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伊集院町志/五章 傳説

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第五章 傳説

一、南北朝合一と石屋禅師

 皇統緒を分ちて南北に對立すること五十七年明徳三年(紀元二〇五二年)閏一〇月五日後龜山天皇より後小松天皇に神器を御授けになり御一和のことが成つた。

 此の南北朝御一和の次第を次のやうに言ふ者がある。

「初後小松天皇より南北朝合一のことを石屋和尚に命ぜられ、石屋和尚は後龜山天皇に謁し妄執を離れて眞如の月を見られんことを奏上した。 後龜山天皇大に御感悟遊ばされたので石屋和尚は大内義弘をして後龜山天皇を奉迎せしめた」云々。
 此の説は鹿兒島外史といふ野史の記事から出たものであらう。 鹿兒島外史は明治十七年伊賀倉俊貞が著はしたもので正史もあるが奇談怪説を臆面もなく記述したもので、日本の權威ある史家は一の稗史小説として顧みない文書である。此の鹿兒島外史の記事を以て我が國體上重大なる史實と早や合點する人あらば甚しき不謹慎であるのみでなく畏多き次第である。此の如き記事は日本の國史としては元より薩摩藩の正史上にも全然ないことである。 鹿兒島外史の一節に

「後小松天皇深歎之累召島津元久叔父聖僧石屋在丹波永澤寺而頻謀天下統合一策」

中略

「於是後小松帝賞石屋大勲功勅建西三十三個邦曹洞禅首于薩摩國鹿兒島號玉躰龍顔北麻福昌大禅寺」 云々

 先づ怪しむべきは石屋和尚が如何なる資格があつて後小松天皇に召され、或は後龜山天皇に拝謁して法を説いたかである。彼は當時一小僧として修業中であつた。即ち此記事にある永澤寺時代は何等資格なき一雲水にて永澤寺の通幻禅師に就て曹洞宗の玄妙を聴き大に悟る所があり、子弟の約を結び通幻禅師から石屋といふ法號を授かつた禅僧生ひ立ちの時である。此の一小僧が畏多くも龍顔に咫尺して道を説き南北朝を和合せしめたことは一笑だにも値せぬことである。 當時京畿の間には長き年月間皇室と關係がある名僧が多かつたのである。然るに何ぞや名もなき通幻の一弟子が南北朝和合に携はるとは。

 又石屋が丹波の永澤寺に居つた時代は文中天授の頃であるから、南北朝御和合から二十年以前のことである。コンナ辻褄の合はぬことを歴々と書く者も信ずる者も奇である。

 石屋和尚が再び丹波國永澤寺に行つたのは應永三十年で恩師通幻禅師の三十三回忌を營んだ時である。即ち南北朝御和合の明徳三年から三十一年の後である。故に此の永澤寺説は研究するのは價値はないのである。

 尚南北朝御和合の明徳三年は石屋和尚が伊集院に妙圓寺を建てゝから二年の後で鹿兒島の福昌寺の開山となつた二年前である。此の間後小松天皇に召され後龜山天皇に説くことが出來るか。 彼は鹿兒島と伊集院にゐたのである。

 更に鹿兒島の福昌寺が勅願に依る創建とは奇説である。斯かる尊き由緒があれば薩藩史に特筆大書せられねばならぬ。かゝる記事は何もないのである。福昌寺は島津元久が建立したことは疑ふの餘地はないのである。若し鹿兒島外史の記事の如くなれば石屋和尚は禅師號を賜はつたものと見るべきである。 然るに東京帝國大學史料編纂所の調査に依れば石屋和尚は大師號、國師號、禅師號の勅號勅謚を拝してゐないのである。(通幻禅師の弟子の中には石屋眞梁の名がある)

 國史の研究は慎重でなければならぬ。殊に皇室國體に關することは一層のことである。此の説に就て研究することは畏多いことであるから説の可否は暫時く之をおき只記事の矛盾を指摘したのである。

ニ、妙圓寺建立の由來

 石屋和尚が諸國巡錫の後郷里薩摩の伊集院に歸る途中、長門國大津郡深川といふ村に一泊せんとしたけれども、此の村は大内義弘の領地で國の掟として許可なく他國者を宿泊せしむることを禁じてあつた。 石屋和尚は止むなく妖怪の出づるといふ一の辻堂に一夜を明かすことゝなつた。然るに夜半陰風起り山岳鳴動して二つの鬼が現はれ法智妙圓々々々々と叫びつゝ一人の少女を追ひ廻し打擲呵責した少女は其の痛苦に堪へ兼ね泣き叫ぶ様誠に見るに忍びないものがあつた。

 翌朝村人は和尚の安否に氣づかひ辻堂に來て見れば和尚は無事で前夜の有様を斯くと物語つた。 村人は驚いて言ふに其の少女は恐らく領主の姫君ならん。 領主は先日姫君を亡ひ妙圓と諡した。これが未だに佛果を得ないものであらうと。 この由を領主に申出でたので大内義弘は不自然に思ひ、和尚に請ふて共に辻堂に宿り其の實況を見て是は吾が女なり願くは法を修して女を救ひ給へといふので和尚は法を修すること暫時、二鬼叫んで日佛教慈悲廣大にして汝天に生ず吾輩も亦法味に霑ふと言ひ終つてかき消すやうに見えずになつた。 大内義弘深く石屋和尚を尊崇し、和尚の爲に寺を建てゝ女の冥福に資せんと請ふたけれども石屋和尚は固辭して薩摩に歸つた。

 和尚の歸國後大内義弘は使を薩摩に遣はして元中七年(北朝の明徳元年)伊集院領主伊集院久氏に請ふて伊集院に一寺を建立し、石屋和尚を開山として、山號を法智山、寺號は妙圓寺とし、妙圓大姉の菩提寺としたとのことである。

三、坂木六郎の劍道

 坂木六郎は藩政の末期に於ける薩藩有數の劍客である。維新勤王の熱血兒、有馬新七の父四朗兵衛の弟である(有馬新七傳参照)六郎は十九歳の時江戸に出て神影流で有名なる長沼亮卿の門に入り修業五ヶ年免許皆傳を得たもので文武の道に長じた伊集院郷の傑物であつた。

 或日、六郎は麁末な服装にて門の内外を掃除して居つた。 時に菅笠を冠つた偉丈夫が武者修行者と名乗つて訪ね來り坂木を見て下男と勘違ひし、先生は内かと尋ねたので坂木は下男と成りすまし自分坂木先生の武衛を稱揚し先生と立合はるゝ前に私と一度立合ひますようといふが早いか、箒で修行者の頭を二つ三つ擲りつけ身を躍らして輕々と塀を飛び越え門内に入つてしまつた修行者はこの早業に呆然とし、暫時其の儘立ちつくしア、流石は坂木先生の下男だけあつて優れた腕前だ。下男でさへあれ程であるから坂木先生は嘸達人であらうと氣を呑まれて立ち去つた。

四、龍の化け石

 昔大田に疊十二疊位の大きな岩があつて傍らに池があつたので附近の子供は此の池で水泳をし、岩の上に登っつて遊んでゐた。 子供等が此の岩を叩けば岩から白いネバ汁が出るので皆が不思議がつてゐた。 夫のみならず池で洗濯して岩の上に干しておけば其の洗濯物が時々紛失するので怪しい噂が立つた。或日一天遥かにかき曇り風雨雷鳴物凄く一團の黒雲が此の岩の上を掩ふた。 暫時くして風雨は止んだが、岩は何處へ行つたか形も見へなくなつた。 この奇蹟を見た村人は岩に化けてゐた龍が時を得て昇天したのだと言ふやうになつた。

五、臆病者

 或臆病者が伊集院から鹿兒島に行く途中で行人稀れな權現山にさしかゝつた時犬が頻りに吠えるのでソーラ來たとアレは狐に吠えるのに違ひないとビクもので急ぎ行く途の傍の藪の先で百姓が畑の草を採つて臆病者の方に投げた。臆病先生、アツ矢張り狐の惡戯だと魂も身にそばす通り過ぎ權現山の境に來て赤ん坊を背負ふた子守に會ひ、赤坊の泣くのを聴いてアヽコンドは赤ん坊に化けやがつたと逃げ出したが、行き先きに籠を擔いだ男が行くのを見てウヌ早くも男に化けやがつたか、今度こそ許さぬぞと手に持つた傘にて其の男をしたたか擲りつけた。籠の男はビツクリして誰だ。何をするのだ。と振り向いたのを見ると臆病先生と心安き近所の人であつた。

六、種子田市兵衛翁殉節之地

 文久三年、鹿兒島前ノ濱薩英戦争に於ける薩藩の勝利は弘安の役以來の大痛快事として各藩の間に傳はり、各藩は戦争御見舞と稱して盛に使者を派遣して視察せしむ。薩藩にては當時他藩の使者鹿兒島城下に入ることは非常に迷惑にて人を遣はし途中に於て之を謝絶せしむ。 種子田市兵衛翁は命を受けて伊集院へ出張。此等使者の謝絶に當れり、使者の中に筑前黒田侯の使者あり、薩摩侯に手交すべき黒田侯の親展書を携へ、是非城下に通り君命を全うせんことを求む。黒田侯は元來島津家とは姻戚の關係淺からざる間柄なり。 種子田氏屢々事情を陳べ以て藩の訓令を仰きて許されず、是に於て幾度か彼の使者を打ち果さんと思ひしも、斯くては黒田侯に對する我が藩主の禮にあらずと思ひ、七月二十日の朝も自ら歸麑して訓令を仰ぎ而して遂に容れられず。 同日午前、荒田町なるの自宅に立ち寄り、母氏に暇乞し早晝飯にて玄關より馬に乗りて伊集院に向ふ。母氏此の時「ムデナコツシアルメド」(見苦しい事な爲給ひそ)と勵まさる。

 此の伊集院は妙圓寺の六月燈(昔は妙圓寺の大祭は義弘公の命日七月二十一日にて其の前夜二十日の夜が内祭にて六月燈)にて種子田氏の旅館(中の油屋屋號)にも夕刻より主人有助留守し、家人は皆六月燈見物に出拂ひ種子田氏が鹿兒島より連れ來り居られたる小者仁才も六月燈見に遣はされ、其の後にて切腹せらる。蓋し禮は癈つべからず。 君命は重く身ば輕し、殊に王政復古翼賛の大事業を控へたる薩藩の此の場合、種子田氏の執るべき道更に他になく遂に節に殉す。 思慮周密非常の人傑にあらずば殆んど能はざるところ而も僅に葬式を許されしのみ、事秘密に附せられ時人之を知らず、後世久しく其の眞相を辨せず通はすべからず他藩の使者に城下に通られし、責に任じ屠腹せりとなすものあるに至る悲しいかな。

 旅館中の油屋は中門なともあり。士分の投宿する伊集院町一流旅館にして伊集院町の中央南側現家村醫院の在る地なり。

 他藩使者の宿泊せる旅館は角の油屋にて現在の安樂盛藏氏方なり。

 使者の應接折衝をなしたるは御假屋にて現伊集院小學校本校舎の中央附近ならんか。

猪鹿倉城

 島津氏は島津忠久公以下五代百四十二年(百四十七年?)出水郡野田に居られ、後伊集院猪鹿倉城に遷られしと野田村故老吉滿氏より聴く

薩摩芋の傳播は伊集院から

 薩摩芋は青木昆陽の宣傳等に依り讃岐國より全國に傳はりしものなるが、其の薩摩芋は伊集院より只一ヶ初めて讃岐國に入りし事は餘りに世に知られて居ない。

 甞て(年號不覺)讃岐國の行脚僧?が薩摩に來て鹿兒島を距る四數里の伊集院の或る村に泊りし時、主人が薩摩芋を供せしをこは好きものと其の種を所望したれと當時薩摩の國禁で之を他に出すことを得ず依つて其の旅人は一夜の間に佛像を彫刻し、其の中に一個薩摩芋を忍ばせ之を讃岐の國に傳へたりとて讃岐には其の記念碑ありと云ふ。此の事は貫一が友人坂元三郎氏より氏が甞て讃岐に旅行せられし時、調査されしもの謄寫版刷物を貰ひしこともあり、そのすり物は先年伊集院青年學校長藏元氏へ送り置きたれば或は青年學校に今もあるやも計られず。

七、三州三本寺の一つ荘厳寺と傑僧、賢雄法印の最后

 伊集院には往時有名な寺院が多かつた。そして一種の聖地として遍く天下に知られてゐた。 即ち妙圓寺を始め荘厳寺、廣済寺、梅岳寺、龍泉寺、善福寺、破鞋庵、直林寺、雪窓院、光明院平等寺、圓通庵、報恩寺、観音堂、地藏堂、釋迦堂等枚擧に遑ない程多いが、其の中でも分けて有名なのは、猪鹿倉に建立されてゐた大勝山聖御院荘厳寺である。

 此の寺は今より四百九十七年前嘉吉元年十月御花園天皇の時代に良範上人と言へる和尚が開山したもので、其の前に一吽上人と呼ぶ和尚が、信州善光寺の彌陀三尊を模鑄した佛像と弘法大師作の不動明王の像を奉持して、良範上人に與へ而も小野派三寶院の法流を授け國民安泰を祈祷し、島津家の祈願所として有名な寺院であつた。

 往時は更に十二の坊舎があり、神護院、平等寺、内田坊、太田坊、宮原坊、宮田坊、土橋坊、蓮花寺、小原坊、悉地院、牧迫坊、ニノ宮坊、等が諸所に建立され、頗る壮観を極めてゐた。而して往時薩隅日三州の密門三本寺の一つで伊集院荘厳寺、坊ノ津一乗院、鹿兒島大興寺がそれであつた。

 島津家十五代の大守貴久公は天文十四年三月時の伊集院郷領主伊集院長門守忠國を伊集院一宇治城に攻め、之れを攻落し、貴久公は田布施城より一宇治城に移り、時の荘厳寺第九世俊盛法印に歸依し、天文十九年十二月貴久公は伊集院城から鹿兒島に移り、内城に居を定め、俊盛法印を召して祈願の事を命ぜられ、後荘厳寺に安置した弘法大師作不動明王像を鹿兒島に移し、大乗院を創立して此處に安置せしめ、俊盛法印を開山とし、荘厳寺を一乗院の末寺とした。それ程此の荘厳寺には高僧が多かつた。

 分けて有名なのは荘厳寺の第八世の住持賢雄法印である。法印は度々召され島津家に参上し、祈願の事に専念し其の密宗法力は遍く三州に知られてゐた。時しも天文十三年甲辰八月のことである。大守伯囿公の夫人(入來院弾正重聡の女、法名先姫雪窓妙安大姉)が病氣の時分ー賢雄法印は日夜病氣平癒の祈願を罩めたが、其の甲斐もなく八月十五日逝去された。其の時鹿兒島城下の山伏行者は、平素から賢雄法印の出麑を心よしとせず、この大姉の逝去を好機として、賢雄法印が呪詛に依つて、大姉は他界されたと讒訴した。 そこで大守の怒に觸れ、賢雄法印の斬殺方を、家臣島本某(此の子孫市内に現存するにつき假名とす)に命じ、島本は伊集院に出發したが、その後で無罪なる由判明したるに依り、大守は更に家臣木下某(此の子孫市内に現存するにつき假名とす)に討手差止め方を命ぜられた。木下某は、早馬との事で、自宅で冷飯一杯吸つて飛出した關係で、時刻遅れ、一方伊集院荘厳寺に在つた賢雄法印は、早くも法力に依つて、討手の來るを覺知し早々に旅仕度して、寺を出で、伊集院町上町通り(現在伊集院署附近)を勇々として遁れてゐる際早くも討手島本は迫つた。然るに差止め役の木下某は恰度待て坂(一名万右衛門坂)に來た時大音聲に「斬殺差止めだぞ」と呼ばはつたが、討手島本は抜く手を見せず、法印に斬り付け遂に首討落して仕舞つた。この刹那差止め役木下某の歯と言ふ歯は片つ端から崩れ落ちたと言ふ奇蹟がある。之れ賢雄法印の祟りであると言ひ、討手島本某の子孫は、其の後家は斷絶し、差止役の木下某の子孫は代々三十才後になると、不思議に前歯が崩れるそうである。今この子孫は、毎年賢雄法印の墓詣りに來ると言ふことである。

 賢雄法印の霊は地藏菩薩として崇め(現在安樂呉服店裏庭に石地藏尊像安置す)後世の人長く崇敬し今日に至つてゐる

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