佐久間軍記/信玄病死付槇島合戰事

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信玄病死槇島合戰事

天正元年癸酉七月十八日。山州槇島合戰。義昭將軍。信長ヲ滅サント。信玄ヲ爲味方軍ヲ發給フ。信玄ハ去年味方原ヲ退。遠州ヲサカヘニ越年シ。今春赴濃州ニ。岩村城ヲ攻捕。三月。三州ニ出。吉田城ヲ攻。尾州與濱松ノ通路ヲ塞キ。武威ヲカヽヤカシ。四月十一日。信玄。三州ニテ病ヲ發。甚急ニシテ歸國ニ赴キ。十二日。信州ネハネニテ卒去。時年五十三。勝賴續家。喪ヲ秘シテ不發。信玄卒トイヘトモ。義昭公。素意ヲムナシクスルコト不能。三好右京太夫義繼。和田伊賀守惟政ト評議有テ。槇島ニ楯籠給。信長公。七月五日。岐阜ヲ發京城攻落。十六日。到宇治表。十八日。軍ヲ三手ニ分。一手ハ柴田勝家爲將。佐久間玄蕃允。柴田三左衞門。稲葉伊豫守。安藤伊賀守。氏家常陸介。川上平等院丑寅ヨリ向。一手ハ佐久間信盛爲將。蒲生飛彈守氏鄕。池田伊豫守景雄。後於小田原(陣脱カ)中秀吉公給秀之字秀雄ト云筒井順慶。松永彈正忠久秀等。川下五ヶノ庄ノ前西ニ向。一手ハ御旗本五ヶノ庄ノ柳山ニ御備。信盛使梶川彌三郎高盛御本陣ヲ伺。信長公。床机ニ座シ御甲ヲ持。左右兵士ワタラン機アリ。高盛推參。味方ノ兵勇進時分ハイカヽト申。信長公。梶川ヲ白眼テ汝何ヲシラン。無下知一騎カケヲスルモノヲハ。可行重罪ト。梶川馳歸。信盛ニ告ハヲソシ。麾信盛陣川ニ懸入。池田景雄進テワタル。信盛男甚九郎信勝。馬ヲカケ廻シ。軍兵等ニ爲下知曰。敵ノ備ノアツキ河アサシ。ウスク立ハ川フカシ。アツキ備ニ向テ可渡ト。保田久六。川ニ馳入。信盛信勝兵ヲスヽメ渡ル。平等院ノ方ヨリ渡ハ。稲葉伊豫守昌通爲先陣。柴田勝家軍士ヲ帥率ス。佐久間玄蕃允。柴田三左衞門先陣ヲアラソヒ。惣軍雷動シ渡ル。槇島軍兵半渡ヲ討挑戰。信長公。川ヲ御アカリ。梶川高盛。敵ヲ討テ首持參ス。信長御實撿ナシ。高盛腹立。其首ヲ信長ノメス御馬ノ足ニナケツケ。城中ニ馳入。信盛勝家等軍士相供ニ。槇島ノ城ヲ破。信長公本城ニ及。義昭公乞降給フアイタ。是ヲ奉送河州。



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