余と自然主義

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本文[編集]

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本紙の木村君から自然主義に就き言ふべき事があるなら言へとの手紙であつたが僕は実際、余り言ふことが無い。其の筈である僕には自然主義に関する智識がない。友人の田山花袋(くわたい)君から時々坐談の際、其所説を聴いたのと、十月一日に出た「文話詩話」に文壇近事と題して田山君が書かれた所説と宙外(ちうがい)君が新刊の「新小説」に書かれた「随感録」中の所説と、以上が僕の自然主義に関する智識の全体である。これで何が言へるだらう。然し君は評壇から自然主義を奉ずる人と目(もく)されて居るが如何(どう)だと反問さるゝならば、少しく所信を述べる事にする。「武蔵野」「独歩集」「運命」「濤声」の四冊は今日までの僕の作物(さくぶつ)を網羅せる者と言つても宜(よろ)しいのである。而して所載の数十編中最近の短文五編を除くの外は悉く明治三十年頃より三十六年末までの作で、僕は三十七年から殆(ほとん)ど小説を書かないと言つても宜しい、而して僕の有する前説の自然主義に関する僅少なる智識は昨今得たものである昨今得たる僅少の知識を主義として、十年前から五年前までの作物が如何(いか)にして出来る。僕は魔法使ひではない。
且(かつ)昨今と雖(いへど)も僕は自然主義を唱えてこれを公言したことも私語した事もない。僕には見て来たやうな噓のつけざると等しく、知りもしない主義を宣言して奉ずるわけがない。
それでも君は自然派であると評する人があるならば、左様(さう)ですか一向存じませんでしたと答ふる外はない。僕は自然主義なる者を知らずして今日まで制作したと言ふ、決して自然主義は僕の主義であるとも無いとは言はない。独歩は独歩である。
若し独歩の作物全体が所謂(いはゆる)自然主義であり而して其理由を明白に説(とい)て僕を承知さする人が有るならば僕は今後更(あらた)めて自然主義を主張する、若し独歩の作物中、或物が自然主義の旨に中(あた)つて居ると説く人が有るなら其説明を聞いて「成程そういふ次第なるか」と其教(そのをしへ)を謝する。而(そ)して矢張り独歩は独歩である。
斯く言ひ来ると如何にも高慢臭く聞えて、不快の感を催さるゝ人もあらんかなれど、事実そうならば致し方がないのである。僕は実に今日まで僕自身の観た所、思ふた所感じた所を書いて来たのである、そして十年前から四五年前までの作物は、文壇から全く度外視されて、口八釜(くちやかま)しい評論家の悪口の材料にすらも上(のぼ)らなかつたのである。尤(もつと)も極めて少数の知己(ちき)はあつた。新刊の「趣味」に三島霜川(さうせん)君が僕の小説を好きな小説として数へたが、君の如き実際僕の知己「武蔵野」時代からの愛読者で殆ど僕の一作出る毎に注意して読んで呉れられたやうんであつた。工学士の中川臨川(りんせん)君なども僕の作を愛読せらる所から知己になつたのである其他数人(すにん)の友人は当時の僕の読者で、僕は此等の極めて少数なる知己の外は、外界の刺激は何にもなかつたのである。唯だ僕には僕の自信が有つたばかり、そのまゝ三十八年と九年となり、旧作を集め「独歩集」となし「運命」として世に出したら、急に僕の名が高くなつて従つて愛読者も殖(ふえ)たやうである。けれど其為に僕は急にエラくなつた訳でもなく、エライのなら初めからエラかつたので矢張り独歩は独歩であつたのである。若し愚作者の独歩ならば、十年前も今日も矢張り愚作者の独歩は独歩であつたのである。故に事実と経歴の示す所、独歩は独歩であると言つた処で、決して高慢の積(つも)りで言ふのでない事が解るだらうと思ふ。


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誤解を防ぐために一言添へて置くが、僕が以上の言を為したのは、近来自然主義、自然派といふ題目が文壇を賑はして居るにつけ、本紙の木村君から自然派を以て目っせられて居る僕に、何か言ふ事はないかと聞いて来たから、所感を述べて本紙に掲(かゝ)げた次第で、これ等の雑言(ざふげん)が若し本紙の読者に多少の面白味を与へたならば、木村君及び僕の満足であるのである。自然主義に対する二三の攻撃が評壇の一隅から起りしために特に目から弁じて攻撃を避くるために述べ立てたのだと思ふひとがあるならば――旋毛(つむじ)の捩(ねぢ)れた人の少からぬ今の評論界には有り勝ちである――僕は決然として言ふ、僕は自然主義を奉ずる人にして可なり、僕の所論に就き一々挙げて弁駁して来れ、敢(あへ)て論弁せんと。
所で生憎(あいにく)と僕には「所論」の持合(もちあはせ)が無い。なぜ無いかは此文の冒頭に書いてある。
先づ以上で僕自身と自然主義とに関する事だけは言ひ尽したとして、僕の近頃不思議に感ずる事は、自然主義の攻撃の方が先に公言せられて、そして後から田山君などの筆で、そろ其に対する弁論が出るといふ現象である。攻撃方は最初的(まと)なきに矢を放ち、暗夜(やみよ)に銃砲を放つて、先づ平地に波瀾を起し世間を騒がしたやうに、僕には見へる。そして自分で騒動を持上げながら、自分で怒つて居れば世話はないとも言へる近い例が後藤宙外君は「新小説」の紙上で「自然派とモデル」と題し、其書出しに自然派の驍将(げうしやう)島崎藤村(とうそん)氏は云々(うんぬん)と書かれたが何の拠(よ)る処がたうて、島崎君を自然派の驍将にせられたのだらうか、驍将と兵卒とを問はず、兎も角島崎君を自然派と明言する以上、必ず所信があるだらう。まさか世間でそういふ噂だからとも言へまい。そういふ無責任な事は勿論言へまい。然らば島崎君自身が余は自然主義を奉ずと公言し、宣言し、而して制作した事が有るだらうか。或は島崎君が自分の作をば、これは自然主義の産物なりと唱へたことが有るだらうか、後藤君は有ると断言し得るか。若し有るならば其例証を挙げ示して貰ひたい。若し無いとするならば後藤君は何に拠つて島崎君を自然派と明言したのであらう。


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若し後藤君が此の「何に拠つて」に就き十分の解説が出来ないとすると、「自然派とモデル」の題は「島崎氏とモデル」と書き改めなければならぬ。愈々(いよ)そうなると「自然派とモデル」の自然派は、後藤君が勝手に作つた的(まと)で、其(その)的に自分が勝手に矢を放たれた計り、真の自然主義は、欧洲で笑つてるだらうといふ事になる。
元来自然主義なる者は日本の産物でなく、日本人の主唱でなく、全く舶来品らしい、後藤君も随感録中で鷗外(あうぐわい)氏の談話を引き、而して鷗外氏は欧洲の事例を言つて居るのを見てもそうらしい。果してそうならば此の主義を奉ずる日本人の作物を攻撃する人は十分に此主義の意義に通じたる上更(さら)に日本人の作物が此主義を奉じて作つた者なる事を確かめた上、初めて此主義をも作物をも攻撃する資格が有るのである。宙外君は我に此資格ありと公言し得るか、得るならば此資格から割出したる攻撃の令を示さねばならぬ。我は自然主義を奉ずと公言した作家某の何(ど)の作物が後藤君の攻撃に値(あたひ)する者であるか其例を明々地(めいち)に示すべき義務が後藤君にある。
然し僕思ふに後藤君(登張(とばり)君もそうらしい)其他の自然主義攻撃方は少しく早まつたのではあるまいか。
たゞ何処からともなく自然主義々々々々といふお題目のやうな声が聞える、そうかと見る間に後藤君(のみならんや)などは今まで聞いた事もない名がウジヨ現はれて種々雑多な短篇が毎月何ダースとなく出来上る、それを読むと癪(しやく)に触(さは)る者ばかり、やれこれは以(もつて)の外(ほか)の現象だと嘆息する時、又たもや何処からともなく自然主義々々々々といふお題目が聞える、さてこそと突立上(つゝたちあが)り何時の間にか自然主義とウジヨ雑多の作物とを結びつけて怒鳴(どな)り初めたのではあるまいか。若しそうならば軽率至極なる事で、田山君などが「文話詩話」で真面目に憤慨するのは決して無理ではない、又島崎君をば自然派に組込んだのは独断の甚だしい者だと思ふ。
要するに今の若い多数の作家の沢山の作物が癪に触はるといふことからして僕などには解し難く、「何処からともなく」としか言ひやうのない自然主義てふ声を捉(とらへ)て我鳴(がな)るなど僕には不思議の現象としか言へない。

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。