは明らかなり。
《萬物は如何にしてト、アパイロンより生出するか。》〔八〕さてかく萬物はト、アパイロンより生じ出づるものなるが、そは如何にして生出するかといふに、アナクシマンドロスは唯だ反對のものが分離し出づといふに止まりて更に如何にして然るかは深く問ひ究めざりしものの如し。恐らくはト、アパイロンにしかせしむる無窮の活動力ありと思ひしまでにて滿足したりしならむ。かくト、アパイロンより分離し出づる反對のものは寒と暖と及び乾と濕との氣なり。暖にして乾なるものがその反對の寒にして濕なるものに働きて天地萬物を生ず。〈多くの史家はテオフラストスの言によりてアナクシマンドロスはト、アパイロンに無始無終の運動ありと說けりと云ふ、然れどもこれは所謂反對のものの無盡藏に分かれ出づる所以をアリストテレースが自家の思想もて斯く解したるのみにてアナクシマンドロスみづから恒久の運動てふことをいへるにあらずと考ふる史家もあり、そは恒久の運動てふ語の餘りにアリストテレース自家の用語めけばなり。寒暖及び乾濕の分かれ出づる順序又其の相互の關係に就いて史家の考ふる所あれど畢竟推測に外ならず。〉
《其の天地構造說。》〔九〕天地の構造に關するアナクシマンドロスの說を略述すれば元と濕にして寒なるものを取卷きて火ありこの火後に分裂して蒼穹に羅列する天體となり、而して濕にして寒なるものは火に照らされて蒸發し又遂に水陸相分かれて吾人の住する大地を成せり。地體は圓柱形にして高さ幅の三分の一、人類は其の平面に住す。又大地は世界の中心に位して諸〻の天體は絕えず其の周圍を廻轉す。アナクシマンドロスは太陽の軌道の大地の面に對して斜なることを認めたりといふ。人類はもと現今吾人の有する所とは異なれる形體を具へ魚鱗の如きものを被りて水泥の中に棲居せりしが後に水中を出でて陸上にその子孫を蕃殖せしむるに至り、遂に今日の人間の如き形體を具ふるものとなれりといふ、是れアナクシマンドロスの有名なる考說として後世に傳へらるゝ所なり。
《ト、アパイロンの働き方。》〔十〕萬物はかくしてト、アパイロンより出で來たれるがこはまた終にはト、アパイロンに還り、還りては出で、出でては還り來往循環歇むときなしとアナクシマンドロスは說きたりしが如し。其の書中の句として今日に傅はれる名高き語に曰はく、「諸物は定められたる所に從うて其のもと出で來たりし所にかへるべし、かくして定まれる時に於いて物皆其の不正の業に對して賠償を爲し罸を受くべし」と。今試みにその意を推し測るに、個々なる諸物の存在は皆各自の位置性質を他物に對して維持保存するにあれば、勢ひ成るべく他物を壓倒し成るべく自己を保持するに傾くべし、さるは已に中正を失うたるものなればそが償として罰として遂には再び素のト、アパイロンに歸入せざるべからずといふにあるならむ。アナクシマンドロスが右の如き出沒成壞の循環說を唱へたりしは唯だ一個の世界に就いて云へるにて吾人の俯仰する天地の外に數多の世界ありとは說かざりしならむとツェラーはいへど、最近の硏究の結果によればアナクシマンドロスは同時に數多の世界ありて各自或はト、アパイロンより出で或はこれに還りつゝありと說きたりしが如し。即ち一切の世界の全體が必ずしも皆一時に或は成り或は壞ると云ふことを說きしにはあらざらむ。
《アナクシマンドロスの哲學說の總括。》〔十一〕以上陳述せるところを總括していへば(一)アナクシマンドロスはタレースの考へたる如く個物の一なる水を以て萬物の物素と見ず無際限なるト、アパイロンを說き(二)この無際限なる本原よりまづ性質上反對のものの分離し出で而してその反對のものの作用によりて萬物を成すといひ(三)また世界の無窮に出沒して歇む時なきをいへり。此の循環說を唱へたるは天地萬物に絕對の始めのあることを考へ難しと見しが故ならむ。
ト、アパイロンより反對の性質分かれ出づといふのみにて其の如何にして然るかの說明はアナクシマンドロスにありては見ることを得ず。而してこの「如何にして然るか」を說明することに一步を進めたるは次ぎに出でたるアナクシメネースなり。
アナクシメネース(Ἀναξιμένης)
《アナクシメネース、其の生涯、著述。》〔十二〕このミレートス派第三の哲學者も前二人と同じき市府の生まれにして古來の所傅によればアナクシマンドロスの弟子なりきといふ。縱令然らざりきとするも其の學說の影響を受けたりしは明らかなり。生死の年月定かならねど槪ね西曆紀元前五百八十八年より五百二十四年に至る間に生存せし人ならむ。イオニアの方言にて一書を著はしゝが一小句の外今は全く傳はらず、これをもペリ、フィゼオース〉と名づく。
《萬物の本原は空氣なり。》〔十三〕無際限なるト、アパイロンより如何にして千種萬態なる個々物の生出するかはアナクシマンドロスの學說に於ける難解の點なり。アナクシメネースが一見恰もタレースの地位に立戾りて空氣を以て萬物の物素と見たるは全くゆゑなきにあらず、ミレートス學派の立脚地にある間はト、アパイロンよりも一層吾人の實驗する所に近き物體を以て諸物の起原を考へむとするは一理なきことにあらず。盖しト、アパイロンは吾人の直接に知覺する範圍內のものにあらず、此の點これまさしく哲學思想の一步を進めたるものなりと云ふを得れど、ミレートス學派の立脚地にありては其の如く吾人の實驗し得ざるものより萬物の生ずる樣を想像せむは頗る難かるべし。アナクシメネースは水よりも更に固定の形體なきもの而もト、アパイロンよりは固定の限界ある空氣を擇び、而して之れを以て無際限のものと見做したり。これ明らかにアナクシマンドロスの影響をうけたる也。アナクシメネースが空氣といへるは霧、霞などをも含めての謂ひなりと思はる、即ち煙霞等も皆大氣中のものとして之れと現今所謂空氣又は大氣とを明らかに區別せざりしが如し。
《何故に空氣は萬物の本原なるか。》〔十四〕何を據りどころとして彼れは空氣を萬物の本原となしゝか。彼れが書中の句として傳はれる語に曰はく、「恰も空氣が吾人の生氣として吾人を保つが如く全世界も亦
《諸物は如何にして空氣より出づるか。》〔十五〕諸物は如何にして空氣より生じ出づるか。アナクシマンドロスは只だ反對のものが分離し出づと說くに止まりしがアナクシメネースは一步を進めて空氣の活勸によりて之れに厚薄を生じ而してこれが厚薄を生ずることによりて千種萬態の諸物を成すと說きたり。おもへらく空氣の厚く濃くなるは即ち寒く冷かになる也、其の薄くなるは即ち暖かになるなりと。看るべしアナクシマンドロスの所謂寒暖二氣の反對をもアナクシメネースはただ同一物(空氣)の或は濃く或は薄くなる作用に歸したることを。而して薄くなれば空氣は火と變じ、濃くなれば凝りて風となり、更に凝りて雲霧となり、次ぎに水となり、地となり、又石となる。これ一物素より如何にして諸物の生ぜしかをタレースよりも又アナクシマンドロスよりも更に明らかに說き出でたるもの也。
《其の宇宙構造說。》〔十六〕アナクシメネースは宇宙の構造を說いて曰はく、大地先づ成り、地より蒸發する氣愈〻溥くなりて火となり此の火廻轉するにつれて天體となれり。大地は扁平なること盆の如く甚だ廣きが故に空氣に支へられて動かず、天體は同じく空氣に浮かびて大地を左右に廻轉す、恰も帽子の頭の周圍を上下に廻轉せずして左右に廻轉するが如し、日輪の夜に見えざるは地下を行くが故にあらず大地の北方の高き故にこれに隱るゝ也と。又アナクシメネースが世界の成壞循環することと數多の世界の存在することとを說きたらむと思はるゝはアナクシマンドロスの之れを說きたらむと思はるゝに同じ。
提要
《ミレートス學派所說の提要。》〔十七〕上述せる所によりて知らるゝ如く希臘哲學はもと天文物理の說と相離れたるものに非ず。後の科學の種子と見るべき種々の考究はた相混じて哲學の中にやどれりし也。(但し數學は早くより別のものとして取扱はれしが如し。)此のミレートス學派の大眼目とする所は一物素より生じたるものと見て天地の萬象を說明せむとするにあり、タレース先づ此の著眼點を代表し踵いでアナクシマンドロス幷びにアナクシメネース出でて更に之れを開發したり。タレースが物素と見たる一特殊の物(水)に代ふるにアナクシマンドロスは無際限の者即ちト、アパイロンを以てし此のト、アパイロンより反對の者分離し出づるによりて一切の個々物を生ずと說きたり。次ぎに又アナクシメネースは一物素の變化によりて如何樣にして萬物の生起するかを說き出でて之れを其の物素が厚薄を爲すの作用に歸しぬ、是れ一步を機械的說明に進めたるもの也。約言すればタレースに於いて一物素といふ思想を見、アナクシマンドロスに至りて無際限といひ又(吾人の思想上差別の物象を說明するに甚だ肝要なる)反對のものの相働くといひ又世界成壞の循環といふ思想を見、アナクシメネースに至りては厚簿を爲す(即ち詮ずれば物質の相集まり相散することに歸すべき)機械的作用といふ思想のほのみゆるあり。彼等三人の學者が皆萬物の本原を物質上のものに求め又そを生氣ある底のものと思ひしに於いては一なり、又萬物の生起を一本原に歸せしめしも一なり。彼等の心には萬物の本原の一元なるべきことは論證するまでもなく明らけしと思はれし也。之れを要するに彼等は皆一元的物活說を唱へしものなりといふを得べし。
第二章 宗教の振作
ピタゴラス(Πυθαγόρας)及びピタゴラス盟社
《ピタゴラス及びピタゴラス盟社。》〔一〕西曆紀元前第七世紀より第六世紀にかけて希臘の社會は百般の搖動甚だしく從來の制度習慣は漸々其の權威を失うて復た人心を滿足せしむる能はざるに至りぬ。先祖傳來の信仰をただ何心なく其の儘に保持し世間の風儀慣習を其のまゝに墨守して疑ふことなかりし時代は今や漸く過ぎ去らむとせり。個々人が多少自ら顧み自ら考へて其の行爲を親定するの必要を成し來たり而してかかる精神的變動の徵證として文學上には抒情詩の勃起し來たれりしを見る。又一種の詩人等が道德的格言を作りて之れを人口に膾炙せしめしも是れ全く當時の人心の需用に應ぜむとしたりし者にして此の時これ所謂七賢人の時代なり。かのソローンの如きは最もよく此の情勢を代表し且つ指導したる者の一人なりき。此の時代の智識上の變動を代表し窮理心の獨立を發表したるものは前に述べたるミレートス學派なるが、宗敎及び道德の上にはピタゴラスの如きありてその運動の代表者となり專ら風敎の振作を以て自任しき。當時かゝる宗敎家として出で來たれりしは獨りピタゴラス一人に止まらずエピメニデース又オノマクリトスなども同樣の性質を帶びたりしなり。さはれ當時最も重要なる位地を占め且つ希臘の思想界に微少ならざる痕跡を留めたる者は實にピタゴラス及び其の盟社なりとす。さて謂ふところ風敎の振作とは一種の講社又は敎會の如きものを組織し一定の禮拜儀式を用ゐて宗敎的信念を興起することなりき。總じて何れの國にても社會上の變動甚だしく人心靜止せざる時代にはかゝる宗敎的現象を見ることなるが、ピタゴラスはまさしくかゝる時代の需要に應じて出でし者にして其の結びし社は當時他にも少なからざりし敎會の一種と見るべきもの也。然れども其の社が斯くの如き敎會の一種たるに止まらずして希臘哲學史上看過すべからざる地位を占むるに至りし所以のものは後に此の社中に所謂ピタゴラス派哲學の形成されしが故なり。この故に所謂ピタゴラス派哲學はピタゴラスみづからの說きし所とは謂ふべからざれど其の名は希臘哲學史上忘るべからざるものとなれり。彼れみづから哲學上多少說きし所ありとするも實際如何ほど說きしかは明らかならず。
《ピタゴラスの生涯、事業。》〔二〕ピタゴラスの生涯に關しては種々の訛傳謬說相纒綿して明らかに其の事實と虛妄とを辨別し難し。或は詩歌音樂の神なるアポルローンの子なりといひ、或は黃金の脛を有しきといひ、其の他樣々の奇蹟を行ひきといふが如きはもとより皆後人殊に希臘哲學の末期に出でたる新ピタゴラス學徒の揑造したるものに外ならず。新ピタゴラス學徒がピタゴラスに於けるは恰も道士輩の老耼に於けるが如し。
ピタゴラスの生涯に關して確かに實事と見做し得べきは左の數事に過ぎず。父をムネサルコスと云ひアイガイア海のサモス島に生まる。西曆紀元前五百三十年頃に南部伊太利なるクロトーンに移りこゝに一盟社を結び其の勢力の及ぶ所頗る大なりしが如し。後メタポンティオンに移りこゝにて歿しぬ。さればミレートス學派第三の學者なるアナクシメネースと畧〻其の時代を同じうせしか或は少しく之れに後れたりしならむ。
ピタゴラスは曾てアナクシマンドロスを師としたりといふ傳說もあれど確かならず、されど其の學說は開知したりしならむ。廣くエジブト、フェイニキア、カルデア、アラビア等を遍歷してその諸邦の僧侶博士に就いて見聞知識を博うしたりともいひ傅ふれどこれは憑るべき確證なし。そは兎まれ角まれ彼れが博識の聞こえ高かりしはヘーラクライトスの證言を以ても明らかなり。多少哲學上の思想をも懷きたりきといふ事は必ずしも否むべからざれど其の感化功績の大なりしは主として宗敎上の事業にありき。後世彼れを尊びて豫言者又神人と見る者あるに至りしは畢竟彼れがもと宗敎的人物として出でしが故ならむ。
《ピタゴラス盟社の性質。》〔三〕ピタゴラスが勢力の當時に認められしは專ら其の結びし盟社によれり。こは一種特別の禮拜式を有する講社の如きものにしてこれに屬せし
此くの如くピタゴラス盟社の最初の目的は專ら宗敎道德的生活を規定するにありしが之れと關聯して政治上の運勸にもたづさはり當時の政治社會にただならぬ勢力を及ぼすものとなりき。如何にして此の盟社が政治上の勢力を有するに至りしかに就いては史家その意見を同じうせず。或は曰ふ、此の社は社會の風紀を維持せむが爲めに貴族政治即ちスパルタ風の政體を主張したりと。或は曰ふ、此の社の人々はその特殊なる宗敎的圑體の當時に容れられ其の感化の廣からむを欲して貴族社會と結托したりと。何れにしてもピタゴラス盟社は政治上貴族主義に賛同して一時クロトーンに小ならざる勢力を振ふこととなりしと共に當時益〻熾ならむとしたる民主思想と衝突して劇しき軋轢を生ずるに至りぬ。此の軋轢はピタゴラス在世の時に旣に始まりしならむと思はる、彼れが其の居をメタポンティオンに移したりしは恐らくはこれがためなりしならむ。その後反對の氣燄は益〻其の熟度を高めて遂に南部伊太利に於いては此の社の殆んど撲滅せらるゝに至れり。小亞細亞の沿岸なるイオニア種族の殖民地に比すれば南部伊太利には多數の希臘種族雜在し隨うて市府と市府との競爭、政社と政社との軋轢も亦一層酷しかりし也。且つ第六世紀の末つかたイオニアの諸市府が全力を擧げてペルシャの侵略に抵抗せし時は希臘の文化はむしろ南部伊太利に移りしが如き觀あり。
《ピタゴラスとピタゴラス哲學との關係。》〔四〕前言せる如く所謂ピタゴラス派の哲學は多くは後の學徒間に發達せしものにて其の中如何ほどピタゴラスみづからの說きしものあるかは明らかならず。唯だ彼れがたしかに說きたりと思はるゝは輪廻轉生の說あるのみ。但しこれは彼れに始まれるにはあらで已に其の以前にありて多少希臘人の間に行はれたりし思想なり。惟ふにピタゴラスは輸廻轉生の說をば善惡應報の說と相關せしめて之れをその宗敎的敎說の要點となしゝならむ。又當時旣に詩人等に唱へられたる多少進步したる一神敎的思想をも或は交へたらむと思はる。
後にピタゴラス派の學說に見ゆる二元的思想は早く已に其の學徒の間に唱へられたるが如し。又此の學徒の夙に音樂及び數學を修めたりしことが其の世界觀に多少の影響を及ぼしたる所ありしならむといふは全く根據なき想像にあらざるべし。かゝる起原を有するピタゴラス學徒の思想が一派の哲學として如何なる形を成すに至りしかは後に開陳すべし。
第三章 宗敎と學術との衝突
クセノファネース(Ξενοφάνης)
《クセノファネースと俗間の宗敎。》〔一〕前章ピタゴラスに於いて當時の宗敎的運動の實際的方面にあらはれたるものを見つ。ピタゴラスの事業は當時に於ける宗敎的信仰の振作を計りしものにて其の信仰を學術上批判せむとしたりしにはあらず、寧ろ實際上宗敎の復興改善を主眼となしゝ也。然るに當時の學術思想がその當然の傾向として通俗の宗敎思想と相衝突せむとするは能く防止すべきことにあらず。かのミレートス學派に於いて已に其の思想が通俗の宗敎思想と乖離せむとせるを見る。アナクシマンドロスが世界を指して神といひ又ト、アパイロンを呼んで神性のものといひしが如き、これ已に其の思想が俗間に信ぜられし所及び在來の詩人などの歌ひし所と相異なり又相異ならむとせるを示せるなり。而して其の學術思想と通俗の宗敎思想との衝突を最も
クセノファネースは小亞細亞のイオニア種族の一都府なるコロフォーンに生まる。(ツェラーは其の生まれし年を五百七十六年乃至七十二年とすれど、或史家は五百七十一年以前に生まれきとは考へられずといふ。)今はただ切れ〴〵の句をのみ存するそが詩中に齡二十五にして故鄕を出で他邦の客となること茲に六十七年とあり。四方に流浪するや詩歌を吟誦して口を糊し遂にシヽリア及び南部伊太利に來たれり。南部伊太利の一市府エレアに來たりしことあらむと思はるれど、こゝに其の筇をとどめて其の學を傅へたりと云ふことは確かならず。西曆紀元前四百七十九年には尙ほ生存し居りしが如し。さればクセノファネースはピタゴラスと略〻其の時代を同じうせしか又は寧ろ少しく彼れに後れしならむ、而して彼れが如く小亞細亞沿岸のイオニア種族の市府に生まれ後移りて南伊太利に求たりし也。
《クセノファネースが俗間の宗敎に對する攻擊の態度、口吻。》〔二〕テオフラストスはクセノファネースをアナクシマンドロスの弟子なりといへれど其の思想の要點に於いてミレートス學派と頗るその趣を異にする所あるは明らか也。又クセノファネースはピタゴラスと同じく其の思想を宗敎の上に注ぎたれど、しかも彼れと異なり俗間の宗敎的信仰に對しては全然攻擊の位置に立てりき。ホメーロス、ヘーシオドス等が神々の喧嘩口論又詐欺竊盜をさへ書きならべ只管神を人間のやうに思ひなすを嗤うて曰はく、「もし牛又は獅子が人間の如く手を有し而して其の手をもて畫くことを得又器物を作ることを得ば馬は馬の如くに、牛は牛の如くに神の形を畫くならむ」と。又曰はく「エティオピヤ人は其の神を色黑く鼻平しと思ひトラケー人はその神を碧眼赤髯なりと思へり」と。彼れはかゝる口吻をもて世人が神を人間の如く思ひなすを罵倒しき。謂へらく神は決して人間に類するものにあらず生まるゝことなく死することなく無窮より無窮に存在し常住不動なり。「人と神々との中にて最も大なる者なる唯一の神あるのみ、これは形に於いても思ひに於いても死すべき人間に似ず」。「彼れは凡べての物を照覽し凡べての物を思ひ凡べての物を聞く」。又曰はく「神は勞することなくして其の心の思ひを以て凡べての物を支配す」。「彼れは常に同じ塲所に止まり少しも動くことなし、今は此處今は彼處と其の所を移すは彼れにふさはしからず」と。
此の如き進步したる宗敎思想とミレートス學派に現はれたる一元的哲學思想とがクセノファネースに於いて相結合しきと見ゆ。アリストテレースのいふ所によればクセノファネースは全世界をただ一體なりと考へ而して此の一體を神と見たりしが如し。盖し其の意は、數多の世界あることなく唯だ有るものは眞實は一つなり、萬有即一、而して其の一なる者は動くことなし、是れ神なりと云ふにありしならむ。
唯一なる世界を無際限のものと見たりしか否かにつきてはクセノファネースの言明らかならず。彼れが「上にありては空氣、下にありては地根無窮に達す」といへりしより見れば世界を無際限と思ひしやうにも察せられ、又「世界は各方向に同じやうに廣がり居れり」といへりしより見れば彼れは世界を圓球の如く限界を有せるもののやうに考へたりきとも察せらる。惟ふに一は宇宙の廣大無邊なるをいひ、一は蒼空の圓かに見ゆるを云ひしならむ。
《其の一神說の內容。》〔三〕此の如くクセノファネースは全世界を一體と見而してこれを神と考へたりしより察すれば恰も一神說を唱へたらむが如く思はるれど、彼れの一神敎的思想は實際如何なるものなりしかは史家の間議論のある所なり。そも一神敎めきたる思想は多少已に當時の詩人間にも現はれて當時の進步的思想を代表したりしには相違なけれど、しかもこれらの思想は槪ね一の最大の神ありてこれが下に幾多の小さき神々の司配さるゝやうに考へたりし也。クセノファネースは此の點に關しては如何に考へたりしか。史家或は謂ふ彼れは純乎たる一神說を主張したりと、或はいふ否その所說の一神はその詩句に見ゆる如く神々の中の最大なるものを指せるなりと。クセノファネースが萬有即一體、而して此の一體これ神なりといひし時には、一なる全世界そのものを指していへるにて世界以外に神ありてこれが世界を創造したるやうに考へしにはあらざらむ。然れども又彼れは世界中の局部を指してこれを小さき神々とも名づけしならむか。彼れの思考せる所既に頗る俗間の思想とは其の趣を異にせる所あるは明らかなるが、彼れの言に神その心の思ひによりて萬物を司配すとあるを見て彼れ神を靈なる者と思ひしと解するは非なり。當時は未だ物體と區別して心靈を思ふことなかりき。アナクシマンドロスが世界を指して神といひしが如く、クセノファネースも亦全世界を神といへる也。ただ、彼れは通俗の宗敎思想を批評したる結果として其の神を一體なりとし、而して其の一體を萬有の全體と同一と視且つこれを恒久不動のものと視たる也。但し宗敎思想の批評によりて得たる神てふ觀念とミレートス學派に由來せる一元說とは未だクセノファネースに於いては能く調和せられでありし也。
《天文說。》〔四〕クセノファネースの天文氣象の說に關しては精しきことは知れず。彼れが說として傳へいふ、日月をはじめ虹霓等の天象は光輝ある雲即ち燃ゆる蒸發氣を以て成り而して其の沒し又其の光の消ゆることあるはその象を形づくる雲の離散すればなり、其の光の顯はるゝは其の雲の再び收結すればなり。然れども又傅へ云ふ、件の雲は炭火の如く一時消えうせて其の光を失ひ後また燃え出づと彼れは說きたりと。又或は彼れの說を解して每日每夜新たなる日月星辰が絕えず天空を走りゆくと思ひしなりともいふ。彼れは山上に海生物の化石のあるを見て大地は曾て流動體なりしか、はた水中に沒せしことありしなるべしと說き、又將來水の作用によりて再び原始の狀態に還るべし、其の時人類も悉く滅亡し而して再び大地の形成せらるゝと共に生出すべしと說きたりとぞ。
《クセノファネースの說の要點と其の未釋の點。》〔五〕世界の構造に關するクセノファネースの說には種々明瞭ならぬ個處あれど唯一なる全世界を神と見又この神を不動常住の者と見たりしは其の最も肝要なる點にして而してこゝに更に解釋を耍する問題の含まれありしなり。何ぞや。恒久不動なる神と全世界とは一なるに如何にして此の世界には種々の運動變化あるかといふこと又其の唯一の神と個々萬物との關係は如何にといふこと是れ也。換言すれば常住不動なる唯一の神と變々化々する萬物とを如何にして調和せしめ得るか、是れ解釋を要する問題也。思ふにクセノファネースは未だ明瞭に此の問題を思ひ浮かべずして唯だおほらかに神は唯一不動の者なり而してこれは全世界に外ならず萬有の全體即ち一體なりと考ふるに止まりしならむ。而も斯く考ふれば其の處るところ既にミレートス派の立脚地とは同じからず、ミレートス派は一元あり而して此れより世界を生ずと說きクセノファネースは世界即一體と說きし也。こゝに後にエレア學說を喚起すべき問題の伏在せるなり。
第四章 ヘーラクライトス(Ἡράκλειτος)
《ヘーラクライトスの學說の要點。》〔一〕ミレートス學派の主眼とする所は一物素の變化と見て萬物の生起を說かんとするにありしが、其の一元說はクセノファネースに在りては全世界即ち常住不動の神なりと云ふ思想に變じたり。若し彼れの說く如く萬有は一元一體にして而して其の一元一體が不動ならば現に世界に見る所の變動を如何にせむ。世界に於ける變動を沒せざらむがために、萬物は詮ずる所一にてありながら其の一の絕えず變々化々する所以を說明せむとしたりしはヘーラクライトスなり。彼れは變化を以て諸物の實相となし、諸物は變化すればこそ能く一にてあり得れと說きたり。學說の系統よりいへば彼れはミレートス學派と親密なる關係を有すれど、しかも萬物の一なることと其の變化することとの相背かざる所以を說かむとしたるは其のミレートス學派を超越したる點なり。彼れは多少クセノファネースの所說を知りたらむと思はるれば、其の論は或はこれに對して云へる所もありしならむ。クセノファネース曰はく、全世界は一にして其の一は動くことなしと。萬物の一にしてしかも動くといふ關係を思ひ浮かべ之れを說かむとしたるがヘーラクライトスの學說の主要の又特殊の點なり。
《其の人物、著書。》〔二〕ヘーラクライトスはエフェソス(小亞細亞の沿岸イオニアの一市府)の人、ピタゴラス並びにクセノファネースに後れ出でたり。自己の獨立の見識を信ずること厚く世間の俗輩を眼下に睥睨し世の碩學とたゝへらるゝ輩をさへ痛罵して措かざりき。其の言に曰はく「多くの事柄を學知すること決して眞知識を得るの道にあらず、博識もし人に眞智を與ふる者なりとせばヘーシオドス、ピタゴラス、クセノファネース及びヘカタイオスをも賢くしたりしならむ」と。散文にて一書を著はしゝが今はただ其の斷片の語句を存するのみ。簡淨なる文辭に深邃なる思想を寓したるが故に古より晦澁讀みがたきの稱あり。其の書の文字の比喩に富み反語に饒かなるは頗る老子に似たり。
《萬物皆流轉す。》〔三〕ヘーラクライトスが自家の發見としたるは變化又生滅といふものあればこそ世界は保たるゝなれといふこと是れなり。一物も絕えず變化流轉せざるはなく變化流轉して窮まらざる、これ即ち物の物たる所、その存在すといはるべき所なり。此の物は彼の物に、彼の物はまた別の物に絕えず轉化する、これ即ち世界の實相なり。此の物は唯だ此の物として存せず、彼の物は唯だ彼の物として存せず、常に此れが彼れとなりゆき彼れが此れとなりゆきつゝある也。斯く萬物皆新陳代謝して窮まりなきものなるに其の常に同一不變の自體を有せるが如く見ゆるは何故ぞ。これ他なし。此の物の彼の物と變はり去りつゝある量と彼の物の此の物となり變はりつゝある量と正に相平均すれば也、即ち一物の他に出で去るほど他より入り來たるがゆゑ也。譬へば流水の混々逝いて息まざる、しかも同一の流と見ゆるが如し。ヘーラクライトスの有名なる語に曰はく「再び同じ流れに入るを得ず、常に新しき水流れ來たるがゆゑ也」と。
《變化生滅は如何にして生ずるか。》〔四〕如何なれば萬物はかく絕えず變化生滅する、その變化は何處より來たる。ヘーラクライトスおもへらく、これ物には反對の傾向の常に働けるがゆゑなりと。反對の流行あるが故に變化あり。變化あるが故に萬物生ず。萬物の生滅して片時も靜止停息せざるは反對のものの相爭へば也。爭ありて活動あり、反對ありて物は一致調和の狀態を保つ。一方に死なくば爭で他方に生あるを得む。反對の一致是れ即ち萬物生存の原理なり。この故にヘーラクライトスは「ホメーロスが神並びに人の間に爭の熄まむことを欲せしは不可なり、彼れは宇宙の滅亡せむことを願へるを知らざりし也、もしホメーロスの祈願の聽かれたらむには萬物は消え去ることとならむ」といへり。彼れはまた「爭は萬物の父、萬物の王なり」「物を結ぶものは反對なり」「神は晝又夜也、夏又冬也、戰又和也、飽又餓也」といへり。又此の反對の釣合を「隱れたる調和」ともいへり。「世人は相異なれる方角に引かるゝものの相和することを知らず、世界の調和ある構造は反對の緊張に懸かりて存す、譬へば弓又琴の構造の如し」。
《火は萬物變化の根本動力なり。》〔五〕此の如く凡べての物一にして其の一なるものが反對の流行を爲す。「一は凡べての物を以て成り又凡べての物一より出づ」。一とは何ぞ。ヘーラクライトスは之れを火と見たり。物の生滅變化する樣は火に於いて最も明らかに見るを得。火來たれば何物も之れに化し之れに化すれば又忽ち煙と變じ去る。「凡べての物は火に替へられ火は凡べての物に替へらる、恰も器物を金貨に替へ金貨を器物に替ふるが如し」。萬物の一なるところ火に外ならず。火は萬物變化の根本動力也。之れを要するにヘーラクライトスは火によりて以て萬物の變化することと其の一なることとの關係を說かむとしたる也。彼れ曰はく「世界は神々の造りしものにもあらず、人の造りしものにもあらず、常にありしもの又常にあらむとするもの、即ち永久に活ける火にして一定の量に從うて絕えず燃えては又消ゆるものなり」と。
彼れは更に火の萬物生滅の原動力たる所以を詳說して曰はく、火其の熱を失へば水となり更に其の熟を失へば地となる。而して地となれば
斯くの如く火より下り地より上る反對の二傾向あればこそ萬物は保たるゝなれ。上り道を絕ちて下り道をのみ存すべからず下り道を絕ちて上り道をのみ存すべからず、此れは彼れに彼れは此れに缺くべからず。故に反對なくば物なし。ヘーラクライトス曰はく「もし不正といふ名なくば吾人は正といふ名を知らざるべし」と、又曰はく「善と惡とは同一なり」と、又曰はく「眠れる者も共に働ける者なり」と。又彼れは變化の中に休息を見るともいへり。かく反對の相離れずして却つて相保たるゝ所以これ彼れが自家獨創の見とする所なり。
《火氣多きほど活潑聰明なり。》〔六〕萬物活動の本原は火なれば吾人は火氣多きほど活潑なり聰明なり、火氣乏しきほど頑冥不靈なり。その言に曰はく「乾燥なる靈魂は最も賢く最も勝れたるもの也」と。靈魂は火氣にして而して絕えず其の活力を保たむには常に感官及び呼吸によりて宇宙の火氣をうけざるべからず。其の通路を塞がば吾人は忽ち枯死すべし。吾人が睡眠せる間は呼吸の一路の外宇宙の神火を受くるの道全く杜絕せるが故に自己の小世界にのみ閉ぢ籠もり唯だ妄想(夢)を逞しくするのみ。ヘーラクライトスは宇宙の火を神火と名づけ之れを以て世界の出來事を指揮する者の如くに見たり。彼れは偶像を拜し又祭壇に血を流して犧牲を供する等の事を嘲りたり。其の宗敎思想が通俗のものに異なれりしは明らかなり。
《ヘーラクライトスとアナクシマンドロス。》〔七〕アナクシマンドスは物その反對に分かれ互に其の位地を侵すが故にその中正を失ひ隨うて遂にト、アパイロンに歸らざるべからずといへりしが、ヘーラクライトスの說ける所は之れに反して物は反對あるが故に却りて其の中正を保つを得、反對なくば物なしと云ふにあり。要するに諸物の流轉し反對すると其の存在の釣合を保つとは決して相背叛するものにあらず却つて相離る可からざるものなりといふがヘーラクライトスの根本思想なり。彼れの說に從へば萬物のつひには全く火となるの期あるか否か、これに就きては、哲學史家其の見を異にす。かゝる期なしと論するものは謂へらく、萬物の全く火に歸一するの期ありと說くはこれヘーラクライトスの根本思想に反するもの也、何となれば反對の流行なくば凡べての物消え去ると云ふがその論旨なればなりと。然れども又或所傳はヘーラクライトスの斯かる說を爲しゝことを證すと考ふる史家もあり。
第五章 エレア學派
《エレア學派の根本思想は變化生滅を否むにあり。》〔一〕クセノファネースは凡べての物は一體にして一體は不動也といへり。されど其の不動なる一體と萬物の變化とは如何なる關係を有するかの問題は未だ明らかに說明せられざりき。ヘーラクライトスは此の問題を說きて曰はく萬有は一にしてしかも變化す、否變化し相反對するが故に一なるを得、一なると轉化するとは決して相乖くものにあらず、一元なる萬物が無限に變化生滅する、これ即ち世界の實相なりと。これ一なるものが變化して萬物を成すと云ふミレートス學派の思想を變化といふ事の方面に追窮したるもの也。然るに萬物の變化と其の一なることとは決して相合するものにあらずと見て大膽にも變化雜多を拒否したるものあり、エレア學派これ也。若し一原物が變化して萬物を生じたりとせば其の原物は他物と爲りかはりたる也。然れば他物即ち雜多の個々物は旣に原物に同じきものにあらず、別に自己の性體を具へて存在するものなれば原物が未だこの他物と爲りかはらざる時に於いて實有なりし如く此の他物は今其の原物の旣に變化し了はりたる後に於いては全く實有なり。假令この他物は復た原物と爲りかはるべき時期ありとも是れ均しく實有なるものの相繼ぎ相代はるに過ぎずして殊更に其の一方をのみ實有の本體とは云ふべからず。又一物素(原物)が個々なる他物に全く變化し去らば少なくとも其の他物に變じたるだけは其の物素の滅して其の代はりに他物の生じたりと云はざる可からず、而して其の他物が苒び物素と爲りかはる時にはそれだけ其の他物の滅して物素の生じたりと云はざる可からず。若し又諸物が一物素より生ずる時に於いて、又生じたる後に於いても、其の萬物に於けるの物素が毫もその自性自體を變ずることなくば何故に一原物より千差萬別の個々物を生出するかを解する能はず。此の困難を脫せむがためにエレア學派は一原物の變化すと云ふことを否みたり。即ちエレア學派はヘーラクライトスが變化差別を物の實相と見做したるに反して變化差別は吾人の迷妄に過ぎずと斷言せり。此の學派の問ふ所は如何なる一物素が森羅萬象を生ずるぞと云ふよりも寧ろ實に有りと謂はるべきもの(即ち實有の體)は何ぞやと云ふにあり。エレア派と名づくるは南部以太利のエレアといふ市府に起こりしが故なり。此の學派を建てたる功績はパルメニデースにあり。
パルメニデース(Παρμενίδης)
《開祖パルメニデースの生涯、人物。》〔二〕クセノファネースが凡べての物は一體にして不動也といへりしより史家或はエレア學派を彼れに始まれりといへど、眞に此の派の開祖と見做すべきはパルメニデース也。クセノファネースは唯だ世界は唯一にして不動なりといひしに止まり未だ變化雜多を否むには至らざりき、未だ明らかに唯一と雜多とを相容れざるものとは言はざりき。然るにエレア學說の主眼ともいふべき所は眞に有りといはるべきものは唯一不變平等なる實體にして他は一切無なりとするの點にあり、これクセノファネースの說を越えて更に一大步を進めたるもの又隨うてヘーラクライトスの說に正反對をなせるもの也(但し其の思想の一元的なることは相同じ)。パルメニデースはエレアの人なり。プラトーンの記する所によりて推算すればその生まれしは五百二十年乃至十年より早からず(ツェラーはディオゲネースの言を正しとして五百四十四年乃至四十年ならむと考ふ)。多少クセノファネースの思想に得たる所あり又ピタゴラス學徒に聞きし所あらむと思はる。一世の大儒にして諸人に尊敬せられパルメニデースの性行といへば殆んど諺の如く思はるるに至れり。律語を以て其の哲學を叙述したりしが其の幾分は今尙ほ遺存せり。
《有とは何ぞや。》〔三〕パルメニデースの學說は有といふ一觀念を出立點となしそれを論理的に演繹開發したるもの也。有といふ觀念を分析論究したるは彼れの學說を以て其の嚆矢とす。其の說の主眼とする所は「有(εἶναι)のみあり非有(μὴ εἶναι)はなく又考へられず」といふにあり。今その意を推し究むるに凡そ物あるは即ちその有なる也、その反對なる非有のあるべき理なし、隨うて非有なるものは又考ふべからず、何となれば非有は無なれば也、考ふべき事柄なければ也。有は常恒不變の實體にして曾てありしもの又將にあらむとするものに非ず唯だ恒に今ある者、その存在にはつねの今あるのみ、何となれば曾てありしものはあるものに非ず、將に
あらむとするものも亦あるものにあらざれば也。即ち有には過去なく將來なく唯だ無始無終の現在あるのみ。されば又有は生じたるものにあらず、もし生じたる者とせば之れを生ぜしめたる者なかるべからず而してそは有ならざるべからず、非有が有を生ずべき理なければ也、即ち有そのものには生起の始を見出だす可からざる也。又有は滅するものにあらず、滅すとはその非有となることなれば也、有は有にして非有にあらず。故に有には生滅なし。次ぎに又有は分割され得るものにあらず何となれば若し彼れと此れとの中間に立ちて之れを分かつものあらばそのもの亦有ならざる可からざれば也、有ならぬものが有と有との間に入りて之れを分かつべきにあらず。故に有は不可割、不斷絕のもの也、個々の相別かれ相離れたるものを以て成らず唯一不二のもの也。又有は平等一如にして此處より彼處に、彼處より此處に多く又は少なくありと云ふべきものに非ず、有りと云ふ事の外に物をして有らしむるものなく而して此の有りてふ事に多少又厚薄の差別あるべからず、有は唯だ有にして都べて同一不異なり、故に又有は變ずるものにあらず動くものにあらず、平等の自體を保ちて常に靜なり。又思想も有と別なるものにあらず、そは思想さるゝ事柄は有ならざる可からず有ならずば思想さる可からざれば也、即ち思想あらばそは有の思想なり、思想に入りて思想を成すものは有の外にある可からず。故に思想と有とは
《有は全く形而上のものにあらず。》〔四〕以上述ぶる所を見ればパルメニデースに至りて抽象的思想の著るく進步せるは否むべきにあらず。しかも未だ之れを純理說とはいふべからず。その所謂有は未だ全く形而上のものにはあらで唯だ物體の不變平等の基本、即ち物の物たる所を指せる也。故に彼れが謂ふ有は空間を塞充する底のもの、唯だ物體より個々の差別性を悉皆抽象し去りて後に殘れる物基ともいふべきものに外ならず。アナクシマンドロスのト、アパイロンは未だ個々の物に分かれざるもの即ち無定限なるものを指し、パルメニデースの有は物體よりその差別相を除き去りたる平等一如のものを指す、而してその平等一如のところを何ぞと云ふに、空間を充たすことに外ならず。これ物體の物體たる所、これ即ち有なり。故にパルメニデースにありては空間に充實すと云ふ意味の實と實在するといふ意味の實とが相合したりし也。實に在るものは空間に
《理性と感官との區別。》〔五〕此くの如く唯一平等の有のみを實有と知るは吾人の理性にして雜多變化ありとするは感官の倒見なり。五官の示す所のものは迷妄なり、眞理を示すものは吾人の理性のみと、斯くパルメニデースは截然理性と感官とを分別したり。さて此くの如く五官の示す萬物の變化差別を迷妄なりとし唯一不變の有をのみ眞實とするときは、哲學の考究はこゝに其の局を結びたりといふべきなれど彼れは流石に當時の學者が一般に其の心を注ぎたる萬物生起の論をも顧みざるを得ず、假に俗見に從うて森羅萬象を實在するものとせばその生起を如何に說明するが至當なるかと云ふことを論じたり。彼れが著作の詩は二篇に分かれたり。第一篇には平等一如の有のみありて變化雜多はすべて非有なりといふ眞理を述べ、第二篇には假りに俗見に從うて雜多變化を說明したる假說的物理論を述べたり。彼れが假說的物理論に曰はく、凡べての物皆明暗の二元より成り明は暖輕稀、暗は寒重濃なり。而して明は有にあたり暗は非有にあたる。明なる者と共に暗なるをも實に有りと思ふが故にこゝに雜多變化の世界を見る也これ倒見なり。二元の存する量は相同じ。萬物一として此の二元より成らざるはなし。明者多きほど有に近く、隨うて精神生氣饒く、暗者多きほど非有に近く隨うて活潑々の氣に乏し。
宇宙は相重なれる球層を以て成り中央に核ともいふべき球あり(この球は葢し吾人の住する地球を指していへるならむ)。此の球と宇宙の外皮たる極端の球層とは重くして光なき暗質より成り而して此の外皮の兩側と其の核の外側とを取り卷きて火層あり。此の兩火層の中間に火質と暗質との相混ぜる幾層の球あり、云々。
右の二元的物理說並びに世界構造說はまさしく當時のピタゴラス派の學說を取りこを最もよく俗見を代表したるものとしてパルメニデースの述べたるものなりと考ふる史家あり。或は然らむ。
尙ほパルメニデースは知覺を說明して曰はく、吾人の知覺は身體を組織する明暗二元の配合如何により敏とも鈍ともなる也。暖にして明なるほど知力生氣旺に、寒にして暗なるほど知力生氣微し。又吾人が外物を知覺するは吾人の身體を組織する明暗の二元が各〻みづからと同質なる物を知覺するなり、即ち明なるものが外界の明なる質、暗なるものが外界の暗なる質を知覺するなりと。
《實體的觀念の最始の發現。》〔六〕パルメニデースの根本思想は實に有るもの即ち有は生滅變化するものにあらずとして一切の差別變化を否み以て實體論に眼を向けたるの點にあり。ミレートス學派は一なるものが變化して萬物をなすといへりしがパルメニデースは一なるものの變化すべき理なし實體は決して生滅せずと說きたる也。しかも其の謂ふ有は未だ純理的のものにあらずして、寧ろ物體的のものなりき。遮莫、實體的觀念はパルメニデースに至りて始めて現はれ後の希臘哲學の發達に大關係を有するものとなれり。パルメニデースの銳利なる辯證的論法を紹ぎて更に變化生滅といふ思想を打滅することに力めたる者を彼れの弟子ヅェーノーンとす。ヅェーノーンは師の說を開發せむと力めしよりも(これは實際更に開發するの餘地なかりしなり)むしろ其の反對論即ち雜多變動を實有のものとする論を攻擊論駁する位置に立ちたり。
ヅェーノーン(Ζήνων)
《ヅェーノーンの辨證法。》〔七〕ヅェーノーンはパルメニデースの高足弟子、師と同鄕の人なり。プラトーンの記せる所を信ずべくば師より少きこと二十五歲、其の都邑を擅政家の手中より救ひ出ださむが爲めに雄々しき最期を遂げたりとぞ。
ヅェーノーンの目的とせし所は雜多と云ひ又變動といふ觀念を取り來たりて之れを分析討究し其の不條理なること其の自家撞着に陷るべきことを暴露するにあり。故に彼れの論旨は表面より積極的に師說を立證するにはあらで寧ろ反面より消極的に反對論の立つべからざる所以を明らかにするにありき。(かく論敵に對して一觀念を分析開發して其の眞理非眞理を論證する法を名づけて辯證法といふ。)アリストテレースは辯證法を以てヅェーノーンに始まれりといへれど其の端緖は已にパルメニデースが有の觀念を推究したるに啓けたりと謂ふべし。
〔八〕ヅェーノーンの論は難‐雜‐多の論と難‐變‐動の論との二に分かれたり。前者は雜多といふ觀念を分析討究して其の不條理なることを明らかにせむとしたるもの、後者は塲處の變動(即ち運動)といふことの道理上あるまじき所以を論じたるもの也。さてヅェーノーンに取りては、存在すといはるべきものは空間を塞充するものに外ならず、而して空間を塞充するものの變動するは其の存在の塲處を變ずるに外ならず。故に彼れは性質上の變化を措いて專ら空間に於ける變動即ち運動のあるべからざる所以を論じたり。〈當時は性質上の變動即ち變化と空間上の變動即ち運動とは共に均しく動くといふ一語にて、言ひ表はしたれば之れを混同し易かりき。〉
先づ雜多を難ずるの論に曰はく(第一)若し雜多なるものあらばそは限りなく小なると同時に限りなく大なる者ならざるべからず。其の故如何にといふに相集まりて雜多を成せる一個のものの各〻は分量なき不可分のものならざる可からず、若し些にても分量あらばそは更に分かたれ得べきもの隨うて一個にはあらで數個物の相集まれるものなれば也。然るにかく分量なきものを他物に加ふるも之れを大ならしむる能はざるべく又そを他物より減ずるも之れを小ならしむる能はざるべし。而してかゝるものを如何ばかり集積するもそは竟に分量あるものとはならざるべし。然れば一個の相集まりて成る雜多は到底分量なきもの即ち限りなく小なるものならざる可からず。若し又一個を以て多少の分量あるものとせば其の中の一部分と他部分とは若干の距離を有せざるべからず。然るに吾人はその部分よりも尙ほ小にして而も尙ほ若干の分量あるものを考ふるを得べく而して更に尙ほそれよりも小なる部分を考ふるを得べし。かくして一個の中には或分量を有する無數の部分の含まると見るを得べし。而して此の如く限りなき多くの部分を有するものを以て成れる多は限りなく大なるものならざる可からず。之れを要するに雜多をなせる一個を以て各〻毫も分量なきものと見ばそは無限に小なるべく又多少の分量あるものと見ばそは無限に大ならざる可からず。故に多といふは自家撞着の觀念なり。
(第二)雜多は量に於いて自家撞着の觀念なるのみならず其の數の上より見るも亦しかり、そは限り有ると同時に限りなき者ならざる可からざれば也。何の故ぞ。曰はく、若し多なるものあらば、そはその實際あるより多くもなく又少なくもなく其の實にあるほどのものならざる可からず、即ち其の數に於いて定限あるもの也。然るに又二個のものの相分かれて實に二個のものたらむには其の間に之れを分別する第三者なかるべからず。而して又此の第三者が第三者たらむには之れを前二個のものと分別する第四の者又第五の者なかるべからず。斯くして限りなく多くの個々物あるを要す。すなはち雜多は其の數に於いて限りなかるべし。限りあると同時に限りなき、これ自家撞着にあらずして何ぞやと。以上を難雜多の論となす。
《難變動論。》〔九〕次ぎに難變動の論に曰はく(第一)先づ一定の距離について云はむに一物が甲點より乙點に達せむには先づ甲と乙との中央點に達せざるべからず。然るに其の中央點に達せむには先づ其の點と甲との中央點に達せざるべからず。而して又此の中央點に達せむには先づそれと甲との中央點に達せざるべからず。かくして無限の中央點を經過せざる可からざるが故に到底甲點より乙點に達する能はざるべし。
(第二)定まらざる距離については彼れの有名なるアキルロイス龜を追ふの論あり。アキルロイスの韋駄天走りを以てするも到底一步を先んぜられたる龜に追ひつくを得ざるべし。何となれば假にアキルロイスのある處を甲とし龜のある處を乙とし而して龜の速力をアキルロイスの速力の百分の一とせむにアキルロイスの走りて龜のありし乙なる點に達する時には龜は甲點と乙點との距離の百分の一を走りて丙なる點にあるべくアキルロイス更に乙點より丙點に達する時には龜は又乙點と丙點との距離の百分の一を走りて丁點にあるべし。アキルロイス更に丁點に達する時には龜は更に丙と丁との距離の百分の一を走りて戊點にあるべし。斯くして遂にアキルロイスは龜に追ひつくの期なかるべし。故に一物が一定せざる距離を飛び踰えて他物に達すと思ふは迷妄なり。
(第三)一刹那に於ける運動の限りなく小なるべきの故をもて其の運動のあるべからざることを論ず、飛矢不動の論これ也。人は飛ぶ矢を動くと見る、しかも其の一刹那(即ち限りなく小なる時間)に於ける有樣は一點に停在する(即ち動かざる)有樣なるべし。されば第一の刹那に於いて動かず、第二の刹那に於いて動かず、第三の刹那に於いても動かず、其の他のすべての刹那に於いても動かざるべし。即ち飛ぶと見ゆる矢は眞實は何れの刹那にも動かざるべし。然るに之れを動くと見るは俗眼の倒見に外ならず。
(第四)ヅェーノーンは更に論じて曰はく、甲なる一物が乙なる物へ向かつて動く時に其の物に或は早く達することあり或は遲く達することあり、そは乙が靜かなる時よりも甲へ向かつて動く時の方、甲は早く乙に達すべければ也、即ち同一の時間に甲は乙に達することあり達せざることあり、これは考ふべからざること也。若し通常史家の解し來たれる所に從へば此の論は唯だ物體の運動の關係的なること、即ち一物の動くと云ふは唯だ他物に對してのみ言ふべきものなることを示すに過ぎざるべし、甲の動くと云ふは唯だ他物(例へば乙)に對してのみ言ふべきものなれば乙の靜止する時よりもそれが甲へ向かつて動く時には甲が早く乙に達すべきは當然のことなるべし、未だこれを以て運動(移處)と云ふことを破するには足らざる也。然れども若し此の論を以て同じき時間に通過し得る距離の或は短く或は長きこと、換言すれば運動に遲速あることを難する者とせば旣に揭げたる三ケ條の難動の論と相合して大に意味ある者となる也。そは若し空間は極めて小なる點を以て成り時間は極めて小なる瞬間を以て成るものならば極めて小なる時間には極めて小なる空間を通過する外なかるべし、即ち一瞬間に通過し得べきは一點に止まるべし、故に同じき時間に或は多く或は少なき空間を通過すと云ふことある可からざる也。
《有以外に虛空なし。》〔十〕ヅェーノーンは又物が虛空に存すといふことを非難せり。その要旨に曰はく、若し有といはるゝものが皆虛空の中に在り而して虛空がまた有るものならば其の虛空も亦虛空の中に在らざる可からず。而して虛空を容るゝ虛空も亦虛空の中に在らざるべからず。斯くして虛空に虛空を要して遂に窮極なかるべし。虛空といふ觀念の不都合なる此の如し。實に在りといはるべきものは唯だ空間を塞充する有のみ。有以外に虛空と云ふもののあるべき理なし有以外は無なり。
《ヅェーノーンの論の根據。》〔十一〕ヅェーノーンは萬物生起の事に關しては別に新しく說くところなかりしが如し。パルメニデースは俗見に假したる說とはいへ尙ほ物理につきて陳ぶる所ありしがヅェーノーンは彼れよりも更に物理說には重きを置かざりしならむと思はる。
上に揭ぐるヅェーノーンの論は要するに空間と時間との限りなく小分せらるべきことを根據とせる者なり。彼れの自說は空間時間の不可分なることを主張するにあるものから假りに反對論者の說(即ち雜多變化ありとするの論)に從うて考ふれば空間と時間とは無限に分割せられ得べく隨うて多及び動といふ觀念は自家撞着の者とならざるを得ずと論じたる也。難多の二個條の論は、甲點と乙點とを分別する空間の限りなく分かたるべきことを以て論據とす。空間の限りなく
提要
《エレア學派の提要及び其の難點。》〔十二〕之れを要するにエレア學派の根本思想は實有のものは平等一如にして變化なく生滅なしといふことにあり。實に有るものが無となることなく又無が有となることなし、即ち生滅と云ふことなし、不變一如が有の實相にして變化雜多はすべて迷妄なり。かく不變一如を實有とし生滅を拒否するが是れエレア學の骨髓にして其の學が希臘哲學の發達に大影響を及ぼしたる所以こゝにあり。
クセノファネースは全體即一體といひ而して其の一體を不動と見たり。ヘーラクライトスは宇宙は一にして而も常に變化すると見一體と變化とは相容るゝものなりと考へたり。パルメニデースは一體と變化とは相容れざるものなりと考へ實有は平等一如、不生滅、不變化ならざる可からず、これのみ唯一の實體にして雜多變化は迷誤に外ならずと斷じたり。これ一元的思想を其の極端まで論理的に推窮したる結果なり。宇宙を一元より成れりと見而して其の一元を物體的のものと見ば如何にしても變化又生滅といふことを否まざるを得ざるべし。さて此くタレース以降の一元論はパルメニデースに至りて頂點に達したりしが其の勢つひに一轉して多元論を誘起し來たりぬ。エレア學說にいふが如く變化雜多を以て單に吾人の迷誤となさむは難し。パルメニデースは單に之れを五官の迷妄といへど何故に五官の迷妄の起こるかを說明せざるなり。されば打ちつけに
拒否することをせずして寧ろ吾人の實驗する所なる變化雜多の生起する所以を說明せむとせば如何なる
第六章 エムペドクレース(Ἐμπεδοκλῆς)
《エムペドクレースの生涯、性行、著述。》〔一〕エムペドクレースはドリア種族の殖民地なるアクラガスの人〈アクラガスはシヽリア島の一市府〉紀元前四百七十二年以後其の生まれし市府にて有爲の一人物なりしことは疑はれざる事實なり、又其の死せしは四百四十年以後なることも確かなり、されば其の生涯は略〻四百九十一年ごろより四百三十年頃に至ると見て大過なかるべし。父メトーン、時の擅政家を排して民主政治を起こすに與りて力ありき、エムペドクレースも亦大に民主黨の爲めに盡くすところあり常に平民の良友を以て自任しき。加之彼れは宗敎家として又醫家として大に時人に尊信せられ廣く民間を巡歷して敎法を說き民の疾苦を訪ひき。且つ種々の奇跡を行ひしよし古き書どもに記載しあれど實際如何ほどの事なりしか確かには知り難し。其の說きし敎法は輪廻轉生、未來賞罸の說又ピタゴラス盟社に於ける信仰禮拜の如き者なりしならむ。エムペドクレースは宗敎家としてやゝピタゴラスに似たる所あり。資性沈重、志氣雄大、辯舌流るゝが如くなりきとぞ。其の死に關しては古來種々の妄說傳はれゝど、要するに民主黨の爲めに力を致したりしに竟に平民の歡心を失うてペロホネッソスに遁れそこにて其の生を終へぬといふが最も眞なるに近し。「ペリ、フィゼオース」幷びに「力タルモイ」といふ二篇の述學の詩を作れり、今尙ほ幾多の部分を存す。或は、これは二篇の詩にあらずして一篇の二部分なりと考ふる學者もあり。想像豐富、語調頗る壯高なり。
《萬物は四元素の離合によりて成る。》〔二〕嚮にパルメニデースは生滅變化といふことを拒否して有が無となり無が有となることなしといへりしが、エムペドクレースが思索考究の根據となしゝ所亦實にこゝにあり。眞に有りといはるゝものの滅し去り、又無きものの生じ來たることある可からずと唱へし點に於いては彼れはまさしくエレア學の根本的思想を繼紹せし者也。されど彼れはエレア學派の如く全然差別變化を否むことをせず、むしろ吾人の眼前に諸物の種々なる形を取りて出沒變化するは疑ふべからざる事實なりと考へ、此の事實と眞に實有なるものの常恒不變なるべき事とを調和せむとするが彼れの思索の大主眼なりき。彼れ說を立てゝ曰はく、諸物を形づくる元素は毫も生滅增減變化せず、然るに諸物の成壞變動するは只だ不變化不生滅なる幾多の元素の或は混和し或は離散するに外ならずと。其の混和するは物の成る也、其の離散するは物の壞るゝ也。彼れの語に曰はく「一物として生滅するものなし唯だ混和することあるのみ又混和したる者の離散するあることのみ、然るに人は之れを名づけて生滅といふ」と。斯くエムペドクレースは不生滅不變化なる者の混和離散するを以て萬象の生滅變化する所以の理を說明せまく試みたり。元素といふ觀念(即ち生ぜず滅せずして唯だ機械的に離合するものといふ觀念)が彼れに於いて始めて現はれたり。彼れは之れを「諸物の根」と名づけたり。又此の「諸物の根」即ち元素を地水火風の四種と見定めたるも彼れを以て嚆矢とす。〈アリストテレース更に元素を此の四種に定めし以來久しき間此の四元素說の行はれたりしは怡も五行說の支那の學者間に於ける、四大の說の印度の學者間に於けるが如し。〉彼れは萬物の皆この四元素の離合によりて成ることを譬へて恰も畫工が繪具を混じて物象を描くが如しといへり。タレース等已に此等の物質の一を揀び之れを以て萬象の說明を試みたれど彼等の說きし所は其の一物質が變化してよろづの物を生ずといふにあれば其の所謂元素說にあらざるは論なし。アリストテレースに據ればエムペドクレースは地水風の三元素を一括して之れを火に對せしめたりとぞ。惟ふにこれはアナクシマンドロス以來已にしば〳〵現はれし寒熱對峙の說を四元素に應用したりてそを熱なる方と熱ならざる方とに分かちて相對せしめたるものならむ。
エムペドクレースは四元素の性質については詳說する所なし。唯だ火を光熱あるもの、風即ち空氣を透明にして流通するもの、水を冷かにして黑きもの、地を重くして堅きものといひしに止まる。此の四元素の各〻が全世界に存在する總量は相均しけれど其の個々物に於ける量は同一ならず、又一個物には必ず四種の元素の悉く混和せりといふにもあらず。エムペドクレースは虛空(即ち物體を以て塡充されざる空間)の存在することを說かず、此の點また彼れがエレア學に據れりし所也。
《四元素を動かすものは何ぞ。》〔三〕斯く萬物は皆地水火風の離合によりて其の形を或は現じ或は沒するものなるが、何物がよく此の四元素をして或は和合し或は離散せしむるぞ。四元素は皆不生滅不變化にして恒に其の自性自體を保持するものなれば所詮彼等みづから離合集散せむやうなし。離合せむには動かざるべからず、而して彼等は不變恒有の自性を保持するものなれば何故にその動くかを解する能はず。こゝに於いてかエムペドクレースは彼等の外に之れを動かし離合せしむるものなかるべからずと見て,愛憎の二動力を說き來たれり。愛は諸元素を混和せしめ憎(又は爭)は諸元素を離散せしむ。愛を說きては曰はく「死し果つべきもの皆知れり生來愛ありて彼等を互に近つかしめ一致せしむることを」「ただ彼等は知らず此の愛が全宇宙を通貫するものなることを」と。愛憎といふ語の詩歌的なる嫌ひはあれど兎に角動かさるゝ物と動かす物とを截然相分かち相對せしめたるは彼れを以て嚆矢とせざるべからず。其のこれを愛と憎との二に分かちたるは一は以て元素の混和一は以て其の離散を說明せむがためなるは疑ひなきことなるが、又これはヘーラクライトスの唱へたりし反對の傾向の相爭ふといふ說と思想上多少の關係を有せるものならむ、但しエムペドクレースが愛の作用を善と見、憎の作用を不善と見たる點はヘーラクライトスの說と同じからず。
上陳せるが如くエムペドクレースは地水火風に對して之れを動かす愛憎を說きたるが、彼れに取りては其の謂ふ愛憎の二動力も決して全く非物質のものにはあらず地水火風の四元素と共に空間に存在する物なり。故に古代の學者中には彼れの說を解してこれを地水火風及び愛憎の六元素によりて萬物を組成すと見るの意なりと云ひしもあり。然れども愛憎を地水火風と列べて之れを六元素と見るは彼れの意にあらざるべし。彼れに於いては未だ勢力といふ觀念が明瞭ならざれども兎に角動かさるゝ四種の物質元素と之れを動かす二個のものとの區別が彼れの說に現はれたることは見まがふべくもあらず。
《全世界の循環。》〔四〕此くの如く諸元素は愛と憎とによりて或は混和し或は離散するものなるが其の混和する傾と離散する傾とは常に平均するものに非ず。世界全體より見れば一が增進しつゝある時他が減却しつゝありて遂には一が全く他を壓倒して全物界を橫領するの時期あり。愛が全物界を橫領する時は諸元素悉く一致結合して些の分離なし。而して此の時に於いては全物界は渾然たる球體を成すと見てエムペドクレースは之れをスファイロス(σφαῖρος)即ち球と名づけたり。これに反して憎が全く愛を壓倒する時は諸元素悉く相離れて其の中些の和合なし。此の兩極端の中間に在る時期には和合の傾と離散の傾とが交〻相消長す。物界がスファイロスの狀態を出でて他の極端に向かひゆく時には愛が漸次に衰へ憎が漸漸次に增し而して其の離散の極に達したる後更にスファイロスへ向かひゆく時には愛次第に增して憎次第に減ず。斯くして全物界は件の兩極端にある時期と其の一より他へ往還する時期との四時代を經過す。全物界は無窮に此の四つの時代を循環來往す。吾人が今現に睹るが如き個々物の存在は一極端より他極端へ移りゆく時期に於いてのみあり。兩極端に於いては全き一致又は離散の專領する時代なれば今睹るが如き個物の存せむやうなし。個物の存せむには必ずや多少の混和と多少の離散となかるべからず。即ち一個物たらむには其の物が他物に對して離散せざるべからず、然れども其の物の一個物たるを得むには又若干の元素相集合して一團の自體を爲さざるべからず。或史家はおもへらく、エムペドクレースが離散と相消長すといへる和合は同種類の元素の相寄るを云へるにあらず異種の元素の相集まるを云へる也、愛の力によらずとも同種の元素は相集まる、唯だ異種の元素の和合するは愛の力による、此の故にスファイロスに對する極端の狀態にありては同種の元素はそれぞれに皆悉く相合する也と。斯く解釋したる方エムペドクレースの說には困難の點少なからむ。又史家通常の解釋に從へばエムペドクレースは現今の世界を以て極端の離散の狀態よりスファイロスへ進みゆく中途にありとすれど、之れに反して、彼れは現世界を以てスファイロスの狀態より離散の狀態へ進みゆきつゝありと見たりと解する史家もあり。
《天文說。》〔五〕憎によりて離散せられたる物界の中央に愛が入り來たりて先づ旋渦を起こし次第に周圍の諸物を吸引す(又或史家の見を取ればスファイロスの中央に憎が入り來たりて離散を生じ始むる也)。之れが爲めに空氣まづ凝結して全物界の外皮を作り、つづいて火質出でて件の空氣を壓し空氣は下に壓せられて暗なる半球を形づくり火質は上りて明なる半球を形づくる、天廻りて明らかなる半球上に懸かれば晝となり暗なる半球之れに代はれば夜となる。大地は初め粘泥の狀態にありしが廻轉するに從ひて水を排出し水更に空氣を排出せり。この最後に出でたる空氣これ天の最下層にとどまりて大地を覆ふもの也。暗なる天の半面に火塊の散布せる、これ星體なり。日輪は玻璃質のものにて明らかなる半球の光輝を集めて之れを四方に反射す。月の光あるは日輪の光を反射するによる、其の形盆に似て空氣の凝結せる水晶質のもの也。日蝕は日と地との間に月の挾まるによりて起こる。
《同種相牽き同類相求む。》〔六〕エムペドクレースは此の四元素の離合を以て天地間の個々物の成壞變化を說明する唯一の金鑰となしぬ。彼れに從へば一物が他物に影響を及ぼすは一物を組成する元素の他物に攙入するが故なり。如何にして一物の元素が他物に攙入し得るか。彼れ曰はく、其の物の微部分が發出して他物の微竅に入るが故なりと。而して一物より發出する微部分と他物の竅の大さ及び形とが相適合すれば彼れと此れと相混じ易く隨うて彼れが此れに影響を及ぼし易し。混入し易きは種類の同じき物體なり、そは發出する部分とその入るべき竅とが最も能く適合すれば也。故に同種相牽き同類相求む。〈エムペドクレースは鐵の磁石に牽かるゝ所以を說明して曰はく磁石より發する微分子先づ鐵の竅に入り鐵の方よりも盛んに其の微分子を發出し斯くして次第に相接近して遂に附着するに至ると。〉
《其の生物、生理の說。》〔七〕エムペドクレースの生物の說に曰はく、最初に地中より生じたるは植物にして次ぎは動物なり。初め地中より手足等の個々の部分を別々に生じ後に此等が相結合して千種萬態の生物を形づくりぬ。かるが故に昔時は四肢五體の結合のいと奇異なる怪物多かりしがそれは漸次に亡びて恰好よき生物の蕃殖するに至りぬと。輓近の哲學史家中には此のエムペドクレースの說を解して素と地上に發生せし種々の生物中最も生存に適合せる者の遺れりと說く近世の自然淘汰說のおもかげの已に此にほのみゆと考ふる者あり。又エムペドクレースが植物の葉と動物の毛髮、鳥の羽毛と魚類の鱗と、又植物の實を結ぶと動物の子を產むとを相較べたる如き、近世所謂比較生體學の思想を髣髴せしむるものあり。男女兩性の別を熟度の多少を以て說かむとしては熱なるを男性、冷なるを女性といへり。又曰はく植物の生長するは己れと同類の物質を吸収するによる、而して其の生長に不用なる部分は果實となる。呼吸は咽喉のみに由らず身體全面の竅によりてせらる、盖し血液が身體の表面より內部に退く時は空氣は皮膚の細微なる竅より侵入し血液內部より還り來たれば空氣は之れが爲めに排出せらる、かくして呼吸の働を爲すと。此等のエムペドクレースの說によりて見るも當時生物生理の硏究のやう〳〵盛んならむとせる樣を知るべし。
《知覺の說明。》〔八〕又エムペドクレースは身體の表面の竅を通ほして外界の物質が體內に於ける同種類の物質と相逢着することによりて知覺を說明せむと試みたり。おもへらく動物のみ知覺を有するにあらず植物亦之れを有す、否如何なるものも多少の知覺を有せざるはなし、物皆知あり識ありといへり。尙ほ物は同類によりて知覺せらるといふ意を述べて曰はく「吾人は地を以て地を見,水を以て水、アイテールを以てアイテール、火を以て火、愛を以て愛、爭を以て爭を見る」と。視覺は外物より來たる微部分の眼に達するとき眼中の火及び水が其の細竅より發出して二者相逢著するに基づく。吾人の身體の成分と其の類を同じうするものは吾人に快感を與へ其の類の相反するものは嫌惡の念を起こさしむ。欲し求むる心は同樣の物質相牽引するに生ず。吾人が知力の特に存する處は血液なり、血液は諸元素を包合するが故に如何なる外物にも應接することを得。斯くの如くエムペドクレースはパルメニデースと共に物は其の同類によりて知覺せらると說きしが又彼れと共に感性と理性とを相別かちて吾人に眞理を知らしむる者は理性なりといへり。
《輪廻轉生の說。》〔九〕曩にも陳せし如くエムペドクレースは輪廻轉生の說を爲し又ピタゴラス盟社に於けるが如き信神禮拜を說きたり。吾人の靈魂は其の爲せる善惡業に隨ひ永劫轉生して歇むとき莫かるべし。故に殺生肉食すべからず、動物の靈魂も元と吾人の靈魂と同一なりしがただ轉生してかゝる狀態に墮落せるのみ、若し轉生中其の罪業を棄て去らば至福の人となりて生まれ出で後ち神界に入るを得べし。エムペドクレースは敢て俗間の宗敎を攻擊する事をなさざりき、彼れはむしろ當時の宗敎の最も高尙なる代表者たらむとしたりしなり。
提要
《以上の提要及び其の難轉。》〔十〕エムペドクレースが思索の根本問題とせし所はエレア學派の主張せる不生滅不變化の實有を以て萬象の成壞變化を說明せむとするにあり。之れが爲めに說き出でたる元素說は彼れが學說の骨髓なり。其の元素を不生滅不變化のものと見たるはパルメニデースの學說に基づける所なれども之れを平等一如と見ずして本來性質上に四種の差別あるもの又集散離合するもの(即ち位置に於いて變動するもの、量に於いて割かたるべきもの)と見たるはエレア學派と一致せざりし所なり。而して愛憎といふ反對の動力を設け其が消長によりて萬物の成壞變化を說明せむとしたるは恐らくは彼れがヘーラクライトスの學說に負へる所ならむ。エムペドクレースはパルメニデ一スの謂ふ所とヘーラクライトスのいふ所とを我が學說に攝取して前者を其の所謂スファイロスの狀態に置き後者を愛憎の相爭ふ狀態に置けりしが如し。尙ほ彼れが天文及び宗敎上の所說に於いてピタゴラス學派より幾分の影響を受けたりしは明らかなり。
エムペドクレースが物質分子の混和といふことを以て唯一の原理となしこれに依りて物理、生理、知覺上の現象を說明せむとせしは學說上頗る一貫したる所あるを示すものなれども、これと共に又矛盾の點も尠からず。第一彼れはスファイロスに於いては諸物全く混和すと說きたれどかゝる狀態にありて四元素は尙ほ其の特殊の自性を保ち得べき乎。彼れは或は四元素互に混和しながら各〻其の自性を保存すと思へしならめど一元素が自性自體を守持して少しにても他の元素と相容れざる所ある間は、そは未だ全く相混和せりとは謂ふべからず。若し全く相渾融和合せば四元素は最早各〻其の特殊の自性を保持せずして平等一如のものたらむ。かく一方には地水火風を本來有差別のものと見傲しながら又一方にはスファイロスなる狀態を說くは是れアリストテレースの已に指摘したるエムペドクレースが學說の自家撞著の點なりとす。
次ぎに又スファイロスと正反對なる狀態について見るも同樣の困難なき能はず。若し諸元素が全く離散し盡くさば是れ亦各元素がその特殊の性質を留めざるの狀態ならむ。若し假りに多少の分量を有する物ありて特殊の性質を保つとせばこれ未だ其の物の全く離散せずして其の間幾分の和合を存するなり。故に諸元素の全く離散するは其の極つひに其の全く和合すると侔しく毫末も特殊の點を留めざるに至らむ。然れども或史家の所見の如くエムペドクレースの謂ふ分離が唯だ異種の元素の分離ならば今云ふ困難はなかるべし、そは同種のものは和合すればなり、但しスファイロスに對する困難は尙ほ依然として存す。〈或史家はおもへらくエムペドクレースの謂へる所はスファイロスの狀態に於いても憎が全く其の跡を絕つにあらず又其の反對の狀態に於いても愛が全く打ち勝たるゝにあらず、唯だ比較上和合の最も進み又分離の最も進める狀態を指せるなりと。然れども果たしてエムペドクレースが斯く考へたるかは疑はし〉若し諸元素を全く相混和し又相離散し得るものとせばそを限りなく割かたるべきものと見ざるべからず。若し少量にても分割すべからざる體を有せばそを全く混合しまたは離散せるものといふべからず。さればエムペドクレースの所謂本來有差別の元素の說をして上述の困難より免れしめむには遂に幾分の量を存しながら尙ほ其の上には分割すべからざる極微體(即ち限りなく混和せざる又離散せざる元子)ありと說かざるべからず。又離合即ち運動のあり得べきために虛空の存在をも說かざるべからず。されどエムペドクレースは未だ此に說き至らざりしなり。
又彼れの說くが如く地水火風の四元素のみをもて能く森羅萬象の生起を說明し得べきかとも疑ひ問ふを得べし。宇宙に存する千萬無量の性質上の差別が如何にして唯だ四種の元素より生ずるか。エムペドクレースは唯だ四種の元素が離合すと說くのみ其の離合が何故にかゝる性質上無數の差別ある物を生じ來たるかを說かざる也。此の點に關してエムペドクレースとは異なる而も其の根本的思想に於いては相類似せる說を立てしはアナクサゴーラスなり。
第七章 アナクサゴーラス(Ἀναξαγόρας)
エムペドクレースと略〻同じ時代に出でて同じ問題を解釋せむとしたるアナクサゴーラスは小亞細亞のクラヅォメナイの人、アポルロドーロスに據れば紀元前五百年に生まれたり。〈クラヅォメナイも亦イオニア文化の範圍內にありし一市府なり〉年齡よりいへばエムペドクレースに先だち著作よりいへば彼れに後れたり。紀元前五世紀の中頃かの波斯戰爭の局を結びて間もなく亞典府に來たり當世の名士ペリクレース、オイリーピデース、トゥキーディデース等と交はり學術を以て同志に推されたり。ペロポンネーソス戰爭の開かるゝに先だちペリクレースの政敵彼れが朋友を窘迫したりしことありしが、アナクサゴーラスも其の一人として此の禍に罹りき。彼れ月を大地と同樣の者なりといひ日を燃ゆる石塊に外ならずといへりとて訴へられ遂に亞典府を去らざるを得ざるに至れり、時に紀元前四百三十四年なりき。或はいふ、一旦獄につながれ後放たれてラムプサコスに行けりと、或はいふ直ちに亞典府を逐はれたるに過ぎずと。ラムプサコスにて齡七十二にして歿せり。散文にて書を著はしたり、これをも「ペリ、フィゼオース」と名づく、今尙ほ其の斷片の句を存せり。
《萬有の原物は性質上差別ある無數の種子なり。》〔二〕アナクサゴーラスが思索の起點となしゝ所もエムペドクレースと同じくパルメニデースの實有論即ち實に有りといはるべきものは生滅變化することなしといふにあり。然れども又彼れはエムペドクレースと同じく此の世界に雜多變動の眞に存することを否まず、不生不滅なる數多の原物ありてその集合し離散するによりて諸物は或は其の形を成し或は其の跡を沒すと說きたり。曰はく、世に生あり滅ありとヘルラス人の云ふは誤れり、そは一物として生ずるなく滅するなく、唯だ本來在る物の相混じ相離るゝに過ぎず、故に正しくは生を混合といひ滅を離散といふべしと。然れどもエムペドクレースは不生不滅の原物は唯だ地、水、火、風の四種なりと說きたれどアナクサゴーラスは本來性質を異にする無數のものありと說きたり。彼れは天地萬物の千態萬狀なるを見て本來性質上千種萬類の物あるを要すと思惟せしなり、こは思ふにエレア派の根本思想を物の性質に適用して本來無き性質の新に生ずべき理なく現存する性質は實に太初より在らざるべからずと考へしに出でたるものならむ。アナクサゴーラスは此の性質上有差別の原物を名づけてスペルマタ(σπέρματα)又はクレーマタ(χρήματα)といへり、種子といふ義なり。一種類の種子は如何ばかり之れを分割するも又之れを集合するも其の一部分の性質と他部分の性質との間に差異を呈することなし。黃金は如何ばかり之れを分割するも黃金、骨は如何ばかり之れを分割するも骨なるが如し。而して此等性質上判然たる區別を有する無數の種子、是れ原始のものにして性質上單純なるものはむしろ此の原始のものの相混じて生じたるなり。かるが故にアナクサゴーラスによれば性質上單純なるものが相合して複雜なるものを成すにはあらで寧ろ性質上判然たる差別を有する數多の種子の相混合するが故にその相異なる性質の互に沒せられてそが混合體は恰も性質上單純なるものの如く見ゆる也。故にエムペドクレースが單純なる元素と見傲しゝ地、水、火、風もアナクサゴーラスに從へばむしろ複雜なるもの即ち數多の種子の相結合して生じたるものなり。
《異種相分かれ同種相集まる。》〔三〕斯く萬物を形づくる無數の種子は如何なる點に於いて其の性質を異にするぞといふに、アナクサゴーラスは唯だ形に於いて色に於いて又味に於いて相異なりと云ひしのみにて別に詳說せし所なし。さて各種子は相合すれば如何程にも大なるを得べく又分割すれば如何程にも小なるを得べし、無窮に細分せらるるが故に彼此全く相混入するを得。太初此の世界は一切の種子全く相渾融せる狀態にありしが其の後ち漸々異種のもの相分かれ同種の物のみ相集まるに從ひ千差萬樣の物象を生ずるに至れる也。故にアナクサゴーラスに從へば千種萬類の差別は異種のものの相合するによりて現はるゝにあらず寧ろその相分かるゝによりて現はるゝ也、即ち本來種子に具はれる(而も世界の太初には相混じて埋沒せりし)無數の性質上の差別が異種なる種子の相離れ同種なる種子のみ相集まるに從ひます〳〵現じ來たる也。然れども此の異種なる種子の分離は今日に至るまで未だ全く完了せしにあらず、隨うて今尙ほ一物といへども全く一種類の種子のみより成れるはなく多少他の凡べての種子を包含す。されば現存せる個々物は多少、太初一切の種子の相混合雜糅せし狀態の痕跡をとどむといふべき也。アナクサゴーラスの語に曰はく「凡べてが凡べての部分を其の中に含む」と、又曰はく「世界は一なり、其の中のもの相分かれたるはなし、斧を以て斷ち割られたるはなし、熱も寒と離れず、寒も熱と離れず」と。夫れ物の變化は所詮種子の或は集合し或は離散する現象に外ならず。若し一物にして他物を含まずば如何にして他物に化するを得むや。一物の變化して他物となるが如く見ゆるは其の素より含有せりし種子の出現すれば也。故にアナクサゴーラスの有名なる語あり、曰はく「雪も黑し」と。又曰はく「凡べてより凡べてが來たる」と、そは凡べてが凡べての種子を含めばなり。然れども今現に一物に含まれたる各種の種子の量は固より同一なりといふべからず。物はその含める種子の中最も多きもの、隨うて又最もいちじるく露はるゝものによりて名づけらる。
右はアナクサゴーラスが凡べてのもの凡べての部分を含むといへるを諸物が各種の種子を含めるの意に解しての說明なるが、或史家は之れを解して各種子に寒熱等反對の性質の多少皆含まるといふ意とす、即ち一種子として全く寒又は全く熱なるはなし、寒と熱とは全くは相離れず、而も無數の反對の性質の各種子に含まるゝ割合の同一ならずして或は寒を多く或は熱を多く含むが故に甲の種子乙の種子といふが如き性質上の差別を生ずと解する也。
《種子の根本動力はヌウスなり。》〔四〕太初一切の種子の相混入せりしものが如何にして分かれそめたるか。アナクサゴーラスはエムペドクレースと同じく動かさるゝ種子の外に動かすものを說きて之れをヌウス(νοῦς)即ち精神と名づけたり。謂ふ所ヌウスとは何ぞ。彼れの語に曰はく「ヌウスは凡べての物の中にて最も精なるもの、最も純なるもの、一切の物につきて凡べての智識を有し又最も大なる力を有す」と。ヌウスは純乎たる獨自の存在を有し毫も他物と相混ぜず他を動かして他に動かさるゝことなし、即ち他物は皆混成物なるに此れのみは他に結ばることなし、些も他に結ばれざるが故に之れに束縛せらるゝことなくして能く之れを動かし之れが上に力を有する也、而してその動作や智識あり思慮あり。盖しアナクサゴーラスは萬有、特に天體の整然として美はしき調和を保てるを見てこは智識なき者の作爲し得る所にあらずと思惟せしなり。此の如く彼れの所謂ヌウス即ち精神はエムペドクレースの所謂愛憎よりも一層靈智に近きものなるは疑ふべからざれど直ちに之れを以て非物質のものとは斷了すべからず。ヘーラクライトスが其の所謂火を神火又は道理ある火と名づけし如く物質上のものに智識の作用を具せりと見るは當時の學者に取りては決して異しむべき事にあらず。且つ又アナクサゴーラスは智識あるヌウスなかるべからずと說けども實際は唯だ運動を起こす根本力として之れを用ゐたるに過ぎず、天地萬物の生ずる所以を說くには尙ほエムペドクレースと同じく專ら機械的說明を用ゐたり。又ヌウスは或物には存在し或物には存在せずといひ、又其の存在する處にも或は多量にあり或は少量にありといへるを見れば彼れは之れを以て個々に分割さるゝもの、其の量に於いて大に小に分かたるゝものと爲せるなり。且つ又之れを諸物中の最精最純なるものと云へりしこと等を以て察するも其の謂ふ所の尙ほ全く非物質のものを指せるにあらざるを知るべし。即ち彼れが思想は未だ全く物理學派の立脚地を超脫せるものにあらず。さもあれ彼れがヌウスを說き之れを以て他物と全く相混淆せず純乎たる獨自の存在を有するものとしたりしは物界硏究時代の物理家中最も非物質なる精神を說くに近づけるものなりと云ふを得べし。
《天體論。》〔五〕アナクサゴーラスは所謂ヌウスを以て天地の秩序を說明するに缺くべからざるものとなせども其の實際之れを用ゐたるは專ら最初の運動の起こる所以を說かむが爲めにして一旦運動の起こりし後は機械的作用によりておのづから天地の形成せらるゝが如くに說きたり。太初宇宙は諸種子の雜糅せる狀態にありしがヌウス一たび旋動を起こし此の旋動恰も漣漪の水面に擴がるが如く漸く四方に波及し今尙ほます〳〵外圍の部分をその旋渦中に捲き込みつゝあり。或史家は案ずらくアナクサゴーラスの說に從へばヌウスは唯だ一箇處のみならず處々に運動を生じて數多の世界を形づくれる也と。混沌たる物質は際限なく擴がりその中些の間隙をだに存せず、即ち彼れはエレア學說に從うて虛空の存在を否める也。さてヌウスの起こしたる旋動によりて先づ稀薄、乾明、暖輕なる物と濃厚、濕暗、寒重なる物と相分かれたり。前者をアイテール(αἰθήρ)後者を空氣(ἀήρ)と名づく。ヌウスの起こしゝ旋動によりて濃く重きもの中央に集まり稀く輕きもの周圍に散ず。中央なる濃重のものより水、土、石を排洩す。最初ヌウスの起こしゝ旋動繼續して大地は今尙ほ廻轉す。而して其の廻轉によりて飛び去りし幾多の石塊アイテールの境に入りて熱熾せるが日幷びに星なり、こは隕石を見て知るを得べし。隕石等の證に徵して宇宙を組成せる物質の天と地と相ひとしきを論じたるはアナクサゴーラスを以て嚆矢とす。
大地は形圓柱の平たきものに似、空氣に載せられて世界の中央に靜在す。諸天體は皆大地の周圍を轉廻す。月は日光を反射して照る。月蝕は大地が日光を遮るによりて起こる、又大地と月との間に吾人の視得ざる若干の天體ありて之れに遮らるゝによりて月の蝕することもあり。日蝕は日と大地との間に月の挾まるによりて起こる。月界には山あり谷あり生物も棲息す、其の自體の暗きは日蝕の時に徵して知るべし。星は月と異なりて自體の光を有す、倂し又太陽の光を得て其の光輝を增す。銀河は太陽に照らされざる星々の光の反射せる也。
《生物論、知覺論。》〔六〕動植物は皆種子より生起したり、詳しく言へば素とアイテール及び空氣の界より落下せし種子の泥土に混じたるが日光に照らされて遂に發生して動植物となりたる也。
動植物皆靈魂を有す、こはヌウスがそれに宿れる也。動植物の生育活動するは智ありて働くヌウスの所爲なり。當時希臘學者は感覺知識の心作用と生育活動の生理作用とを共に等しく靈魂の所爲と見做したり。
パルメニデース幷びにエムペドクレースは類の相同じきもの相逢ふによりて感官の知覺を生ずと云ひしが、アナクサゴーラスは反對のものによらずば知覺は生ぜずと說きたり。彼れおもへらく、吾人が物象を視得るは吾人の瞳子に外物の象が映ずればなり、然るに物象は同樣のものには映ぜず唯だ相反するものに映ず。類の相同じきものは激動を生ぜず、故に感覺を生ぜず。吾人が物を視得るは吾人の瞳子は黑きに其の物は光に照らさるれば也。吾人が闇中に物を視得ざるは其の物の色と其の物の映ずべき眼中の部分の色と相同じければ也。苦を以て甘を感じ冷を以て熟を感ずるは皆同じ理に基づけり。かく吾人の感覺は反對の物の相遭ふによりて生ずるが故に如何なる感覺も多少苦痛を伴はざるはなし。故に其の感覺强ければ苦痛も亦加はる。音にまれ色にまれ其の劇烈なるときには苦痛を覺ゆ。
《アナクサゴーラスの學說の特殊の點。》〔七〕不生滅不變化なる幾多の原物を以て森羅萬象の生起及び變化を說明せむとするはアナクサゴーラスがエムペドクレースと其の見を同じうせる所なれど彼れと異なりて性質上の差別を本來無數なりとし世界の千差萬別の物象は素と存在せる性質上の差別の相分かれて現出するなりと說けるは是れ其の學說に於ける一の特殊の點なり。且つ其の說に於いて特に注意すべきはヌウスの論なり。所謂ヌウスは上述せる如く全く物體的性質を脫したる者とは見るべからず、倂し精神的作用に出づるものとせずば宇宙の秩序を解すべからずと考へたる所は彼れの說に於いて覆ふべからざる點なり。但しヘーゲル派の哲學史家は槪ね彼れを目してソークラテース以前の物理說の立脚地を超脫せるもののやういへれど彼れが尙ほ物理派學者の一人たることは其の學說全體の趣より見て明らかなるべし。彼れが虛空の存在を拒否し又凡べての種子の曾て全く相混淆せる狀態にありしこと(故に又各種子の限りなく小分せらるべきこと)を說く所はエムペドクレースの學說に於けると同じ非難を受けざるべからず。
第八章 ピタゴラス學派
《ピタゴラス學派の多元論と他學派との關係。》〔一〕エムペドクレースは地、水、火、風の四元素を以て、アナクサゴーラスは無數の種子を以て諸物の生起及び變化を說明せまくせしが、こゝに又物元を多元的に見て空間に於ける單一なるもの即ち個々の點相集まりて物體をなすと說きたるものあり。ピタゴラス學徒これ也。エムペドクレース、アナクサゴーラスの二人いづれも多なる物元を說きたれどその謂ふ物元は單一なるものにあらず窮まり無く分割さるべきもの也。ピタゴラス學派は物體を組成する單一なるものを說き而して其のものと空間を占むる個々の點とを同一視したり。ピタゴラス派の一學說はソークラテース以前の希臘哲學にありて他の學說と關係する所の最も親密ならざるものの如く、恰も物界硏究時代の哲學思想の主流の傍に流れたる副流なるが如くに見ゆれど、又固より當代の一般の思想と相離れたるものにあらず、一種の多元說としてエムペドクレース及び又アナクサゴーラスの學說と列を同じうし得べきもの也、又同じく多元說の中にては其の學相に於いてエムペドクレース及びアナクサゴーラスとアトム論者との中間に其の位置を占め得べきもの也、そは其の學派に云ふ空間上の單一なるものをエレア學派の思想と結びて更に明瞭に言表せばアトム論者のいふアトムとなるべければ也。又ピタゴラス學徒の數理及び天文の說は當時最も進步したりしものにしてこれに關して他學派は此の學徒に得たる所ありしが如し。又此の學徒は早くより(恐らくはアナクシマンドロスの寒暖二氣說等に基因して)二元的思想を有し而してこれが多少他學派の所說に影響を及ぼせる所もありしなるべし。
《ピタゴラス盟社の盛衰。》〔二〕第二章に陳ぜし如くピタゴラス盟社は一時南部伊太利に於いて政治界に一大勢力を振はむとせしが當時勃興せりし民主思想と衝突し紀元前四百四十年より四百三十年に至る頃には此の社に對する反對の氣焰最も熾にして遂にはクロトーンなる此の社の集會所を燒き拂ひ刃に釁るに至りしかば社友は其の難を遁れて多く地方に離散せり。遁れて希臘本部(ヘルラス)に至れる者の中にクロトーン人フィロラオス(Φιλόλαος)及びタラス人リュイーシス(Λῦσις )あり居をテーベーに占め共に當時の碩學を以て稱せられき。フィロラオスのテーベーに在りしはプラトーンに從へば第五世紀の末つ方也。惟ふに彼れはソークラテースよりも少しく年長なりしならむ。リュイーシスは名將エパミノンダスの師となりき。ピタゴラス盟社一旦クロトーン及び其の他の南部以太利の市府にて其の威勢を失ひし後復た一たびはレーギオンを以て其の中心として稍〻其の勢力を挽回したりしが、其處の圑體も後遂に離散するに至りぬ。當時尙ほ哲學者として又將軍として高名なりしタラス人アルキュイタス(Ἀρχύτας)のあるありしが彼れの死後は此の社の勢力頓に衰へたり。
ピタゴラス派の學說は一時に一人の作りしにはあらで長時を經多くの人によりて漸次に構成せられし者なるが如し。故に其の一部分と他部分との關係甚だ疎なる所あり。又其の學說の大部分の何時構成せられしかは明らかならず。フィロラオスの著作なりとて傳はれるものは此の派の學說の記錄せられたる最古のものにして其のうち明らかに僞作と見ゆる部分を除けば信憑するに足ると考ふる一史家あれど、又此の書を以て全く信ずるに足らずとする學者もあり。
《萬物皆數より成る。》〔三〕ピタゴラス派學說の根本思想は物皆數より成るといふにあり。されど此の派の謂ふ數と物との關係を委しくは如何に考ふべきかに就いては史家大に其の意見を異にす。或は思へらく、物體が數を以て成れりといふ意にはあらで唯だ數の關係に從ひ又數の模範に倣うて形づくらるといふ意なり、數を以て物體の原質と見做せるにはあらずと。然れどもこは寧ろ後世の說明にして原初のピタゴラス學徒は數を以て諸物の原素と思ひたりしが如し、而して斯く思ふは諸物を數の關係に從うて形づくらると見ると毫も相容れざることにあらず、彼等は恐らくは萬物は數を以て成る隨うて數にかたどりて存在し數が諸物の原型なりと考へたりしならむ。斯くピタゴラス學徒が萬物を成すと見たる數は吾人の今日所謂數即ち抽象的のものを意味すと考ふる史家あれど、こは疑はし。寧ろ彼等が物體の成り立ちを考ふる時には數を空間と相離さず空間を占むるの點と其れとを同一視したりしが如し。《*之れを否む史家あれど。》ピタゴラス學徒が夙くより數學の硏究に心を用ゐたりしことは其が哲學なる數論を構成するに至りし原因の少なくとも一なりしならむか、而して當時の數學は專ら幾何學なりしを思へば彼等が數を謂ふ時これを空間上のものとして云ひしも敢て怪しむべきことに非ず。如何なる數も皆一を以て成り而して其の一(即ち單一なるもの)によりて物體の構成せらると彼等の云ひし時には專ら空間を占むる單一なるもの即ち點を眼中に置きしならむ。彼等は一を名づけて數の本又數の父と云へり。約言すれば彼等は諸物體皆單一なるもの即ち點を以て成れりと思惟せしならむ。(或史家の見によればエレア學派のヅェーノーンの攻擊は專ら此のピタゴラス學徒の說に向かへるものなり。)
《二元論の一面。》〔四〕斯く個々の點相合して物體をなすと見ることと、早くより此の學徒間に行はれたりきと思はるゝ二元論と相結ばれたり。諸數は皆一を以て成れるものなるが其の諸數には奇數と偶數との二種あり。而してピタゴラス學徒は奇數を定まれるもの、偶數を不定のものと見、萬物は皆此の奇と偶と、即ち定と不定との對峙によりて成ると考へたり。
定と不定との反對は萬物を貫通するものなるが故にこれを根本として世界に幾多の對峙を生ず。或ピタゴラス學徒は此等の對峙を數へて十種となせり、(一)定不定(二)奇偶(三)一多(四)右左(五)男女(六)靜動(七)直曲(八)明暗(九)善惡(十)方形長方形、是れなり。定は不定に、奇は偶にまされり。
《數論とその應用。》〔五〕此の派の學者は特別に一より十に至るの數に重きを置き、就中一、二、三、四を貴びたり、そは此の最初の四つを相合すれば十となればなり。
諸形體を特殊の數にあてはむれば點は一、線は二、平面は三、立體は四なり。さるは點は分かつべからざる單一のもの、線は二個の點に界限せられて成るもの、三個の線もて圍みて始めて平面を成し、四個の平面(三角面)もて圍みて始めて立體を成せば也。一より四に至るの數を合して完全なる數即ち十を成すが如く點、線、面、體の四種を以て諸形體を成す。究竟すれば立體も平面も線も皆點を以て成れるものなり。尙ほ此の派の學者が其の數論を廣く諸般の事物に應用せむとしては勢ひ牽强附會の說に陷らざるを得ざりき。彼等おもへらく、一より四までは形體の數、五は形體の有する性質の數、六は生氣の數、七は健康理解の數、八は仁愛、友誼、知慧、發明の數、九は正義の數、十は宇宙の調和を保つ數なりと。
《世界構造說。》〔六〕ピタゴラス學徒の世界構造の說に曰はく、世界の太初に太一あり、之れを圍繞してト、アパイロン(無定限)あり、此の太一がト、アパイロンに働き漸次に其の範圍を蠶食してこれに定形を附與し遂に此の有形なる世界萬物を形づくるに至りしなりと。彼等は定と不定との對峙をこゝに應用して不定(ト、アパイロン)を虛空と見、此の虛空に形を與ふる一を定と見做したり。詳言すれぱ此の世界の外圍には無限の不定なる虛空あり、世界の中央に位する太一は此の空漠たる虛空を引き入れてこれに形を與へ斯くして此の世界は成れり。アリストテレースがピタゴラス學徒の謂ふト、アパイロンに就いて記せる語に曰はく、世界は之れより虛空と
《天文說。》〔七〕太一は世界の中心にしてこゝに此の學派の所謂「中央火」あり。宇宙は球形を成し中央火其の重點となりて之れを保つ。中央火の周圍に西より東へ廻る十個の天體あり。恒星の天、五個の遊星、日、月、地球及び「
地球は一日に、月は一月に、太陽は一年に中央火の周圍を廻轉す。他の星體は尙ほ許多の歲月を要す。凡そ迅速に空中を飛行する物體は音を發すれば天體も亦音を發して運行す。其の運行の速力中央火を離るゝに從うて異なるが故に其の發する音もまた異なり。天體の音相調諧して一の音曲をなす。之れをピタゴラス學徒の所謂「天球の音曲」となす。吾人が其の音曲を閬かざるは生まれてより絕えず之れを聞き慣れたれば也、猶ほ鍛冶屋に居る者の鎚の音を聞かざるが如し。宇宙に一大調和の存すといふこと、是れピタゴラス學徒の好んで唱へし所なりき。
右陳べたるピタゴラス學徒の天文說は他學派の說に比すれば著るき進步をなせるものなり。殊に大地を宇宙の中央に靜坐すと見ずして他の天體と共に同一中心を廻轉すと見たるが如き、大地の形を球と見たるが如き、又其の廻轉を以て夜の生ずる所以を說明せむと試みたるが如き、一大進步といはざるを得ず。
ピタゴラス學徒は全世界の生起即ち其の太初あることを說けども其の終に壞滅する時期あることを說かざりしが如し。但し彼等(少なくとも其の或者)は宇宙の變遷に大曆あること、換言すれば其の狀態の往復循環することを說けり。以爲へらく、諸天體その曾て有りし處と全く同位置に立ち還る時あり、而して其の時に至れば世界の事細大共に悉く前時と全く同一狀態に復歸し、それよりまた以前と同一の變遷を繰りかへすべしと。
《輪廻說。》〔八〕前述の循環說と關係あるは此の學徒の最初より說きたりと思はるゝ輪廻轉生の說なり。以爲へらく、靈魂肉體に宿れる間は之れを知覺の具として用ゐれど一たび肉體を脫すれば上界に往きて形骸の繫累なき至福の生涯を送るを得、但しこれは現世に於いてかゝる幸福を享くるに足るべき行爲をなしたるものに限る、然らざるものは再び世上の生活に繫がるゝか若しくはタルタロス陰府に墮ちて罰を受けざるべからず。上天の界は完全にして月下の世界は不完全なりと。或はいふピタゴラス學徒は所謂太一を神と思惟し天地萬物を其の神の所造若しくは顯現と見做しきと。然れども彼等の說を斯く有神說若しくは凡神說の如くに解するは惟ふに後世學者の構說を雜へたるものならむ。但しピタゴラス學徒に先だつて旣に或詩人等が一神敎的思想に近づけりしが如く彼等學徒も亦之れに近づけりしは敢て疑ふを要せず。さはれ其の宗敎上の所說と其の哲學的思想と何程の關係を有せしや審かならず。其の靈魂又神明に關する說は其の哲學の根據とは關係なく、むしろ其の學徒の中に行はれたる一種の禮拜に附隨せしものなるべし。
《此の派の說の難點及び其の哲學史上の位置。》〔九〕ピタゴラス派の學說はエムペドクレース及びアナクサゴーラス等の說と列べて一種の多元說と見るを得べきものなるが、彼等と異なりて其のエレア學に直接に負ふ所ありし跡は認め難し。其の二元論は他學派に說く所と思想上相通へる所あるべし。アナクシマンドロスは寒熱の對峙を云ひ、アナクシメネースは厚薄の作用を云ひ、パルメニデースは明暗の對峙を說き、エムペドクレースは愛憎を語り、ロイキッポス(後に出づ)は元子と虛空とを相對せしめたり。是れ皆對峙のものを以て森羅萬象の生起を說明せむとしたるもの也。
ピタゴラス派の學說は前にも云へる如く一人の造れる所にあらず又一時に成れるものにあらず、其の學徒間に漸次に形成せられしものなるべし。かるが故に其の所說は恰も關係なき部分を綴り合はせたらむが如き趣あり。其の數論、其の天文の說及び其の宗敎上の所說は相聯絡せるものにあらず。一を以て諸數の、又隨うて諸物の根元とする數論と、中央火を說く宇宙構造論と、善惡應報輪廻轉生を說く一神敎的信仰は相互に自然の關係を以て繫がれたるものにあらず。
斯くの如く此の派の學說は個々獨立せる部分の集合せるが如きものにして頗る散漫の嫌ひあるを免れざると共に又哲學上の說としても此の派に特殊なる數論に於いて彼れ此れ相合はざる點あるを見る。盖し諸數の本原なる一を以て奇偶兩數の對峙をその未だ相分かれざる狀態に於いて包合するものとなし奇數と偶數は此れより生じ出でたるやう說きながら又一を以て不定に對するものとなし能定の一が其の働きを不定に及ぼすにより有形の萬物を生成すと說くは一を兩樣に見るの難なくばあらず。一方には一を以て奇偶即ち定不定の對峙の分出する根源となし又一方には其の對峙の一端に位するものとなす。十種の對峙を擧ぐる所にも一を多と相對せしめて之れを定不定,奇偶、善惡等と相並ぶものとなせり。此の難を除かむには諸數の本原なる一と多に對する一とを區別するを耍す。然れどもピタゴラス學派の立脚地よりはかゝる區別を如何に說明すべき、かゝる區別を何處より來たるものとなすべき。此等の點は此の學徒の辯明せざりし所なり。
ピタゴラス派の學說にはかゝる散漫なる所又困難なる所あれど、其の數論即ち數によりて諸物は其の形を定めらると云ふ論及び定と不定との對峙を以て萬象生起の理を說明せむとせる所は優に哲學思想として一緊要地を占むべき價値あり。特に此の學派のプラトーンに及ぼしゝ影響の著明なるを見れば其の希臘哲學思想に於いて輕からざる位置を占むることは否むべからず。又殊に星學及び數學に於いては此の派は遙かに當時の他學派の上に出で其の學の進步に資せること盖し尠少にはあらざりき。
第九章 アトム論者=ロイキッポス(Λεύκιππος)
デーモクリトス(Δημόκριτος)
《アトム論と前時代及び同時代の他の思想との關係。》〔一〕元素又は種子が無窮に小さく分割せられて其の各部分全く相融合し得といふ點及び虛空の存在を否む點に於いてはエムペドクレースとアナクサゴーラスと其の見を同じうせり。さはれ虛空の存在を說かずして如何にして物體の運動を考へ得べき。又原物即ち種子又は元素を以て無窮に小さく分割されて全く相混入し得るものとせば其の如き混入の狀態に在りては各種子の各種子たる又各元素の各元素たる特殊の性質、隨うて又變化することなき原物たるの性質を失へるにあらずや。エムペドクレース及びアナクサゴーラスの說に此等の難點の存するよしは前にも述べたり。ピタゴラス學徒は單一にして分かつべからざる者(即ち空間の一位置を占むる點)數多相集まりて物體を成すと說きたれば彼等が多元的見解を取れるはエムペドクレース及びアナクサゴーラスと同じけれど其の空間に存する個々の點を以て分割すべからざる單元と見做しゝは此等と異なる所なり。又ピタゴラス學派にては定と不定との對峙を說き不定を虛空と見この虛空に形を與ふる定ありとなし、此の二元を以て萬物生起の趣を說明せむとせしが虛空の存在及び物體の不可割なる單元を說くことの最も明らかになれるをアトム論者とす。ピタゴラス學徒もエムペドクレース、アナクサゴーラス、アトム論者等と共に多元說を唱へたるものと見らるべきが、其のエレア學說に對する關係の親密ならぬことは此等と異なり。同じくパルメニデースの根本思想を以て出立點となせる者の中にてもアトム論者は(虛空の存在と多元とを說けるに拘らず)最もエレア思想に親密なるもの又其の所說の最もよく整へるもの也。アトム論を以て希臘哲學の物界硏究時代に於ける思想發達の頂點に達したるものと見傲して可なるべし。約言すればミレートス學派に於ける一元說はエレア派に至りて其の極點に達し更に一轉して多元說を誘致し而して其の多元說の最もよく整備して一大組織を成せるものをアトム論とす。
《アトム論の創剏者ロイキッポス及び完成者デーモクリトスの生涯。》〔二〕アトム論の創剏者ロイキッポスはエムペドクレース、アナクサゴーラスと略〻其の時代を同じうせしが如し、或はアナクサゴーラスよりも少しく年少なりしならむか。其の生地また分明ならず、或はアブデラ〈トラケーの一市府、イオニア種族の殖民地〉或はミレートス、或はエレアの產なりといふ。書を著はしゝか否かも明らかならず。アトム論の根本思想は彼れの創唱せし所なること疑を容れず。然れどもこれが應用を押しひろめ其の論を完成して一大學說となしゝ功はたしかにデーモクリトスにあり。されば後世其の名の爲めに創建者たるロイキッポスの名の蔽はるゝに至りぬ。
デーモクリトスはアブデラに生まる。アポルロドーロスの記せる所に彼れはアナクサゴーラスよりも年少なること四十歲とあるを以て考ふれば其の生時は西曆紀元前四百六十年頃ならむ。兎に角ソークラテースと略〻其の時代を同じうせりしが如し。廣く埃及及び波斯近傍を漫遊し他鄕の客となること五年、後故鄕に歸りこゝに其の學派を開きたり。當時亞典府は希臘文化の中心たりしがデーモクリトスはこれと隔離し其の府に於ける思想界の影響を受くることなかりしが如し。思ふに彼れとソークラテース及びプラトーンとの間には殆んど相互の思想上の影響なかりしならむ。こはプラトーンが一たびも彼れの名を其の書中に揭げざるを見ても知らるべし。鄕人の尠からざる尊敬を受け高齡を以て卒はれり。著述浩澣、其の書の題目の今日に傳はれるものによりて考ふるも彼れが數理、天文、地理、物理、生理等の諸學に涉り、かねて道德を論じ又音樂、繪畫、詩歌等より兵法、醫術に至るまで其の講究の及ばざるものなかりしを知るに足る。其の識の該博なる、其の論の銳利にして整然紊れざる、前代學者の遠く及ばざる所なり。其の文の燦然光彩を放てる、其の聲調の高雅なる、シセロは之れをプラトーンに比せり。實にプラトーン、アリストテレースと相列んで遜色なき大哲學的著述家たりしが如し。物界硏究時代の物理的哲學は彼れに至りて最も光輝ある頂上に達しぬといふべし。惜しむらくは其の著書の傅はらざることを。
《アトム論の根本思想。》〔三〕所謂アトム論は如何程ロイキッポスの說ける所にして如何程デーモクリトスの開發せる所なるか判然たらず。然れども上述せる如く其の論の根本思想と見るべき者は槪ね旣にロイキッポスによりて唱道せられたりしならむ。アトム論の根本思想は實なるものと空なるものとは共に均しく存在するものにして而して實なるものは夥多あれど其の各個は更に分割すべからざる者なりといふにあり。デーモクリトスの語に曰はく「有の在るは毫も非有の在るに優らず」と。斯く有と非有とを等しく在るものなりと云ひ得しはエレア學徒と共に非有と空を同一視せしによる。即ち在ることに於いては虛空は毫も充實に劣らずといふ意なり。この故に有は充實せるものなりといふ點は正さしくエレア學徒の思想と同一なれど非有なる空も共に等しく在りといふに於いてはエレア學說を離る。これ即ちエレア學說に從うて虛空の存在を承認せざるエムペドクレース及びアナクサゴーラスとアトム論者の相異なる所なり。而して實なるものは夥多ありて且つ動くと說くはエムペドクレース、アナクサゴーラス及びアトム論者の皆同じくエレア學說に違背せる所なり。さて其の夥多あるものの運動し得るはアトム論者に從へば虛空あるによる。アリストテレースに據ればデーモクリトスは虛空の存在する證據として、今いへるが如く物體の運動に虛空を要することを說き、又物の厚薄を生ずるにも生物の生長するにも虛空なかるべからずといひ、又水を充てたる器中に灰を投じて尙ほ其の水の溢れざるは是れ亦水中に虛空の存在すればなりといへり。此の虛空と共に在る(語を換ふれば虛空の中に在る)多くの實なるものは唯だ〳〵塞充せるもの即ち有なるものなれば其の自體に虛空即ち非有を容れず。故に此の無數の實なるものの各個は更に分割されず、分割さるゝは虛空を容るゝなり。而して又有の有なる所は唯だ充實すといふ點にあれば凡べての有なる(即ち實なる)ものの間に性質上の差別のあるべきやうなし。斯く有は性質上平等一如にして更に分割すべからざるものなりと見たる點に於いてはアトム論者はエレア學徒にしてエムペドクレース、アナクサゴーラスは然らず、所謂元素も種子も性質上有差別にして且つ其の量に於いて無窮に分割せらるべきものなれば也。デーモクリトス曰はく、若し絕對に(即ち限りなく)分割し得ば少しの分量をも、隨うて何物をも遺さざるに至らむと。斯く幾分の量はありながら而も不可分なる單元をアトマ(άτομα)と名づく、分かつべからざるものといふ義なり。この故にアトムは猶ほパルメニデースの所謂有を粉碎したらむが如きもの也。(アトムはこゝに元子と飜すべし。)
《アトムの性質。》〔四〕アトムは生ぜず滅せず變化せず。實有なるものの生滅變化することなしといふの點はエムペドクレース、アナクサゴーラス、及びアトム論者の共に固くエレア學說を執りて動かざる所なり。各アトムは其の自體を保持して毫も他より變ぜらるゝことなく且つ其の自體を成す物質の新陳代謝することなし。然るに此の現世界の雜多と變動とは何れより來たるぞ。是れただアトムが其の本來有する形を異にし且つ其の空間に於ける位置を變ずる(即ち動く)によりて來たる、其の性體に於いては些も差別なく又變化なし。物の生ずといふはアトムの相寄るに外ならず、其の滅すといふは其の相離るゝに外ならず。生滅は所詮アトムの集結と離散との謂ひ也。而して集結と離散とはアトムの機械的運動に外ならず、即ち一アトムは他のアトムと能く相衝突し又は相附著するも毫も相混入融和することなし。一の體は他の體の冒す能はざる障礙を呈す。これ原素及び種子の混合を語るエムペドクレース、アナクサゴーラスとアトム論者と其の說を異にする點なり。斯く一アトムは他のアトムと衝突するも儼然其の自體自性を保持して少しも他より傷つけらるゝことなければ、一物が他物に影響するが如く見ゆるは畢竟一物より其の微部分の發出して只だ機械的に他物に衝突附著するに由るのみ。空隙を隔てゝ一物が他物に影響すべきやうなし。(エムペドクレースも亦かゝる說明を用ゐたり。)
以上陳ぶる所によりて觀ればアトム論は旣にミレートス學派(殊にアナクシメネース)に萌芽せりし機械的說明を最も明瞭に且つ大膽に應用擴張したるものなり。アトムは肉眼をもては見得べからざるほど微小なるものなれど種々の形狀を具ふ。其の形狀に於いては千差萬別無數の種類あり。形狀(ἰδέα 又は σχήματα)がデーモクリトスのいふ所によりて觀るにアトムの相異なる最要の點なるが如し。彼れは形狀、順序、及び位置に於いて元子は相異なりといひ又或は其の相異なる點として大さ及び重さをも揭げたり。此等諸點のうち大さと形との關係(即ち大さはただ形の如何に懸かるか否か)に就いては史家其の見解を一にせず。重さは大さの如何(即ち容量の多少)に懸かる。そはアトムは皆その充實すといふことに於いて平等一如、而して此の事以外に其の性體とする所なきを以て同じ容量を有するものは又同じ重さを有すれば也。位置は形の如何に懸かる、例へば其の形を或は倒まにし或は橫ふるを得。順序は一アトムが他のアトムに對する排列の前後をいふ。一物體の重さと其の體質の密なることとは相比例す、そは密なる程アトムの量多ければなり。堅さは一物體內の空隙の分配の如何にかゝる。盖し相集結するアトムの總量を等しとせば其の集結によりて成る物體の全部分に成るべく平等に空隙の分配せらるゝほど其の體は密なれども軟なり、空隙の不平等に即ち片よりて分配せらるゝほど疎なれども硬なり。鉛は鐵よりも軟にして密、故にまた重し。斯くの如く物體の硬軟、疎密、輕重、大小は皆唯だアトムの集結の如何にかゝる也。地水風等は單純のものにあらず、皆種々のアトムの相寄りて成れるもの、唯だ火は最微圓滑なる同一種のアトムを以て成る、故に最も動き易し。テオフラストスの傳ふる所によれば赤き物は火と同種類の(ただそれよりも稍〻大なる)アトムを以て成る。此の種類の成るべく細微なるアトムを成るべく多く有するほど物體は光輝あり。思ふにかゝる詳細の說はデーモクリトスのなせる所ならむ。
《平等一如のアトムより如何にして性質上の差別を生ずる。》〔五〕斯く種々の形狀を有する而も其の性體に於いて平等一如なるアトムの相集結すれば何故に色聲香味觸等の性質上の(換言すれば感覺上の)差別を生ずる。エムペドクレースは唯だ四種の原素より在りとあらゆる性質上の差別を生ずと說きたるが如何にして其の然るかは考へがたし。思ふに此の困難を見たればこそアナクサゴーラスは本來性質を相異にせる無數の種子ありとも說きたるなれ。然るにアトム論に於いては全く性質上の差別を容さずして、アトムは其の性體に於いて渾べて平等一如なりとす、然らばかゝるアトムの集結より如何にしてか性質上の差別を生ずる。デーモクリトスはこゝに主觀的說明を用ゐて色味寒熱をば只だ主觀上(即ち感覺上)に存するものとして之れを疎密、輕重、硬軟などの直接にアトムの集結の如何にかゝれる差別と相別かてり。かく色味寒熱等の差別を以て唯だ外物によりて起こさるゝ五官の狀態に懸かる(即ち主觀上にあるもの)と說きしはデーモクリトス獨得の見なりしか、はた其の由來せる所は彼れと同鄕の人にして彼れに先だちて出でたりしソフィストの泰斗たるプロータゴラスの主觀說にありしか。《*或史家は之れを否めど。》思ふにプロータゴラスの說に因由する所ありしは否むべからざるに似たり。(プロータゴラスに就いては後章を看よ。)
《アトムの運動。》〔六〕エムペドクレース、アナクサゴーラスは原素又種子以外に運動を起こすものの在ることを說きたれど、アトム論者は運動はアトム以外の物によりて起こると說かず、即ち彼等は運動をアトムそれ自身より離さずして考へたり。然れどもアトム自らが運動を有すといふは如何なる意ぞ。アトムには若干の重量あればおのづから空間を落下すべく隨うて運動を生ずとの意か、はた重量によらずしてアトムそれ自身が自由に運動する動力を具ふとの意か。これに就きては史家の見るところ一ならず。フェラーは前說を取る、其の解に曰はく、アトムは其の重さの故を以て無始より無際限の空間を直下す。然るに其の重さの相異なるにより悉く同一の速力を以て降下せず、重きは速くして輕きに追ひつきこれと衝突す。此の衝突によりて直下運動の外に垂直より
兎に角アトム論者はアトムを以てそれ自身に運動する性を有するもの即ち必然に動くものとなしたり。運動の必至なるをばデーモクリトスは運命(ἀνάγκη)と名づけたり。アナクサゴーラスは目的ありて働くヌウスを以て運動の原因と見做したりしが、アトム論者は運動の何の目的のために起これるかを說かず、唯だ之れを以て元子の本具せるもの、無始より必然にあるものと考へたり。
《世界構造說。》〔七〕渦旋運動を爲せるにより相類似せるアトム相集まり、大きくして重きが中央に寄り小さくして輕きが周圍に寄る。而して此くして成りし一圑體が一世界を形造す。空間は無際限なり其の中に散布せる元子も無量無數なれば、其の元子の相集結するもの無數の圑體を成し無數の世界を形づくる。吾人の俯仰する天地は唯だ其の中の一なるのみ。而してかくして形成せられたる一圑體は更に大なる圑體の中に取りまかれて其の一部をなすことあり、或は二個の圑體相衝突して共に破壞することあり。各世界は增減伸縮し終には壞滅するの期あるものなり。吾人の俯仰するこの世界の太初に旋動のために周圍に寄れる物體が恰も世界の外皮の如くに其の全體を取り卷き、中央に寄れる物質が大地をなす。火質、空氣、其の他天を形づくる物質はもと大地より上騰せしもの、其の物質の或部分は凝固して個々の塊をなし當初は粘泥の狀態にありしが風に吹き動かされて乾燥し且つ其の運動の迅速なるにより遂に發火するに至れり、之れを天體とす。大地は圓き盆に似て空氣に支へらる。デーモクリトスはアナクサゴーラスと共に月を大地に似たるものとし其の表面に山嶽のかげを認むといへり。其の他日蝕、月蝕、銀河、慧星等につきても說く所ありしが、これらの點に於いては槪ねアナクサゴーラスに從へり。又宇宙の大曆に關しても說く所ありき。
《生理說。》〔八〕デーモクリトスの殊に秀でたりしは生物の論なり。就中人類の硏究に意を注げり。其の生理說に曰はく、心情の種々の作用は身體のそれぞれの部分に其の座を有す。腦は全身の主宰にして思慮の存する處、心臟は忿怒の情の育てらるゝ處、欲心の座は肝臟にあり。靈魂は生物の依りて以て活動し得るもの、其の質は圓滑にして動き易き火氣のアトムを以て成る。これは全身に散布す。其の微にして動き易きが故に空氣體內に入り來たりて靈魂のアトムを體外に壓出するの虞れあり。靈魂のアトムの減失を防がむため呼吸は二樣の働をなす、一には吸ひ込みたる空氣が體外の空氣に抗して其の侵入を妨げ、又一には吸ひ込みたる空氣より新たなる靈魂の元子を得て以て體內より流出するものを補ふ。盖し空氣中にはあまたの靈智存在せるが故に吾人は之れを體內に吸入し得る也。凡そ物熱氣あるほど生氣あり、即ち靈魂あり智性あり。此の神妙なる靈智は全世界に瀰漫し、一物として靈魂のその中に住せざるはなし。靈魂のアトムの全く離散する是れ即ち死なり。睡眠氣絕等は唯だ靈魂のアトムの一旦著るく減少するに起因す。此くの如く吾人の靈魂はつひに離散すべきものなれども而もこれが吾人に於いて最も貴重なるもの、肉身は只だ靈魂を盛る器に過ぎず。靈の爲めに心を勞すること身の爲めにするに勝ると。
《知覺論。》〔九〕デーモクリトスは凡べて感覺は外物が五官に觸るゝによりて起こると見て諸〻の官感を觸感の屬類に外ならずと說けり。空間を隔てゝ物を感覺し得るが如きも實は其の物より發出する微部分の來たりて五官に觸るればなり。感覺を起こすには外物より發し出づるアトムが幾分の量及び强さを以て五官に接觸し來たらざるべからず。其の接觸するによりて靈魂のアトムを動かし、さて始めて感覺を生ず。視覺は外物の影像(εἴδωλα)發出して空氣に其の象を印し空氣相傳へて遂に眼を壓し其の印せられたる象を靈魂に傳ふるによりて起こる。夢幻の如きも亦皆この影像の作用によりておこる。距離遠ければ物を視ることおぼろなるは途中にて印象の亂るればなり。吾人の眼よりも發出するものありてこれ亦外物の印象を亂すことに與る。
凡べて五官の知覺は物の眞實の相を示さず、唯だ外物が吾人の五官に觸れたる狀態を示すのみ、言ひ換ふれば五官の知覺は主觀的にして不變不易なる外物そのものの眞相を示さず。唯だ理性の作用のみよく吾人に眞實の知識を與ふ。而して理解の作用も亦畢竟靈魂のアトムの運動に外ならず。其の運動が靈魂をして正當の溫度を發せしむれば事物を理解すること正しく、寒或は熱に過ぐれば謬見を生ず。理解は吾人をして物の眞相(アトム幷びに虛空)を觀ぜしめ五官の知覺は唯だ其の確かならぬ外貌を見しむるのみ。デーモクリトスは五官の知覺も理性の知解も共にひとしく靈魂のアトムの運動に外ならずと說きたるにかゝはらず尙ほ斯くパルメニデース、エムペドクレース等と共に兩者の間に眞假の區別を置けり。
《幸福論、鬼神論。》〔十〕デーモクリトスは知識を分かちて五官の與ふる麁笨なる智識と理性の與ふる眞實の智識となせる如く又快樂を分かちて肉慾を充たす快感と眞正の幸福(εὐδαιμονία)となせり。肉慾の快樂は欲求の苦痛を醫するによりて生ず。幸福は牛馬の多きにあらず、金銀珠玉にあらず、肉身にあらず、ただ心の德のみよく眞實の滿足を與ふ。約言すれば眞正の幸福は心の靜平なる(ησυχία)にあり。デーモクリトスは此の心の靜平なる狀態を海のなぎたるに譬へたり。尙ほ語を換へていへば眞正の幸福は眞智によりて得らる、適度を守り過不及を避くるによりて得らる。道德は外形の行よりもむしろ內心の狀態にあり。故に不義をなすものは他に不義をせらるゝよりも不幸なり。
デーモクリトスは鬼神の存在を說いて曰はく、空中に住める幾多の者ありて其の形人に類す、ただ人間よりも大きく强く且つ壽なるのみ。彼等の身體より影像絕えず發出し人之れに觸るれば髣髴たる其の形を見其の聲を聞く。人は之れを崇めて神となしあらゆる天變地異を其の所爲に歸し、その實にあるよりも想像を以て一層之れを貴きものとなして畏れ且つ事ふ。其の身より發出するものは或は吾人を利し或は害す。又其の發出物の媒によりて未來を豫知するあり。
提要
《アトム論の難點。》〔十一〕上に云へる如く均しく多元說を取れるものの中にも其の原理とする所の最も簡にして而も要を得、組織整然首尾貫徹せるものはアトム論者を推さざる可からず。純然たる機械的說明を用ゐて之れを固守する是れ其の最も特色とする所、又是れ近世の科學が凡べて物體の性質上の差別を其の分量上の差別に歸せむとする傾向をば希臘の古代に於いて旣に頗る明瞭に發表せるもの也。此のアトム論は純然たる機械的說明を取ると共に所謂唯物論となりて實に近世の唯物的元子論の最古の模範又其の淵源と見らるべきものなり。且つデーモクリトスの說く所は諸種の學科を網羅して燦然たる一大學說を爲せれば希臘初代の物理的哲學はこゝに其の光輝ある頂上に達せりと謂ひつべし。そもアトム論者は性質上無差別なる、ただ空間を塡充する個々物の機械的運動(集散離合)を以て諸〻の性質上の差別の生起する所以を說明せむとす。但しアトムそれ自身に於いて全く差別なきにあらず、然れどもこれは唯だ形狀(又大さ)の差別に過ぎず、詮ずれば空間を塞充する分量に於いての差別に外ならず。物體の輕重といひ硬軟といひ皆要するにそのアトムの量と配置とに歸するを得べし。是れアトム論者の立脚地よりして爲し得る限り性質上の差別を單一なる(卽ち唯だ空間を充たすことに於けるの)差別に歸したるものなり。然れども形狀を異にする而も其の性體に於いて無差別なる幾多のアトムの集散離合するによりて如何にして色味寒熱等の性質上の(換言すれば感覺上の)差別を生ずる。こはアトムの形狀の差異と其の機械的運動とのみを以ては說明し得べくもあらず。こゝに於いてかデーモクリトスは(惟ふにプロータゴラスより得たる)主觀的說明を用ゐて色味寒熱等の性質は客觀に(即ち五官に對する物體それ自らに)存するにあらず、唯だ吾人各自が外物を感覺する上に存すといへり。然るに感覺するもの(主觀)を何ぞと問ふに、彼れの唯物說に從へば一種のアトム即ち物體に外ならず。最微圓滑なる火質のアトムこれ即ち感覺思慮の作用をなす靈魂なりといふ。然れども斯く內外(主觀、客觀)都べてのものを物質元子となし了はらば何故に色味寒熱等の性質なき物體(アトム)の相接觸するによりて色味寒熱等の感覺を生ずるかを解し得ざるべし。外界のアトムの機械的運動が靈魂のアトムの機械的運動を起こせば何故に色味寒熱等の感覺を生ずる。是れ凡べての唯物說に離れざる根本的難點にあらずや。エムペドクレース等の說く所に於いて旣に此の難を指摘し得ざるにはあらねど、デーモクリトスが主觀的說明を試みて而もそれが爲めに其の所說の純然たる唯物論となり了はれるに至つて殊に著るく此の困難に面し來たれるなり。是れ機械的說明を擴張し來たつて遂に其の說明の弱點を暴露したるものにあらずや。此の點に於いてはアナクサゴーラスの謂ふヌウス說はやゝアトム論とその趣を異にせり。然れども是れ將た全く物理說を超脫したる所見にあらぬことは前に論ぜしが如し。アトム論は希臘哲學初代の物理說を其の機械的說明の傾向に從うて其の頂上にまで發達せしめて知らず識らず其の弱點を露出したるもの、アナクサゴーラスのヌウス說は機械的說明をいさゝか脫せむとし、而かも之れを脫し得ずして尙ほ物理說の範圍內に徜徉したるもの也。
第十章 折衷說及び物界硏究時代の大勢
《折衷說の出現、科學的硏究の進步。》〔一〕エムペドクレース、アナクサゴーラス、ロイキッポス等の略〻其の世を同じうして出でし時こそ希臘哲學の初期にありて學派の相競うて勃興せし頂上ならめ。其の後は物理的思索に於ける創始發明は漸く衰へて希臘思想界の一大新傾向の將に其の頭を擡げむとするあり。此の時に方たりて尙ほ從來の物理的思索の立脚地に在る者の中に幾多の折哀說の唱道せられしを見る。アナクサゴーラスの時代より後へかけては一時多くの折衷的物理說の流行したりしが如し。此等の折衷說は將に思想界の新潮流の湧出せむとする時に方たり尙ほ未だ舊思想の立脚地を離れずして而も旣に物理的思索上創始力の衰徵せし處に出現せし現象と見るを得べし。
斯く希臘哲學第一期の末に方たり學說創剏の元氣は一時沮喪したるが如き跡あれども又一方に於いては科學的硏究は著るく其の步を進めたり。從來の物理的哲學に胚胎したる種々の學科が此の頃よりして多少各〻獨立の學問として考究しそめられたり。數學、星學、生理學、醫學等は特に其の進步の著るかりしを見る。就中星學、數學の硏究は特にピタゴラス學徒の獎勵する所となり其の進步を助けたる所少なからざりき、醫學も亦其の學徒の硏究する所となりき。純然たるピタゴラス學徒とは名づく可からざれども其の徒の著名なる影響を受けたるクロトーンの醫師アルクマイオーン(Ἀλκμαίων)の生理上及び解剖上の硏究の如きは頗る注意すべき者あり(彼れは知覺思想の座を頭腦にありとし而して感官より頭腦に到達する通路によりて感覺の傳致さるゝことを說けり、是れ近世の所謂神經を豫想せる者にして彼れは之れを管と名づけたり)。然れどもピタゴラス學徒の說ける所多くは哲學的思索を混入したりしがヒッポクラテース(Ἱπποκράτης 四百六十年―三百七十七年)出でて醫術を哲學より引き離し之れを一の技術と見傲して其の硏究の面目を一新せり。又此の頃より生物學上の智識の如何に廣くなれりしかは曩に揭げたるデーモクリトスの學說に現はれたる所を見ても知らるべし。
《メリッソスの折衷說。》〔二〕大體はエレア學派の立脚地に在り而して通常其の學派の一人と見倣さるゝメリッソスの所說は幾分折衷說の趣を帶びたるものとしてこゝに叙述するを得べし。
メリッソス(Μέλισσος)
彼れはサーモス島の人、西曆紀元前四百四十二年ペリクレースが彼の島に派遣したる艦隊を破り己が都邑の將軍幷びに政治家として名聲を輝かしたりしメリッソスと此の哲學者とは同人なるべし。
メリッソスは專ら多元的物理學派に對してパルメニデースの學說を辯護せむとしたりしが、しかすると共に多少物理派に假す所ありきとてアリストテレース以來哲學史家は多く彼れを非難せり。然れども其の據りて立つ所は要するにエレア學說なり、而して其の立脚地を離れたるところ亦彼れのために辯ずべき
史家或はメリッソスが斯く有を無限に廣がれるものなりと言へるを見て其の思想のパルメニデース及びヅェーノーンよりも一層物體的となれる證なりとし而して彼れが退步を咎む。然れどもパルメニデースの說は元來全く物體以上のものを謂へるにあらず。其の所謂有を以て純然たる形而上の觀念とせず物體の平等一如なる基本(即ち空間を塡充せる所)を指すものとせばメリッソスが明らかにそを空間的のものとし而して空間には際限を附し難ければそを無限の空間に充ち廣がれるものと考へ做したりしは決して全く無理なることにはあらず又强ち思想上の退步といふべきものにもあらず。若し有を以て際限あるものとせば其の以外に虛空なかるべからず、即ちピタゴラス派の學說にいふ如く世界を包圍する無際限の虛空ありとせざる可からず。(然れどもエレア學說に於いては虛空を非有と見たり。)斯くメリッソスは有を無限なりといひ而して又之れを基としてそを唯一のものなりといへり、そは無限者の二つあるべき理なければ也。又斯く無限の廣袤を塞充するものなれば虛空のあるべきやうなく、虛空なくば運動はた無かるべく、隨うて又有は集散離合すべきものにあらず、又厚薄を生ずべきものにもあらず。平等一如にして憂苦を感ずべきものにあらず。
メリッソスまた論ずらく世俗の見て有となす雜多もし眞に實有ならばその有なるの性體を保ちて滅することなかるべき也。然るに世間雜多のもの一として壞滅せざるはなし。何故に昔時ありしもの今は其の形をだに留めざるか、これ昔時有りしと思ひしもの實に在りしものにあらざれば也。かるが故に雜多變化の界は實有實相の界にあらず。雜多變化をありとする吾人の五官こそ迷妄の根本なれ。五官の示す所は自身に自身を非難するものと謂ひつべし、そはその有りとするもの忽焉として無きものとなれば也。
《折衷說の最好代表者ディオゲネース。》〔三〕當時の折衷的思想は多くはイオニア學派の流を汲めりしが如し。アリストテレースは水と空氣と又空氣と火との中間の物を以て萬物の太原となしたる學者ありしことを記し置けり。折衷說の最好の代表者は
アポルロニア人ディオゲネース(Διογένης)
なり。彼れの學說より察するにエムペドクレース、アナクサゴーラス等に後れて出でたる人ならむ。其の說く所畢竟イオニア學派の物活說とアナクサゴーラスのヌウス說とを攝合したるものに外ならず。彼れはイオニア學派に從うて萬物の太原を活動する物質と見、特にアナクシメネースに從うて之れを空氣と見たり。而して又アナクサゴーラスに從うて之れを智慮あるものと見たり。其の理由とせし所は、アナクサゴーラスの唱へし如く、智慮なきものの所爲としては天地萬物の秩序の成りし所以を解し得ずといふにあり。彼れはエムペドクレース等の多元說に反對して曰はく、諸物若し其の本體に於いて一物ならずば其の相互の混淆又その一より他に移る變化又その一より他に及ぼす影響の出來べき所以を解すべからずと。萬物の太原は其の都べてに貫通して之れを活動せしむるものならざる可からず、而してこれは空氣に外ならず。空氣は際限なく廣がりて其の存在せざる處なく又(アナクサゴーラスがヌウスに就いていひし如く)諸物の最も精微なるもの最も稀薄なるもの、此の故に又最も自ら活動し易くして他の一切の活動の本原となるもの也。
ディオゲネースの學說中最も記憶さるべきは生物及び生理の論なり。靈魂は乾燥せる空氣にして其の幾分は母の胎內に宿れる種子より來たり又幾分は生まれ出でて後ち常に空氣を呼吸するによりて得るところ也。靈魂は血液と共に脈管內にめぐる、こゝを以て全身體に活氣あり。感覺思想の座は頭腦中の靈魂にあり。外物の印象が此の靈魂に觸るゝによりて感覺を生ず。快樂、苦痛、健康、疾病等は皆空氣が血液に混和するの割合に懸かる。ディオゲネースが脈管に就いて說ける所當時にありては頗る見るべきもの也。
予輩は今こゝに上陳せる如き折哀說を以て終はりたる希臘哲學の第一期なる物界硏究時代の大勢を叙述すべし。
物界硏究時代の希臘哲學の大勢
《第一期の希臘哲學の主眼は物界の硏究にあり、附、デーモクリトスの希臘哲學史上の位置。》〔四〕第一期の希臘哲學はタレース以降アナクサゴーラス、アトム論者等に至るまで都べて其の主眼とする所は物理的硏究にあり、客觀なる天地萬物を以て其の攷究の對境となせり。ミレートス學派はいふも更なり、エレア學派及びヘーラクライトスも其の硏究の問題とせし所は客觀の境界として存する天地萬物の眞相を看取せむとするにありき。パルメニデースが所謂有も廣袤を有するものなること其の學說を論じたる處に陳べしが如し。彼れは吾人の思想をも有と同一不二なるものといひたれども其の著眼點は矢張客觀の有にあり、其の意盖し吾人の此の有を思惟するの思想も眞實あるものなる以上は有の外なるものにあらずといふにあり。ヘーラクライトスが萬物の實相を不斷の生滅變化と見而して火を以て生滅變化の基因となしたるも是れ亦客觀なる物界に對する思索に外ならず。エムペドクレース、アナクサゴーラス、ロイキッポスの三家及びピタゴラス學徒が思索の對境となしゝ所はた同じく客觀なる物界にありしこと論を須たず。彼等の說たま〳〵知識の論に涉ることありしもそは唯だ客觀界の實相に對する解釋より生じ出でたる餘論に過ぎず。感官の知覺と理性の知解とを相分かちたるも唯だ客觀界の實相と考定したるものをば前者によりては見得ずと思惟せしが故也。如何にして外物の知覺し得らるゝかを論じ又智力の銳鈍の何物に懸かるかを論じたるも、要するに之れを客觀的現象の一部分若しくは之れより生じ來たれるものと見て尋究したるに過ぎず。故に知識に關する多少の論はあれど論理學と見做すべきものなし。且つ又其の眼孔の專ら物理の硏究に向けられしが故に未だ倫理學と稱すべきものを見ざる也。要するに彼等の思索は終始物理的說明の立脚地を離れず未だ純然たる非物界を說くに至らざりし也。かるが故にソークラテース以前の希臘哲學を、或史家の爲したる如く主心派と主物派との二派に分かたむは非なり。其が全體の主眼は皐竟物界の硏究にあり。
然れども其の物理的思索を一括して唯物論といはむは妥當ならず。心と物との對峙の明らかに想念せらるゝに至りてこそ近世いふが如き唯物論は起こらめ。ミレートス學派もエレア學派もヘーラクライトスも純然たる唯物論の主唱者にあらず、愛憎といひ又ヌウスと云ふが如きものを說けるエムペドクレース又アナクサゴーラスも純然たる唯物論者にあらず。アトム論者に至りて始めて全く唯物論の面目を具へ來たれり。こは思ふにデーモクリトスの唯物的世界觀を大成したる時に當たつては旣に傍には主心的傾向發生して心と物との對峙のやう〳〵明らかに意識せらるゝに至りしが故ならむ。物界硏究時代の希臘哲學はアトム論者に至りて其の發達の頂上に達したる也。而してアトム論者に至るまでの希臘哲學は總べて物理的硏究を超越せざりしかども又其の決して純然たる唯物論ならざりし點が(即ちもとミレートス學派の物活說に存在し而してエムペドクレースにありては愛憎の二動力として現はれたりし要素が)アナクサゴーラスに至りてはヌウス說として現はれ來たれり。物活說に於いては漠然相混合せりし物體と活動との二觀念がパルメニデースとヘーラクライトスとに至つては明暸なる對峙をなしアナクサゴーラスに於いては其の一分は矢張り種子てふ觀念に保たれながら其の他分は發達してヌウスとなりアトム論者に於いては其の一方が全く他方を倂吞してこれに別個の存在を與へざるに至れり。アナクサゴーラスにありては此の兩者を相離して一は他と相混ぜずと見しと共に其の一方が多少靈智的のものに近より、アトム論者にありては之れを相離さざりしと共に一方が他方を橫領して遂に物體的元子といふ觀念となり了はれり。
斯くの如く第一期の希臘哲學は客觀の物界を硏究するを以て其の主眼となしたりしが、其の學相によりて更に二時期に分かつを得、即ち前期の學相はミレートス學派以降パルメニデースに至りて窮極せる一元說、後期の學相はパルメニデース以後一轉して遂にアトム論に於いて其の發達の頂上に達したる多元說なり。而して此の物界硏究時代の學統の中心となれるものは實にエレア學說なり。又此のエレア學說が如何に後の希臘哲學に重きをなせるかは更に述ぶる所あるべし。
上來叙述したる物理的思索の頂上と見るべき元子論はデーモクリトスによりて大成せられて一大組織となりあがれり。其の組織の宏大なる、又それが新時代の思想なるプロータゴラスの主觀說に負へりと思はるゝ所あるなど、唯だこれをソークラテース以前の物界硏究時代の產物とのみ視がたきものあり。又デーモクリトスの生時をいふも彼れは或は少しくソークラテースよりも年少なりきと思はる。然れども彼れを取りて物界硏究時代の思索より斷ち離すべきにもあらず、その學說は大體の點に於いてロイキッポスの唱へたる根本思想を繼承し開發したるものなれば也。彼れはアッティカに於て盛に起これりし新思想の大潮流と隔離せり。故に學派を以てすれば彼れは寧ろ大體上物界硏究期に屬すべき者なり。希臘の學界が物界硏究期よりして一大步を轉ずるは次ぎに叙せむとする人事硏究の時代にあり。
〔附言〕 デーモクリトスの希臘哲學に占むる位置に就いては史家其の見を同じうせず。リッテル幷びにシュライエルマヘルは之れをソフィストの一流と見たり。然れども彼れが學術はソフィスト等の說く所と同一視すべきものにあらざるや明らかなり。史家多くは彼れをアナクナゴーラス等と相列べて希臘哲學第一期の結末に置く。(但しアナクサゴーラスのヌウス說を以てソークラテース以前の希臘哲學の立脚地を超脫したるものと見る史家は此のヌウス說を以て第一期の發達を結ぶ者となす、こは前にアナクサゴーラスの條にいへるが如し、又彼等史家の中にはエムペドクレース等の物理家とアナクサゴーラスとを全く相分かつもあり)。ヸンデルバンドはデーモクリトスをソークラテース以前の哲學者と相分かちて彼れをプラトーンと列べたり。其の理由とする所は一は時代、一は學相にあり。おもへらく、デーモクリトスの師事せしロイキッポスはエムペドクレース、アナクサゴーラス幷びにエレア派のヅェーノーン等と同時代の人なれどもデーモクリトスは其の後の人なり、彼れの晚年の著作はプラトーンの旣に壯なりし時に成れりきと見るも敢て不可なかるべし。學相の上よりいへばプロータゴラスの主觀說の影響を受けたる所あるが故に之れをソフィスト等の後に置かざるべからず。又其の說く所が諸種の學科を網羅して宏大なる組織を成せるはソークラテース以前の學說の比にあらず。デーモクリトスの學說はプラトーンの主心說、目的說に對峙すべき唯物說、機械說にして相共に莊嚴なる大哲學をなせる者なるが、但だ唯物的機械說はソークラテース、プラトーン、アリストテレースの相繼いで唱道せる反對の學風の爲めに其の光輝を蔽はれて古代の希臘に於いては其の眞價値の認められざりしなりと。斯くヸンデバンドは論ず。この論なきにあらねど尙ほデーモクリトスを以て大體上物界硏究時代に屬せる者とせむかた穩當なるべし。但しプロータゴラスがデーモクリトスと同鄕の人にして且彼れに先だちて出でしを思へば、ヸンデバンドの意見の如く(ツェラーは之れを承認せざれど)デーモクリトスの用ゐたる主觀的說明を以てプロータゴラスの影響を受けたるものと見るは決して理由なきことにあらず。然れども此の點を以てデーモクリトスがロイキッポスを繼紹してエムペドクレース等と共に物界硏究時代の學流の中に立てる者なることを破するには足らず。彼れが思索の大體の趣は依然として物理派の一人たる也。其の根本思想は旣に彼れに先きだちてロイキッポスの唱へ出でたる所にして彼れの功は專ら之れを開發應用するにありしが如し。但だ感覺の論に於いて彼れはプロータゴラスの主觀說を便として之れを利用したるなり。且つ又其の說く所は諸般の學科に涉りて稀有の博識を現はしたりしには相違なけれど是れ亦以て彼れを物界硏究時代の學者と相分かつには足らざるべし。時代よりいへばソークラテース以前の人とは謂ふべからざれども,こゝに彼れを第一期の哲學者に列するは時代を以てせずして其の學脈を以てすと心得なば毫も不可なる所なかるべし。
第二期 人事硏究時代
第十一章 ソフィスト
《希臘に於ける啓蒙時代とソフィスト。》〔一〕西曆紀元前第七世紀より第六世紀へかけて希臘に於ける智識上の進步とこれに伴へる宗敎道德上の搖動とがミレートス學派及びピタゴラス盟社等によりて代表せられしことは前に述べし所の如くなるが、さて其の進步搖動のますます盛んなるにつれ諸種の學說紛然として競ひ起こりぬ、而して智識上の進步漸々社會一般に波及するに從ひ古來の信仰、習慣、風儀、傳說等はた漸く其の勢力を失はむとせり。而して第五世紀の後半に於いて件の大變動の廣く社會に波及せる情勢を示し又これを波及せしむるに與りて力ありしものをソフィストの一流となす。ソフィスト等に於いて希臘の思想界は一大步を轉じたるなり。彼等は諸種の學問及び從來の學理的硏究の結果を通俗にすることに力めたりしが故に其の社會に及ぼしゝ影響は廣く且つ大なるものありき。史家の謂ふ希臘の社會に於ける「
《ソフィストの事業。》〔二〕前述せる如く物界硏究時代の末つかたより生理學、醫學、數學、星學等學術の局部々々の硏究やゝ精密となり來たり、また歷史もヘーロドトス(Ἡρόδοτος)出でて一段の進步をなしぬ。而してこれと同時にこれら學理的硏究の結果を實際の事柄に應用せむとする傾向また著るく見え來たりぬ、これ社會活動の結果にして又當代の需用に應ぜむとする自然の道なりき。是れよりさき希臘國民が一たび波斯戰爭に光榮ある勝利を得たりしより前述せる如き學術の硏究蔚然として競ひ起こり又これと共に文學、技藝、美術燦然として一代の盛觀をひらき政治機關はた大に發達して社會の事ます〳〵複雜を極むるに至れり。而して當時希臘文化の中心は亞典府なりき。此くの如き社會にありて時人の最も榮譽とし又目的とせし所のものは公生活即ち政治上の舞臺に立つ事にありしが、此の事のためには理財、政法及び兵事等に關する明確なる知識を要し單に漠然たる從來の傳說にのみ依賴するものの能くし得る所にあらず。又これと共に政治上の生活に必要なる辯舌をも練修せざるべからず。ソフィスト等乃ち此等社會の必要に應じて出で時人に諸種の智識を與へ處世立身の道を敎へむとしたるなり。原語にソフィステース(Σοφιστής)といふは學者又は智識ある人と謂はむほどの義なり。彼等は希臘の市府を遍歷して諸般の智識を人に與ふるを以て其の職業となせり。而して其の活動の中心は亞典府なりき。さればソフィストといひても決して一種の學說を傅へ一流の學派を立てたりしにはあらで寧ろ種々樣々なる事柄を敎授し中には技藝などを敎へたるものもありき。而して彼等は其の敎ふる所に對して報酬を求めたりしかば學問を授くることが彼等に於いて一の職業となりし也。〈從來希臘學者が單に其の好奇心に驅られて學理を考究せしとは大に其の趣を異にせるを見るべし、これ倂しながら社會需用の自然の結果なりといふべし。〉
《ソフィストと人事の硏究。》〔三〕ソフィスト等は槪ね物理に關して何等の新硏究をもなしゝにあらず寧ろ從來の學說の結果を實際に應用せむとしたりしかば彼等が一般の傾向はおのづから唯だ種々なる知識を集め之れを折衷補綴することにありき。唯だ彼等はこれらの智識を實用して處世立身の道を敎へ、殊に政治社會に立つ者に取りて必要なる人心收攬の道を講ぜむとしたりしより益〻其の眼を人間の事社會の事に注ぎ來たり、かくして人事の硏究は彼等の、又一般此の時代の特色となれりし也。
《ソフィストの懷疑論的傾向。》〔四〕此くの如くソフィスト等が學術を敎ふるや槪ね從來の硏究の結果を折衷的に廣く蒐むるに止まりて甚だ雜駁に流れ隨うて其の自然の結果として一學說に重きを置き之れを固信する心は彼等に於いて甚だしく衰へゆけり。物理硏究の結果として出でたる考說已に紛然、多岐亡羊の歎なきを得ず且つ當時の思想界は物理の硏究まさに一段落をなして復た新學說の出づるなきの時に際したれば彼等は在來の物理說に對してはやう〳〵懷疑的傾向を生じ來たり而して此の傾向次第に增進して後には習慣、法律、宗敎等社會實際の事にまで波及するに至れり。これ即ちソフィスト等によりて起こされたる新運動が當時の希臘社會に大影響を及ぼしゝ所以なり。殊に彼等の末流に及びては只管破壞を事とし其の說くところ亂暴狼藉を極むるに至りき。されど彼等は初めより然りしにはあらざる也。
《ソフィストの代表者。》〔五〕ソフィストの中最も有名なるものを擧ぐればプロータゴラス(Πρωταγόρας)ゴルギアス(Γοργίας)又少しく後れてはヒッピアス(Ἱππίας)プロディコス(Πρόδικος)等あり。ヒッピアスは博識を以て聞こえ、數學、天文、物理、歷史、及び技藝をも敎へ學術を通俗ならしむる傾向を代表せる顯著なる一人なり。プロディコスは道德上の事を論じたりと傳へらる。されどソフィスト等が起こしゝ當時の新思想新傾向の代表者として最も肝要なるはプロータゴラスにして次ぎはゴルギアスなり。
《プロータゴラスの主觀的、相對的知識論。》〔六〕智識論上懷疑說を唱へ出でて希臘哲學史に一要地を占むるものをソフィストの泰斗プロータゴラスとなす。彼れはアブデラの人紀元前四百八十年に生まる。諸方を遍歷し到る處に名聲を博し遂に亞典府に來たりこゝに帷を下して敎授を事とせり。然るに間もなく神々の存在を否みたりとの理由を以て訴へられ此の地を去らざるを得ざるに至れり、時に四百十一年なり。シヽリーに渡らむとして途中難船の爲めに溺死せり。
彼れが知識論の根據は「人は萬事の度量なり」といふ其の有名なる語によりて表示せらる。其が智識論の主觀的又相對的なるはいとよく此の語に見えたり。謂へらく、吾人が外物を知覺すといふは唯だ外物が吾人の五官に觸れたる其の時の狀態に外ならず、物それ自身を知ること能はず。吾人の感官の狀態若し變ずれば知覺はた變ぜざるべからず。所詮智識てふ者は外物が吾人の感官に影響する其の時の關係に存し、萬古不易の眞理といふ如き者ある可からず。吾人の感官に見えたるの樣これ即ち凡べての知識にして此れ以外に知識なし。故に人を異にし塲合を異にすれば知識また異ならざるを得ず、一槪に何れを眞理とも定めがたし。知識は凡べて個人的にして又一時的のものなり。我れと他と其の見を異にし又我が前の見と後の見とを異にすとも何れを是とし何れを非とせむ、唯だ其の時其の人に見えたる事柄の外に知識と謂ふべきもの莫ければ也。此の故に知識は主觀的なり。其の人の其の時の狀態に關係するものなれば相對的なり。絕對的眞理といひ萬古不易の道理といふが如きものは吾人の知り得べき限りにあらず。
以上の懷疑說をばプロータゴラスは流石にいまだ道德の方面には應用せず、善惡正邪等の區別は彼れ之れを疑ふことをせざりき。さばれ彼れが宗敎に關する思想の旣に懷疑的傾向を帶びたりしはその一著書の冒頭の語を以ても明らかなり、曰はく「神々に關しては我れは其の眞實存在する者なるか否かを知る能はず」と。〈吾人の感官の知覺は外物そのものを示さずして外物が吾人の感官に及ぼしゝ影響に外ならずといふプロータゴラスの主觀說はデーモクリトスに採用せられてアトム論中の知覺論の根據となれりしものと思はる、こはアトム論者の條下に辯じ置きたる所の如し。〉
《ゴルギアスの破壞的知識論と其の論證。》〔七〕ゴルギアスはシヽリーの一市府レオンティーノイに生まる。プロータゴラスと同時代の人なり(紀元前四百二十七年亞典府に來たれり)。彼れに於いて破壞的知識論はその極點に達したりと謂ふも可ならむ。彼曰はく、(第一)何物もあるなし、(第二)縱令物ありとも吾人は之れを知る能はず、(第三)縱令知り得たりともそを他人に傳ふる能はずと。先づ何物もあるなしといふことの彼れの論證に曰はく、何物か在りとせばそは有又は非有又は有、非有を倂せたるものならざる可からず。然れども物は此の三者の何れにもあらず。如何となれば若し有なりとせばそは生じたるものなるか將た生ぜざるものなるべし。又一なるか將た多なるべし。然るに若し生ぜざるものならば無始なり、故に無窮無限なり。無窮無限なるものは何處にあり得べき。自己の中にも他物の中にも在るべからず、何となれば其のものの在る處は自己よりも大ならざるべからず、然るに無窮無限のものよりも大なるものあるべきやう無ければなり。然らば有は生じたるものなるか、若し生ぜしならば有よりせしか將た無よりせしか、無より有は生ぜず、又有よりも有は生ぜず、何とならば有は他に變ずるものにあらず、有に生滅あるべき理なければ也。次に有は一なるか、將た多なるか。若し一ならばそは分かたれざるものなれば大さあるべからず、大さなければ物にあらず、物にあらずば存在を有する能はざるなり。有は多なるか。多は一の多く集まりてなれるものなれば一なくば多もあるまじ。然らば在るものは有にあらずして非有なりといはむか。非有は有にあらざるものなれば無きものなり、然るに又そは非有にてあるが故に在るものといはざるを得ず、即ちあらざると同時にある也、故に非有は自ら矛盾するものなり。然らば在る物は有なると共に非有なるか。されど有と非有とは相合ふ可からず。此の故に何物もあるなし。
(第二)縱令物ありとも之れを知る能はず。そは在る物と吾人の思想とは別物なればなり。若し別物にあらずとせば吾人の思想に誤謬あるべき理なし、すなはち吾人の考へたるものは悉く皆實在と契合すべき筈なり。此の故に物と相異なる吾人の思想を以て其の物の知られむやうなし。
(第三)縱令物を知り得たりとも其の知識を他人に傳ふる能はず。そは之れを傳へむには言語等の外面の符徵を假らざるべからず。然るに符徵と知識せる事柄とは別物なり。又他人が件の符徵を會得するところが眞に能く我が傳へむと欲するものと符合することを保證す可からず、我が心の知識を取つて他人の心に移さむよし無ければ也。此の故に我が知る所を如實に他人に傅へむは到底不可能事なり。
プロータゴラスの說は或史家のいふが如くヘーラクライトスの無常流轉の說を用ゐたるもの也とは謂はれずともゴルギアスが上述の破壞論を唱ふるにエレア學說(ヅェーノーンの辯證法)を借り來たれることは明白なり。
《ソフィストと詭辨家。》〔八〕旣にゴルギアスの說に見ゆる如くソフィスト等の論はます〳〵詭辯に流れつひには凡べての事につき凡べての事を立言し得といひ又吾人は決して誤り得ず又我れみづからと矛盾することなしなどいふが如き論の出づるに至りぬ。(これオイティデーモス等の揚言せる所なりき)。彼等は一事物を激賞せる即座に又能く之れを排斥し得とてこれを誇れり。かるが故に初めは惡しき意味を帶ばざりしソフィストと云ふ名稱は後世詭辯家といふと異語同義なるが如くに思惟さるゝに至れり。しかもこはプロータゴラスが知識論の自然の結果といはざる可からず。
《ソフィスト末期の破壞的傾向。》〔九〕啻に理論上に於いてのみならず實際上にもソフィストの末流はます〳〵破壞狼藉を事とせり。彼等は自然即ち天則(φύσις)と法律即ち人則(νόμος)とを相對せしめ(ヒッピアス旣にこれを相分かてり)天則とは隨時隨處に異ならず諸多の事物に通じて不變なるものをいひ(物界硏究時代の學者が物界に於いて求めたるもの即ち是れ、ソフィストはこの觀念を人事に應用し來たりし也)人則とは人爲の法則にして變易するもの即ち風俗、習慣、制度等を指す。人則は隨時隨處に異なれば萬古不動の價値を有するものにあらず、畢竟時人の便利に從うて定めたるものにして其の便利を缺く時には隨意に之れを打破するも可なり。之れを實際に徵するも所謂社會の風儀又習慣は多く變遷推移し來たれり。ソフィスト等はかく古來の習慣風俗の根據を考ふるに隨うて其の決して變はらざる者にあらざるを看又從うて其の効力を疑ひこれらは所詮其の時々の便宜もしは好尙に從うて作り出でられしもの、いつまでも之れを株守せむは愚なり須らく適意に之れを變更し破壞すべしと思惟するに至れり。而して彼等が人間を見るや主として個々人の好む所又個々人の便利とする所の方面に於いてせり。恰もその知識論に於いて個人の一時々々の感覺を基礎となしゝ如く實際上にも吾人の行爲の動機を專ら各人の個々の願望欲求に求めたり。されば其の極つひに權力ある者勢力ある者はその好む所欲する所に從うて何をなすも可なりといふ如き暴論を唱へたり。プラトーンはその『對話篇』に凡べての權力は强者の權力なることをカルリクレース(Καλλικλῆς)の主唱せる所となし又トラシマコス(Θρασύμαχος)をして法律は原と有力者が自己の利益の爲めに設けたるものに外ならずと言はしめたり。此くの如くソフィストの末流は破壞に走り貴族の特權等を否認するのみならず凡べての古來の風儀及び傳說の尊貴を疑ひ之れを動搖せしめたり。而して此の破壞論は宗敎上にも及び、信神の起原を自然的に說明するに至りぬ。プロディコス已に人の拜する神々は元と天體、地水、火風又は地の產物など凡べて人間に利益あるものを喩へて神體となしたるに過ぎずと云へり。メーロス人ディアゴラス(Διαγόρας)の如きは遂に赤裸々の無神論を唱へ出でたり、其の故を以て彼れは亞典府を逐はれき。
《ソフィストは希臘思想の變動期を代表す。》〔十〕此くの如くソフィストの末流は希臘に於ける當時の社會運動の破壞的方面を代表せり。其の末流が斯くの如き輕薄亂暴に流れたるは一は當時の社會內部の反映なり。葢し當時の亞典府は已に其の政治上の最も光榮ある時代を經過し人心蕩然として腐敗せむとせり。而してソフィスト等はまた一層この腐敗を助けたりしならむ。遮莫、彼等を以て希臘の社會に單に弊害をのみ流したるものとするは非なり、彼等は希臘思想發達の自然の通路ともいふべき變動期を代表せるもの也。彼等によりて從來客觀(物界)の硏究に專らなりし學問の風潮が靡然として主觀なる人事の硏究に轉じたり。彼等出でて知識論、道德論等の新硏究起こるに至り而して此の新硏究やこれ即ち希臘學界の面目を一變する所以のものたりし也。言語、脩辭、論理及び倫理等の學科の硏究の萌芽せしは彼等の力に負へる所甚だ多し。彼等は自然に來たるべき希臘人心の變動を代表して思想上に於ける其の社會の大掃除をなしたるものと謂うて可ならむ。
此の時に方たりて一面ソフィストの立脚地に在て而も其の破壞的傾向を防止し社會の道徳を更に確實なる根據に立てむと志したる人あり。之れをソークラテースとす。
第十二章 ソークラテース(Σωκράτης)
《ソークラテースの考究の主眼は道德問題にあり。》〔一〕前に陳ぜしが如くソフィスト等の新傾向は實際的道德の方面にまで其の影響を及ぼすこととなれりしが、こは畢竟當時社會一般の智識のいちじるく進步せし結果に外ならず。即ち此の時に至りては前代に於ける學術上の硏究心と其の種々の硏究の結果とを社會の事に應用し人事をも學術硏究の範圍に引き入れむとしたる也。ソークラテース亦此の時に出で當世の精神を呼吸したり。但しソフィスト等は智識に關しては懷疑的となり社會道德の事に關しては破壞的となり了はりたるが、彼れは智識を明らかにして以て社會の道德を確實なる根據に築かむと志したり。盖し當時に在りては問ひ考ふることなくして唯だ古來の習慣風俗をそのまゝに繼承し遵守すべくもあらず。此の點に於いて彼れはソフィスト等に許せり。彼れは乃ち社會の風儀法律等の依りて立つ所以の根據を看取せむと力めたり。彼れは硏究心の已むべからざるを看、其の硏究をして其の到るべき所に到らしめ是れによりて以て社會の改善を圖らむと欲したり。當時ソフィスト等の辯論は旣に甚だしく輕佻浮薄に流れ、之れを眞面目なる議論といふべからず、論ずる者もはた聽くものも共に眞面目に智識及び道德の事を硏究せむとはせず寧ろ詭辯を弄して自ら喜びたる也。こはゴルギアスが「何物もあるなし」と言ひし口吻に徵しても知らるべし。即ち彼等は旣に確實不動の知識を疑ひ、半ば遊戯三昧に學問を弄したるの觀ありき。ソークラテースは此の輕佻なるソフィスト風に反して立ち同じく彼等が武器となして用ゐたりし辯論を用ゐて更に確實なる硏究の途に上らむとせり。
彼れが考究の主眼となしゝ所は吾人の智識と道德との事にあり。尙ほくはしく言へば彼れは道德問題を中心としてこれがために新しく吾人の智識の如何なるものなるかを考へむとしたる也。彼れは即ち人事硏究時代の一人なり。物界硏究期にありては會〻論ぜらるゝことありても硏究の附屬物に過ぎざりし智識及び道德の事は此の時代にはむしろ殆んど全眼界を蔽ふに至れり。其の弟子クセノフォーン(Ξενοφῶν)はソークラテースの性行を記して曰へり、彼れは他の多くの哲學者の論じ爭ひしが如く世界の如何にして生じたるか、如何なる永恒の法則に從うて天に於ける諸〻の事の成さるゝかを思索せず、却つてかゝる思索の事柄を擇べる人々の愚なることを示さむと力め常に先づ彼等に問うて彼等は旣に十分人事を知悉せりと思ひ而して斯かる事柄の穿鑿に力を勞するか又若し全く人事を措いて天上の事に思ひ耽れるならば是れを以て彼等自らにふさはしき業と思へるかと言へりと。ソークラテースの眼界はソフィスト等の或者よりも尙ほ一層人事硏究的なれりと謂ひつべし。
《ソークラテースの生涯、人物、性行、事業、傳記。》〔二〕紀元前四百六十九年(又は四百七十年)ソークラテースは亞典に生まる。父をソーフロニコスといひ彫刻を業とせり、母をファイナレテーと呼び產婆を業とせり。彼れが幼時の敎育につきては今多く知られず、當時世間の注意を惹きたるソフィスト等に聽きしことあるは疑ふべからず。初めは父の業を繼ぎて彫刻を事としたりしが後悟る所ありて其の業を棄て一身を擧げて精神的事業に於いて當時の社會に盡くす所あらむと志したり。彼れは十分新時代の精神を吸收し其の需用を看破せり、然れどもソフィスト等の敎ふる所に慊らず却つて彼等が輕薄に流れひたすら詭辯を弄するを見て慨する所あり、一面彼等が影響を受けながら尙ほそが辯論に眩せられず更に確實なる硏究に從事せむと欲したり。即ち彼れは人事に關する硏究幷びに批評の抑ふべからざるを看、唯だ漠然たる傳說と習慣とに依賴せず明確なる知識に從うて社會の事を處理するを要すと考へたる也。彼れがこの事業のために奮然蹶起したりしは何時頃なりしか確知し難けれど其の四十歲を踰えたる時には已に此の事に從ひ居たりと知らる。ソフィスト等の如く報酬を受くることを屑しとせず家を外にして二十年一日の如く亞典の市街を徘徊し何人を問はず彼れに耳をかすものと對論せり。殊に靑年は最も喜んで彼れに耳を傾け彼れまた最も彼等を愛し自ら稱して「靑年の戀人」といへり。彼れが容貌風釆の奇なる、其の談論の方法の新たなる、いたく時人の注意を惹けり。如何なる塲合にありても從容自若寡慾自ら制し其の品德は百世の師表となるに足れり、而もまた奇癖常人を以て律すべからざるものありしが如し。
ソークラテースの目的は上にも云へる如く十分當時の硏究心の要求を充たし其が硏究の結果に從うて社會の道德を堅牢なる基礎の上に確立するにあり。故に其の立ちし處は一方に於いてはソフィスト等と異なり他方に於いては問ひ考ふることなくして唯だ從來の習慣を固執する保守家とも異なれり。然るに當時ソフィスト等の破壞的傾向に反動して起これる保守派ありてアリストファネース等之れを代表せりしが、ソークラテースは此の派の人々にはソフィストの亞流に外ならずと思はれたり。彼れが辯論の新奇なる、昔氣質の人々に危險視せられて斯くの如き誤解を蒙りしも亦全く故なきにはあらず。世に最も公正を失したりと稱せらるゝ裁判をうけ服毒の刑に處せられたりしも、少なくとも其の一原因は此の誤解に基づけりと見て可ならむ。メレートス等三名の者彼れを訴へたり、其の理由とせし所に曰はく、彼れは亞典の靑年を腐敗せしむ、彼れは國家の神々を否めり、彼れは新たなる神を唱へ出でたりと。此の三箇條に含まれたる誤解の外に恐らくは政治上の理由も混ぜりしならむ。彼れは貴族主義を取りし一人にはあらざりしも平民の意志に媚ぶることをせず、彼の「三十人の擅政家」を倒したる民主黨は恐らくは彼れを以て自黨に不利なるものとなしたるならむ。初めは僅少の多數を以て有罪と決せられたりしが彼れは當時の人々の通常爲しゝ如く毫も判官の憐愍を乞ふことなく反りて飽くまで己れの正義なることを主張して動かざりしかば其の刑を適用せらるゝや遂に死刑に處せらるゝに至れり。獄に投ぜられて後逃脫のよすがありしに拘はらず又之れを勸むる者ありしに拘はらず、斯かる卑劣の事は我が爲すを好まざる所なりとてつひに從容として毒杯を傾けて逝けり。
ソークラテースの性行及び學術を知らむには主としてクセノフォーンの『紀念錄』とプラトーンの『對話篇』とに據らざるべからず。前者は其の師の傅記性行を記するに詳かにして其が學術及び深奧なる思想を記するに疎なり。後者は其の錄せるところ如何ほどまでソークラテースの自說又事蹟にして、如何ほどプラトーンの自ら潤色し理想化せる所なるかを見わけ難し。ソークラテースは書を著はしゝことなし。
《德行の根據は知識にあり。》〔三〕ソークラテースは物理天文等の硏究を措き專ら人間の善福の何にあるかを究めむとしたり、即ち倫理道德の硏究是れ彼れの主眼となしゝ所なり。彼れは謂へらく、吾人の行爲は各自の悟了せる所に從うて爲さざる可からず各自の判斷力を用ゐずして唯だ傳說習慣に盲從するは未だ眞の德行と云ふべからず。知らずして爲すは假令中たることありとも偶中のみ、德行の根據は知識にありと。斯くソークラテースが各人皆みづからの眼識によりて知了し判斷力によりて是認したる所に從うて行ふを要すと曰へるはソフィストの主觀說に許せる所ありと謂はるべけれども、彼れはまたソフィスト等の如く各人の主觀を以て個々相異なれるものとのみ見ずして、同じく主觀の作用といふものから人間の正當に其の思想を働かしめたるものは彼此相一致する所なかるべからずと考へたり。故に彼れが人間を見るやソフィスト等の如く好惡情慾など時により人により塲合によりて大に相異なるものによりて動かさるゝ方面よりせずして明瞭確實なる知識を以て行爲を整理する方面よりせり。眞知識は各人の主觀即ち其の思索の働きに懸かれども又人々相合すべきものと見たるが故に或史家はソークラテースの立脚地をソフィストのに比して遍通主觀と名づけたり、盖し主觀的にして而も遍通のものなるをいへる也。
《知識の新觀念、新理想。》〔四〕此くの如く個人によりて相違せざる知識は是れ即ち事物の遍通不易なる所を看取せるもの也。事物を知るとは何の謂ひぞ。其の遍通不易なる所を看取するの謂ひなり。個々物に通じてそをして其の物たらしむる所を看取せざれば未だ眞に之れを知れりといふ可からず。例へば勇を知るといはば唯だ一塲合の勇ましき行爲を知覺するに止まらず遍く勇といはるべきものに通じて變はらざるもの即ち勇の勇たる所を知るを要す。斯く說きてソークラテースは知識の新觀念、新理想を立てたり。彼れが立てたる此の知識の新理想は希臘哲學の大動力となりそが一大進步の緣となれりし也。
《「汝自身を知れ。」》〔五〕吾人は果たしてかゝる知識を有するか。ソークラテースは自ら省みてかゝる智識を有せずと見たり、通常稱して知識といへるものの極めて漠然たるものなるを悟れり。吾人は知らずして知れりと思へり。是れ凡べての失敗と誤謬と混雜との淵源なり。吾人はまづ吾が無知を吿白し生まれ更はりて新知識的生活に發心せざるべからず。知識のはじめは先づ自己を知るにあり。自己が眞に如何ほどの事を知れるかを知らざる可からず。如何なる事柄も其の事柄に關する自己の知識、自己の能力の何なるかを知らずしては無謀の擧に出づべし。此の故にソークラテースは常に「汝自身を知れ」(γνῶθι σεαυτόν)といふを以て常に自ら戒めまた他を戒めたり。彼れは實に死に至るまで熱心に智識を追求したる人、彼れは終始攷學硏究の位置に立ちて渝はることなかりき。是れ彼れが學相の一特色なり。
《ソークラテースの反詰法。》〔六〕彼れが知識を求むる法はまづ人と對話するにあり。對話によりて彼れは自己を知らむと力めたり。然らば彼れと對話せし者は能く彼れを敎へ得しか。否、彼れと論談を接ふる後は自家撞著に陷りつひに亦自己の無知なるを吿白せざるを得ざりき。彼れが步々對手を論じつめてつひに之れをして呆然自失の窮地に至らしむるの技倆は實に驚くべきものありき。史家或はこれを名づけて「ソークラテースの
《ソークラテースの歸納的考究法と其の觀念的知識。》〔七〕かく對話により他が其の無知を白狀するに至れば即ち曰ふ、然らば乞ふこれより相共に智識硏究の途に出立せむと。かくして彼れと論ぜるものは何人も彼れに耳を傾けざるを得ざりき。さて彼れは如何にして智識開發の途に出立するぞといふに、先づ多くの事柄を取り來たり之れを比較對照して其の物其の事をして其の物其の事たらしむるものは何ぞやと問ひ以て其の事物の遍通不易なる所を看取せむとしたり。故に哲學史家或は之れを「ソークラテースの歸納的考究法」といふ。かくて其の物の其の物たる遍通不易の所を明らかに看取しこれが槪念(λόγος)を得これに定義を下すに至りこゝに始めて其の物の眞知識を得たりと謂ふべし。
ソークラテースは別に硏究法を硏究法としては說かず、唯だ是れは彼れが問答の仕方としておのづから其の論談に具はれりしものに過ぎず。故に史家が彼れの歸納法と稱するものも固より近世論理學者のいふ所のものの如く精しからず。又彼れ自ら件の方法によりて明らかなる槪念を多く作り得たりしにもあらず。さばれ兎に角彼れが其の如き硏究の道を示し之れを實行せむとしたりしは後世の學術のため其の問題を揭げたるものと謂ひつべし。一種類の諸多の事物を統括する槪念を明らかにし其の定義を下すといふこと是れ後世の學術の忘れ得ざる所なり。ソークラテースが槪念的智識を唱道したりと或史家のいふはこれをいへる也。
《ソークラテースの「產婆術」。》〔八〕上述の槪念を造るにソークラテースは對話を用ゐたり。問答によりて槪念を形づくる術是れ彼れが眞理を發見する方術なりきといふべし。吾人の事物に就いて知れる所漠然たりといへども亦全く知れる所の無きにもあらず、是れ眞知識を形づくるの素地を具へたるものにして吾人は皆正當に思索すれば事物の槪念を發見するを得。ソークラテースは曰へり、我れが他人を敎ふるは唯だ彼等を助け彼等をしてみづから智識を開發せしめ自覺せしむるに外ならずと。彼れは之れを己が母親の業に譬へて「產婆術」といひき、即ち他をして智識を生み出ださしむる助力をなすものに過ぎずの意なり。
《善とは何ぞや。》〔九〕ソークラテースはかく德を行はむとせば德の何たるかを明知せざるべからずと考へ而して其の明確なる知識を基礎として社會の改善を圖らむとせり。一技藝といふとも其れに關する明瞭なる智識を有せずば之れを爲す能はず。家を造る術を知らずしては工匠の業を全うする能はざるべく、一家を調理し一國を治むる亦之れに關する明確なる智識を必要とす。明確なる智識なくして行爲するは盲目的作動のみ眞の德行とはいふべからず。勇の勇たる所、義の義たる所を明知せずば如何でか勇を振るひ義を行ふを得む。されば吾人は凡べての行爲の趨向すべき正當の目的を知らずば正當に行爲する能はず、而して其の如き凡べての行爲の標的となりて之れを統一調整するものは善(ἀγαθόν)これ也。德とはこの善を得るの謂ひなり。善は吾人に取りてよきもの、而して吾人は皆吾人に取りてよきものを求めつゝある也。こゝに於いてか倫理學硏究の問題は明らかに揭げ出だされたりといふべし。以後の希臘哲學は常に善とは何ぞやといふ問題を眼中に置くことを忘れず否むしろ之れを中心として倫理の硏究をなせる也。
《知行の關係。》〔十〕明確なる知見を以て修德に必須なるものとせるは、ソークラテースが吾人の道德を一種の技能(ἀρετή)と見たるに根據せり。一技術に堪能ならむには其の事に關する明知(ἐπιστήμη)を要するが如く道德を行はむにはまたこれに關する明知なかるべからず。技能の中心となるものは明確なる知識なり。明確なる知識は諸藝に堪能なるの根本なる如くにまた修德の根本なり。
啻に德を修むるに知見の必要なるのみならず知見あらば德を行はずといふこと莫かるべし。人は善の何たるを眞に知らば必らず之れを爲すべし。何となれば(ソークラテースの考ふる所にては)善は即ち吾人に取りてよきもの而して吾人は常によきものを求めつゝあればよきものと知りて之れを取らざる筈なければ也。人誰れか自ら好みてよからざるものを取らむや。よからざる事即ち惡をなすは畢竟眞に之れを惡と知らざれば也。無知なる是れ不德の根本なり。かるが故に人をして德を行はしめむとせば須らく先づ善の何たるを明知せしむべし。知見明らかなれば德行おのづから修まる。此の故に德は人に敎へ得べきもの、また學び得べきもの也、即ち人を導きて善に進ましむることを得る也。
《福德の關係。》〔十一〕此くの如くソークラテースの見る所によれば善は吾人に取りてよきものなれば德を修めて吾人に不利となるが如きことは決してあらざる也。クセノフォーンの錄せる所によればソークラテースは善と利(ὠφέλιμον)を相契合するものと見たるが如し。而して自己に利なるものと不利なるものとを識別して常に利なるものをのみ選擇する技能これ即ち智慮(φρόνησις)なり。吾人は一時の感情、個々の情慾に放任することなく常に自己の節制堅忍の志を保つべし。(ソークラーテースは實に克己節慾(σωφροσύνη)の人、外物に役せられず、自己を制することの自由自在なるを得たりし人なり。)斯く德は自己を制して常に己れに善きものを採るにあるが故に德の修まれると其の人の幸福なるとは決して離れたるものにあらず。德修まりてしかも不幸なるものある可からず。此の善福(εὐδαιμονία)といふ觀念は爾後の希臘倫理學に於ける主要なる思想となれり。
以上述べし所によりて觀るにソークラテースの道德論には二方面ありといふを得べし、即ち一は知見を以て德行の根本となせる智力的方面にして他は德行と幸福とを決して相離れたるものにあらずとなせる利福的方面なり。智と德と又福と德とは彼れの思想にありては常に相交錯して離れざりしなり。而して此の二觀念はやがて希臘の倫理思想全體を貫通せるもの也。
《國法の義務に關するソークラテースの所見。》〔十二〕ソークラテースは尙ほ一步を進めて精しく善の何たるかを說明することなく其の倫理說も嚴密に學理的に組織さるゝに至らず寧ろ個々實際の場に應じて必要なる諸德を說くに止まれり。中に就きて節制、克己、正直、友愛等の諸德は彼れの性行と敎訓とを以て最も熟心に唱道せし所のものなり。彼れが理想の最も美はしく高き所はプラトーンの書に就いて見るを得。クセノフォーンの書にはソークラテースを專ら實際的、實用的の人として描きたる傾きあれどプラトーンは彼れの理想的生活を描寫せり。彼れが善美(καλοκἀγαθός)を追慕する熱心を以て友情の精髓となし友と共に善美を求め之れを得之れを相頒かつに力めしことは特殊の光彩を帶びてプラトーンの記述に現はる。
ソークラテースは國法を遵守すべき義務を說くに力めたり。これ彼れがソフィストと其の歸結を異にせる所なり。彼れはソフィスト等と共に硏究心の已む可からざるを認め其の硏究の結果として得る知識の缺く可からざることを唱道したりしかど彼れはまた之れを用ゐて社會の道德を確固たる基礎の上に建て得べしと考へたる也。彼れは當時の開明を來たしゝ大動力たる而してソフィスト等の依つて以て其の勢力を振るひたる同一の武器即ち硏究と知識とを用ゐて當時業に已に現はれそめし開明の弊を防止せむとせり。前にもいへるが如くソフィストは個人の情慾を先にし自己の欲するがまゝに云爲するを憚らざりしかば其の弊や肆然として放縱蕩佚に流れたり。ソークラテースはこれに反して吾人の明知に照らして眞に自己に利あらざるものとしからざるものとを識別し以て己れが一時の情慾を抑制するの必要なるを說き而して又彼れ自ら之れを實行せし也。ソフィストは個人の力能と所欲とを主眼となし社會の法律等は若し之れを破るの力だにあらば自己の所欲に從うて之れを破るも可なりとまで說きたりしがソークラテースは國法の貴ぶべき所以を說き自ら身を以てこれに殉したり。
《ダイモニオン。》〔十三〕宗敎上に於いてもソークラテースは激烈なる革命的議論を唱へし人に非ず、從來其の國人の一般に信じ來たれるが如く神々の存在を認め且つ社會の慣習に從うて之れを禮拜するの正當なるを說けり。殊に彼れは神明の照覽を信じ善惡の賞罰の行はるゝことを信ぜり。其の全體の思想は獨一神敎的に傾けりとも見ゆれどさりとて國家の多神をも否むことなかりき。彼れが國家の神々を否めりといふの理由をもて訴へられたるは或は彼れみづから一種特別の示現を心裡に聞くといへること即ち其の謂ふダイモニオン(δαιμόνιον)に原因せしならむ。所謂ダイモニオンの何たるかにつきては後世の史家其の說を一にせざれど思ふにソークラテースは個々實際の場合に處して何となく其の當に取るべき道を其の心底に感知することの濃かなりしが如し、彼れは常人にまさりて其の如き(理解すといふ可からずば寧ろ感知すと云ふべき)實際的判斷に長けたりきと思はる。此の故に或哲學史家はソークラテースは學理的知識の傍に吾人の實行を導くに缺くべからざるものとして一種の感情の必要を認めたりといへり。此の見解に從へば學理的硏究の結果としては吾人の明瞭に知識する能はざる境涯の無きを得ざれば其の如き塲合には彼れは(學識とは云ふべからざるも)心情の指示の存するあるに依るべしとなせる也。(ソークラテースがダイモニオンの聲を聞くと云へるは彼れが一種の幻覺を有したるなりと考ふる學者もあり。そは兎も角も彼れが奇癖を有したりし人なるは疑ひなきが如し。)
《ソークラテースが知識の實在の根據は其の道德的確信にあり。》〔十四〕上に陳ぜしが如くソークラテースの硏究の結果はソフィスト等の如く破壞的ならずして建設的なり、其の建設的なる根據は明確なる知識の得らるべき事を說きしにあり、即ち事物の遍通不易の相を吾人の知識し得べきことを以て其が論據とせり。さばれ如何にしてかゝる知識は得らるべきか。其の得らるべきことを否みしものはプロータゴラス也。プロータゴラスは人智の性質を考究してかかる知識は有り得べからずと論じたり。ソークラテースは其の如き知識の必要を說きたれども未だプロータゴラスの懷疑說に對してかゝる知識の有り得る所以を明示せず。彼れは未だ十分の自覺を以てプロータゴラスが提出せし知識論上の問題に面せざりしなり。彼れが斯かる遍通不易の知識を要すと見たるは其の道德上の確信より來たれりと謂ふべきならむ、そは其の如き知識なければ眞正の德行は成り立たず實際の行爲を正當になす能はずと見たれば也。道德上の必要これやがて彼れに取りてはかゝる知識の實に在り得べき理由なりしならむ。又彼れが神明の照覽を信じ善惡業に對する賞罰の過らざるを信ぜしも亦此の道德的確信に根據せりといふべし。要するにソークラテースの思想の窮極の根據及び動力は其が不動不拔の道德的確信にあり、彼れが一代の精神と事業とは一に此の確信を中心としたりし也。
《ソークラテースの希臘哲學上の位置。》〔十五〕道德の學理的硏究としてはソークラテースの說未だ甚だ精しからず。彼れの位置の希臘哲學史上に重き所以は道德論上及び知識論上一學說を立てたるにあらで其の攷學の精神及び其の方法を說けるにあり、是れ即ち希臘哲學の新生面を開く動力となりしもの也。言ひ換ふればソークラテースは纒まりたる一哲學を組織したるにあらで新眼孔を以て事物を硏究することを敎へたる也。其の後世に及ぼしゝ影響の偉大なる實にこゝに存す。隨うて彼れが影響を受けて出でたる學者は彼れが學說の未だ整はざる方面を取りておの〳〵之れを開發せむと務めたり、或は彼れが辯證的論法を取り或は專ら道德倫理の說を取りておの〳〵其の方面に於いて之れを發達せしめむとせり。彼れの敎の唯だ一方面を看たる此等の學者を其の「不完全なる學徒」と名づく。ソークラテースが後世に遺しゝ問題は彼等不完全なる學徒の看取せし所よりも尙ほ一層深き處に橫はれり。明らかに知識問題を自識し來たりてプロータゴラスの懷疑說に對し知識を根本的に立し又之れに根據して道德を建設せむと志しゝはソークラテースの完全なる繼承者とも謂ふべきプラトーンなり。プラトーンは其の師の提出したりし問題の全體を看取したりし也。
プラトーンの哲學を述ぶるに先きだち右云ふソークラテースの「不完全なる學徒」に就いて記せざる可からず。そは彼等は尙ほ皆人事硏究時代に屬する者なれば也。
第十三章 ソークラテース學徒
《「不完全なるソークラテース學徒」。》〔一〕ソークラテースに接して其の學說の影響を受けたる者の中彼れが所說の或方面(主として倫理道德上の問題)を取りて更に之れを考究せむと力めたる者あり。慣用の名稱に傚ひ此等の學者をこゝに假りにソークラテース學徒と名づく。然れどもソークラテースの趣意が必ずしも彼等の所說に保存され又開發されたるにあらず、却つて大に彼れの敎學と異なれる趣を呈せるものあるを認めざるべからず。また彼等は專らソークラテースが敎學の一方面にのみ著眼して其の問題の全體と根柢とを看取せざりしが故に前にも云へる如く此等の學者を「不完全なるソークラテース學徒」とも名づく。彼等の中に就き哲學史上其の學說の傅はれるもの三あり。メガラ學派、キニク學派、及びキレーネ學派是れなり。メガラ學派はソークラテースの敎を受け深く彼れを尊敬せるオイクライデース(Εὐκλείδης)が其の師の死後幾ばくもなく其の故鄕なるメガラに開きたりしところのもの、キニク學派は同じくソークラテースに接したるアンティステネース(Ἀντισθένης)の創立せる所なり。〈キニクといふ名稱の起原に就さては此の派の學者が犬の如き生活をなして意とせざりしより起こりしものにしてギリシア語の犬てふ字より轉じ來たれりといふ說古くより傳はれり。然れども恐らくは敎祖アンティステネースが亞典府のキノサルゲスと云ふギムナジオン(體操遊戯などするために諸人の集合する所)にて其の敎を說きたるに由來せりといふ說正しからむか。〉此の二人は共にソークラテース門下の年長者なりきと思はる。キレーネ學派はキレーネの人アリスティッポス(Ἀρίστιππος)の立てし所、彼れ亦しばらくソークラテースに接したることあれど決して親密なる關係を維持したりしにあらず、前の二人よりは年少なりしが如し。アリスティッポスはソフィストとして諸方を遍歷し、アンティステネースはソークラテースに師事せし前旣にゴルギアスに聞き又自ら講筵を開きしことあり又メガラ學徒の論法の多くソフィストのと簡ぶ所なかりしは後に陳ぶる所を以て知るべし、此等の故を以て史家或は此三者を視て元來ソフィストの流を汲める者が唯だ少しくソークラテースの學風に觸れたるに過ぎずとなす。以上三派の外ソークラテースの弟子ファイドーン(Φαίδων)が其の故鄕エーリスに立てたる一派及び此の派の流がメネデーモス(Μενέδημος 紀元前三百五十二年乃至二百七十八年頃の人)によりてエレトリアに傅へられたる一派ありと傅ふれど、これに關しては委しき事を知る能はず、但し此の「エーリス」「エレトリア」の二學派は元とはメガラ學派に似寄りたるものの如く而して後にはキニク學派に近づきたりしが如し。今は先づメガラ學派より記述せむ。
メガラ學派
《此の派の根本思想。》〔二〕此の派の唱へたる要旨はソークラテースの敎說とエレア學派の思想とを結合せるが如きものなり。ソークラテース謂へらく、吾人の知識は事物の遍通不易なる所を看取するものならざる可からず、即ち事物の槪念を形づくるものならざる可からずと。オイクライデース以爲へらく此の事物の遍通不易なる所は畢竟ずるにエレア學派の所謂唯一不變平等一如なる有に外ならず、此の外に實有のものある無し、眞正の知識は此の有を知るにあり、且つソークラテースが揭げし倫理問題の中心點なる善と謂ふものも畢竟此の有に外ならず、知見と云ひ理性と云ひ或は神明といふ、名は則ち異なりと雖も要するに此の有を指したるなり、而して又之れを知る知識是れ即ち德なりと。メガラ學派の根本思想は此の外に出でず。
《此の派の詭辨的論法。》〔三〕かくの如き說を立つるに當たりオイクライデースはエレア派のヅェーノーンが用ゐたる論法を襲ひて正面よりするの論證によらず專ら反對說を駁擊して裏面より立證したりと傳へらる。此の派の學徒は後益〻ヅェーノーン風の論法を用ゐるを事とし、論理の硏究に多少の裨益を與へざりしにはあらざれども其の論や遂にソフィストの詭辯と相簡ばざるに至れり。彼等の論法にして時人の注意を惹きたる一二の例を擧ぐれば今こゝに穀物を累積し行かむに何れの一粒に至りて始めて一斗を成すかといへる疑問の如きは彼等が得意の論題として傳へらるゝ所なるが是れは要するにヅェーノーンが限りなく小なる部分を如何ばかりせむとも分量あるものを成すこと能はずといへるを言ひ更へたるものに外ならず。また此の派のディオドーロス(Διόδωρος )が可能(即ち實に在らざれども唯だ在り能ふこと)といふ觀念を打破せむとしたる名高き論あり曰はく實に在り又必ず在るべきもののみ可能なり、何となれば何が可能なるかはそが實在となることによりてのみ知らるべければなり更に裏面より云へば現實とならざる可能はそが現實とならざることによりて不可能なることを現はせばなりと。また此の派のスティルポーン(Στίλπων)は謂へらく、一物につきて吾人の立言し得る所は其の物の外に存せず、何となれば其の物につきて其の物以外の事を立言し得べき筈なければなり、即ち吾人の立言し得るは唯だ同言判定〈例へば「犬は犬なり」「馬は馬なり」といふが如し〉のみと。
《プラトーンの大組織に至る一橋梁。》〔四〕メガラ學派はソークラテースの說ける槪念的知識をエレア派の所謂唯一不變平等一如の有と合し又ソークラテースが所謂善をも此の有に同ぜしめたるがゆゑに、猶ほエレア學の思想が更に開發すべき餘地を有せざりしが如く此の派の所說も亦同一寰內を廻るに止まり遂には唯だ上に云へる如き詭辯的論法を弄ぶに至りぬ。然れども此の學派が希臘哲學史上極めて重要なるエレア思想を繼承して之れをソークラテースの知識論及び道德論に結ばむとしたりしは其の著眼の點に於いて頗る見るべきものあり。此の點より考ふれば此の學派を以て後のプラトーンが大組織に至る一橋梁と視るも不可なきなり。此の派はスティルポーンに至りてはキニク學說を混ずることとなれり。
キニク學派
《德卽ち善なり福なり。》〔五〕此の派の祖アンティステネースはソークラテースが敎說の中おもに其が實際的方面を見たり。ソークラテースは善の何なるかを問ひ出でたれど未だ明らかに其の內容を提示せざりしかば、アンティステネースはこゝに其の說を結び來たりて曰はく、德行を除きて他に善なるものなし德行のみが吾人をして幸福ならしめ又吾人を幸福ならしむるものは唯だ此れのみを以て足れりとす、正當なる行爲其のものに於いて得る所の滿足是れ即ち吾人の幸福なりと。此の思想はソークラテースが福と德とを相離れざるものと見たるに本づけるなり。
《德行は外物に懸からず。》〔六〕德ある者必ず福ひなりと云はむには其の所謂德行は外物に懸かれるものならざるを要す。蓋し外物は吾人の隨意に左右し得るものならざれば若し外物に依りて初めて幸福を得べしとせば吾人は幸福を得ることを必すべからず。吾人若し心を外物に置きて富貴權勢を欲せば之れに束縛せらる。欲望は我れを外界に絆すものなるが故に吾人を幸福ならしむる德行は須らく此等の欲望を抑へて外界の束縛を脫するものなるべし。此の如き觀念よりしてキニク派の所謂德行は專ら消極的のものとなれり、即ち欲念を抑へて成るべく僅少の所有に滿足する邊に其が所謂道德を結び付けたり。
《文化の所造を輕んじて天然の狀態を重んず。》〔七〕此の思想の結果として此の派の學徒はあらゆる文化の所造を輕んじ寧ろ之れを捨てゝ天然の狀態に居らざるべからずと唱へ又旣にソフィスト等の說けるが如く人爲もて定めたるもの(νόμος)と天然に定まれるもの(φύσις)とを相對せしめて曰はく吾人は人爲の所定に束縛せらるゝを要せず須らく天然の狀態に處るべしと。是に於いて此の派の思想は社會の制度を輕んじ世に謂ふ法律風儀を蔑視し世間の毀譽褒貶を冷笑し一切此等の束縛を脫して唯だ天然の狀態に處ることを貴び人間の自然に具ふる根本的欲求(食色の欲)には自由に從うて可なりと說くに至れり。斯かる理由を以てキニク學徒は往々世間の風儀と相容れざる行爲に出でて顧みる所なかりき。
《乞食哲學者の輩出。》〔八〕かくの如き思想より此の派の學者には家を捨てゝ乞食の生涯を送れるもの輩出しき。有名なるシノーペー人ディオゲネース(Διογένης)は家を捨て國を捨てて何れの國家にも屬せざるを誇れり。彼れ思へらく人間は宜しく野獸の群を成すが如くなるべし是れ天然の狀態なりと。其の外ディオゲネースの弟子にして終生乞食の生活に安んじたるクラテース(Κράτης)及び身は良家の女にてありながら彼れの妻となりて共に諸方を流浪したるヒッパルキア(Ἱππαρχία)の如きありき。當時斯くの如き乞食哲學者の出でたりしは之れを其の社會の狀勢より考ふれば決して意味なきことにあらず。此の時や希臘の社會は已に頽敗に傾き政治に道德に腐敗を極め民心懦弱に流れ文明の流弊また殆んど拯ふべからざる有樣にあり。キニク學徒は此の文明の流弊に反激して出でたるものなり。此の派の祖アンティステネースは親しくソークラテースが敎學及び性行の上に克己節欲の偉力を看取し己れに堅固なる意志だにあらば外物に依る所なくして我が心の福ひなることを得べしと考へたり、而して此の派の學徒は此の見地を安住の處として當時の社會を蔑視したる也。すなはち主觀が客觀を離れて自己に立て籠もらむとする傾向は此の派に於いて頗る著るくなりたり。
《アンティステネースの知識論。》〔九〕アンティステネースはソークラテースが敎學のうち主に心を其の實際的方面に着けたりしが知識論に於いても亦全く無頓著なりしにはあらず。彼れ思へらく、ソークラテースが所謂事物の遍通不易なる所に就きて立言せむには其の物それ自身を以て云はむの外なし其の物以外の物を以て云ふべからずそは其の物にあらざる物を以て其の物を言ひ表はす可からざればなりと。故に彼れの說はメガラ學徒の論の如く結局通常謂ふところの立言(即ち一事物に就いて或事柄を言ひ立つること)を以て不可能のこととなすに至る。唯だ吾人の言ひ下し得るは分析的判定(即ち旣に主語に含み居る事柄を分析し出だして之れを客語に言ひ表はすもの)のみ。此の故に吾人が槪念を用ゐて定義を下し得る事物は分析し得らるべきものならざる可からず分析し得べからざる單一のものに就いては槪念的知識を形づくること能はず。かくの如き單一のものは唯だ吾人の五官を以て直接に感覺し得るのみ。是に於いてキニク學徒の知識論は終に感覺說となり了はれり、以爲へらく吾人の元來知り得る所は感官に觸るゝものの外に出でずと。此の如き感覺的知識論とは全く異なれる立ち塲を取れるプラトーンのイデア論(後章を看よ)をアンティステネース及びディオゲネースは口を極めて嘲りきとぞ。
キニク學徒の知識論は前述の如くメガラ學徒の說く所と頗る相似たる所あれど畢竟彼等はメガラ派の如く論理的硏究を事とせず寧ろ專ら實行的方面に著眼したりしが故に彼等は多く重きを學問に置くことなかりき。アンティステネース自らも吾人の德は實行に在り多くの言葉と知識を要せずと云へり。
キレネ學派
《倫理上の個人的快樂說。》〔一〇〕此の派の祖アリスティッポスは其の思想をソークラテースが道德論中幸福をいへる方面に結びつけこれを以て其が學說の出立點となしたり。キニク學徒は吾人が幸福を得るには德行其の物の外に要する所あらずと說きたれども其の所謂德行の內容を示さむとしては專ら消極的方面より云ふに止まりたり。アリスティッポスは思へらく、ソークラテースの說ける如く德行と幸福とは相離るゝものにあらずそは德行は幸福を得るの道に外ならねばなり而して謂ふところ幸福は快樂を得るの謂ひに外ならずと。即ち彼れは德行を以て快樂を得る方便に外ならずと視たり。ソークラテースが明らかに內容を定めざりし善(吾人に取りてよきもの)てふ觀念はキニク及びキレーネの兩派に於いてしかく兩端に分かれたり、而も兩者共に幸福を云ふに於いては一なり。
アリスティッポスの所說に從へば德行その物に何等の價値あるにあらず其の價値あるは唯だそれが吾人各自に快樂を與ふるの道となればなり。如何にして快樂を得るかは敢て問ふ所にあらず如何なる方便を以てするも快樂(ἡδονή)だに得らるれば我が幸福はこゝに全うせらる要は成るべく大なる快樂を得るに在り。是れ此の派の根本思想とする所にして其の說く所は即ち純然たる倫理上の快樂說なり。而して其の說に謂ふ吾人各自の行爲の目的と看做す快樂は各人自己の快樂に外ならねば、委しく云へば其の道德論は個人的快樂說なり。
《哲學の要は快樂を得る知見を開くにあり。》〔一一〕アリスティッポスは以爲へらく、快樂の最も大なるものは肉體の樂みなり而して眞實我がものたる快樂は現在のものの外にあらず過去の快樂は已に過ぎて追はむに由なく未來のものは未だ我が所得にあらず故に快樂の中最も主要なるは肉體現在の快樂なり。然れども如何なる快樂も唯だ接するにまかせて之れを取れといふには非ず。現在得らるべき快樂の中にも大なるあり小なるありまた苦痛のこれに伴ふものあり。故に吾人は此等の中に就き何れが最も大なる快樂を現實吾人に與ふるかを見定めざるべからず。之れを見定むる人是れ即ち賢人なり。知見の要は畢竟快樂の選擇をなすに在り。吾人は知見によりて行爲を導き妄りに情慾の發動に任すべからず。能く樂むことを知るは樂みを捨てゝ强ひて滿足するに優れり又之れよりも爲すに難し。哲學は此の快樂を得る知見を開くものにして學問の必要唯だこゝに存すと。キレーネ學派の思想の偏へに實際的となれるを看るべし。
《苦樂の生理的硏究。》〔一二〕アリスティッポス其の敎を其の女アレーテー(Ἀρήτη)に傳へアレーテーまた之れを其の子アリスティッポスに傳へたり。キレーネ學徒中殊に此のアリスティッポス等が開祖の唱へたる快樂說の學理的根據として快樂苦痛の生起に關する生理上の狀態を考究しきと見ゆ。其の說に曰はく、諸種の感情の生起は之れを吾人が身體內の物質運動の有樣に歸するを得べしと、又曰はく五官の知覺は吾人自家の狀態(πάθη)を示すのみ外物そのものを示すにあらずと(此等の說はプロータゴラスに據れり)。體內なる物質の運動穩かなる時は快感を覺え劇しきに過ぐる時は苦痛を感じ其の運動の甚だしく微なるか又は全く休止する時には苦痛もなく快感もなしと。
《非社會的。》〔一三〕キレーネ學徒の所謂快樂はもとより各人自己の快樂なり。おもへらく、賢者は世間諸多の煩累の爲めに己が快樂を害ふことをせず故に社會の法律習慣に拘泥せず其の法律を守り習慣に從ふことをするも是れ畢竟自家の安樂を得むが爲めなりと。故に社交によりて自家の快樂を取るは可なれども公務に服して身を煩はし國家の爲めに身命を犧牲に供するが如きは智者の爲さざる所なりと說くに至れり。吾人は此の非社會的なる點に於いて此の學派が其の道德論上大に相異なれる(寧ろ全く相反せる如き觀ある)キニク學派と殆んど同一の立塲に至れるを見る。以て希臘社會の如何に解體して個人的精神の旺盛ならむとしつゝあるかを見るべし。愛國は智者の爲す所に非ずとは此の派のテオドーロス(Θεόδωρος)〈少アリスティッポスの弟子〉の言なり。彼れまた曰へり、若し自己の快樂を得るに妨げあらば凡べて宗敎上の習はしにも拘泥せずして可なりと。
《此の派の快樂說は終ひに消極的、厭世的となれり。》〔一四〕老アリスティッポス已に妄りに快樂を取ることが眞正の幸福を得る所以の道に非ざるを云へり。此の思想を推窮すればテオドーロスが幸福の解釋の出でたる所以おのづから明らかなるべし。其の說に曰ふ吾人の眞正の幸福は心の安らかなる狀態(χᾶρά)にありて唯だ一時々々の歡樂を極むることに在らずと。又アンニケリス(Ἀννίκερις)は肉體の快樂よりも寧ろ精神上の快樂に重きを措くに至れり。然れども此の派の學者はキニク學徒の唱へし如く一切外物に待つ所なく力めて吾人の欲望を箝制せよとは云はず、吾人の快樂を享くるや外物に依る所あるを認許せり。然るに吾人の此の世に處するや必ずしも常に安樂を得べき地に居る能はず、人世却りて不如意の事多く不幸の中に住む者多し。是に於いてか此の派のへーゲーシアス(Ἡγησίας 紀元前三百年頃の人)は說をなして曰はく、快樂を得ずとも苦痛なき狀態に在らば吾人は已に幸福を得たりと云はざるべからず、歡樂を盡くさむと求めむよりも寧ろ苦痛なき狀態に在ることに滿足せざる可からず、而して如何にしても苦痛を脫し得ざる境遇に居る者は寧ろ死するの優れるに如かざるなりと。彼れは死を勸むる人てふ綽名を得たり。斯くの如くキレーネ學派の快樂說はへーゲーシーアスに至りて遂に消極的となりて厭世論の臭味を帶ぶるに至れり。
第三期 組織時代
第十四章 プラトーン(Πλάτων)
其の性行及び著作
《プラトーンの生涯、性行。》〔一〕ソークラテースが敎學の全體を悟了し、又彼れ以前に出でたる物理家の諸說をも咀嚼して哲學上新たに一大組織を立てたる者はプラトーンなり。在來の希臘哲學に於ける諸種の肝要なる思想とソークラテースの新見地とは、彼れに依りて陶冶融合せられて、西洋哲學史上一大偉觀たるプラトーンが理想哲學は成り上がりたるなり。
《*》プラトーンは亞典府の人、紀元前四百二十七年(*或記錄に從へば四百二十九年)門閥の家に生まる。父をアリストーンといふ。プラトーン初め祖父の名を繼ぎてアリストクレースと稱しき。天資衆に秀で幼時より手厚き敎育を受け、夙に美術を愛する傾向ありて詩作をも爲したるありしが、後ソークラテースの人物と敎學とに接して大に之れに服し其の門に入りて一身を哲理の硏究に委ねたり。是れより先きヘーラクライトスの流れを汲めるクラティロス(Κρατύλος)に哲學を聽けることあり。齡二十にしてソークラテースに師事したる以來八年間其の師の死するに至るまで其の門下に在りき。師歿して後直ちにメガラに遊びメガラ學徒と交り(ヘルモドーロスの記せる所に從ふ)其の後久しからずして更に漫遊の途に上りキレーネ、エジプト及び恐らくは其の他の地方をも遍歷したりしならむ。三百九十五年頃には一旦亞典府に歸りきとおぼし。彼れ當時已に著作を始めまた恐らくは敎授にも從事せしならむ。其の後三百九十一年の頃南部伊太利及びシヽリーに遊びて親しくピタゴラス學徒と交はり又シラクウサの朝廷に行きディオニシオスの義弟、ディオーンと相識れりしが其處の主權者ディオニシオスの意に觸れて俘虜の如く逆待せられ遂にスパルタの使者に
シラクウサの老ディオニシオス死し其の子少ディオニシオス位を踐むやプラトーンは其の友ディオーン(少ディオニシオスの叔父)の慫慂に從ひ其の國政を補佐せむと欲して再びシヽリーに行けり。彼れのシラクウサに行けるや己が政治上の理想を實行せむの企圖を懷けりしが事其の志と違ひて亞典に歸れり。其の後三百六十一年ディオーンとディオニシオスの間を調停せむが爲め復たシヽリーの地を踏みしが政事上の關係よりして甚だしき危險の位置に陷りたりしを當時アルキタスを首領としてタラスに霸威を振へるピタゴラス學徒の强硬なる干涉によりて漸く免るゝを得たりきと思はる。次いで亞典に歸りし後はまた他事を顧みず專心子弟の敎育に從事し三百四十七年八十歲の高齡を以て時人敬慕の間に逝けり。碩學として思想性行の高雅なる實に希臘學術界の花といふべし。彼れの幽玄なる思想が後世に及ぼせる影響のいかばかり偉大なるかは西洋哲學史を講じゆくに從うて明らかなるべし。
プラトーンは子弟を敎ふるに當初は專ら對話を以てしたりし如く而してこれは其の師ソークラテースの模範に傚へるものならむが其の哲學硏究に委ねたる生活の
《プラトーンの著作。》〔二〕プラトーンの著作は槪ね對話の體にものしあり。其の結構或は頗る劇詩的活動を具へたるあり、或は講述體に近よれるあり、其の文雄渾莊麗を以て稱せらる。プラトーンが對話篇の少なくとも或者は文學上の著作として見るも實に得易からざる逸品なり。對話篇中述ぶる所特に一題目を限りて秩序的に論ぜるにはあらず、知識論、理體論、倫理論等の問題は槪ね相纏うて一篇の中に入れり。凡そ彼れの對話篇はもと彼れが同志の輩と共に論談せし所を骨子として成れるものなるが如し。其の多くはソークラテースを立てゝ主人公となせり盖し槪ね其の口を假りてプラトーンが自說を吐露せるなり。故に對話篇に現はれたるソークラテースを以て直ちに歷史上の彼れとなす可からず。中には固より眞にソークラテースに關する歷史上の事實と見て可なるが如く思はるゝふしもあれど何れが眞にソークラテースの云爲にして何れがプラトーンの醇化なるかは容易に辯別し難し。
プラトーンの著作として傳はれるもの多きが中に彼れ自身の作ならずと思はるゝもの亦少なからず。何れが彼れの眞正の作にして何れが然らざるかは古來プラトーンを硏究する者に取りての一の肝要なる問題たり。今日まで史家の考證せる所により眞作と見るべきものを揭ぐれば、『プロータゴラス』(Πρωταγόρας)、『ゴルギアス』(Γοργίας)、『テアイテートス』(Θεαίτητος)、『ファイドロス』(Φαῖδρος)、『シムポジオン』(Συμπόσιον)、『ファイドーン』(Φαίδων)、『ポリタイア』(Πολιτεία 國家論)、『ティマイオス』(Τίμαιος)、以上は疑ひを容れざるもの、また『アポロギア』(Απολογία 辯護)、『クリトーン』(Κρίτων)、『フィレーボス』(Φίληβος)、『ノモイ』(Νόμοι 法律)等も眞作と見て可なるべしと思はるゝもの、次ぎに多少の疑ひを挿み得るは『ソフィスト』、『ポリティコス』、『パルメニデース』、其の他『クラティロス』、『メノーン』、『オイティデーモス』、『クリティアス』、『小ヒッピアス』、『オイティフロン』、『リシス』、『カルミデース』、『ラケース』等なり。此等は或はプラトーンの自作とは云ふべからずとも尙ほ槪ね彼れが思想を寫したるものと見て可なるべし若し彼れの筆に成れりしにあらずば其の學徒の中に出でたることは疑ふべからず。此等多少の疑ひを挿み得る部類の中最初に揭げたる『ソフィスト』『ポリティコス』『パルメニデース』の三つは彼れが哲學思想と其の變遷發達の趣とを窺ふに頗る肝要なるものなるを以て其の眞僞に就きては學者間紛々たる議論あり。
《著作の順序。》〔三〕彼れが著作の順序も亦プラトーン硏究者間に存する一要問題なり盖しそが年代の順序は彼れが哲學の成立を知るに大なる關係を有すればなり。或はプラトーンの著作を見て豫め計畫を立てゝ一の完備せる思想を叙せる者なりと爲すありシュライエルマヘルの如き是れなり。されど此の見解の根據を缺けることは敢て看るに難からず。プラトーンの思想は寧ろ時代と共に變化し而して其の著述は其の時期々々の學相を示せるものと見るが至當ならむ。然れども又或史家の如く彼れの學說を以て單に時々に思ひ浮かべたる思想を連絡もなく述べ出でたるものに過ぎずとなし更に組織的關係の見るべきなしと云はむも妥當の言にあらじ。プラトーンの思想に變遷發達のありしは明らかなれど其の間おのづから連絡ありて大體上一組織を成せることも亦强ひて否むべきにはあらざらむ。彼れが第一期の著作と見るべきは其の尙ほソークラテースの敎學の範圍內に在りし時の作にして述ぶる所槪ね其の師の說きし種々の德行(勇氣、友愛等)を題目としてそれらの觀念を明らかにせむと試みたるものなり。此等の中或はソークラテースの尙ほ世に在りしころ已にものせるものもあらむか。『リシス』、『ラケース』、『小ヒッピアス』等は此の第一期に屬せるものならむ。また『アポロギア』、『クリトーン』、『オイティフロン』は皆ソークラテースの爲めに辯護せるものにして要するに其の師を如實に世に傳へむとしたるものなれども其が著述の年代は後の期に屬するならむ。
プラトーンが第二期の作として見るべきは當時隆盛を極めたると共に又弊害を極めたるソフィスト等の說に對して漸々自家の立場を明らかにせるもの也。彼れ初めはソフィスト等の說に對せしむるに彼れ自らの解したるソークラテースの敎義を以てし前者を抑へて後者を揚げ專ら破邪を事とせしが如し。但し此等破邪を事とせる著作の中已にソークラテースの範圍を越えてプラトーン自家の立塲を拓きつゝありしを看るべし。此の種類の對話篇中主なるものは『プロータゴラス』、『オイティデーモス』、『クラティロス』、『テアイテートス』、『ゴルギアス』、『メノーン』等なり。他を破する方面よりして漸次自らを立する方面に移り來たり其の自說を顯はすことを主意としたるは『ファイドロス』、又彼れが對話篇中最も美なりと稱せらるゝ『シムポジオン』、又其の書の成立に關して議論の紛々たる『ポリタイア』等なり。此等の著作に於いては旣にプラトーンがイデア論の略〻其の形を成せるを見る。要するに此の期の著述は更に之れを細別するを得べけれど、其の順序は到底審かにするを得ざるを以て今は姑らく凡べて之れを第二期に收む。
其の三期に屬するは彼れのイデア論が其の形を成し而して漸々其の論理的方面より轉じて目的論を形づくるに至れる時代の著作にして『ファイドーン』、『フィレーボス』、『クリティアス』、『ティマイオス』等これに屬す。此等の著述はプラトーンが第三回シシリー漫遊の前後に成れるものと見て差支なかるべし。此等に於いては明らかにピタゴラス學徒の影響を認むることを得。
プラトーンが老後の著作として見るべきは『ノモイ』(法律)なり、これに於いて彼れがイデア論は全然ピタゴラス學派の數論によりて改造せられたり。此の『ノモイ』を以て彼れが最後の著作と見るを得べし。
ディアレクティック
《プラトーン哲學の出立點と新哲學の組織。》〔四〕プラトーンが哲學の出立點はソークラテースが知見を明らかにし以て道德を樹てむと志したる所にあり。前に述べたるが如く不完全なるソークラテース學徒等も多少師の敎學に影響せられたる所あれども未だ能く其の本旨を十分に看取してこれを受け繼げる者とはいふべからず。プラトーンは實に之れを繼ぎて其の哲學の大眼目となせり。
ソークラテースは吾人の知識を以て事物の遍通不易の性を看取するに在るものとなしたれども如何にして斯かる知識のあり得べきかに就きては未だ滿足なる說明を爲さず即ち未だ十分の意識を以てプロータゴラスの知識論に對し之れを破りて自家を立するに足る程の說明を與へざりき。ソークラテースは斯かる純然たる知識上の硏究に心を潜めずして寧ろ其の目的たる道德論に奔りたり。彼れは自己の堅固なる道德的確信に基づきて道德を樹てむにはかくの如き知識なかるべからずと考へ此の故を以て斯くの如き知識は眞實有り得べく、無かるべからず、又吾人の達し得るものならざるべからずと信じて疑はざりき。プラトーンは此の問題を採り來たりて深く知識論に入り十分の意識を以てプロータゴラスに對したり。
かくの如く其の師の敎學の大主眼は是れ即ちプラトーンが攷究の出立點なるが之れより打ち立ちて哲學の大組織を成就せむが爲め彼れは更に眼をソークラテース以前の諸家の思想に放てり。在來の希臘哲學の肝要なる思想は凡べて彼れが眼界に入り來たれり。彼れは此等諸〻の思想を攝取してソークラテースに於いては見るべからざりし大組織を成し在來の諸說とは大いに其の面白を異にしたる新哲學を打ち立てたり。在來の學說中稍〻プラトーンの大組織と肩を比べ得べきものは時代に於いても彼れに接近したるデーモクリトスのアトム論あるのみ。
《プラトーン學の大體の趣向。》〔五〕ソークラテースは哲學の硏究の精神、方法に於いて新生面を發揮したれども未だこれを特に硏究法としては說かざりき。プラトーンに至りては硏究法の論理上の手續きは其の師に於けるよりも更に明らかに自覺せられたり。されど前にも云へる如く彼れの著作は大抵對話篇にして論述する事柄を嚴密に區劃せざるが故に其の哲學組織の部分順序等に就きては彼れ自ら明示する所あらず。唯だ其の所說の全體を見、また後にアリストテレースに至りて更に明らかになれる所の區別より見ればプラトーンの哲學は之れをディアレクティック、物理論、倫理論の三部分より成れりと見て可なるべし。但し此の三部分はプラトーンが哲學の組織に於いて皆同等の價値を有せるにあらず後にも陳ベむとする如く物理論は他の二部分に對して寧ろ附屬物たるの位置に在り。プラトーンは數學を貴びたれどもそは唯だこれを哲學硏究の準備と爲したるにて哲學の一部と見たるにあらず。彼れはまた音樂及び體操を以て吾人が心身の修養に缺く可からざるものと見たり。以上はプラトーン學の大體の趣向なり。
《ディアレクティックと槪念の組織。》〔六〕請ふ先づディアレクティックより述べむ。プラトーンが知識論の主眼はプロータゴラスに對してソークラテースの所謂槪念的知識の有り得べく又達し得べきものなることを說かむとするに在り。之れを說かむとしたる究極の根據はもとより其の師に於けると同じく倫理道德上の要求に在り。而して其の要求に應ずる眞知識を秩序的に形づくる方法是れ即ち彼れが所謂ディアレクティック(διαλεκτική μέθοδος)にして語を換ふれば事物の遍通不易なる眞相を看取して槪念を形づくる方法これなり。其の方法としてプラトーンはソークラテースの旣に用ゐたりし歸納的硏究法(即ち個々の事物を蒐集比較して其の眞性を看取する槪念を形づくること)に加へて更にまた已に得たる槪念を確むる方法をも說けり即ち得たる槪念より出で來たるべき事柄を論じ出だしそを已に確實として知られたる事柄と照らし合はせ兩者の相合するによりて更に其の槪念を確むること是れなり。前なるは個々の事物より槪念へ上る方ともいふべく後なるは槪念より個々の事物へ下る方ともいふべし。要するに是れ各種類の事物につき各種の槪念を形づくる方法なるが之れと共にプラトーンが相離さずして又新たに明らかに自覺して用ゐたりしは槪念と槪念との關係を見、其の合ふと合はざるとによりて之れを分かち行く方法是れなり、之れを約言すれば是れ即ち槪念の組織を形づくる方法にして以て如何なる槪念が同列に位して自他の差別をなし、如何なる槪念が上下の關係をなして一が他に屬するかを見むとするなり。例へば植物と動物とは其の間に同列の關係あるが故に相互に自他の差別をなして植物は動物にあらず動物は植物にあらず然れども共に生物に對しては上下の關係をなして植物も生物なり、動物も生物なるが如し。
《槪念的知識即ち眞知識なり。》〔七〕かくの如き槪念の組織を形づくる是れ即ち吾人の知識を形づくるなり。斯くの如き知識は事物の遍通不易なる本質(οὐσία)を得るものなればプロータゴラスの說くが如き念々刻々に變はり行く五官の感覺とは異なり。プラトーンの論ぜむと欲する所はかくの如き槪念的知識が是れ即ち眞知識にして五官の感覺は眞知識にあらずといふことにあり。おもへらく、感官上の知覺(αἴσθησις)は變化生滅の世界に懸かれる一時々々のものに過ぎず以て遍通不易のもの即ち事物の理法を知るに足らず。俗識(δόξα)亦是れ眞知識に非ず、そは俗識は五官の感覺と異なりて多少事物につきて考定する所あるものなれども未だ明瞭に其の理を看取せざるものなれば也。ソークラテースが自ら顧みて自家の無知を白狀したるは此等五官の感覺及び俗識の未だ以て眞知識と爲すに足らざるを知りたれば也。眞正の知識を得るもの即ち理智(νόησις)は明瞭に事物の遍通不易なる本性を看取するものならざるべからず。
斯くしてプラトーンはソークラテースの立塲に據りて眞正の知識は事物の遍通不易なる本性を知るに在りと主張するのみならず、また斯かる知識を在り得ざるものと論じたるプロータゴラスの知識論を根柢より覆さむと試みたり。彼れ論じて曰はく、若し五官の感覺其の者が知識にして感覺以外に眞知なくば見ゆると在るとは同一ならざるべからず。若しかくの如しとせば知識は畢竟時々刻々の感覺即ち各人に見えたる有樣に止まりて在らゆる論議はすべて主觀的又個人的のものとなり了はらむ。即ち是非眞否の區別はこゝに全く廢れて時々刻々個人の五官に現はれたる
《理智の對境はイデアなり。》〔八〕件の眞知識を得るには感官以上の働きに依らざるべからず何となれば五官の感ずる所は常に流轉變化して定まり無きものなればこれを以ては事物の永恒の理法を看取し得べからざれば也。これを看取するものは感官上の働きならぬ心性作用即ち理智なり。此の理智の對境となる者をばプラトーンはアイドス(εἶδος)と名づけたり、又之れに名づくるにイデア(ἰδέα)と云ふ語をも用ゐたり、又之れをウジア(οὐσία 本質又は本體)又(αὐτό κᾶθά αὐτό)(自存、自性)と名づけたり。これをプラトーンが哲學の骨髓なるイデア論となす。彼れの謂ふイデアは哲學史家の屢〻云へる如く恰もソークラテースの所謂槪念をして客觀的に形而上の存在を有せしめたるものと見るべし。而して此の如きイデアを心に看取する方法これ硏究法としてのディアレクティックなり、イデアの何たるかを論ずるもの是れ形而上學のディアレクティックなり。
《イデア論の由來、其の四要素。》〔九〕プラトーンがイデア論の由來を尋ぬれば四ツの要素ありといふを得べし。(一)ソークラテースの敎學及び(二)之れに對するプロータゴラスの知識論(三)エレア學派の實有論及び(四)之れに對するヘーラクライトスの流轉論是れなり。プラトーンはヘーラクライトスが所謂流轉變化の世界を自家の學說に取り入れて之れを吾人の感官に現はれたる世界と見たり。語を換ふればプロータゴラスが知識論に謂ふ所を以て此の變化流轉の世界の事なりと見たるなり。彼れはまた更に之れに對してエレア派の思想を取り入れてその所謂常住不變なるものを眞實體と見、而して之れを看取するもの是れ即ちソークラテースの所謂槪念的知識なりとせり。之れを要するにプラトーンのイデア論はプロータゴラスの謂ふ感官の知覺とヘーラクライトスの謂ふ變化の世界とを結び、ソークラテースの謂ふ知識とエレア學派の謂ふ實有とを結びたるものなり。後なる結合は前にメガラ學派の試みたる所なれど、そはプラトーンに於いて始めて有効なる結果を來たせり。看るべし在來の希臘哲學の諸種の大思想が如何に彼れによりて採擇融化せられたるかを。かくして成れる新組織が是れ即ちプラトーンのイデア論、彼れが哲學の基礎なり。吾人はプラトーンに於いて常住不變なる實體界(οὐσία)と變化流轉の生滅界(γένεσις)との對峙が始めて明らかに思ひ浮かべられたるを見る也。
《イデア論。》〔十〕此の常住不變の實體界これ實有にして生滅の世界是れ非實有なり。而して實有の界はイデアの界なり。右開陳せる所に從うてイデアの何なるかを約言すればイデアは感覺以上の者、形體ならぬ者、個々物をして一種類を爲さしむるもの即ちそれに遍通なるもの、統一的のもの、常住不變のものなり又個物の多なるに對して一なるもの(μονάς)なれどエレア派のいふが如き抽象的の一にあらず事物の種類の相異なるは相異なるイデアあればなり。而してイデアの相互の關係は前に云へる槪念の關係を成り立たしむる模型なり、即ち同列と上下との關係を保ちて、同列のイデアは相互に自他の關係を爲し各〻自らに對しては有他に對しては非有なり盖し各イデアは自存する實有のものなれど同列にある他のイデアにあらざれば也。而して吾人が知識を形づくるに於いて一槪念と他の槪念との相結ばるゝ所以は盖し下なるイデアは上なるイデアに從屬してそれに統括せらるればなり。故に二個の槪念を繫ぎて彼れは此れなりと云ひ得る也例へば動物又植物は生物なりと云ひ得るが如し。かくの如く同列のものは互に自他の關係を爲し上下のものは下が上に屬しこれに與かるによりて存在するの關係を爲せる是れ即ちイデアの組織にしてかゝる組織を有するイデア界是れ即ち實體の界なり。
《イデア論つづき。》〔十二〕打ち見たる所プラトーンが謂ふイデアの相互の關係は論理學者の所謂外延と內包とに於いて槪念が互に廣狹上下を爲す關係の如く上り行くに從ひて外延の廣くなる代はりに內包の貧しくなるが如く思はるれど是れ決して彼れの眞意にあらず。彼れの所謂槪念は分析抽象の結果ならずして寧ろ事物の眞性實相を直觀したるものなり。故に其のイデアの階級を上り行くに從ひて其の內容の貧しくならざるのみか却て益〻深く事物の眞相に分け入り却りて益〻多くの事物を成り立たしむる其の實性に到達するなり。生滅界の個々物は唯だイデアに與る所あるによりて僅かに其の事相、其の存在を有するもの、イデアの全體を宿せるものにあらず。されば個々物は唯だイデアの影を示すことによりてイデア其の物を吾人の心に思ひ浮かべしむる緣となるのみ。語を換へて之れを言へば個々物は依りて以てイデアを知るべき充分なる原因にあらずして唯だ心理的動機となるのみ。イデアを知るべき知識の眞因は尙ほ之れを他處に求めざるべからず。プラトーン以爲へらく、吾人の心性はイデアの知識を本具せるものなり、イデアを知る知識は本來吾人の心性に具はれるものなれども今は忘られていはば唯だ心底に潜めるなり、個々物を見るの要は此の忘られて潜み居るイデアの知識を再び思ひ起こす(ἀνάμνησις)の緣を供するに在りと。故にプラトーンに從へば吾人が眞知識を得るは未だ曾て吾人の具へざりし者を得るに非ずして曾て知れるものを再び思ひ起こすなり。さきにソークラテースが人を敎ふるに當たりて、他に新らしき知識を注ぎ入るゝにあらず他をして自ら知識を產み出ださしむる手傅ひを爲すのみなりと云へる其の產婆術がプラトーンに於いて如何に變形して幽玄なる思想となれるかを見よ。
プラトーン以爲へらく、上述の如く吾人が本然の性は、もとイデアを知らざるにあらずしてただ、今これを忘れたるに過ぎざるが故に吾人の心性には何となくイデアを思ひ起こさむとカむる傾向即ちイデアを慕ひ求むる心あり。凡そ善美なるものを愛慕する心の吾が心性に存するは此のゆゑなりと。是れプラトーンの有名なるエロース(ἔρως 戀愛)論なり。吾人が件のイデアを慕ひ求むる心は下等の狀態に於いては形體美を愛する心(即ち俗に謂ふ戀愛)として現はるれど其の最も高尙なる段階に進めば是れ即ち眞、善、美そのものを觀むと欲する哲學硏究の心なり。哲學の起こる吾人に此のエロースあるに基づけり。
《イデア論つづき。》〔十二〕プラトーンがイデア論の要は上に述べたるが如し。更に進みて幾何のイデアありて同列上下の關係をなせるかは彼れ自らもこれを詳說せず。思ふに委細に之れを考へむとせば大なる困難に會はざるを得ざるべし。第一にすべて普通名詞を下し得るところには皆イデアあるか否かの難問に接せざるべからず。一切の事物、善惡、高下、美醜の如何に拘らず、又事物の關係、性質等抽象的槪念に至るまでも悉皆それのイデアありや否や。プラトーン初めは凡べて普通名詞を用ゐ得る所には悉くイデアありと考へたりしが如し。之れを例せば糞土には糞土のイデアあり、大小の關係には大小といふイデアあり、醜惡の性質には醜惡といふイデアありと考へたりしが如し。されど後には唯だ價値あるもの即ち善美なるもの及び定相ある自然物及び數理的關係(例へば一二の如き)にのみイデアの存在を許したり(『シムポジオン』『ファイドーン』『ティマイオス』等)。またアリストテレースの言によればプラトーンは晚年に至りては人間の製作物及び否定缺乏を意味するもの及び事物の關係にはイデアを承認せざりきとぞ。
斯くの如くプラトーンのイデアに關する思想の變遷發達したることは明らかなる事實なり。其の當初イデアを論ずるや主として之れを論理的關係より見たりしが後には次第に目的上即ち價値上の關係より觀察することとなり其のイデア論は次第に理想論として形づくらるゝに至れり。以爲へらく實有なるものは理想なり善美なる理想これ即ちイデアなりと。是に於いてか彼れは善美ならぬ者の實體に於ける存在を承認せざるに至れり即ち前に論理的に考へたる事物の種類の槪念としてよりも寧ろ善美なる理想としてイデアを見るに至れり。ソークラテースの弟子として究極は道德的眼孔を以て世界を眺めたるプラトーンのイデア論が是に至りて理想論となれるは其の當さに行くべかりし處へゆけるものと謂ふべし。
《イデアと個々物との關係。》〔十三〕尙ほ他にプラトーンのイデア論をして益〻理想論又目的論の性質を露はさしめたるは其の論に於いて最も說明を要する點なるイデアと個々物と即ち實體界と生滅界との關係なり。プラトーン以爲へらく、個々物即ち生滅界は全くイデアを含むものに非ずして唯だイデアの摸倣(μίμησις)なり、唯だイデアに似よれるのみにして如實のものに非ず。イデアは原型(παραδειγμα)にして感覺界の個物はそが影像(εἴδωλον)なり。故に生滅界は實有の世界に對すれば非實有の世界なり、實物に對してはそれが影の如き世界なり、非實有の世界にして尙ほ幾多事物の相を現はすは唯だ其が覺束なくも多少イデアに與り(μετέχειν)居れるがゆゑなり。而して個々物の常に生滅流轉して極まりなきは其の恒久にイデアを宿さざるによる、イデアが或はそれに來たり或はそれを去るによる。イデア來たりて個々物に宿れば其の物よく其の事相を現はしイデア去りゆけばすなはち其の物其の相を沒す。斯くして個々物の界は無常なり。
《イデアは現象界の原因なり、目的なり。》〔十四〕かくの如く說かばイデアを以て現象界の原因(αιτία)と見做さざる可からず。然れども件の原因てふ意味はプラトーンに於いては目的(τέλος)と同一なり。惟へらく、個々物を生ずる原因は善美なる目的にあり。善美なる理想是れ即ち萬物の極致、此の極致是れ其の目的、此の目的是れ即ちイデアにして現象界の諸物は其の目的の故を以て生じ又滅する也。イデア其の物は活動變化の中に在らず常住不變の性を具ふれど唯だ其が善美なる目的たるの故を以て個々物の界に其の相を現はすなり。されど其れが個々物の上に現ずるや唯だ一時そが覺束なき影を宿せるのみ、圓滿に其が眞相を宿すこと能はざるを以て個々物は常に變化流轉の中に漂ふなりと。是に於いてか吾人は曾てアナクサゴーラスにほの見えたる目的說がプラトーンに於いて最もよく其の形を成せるを見る也。
かく眞實存在するものは善なるものに外ならずといふ論據よりプラトーンはイデア組織の頂上に善と云ふイデアを置きて之れを神明とも名づけたり。又これを萬象を顯照する太陽に譬へたり。プラトーンが此くの如く善てふイデアをイデア界の頂上に置き之れを以て萬象の究極原因となせるは之れをソークラテースの思想に結び附くれば其の由來更に明らかなるべし。ソークラテースが事物を觀察するや專ら道德論の立塲にありてしたるが故に其の著眼の點はおのづから其の事物をしかあらしむる所以の職分に在りき。以爲へらく、畫工の畫工たる所は能く畫くことに在り、治者の治者たる所は能く民を治むるに在り、之れと等しく手足の手足たり、眼耳の眼耳たる所は皆それぞれの職分を盡くす所に在りと。かゝる
斯くしてイデアの上下の關係は論理的なるよりも寧ろ目的上の關係となりぬ。而して事物存在の眞因は其が極致理想たる目的に在りとせらる。通常所謂事物の生因(形體に現はれたる個々物間の生起上の關係)は寧ろ其が生起の緣たり、手續たるに過ぎず。是に於いて古來理想論の一大模型と見らるゝプラトーンの哲學は成り上がれり。
《イデアは何故に個々物に現ずるか、有と非有と。》〔十五〕こゝに問ふべきはイデアが何故に個々物界に覺束なく其の痕跡を宿すに止まるか、畢竟個々物の存在する理由は如何と云ふことなり。若し實有なるものがイデアのみならむには如何で其の外に個々物の界はあるぞ。假令實現すべき目的が理想界にあればとて之れを實現せむとする個物界は何故に存在するぞ。個物界存在の理由は上來の論を以ては未だ說き得たりといふべからず。是の故にプラトーンは實有なるイデアに對して非有(μή ὃν)を持ち來たれり。以爲へらく、個々物が唯だイデアの覺束なき影を寫すに止まるは非有に妨げらるればなり換言すれば個物界はイデア(有)と非有との結合によりて成れりと。
プラトーンがこゝにいはゆる非有の何なるかに就いては哲學史家其の解釋に困しむ。ツェラーは之れを解してエレア派の所謂非有即ち空間(虛空)を意味せるものとなせり。空間は是れ形なくしてしかも凡べての形を取り得るもの、物體が其の形を現はし得る處なり。プラトーンが『フィレーボス』に於いて二元說(即ち定限なき、從ひて形なきもの(ἄπειρον)と、これに形を與へて個々の形體を成さしむる者(πέρας)即ち數理的關係と)を說ける所は、まさしくピタゴラス派の說を取れるもの而してかく彼れの說が漸々ピタゴラス派の說に近づき來たれる所にては其の所謂非有は次第に其の派の所謂アパイロン(無定限)無定限と同じきものとなり從ひて虛空と同一のものとなる傾向を有せりと見るを得べし。エレア學派に謂ふ非有並びにピタゴラス學派に謂ふアパイロンと、プラトーンの謂ふ非有とは親密なる關係を有せるものなるや疑ひなからむ。尙ほプラトーンは其の謂ふ非有と虛空とを明らかに同一視したりとまでは云ひ難しとするも非有は兎に角定相なき者即ち有(イデア)の反對にして從ひてイデアにつきて云ひ得る事の反對を云ひ(即ち消極的に說明し得る)に過ぎずと考へたりしならむ。プラトーンが非有の何たるかを說くことの明らかならざりしは其が論據の當然の結果なりと云ふを得べし。定相なき非有は明瞭に形容し得べきものにあらず何となれば彼れに從へば明瞭なる知識の對境となる所のものはイデアのみなるを以て、そが反對なる非有は明瞭なる知識の對境となす可からず從ひて消極的說明を用ゐるに止めざる可からざれば也。
ピタゴラス學派の說を攝取し來たるに從ひてプラトーンは益〻數理的關係を容れ其の媒介に依りてイデアが形體に現ずと樣に說くに至れり。以爲へらく、數理的關係は有と非有との間に介して空間に於ける形體を有する個物を現ずと。
《イデア論とピタゴラス派の數論と。》〔十六〕プラトーン晚年に及びては益〻ピタゴラス派の所說を入れイデアと此の派の所謂數との關係をしていよ〳〵親密ならしめたり。彼れは遂に此の派の所謂太一と彼れの謂へる善のイデアとを同一視し更に此の派の謂ふ奇偶即ち定不定の對峙と彼れの謂ふ有(イデア)非有の對峙とを同じきもののやうに說くに至れり。是に至りては彼れがイデア論は其の本來の面目を改めてピタゴラス派の數論に化せられたりといふも不可なし。
《イデアと現象界との關係。》〔十七〕プラトーンはイデアを實有としこれに對したる他のもの(τὸ ἕτερος)を非有と名づけたれども其の非有も有に對して在るものと見ざる可からざるが故に畢竟ずるに彼れの說は二元論となれりと云ふ批評は免れざるべし。イデアは個々物の界に全くは實現されずと說けるはイデアの存在を妨ぐるもののイデア以外に存することを示し又イデアを以て個物界に現はれむとする活力あるものの如くに考へざる可からざることを示さずや。プラトーンはイデアそれ自身を活動力と見ず又そを原因と名づくるも畢竟目的といふ意味にての原因に外ならずと說けども、そが動カ的原因たるの方面を持ち來たらずして能く生滅界の存在する所以を說き得べしや。全く此の方面を持ち來たらずしてはイデアの去來といふことも遂に無意義なるものとならむ。對話篇『ソフィスト』に於いては實際此の問題を提起してイデアを動力的原因と見ざる可からざることをほのめかしあり,即ちこゝにイデアを實體(ὄντως ὄν)と見るのみならず其の實體を動カあるもの(δύναμις)と見ざるべからずといふ論の緖を開きあるなり(但しこれはプラトーン自家の思想を表出せるものなるか否かに就いては史家其の意見を異にす)。
かくの如くプラトーンのイデア論は現象界を說くに及びて多くの困難に逢ふことを免れず。若し此の現象界を以て實在するものにあらずとし其の恰も實在するが如く見ゆるは吾人が感官の見樣の不完全なるによるとせば一應プラトーンの說に於ける困難を取り除き得るが如く思はる。而してプラトーンはまさしく現象界を以て全く吾人の主觀に存する現象に外ならずと視たりと說く哲學史家もなきにあらず、プラトーンが語のかゝる意味に解せらるゝ
《イデア論とデーモクリトスの說との比較。》〔十八〕プラトーンの謂ふイデア論は更に說明を要すべき點少なからざれど要するに感官以上の實有界と感覺界との兩界を明らかに區別せるは是れ彼れが哲學の樞軸にしてまた哲學史上に一大潮流を開始せるもの也。而して彼れの哲學に對して正反對の立脚地を占めたる者と見るべきはデーモクリトスなり。デーモクリトスの說ける所は明瞭なる機械的唯物論なり。プラトーン學は希臘哲學に於いて始めて明らかに物體以上のものの存在を說きてそを實有の界とし却りて形體の界を實有ならぬものとせり而して其は目的說なり理想論なり。彼れの學說はかくデーモクリトスのと兩々相對して西洋哲學思想の二大潮流の源頭に立てる者なるが、其が學說の間にまたその趣の一致せる所あるを見るは奇ならずや。先づプロータゴラスの說に對する關係を檢すれば二者ともに彼れが知識論を取り入れたる趣に相比すべきものあるを見る。デーモクリトスは之れを攝取して吾人の五官上に現はるゝ感覺をば全く主觀的なりと見て曰はく、眞正の知識は感官を以て觀る可からざるアトムを知るに存す一切の物はアトムを以て成る而してアトムは唯だ空間を充たして形に於いて相異なるもの即ち形(ἰδέα)が其の本質本性を成せるものにして是れ眞に實有なるものなりと。かくて彼れは感官的知覺と理性的知識とを別かち、前者は物の實相を示さず、これを示すは唯だ後者のみなりとせり。看るべしデーモクリトスは唯物論者にしてまた理性論者なるを。彼れのアトム論は一種の純理哲學なり。プラトーンも同じくプロータゴラスの知識論を攝取してその所謂感覺界を實有ならぬ生滅界のものとしこれを實有なるイデア界と別かてるは前に述べしが如し。デーモクリトスの謂ふアトムは空間に存在するもの、プラトーンの謂ふイデアは物體ならぬもの、然れども二者ともにかたちといふ語を以て其の特性を言ひ表はせるは奇ならずや。〈プラトーンの多く用ゐたるアイドス εἶδος といふ語はもと見るといふ詞より來たり凡べて見ゆるもの、殊にかたちを意味し從うて若干の事物が一定の象を具へて一種類を成せるに名づけらる、又彼れが時に用ゐたるイデア ἰδέα といふ語も右と同じき起原を有して一物のみえを意味し從うて性又は種といふ意義に用ゐらる、故にアイドス又はイデアは相と飜して可なるべし。〉且つ又デーモクリトスが虛空と形とを具えたるアトムとの二者を以て個物界の生起を說明せるはプラトーンが非有と定相を具へたるイデアとを以て生滅界の現存を說けるに似たり。
物理論
《プラトーンの物理論。》〔十九〕上にも云へる如くイデアと非有とが相合して生滅變化の世界の成立する所是れプラトーンの哲學に於いて最も解し難き所なり。されば彼れが自然界の哲學を述べたるものと見るべき對話篇『ティマイオス』には多く譬喩を以て其の物理の論を展開せり。かく彼れが物理哲學に於いて譬喩を用ゐしは彼れに取りて必ずしも咎むべきことにはあらざるべし。そは彼れに從へば明瞭なる知識の對境となるべきものは唯だイデア界のみにして生滅變化の自然界に就きては吾人は唯だ覺束なき知識即ち臆說(πίστις)〈是れは俗識即ち δόξα の一種なり〉を形づくり得るのみ、畢竟自然界に對しては吾人は明瞭なる學理的知識を得べからず自然界の硏究は唯だ或然的知識に達し得るのみ遍通必然の知識に到達すべからず、自然界の面は定相なき非有なればなり。
《其の『ティマイオス』に說ける所、造化主、萬有の靈。》〔二〇〕プラトーンが『ティマイオス』に說ける所は何處まで譬喩にして何處より然らざるかは辯別し易からず。曰はく造化主(デーミウルゴス、δημιουργός)ありて彼れは一方にイデア即ち萬物の模型を取り他方に定相なき非有を取りて最初に「萬有の靈」を造りたり。此の萬有の靈は諸物の生氣及び精神の本にして凡べてのものを形づくる活動力なり。此の靈先づ地水火風の四元を形づくり天體を形づくり其の他生あるものに至るまであらゆる萬物を形づくれり。此の靈宇宙に瀰漫して何處にても秩序と道理との本元なり。世界が圓滿なる形をなして圓かに回轉するは此の靈あればなり。世界の外圍は恒星の天にして五個の遊星と太陽及び月とが其の下に位し此等皆相伴ひて地球の周圍を廻る。地球は球形をなして世界の中央に位す。
《其の物理說に於けるピタゴラス學派の影響。》〔二一〕プラトーンが天文の說に於いては明らかにピタゴラス學派の影響を見る。又物理の論に於いてもこれを見る。彼れが形體の構造を說くや萬有の靈が數理的關係に從ひて働くと云へる、又四元素が平面を以て組成さるゝことを說ける、是れ明らかにピタゴラス學派の說に取れる所ある也。彼れ以爲へらく、地水火風の四元素は皆平面の相重なりて成れるもの唯だ其の平面の形と大さと其の相重なる數とによりて四種の區別は生ずと。是れ即ち凡べての物理的及び化學的性質の差別を幾何學上の差別に歸せむとするものなり。火は三角形の四面體、地は正方形の六面體,空氣(風)は等邊三角形の八面體、水は等邊三角形の二十面體なりと說ける是れまた當時ピタゴラス學徒の唱へたる所なりと知らる。
《其の心理說。》〔二二〕尙ほプラトーンは自然界の有生氣的及び有意識的現象を說いて曰はく、生物殊に人間に於いて更に能く萬有の靈の働きを看る、人間の精神は此の靈の宿れるもの然れども此の靈が是れ已に純粹のイデアにあらずして非有に關はる所あるが如く人間の精神も亦一面イデアに與れると共に他面に於いては形骸に結ばれたる所ありと。是れプラトーンが心理說の根本思想なり。然れども彼れが心理說は其の自然界の論に根據すといはむよりも寧ろ其の知識論及び倫理說に基づけりと謂ふべし。啻に心理說のみならず其が自然界の論全體が(ヸンデルバンドの云へる如く)其の哲學の他の部分と相等しき位置を有せずして寧ろ其の附屬物たるが如き觀あり。ヸンデルバンドが之れをパルメ二デースの假設的物理論に比したるも全く理りなきことに非ず。蓋しプラトーンが哲學の動機は物理的硏究に在らずして寧ろソークラテースを繼承したる知識及び倫理の硏究に存するがゆゑにそが知識論の結果として成り上がれるイデア論及びそが學說全體の究極の目的ともいふべき倫理說は彼れが哲學の骨髓を成せるものなりと謂うて可ならむ。彼れが哲學の價値は到底そが物理論の方面に存せざるなり。
倫理說
《プラトーンの倫理說、靈魂と肉體。》〔二三〕プラトーンに從へば吾人の靈魂は生以前より存し死以後に於いても亦滅することなし、現世の生活は此の靈魂の肉體に宿れる也。蓋し彼れが靈魂の過去存在を說けるは其の由來そが知識論にあり。彼れ云へらく、イデアの知識は吾人に取りて全く新しきものを得るにあらずして吾人の本來有せしを再び想ひ起こすにありと。彼れが吾人の靈魂は現身に宿る以前に肉體に蔽はれざる狀態にありて純粹の理智を以て眼のあたりイデアを觀じ居たるなりと說けるは件の知識論より出でたるなり。また彼れが死後に於ける靈魂の存在を說けるもイデアを慕ひ求むる吾人の心性を根據とせり。おもへらく、吾人は現世に在りて全くイデアを觀じて滿足するに至るを必すべからず、故に吾人の心性を全からしめむには未來の存在なかるべからずと。盖し死後に至るまで理想を慕ひ求むることの休まざる心性の要求是れプラトーンが靈魂死後の存在を說ける根據なり。而して生以前及び死以後に於ける靈魂存在の說は又素とより彼れが道德論上の動機に基づける所あり。盖し彼れは輪廻轉生と善惡應報とを相結びて以爲へらく、靈魂前世に於いて過ちあれば現世に墮落して肉身に宿る、吾人若し現世に於いて理想を追慕し善行を積まば死後には更に高等なる存在に入るを得べし、若し惡業を積み陋劣なる生活を爲さば未來に於いて更に甚だしく墮落すべしと。プラトーンは現世に於いて罪惡を犯しゝ者は來世に於いて禽獸界に墮落すべしと說きて仔細に罪惡の種類と墮落すべき境界の種類とを列擧したるが、これは固より譬喩を混じたる說ならむ。
吾人の靈魂が何故に墮落して肉身に宿れるかの理由に就きてはプラトーンの說明一定せず。約めて云へば、吾人の靈魂は素より純粹のイデアならずして已に多少非有に與かる所あり從ひて物界即ち感官界に引かるゝ傾向あるが故にこの傾きの强きものが墮落して肉身に宿れりといふ說明最も重きを爲せるが如く思はる。
《靈魂の肉體に宿れる狀態の二方面。》〔二四〕吾人の靈魂が肉體に宿れる狀態に於いては二つの方面あり。一は理想界に向かふ方面、他は肉身に繫がれて身體の生氣となる方面なり。是の故にプラトーンは吾人の精神に於ける部分を區別せり。但し或對話篇(『ポリタイア』、『ファイドロス』及び『ファイドーン』等)に於いては精神の部分といふも同一靈魂の活動にして畢竟一心に於ける種々の作用に外ならずと說けるに止まりたれども『ティマイオス』に至りてはー轉して尊き部分と卑しき部分との相分離し得べきことを說けり、即ち精神の部分を明らかに部分(μερή)として說くに至れり。以爲へらく、尊き部分は肉體を離れて存在し得るもの是れ純粹の理性(λογιστικόν)にしてイデアを觀ずるものなり。他の部分は吾人の靈魂が肉身に繫がり居る故を以て存するものにして其の中更に上下の區別あり。下なるは物欲(ἐπιθυμητικόν)にして上なるは氣慨(θυµοειδες)なり。氣慨は恰も理性と物欲との中間に立てども物欲と共に肉體に屬し肉體を離れて存するものに非ずと。
《其の倫理說の二面、解脫的方面と倫理的方面。》〔二五〕かくの如く吾人の現世に在るや吾が精神的作用に兩面を具して一は理想界に向かひ他は肉體に繫がる。是に於いてプラトーンの倫理說に二つの方面を生ず。一は解脫の方面、即ち肉身及び肉身に屬するものの覊絆を脫して只管に理想界に上るの方面にしてこれにはおのづから厭世的傾向の存するを見る。プラトーンが哲學の一面に形骸を卑しみて解脫を求むる傾きの存在することは明らかなり。然れども其の道德論は此の解脫的方面のみを以て成れるにあらず、また希臘思想の特質なる美術的趣味を帶べり。此の方面より見れば彼れの道德論は吾人の享け得たる諸能(即ち吾人の性)を全うしそを宜しきに從ひて發達せしめ吾人の生活に優美なる調和を現ずるを要すとなす。即ち彼れの思想よりすれば一見ひたぶるに形骸を脫することを求むるが如くなれどまた必ずしもしか說くを要せず、そは肉體を棄てずして却つて吾人の生活にイデアの現ぜむことを力むべしと說く餘地あればなり。一言に云へば形骸を脫してイデアを求むる方面と共に又能く形骸に於ける生活にイデアを實現せしめむと力むる方面を存するなり。而して何れの方面に於いてもプラトーンの立塲は主知說なり。以爲へらく、吾人の知見明らかにして初めて解脫を成し得べく、理性主宰となり宜しきに從ひて他を導くによりて始めて吾が現世の生活に優美なる調和を來たすを得べしと。即ち此の主知說に於いてもプラトーンはソークラテースの弟子なり。
《幸福は有德なる生活によりて全うせらる。》〔二六〕吾人の幸福は有德なる生活によりて始めて全うせらるべしと說ける所是れ亦プラトーンがソークラテースの思想を繼承したる所なり。說いて日はく、有德なる生活は吾人の靈性を全くするに在り唯だ快樂を求むることにあらず。快樂を以て吾人が生活の支配者となすべからず。何となれば快樂は定まりなきもの、或は有り或は無く、其の度を過ごせば却つて苦痛を來たすものなればなり。又肉體の快樂は多く苦痛と相離るゝ能はず盖し先づ缺乏の苦痛ありそが除去さるゝことに始めて快感を感ずる塲合多し。これを要するに快樂以外に吾人の生活を支配するものなかるべからず。何ぞや。知見即ち是れなり。凡そ事物の過不及を酌量して秩序を保ち美はしき調和を來たすは唯だ知見これを能くす。吾人が心の諸性能は知見に導かれて始めて圓滿に活動するを得るなり。靈魂の健かに働くこと是れ即ち德なりと。伹しプラトーンは快樂が吾人の幸福の一要素を爲すことを否まず、ただ幸福の要素の主なるものは知見なり快樂にあらずと說けるなり。
《四大德、智、勇、節制、公正。》〔二七〕吾人精神の諸性能が知見の指導に從ひ圓滿に働くことによりて前に云へる靈魂の三部分は各〻特殊なる德を具へ來たる。凡べてを支配する知見はもとより理性の作用なり。理性がその看取するイデアに從うて他を支配するは智(σοφία)の德なり。理性に從うて氣慨が其の所を守るは勇(ἀνδρεία)なり。物欲が理性に從うて其の所を守るは節制又は克己(σωφροσύνη)の德なり。言を換へて云へば節制は身體を養ふことに於ける德、勇は理性の命令に徇うて奮起勇往するの德なり。而してプラトーンは右の三者が各〻其の所を得て適宜に活働する全體に公正(δικαιοσύνη)の德現はると說けり。德は報いのために行ふものにあらず德それ自身が其の報酬なり。此の四大德の說が西洋に於いて後世に至るまで久しく倫理學上の定論と見做されたるは恰も五常又は四德の說の儒家に於けりしが如し。プラトーンは尙ほ說いて曰はく、個人の德を修むるや唯だ孤立せる個人としては其の實行を期すること頗る難し、是れ國家の必要なる所以なりと。盖しプラトーンの道德論は其の國家論と相離れたるものにあらざる也。
《其の國家論、國家の目的、國家を組織する三階級。》〔二八〕プラトーン以爲へらく、國家は其の目的に於いて道德的なるものなり、其が眞正の目的は國家を組織する個人を敎育して有德なる生活を爲さしむるに在り。國家その物が有德なるに至りて始めて凡べての個人をして有德ならしむることを得べし。國家の道德的生活は恰も個人の道德的生活を大にせる如きものなり。故に智者の階級を以て國家組織の最上部となし、次ぎに智者の定めたる所に準據してそが實行に任ずる役人及び武人の階級あり、最下に農工商等、職業を營むものの階級あり。國家は此の三階級によりて組織せらる。立法の權を握り治平の策を講じて國家を統御するものは第一階級なる治者にして、其の指定に從ひ內ち法律の實行を計り外か外患を防ぐは第二階級なる文武官吏の職分なり、而して生產の事に從ひ其の業に安んじて社會に其の財を供する者は第三階級なる農工商なり。統治權を有する者は知見を具へ諸〻の事理に通曉せる者ならざるべからず、プラトーンの語を假れば彼等は哲學者ならざるべからず。哲人王位に在りて其の國始めて治まるべし。プラトーンが理想的國家は最優者が他を支配する國家なり。彼れは右云ふ各階級の特殊の德を其の倫理說に結びて曰はく、治者に要する特殊の德は智なり(心の性能中理性の德に當たる)、役人及び武人の德は勇にあり即ち國家のために其の職に徇ずるに在り(氣慨の德に當たる)、農工商の德は節制、即ち各〻其の業を守りて界限を超えざるに在り(物欲の德に當たる)と。
《其の敎育說。》〔二九〕プラトーンは其の國家論に基づいて大に敎育を重んじ、國家が國家のために敎有を施すべきことを說けり。然れども彼れの謂ふ敎育は上なる二階級に止まりて農工商の最下級に及ぶものに非ず。說いて曰はく、上なる二階級に屬するものは幼少より國家の學校に入りて精神及び身體の修養鍛練に從事せざるべからず。體育のためには體操を勵み精神を養ふには先づ德を立つるに益ある神話、詩歌、音樂、數學等を學ばしめ漸次哲學に入らしむべし。此の二階級は譬へば一大家族の如きものにして各人の私產を有するを許さず。結婚も各人の自由に任ずべからず須らく國家をして配偶を選定せしむべし。子生まるれば夙くより父母の家を去らしめ國家の學校に入れて敎ふべし。かくて業を了へ哲理に通じたるものは實地の經驗を經たる後齡五十に及びて始めて治者の階級に入るを得べし。而して治權を有する者は一定の年限を以て交替すべしと。プラトーンが理想的國家は大にスパルタの政體に倣へる所あり。彼れは國家に有用なる才を得むがために國民の母たる婦女子の敎育をも重んじたりき。かくの如く個人が國家といふ圑體に合體して其の全體の道德的生活を實現するは是れプラトーンの所謂國家主義にして是れ即ち其の有名なる對話篇『ポリタイア』に於いて描きたりし理想的國家の論なり。
當時希臘の社會は已に頽敗の否運に向かひて民心の結合古への如くならず個人的、自主的傾向おひ〳〵に見えそめたり。此の狀勢の中にありてプラトーンの國家論は個人が全體の爲めに合體し盡瘁する所の理想的國家を時人の眼前に揭げむとしたるものなり。彼れは決して實行すべからずと見たる空想を描きたりしにはあらず。彼れみづからは徹頭徹尾眞面目にて此の理想的國家を說きしなり。蓋しプラトーンの所謂國家は希臘當年の國家にして決して今日謂ふが如き尨大なるものにあらず、一市府即ち國家なりしことを忘るべからず。
《其の美術論及び宗敎論。》〔三〇〕國家は尙ほ國民の依るべく用ゐるべき宗敎及び美術をも定めざるべからず。但しプラトーンは大なる價値を美術に置かざりき。以爲へらく、美術は摸倣に外ならず現象界の個々物を摸寫せるものなり。而して個々物はイデアの摸倣なるが故に美術は摸倣の摸倣なり。故に美術は事物の實相を去ること頗る遠きものなりと。例へば机の書圖は唯だ其の机を一方面より見たる
宗敎につきてはプラトーンの眼界に在りしものは希臘の國敎なり。以爲へらく第三階級に屬する農工商の敎育はおもに希臘在來の宗敎を以てすべしと。然れども彼れは大に古來所傳の神話のうち德を亂す傾向あるものを排斥し從ひて此くの如き神話を歌ふ詩人を國家より放逐すべしと說けり。
《老後の著作『ノモイ』。》〔三一〕プラトーンが老後の著作なる『ノモイ』(法律)に於いて彼れが國家論は其のイデア論と共に大に改造せられ、成るべく實際に近きものとせられたると共にまた頗る折衷的のものとなり、君主獨裁政治、貴族政治、共和政治等の諸要素を其の中に混じ入れたり。但し此の對話篇に說ける所は整然たる組織を成せるものにあらず。此の篇恐らくは未定稿のものなりしならむ。
プラトーンの門弟
《プラトーンの門弟、古アカデミー。》〔三二〕プラトーンが子弟を集めたるギムナジオンの名に因みて彼れが學派をアカデミーと名づく。而してアカデミーの初期(即ちプラトーンの死後凡そ百年間許りの間)を古アカデミーと名づく。此の間此の派の學者は師說以外に特に新たに開拓せる所なく又其の師說を繼承せりと云ふもおもに彼れが晩年の思想即ちピタゴラス學派の影響を受けたるものを紹げるなり。彼等が多少獨立に硏究の步武を進めたるは其の師の學說中最も薄弱なる物理說の方面に在り。プラトーンが哲學の精神とも云ふべきイデア論及び倫理說は古アカデミーの學者によりて更に開發せられたる所なく、寧ろ彼等の著眼點は主として自然界の說明にありしなり。
《主なる門人。》〔三三〕プラトーンの死せしや其の遺言によりてアカデミーの首座を占めたりしは其の甥スポイシッポス(Σπεύσιππος)なり。スポイシッポスのアカデミーに長たるや同門なるクセノクラテース(Ξενοκράτης)及びアリストテレース相携へて亞典府を去れり。其の後クセノクラテースがスポイシッポスにつぎてアカデミーの首領となるや(時に三百九十九年)同じくプラトーンの門下なるヘーラクライデース(Ἡρακλείδης)は亞典を去り其の故鄕ポントスに歸りて自ら學校を設立せり。
《プラトーン門下の分裂。》〔三四〕プラトーンの死後其の主なる弟子の去就を以ても窺ひ得る如く其の門下に多少の分裂を生じたりしが如し。アリストテレースは後遂に別に一大學派を開くに至れり。尙ほプラトーンの學統を引ける古アカデミーの學者は上に云へる如く自然哲學の講究を以て其の思索の主要の部分となせりしが、これに關して二つの相異なれる潮流の出現せるを見る。一はスポイシッポスの取れる所、一はクセノクラテースの守れる所なり。前者はおもへらく、善美なるもの完全なるものを以て感官界即ち不完全なるものの生起する原因とは見るべからず、完全なるものは寧ろ不完全なるものの到達するによりて成就さるべき極致なり、即ち存在の順序より云へば不完全なるもの先きにして完全なるもの後に來たると。さればスポイシッポスはプラトーンの謂へる理想界と感官界との關係を進化說の立塲に在りて說明せむとしたるものと謂ふを得べし。而して之れに對して云へばクセノクラテースは發出說の立塲を取れるものの如く、完全なる「善」より始めて漸次階段をなして不完全なるものに降りゆくことを說けり、故に「萬有の靈」より降りて個々の物體の界に至るまで其の間に幾多の靈を置き、隨うて其の所說は頗る宗敎的彩色を帶び來たれり。スポイシッポスが一と多とを以て數の原素となしゝと共に又一切事物の根元と見做し且つ萬有の靈と(ピタゴラス學徒のいふ)中央火とを同一視したる、又クセノクラテースがヌウスと「一」とを同一視し「一」と不定なる二とより數出で而して其の數の取りも直さずイデアなることを說けるは、是れ兩者の共にプラトーンの晚年の思想に從ひピタゴラス學派の說を混和せむとしたりしを示すものなり。
プラトーン學派と後のピタゴラス學派とは漸々相接近して其の思想大いに相混和するに至れり。一面プラトーン學派の風あり一面ピタゴラス學徒の風ある這般學者間に於いて數學と天文學とは著るき進步をなしたり。親しくプラトーンに師事せしことあるオイドクソス(Εὔδοξος)及びフィリッポス(Φίλιππος)の如きも數學及び天文學に精しかりき。〈地球が其の軸によりて自轉すといふ說を唱へ出でたるはテオフラストスの傳ふる所に從へばシラクウサのヒケタスなり。地球の自轉すると共に太陽を廻轉すといふ說を唱へたるはサモス人アリスタルコス、また此の說に證明を附したるはエリトレ人セロイコスなりといふ。〉
《古アカデミーの傳統。》〔三五〕クセノクラテース歿して後も古アカデミーの傳統は其の首座となれるもの相承けて永く其の學派を傳へたり。凡そ希臘哲學史上特更に一學派と名づけらるゝものはミレートスに起こりしものを初めとして單に相同じき學說を懷けりしものに漠然名づけたる名稱に止まらずして、一首領を中心として相結合して其の說を繼承せる圑體に名づけられたる名稱なりしが如し。殊にピタゴラス學派は宗敎的結合の趣をも具へたる特別の團體なりしこと、さきに其の條下に云へりし所の如くなるが、又他學派中にも希臘哲學史上末期のものに至りては道德上の實際的修養を以て主要の目的となしたるものあり。プラトーン學派の如き亦初めより決して哲學的硏究と實際的生活とを分離せしめざりきと思はる。
プラトーンはアカデーマイアの園にムウザ(文藝美術の女神)の宮を設けて、之れを祭り又後には其が學徒其の園に開祖の像を建てゝ祭典を執行せり。他の學派に於いても亦同じく祭典を設けて其の學祖を紀念することをなせり。
第十五章 アリストテレース(Ἀριστοτέλης)
其の性行及び著作
《プラトーンとアリストテレースとの學相の特色。》〔一〕ソークラテースの弟子にプラトーンあり、プラトーンの門下にアリストテレースあり、此の思想界の三偉人が相踵ぎて現出せしは希臘學術史上に於ける一壯觀なり。プラトーンに於いて希臘哲學在來の主要なる思想がいかに陶冶融合せられたるかは前に述べたるが如し。又上述せる所によりてプラトーンが得意の所は普く自然界の現象を觀察してそを精細に硏究することにあらで寧ろ他に在ることを看るを得べし。アリストテレースは此の點に於いて大に其の師と面目を異にせり。彼れは自然界に關する夥多の事を採集し科學的硏究に於いて一大步を進め後世更に硏究せらるゝに至りたる諸種の科學は槪ね彼れの手によりて其の地盤を置かれ、其が原初の形を與へられきと云ふも過言にあらじ。プラトーンとアリストテレースとは其の學相に於いて趣を異にし其の長ずる所亦一ならざれど、兎に角希臘學術に於ける大綜合は後者に在りて更に一步を進めたりといふを得べく、又彼れの哲學を以て希臘學術の頂上と云はむも失當ならざるべし。
今云へる如くプラトーンとアリストテレースとは事物を思索する趣に於いて相異なる所あり。プラトーンは理想の高地に居て經驗界なる個々の事物を看下ろすが如く、アリストテレースは經驗界の個々物より出立し漸次に步を進めて理想の高きに上らむとするが如き趣あり。其の學風に於いてかゝる差別はあれど其が根本思想に於いては二者共に一なる所あり、盖し其の思想は共にソークラテースの敎學より湧出せしものなればなり。プラトーンもアリストテレースも共に目的說の立塲にあり。故にデーモクリトス等が物理的硏究の結果はアリストテレースの哲學に攝取されたりとはいふものから其の大體の學相に於いては彼れはプラトーンと同じ思想の潮流に屬せり。希臘の思想界に件の三偉人が相踵ぎて現はれたるによりて其の學相は之れに對するデーモクリトスの機械的世界觀を壓倒し其の世界觀に對して正當に與ふべき價値を附與せざりし趣あり。即ち希臘哲學に於いては其の中心と見るべき大潮流は目的說にありて機械說は寧ろ其の傍流に過ぎざるが如き位置を取るに至れり。
《アリストテレースの生涯、性行。》〔二〕アリストテレースは西紀前三百八十四年トラキアの一市府スタギーラ(希臘人の殖民地)に生まる。父をニコマコスといひマケドニア王アミュインタスの侍醫なりき。其の家世々醫を業とせし故を以てアリストテレースは恐らくは幼少より醫學及び他の自然科學の方面に其が注意を傾けたりしなるべく且つ其の生地のデーモクリトス等の出でたる土地に遠からねばおのづから物理的知識を得る便宜をも有せしならむ。其が兩親の歿後はアタルノイス人プロクセノス彼れを引き取りて敎育せり。十八歲にして亞典府に來たりプラトーンの門に入り爾後二十年間其の師の歿するに至るまで其の門下に在りき。彼れは其の師の門下にありし時、已に嶄然頭角を現はし光彩ある文を以てものせる著作に名を得て殆んど一方の旗頭たるの位地を取り、修辭辯舌法を說きてはイソクラテースの壘を摩せり。プラトーンの死後クセノクラーテスと共に亞典府を去り同門の學友なりしアタルノイスの主權者へルミアスの許に行き、ヘルミアス、ペルシヤ人の詭計に陷りて亡びし後其の緣者ピュイティアスを娶り、ミュイティレーネーに移れり。《*》*(此の間の事定かならず。)三百四十二年マケドニア王フィリップに召されて當時十三歲なりし太子アレクサンドロスの師傅となれり。其の後三百三十四年(又は其の前年)アリストテレースは其の學友にして後に其の學派の有用の才となりしテオフラストスと共に亞典府に來たり自ら學校を府の東方の廓外なるリュイカイオン Λύκειον といふギムナジオンに開き、其の獎勵したる學術硏究の範圍の廣きこと及び其の秩序あることに於いて其の勢力はをさ〳〵アカデミーをも凌駕せむ程に至れり。彼れが其の門下に集まり來たれる同志の輩を導くや彼等をして共に俱に材料を聚め各〻獨立の硏究に從事せしめて彼れ其の全體を監督せりしが如し。彼れが組織せる學說の廣大なりしことも一はかゝる敎導の結果なりけむと考へらる。リュイカイオンには並樹を以て蔽ひたる路 περίπατος あり其處にアリストテレースは篤志の門弟をつどへて步みながら學理を談じたりしより彼れの學派はペリパテーティクてふ名稱を受くるに至れり。〈此の名稱の起原に就いては異說あり或は云ふアリストテレースが步みながら弟子を敎へたるに起因せりと或は曰ふ件の並樹ある散步に適したる路よりして其の名を得たりと。〉アリストテレースは自ら財產を有せりしが上にマケドニアの朝廷の補助を得て大いに學術硏究の便益を與へられ多くの書籍を集め又殊に自然科學の方面に於いて數多の材料を蒐集する道を得たりしが如し。其の後彼れが其の甥カルリステネースの事に關してアレクサンドロスに對する交情の冷えたりしは疑ふを要せざる事實ならむ。但し彼れのアレクサンドロスに對する關係に就きては古來幾多の傳說あれど、そはおほむね後のアリストテレース學派の論敵が捏造したる者に外ならじ。アレクサンドロスの死後彼れは其のマケドニアの朝廷に親密なりし故を以て政治上の憎怨より(表面上は敬神の道を缺けりとて)訴へられしかば亞典府を遁れてカルキスに至り三百三十二年少しくデモステネースの死するに先だちてこゝに歿せり。彼れが著述等によりて案ずるに其の性行の氣高かりしことは疑ふを要せず其の博識と獨創の才とを兼備せる點に於いては實に古今其の儔に乏し。
《其の著述。》〔三〕アリストテレースの著述は頗る浩澣なり。但し古へより傳はれる彼が著作の目錄の中には其が眞著ならぬも固より多からむ。彼れが著作の中に類集とも稱すべきもの(即ち自然科學、歷史、古事、文學等各〻類に從ひてそれぞれに材料を集めたるもの)ありきと見ゆるが此等は必ずしも皆其の親しくものしたるにはあらで寧ろ多くは同志共同の結果と見るべきものならむ、此の種の著述は今は殆んど皆傳はらず。此の類集を除かばアリストテレースの著作は二種に分かつことを得べし。第一種は一般讀者の爲めに公にせしものにて多くは對話の體裁を用ゐ、またプラトーンの敎義に結びたるもの多かりしが如し。此等多くは彼れが尙ほプラトーンが門下に在りし時の作と見て可ならむ。彼れが文章の雄麗なることに於いてシセロ等が之れをデーモクリトス及びプラトーン等に比したるも主として此等通俗を旨とせる著作に就きてのことなるべし。此の種の著作今は完全に傅はれるものなし。第二種は特に學校に於いて門弟を敎ふる爲めにものせるものにて今日迄保存せられたるはおほむね此の種に屬す。故に今吾人の有するものはアリストテレースが浩澣なる著述の一部分に過ぎざれども、彼れが哲學を窺ふに於いて肝要なるものは槪ね保存せられたりと考へらる。惟ふに此等はもと彼れが其の學生に對する講述の手控を基礎としそを修飾して敎科用の書となさむとしたりしものならむ而して未だ其の全部の完成を吿ぐるに及ばずして彼れの逝けりしが故に其の缺損せる個處をば門下生等が其の筆記によりて補ひし處もありと思はる。此の種の著述は論述の體裁略〻一定し用語をも明確にせむと力めたりと見えて、よく科學的著書の面目を備へたり。先づ初めに論究すべき問題を明らかにし、次ぎに其の問題の解釋として揭げられたる在來の說を批評し、更に局部々々につきて精細なる硏究に涉り廣く事實を見渡して終はりに全體をおほふ原理に達せむと力むる、是れアリストテレースが著書の大體の結構なり。此等の著作はプラトーンの對話篇とは大に其の面目を異にして寧ろ近世に於ける學術的講述の體裁を成し其の論ずる科目に從ひて明らかに區劃せられたり。
《其の著述の今日に傳はれるもの。》〔四〕アリストテレースが著書の今日に傳はれるものを擧ぐれば、カテゴリーの論(κατηγορίαι これは少なくも其の一部分はアリストテレースの自ら作れる所にあらざるが如し)、解釋論(περὶ ἑρμηνείας これは命題を論じたるものなるが或史家は其のアリストテレースの自作なることを疑へり)、アナリュイティカ前書(ἀναλυτικα προτέρα これは所謂三段論法の論なり)、アナリュイティカ後書(ἀναλυτικα ὑστέρα これは證明法の論)、トピカ(τοπικά これは盖然的論證の法を說けるもの)、ソフィスト駁論法(περὶ σοφιστικων ἔλεγχων これはソフィスト風の駁論を檢査して其の似而非推論なることを明らかにしたるもの)、以上をアリストテレースの論理上の著作とす、後世これ等を合してオルガノン(機關 όργανον)と稱す盖し學術硏究の方法を論ずるものなれば也。
アリストテレースは純理哲學(又は理體論、又は形而上學)即ち一切の實在物の原理を論ずるものを「第一哲學」(πρώτη φιλοσοφία)と名づけたり。今現存するメタフィジカは恐らくはアリストテレースの死後其の遺稿の「第一哲學」に關するものを集めて成れるものならむ今現存するところ十四卷あれど其の或部分にはアリストテレースの筆に成れりと思はれざるものも混入せりメタフィジカと云ふ語夙くより形而上學と云ふ意味に用ゐらるゝこととなりしが其の名稱の起原はロードス人アンドロニーコスがアリストテレースの著作を蒐集するに方たりアリストテレースが物理の學を授けたる後に「第一哲學」を講ずるを以て正當の順序となしたるに基づき之れを物理の論に關する著作の後に置きて τὰ μετὰ τὰ φυσικὰ と名づけたるにあり。〈此の語物理に關するものの後に置かれたるものと謂ふほどの意味なり、此の編集上の順序を意味せる語が後には或は事相上の義理を含めて物理以上の論即ち形而上學と云ふ意義を有するかの如くに解せられたり。〉
物理的科學に關する著作には先づ其の物理論(Φυσικὴ ἀκρόασις 又は單に Φυσικά とも又 τὰ περὶ φυσικὰ とも名づく)、天體論(π. οὐρανοῦ)、生成及び潰壞を論じたるもの(π. γενέσεως καὶ φθορᾶς)、及び氣象論(π. μετεώρων)あり、生物に關しては動物彙類(π. τὰ ζῷα ἱστορια)、及び此の種の著作に屬するものと見るべき動物の部分を論じたるもの、生殖論、動物の行動を論じたるものあり、心理に關しては περὶ ψυχῆς 三卷及び此の種に屬すべき小篇數種あり。アリストテレース自らプロブレーマタを作りたりしならむと思はるゝが今ある所は後に蒐集されたるものならむ。
アリストテレースの倫理學書として傳はれるもの三種あり、中に就きてニコマカイア倫理學(ἠθικὰ Νικομάχεια)を以て最もよく彼れが自ら組織せる所を保存せるものと見るが現今學者の定論なり。これはアリストテレースの子ニコマコスの公にせるものならむ。其の外一はオイデーミア倫理學(ἠθικὰ Εὐδήμεια)と云ひオイデーモスの編纂せる所なるか又は彼れの筆寫せる所に據りて後に編纂せられしもの、他の一は大倫理學(ἠθικὰ μεγάλα)と名づけ前二者の拔萃によりて成れるものの如し。右の外政治學の著書(πολιτικά)あり。百五十八市府の制度を叙述したりと言ひ傳へらるゝ著作(πολιτείαι)は今は大抵失はれたれど亞典府の制度を叙述したるもの(πολιτεία Ἀθηναίων)此の頃に至りて發見せられたり。〈此れは始めて千八百九十一年龍動に於いて出版せられたり〉詩論(π. ποιητικῆς)の斷片及び修辭學も現存せり。
現存せるアリストテレースの著作は其の哲學上の意見の大成したる上に於いて著はしたるものと思はるれば其の著述の順序はプラトーンが對話篇に於ける如く其の哲學の解釋上肝要なる事件にあらず。大體の順序を云へば最初に論理上の著作次ぎに物理上及び心理上のもの、次ぎに倫理上のもの(或は倫理上の著作が自然科學上のものに先だてりしかも知るべからず)、メタフィジカの著述が「物理論」に後れたるや明らかなり。
《其の哲學の區分。》〔五〕アリストテレースは右の如く學科を分かちて硏究したれども其の哲學全體の組織が如何なる部分より成れるかに就きては彼れみづから一定せる說明を下さず。彼れは哲學上の問題を分かちて倫理に關するもの(ἠθικαί)物理に關するもの(φυσικαί)及び論理に關するもの(λογικαί)とせる所あり。然れどもまた彼れは諸般の硏究を分かちて或は行爲上のもの(πρακτική)或は製作上のもの(ποιητική)或は純知上のもの(θεωρητική)とせる所あり。純知上のものと謂ふは凡そ事物の理を究むること其の事を目的とし、製作上のものと謂ふは技術及び美術上の製作を目的とし、實踐上のものと謂ふは吾人の行爲の則るべき規範を揭ぐるを目的とす。〈アリストテレースは純知上のものの部に數學、物理學、及び其謂ふ「第一哲學」即ち純理哲學を置き、實踐上のものの部に、倫理學、經濟學、及び政治學を置けり。然れどもまた彼れは經濟學を以て修辭學と共に政治學に附屬せる學科とし且つ廣義にては政治學の下に凡べて國家及び倫理に關する硏究を總括せり。〉斯くの如く一切の學術を三種に分類するを以てアリストテレースみづからが其の哲學に與へたる分類と見做すが通常なるのみならず此の分類法はまた多くの後世の學者の採用する所となれりしものなるが、茲にアリストテレースの哲學を叙述するには之れを論理學、純理哲學、物理哲學、及び倫理哲學に大別するを以て便利とす。
論理學
《アリストテレースの論理學。》〔六〕ソフィスト、ソークラテース及びプラトーンに於いて多少其の萌芽を現はしたるのみなる論理の硏究はアリストテレースに到りて始めて一特殊の學科として組織せられ後世久しき間彼れが所造に論理學の模範を仰ぐこととなれり。此の彼れが偉大なる所造に於いて希臘學術の硏究は其の明瞭なる自意識に達したりと謂ひて可なるべし。盖しアリストテレースの論理學は凡そ學術の硏究に用ゐるべき方法を論ずるものにして一切哲學の攷究に入らむには先づ最初に究明すべきもの、又學術硏究の機關として用ゐるべきものなれば決して智識論と相離れたるものにあらず。後世の所謂形式的論理學は其の淵源をアリストテレースの所說に發したるものなれども、彼れが論理學全體の趣意とする所を以て單に形式的論理學に說く所の如きものと思ふべからず、其の趣意は彼れが眼中に置ける學術硏究の目的と相離れざるものなれば、亦おのづから彼れが哲學全體の意見と相關はる所あり。論理學の所定に從うて種々の事物を硏究するもの是れ諸種の學科にして而して特に其の所定を人々の交際(殊に政治的行爲)に應用して他人を說得するの道を敎ふるもの之れを修辭學とす。
《學理的知識と學理的說明。》〔七〕斯く論理學は學術硏究の道を明らかにせむとするものなるが、そも學術硏究の目的なる學理的知識(ἐπιστήμη)とは何を謂ふぞ。アリストテレース以爲へらく、事物の通理即ち通性より考へて其の個性即ち個々なる事柄の然る所以を明らかにする是れ之れを學理的に說明すと謂ふと。是れ彼れが哲學的思索全體の根柢を爲せる所の思想にして此の點に於いては彼れはソークラテース及びプラトーンの繼承者たることを失はず。斯くの如く彼れに從へば學理的說明に於いては通理を先きとせざる可からざれど、吾人が知識開發の順序より云へば個性を以て出立せざるべからず。盖し吾人の知識を得來たるや先づ個々の事實を經驗するに始まり漸次に上りて通理に至る、而して學理的知識は斯くして得たる通理を以て個々物の然る所以を說明するものなり。されば學理的に說明すといふは通性よりして個性を論證すると同一なり。
《思想の根本形式は論證なり。三段論法。》〔八〕かるが故に學術に於ける思想の根本形式は論證(απόειξις)にあり、而して論證すとは(之れを言語に表出したる邊に就いて云へば)先づ認定されたる立言よりして新立言を論じ出だすを謂ふ、シルロギスモス(συλλογισμός 通常三段論法と名づくるもの)是れなり。シルロギスモスに於いて先づ提出せられて論證の根據となる立言是れ前提(πρότασις)にして其の前提は皆命題、即ち判定(又は斷定とも云ふ)を言表したるものなり。一命題は二槪念を結ぶによりて成り其の槪念が其の命題の兩極(ὄρος)即ち主語及び客語を成す。斯く二槪念を結びて一判定(ἀπόφασις)を形づくり、こゝに始めて眞僞の別あり。〈判定には肯定なる(即ち主語に示すものは客語にて示すものなりと肯じ定めて前者を後者に從屬するものと見る)と否定なる(即ち一を他に從屬せざるものと見る)との別あり。(是れ判定の質に於けるの別なり。)又主語にて示すものの何程の部分に就いて肯定又は否定するかによりて全稱、特稱及び不定の別を生ず(是れ命題の量に於けるの別なり。)「解釋論」には此の量に於けるの別を全稱、特稱、單稱の三種とせり、上述する所の外アリストテレースは命題の種類を分かちて一事物の單に然ることを言表するものと其の必ず然ることを言表するものと其の或は然るを得ることを言表するものとせり、(是れ命題の量に於けるの別なり。)又通常の論理學に所謂矛盾對當と反對々當との別及び命題の主語と客語との位置の轉換等皆已にアリストテレースの說ける所の中にあり。〉
判定は個性と通性との間に於ける從屬の關係を表はすものなるが、斯かる判定を結合して成るシルロギスモスは二前提を根據とし其の双方に通ずる一媒語(ὄροςμέσος)を以て他の二語にて表はす槪念相互の間に一が他に從屬の閼係あるかなきかを認むるものなり。而して媒語の位置によりてシルロギスモスに三種の形(σχήματα)を生ず、而して其の第一の形を以て本形となす。〈媒語が一前提の主語、他前提の客語の位置に在るを第一形、媒語が兩前提の客語たるを第二形、兩前提の主語たるを第三形とす。〉
《歸納法、ディアレクティケー。》〔九〕凡そ論證は前提を根據として或立言を演繹するものなれば論理上は其の立言に先だちて其の前提の承認さるゝを要す、而して究極の前提は吾人の直接に承認するもの(άμεσα)ならざる可からず。其等究極前提即ち原理は論證すべからざるものなれども亦吾人がこれを發見し經驗上これを確かむるには個々の事例の詮索に待たざるべからず。而も經驗は其等原理を示すものにしてそを說明する所以のものにあらず、即ち原理は論理上は先きに來たるべきものなれども心理上吾人がそを想ひ浮かべ來たる順序より云へば個々の事件の經驗を先だてざるべからず。斯くして經驗上の事柄よりして原理を發見しこれを確かむる道これ即ちアリストテレースの所謂歸納法(ἐπαγωγή)なり。歸納的穿鑿を爲すに當たり一切の事件を遺す所なく眼界の中に入れむは實際爲し能ふべきことならねば其が穿鑿の法を簡易にせざるべからずと考へてアリストテレースは一は吾人の直接に知覺する個々事相、一は世に一般に又は有識者間に承認されたる意見(ἔν δόξα)を採り來たりこれを精細に比較し推考するを要すとせり(ソークラテースの實際爲したる所は即ち是れなり)。斯くの如く全然正確なりとは謂ふべからずとも正確に近き種々の意見を出立點として推考するをアリストテレースはディアレクティケーと名づけたり。然れども斯くして得たる所は竟に絕待に確實なりと云ふべからず。之れをして絕待に確實なるものたらしめむには竟に理性の直觀に待たざる可からず。盖し究極の原理は理性(νοῦς)の認むる所、此の原理よりして必然に論證したるもの是れ學理的說明(ἐπιστήμη)の範圍、必然ならざることに關するもの是れ俗說(δόξα)なり。說いて此處に至ればアリストテレースの論理學は之れを其の知識論及び純理哲學上の思想と相結ぶにあらずば了解すべからざるものたるを見る也。
《定義、分類法。》〔一〇〕歸納的硏究の結果として吾人は一種類の事物に其が定義(ορισμός)を下し得るに至る、盖し定義は該事物の槪念(λόγος)即ち其の事物をしかあらしむる所以の本性(οὐσία)を指摘するもの、換言すれば其の事物よりも一層廣くして其の事物の從屬するものの槪念に加ふるに其の事物に特殊なる相を加へて其の事物の槪念を成り立たしむるを謂ふ。一層廣き槪念は是れ類(γένος)なり之れに殊相(διαφορά)を加へたるもの是れ種(εἶδος)なり。但し一事物に於いて發見せらるべきものに其が本性及び其の本性と必然に關係するもの〈例へば三角形といふ槪念即ち其の本性よりして其の角度の和が二直角に等しと云ふことの必然に出で來たる如き〉の外に全く偶然なるもの(συμβεβηκός)あり、これは其の事物の槪念より考へ出だすべからざるもの、從うて學理的說明の範圍に入るべからざるものなり。(此等の點はアリストテレースが論理思想の其が純理哲學と離しては解すべからざる所なり。)畢竟事物の定義を下すは通性を本として個性が如何にそれに關係するかを示すにあり、而して斯くすることに缺くべからざるは一範圍に於ける物を一も遺さず又種類上の一段階をも飛び越えずして順次に開發しゆく分類法なり。
《原理、十種の範疇。》〔一一〕斯くして定義を下すに至りて成り上がれる諸槪念の最高頂上に在るもの(即ち一切他の槪念の根據となるもの)をば開きて之れを判定の形に言ひ表はせるもの是れ諸學科に於ける原理なり。諸學科の各範圍に於いてそれぞれに其が硏究の根據となるべき原理の何たるかにつきてはアリストテレースは明らかに指定せる所あらず。唯だ彼れは論理上全體の思想の原理となりて更に證明すべからざる又證明を要せざるものとして矛盾律を揭げたり。又彼れは此の矛盾律を論理上思想の形式に關するものとする外に純理哲學上の原理として揭げたり。
アリストテレースは尙ほ吾人が事物を言ひ表はす仕方を區別して之れを若干の最高槪念の中に收めたり、是れ其の所謂十種のカテゴリー(κατηγορίαι)にして吾人が一切の立言は皆此のカテゴリー即ち範疇に表出されたる事物の方面中の或者を言ひ表はせるなり。其の十種の範疇に曰はく、(一)實體(οὐσία 人又は馬といふが如し)、(二)分量(πόσον, how much 長さ二尺又は三尺といふが如し)、(三)性質(ποῖον 白きといふが如し)、(四)關係(πρός τι 一倍又は半ば又は更に大なりと云ふが如し)、(五)何處(ποῦ 市塲に又はリカイオンにと云ふが如し)、(六)何時(πότε 昨日又は去年といふが如し)、(七)態度(κεῖσθαι 臥する又は坐すといふが如し)、(八)附屬(ἔχειν 靴をはく又は鎧を著るといふが如し)、(九)能動(ποιείν, what it does 斷つ又は焚くといふが如し)、(十)所動(πάσχειν, what is done or happens to a thing 斷たるゝ又は焚かるゝと云ふが如し)。カテゴリー論及びトピカの二書にのみ右十種の悉くを記載しありて凡べて其の後の著作にはアリストテレースは態度及び附屬の二つを省けり。
此等範疇の論及び上に所謂學理的說明の最高原理とも見るべき素性及び相性の論に於いては旣にアリストテレースが純理哲學の中心に入れるなり。
純理哲學
《プラトーンのイデア論に對するアリストテレースの批評。》〔一二〕アリストテレースも亦ソークラテースの思想を繼ぎて事物の定相を看取するものは槪念的知識なり遍通不易の通性を知るにあらざれば眞に事物を知れりといふべからずと考へたり。此の點に於いて彼れはプラトーンと異なる所なし。或はプラトーンとアリストテレースとの立脚地を相分かちて恰も正反對を形づくれるが如く思ふ者あれどこは甚だしく誤れり。兩者が如何なる共同の見地を有するかは決して看るに難からず。然れどもプラトーンが個々物を離れたるイデアを眞實體とし、之れに對して個々物の世界を非有と見たる點に於いてはアリストテレースは全然其の師と意見を異にせり。是に於いて彼れはプラトーンのイデア論を批評して自家の特殊なる位置を占めたり。彼れがイデア論を難ずる趣意に曰はく、若し事物の種類ある每に別に自存するイデアあらば(即ち通性は個々物を離れて存在するものならば)人間の製作物にも又事物の性質にも又其の關係にもイデアなかるべからず。又同一物を見る方面の異なるに從ひて之れを種々なる種類に屬するものと見得べければ同一物を種々のイデアに屬するものと見ざるべからず。又事物の相類する所必ずイデアありとせば現象界の個々物と其のイデアとは相類するが故に其の兩者の上に更に第三者なるイデアなかるべからず、又それと個々物及び其のイデアとの上にイデアなかるべからず、斯くして竟に際限あるべからず。且つ又イデアはそれ自身に其の性體を保持するに止まりて、それが何故に感官界に於ける生滅變化の現象の起因となるかは解すべからず。またプラトーンは個々物がイデアに與る(即ちイデアを分有する)所あるより其の存在を保つと說けど其の分有すといふ意義明らかならずまた何故にイデアに與り得るか何故に之れを分有し得るかは解すべからず。イデアは畢竟感官界の個々物の上に更にそれに類するものを添へてそを二重にしたるもの(αισθητα ἀΐδια)に外ならず、譬へば感官界に於いて觀たるものを天上に引きあげてこれを遍通不變のものと見做したるが如きものに外ならず。事物の本性と其れを本性とする其の事物とを相離すべき理由なし。之れを要するにプラトーンはイデアを個物界より全く離れたるものとなしたるがゆゑに竟にそを個物界に關係せしむること能はざるなりと。是れアリストテレースがプラトーンのイデア論を批評せる大趣意なり。是に於いて彼れはイデアを以て個々物を離れたる超絕體と見ずして個々物に內在するものと見たり。吾人の知識を成り立たしめむには通性の實在を說くを要すれども其が個物を離れたる實在を說くを要せず。個物界を離れて諸物の實體を求むべからざる也。
《實體とは何ぞ。》〔一三〕
《實體と個性、相と素。》〔一四〕アリストテレースは其の所謂實體を以て事物の個性と相離れざるものとなせるのみならず、また之れを以て變化と離れざるものとしたり。換言すれば實體は一時に實現するものにあらずして漸次に實現さるゝものなり、是れ變化といひ生滅といふことの在る所以なり。此の事物の生ずるといふこと(γένεσις )を說かむが爲めアリストテレースは相(εἶδος 又は μορφή)と素(ὕγη)との關係を說けり。以爲へらく相と素とは相離れたる二つの物にあらず唯だ素は相とならむとするものにしてその成り上がれるは即ち相なりと。アリストテレースが此の思想は有機體の生長又は人爲の製作物に準らへて得たるものなるが如し。一器物例へば陶器等には其の形及び大さ等定まりたる相あり。然れども件の相はかゝる相を取るところの粘土と相離れて存在するものにあらず。粘土をば未だ器物の相を現ぜざれど將にそを現ぜむとするものと見ば是れ素なり。而して其の相の實現せらるゝは外より或物を附け加ふるにあらずして素其の物に於いて已に相を開發すべき性を有するなり、また其の物がみづから相を現じ行くが故に素と云はるゝなり。之れを要するに相は內より開發し行くものなり。さればアリストテレースが所謂相と素との意義は人爲に成れる器物よりも寧ろ自然に生長する有機物になぞらへたるかた解し易かるべし。一生物の種子は自ら其の中に或相を取りて生長すべき性を具ふ例へば桃の相は自ら桃となりて發生し行くことに在り。即ち相其のものは素よりして漸次に現はれ來たるなり。變化生長は此處に存す。世に轉化と云ふことあるは畢竟未だ實にせられざる事物の性が實にせらるゝことにあり、未發の狀態に在る性が旣成の性となるに在り。斯くの如くにして發達しゆくもの是れ實在なり、此の發達を離れて實在といふべきものなし。即ちアリストテレースはプラトーンが二界として相別かちたるエレア學派の所說とヘーラクライトスの所說とを攝合して一實在界に纏めたるなり。
《素は潛勢、相は現勢なり。》〔一五〕以上の見解よりしてアリストテレースは素を潛勢(δύναμις)、相を現勢(ενέργεια)と見たり。即ち素と相とは同一物の將さに成らむとする或は成り能ふと其の成り了はるとの關係に外ならず、語を換ふれば一物が潛勢の狀態より現勢の狀態に移り行く彼れと此れとの段階を云ふに外ならず。譬へば桃の種子は素にして桃の萌芽は相なり、されど桃の萌芽は桃樹の成り上がれるに對すれば素にして成り上がれる桃樹は相なり。斯く一物が其の潛勢の狀態より自ら現勢の狀態に開發し行く所是れ即ち變動(κίνησις)の存する所なり。斯くアリストテレースはプラトーンの唱へたるイデアと非有との二元論を變じて相離れざる(寧ろ一物の發動し行く段階に名づくるに外ならざる)素と相との一元論に改造せり。即ちプラトーンの謂へるイデアはアリストテレースに於いては相となり〈相即ちアイドスと云ふ語は是れプラトーンの用ゐたる所のものなり〉前者の謂へる非有は後者に在りては素となり前者に於いて其の相離れたると異なりて相離れざるものとなれり。
《四因の論。》〔一六〕アリストテレースは更に詳らかに事物の變動し行く所以を分析して之れを四つの事柄に開きたり。是れ即ち有名なる四因の論なり。四因の一に曰はく素材因、二に曰はく形相因、三に曰はく働力因、四に曰はく目的因是れなり。之れを家屋に譬ふれば材木は素材因なり、家屋の圖案は形相因なり、材木等を取扱ふ工匠等の働きは働力因なり、成り上がれる家(《*》*to live in)は即ち目的因なり。即ちかくの如き家屋の成り上がるは斯くの如き家を造ることを目的として材木を採集し之れに働力を用ゐて一定の形を與ふることによる。四因相依りかくの如くにして家を成せど形相因、働力因、目的因の三つは究竟すれば相の一となるべし。盖し家屋の形と造り上げらるべき家屋といふ目的とは異なるものに非ず、造り上ぐる働力も亦要するに造り上げむとする家屋の想念即ち目的によりて起こるものにして是れまた別異なるものに非ず。故に件の四因を約すれば究まる所、相因と素因との二つに歸すべし。假りに便利上四個を分かち得るは專ら人爲の製作物に於いてのことなり、天然の有機物に於いては其の如く別かち易からず、但だ相素の二因を語るべし。
《アリストテレースの哲學の根本思想は目的說なり。》〔一七〕アリストテレースの哲學の根本思想は目的說なり。以爲へらく、相は目的にして其の目的の實現し來たる所凡べての事物の變動する所以なりと。盖し此のアリストテレースの目的說は一方に於いてはヘーラクライトスとエレア學派との思想を取り入れまた一方に於いてはソークラテースとプロータゴラスとの思想を取り入れたり。而して其の攝取の方法は頗るプラトーンと異なるものあり。プラトーンはエレア派の謂ふ不變動の實體界とヘーラクライトスの謂ふ流轉變化の界とを二つに分かちて一つを實有界、他を非有界と視たり。アリストテレースは實體と變動とを相離さずして事物の實象が漸次に實現せられ來たる所に變動ありと見たり。換言すれば實體其の物が開發するにて自ら開發することを離れて實體は存せずと見たり。即ち彼れの哲學は進化哲學なり。またプラトーンはソークラテースの謂ふ知識の界とプロータゴラスの謂ふ感官の界とを二つに截斷したりしが、アリストテレースは之れを截らずして吾人の五官に接する個々物を離れて眞知の對境となる事物の實象なしと見たり、換言すれば五官の感覺そのものは知識にあらざると共に五官に現はるゝ個々事物の象その儘も亦實體にあらず、唯だ五官に現はるゝ個性と相離れずして存在する通性を見るこれ眞知識にして、また個性と相結ばれたる通性即ち事物の實體なりと考へたり。
《相素論の一元的方面と二元的方面。》〔一八〕かくの如くアリストテレースの哲學はよく二元論の過失を脫して希臘哲學在來の思想をば巧みに陶冶融合したるが如く見ゆ。即ち一元論にてありながら其の中に變動差別の存在する所以を說けり。然れども更に一步を進めて考ふれば未だ融合の至らずして尙ほ二元論に陷れる所あるを免れず。アリストテレースが相と素との關係を說くや二種の說き樣の相錯雜せるものあり。一の說き樣に從へば全く一元的にして事物が潛勢の狀態より現勢の狀態に移り行く段階の、見樣によりて相と素との別をなすに過ぎざる如くなれど、他の言ひ方に從へば相と素とを自ら相對するものの如く見て、彼れと此れとは相離れたるものにあらねど尙ほ素を形づくる因は素の中に存在して素を動かし形づくるものの如し。以爲へらく、相は內在的のものなれども素と異にして原動的のもの、素は之れに反して受動的のものなり、前者は形づくるものにして後者は形づくらるゝものなりと。此の關係は器物の譬喩に於いて最もよく現はれ來たるを見る。形づくらるゝ粘土の外に形づくる工人の趣向あり此の二者ありて始めて器物は造り上げらる。之れを有機體の自然物に譬ふれば相と素とが一つに合するが如く見ゆれど、尙ほ其の相對するものなることは蔽ふべからず。桃の種子は素なりと云へどそを形づくるもの其の中に存するにあらざれば素の開發して桃樹の形を取る所以は解すべからず。知るべし譬喩を有機體に取る時に於いても形づくるものと形づくらるゝものとの對待を說かざるべからざるを。かくアリストテレースの相素論は一見一元的にてありながら、更に細見すればその二元的なる所は蔽ふべからず、寧ろ二元的方面が一元的方面に勝てりといふも不可なからむ。
《相と素との關係。》〔一九〕かく彼れは相素の關係を二元的に考ふる所よりして素が相の實現に對して障礙を呈するが如く說けり。以爲へらく、自然物が其の形を成すや皆悉く完全なる形を成さず又其の形の破壞せらるゝに至ることあるは是れ素が全く相に化せられずして相の實現を妨ぐればなり。また素は唯だ成り能ふべき性にして尙ほ不定なるものなるが故に相に相應したる形を現ずることの外に定まりなき形をも現ずることあり。世に偶然の出來事あり自然物に怪異なるものの生ずるはこのゆゑなりと。かくしてアリストテレースは素に歸するに凡べて不完全なること及び偶然なることの原因を以てせり。而して斯かる故を以て生ずる槪念上定むべからざるもの(συμβεβηκός)即ち全く偶然なるもの(αὐτόματον)に關しては吾人は學理的知識を有すること能はず、即ち事物の生起する所以を理學上硏究すと云ふも其の單に個々なる邊は學理を以て定むべき限りのものにあらず。
かく相の外に素を說いて前者に對して多少の障礙を呈するものとせる所よりしてアリストテレースは又自然界に於いて善美なる目的に適ひ居る事柄の外に唯だ機械的に生ずる事柄あるを許せり。盖し善美なる目的を實現せむが爲めならずして唯だ機械的に生起する事柄の存する究竟原因を以て素に在りと見たるなり。彼れはこゝにデーモクリトスの世界觀を取り入れたり。デーモクリトスが事物生起の因由を說くや唯だ其の事物に先在せる狀態のみよりせむとしたり、即ち事物の起こるは其れに先だちて存在せし狀態の結果たるに外ならずと見たり。プラトーンは之れに反して事物の生起を說くに其の當さに成るべき極致の狀態を以てし、かゝる狀態にならむが爲めに事物は存在すと說けり。アリストテレースは此の二說を攝取したれども、其の世界觀の重きはもとより目的說の方面に在りしなり。
《純粹の相と純粹の素と。》〔二〇〕アリストテレースは上述せる如く二元的に說き來たりて事物の段階を論じて曰はく、素の方面の多きほど卑く、相のかたに進むに從うて高し、天地萬物は皆此の關係を以て高下を爲すと。是に於いて彼れは遂に最下の處に原始の素(πρώτη ὕλη)を置きて、之れを純粹の素にして未だ聊かも相を現せざるものと見、唯だ受動の方面のみを具へて聊かも原動の方面を有せざるものとしたり。原動力即ち形づくるものは相の方面にあり。然れども個々の事物は素の方面をも具ふるを以て全く原動力の方面のみならず受動の方面をも有す、故に其の物以外にそを動かすもの即ち原動力となるものなかるべからず。かくして漸次に事物發動の原因を探り求むれば遂に他より動かされず即ち受動の方面なくして唯だ他を動かすものなかるべからず。若し聊かなりとも他に動かさるゝ所あらば更に其の上に立ちて之れを動かす原動力なかるべからず。故に事物が變動を現ずる所以を說明せむとせば一方に於いて純粹なる原始の素を說くを要すると共に他方に於いて純粹の相即ち原始の相(πρώτος εἶδος)を說かざるべからず。是れ即ちアリストテレースの所謂ゆる原動者(πρῶτον κινούν)にして自ら動くことなくして他を動かすもの、相の方面のみありて些も素の方面なきもの、純粹の現勢にして毫も潛勢の方面なきもの、即ち圓滿に凡べてが實現され居るものなり。而して是れ即ち世界の凡べての事物の生起する所以の第一原因なり。原始の素は固より實在の相あるものにあらず寧ろ一切の實在の可能性即ち凡べての物の現成し得る性を謂ふに外ならずとはいふものから斯く一方の極端に相なき純粹の素を說き、他方に素なき純粹の相を說きて世界の萬物が其の間に段階を成すと見るに至りてはアリストテレースの論はプラトーンがイデアと非有とを設けたる如く遂に明らかに二元論となり了したりと云ひて不可なかるべし。
《アリストテレースの謂はゆる神。》〔二一〕アリストテレースは其の謂ふ原動者即ち純粹の相、純粹の現勢、凡べての圓滿に成れるものを神と名づく。彼れはこれにプラトーンが其の謂ふイデアに與へたる所の性質を附せり、プラトーンの謂ふ善のイデアがアリストテレースに於いては其の謂ふ神となれりと云ふべし。盖し其の謂ふ神は不變永久にして純一なるものなり物の個々に分かるゝは素を含みて未だ圓滿ならざる所あればなり(個々分離の基因は素なり物體なり)。また形體あるものは相分かたれて異なる部分を有すれば神は形體以上のものならざる可からず、神には聊かも素の方面なければなり。即ち神は純一にして圓滿なるもの、形體以上のもの、換言すれば純粹の智、純粹の精神にして、其の知る所は自己以外にあらず、己れ自らを知るの知識(νόησις νοήσεως)なり即ち純粹の自觀なり、純なる自觀者にして他に求むる所なく常に圓滿自足なるもの、自ら動きて他を生ずるに非ず唯だ萬物の圓滿なる極致として其の生起の原因となるなり。換言すれば自ら動き求むる所ありて萬物を生ずるに非ず唯だ其の存在そのものが萬象の原因となり萬象は皆之れに向かひて進み來たるなり、譬へば愛せらるゝ者が愛する者を自然に引くが如し。萬物は素の狀態より圓滿の極致なる神に向かひて進まむとするなり。此の故にアリストテレースは其の謂ふ神學(θεολογική)を其の純理哲學の頂上となせり。
此のアリストテレースの說に至りて感官以上なる非形體なるプラトーンの謂へるイデアが更に一轉して明らかに精神的なる即ち明らかに靈智なるものとなれり。已に先きにアナクサゴーラスのヌース論にほの見えたる思想はアリストテレースに至り益〻發揮せられて全く明瞭に靈智者の存在をば萬物の原因また極致として說くこととなれり。またアリストテレースが此の思想は希臘に於ける哲學的一神論の最も明らかに形づくられたるものにして已にクセノファネースに於いて現はれたる神學的思想の發達がこゝに至りて極まれるなり。彼れが哲學的一神論は後世の歐羅巴の思想に甚大なる影饗を與へたるもの、また此の純智を以て神明とせる彼れの哲學に於いて希臘の學術は其が最高理想を謳歌したるものといふべし。(アリストテレースの謂ふ神は純理的思想(θεωρία)にして後世の有神論者の謂ふが如き人格ある有情の神にはあらず)。盖し彼れが斯く自ら足りて毫も他に求むる所なき純智の自觀を說きてこれを神の樂みとなせるは希臘人の一大理想を語り出だせるなり。
《神の超絕的存在。》〔二二〕アリストテレースが神は自ら動くことなく唯だ他の一切の物の極致として他の一切の物のそれに向かひて進み來たるなりと云へるは是れ神を以て萬物以外に在りて超絕的存在を有するものと見たるにて此の點に於いて明らかにプラトーンのイデア論を保存せり。即ち超絕的存在を有するものとしてのイデアを排斥して內在的のものとなせるアリストテレースは萬物の圓滿なる極致を說くに至りて遂に超絕的存在を許すこととなれり。また彼れは事物の實相そのものが漸次に實現さるといふ進化哲學を說きたれども萬物の第一原因なる神を說くに至りては遂に不變化に自存するものを說くこととなれり。盖し彼れは唯だ動き行く物をのみ說くに止まること能はずして更に其の動き行く物の存在する所以の根原を探り遂にこゝに圓滿なる神を說き出だせるなり。
物理哲學
《萬物は神に向かひて進む。》〔二三〕前に述ぶるが如く萬物は圓滿なる神を極致とし之れに向かひて進み行く、神は即ち原始の相にして萬物は皆其の相を現ぜむとするもの也。然れどもアリストテレースは時間上天地萬物の生起せる始めありといふにはあらず。相と素とが無始無終なるが如く天地萬物はた無始無終なり。又運動も無始無終なり、そは運動の生滅は唯だ運動によりてのみ考へらるべければなり。世界はその廣がりに於いては一つの圓かなる形を成す。アリストテレースの與へたる定義に從へば塲處(τόπος)とは圍繞する物體と圍繞せらるゝ物體との界限をいふ又時間は前後することに於ける運動の數なりと。此の故にアリストテレースは虛空なる塲處なしとし又世界以外に塲處あることをも否めり。故に又世界以外には時間もなし。凡べて運動は物體が互に其の處を交換するによりて起こる。アリストテレースはデーモクリトス等と說を異にして世界は唯一なりと說けり。
《天地の兩界、球層說。》〔二四〕アリストテレースが天地の成り立ちを說くや常住なる又靈智なるを以て高きもの全きものとせり。圓かなる運動は最も能く常住の相を示す。而して天は圓かなる運動の在る所、地は直線の運動のある所、彼れはアイテールを以て成り、此れは四元素を以て成る、天界は完全常住の境にして地は不完全無常の境なりと。かく彼れが天地の兩界を二分せる說に於いてピタゴラス學派幷びにプラトーン等に於ける兩界論の面影を認むるを得べし。彼れまた以爲へらく星は智ある高等なる靈の司どる所のものにして其の靈智の影響は地上に及ぶ。地は球形を成して靜かに世界の中央に在り幾多の球層は其の周圍を廻轉す、此等の球層にはそれぞれに月、日其の他五個の遊星附著すまた世界の外圍には恒星の附著せる一つの球層廻轉すと。彼れは又遊星の複雜なる運動を說かむが爲めに其の附著する球層に相連なりて幾多の球層あることを說けり。之れを要するにアリストテレースの天文說は地球を中心とする幾多の球の回轉を說ける球層說なり。
《地上の萬物は地水火風の四元素より成る。》〔二五〕地上の萬物は地水火風の四元素を以て成る而して四元素には相反する二つの運動の傾向あり。地は地心に向かふ運動を有する求心的元素なり、火は地心を離れむとする遠心的運動を有する元素なり。而して水と風とは地と火との中間に在り、但し水は求心的運動多く風は遠心的運動多し。此の故に大地中心となりて位し之れを圍繞して水あり更に之れを圍繞して空氣あり空氣の上に火あり。而して此等の四元素は啻に塲處に於ける運動の傾向を異にするのみならず本來性質上の差別を有する者なり。アリストテレースは性質上の差別を以て分量上の差別に歸せしむべからざるものとせる點に於いて原子論者及びプラトーンと其の說を異にせり。四元素の性質の差別は一つには寒暖一つには乾濕の對待の相混和する割合によりて生じ來たる。火は暖にして乾なるもの、風は暖にして濕なるもの、水は寒にして濕なるもの、地は乾にして寒なるものなり。彼れが此の說に於いては初代の物理學者が反對の性質を說ける思想を採用せり。變動(μεταβολή)と云ふことは彼れに從へば委しくは生滅すと云ふことと動くと云ふこととを包含す。動くと云ふこと(κίνησις)に亦三種あり、增減と移處と性質上の變化(ἀλλοίωσις)となり。
アリストテレースはまた等質のものと不等質のものとを分かち、單純なる物質の相混和することによりて新らしき性質の生じ來たることを說かむとせり。彼れが現今の所謂化學的硏究に向かひて指を染めたるを見るべし。
《生物論。》〔二六〕かくしてアリストテレースは變動に分量及び塲處の變動と性質の變動とあること即ち機械的運動(力學上の者)と性質的變動(化學上の者)とあることを說ける外にまた最も複雜なる變動即ち生物の生長の論を爲せり。(化學上の變動は機械的變動を地盤とし生物の生長は化學上の變動を地盤とす。)彼れに從へば自然界は目的に從ひて活動する一團體なり、而して其の目的ある活動は無機物に於いて已に其の端緖を現はせどもその最もよく發現せるは生物の界なり。生物は其の有する靈魂即ち生氣の種類によりて其の段階を異にす。謂ふところ生物の靈魂とは凡べて形體を動かし形體を形づくる原動力となる者を指す。故に彼れは靈魂を名づけて身體のエンテレカイア(ἐντελέχεια)即ち形體(素)を動かし形づくるところの相なりと云へり。最下等なる生物は植物にして其の靈魂即ち生氣は唯だ營養と繁殖との作用を有す。次ぎに動物の靈魂は感覺と共に欲情の作用を有しまた其の或者は自ら其の體を移し動かすことを爲す。而して人類に至りては以上の諸能の外に尙ほ理性(事理を考ふる用をなすもの)を具ふ。下等の段階に於ける生氣は上等のものなくして存在すれども上なるは下なるものと相離れては存在せず其の存するや下なるものを其の地盤となす。盖しアリストテレースの謂ふ靈魂は形體ならねども形體と離れずそを形づくるものとして存するものにして、其の活動を現はすべき形體を離れて自立獨存するものに非ず、而して生物の體內に於いて件の靈魂と特に相結ばれる物質あり、之れをプノイマ(πνεῦμα)と名づく、而して此のプノイマは動物に於いては特に血液中に存す。故にアリストテレースは靈魂の主なる機關は心臟なりといへり。
アリストテレースの解剖學上の觀察は不等質のもの(ὰνομοιο μερῆ)即ち其の部分の相等しからぬ者例へば手の如き一機關を成せるものと等質のもの(ομοιο μερῆ)即ち其の部分が相等しき質を成せるもの例へば肉又は骨の如きものとの區別を以て墓礎とせり。彼れは又動物を二大種類に分かち有血動物と無血動物となせり。今日の智識に照らせば彼れの生物學に幼稚なる所あるを見るは固より容易なれど兎に角生物論を其が哲學組織中の一部分として詳說したるはアリストテレースの偉大なる所なり。
《心理論。》〔二七〕アリストテレースはまた心理の硏究に於いて頗る精しく後の心理學のために其の一好模範を揭げたり。以爲へらく、吾人の精神は吾人が身體の相なり、故に精神は身體と離れずして之れを活動せしめ之れを形成する所以のものなり即ち其のエンテレカイア(ἐντελέχεια)なり。この方面より見れば吾人の精神は下等動物の精神と全く懸け離れたるものにあらず寧ろ共通の趣を具ふ但し下等動物のに比すればもとより高等なり。先づ其が根本的作用は感覺なり、而して感覺は特殊の感官が特殊の刺激に應じて特殊の對境を知覺するによりて生ずるものなり。委しくは知覺は知覺さるゝ對境の相が知覺するものに與へらるゝことによりて成就せらる、換言すれば知覺に先きだちては外物に潜勢的に存在する性質が知覺によりて現勢のものと成さるゝなり。今謂ふ特殊の感官はそれに應ずる事物それぞれの性質を(例へば目は色、耳は聲を)感覺するに止まる。而して凡べて此等の感覺を統合して全き知覺を成し又諸感官に通ずる事物の關係即ち其の數及び運動の狀態等時空上の關係を看取するには體中別に具はれる中央機關による。アリストテレースは此の中央機關の位置を心臟におけり。是れ即ち彼れの謂ふ共通知覺官(αἰσθητήριον κοινὸν)にして此の中央機關に於いてまた吾人の心作用を自覺する働きあり即ち外物を知覺するのみならず其の知覺する働きを知覺する作用あるなり。また甞て外物の刺激によりて起こされたる知覺が外來刺激の去りし後にも尙ほ其の痕迹を留むるにより想念(φαντασίαι)として存するも亦此の中央機關あるによれり。吾人は此等の想念によりて過去の經驗を記憶するを得、委しく云へば意を用ゐずして曾て經驗したることを想ひ出だす(μνήμη)は感官よりせる印象の遺存すればなり、又故意に記憶を喚び起こす(ἀνάμνησις)は想念の連結せるものありて其の連絡の順序に從ひ意志の作用によりて喚起さるればなり。吾人は此等の想念によりて經驗を積み漸次に事物の槪念を形づくることとなる。以上は心の知性の作用を說けるものなり。
此の知性の働きと共に欲求(ὄρεξις)の作用あり欲求の作用は快感不快感に結ばり居るものなり。而して快感不快感は或觀念が我が目的とする所を遂ぐるに相應なるか或は不相應なるかによりて其の觀念に結ばり來たるものなり。換言すれば一觀念を吾人が目的の組織の中に入れたる結果として或は之れを肯定し或は否定するより目的に適ふものを欲し合はざるを避くる心を生ずるなり。理性の加はり來たるによりて想念が知識(ἐπιστήμη)となる如く欲求は意志(βούλησις)となる。
《理性。》〔二八〕以上は吾人の身體と相離れざる精神の作用を說けるものにして其の一部は現今の所謂生理的心理學の一模範とも見るを得べきものなり。彼れが心理論は大體に於いて一の實驗心理學の形を成せども其の一たび理性の論をなすや其の說は以上述べたる實驗心理學上の硏究の外にそが知識論及び倫理說をも入れ來たるによりて大に其の趣を異にすることとなる。彼れに從へば、理性は恰も殊別なる世界に屬するものの如く本來身體に結ばり居るものならずして更に一段高等なるもの、外より賦與せられしもの、而してそは身體と共に死せざる不滅のもの、神の永恒性に親しき所あるものなり。然れども此の理性は吾人に於いては決して圓滿完全なるもの即ち全く實現せるものにあらずして漸次に其の作用を現ぜむとしつゝある所のものなり而してそは其の作用を現ずる所の地盤を下等なる心作用に有すといふよりアリストテレースは理性を二分して受動理性(νοῦς παθητικός)及び原動理性(νοῦς ποιητικός)〈此の原動理性と云ふ名稱はアリストテレース自ら用ゐたる所にあらず後に其の學派の學者間に始まれり〉受働理性と名づくるものは前きに說きし知覺、想像、槪念(論理學の條に謂へる歸納的心作用)の外にあらず、但だそれが原動理性の直觀を喚起する緣となる所を名づくるに外ならざるが如し。此の原動理性の直觀は最高の知識なり、能く事物に於ける遍通不易の理想を看取して疑ひを容れざる所のものなり。アリストテレースはかくの如き知識の因となるものを原動理性と名づけ緣となるものを受動理性と名づけたるが如し。彼れが受動理性を素とし潜勢とし又拭へる板に譬へたる如きも之れを以て原動理性の働きの實現さるゝ塲處と見たるならむ。永遠に存在する所のものは唯だ原動理性あるのみ。思ふに此のアリストテレースの理性論がプラトーンの理性論に由來する所あるは明らかなり而して其の知識論上の必要に出でたることも明らかなり。以爲へらく、唯だ感官的知覺に基せる經驗のみを以て進み行く歸納的硏究は其の得る所遂に或然的知識に止まらざるを得ず、遍通必然の知識を得むには別に理性の直觀を要すと。
所謂原動理性は不死不滅なりと云へるを見れば、アリストテレースは靈魂不滅論を唱へたる者なりと云はむも不可なきが如し。然れども彼れは其の所謂不滅の靈魂をば個人の身體に結ばれたる精神とせずして寧ろ神性と同一なる遍通のものの如くに說ける所あるより、彼れが果たして死後に於ける個人の存在を認めたるか否かは後世彼れの學を奉ずる學者間に大に爭はるゝ問題となれり。彼れは恰も身體の相として靈魂(ψυχή)を說き靈魂の相として理性(νοῦς)を說けるが如く思はる。然れども彼れが所謂靈魂は身體を離れて存せざるもの其の所謂理性は身體並びに靈魂を離れて自存するものなれば理性が靈魂に對する關係は靈魂が身體に對する關係とは全く同一なりといふことを得ざる也。畢竟其の謂ふ原動理性が個人的存在に對し及び神に對して如何なる關係を有するかは彼れの說きのこせる所を以ては明らかに知ることを得ざるなり。
《理性二樣の作用。》〔二九〕理性(νοῦς)の作用に二樣あり、一は純知的の者(νοῦς θεωρητικός 即ち τὸ επιστημονικών)にして眞理の硏究そのものを以て其が目的とし他は行爲的のもの(νοῦς πρακτικός)又は(λόγος πρακτικός)又は(διάνοια πρακτική 即ち τὸ λογιστικόν)にして其が目的吾人の公私の生活に於いて如何に行動するが宜しきかを明らかにするにあり、前者の知識は純理觀(θεωρία)にして後者の働きは技能(τέχνη)を來たす。廣義に解すれば技能は公私の生活に於いて正當の行爲を認定する知慮として働くもの即ち道德に屬するものの外に製作(ποιεῖν)に關するものをも含む。美術は製作に屬するものなり。故に廣義もて總括して云へば理性の作用は一方には理智の直觀及び論理的推知を來たし、又一方には正當なる行爲及び製作を來たす。
倫理哲學
《オイダイモニア即ち善福の論。》〔三〇〕アリストテレース以爲へらく、人間の行爲は其の大なると小なるとを問はず何等の目的かなきはなし。吾人の行爲の支離滅裂ならざるは或最高目的の之れを支配し其の連絡を附するものあればなり。然らば吾人の行爲を支配すべき究極の目的は何ぞや。曰はくオイダイモニア(εὐδαιμονία)即ち善福是れなり。倫理學はオイダイモニアの何たるを究むる學なり、其の目的畢竟善といふことの何たるを知るにあれど所謂善は吾人の實際の生活上達し得べきものを意味す。故にアリストテレースはプラトーンの謂へる如き純理哲學上の善は倫理學の關する所にあらずとなせり。
アリストテレースは吾人のオイダイモニアを人性の圓滿なる活動にありとせり。然らば吾人は如何なる活動を以て吾が職能となすべきか、曰はく合理的活動是れなり。如何とならば吾人の特質は理性にあれば也。合理的活動即ち理性に從へる作動これを德といふ。德に究理上のもの(διανοετικαί ἀρεταί)と性行上のもの(ἠθικαί ἀρεταί)とあり。前者は理性の働たらきが眞理の硏究に向かへるを謂ふ、凡そ吾人の心が事理に明らかなる是れ亦一種の德なり。後者は吾人の品性及び氣質即ちエートス(ἦθος)に關するものを謂ふ〈此のアリストテレースの用語よりして倫理學をエーティカと云ふこととなれり〉。前者は理性がそれ自身を正しく働かしむることに現はれ後者は理性が下等なる一切の性情を統御することに現はる。
德は吾人の活動を離れて存在するものにあらず。而して吾人の德を成す活動は外形の動作にあらずして精神の働きにあり。吾人の幸福の中心的要素となるものは此の精神の活動を全うすることにあり。然れどもアリストテレースは全く外界の貨物即ち若干の財產、衣食住、名譽、健康等を排斥して之れを吾人の幸福に無用なるものとせず、但だこれを以て幸福の中心的要素とせず其の中心的要素なる德の所依として(言ひ換ふれば德が十分其の働を現ぜむための條件として)吾人の幸福に用あるものとせり。以爲へらく、此等の外物なくとも有德の者は全く不幸なるにあらず、然れどもそれなくば爲めに十分の善福の實現さるゝことを妨ぐと。盖し嚮にキニク學徒は悉く右等の外物を排斥したりしがアリストテレースは或度までは德行の條件として之れが用を認めたるなり。又彼れは快樂を排斥せず。快樂は完全なる活動の自然の結果にして德の備はるところにおのづから生ずるものなりと見たり。即ち彼れは快樂を以て吾人の幸福の中心的要素なる德の自然の結果として吾人の幸福に缺くべからざるものとせり。之れを要するにアリストテレースは德即ち道理に從へる吾人の精神的活動そのものを以て善福の中心的要素となし而してその德を行ふに要する條件として外物をも、又その德を行ふことの自然の結果として快樂をも、吾人の全き善福を成り立たしむる部分と見たるなり。
《德行の要素。》〔三一〕道理に從へる活動即ち理性が情欲を統御することは何に在りて存するか。アリストテレースは以爲へらく是れ吾人の性情の働きをして過不及の兩端を避けて中(μεσότης)を保たしむるところに在りと。即ち彼れに從へば德行は中を得るに在り。而して中なるものは算數的に測知し得るものにあらず塲合に應じて宜しきを得る活動にあり。然らば如何にして宜しきを見、中のある處を定むべき。他なしこれを定むるは知見の明らかなる者にあり(ソークラテースの敎學に根據せるを看よ)。然れども德を成すには唯だ知見のみを以て足れりとすべからず、一には其の地盤としてこれを成すに適せる禀性の存するもの莫かるべからず、又一には常に知見の指導に從うて行うて過らざらむには意志の修練を經ざるべからず。知見に從うて行ふことが吾人の堅固なる性格となりて始めて德を修めたりと謂ひつべし。
《政治論。》〔三二〕政治論 人間は先づ自然に家族をなし、次ぎに村落をなし、つひに國家を形づくるに至る、即ち何等かの社會を形づくらざるはなし。盖し人間は社會的動物にして其の天性として自然に社會を成すものなり(ἄνθρωπος φύσει πoλιτικόν ζῷον)。抑〻社會の大目的は相合し相助けて人々の發達を全うするにあり。故に國家の究極目的は(プラトーンの云ひし如く)人民を敎育して有德のものとなすに在り。然らば國家の形體は如何なるべき。さきにプラトーンは一の理想的國家を建てゝすべての國家をして皆同じくこれに則らしめむとせり。アリストテレースは廣く現存せる國家を比較硏究して國家の形體に取るべきもの三種ありと說けり。此の點に於いても彼等二人が其の思想の傾向を異にして、一は理想の高地に居て直下に事相を洞觀し、これは事實に根據して一步また一步理想の高きに上らむとするの別あるを認むべきなり。アリストテレース以爲へらく唯だ一種の國家のみが凡べての國、凡べての時、凡べての事情に適合すとはいふべからず。人民の風俗、感情、境遇、時代等の異なるに從ひて國家の形體にも亦自ら適不適の差別あり。實際に行はるべくしてまた最も適當なるべきものは、一に君主政體(βασιλεία)、これは一人が衆に超越して偉大なる經綸の材を有する時に形づくらるべき國體なり、二に貴族政體(ἀριστοκρατία)、これは少數の人々の一階級が他に比して最も優れたる時代に採用せらるべき國體なり、三には共和政體(πολιτεία)、これは人民一般の知識が發達して自ら支配するを得るに至れる時に適當せる國體なり。以上の三種は皆時に取りて正當なる政體なれども、其の各〻がまた腐敗して正當ならざる形となれるものあり、腐敗すれば君主政體は擅制政治(τυραννίς)となり、貴族政體は唯だ門地若しくは財產を以て政權の所在とする寡頭政治(ὀλιγαρχία)となり、共和政體は愚民政治(δημοκρατία)となる。
斯くアリストテレースは諸種の政體を列擧したるが尙ほ最良のものとして彼れが描けるは賢良なるものの全體に政權の存する政體なり。又若し以上揭げたる種々の政體に於いて通常如何なる制度が最良なるかと云はば其の政の重點が中等社會に在りてこれが國家生活の基礎を爲すやうなる組織即ちそれなりとせり。
《美術論、美術の三要素。》〔三三〕美術論 古代に在りて最も豐富なる美術論を爲しゝものはアリストテレースなり。但し彼れの論は未だ近世の所謂美學を成せりと云ふべからず寧ろ專ら美術の論なり。
彼れは先づ美術上美と見るべきものの堺限を定めて曰ふ、第一、其の大いさの適當なるを要す、大に過ぎ小に過ぐ二つながら美なるものの範圍の外に在り、次ぎに一の個體を成して定限を具ふるを要す區域の漠然たるものは美と云ふべからず、次ぎに又個々の部分が相關聯して統一あるを要す關係なきものを挿入するは美術たるを害す、換言すれば釣合、調和、比例等のよく保持せらるゝを要す。以上の三要素は是れ實に希臘美術の特色を言表せるものなり。
《美術は摸倣の性に起こる。》〔三四〕アリストテレースおもへらく美術は吾人が摸倣の性に起これりと。吾人には元來摸倣の性あり。故に摸倣する事を喜ぶと共に摸倣したる物を見ることを喜ぶ。實物の人目を喜ばしめざる者も其の摸倣せられて繪畫彫刻となるやよくこれを喜ばしむ。而して摸擬の方法はまた一ならざるを以て其の方法の異なるに從ひて數種の美術を生ず。形體を以て摸倣するは彫刻なり、彩色を以てするは繪畫なり、音調を以てするは音樂なり、言語及び律呂を以てするは詩歌なり。
《詩論。》〔三五〕アリストテレースおもへらく、詩は歷史に優りて事物の實相を表はすと。後の學者これを解釋する一ならずと雖も多少近世美學者の所謂想化(又は酵化)と云ふことを認めたるならむか。現はさるゝ事柄により詩歌を上品なる者と下品なる者とに分かち、叙事詩及び悲劇を前者に屬せしめ、嘲罵の詩及び喜劇を後者に屬せしめたり。アリストテレースの詩論の保存せられたる所は劇詩の論(特に悲劇の論)に委し。喜劇の目的は觀者をして面白く可笑しく感ぜしむるに在り、即ち嘻笑の外にあらず。悲劇は觀客の恐怖の情と同悲の情とを起こさしむることによりこれを洗滌し去るを以て目的とす。これをアリストテレースの有名なるカタルジス(κάθαρσις 即ち洗滌)の論とす即ち悲劇は偉大なる人物が避け難き過失に陷り而してそれがために運命彼れを不幸に沈淪せしむる樣を描出せざるべからず。觀者は之れを看て一たびは慄然として恐れ又一たびは其の偉人の不幸に同情すべし。而して看客の心に生ずる結果は其の情の洗滌せられて瀟洒なるを覺ゆるにあり。
ペリパテーティク學派
《ペリパテーティク學派、アリストテレースの著名なる門下。》〔三六〕アリストテレースの死後、其の學校の主座を占めしは彼れが親友にして博學なるテオフラストス(アリストテレースより年少なること十二歲)なり。彼れ多年敎授に從事し、又多くの著作をなし、アリストテレース學派即ち所謂ペリパテーティク學派の擴張に與りて大なる功績ありき。彼れは論理學に於いて多少アリストテレースの說に加へたる所あり。例へば假言的論法を三段論法の一種に加へたるなど其の一なり。哲學上大體の意見に於いてはもとよりアリストテレースの立塲を守れりしかども、第一原動力(究極原因)と世界との關係につき、又原動理性と受動理性との區別に就きてはアリストテレースの說に困難あることを指摘し疑ひを挾める所あり、また彼れの倫理說はアリストテレースの守持せし所よりも多くの價値を外物に置きたりといふ批評を受くれど、大體の點に於いてはもとより異なる所なし。
テオフラストスの外にアリストテレースの弟子として最も有名なるはロードス人オイデーモスなり。彼れは論理學に於いてテオフラストスと共に多少其の師の說を改良せむと企てたる所あれども,哲學の要旨に於いては師說を離るゝことテオフラストスよりも少なかりき。テオフラストスは究極原因と世界とを相離すこと又心理の論に於いては原動理性と受動理性とを相離すことに疑訝を挿みて自然論を取るに傾けりしが、オイデーモスは之れに反して超越論を取り神を以て世界を超越せる存在者となせり。後者の論は神學に傾き又其の道德論は通俗的となれり。上に擧げたる二人の外、初代のアリストテレース學徒の中、其の名を舉ぐべきは音樂の理論を以て有名なるアリストクセーノスなり。彼れはもとピタゴラス學徒なりしが後移りてペリパテーティク學徒となれり。故に彼れの著書にはピタゴラス學派の說とアリストテレース學派の說と相混和したる所あり。初代のペリパテーティク學徒の中最も肝要なるは右に舉げたる人々なり。其の後此の學派の成り行きに就きては次章に述ぶる所あるべし。
第四期 倫理時代
第十六章 倫理時代の大勢
《希臘の衰頽。》〔一〕希臘哲學の絕頂と稱すべきアリストテレースの時代は政治上より見る時は希臘の已に大に衰頽に傾ける時なりき。他の諸國に於いても屢〻其の例を見る如く希臘に於いて哲學の隆盛は政治、文學、美術等の隆盛なりし時代に後れたり。アリストテレース學派の勃興したりし頃は已にアレクサンドロス大王起こりて四方を征討し希臘の市府は政治上の獨立を失ひたる時にして此の事は希臘人の生活と思想とに大なる影響を與へたりき。盖し希臘國民が生活の中心は政治的活動に在りき。各市府各〻其の獨立を維持して各市民等しく政治に參與することは希臘人殊に其の文化の中心なる亞典市民を活動せしめたる大原動力なりしに今や彼等は政治上の獨立を失ひてマケドニアの權下に服從するの止むを得ざるに至りぬ。又かく外より大打擊を受くるに先きだち希臘の政治は內部に於いて日にまし腐敗を重ねつゝありき。希臘文化の花と呼ばれたりし亞典の歷史は其の好例なり。
《希臘文化の散布。》〔二〕かくして希臘の各市府は獨立を失ひたれども其の結果として希臘の文化は却りて外に散布したりき。盖しアレクサンドロスが遠征の結果として東西の交通を增し諸邦民族の混入を來たせるより希臘の文化は之れによりて益〻四方に廣がり、又羅馬帝國の天下を一統するに及びては希臘の文物は羅馬に取り入れられこれにより傳へられて遂に後世人類の所得となるに至れり。希臘人は其の文化を以て唯だ自國民にのみ限れるものとして他をば一切野蠻人と見做したりしが、この懸隔とこの狹隘とはアレクサンドロスの遠征又後には羅馬帝國の統一によりて破られたり。
《倫理時代。》〔三〕右の如き事變が希臘の思想界に及ぼしたる影響如何と考ふるに、第一に認むべきは個人的傾向の益〻增長せること是れなり。希臘の國民は已に政治上の獨立を失ひまた公共的生活に望を失ひたれば個人が各〻自家の安福を求むるに傾くべきは自然の勢なり。また世事の轉變して定まりなき樣を觀じては個人各自の安心を求むるにも外物に依らずして各〻自家の心の中に安立の地を發見せむとする方向にむかひたり。約言すれば希臘人の思想は個人的となると共にまた各〻自家の心中を顧みて世間の如何に轉變するにもかゝはらず變ぜず動かざる安心立命の地を我が心の中に求めむとせるなり。是れ當時の哲學の根本思想なり。かるが故に當時の哲學に於いては理論上の興味大に衰へ主として實際道德の硏究に著眼するに至りぬ。天地萬物の成立或は知識心理の事に關して固より多少推究する所はありたれどもそれすら其の要素となれる思想はおほむね在來の希臘哲學に現はれたるものに取れるにて、特に理論上の大發明大進步と稱すべきものを發見せず。されど各人が世に處する道即ち實際道德の事に至りては各學派各〻一方に偏しながら深く心を此に用ゐたるを見る。是れ此の時代を倫理時代と稱する所以なり。
《宗敎時代。》〔四〕此の時代に於ける特殊の學派なるストア、エピクーロス、懷疑の三派は要するに實際的行爲を其の學の主眼とし各自實際德を修むることによりて安立の地を得べしと信じたり。件の倫理時代はアリストテレース以後なる時代の前期なり。然るに其の後に至りては唯だ個人が各〻德を修めむと力むることを以て滿足せず道德的理想の眞實成就せられむには更に宗敎的境界に入らざるべからざることを感ずるに至り宗敎的傾向次第に盛んなるを致して遂に宗敎時代となれり。是れアリストテレース以後なる時代の後期即ち第五期にして古代哲學の末期なり。
《此の時代に並存せる諸學派。》〔五〕此の時代に並び存したる學派を舉ぐればプラトーンの學派即ち古アカデミー、ペリパテーティク學派、及び此の時代に新たに起これるストア學派、エピクーロス學派、懷疑學派是れなり。古アカデミーとペリパテーティク學派とは其の開祖所說の大體を維持して時の學派の論爭に與りて多少の力ありまた當時代の大潮流なる實際的傾向に多少感染する所ありしがしかも此等は當時の思想界を率ゐたるものにはあらず。其の思想界の大潮流を代表し當時の學界の大勢力となれるものは後なる三學派なり。此等の學派は實に此の時代に特殊なる產物なり。プラトーン學派又殊にアリストテレース學派は廣く諸種の學科を硏究せる點に於いては當時の新潮流を代表するストア、懷疑、エピクーロスの三學派が實際的問題に專なるが如きとは其の趣を異にせる所あり、然れども當時の道德的生活に實際上大勢力を有したりしは却つて此等の三學派が各〻一方に偏して圭角ある倫理說を主張したるかたに在りき。此等の學派は偏僻に失せる所はあれど其の偏僻なることが却つて一種の勢力となれり。當時は一方より云へば諸種の學派が相競ひ相爭ひたる學派並立の時代ともいふべく、また新たなる大潮流の方より云へば倫理時代と稱すべし。
《此の時代の學風の二傾向。》〔六〕以上述べ來たれる理由により當時の哲學は倫理道德の實際的方面を其の硏究の主眼となし理論上の根本思想は槪ねこれを在來の學說に取り、ただ之れを當時の更に複雜になれる時世に適合せしめ之れを相混和し又多少變形せしむることに力を用ゐたり。當時の學風は、云はば分科的となりて一科々々の硏究には頗る細密となれる所あり、また之れと共に博覽といふ事が當時の一傾向となれり。約言すれば當時の學風には一方には在來の學術の歷史及び其の他の故實來歷の穿鑿又其のほか局部的事實の考究を事として博覽を競ふことと一方には安心立命の實際問題に著眼することとの二傾向あり。故に知識の方面より云へば諸種の事物の局部的穿鑿は盛んなれど大體に亘れる萬物の根本理を眞に達觀する大見識出でず從ひてまた大理論的組織の見るべきなし又其の結果として學說の爭ひに於いて當時に重きをなせるは傑出せる個人よりは寧ろ學派なりき、而して學派の相對峙する差別も亦理論上よりは寧ろ倫理道德の實際的問題に關する意見にありき。而して又實踐哲學の方面に於いても主に社會國家の上に著眼せるプラトーン、アリストテレースの所說とは異なりて個人的道德を說くを主眼としき。
《ペリパテーティク學風の變遷。》〔七〕ストア學派を講述せむ前に一言ペリパテーティク學派と古アカデミーとに就いて述べおかむ。先きにペリパテーティク學派に於いてテオフラストスの流れ即ち內在論とオイデーモスの流れ即ち超越論との對峙は已にアリストテレースに親炙したる人々の中に起これることを述べたりき。ストラトーン(西紀前二百八十年より同二百六十九年までテオフラストスに次ぎてリュイカイオンの首座にありし人)に於いてはテオフラストスの內在論の傾向は更に著るくなりて遂に自然的思想に陷れり。ストラトーン以爲へらく、アリストテレースの所謂純なる相及び素は二者共に無用なるのみならず不都合なる者なりと、乃ち之れを捨てゝ神と世界とを一にし、思考と知覺とを一にし、天地萬物は凡べて自然の必然作用によりて成るものなりとし、森羅萬象は本來存在する種々の力のなす所、而して其の力の中最も主なる者は寒と暖とにして殊に暖を以て活動的のものなりとせり。希臘哲學の最も古きイオニア風の思想が彼れに於いて復活せるを見るべし。この古代の物理思想の復活はアリストテレース以後の希臘哲學の一特色といふべし。廣く諸科學を硏究したるペリパテーティク學派の人々に於いてはまた局部的硏究の傾向を看る。彼等の特に長じたりしは歷史的硏究(殊に文學及び學術に關するもの)なりき。この局部的穿鑿と博覽とを求むる傾向は年をおひて益〻盛んになりしがアリストテレース以後第十一の學頭たりしアンドロニコスに至りて再び哲學の組織に著眼しアリストテレースが哲學の本意を更に硏究し復興せむとせり。彼れの編纂せしアリストテレースの著作が本となりて其の後アリストテレースの眞說を組織的に闡釋せむとすることおひ〳〵に進み來たり遂に其の學祖の哲學を註釋することを以て此の學派の主要なる職務となすに至れり。アフロディシアス人なるアレクサンドロス(紀元後二百年頃の人)の如きは註釋家として最も有名なる者也。
《古アカデミー學風の變遷。》〔八〕古アカデミーは曾て述べし如く大にピタゴラス學派と接近し彼れは此れに、此れは彼れに影響を及ぼして兩者殆んど相和せむとするに至れり。アカデミーの學徒はおもにピタゴラス派の數論に化せられたるプラトーンのイデア論及び其の晚年の思想なる自然哲學に心を注ぎまた分科的、局部的の穿鑿に心を傾けたりき。又其の道德論は通俗的修身講義の如くなり且つプラトーンに在りし經世的傾向漸くに失せて個人の修身說を主眼とするに至れり。是れ要するに當時の社會の大勢につれたる變遷なり。古アカデミーは後に至りて懷疑派に轉ずる迄は哲學上特に著るき事業を成せることなくまた其の及ぼせる影響は已に上にも述べたる如く當時の新精神によりて起こりまた其の新精神を代表せるストア、エピクーロス等の學派に比して遙かに其の下に在りき。
第十七章 ストア學派
《所謂ストア學徒。》〔一〕倫理時代に現はれたる諸學說の中、哲學として最も大なる組織を成せるはストア學派なり。此の學派はキプロス島人ヅェーノーン(西紀前三百四十二年より仝二百七十年頃迄)〈ヅェーノーンの血統は希臘人にはあらざりしなるべし〉の創立する所にかゝる。彼れ亞典府に來たりてキニク學徒なるクラテースに學びて大に之れに心を寄せ、またメガラ學派のスティルポーン、プラトーン學派のクセノクラテース及びポレモーン等に聽きたりしが、後に自立してストア、ポイキレー(彩色したる堂の義)に自家の學派を開き同志の輩を集めたり。是れ此の學派のストアと稱せらるゝ所以なり。
此の學派はヅェーノーンの創立に係かれど一人が一時に作り上げたるにはあらで數多の歲月を經數多の人によりて作り上げられたるものなるが故に同じくストア派の學者にても人により時によりて其の所說必ずしも全く同一ならず。斯く人と時とによりて多少の差別はあれど全體の趣に於いて同一の趣を帶び同一の流れを汲める者を總稱してストア學徒と名づく。學祖ヅェーノーンの次ぎに此の學派の領袖として有名なるはクレアンテース也。彼れは夜は卑賤なる家業を營み晝は道をヅェーノーンに聞けりと傳へらる、其の品行の堅固なることはキニク學派の所謂賢人の理想を傳へたるかの如く見ゆ。彼れは此の點に於いて時人の大なる尊重を受けたれども哲學上の學說に於いては別に深く考へたる所ありとは見えず。次ぎにストアの學說を大成し浩澣なる著作をなして此の學派を擴張しそを當時の學界の大勢力となしたるはクリシッポス(二百八十年―二百〇六年)なり。クリシッポスなかりせばストアはあらざりしならむ。
ストア學派の所說は大に當世の需要に應ずるものなりし故に、啻に倫理學說の上に於いてのみならず實際人心の修養上に與りて大に力ありき。ストア學は當時に大勢力ある一の學風を成したり。然れども其の主義を擴張して多數の人々を感化せむには此の派最初の所說は餘りに嚴に過ぎて融通し難き所あるを以て其の圭角を去りて世間實際の用に適せしむべき必要を感じ而して此の必要に從ひて此の學派を更に當世に擴張してストアの名聲を高め羅馬に於けるそが不拔の根據を据ゑたるをパナイティオス(西紀前二世紀の中頃の人)とす。ストア學派は彼れに於いて一步を轉じたりと稱せらる。ポシドニオス(西紀前百年頃の人)に至りては折衷的傾向更に著るくなれり。
羅馬の帝王時代にはストア學は盛んに其の首都に行はれき。希臘哲學の中、羅馬に於いて最も確乎たる根據を得たるはストア學派なり。其の所說の頗る羅馬志士の氣風にかなひたるは其の一原因ならむ。而してストア學は羅馬の學者間に於いては更に益〻實際的傾向を帶び來たりて哲學上の組織的又理論的硏究よりは寧ろ通俗の道德論を主眼とするに至りまた之れと共に漸く宗敎の趣味を加へ來たりぬ。一般思想の潮流が宗敎時代に近づきつゝあることは此の學派の變遷にも明らかに見るを得るなり。羅馬のストア學徒中にて最も有名なるはセネカ(ネロン帝の師傅、紀元前五年頃より紀元後六十五年迄の人)、身奴隸より起こり後にストア學者として時人に敎を垂れたるエピクテートス(紀元後六十年―百二十年頃の人)、及び羅馬ストア學派の華と云はるゝ明君マルクス、アウレリウス、アントニーヌス(紀元後百二十一年―百八十年)なり。
《ストア學派硏究の主眼は倫理道德にあり。》〔二〕前に述べし如くストア學派は時代によりて變遷あれども其の學說を組織することに於いて最も力ありしはクリシッポスなりと云はざるべからず。今ここには成るべく廣くストア學徒に通じて哲學上其の主要の思想と見るべきものを取るべし。希臘ストア學者の著書多くは失せて今遺存せるは槪ね羅馬ストア學者の著作なるを以て其の原初の學說は歷史的著述によりて考ふる外なし。
ストア學說は其の內部の構造に統一を缺ける所あり。彼等は在來の希臘哲學に存せし幾多の思想を取り入れて之れを結びたれども其の結合は十分に成効せざりき。是を以て其の變遷するに從ひて折衷的傾向次第に明らかに現はれ來たることとなれり。
ストア學徒は當時廣く用ゐられたる區別に從ひて哲學を三部分に別かてり、論理、物理、倫理是れなり。されど其の主眼とせる所はその第三のもの即ち倫理道德の硏究にありき。
《ストアの知識論、眞理の窮極標準。》〔三〕ストア學派の論理に於いて哲學上注意すべきは眞理の標準の論、換言すれば知識論なり。知識論に於いてストア學徒はキニク學派の學脈を受けてプラトーン及びアリストテレース等の通性論に反對し通性は眞實存在するものにあらず唯だ吾人が主觀に思ひ設けて言語に言ひ現はせるもののみと考へたり。後世の用語にて云へば彼等は名目論風の說を取れり。其の論に曰はく、凡べて吾人の知識は感官を以て個々物を知覺することによりて成る、吾人が心の本來は拭へる板の如し、吾人の心中に生ずるは皆外物の印象に外ならずと。見るべしプラトーンの知識論とは全く其の趣を異にして一種の感覺說と稱すべきものなるを。尙ほ曰はく、かくの如く知識は感覺に始まり、感官を以て知覺したることが後に遺りて記憶となり、記憶積みて經驗となる、而して經驗を基として推論するに至りて始めて遍通的觀念は成る。而して件の觀念の組織的に立せられざるは通俗の知識にして、其の組織的に造り上げられたるは即ち學識なり。斯くの如く吾人が諸〻の事物を經驗することに依りて造り上げらるゝ遍通的觀念の中凡べての人の必然に具有し且つ一致する觀念あり。此等の觀念は各人が擅まに造りて自他の間に一致を期すべからざる觀念とは異なる本然の槪念なりと。而して或ストア學者は此等の槪念をば吾人の知識殊に道德の上に於ける動かすべからざる根據と見たり。此くの如くストア學徒に從へば吾人の知識は外物より受くる印象によりて成り而して主觀に存する方面に於いては知識は畢竟吾人の觀念の造る所に外ならず。然らばその觀念の眞なるか妄なるかは何によりて定むべき。曰はく眞なる觀念とは其の對境即ち客觀の事物に合せるものをいふ。然らば觀念がその對境に合へるか否かは何によりて知るべき、換言すれば眞理の窮極の標準は何ぞ。曰はく、眞なる觀念の眞なることは其の觀念に伴へる直接の證明によりて知らる眞理はそれ自らの眞理なることを知らしめ他の證明を待たざること猶ほ光が他に照らさるゝを待たずして自ら明らかなるが如しと。然らばストアの學說に從へば眞妄の窮極の標準は畢竟吾人が主觀上自明なりと認むることに在りと云はざるべからず。
《ストアの物心一元論。》〔四〕ストア學派の知識論は其の大體の組立に於いては經驗說、感覺說なれども道德上の根本思想を說く時は多少理性論の趣を帶べる所あり。而して之れと共に其の物理論にも亦二つの方面あり、一面は物質論、他面は精神論是れなり。ストア學徒は一面に於いては凡べての事物は物質の必然的作用によりて生起すと見他面に於いては其の自然的に生起することが即ち理性の目的ある働きに外ならずと見たり。其の自然哲學に曰はく、凡べて實在するものは物體なり神と云ひ人間の靈魂といふも物體以外のものにあらず。然れども所謂物體に二面あり一面は物質にして一面は精神なり。盖しストア學徒は物質と精神の活動とを引き離して考へず物質其のものに精神の働きは具はると說けり。而して如何なる物質より萬物は成れるかといふに彼等はヘーラクライトスの學流を汲みてそを火と見たり。火は根本的物素にしてまた根本的精神なり、火は靈妙なる働きを具して萬物皆これより成れり。かくストア學派の物理說は物心を二分せざる一元論にして正さしく希臘哲學の始めに現はれたるイオニア學派風の物理說の再現せるものといふべし。さきにも云へる如く希臘哲學の在來の思想の復活する事これアリストテレース以後の希臘哲學の一特色なり。
《神火即理性論。》〔五〕ストア學徒は此の火を神と名づけまた之れを宇宙の理性と見たり。おもへらく萬物に秩序あり、目的あり、意味あるは皆此の神火即ち宇宙の理性(λόγος)の爲す所なり、此の宇宙の本體たる火の一部分は吾人の所謂通常の物質となり一部分はそを活動せしむる勢力即ち精神となる。地水火風と四つに分かたれたる所より云へば火は他のものを活動せしむる勢力また精神たるなり。此くの如く萬物は一元より成れども又遂に萬物が神火となり了することあり、而して是れ世界の終極なり。然れどもまた神火に具はる約束に從ひ更に新世界成りかくして循環止むことなしと。かく說ける所より見ればストア學派の自然哲學を名づけて一種の萬有神敎と稱するも妨げなかるべし。ヘーラクライトスが萬物不斷に流轉しながら其の中に變はらざる道(法則)あるを說ける如くストア學徒もまた一元論を唱へて宇宙は一元の働きなりとし其の一元は一面物質なれども他面道理を具へ目的を具へたる精神なりと說き、宇宙の一致と調和と美とを說き、また天地萬物に通ずる法則が凡べてを支配して遺漏あることなきを說くに力を用ゐたり。宇宙の大法といふことはストア學派に於いて忘るべからざる主要の觀念なり。盖しロゴスの論は此の學派に於いて甚だ肝要のものたる也。
《靈魂論。》〔六〕地上に於いて最も高等なるものは人間なり、人間の靈魂は宇宙の神火の一部分を受けたるものに外ならず、人間に於いて最も尊き理性は宇宙の理性(言ひ換ふれば神)の宿れるものといふも可なり。個人の靈魂が死後も尙ほ存在するか否かに就きてはストア學派に一定の論なし、或は凡べての人の靈魂は死後になほ存すと云ひ或は賢者の靈魂のみ死後に存すと說く等の異說あり。
《自然と理性。》〔七〕さきにも云へる如くストア學派の重きを置けるは倫理の論にして論理及び物理の論は之れに對しては第二等の價値を有するのみ。ストア派の道德論に於ける根本思想は宇宙を支配する道即ち神の理法といふ觀念にして彼等は其の理法を知りて之れに從ふが人間の務むべき所なりと說けり。此派の格言に曰はく自然(φύσις)に從ひて生活せよと。茲に謂ふ自然は即ち理性の謂ひにして廣くは自然界に通ずる道、狹くは人間の性なり(人性の特殊なる所は其の理性に在り)。故にストア派の說く所に從へば性に率ふと云ふは天命(神即はち宇宙の理性)に從ふと云ふと同意義なり(吾人をして『中庸』に說ける所を思ひ出ださしむ)。而して性と云ひ道と云ひ神と云ひ自然といふも窮極する所道理を具へて働くもの即ち理性といふことに歸す。理性に從ふが理性を具ふる人間の自然の性なり、自衞の性は凡べての物のおのづから具ふる所吾人は此の自然の性に從ふべし而して人間の自衞の性は理性を守るに在り理性を守持するに與りて利あるもののみ眞に吾人に取りて價値あるものなり。さきにソフィスト時代に自然に從へといふ思想を觀たりしが其の自然といふ觀念がストア學派にはソークラテースの道德論の影響によりて理性と云ふ觀念と契合せり。盖し此の學徒はソークラテースに從うて有德の生活は知見の指揮に從ふ生活に外ならずと說きたるなり。
《德は理性に從ひて生活するにあり。》〔八〕ストア學派の道德論はキニク學派の脈を引ける所多し。以爲へらく、善しと云はるべきものは德のみ惡しと云はるべきものは不德のみ他のものは凡べて善ならず惡ならざるものなり而して德は理性に從ひて生活するに在り富貴、貧賤、快樂、苦痛、疾病、生死等は皆善くもなく惡しくもなき無記のもの(ἀδιάφορα)なり。此等無記のものに價値をおきて心を動かさるゝ是れ即ち不德の根元なり。故に理性に從へる生活即ち有德の生活は消極的に云へば煩惱を脫したる生活なり、而してストア學徒の有德の生活を說くやおもにこれを消極的方面より見たり。吾人の道德は些も外物及び外界の出來事に動かされざる狀態即ち不動心(ἀπάθεια)を得るに在り。
《理性、物欲、知見、意志。》〔九〕ストア學派の倫理說は理性と物欲とを相對せしむる二元論にして其が哲學上の一元論と相合し難し。若し理性が凡べてに通ずる自然の道ならば凡べての物はおのづからに理性に從ふ筈なり、吾人の性もまた理性ならば吾人はおのづから理性に從ふべき筈なれば、此の見地よりする時は何故に之れと相容れざる物欲の存するかは解し難し。かくの如くストアの學說には二個の思想の未だ十分結合されざるものあるを見る。
ストア學徒はかくの如く理性を宇宙の道と見、吾人はこれを規範として之れに從ふべきものなりとしたる所より吾人の現に在る
ストア學派の道德を說くや一方に於いて意志の自由を主張するとともにまた天地萬物が皆宇宙の必然法によりて支配せらるゝことを說き此の二個の思想は十分に調和せず。然れども姑らく此の事を措きて考ふれば其の意志の力に重きを置きまた爲人に重きをおきたる所はストア學派の道德論に於いて注意すべき點なり。
《德不德の差別。》〔一〇〕德不德の根本差別は外形に現はれたる動作にあらずして爲人にあり、心根に在り。故に其の心根が道に合ひ理性に從へば德はおのづから行はれ、其の心根が道に合はざる時は一として德の具はるべき理なく其の人の行ふ所凡べて不德となる、故に德と不德との間には段階なし、一德眞に修まると云はれむには凡べての行爲の根本たる心根が理性に合せざるべからず、心根にして理性に合せむか、事に應じ物に應じ行ふ所凡べて德行として現はれ來たるべし。一の不德を爲すといふは其の心根が理性に合はざるを證するものにしてかくの如き心根よりする時は事每に不德なるべし。故に人間は有德なるか不德なるかの二つに分かれて其の中間を容れず。即ち人間には二種類ありて賢なるか愚なるかの二つに歸す。聖賢は凡べての德を具へ凡べての事に於いて宜しきを得行ふ所悉く道に合ひ圓滿の德を具足す。然れども人間の多數は愚人なり愚人は即ち不善人なり。
《ストア學派の世界主義。》〔一一〕ストア學徒は德の種類を揭げて之れを審かにすることを力めたり。其の中こゝに最も注意すべきは其の公共心を尊びしことなり。アリストテレース以後の希臘に於ける倫理思想の大勢は靡然として個人的傾向を帶び來たりたれど、ストア學派は他にまさりて尙ほ社會的方面を維持せるものなりき。故に彼等は國家に對する義務及び家族に於ける道德を重んじたり。此の點に於いてストア學派の道德說はキニク學徒の道德說と異なれり。後に、殊に羅馬のストア學徒が明らかに博愛の德を說くに至りて希臘の道德思想が一種の新光彩を放てるを看るべし。ストア學派はまた理性を遍通の法則と見たるが故に理性に從ふ者即ち賢人を以て民族、血統、人種等の區別を脫し一國家の臣民として生活する以上に同じく理性に從ふ人間といふ關係に於いて廣き圑體の一員として生活する段階に進める者と見たり。是れ所謂ストア學派の世界主義なり。之れを當世に於ける政治上の關係より見れば羅馬が凡べての人種を網羅して大帝國を建設せる偉大なる事業がストア學派の哲學的道德說に現はれたりと謂ふべし。
《ストア道德論の常識化。》〔一二〕前にも云へる如くストア學說の廣く行はれまた其の學徒が其の所說を廣く世人に服膺せしめむとするに從ひて其の學說殊に道德論の圭角を去るの必要を感じたり。彼等は先づ無記の物の論に於いて多少假借する所ある事となり無記の物をば狹義に所謂無記のものと或條件の下に於いては多少價値を置きて然るべきものとの二つに分かち、例へば健康、位地、名譽の如きは道德を害せざる限りそを求むべき多少の價ある者と見るに至れり。またストア學派の理想的人間即ち聖賢の不動心を說くや初めは外界の變動の爲めに全く喜怒哀樂の情を動かさざる者の如く極めて嚴かに說きたれども其の實際に通じ難きより聖賢と雖も多少外物の變動によりて其の情の動かざるにはあらず唯だ其の情に任せずして直ちに之れを制御する自在力ある所即ち聖賢の特色なりと說くに至れり。且つ此の派の學徒は初めは其の理想とせる聖賢の實際世間に存する事を確認し例へばソークラテース、アンティステネース、ディオゲネースの如きは即ち其の人なりとし又各人勉めて止まずんば何人も遂にかゝる聖賢の地位に達するを得る者なるを信じて疑はざりしが後に至りては世間果たしてかくの如き圓滿なる理想の人(聖人)あるか、吾人の孱弱なる果たして能くかくの如き地位に達し得べき者なるかを疑ふに至れり。是に於いて彼等は初めに人間には賢人と愚人との二階級あるのみと考へたるを改めて尙ほ其の中間に漸次に進步し得る者また進步しつゝある者の階級を置き且つ愚人と雖も之れを見てただ濟度し難き者、共に語るに足らざる者として卑下するに代へて之れに對するに憐愍の情を以てするに至りぬ。殊に羅馬のストア學徒に至りて益〻然るを致したりき。且つ彼等に至りては宗敎的傾向益〻著るく、吾人の弱きこと、罪あること、自力のみにて全く善業を成就するの難き事、從ひて神明の冥助を要する事等の思想漸々に起これるを見る。
《ストア學徒の宗敎に對する見解、態度。》〔一三〕かくの如く羅馬時代に至りては宗敎的傾向益〻著るかりしが本來ストア學派は宇宙の理性是れ神なりと說く萬有神敎にして宗敎的方面を具ふるものなりき。彼等は天地の道に從ひ天命に安んずるを以て宗敎の極意となし心の淸きこと是れ即ち敬神の道なりとし眞正の宗敎は哲學及び道德と二ならざるものと見たり。そは知識の發達せる人々の宗敎に對する彼等の見なるが通俗の宗敎に對してもストア學徒は敢て攻擊の地位に立たず、寧ろ其の中の種々の傳說を譬喩と解して其の中に高等なる眞理を發見せむとせり。
《其の安心立命の地、自殺論。》〔一四〕ストア學派の根本思想は外物に依賴せずして各人自家の心中に安心立命の地を得むとするにあり、これ當時の人心の向かふ所を示せるものなり。而してストア學派は件の安心立命の地をば各自の有德なること、即ち德を修むることに得べき滿足に求めたり。以爲へらく德は各人の理性に存し意志に存して外物の變動に拘らざるもの、他人の奪ふべからざるものなり。他人は我が身體を傷つけ生命を奪ふことを得べきも、些も理性(即ち我が眞個の價値)を傷つくること能はず、我が價値を害ふものは我れ自らの意志のみ、他物の爲す所に非ず。吾人は吾が理性を守ることに動かざる滿足を覺することを得。若し道を失ふことなくば吾人は常に安靜なるを得、死と雖も吾が累をなすに足らず。約言すれば我れ若し己れの主人たるを得ば凡べてのものの主人たるを得べしと。是れストア學者が安心立命の地なり。
斯くの如く生死を輕んずる所よりストア學徒は吾人が世に存する理由を失ふ時は隨意に自殺するを以て正當なりとし又之れを以て各人の貴重なる權となし吾人は存らへて他物に制せられむよりは寧ろ靜かに此の世を辭すべしと考へたり。此の心よりして此の派の開祖ヅェーノーンの如きクレアンテースの如きは自殺して死しきと傅へらる。中には意志の力を信ずることの厚き自ら我が氣息を止めて死せし人もありきといふ。ストア學徒はやゝ奇僻に陷り常道を外るゝ嫌ひありたれど兎に角當代の道德的生活に一大勢力を與へ一大活氣を添へたることに於いて其の功績の偉大なりしこと蔽ふ可からず。羅馬の名將、政治家、又明君と云はるゝ人々の此の學說を奉じたるもの少なからざりき。
第十八章 エピクーロス學派
《エピクーロスの生涯、人物、學徒。》〔一〕ストア學派と同時代の產物にして究竟する所同一の問題を解釋し同一なる時勢の需要に應ぜむとして出でしかも其の學相に於いてストア學派の正反對に立てる者をエピクーロス學派とす。此の學派を創めたるエピクーロス(Ἐπίκουρος)は亞典府人の子、西曆紀元前三百四十二(又は一)年サモス島に生まれ、後亞典府に在りて敎授を始め其の庭園に同志を集めて其の學派を開けり。其の人物温厚にして深く人に愛敬せられたり。彼れの說きし哲學は實用を專らとし常人に解し易く學術上多くの修練なき者も其の學派に入るを得しかば集まり來たるもの夥しく其の勢頗る盛んなりき。婦女子も亦其の圑體に入れり。彼れ紀元前二百七十年に逝りぬ。著述せし所頗る多かりしが其の今日に存する者甚だ少なし。エピクーロス學派は大にストア學派と異なりて其の哲學の組織は已に其の學祖に於いて完備し、學徒は專ら之れを傅ふるに止まり其の學說の彼等によりて變更され發達せしめられたる所なかりき。
此の學派の人々の中有名なる者を擧ぐればエピクーロスの親友なるメトロドーロス、又降りては有名なる羅馬の詩人ルークレシウス(紀元前七十年頃の人)等なり。ルークレシウスは其の有名なる述學の詩にエピクーロス學派の世界觀を解說せり。此の學派も紀元後三百年頃迄繼續したりき。
《エピクーロスの快樂說。》〔二〕ストア學派がキニク學派の脈を引けるが如くエピクーロス學派はキレーネ學派に得たる所あり。キレーネ學派の最初の說はをさなき粗笨なる快樂說にして眼前の歡樂を主眼としたれども其の快樂說を生涯の主義として揭ぐる時には已にアリスティッポスに見えたる如く多少快樂の選擇を說かざるべからず、其の學派の後に至るに從ひてます〳〵思慮を用ゐて快樂苦痛を比較選擇する必要を感じ遂には轉じて厭世的傾向を帶ぶるに至れりき。而してエピクーロスの說く所は熟盧靜思して吾人が生涯の幸福(快樂といふ意味にて)を得るを目的とせよといふにありて古代の快樂說中最も磨き上げたる學說なり。彼れが學說の全く實用的なることはストア學派にも優れり。エピクーロス學徒は哲學を以て唯だ個人が各〻樂しき生涯を遂ぐる所以の方便を見出だすものとのみしたり。即ち哲學は彼等に於いて遂に處世の方便に過ぎざるものとなれり。
《其の唯物的元子論。》〔三〕かくの如くエピクーロスは天地萬象の究理の學を以てそれ自身には價値なきものとしたりしが、この世には安樂なる生活を爲す妨げとなるべき多くの妄想迷信ありて吾人はこれが爲めに無益なる煩悶苦痛をなし失望し失敗すること多きが故に物理の學は此等の妄想を驅逐する益ありと考へたり。彼れは自家の意見に合ふ物理說をデーモクリトスが元子論に發見せり。以爲へらく、物理上より看れば世には神怪不思議の在るべき筈なくまた感官以上のものの存在を認むる必要なし。凡べて存するものは虛空と虛空の中に散在し又運動する元子とあるのみ森羅萬象は皆元子の集散離合するによりて成ると。彼れの元子論は畢竟デーモクリトスの說を襲へるものに外ならず。唯だエピクーロスは元子の形の種類は數に於いて限りありと考へ又原子は本來上より下に直下するものなれども其の中少しく左右に
《死後の生活なし。》〔四〕吾人の靈魂は火氣にして甚だ動き易き元子なり而して吾人の死するや件の原子は離散するが故に死後の生活てふものなし。此の故に吾人は死後地獄に墮ちむといふが如き恐れを懷くを要せず。但しエピクーロスは神々の存在を許せど其の所謂神は人間の如き形を具有し唯だ人體よりも精微なる不死のものにして、世界と世界との間に住み自足して毫も他に求むる所なき者なり。此等の神々は吾人の世界に對して少しも心を用ゐることなく些も吾人に求むる所なければ吾人は彼等を恐れまた彼等に媚ぶる必要なし。吾人は須らく此等一切の迷信的恐懼を去るべし。
《知覺、想像、記憶及び意志の自由。》〔五〕知覺は外物の影像(εἴδωλα)が感官より入りて靈魂の原子に接し其處に運動を起こすことによりて生ず。想像も亦同じく外より影像の來たるによりて生起す。記憶は曾て起こりし靈魂原子の運動の再起するによりて生ず。意志は靈魂に起こされたる運動が身體に傳はる所に起る。此くの如くエピクーロスは凡べての心作用を全く物質の上より考へたるにも似ず固く意志の自由を主張せり(これは其の元子論に直下運動より隨意に左右に
《眞理標準論。》〔六〕かゝる物理說を取れる所より其の知識論即ち眞理の標準論(此の學派にてはカノニックと名づく)もおのづから感覺說なり。以爲へらく凡べて吾人の觀念は皆五官の感覺より來たるを以て眞理の標準は畢竟ずるに感官の知覺に訴へざるべからずと。此の派の感覺的經驗論は其の唯物論と同じくストア學派の知識論に存せるものよりも更に單純又著明なり。
《個人的快樂說。》〔七〕エピクーロス學派に於いては其の物理論及び知識論は前にも云へる如く道德論の附屬物なり。而して彼等の說が物理論上原子論なる如く道德論に於いては個人的快樂說なり。以爲へらく、個人は各〻獨立のものにして自家の快樂を得るを目的とす我が快樂以外に善しと云はるべきものなく苦痛以外に惡しと云はるべきものなし。されど吾人は眼前の快樂をのみ觀るべからず或快樂は却つて多くの苦痛を招致する恐れあるを以て吾人は快樂を較量選擇せざるべからず而してそをなすものは即ち知見(φρόνησις)なり。故に知見は德の根本なり、種々の德は知見が種々の塲合に應じて働けるものに外ならず。
《平靜なる快樂、アタラクシア。》〔八〕快樂には欲求を充たす働(即ち運動)によりて起こる動的快樂(ἡδονή ἐν κίνησει)あり。然れどもこれに比して更に價値あるは苦痛なくして安靜なる狀態の快樂なり。如何にして之れを得べきか。これを得むには欲望を燃やさず心を騷がさず寧ろ寡欲にして足ることを知るべし。エピクーロスは吾人の需要を三種類に大別して曰はく、一は自然に具はりて生活するに缺くべからざるもの也。二は自然に具はりたる者なれど止むを得ざる場合には缺くことを得るもの、これを滿たすは吾人の幸福を增す所以にして敢て之れを壓抑するを要せず。三は吾人の
《ストア學派と同じく意志の力を重んず。》〔九〕エピクーロスが精神(意志の力)に重きをおくことの大なる、縱令身體に苦痛はありとも我が心の持ちやうにて泰然自若たるを得と說くあたりは恰もストア派の說に髮髴たり。エピクーロス學派の理想的賢人はストア學派の理想的賢人に似て其の欲望を制することの全く自在なる者なり。エピクーロスの有名なる語に曰はく我れに麵包と水とあらば幸福に於いて天帝に讓らずと。之れを要するにエピクーロス派の學相は一面ストア派の正反對に立てどそが人生の理想を描きて安靜なる生活を送らむには外物の欲望に束縛さる可からざることを說くに至りては甚だしく相接近せり。吾人は壽命にも執著することあるべからず。エピクーロス學徒も隨意に自殺することを可とせり。說きて曰はく死は毫も恐るべきものに非ず。吾人が恐るべき死に逢ふことありと思ふは迷妄なり、我れの生き居る間は死來たらず死すれば我れ居らず我れと死と遂に相逢ふべき時なきなりと。
《個人的、自利的。》〔十〕エピクーロス學派の所說は全然個人的にして、當代の個人的傾向を最も明瞭に代表せるものなり。以爲へらく、社會は人類が互に危難を避け各自平安なる生活を營まむが爲めに組織せるもの即ち人類が自利を計るの思慮よりして造り出だせるものに外ならず。賢者は成るべく國務に與りて累を蒙むることをなさずと。かく國家の職務に服することを避くるのみならず、エピクーロスは家族の生活にも疑ひを挾み、婚姻は却つて係累を多くする恐れあればとてむしろ之れを避けむことを勸めたり。かくエピクーロス學徒は國家及び家族の團結を輕んじたる代はりに特に朋友の交情に重きを置けり。
各自優美に自家の安靜なる生活を求むることがエピクーロス學派の眼目とする所なり。是を以て此の派の理想的賢人はストア派の理想的賢人の如く偏屈ならざる代はりに義務の念を缺き個人が遍通の法則に對する嚴格なる念盧を缺けり。此のエピクーロス學派の個人的、自利的快欒說に於いて當時の希臘羅馬の社會の狀勢を窺ふべし。
第十九章 懷疑學派及び折衷說
ピルローン學徒
《ピルローンと其の弟子ティモーン。》〔一〕キニク學派の脈がストア學派に傳はり、キレーネ學派の脈がエピクーロス學派に傅はりたるが如く、キレーネ學派及びキニク學派が其の起原に於いて親密の關係を有するソフィストの流れが懷疑學派に於いてアリストテレース以後の哲學に傳はれるを看る。アリストテレース以後の哲學に於いて懷疑說を主張したる最も古きものはピルローン學徒なり。エリス人ピルローン(Πύρρων)はアナクサルコスと共にアレクサンドロス王の遠征に從ひて東方に行きしことあり。彼れが如何なる人に師事せしかは明らかならざれどもエリス、メガラ學派の說を聞きしことあるらしく考へらる、而して其の懷疑說はソフィストの流れに連絡する所ありと見て不可なかるべし。紀元前二百七十五年乃至二百七十年頃に九十歲ほどの高齡を以て歿せしが如し。彼れが書を著はしたることを知らず其の說の後人に知らるゝは其の弟子なるフリオス人ティモーン(Τίμων 紀元前二百四十一年以後に死せり)によれり。ティモーンは書を著はすこと多かりきといふ。ピルローンの徒を懷疑學徒とはいふものから其の執る所懷疑說にして天地と人生とに關する知識(攷究)を拒否せしなれば他の四大學派(プラトーン、アリストテレース、ストア及びエピクーロスの學徒)が團體を結びて講學に從事したりしとはおのづから其の趣を異にせり。
《其の懷疑說。》〔二〕ピルローンの懷疑說は畢竟ずるに吾人の知覺の一切關係的なることを以て其の根據となしゝが如し(是れ已にプロータゴラスの說に出でたるもの)。以爲へらく、吾人が事物を知覺すといふも眞實知覺する所は事物そのものの狀態にあらずして唯だ其の事物が其の塲〳〵に吾人に對する關係に於いて吾人に現はるゝ樣のみ、故に凡べての塲合に通じ凡べての人に普遍不易なる眞理といふが如きものあること能はず。吾人の感官といひ理性と云ひ共に個人の主觀の上に止まるものにして吾人は何事をも「然り」と斷言すること能はず唯だ〳〵吾人に「しか見ゆ」と云ひ得るのみ。故に吾人の正當に爲すべきことは凡べて判斷を止むること(ἐποχή)是れなり。凡べての世說といひ風儀といふものも畢竟ずるに世人が自ら造り設けたるもの(νόμος)にして本來自然に一定したる不變不易のものにあらず。如何なる斷定に對しても能く吾人は其の反對を主張することを得べしと。
《一切是非の判斷を止むべし。》〔三〕ティモーンに從へば幸福なる生活を送らむには須らく三つの事を明らかにすべし。一に事物の成り立ち如何といふこと、二に吾人が其等の事物に處する道如何といふこと、三に之れに處するよりして如何なる結果を來たすかといふこと是れなり。然るに吾人は右に述べしが如く事物其の物の成立を知ること能はざれば凡べての判斷を事物に對して固執するは誤れり、故に事物を斷定して是と云ひ非といふ共に正當の根據を有するものに非ず、故に事物に對して吾人の處すべき道は是非の判斷を止むるにあり。是非の判斷を止むれば如何なる事柄の起こるとも吾人はそれに對して無頓著なることを得換言すれば事物を善くも惡しくもなき即ち無記のもの(ἀδιάφορα)と見ることを得、是に於いて吾人の心は平靜にして外物の變遷によりて攪擾せらるゝことなきに至るべく此の心の平靜を得ることに於いて吾人は始めて眞正の幸福に達するを得べしと。かくの如く懷疑學派の旨とする所は理論上に於いてもまた實際上に於いても共に是非の判斷を止むるに在り。其の取る所はストア並びにエピクーロス學派とは大に其の趣を異にすとはいふものから其の吾人が生活の目的として到達を期したる事に於いて如何に相同じき所あるかを見るべし。此等の學說は凡べて當時の人心が外界の變動に動かされずして各自安靜ならむことを求めたるに應ぜむとしたりしものなり。
新アカデミー
《アルケジラオスの懷疑說。》〔四〕懷疑說が一大勢カとして當時の學界に認めらるゝに至れるはアカデミーが中途にー轉して此の說を主張するに至れりし後のことなり。アカデミーをして懷疑說に轉ぜしめたる人をアルケジラオス(西紀前三百十一年に生まれ二百四十一年或は四十年七十五歲にして死す)とす。彼れは著書を遺さざりしを以て吾人の其の說に就きて知り得る所甚だ不十分なり。彼れはストア學派を攻擊して其が確實なる知識を得べしと說けるを駁し吾人の觀念の眞否を定むる標準なしと論じたり。彼れに從へば吾人は感官を以ても又思考力を以ても事物を眞實に知識すること能はず故に吾人の正當に取るべき道は判斷を止むるに在り。哲學史家の中にはアルケジラオスの懷疑說を唱へたりし目的は陽に此の說を唱へ而して之れを方便として眞實はプラトーンの哲學を說かむとするに在り(云はば懷疑說は其が權說にしてプラトーンの哲學があくまでも其の實說なり)と解釋せるものもあれど此の解釋には十分の根據なし。惟ふに、當時は學派の軋櫟の盛んなりし時代にして各〻旗幟を樹てゝ相降らずプラトーン學徒が當時大に勢力を增し來たりしストア學派に向かひて駁擊を試みるやストア學の智識論の感覺說(プラトーンの說に反對せるもの)を懷疑的方面より打破することは其の最も取り易き道なりき。是に於いてか彼等は切りに知覺の關係的なることを主張したる極遂に彼等みづからプラトーン學の立塲を離れて懷疑說を主張するに至れるものとおぼし。
《カルネアデース。》〔五〕新アカデミーの懷疑說を擴張することに於いてアルケジラオスよりも更に力ありしはカルネアデースなり(西紀前二百十四年か三年にキレーネに生まれ百十九年に死せり)。彼れは亞典府より他の學者と共に有名なる使者として羅馬に行きしことあり其の學識と雄辯とを以て當時に鳴れり。著書を遺さず。哲學史家は通常アルケジラオスの指導によりて轉じたるアカデミーを第二のアカデミーと名づけ、後ちカルネアデース起こりてよりのを第三のアカデミーと名づく。或は第三のアカデミーを新アカデミーと名づけ、之れと古アカデミーとに對して第二のアカデミーを中アカデミーとも名づく。されどアルケジラオスの指導の下に在りしアカデミーも其の後カルネアデースの下に在りしアカデミーも共に懷疑說を主張せしを以て二者を總稱して新アカデミーと名づけ之れをなほプラトーンの學說を維持したりし時代のもの即ち古アカデミーと相分かつの名稱とする方煩はしからざらむ。
《*其のストア學に對する攻擊。》〔六〕カルネアデースも亦烈しくストア學派を攻擊し(*又あらゆる
《或然眞理。》〔七〕然れどもカルネアデースは吾人が些かも思ひ設くる所なく、聊かも判別をなすことなくしては吾人の行爲の起こる所以の解すべからざることを認めたり。以爲へらく、吾人の行ふにあたり或る定まれる行爲に出づるは吾人に多少選擇する所ありて一觀念よりも他の觀念に重きを置くに起因すること勿論なれども行爲を來たすものは明瞭なる觀念なこととを必要とせず吾人は必ずしも眞理を知れるがゆゑに之れに從ひて行ふにあらず唯だ或は然らむと思ひ設くるほどのことあらば行爲に出づるに妨ぐる所なしと。こは已にアルケジラオスの論じ出でたる所なれどカルネアデースは更に詳しく或然の差等を定むることに論を運ばしたり。曰はく、事物を見てそを或は然らむと思ふに數多の差等あれど之れを大別すれば三段に分かつことを得べし。最下等なるは各觀念が獨立に唯だしかあるらしと思はるゝもの、次ぎなるは一の觀念が他の觀念の團體に屬しそれと矛盾することなくしてそれに容れらるゝもの、最高なる或然の度は一團體を成せる觀念の各〻が互に相保持し互に根據となるもの是れなり。此くの如く事物の必然の相は知るべからざれども其の或然の度を看る時は吾人の行爲することに於いて敢て差支ふることなくまた吾人の實際爲し得る所はかばかりの事に過ぎず而して或然の度に從ひて吾人の實際に行ふべき事柄に就いてカルネアデースの說きし所は古アカデミーの修身說と甚だしき差別なかりき。
カルネアデースの說には論理上精微なるふしなきにしもあらず然れども彼れは其の說ける如き懷疑說の根據の上に如何にして或然の眞理を立て得るか、懷疑說の根據より正當に論じ來たらば能く或然の差等を定めて一が他よりも
《アカデミーの折衷的傾向。》〔八〕アカデミーは後また懷疑說を離れて折哀的傾向を帶び來たり而して件の傾向はラリッサ人フィローン(羅馬に於いてシセロの師となれることあり西紀前八十年頃に死にき)に至りて著るくなれり。而して更に明らかにアカデミーを懷疑說より折衷說に移しゝはフィローンを繼ぎしアンティオコスなり(西紀前六十八年に歿せり)。フィローン及びアンティオコス時代のアカデミーをば第四及び第五ア力デミーとも名づく。
後の懷疑學徒
《後の懷疑學徒、其の十句義。》〔九〕アカデミーが懷疑說を離れたる後に至り又懷疑說を主張したる人の中アイネジデーモスを以て最も肝要なる者となす。彼れの流れを汲める者としてはアグリッパ及びセクストス、エムピリコスの名を揭ぐべし。此等を稱して後の懷疑學徒といふ。此の學徒は自ら其の學脈を新アカデミーに受けず寧ろピルローンに引けりと唱へたれども其の新アカデミーの影響を受けたる所あるは蔽ふべからず。アイネジデーモス等の主張せる所は畢竟ピルローン等の已に唱へし所に異ならず。曰はく、吾人は事物の實相を知ること能はず、如何なる斷定に對しても同等の理由を以て其の正反對を主張することを得、吾人は一切知識を得ること能はざるが故に凡べての判斷を停止せざるべからず、無知を主張することをすらも休めざるべからず。斯く凡べての判斷を止め固執を離れ自家の無知をさへも固執せざるに至り始めて心の安靜なるを得べし。然れども吾人が世に處して行爲を止むること能はざる時は唯だ世間在來の習慣と各人が其の時の感想欲望に從ひて行ふべしと。アイネジデーモス在世の時代は明らかならざれども畧〻西紀前一世紀の半ごろと見て可ならむ、所謂ピルローンの十句義(τρόποι)は彼れの揭げし所なるが如し。十句義は懷疑派が主唱の要點を十ケ條に云ひ現はせるもの、然れども其の類別と順序とは亂雜に失したり。而して其の要旨は既に大抵ピルローン乃至カルネアデースの所說に在りしものなるが如し。其の主意とする所は畢竟ずるに吾人の感官を以て知覺する所は關係的のものなるが故に吾人は事物の實相を知ること能はずといふに歸す。
アグリッパ(其の時代を明らかにせず)はアイネジデーモスの十句義を五句に約めたり。其の主意は三點に歸著す、一、人々の意見の相異なること、二、吾人の知覺の關係的なること、三、論證の出來ざること是れなり。論證の出來ざる所以を說いて曰はく、論旨の前提を證するには尙ほそれが論據となすべき前提を要して遂に限りなく前提を要するか、將た其の斷案を以てそが前提となす循環の論となるか、將た證明せられざる前提を以て出立するかの外なければなりと。尙ほ後には此の五句をも二句に約せる者あり、曰はく、若し確實なる知識あらばそは直接に確實なるか將た間接に確實なるかの一なるべし、然るに吾人の觀念は凡べて關係的なるが故に直接に知識の確實なることを知るべからず、また第二の間接に確實なる知識は直接に確實なる知識を前提とせざるべからざるが故に是れ亦遂に成立すること能はずと。
セクストス、エムピリコス(西紀後二百年頃の人)は病理上疾病の原因を論ずること能はずとし唯だ治療上の經驗にのみ依賴せざるべからずと唱ふる一派の醫家なり。彼れ亦獨斷的哲學者を駁擊する書を遺しき。懷疑說は當時此等の經驗派と稱せらるゝ醫家の間に行はれたりきと考へらる而して因果といふ觀念に批評を試みて其が困難の點を指摘することも多少彼等の成したる所ならむと考へらる。
折衷說
《折衷的傾向の勃興。》〔十〕右述ぶる懷疑的傾向の外に紀元前第一世紀頃には折衷的傾向の頭を擡げ來たれるあり。プラトーン、アリストテレース、ストア、エピクーロスの四大學派が各〻其の中心を亞典府に(一はアカデマイアに、一はリュイカイオンに、一はストアに、一はエピクーロスの庭園に)有して紀元前三世紀及び二世紀頃には烈しく軋轢したりしが、其の結果として他と相調和する傾向を生じ來たれるは自然なり。ストア派に在りてはパナイティオス及びポシドニオスに於いて此の折衷的傾向を生じてプラトーン學派及び殊にアリストテレース學派の說を加味するに至れることは上に述べし所なり。ペリパテーティク學派に於いても亦ストア學派の萬有神說と調和せむとする傾向を生ぜるを見る。ただ此の如き折衷的傾向に緣なかりしはエピクーロス學派なり。又その傾向の最も盛んなりしはプラトーン學派なり。フィローン及びアンティオコス出でて新アカデミーの懷疑說より離れて折衷說に移れるは已に說けるが如し。アンティオコスの如きはプラトーン哲學とアリストテレース哲學は畢竟同一の主意を異なる言ひ方に表はしたるものに外ならずとまで唱ふるに至りき。
《羅馬學者の實際的傾向。》〔十一〕希臘學術の始めて羅馬に入りたる當時に於いては守舊家は之れを見て羅馬の國風を紊るものと爲し西紀前百六十一年には當時の有司が哲學者及び修辭家を羅馬より放逐するの議を決したりし程なりしが希臘學術浸入の大勢は遂に支ふること能はず後には却つて羅馬靑年の敎育を全うせむには希臘學術の中心なる亞典、ロードス、若しくはアレクサンドリアに行きて學ばしむることを必要とするまでに至れり。然れども羅馬の學者は槪ね希臘學派の理論上の差別に重きをおくことをせず何れの學派たるに拘はらず唯だ最も容易に常識を以て了解し得べくまた實際の行爲に適するものを選べり。故に羅馬學者の大體の傾向は實際的なると共に折衷的にして學理上に於いては槪ね希臘人の糟粕を嘗むるに過ぎざりき。羅馬のストア學も亦學理に於いて希臘往時のストア學說の如くに圭角あるものにはあらざりき。
羅馬の折衷學者の中最も傑出したるはシセロ(紀元前百〇六年―四十三年)なり。彼れの著述により吾人は古代の哲學に關して知識を得ること少なからず。希臘の哲學思想を拉丁語に移したる功績は最もシセロを推さざるべからず。彼れの友ヷルロ(紀元前百十六年―二十七年)も亦折衷學者の一人として見らるべき者なり。クインティウス、セクスティウス父子の一派も亦此の部類に屬するものと見るべきならむ。
第五期 宗敎時代
第二十章 新プラトーン學派の先驅
《宗敎的傾向の進步。》〔一〕アリストテレース以後の希臘哲學の前期は倫理の硏究を主眼とし、此の世に於いて吾人が各〻道德を修むるによりて安心立命の地を得べしと考へたりしが前にも云へるが如く各自外界を離れ獨立して我が心中に閉ぢ籠もり己れを顧みて安心の地を求めむとするにつれて古代の希臘思想の特質たりし優美なる精神上の調和を失ふに至りき。盖し心身の諸能を優美に發達せしむることは希臘人の理想にして、また彼等はそを實行し得べしと信じ、其の中に和解し難き爭ひの存することを感ぜざりき。然るに各自次第に深く我が精神的生活を顧みるに至りて益〻其の理想とする所と現實の狀態との分離を自覺し我れ自らの中に相反するもの即ち靈肉の爭ひあるを感ずるに至りぬ。換言すれば自心の中に一方には理想の高きに向かひて上らむとするものあり一方には己れを卑きに束縛するものあるを自覺してこゝに稚き優美なる調和は破れたり。盖し希臘固有の思想は槪ねうぶなる調和を維持せりしが、ただ其の思想の偉大なる發表者の中、後の宗敎的感想を豫想せる所あるはプラトーン哲學也。是れプラトーンが希臘人にして希臘人を超越せる所ありと云はるゝ所以也。プラトーンは其の哲學に於いて吾人にわが形骸の束縛を脫して高く理想境に上らむとする心のあることを云ひ現はせり。 倫理時代より宗敎時代に移りてはます〳〵外物の賴むに足らざることを覺りて深く各人內部の精神的生活を顧みるに至り我が實行の理想に合し難きを自覺し來たり形骸の束縛に起因する物欲劣情を脫して純粹なる心靈的生活に入らむと力むる心盛んなるに至りぬ。是に至りては倫理時代の立塲なる世間的道德を修めて安心立命し得べしとなしたるとは異なり頗る出世間的趣味を帶び來たれり。是れ希臘の哲學思想が所謂宗敎時代に入れるなり。件の宗敎的傾向益〻進むに從ひて個人が自力を以て我が形骸の束縛を脫し難きを感じ遂に人間以上の冥助を必要とするに至りぬ。是れ先きにストア學派の變遷を叙したる所に述べしが如し。ストア學派その者が其の末期に至りては件の宗敎的時代に入れる也。
《救濟哲學。》〔二〕アリストテレース以後の哲學の後期と前期との區別はプラトーンの哲學に對する關係を以ても見ることを得。元來アリストテレース以後の哲學の一特色は在來の哲學思想の再現せることに存すれども前期に於いて再起したるは主として物界硏究時代及びソフィスト時代の思想にしてプラトーンの形而上論に對しては寧ろ反對の傾向を取れりき。之れと異なりて後期に復興して當代の思想の骨子を成せるはプラトーンの哲學なり。是れ前節にも云へる如くプラトーン學が此の時代の思想の根柢を成すに最も適當したればなり。
プラトーンの哲學は當時の哲學の骨子を成せりしが、其の宗敎的思想の向かふ所は遙かにプラトーン以外に出でたり。プラトーンに在りてはなほ吾人の理性が我が生活全體を支配して吾人に滿足を與へ得るを確信したれど、此の時代に至りては個人の自力にかほどの信仰をおくこと能はずなりしのみならず、吾人の達すべき最高の狀態は意識を超絕せる所に在りとし一旦豁然として吾人の通常の意識作用以上の狀態に入ることによりて吾人の望むべき極致に達するを得と考へたり。意識以上に意識を超絕したる狀態ありとしてそを求むることはプラトーンの哲學を始め他の在來の希臘固有の思想には見るを得ざりし所なり。
是に於いて當時の哲學は神祕的となり宗敎的となりしことに於いて大に印度の半ば宗敎半ば哲學といふべき思想と相類似するに至れり。啻に之れと類似せるのみならず、當時に在りて相互の影響の存せし事實は否まれざるべし。盖しアレクサンドロスの遠征以後印度との交通は其の思想の西方に流入することを致しゝならむ。
此の宗敎的哲學の問題を一言に云ひ表はせば、吾人が墮落して形骸に繫がれ居る狀態を脫して吾人の本源なる絕對者に歸ることに於いて全き安心を得むとするに在りき。是れ即ち不善、不美、不完全なる狀態より吾人の救はれ出でむことを求むる救濟の問題なり。
《宗敎時代の新產物。》〔三〕此の宗敎時代の思想は西紀前第一世紀頃に始まりきと見て可ならむ。羅馬帝國が諸種の人民を其の統治の下に集めたると共に諸種の風俗習慣入り亂れ從ひて諸種の宗敎相觸れ相交はりて宗敎上の新現象を誘起し來たれり。時代の精神は一般の人民をして靡然として宗敎に傾かしめたり。新宗敎として後に大勢力を振るひ遂に羅馬の社會をおほふに至りし基督敎も當時の勃々として抑へ難き宗敎的精神より生まれ出でしものに外ならず。當時諸種の宗敎のみならず東西諸種の思想の市塲ともいふべきは埃及なるアレクサンドリアなりき。後期の哲學思想は此處を中心とせり。
かくの如く東西の思想が入り亂れて其の中に發生したる宗敎時代の新產物は分かちて二類となすを得。一は希臘哲學思想が東方の宗敎思想に近づきたるものにして其の最好代表者は新ピタゴラス學徒及び宗敎的プラトーン學徒と稱せらるゝものなり。一は東方の、殊に猶太の宗敎思想に希臘思想を加味したるものなり。希臘思想といふ中にも哲學的方面ならずして寧ろピタゴラス盟社などに存せる禮拜及びそれに附隨せる觀念と猶太敎との結合より生じたるものにはエセネ宗の如きあり。哲學史上吾人の注意すべき價値あるは希臘の哲學思想(主としてプラトーンの哲學)を取りて猶太の宗敎思想に神學的組織を與へむと試みたるものにして、其の最大なる代表者はフィローンなり。以上列擧せるものを總括して後に出現する宗敎時代の哲學上の最大產物なる新プラトーン學派の前驅と名づけて可ならむ。
それらプラトーン學派の先驅の中に就き先づ希臘の哲學思想を基として東方の宗敎思想に近よれるものより叙述せむ。
新ピタゴラス學徒
《新ピタゴラス學派と其の學徒。》〔四〕嚮に古アカデミーを叙せる條下にプラトーン學派とピタゴラス學派とは大に相近づきて遂に相混ずるほどに至れることを云へり。ピタゴラス學派が哲學上の學派として何時頃迄繼續せしかは明らかに知り難けれども其の禮拜(宗敎的方面)は恐らくは其の一學派としては消滅せし後にも繼續したりしならむ。今宗敎時代に於いて先づ大に復興せるはピタゴラス盟社に在りし禮拜なり。當時いたくピタゴラスを尊崇して其の敎を傳唱すと稱へたる人々を哲學史家は名づけて新ピタゴラス學徒といふ。彼等は畢竟當時の宗敎的要求よりしてピタゴラスといふ古代の一宗敎的人物を以て其の本尊としたりしものにて實は徃時のピタゴラス學徒とは大に其の面目を異にしたり。彼等はピタゴラスの名を假りて種々の著作を爲せり。後世傅ふる所のピタゴラス學派の書籍は槪ね此の新ピタゴラス學徒の手に成れるものなり。
哲學上より云へば彼等の思想は昔のピタゴラス學派の說とプラトーン學派の思想とを混合せるが如きものにしてまた其の外にストア學派及びペリパテーティク學派より取れる所あり。故に哲學上より云へば彼等には明瞭に形成せられたる說あるにあらず寧ろ折衷的なりきといふべし。此等の學徒の中其の名を擧ぐべきはモデラートス、ティアナ人アポルロニオス及び其の後にはニコマコス等なり。中に就き最も有名なるはアポルロニオスなり。彼れは西曆紀元第一世紀の半ば頃の人にて當時の宗敎家として多くの人の尊敬を得奇跡を行ふ能ありとまで信ぜられたりき。此くの如き宗敎的人物は當時(即ち後の大宗敎となれる基督敎の開祖イェス、キリストの起これる時)には珍らしからざりし也。
《此の派特殊の思想。》〔五〕此等の新ピタゴラス學徒の說は判然一定せりと云ふこと能はざれども槪ね往時のピタゴラス學派の數論に於ける語を用ゐて一と二とを萬物の本元と見而して一をペリパテーティク學派の所謂相となし二を其の所謂素となしたり。而して又彼等の或者は一を神と見或者は神を以て一とニとの對峙以上のもの即ち其の對峙の出づる根元と見たり。かくの如き思想の差別はあれども槪して彼等の說には神と之れに對する物質との二元の論を見ることを得べし。彼等はまた槪ねピタゴラス學徒の所謂數とプラトーン學徒の所謂イデアとを同一視し而して數を以て頗る祕密的なるもの妙力を具ふるものと見たり。彼等の說に於ける特殊の點として哲學上注意すべきはプラトーン學派の所謂イデア即ち萬物の模範となるものを神の有する觀念と見たることなり。プラトーンはイデア其の物を以て實體としたりしが新ピタゴラス學徒はイデアを神の心に存する觀念となし神は其の觀念を模範として萬物を造れりと唱へたり。是に至りては彼等は明らかに神を靈なるもの精神的なるものと見たるなり。而してかくの如く神を心靈と視るに至れるはアリストテレースが神學を硏究せし結果なりといふも不可なからむ。彼等又以爲へらく神と人との間に多くの鬼神あり又星には其れに住する神々ありと。
《其の一神敎的思想。》〔六〕彼等の說に於いて最も注意すべきは哲理よりも寧ろ實際的宗敎思想に在り。彼等は神を純なる靈と見て高尙なる一神敎を主張せむとせり。彼等は以爲へらく、吾人は神を敬せざるべからず而して神を敬するは淸淨なる生活を送らむが爲めなりと。彼等の人生を觀るや又其の根據を二元論に置けり、即ち靈と肉とを相對せしめ靈が肉によりて縛られ汚さるゝが罪惡の原因なりと考へたり。彼等は靈肉の爭ひを自覺するに至れるなり。彼等は淸き生活を以て専ら肉に屬するものを去るに在りとし肉食、妻帶、飮酒及び誓言等を禁じまた個人の私產を有することをも排斥せり。彼等はかくの如き修行を爲し凡べて吾人の肉に屬するものを抑壓して純潔なる靈の生活を送るを以て吾人の當さに力むべき所なりと見たれどまた之れを爲すには唯だ個人の自力にのみ依賴せず禮拜によりて神明の冥助を請ふを要すとし特別なる神明の啓示がピタゴラス又アポルロニオスの如き人に於いて人間に傳へらると考へたり。彼等は近く神明に接することによりて奇跡を行ひ豫言を爲す力をも得べしと思へり。要するに彼等に於いて哲學の要義は宗敎と化し哲學者は寧ろ祭司と化したるなり。
宗教的プラトーン學徒
《プルタルコスの宗敎的二元論。》〔七〕上に名づけて新ピタゴラス學徒といへるものも別に判然たる一學派を成せるに非ず寧ろ相似通ひたる思想を有せるものの彼處此處に呼應したりしをば後の史家が假りに總稱してしか名づけしなり。されば新ピタゴラス學徒と稱すべきものの堺限は決して明らかなるにあらず彼等に類似せるもの他に尙ほ多し。こゝに宗敎的プラトーン學徒と名づくるものも亦大に之れに類似せるものにして彼此の間に判然たる區劃を立て難し。此等のプラトーン學徒中には上の新ピタゴラス學徒がプラトーン學派に感染したりし如くピタゴラス學派に影響されたる者多し。
宗敎的プラトーン學徒の中最も肝要なるは有名なる史家プルタルコス(紀元後第一世紀の人)なり。彼れはストア學派の唯物論に反對し、またエピクーロス學派の無神論に反對して神の靈なることを主張するに力めたり。彼れはまた神に對して物質てふものを置き而して神が物質を取りて世界を造れりと考へたり。以爲へらく、物質には本來惡しき靈の宿り居れるがゆゑに造化の作用を受くるも尙ほ全く善ならずして常に醜惡なるもの、不完全なるものの此の世に存するの原因たりと。即ちプルタルコスは明らかに宗敎的哲學の思想に於いて二元論の立塲を取れるなり。また彼れは神を以て世界の外に在るものと考へたるが故に神と世界との間に媒介を爲すものとして鬼神を置けり。また以爲へらく、諸種の人民が諸種の異なる神を崇拜するも實は異なる名稱を以て同一の神を呼ぶに過ぎず。吾人は甚だ孱弱にして自力のみによりて目的を達すること能はざるが故に神の直接の啓示と冥助とに依らざるべからずと。
上に云へる如き鬼神の說を取り用ゐて多神敎を立て以て當時漸々勢力を得むとせる基督敎の烈しき反對者となりしケルソスも亦右に揭げたる部類の一人に數へらるべし。
フィローンの哲學
《フィローン哲學の根本思想。》〔八〕前條に述べたるは希臘哲學思想の東方の宗敎思想に近よれるものの代表者なるが猶太の宗敎思想に希臘哲學を混和したるアレクサンドリア府のフィローンの哲學は新プラトーン學派の前驅として最も注目すべきもの也。フィローン(紀元前三十年頃より紀元後五十年頃に至る)は猶太人にして當時猶太の宗敎思想とプラトーンの哲學を始めとしアリストテレース學派及びストア學派等の希臘哲學思想とが相混じつゝありしアレクサンドリアに生まれたり。
フィローンが哲學の根本又中心は神といふ觀念なり。以爲へらく、神は凡べて限りある者を超絕す、故に吾人の想ひ設くる所は以て能く神の何たるかを現はすに足らず、彼れの圓滿なることを現はすべき名なし、彼れは凡べての完全なるものよりも更に完全なるものなり、彼れは名づくべからざるものなり、吾人は唯だ彼れを有(τὸ ὅν)即ち絕對的存在と云ひ得るのみ、吾人は彼れの何たるを形容すること能はずと。フィローンは猶太敎に謂ふ語を用ゐて神は即ちエホバなりといへり。此くの如く神は凡べてのものを超絕せる絕對者なるがまた之れと共に萬物の淵源なり、萬物は皆神より出でたり。斯くフィローンが哲學の根本には神を超絕的のものと見ると超絕的の神を萬物の淵源と見るとの二つの思想相結合せり。然らば萬物を超絕せる神が如何にして能く萬物の淵源となり得べき乎。フィローンは之れを說かむが爲めに神と萬物との中間に在りて媒介を爲すものをおけり。
《ロゴス論。》〔九〕フィローンは此の媒介者を名づけて勢力(δυνάμεις)といへり。此等の勢力が神に對する關係に就きては彼れの說く所明瞭ならざれども、要するに其の思想はストア學派の說及びプラトーンのイデア論に由來せり。彼れは此等の勢力を名づけて神の觀念即ちイデアとも云ひまた神の
此のロゴス(即ち神と世界との間に介するもの)論はフィローンの說に於いて最も注目すべきものにして、其の宗敎時代の問題の解釋を試みむとしたるものなることは尙ほ以下此の時代の思想を叙し行くに從ひて明らかになるべし。
《フィローンの二元論。》〔一〇〕かくの如く神は吾人の言說を絕したるものなれどもロゴスを通ほして萬物に現はる。されどフィローンは此の醜惡なるものの存する世界の由來を說かむには神力に對して尙ほ他のものを說く必要を感じ、而して彼れはこれを物質と名づけたり。おもへらく神はロゴスにより此の混沌たる物質を取りて世界を造れり。世界は造られし始あれども滅する終なし。而して件の物質は凡べて世に存する不善不美なるものの淵源なりと。知るべしフィローンも亦神明對物質の二元論に其の立塲を置けるものなるを。
《罪惡の根本は肉身の愛にあり。》〔一〕人間の靈魂は墮落して肉體の中に宿れるもの、肉體は云はば靈魂の墓なり。此の肉身を愛するが爲めに吾人に罪惡あり吾人は肉と共に罪惡の傾向を生得せるなり。故に吾人は肉に屬するものを脫離し情慾を斷ちて純潔なる靈魂の生活を送らざるべからず、須らく物欲に動かされざる狀態に住すべし(ストア學徒の所謂アパタイアを思ひ合はせよ)。かくの如く物欲の羈絆を脫して淸淨なる生活を送らむは吾人の獨カもて爲し難き所なれば神明の助力を仰がざるべからず。信神の心は智惠を來たし智惠は德を來たす。
《其の出世間的方面とエクスタシス。》〔一二〕フィローンの道德をいふや其の著眼の點は吾人の社會的行爲にあらず寧ろ出世間的方面にあり。換言すれば彼れは德行を人倫の關係に於いて見るよりも寧ろ宗敎的瞑想の方面に於いてしたり。吾人の精神の最も高等なる狀態は形骸を忘れて直ちに神明に接したる所に在り。此の狀態は步を追ひて探り行く推理によらず頓悟によりて得らるべきものなり。これは直接に神明の光に照らさるゝ時に於いて吾人の達し得べき狀態也。フィローンは此の狀態をエクスタシス(ἔκστασις)と名づけたり。此の狀態に於いて吾人は意識的思想作用の上に出でて神明と契合す。アリストテレースが希臘思想の立塲にありて吾人の精神上の究竟樂と見たる理智を以て靜かに眞理を觀ずる狀態はフィローンに在りては宗敎的瞑想に進み入りて心身を忘脫するエクスタシスとなれり。
第二十一章 新プラトーン學派
《新プラトーン學派の主旨。》〔一〕宗敎時代に於ける希臘哲學の最も大なる代表者は新プラトーン學派なり。此の學派に於いて希臘哲學思想は其の最後の組織を試みたるなり。新プラトーン學派の主旨とする所は大體上希臘思想の立塲に在りて一の宗敎的哲學を形づくらむとするに在り。而して此の學派の哲學は宗敎的なると共に神祕的方面を具へ、此の點に於いていたく印度の思想に似たるのみならずまた實際印度思想の流入し混和せる所ありきと考へらる。元來希臘哲學の起原は寧ろ通俗の宗敎と分離することにありき、其の後學術の發達し又全體の文化の進步するにつれて宗敎はます〳〵其の勢力を敎育ある社會に失ふに至りき。こゝに叙述せむとする新プラトーン學派は即ち學者の宗敎を組織して件の缺乏を充たさむとせるもの換言すれば哲學を以て宗敎を造らむとせるものなり。盖し當時思想界の大勢の赴く所昔時の宗敎が啻に學者間に於いて勢力を失へりしのみならず一般人民はた統一せる宗敎を缺き幾多の宗門が羅馬の天下に相輻湊し牴觸して遂に新宗敎的現象をも催起し來たりき。新プラトーン學派は啻に學者の宗敎のみならず更に進みて一般の人民の宗敎を組織せむと欲するに至れり。而して其の取る所は在來の古き宗敎の遺物なりしかばおのづから當時の新宗敎として勢力を得つゝありし基督敎の正面の敵となりき。
プローティノス(Πλωτῖνος)
《希臘哲學最後の偉人。》〔二〕新プラトーン學派は其の源をアムモニオス、サッカス(西紀後二百四十二年頃に死にき)となむ呼べる人に發しきと傅へらる。彼れはアレクサンドリアに在りて身を勞働社會に起こし後にプラトーン學派風の敎說を唱ふるに至りきといふ。然れども彼れが如何なる敎を說き、また如何なる點に於いて新プラトーン學派の祖と云はるべきかは詳かならず。哲學史上彼れは殆んどただ一の名として記憶さるゝのみ。歷史上正當に新プラトーン學派の祖と云はるべき者は寧ろ曾てアムモニオス、サッカスの敎を受けたりきと傅へらるゝプローティノスなり。プローティノスは紀元二百四(或は五)年に埃及のリコポリスに生まれ、學術殊に宗敎上の硏究を爲さむが爲めに東方に漫遊せることあり後に羅馬に來たりて子弟を集め敎授を始めたり。二百六十九(或は七十年)に逝けり。羅馬帝の賛助を得てカムパニアに哲學者の市府を建て之れをプラトノポリスと名づけ哲學者をして茲に沈思冥想の塲所を得しめむと企てたれど實行せられずして止みき。プローティノスの著作は其の弟子ポルフィリオス編輯して之れを後世に傳へたり。プローティノスはいたくプラトーンを尊敬し自ら其の敎義を祖述すと云ひしが實に彼れが哲學の骨子を成せるはプラトーンの思想なりき。是れ此の學派の新プラトーン學派と稱せらるゝ所以なり。プローティノスはアリストテレース以後の最も大なる思想家にしてまた希臘哲學の最後の偉人なり。
《プローティノスの根本思想は發出論なり。》〔三〕プローティノスの根本思想は、已にフィローンの哲學にも見えたる如く媒介者を說くことによりて二元論の困難を救はむとするに在りき。プラトーンもアリストテレースも遂に二元論の立塲を脫すること能はざりしは曾ても述べしが如し。而して該の二元論は新ピタゴラス學派等の所說にも神明對物質といふ形を取りて傳はれり。プローティノス以爲へらく、萬物の太原より漸々不完全なるもの發出し、其の極端に於いては遂に最も不完全なるもの即ち消極的(絕對の太原に對して消極的)のものとなり了はる、是れ即ち物界なり現象の世界なりと。即ちプローティノスは發出論を以て二元論の困難を除かむとせる者なり。
〔四〕萬物の太原(τὸ πρώτον)は限りなきもの、形なきもの、性質の定むべからざるもの、一言に云へばよろづの物を超絕せる唯一絕對の有(τὸ ὅν)なり、凡べての對峙と差別とを絕したるものなり。故に吾人は物體又は精神上の性質を附與して之れを形容することを得ず、思想ともいふべからず、意志若しくは活動とも名づくべからず、思想(νόησις)と存在(οὐσία)との對峙、主觀と客觀との對峙を絕したるものなり、故にまた自意識とも名づくべからず、一言にいへば凡べての差別を超絕したる宇宙の根原また窮極にして能く萬物の發出する本となるもの、即ち宇宙の原力(πρώτη δύναμις)なり。而してプローティノスは之れを神と名づけたり。プローティノスの思想に於いて最も注意すべき所は神を以て萬物を超絕せるものとすると共にまた能く萬物の根原となるものと見たる所に在り。
〔五〕神は萬物の太原なり。されど世界萬物は神の意志の力によりて創造せられたるにあらず、また神自らが分離せるにもあらず、また其の一部分が變化したるにもあらず。神は常に一にして變ぜず圓滿にして增減する所なし。萬物は皆神より出づれど神はこれが爲めに其の一部分を失ふに非ず。プローティノスの萬物が神より出づる關係を說くや多くは譬喩を用ゐたり、曰はく一切の物が自然に神の圓滿なる所より溢れ出づるは譬へば光線の太陽より發出するがごとし、神は自ら勞する所、思ふ所、變化する所なくして萬物はおのづから其の中より流れ出づと。プローティノスの哲學は即ち發出論なり。
《萬物發出の三段、一元的解釋。》〔六〕萬物の神より發出するや大凡そ三段をなす。第一に出づるものはヌウス(νοῦς)なり。ヌウスは萬物の太原(即ち神)より下ること一等なれどもなほ太原の影像にして常に完了せる直觀的思想なり而して其の思想の對境となるものは一は其れ自らにして、一は其の發出し來たりたる太原なり、但し其が太原の直覺は全く太原に相應せるにあらず。故にヌウスに至りては已に思想の働き(νόησις)と思想の對象(ὃλη νοητόν)との對峙を含み差別の根原を具へ居れるなり。次ぎに出で來たるものを精神(ψυχή)とす。プローティノスは精神に高き方と低き方とを分かてり。高き精神は自覺を具へ凡べての永恒なる理想を有して活動するもの低き精神は形體に結ばれるもの也。プローティノスは宇宙全體を通貫する大精神ありと見プラトーンの語を用ゐて之れを「世界の靈」と名づけたり。而して此の世界の靈の低き方面即ち形體に結ばれる方を自然(φύσις)と名づく。宇宙を通貫する精神を根原となせる個々の精神にも亦高き方と低き方とあり人間に於いて高き方は形體に結ばれざる靈(アリストテレースの所謂原動的ヌウス)なり。件の靈は永遠不朽にして已に吾人の生前に存し死後にもなほ存在す。人間に於ける低き精神は身體に結ばりて之れを活動せしむる生氣なり。此の精神界に至るまでは尙ほ形而上のものなり。更に下れば物界あり、即ち萬物の最も低き段階なり。プローティノスは物質をもて消極的のものとし有に對する非有(μὴ ὔν)と見而して何處迄も一元說を維持せむとせり。以爲らへく、物質が萬物の太原より出でて其の反對の極となるは猶ほ光が太陽より發出して其の薄らぎ行く極み遂に暗黑に終はるが如しと。かくしてプローティノスはプラトーンに存在したる感官界と感官以上の世界との存在する所以を一元的に說かむとせり。
《一切善惡の根原。》〔七〕凡べて世界に於ける不完全なること惡しきことは皆物質より來たる。物質は一切の無常なることの根源なり。物質は定まりたる象を具へざる存在の可能性に外ならず。
凡べて世に於ける善なることは皆理想界より來たる。世界の萬象をして形を取らしむる所以のものは精神の働きなり。世界の靈及び之れより出でたる多くの星辰の中に住める神、「自然」及び多くの鬼神等の働きが有形のものに現はるゝなり。かく根原に於いて一精神の然らしむる所なるが故に萬物は皆相感應す。天地萬物は一生氣を以て活けるものなり。プローティノスが自然界の論は物理的ならず。其の主要なる見地は萬物の本體と意義とを以て精神界に存するものとするに在り。彼れは天地萬物が形體をあらはすも要するに精神の現じたるもの理想の然らしむる所なりと見たりき。
《プローティノスの美論。》〔八〕プローティノスは物質を以て衆惡の根原となして五官の世界を卑しめり然れども希臘人なる彼れの眼は未だ物界を以て全く惡しきものと見るに至らず物質は非有にして理想の發現を妨ぐれどもなほ理想の物質界に現はるゝによりて天地萬象は美麗なり。美を以て理想の感官界に現はれたるものと見たるプローティノスの美學思想は彼れが哲學に於いて一種の光彩を放てる點なり、また之れを以て希臘の美學思想の最も進步したるものといふべし。宇宙に調和秩序の存するは是れ皆ロゴス(λόγος)の現はるゝによる、現象界の美は物質を通ほしてイデアの耀く光に譬ふべきなり。
《其の道德論、解脫論。》〔九〕プローティノスの道德論は吾人が物質界に繫がれ居る樣より解脫することに其の根本思想を置けり。即ち彼れの萬有論は世界が段階を爲して神より發出することを說き、其の道德論は吾人が再び物質世界の束縛を脫し溯りて神に合一することを說けり。プローティノスに從へば、社會的關係に於ける道德は寧ろ吾人をして理想的狀態に達せしむる前階に外ならず。吾人が物界に束縛せらるゝ狀態を脫する段階は、第一に五官の知覺、次ぎに論理を以て事物の理を考ふること、又美なるものを愛する心、遂に美に發現する理想そのものを求めて形骸の束縛を離るゝに至る、是れなり。吾人は須らく情慾を去り吾人の靈をして純粹の活動を現ぜしめざる可らず。解脫は衆德の根元なり吾人は解脫しゆきて遂に我が靈の自らを直觀する所に達せざる可からず而して是れ即ちヌウスの自觀を吾人に得たる者に外ならず、何となれば我れに存するものはヌウスにして我れに於ける眞實體が自らを觀ずるなればなり。吾人はヌウスの自觀を得るのみならず更に進みて遂に萬物の太原たる神に合して神に充たされ神の中に沒して自らを忘るゝに至らざるべからず。是れ意識を超越し言說を絕したる名づくべからざる境涯なり、之れをエクスタシスと名づく。かくの如き境涯に達し得るは修行を積める優れたる者ならざるべからず而して優れたる者と雖も唯だ時ありて件の狀態に入り得るのみ。プローティノス自らは其の生涯の中數度此の境涯に入りたりとぞ。エクスタシスの狀態に達するには宗敎的禮拜の如きも亦多少其の助けを爲すことあるを否まざれどもプローティノスは未だ多く其の如き禮拜の必要を說かず。但し彼れは通俗の宗敎に反對せず寧ろ通俗の宗敎的思想を譬喩と解して其の中に其理を發見せむとしたれど未だ哲學者の自信を失はずして迷信に媚ぶることをなさざりき。彼れは、神々は寧ろ我れに來たるべし我れより彼等に行くを要せずとまで云へり。
《ポルフィリオスと通俗宗敎。》〔一〇〕プローティノスの弟子なるポルフィリオスに至りては其の思想は著るく通俗の宗敎に接近し種々の禮拜を必要とし肉食、妻帶、觀劇等を禁じて成るべく肉體の慾を捨つべしと敎へたり。而してかくの如く靈肉の爭を意識して肉慾と戰ふには益〻宗敎的禮拜によりて神助を仰ぐ必要あることを感じ來たれり。
更に通俗の宗敎に接近し遂に多神敎を組織して之れを當時の宗敎と爲さむと試みたるはヤムブリコスなり。
ヤムブリコス
《ヤムブリコスと多神敎。》〔一〕彼れはポルフィリオスの弟子にしてシリアに住めり紀元後三百三十年頃に歿しき。彼れに始まれる新プラトーン學派の傾向をシリア派と名づく。彼れは宇宙の太原即ち名づくべからざる太一と多なるものとの媒介をなさむが爲め其の間に第二の一なる者をおき、またプローティノスのヌウスをも二つに分かち而して其の各〻が三つに分かれかくして更に分かれ〳〵て凡べての物と諸〻の神とを生ずと說けり。其の說は畢竟プローティノスの發出論を更に複雜にせるのみなり。而して又彼れは當時通俗宗敎に說く諸〻の神を持ち來たりて件の發出の段階に附會したり。即ち彼れは羅馬帝國に雜在したる種々なる古き宗敎より凡べてての神々を取り來たりて之れを一大多神敎につくり上げむとせるなり。彼れはまじなひまた禮拜をも取り來たりて或は像を拜し或は
ヤムブリコスに始まれるシリア派の思想がユリアン帝の懷抱する所となるや一時勢力を得て基督敎に對する强敵となれることあり。
《新プラトーン學派の亞典派。》〔一二〕かくヤムブリコスに於いて益〻著明になり來たれる傾向の進み行くに從ひて哲學は寧ろ宗敎の婢僕なるが如き位置に立つに至り隨つて學說上見るべきものなきに至りしが五世紀より六世紀へかけ亞典府の學校に於いて再びプラトーン及びアリストテレースを硏究して希臘の哲學思想を綜合せむとする傾向を生じたり。此の傾向を起こすことに與りて力ありしは亞典人プルタルコス及びシリアーノスなり、而してシリアーノスの弟子にして又其の繼續者なる
プロクロス
は此の傾向の最も重要なる代表者なり。之れを新プラトーン學派の亞典派と名づく。亞典派は新プラトーン學派の最後のものなり。プロクロスは凡べての物の分かれ出づるに三段ありとし、第一は自存(μονή)次ぎは出離(πρόοδος)次ぎは復歸(ἐπιστροφή)即ち是れなりと說き、萬物は凡べて此の三段を經つゝ常に三つに分かれ、三つに分かれたるものの各〻が更に三段を經ることによりて三つに分かれ、かくの如くにして凡べてが分岐しまた分岐し行くことを說けり。プロクロスは一面論理上の形式を貫くことに長じたりしと共にまた奔逸せる宗敎的感情と想像とを以て滿たされたり。故に彼れは數多の鬼神及び天使の存在を說き、祈禱呪詛等の効力を說き又禁慾修行を稱揚せり。
《希臘哲學の滅亡、基督敎の勝利。》〔一三〕亞典の學校に於いて一時は從來の希臘思想を新プラトーン學派の中に纒めむと企てしかども畢竟ずるに希臘哲學の生氣は業に已に盡きて復た新思想の起こるべくもあらざりき。五百二十九年にユスティニアン帝が命令を發して公然亞典の學校を閉ぢ哲學者を放逐したる時は唯だ其が表面上の滅亡にして實際は已に其の以前に死せりし也。(亞典の學校の最後の首座を占めし學者をダマスキオスといふ)。茲に至りて希臘の哲學は滅びて基督敎の勝利に歸したり。換言すれば希臘哲學が其の本來の立塲を離れ宗敎の地盤に立ち古宗敎の遺物を維持せむとして遂に當時の新勢力なる基督敎に其の處を奪はるゝに至れるなり。此の時は基督敎は已に公然羅馬帝國の採用する所となれりしなり。こゝに至れば吾人は旣に基督敎的世界觀によりて開かれたる新時代の中にあるなり。次ぎに此の新時代の經過を叙せむが爲めに更に溯りて基督敎會の起原より說き起こさむ。
中世哲學
第二十二章 敎父時代
《敎父時代の歷史。》〔一〕歐洲に在りて通常中世紀の哲學と稱するはスコラ哲學なり。スコラ哲學は基督敎會の敎理を基礎としたるもの而して其の敎理は其の敎會の歷史上敎父時代と名づくる時期に於いて略〻其の形を成したるものなるを以てスコラ哲學史に入る前に其の準備として敎父時代の簡略なる歷史を叙述すべし。
《元始基督敎の要旨、敎理組織の起こりし所以。》〔二〕基督敎はもと猶太敎より起こり其の初めに當たりては些も學術又は哲學上の思想を混ずることなくして單純なる宗敎的感想によりて立ちしなり。其の根本觀念は猶太敎に謂ふ造物生なる獨一神を萬民の父と見、而して人間は凡べて兄弟にして神卽ち天父に護らるゝものなりと見るにあり。人間は神に愛せらるゝ者なれば彼れを父として敬愛し又互に兄弟として相愛すべき筈なるに罪惡の心を起こして天父を忘れたり人間は須らく其の罪惡を悔いて天父に歸るべしといふ、是れ即ち基督の說きたる敎の要旨なり。基督はまた當時猶太の祭司及び學者等が儀式と傳說とに拘泥したるを打破し宗敎の要は外形にあらずして唯だ眞心を以て天父に事ふるに在りとし而して其の身を以て凡べて罪ある者疲れたる者重きを負へる者の救濟に任じ我れ卽ち猶太國民の待望すべかりし救世主(メシヤ)なりと唱へたり。
元來基督の敎はかくの如く單純にして而して其の單純且つ新鮮なる所却つていたく時人の宗敎的渴望に應ずる所ありしなり。基督てふ人物を中心として一新宗敎的運動は創始せられ而して基督が當時に誤解せられて遂に磔刑に處せられたる後種々の障碍に遭ひながらも其の敎は漸次四方に弘まるに至れり。其の初めに當たりては基督に親灸せる弟子等が其の親しく聽きたる敎を傳へて別に組織立ちたる敎理を造る必要を感ぜざりしが其の敎の漸次諸方に弘まりて諸種の異敎と相觸るゝに從うて漸次に解釋すべき種々なる問題を生じ來たり又此の新宗敎を信仰する者の奉ずべき宗旨の何たるかを明らかに定むる必要を感じ來たれり。是れ敎理組織の起こりし所以なり。
《パウロ、ヨハネの神學の要旨、敎父時代の二期。》〔三〕敎理組織は使徒パウロに於いて已に其の萌芽を發せるを見る。パウロはおもに猶太敎の思想を用ゐて基督敎の新敎義を形づくらむとしたりき。おもへらく、人類の祖アダムが罪惡を犯したるによりて人類は罪を犯す者となれり、是に於いて耶蘇基督此の世に降りて十字架上の苦痛を受け之れによりて人間の罪を贖ひ人間と天父との間に媒して人類を救ふと。是れ所謂パウロ神學の要旨なり。
ヨハネ福昔書の記者に於いても亦特殊の趣を帶びたる神學組織の發芽せるを見る。所謂ヨハネ神學の根本思想は已に希臘の哲學に現はれ又アレクサンドリアのフィローンの哲學に於いて主要なるものとなれるロゴスてふ觀念を持ち來たり、ロゴスと基督とを同一體ならしめ之れを以て神の子となすにあり。
第二世紀以降敎理の組織は次第に其の步を進め來たりしが其の組織を立つるに用ゐたる思想は主として之れを希臘哲學に取れり。何れが基督敎會の正統なる敎理にして何れが不正統なるかの區別の標準は基督に親炙したる使徒等によりて傅へられたる傳說にあり。然れども其の解釋は決して初めより一定せるにあらず而して主に希臘の思想を借り來たりて敎理的組織を與へ行く中に漸次に異端と正說とを分かちて基督敎會の正統なる敎義を定むるに至れるなり。件の敎理組織の事業に與りて力ある人々を敎父(patres ecclesiae)と名づく。敎父時代は敎會の歷史に於いて二期に分かる。前期はニカイア會議(西紀元三百二十五年)に至るまでにて之れをニカイア會議以前の時代と名づく。此の時代に於いては基督敎會內に種々の傾向現はれ(敎義組織の根據は略〻此の時に成れりしかども)異端と正說との區劃は未だ確立せられざりき。ニカイア會議以後幾多の會議に於いて當時起こり來たりし敎理上の問題を提出して遂に異端と正說とを決定するに至れり。ニカイア會議以後の時代は略〻西紀後五世紀頃に至るものと見て可なるべし。但し哲學思想の上より見る時は敎理組織の要旨は已にニカイア會議以前の時代に於いて定まれりと云ふことを得。
ニ力イア會議以前の時代
《ニ力イア會議以前に於ける敎理上三種の傾向。》〔四〕ニカイア會議以前に於ける基督敎會に發したる敎理上の傾向を分かちて三種となすことを得。一はグノスティック、一は護法家、一はアレクサンドリアの敎校、是れなり。グノスティック派の唱へし所は基督敎の思想と東邦異敎の思想と又希臘哲學風の思想との奇怪なる混和なり。而して其の中にも相異なる傾向ありて或は猶太思想に傾けるあり、バシライデース(百三十年頃の人)力ルポクラテース(略〻同時代の人)ヷレンティノス(百六十年頃に死す)の如きは猶太的傾向の主なるもの、此等をアレクサンドリアのグノスティック宗徒といふ。或はシリア等東邦の異敎に傾きたるものあり、サトルニオス(ハドリアン帝時代の人)の如き是れなり。其の他にも異なる流派あれども先づ右等を最も主要なるものとなす。
《グノスティック宗徒の主要思想。》〔五〕グノスティック宗徒にはかくの如く種々の流派あれど凡そ彼等に通じたる主要なる思想は宗敎上の信仰(πίστις)をば唯だ信仰に止めずして更に進めて宗敎上の智識(γνῶσις)となさむとするに在り。是れまさしく宗敎上の信仰に智識的根據を與へて敎理を組織せむとするの要求に出でたるもの、一言にして云へば宗敎に哲學的根據を與へむとしたるものに外ならず。しかれどもこゝに謂ふ智識即ちグノージスは通常謂ふ智識に優りて神祕的に眞理を直觀するものなり。此のグノージスを說ける所よりグノスティックといふ名稱は起これり。彼等は世界を觀るに只管宗敎的眼孔を以てし此の世の成り行きを以て善と惡との常に相爭ふものとなし而して世界歷史の中心を基督の救濟に置きたり。グノスティック宗徒が歷史的に世界の成り行きを大觀して之れに通じたる永劫の眞意義を見出ださむとしたる點即ち歷史哲學風の思想を起こしたる點に於いて其の所說は在來の希臘哲學に存せざる新しき相を帶びたりと云ひ得べし。彼等はまた善と惡との爭に結び付けて神靈と物質との二元を說き而して神(即ち萬物の太原)と世界との間に猶太敎に謂ふ神即ち造物主(デミウルゴス)及び其の他幾多の鬼神をおけり。此の猶太敎の神に與ふる位置に就きてはグノスティックの派を異にするに從ひて異なり。猶太風に傾けるグノスティックはそを萬物の太原たる神とは區別すれど尙ほ之れに與ふるに高き位置を以てし、非猶太的グノスティックは之れを物質を造れるものと見て恰も天地の太原に反對するものの如く考へたり。此等のグノスティックの所說は畢竟猶太敎及び其の他の宗敎思想を網羅し盡くして基督敎理の中に收めむと試みたるものなり。
グノスティック宗徒は神靈と物質との二元を相對せしめしが彼等の或者は更に細かに吾人に於ける精神及び物體の方面を分かちて三となせり。一は肉體(ὕλη)一は生氣(ψυχή)一は心靈(πνεῦμα)是れなり。グノスティック宗徒は此くの如く物質を卑しみたる所より此の世に降りたる基督は眞實の肉體を具へたるにあらずして唯だ肉體を具せるかの如く吾人に見えたるのみなりと唱へたり。斯くの如くグノスティック宗徒は凡べて物質を惡しきものと視またデミウルゴスと萬物の太原とを別かちたるのみならず其の太原より段階をなして世界の發出することを說けり。其の發出を說く趣は其の流派によりて同一ならざれども凡そ或種類の發出說は彼等に通じたるものなり。
グノスティック宗徒の中其が敎說の組織の最も見るべきは次ぎに揭ぐるバシライデース及び殊にヷレンティノスの所說なり。
《グノスティックの發出論。》〔六〕彼等は舊約書の神を以てデミウルゴスとなし之れを吾人の名づくべからず、知り得べからざる天地の太原即ち神と區別せり。此の名づくべからず知るべからざる萬物の太原より永久の勢力二つづつ一對をなして發出す。此等の勢力をアイオーネス(αἰῶνες)と名づく。第一に出でたるはヌウスと眞理(ἀλήθεια)とにして最後に出でたるは智慧(σοφία)なり。而して此のアイオーネスの全體は神の圓滿の相(πλήρωμα)を發現せるものなり。
アイオーネスの最下に位する智慧が天地の太原に等しからむとする妄念を起こし之れが爲めに混沌たる物を生じたり。是れ即ち迷妄の始めなり。此の智慧の迷妄によりて出でたる混沌たるものに秩序と形とを與へむが爲めヌウスと眞理とよりクリストス(基督)は出で來たれり。即ちクリストスはアイオーネス界の救濟者なり。
智慧が宇宙の太原に等しからむとする迷妄を起こせるによりてアイオーネス界より墮落せるアカモート(即ち件の迷妄に起これる意欲)の界をオグドアス(ὀγδοάς)と名づく。此のオグドアス界の救濟者として出で來たれる者は救主イエスなり。救主イエスは神明圓滿の相を現ぜるアイオーネス全體より生まれ出でたるものにして彼れが救ふ所のオグドアス界はアイオーネス界と吾人の世界との中間に位するものなり。而して吾人人類の救濟者はマリヤの子イエスなり。彼れはデミウルゴスとア力モートとによりて形づくられ吾人の世界に降りてアイオーネス界の祕密を人類に傳ふる者なり。此のアイオーネス界の祕密を知る是れ即ちグノスティックの謂はゆる知識なり。
かくの如く天地の太原より階段をして勢力の發出することを說きたるグノスティックの發出論は後に希臘の哲學に於いて新プラトーン學派によりて更に哲學的表現を得たる思想なり。而して此等の思想は皆要するに墮落したる者と神聖なる太原との間に媒介を措きて彼れがこれに還るの道を說けるものに外ならず。基督敎會がイエス、クリストてふ救主の媒介に依り人類が救はれて神に歸ることを得と唱ふるも亦同一の根本思想に出でたるものなり。又グノスティックが種々の世界に種々の救主あることを說けるは頗る印度の宗敎思想に似かよへる點ありと認めらる。
《護法家ユスティノスの思想、其の二元論。》〔七〕グノスティックは基督敎會の思想より出立せりといふものから實は大に基督敎會の信仰より離れたる所あるを以て彼等は早くより異端として攻擊せられたりき。此の時に當たり一方は此等グノスティックに對し又猶太敎及び其の他の異敎徒に對して基督敎旨を維持し一方に於いては羅馬の有司が基督敎徒を迫害したりしに對して基督敎の辯護に力めたるは卽ち護法家なり。護法家の中茲に擧ぐべき肝要なる人物は殉敎者ユスティノス(希臘人の血統を引きまた希臘風の敎育を受けたる人、サマリアに生まれ百六十三(乃至六)年羅馬にて死刑に處せらる)及びマルクス、アウレリウス帝に上書したる亞典人アテナゴラス、又羅馬人の中にてはミヌシウス、フェリックス等なりとす。就中最も吾人の注意を惹くべき者はユスティノスなり。彼れに從へば凡べての眞理は其の說かれたる時代たとひ基督以前に在りとも皆之れを基督敎的と稱すべきなり。何となれば凡べての眞理は皆ロゴスの啓示する所にしてロゴス即ち基督なればなり。人類は皆多少ロゴスの啓示を受くる所あり、古へに在りては希臘の哲學者ピタゴラス、ソークラテース、プラトーン等の如き皆一は直接にロゴスの啓示を受け又一は摩西及び其の他の猶太の豫言者等の敎を知れるによりて眞理を得たる者なり。然れども此等の人々に傳はれるロゴスの啓示は全からず其の完全に世に現はれたるは基督の敎に在り。基督敎は人類に現はれ來たりたる凡べての眞理を大成したるものなり。ロゴスに發現する、又ロゴスによりて世界を造れる神は世界を超越せるもの、而して神より出でたる智慧是れ聖靈なり。ユスティノスは神に對して混沌たる物質を置き之れを以て本來存在せるものとし神は之れを用ゐて世界を造りぬと說けり、即ち其の根本思想の二元論なるを見るべし。盖しユスティノスは明らかに希臘哲學の思想を取りて之れを基督敎會の宗敎思想に混和せむとしたるものなり。
《テルトリアーノスの思想、「不條理なるが故に我れ信ず」。》〔八〕イレナイオス(三百二年頃に死せり)及び其の弟子ヒッポリトス等亦或は護法家の中に加へらる。但し彼等は重にグノスティックの攻擊に其の力を注ぎたり。テルトリアーノスの如きもまた或は護法家の中に加へらるゝが、彼れは哲學的知識を以て宗敎を說かむとするものに反對せり。其の有名なる語に曰はく不條理なるが故に我れ信ず(Credo, quia absurdum)と。彼れは又吾人が自然の意志及び思想は皆腐敗せり哲學は異端の母なりと考へたり。然れども彼れの思想は自ら希臘の哲學に得たる所あり。彼れは物體と精神とを不離者と見るストア學派の論を取れりと考へらる。以爲へらく、凡べて在るものは物體なり、神も靈魂もすべて物體なりと。彼れはまたストア學徒の如く肉情に屬するものと道德とを相對せしめて禁欲主義の道德を主張せり。又アッシリア人タティアーノスの如きもいたく哲學に反對し凡べて希臘の文化を以て惡魔の所爲と考へたりき。
《オリゲーノスの思想、基督敎神學大要の成立。》〔九〕上述せるグノスティックの如く基督敎會の精神を離れたる者ありまた基督敎會の爲めに辯護を爲したる人々にも希臘哲學の思想を受け納れむとしたる人もあれば又之れに反對する人もありしが此の間に在りて最もよく基督敎會の敎理を組織したる者をアレクサンドリアなる敎校の人即ちクレーメンス及び其の繼續者オリゲーノスとす。彼等は宗敎に於ける信仰上の事柄を知識の上に言ひ表はさむとせり。故に此の點に於いてはグノスティックと同じけれどグノスティックが種々の他敎より得たる想像を混入して正當なる基督敎義とは云ふべからざるものを形づくれるとは異なりて此等アレクサンドリアの敎父は力めて基督敎會の宗敎的意識より離れざらむとせり。而して其の意識を本として基督敎會の敎義を組織するには希臘哲學の思想に假り而して其の組織したる所は最もよく敎會の宗敎的實驗に適合せるものなりき。後の基督敎會の神學は其の要點に於いて已にオリゲーノスの手に成れりと云ひて可なるべし。
クレーメンスは紀元後二百年頃の人なり。彼れはプラトーン風の思想にストア學派の思想を混和したるものを取り入れて基督敎會の敎理を形づくらむと企てき。而して彼れが業を繼續して後世の基督敎會の爲めに神學の大組織を企圖せるはオリゲーノスなり(百八十五年に生まれ二百五十四年に死す)。彼れは其の學說の爲めに種々の迫害を蒙り遂にアレクサンドリア府より放逐せらるゝに至りき。オリゲーノスは基督敎理の標準及び淵源を其の敎會の所傅と聖書とに措けり。而も彼れは聖書の解釋に唯だ字面上の意義を說く者と其の中に籠もれる眞義を闡明する者とありとなし聖書中歷史上の事實を平叙したる者を唯だ其の儘に見るは是れ表面上の意義の解釋にして其の眞意義を看破せむには其の中に含める心靈上の旨意に想ひ到らざるべからずとせり。以爲へらく、神は純粹なる靈にして唯一なる者、不變なる者、萬物を超絕する者、其の意志によりて世界を創造したる絕對的原因なり、神に對して無始より存在する物質なし、物質其の物が神によりて造らる、而して彼れの造化作用は彼れと共に無始無終なる者なり。神は唯一にして不變なるを以て其の世界を造化するや自ら直接に個々物を造るに非ず、萬物は神の發現なるロゴスによりて造らる。ロゴスは其の本體に於いて父なる神と同一なるものなれど父なる神より出でて之れに屬するものなり。即ち子なる神は現はれたる神、父なる神は隱れたる神なり。而して聖靈が子なる神に對する關係は子なる神が父なる神に對すると同じ。
凡そ神に造られたる靈なるものは皆自由なる意志を以て其の本性とす而して彼等の中其の意志の自由を用ゐ誤りて神を離れたる者あり、是れ即ち罪惡の本源なり。彼等はかく罪惡を犯して墮落したれども尙ほ神より享けたる神性を全く失ひたるに非ざるを以て神助によりて再び罪を脫すべき能を具ふ。神明の啓示は人類の原始より今に至るまで存在し希臘の哲學者等にも之れを得たる者あれど其の完全に現はれたるは基督に在り。基督はロゴスの化身して人間となりて救世の目的を達せむとする者而して世界歷史の窮極は凡べての人靈が救世主の媒介によりて遂に皆神に立ち歸るに在り。吾人の救濟せらるゝ順序は信仰に始まりて智識に至り終に神明に合一するの窮竟地に達するにあり。
之れを要するに神が萬物の絕對的原因なること、萬物の造られたるは神の意志の働きによること、人間が其の自由なる意志によりて罪惡を犯すに至れること、基督は世界の歷史に於いて吾人を導きて神に復歸せしむるものにして世界の歷史は無意味なるものにあらず善美なる窮竟地に向かひて進み行くものなること、吾人は只管形骸を厭離するを要せず現世に於いて肉身に住しながら尙ほ基督を模範として淸淨なる生活を送るを得と云ふこと等の基督敎神學に於ける主要なる思想はオリゲーノスによりて明らかに形づくられたれりき。
ニカイア會議以後の時代
《ニカイア會議以後の敎理問題、その決定。》〔一〇〕哲學上より見れば基督敎理の根本思想は畧〻オリゲーノス等の手によりて成立したりといふべきも敎會の敎義としては更に明瞭にするを要する點少なからず。盖し基督敎會の敎理の根柢は神が基督によりて人間を救ふといふことに在りて此の神、基督、人間てふ三者を中心として敎義上更に決定すべき問題のあるあり、此の故を以てニカイア及び其の以後の幾多の會議は開かれたり。それらの問題は神性論、基督論、及び人性論の三大中心に纏めらる。中に就き第一問題は三位一體說によりて、第二問題は基督を神人と見ることによりて、第三なる人性論は生來吾人は罪に染める者なれば自ら己れを救ふ力なく唯だ神の慈悲を以て救はるといふことによりて決定せられたり。初めなる二問題は基督敎會中、主として東方即ち希臘敎會に於いて論ぜられ、第三なる人性論は專ら拉甸敎會に於いて定められたり。かくして基督敎會の敎理の定まれるのみならず敎會其の物が信仰の對境となりて後遂に羅馬加特力敎會の大組織を成すに至れり。
《アタナシオス、三位一體論、神人論。》〔一一〕第一問題はニカイア會議に於いてアタナシオスが唱へたる父なる神と子なる神とは其の性相同じからざれど相等し(即ち差別はありながら尙ほ其の神なることに於いては些も差等なし)といふ論に決定し、尙ほ後にコンスタンティノープルの會議に於いて聖靈をも之れに加へて遂に三位一體說を形づくれり。第二問題はエフェソスの會議及びコンスタンティノープルの會議に於いて基督は純然たる神にしてまた全き人なりといふ神人論に決したり。第三問題を取りて之れが解釋を試みたるは敎父時代の最後の大思想家なるアウグスティーヌスなり、彼れは哲學史上また優に吾人の注意を惹く値ひあるものなり。
《アウグスティーヌスの生涯。》〔一二〕アウグスティーヌスは紀元三百五十四年ヌミディアのタガステに生まれ幼にして敬神の念厚き賢母モニカに養育せられしが靑年の頃に及びて種々の迷路に入り當時行はれし諸種の宗旨及び哲學によりて安心立命の地を得むとしマニカイ宗を奉じ後新アカデミーの懷疑說を懷き次いで新プラトーン學派の說を取り、かくして幾多の思想を經過して遂に再び基督敎の信仰に落ち著きたり。彼れは著作家としてもまた思想家としても一世に卓絕し其の所說には新時代の思想の種子となるべきものを包合せり。四百三十年に歿せり。
《アウグスティーヌスの原罪論、救濟論、羅馬敎會の確立。》〔一三〕アウグスティーヌス以爲へらく、人間は救濟を要する者なりそは罪惡に陷れゝばなり、然れども人間は罪惡に染み之れに纒縛せられて意志の自由を失ひ今は罪惡を犯さざるを得ざる狀態に陷れる者なるを以て自ら救ふことを得ず。さりながら罪惡が眞に罪惡として罰せられむには自由なる意志によりて生じたるものならざる可からず。さらば何處に自由意志は存するか。曰はく意志の自由は原人にあり、人類の祖なるアダムが意志の自由を以て罪惡を犯せるにより彼れが子孫たる人類は悉皆罪惡を犯すべき性を享くることとなれり(是れ謂はゆる原罪論なり)。然れども神は正義なると共に慈悲あるものなるが故に其の慈悲心を以て人間を救はむとす、誰人の救はるゝかは是れ全く彼れの定むる所にして人間自力の聊かも關し得る所にあらず、換言すれば何人の救はるゝかは人間の自由に定むる能はざる所にして已に豫め神意によりて決定せられたるものなり(是れ謂はゆる豫定論なり)。
アウグスティーヌス以爲へらく、神は正義なるがゆゑに人間の罪を救はむには其の罪に對して賠贖のなさるゝを要す、而して基督は人間の爲めに此の賠贖を爲したる者なり。故に彼れの媒介に賴らずして救はるべきものは一人もなし而して敎會は基督の救濟の業を繼續するもの即ち彼れの代表者なり。故に地上に於いては敎會以外に救濟の道なしと。是に於いてアウグスティーヌスは羅馬敎會を盤石の安きに立て其の堅固なる組織によりて世界救濟の業を成就せむの企圖を描けり。
《アウグスティーヌスの思想の兩面、敎會と意識の實證。》〔一四〕アウグスティーヌスの思想には敎會を中心としたるものと吾人が意識の實證を基礎としたる者との兩面相纒綿せり。盖し彼れは一方に於いて吾人は唯だ敎會の規定する所を信ずるによりて救はるべしと考へたると共に又一方には人々直接に己が意識に實證する所を基礎として考へたり、即ち彼れが哲學思想には專ら此の吾人各自の意識に驗する實證を基とせる而して其の敎會を中心として考へたるとはおのづから其の趣を異にせる點あり。彼れは一切の證據の窮極を吾人の意識に求め而して意識に於いて「我」の存在の確實なることを知りまた之れより考へて神の存在することを知ると論ぜり。是れ即ち近世哲學の初めに於いてデカルトの說ける所を豫想せるものなり。此の吾人の意識證明を根據として出立する思想は哲學の歷史に於いては新傾向を含めるものと云はざるべからず。
《暗黑時代に於ける羅馬敎會の事業。》〔一五〕基督敎理の組織はアウグスティーヌスに於いて一段落を吿げたりと謂ふべし。而して其の敎理を取りて更に之れを哲學的に組織せむとしたるもの是れ所謂スコラ哲學なり。然れどもアウグスティーヌス以後スコラ哲學の起これる迄には大凡そ四百年の間隙あり。是れ歐洲歷史に謂はゆる暗黑時代にして北方の蠻人が羅馬帝國を蹂躪したる後久しき歲月の間文物其の影を隱したりし時なり。此の文物其の影を隱したりし暗黑時代に於いて野蠻人を敎化し且つ希臘羅馬の古代文明の遺物を保存したるものは當時の敎會なり。北方の蠻人は當時未だ希臘羅馬の文物を了解すること能はざりしが故に彼等は其の遺物の文學上のものたると美術上のものたるとに論なく悉く之れを破壞して惜しむ所なかりしが此の時に方たりて彼等野蠻人を懷け得しもの唯だ當時の宗敎的勢力ありしのみ。アウグスティーヌスの思想によりて基礎を堅且つ大にしたる羅馬敎會の大組織、其の大宗敎的勢力にして始めて能く彼等蠻人を敎化し遂に彼等をして希臘羅馬の文化を了解するに至らしめしなり。希臘羅馬の文化の遺物を傅へて彼等に手渡したる功績は專ら敎會に歸せざるべからず。一言にして云へば此の時に方たり古代の文藝は寺院に其の隱家を發見せるなり。中世紀に在りて文事は勿論產業の事に至るまで凡そ社會の事業に於いて指導者となりしものは羅馬敎會の僧侶なり、彼等は當代の智識の倉庫たりしなり。
第二十三章 スコラ哲學總論
《スコラ哲學の目的、信仰と道理との一致。》〔一〕基督敎會の敎理は敎父時代に於いて略〻其の形を成し而して敎理を形づくらむが爲めには主として希臘哲學を用ゐたりしが哲學と宗敎、道理と信仰との關係に就きては未だ明らかに決定するところあらず、或は敎義は哲學上より考へても亦道理にかなふ者なりとせるあり、或は兩者の必ずしも一ならざることを主張せるあり。盖し尙ほ宗敎と哲學、信仰と道理とは唯だ相並びて存在し未だ其の間の關係の明瞭に定められざりし也。中世紀哲學は更に進みて宗敎上の信仰をば哲學上道理あるものとして論ぜむとしたるものなり、別言すれば其の目的、哲學上の究理と宗敎上の信仰との一致することを示さむとするに在り。敎父時代は之れを敎理組織の時代といふべく、中世紀哲學は已に組織せられたる敎理を受け繼ぎ道理に合ふものとして之れに哲學的組織を與へむとしたるものと云ふべし。此の事を成就せむとしたる人々是れ所謂スコラ學者、而して件の目的を以て成れる當時の敎學是れ所謂スコラ哲學なり。
上述せし如く歐洲の文物は一時暗黑時代の裡に沒したりしがシャルマーヌ帝の頃より或は朝廷に附屬し或は寺院に附屬したる學林を興して學者を集め學問に從事せしめたり。當時學者はなべて敎會の僧侶にして其の謂ふ學問は專ら敎法を講ずることにてありき、而して其れらの學林は其の初め傳敎師を養成する目的を以て與りし也。此等の學校即ちスコラ(Schola)に集まりて學を講じたりし故を以て彼等にスコラ學者(Scholastici)といふ名稱あり、彼等は一言にいへば敎會の學者即ち敎法師(Doctores ecclesiae)なりき。
《スコラ學者の假定、敎理と實驗、神秘家と自然科學者。》〔二〕スコラ學者の目的は敎會の信仰の道理にかなへることを示さむとするに在りしが故に彼等の根據とせる假定は(一)宗敎上の信仰に於いて吾人は已に確實不易なるものを有し居ること、而して(二)吾人の知識(或は理性或は理解力)は吾人が已に信仰として有するものの道理に合へることを示すに過ぎざるものなること是れなり。故に彼等に從へば吾人は已に信仰として必要なるものを有す而して吾人をしてそを理解せしむるが哲學の目的なり。故に理性は信仰に對して獨立の位置を有するものに非ず唯だ信仰の爲めにそが道理上の根據を示すに止まるものなり。是れスコラ哲學に於いては理性は信仰に對して婢僕の地位に在りと云はるゝ所以なり。
然れども謂ふところ吾人が宗敎上確實として有するものをば二樣に見ることを得。盖し或は之れを(一)敎會の敎理として客觀的に定まれるもの、換言すれば敎會の傳說として存在するものとも見るを得べく或は之れを(二)各人の心底に宗敎上直接に實驗する所のものとも見るを得べし。約言すれば此の二つのものは敎會の制度、敎理、信仰、傅說として存在するものと各人の主觀に直接に意識し實證するものとにして、是れさきにアウグスティーヌスに於いて相交錯して存在せりしものなり。前者を取りてその道理に合へることを示さむとしたるが是れ嚴密なる意味に謂ふスコラ哲學にして、後者に立脚し專ら各人直接の宗敎的經驗に基づきて說を立てむとせるものは神祕家なり、盖し中世紀哲學に於いては嚴密なる意味に謂ふスコラ哲學の傍に神祕家の流れの存在するを認む。中に就きスコラ哲學こそ中世紀思想の主要の部分を成すものなれば、一言に之れを中世紀哲學と稱することあり。
今云へる如く嚴密なる意味に謂ふスコラ哲學の傍に神祕者流の在りし外に尙ほ多少自然科學めきたる硏究に心を用ゐたりし學者もありしが此れは他の流派に比しては極めて微少なるものなりき。倂しながら後スコラ哲學の衰微し破壞するに至り却つて大に其の頭を擡げ來たり因りて以て學問界の面目を一新するに至れるものは後に述べむとする所を以て知らるゝ如く實に自然界の科學的硏究なりき。
《スコラ哲學の盛衰、其の三期、其の哲學的基礎。》〔三〕斯くスコラ哲學の目的は信仰と道理との一致を示さむとするに在るを以て宗敎上の信仰が道理に合ふことを證し得たりと考へたる時は是れ正さしくスコラ哲學の最も生氣を有したりし時にして其の兩者の必ずしも相合ふものに非ざるを認め寧ろ全く其の領域を相分かたむとしたる時は是れ即ちスコラ哲學衰頽の時代なりとす。
中世紀哲學は畧〻之れを三期に大別することを得。第一期は第九世紀より第十二世紀に至るまでにして之れを其の發生の時代と稱し得べし。第二期は第十三紀にして其の全盛の時代なり。第三期は第十四及び十五世紀にして其の衰頽の時代なり。各期の思想に於いて其の基礎となれる特殊なる哲學上の學說あり而して這般の學說は皆希臘の哲學に由來せるものなり。第一期に於ける哲學的基礎はプラトーン學風の實在論、第二期のはアリストテレース學風の實在論第三期のは唯名論なり。哲學思想の上より見れば實在論と唯名論との爭ひがスコラ哲學の骨子を成せりといふを得べし。而して唯名論の勝を制するに至りて信仰と道理とが相分離することとなれる也。中世紀哲學の經過を希臘哲學のに比すれば恰かも反對の趣を呈せりと云ふことを得べし。希臘哲學はもと學術的硏究の通俗的宗敎より分離することによりて始まれるものなりしが其の末路なるプラトーン學派に至りては遂に俗間の宗敎に合體し宗敎的思想を離れて哲學なしといふも不可なき有樣となれり。中世紀哲學はもと宗敎と哲學とは相一致するものなりと云ふ確信を以て始まれりしが其の末路に及びては兩者は全く範圍を異にするものなりと云ふに終はれり。
《スコラ哲學の內容、希臘哲學と神祕說との敎會に及ぼしゝ利害、信仰の牽强附會。》〔四〕哲學思想の內容より云へば中世紀哲學は槪ね希臘學術の遺物を受け繼ぎたるものにして哲學上其が根本思想に特に新らしきものあるを見ず。啻に然るのみならず中世紀の思想に於いて哲學は宗敎に對して寧ろ婢僕の位置に在りて獨立のものならざる故を以てスコラ學は正しくは哲學と謂ふべきものにあらずと考ふる史家もあれど歷史上より見てそを一種の哲學的思想と云はむに少しも不可なし。歐洲思想の變遷を叙せむには中世紀思想を飛び越ゆること能はず、且つ其が根本思想は希臘哲學より來たれりとはいふものから其れが當時敎會敎理の形を成せる基督敎思想に和合したる故を以てまた多少當時に於ける新問題を解釋せむとしたる故を以て尙ほ其の中幾分在來の哲學に存せざりし新らしき趣きの生じ來たれることを忘るべからず。
中世紀に於いて希臘哲學は初めより善く知了せられたるにあらず。當時の學者が最初希臘哲學に關して有したる知識は極めて淺少のものなりしが後に至りて漸次希臘羅馬の哲學及び凡べての古代文物流れ込み來たり、而してスコラ學者はこれを用ゐて當時の羅馬敎會の理想に哲學的組織の表現を與へむとしたるなり。而して殊にそが組織の用に供せらるゝ材料を與へたるものはアリストテレースの哲學なりき。然れども希臘哲學を假り來たることは一方に於いて敎會を利したると共に他方に於いては其の信仰を維持する上に障碍を呈するの結果に至らざるを得ざりき。何となれば希臘に起こりし哲學的硏究は元來究理心の獨立を根據としたるものなれば其の硏究の進むに從ひ其れが敎會の信仰に對して獨立を唱へむとするに至るは自然のことなればなり。
且つまた嚴密なる意味に謂ふスコラ哲學の傍に流れたる神祕說よりいふも其は一個人が厚き敬神の心と深き宗敎的經驗とを基として立ちたるものなれば固より敎會の目的に援助を與ふる所あり。盖しスコラ哲學が動〻もすれば單に論理的、究理的、組織的に流れむとする傾向に對して深奧なる宗敎的確信を維持せむとしたるものは神祕家なりき。然れども他面より見れば是れはた敎會の敎理と權威とに對して不利なる傾向を有せる所あり。何となれば神祕說は個人が自家の意識に存在する實證を基とするが故にそれが敎會の定めたる敎理に合はむことを必すべからざれば也。
宗敎と哲學との一致を目的とせるスコラ哲學は道理と信仰とを相接觸せしむることに於いて其の辯證討究の結果往々おのづから敎會の敎理より見て正當ならざる論說に陷らむとしき。是れ其の學本來の目的よりして止むを得ざりし事なり。盖し信仰と道理との調和を計るといふ其の事は其が自然の結果として道理によりて敎會の定めたる信仰を牽强附會することを免るゝ能はざればなり。
スコラ哲學第一期
第二十四章 スコラ哲學の發生
エリゲーナ及びアンセルムス
《スコラ哲學の骨子、通性と個性との關係。》〔一〕希臘哲學に於いて新紀元を劃したるはソークラテースが所謂槪念的知識の論によりて開始せられたる硏究なり。件の思想はプラトーンのイデア論ともなり次いでアリストテレースの相素の論ともなりて遂に希臘哲學の頂上に達せり。中世紀哲學は其の主要なる觀念を希臘哲學に取り來たり之れに被らすに頗る趣を異にしたる衣裳を以てしたりしが謂ふところ主要なる觀念も畢竟ずれば曩にプラトーンのイデア論及びアリストテレースの所謂相の論となりて現はれたりしもの即ち通性の論に外ならず。通性と個性との關係は前に云へる實在論と唯名論との爭論の中心問題にして是れ即ち中世哲學の骨子とも謂ふべきものなり。
《新プラトーン學派の影響とスコラ哲學、スコラ哲學の濫觴。》〔二〕件の通性論即ちプラトーンに於いてイデア論となりて存在せる思想の夙く中世紀哲學に影響せしは專らそれが新プラトーン學派風の形を取れるものなりき。但し希臘哲學上の著書の當時に傳はれるは基督敎會に於いて新プラトーン學派風の思想を混和して成りしもの及び後世註釋家の手に成りしもの數種の外には殆んど無く希臘哲學者みづからの著作とては唯だアリストテレースが論理學の一小部分及びプラトーンの『ティマイオス』の知られたるに過ぎざりき。新プラトーン學派に從へぱ物の實體として働き居る者は形體なきもの、卽ち精神的のもの一言にいへば理想なり。而して此等理想の根原は絕對に一なる者なり。絕對者より出でて漸くに個物界に近づき下るに從ひて物々次第に不完全となる、而して再び完全なるものとならむには其の段階を上りて絕對者に合せざるべからず。此の新プラトーン學派風の思想に影響せられて中世紀哲學の濫觴となれりしはスコートス、エリゲーナの所說なり。
スコートス、エリゲーナ(Scotus Erigena)
《眞哲學は眞宗敎なり眞宗敎は眞哲學なり、エリゲーナの所謂理性の意義。》〔三〕彼れは紀元後八百年乃至八百十五年に生まれ八百七十七年には尙ほ生存せりき。恐らくは愛蘭土の產なりしならむ。巴里なる宮廷の學校に聘せられて敎授たりき。彼れ始めてスコラ哲學の精神ともいふべき語即ち「眞正の宗敎は眞正の哲學なり眞正の哲學は眞正の宗敎なり」といふことを唱へ出でたり、盖し彼れは道理と敎會の敎義とを相並べて其の一致することを示さむとせしなり。故に彼れの論證は一方に於いては敎會の敎義を標準とし一方に於いては理性を根據とせり。されど彼れが實際爲す所を見れば寧ろ道理を獨立なるものとして之れに從へる傾向あり。而して彼れは固より公然敎會の敎理に反對することは爲さざりきと雖も其の道理と信仰とを調和せむとするや重きを道理に措きて之れに合はさむが爲めには敎會の敎ふる所を譬喩として解するに躊躇せざりき。
エリゲーナは其の標準とする所の理性を智識的直觀(intellectualis visio 或は intuitus gnosticus)と見たり。彼れが所謂理性とは唯だ論理の步武を追うて推理するものを謂ふにあらずして寧ろ眞理を直觀する者を謂ふ。彼れに從へば吾人の有し得る最高知識は思想と存在とを一致せしめたる直觀(intellectus)次ぎなるは論理を辿り行く推理作用(ratio)最下に位するは五官の知覺なり。理性的直觀を以て最高知識なりとする點に於いて彼れが如何に新プラトーン學派に影響せられたるかを見よ。
《エリゲーナの萬有三段論、開展と復歸。》〔四〕エリゲーナまた新プラトーン學派風の思想に從ひ說きて曰はく、神は凡べての物の太原即ち絕對的原因なり。凡べての實在は彼れの中に在り、彼れの外に實在するものなし。萬物の存在すと云はるゝは神がそれに於いて現はるればなり、故に森羅萬象は神の發現といふも可なり。神其のものは萬物を超絕す、吾人は彼れに附するに彼れを定限する性質を以てすること能はず、善といふことも以て彼れを形容するに足らずと。エリゲーナは此の神を名づけて全有(τό πᾶν)又は自然(Natura)と云へり。
神は萬物を造化する所以のもの而して造化せられたるものは世界なり。而して能造化なる神と所造化なる萬物との間に位するものは形體以上の理想にして即ち萬物の模範的原因(causae primordiales)として其をしかあらしむるもの也。これは造化の太原なる神に對すれば造化せられたるもの、世界に對すれば能造化にして能く萬物を造るもの、是れロゴスなり。ロゴス卽ち理想の全體は神の發現にして其の中の最高なるもの之れを至善と云ふ、此等の理想が高下の段階を成す關係は恰もプラトーンがイデア論に於いて說けりし所の如し。斯くしてエリゲーナは萬有は三段を成すと見たり。第一は神卽ち能造化にして所造化ならぬ自然(natura quae creat et non creatur)、第二は萬物の模範的原因にして一面所造化にして一面能造化なる自然(natura quae creatur et creat)、第三は唯だ所造化にして能造化ならぬ自然(natura quae creatur et non creat)即ち天地の萬象なり。
神は啻に萬物の太原なるのみならずまた萬物の窮極なり。凡べての物は神に歸入し和合することを以て其が終極の目的となす。エリゲーナは右述べたる三段階の外に造化せられたる萬物が神に復歸して彼れに一致和合する狀態を說けり。即ち前者に於ける開展(egressus)の方面と共に復歸(regressus)の方面あるを云へり。以爲へらく、是れ即ち能造化にもあらず所造化にもあらざる自然(natura quae nec creatur nec creat)なり、是れ即ち凡べての物が神を我が實性として能知なる主觀と所知なる客觀とが一に契合したる狀態なり、人間にていへば前に所謂知識的直觀によりて神と融合せる狀態なり。但し此等四段の狀態は實は一體を成せるものにして唯だ吾人の考ふる時にそを四段に分かつのみ、如實には其の間に時の前後なく皆同時に相合して一全體をなすものなり。
《其の善惡論、罪惡の必然の失敗。》〔五〕前にもいへる如く神は凡べての定限を絕するもの、唯だ發現して萬物となれるのみ。而して其の發現したる萬物は皆至善を極致とす、各〻善に與る(即ち善き所ある)の故を以て存在す。實在は皆善なるものなり。惡は消極的のもの即ち實有の缺乏これ惡なり惡といふ實有の體を具ふるものあるに非ず。吾人に於ける罪惡は意志の向け方の誤れる也、詳しく云へば眞實存在せざるものを眞實存在するかの如く迷想しそを善なるものとして意志する是れ即ち罪惡の根元なり。かくの如く罪惡に於ける意志は非有なるものに向かひてこれを求むる者なれば必然失敗せざるを得ず、換言すれば罪惡はそが必然の結果として刑罸を受けて亡びざるを得ず。而して萬物は皆遂には神に歸り彼れに和合すべきものなり。
《エリゲーナの思想と敎會。》〔六〕かくの如くエリゲーナの思想は一見して其の如何にプラトーン學派風(寧ろ新プラトーン學派風)の思想に影響せられたるかを認め得べし從ひて後に敎會が彼れの說を排斥して正說ならずとしたるも怪しむべきことにあらず。盖し當時に在りては哲學は尙ほ一般に怪しげなるものとせられし趣ありしが上にエリゲーナの思想は前に述べたる所にても知らるゝ如く敎會の方面より云へば餘りに獨立なるに過ぎたればなり。彼れは時代に先んじて出でたる深奧なる思想家なりき。スコラ哲學を組織することに於いて彼れよりも更に正當なる意味をもてスコラ學者と云はるべきはアンセルムスなり。
《スコラ哲學の正當なる組織者アンセルムス、其の辯證的論法。》〔七〕アンセルムスの出でたる時代とエリゲーナの時代との間には殆んど二世紀の隔たりあり。盖しシャルマーヌ帝の歿後歐洲の天地は復た擾亂の世となりて時勢はしばし學問の興隆に適せざりし也。アンセルムスの出でたるは十一世紀の前半に在り。スコラ哲學は彼れに於いて始めてそが正當の目的に適へる組織を成せりと謂ひつべし。
アンセルムス(Anselmus)
アンセルムスは紀元千三十三年アオスタに生まれ千百九年に歿す、カンターベリーの大監督なりき。信仰と知識との關係は彼れに於いてスコラ哲學に取りての正當なる主義によりて更に明らかにせられたり。彼れ以爲へらく、宗敎上の信仰は知識に先だちてあるもの也。知識を開きて道理上推考することを爲し得ざる者は信仰を以て足れりとすべし然れども更に進みて知識に達し得る者に取りては信仰に加ふるに其の信仰の理由を以てせむは甚だ望ましきことなり、知識を添へたる信仰は單純なる信仰に優れりと。而して彼れの考ふる所によれば道理(知識)と信仰とは必ず相契合すべきものなるを以て假りに特別の天啓は無きものとしても唯だ吾人の理性に依りて推考して宗敎上の信仰を立し得べし。故に彼れの論法は吾人の通常謂はゆる理解力を用ゐ論理をたどりて辯證するに在り。此の點に於いて彼れの論はエリゲーナが直觀的知識を說けるとは其の趣を異にせり。之れを要するにスコラ哲學の辯證的論法はアンセルムスに依りて其の形を成したりと云ふを得べし。
《アンセルムスの神の存在に關する實體論上の論證及びその實在論的根據。》〔八〕アンセルムスの思想はプラトーン學派風の實在論に根據せり。其の根據は凡そ物遍通なるに從ひて愈〻實有に愈〻完全なりといふに在り。即ちプラトーンが五官に現はるゝ個物を最も實有に遠きものとして漸次イデアの界を溯りて實有の頂上に達することを說きしが如く個性に近づくに隨ひて實有愈〻減じ、通性に上るに隨ひて實有愈〻增加すといふ思想是れ即ち實在論の根本義なり。アンセルムスの說く所は冥々裡に此の思想を根據として立てりと見て始めて善くそを了解するを得べし。
かゝる思想に基づきてアンセルムスは先づ神の存在を論證せむと企てたり。以爲へらく、神は絕對に完全なるものにして之れに優りて全きものは考ふべからず、(quo majus cogitari non potest)斯かる者を名づけて神といふと。此の神てふ觀念は宗敎思想の樞軸を成すものなり。而してアンセルムスが此の神の存在を證する論に曰はく、神といふ觀念其のものに於いて已に彼れの存在することは含まれてあり、如何となれば吾人の心にのみあるもの即ち吾人の思ひ浮かぶることに於いてのみ存在するもの(esse in solo intellectu)よりも吾人の思ひに存在すると共に實物として存在するもの(esse in intellectu et in re)のかた更に多く實有なるものなり。故に神にして若し唯だ吾人の心にのみ存在する者ならむには彼れよりも更に優りたる實在を考ふることを得べし。然るに彼れは之れに優りて世に實有なるものの考ふべからざるものの謂ひなり。故に神を以て唯だ吾人の思ひにのみ存在するものとなすこと能はず即ち神は絕對に實有なる、完全なる者として實在すべきものなりと。是れ謂はゆるアンセルムスの實體論上の(神の存在の)論證として有名なるものなり。
《此の論證に對する攻擊、論點の眞意義。》〔九〕此のアンセルムスの論證に就きては早く已に疑訝を挾める者ありき。ガウニーロー(Gaunilo)の駁擊の如きは即ち是れなり。ガウニーロー以爲へらく、若しアンセルムスの論の如くならむにはアトランタ島(古人の想像して幸福なる島として云ひ傳へたるもの)の存在も亦同一の論法(即ち完全てふ形容詞を加ふること)によりて證據せらるべし、何とならば唯だ想像上にのみ存在して實に存在せざる島よりも更に完全なる即ち實在する島の考へらるゝが故に完全なるアトランタ島は實に存在す然らずんば完全ならずと論じ得べければなりと。
然れどもアンセルムスの論旨は此のガウニーローの駁擊に云へるものと全くは同じからず。盖しこゝの論點は絕對に完全なる實有なる者といふ觀念とアトランタ島といふが如き觀念とは
アンセルムスの論旨を考ふるに彼れの心には絕對に完全なる存在者といふ觀念は完全なる島といふ如き觀念とは異なりて必ず無かる可からざるものとして思惟せられしなり。若し苟くも存在するものあらば其の一切の物が依りて以て其の存在を得る所以の絕對に實有なるもの莫かる可からず。不完全なる個々物は之れを無しとも考ふるを得、絕對に遍通なるもの即ち凡べての實有を包含する者をば存在せざるものとは考ふべからず。實有は唯だ實有として考へらるべし非有としては考ふべからず(エレア學派の思想に聯絡を引ける所あるを見よ)。語を換へて云へば凡そ或事物をしかじかなりと云ふ時には其の事物がしかじかなりと云はるゝ事に與り居る所なかるべからず、其の事に與り其の事を分有するによりて始めてしかあると云はるゝなり。看るべし一事物をしかじかなりといふ時には其が與る事物の實在することを含み居らざる可からざるを。斯くして推究し行けば遂に凡べての事物が與りて其の存在を得る最高のもの即ち凡べてがそれによりて存在の相を得る所以の絕對者即ち實有其のもの(essentia)のあるを知るべし(プラトーンのイデア論に現はれたる思想がいかに此の論の根據をなせるかを看よ)。一言にして云へば、事物若し存在せば其が依りて存在する絕對のもの、遍通のもの、完全なるもの、即ち諸物の實體となるもの無かる可らずといふ、是れアンセルムスが論證の根柢に橫はれる實在論的思想なり。
《神の性質、三一神の關係。》〔一〇〕斯くしてアンセルムスは神の存在を論證し而して以爲へらく、神の性質は其の謂はゆる完全なる者と云ふよりしておのづから解せらる。凡べて世にあるものは皆彼れによりて存在す、彼れを離れて一物もあるなし。更に委しく云へば神は三一神なり、父と子と聖靈との三つが一の神を成すなり。子は父の言にして父なる神は子に於いて自らを言ひ表はす、猶ほ技術家が自らの製作に於いて自らを知り自らを現はすが如し。子なる神に於いて天地萬物(即ち神の圓滿なる相の發現)の模範的觀念(イデア)あり。父は子によりて天地萬物を造れり、語を換ふれば子によりて天地萬物に現はる。父と子とは現はるゝものと現はれたる者との關係を有す、兩者相離れたるに非ず而して其の相互の交通是れ即ち聖靈なり。此等三つのペルソナが一體の神を成すといふは怪しむべきことにあらず。恰も神の象に似せて造られたる人間に於いて想念(memoria)と知力(intellegentia)と愛欲(amor)との差別はありながら尙ほ各〻が他を含みて離れざる一體を成し居れるが如し。
《觀念模型と萬物の創造。》〔一一〕天地萬物はもと神の意中にある觀念の表出されたるもの也。神に於ける觀念は模型にして萬物は此の模型に象どりて造られたるもの、而して神の意中に於ける模型はそれに象どりたる世界に優りて善美なり。吾人の萬物を知識するは萬物を我が心に於いて象どる也。萬物は神の創造力によりて無より造り出だされ唯だ彼れに依りて存在す故に獨立自存のものとしては萬物は無なり(無より造り出だされたりと云ふは此の意なり)。凡べての物の實有の體は神より得たるものにして彼れの圓滿なる相の發現に外ならず、天地萬物は神の光榮を顯はさむが爲めに造られたりとは此の謂ひなり。造られたるものの中最高なるは自由意志を具へたる知あるもの即ち謂はゆる天使なり。
《罪惡論、救濟論。》〔一二〕然るに彼等天使は意志の自由を誤用して罪を犯したり。罪惡は意志の向かふべき方向を誤りたるものに外ならず、須らく唯だ神の光榮を顯彰すべき者が恣に自我の慾望を充たさむとするに生ずるもの是れ即ち罪惡なり。眞實は神の光榮を顯はすものとしてのみ實在しながら己れ神を離れて獨立自存するかの如くに自家を思ひ做し來たる所是れ即ち罪惡の根原なり。此の故に罪惡は意志が非有に向かひたる者なりと謂ふも可なり、盖し眞實には存せざる者(即ち神より離れたる者としての我が獨立の光榮)を得まくして之れに向かひ非有を求むる者なれば也。されば此等の罪惡に陷れる天使は墮落してこゝに造化に發現する神の光榮に缺損を生じたりと云ふべく而して神の發現の圓滿ならむには、換言すれば神の光榮の持續せられむには件の缺損を補足せざるべからず。
件の缺損を補はむが爲めに人類は造られたり。然るに人類も亦罪を犯せり。何故に罪を犯したるか。罪は素より自由意志に由來するものなれば其の理由と謂ふ可きものなし(incansale)、理由なく唯だ我が儘なるに由りて出で來たれるなり。是に於いて神の光榮の維持せられむがため復た此の缺損を補ふ必要を生じたり。幸に人類は子孫相遺傳して一體を成すものなるを以て其の墮落より救濟さるゝ道あり。彼等は此の點に於いて子孫相傅ふることなき天使と異なり。
同一なる人性は父より子に傳へらる。アダムの始めて造られしや全人類は種子として彼れの身に存したり、アダムの罪を犯したりし時に人類が罪を犯し人性が罪惡に染めるなり。是を以て其の子孫は皆罪に染みたる性を得生まれながらにして罪を犯す者となれり(こゝに一種類のものの槪念を一體として見る實在論上の思想を認むべし)。然れども斯くの如く一方に於いて其の罪惡の遺傳するは他方に於いてまた其の救はれ得る可能性ある所以なり。人間はアダムに於いて瀆れたりし人性を受け繼ぎて罪に染めるものとなれるが如くにまた基督に於いて實現されたる神聖にして完全なる人性に與ることによりて罪惡を脫することを得るなり。
《基督論。》〔一三〕人間は今は旣に神に對する義務を缺けるが故に自力もて己れを救ふ能はず。假令今善事を爲すといふともそは唯だ神に對する當然の義務を爲せるにて以て其の犯せる罪過を贖ふに足らず。しかも其の罪過は人間自らの犯したるものなるを以て人間自らが之れに對する責任を負はざる可からず。然らば奈何にすべきか。曰はく唯だ一途あるのみ。人間は自らを救ふ能はず彼れを救ひ得るは唯だ神なり。されど人間の自ら犯したる罪過なれば己れ其の罪過を贖ふを要す。故に人間を救ふ者は神にして又人ならざる可からず神が自ら人間に降り人間を自らに引き上ぐることによりて始めて人間は救はるべし。即ち人間は「神人」の媒によりて初めて神に歸ることを得而して「神人」として世に現はれたる者これ基督なり。基督の世に在りて嘗めたる艱苦は人間の罪過を亡ぼし得る無限の功德を有す何となれば彼れは人類が其の自然の生殖の道によりてアダムより傳へたる瀆れたる性を享けず新たなる人として處女の胎に宿りて生まれ些も罪惡に染まざる義者にてありながら世に在りて十字架上の苦痛を受けたればなり。此の義なる基督の苦痛は不義の樂みを求めて犯したる人の罪惡を贖ふ功德を有す。基督は神人の一致せるもの、彼れに於いて人性の全く墮落し了したるものにあらで尙ほ善く神性と一致和合し得ることの證せられたるなり。信仰によりて彼れの功德に與り彼れを受け容れて生まれ更はる者は皆無垢なる新らしき神の子となるを得べし。
《實在論と唯名論との對峙。》〔一四〕敎會の敎理を組織し又之れに附するに哲學上の論證を以てせむとしたるスコラ哲學の正當なる組織はアンセルムスに於いて其の模範を得たりといふを得べし。敎父時代に於いて決定せられたる神性論、基督論及び人性論を中心となせる敎義を一大組織に建立し上げむとしたるもの是れ即ちアンセルムスの神學なり。而して彼れが多くの點に於いてアウグスティーヌスの所說を襲ひたること、また哲學上より云へば通性を實有と視る實在論の思想が其の骨髓を成せることは認むるに難からざるなり。
通性のもの果たして實在なるか、また如何なる意味にて通性に實在を附すべきかの論爭はアンセルムスの時に於いて已に其の頭を擡げたり。但し是れより先きアリストテレースの論理書の或部分に存在する語及び後の註釋者がそを釋せし語よりして通性論に關する問題は漸次に學者の注意を惹かむとしつゝありしが此の時に至りては旣に二つの正反對なる學說の明らかに分立して互に鬪はむとせるを見る。是れ即ち中世哲學史を貫通する實在論と唯名論との爭ひなり。一派の論者は曰はく、通性(universalia)は實在するもの(realia)なりと、故に彼等を稱して實在論者といふ。他者は曰はく、通性は唯だ名目(nomina)に過ぎず聲として發する氣息(flatus vocis)に過ぎずと、故に彼等を名づけて唯名論者(又は名目論者)といふ。
《ロッセリーヌスの唯名論、神性論。》〔一五〕始めて明らかに唯名論を唱へ出でたる者として有名なるはロッセリーヌス(Roscellinus. 第十一世紀に生まれ千百二十一年には尙ほ生存せり)なり。彼れ以爲へらく、實に存在するものは分かつ可からざる個物あるのみ通性てふものは唯だ個物を總稱する名目に外ならずと。此の唯名論がスコラ哲學の敎說にただならぬ關係を有することは已にロッセリーヌスの神性論に於いても見ることを得べし。彼れは三位一體論は正當には三神論と解すべきものなりとして謂へらく、若し三神にあらずんば父は子と共に基督に於いて人間とならざるを得ず換言すれば子のみが化身して父は化身せずといふこと能はず、故に若し父と子とを一體なりとせば父自らが人間と自らとの媒介を爲すこととならざる可からずと。是れ彼れが唯名論に基づきたる個物的觀念よりせる結論なり。而して斯くの如き思想が中世紀哲學を如何なる運命に導かむとするかは尙ほ後に至りて明らかになるべし。實在論の根據に立てるアンセルムスの思想は固より斯くの如き思想に反對せざるべからず。アンセルムスは未だ明らかに唯名論に對して實在論を主張せざりきと雖も彼れが思想に實在論的根據あることは嚮に論述したる所によりて明瞭なるべし。
《極端なる實在論、其の他の實在論、萬有神敎的傾向。》〔一六〕かくの如く明らかに言ひ現はされたる唯名論に對して極端なる實在論を主張したるをシャムポー人ギヨーム(紀元一千七十年に生まれ一千百二十一年に歿す彼れは辯證法に於いてロッセリーヌスに聽く所ありき)とす。彼れ主張すらく、實體を有するものは唯だ通性のもののみ、個性の差別は偶存のもの(accidens)なり。通性は個々物をして存在せしむる眞實の存在者にして其は實體として全く同一時に(essentialiter, totaliter, et simul)存在するものなり。個物に於ける差別は唯だ偶然のもの、實存せざる外相たるに止まりて實體は通性の外にあらずと。
アンセルムスが神學の根柢に橫はれる實在論は當時敎會の本旨に適ふ者とせられて唯名論を壓倒せり。一時起こりたりし唯名論は直ちに抑壓せられて其の跡を收めぬ。此の故に中世紀哲學第一期の思想の哲學的根據はプラトーン風の實在論なりと謂ふを得べし。然れどもギヨームの唱へ出でたる如き極端なる實在論に對しては種々の困難あるを免れざる故を以て當時主張されたる實在論は此くの如き極端なるもの而已にはあらずして寧ろ多少其の形を變へたるもの多きに居れり。
上に述べたるギヨームが極端なる實在論に對しては種々の難點を揭ぐるを得べし。例へば其の一には若し通性のみが眞實存在するものにして差別ある個性はただ偶存のものならば同一實在に相容れざる偶性を有せしめざるべからざることあり、譬へば同一體の人間を或は賢或は愚なりと云はざる可からざるべし。故に實在論は其の極端なるものに存する困難を避けむがために種々の異なりたる形に言ひ表はされたり。其の一は無差別論とも名づけ得べし。其の論に曰はく、實在する通性は個々物に於ける無差別の邊即ち個性の差別によりて變ぜざるものなりと。此の論は個物を離れて通性を見ずして個物に於ける通性を說く論なり(アリストテレース風の通性論に近寄れりと見て可なり)。此の無差別論の外又或は通性が相異なれる個性の形を取ると云ひ或はそれが相異なれる狀態に存すと云ふ如き解說あり。此の如き言ひ表はし方に從へば通性を實在と見るよりも寧ろ個物の本體或は基本或はアリストテレースの所謂未だ定形を成さざる可能性の如きものと見るに近づけるなり。
實在論はかく種々なる形に言ひ表はされたりしが爰に注意すべきは實在論に具有する萬有神敎的傾向なり。若し通性を實在なりとして個性を之れに對せしむるときは畢竟個性に屬すべき森羅萬象は唯だ實體の外相たるに止まりて其の眞實の本體は通性ならざるべからず。通性をプラトーンのイデアの如く見るも究竟すれば下なるイデアは上なるイデアに對して實在の少なきものなりと云はざるべからざれば遂に眞の實在者は最高遍通のもの即ち神に外ならずと云ふ論に到達せざるべからず。故に眞實存在するものは畢竟ずるに神のみにして個々なる萬物は唯だ神の發現せるもの若しは其の狀態に外ならずといふ萬有神敎風の說に至らざるべからず。而して件の萬有神敎的傾向は新プラトーン學派の影響を現はせるエリゲーナに於いて明らかに認められ又アンセルムスに於いてすらも暗々裏に認めらるべし。然れども當時に在りては件の萬有神敎的結論は未だ明瞭に又十分に言ひ表はされざりき。盖し敎會の敎義たる有神論が萬有神敎と相容れざる所あればあり。
《アベラルドスの通性論。》〔一七〕上に述べしが如く實在論の種々に言ひ更へらるゝに從ひて多少唯名論に近づく所ありしが恰も此等兩說の中間に立ちて其の對峙を融解せむと試みたる學者の最も肝要なるを
アベラルドス(Abaelardus)
(千七十九年に生まれ千百四十二年に歿す)とす。彼れはロッセリーヌス及びシャムポー人ギヨームに就きて學べることあり、恐らく中世紀に於いて最も銳敏明鬯なる頭腦を具へたりし者は彼れならむ。彼れは當時の辯證家の俊秀なる者にしてスコラ哲學の辯證法は彼れに於いて其の頂上に達したりと云ふことを得べし。アベラルドス以爲へらく、言辭又は名稱は唯だ一言一名としては通性のものにあらで一個のもの一特殊のものたるに外ならず。譬へば人間といふ名又は聲は唯だ其の名たり其の聲たる所に於いては一個の名一個の聲たるに過ぎず、故に打ちつけに通性は唯だ名のみなりとは云ふべからず、若ししか云はば人間てふもの(卽ち通性)は名に外ならずといふに陷るべし。されば極端なる唯名論は解すべからざるものとなる。一言一名が通性の意味を得るはそが或事物の上に就きて言ひ表はさるゝ(立言さるゝ)に由れり。例へば某は人なりと立言することに於いて人てふ名稱は始めて通性の意義を得るなり。然れば通性は立言(sermo)に存すと云ふべきなりと。是れアベラルドスが通性論の主意なり。彼れ尙ほ以爲へらく、其の如き立言(即ち一主語につきて言ひ表はさるゝ客語)は吾人の槪念的思想によりて始めて形づくらる。吾人は五官によりて知覺する事物を取りこれよりして槪念を形づくることによりて始めて通性の意味を有する客語を造ることを得。例へば彼れも人なり是れも人なりといふ時に人てふ客語は通性の意味を有するものにして其の客語の造らるゝは吾人が人てふ槪念を構成するによる。而して斯かる通性の意味を有する客語を用ゐることが吾人の事物を知識するに必要なりとすれば、件の通性に適ふものが眞實事物に於いて存在せざるべからず。是れ即ち個々物に於ける類同の性(conformitas)なり。而して斯く個々差別のものが類同の性を有するはそれが造物主の意中に存する同一觀念にかたどりて造られたるが故なりと。
此等の思想は判然とにはあらねど錯綜してアベラルドスの所說に存在せり。是を以て後世彼れの說を解釋する者或は之れを槪念論(即ち通性は唯名のみにはあらず吾人の槪念として存在するものなりといふ論)なるかの如くに解し或は之れをアリストテレース風の實在論なるかの如くに解す。アリストテレース風の實在論に從へば通性は個々物の裡に在り(universalia sunt in rebus)と說き、之れに對してプラトーン風の實在論は通性は個々物に先きだちて在り(universalia sunt ante res)と唱へ、唯名論は通性は個々物の後ちに在り(universalia sunt post res)と云ふ。
《其の倫理論。》〔一八〕第一期に於ける實在論と唯名論との爭ひはアベラルドスに於いて一段落を成せりと云ひて可なり。故に或哲學史家は彼れを以てアリストテレース風の實在論を基礎とする中世紀哲學第二期の思想に移る橋梁と見做せり。
且つまた彼れに於いては當時の思想界に於ける一般の平準を超越せる點を發見することを得べし。彼れは時勢に先きんじて倫理學を一科學として(即ち宗敎的形而上學の假定に結び付けざるものとして)硏究し初めむとしたる所あり。彼れ說いて曰はく、道德上の善惡は外に表はるゝ動作に在らずして意志が自由に認諾することに在り故に外部の發表なくとも若し意志の認諾にして存せば道德上善惡の差別は已に成り立ち居れりと。而してアベラルドスはまた重きを主觀的方面におきて德行の唯一なる根本的標準は各人自らの良心に從ふことにありと考へたり。彼れの見る所に從へば所謂良心は萬人に通ずる自然の道德の法則に外ならず而して其の法則の內容は何なるぞと云へば神を愛すと云ふことに
《倫理論つづき、當代の合理論者。》〔一九〕上に述ぶる如く道德上の善惡は意志の自由に認諾することに在るを以てアベラルドスは人間が祖先より傅へて生まれながらに感染せる罪は寧ろ過失(vitium)と謂ふべき者、嚴密なる意味に於いて罪惡(peccatum)と謂ふべき者にあらずとして其の間に區別を立てたり。又彼れは意志の自由に重きを置く所よりして吾人が罪惡なくして生涯を送ることも必ずしも全く爲し得まじき事にあらずと考へたり。彼れは尙ほ罪惡の赦しは懺悔の心によりて來たるとも云へり。
かくの如き所說を以て知らるゝ如くアベラルドスは當代の合理論者なりき。彼れは又大に希臘人を嘆美して希臘の哲學者は基督敎以前の基督にしてソークラテース、プラトーン等は神の啓示を得たる者なり、何となれば神の子は智惠にして智惠の在る所何處にも神の子の聲を聞けばなりといへり。かくの如くアベラルドスの所說は當時の一般の思想を超越したる點ありしを以て彼れは敎會に忠ならむとする者の攻擊を受けたり。
《神秘家フーゴーの宗敎論、信仰の實驗と眞理。》〔二〇〕アベラルドスに至りて當時の辯證法は其の頂上に達したると共に精密に考ふれば彼れに於いては敎會の宗義と全く符合せりといふ可らざる思想の出現せるを見る。是れより先き已に只管論理にのみ準據する辯證法に信用を措かずそれを以て吾人に眞實の知識を與ふるに足らざるもの、却りて宗敎上の實際に不利なる所あるものと考へたりし人々あり。或意味に於いて斯くの如き危險なる傾向は實にアベラルドス等推理を專らとせる辯證家の說く所に於いて特に明らかに認むることを得べし。辯證法によらず寧ろ他の道を取りて宗敎上の實驗を言ひ表はさむとしたる人々是れ所謂神祕家なり。理論を嫌へる神祕家クレールヺーのベルナール(Bernard 一〇九一―一一五三)の如きはアベラルドスを窘追して休まざりき。神祕家の中にても聖ヸクトル寺院のフーゴー(Hugo 一〇九六―一一四一)を頭とせる輩は只管理論を嫌ふことをせざりき。當時の神祕家中最も注目すべきは彼等なり。フーゴーは唱へて曰はく、宗敎上の事柄を會得せむには先づ信仰上の實驗の先きだてる者なかるべからず。道理に背戾するものは素より信仰すること能はざれど信仰上の事件は必ずしも悉く道理上考へ得べき事のみなりと言ふ可からず、其の一部分は能く道理を以て考へ得らるべきこと以上に在り。唯だ〳〵論理を以てする辯證法にのみ依らむとするは是れ宗敎上の事柄(信仰上の實驗を窄むるものなり。吾人の知識は先づ外なる物界を知覺する(cogitatio)に始まり、次ぎに內なる心界を觀る(meditatio)に至り、更に進みて神を觀る(contemplatio)に及びて始めて知識最高の段階に達せりと謂ふことを得。此の知識最高の段階に在りては沈思冥想して我が心裡に事物の眞相を看破するのみならず神に沒入融和して形骸を忘却したる最高なる宗敎的意識に達せるなり。
《自然界硏究に著目せるもの。》〔二一〕上に揭げしフーゴー及び其の徒(即ち所謂ヸクトル寺院の徒)は吾人の心を顧みて其の心生活を自識し描寫することに心を用ゐたりしが當時また此等の神祕家と共に彼の論理を弄し通性對個性の論に狂せる辯證家に慊らずして其の眼を自然界の硏究に轉じたる者あり。ジェルベール(Gerbert 一〇〇三に死す)はアラビヤ學者の學術に接して開發さるゝ所あり大に數學及び自然科學の必要を唱へたり。其の他當時自然界の硏究に著目せる者は主として其の思想をプラトーンが其の自然哲學を述べたる『ティマイオス』に連結せしめたりき(アリストテレースは當時尙ほ唯だ論理の方面に於いてのみ知られたりき)。此の輩の中こゝに其の名を揭ぐべきはコンシェス人ギヨーム、(一〇二六―一〇九一)及びシャルトル人ベルナール(Bernard 少しくシャムポー人ギヨームに後れて生まれ彼れの死後尙ほ四十年間生存せり)等なり。
《アラビヤ及び猶太の學者より來たれる新動力。》〔二二〕神祕思想及び自然界硏究の二流派は共に當時に於いては辯證法を用ゐたる者即ち嚴密なる意味に謂ふスコラ哲學の傍に在りし流れに過ぎざるが就中自然界硏究の方は他に比すれば至りて微少なるものなりき。而して其の中央の流なる辯證的思想も已に盡きて更に其の步を進め得ざる有樣に立ち至れり。盖し道理と信仰との和合は一應アンセルムスに於いて成就せられ且つ辯證法の精銳はアベラルドスに於いて極まれりといふも不可なく其の後に及びては在來のスコラ學者の敎說を基礎とし其の語を集め其の要を摘みて神學語類の編纂を是れ事とするに至れり。彼等を名づけて集語家といふ。中に就きて最も有名なるをペトルス、ロンバルドス(Petrus Lombardus アベラルドスの弟子にして紀元一千百六十年に死す)とす。また神祕派に在りてもフーゴーに於いては多少論理を用ゐたる神學論をも爲したりしが後に至りては只管眼を宗敎的信仰の主觀的方面にのみ注ぎて狹隘の弊に陷るに至れり。かくスコラ哲學の本流と神祕派と共に停滯不振となれるにつれ中世紀の思想は更に之れに新生氣を與ふべき新刺激の來たるを待つ有樣なりき。而して中世哲學の一大革新を促すべき新動力はアラビヤ及び猶太の學者より來たれり。
希臘の哲學思想は彼等アラビヤ及び猶太の學者によりて更に多く歐洲に輸入せられ之れによりて中世哲學は新生面を開き遂に第二期の全盛時代を成すこととなれり。さればスコラ哲學の全盛時代を說く前茲にしばらく眼を轉じてアラビヤ及び猶太の學者間に於ける哲學思想の由來及び其の經過を見む。
第二十五章 アラビヤ及び猶太の哲學
《モハメット敎國文物の煥發。》〔一〕モハメット敎徒がアラビヤに起こり一手に干戈を執り一手にコランを携へて廣く四方を征伐するやシリア小亞細亞を始めとして東は印度に入り西は亞弗利加の北海岸を打ち靡かして遂に西班牙半島に侵入せり。而して紀元後九世紀より十二世紀に至る間モハメット敎國には文物大に煥發して諸種の學術技藝は基督敎國なる西歐に於いてよりも遙かに隆盛を來たし數學、天文學、化學、金石學、生理學等の局部的硏究は多少其の步を進めたり。盖し希臘哲學の末期に於いても這般の局部的硏究に從事せる學者少なからざりしが其の結果はアラビヤの學者の繼承する所となりき。
《アラビヤ學者間に起こりし哲學問題。》〔二〕哲學思想も亦此の時に於いて彼等アラビヤの學者間に起こり來たりしが彼等の專ら遵奉せし所はアリストテレースの哲學にして其の論じたる根本問題は畢竟ずるに(一)相素の論及び(二)原動者の論に外ならざりき。盖しモハメット敎は嚴密に獨一神を禮拜するものにしてアリストテレースが一原動者を神と見たる有神論は最も其の敎理に適ひ易きものなりき。宗敎思想と希臘學術より得たる哲學思想と相接觸したる
《新プラトーン學派の影響。》〔三〕アラビヤ學者の最初に希臘哲學より受けたりし影響は直接にアリストテレースより來たりしにはあらで寧ろ新プラトーン學派風の趣を帶びたる思想より來たれり。希臘哲學に於ける最後の組織なる新プラトーン學派の影響を最初に受け而して其の後溯りてアリストテレースに及べることに於いてはアラビヤの學者と西歐のスコラ學者と共に同一轍に出でたり。新プラトーン學派の說に影響せられて出でたるアラビヤの最初の學者をアル、ケンディ(Al Kendi. エリゲーナと同時代の人)とす。其の後にはアル、ファラビ(Al Farabi. 紀元後九百五十年に死す)あり。彼等の思想は畢竟アレクサンドリアに於ける學風を受けたるものなりき。
《イブン、シーナ、其の二元論、通性論。》〔四〕尙ほ後に出でたる
イブン、シーナ(Ibn Sina)
卽ち歐洲學者のアヸセンナ(Avicenna)と名づけたる者(九百八十七年一千〇三十六年)は直接にアリストテレースに溯り其の學を奉じたる者にして東方アラビヤ學者の巨擘なり。アヸセンナ說いて曰はく、萬物の太原たる絕對的に純一なるものは完全にして必然に存在するものなり、吾人は其の性質を限定すること能はず。而して之れに對して本來存在する物質あり、物質は單に可能性のものなり。凡べての動きは神より來たるものにして神は本來存在する物質を取りて世界を造り成したるなり。此の世界に完全ならぬものあり、秩序の缺けたるあり、又物の個々に差別せらるゝことあるは物質の然らしむる所なりと。卽ちアヸセンナは二元論を取れり。また曰はく、神によりて第一に(卽ち直接に)生ぜしめられたるものは原智(Intellegentia prima)にして是れ凡べての世界を司り又物質を取りて之れに定形を與ふるもの、また凡べての天體を初めとし吾人の住する大地に至るまで何處にも充ち亘りて宇宙の秩序を保ち活動を生ずるものなりと。
アヸセンナの所說に於いて特に注意すべき點は其の通性論なり。彼れ曰はく、通性は神の意中に在る觀念としては多なる物に先だちて(ante multitudinem)存在す、多なる物は神の意中にある觀念に象どりて造られたる者にして一種類の多なる物あるに先だちて其の種類の模範となるべき觀念は已に神の心に存在せる也。又一種類の事物に通じて言ひ得べき者としては、通性は多なる物の中に(in multitudine)に在り、卽ち其等事物の通性として其の事物に存在する也。通性は又吾人の心の中に形づくる槪念としては多なる物の後(post multitudinem)に在り、卽ち多なる物を觀察したる後に吾人が心裡に想ひ浮かぶる者なりと。斯く通性を三樣に見ることは後にスコラ哲學に採用せられて實在論對唯名論の爭を決する一斷案となりき。
《哲學攷究の衰微と懷疑說。》〔五〕哲學はモハメット敎徒間に在りては一般に善受せられざりしを以て東方の該敎徒間に於いて其の攷究は漸次に衰へ行けり。かゝる時に當たりて屢〻出で來たるは哲學上の懷疑說にして而して之れを用ゐて單純なる宗敎上の信仰を保持せむとするは往々あるならひなるが此の時に於いて亦實にかくの如き現象の認めらるゝあり。哲學を以て依賴するに足らざるもの、到底確實なる知識に達する能はざるものと見て、經典の敎ふる所、宗門の定むる所に隨順することを唯一の安心立命の地とする傾向はアル、ガッヅァリ(Algazzali 一千五十九年―一千百十一年)によりて表せられたり。
《イブン、ロシッド、其の相素論等。》〔六〕モハメット敎國の東方に於いて哲學攷究の衰へたる頃恰も其の西方卽ち西班牙に於いて其の攷究の起これるあり。西班牙のアラビヤ學者中最も傑出したるを
イブン、ロシッド(Ibn Roschd)
卽ち歐洲學者のアヹロエス(Averroës)と稱へ來たりたるもの(一一二〇―一一九八)とす。彼れは有名なるアリストテレースの註釋者にしてアヸセンナよりも嚴密にアリストテレースの說を闡明し且つ之れを遵奉せむと力めたり。
彼れアヸセンナに對して唱へて曰はく、相は外より素に與へらるゝものにはあらずして本來素に可能性として存するもの、唯だそが開發せらるゝもの而してそを開發する者卽ち神なり。故にアリストテレースに從へば萬物の創造は可能より現實に移るの謂ひに外ならず、全く無きものの生出するの謂ひに非ず、換言すれば諸物が已に存在するものの內部より自然に開發し行くを謂ふなりと。
又曰はく、吾人に於ける原動理性(νοῦς ποιητικός)と所動理性(νοῦς παθητικός)とは人類の遍通知性(intellectus universalis)の兩面に外ならず。各人が此の遍通知性を受け容るゝ樣是れ謂はゆる所動理性なり、その各人に受容さるゝ分量等は相異なり而して此の個人的差別の方面は各人の身體と共に生滅す。人々に受容さるゝ趣に差別はありながら尙ほそれが各人に通じて働く同一理性たるの方面是れ卽ち原動理性なり。人類の遍通性は永恒のものにしてそれが吾人個々の人に宿りて少らく個々人の理性となりまた復歸して同一の知性となるは恰も光線の暫らく相分かれて種々の色をなすが如し。故に吾人は個人としては不死のものに非ず唯だ遍通の理性を享有せることに於いて不朽不滅なるのみ。
西班牙のアラビヤ人中に於いても哲學硏究はモハメット敎有司の手によりて抑壓せられたり。
《猶太學者、モセス、ベン、マイモンの神學說。》〔七〕アラビヤ學者より傅へて哲學思想は寧ろ西班牙に於ける猶太人間に移り行けり。但し猶太學者間に於ける哲學思想は畢竟アラビヤ學者の哲學思想に附隨せるものと見て可なり。彼等の中最初に揭ぐべきをイブン、ガビロル(Ibn Gabirol)卽ち歐洲學者の所謂アヸセブロン(Avicebron 千〇二十年に生まれ千七十年以前に死せり)とす。彼れは新プラトーン學派の影響を受けたる者なりき。猶太學者中の巨擘は
モセス、ベン、マイモン(Moses ben Maimon)
卽ち歐洲學者のマイモニデス(Maimonides)と名づけたる者なり。一千百三十五年コルドーヴに生まれ一千二百四年カイロ府に死せり。彼れは大體に於いてアリストテレースの說を奉じたれども猶太敎の立脚地より神は相と素とを共に無より造り出だしぬと唱へたり。(アヸセブロン已に彼れに先きだちて神が其の創造力卽ち意志を以て素卽ち物質を造りたりと說けり。)マイモニデスの後を襲ひたるをレヸ、ベン、ゲルシヨム(Levi ben Gerschom 一千二百八十八年頃に生まる)卽ち歐洲學者の所謂ゲルソニデス(Gersonides)とす、彼れはアリストテレースを硏究することマイモニデスよりも精しかりしが尙ほ多くはアヹロエスに從ひたり。
猶太學者間にも亦哲學に對して懷疑說を取り猶太敎の傳說を單純に信仰することを宗敎上必要なりとしたる者あり。ラッビ、イエフーダ、ハレーヸ(Rabbi Iehuda Halevi)是れなり。彼れは猶太學者間に於いて恰もアルガッヅァリがモハメット敎の學者間に取りし如き位置を取れり。
スコラ哲學第二期
第二十六章 全盛時代
《アリストテレース哲學の主權時代。》〔一〕猶太學者及びアラビヤ學者の著作は猶太人の手によりて歐羅巴の基督敎國に傳へられたり。是に於いて希臘哲學は一は猶太及びアラビヤの學者みづからの論議せるもの(これは槪ねアリストテレース及び新プラトーン派の學風を帶びたるもの)により一は彼等がアリストテレースの著書を翻譯せるものによりて漸次歐洲の學者間に知れわたりぬ。最初には唯だ寧ろ肝要ならざる一部分の外は知れざりしアリストテレースの論理學も今や其の全部の知れわたるに至り又其の純理哲學、物理學、心理學等も次第に傳へらるゝに至れり。斯くして中世紀學者がアリストテレースを受容したるは略〻第十二世紀の中ごろより第十三世紀の中葉に至る一百年間に於いてなりき。
最初かくして基督敎國に輸入せられたる希臘哲學の著作は新プラトーン學派風の臭味を帶びたるもの多かりし故を以て敎會の反抗を受け而して此の反抗は初めはアリストテレースの著書にまでも及びたりしが漸々彼れの哲學と新プラトーン派の學說との同一視す可きものに非ざることの明らかになるに從ひて彼れの著書の認許せられ後には其の硏究を獎勵し遂には其の學を講ずるを以て敎會の學者に缺く可からざることとなすに至り而して單に哲學者(Philosophus)と云へばアリストテレースを意味することとなれり。卽ち當時はアリストテレースが哲學上の主權を握りたりし時代なり。
《アリストテレースの崇ばれし理由、スコラ哲學の全盛。》〔二〕かくの如くにアリストテレースがスコラ學者に受け容れられ又尊崇さるゝに至りたるには理由あり。其の理由の一は彼れの哲學の方式が當時の敎學を組織することに便利を與へたること卽ち此の點に於いて彼れの論理式が最も有用のものなりしことなり。其の二は敎會が天然界に關する知識をも網羅して當時の學界の主權を握りあらゆる世間の事を司るものとなるの必要を感じ而してアリストテレースは最も這般知識の淵源となるに堪ふるものなりしことなり。其の三は彼れの有神哲學が希臘哲學の中最も敎會の敎理卽ち神學を組織するに適合せりと思はれたることなり。此等の理由を以てアリストテレースの哲學の大に用ゐられたるによりてスコラ哲學は其の面目を一新し遂に其の全盛時代に入ることとなれり。即ち此の期に在りては敎會の敎理組織に於いて已にアンセルムス等が遺したる功績をも收め之れに加ふるにアリストテレースが哲學の方式を以てして能く一層偉大なる組織を成就したりし也。
《アリストテレース哲學採用の得策。》〔三〕そもアリストテレースの名を以て說かれて入り來たりたる新學說は到底防止し得らるべくもあらず、故に寧ろ之れを容れて其れが決して敎會の敎義に戾るものに非ざるを示すこと換言すれば敎會の敎義をアリストテレースの哲學もて辯護することは當時の敎會に取りて最も策の得たるものなりき、而して是れまた他方に於いては新プラトーン學派の自然論の傾向を帶びたる說を唱へて敎會の敎理に違背する方向に出でむとする者の口を噤ましむる最良手段なりき。アリストテレースの遵奉せらるゝや遂には道理と信仰との和合といふも其の謂ふところ道理は各個人の理解力を用ゐて推理したる所よりも寧ろ彼れの哲學に說かれたるものといふ程の意味に變じ來たり彼れの說に合ふといふこと是れ道理に合ふといふと同一義なるが如くに思惟せられたり。
《アルベルトス、その通性論。》〔四〕アリストテレースの學說を用ゐて敎會の敎理に偉大なる組織を與へむと試みたる最初の學者はヘールスのアレキサンダーなり(Alexander of Hales 英吉利に生まれ一千二百四十五年に歿せり)。彼れに優りてアリストテレースの哲學に通じ而して更に一層組織的に敎會の敎理を說かむとしたる者は次ぎに出でたるアルベルトス、マグヌス(Albertus Magnus, 即ち偉大なるアルべルトと稱せられたる者一千百九十三年獨逸に生まれ一千二百八十年に歿せり)。彼れは通性論に斷案を下して曰はく、通性は神の意中に於ける造化の模範としては個々物に先だちて(ante res)存し、多なるものに通じ之れをして一種類を爲さしむるものとしては個々物の中に(in rebus)存し、また吾人の抽象して造りたる槪念としては個々物に後れて(post res)存すと。此の解釋はおぼろながらに已にアベラルドスの所說に含まり居たりとも見るを得べきものなるが是れ實際二百年前にアヸセンナの道破したるもの、而して畢竟アルベルトはアヸセンナの所示を辿りてかゝる斷案を下せるなり。アリストテレースの哲學はアルベルトの所說に取り容れられたれども彼れに於いては其はなほ敎會の信仰と全く合一するに至らず寧ろ其が傍に並び立てる趣ありき。彼れに在りては哲學と信仰とはおのづから殊別のものたるの觀をなしき、換言すれば兩者の融合は尙ほ未だ敎會の欲したるやうには成就せられざりき。スコラ哲學の立脚地に在りて此の兩者を最も善く結合せしめむとし而して常時の思想界の最大且つ最好代表者となれるは
トマス、アクイナス(Thomas Aquinas)
なり。吾人は彼れが建てたる神學の大組織に於いて中世紀の大理想の反映を見ることを得。
《トマス、アクイナス、天啓と理性との關係。》〔五〕トマスは一千二百二十七年伊太利に生まれ一千百七十四年に歿せり。彼れに從へば神學の敎へむとする所と哲學の究めむとする所とは全く其の題目を一にす卽ち共に侔しく神なり、神に關することは天啓を以て示さるゝと共にまた吾人の理性を以て推知することを得、理性を以て推知することを爲し得ざる者には天啓を以て敎へらる。但し宗敎上の事柄は皆侔しなみに能く道理を以て推究し得らるべき限りにあらず。其の中の或事件(例へば化現の事、三位一體の事等)は理性の論證し得る範圍以上にあり。此等は論理を以て嚴密に證明することは爲し得ざれども亦其の全く有り得べからざる背理の者に非ざることを示すを得。約言すれば天啓は吾人の理性の及ばざる所を補ふものなり、卽ち其の關係は一が他の上に加はりてそを全くするにあり。トマスが兩者を和合せしめむとする方法は此の關係を以て根據とす。
《アリストテレース風の論法、萬物の段階。》〔六〕トマスは先づアリストテレースより得たる論法を以て神の存在を證明せむとし所謂第一原動者の無かる可からざることを以て論據となせり。以爲へらく、第一原動者是れ卽ち神にして彼れは純然たる相卽ち非物質のもの、全き現實のもの、他より定限せらるゝ所なきものなり、神は無より萬物を造化し出だしたり、原物質(最初の素卽ち諸物の可能性)亦其の造る所なり。
造化の森羅萬象は神の圓滿相を現はすもの語を換へて云へば素に於ける無限の可能性の實現せらるゝものなり。神は世界の太原また其の極致にして萬物は幾多の段階をなし神に向かひて進みゆく、其の下なる段階の目的は其の上なる段階に至らむとするに在り。
《物質界と非物質界、吾人の精神の位置。》〔七〕かくの如く幾多上下の段階を成せる萬物を大別すれば物質界と非物質界とに分かる。非物質界は純然たる靈智のもの換言すれば純然たる相の働けるもの(formae separatae)なり。物質界に於いては相は唯だ物質と相結びて自らを實現す。人間の靈魂は靈智のもの卽ち非物質のものなるが故にまた不死のものなり、然れども其は靈智者の中にては最下級に位するものなれば物質界に接觸して吾人の肉體を形づくるもの(entelechia)として見らるべき方面を具ふ。此の方面に於いては其は物質に於いて其れ自身を實現するものたる也。故に吾人の精神は二方面を具して恰も物質界と非物質界との聯關をなすが如き位置に在り。而して非物質界は物質界の冠として其を全うするものたる也。以上トマスの所說に如何にアリストテレースの哲學が其の形を更へて用ゐられたるかを看よ。
《知性と意志との關係。》〔八〕トマスの心理說に於いては吾人の知性と意志との關係を論ずる所最も注目すべきものなり。彼れはソークラテースに原由して希臘哲學一般の通說となれる吾人の知見が吾人の行爲の指導者なりといふ說を取りて曰はく、意志は吾人の知性が見て善なりと定むる所に從ひ之れを得むとするものなり、卽ち意志の對境となるものは見て以て善しとせられたるもの、意志は惡しきものを惡しき者として求むることなし。簡單に云へば意志を決定するものは吾人の知性なり。知性と意志との關係はこれを神に於いて視るも、又彼れの
《トマスの德論、其の主知的思想。》〔九〕トマスの德行を論ずるや希臘哲學に於ける倫理思想を取りて智、勇、節慾、及び公正の四大德を列擧し之れを世間的道德の綱目となしたり。されど彼れは此の四大德の上に更に信、望及び愛てふ宗敎上の三德を加へ而して此等の宗敎上の德を以て特に神の惠みによりて吾人の得る所となしまたこれを以て世間的道德の上に位し其を全うするものなりと見たり。
トマス以爲へらく、吾人は現世に於いては最高祝福に達する能はず、されど現世は決して厭離すべきものにはあらで寧ろ是れ修行の時卽ち來世に入る準備を爲す時なり。吾人の最高祝福は全く神を觀じ彼れを知り得ることに在り而して此の境涯は來世に至りて始めて全うせらるべきものなりと。斯くの如くトマスが吾人の最高なる狀態を以て吾人が神を觀ずる知的作用に在りとなしたる所是れ彼れが思想の主知的なるを示せる點なり。
《敎會と國家。》〔一〇〕人類社會の起原に關してはトマスはアリストテレースに從ひて人間は自然に社會を結ぶ性情を具ふと說けり。世上の國家は神の制定に基づける者にして人類が罪を犯して墮落したる結果に非ず、其の目的は吾人をして世間的道德を修めしむるに在り。然れども吾人は世間的道德に滿足せず更に一步を進めて神前に於ける救濟を得ざるべからず、而して之れを得しむる者は敎會なり。故に敎會と國家との關係は前者が後者の上に加はりて之れを全うするに在り。
《。》〔一一〕斯くしてトマスは一切の事物を上下の二界に分かち、而して常に上なる界が下なる界の冠として其の上に位し其を全うすといふことによりて兩者の關係を說かむとせり。彼れが此の說は中世紀に於ける羅馬加特利敎會の理想を最も巧妙にまた最も偉大に發表せるものなり。盖し羅馬敎會が天下を治めむとしたる道は世を僧俗の二級に分かち、俗世間の上に位するものとして僧侶の階級を置き僧侶亦幾多の段階を爲して其の頂上に法王を戴けり。是れ恰もトマスがアリストテレースの哲學を用ゐて物質界と非物質界との二界を分かちそが幾多の階級を成せる頂上に神を置けると相似たり。尙ほ此の二階級の關係が種々なる事相に於いてトマスの說に現はれたるを列學すれば、曰はく信仰と道理とは全く同一のものならねど亦相反するものにも非ず寧ろ信仰が道理の上に位してそを全うし、又超自然界は自然界の上に位し、非物質界は物質界の上に位し、來世は現世の上に位し、宗敎上の德は世間道德の上に位し、敎會は國家の上に位して之れを全うす。萬物は段階を成して下段の目的は上段に進むにあり而して一切の極致は神なり。斯くの如く上下の二界を別かち之れを調和する趣向は是れトマスがアリストテレースの開發主義の哲學に得たるものなるべし。彼れが思想はアリストテレースの哲學を應用して之れをスコラ學の目的に適はしめむとしたる最も巧妙なる又最も光彩あるものなりと云ふを得べし。是れ卽ちアリストテレースに於いて大組織を成せる自然界に關する目的說をば基督敎會の(敎父時代に成りたる)人類の歷史に關する目的說に結合せしめて自然界の目的を以て人間界の目的に附隨せるものとし而して自然界及び人間界の經過に於いて神の目的の成就せらると見たるものなり。此の歷史的世界觀是れ基督敎神學の一大特色也。
《スコラ哲學の最も莊嚴なる詩的發表とダンテ。》〔一二〕トマスに於いて其の頂上に達したるスコラ哲學の全盛期は是れ羅馬法王制度の全盛時代(グレゴリー第七世一〇七三―一〇八五、インノセンス第三世一一九八―一二一六)の反映なりといふを得べし。而して斯くの如く全盛時代に達したるスコラ哲學に最も莊嚴なる詩的發表を與へたる者これをダンテ、アリギェーリ(Dante Alighieri 一二六五―一三二一)とす。ダンテは物理上の知識をアルベルトスに取り人界の論に關しては槪ねトマスに從ひたり(但し國家と敎會との關係を云ふところ旣にトマスの如くならず、尙ほ後に叙述する所を看よ)。
《神祕的學者、ボナヹントゥーラ。》〔一三〕全盛時代に於けるスコラ哲學は其の組織の偉大にして能く諸種の思想を網羅せる點に於いて第一期の辯證論と異なり。此の故に此の時代に於いては中央の流の外に別に神祕派と稱すべきものなし。但し他のものに比して神祕的なりし學者の最も有名なるはボナヹントゥーラ(Bonaventura 一二二一―一二七四)なるべし、然れども彼れの思想はさまでトマスの所說と異ならず。
《自然科學の硏究、ロージャー、ベーコン。》〔一四〕當時自然界に關するアリストテレースの著作の知られたる等の事によりて學問の區域大に擴張せられ、アルベルトス(其の植物に關する硏究の如き)を初めとして天然物の攷究に心を用ゐたる者少なからざりき。就中一特色を帶びたるをロージャー、ベーコン(Roger Bacon 一千二百十四年に生まれ一千二百九十二年には尙ほ生存せり)とす。彼れは特に希臘學術の精神に感化せられて眼を自然界の硏究に注ぎたる者にして、アレキサンダー、アルベルトス、トマス等を輕視し殊に此の輩の希臘語を能くせざるを嘲りたり。彼れは當代一般の思想界に於ける調子を離れたる趣ありて其が爲せる種々なる自然科學上の硏究の爲めに敎會に窘迫せられき。
《信仰と道理との分離、スコラ哲學の衰微。》〔一五〕宗敎と哲學と、信仰と道理との一致を目的とせしスコラ哲學は上述せる如くにして其の最も偉大なる組織を成しぬ。されど仔細に觀察すれば、信仰と道理との分離は業に已に此の時に其の萌芽を發しぬと云ひつべし。第一期以來の議論を經たる後、またアリストテレースの大に硏究せられたる後に於いては當初アンセルムスが信仰と道理との內容を全く同一不二となせるが如くには其の關係を見ること能はざるに至れり。當時自然界に關する事件を初めとし總べて哲學上の論は悉く其の標準を希臘の哲學殊にアリストテレースの說に取りたりしが元來希臘の學術は宗敎上の信仰を辯護するが如き目的を以て起これるものに非ず、此の故にスコラ哲學は其の由來と精神とに於いて全く己れと異なるものの遺物を取りて敎會の用に供せむとしたるものなれば遂に哲學と宗敎との同一のものならぬことに氣づかざるを得ず。當時に在りて兩者を結合するに最も有効なりし方法はトマスの說けるが如く一を以て他を全うするものと見ることにありき、しかも斯くの如く見るに至りては已に信仰(宗敎)と道理(哲學)との分離に一步を踏み出だしたるものと謂ふを得べし。勿論當時に於いてもライムンドゥス、ルヽス(Raymundus Lullus 一二三五―一三一五、其の所謂「大術」卽ち吾人の根本的槪念を機械的に組み立てて一切の知識の組織を造り出ださむことを目的とせる機械的工夫を以て有名なる人)の如く宗敎上の眞理は道理上悉く說明し得べきものなりと主張するに力めたる者もありたれど是れはむしろ當時の思想の潮勢にはあらざりし也。斯くして其の由來と精神とに於いて全く相異なれるもの(卽ち敎會の宗敎と希臘哲學と)を相合せしめむとして二者を引き合はしむるほど益〻其の同一視すべからざる點あるに氣づき來たり遂に信仰と道理とは寧ろ全く其の範圍を異にするものなりといふ斷案に到達してスコラ哲學元來の目的を抛棄するに至らむは其の自然の結果なるべし。スコラ哲學は其の目的の自然として遂に其の第三期卽ち衰頽の時代に向かへるなり。
スコラ哲學第三期
第二十七章 衰頽時代
《スコートスの批評的思想、其の結果。》〔一〕種々の肝要なる論點に於いてトマスと反對の位置に立ち所謂トマス學徒とスコートス學徒との論爭を惹き起こしたる
ドンス、スコートス(Duns Scotus)
に於いて吾人は已に中世紀哲學解體の第一步を見ることを得。スコートスは一千二百七十四年(或は一千二百六十六年)大不列顚(恐らくは愛蘭)に生まれ一千三百八年に歿しぬ。吾人は其の思議の仕方に於いて已にトマスとスコートスとの間に著るき差別を認む、前者は立宗義的にして後者は批評的なり。但しスコートスも固より敎會の敎義を疑ふといふにあらずされど彼れは其の眼を從來の立宗義的論證の効力に著け之れを論評して其の眞に如何ほど確實なるものなるかを知らむとせり。而して其の如き批評的思想の自然の結果として從來の神學的論證の効力に疑惑を挾み遂に道理と信仰との分離を促すに至れり。
《其の信仰と道理との分離論。》〔二〕スコートスは在來のスコラ哲學者に優りてアリストテレースの哲學の眞意義を看取し從ひて該哲學と敎會の宗義(卽ち聖書及び敎父時代の所傅に基づけるもの)との間には抹すべからざる差違あることを發見せり。斯くしてスコートスは哲學者が自然のものとして承認する事柄も神學者(卽ち宗敎家)には罪惡に基ゐしたる墮落の結果と見做さるとさへ云へるところあり。彼れはまた事のついでに哲學者に取りて眞理なることも神學者に取りては非眞理と見らるべきこともあらむと云へり。彼れ神學と哲學とを區別して曰はく、神學は專ら實際的のもの哲學は理論的のものなり兩者は各〻其の範圍を異にすと。看るべしスコートスに至りては道理と信仰との關係はトマスに於けるが如く一が他を全うするに非ずして寧ろ異別のものとして相分かたるゝに至れることを。
《道理上論證し得べき範圍の縮小。》〔三〕されど信仰と道理との分離はスコートスに於いては尙ほ未だ後に於けるが如く甚だしからざりき、しかも道理を以て論證し得る敎會の敎義は已に彼れに於いて大に其の範圍を減縮せるを看る。彼れ以爲へらく、神の存在はアンセルムスの論證に於けるが如く神といふ觀念其のものより證據すること能はず、唯だ天地に現はれたる造化の作用卽ち結果より溯りて其の原因として彼れの存在を推知し得るのみ。而も其の論證は尙ほ以て神を全能なる者、無限なる者といふに足らず、また神が無より萬物を創造せりといふ事及び吾人が靈魂の不死なる事の如きは道理上論證し得べき範圍のものにあらずと。
《スコートスの個物論。》〔四〕通性論に關してはスコートスはアルベルトス及びトマスと意見を同じうして通性は唯だ吾人の假想したるものに外ならずといふ唯名論者の說に反對したれど個物の何なるかに就きてはトマス等と所見を同じうせざりき。トマスは個性の起因(principium individuationis)は物質に在りと說きたり、而して物質は彼れに取りては缺乏を意味するものなりき。スコートスは之れに反して以爲へらく、個物は決して不完全なるものにあらず寧ろ通性即ち一種類のものに通じて其を一種類の物たらしむる所以のもの換言すれば其の種の物の何物たること(quiditas)の外に或物の加はれるなり、而して此の或物は是れ一個物を此の物たらしめて他物と異ならしむる所以のもの(haecceitas)なり。斯くの如く通性に一物をして此の物たらしむるところ加はり而して始めてそれが實物たるなり、故に個物は缺けたるものにあらずして寧ろ全きものなり、個物是れ卽ち自然界の目的なりと。故にスコートスは未だ固より唯名論者ならざれども彼れが個物論に傾けるは明らかなり卽ち彼れは實在論風の萬有神敎的思想に反對して有差別の個物を實在と見ることに立脚せむとせるなり。
《其の知性意志關係論、絕對的自由說。》〔五〕心理說上スコートスは知性と意志との關係を論ずる點に於いてトマスと反對の地に立てり。トマスは主張すらく、一般にいへば意志は吾人の理性が認めて善となす所のものを選ぶと。スコートスは之れに反して曰はく、斯くては吾人の意志は眞正の自由を缺くものとなるべし何となれば知性の作用そのものには自由性ありと云ふ可からざるを以て若し意志が窮極の決斷力を有せずして却りて知性によりて定めらるゝものならば吾人は實際に云爲することの反對に出づる力を有せざる可ければ也。而して若し實行せることの反對に出づる力なくば眞實に吾人を自由なる者とは謂ふべからず、眞實の自由を缺かばまた行爲に對する眞實の道德上の責任をも缺くべし。吾人が心理作用の實際を顧みるに意志は決して常に知性の指導にのみ從ふ者に非ずして知性の活動が却りて屢〻意志の定むる所に附隨し行くを見る。但し吾人の行爲するや本より知性の作用に待つ所あらざる可からず若し知る所なくんば選擇すべき事柄も莫からむ。然れども知性は唯だ意志の選ぶべき事柄を揭ぐるに止まりて最後の選擇を爲すものは意志なり。吾人が意識の發達する次第を見るに初めは先づ知性によりて思念を浮かべ而して思ひ浮かべたる件の思念が眞に我れのものとならむには之れに注意せざる可からず、即ち意を注ぎて其の念を强くし明らかにすることによりて始めて其れが維持せらる。注意を與へられざるものは唯だ一旦漠然と意識に現はれたるのみにして直ちに之れを脫し去る。而して此くの如き選擇的注意是れ意志の作用也。如何なるものに注意するかは意志以外に之れを定むるものなし。意志は自らを定むるもの、全く自在なるもの也、故に吾人の心理上の作用に於いて中心位を占むるものは意志なり、意志は明らかに知性の上に位するもの也と(voluntas superior est intellectu)。即ちスコートスの取れる所はトマスの知性的決定論に對する非決定論にして、意志の絕對的自由(liberum arbitrium indifferentiae)を主張したる最好の例なり。
《神の意志、善、祝福、救濟等の問題に關するトマスとスコートスとの見解の差。》〔六〕スコートスは神に於いても意志を以て其の活動の樞軸をなすものとせり。先きにトマスは神の意志は其の智が見て以て善となす所に從ふと說きしがスコートスは之れに反對して以爲へらく、意志以外に神の意志を決定する者なし其の意志是れ即ち造化の究竟的原因にして其れ以外其の意志を定むる理由と謂ふべきものなし。物の存在あるは唯だ神のこれを意志せるがゆえなり。約言すれば意志の活動が實在の根原なり、知性の示す理由てふものは意志して後に生じ來たるものにして意志そのものの理由はあらず。
斯かる所見よりしてスコートスは道德上根本の點に於いてトマスと反對の位置に立てり。トマスに取りては善は本來善として存在するものまた神の知性と離れざるもの也。スコートス以爲へらく、事物の善と云はるゝは其れが神の意志し命令する所たればなり、神の意志を離れ其の命令を離れて物それ自身に善惡の差別なしと。即ち彼れは善の自性的存在(perscitas boni)を否み善惡の區別は理由を附す可からざる神意の活動によりて定まるものなりとせり。
次ぎに人間の祝福に關してトマスは曰はく吾人が至極の祝福は神を知り彼れを觀ずること(visio divinae essentiae)に在り、彼れを觀ずることに自然に彼れを愛することは附隨し來たると。スコートスは曰はく吾人の祝福は知性の狀態にあらずして寧ろ意志の狀態に在り即ち意志が神にのみ向かひて只管彼れを愛する狀態に在りと。
トマスはアウグスティーヌスに從ひて吾人の救はるゝと否とは些も吾人の意志の與る所に非ずして唯だ神の恩惠による而して其の恩惠の降る時には吾人に其を受けざる自由なし、神惠は拒み得べからざるもの(gratia irresistibilis)なりと考へたり。スコートスは以爲へらく、吾人の救濟を得ると否との決定は一分吾人が自由意志に懸かれりと。また彼れは人間が罪過なくして生涯を渡るは實際には無きことながら事理の上に於いて由來得べからざる事にあらず、自家撞着の事に非ずと云へり。スコートスはアウグスティーヌスが意志を重んずる論に立ちて更にそが正當の論步を進めたるなり。
《スコートスが信仰と道理とを分離せしめたる根據。》〔七〕スコートスが神學と哲學(信仰と道理)とを分離せしめたることの根據は深く彼れが神の意志に關する所論に根ざせり。彼れは曰はく、神の
《オッカムの通性槪念論。》〔八〕スコートスに於いて已に現はれ初めたる信仰と道理との分離は彼れの弟子なる
オッカムのヸルリヤム(William of Occam. 一千三百四十七頃に死す)
に至りては更に著るくなりて殆んど分離の極點に達しぬといふも不可なし。スコートスに於ける個物論の傾向はオッカムに至りて十分に發達して遂に唯名論の復起となりぬ。オッカム論じて曰はく、若し通性が個物に先きだちて存在せば其の存在する狀態に於いては必ず個々物たらざるを得ず若し又通性を以て個物の中に存在する者とせば是れ通性を多なるものとなすなり何となればそは多なる物の一々に存在せざる可からざれば也。また此くの如く見る時は一個物は多くの實物の結合したるものとならざる可からず何となれば種々の通性が個物に幷び存すればなり。かく通性は個物に先きだちて存すとも考ふべからず、また個物の中に在りとも考ふべからず、唯だ吾人の槪念として存在すと視るべきものなりと。オッカムの唱へし所は唯名論とはいふものから最初ロッセリーヌス等が唱道せりし所とは同一ならず寧ろ槪念論とも謂ふべきもの也。されど個物以外に實在するものなし通性は實在物にあらずと說く點に於いて槪念論は唯名論と同一の立脚地にあり。
《其の知覺論、觀念標幟論。》〔九〕個物の外に實在する物なきが故に吾人が知識の本原となるものは個物を直識すること以外にあらず。吾人が直ちに個物を知覺する心作用を說くことに於いてオッカムはトマス及びスコートスと其の見を異にせり。トマス及びスコートスは以爲へらく、吾人の外物を知るや外物先づ吾人の感官に働き吾人の靈魂は之れに協力して(スコートスはトマスよりも此の靈魂の協力に重きを置けり)その外物の摸寫を造り而して靈魂は件の摸寫を觀て之れを知覺すと。即ちかゝる外物の摸寫(之れを species intelligibiles と名づく)の靈魂と外物との間に介するあるが如く思惟し靈魂が直接に外物を看取するに非ずとせり。オッカムは件の外物の「摸寫」を以て外物を二重にするもの、畢竟不要のものなりとして之れを捨てたり。彼れに從へば吾人の外物を知るは直接なりされど吾人の思ひ浮かぶる所は外物の摸寫にあらずして唯だ外物の自然の標幟なり。言語は之れと異なりて勝手に定めたる標幟なり。故に吾人の知る所は外物それ自身にあらずして唯だそのしるしとなるもの也。吾人は先づ個物に接して其の如き個物の標幟となるもの(即ち觀念)を思ひ浮かべ然る後また其等の幾多の觀念の標幟として一槪念を思ひ浮かぶ。故にかくの如き槪念は事物の標幟と云はむよりも寧ろ事物の標幟の標幟なり。
然れば吾人は外物それ自身の有樣を知る能はず。外物の知識に優りて確かなるは吾人の內心を觀る知識なり。さはあれ內心の知識も所詮靈魂の本體を觀るに非ずして唯だ其の狀態を知るに止まる。之れを要するに一切の知識は外物を知覺するか將た內心の狀態を知るか、其の何れかの經驗に基づきて來たるものにて此の他に吾人の直接に知識し得るものなし、故にまた神を知る直接の知識なし。
《宗敎上論證の範圍更に窄まる、神學非學問論。》〔一〇〕神を直識すること能はずば吾人は論理の步を追ひ論證して彼れを知ることを得べきか。論證によりて吾人は如何ほど神に關する知識を得べきか。此の點に於いてオッカムが吾人の道理上知り得となせる範圍はスコートスに於けるよりも更に窄まりて殆んど消滅するに至れりと謂ひつべし。彼れ曰はく、神の存在及び其の一なることは嚴密なる意味に於いて論證すること能はず果より因を推す論(是れ尙ほスコートスの以て神の存在を證し得べしと思惟したりし者)を以てするも遂に窮極的原因に到達することを必すべからず、何となれば因果の連鎖は端なき者にして何處に最初の原因あるかを定むべからずとも考ふるを得べく又假令最初の原因ありとするも其を唯一不二なりとすべき十分の理由なければ也。また靈魂が非物質のものにして不死なりといふことも道理上十分の證明を爲すべからず。三位一體論、萬物は無より創造せられたりといふ論、神が人間となりて化現したりといふ論の如きは啻に道理を以て證明す可からざるのみならず通常所謂道理に違反する所ありとも云ふことを得べしと。此くの如くオッカムに至りては神學は遂に正當なる意味に於いて學問とは謂ふ可からざるものとなり又宗敎上の事は道理を以て證明すべき限りのものに非ざることとなれり。
《敎會と國家との分離。》〔一一〕宗敎と哲學とが此くの如く全く相分離するに至れると相對してオッカムに於いては敎會と國家との關係も全く其の範圍を異にする者となれり。トマスは敎會を以て國家の上に位してそを全うする者と爲しゝがオッカムは敎會を以て唯だ出世間の事、吾人の靈魂の事のみを司るものとなして曰はく、僧權(sacerdotium)は些も世間を治むる政權に干涉すべきものにあらず、世間を治むる唯一の權は王權(imperium)なり法王は俗世間に關する一切の政事上の權力を有すべきものに非ず。(此の點に於いてオッカムは時の佛蘭西王等が法王の權力に抵抗せしに左袒せり)。即ち敎會と國家とは決して上下の關係を成して一が他を全うする者に非ず全く相分離し其の範圍を異にすべきものなりと。(是れより先きダンテが國家と敎會との關係を對等のものとしたりしことに於いて已に兩者の分離の始まりしを看る。)オッカムはまた國家の起原を論じて曰はく、國家は個人が相互の利益を圖らむが爲めに結べるものにして畢竟利益上の趣意を以て個人の隨意に團結せるものに外ならずと。此の國家の起原に關するオッカムの思想は後に至り民約說としての種々の形を取りて發達し來たれり。
《「二重眞理」の唱道、其の主意。》〔一二〕スコートスが言のついでに宗敎家に取りての眞理と哲學者に取りての眞理とは全く殊別のものなりと云へることはオッカムに至りては明瞭に意識され又言表されたる思想となりぬ。以爲へらく、哲學者に取りて眞理ならぬことも宗敎家に取りて眞理なることを得べくまた宗敎家の承認することにして哲學者の承認す可からざること無きに非ずと。當時かく二者の範圍を異なりと爲しゝより彼れ此れ其の眞理をも異にせりと見るに至り從ひて「二重の眞理」といふ說の廣く唱道せらるゝに至りぬ。而してかく「二重の眞理」ありて神學上眞なると哲學上眞なるとは全く相異なれるものなりとせらるゝに至りてはスコラ哲學當初の目的は已に抛棄せられたりと謂はざる可からず。されど斯くの如くスコラ學者等が道理と信仰との分離を主張するに至れるも決して羅馬敎會の宗義に反對せむの旨意に出でしにはあらず却つて其の宗義を更に堅固なる基礎に置かむことを目的としたりしなり。盖し彼等は宗敎を哲學と調和し哲學上の理論によりて信仰を辯證せむとせば却つて哲學的理論の爲めに累はさるゝことを免れずと見全く理論に累はされざる境涯に宗敎を置かむとし而して其を以て唯だ天の啓示と敎會の所傳及び敎權とによりて吾人に授けらるゝものとしたりし也。
《獨逸神祕學派、其の開祖、特色等。》〔一三〕かくの如く道理と信仰との分離し行ける傍に神祕的思想は一の大なる流派を成すこととなりぬ。オッカムの說けるが如き唯名論(即ち吾人は外物其の物を知ること能はず唯だ吾人の心に喚起されたる標幟をのみ知るといふ論)に立ちて純理哲學を排斥することが神祕的思想と相結びたるものをばピエール、ダイイ(Pierre d'Ailly 一三五〇―一四二五)及びジェルソン(Gerson 一三六三―一四二九)に於いて見ることを得。此等の人々に先きだちて神祕說の最も偉大なる代表者となれるをエックハルト(Eckhart 一二五〇乃至一二六〇に生まれ一三二九以前に死せり)とす。彼れは所謂獨逸神祕學派の開祖にして神祕說は彼れに於いて始めて明瞭に又大膽に發表せられたり。謂はゆる獨逸神祕學派は其の由來に於いて敎會の宗義に對しては頗る獨立の態度を保てるものなれば嚴密なる意味に謂ふスコラ哲學と區別するを要す。此の派の目的とせし所は敎會の定めたる宗義の合理的なることを辯明せむとするよりも寧ろ各個人の直接に意識する深邃なる宗敎的經驗を了解しそを言ひ表はさむとするに在りき。其の說の表白の仕方より見るも他のスコラ學說とは大に其の趣を異にせり。そは其の敎說は一般人民の使用する言語を以て直接に一般の聽衆に訴ふる說敎壇上より吐露せられたる者にして所謂スコラ學者が當時の敎會の用語たると共に學者の用語たりし拉甸語を以て書籍にものせるとは同一ならず。又狹き意味に謂ふスコラ哲學と異なりて淵源の如何を問はず各自の宗敎的經驗を了解するに適せりと思はるゝものは廣く之れを攝入し殊に新プラトーン學派風の思想を吸收せる所甚だ多し。此の獨逸神祕學派は後には流れてバール(地名)の「神の友」と呼ばれたる輩の(異端視せられたる)說となり、又タウレル(Tauler 一三〇〇―一三六一)及びスーソー(Suso 一三〇〇―一三六五)の如き人々によりて繼續せられては通俗的說敎を主とするものとなりぬ。
《エックハルト、神性の自識。》〔一四〕こゝには神祕學說として最も注意すべき
エックハルト(Eckhart)
の說を述べむ。彼れ以爲へらく、萬物の太原は想と物とを超絕したる能く名狀す可からざるもの、即ち無と名づくる外なきものなり。是れ即ち神性なり。而して件の名狀す可からず限定す可からざる神性が實際に活動する神となるは自らを知る知識による、即ち萬物の太原たる神性に自らを知らむとする働き起こりこゝに眞實の存在てふものは創まれり。自らを知らむとする活動を起こさざる狀態に於いての神性は無といふより外に名づくべき語なし。造化作用は畢竟神性の自識作用に外ならず、實在は其の根柢に於いては自識作用なり。(即ちエックハルトの取る所は主知論なり。)神が自らを知らむには先づ自らを言ひ出ださざる可からず之れを譬ふれば恰も吾人が我が影を鏡面に投じて始めて我れを見得るが如し。件の自識作用によりて始めて能言なる主觀と所言なる客觀とが相分かる、前者は父なる神にして後者は子なる神なり、而して父の
《神と差別相。》〔一五〕子即ち神の自らを發言したる者に於いて造化の模範は具はる、語を換ふれば子は萬物を造化する者なり。されど其の造化作用は畢竟ずるに神が自らを知り自らを言ひ表はす作用に外ならざれば神以外に萬物に於ける實在なく神を取り去らば一として獨立自存する物ある可からず。獨立自存する物としては萬物は非實有なり。萬物は唯だ其れが神なることに於いてのみ實在を有す。之れを神と區別するものは唯だ其の個性なり。即ち神と萬物とを區別する所以のものは自他彼我の別をなし、此處彼處の別をなし、時に於ける前後の別をなし、數に於ける一多の別をなすもの、約言すれば其の差別相の外にあらず。差別相を取り去らば萬有は一なり、差別相に於いて觀るがゆゑに個々相異なりたる萬物として見ゆるなり。
《不善は缺乏なり、神人の合一。》〔一六〕神を外にして實在するものなし故に實在するものはまた凡べて善なるものなり。不善なるもの、不完全なるものは積極的に實在を有するものに非ず寧ろ非有なり。炭火の我が手を燒くは唯だ手に熱を缺けるが故なり、不善は缺乏に外ならず。地獄に墮落して苦しむものは非有なり缺乏なり。造化されたる者が自らを自存獨立のものと見て我執を起こす是れ一切の迷妄の淵源、一切の罪惡の本源なり。如何にエックハルトの神祕說に於いてスコラ哲學の濫觴なる而して新プラトーン學派風の趣を帶びたる彼のエリゲーナの說に類似する點あるかを看よ。)
眞理の本體を知らむと欲せば萬物の差別相より眼を轉じて神に歸入せざるべからず。人間は自ら意識して神に歸入することを得。而して萬物は其の理に於いて(idealiter)人間の心に包含せられ居れば吾人の心が神に歸入することに於いて萬物は神に歸入することを得るなり。神と萬物とは互に離るべからざる關係を有す、吾人が神を觀ると吾人が神に觀らるゝとは同一不二なり。吾人が神を知ることに於いて神は自らを知るなり、此の際能知の主觀と所知の客觀とは同一なり。神は自らを愛する愛を以て我等を愛す、そは吾人に於いて神に愛せらるゝものは神自らなれば也。かくの如く神と我が心とが合一する所(即ち神を知る)の知識は是れ神より來たりて吾人の心を照らす光即ち其の恩惠なり。朽ち果つべき物に絆され之れを追ひ求め我意を執する心を離れて只だ神をのみ知り神をのみ愛するに至りて吾人は始めて究竟の怡安に達するを得べし。こゝに至りては神が吾人の靈魂に於いて生まれたりと謂ふべく、又神が人間となれりとも謂ふべし。斯くなれる人は之れを基督と名づくるも可なり否神と名づくるも可なり。
《ニコラウス、クザーヌス、中世紀思想の殿、新時代開始の端。》〔一七〕上述せる如くスコラ哲學が其の當初の目的を放棄するに至れる傍には神祕家の流れが大に膨脹して敎會の宗義に對しては著るく獨立の位地を取り又敎會の常に排斥し來たれる新プラトーン學派風の思想をも調和することとなれり。而してかゝる神祕的傾向と自然界硏究の傾向とを合しまた學術界の新精神の鬱勃たらむとすることを示しながら尙ほ舊時代の世界觀を脫せずして恰も中世紀思想の殿となれる者を
ニコラウス、クザーヌス(Nukolaus Cusanus 一四〇一―一四六四)
とす。彼れの哲學に於いては新時代の將に開けむとすることを示すに足るものあれどもその思想は尙は敎會の宗義に忠實にして其の目的とするところ從來中世紀社會の貴重視したる信仰及び希望を一の哲學的組織に造り成さむとするにあるが故に彼れは尙ほ中世紀時代に屬すべきものなり。而して彼れに於いては上の如くスコラ哲學本來の思想、神祕的流派、及び從來多少存在したりし而も殊に新時代の旗幟と稱すべき自然界硏究の傾向の相合せるを見るが故に吾人は彼れを以て一方には中世紀思想界の結末を成せると共に又新時代へ移らむとする趨勢を示せるものと見るを得べし。
《知識の三段、有意識の無智。》〔一八〕ニコラウスに從へば吾人の知識に三段あり。最下の段階は感官の知覺にして唯だ事物のおぼろげなる樣を示すもの即ち未だ知識として明らかに形づくられざる材料を與ふるものなり。第二の段階を辯別智(ratio)となす。是れ思想の矛盾律に從うて事物を辯別するものにして時間に於いて、空間に於いて及び數量によりて事物を相判かつは其の作用なり。最高の段階は理智(intellectus)にして即ち反對のものの中に一致を發見する作用なり。矛盾律に從うて相反するものを相別かつのみならず更に進みて其の中に根本的一致を發見するもの是れ吾人の知識の最高段階なり。差別相を見る第二段の知識は遂におのづから平等相を見る第三段の知識に移らざるべからず而して差別を極め行かば其の窮極には遂に平等を發見せざるべからず、之れを譬ふるに猶ほ圓を大にし行かば弓と其の弦とが遂に一致し三角形の一角度を大にし行かば其の角度を成す二邊と他の一邊とが遂に合一するに至るが如し。最高の知識は一切の反對の合一することを直觀する(intuitio)に在り。故に若し辯別智を以て事物を差別するを名づけて知識と云はば理智を以て平等相を發見するをば無識と名づくべし、換言すれば辯別智の揭ぐる一切の差別及び反對を拂ひ去りて始めて理智の見に達し得べし。總べて差別的思想の念ひ浮かぶる所は未だ以て眞の知識となすに足らずと見るに至りて、即ち此等の差別的想念を去り無識無念想の狀態に入るに至りて始めて眞知に達したりといふことを得べし。而して是れ即ち有意識の無知(docta ignorantia)なり。
《神と萬物、平等と差別。》〔一九〕斯く吾人に於ける最高の知識は反對するものの間に一致を發見するに在るが其の反對の一致(coincidentia oppositorum)是れ即ち神なり。神は有限を合一する無限なり。盖し有限は差別及び反對を以て成り而して之れを融會合體せしむる所以これ無限なる神なり。神は有限に反對したる無限にはあらずして有限に合一したる無限なり、無限なると共に有限なるものなり、神は萬物を疊めるもの(complicatio)、世界はそを開きたるもの(explicatio)なり。故に神に於いては差別と平等とは相離れたる者にあらず、凡べてを含める神(deus implicitus)是れ即ち差別雜多に開發したる神(deus explicitus)なり、即ち神は多を合する一、有限を統一する無限にして彼れは極大なると共に極小なり、これを譬ふれば猶ほ限りなき圓に於いては其の中心と周圍との一なるが如し。極大と極小とは斯くの如く一なるが故に諸物各〻それぞれの樣に於いて全界を示せるものと見るを得べし。換言すれば一切が一切の中に在り(Omnia ubique)、そは一切が神の中に在り而して神が一切の中に在ればなり。
ニコラウス自らは萬有神敎を排斥すと云ひながら、彼れの說の實際如何ほど萬有神敎的思想を含めるかは甚だ見易かるべく又此の點に於いて彼れが思想に神祕的傾向の存することは明らかなるべし。但しニコラウス以前に於いても無限てふことを以て神を說く思想はありたれども無限と有限とを以て神と萬物との關係を解釋する說は彼れに至りて一種別樣の趣を呈し來たれり。且つ又彼れが說に謂ふ天地間の物皆各〻全世界を縮寫すといふ思想は後にしば〳〵吾人の遭遇する所のものなる也。
《ニコラウスに於ける純理哲學的思想と自然科學的傾向との結合、スコラ哲學の結末。》〔二〇〕吾人はニコラウスに於いて神祕的及び萬有神敎的臭味を帶びたる純理哲學的思索に自然界の科學的硏究の傾向の結ばれたるを看る。彼れが近世學術の一大動力とも謂ふべき數學に重きをおける、またピタゴラス及びプラトーン等の希臘の先哲を貴べるが如き皆是れ將さに轉變せむとする時代の精神を顯はせるものに非ざるはなし。エリゲーナは新プラトーン學派風の臭味を帶びながら嚴密なる意味に謂ふスコラ學と神祕說の要素とを、共に其の未だ明らかに開發せられざる狀態に於いて包含してスコラ哲學の濫觴となり、ニコラウスは變遷せむとする時代の精神に動かされながら尙ほ全く中世紀の世界觀を脫せずして敎會と其の宗義とに忠ならむとせることに於いてスコラ哲學の結末をなせり。
《十字軍の影響、法王制の衰微、スコラ哲學の解體。》〔二一〕羅馬敎會が其の全盛を極め、スコラ哲學が盛んに生長しつゝありしに當たり恰も中世紀歐洲の社會に變動を來たすべき大原因となりし十字軍は行はれつゝありき(第一回十字軍は自一千九十六年至一千九十九年、第八回十字軍は一千二百七十年)。十字軍は先きにモハメット敎國の推し寄せ來たりしに對し其の打ち返しとして基督敎國より推し出だしたるとも見るべき現象にして其の結果希臘及びモハメット敎國の文化が大に西歐に輸入せらるゝこととなり、而して件の文化の輸入は當時の學問界に於いてはスコラ哲學の全盛を誘起することとなれり。然るに其の結果は此に止まらず一般西歐人民の眼界を廣うし基督敎國以外に却つて文化に進步したる民人あるに思ひ到らしめたり。かくして知識上の開發は遂に羅馬法王制度に不利なるに至りたり。
離散は敎會に不利なると等しくスコラ哲學に取りても亦不利なるものなりき。スコラ哲學の隆盛なりしに當たりてや巴里府の大學は歐洲學問界の中心にして其の言ふ所は學界の問題に於ける最高の判決たるが如き勢力を有したりしが漸次學問の中心は幾多獨逸に、伊太利に又英吉利に興起することとなり而して其の結果はスコラ哲學の統一主義に不利ならざるを得ざりき。之れと等しく法王制度の上にありても法王が一時南北に分かるゝに至りしことの如きは其の衰弱を促さざるを得ざりき(是れ歷史に所謂法王權の分裂、一千三百七十八年)。外に現はれたる此等の事實は皆中世紀の理想及び其の理想の發現たるスコラ哲學の解體せむとすることを示せるものなり。
《哲學宗敎分離以後の硏究の新傾向、過渡時代の現象。》〔二二〕信仰と道理との分離はスコラ哲學當初の目的の達せられざることを表白したるものなれども件の分離の唱へられたるは(前にも已に云へるが如く)敎會に不利ならむとの旨意に出でたるにはあらで寧ろ却つて敎會の爲めに其の信仰を堅固なる基礎に置かむことを以て其の目的としたりしなり。然れども哲學と神學とが一旦相分かれて前者は專ら世間の事、自然界の事を硏究するものとせられ後者は唯だ出世間の事、超自然界の事を說くものとせられ、而して哲學が宗敎の敎ふる所とは全く獨立に硏究せらるべきものとなりて後は其の硏究の自然に取りて進み行くべき道は之れを豫想するに難からず。哲學にして若し獨立に硏究せられなば縱令敎會の宗敎に反抗する旨意を以てせずとも其の中世紀に說かれたる所とは大に相異なる新しき形を取り來たらむは自然の結果なるべし。而して哲學に志ある者が何時迄も「二重の眞理」といふ如き說に滿足せむは期望し得べきことにあらず、遂に全く舊時の思想を棄却し萬事を新たに造り上げむとするに至る大勢は決して防止し得べくもあらず。固よりかゝる變遷は一時に急速に成就せらるべきものにはあらず。截然中世思想と近世思想とを區劃する境限は引き難し。新時代の開けて謂はゆる近世哲學の起こる迄には過渡の時代と稱すべきものあり。新學問の精神の興起したる所以を解せむには須らく先づ此の過渡時代の現象を觀察すべし。過渡時代に於ける學風の旣に中世紀のものにあらざるは見まがふべくもあらず而して此の時代を經て所謂近世哲學組織の興起するに至れりとは云ふものから中世思想の全く廢れて毫末も其の痕跡をとどめざるにはあらず、新時代の思想家は萬事を其の根柢より考へ改めむと志しながら尙ほ知らず識らずスコラ哲學者の形づくりたる觀念を繼紹せる所あるは後去つて說くを看て知るべし。
大西博士全集第三卷西洋哲學史上卷畢
校正者
綱島榮一郎
五十嵐 力