作者:麓花冷
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←作者索引: ふ | 麓花冷 (1907年 (明治40年) 2月16日 - 1943年 (昭和18年) 5月3日) |
麓花冷 (ふもと かれい) は、昭和期にかけて活躍した日本の小説家・評論家・詩人である。本名は古谷吉彦[1]。1907年2月16日、静岡県生まれ[1]。1926年7月20日、全生病院 (後の多磨全生園) に入院[1]。創作のかたわら、『山桜』の編集部主任、顧問を務めた[1]。短命だったが、全生病院内で作られた「文学サークル」のメンバーの一人である。麓が『山桜』の編集に携わっていた頃は、特に大変な時期に当たっていた[1]。1933年に渓鶯会事件 (全生病院の患者内で発生した暴力事件。正義団事件、6・8事件とも呼ばれている[2]。有力患者間の保守派対革新派の派閥抗争であると同時に、職員や病院当局者にも裏で操っていた面があったらしい。事件の詳細は不明であるが、大まかなことは、書誌・「多磨」五十年史、15「渓鶯会事件」に書かれている。) が発生し、高橋高嶺 (高橋惣太郎、当時の『山桜』の編集兼発行人) をはじめ有力部員が長島愛生園へ転園し、『山桜』が壊滅状態になっていたためである[1]。高橋の転園後は麓が実質的な編集兼発行人として『山桜』の再建に尽くした[1]。晩年、麓は失明したが、編集部主任を退いた後も、顧問として死の直前まで『山桜』の巻頭言を書き続けた[1]。1943年5月3日死去[1]。麓花冷以外にも古家嘉彦のペンネームも使い、晩年は麓花嶺の筆名に変えた[1]。 |
作品一覧
[編集]小説
[編集]- 手紙
- 土曜日
- 超滿員
- 母斑
- 彼女は唄ふ (山下道輔・荒井裕樹編『ハンセン病文学資料拾遺』(国立療養所多磨全生園自治会ハンセン病図書館刊、2004年) 所収)
- 其の朝 (山下道輔・荒井裕樹編『ハンセン病文学資料拾遺』(国立療養所多磨全生園自治会ハンセン病図書館刊、2004年) 所収)
評論
[編集]- 我等の文學 (「科学ペン」1938年3月号)
出典
[編集]この作者の著作物の一部または全ては、1943年に著作者が亡くなっているため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者の没後50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作者の著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。