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今鏡 (今鏡読本)

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〔すべらぎの上〕第一

やよひの十日あまりのころ、おなじ心なるともたち、あまたいざなひて、はつせにまうで侍りしついでに、よきたよりに寺めぐりせんとて、やまとのかたに旅ありき日比するに、路とをくて日もあつければ、こかげにたちよりて、やすむとてむれゐる程に、みつわさしたる女のつえにかゝりたるが、めのわらはの花がたみにさわらび折りいれて、ひぢにかけたるひとり具して、そのこのもとにいたりぬ。とをきほどにはあらねど、くるしく成りて侍れば、おはしあへる所はゞからしけれど、都のかたよりものし給ふにや。むかしも恋しければ、しばしもなづさひたてまつらむといふけしきも、くちすげみわなゝくやうなれど、としよりたる程よりも、むかしおぼえてにくげもせず。この わたりにおはするにやなど問へば、もとは都にもゝとせあまり侍りて、そのゝち、山しろのこまのわたりに、いそぢばかり侍りき。さてのちおもひもかけぬ草のゆかりに、かすがのわたりにすみ侍るなり。すみかのとなりかくなりし侍るも、あはれにといふに、としのつもりきく程に、みなおどろきてあさましくなりぬ。むかしだにさほどのよはひはありがたきに、いかなる人にかおはすらん。まことならば、ありがたき人みたてまつりつといへば、うちわらひて、つくもがみはまだおろし侍らねど、ほとけのいつゝのいむ事を、うけて侍れば、いかゞうきたる事は申さん。おほぢに侍りしものも、ふたもゝちにおよぶまで侍りき。おやに侍りしも、そればかりこそ侍らざりしかども、もゝとせにあまりてみまかりにき。おうなも、そのよはひをつたへ侍るにや。いま<とまち侍りしかど、いまはおもなれて、つねにかくてあらんずるやうに、念佛などもおこたりのみなるも、あはれになんといへば、さていかにおはしけるつゞきにか。あさましくも、ながくもおはしけるよはひどもかな。からのふみよむ人のかたりしは、みちよへたる人もありけり。もゝとせを七かへりすぐせるも有りければこの世にも、かゝる人のおはするかなと、このともたちの中にいふめれば、おほぢはむげにいやしきものに侍りき。きさいの宮になんつかへまつり侍りける。名は世繼と申しき。おのづからもきかせ給ふらん。くちにまかせて申しける物がたり、とゞまりて侍るめり。おやに侍りしは、なま学生にて大学に侍りき。この女をもわかくては、宮つかへなどせさせ侍りて、からのうた、やまとの哥などよくつくりよみ給ひしが、こしの国のつかさにおはせし御むすめに、式部の君と申しゝ人の、上東門院の后の宮とまうしゝとき、御母のたかつかさ殿にさぶらひ給ひしつぼねに、あやめとまうしてまうで侍りしを、五月にむまれたるかと問ひ給ひしかば、五日になんむまれ侍りける。母の志賀のかたにまかりけるに、ふねにてむまれ侍りけると申すに、さては五月五日、舟のうちなみのうへにこそあなれ。むまの時にやむまれたる。と侍りしかば、しかほどに侍りけるとぞおやは申し侍りし。など申せば、もゝたびねりたるあかゞねなゝりとて、いにしへをかゞみ、いまをかゞみるなどいふ事にてあるに、いにしへもあまりなり。いまかゞみとやいはまし。まだおさ<しげなるほどよりも、としもつもらずみめもさゝやかなるに、こかゞみとやつけましなどかたれば、世に人のみけうずる事、かたり出だされたる人の、むまごにこそおはすなれ。いとあはれに、はづかしくこそ侍れ。式部君たれが事にかと問へば、紫式部とぞ世には申すなるべしといふに、 それは名だかくおはする人ぞかし。源氏といふめでたき物がたり、つくり出だして、世にたぐひなき人におはすれば、いかばかりの事どもか、きゝもちたまへらむ。うれしきみちにも、あひ聞こえけるかな。むかしの風も吹きつたへ給ふらん。しかるべきことの葉をも、つたへ給へといへば、かた<”うけたまはることおほかりしかども、物がたりどもにみな侍らむといへば、そのゝちの事こそゆかしけれといふに、ちかき世の事も、おのづからつたへきゝ侍れば、おろ<としのつもりに申し侍らん。わかく侍りしむかしは、しかるべき人のこなど三四人うみて侍りしかど、この身のあやしさにや。みなほうしになしつゝ、あるはやまぶみしありきて、あともとゞめ侍らざりき。あるは山ごもりにて、おほかた見る世も侍らず。たゞやしなひて侍る、五節の命婦とて侍りし、うちわたりの事もかたり、世の事もくらからず申して、ことのつまならしなどして、きかせ侍るも、よはひのぶる心ちし侍りし、はやくかくれ侍りて、又とのもりのみやつこなる、をのこの侍るも、うひかうぶりせさせ侍りしまでやしなひたてゝ、このかすがのさとに、わすれずまうでくるが、あさぎよめ、みかきのうちに、つかうまつるにつけて、この世の事も聞き侍る。みなもとをしりぬれば、すゑのながれきくに心くまれ侍り。よつぎが申しおける萬壽二年より、ことしは嘉應二年かのえとらなれば、もゝとせあまりよそぢの春秋に、三とせばかりや過ぎ侍りぬらむ。世は十つぎあまり、三つぎにやならせ給ふらんとぞおぼえ侍る。その折万寿二年に、ことしなると申したれば、かの後一条のみかど世をたもたせ給ふ事、廿年おはしましゝかば、万寿二年のゝち、いまとかへりの春秋はのこり侍らん。神武天皇より六十八代にあたらせ給へり。その御世ゝり申し侍らむとて、


1 雲居

後一条のみかどとは、前の一条院の第二の皇子におはします。御母上東門院、中宮彰子と申しき。入道前太政大臣道長のおとゞの第一の御むすめ也。このみかど、寛弘五年なが月のとをかあまり、ひとひの日むまれさせ給へり。同じ年の十月十六日にぞ親王の宣旨聞こえさせ給ひし。同じ八年六月十三日東宮に立たせ給ふ。御としよつにおはしましき。一条院位さらせ給ひて、御いとこの三条院東宮におはしましゝに、ゆづり申させ給ひしかば、その御かはりの東宮に立たせ給へりき。かの三条院位におはします事、五とせばかりすぐさせ給ひて、長和五年むつきの廿九日に、位をこのみかどにゆづり申させ給ひき。御とし九つにぞおはしましゝ。さて東宮には、 かの三条院の式部卿のみこをたて申させ給へりき。摂政は、やがて御おほぢの入道おとゞ、左大臣とてさきのみかどの関白におはしましゝ、ひきつゞかせ給ひて、つぎのとしの三月に、御子の宇治のおとゞ、右大将と聞こえさせ給ひしに、ゆづり申させ給ひにき。その日やがて、内大臣にもならせ給ふと、聞こえさせたまひき。その八月九日、東宮わが御心と、のかせ給ひき。三条院も、卯月に御ぐしおろさせ給ふ。五月にかくれさせたまひぬるにも、世の中さう<”しくおもほしめすにや。御やまひなど聞こえて、かくさらせ給ひぬれば、みかどの御おとうとの第三の親王を、このかはりにたて申させ給ふ。廿五日にぞ、さきの東宮に院号聞こえさせたまひて、小一条院と申す。としごとのつかさくらゐ、もとのごとく給はらせたまふ。御随身など聞こえ給ひき。ほりかはの女御の、みえしおもひのなどよみたまへる、ふるき物がたり侍るめればこまかにも申し侍らず。寛仁二年正月にはうへの御とし十にあまらせ給ひて、三日御元服せさせたまへれば、きびはにおはしますに、御かうぶりたてまつりて、おとなにならせ給へる御すがたも、うつくしう、いとめづらかなる雲井の春になむ侍りける。卯月の廿八日におほうち、やう<つくり出だして、わたらせ給ふ。しろがねのうてな玉のみはし、みがきたてられたるありさま、いときよらにて、あきらけき御世のくもりなきも、いとゞあらはれはべるなるべし。みかうしも、みすもあたらしく、かけわたされたるに、雲のうへ人の夏ごろもごたちの用意などいとゞすずしげになん侍りける。おほ宮もいらせ給ふ。春宮もわたらせ給ひて、むめつぼにぞおはします。入道おとゞの四の君は、威子の内侍のかみと聞こえたまひし、こよひ女御に参り給ひて、藤つぼにおはします。神無月の十日あまりのころ、きさきに立たせ給ふ。國母も、后もあねおとゝにおはしませば、いとたぐひなき御さかえなるべし。廿二日に上東門院にみゆきありて、かつらを折るこゝろみせさせたまふ。だい、霜をへて菊のせいをしる。又みどりの松、色をあらたむる事なし。などぞ聞こえし。おほきおとゞたてまつらせたまへるとなん。八月廿八日東宮御元服せさせ給ふ。御とし十一にぞおはしましゝ。九月廿九日に、入道おとゞ、東大寺にて御かいうけさせたまひき。同四年かのえさる、三月廿二日に、無量壽院つくり出ださせ給ひて、くやうせさせ給ふ。きさき、みところ、行啓せさせたまふ。御ありさまども、ふるき物がたりに、こまかにはべれは、さのみおなじ事をや申しかさね侍るべき。十月には入道のおとゞ、比叡にのぼり給ひて、恵心とかいひて、御かい かさねて、うけさせたまふ。治安二年みづのえいぬの七月十四日法成寺に行幸せさせ給ひき。入道おとゞ金堂供養せさせ給ひしかば、東宮もきさきたちも、みな行啓せさせ給ひき。つみあるものどもみなゆるされ侍りにけり。三年正月に太皇太后宮に、朝観の行幸せさせ給ひき。春宮もおなじやうに、行啓せさせたまひける、ふたりの御子おはしませば、いとたぐひなき、宮のうちなるべし。十月十三日に、上東門院の御はゝ、たかつかさどの、六十の御賀せさせ給ふ。その御ありさま、むかしの物がたりに侍れば、この中にも、御らんぜさせたまへる人もおはしますらん。万寿元年九月十九日、関白殿の高陽院に行幸ありて、くらべむま御らんぜさせ給ふべきにて、大皇太后宮、まづ十四日にわたりゐさせたまひてぞ、まちたてまつらせ給ひける。かくて廿一日に、大宮は内へいらせ給ひき。高陽院の行幸には、かの家のつかさ、かゝゐなどし侍りけり。むらかみの中つかさの宮の御子、源氏の中将を、入道おとゞの御やしなひ子と聞こえ給ふ。このたび三位中将になりたまひき。二年八月三日春宮のみやす所〔嬉子〕、をとこ〔一〕宮うみたてまつり給ひて、五日にかくれさせ給ひき。入道おとゞの六の君におはする、御さいはひの中に、あさましく、かなしと申すもおろかに侍れど、後冷泉院を、うみおきたてまつり給へれば、いとやむごとなくおはします。その折のかなしさは、たぐひなく侍りしかども、いきてきさきにたちたまへる御あねたちよりも、おはしまさぬあとのめでたさは、こよなくこそはべるめれ。


2 子の日

三とせの正月十九日、大皇太后宮、御さまかへさせたまひき。きさきの御名もとゞめさせ給ひて、上東門院と申しき。よそぢにだにまだみたせたまはぬに、いと心かしこく、世をのがれさせ給ふ。めでたくもあはれにも、聞こえさせ給ひき。大斎院と申ししは、選子内親王と聞こえさせ給ひし、この御事をきかせ給ひて、よみてたてまつらせ給へる御うた、

  君はしもまことのみちに入りぬなり独やながきやみにまどはん

この斎院は、むらかみの皇后宮の、うみおきたてまつらせ給へりしぞかし。東三条殿の御いもうとなれば、この入道殿には、御をばにあたらせ給ふぞかし。なが月には中宮御さんと聞こえさせ給ひて、姫宮うみたてまつらせ給ふ。左衛門督かねたかと聞こえ給ひしが家をぞ、御うぶやにはせさせ給へりし。をとこ宮におはしまさぬは、くちをしけれ ど、御うぶやしなひなど心ことにいとめでたく、ことはりと申しながら、聞こえ侍りき。この姫宮は、後冷泉院のきさき、二条院と申しし御事なり。東宮にはじめてまゐらせ給ひけるころ、出羽の弁みたてまつりて、

  春ごとの子の日はおほく過ぎぬれどかゝる二葉の松はみざりき

とぞよめりける。同四年正月には、上東門院にとしのはじめのみゆきありて、朝覲の御はいせさせたまひき。つねのところよりも、御すまゐありさま、いとはえ<”しく、からゑなどのやうに、山のいろ、水のみどり、こだちたて石などいとおもしろきに、くらゐにしたがへる色々の衣の袖、近衛司のひらやなぐひ、ひらをなど、めもあやなるに、きぬのいろまじはれるうちより、からのまひ、こまの舞人、左右かた<”に袖ふるほどなど所にはえておもしろしなども、こと葉もおよばずなん侍りける。しも月には入道おほきおとゞ御やまひ重らせ給ひて、千人の度者とかやいひて、法師になるべき人のかずの、ふみたまはらせ給ふと聞こえ侍りき。法成寺におはしませば、その御寺に行幸ありて、とぶらひたてまつらせ給ふ。御誦經御ふせなどさま<”聞こえ侍りき。東宮にも行啓せさせ給ふ。御むまご内東宮におはしませば、御やまひの折ふしにつけても、御さかえのめでたさ、むかしもかゝるたぐひやは侍りけん。しはすの四日に、入道殿かくれさせ給ひぬれば、としもかはりて、春のはじめのせちゑなどもとゞまりて、くらゐなどたまはすることも、ほど過ぎてぞ侍りける。長元二年きさらぎの二日、中宮、又ひめ宮うみたてまつらせ給へり。この姫宮は後三条院の、后におはします。二人のひめ宮たち、二代のみかどの后におはします、いとかひ<”しき御有様なり。六年しも月に、たかつかさ殿の七十の御賀せさせ給ふとて、女院中宮関白殿、うちのおほいどの、かた<”いとなませ給ひき。わらはまひなどいとうつくしくて、まだいはけなき御よはひどもに、から人の袖ふり給ふありさま、いとらうありて、いかばかりか侍りけん。又の日うちにめして、昨日のまひども御らんぜさせ給へり。まひ人雲のうへゆるさるゝ人々と聞こえ侍りき。舞の師もつかさ給はりて、このゑのまつりごと人など、くはへさせ給ひけりとなむ。かの御賀の屏風に、りんじきやくのところをあかぞめの衛門がよめる、

  むらさきの袖をつらねてきたる哉春たつことは是ぞ嬉しき

又子の日かきたる所よめる哥も、いふに聞こえ侍りき。

  よろづよのはじめに君がひかるれば子の日の松もうらやみやせん

おなじき九年、やよひの十日あまりのほどより、うへの御なやみと聞こえさせ給ひて、神々にみてぐらたてまつらせ給へるさま<”の御いのり、聞こえ侍りき。殿上人御つかひにて、左右の御むまなどひかれ侍りけり。御としみそぢにだに、いまひとつたらせ給はぬ、いとあたらし。されど廿年たもたせ給ふ、すゑの世にありがたく聞こえさせたまひき。まだおはしますありさまにて、御おとうとの東宮に、くらゐゆづり申させ給ふさまなりけり。のちの御事の、よそほしかるべきによりて、くらゐおりさせ給ふ心なるべし。をとこ御子のおはしまさぬぞくちをしき。いづれの秋にか侍りけん。菊の花ほしに似たりといふ題の御製、からの御ことのは聞こえ侍りき

  司天記取葩稀色、分野望看露冷光

とか人のかたり侍りし。御ざえもかしこくおはしましけるにや。菩提樹院に、この御門の御ゑいおはしましけるを、出羽の弁がかよめりける。

  いかにしてうつしとめけん雲井にてあかずかくれし月の光を

かの菩提樹院は、二条院の御だうなれば、御心ざしのあまりに、ちゝのみかどの御すがたをかきとゞめて、おきたてまつらせたまひけるなるべし。おもひやり参らするも、いとあはれにかなしくこそはべれ。


3 初春

後朱雀院と申す、さきの一条院の第三の皇子、御母上東門院、せんだいとおなじ御はらからにおはします。このみかど寛弘六年つちのとの酉と申しし年のしも月の廿五日にむまれさせたまひけり。七年正月十六日に、親王と聞こえさせ給ふ。御とし九つと聞こえさせ給ひき。長元九年四月十二日位につかせ給ふ。御とし廿八、そのとし御そくゐ大嘗会など過ぎて、としもかはりぬれば、いつしか、む月の七日、関白左のおとゞとて宇治のおほきおとゞおはしましゝ、女御たてまつらせ給ふ。みかどの御あにゝおはしましし、式部卿の御子の女ぎみの、むらかみの中つかさの宮の、御むすめの御はらにおはせしを、関白殿御子にしたてまつり給ひて、女御にたてまつり給へるなり。一条院の皇后宮の、うみたてまつり給へりし、一の御子におはしませば、春宮にもたち給ふべかりしを、御うしろみおはしまさずとて、二のみこにて、せんだい三のみこにて、このみかどふたり、みだうのむまご、関白の御おひにおはしませば、うちつゞきつかせ給へるなり。彼の一条院の皇后宮は、御せうとのうちのおとゞの、つくしに おはしましゝ事どもに、おもほしなげかせ給ひて、御さまかへさせ給へりしのちに、式部卿の御子をうみたてまつらせたまへるなり。から國の則天皇后の御ぐしおろさせ給ひてのちに、皇子うみ給ひけんやうにこそおぼえ侍りしか。されどかれはさきのみかどの女御にて、かのみかどかくれさせ給ひにければ、世をそむきて、感業寺とかいふ寺に住み給ひけるを、さきのみかどのみこ位につき給ひて、かの寺におはしてみたまひけるに、御心やより給ひけん。さらに后にたてまつりけると、これはおなじ御世のもとのきさきなれば、いたくかはり給はぬさまにて、なのめなるさまにて侍りき。かしこき御世の御事申し侍るもかたじけなく、かの皇后宮の女房、ひごのかみもとすけと申すがむすめ、清少納言とてことになさけある人に侍りしかばつねにまかりかよひなどして、かの宮の事もうけ給はりなれ侍りき。その式部卿の御子の御むすめにおはしませば、みかどにはめいにあたらせ給へり。かくてやよひのついたちに、きさきに立たせ給ひぬ。御とし廿二にぞおはしましゝ。もとの后は皇后宮にならせ給ひき。そのもとの后は、みかど東宮におはしましゝ時より、参り給へりき。三条院の姫宮におはします。それは御とし廿五にならせたまへりき。陽明門院と申すはこの御事なり。御ぐしのうつくしさを、故院〔え〕見まゐらせぬ、くちをしとてさくり申させ給ひけんもおもひやられて、おなじきさきと申せども、やんごとなくおはします。ひさしくうちへ参らせ給はざりけるころうちより、

  あやめ草かれしたもとのねをたえてさらに恋ぢにまどふ比哉 。 と侍りけん。御返事はわすれにけり。東宮におはしましゝ時の御息所也。このきさきに、みだうの六の君まゐり給ひて、内侍のかみと聞こえ給ひし、後冷泉院のいまの東宮におはしましゝ、うみおきたてまつりて、うせ給ひしかば、この宮はそのゝち参り給へるなり。こないしのかみの御もとに、かすみのうちにおもふ心をと、よませ給ひたる御うた、たまはり給ひけると聞こえ侍りし物を、長暦元年神無月の廿三日関白の殿〔の〕高陽院に、上東門院わたらせ給ひて、行幸ありて、きんだち院司などかゝゐどもし給ひき。かくてとしもあけぬれば、又正月二日上東門院に朝覲のみゆきありて、いづくと申しながら、猶この院のけしきありさま〔の〕、山の嵐よろづ世よばふ聲をつたへ、池のみづも、ちとせのかげをすまして、まちとりたてまつり給ひき。先帝かくれさせ給へれども、かくうちつゞきておはします、二代の國母と申すもやんごとなし。 又三日は東宮朝覲の行啓とて、内に参らせ給ふ。みかどのみゆきよりも、ことしげからぬ物から、はなやかにめづらしく、ゆげひのすけ一員などひきつくろひたるけしき、こゝろことなるべし。すべらぎの御よそひ、みこの宮の御ぞの色かはりてめづらしく、御拜のありさまなど袖ふりたまふたちゐの御よそひ、うつくしうて、よろこびの涙もおさへがたくなん有りける。つらなれるむらさきの袖も、ことにしたがへるあけもみどりも、花やかなるみかきのうちの春なりけるとなん聞こえ侍りし。


4 ほしあひ

中宮こぞよりいつしか、たゞならずならせたまひて、しも月の十三日に、左のおとゞのたかくら殿に出でさせ給へりしが、つぎのとし四月一日、女御子うみたてまつらせ給ひて、又うちつゞき、又のとしもおなじやうにまかり出でさせ給ひて、丹後守ゆきたふのぬしの家にて、長暦三年八月十九日に、猶女宮うみたてまつり給ひて、おなじき廿八日にうせ給ひにき。御とし廿四、あさましくあはれなる事かぎりなし。いとど秋のあはれそひて、ありあけの月のかげも、心をいたましむるいろ、ゆふべの露のしけきも、なみだをもよほすつまなるべし。かくて九月九日にうちより故中宮の御ために、七寺にみず経せさせ給ふ。みかど御ぶくたてまつりて、廢朝とて、清凉殿のみすおろしこめられ、日のおもの参るも、こゑたててそうしなどすることもせず。よろづしめりたるまゝにはゆふべのほたるをもあはれとながめさせ給ふ。秋のともし火、かゞけつくさせ給ひつゝぞ、心ぐるしき折ふしなりけるに、廿日ぞ解陣とかいひて、よろづれいざまにて、御殿のみすなどもまきあげられ、すこしはるゝけしきなりけれど、なほ御けしきは、つきせずぞみえさせ給ひける。神無月も過ぎぬれば、御いみすゑになりて、かのうせ給ひにし宮にて、御佛事あり。こずゑの色も風のけしきも、おもひしりがほなるさまなり。くれなゐはらはぬむかしのあとも、のりのにはとて、ことにきよめらるゝにつけても、折にふれて、あはれつきせざりけり。しも月の七日ぞ、内にははじめて、まつりごとせさせ給ふ。南殿にいでゐさせ給ひて、官奏などあるべし。後一条院の中宮に侍りける、いづものごといふが、この宮に侍りし伊賀少将がもとに、

  いかばかり君なげくらんかずならぬみだにしぐれし秋の哀を

とよめりけり。秋の宮うちつゞき、秋うせさせ給へるに、いとらうありて、思ひよられけるもあはれにこそ聞こえ侍りしか。またのとしの七月七日、関白殿に、うちより 御せうそくありて、

  こぞのけふ別れし星もあひぬなりなどたぐひなき我が身なるらん

とよませ給ひて侍りけんこそ、いとかたじけなく、なさけおほくおはしましける御事かなと、うけ給はりしか。揚貴妃のちぎりもおもひいでられて、ほしあひの空、いかにながめあかさせ給ひけんと、いとあはれに、たづねゆくまぼろしもがなゝどや、おぼしけんとおしはかられてこそ、つたへきゝ侍りしか。詩などをも、おかしくつくらせ給ひけるとこそ聞こえ侍りしか。秋のかげいづち〔か〕かへらんとす〔る〕。などいふことに、

  路非山水誰堪趁、跡任乾坤豈縁尋

などつくらせ給ひけるとこそ、うけたまはりしか。乾坤といふはあめつちといふことにぞ侍りける。長久二年三月四日、花宴せさせ給ひて、哥のしたはうぐひすにしかずといふ題たまひて、かつらを折るこゝろみありと聞こえ侍りき。つぎのとしのやよひのころ、堀川右大臣その時春宮大夫と申ししに、女御たてまつり給ひき。そちの内のおとゞのむすめの御はらなり。おとゞたちにもおとりたまはず、いとめでたく侍りき。神無月の比、おほ二条殿内大臣と聞こえ給ひし、二の君内侍のかみになりてまゐりたまひて、かた<”はなやかにおはしき。十一月には二宮御ふみはじめとて、式部大輔〔たかちか〕と聞こえしはかせ、御注孝經といふ文をしへたてまつりき。蔵人さねまさ尚複とて、それも御師なるべし。おなじき四年の三月にも、佐国孝言時綱国綱などいふものども、試みさせたまひき。ゆば殿にてぞ、つくりてたてまつり給ひける。もとかつらを折りたるは、はかせをのぞみ、まだをらぬものは、ともし火のゝぞみなむありける。くごとにもろこしのはかせの名などおきければつゞりかなふる人かたくなんありける。寛徳元年八月におほすみのかみ長国、たぢまのすけになり、民部丞生行おなじくにのぞうになし給ひて、こまうどの、かの国につきたる、とぶらはせ給ひき。御なやみとて、あくるとし正月十六日に、くらゐさらせたまひ、御ぐしおろさせ給ふ。御とし卅七になんおはしましゝ。世をたもたせ給ふ事九年なりき。まだわかくおはしますさまを、惜しみたてまつらずといふ人はなし。先帝廿九にておはしましき。これはされど、みそぢあまりの春秋過ぎさせ給へり。母ぎさきのあまりながくおはしますに、かくのみおはしませば、御さいはひの中にも、御なげきに堪へざるべし。なほ御むまごの一の御子はみかど、二のみこは東宮におはしませば、いとやんごとなき御ありさまなるべし。


5 望月

よつぎもみかどの御ついでに、国母の御事申し侍れば、このみかどの御母ぎさきの御事、このついでに申し侍るべし。御年廿三におはしましゝ時、後一条院、後朱雀院、うちつゞきうみたてまつらせ給へり。つちみかどどのにて、後一条院うみたてまつらせ給へりし七夜の御あそびに、みすのうちより、出だされ侍りける、さかづきにそへられ侍りしうたは、むかしの御つぼねのよみたまへりし、

  めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千世はめぐらめ

とぞおぼえ侍る。その女院は、十三より后におはしましき。一条院かくれさせ給ひて、後一条のみかど、をさなくおはしましけるに、なでしこの花をとらせ給ひければ、御母ぎさき、

  見るまゝに露ぞこぼるゝおくれにし心も知らぬなでしこの花

五節のころ、むかしを思ひいでゝ、殿上人参りて侍りけるに伊勢大輔、

  はやくみし山ゐの水のうすごほりうちとけざまはかはらざりけり

とぞよみて出だし侍りける。寛弘九年二月に、皇太后宮にあがらせ給ふ。御年廿五と聞こえさせ給ひき。後一条のみかど、位につかせ給ひて、寛仁二年正月に大皇太后宮にならせたまひき。万寿三年正月十九日に、御さまかへさせ給ふ。御とし卅九、御名は清浄覚と申しけり。きさきの御名とゞめさせ給ひて女院と聞こえさせ給ふ。としごとのつかさ位たまはらせ給ふ事は、おなじやうにかはり侍らざりけり。長暦三年五月七日、御ぐしおろさせ給ふ。あきもとの入道中納言、

  世をすてゝ宿を出でにし身なれども猶恋しきは昔なりけり

とよみて、この女院へたてまつり給へる御返事に、

  つかのまも戀しきことのなぐさまば二たび世をもそむかざらまし

とよませ給へる、はじめは御ぐしそがせ給ひて、のちにみなおろさせ給ふ心なるべし。かの中納言は後一条院の御おぼえの人におはしけるに、御いみにおはして、宮のうちに御となぶらもたてまつらず侍りければ、いかにとたづね給ひけるに、女官どもいまの内に参りて、かきともしする人もなし。などきゝ給ふに、いとゞかなしくてみかどのかくれさせ給ひて、六日といふに、かしらおろして、山ふかくこもり給へりけり。年卅七になんおはしける。きく人なみだをながさずといふ事なくなむ侍りける。花山の僧正 の、ふかくさのみかどの御いみに、御ぐしおろしたまひけんにも、おくれぬ御心なるべし。なほつきせずおもほしけるにこそとかなしく、御かへしもいとあはれに、御母ぎさき、さこそはおもほしけめとおぼえて、かの東北院は、この院の御願にて、ちゝおとゞのみだう、法成寺のかたはらにつくらせたまへり。山のかたち、池のすがた〔に〕もなべてならず。松のかげ、花のこずゑも、ほかにはすぐれてなんみえ侍りける。九月十三夜よりもち月のかげまで、仏のみかほもひかりそへられたまへり。御念仏はじまりけるほどに、かんだちめ、殿上人参りあつまりたまへるに、宇治のおほきおとゞの、朗詠はべりなんと、すゝめさせ給ひければ齊信の民部卿、としたけたるかんだちめにて、極楽尊を念じたてまつる事、一夜とうち出だし給ひけん、折ふしいかにめでたく侍りけん。齊名といふはかせのつくりたるが、いけるよに、いかにいみじく侍りけん。この世ならば、いまの人のつくりたる事も出だしたまはざらまし。殿上人しをに色のさしぬき、この御念仏よりこそ着始め給ひしか。この堂つちみかどのすゑにあたれば、上東門院と申す也。このゝち代々の女院の院号、かどの名聞こえはべるめり。陽明門も、このゑにあたりたれは、このれいによりてつかせ給へり。郁芳門、待賢門などは、おほゐのみかど、中のみかどに御所おはしまさねど、なぞらへてつかせたまへるとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なぞらへてつかせ給ふならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけたてまつりけるにか。など聞こえければ、あきたかの中納言といひし人の、この御れうにのこして、おかれけるにこそはべるめれ。と申されけるとかや。さてぞつかせ給ひにけるとなん。みかどの御前などにては、つちみかどこのゑなどは申さで、上東門のおほぢよりはいづかた、陽明門のおほぢよりはそなたなどぞ奏すなる。されば一條二条など申すにもおなじ心なるべし。この上東門院の御としは、八十七までおはしましき。


6 菊の宴

このつぎのみかどは、後冷泉院と申しき。後朱雀院の第一の皇子、御母、内侍のかみ、贈皇太后宮嬉子と聞こえき。入道おほきおとゞの第六の御むすめ也。上東門院のおなじ御はらからにおはします。このみかど万寿二年きのとのうしのとしの八月三日、むまれさせ給へり。長暦元年七月二日御元服、やがて三品の位たまはらせ給ふ。八月十七日に東宮に立たせ給ひて、寛徳二年正月十六日、くらゐにつかせたまふ。御とし廿一にぞおはしましゝ。永承元年やよひのころ、いつきたち、おの<さだめさせ たまふ。七月十日中宮立たせたまひき。東宮の御時より、みやす所にておはしましゝ、後一条院のひめ宮なり。神無月も過ぎて、みかどことしぞとよのみそぎせさせ給ふ。正月十六日、御いみの月とて、たうかのせちゑもなし。十月に関白殿の御おとうとの右のおとゞ女御たてまつりたまふ。大二条殿と申しゝ御事なり。おなじき四年十一月に、殿上の哥合せさせたまひき。むらかみの御時、花山院などのゝち、めづらしく侍るに、いとやさしくおはしましゝにこそ、能因法師のいはねの松もきみがためと、一番の哥によみて侍る。このみちのすきもの、時にあひて侍りき。たつたの川のにしきなりけり。といふうたも、このたびよみて侍るぞかし。五年しはす関白殿の御むすめ、女御に参りたまふ。四条の宮と申しゝ御事なり。六年二月十日、きさきにたち給ふ。皇后宮と申しき。もとのきさきは、皇太后宮にあがりたまひき。さ月五日、殿上のあやめ、ねあはせゝさせ給ひき。そのうたども、哥合の中にはべるらん。きさきの宮、さとにおはしましけるとき、良暹法師、もみぢ葉のこがれてみゆる御ふねかなといふ連哥、殿上人のつけざりけるをもみかどの御はぢにおぼしめしたりけるも、いとなさけおほく、おはしましけるにこそ。九月九日菊のえんせさせたまひて、菊ひらけて水のきしかうばし、といふ題をつくらせ給ひけるとぞ聞こえ侍りし。七年神無月のころ、つりどのにて御あそびあり。ふみつくらせ給ひけるとぞ、聞こえ侍りし。かやうの御あそび、つねの事なるべし。


7 こがねのみのり

いづれのとしにかはべりけん。九月十三夜、高陽院のだいりにおはしましけるに、たきの水音すずしくて、いはまの水に月やどして、御らんぜさせ給ひて、よませたまひける、

  いはまよりながるゝ水ははやけれどうつれる月の影ぞのどけき

とぞ聞こえ侍りし。治暦元年九月廿五日に、高陽院にてこがねのもじの御経、みかど御みづからかゝせ給ひて、御八講おこなはせたまひき。むらかみの御代のみづぐきのあとを、ながれくませ給ふなるべし。はじめの御導師は、勝範座主の、まだ僧都など聞こえし折ぞせらるゝと聞こえはべりし、いづれの問とかいひて、論義のことのよしなども、かのむらかみの御時のをぞ、ちりばかりひきかへたるやうなりけるとぞ、聽聞しける人などつたへかたり侍りし。五巻の日は宮々かんだちめ、殿上人、みなささげ物たてまつりて、たつとりのからふね、いけにうかびて、水のうへにこゑ<”しらべあひて、仏の御国うつし給へり。もみぢのにしき、水のあや、ところも折もかなへる、みのりのにはなるべし。三年十月十五日には 宇治の平等院にみゆきありて、おほきおとゞ、二三年かれにのみおはしまししかば、わざとのみゆき侍りて、みたてまつらせ給ふとぞうけ給はりし。うぢはしのはるかなるに、舟よりがく人参りむかひて、宇治川にうかべて、こぎのぼり侍りけるほど、からくにもかくやとぞみえけると、〔人は〕かたり侍りし。みだうの有様、川のうへに、にしきのかりやつくりて、池のうへにも、からふねにふえのね、さま<”しらべて、御前のものなどは、こがね白がね、色々の玉どもをなんつらぬきかざられたりける。十六日にかへられ給ふべきに、あめにとゞまらせ給ひて、十七日にふみなどつくらせたまふ。そのたびのみかどの御製とてうけ給はり侍りしは、

  忽看烏瑟三明影暫駐鸞輿一日蹤

とかや、つくらせたまへると、ほのかにおぼえ侍る。折にあひて、おぼしよらせ給ひけんほど、いとめでたき事と、しりたる人申しける。そのたびぞ准三宮の宣旨は、宇治殿かうぶらせ給ひけると、聞こえさせ給ひし。そのころにや侍りけむ。内裏にて、わらはまひ御らんぜさせ給ひき。かんだちめのわかぎみたち、おの<まひ給ひき。楽人は殿上人、さま<”のふき物、ひきものなどせさせたまふ。そのなかに、六条の右のおとゞの中納言と聞こえたまひし時、そのわかぎみ胡飲酒まひ給ふを、御前にめして、御ぞたまふに、おほぢの内大臣とておはせし、座をたちて拜し給ひけるは、つちみかどのおとゞとぞ聞こえ給ひし。舞ひたまひしは、太政のおとゞとや申しけん。かくてしはすの十二日、廿二社にみてぐらたてまつらせ給ひき。みかどの御なやみの事とてつぎのとし正月一日は日蝕なりしかば、廢朝とてみすもおろし、世のまつりごとも侍らざりき。さきのおほきおとゞも御なやみとて、きさらぎのころ、皇后宮もさとに出でさせたまひき。内には孔雀明王の法おこなはせ給ひて、大御室とておはしましゝ、仁和寺の宮御でし僧綱になり、我が御身も牛車などかうぶり給ひき。みかど御こゝちおこたらせ給ふなるべし。四月にはこがねしろがね、あやにしきなどのみてぐら、神がみのやしろにたてまつらせたまひき。かゝるほどなれど、左のおとゞの御むすめの女御、皇后宮にたちたまひき。ちゝおとゞも、関白になりたまひき。内にも御なやみおこたらせ給はず。おほきおとゞも、よろづのがれ給ひて、ゆづり申し給ふなるべし。みかど世をたもたせ給ふ事、廿三年なりき。御とし四そぢによとせばかりあまらせ給へりけるなるべし。をとこにても女にても、みこのおはしまさぬぞくちをしきや。御はゝないしのかみ、御とし十九にて、この御門 うみたてまつり給ひて、かくれさせたまひにき。寛徳二年八月十一日に、皇后宮おくりたてまつられき。国忌にて、その日はよろづのまつりごと侍らず。むかしはきさきにたちたまはで、うせたまへれど、御門の御母なれば、のちには、やんごとなき御名とゞまりたまへり。


8 司召し

このつぎの御かど後三条院にぞおはしましゝ。まだ御子におはしましゝとき、ちゝの御門後朱雀院、さきのとしの冬よりわづらはせ給ひて、むつきの十日あまりのころ、位さらせ給ひて、みこの宮にゆづり申させたまふとばかりにて、東宮の立たせ給ふ事は、ともかくも聞こえざりけるを、能信大納言とて、宇治どのなどの御おとうとの、たかまつのはらにおはせしが、御前に参りて、二宮をいづれの僧にか付けたてまつり侍るべきと、聞こえさせ給ひけるに、坊にこそはたてめ。僧にはいかゞつけん。関白の春宮の事はしづかにといへば、のちにこそはとおほせられけるを、けふ立たせ給はずは、かなふまじきことに侍りと申したまひければ、さらばけふとてなん東宮は立たせ給ひける。やがて太夫には、その能信大納言なりたまへりき。君の御ため、たゆみなくすゝめたてまつり給へりけん。いとありがたし。されば白河院はまことにや。太夫どのとぞおほせられけるとぞ人は申し侍りし。二宮とは後三条院の御事なり。このみかどは、後朱雀院の第二の皇子におはします。御母大皇太后宮、禎子の内親王と申。陽明門院この御事也。みかど寛徳二年正月十六日に、春宮に立たせ給ふ。御とし十二、治暦四年四月十九日位につかせ給ふ。御年卅五、大極殿もいまだつくられねば、太政官の廰にて、御即位侍りける。世を治めさせ給ふ事、昔かしこき御世にもはぢずおはしましき。御身のざえは、やむごとなきはかせどもにもまさらせ給へり。東宮におはしましける時、匡房中納言まだ下らうに侍りけるに、世をうらみて、山のなかに入りて、世にもまじらじなど申しければ、つねたふの中納言と申しし人の、われはやむ事なかるべき人なり。しかあらば世のため身のため、くちをしかるべしといさめければ、宇治のおほきおとゞ、心得ずおぼしたりけれど、春宮に参り侍りければ、宮もよろこばせ給ひて、やがて殿上して、人のよそひなど借りてぞ、ふだにもつきける。さてよるひる文のみちの御ともにてなん侍りける。位につかせたまふはじめに、つかさもなくて、五位の蔵人になりたりければ、蔵人の式部大夫とてなむ。あきたるにしたがひて、 中つかさの少輔にぞなり侍りける。大貮實政は、春宮の御時の学士にて侍りしを、時なくおはしませば、かまへて参りよらぬことになんとおもひけるに、さすがいたはしくて、かひのかみに侍りければかの国よりのぼりて、参るまじき心がまへしけるに、くだりけるに、餞せさせたまふとて、

  州民縦發甘棠詠莫忘多年風月遊 、 とつくらせたまへりけるになん。えわすれ参らせざりける。かんたうの詠とは、から国にくにのかみになりける人のやどれりける所に、やまなしの木のおひたりけるを、その人のみやこへかへりてのち、まつりごとうるはしく、しのばしかりければ、このなしの木きる事なかれ。かの人のやどれりしところなり。といふうたをうたひけるとなん。さてみかどくらゐにつかせ給ひてのち、左中弁にくはへさせ給へと申しければ、つゆばかりも、ことはりなきことをばすまじきに、いかでかゝることをば申すぞ。正左中弁にはじめてならむ事、あるまじきよしおほせられければ、蔵人の頭にて、資仲の中納言侍りけるが、かさねて申しけるは、さねまさ申す事なん侍る。木津のわたりの事を、一日にても思ひしり侍らんとそうしければ、その折おもほししづめさせたまひて、はからはせたまふ御けしきなりけり。昔さねまさは春宮のかすがのつかひにまかりくだりけり。隆方は弁にてまかりけるに、さねまさまづふねなどまうけてわたらんとしけるを、たかかたおしさまたげて、まちさいはひするもの、なにゝいそぐぞなど、ないがしろに申し侍りければからくおもひて、かくなんと申したりけるを、おもほし出だして、このことはりあまてる御神に申しうけんとて、左中弁にはくはへさせたまひてけり。たかゝたはかりなき心ばへにて、殿上につかさめしのふみ出だされたるを、かんだちめたち、かつ<見たまひて、なにゝなりけり。かれになりにたり。などのたまはせけるをたかかたつかうまつりて侍らんなどえたりがほに云ひけるを、さもあらぬものゝかみにくはゝりたるぞなど人々侍りければうちしめりて出でにけり。つぎのあしたの陪膳は隆方が番にて侍りけるを、よも参らじ。こと人をもよほせとおほせられけるほどに、むまのときよりさきに、たかゝた参り〔て〕侍りければ、みかどさすがにおもほしめして、日ごろは御ゆする召してうるはしく御びんかゝせ給ひて、たしかにつかせたまふ御心に、けふは待ちけれども、ほど過ぎて出でさせたまへりけるに、陪膳つかうまつりて、弁も辞し申して、こもり侍りにけりとなん。御代のはじめつかたのことにや侍りけん。だいり焼亡の侍りけるに、殿上人、かんだちめなども、さぶらひあひ たまはぬほどにて、南殿に出でさせたまへりけるに、御らんじも知らぬもの、すくよかにはしりめぐりて、内侍どころ出だしたてまつり、右近陣に、みこしたづね出だして、御はしに寄せて、載せたてまつりなどしければ、おのれはたれぞと問はせ給ひけるに、右少弁正家と申しければ、弁官ならば、ちかくさぶらへとぞおほせられける。正家匡房とて、時にすぐれたるひとつがひのはかせなるに、匡房はあさゆふさぶらひけり。これは御らんじもしられまゐらせざりけるにこそ。つかさをさへ具して、なたいめん申しけむ、折ふしにつけて、いとかどあるこゝろばへなるべし。さてこそ、これかれの殿上人かんだちめ、そくたいなるも、又なほしかりぎぬなどなる人も、とりもあへずさま<”に、参りあつまりたりけれ。となむ聞こえはべりし。


〔すべらぎの中〕第二

9 たむけ

このみかど、よをしらせ給ひてのち、世の中みなおさまりて、いまにいたるまで、そのなごりになん侍る。たけき御心におはしましながら、又なさけおほくぞおはしましける。石清水の放生會に、上卿宰相諸衛のすけなどたてさせ給ふ事も、この御時よりはじまり、佛の道もさま<”それよりぞまことしきみちは、おこれる事おほくはべるなる。円宗寺の二會の講師おかせ給ひて、山三井寺ざえたかき僧などくらゐたかくのぼり、ふかきみちもひろまり侍る也。又日吉の行幸はじめてせさせ給ひて、法花經おもくあがめさせ給ふ。かのみちひろまる所を、おもくせさせ給ふ事は、まことにみのりをもてなさせ給ふにこそはべるなれ。ひえの明神は、法花經まもり給ふ神におはします。ふかきみのりをまもり給ふ神におはすれば、うごきなくまもり給はんがために、世の中の人をもひろくめぐみ、しるしをもきはめ、ほどこしたまふなるべし。石清水の行幸、はじめてせさせ給ひけるに、物みぐるまどもの、かな物うちたるを御らんじて、みこしとゞめさせ給ひて、ぬかせ給ひ ける、御めのとの車より、いかでか我が君のみゆきに、この車ばかりはゆるされ侍らざらむと、聞こえければこのよしをやそうしけむ。そればかりぞ、ぬかれ侍らざりけるとかや。賀茂のみゆきには、かなものぬきたるあとある車どもぞ、たちならびて侍りける。大極殿、さきのみかどの御とき、火事侍りしのち、十年すぐるまで侍りしに、くらゐにつかせ給ひて、いつしかつくりはじめさせ給ひて、よとせといふに、つくりたてさせ給ひにしかば、わたらせ給ひてよろこびの詩などつくられ侍りけり。よろづの事むかしにもはぢず、おこなはせ給ひて、山のあらし、枝もならさぬ御世なれば、雲ゐにてちとせをもすぐさせ給ふべかりしを、世の中さだまりて、心やすくやおぼしめしけん。又たかき雲のうへにて、世の事もおぼつかなく、ふかき宮の中は、よを治めさせ給ふも、わづらひおほく、いますこし、おりゐのみかどとて、御心のまゝにとやおぼしめしけむ。位におはします事、よとせありて、白河の御かど、春宮におはしましゝに、ゆづり申させ給ひき。御母女院御むすめの一品の宮など、具したてまつらせ給ひて、すみのえにまうでさせ給ふとて、

  住よしの神もうれしと思ふらんむなしき船をさしてきたれば 、 とよませ給へる、みかどの御うたとおぼえて、いとおもしろくも聞こえ侍る御製なるべし。おりゐのみかどにて、ひさしくもおはしまさば、いかばかりめでたくも侍るべかりしに、つぎのとしかくれさせ給ひにし、世にくちをしきとは申せども、くらゐの御時、よろづしたゝめおかせ給ひて、東宮にくらゐゆづり申させ給ひて、かくれさせ給ひぬれば、いまはかくてと、おぼしけるなるべし。ある人の夢に、こと国のそこなはれたるをなほさんとて、このくにをば、さらせ給ふとみたる事も侍りけり。又嵯峨に世をのがれて、こもりゐたる人の夢に、がくのこゑそらに聞こえて、むらさきの雲たなびきたりけるを、何事ぞとたづねければ、院の仏のみくにゝ、むまれさせ給ふとみたりけるに、院かくれさせ給ひぬと、世の中に聞こえけるにぞ、まさしきゆめと、たのみはべりけるとなむ。


10 みのりのし

むかしみこの宮におはしましゝ時より、のりのみちをもふかくしろしめされけり。勝範座主といふ人、参り給へりけるに、真言止観かねまなびたらん僧の、俗のふみも心得たらん、一人たてまつれ。さるべき僧のおのづからたのみたるがなきに、とおほせられければ、顯密かねたるは、つねの事にてあまた侍り。からの文の心しりたる物こそ ありがたく侍れ。さるにても、たづねて申し侍らんとてかへりて薬智といふ僧をぞ奉られけるに、わざととりつくろひて、車などをもかされざりけるにや。かりばかまにのりたる僧の、座主のもとよりとて、まゐりたりければ、めしよせて、みすごしにたいめせさせ給ひけるに、まきゑの御すゞりのはこのふたに、止観の一のまきをおきて、さしいださせ給ひて、よませてとはせ給ひければ、あきらかにときゝかせまゐらせけり。眞言の事は、ふみはなくてたゞとはせ給ひければ、ことの有さま、又申しのべなどしけり。そのゝち、俗の文のことを、おほせられければ、法文にあはせつゝ、それもあへしらひ申しけり。すゑつかたに、極楽と兜率と、いづれをかねがふと、の給はせければ、いづれをものぞみかけ侍らず。たゞ日ごとに法花經一部兩界などおこなひ侍るを、おこたらでみろくの世までし侍らばやと思ひ給へて、大鬼王の、いのちながきにて、おこなひこの定にしつゝ侍らんとぞねがひ侍るとぞ申しける。須弥山のほとりに、しかある鬼のおこなひなどするありとみゆる經の侍るとぞ、のちにたれとかや申され侍りける。鬼は化生のものなれば、むまれて程なくおこなひなどしつきて、おこたるまじき心に申しけるとぞ。さて又おほせられけるは、御いのりなど、とりたててせんこともかなひがたければ、さしたることもおほせられつけず。たゞ心にかけて、おこなひのついでにいのりて、おだやかにたもたん事を、心にかくべきなりとぞ、の給はせける。くらゐにつかせ給ひて、たづねさせ給ひければ、薬智は身まかりにけり。弟子なりける法師をぞ、僧綱になさせ給ひける。おほうへの法橋〈 顕耀 〉とかいひけるとなん。春宮におはしましける時、よのへだておほくおはしましければ、あやうくおぼしけるに、検非違使の別當にて、経成といひし人、なほしにかしわばさみにて、やなぐひおひて中門の廊にゐたりける日は、いかなることのいできぬるぞとて、宮のうちの女房よりはじめて、かくれさわぎけるとかや。おはしましける所は、二条東洞院なりければ、そのわたりを、いくさのうちめぐりて、つゝみたりければ、かゝる事こそ侍れなど申しあへりける程に、別當のまゐりたりければ、東宮も御なほしたてまつりなどして、御よういありけるに、別當検非違使めして、をかしの者はめしとりたりやと、とはれければ、すでにめして侍りと、いひければこそ、ともかくも申さで、まかりいでられけれ。おもくあやまちけるものおはしますちかきあたりにこもりゐたりければ、うちつゝみたりけるに、もし春宮ににげいる事もやあるとて、まゐりたりけり。かやうにのみあやぶまれ給ひて、東宮をもすてられやせさせ給はんずらんと おもほしけるに、殿上人にて衛門権佐ゆきちかときこえし人の相よくする、おぼえありて、いかにもあめのしたしろしめすべきよし申しけるかひありて、かくならびなくぞおはしましゝ。このみかどの御母陽明門院と申すは、三条院の御むすめなり。後朱雀院、東宮の御時より御息所におはしまして、このみかどをば、廿二にてうみたてまつらせ給へり。長元十年二月三日、皇后宮にたち給ふ。御とし廿五、其の時江侍従たゝせ給ふべきときゝて、

  むらさきの雲のよそなる身なれどもたつと聞くこそうれしかりけれ

となんよめりける。寛徳二年七月廿一日、御ぐしおろさせ給ふ。治暦二年二月、陽明門院ときこえさせ給ふ。御哥などこそ、いとやさしくみえ侍るめれ。後朱雀院にたてまつらせ給ふ、

  いまはたゞ雲井の月をながめつゝめぐり逢ふべき程も知れず

などよませ給へる。むかしにはぢぬ御歌にこそはべるめれ。この女院の御母、皇太后宮妍子と申すは、御堂の入道殿の第二の御むすめなり。


11 紅葉のみかり

白河院は後三条院の一の御子におはしましき。その御母贈皇后宮茂子と申す。権大納言能信の御むすめとて、後三条院の春宮におはしましゝ、御息所にまゐり給へりき。まことには閑院の左兵衛督公成の中納言のむすめ也。この中納言の御いもうとは、能信の大納言の北の方なり。このみかど天喜元年みづのとのみ六月廿日むまれさせ給ひ、延久元年四月廿八日に東宮にたゝせ給ふ。御とし十七、同四年十二月八日、位につかせ給ふ。御とし廿にやおはしましけん。くらゐゆづりたてまつらせ給ひて、つぎのとしの五月に後三条院かくれさせ給ひにしかば、國のまつりごと、廿一の御としより、みづからしらせ給ひて、位におはします事十四年なりしに、卅四にて位おりさせ給ひてのち、七十七までおはしまししかば、五十六年、くにのまつりごとをせさせ給へりき。延喜のみかどは卅三年たもたせたまへりしかども、位の御かぎり也。陽成院は八十一までおはしましゝかども、院ののちひさしくて、世をばしらせ給はざりき。この院はちゝの太上天皇世をしらせ給ひし事、いくばくもおはしまさず。さきの御なごりにて、一の人のわがまゝにおこなひ給ふもおはせねば、わかくよりよをしらせ給ひて、院のゝちは、堀河院、鳥羽院、さぬきの院、御こうまごひひご、うちつゞき三代の* みかどのみよ、みな法皇の御まつりごとのまゝ也。かくひさしく世をしらせ給ふ事は、むかしもたぐひなき御ありさま也。後二条のおとゞこそ、おりゐのみかどのかどに、車たつるやうやはあるなどのたまはせける。それかくれ給ひてのちは、すこしもいきおとたつる人やは侍りし。このみかど、かん日にむまれさせ給ひたるとぞきこえ侍りし。又まことにやありけん。御めのとの二位も、かん日にまゐりそめられたりけるとかや。されどもすゑのさかえ給ふこと、このころまでいやまさりにおはすめり。あしき日まゐれりともきこえざりし。今ひとりの御めのとの、ともつなのぬしのみはゝにていますがりしは、日野三位のむすめにて、世おぼえも事の外にきこえ給ひしかども、みかどの五におはしましゝとし、かのめのと、かくれられにしかば、二位のみならびなくおはすめり。すぐせかしこければ、あしき日もさはりなかるべし。しかあらざらん人は、いかゞそのまねもせん。従二位親子のざうしあはせとて、人々よき哥どもよみて侍るも、いとやさしくこそきこえ侍りしか。このみかどは、御心ばへたけくも、やさしくもおはしましけるさまは後三条院にぞにたてまつらせ給へりける。さればゆゝしく事<しきさまにぞ、このませ給ひける。白河の御てらも、すぐれておほきに、やおもてこゝのこしの塔などたてさせ給ひ、百躰の御仏などつねは供養せさせ給ふ。百たいの御あかしを、一どにほどなくそなふる、ふりうおぼしめしよりて、前栽のあなたにものゝぐかくしおきて、あづかり百人めして、一度にたてまつらせ給ひけるに、事おこなひける人、心もえで少々まつともしなどしたりけるをも、むづからせ給ひて、さらに一どにともされなどせられけり。鳥羽などをもひろくこめて、さま<”いけ山などこちたくせさせ給へり。後三条院は、五壇御修法せさせ給ひても、くにやそこなはれぬらんなどおほせられ、円宗寺をも、こちたくつくらせ給はず。漢の文帝の露臺つくらんとし給ひて、國たへじなどいひてとゞめ給ひ、女御愼夫人には、すそもひかせず。御帳のかたびらにもあやなぎをせられける御心なるべし。おの<時にしたがふべきにやあらん。白河院は御ゆみなども上手にておはしましけるにや。池の鳥をいたりしかば、故院のむづからせ給ひしなど、おほせられけるとかや。まだ東宮のわか宮と申しける時より、和哥をもおもくせさせ給ひて、位にても後拾遺あつめさせ給ふ。院のゝちも金葉集えらばせ給へり。いづれにも、御製どもおほく侍るめり。承保三年十月廿四日、大井川にみゆきせさせ給ひて、嵯峨野にあそばせ給ひ、みかりなどせさせ給ふ。 そのたびの御哥、

  大井川ふるきながれを尋きてあらしの山の紅葉をぞみる

などよませ給へる。むかしの心ちして、いとやさしくおはしましき。承暦二年四月廿八日、殿上の哥合せさせ給ふ。判者は六条右のおとゞ、皇后宮太夫と申しし時せさせ給ひき。哥人ども時にあひ、よき哥もおほく侍るなり。哥のよしあしはさる事にて、ことざまのぎしきなどえもいはぬ事にて、天徳哥合、承暦哥合をこそは、むねとある哥會には、よのすゑまで思ひて侍るなれ。又から國の哥をも、ゝてあそばせ給へり。朗詠集にいりたる詩のゝこりの句を、四韻ながらたづねぐせさせ給ふ事も、おぼしめしよりて、匡房中納言なん、あつめられ侍りける。その中にさ月のせみのこゑは、なにの秋をおくるとかやいふ詩の、ゝこりの句をえたづねいださゞりける程に、ある人これなんとて、たてまつりたりければ、江帥み給ひて、これこそこのゝこりとも、おぼえ侍らねとそうしけるのちに、仁和寺の宮なりける手本の中に、まことの詩、いできたりけるなどぞきこえ侍りし。又本朝秀句と申すなる文のゝちしつがせ給ふとては、法性寺入道おとゞにえらばせたてまつり給ふとぞうけ給はりし。さてそのふみの名は、續本朝秀句と申して、みまき、なさけおほくえらばせ給へるふみ也。五十の御賀こそめでたくは侍りけれ。康和四年三月十八日、堀川の御かど、鳥羽に行幸せさせ給ひて、ちゝの法皇の五十の御よはひを、よろこび給ふ也。舞人樂人などは、殿上人中少將さま<”左右のしらべし給ひき。童舞三人、胡飲酒、陵王、納蘇利なん侍りける。その中に胡飲酒は源氏のわかぎみなんまひ給ひし。袖ふり給ふさま、天童のくだりたるやうにて、このよの人のしわざともなく、めもあやになん侍りける。御ぞかつかり給へるをば、御おやの大納言とて、太政のおほい殿おはせしぞ、とりてはいし給ひける。そのわかぎみは、なかの院の大將と聞え給ひしなるべし。


12 釣りせぬうら<

この御時ぞ、むかしのあとをおこさせ給ふ事はおほく侍りし。人のつかさなどなさせ給ふ事も、よしありて、たはやすくもなさせたまはざりけり。六条の修理太夫顯季といひし人、よおぼえありておはせしに、敦光といひしはかせの、など殿は宰相にはならせ給はぬぞ。宰相になるみちはなゝつ侍るなり。中に三位におはするめり。又いつくに、をさめたる人も、なるとこそはみえ侍れといひければ、あきすゑも、さおもひて、御氣色 とりたりしかば、それも物かくうへの事也と、おほせられしかば、申すにもおよばでやみにきとぞいはれ侍りける。又顯隆の中納言といひし人、よにはよるの關白などきこえしも、弁になさんと思ふに、詩つくらではいかゞならん。四韻詩つくるものこそ弁にはなれと、おほせられければ、おどろきてこのみなどせられけり。ことにあきらかにおはしまして、はかなき事をも、はえ<”しくかんぜさせ給ひ、やすき事をも、きびしくなんおはしましける。いづれの山とか。御いのりのしやうおこなはんとおぼされけるに、たゞ御ふせばかり給はんは、ねんごろにおぼしめすほいなかるべし。あざりなどよせおかんこそかひあるべきに、さすがさせる事なくて、さる事もたはやすかるべしと、おぼしわづらはせ給へるを、あきたかの中納言しか侍らは、たゞこのたび阿闍梨の宣旨をくださせ給ひて、ながくよらせらるゝ事は、なくて候へかしと、申されければ、まことにしかこそあるべかりけれ。おのれなからましかば、我いかゞせましとぞ、かひ<”しくかんぜさせ給ひける。そのこのあきよりといひし中納言をも、夢に手をひかれてゆくとみたりし物をなどおほせられて、ことの外におもほしめせりける人にて、ふみのはこなどひきさげなどする事をも、下らうなどめして、もたせさせ給ふなど、おもくおもほしめせりけるに、五位藏人にて、ぢもくの目録とかそうせられけるに、御らんじて、あらゝかにさかせ給ひて、かへしたびければ、なに事にかと、おそれ思ひて、まかりいでゝ、そのゝち父の中納言まゐりたりけるにぞ、大外記もろとをは、津の國の公文も、まだかむがへぬものをば、いかで目録にいれて、たてまつりけるぞと、おほせられなどして、さやうの事と、かくなんおはしましける。法文などをもまことしくならはせ給ひけるにこそ。良眞座主に、六十巻といひて、法花経の心とける文うけさせ給へりけるに、西京にこもりゐ給ひて、ひえの山の大衆のゆるさゞりければ、さてゐ給へりける所、とぶらはせ給ひけり。西院のほとけ、をがませ給ふついでとてぞ、御幸ありける。みのりのためも、人のためも、面目ありけるとなんきゝ侍りし。金泥の一切経かゝせ給へるももろこしにも、たぐひすくなくやときこえし。そのゝちこそ、このくにゝも、あまたきこえ侍れ。この院のしはじめさせ給へるなり。又いきとしいけるものゝいのちをすくはせ給ひて、かくれさせ給ふまでおはしましき。さ月のさやまに、ともしするしづのをもなく、秋の夕ぐれうらにつりするあまもたえにき。おのづからあみなどもちたるあまのとまやもあれば、とりいだしてたぐなはのゝこるもなくけぶりとなりぬ。もたる ぬしはいひしらぬめどもみて、つみをかぶる事かずなし。神のみくりやばかりぞゆるされて、かたのやうにそなへて、そのほかは、殿上のだいばんなども六さいにかはる事なかりけり。位におはしましゝ時は、中宮の御事なげかせ給ひて、おほくのみだうどもつくらせ給ひき。院ののちは、その御むすめの郁芳門院かくれさせ給へりしこそ、かぎりなくなげかせ給ひて、御ぐしもおろさせ給ひしぞかし。四十五六の程にや、おはしましけん。御なげきのあまりに、世をばのがれさせ給へりしかども、御受戒などはきこえさせ給はで、仏道の御名などもおはしまさゞりけるにや。教王房ときこえし山の座主、御いのりのさいもんに、御名の事申されけるに、いまだつかぬとおほせられければ、その心をえはべりてこそ、申しあげ侍らめと申されけるとかや。そのゝちひさしくよををさめさせ給ひしほどに、七月七日にはかに御心ちそこなはせ給ひて、御霍乱などきこえしほどに、月日もへさせ給はで、やがてかくれさせ給ひにしかば、そらのけしきも、つねにはかはりて、雨風のおともおどろ<しく、日をかさねてよのなげきもうちそへたる心ちして侍りき。あさましき心のうちにも、すき<”しかりし人にて、平氏の刑部卿忠盛ときこえし、そのをりなにのかみとか申しけん。そのうたとてつたへ聞侍りし、

  又もこん秋をまつべき七夕のわかるゝだにもいかゞ恋しき。 とかや。鳥羽院、はなぞのゝおとゞ、攝政殿などの、わかき御すがたに御ぞどもそめさせ給ひて、御いみのほど、仏の道のこと、ゝぶらひ申させ給ふ。いづれの程に、たれかよませ給ひけるとかや。

  いかにしてきえにし秋のしら露をはちすの上の玉とみがゝん 。 といふ御哥侍りけるとなん。鳥羽殿は、この法皇のつくらせ給へれば、さやうにや申さんと、おもへりしかども、白河にもかた<”御所ども侍りしかは、白河院とぞさだめまゐらせ侍りける。 このみかどの御母は、春宮のみやすどころとて、うせさせ給へれば、延久三年五月十八日、従二位おくりたてまつらせ給ふ。位につかせ給ひて、同五年五月六日、皇后宮おくりたてまつらせ給ふ。國忌みさゝきなどおかれて、おなじき日、よしのぶの大納言殿、おほきおとゞ、おほきひとつのくらゐおくらせ給ふ。御息所の御母、藤原祕子と申ししにも、おおきひとつの位をおくり給ふ、これはきびなかのつかさ、知光のぬしのむすめなり。


13 たまづさ

堀川のみかどは、白河の法皇の第二の御子におはしましき。その御母、贈太皇太后宮賢子中宮なり。關白左大臣師實のおとゞの御むすめ、まことには、右大臣源顯房のおとゞの御むすめなり。このみかど、承暦三年つちのとのひつじ二月十日むまれさせ給へり。應徳三年十一月廿六日、位につかせ給ふ。御とし八、このみかど御心ばへあてにやさしくおはしましけり。そのなかに、ふえをすぐれてふかせ給ひて、あさゆふに御あそびあれば、たきぐちの、なだいめんなど申すも、てうしたかうとて、あかつきになるをりもありけり。その御時、笛ふき給ふ殿上人も、ふえのしなどみなかの御時給はりたるふみなりなどいひて、すゑの世までもちあはれ侍るなる。時元といふ笙のふえふき、御おぼえにて夏はみづし所にひめしてたまふ。おのづからなきをりありけるには、すずしき御あふぎなりとて、給はせなどせさせ給ひけり。宗輔のおほきおとゞ、このゑのすけにおはしけるほどなど、夜もすがら御ふえふかせ給ひてぞ、あかさせ給ひける。和哥をもたぐひなくよませ給ひて、さ月の頃、つれ<”におぼしめしけるにや。哥よむをとこ女、よみかはさせて御らんじける。大納言公實、中納言國信などよりはじめて、俊頼などいふ人々も、さま<”のうすやうに、かきてやり給ひけり。女は周防内侍、四条宮の筑前、高倉の一宮の紀伊、前齋宮のゆり花、皇后宮の肥後、つのきみなどいふ、ところ<”の女房、われも<とかへしあへり。又女のうらみたる哥よみて、男のがりやりなどしたる、堀川院の艶書合とて、すゑの世までとゞまりて、よき哥はおほく撰集などにいれるなるべし。ふたまにてぞ、かうじてきこしめしける。又時のうたよみ十四人に、百首哥おの<にたてまつらせ給ひけり。をとこ女僧など、哥人みな名あらはれたる人々なり。題は匡房の中納言ぞたてまつりける。このよの人、哥よむなかたてには、それなんせらるなる。尊勝寺つくられ侍りけるころ、殿上人に、花慢あてられ侍りけるに、俊頼哥人にておはしけるに、百首哥あんぜんとすれば、いつもじには花慢とのみおかるゝときかせ給ひて、ふびんの事かなとて、のぞかせ給ひけるとぞ、きこえ侍りし。いづれのころにかありけん。南殿か仁壽殿かにて、御らんじつかはしけるに、たれにか有りけん。殿上人のまゐりて、殿上にのぼりてゐたりければ、

  雲のうへに雲のうへ人のぼりゐぬ。 とおほせられけるに、俊頼のきみ、   しもさぶらひにさぶらひもせで 、 とつけられたりけるを、ことばとゞこほりたりときこゆれど、心ばせもあることゝきこゆめり。哥のふぜい、いたづらにうする事なりとて、連哥をば、おほかたせられざりけりときこえ侍りしに、金葉集にぞいとしもなき、おほくあつめられたる。いたづらにいできたるを、をしまれ侍るなるべし。基俊のきみが連哥は、つきくさのうつしのもとのくつわむし、などしたるをいふ也。又からかどやこのみかどともたゝくかな。ゝど侍りけり。木工頭俊頼も、高陽院の大殿のひめ君と聞え給ひし時、つくりたてまつり給へりとかきこゆるわかのよむべきやうなど侍るふみには、道信の中將の連哥、伊勢大輔が、こはえもいはぬ花の色かな。とつけたる事などいというなることにこそ侍なれば、連哥をもうけぬことに、ひとへにし給ふともきこえず。おほかたは、みる事、きくことにつけて、かねてぞよみまうけられける。當座によむことはすくなく、疑作とかきてぞ侍つる。さて侍りけるにや。家集に、きゝときゝ給へりけると、おぼゆることをよみあつめられ侍るめり。これは連哥のついでに、うけたまはりしことを申し侍るになむ。さてこの御時に、みやす所は、これかれさだめられ給へりけれども、御をばの前齋院ぞ女御にまゐり給ひて、中宮にたち給ひし。ことのほかの御よはひなれど、をさなくよりたぐひなくみとりたてまつらせ給ひて、たゞ四宮をとかや、おぼせりければにや侍りけん。まゐらせ給ひけるよも、いとあはぬ事にて、御車にもたてまつらざりければ、あか月ちかくなるまでぞ、心もとなく侍りける。とばの御かどの御母の女御どのもまゐり給ひて、院もてなしきこえさせ給へば、はなやかにおはしましゝかども、中宮はつきせぬ御心ざしになん、きこえさせ給ひし。女御うせさせ給ひてのころ、

  あづさ弓はるの山べのかすみこそ恋しき人のかたみ成りけれ 。 とよませ給へりけるこそ、あはれに御なさけおほくきこえ侍りしか。すゑのよのみかど、廿一年までたもたせ給ふ、いとありがたき事なり。時の人をえさせ給へる、まことにさかりなりけり。一のかみにて堀河の左のおとゞ、物かく宰相にて通俊、匡房、藏人頭にて季仲あり。むかしにはぢぬ世也。などぞおほせられける。みち<のはかせも、すぐれたる人、おほかる世になむ侍りし。このみかど、みそぢにだにみたせ給はぬ、よのをしみたてまつる事、かぎりなかるべし。その御ありさま、ないしのすけさぬきとかきこえ 給ひし、こまかにかゝれたるふみ侍りとかや。人のよまれしを、ひとかへりはきゝ侍りし、このなかにも御らんじてやおはしますらん。


14 ところ<”の御寺

このみかどの御母、権中納言たかとしの御むすめのはらに、六条の右のおとゞの御むすめにおはしましゝ、大殿の御こにしたてまつりて、延久三年三月九日、御とし十五にて、白河院東宮におはしましゝ、御息所にまゐらせ給へり。同五年七月廿三日、女御ときこえ給ひて、四位の位給はり給ふ。承保元年六月廿日、きさきにたち給ふ。御とし十八におはしましき。十二月廿六日前坊うみたてまつらせ給ふ。三年四月五日、郁芳門院むまれさせ給ひて、そのゝち、二条の大ぎさきの宮、うみたてまつらせ給へり。御年廿三にて、このみかどはうみたてまつらせ給へり。應徳元年九月廿三日、三条の内裏にて、かくれさせ給ひにき。御とし廿八とぞきこえ給ひし。村上の御母、なしつぼにてうせ給ひてのち、内にてきさきかくれ給ふ事、これぞおはしましける。廿四日に備後守經成のぬしの四条高倉の家に、わたしたてまつりて、神な月の一日ぞ、とりべのにおくりたてまつり、けぶりとのぼり給ひにし。かなしさたとふべきかたなし。まだ卅にだにたらせ給はぬに、おほくの宮たちうみおきたてまつり給ひて、上の御おぼえたぐひもおはしまさぬに、はかなくかくれさせ給ひぬれば、世の中かきくらしたるやうなり。白河のみかどは位の御ときなれば、廢朝とて、三日はひの御ざのみすもおろされ、よのまつりごともなく、なげかせ給ふ事、からくにの李夫人楊貴妃などのたぐひになんきこえ侍りし。御なげきのあまりに、おほくの御堂御仏をぞつくりてとぶらひたてまつらせ給ひし。ひえの山のふもとに、円徳院ときこゆる御堂の御願文に、匡房中納言の、七夕のふかきちぎりによりて、驪山の雲に眺望する事なかれ。とこそかきて侍るなれ。いひむろには勝楽院とて御堂つくりて、又のとしのきさらぎに、くやうをせさせ給ひき。八月には法勝寺の内に、常行堂つくらせ給ひて、仁和寺入道宮して供養せさせ給ふ。同日醍醐にも円光院とてくやうせさせ給へり。九月十五日、白川の御寺にて御仏事せさせ給ふ。廿二日御正日に、同J御寺にておこなはせ給ふ。事にふれてかなしきこと、みたてまつる人まで、むねあかぬ時になんあるべき。あさなゆふなの御心ち、みかきのやなぎもいけのはちすも、むかしをこふるつまとぞなり侍りける。寛治元年しはすのころ、皇太后宮をおくりたてまつらせ給ふ。いにしへもいまも、 かゝるたぐひなんおはしましける。


15 白河の花の宴

鳥羽院は堀川の先帝の第一の皇子、御母贈皇太后宮苡子と申しき。實季大納言の御むすめなり。このみかど康和五年みづのとのひつじ、正月十六日むまれさせ給へり。八月十七日春宮にたち給ひて、嘉承二年七月十九日位につかせ給ふ。天永四年正月一日御元服せさせ給ひき。十六年位におはしまして、一の御子にゆづり申させ給ひき。白河の法皇のおはしまししかぎりは、世の中の御まつり事なかりしに、かの院うけさせ給ひてのちは、ひとへに世をしらせ給ひて、廿八年ぞおはしましゝ。白河院おはしましゝ程は、本院新院とて、ひとつ院に御かた<”にて、三条室町殿にぞおはしましゝ。待賢門院又女院の御かたとて、三院の御かた、いとはなやかにて、わか宮姫宮たち、みなひとつにおはしましき。本院新院、つねにはひとつ御車にて、みゆきせさせ給へば、法皇の御車なれど、さきに御随身ぐせさせ給へりき。保安五年にや侍りけむ。きさらぎにうるう月侍りし年、白河の花御らんぜさせ給ふとて、みゆきせさせ給ひしこそ、世にたぐひなきことには侍りしか。法皇も院も、ひとつ御車にたてまつりて、御随身に、にしきぬひもの、色々にたちかさねたるに、かんだちめ、殿上人、かりさうぞくにて、さま<”にいろをつくして、われも<とことばもおよばず。こがの太政のおとゞも御むまにて、それはなほしにかうぶりにてつかうまつり給へり。院の御車のゝちに、待賢門院ひきつゞきておはします。女房のいだしぐるまのうちいで、しろがねこがねにしかへされたり。女院の御車のしりには、みなくれなゐの十ばかりなるいだされて、くれなゐのうちぎぬ、さくらもえぎのうはぎ、あか色のからぎぬに、しろがねこがねをのべて、くわんのもんおかれて、地ずりの裳にも、かねをのべて、すはまつるかめをしたるに、裳のこしにもしろがねをのべて、うはざしは、玉をつらぬきてかざられ侍りける。よしだの齋宮の御はゝや、のり給へりけんとぞきこえ侍りし。又いだし車十兩なれば、四十人の女房おもひ<によそひども心をつくして、けふばかりはせいもやぶれてぞ侍りける。あるはいつゝにほひて、むらさき、くれなゐ、もえぎ、やまぶき、すわう、廿五かさねたるに、うちぎぬ、うはぎもからぎぬ、みなかねをのべて、もんにおかれ侍りけり。あるはやなぎさくらをまぜかさねて、うへはおり物、うらはうち物にして、ものこしには、にしきに玉をつらぬきて、玉にもぬける春の柳か。といふうた、柳さくらをこきまぜて、といふうたの心也。もはえびぞめをちにて かいふをむすびて、月のやどりたるやうに、かゞみをしたにすかして、花のかゞみとなる水は、とせられたり。からぎぬには、日をいだして、たゞはるのひにまかせたらなん。といふうたの心也。あるはからぎぬににしきをして、桜の花をつけて、うすきわたを、あさきにそめてうへにひきて、野べのかすみはつつめども、といふ哥の心なり。はかまもうちばかまにて、はなをつけたりけり。このこぼれてにほふは、七の宮など申御母のよそひとぞきゝ侍りし。御車ぞひの、かりぎぬはかまなどいろ<のもんおしなどして、かゞやきあへるに、やりなはといふものも、あしつをなどにやよりあはせたる。色まじはれるみすのかけをなどのやうに、かな物ふさなどゆら<とかざりて、なに事もつねなくかゞやきあへり。攝政殿は御車にて、随身などきらめかし給へりしさま、申すもおろかなり。法勝寺にわたらせ給ひて、花御らんじめぐりて、白河殿にわたらせ給ひて、御あそびありて、かんだちめのざに、御かはらけたび<すゝめさせ給ひて、おの<哥たてまつられ侍りける。序は花ぞのゝおとゞぞかき給ひけるとなんうけ給はり侍りし。新院の御製など集にいりて侍るとかや。女房のうたなどさまざまに侍りけるとぞきゝ侍りし。

  よろづよのためしとみゆる花の色をうつしとゞめよ白河の水

などぞよまれ侍りけるときゝ侍りし。みてらの花、雪のあしたなどのやうに、さきつらなりたるうへに、わざとかねてほかのをもちらして、庭にしかれたりけるにや、うしのつめもかくれ車のあともいるほどに花つもりたるに、こずゑの花も、雪のさかりにふるやうにぞ侍りけるとぞ、つたへうけ給はりしだに、おもひやられ侍りき。まいてみ給へりけん人こそおもひやられ侍れ。そのゝちいづれのとしにか侍りけん。雪の御幸せさせ給ひしに、たび<はれつゝ、けふ<ときこえけるほど、にはかに侍りけるに、西山ふなをかのかた、御らんじめぐりて、法皇も院もみやこのうちには、ひとつ御車にたてまつりて、新院御なほしに、くれなゐのうち御ぞいださせ給ひて、御むまにたてまつりけるこそ、いとめづらしくゑにもかゝまほしく侍りけれ。二条の大宮の女房、いだし車に、菊もみぢの色々なるきぬどもいだしたるに、うへしたに、しろきゝぬをかさねて、ぬいあはせたれば、ほころびはおほく、ぬひめはすくなくて、あつきぬのわたなどのやうにて、ごほれいでたるが、きくもみぢのうへに、雪のふりおけるやうにて、いつくるまたてつゞけ侍りけるこそいとみ所おほく侍りけれ。このみかど御心はいといたく すかせ給ふ事はなくて、御心ばへうるはしく、御みめもきよらに、功徳の道たうしも御いのりをのみせさせ給ひき。御ふえをぞ、えならずふかせ給ひて、堀川院にも、おとらずやおはしましけん。樂などもつくしてしらせ給ふ。御ふえのねも、あいつかはしく、すずしきやうにぞおはしましける。きんのり、きんよしなど申しおほいどの、これざね、なりみちなど申す中納言などみな御弟子なりとぞきゝ侍りし。れいならぬ御心ち、ひさしくならせ給ひて、世など心ぼそくおぼしめしけるにや。徳大寺の左のおとゞにや。花をりて給はすとて、御哥侍りける、

  心あらばにほひをそへよ桜花のちのはるをばいつかみるべき

となんよませ給ひける。


16 鳥羽の御賀

この院世をしらせ給ひて、ひさしくおはしましゝに、よろづの御まつりごと、御心のまゝなるに、中院のおとゞの、大將になり給ひしたび、人々あらそひて、さぬきの院、位におはしましゝかば、しぶらせ給ひしにこそ。このゑのみかど、東宮にてまなめしける夜、にはかに内へ御幸とて、殿上人せう<かぶりして、よにいりて、きたの陣に御車たてさせ給ひて、権大納言大將にまかりならん事、わざと申しうけに、まゐりたると申しいれさせ給へりしかば、さてこそやがてその夜なり給ひけれ。さねよしの大將、下臈なれども、もとよりなりゐ給へれば、かみにはくはへじと、おさへ申し給ふ。実ゆきの大納言、われこそ上臈なれば、ならめといひて、下臈ふたりにこえられんことゝ、内をふたりして、かた<”申し給へば、御おぢの事、さりがたくておさへさせ給ふなり。院にはさきに下臈をこして、なさせ給ひしかども、なほいとほしみいできて、なさんとおぼしめしかためけるに、うちのおさへさせ給へば、としごろはかゝることもなきに、いと心よからずおぼしめして、みゆきあるなりけり。とかく申させ給ひ、めしておほせをくだされなどする程に、御車にて、春の夜あけなんとす。といふ朗詠、又十方仏土の中には、などいふ文を詠ぜさせ給ひて、佛のみなたび<となへさせ給ひける、きく人みな、なみだぐましくぞ思あへりけるとなむきこえ侍りし。かくてつぎのとし御ぐしおろさせ給ひき。御とし四十にだにみたせ給はねども、としごろの御ほいも、又つゝしみのとしにて、年比は御随身なども、とゞめさせ給ひて、ぐせさせ給はねども、白河のおほゐのみかどどのゝむかひに、御堂つくらせ給ひて、くやうせさせ給ふに、兵仗 かへし給はらせ給ひて、めづらしく太上天皇の御ふるまひなり。うちつゞきやはたかもなど御幸ありて、三月十日ぞ鳥羽殿にて御ぐしおろさせ給ふ。すこしも御なやみもなくて、かくおもほしたつ事を、よの人なみだぐましくぞ思ひあへる。御名は空覚とぞきこえさせ給ひし。五十日御仏事とてせさせ給ふほど、おほぢにありくいぬや、きつみてありく車うしなどまでやしなはせ給ひ、御堂の池どものいをにも、庭のすゞめからすなどかはせ給ふ。山々寺々の僧にゆあむし、御ふせなどはいひしらず、たゞのをりも、かやうの御くどくは、つねの御いとなみなり。人のたてまつるもの、おほくは僧のふせになんなりける。おはしますあたり、あまたの御所どもには、いひしらぬ、あやにしき、からあや、からぎぬ、さま<”のたから物、ところもなきまでぞ、おきめでられ侍りけるを、御ふせにせさせ給へば、こむよの御功徳いかばかりか侍らん。白河院はおはしますところ、きら<とはきのごひて、たゞうちの見參とて、かみやかみにかきたる文の、ひごとにまゐらするばかりを、みづしにとりおかせ給ひて、さらぬ物は御あたりにみゆるものなかりけり。ましてたちぬはぬ物などは、御前にとりいださるゝことなくて、かたしはぶきうちせさせ給ひて、たゞひとゝころおはしまして、近習の上臈下臈などを、とり<”めしつかひつゝおはしましける。おの<御ありさまかはらせ給ひてなんきこえ侍りし。仁平二年三月七日、このゑのみかど、鳥羽院にみゆきせさせ給ひて、法皇の五十の御賀せさせ給ひき。等身の御仏、壽命經もゝまき、たまのかたちをみがき、こがねのもじになむありける。僧はむそぢのかず、ひきつらなりて、仏をほめたてまつり、まひ人はちかきまぼりのつかさ、雲のうへ人あをいろのわきあけに、柳さくらのしたがさね、ひらやなぐひのすいしやうのはず、日のひかりにかゞやきあへり。つぎの日も、なほとゞまらせ給ひて、法皇をがみたてまつり給ふ。さま<”のそなへ共、庭もせにつらねて、たてまつらせたまふ。池のふね、はるのしらべとゝのへて、みぎはにこぎよせて、おの<おりて、左右のまひの袖ふりき。青海波、左のおとゞの御子、右大將のまごの中將の公達まひ給ふ。はてには、左大將の御子とて、胡飲酒、わらはまひし給ふ。ふるきあと、いへのことなれば、かづかり給ふ御ぞ、ちゝのおとゞとりて、袖ふり給ひて、庭におりて、よろこび申のやうに、さらにはいし給ふに。ゆふひのかげにくれなゐのいろかゞやきあへり。そのわかぎみは、まことには御わらは名、くま君とて、前中納言もろなかのこを大將殿の子にし給へるとぞ。このわかぎみのはゝは、鳥羽院の御子たち、うみたてまつられたる人とぞ、きゝたてまつりし。かやうにはなやかに侍りしほどに、 なかふたとせばかりやへだて侍りけん。近衛のみかど、かくれさせ給ひしかば、おぼしめしなげきて、鳥羽にこもりゐさせ給ひて、としのはじめにも、もんろうなどさして、人もまゐらざりき。御とし五十四までぞ、おはしましける。御母贈皇太后宮は、承徳二年十一月に内にまゐり給ひて、康和五年正月に、このみかどうみおきたてまつりて、かくれさせ給ひにしかば、きさきおくりたてまつりたまへり。


17 春のしらべ

仁和寺の女院の御はらの一の御子は、位おりさせ給ひて、新院ときこえさせ給ひし。のちにさぬきにおはしましゝかば、さぬきのみかどとこそ聞えさせ給ふらめな。御母女院は中宮璋子と申しき。公實大納言の第三の女なり。鳥羽院の位におはしましゝとき、法皇の御むすめとて、まゐり給へりき。此みかど元永二年己亥五月十八日に、むまれさせ給へり。保安四年正月廿八日に、位につかせ給ふ。大治四年御元服せさせ給へり。御とし十一、法性寺のおほきおとゞの御むすめ、女御にまゐり給ひて、中宮にたち給ひし、皇嘉門院と申御事也。時の攝政の御女、きさきの宮におはします。白河院、鳥羽院、おやおほぢとておはします。御母女院ならぶ人なくておはしましゝかば、御せうとの侍従中納言さねたか、左衛門督みちすゑ、右衛門督さねゆき、さ兵衛督さねよしなど申して、みかどの御をぢにて、なほしゆるされて、つねにまゐり給ふ。そのきんだち近衛のすけにて、あさゆふさぶらひ給ふ。みかどの御心ばへたえたる事をつぎ、ふるきあとをゝこさむとおもほしめせり。をさなくおはしましけるより哥をこのませ給ひて、あさゆふさぶらふ人々に、かくしだいよませ、しそくの哥、かなまりうちてひゞきのうちによめなどさへおほせられて、つねは和哥の會ぞせさせ給ひける。さのみうち<にはやとて、花の宴せさせ給ひけるに、松にはるかなるよはひをちぎる。といふ題にてかんだちめ束帯にて、殿よりはじめて、まゐり給ひけり。まづ御あそびありて、關白殿ことひき給ふ、はなぞのゝおとゞ、そのとき右大臣とてびはひき給ふ。中院の大納言さうのふえ、右衛門佐季兼にはかに殿上ゆるされて、ひちりきつかうまつりけり、拍子は中御門大納言宗忠、ふえは成通さねひらなどの程にやおはしけん。すゑなりの中將、わごんなどとぞきゝ侍りし。序は堀川の大納言師頼ぞかき給ひける。講師は左大弁さねみつ、御製のはたれにか侍りけん。つねの御哥どもは、あさゆふの事なりしに、つねの御製などきこえ侍りしに、めづらしくありがたき御哥ども、おほくきこえ侍りき。遠く山のはなをたづぬといふ事を、

  たづねつる花のあたりに成りにけり匂ふにしるし春の山かぜ

などよませ給へりしは、よの末にありがたくとぞ人は申し侍りける。まだをさなくおはしましゝとき、

  こゝをこそ雲のうへとは思ひつれ高くも月のすみのぼる哉 。 などよませ給へりしより、かやうの御哥のみぞおほく侍るなる。これらおのづからつたへきこえ侍るにこそあれ。天承二年三月にや侍りけむ。臨時客せさせ給ひき。りんじのまつりのしがくのさまになん侍りける。清凉殿のみすおろして、まごひさしに御倚子たてゝ、みかど御なほしにておはします。きたのらうのたてしとみどりのけて、みすかけて、きさいの宮の女房うちいでのきぬさま<”にいだされたり。ふたまには中宮おはします。左右のまひ人かさねのよそひして、月華門にあつまれり。がくの行事しげみち、すゑなりの中將ぞうけ給はりてせられける。はるのしらべ、まづはふきいだして、はるのにはといふがくをなんそうしてまゐりける。みかどいでさせ給ひて、關白殿右のおとゞよりはじめて、すのこにさぶらひ給ふ。宰相はれいの事なれば、なかはしにおはしけり。しかるべきまひども、ふえのしなど賞かぶりける中に、なりみちの宰相中將とておはしける、わざとはるかに北のかたにめぐりて、もとまさといふ笛の師かぶり給はれる、よろこびいひにおはしたりけるこそ、いとやさしく侍りけれ。百首哥など人々によませさせ給ひけり。又撰集などせさせ給ふときこえ侍りき。かばかりこのませ給ふに、哥合はべらざりけるこそ、くちをしく侍りしか。ふるき事どもおこさんの御心ざしはおはしましながら、よを心にもえまかせさせ給はで、院の御まゝなれば、やすき事もかなはせ給はずなんおはしましける。哥よませ給ふにつけて、あさゆふさぶらはれける修理権太夫ゆきむね、三位せさせんとて、徳大寺のおとゞにつけて院にみせまゐらせよとて、

  我宿に一本たてるおきな草哀といかゞ思はざるべき

とぞよませ給ひけるときこえ侍りし。


18 八重の潮路

もとの女院ふたところも、かた<”にかろからぬさまにおはしますに、いまの女院ときめかせ給ひて、このゑのみかどうみたてまつらせ給へる、東宮にたてまつりて、位ゆづりたてまつらせ給ふ。その日たつの時より、かんだちめ、さま<”のつかさ<まゐりあつまるに、内より院にたび<御つかひありて、蔵人の中務少輔とかいふ人、かはる<”まゐり、又 六位の蔵人、御書ささげつゝまゐる程に、日くれがたにぞ神璽寳剱など春宮の御所昭陽舎へ、かんだちめひきつゞきてわたり給ひける。みかどの御やしなひご、れいなきこととて、皇太弟とぞ宣命にはのせられ侍りける。その御さたに、けふのぶべしなど内より申させ給ひけれど、事はじまりて、いかでかとてなんその日侍りけるとぞきこえ侍りし。いまのうちには、職事殿上人などおほせくだされ、あるべきことゞもありて、新院は九日ぞ三条西洞門へわたらせ給ふ。太上天皇の御尊号たてまつらせ給ふ。かくてとしへさせ給ふほどに、このゑのみかどかくれさせ給ひぬれば、いまの一院の、いま宮とておはします、位につかせ給ひにき。さるほどに鳥羽院御心ちおもらせ給ひて、七月二日うせさせ給ひぬれば、みかどの御代にてさだまりぬるを、院のおはしましゝをりより、きこゆる事どもありて、みかきのうち、きびしくかためられけるに、さがのみかどの御とき、あにの院とあらそはせ給ひけるやうなる事いできて、新院御ぐしおろさせ給ひて、御おとゞの仁和寺の宮におはしましければ、しばしはさやうにきこえしほどに、やへのしほぢをわけて、とをくおはしまして、かんだちめ殿上人の、ひとりまゐるもなく、一宮の御はゝの兵衛佐ときこえ給ひし、さらぬ女房ひとりふたりばかりにて、男もなき御たびずみも、いかに心ぼそくあさゆふにおぼしめしけん。したしくめしつかひし人どもみなうら<にみやこをわかれて、おのづからとゞまれるも、世のおそろしさに、あからさまにも、まゐる事だにもなかるべし。皇嘉門院よりも、仁和寺の宮よりも、しのびたる御とぶらひなどばかりやありけん。たとふるかたなき御すまひなり。あさましきひなのあたりに、九年ばかりおはしまして、うき世のあまりにや、御やまひもとしにそへてをもらせ給ひければ宮こへかへらせ給ふこともなくて、秋八月廿六日に、〔かの國にてうせさせ給ひにけりとなむ。しろみねのひじりといひて、〕かの國にながされたるあざりとて、むかしありけるが、この院にむまれさせ給へるとぞ、人の夢にみえたりける。そのはかのかたはらに、よきかたにあたりたりければとてぞおはしますなる。やへのしほぢをかき分て、はる<”とおはしましけん。いとかなしく、心ちよきだに、あはれなるべきみちを人もなくて、いかばかりの御心ちせさせ給ひけん。 このみかどの御母ぎさき、十九と申しし御とし此の帝をうみたてまつらせ給ひて皇子位につかせ給ひてのち、后の位廿三の御とし后の位をさらせ給ひて、待賢門院と申す。おなじ國母と申せど、白河院の御むすめとてやしなひ申させ給ひければ、ならびなくさかえさせ給ひき。まして院号のはじめなどは、いかばかりか、もてなしきこえたまひし。 おほくの御子うみたてまつらせ給ひ、今の一院の御母におはしませば、いとやんごとなくおはします。仁和寺に御堂つくらせ給ひ、こがねの一切經などかゝせ給ひて、康治二年御ぐしおろさせ給ふ。御名は眞如法とつかせ給ふとぞ。久安元年八月廿二日かくれさせ給ひにき。又のとしの正月に、かの院の女房の中より、たかくらのうちおとゞのもとへ、

  みな人はけふのみゆきといそぎつゝ消にし跡はとふ人もなし

あきなかの伯のむすめ、ほりかはのきみの哥とぞきこえ侍りし。この女院の御母は、但馬守たかゝたの弁の女なり。従二位光子とて、ならびなく、よにあひたまへりし人におはすめり。


〔すべらぎの下〕第三

20 男山

とばのみかど位の御ときより、まゐりたまへりしきさきは、御子たちあまたうみたてまつりて、くらゐおりさせ給ひしかば、女院と申しておはしましき。法皇のやしなひたてまつりて、はたもてかしづき給ひしに、法皇おはしまさでのち、宇治のきさきまゐり給ひて、御かた<”いとましげなれども、院にはいづかたにも、うときやうにてのみ、おはしましゝに、しのびてまゐり給へる御かたおはしまして、やゝあさまつりごともおこたらせ給ふさまにて、夜がれさせ給ふ事なかるべし。いとやむ事なききはにはあらねど、中納言にて御おやはおはしけるに、母きたのかたは、源氏のほりかわのおとゞのむすめにおはしけるうへに、たぐひなくかしづきゝこえて、たゞ人にはえゆるさじと、もてあつかはれけるほどに、中納言かくれ侍りにけるのち、院にもとよりおぼしめしつゝやすぐし給ひけん。かのちゝの御いみなどすぎけるまゝに、しのびて御せうそこ有りて、かくれつゝまゐり給ひけるほどに、日にそへてたぐひなき御心ざしにて、ときめき給ふほどに、 たゞならぬ事さへおはしければ、御いのりおどろ<しきまでかた<”せさせ給ふほどに、女宮うみたてまつらせ給へれば、めづらしきをば、よろこびながら、男におはしまさぬをぞ、くちおしうおぼしめしたるに、又うみたてまつり給へるも、おなじさまなるは、まめやかにくちおしうおぼしめしたれど、さすがいかゞはせんにて、おはしますなるべし。あね宮をば、宇治のきさき、御子おはしまさぬにあはせて、おほきおとゞの御心とゞむとにや。このみやにむかへ申させたまひて、やしなひ申させ給ふ。のちにむまれさせ給へるをば、院にみづからやしなひたてまつり給ふ。御母ぎさき、しばしはあの御かたなど申して、おはしましし程に、三位のくらゐそへさせ給ひて、この御事をのみたぐひなき御もてなしなれば、よの人ならびなくみたてまつれるに、又たゞならぬ事おはしませば、このたびさへ、うちつゞかせ給はんも、くちをしきうへに、おぼしめしはからふ事やあらん。をとこ宮うみたてまつり給ふべき御いのり、いひしらずいとなませ給ふ。いはし水に般若會などいひて、山三井寺などの、やんごとなきちゑふかき僧どもまいりゐて、日ごろ法文のそこをきはめて、おこなはせ給ふ。帥中納言といふ人、御うしろみにて、みやこの事も大事なれど、かの宮に日ごろこもりて御かはりにや。日ごとに、そくたいにて御かうもよほし、おこなはれけるを、われも<とみのりときて、いのり申しけるなかに、忠春とかきこえしが、鼇海の西にはうみのみや、御産平安たのみあり。鳳城の南にはをとこ山、皇子誕生うたがひなし。と申したりけるとなんきゝ侍りし。ならの濟円といひし僧都、さきの日、この心をしたりけるに、めでたしなどきこえけるを、山に忠春巳講ときこえしが、のちの日、かやうにむすびなしていひける。とり<”にえもいはずなん、きこえ侍りける。はての日は、かんだちめひきつれまゐりて、御ふせとり、御かぐらなどせらる。かんだちめ歌もふえも、おの<心をつくして、清暑堂のやうなり。かやうにいひしらぬ御いのりども有りける程に、保延五年にや侍りけん。つちのとのひつじのとし五月十八日、よになくけうらなる玉のをのこ宮、うまれさせ給ひぬれば、院のうちさらなり。世の中もうごくまで、よろこびあへるさま、いはんかたなし。ひつじの時ばかりなれば、御いのりの僧、御前にまゐりゐたるに、おの<御むまひき、女房のよそひなどたまはす。仁和寺の法親王、山の座主など僧かう給はり、さま<”の賞ども有りて、まかで給ひぬ。御うぶやしなひ七夜など関白殿よりはじめてまゐり給ひて、御あそびどもあり。御ゆどのみなみおもてにしつらひて、つるうち五位六位しらがさねにたちならべる。 男宮におはしませば、文よみ式部大輔左中弁などいふはかせ、大外記とかいふもの、みやう經はかせとて、つるばみのころも、あけのころも、袖をつらねて、うちかはりつゝ、日ごとによむけしき、いはんかたなくめでたし。皇子の御いのりはじめてせさせ給ひ、なゝせの御はらへに、弁ゆげいのすけ、五位の蔵人など時にあへる七人、御ころもはことりてたつほど、おぼろげのかんだちめなども、あふべくもなかりけり。御めのとには、二条の関白の御子に、宰相中将といひし人のむすめ、くらのかみをとこにてあれば、えらばれてやしなひ奉るなるべし。日にそへて、めづらかなるちごの、御かたちなるにつけても、いかでかすがやかに、みこの宮にも、くらゐにもとおぼせども、きさきばらに、みこたちあまたおはしますを、さしこゆべきならねば、おもほしめしわづらふほどに、たうだいの御子になし奉り給ふ事いできて、みな月の廿六日、皇子内へいらせ給ふ。御ともにかんだちめ、殿上人えらびて、つねのみゆきにも心こと也。宮このうち、車もさりあへず、みるもの所もなき程になんはべりける。うちへいらせ給ふに、てぐるまの宣旨など、蔵人おほせつゝ、すでにまゐらせ給ひて、中宮を御母にて、まだ御子もうませ給はねば、めづらしくやしなひ申させたまふ。きさきのおやにては、関白殿おはしませば、皇子のおほぢにて、かた<”、みかどもきさきも、御子おはしまさぬに、院も御心ゆかせ給ひて、いと心よき事いできて、いつしか八月十七日、春宮にたゝせ給ふ。昭陽舎に御しつらひありて、わたらせ給ふ。大夫には堀川の大納言なり給ふ。御母のをぢにおはして、ことにえらばせ給へる也。御母女御のせんじかぶり給ふ。ねがひの御まゝなる。をのこ宮のうれしさも、いふばかりなきうへに、御みめも御心ばへも、いとうつくしう、この世のものにもあらず。さかしくおとなしくて、ひの御ざにことあるごとに、大夫のいだきまゐらせ給へるにも、なきなどし給はず。ゐさせ給ふほどには、御しとねのうへに、ひとりゐさせ給ひて、おとなのやうにおはしませば、かひ<”しくみたてまつる人も、よろこびの涙おさへがたかりけり。かくて同七年十二月七日、御とし三にて、位ゆづり申させ給ふ。ちかくは五などにてぞ、つかせ給へども、心もとなさにや。すがやかにゐさせ給ひぬ。御母女御殿、皇后宮にたゝせ給ふ。御とし廿五にや。御即位大嘗會など、心ことに世もなびきてなん。みえ侍りける。おとなにならせ給ふまゝに、御有さましかるべきさきのよの御ちぎりとみえ給へり。摂政殿の御おとゝの左のおとゞ、女御たてまつらせ給ひて、皇后宮にたち給ひぬ。なをたらずやおぼしめすらむ、院より 御さたせさせ給ひて、大宮の大納言のむすめ、関白殿の御子とて、きたの政所の、御せうとのむすめなれば、御子にし奉り給ふ。御かた<”はなはなと、いどみがほなるべし。とのゝあにおとうとの御なか、よくもおはしまさねば、宮もいとゞへだておほかるに、関白殿は、うちのひとつにて、ひとへに中宮のみのぼらせ給ひて、皇后宮の御かたをば、うとくおはしましける。かくてとしふるほどに御母ぎさき院号ありて、女院とておはしませば、院のきさきの女院、三人おはします。うちにはきさきふたりたち給ひて、いとかた<”、おほくおはすころなるべし。


21 虫の音

此みかど御みめも、御心ばへもいとなつかしくおはしましけるに、すゑになりて、御めを御らんぜざりければ、かた<”御いのりも御くすりもしかるべきにやかひなくて、すゑざまには、としのはじめの行幸なども、せさせ給はずなりにけり。摂政殿たぐひなくおもひたてまつらせ給ふ。みかどもおろかならず、思ひかはさせ給ひて、殿の御おとうとにこめられさせ給ひて、藤氏の長者なども、のかせ給ひたるを、をさなき御心になげかせ給ふ。とのもみかどのれいならぬ御事を、なげかせ給ふほどに、十七にやおはしましけん。はつ秋のすゑに、日ごろれいならぬ事おはしまして、かくれさせ給ひぬれば、世の中はやみにまどへる心ちしあへるなるべし。さりとてあるべきにあらねば、鳥羽院には、つぎのみかどさだめさせ給ふに、まことにや侍りけん。女院の御事のいたはしさにや。姫宮を女帝にやあるべきなどさへはからはせ給ふ。又仁和寺のわか宮をなどさだめさせ給ひけれど、ことわりなくて、ひとひは過て、世の中おぼしめしうらみたる御ありさまなるべし。たゞおはしまさんだにをしかるべきを、哥をもをさなくおはしますほどに、すぐれてよませ給ひ、法文のかたも、しかるべくてや、おはしましけむ。心にしめて、經などをもくんによませ給ひて、それにつけても、廿八品の御うたなどよませ給ふ。おなじ哥と申せども、このころのうちあからさまにもあらず、むかしの上手などのやうに、よませ給ひける、おほくよませ給ひけるなかに、よを心ぼそくや、おぼしめしけむ。

  むしのねのよわるのみかは過る秋ををしむ我身ぞまづきえぬべき

などよませ給へりける、いとあはれにかなしく、又からはぎなどいふことを、かくしだいにて、

  つらからばきしべの松のなみをいたみねにあらはれてなかんとぞおもふ

などおほくきゝ侍りしかども、おぼえ侍らず。位におはします事、十四年なりき。御わざの夜さねしげといひしが、むかし蔵人にて侍りける、おもひいでゝよめる。

  おもひきやむしのねしげきあさぢふに君をみすてゝ帰るべしとは

殿の御子の、大僧正ときこえ給ふ、みかどのうゑさせ給へりけるきくを見給ひて、

  よはひをば君にゆづらで白菊のひとりおくれてつゆけかるらん

とよまれ侍りけるこそ、あはれに聞え侍りしか。肥前のごとて侍りけるが、みかどおはしまさでのち、むかし思ひいでけるに、しのばしき事、おほくおぼえければほしあひのころ、ないし土佐が、かのみかどの御事のかなしみにたへで、かしらおろして、こもりゐ侍りけるもとに、いひつかはしける、

  天の川ほしあひの空はかはらねどなれし雲ゐの秋ぞ恋しき

とよめりけるこそ、いとなさけおほくきゝはべりしか。このみかどの御母は、贈左大臣長實中納言のむすめ也。得子皇后宮ときこえ給ふ。美福門院と申しき。この御ありさま、さきに申し侍りぬ。かつはちかき世の事なれば、たれもきかせ給ひけん。されどもことのつゞきに申し侍るになん。猶あさましくおはしましゝ、御すぐせぞかし。御おやもおはせずなりにしかば、いかゞなりたまはんずらむとみえたまひしに、しのびてまゐりはじめたまひて、御子たちうみたてまつり給ひ、女御きさき、みかどの御はゝにおはしますのみにあらず、ゆくすゑまでの御ありさま申すもおろかなり。はじめかやう院のやしなひ申させ給ひしは、叡子内親王ときこえ給ひしは、うせさせ給ひにき。そのつぎのひめ宮は暲子内親王八条院と申すなるべし。院にやがてやしなひ申させ給ひて、あさゆふの御なぐさめなるべし。をさなくて物などうつくしうおほせられて、わか宮は、春宮になりたり。われは春宮のあねに成りたりなど、おほせられければ、院はさるつかさやはあるべきなど、けうじ申させ給ひけるなどぞ、聞え侍りし。この宮、保延三年ひのとのみのとしにうまれさせ給ひて、保元二年六月御ぐしおろさせ給ふ。御とし廿一とぞきこえさせ給ひし。應保元年十二月に、院号きこえさせ給ふ。二条のみかどの御母とて、后にもたゝせ給はねども、女院と申すなるべし。小一条院の春宮より院と申ししやうなるべし。このゑのみかどうまれさせ給ひてのち、永治元年十一月にや侍りけん。かのとのとりのとし、又ひめ宮、六条殿にてうみたてまつり給へりし、二条のみかど、 春宮ときこえさせ給ひし時、保元々年のころ、みやす所ときこえさせ給ひて、みかど位につかせ給ひしかば、平治元年十二月廿六日、中宮ときこえさせ給ひしに、永暦元年八月十九日、御なやみとて、御ぐしおろさせ給ふ。御とし廿とぞきこえさせ給ひし。いとたぐひなく侍りき。應保二年二月十三日、院号ありて、たか松の院と申す。この宮々の御母、國母にておはしましゝ程に、このゑのみかど、崩れさせ給ひて、なげかせ給ひしに、つぎのとし鳥羽院うせさせ給ひし時は、きたおもてに候ふと候ふ、下臈どもかきたてゝ、院のおはしまさざらんには、たしかに女院に候へとて、わたされ侍りけり。女院は法皇の御やまひのむしろに、御ぐしおろさせ給へりき。みたきのひじりとかきこえしは御戒の師ときこえ侍りし、よろづおもほしすてたる御有さまにやあらん。鳥羽などをも、よろづ女院の御まゝとのみ、さたしおかせ給へれど、のちの世の事を、おもほしおきてさせ給ふうへに、心かしこく何事にものがれさせ給へりき。姫宮たち、御母おはしましゝをり、みな御ぐしおろさせ給ひてしこそ、いとあはれにきこえ給ひしか。むかしの仏のやたりの王子、十六の沙弥などの御有さまなるべし。なかにも、たうじのきさきの宮にて、仏のみちにいらせ給ふ、よにたぐひなし。このよをつよくおぼしめしとりて、わが御身もひめ宮たちをもすゝめなし奉りて、つとめさせ給ふほどに、わづらはせおはします御事ありて、應保元年十一月廿三日に、かくれさせおはしましにき。むらさきの雲たちてゐながら、うせさせおはしにけるとぞ、うけ給はりし。かねて高野の御山にしのびて、御だうたてさせ給ひて、それにぞ御しやりをば、おくりまゐらせ給ひけるとなむ。かの御ともには、さもあるべき人々、おの<御さはりありて、贈左大臣の末の子ときみちの備後守とかきこえし、のちには法師になられたりけるに、年ごろもちぎりおかせ給へりけるとて、その人ばかりぞ、くびにかけまゐらせて、たゞ一人まゐられければ、わかさのかみにて、たかのぶと申して、むげにとしわかき人、をさなくより、なれつかうまつりて、御なごりのしのびがたさに、ことにのぞみて、したひまゐりけるに、御山へいらせ給ふ日、雪いたくふりければよみ侍りける、

  たれか又けふのみゆきをおくりおかんわれさへかくて思ひきえなば


22 大内わたり

すぎたるかたの事はとをきもちかきも、みおよびきゝおよぶ程の事申しはべりぬるを、いまのよの事は、はゞかりおほかるうへに、たれかはおぼつかなくおぼされん。しかはあれども、 事のつゞきなれば、申し侍るになん。たうじの一院は、鳥羽院の第四のみこ、御はゝ待賢門院、大治二年ひのとのひつじの年、うみ奉り給へりしにや、おはしますらん。おほくの宮たちの御中に、あめのした、つたへたもたせ給ふ、いとやん事なき御さかえ也。保延三年十二月御ふみはじめに、式部大輔敦光といひしはかせ、御しとくにはまゐると、うけたまはりしに、かんだちめ殿上人まゐりて、詩などたてまつられける。ちかくはさる事もきこえ侍らぬに、この御文はじめにしも、しか侍りけん。よき例にこそ、せられ侍らんずらめ。同五年十二月廿日、御元服せさせ給ひしは、十三の御としにこそ、おはしましけめ。久寿二年七月廿五日、位につかせたまふ。御とし廿九におはしましき。院のおほせごとにて、内大臣とて、徳大寺のおとゞおはせし、ぐし奉りて、まづ高松殿にわたり給ふ。夜に入りて、かんだちめ引つれてまゐり給ひて、このゑのだいりへ、わたらせおはします。十月廿六日御即位ありて、春宮たゝせ給ふ。大嘗会など有りて、としもかはりぬれば、院の姫宮東宮の女御にまゐり給ふ。高松の院と申す御事也。前の斎院とていまの上西門院のおはしましゝを、御母にしたてまつらせ給ふと承し。はゝぎさき美福門院おはしませば、べちの御はゝなくても、おはしましぬべけれど、いますこし、ねんごろなる御心にや侍りけん。五月の末に故院の御なやみまさらせ給ひて、七月にうせさせ給ひしほとより、世の中にさま<”申す事どもいできて、物さはがしくきこえしほどに、まことに、いひしらぬいくさの事いできて、みかどの御かた、かたせ給ひしかば、賞どもおこなはせ給ひき。そのほどの事、申しつくすべくも侍らぬうへに、みな人しらせ給ひたらん。よををさめさせ給ふ事、むかしにはぢず、記録所とて後三条院の例にて、かみは左大将公教、弁三人、より人などいふもの、あまたおかれはべりて、世の中をしたゝめさせ給ふ。つぎのとしも、りやうあんにて、三月にぞつかさめしなどせさせ給ふ。十月におほうちつくり出だしてわたらせ給ふ。殿舎ども門々などのがくは、関白殿かゝせ給ふ。宮つくりたるくにのつかさなど七十二人とか、位給はりなどして、なかごろ、かばかりのまつりごとなきを、千世にひとたびすめる水なるべしとぞ、おもひあへる。うへは、清凉殿、ふぢつぼかけておはします。女房、弘徽殿、登華殿などにつぼねたび、皇后宮は、こうきでんにおはします。女房それも、とうくわてんのつゞきに、つぼねして候ふ。中宮は、承香殿におはします。その女房、麗景殿につぼねあり。うちのおとゞの奉り給へる女御は、むめつぼにおはす。その女房、襲芳舎につぼね給はりき。神なりのつぼ なるべし。春宮はきりつぼにおはします。女房はその北舎につぼねしつゝ候ふ。とうぐのみやす所は、なしつぼなれば女房そのきたにつぼね給はり。関白殿は宣耀殿を御とのゐどころとせさせ給へり。ちかき世には、さとだいりにてのみ有りしかば、かやうの御すまひもなきに、いとなまめかしう、めづらかなるべし。ゆみやなどいふ物、あらはにもちたるものやは有りし。ものにいれかくしてぞ、おほぢをもありきける。宮このおほぢをも、かゞみのごとくみがきたてゝ、つゆきたなげなる所もなかりけり。よのすゑともなく、かくをさまれるよの中、いとめでたかるべし。


23 内宴

かくてとしもかはりぬれば、てうきんの行幸、びふく門院にせさせ給ふ。まことの御子におはしまさねども、このゑのみかどおはしまさぬよにも、國母になぞらへられておはします。いとかしこき御さかえ也。又春宮ぎやうけいありて、姫宮の御母にて、はいし奉り給ふ。このひめ宮と申すは、八条院と申すなるべし。廿日ないえんおこなはせ給ふ。もゝとせあまりたえたる事を、おこなはせ給ふ。よにめでたし。題は春生聖化中とかやぞきゝ侍りし。関白殿など、かんだちめ七人、詩つくりてまゐり給へる。あをいろのころも、春の御あそびにあひて、めづらかなる色なるべし舞姫十人、れうき殿にて、袖ふるけしき、から女をみる心ちなり。ことしは、にはかにて、まことの女はかなはねば、わらはをぞ、仁和寺の法親王奉り給ひける。ふみをば仁寿殿にてぞかうぜられける。尺八といひて、吹たえたるふえ、このたびはじめてふきいだしたりと、うけ給はりしこそ、いとめづらしき事なれ。六月すまうのせちおこなはせ給ふ。これも久しくたえて、としごろおこなはれぬ事也。十七ばんなん有りける。ふるき事どもの、あらまほしきを、かくおこなはせ給ふ。ありがたき事也。かつはきみの御すぐせもかしこくおはしますうへに、少納言みちのりといひし人、のちは法師になりたりしが、鳥羽院にもあさゆふつかうまつり、この御時には、ひとへに世の中をとりおこなひて、ふるきあとをもおこし、あたらしきまつりごとをもすみやかにはからひおこなひけるとぞきゝ侍る。このみかど、御めのとはすりのかみもとたかのむすめ、大蔵卿もろたかのむすめなど、二三人とおはしけれど、あるはまかりいで、あるはかくれなどして、きのごとて、御ちの人ときこえしが、をとこにて、かの少納言みちのりのこあまたうみなどして、今は御めのとにて、やそしまのつかひなど、せられければ、ならぶ人もなきにこそ

  すべらぎのちよのみかげにかくれずばけふ住吉の松をみましや

などよまれはべりけるときこえ侍りし。まことにかひ<”しき人におはすべし。かの少納言、からの文をもひろくまなび、やまと心もかしこかりけるにや。天文などいふ事をさへならひて、ざえある人になん侍りける。よはひさまでふるき人にてもはべらざりしに、今のよにも、いかにめでたくはべらまし。御めのとは、代々もなきにはあらぬを、このゑのすけなど、かりそめにもあらで、四位の少将中将なるに、さま<”のくにのつかさなどかけて、あまりに侍りけるにや。はねあるものはまへのあしなく、つのあるものは、かみのはなき事にて侍るを、またみちの人ならぬ、天文などのおそれある事にや。よろづめでたく侍りしに、をしくも侍るかな。かくて保元三年八月十六日、くらゐ東宮にゆづり申させ給ふ。位におはします事三年なりき。おりゐのみかどにて、御心のまゝによをまつりごたんと、おもほしめすなるべし。さき<”の御門くらゐにつかせ給ひゐんなど申せども、わがまゝにせさせ給ふ事は、ありがたきに、ならぶ人もおはしまさず。八まきのみのりをうかべさせ給ひて、さま<”つとめおこなはせ給ふなれば、むかしのちぎりにおはしますなるべし。せんたいの千手観音のみだうたてさせ給ひて、天竜八部衆など、いきてはたらかすといふばかりこそは侍るなれ。鳥羽院の千たいの観音だにこそ、ありがたく聞え侍りしに、千手のみだうこそ、おぼろげの事ともきこえ侍らね。くまのをさへうつして宮こに作らせ給へらんこそ、とをくまゐらぬ人のためも、いかにめづらしく侍らん。ひえなどをも、いはひすゑたてまつらせ給へらん、神仏の御事、かた<”おこしたてまつらせ給へる、かしこき御心ざしなるべし。御くまのまうで、年ごとにせさせ給ひ、ひえの山、かうやなどきこえ侍り。しかるべき御ちぎり成るべし。いまは御ぐしおろして、ほふわうと申すなれば、いかばかりたふとくおはしますらん。御子たちも、おの<みちにとりて、ざえおはします事、きこえさせ給へるこそ、たれもしらせ給へる事なれば、なにとかは、さのみ申し侍べきな。されども事のつゞきを、申し侍りつるなり。


24 をとめの姿

二条のみかどと申すは、この院の一のみこにおはしましき。このをさなくおはします新院の御おやにおはします。その御はゝ左大臣有仁のおとゞの御むすめ、まことの御おやは、つねざねの大納言におはす。このみかど、東宮にたゝせ給ひて、保元三年八月十一日、位につかせ給ひき。御とし十六とぞ、うけ給はりし。十二月廿日御即位ありて、 としもかへりにしかば、正月三日、てうきんのみゆきとて、院へ行幸せさせたまふ。廿一日、ことしも内宴ありて、かんだちめ七人、四位五位十一人、ふみつくりてまゐるときこえ侍りき。序は永範の式部大輔ぞかゝると、うけたまはりし、題は花下哥舞をもよほすとかや。法性寺のおとゞ奉りたまへりとぞきこえ侍りし。舞姫ことしはうるはしき女まひにて、日ごろよりならはされけるとぞ、聞え侍りし。みちのりのだいとく、楽のみちをさへこのみしりて、さもありぬべき女どもならはしつゝ、かみのやしろなどにもまゐりてまひあへりときゝ侍りしに、ゆかしく見ばやと思ひはべりしかど、おいのくちをしき事は、心にもえまかせ侍らで、さるところどもにえまゐりあはで、みはべらざりき。この御なかには、さだめて御覧ぜさせ給ひけんかし。かの入道ことにあひ、よにあさましき事どもいでまうできてぞ内宴もたゞふたとせばかりにて、おこなはれぬ事になりて侍るにこそ。そのことのとがにやはべらん。猶もあらまほしき事なれどかつはしたつる人もかたく、久しくたえたる事をおこなはれて、世のさわぎもいできにしかば、時におはぬ事とてはべらぬにや。春のはじめに詩つくりて、かんだちめよりしもざま、たてまつる事、かしこき御時、もはらあるべき事也。さることもはべらば、なほいみじかるべし。二月廿四日、きさきたち給ひき。鳥羽院の姫宮にて、高松院、東宮の御時より女御におはしましゝ。中宮にたち給ひて、もとの中宮は院のきさき、公能右大臣の御むすめ、皇后宮にあがり給ふ。ことしぞ大嘗會ときこえ侍る。御かた<”さぶらひあはせ給へりしも、みなまかりいでさせ給ひにき。此の御時は、いまだ御かた<”も、おはしまさぬほどなれば、上は清凉殿ばかりに、つねのやうにおはしまして、藤つぼには、中宮ぞおはしましける。とのゝ御とのゐ所は、猶せんえうでんなり。いづくもひろらかにて、いとめでたくきこえ侍りしに、そのとしのしはすに、あさましきみだれ、宮このうちにいできにしかば、世もかはりたるやうにて、少納言の大とくもはかなくなり、めでたくきこえしかんだちめ、近衛のすけなどきこえし子ども、あるはながされ、あるは法しになりなどして、いとあさましきころ也。のぶよりのゑものかみと申ししは、かの大徳がなかあしくて、かゝるあさましきを、しいだせるなりけり。御おぼえの人にて、いかなるつかさもならんと思ふに、入道いさむるをいぶせく思て、いくさをおこしたりけるを、大とこさとりて、ゆくかたしらずなりにけるに、かのみかきもりも、そのむくひに、おもはぬかばねになむなりにける。いとあさましとも、ことばもおよばぬ事なるべし。


25 ひなの別れ

かのみちのりの大とこのゆかり、うら<にながされたる、みなめしかへして、世みなしづまりて、うちの御まつりごとのまゝなりしに、みかどの御はゝかた、又御めのとなどいひて、大納言經宗、別當惟方などいふ人ふたり、世をなびかせりし程に、院の御ため、御心にたがひて、あまりの事どもやありけん。ふたりながらうちに候ひける夜、あさましき事どもありて、おもひたゞしきさまにきこえけるを、法性寺のおほきおとゞの、せちに申やはらげ給ひて、おの<ながされにき。このころはめしかへされて、大臣の大将までなり給へるとこそ、うけたまはれ。さまであやまたずおはしけるにや。宰相はうきめみたりとて、かしらおろされにけり。それもかへりのぼりて、おはするとかや。鳥羽院うせさせ給ひしほどに、世のみだれいできてより、かた<”ながされ給ひし人、たび<にそのかずおはしき。はじめのたび、さぬきの院の御ゆかり、おほいどのがたなど、廿四五人ばかりやおはしけん。よとせばかりありて、かの衛門督とかやきこえし人のみだれに、少納言の大とこの子ども八九人ばかりうら<へときこえ侍りき。事なほりしかば、その人々はめしかへして、又のとしの春、もろなかの源中納言とかや、衛門督におなじ心なるとて、あづまのかたへおはすときゝ侍りき。しか有りし程に、そのころかの大納言宰相とふたり、阿波國ながとのかたなどにおはしき。そのとしの六月にやありけん。いづものかみ光保、その子光宗などいひし源氏のむさなりし人、つくしへつかはして、はてはいかになりにけるとかや。その人のむすめとかや、いもうとゝかやなる人の、鳥羽院にときめく人にて、いとほしみのあまりにや。二条院、東宮とておはしましゝ御めのとにて、くらゐにつかせ給ひにしかば、内侍のすけなどきこえき。そのゆかりにて、ときにあへりしに、内の御かた人どもの、かく事にあへりしかばにや、又源氏どもの、しかるべくうせんとてにやありけん。又さばかりの少納言うづまれたるもとめいでたるにやよりけん。かくぞなりにし。かやうにて、いまはなに事かはとおぼえしに、かくおはしますべかりけるを、そのをりも又いかゞうたがはせ給ひけん。皇子の御かた人とおぼしき人、つかさのきなどして、又ながさせ給へりき。おほかた六七年のほどに、三十余人ちり<”におはせし、あさましく侍りき。かろきにしたがひて、やう<めしかへされしに、惟方いつとなくおはせしかば、かしこより宮こへ、女房につけてときこえし、

  このせにもしづむときけば涙川ながれしよりもぬるゝ袖哉

とぞよまれ侍りける。このあにゝ、大納言光頼ときこえ給ひし、四十余にてかしらおろして、かつらのさとにこそこもりゐ給ふなれ。それはかやうの事に、かゝり給ふ事なく、何事もよき人ときゝたてまつりし、いとあはれにありがたき御心なるべし。又左兵衛督しげのりときこえし、きの二位のはらにて、そのをりは、はりまの中将、おとうとのみのゝ少将などきこえし、衛門督のみだれに、ちり<”におはせし時、中将しもつけへおはして、かしこにてよみ給ひける、

  わがためにありける物を下つけやむろの八嶋にたえぬ思ひは

とかや。ひが事どもや侍らん。


26 花園の匂ひ

このみかどの御はゝ、うみおきたてまつり給ひて、うせ給ひにしより、鳥羽の女院やしなひたてまつり給ひて、をさなくおはしましゝほどに、仁和寺におはしまして、五の宮の御弟子にて、倶舎頌など、さとくよませ給ひて、ぢく<”よみつくさせ給ひて、その心ときあらはせるふみどもをさへ、つたへうけさせ給ひて、ちゑふかくおはしましけり。院位につかせ給ひしかば、當今の一の宮にておはしますうへに、びふく門院の御やしなひごにて、このゑのみかどの御かはりともおぼしめして、この宮に位をもゆづらせ給ひつらんと、はからはせ給ひければ、宮こへかへり出させ給ひて、みこの宮、たからのくらゐなど、つたへさせ給へりき。すゑの世の賢王におはしますとこそ、うけ給はりしか。御心ばへもふかくおはしまし、うごかしがたくなんおはしましける。廿三におはしましゝ御とし、御やまひおもくて、わか宮にゆづり申させ給ひて、いくばくもおはしまさゞりき。よき人は、ときよにもおはせ給はで、久しくもおはしまさゞりけるにや。末の世、いとくちをしく、みかどの御くらゐは、かぎりある事なれど、あまりよをとくうけとりておはしましけるにや。又太上天皇てうにのぞませ給ふつねの事なるに、御心にもかなはせ給はず、よのみだれなほさせ給ふほどゝいひながら、あまりにはべりけるにや。よくおはしましゝみかどとて、よもをしみたてまつるときこえ侍り。二条院とぞ申すなる。ふるき后の御名なれど、をとこ女かはらせ給へれば、まがはせ給ふまじきなるべし。されどおなじ御名はふるくも侍らぬにや。このみかどの御母は大納言經實の御むすめ、その御はゝ、春宮大夫公実の御むすめなり。その大納言の中の君は、花ぞのゝ左のおとゞの 北のかたなれば、あねの姫君を子にして、院のいま宮とておはしましゝに、たてまつられたりし也。このみかど、うみおきたてまつりてうせ給ひにき。后の位おくられ給ひて、贈皇大后宮懿子と申すなるべし。御おやの按察大納言も、おほきおとゞ、おほきひとつのくらゐおくられ給へるとなむうけ給はる。さる事やあらんともしらで、うせ給ひにしかども、やんごとなき位そへられ給へり。御すゑのかざりなるべし。はかなくて、きえさせ給ひにし露の御いのちも、后おくられ給へば、いきてなり給へるもむかしがたりになりぬれば、のこり給ふ御名は、おなじ事なるべし。かのゆづられておはしましゝみかどは、新院と申して、まだをさなくて、太上天皇とておはします也。二条院の御子、ふたりおはしますなる御中に、第二のみこにおはしますなるべし。御母こと<”にきこえさせ給ひき。このみかどの御はゝ、徳大寺の左大臣の御むすめと申すめりしも、うるはしき女御などに、まゐり給へるにはあらで、忍びてはつかにまゐり給へるなるべし。さればたしかにもえうけ給はり侍らず。みかどたづねいで奉りてのち、中宮やしなひ奉り給ひて、母后におはしますなる。永万元年六月廿五日、位につかせ給ふ。御とし二、よをたもたせ給ふ事三年にやおはしますらむ。一院おぼしめしおきつる事にて、東宮に位をゆづり奉り給ひて、をさなくおはしますに、太上天皇と申すも、いとやんごとなし。御年二にて、位につかせ給ふ事、これやはじめておはしますらん。このゑのみかどは、三にてはじめてつかせ給ふと申ししも、はじめたる事とこそうけたまはりしか。おほくはいつゝなどにてぞつかせ給ふ。からくにゝは、一なる例もおはしましけりとかきこえき。このみかどの御母、いまの中宮育子と申して、法性寺の入道、前のおほきおとゞの御むすめにおはします。さきのかうづけのかみ源のあきとしのむすめの御はらとなん。みかどのまことの御母の事は、さきに申し侍りぬ。この中宮、二条のみかどおはしまさねども、いまのこくもとて、なほうちにおはしませば、むかしにかはれる事なくなむ、おはしましけん。りんじのまつりの四位の陪従に、きよすけときこゆる人、もよほしいだされて、まゐられたりけるに、せんだいの御ときはくものうへ人なりけれど、このよには、まだ殿上もせねば、たちやすらひて、北のぢんのかたにめぐりて、きさきのみやのおはします、ごたちのつぼねまちなどみるに、又殿上のかたざまへまゐりて、はるかに見わたしなどしけるにも、むかしにかはりたる事もなく、なれならひたりし人どものみえければ、きさきの御かたの人に、物など申しけるついでに、ひあふぎの、かたつまををりてかきつけて、ごたちの中に申しいれさせける、

  むかしみし雲のかけはしかはらねど我身一のとだえ也けり

いとやさしく侍る事ときこえ侍りき。


27 二葉の松

さて後一条院の御ときよりちかきやうに侍れど、十代にみよあまらせ給ひにけり。今は當今の御事、申すもはゞかりおほく侍れど、つゞきにおはしませば、事あたらしくはべれど、申すになむ。當代は一院の御子、御母は皇后宮滋子ときこえさせ給ふ。贈左大臣平時信のおとゞの御むすめ也。みかど應保元年かのとのみのとしむまれさせ給ひて、仁安元年十月十日春宮にたゝせ給ふ。御とし五、みかどよりも、二年あにゝておはします。あに春宮は三条院のれいなるべし。同三年二月十九日、位につかせ給ふ。御としやつにおはします。おなじみかど申せども、よの中へだてある事もなく、一院あめのしたしろしめし、御母ぎさき、さかりにおはしませば、いとめでたき御さかえなるべし。しかあれば、ふたばの松のちよのはじめ、いとめでたくつたへうけたまはり侍りき。御母ぎさきこのみかどうみ奉り給ひて、五六年ばかりにや。女御ときこえさせ給ひて、仁安三年と申ししやよひのころ、皇大后宮にたゝせ給へり。いまは女院と申すとぞ。いとめでたき御さかえにおはします。おほくの、女御きさきおはしますに、みかどうみ奉り給ふべかりける御すぐせ、申すもおろかなり。さきのみかどの御時も、この御世にも、御さんの御いのりとのみきこえて、まことにはあらぬ事のみきこえ給ひしに、いとありがたくきこえさせ給ふ。代々のみかどの御母、ふぢなみの御ながれにおはしますに、ほりかはの御門の御はゝぎさきも、関白の御むすめになりて、女御にまゐり給へれども、まことには源氏におはしませば、ひきかへたるやうにきこえさせ給ひしに、いま又たひらのうぢの國母、かくさかえさせ給ふうへに、おなじうぢの、かんだちめ、殿上人、このゑづかさなど、おほくきこえ給ふ。このうぢの、しかるべくさかえ給ふときのいたれるなるべし。たひらのうぢのはじめは、ひとつにおはしましけれど、にきの家と、よのかためにおはするすぢとは、久しくかはりて、かた<”きこえ給ふを、いづかたもおなじ御よに、みかどきさきおなじ氏にさかえさせ給ふめる。平野は、あまたのいへのうぢ神にておはすなれど、御名もとりわきて、この神かきのさかえ給ふときなるべし。このきさきの御はゝ、あきよりの民部卿の御むすめにおはしますなるべし。だいごのみかどの御はゝかたのいへにておはしますのみにあらず。きみにつかへ奉り給ふいへ、かた<”しかるべく、かさなり給へるなるべし。いまのよの事はゆかしくはべるを、 えうけたまはらで、おぼつかなき事おほくはべり。


〔ふぢなみの上〕第四

28 藤波

よつぎは、入道おほきおとゞの御さかえ申さんとて、その御事こまかに申したれば、そのゝちより申すべけれど、みなかみあらはれぬはながれのおぼつかなければ、まづ入道おとゞの御ありさま、おろ<申し侍べき也。入道前太政大臣みちながのおとゞは、大入道殿の五郎、九条の右のおとゞの御まご也。一条院、三條院、後一條院、三代の關白におはします。五十四の御とし御ぐしおろさせ給ひて、万寿四年十二月四日、六十二にてかくれさせ給ふ。をのこ君、をんなぎみ、あまたおはしましき。をんなぎみ第一のは、上東門院と申して、後一条院、後朱雀院、二代のみかどの御はゝなり。つぎに第二の御むすめは、三条院の中宮妍子と申しき。陽明門院の御母也。第四は後一条院の中宮威子 と申す。二条院と、後三条院の皇后宮との御母なり。第六のきみは、後冷泉院の御母、内侍のかみ嬉子と申しき。これみなたかつかさどのゝ御はらからなり。をとこ君だち、太郎は宇治のおほきおとゞ、つぎは二条殿、またおなじ御はらからなり。堀川の右のおとゞ、閑院の東宮太夫、無動寺のむまのかみ、三條の民部卿、このよところは、たかまつの御はらの君だちなり。この御はらに、女君ふたところおはしき。ひとりは小一条院とて、東宮より院にならせ給へりし、女御にまゐり給へりき。いまひとりは、土御門の右のおとゞのきたのかた也。むかしもいまも、かゝる御さかえはありがたきなるべし。 上東門院は、一条院のきさき、二代のみかどの御母なり。御ありさまさきにこまかに申し侍りぬ。つぎに妍子と申すは、女院とおなじ御はらからにおはします。寛弘元年十一月、内侍のかみになり給ひて、やがて正四位下せさせ給ふ。十二月に三位にあがらせ給ふ。七年正月に二位にのぼり給ひて、同年二月に、三条院東宮と申しし女御にまゐり給ふ、くらゐにつかせ給ひて、寛弘八年八月に、女御の宣旨かうぶり給ふ。長和元年二月十四日、中宮にたち給ふ。みかどくらゐさらせ給ひて、寛仁二年十月十六日、皇后宮にあがり給ふ。万寿四年九月十四日、卅四にて御ぐしおろして、やがてその日かくれさせ給ひにき。枇杷殿の皇太后宮と申す。隆家の帥くだり給ひけるに、このみやより、あふぎたまはすとて、

  すずしさはいきの松ばらまさるともそふるあふぎの風な忘そ

この宮の御はらに、三条院のひめみやおはします。そのみや禎子の内親王と申して、治安三年一品の宮と申す。万寿四年三月廿三日、後朱雀院の東宮と申ししとき、まゐらせ給ひき。御とし十五にぞおはしましゝ。みかどくらゐにつかせ給ひて、皇后宮にたゝせ給ふ。のちにあらためて中宮と申しき。みかどの御ついでにかつは申し侍りぬ。後三条院の御母、陽明門院と申、この御事也。この女院の御はらに女宮たちおはしましき。良子内親王とて、長元九年十一月廿八日、伊勢のいつきときこえさせ給へりし、一品にのぼらせ給へりき。つぎのひめ宮は、娟子の親王と申しき。長元九年しも月のころ、かものいつきときこえしほどに、まかりいで給ひけるのち、天喜五年などにやありけむ。なが月のころ、いづこともなくうせ給ひにければ、宮のうちの人、いかにすべしともなくて、あかしくらしける程に、三条わたりなるところにすみ給ふなりけり。はじめは人のあふぎに、ひともじををとこのかきたまへりけるを、女のかきそへさせ給へりければ、 をとこ又みて、ひとつそへ給ふに、たがひにそへたまひけるほどに、うたひとつに、かきはてたまひけるより心かよひて、ゆめかうつゝかなることもいできて、心やあはせ給へりけん。おひいだしたてまつりて、やがてさてすみ給ひけり。をとことがあるべしなんどきこえけれど、人からのしなも、身のざえなどもおはして、世もゆるしきこゆるばかりなりけるにや。もろともに心をあはせ給へればにやありけん。さてこそすみたまひけれ。をとこそのほどは、宰相中將など申しけるとかや。のちには左のおとゞまでなり給へりき。入道おとゞの第四の御むすめ、後一条院の中宮威子と申しき。これもおなじ御はら、たかつかさ殿の御むすめなり。寛弘九年に、内侍のかみになりたまひて、後一条院くらゐの御時、女御にまゐり給ふ。寛仁二年十月に、きさきにたち給ふ。長元九年に、御ぐしおろさせ給ふ。同九月にかくれさせたまひにき。みかどは四月にうせさせ給ひ、きさきは九月にかくれさせ給ひし、いとかなしかりし御ことぞかし。その御はてに、さはる事有りて、江侍従まゐらざりけるを、人のなどまゐらざりしぞと申したりければ、

  わが身にはかなしきことのつきせねば昨日をはてと思はざりけり

とぞきこえける。このきさきのうみたてまつりたまへるひめみや、章子内親王と申し、二条院と申す。この御事也。後冷泉院東宮におはしましゝ時まゐらせ給ひて、永承元年七月に、中宮にたゝせ給ふ。治暦四年四月に皇后宮にあがらせ給ひき。うちにまゐらせ給ひて、ふぢつぼにおはしましけるに、故中宮の、これにおはしましゝ事など、おもひいだして、出羽弁がなみだつゝみあへざりければ、大貮の三位、

  しのびねのなみだなかけそかくばかりせばしと思ふころの袂に

とよまれ侍りければ、出羽弁、

  春の日にかへらざりせばいにしへの袂ながらや朽はてなまし

とぞかへし侍りける。馨子の内親王と申すも、又おなじ御はらにおはします。長元四年に、かものいつきにて同九年にいでさせたまひて、永承六年十一月、後三条院東宮におはしましゝ女御にまゐらせたまひき。御とし廿三、承保元年六月廿二日、皇后宮にたち給ふ。延久五年四月廿一日、御ぐしおろさせ給ひき。院御ぐしおろさせ給ひしおなじ日、やがておなじやうにならせ給ひし、いとあはれに、ちぎり申させ給ひける御すぐせなり。きさきの くらゐはもとにかはらせ給はず。入道殿の第六の君は、後冷泉院の御母におはします。みかどの御ついでに申し侍りぬ。


29 梅の匂ひ

関白前太政大臣よりみちのおとゞは、法成寺入道おほきおとゞの太郎におはします。御母みやたちにおなじ。従一位源倫子と申す。一條の左大臣まさのぶのおとゞの御むすめ也。たかつかさどのと申す。この宇治のおほきおとゞ、大臣の位にて五十一年までおはしましき。後一条院の御をぢにて、御とし廿六にて、寛仁元年三月十六日、攝政にならせ給ふ。その十九日牛車の宣旨かうぶらせ給ひて、やがてその廿二日、大臣三人のかみにつかせ給ふ、宣旨かうぶり給。みかどおとなにならせ給ひぬれば、関白と申しき。後朱雀院くらゐにつかせ給ふにも、猶御をぢにて長元九年四月廿九日さらに関白せさせ給ふ。そのゝち太政大臣にならせ給ふ。御とし七十一とぞきこえ給ひし。治暦三年七月七日、宇治の平等院に行幸有りて、准三后の宣旨かぶり給ふ。むかしの白河のおとゞのごとくに、うとねりなども御随身をたまはらせ給ひき。関白はゆづり給ひて、のかせ給へれど、内覧の職事まゐり、物申すことおなじことなりき。後三条院くらゐにつかせ給ひてぞ、としごろの御心よからぬことゞもにて、宇治にこもりゐさせ給ひて、延久四年正月廿九日御ぐしおろさせ給ひて、同六年二月二日八十三にてうせ給ひにき。このおとゞうたなどもよくよませ給ひしにこそ侍るめれ。そのなかに堀川の右のおとゞに、梅の花をりてたてまつり給ふとて、

  をられけりくれなゐ匂ふ梅の花けさ白妙に雪はふれゝど

とよませたまひたる、いとやさしくすゑの世まで、とゞまり侍るめり。このおとゞの御子、太郎にて右大将みちふさと申しし、十八にてうせ給ひにき、御母右兵衛督憲定のむすめなり。まうけの関白、一の人の太郎君にて、あへなくなり給ひにしかば、世もくれふたがりたるけしきなりしぞかし。としもまた廿にだにならせ給はぬに、和哥などをかしくよませ給ひけるさへ、いとあはれに思いでられさせ給ふ。ひとよばかりを七夕のなどよませ給ひたる、後拾遺にいりて侍るめり。


30 伏見の雪の朝

大將殿のほかの君だちは、おほとのゝひとつ御はらにおはしましき。おほ殿の御すゑこそは、一の人つがせ給ふめれ。その御ほうにおされて大將殿もとくかくれ給ひにける にこそ。女君は後朱雀院の中宮に、たてまつり給へりしは、まことの御こにはおはしまさで、式部卿の宮の御こなりしに、まことの御むすめは、四条の宮と申しき。大将のひとつ御はらなり。ふしみのすりのかみ、としつなときこえし人も、ひとつ御はらにおはしき。その御母は贈二位讃岐守としとをと、あひぐし給へりければ、としつなのきみ、御こにておはしけれど、けざやかならぬほどなりければにや。なをとしとをのぬしのこの定にて、たちばなのとしつなとてぞおはせしのちになほ殿の御ことて、藤原になり給ひき。なほしなどきられけるをも、たちばなゝをしとぞ人は申しける。まめやかになりてのち、大殿、宇治大僧正、四条宮などは、おなじ御はらなれど、すりのかみは、げらうにてやみ給ひにしぞかし。かんだちめにだにえなられざりける、猶よのあがりたるにや。からくやおぼしけんとぞ、おぼえはべりし。されどもあふみのかみ有佐といひし人は、後三条院のまことには御こときこえしかど、さぬきのかみ顯綱のこにてこそ、やまれにしか。有佐といふ名も、みかどの御てにて、あふぎにかゝせ給ひて、母の侍従内侍にたまへりける。ほりかはの左のおとゞは、なかつかさのせふありすけがみちにあひて、おりてゐたりつるこそ、いとほしくおぼえつれ。院にたがはずにたてまつりたるさまなどありけるときこえしかば、それはさてこそやまれにしか。このすりのかみは、たちばなをかへられしかば、猶関白の御こなるべし。このすりのかみの、むかしおはりのくにゝ俊綱といひけるひじりにておはしけるを、あつたのやしろのつかさの、ないがしろなることの有りければ、むまれかはりて、そのくにのかみになりて、かの国にくだるまゝに、あつたにまうでゝ、その大宮司とかをかなしくせためられなどしければ、あやまちなきものを、かくつかまつるよと、神に申しけるゆめに、むかしすんがうといひて有りしひじりの法施をとしごろえさせたりしかば、いかにもえとがむまじきとぞみたりける。しかならんために、くにの司のしなに、むまれたまひけるにこそ。さすがむかしのおこなひのちからに、関白の御こにてもおはするなるべし。われもむかし、その物をさめたりきなどいひて、かゞみとりいださせなどせられける、たゞ人にはおはせざるべし。大殿のふしみへおはしましたりけるも、すゞろなる所へはおはしますまじきに、雪のふりたりけるつとめて、としつながいたく伏みふけらかすに、ゝはかにゆきてみんとて、はりまのかみもろのぶといふ人ばかり御ともにて、にはかにわたらせ給ひたりければ、おもひもよらぬことにて、かどをたゝきけれど、むごにあけざりければ、人々いかにとおもひけり。かばかりの雪のあしたに、さらぬ人の家ならんにてだに、かやうのをりふしなどは、そのよういあるべきに、 いはんや殿のわたり給へるに、かた<”おもはずに思へるに、あけたるものに、おそくあけたるよし、かうづありければ雪をふみ侍らじとて、山をめぐり侍と申しければもとよりあけまうけ、又とりあへずいそぎあけたらむよりも、ねんにけふあるよし、人々いひけるとか。修理のかみさわぎいで、雪御らんじて、御ものがたりなどせさせ給ふほどに、もろのぶかくわたらせ給ひたるに、いでしかるべきあるじなどつかまつれと、もよをしければ、としつな、いまにべとのまゐり侍りなん。と申しければ人にもしられで、わたらせ給ひたれば、にへ殿まゐることあるまじ。日もやう<たけていかでか、御まうけなくてあらんといひければ、殿わらはせ給ひて、たゞせめよなどおほせられけるほどに、いへのつかさなるあきまさといひて光俊有重などいふ学生のおやなりしをのこ、けしきゝこえければ、修理のかみたちいでゝかへりまゐりてあるじして、きこしめさすべきやうはべらざる也。御だいなどのあたらしきも、かく御らんずる山のあなたのくらにおきこめて侍れば、びんなくとりいづべきやうはべらず。あらはにはべるは、みな人のもちひたるよし申しければ、なにのはゞかりかあらん。たゞとりいだせとおほせられければ、さばとてたちいでゝ、とりいだされけるに、色々のかりさうぞくしたり、伏みさぶらひ十人、いろ<のあこめに、いひしらぬそめまぜしたる、かたびら、くゝりかけ、とぢなどしたるざうし、十人ひきつれて、くらのかぎもちたるをのこ、さきにたちてわたるほどに、ゆきにはえて、わざとかねてしたるやうなりけり。さきにあとふみつけたるを、しりにつゞきたるをとこをんなおなじあとをふみてゆきけり。かへさには御だいたかつき、しろがねのてうしなど、ひとつづゝさげてもちたるは、このたびはしりにたちてかへりぬ。かゝるほどに、かんだちめ殿上人、蔵人所の家司職事御随身など、さま<”にまゐりこみたりけるに、このさとかのさと、所々にいひしらぬそなへども、めもあやなりけり。もろのぶいかにかくはにはかにせられ侍ぞ。かねてゆめなどみ侍りけるか。など、たはぶれ申しければ、としつなのきみは、いかでかゝる山ざとに、かやうのこと侍らん。よういなくては侍べきなどぞ申されける。ふしみにては、ときのうたよみどもつどへて、和哥の会たゆるよなかりけり。ふしみの会とて、いくらともなくつもりてなんあなる。おとはの山のけさはかすめる。などよまれたる、いというに侍るかし。かやうにもてけうぜらるゝあまりに、ふけらかしまゐらせられけるにこそ。四条のみやの女房、あまたあそびてくれぬさきにかへり給ひければ、修理のかみ、

  都人くるればかへる今よりはふしみの里のなをもたのまじ

となむよみ給ひける。白河院、一におもしろき所は、いづこかあるとゝはせ給ひければ、一にはいしだこそ侍れ。つぎにはとおほせられければ、高陽院ぞ候ふらんと申すに、第三に鳥羽ありなんや。とおほせられければ、とば殿は君のかくしなさせ給ひたればこそ侍れ。地形眺望など、いとなき所也。第三には俊綱がふしみや候ふらんとぞ申されける。こと人ならばいと申しにくきことなりかし。高陽院にはあらで、平等院と申す人もあり。ふしみには山みちをつくりて、しかるべきをりふしには、たび人をしたてゝ、とほされければ、さるおもしろきことなかりけり。大僧正まだわかくおはしけるとき、御母贈二位の宇治殿に、僧都の御房の、まだわが房もゝたせ給はで、あひずみにておはしますなるに、房をさだして、たてまつらせ給へかしと申されければ、泰憲の民部卿、あふみのかみなりけるが、まゐりたりけるに、こゝなる小僧の、房をもたざなるに、草庵ひとつむすびて、とらせられなんやとおほせられければ、つくり侍らん。いとやすきことに侍り。やすのりがたちにつかうまつる、いしだと申すいへこそ、てらもちかくて、おはしまさんにも、つれ<”なぐさみぬべき所はさぶらへ。堂なども侍りてひんよき所なりと申しければ、殿はゆゝしきほうありける小僧かな。それはこよなきことにこそあらめとて、すゑたてまつり給へりけるとぞ。やすのりの民部卿は、おほとのゝ中将など申して、いはけなくおはしけるに、大将殿などまだよにおはしましけるほどは、とのも人もおもりかに思ひたてまつらるゝこともなかりけるをり、名簿をとりいだして、ゝうつしにたてまつりて、やすのりが名簿えさせ給へらんは、さりともよしあるべき事なり。思ふやうありて、たてまつるなりと申しければ、宇治にまゐらせ給ひて、かくこそつかうまつりたれと、申させ給ひけるにこそ、おぼえはつかせ給ひけれとぞきゝ侍りし。まことにやはべりけん。


31 雲のかへし

宇治のおほきおとゞの御むすめは、大殿の一御はらにて、四条の宮になんおはしましける。そのさきに、式部卿のみこの女君をこにしたてまつりて、後朱雀院の御時たてまつらせ給へりしは、こうきでんの中宮〓子と申しき。その御ことはさきに申し侍りぬ。いつしか、みや<うみたてまつりて、あへなくかくれさせ給ひにし、いとかなしく侍りしことぞかし。まことの御むすめならねども、いかにくちをしくおぼしめされけん。秋のあはれいかばかりかはかなしく侍りし。この中宮のうみたてまつり 給へるひめ宮は、祐子の内親王と申しき。長暦二年四月廿一日むまれ給ふ。長久元年裳きし給ひき。延久四年御ぐしおろし給ふ。のちに二品の宮と申しき。この宮の哥合に、宇治のおほきおとゞの御うた

  有明の月だにあれや時鳥たゞひとこゑのゆくかたもみん

とよみたまへるなり。大貳三位、

  秋ぎりの晴せぬみねにたつ鹿はこゑばかりこそ人にしらるれ

とぞよめりける。又〓子の内親王と申すこそは、この中宮うみおき給へる宮におはしませ。寛徳三年三月、かものいつきと申しき。天喜六年御なやみによりていで給ふ。みまさかのごが、ありしむかしのおなじこゑかとよめるは、この宮のいつきのころ侍りて、思いだして侍りけるになん。このみやいつきときこえけるころ、本院のあさがほをみ給ひて、

  神がきにかゝるとならばあさがほのゆふかくるまで匂はざらめや

と侍るもいとやさしく、宇治殿のまことの御むすめ、四条のみやにおはします。後冷泉院の中宮寛子と申す。永承元年うちへまゐり給ひて、同六年皇后宮にたち給ふ。御とし十六、治暦四年四月に、中宮と申す。同十二月に、御ぐしおろさせ給ふ。御とし卅二、天喜四年皇后宮にて、うたあはせせさせ給ふに、堀川の右のおとゞ、雲のかへしのあらしもぞふくなどよみ給此たびなり。また御身にもえさせ給へりけるみちにこそ侍るめれ。女房のまゐらむと申しけるほどに、身まかりけるをきかせ給ひて、

  くやしくぞきゝならしけるなべてよの哀とばかりいはまし物を

とよませたまひけん。いとなさけおほくなん。宇治殿のかぎりにおはしましけるに、おほ殿のおぼしめさん事、おほせられおかせ給へと申させ給ひければ、宇治とみやとゝぞ、おほせられける。宇治とは平等院の御だうの事、宮とは四条宮の御事也。かくて候はんずれば、御堂の事、宮の御事は、おぼつかなくおぼしめすこと、つゆはべるまじきなりとぞよく申させ給ひけるとなん。


32 白河のわたり

たかつかさ殿の御はらの、第二の御こにては大二條殿とておはしましゝ、関白太政大臣教通のおとゞと申しき。御堂の君だちの御なかには、第五郎にやおはしけんかし。さはあれども、宇治殿のつぎに、関白もせさせ給ふ。第二の御こにてぞおはしましゝ。 大臣のくらゐにて五十五年おはしましき。治暦四年四月十七日、後冷泉院の御時、あにの宇治殿の御ゆづりによりて、関白にならせ給ひき。七十三の御としにやありけん。みかどほどなくかはりゐさせ給ひて、後三条院の代のはじめの関白、やがて同月の十九日に更にならせ給ひき。延久二年三月に、太政大臣にのぼらせ給ふ。承保二年九月廿五日にぞ、うせさせ給ひにし。御とし八十あにの宇治殿は申すべきならず。このおとゞも世おぼえなど、とり<”になむおはしましゝ。女御きさきなど、たび<たてまつらせ給ふ。家の賞かぶり給ふ事もたび<にて、御ひきいで物、御馬などたてまつり給ふ。きんだちなど、加階せさせ給ひて、もとより一の人にもをとらずなんおはしましゝ。御うしろみにてたぢまのかみ能通といふが、はか<”しきにてうしろみたてまつりければ、御家のうちも、いと心にくきことおほかりけり。いつのことに侍りけるとかや。おほみあそびに、冬のそくたいに半臂をきさせ給へりけるを、かたぬがせ給ふとき宇治殿よりはじめて、したがさねのみしろくみえけるに、このおとゞひとりは、半臂をき給へりければ、御日記にはべるなるは、予ひとり半臂の衣をきたり。衆人はぢたる色ありとぞ侍るなり。かやうなることもぞおほく侍りける、能通のぬし、宇治殿にまゐりて、おまへにめされて、まゐるとてしやくもちてまゐらんとて、蔵人所のみづしさぐりて、しやくもおかれぬみづしかな。衣冠にておまへにまゐるものは、とりてこそまゐることにてあるにと、つぶやきければ殿きかせ給ひて、かくつねにはぢしめらるゝなどぞおほせられける。しやくはそくたいにてぞもつ事にて侍を、とのゐさうぞくにも、ことにしたがひ人によるべきにや。けびゐしなどはつねにもち侍るめり。又たかみつとかきこえし人、たれにあひたてまつりたりけるとかや。車よりおりて、ふところがみをたかくたゝみなして、しやくになしてなんとれりけるとぞ、きゝ侍りし。そくたいにも、かんだちめはなちては、殿上にはもちてのぼり給はぬとかや。おほみやの右のおとゞつねすけの大納言、蔵人頭にていさかひ給ひける時、笏しでうち給ひたりけるより、とゞめられ侍とぞきゝ侍りし。御座のおほひかくなり。さほはとりはなちに侍りけるを鳥羽院の位の御ときにや。殿上人のいさかひ給ひて、そのさをゝぬきてうたんとし給ひけるより、うちつけられたるとなんきこえ侍る。もとなき事もかゝるためしにはじまれるなるべし。その御ざと申すは御倚子とて、殿上のおくのざのかみに、たてられ侍るなる。したんにてつくられて侍るなるを、むかしうだのみかど、まだ殿上人におはしまして、なりひらの中将とすまゐ とらせ給ひて、かうらんうちをらせ給ひけるを、代々さてのみをれながらこそ侍るなるに、ちかきみよにつくしのひごの守になれりける、なにがしとかやいふ人の、蔵人なりける時、したんのきれとのに申して、そのかうらんのをれたる、つくろはんなどせられけるこそ、をこのことに侍りけれ。かの能通のぬしの、しかありけるすゑなればにや。みちのりといひし少納言の大とこも、ちかくはいみじくこそ、世の中したゝむめりしか。このおとゞ左衛門督など申しけるほどにや。白川に花見にわたり給ふとて、小式部内侍にかくとおほせられければ、

  春のこぬ所はなきをしらかはのわたりにのみや花はさくらん

と申したりけるこそ、いとやさしくとゞまりてみえ侍れ。和泉式部とかきたるものも侍れば、はゝのよみて侍るにや。


33 はちすの露

四條の大納言のむすめの御はらに、御こどもおほくおはしましき。太郎にては、山井の大納言のぶいへのきみおはしましき。いとよき人におはしましき。宇治殿は山の井ばかりのこを、えもたぬとぞおほせられける。いかばかりおはしましけるにか。なにごとにか侍りけん宇治殿の御ともにおはしけるに、わざとすゑまさんとおぼして、みかへりて、ひさしくものし給ひけるにも、つひにゐたまはざりけるとかやぞきこえ侍りし。いとすゑおはせぬに、つちみかどの右のおとゞのひめぎみをぞやしなひごにて、大殿のきたのまんどころと申しし。二条殿のつぎの御こは、三位侍従信基とておはしましき。また九条の太政のおとゞ、信長とておはせし、それもはか<”しきすゑもおはせぬなるべし。こはたの僧正、ながたにの法印などいふ僧きんだちおはしましき。僧正は小式部の内侍のはらなればにや。うたよみにてこそおはすめりしか。あはずのゝすぐろのすゝきつのぐめば。などいふ哥、撰集にもみえ侍るめり。うせ給ひて後も、上東門院の御ゆめに御らんじける、僧正の御うた、

  あだにしてきえぬるみとや思ふらんはちすの上の露ぞわがみは

とはべりける、浄土に往生し給ふにや。いとたふとき御うたなるべし。法印はあにたちのおなじはらにおはすべし。


34 小野の御幸

大二条殿の女君は、後朱雀院の女御におはせし、院うせさせ給ひて、七八年ばかり やありけむ。御ぐしおろし給ひて、十余年ばかりすぎて、うせ給ひにき。長久二年に哥合せさせ給へりしに、良暹法師の人にかはりて、

  みがくれてすだくかはづのもろ聲にさわぎぞ渡るゐでのうき草

とよめる、この哥合のうたなり。兼長の君は、おのがかげをやともとみるらん。とよみ、永成法師はいのちはことのかずならず。とよめる。かやうのよき哥どもおほく侍り。天喜元年御ぐしおろし給ひて、治暦四年にぞうせさせ給ひにし。こうきでんの女御と申しき。おなじ御時内侍のかみ真子と申ししも、よにひさしくおはしき。第二の御むすめにやおはしけん。三君は後冷泉院の女御にまゐりて、きさきにたち給ひて、皇后宮と申しき。のちに皇太后宮にあがりて、承保元年の秋、御ぐしおろし給ひてき。猶きさきの位にて、ひえの山のふもと、をのといふさとにこもりゐさせ給ひて、みやこのほかに、おこなひすまし給へりき。雪おもしろくつもりたるあしたに、白河院にみゆきなどもやあらんと思て、ある殿上人、馬ひかせてまゐり給へりけるに、院いとおもしろき雪かなとおほせられて、雪御覧ぜんとおもほしめしたりけるに、馬ぐしてまゐりたる、いみじくかんぜさせ給ひて、御随身のまゐりたりける、ひとり御ともにて、にはかに御幸有りけるに、北山のかたざまに、わたらせ給ひければその御随身、ふと思よりて、もしをのゝきさきの、山ずみし給ふなどへや、わたらせ給はんずらんと思ひて、かの宮にまうでつかうまつるものにやはべりけん。にはかにしのびてみゆきのけさ侍る、そなたざまにわたらせ給ふ。もしその御わたりなどへや、侍らんずらんと、つげきこえければかの入道のみや、その御よういありて、法花堂に、三昧僧經しづやかによませさせ給ひて、庭のうへいさゝか人のあとふみなどもせず。うちいで十具ばかり有りけるを、なかよりきりてそで廿いださんよういありけるを、もしいりて御らんずることも侍らん。いとみぐるしくやと、女房申しけれど、きりていだし給ひけるに、すでにわたらせ給ひて、はしかくしのまに、御車たてさせ給ひてかくとやはべりけん。さやうに侍りけるほどに、かざみきたるわらは二人、ひとりはしろがねのてうしに、みきいれてもてまゐり、いま一人はしろがねのをしきに、こがねのさかづきすゑて、大かうし御さかなにて、いだし給へりければ御ともの殿上人、とりてまゐりて、いとめづらしき御よういにはべりけり。かへらせ給ひてのち、かしこくうちを御らんぜで、かへらせ給ひぬなど、ごたち申しければ雪見にわたり給ひて、いり給ふ人やはあるとぞのたまはせける。月と雪ともきこえ はべり。さて院より御つかひありて、いとこゝろぐるしく、おもひやりたてまつるに、うちいでなどこそよういして、有がたくもたせ給へりけれとて、みのゝくにとかや御庄の券たてまつらせ給へりければまゐりつかうまつる、をとこをんな。これかれのぞみけれど、みゆきつげきこえける随身に、あづけたまひけるとぞきゝ侍りし。そのとねりの名はのぶさだとかや。殿上人はなにがしの弁とかや。たしかにもきゝ侍らざりき。そのをのゝてらなどは猶のこりて三昧おこなふ僧も、まだかすかにはべるなり。きさきまだおはしましけるをり、ゆふだちのそら物おそろしく、なる神おどろ<しかりけるに、御經よみて、ゐさせ給へりけるを、かみおちて、御經などもかみの所ばかりはやけて、もじはのこり、御身には露のこともおはしまさゞりける、いとたふとく、あさましきことゝぞきゝ侍りし。うせ給ひけるときも、いとたふとくて、浄土にまゐり給ふとぞ申し侍りし。大二条殿の君だちかくなり。


35 薄花桜

むかしは世もあがりて、うちつゞきすぐれ給へるは申すべきならず。又とりわきたる御のうなどはつぎのことにて、ちかき世の関白には、大殿とてをぢの大二条殿のつぎに、一の人におはしましゝぞ、御みめもよく、御心ばへもすゑさかえさせ給ふことも、すぐれておはしましゝか。その御名は、もろざねとぞきこえさせ給ひし。宇治のおほきおとゞの、第二の御子におはしましき。御母贈従二位藤原の祇子と申しき。四条の宮とひとつ御はら也。大臣の位にて四十二年おはしましき。承保二年九月、内覧の宣旨かぶり給ひて十月三日氏の長者にならせ給ふ。十五日に関白にならせ給ひき。御とし三十四、白河院の御時なり。大将はのかせたまひて、御随身猶たまはらせ給ひて、手車の宣旨かぶらせ給ふ。承暦四年十月に、太政大臣のかみにつらなり給ふべき宣旨ありき。堀川院くらゐにつかせ給ひし日摂政にならせ給ふ。同四年うとねり随身たまはり給ふ。寛治二年十二月に、太政大臣になり給ふ。同四年摂政の御名はかはりて、関白と申ししかども、猶つかさめしなどのことは、おなじことなりき。嘉保元年三月関白のかせ給ひても、御随身はもとのやうにつかはせ給ひき。同三年正月なかのへのてぐるまの宣旨ありき。康和三年正月廿九日、御ぐしおろさせ給ふ。二月十三日、宇治にてうせさせ給ふ。御とし六十におはしましき。大殿と申し、又のちのうぢの入道殿とも、又京極殿とも申すなるべし。寛治八年、高陽院にて哥合せさせ給ひし時の哥よみども、 昔にもはぢぬ御あそびなるべし。ちくぜんのごのうすはなさくらの哥、まさふさの中納言の、白雲とみゆるにしるし、といふ哥にまけ侍りしを殿より、

  しら雲はたちかくせどもくれなゐのうすはなざくら心にぞしむ

とおほせられたりしかば、ちくぜんのごの御かへしたてまつるに、

  白雲はさもたゝばたてくれなゐの今一しほを君しそむれば

と申したりし、いとやさしくこそ侍りしか。御心ばへなどのなつかしく、おはしましけるにこそ。御まり御らんぜさせ給ひけるに、もりながあはぢのかみといひしを、ことのほかにほめさせ給ひけるほどに、しなのゝかみゆきつなも、心にはをとらず思て、うらやましくねたくおもひけるに、御あしすまさせ給ひけるに、つみたてまつるやうにたび<しければいかにかくはとおほせられければ、まりもみしらぬはぎのといひつゝ、あらひまゐらするを、ゆきつなもよしとぞおほせられける。御かへりごとに、こそ<となでたてまつりける、もとのさるがうなれども、ものこちなきしうには、さもえまさじかしとおぼえて、またもりながのぬし、花ざかりにまりもたせて、うちへまかりけるに、ゆきつなさそひにやりたりければ御ものいみにこもりて、人もなければけふはえまゐらじと、返事しけるをきゝつけさせ給ひて、たゞいけとて、うすいろのさしぬきのはりたる、かうのそめぬのなど、をさめ殿よりとりいださせて、にはかにぬはせて、御まり花のえだにつけてみまやの御馬に、うつしおきて、いだしたてゝつかはしければけふこそこのついでに、女にみえめとおもひて、日ごろはあはぬ女の家のさじきに馬うちよせて、かたらふほどに、御馬にはかにはねおとして、まへのほりけにうちいれてけり。かしらくだりのこる所なく、つちかたにあみたりけるを、女いへにいれて、あらひあげて、いとほしさにこそあひにけれ。御馬はしりてみまやにたちにけり。あやしくきこしめしけるほどに、ゐかひおひつきてかくと申しければいかにあさましく、をかしくおぼしめしけん。さてしばしは、えさしいでもせざりけるとぞ、きこえ侍りし。


36 波の上の杯

この大殿のすゑ、ひろくおはしますさまは、をのこ君だち、よにしらずおほくおはしまして、をとこ僧も、あまたおはしますに、御むすめぞおはしまさぬ。六条の右のおとゞの御むすめを、殿の御子とて、白河院の東宮と申しし時より、みやすどころにたてまつり給へりし、賢子の中宮とて、堀川院の御母なり。宮々おほくうみたてまつり給へりき。その 御ことはみかどの御ついでに申し侍りぬ。さて一の人つがせ給ふ。太郎におはしましゝ、のちの二条の関白おとゞの御ながれこそ、いまもつがせ給ふめれ。その御名は関白内大臣師通と申しき。御母は土御門の右のおとゞもろふさと申しし御むすめを、山井の大納言のぶいへと申ししが、こにしたてまつり給へりし御はらなり。永保三年正月廿六日内大臣になり給ふ。御とし廿一、嘉保元年三月九日関白にならせ給ふ。御とし卅三、その三年正月、従一位にのぼらせ給ふ。左大臣のかみにつらなるべき宣旨かうぶり給ふ。承徳三年六月廿八日、御とし卅八にて、うせさせ給ひにき。大臣のくらゐにて十七年おはしましき。このおとゞ、御心ばへたけく、すがたも御のうも、すぐれてなんおはしましける。御即位などにや侍りけん。匡房の中納言、この殿の御ありさまをほめたてまつりて、あはれこれをもろこしの人にみせ侍らばや。一の人とてさしいだしたてまつりたらんに、いかにほめきこえんなどぞまのあたり申しける。玄上といふびはをひき給ひければ、おほきなるびはの、ちりばかりにぞみえ侍りける。てなどもよくかゝせ給ひけり。うまごの殿などばかりは、おはしまさずやあらん。てかきにおはしましきとぞ、さだのぶのきみは人にかたられける。三月三日曲水宴といふことは、六条殿にて、この殿せさせ給ふときこえ侍りき。から人のみぎはになみゐて、あうむのさかづきうかべて、もゝの花の宴とてすることを、東三条にて、御堂のおとゞせさせ給ひき。そのふるきあとを尋ねさせ給ふなるべし。このたびの詩の序は孝言といひしぞかきける。ときゝ侍りし。四十にだにたらせたまはぬを、しかるべき御よはひなり。かぎりある御いのちと申しながら、御にきみのほど、人の申し侍りしは、つねの事と申しながら、山の大衆のおどろ<しく申しけるもむづかしく、世の中心よからぬつもりにやありけんとも申し侍りき。


37 宇治の川瀬

後の二条殿の御つぎには、ちかくふけ殿とておはしましゝ、入道おとゞおほぢの大殿、御こにしまさせ給ふときこえ給ひき。御母は大宮の右のおとゞの御むすめなり。このおとゞの御名はたゞざねとぞきこえ給ひし。康和元年閏九月廿八日、内覧の宣旨かぶり給ひき。御とし廿二、同二年七月十七日、右大臣にならせたまひき。大将も猶かけさせ給へりき。天永三年十二月十四日、太政大臣になり給ひき。はじめは宇治のかはせなみしづかにて、白河の水へだてなくおはしましゝかば、ふけ殿つくり 給ひて、院わたらせ給ひけるに、宇治川にあそびのふね、うたうたひて、なみにうかびなどして、いとおもしろくあそばせ給ひけり。盛定といひしをとこ、うたうたひ、その時こうたうなどいひしふねにのりぐして、うたつかうまつりけるとかや。そのたび人々に、哥よませさせ給はざりけるをぞ、くちをしくなど申す人もありける。かやうの所にわたらせ給ひて、なにとなき御あそびも、ふるきあとにもにぬ御心なるべし。かやうにてすぎさせ給ひしに、保安元年十一月十二日にやありけん。夜をこめて院よりとて堀川のおとゞにはかにまゐり給へと御つかひありて、おとゞ内覧とゞむべきよしを、おほせくだし給ひけり。白川院うせさせ給ひて、鳥羽院世しらせ給ひし時にぞふけよりいでさせ給ひし。待賢門院をさなくおはしましゝを、白川院やしなひたてまつり給ひて、鳥羽院くらゐにおはしましゝ、女御にたてまつり給ふほどに、入道おほきおとゞの御むすめ、女御にたてまつらんと、せさせ給ふときこゆるによりて、関白うちとめ申させ給ふとぞきこえ侍りし。白川院の御よに、きさきみやす所などかくれさせ給ひて、さるかた<”もおはせざりしに、白川殿ときこえ給ふ人おはしましき。その人待賢門院をば、やしなひたてまつりたまひて院も御むすめとて、もてなしきこえさせ給ひし也。その白川殿あさましき御すぐせおはしける人なるべし。宣旨などはくだされざりけれども、世の人はぎをんの女御とぞ申すめりし。もとよりかの院の、うちのつぼねわたりにおはしけるを、はつかに御らんじつけさせ給ひて三千の寵愛、ひとりのみなりけり。たゞ人にはおはせざるべし。かもの女御と世にはいひてうれしきいはひをとて、あねおとうとのちにつゞきて、きこえしかば、それはかのやしろのつかさ、重助かむすめどもにて、女房にまゐりたりしかば、御めちかゝりしを、これははつかに御らんじつけられて、それがやうにはなくてこれはことのほかに、おもきさまにきこえ給ひき。かの御さたにて、その女院もならびなくおはしましき。代々の國母にておはしましければことわりとは申しながら、いかばかりかはさかえさせ給ひし。をさなくては白河院の御ふところに御あしさしいれて、ひるも御とのごもりたれば、殿などまゐらせ給ひたるにも、こゝにすぢなきことのはべりて、えみづから申さずなど、いらへてぞおはしましける。おとなにならせたまひても、たぐひなくきこえ侍りき。白川院かくれさせ給ひてこそほいのごとく殿のひめ君たてまつり給ひて、女御の宣旨かぶり給ふ。皇后宮にたち給ひてのちは、院号聞えさせ給ひて、高陽院と申しき。院のゝちまゐり給へるが、女御の宣旨 はこれやはじめて侍りけん。きさきの宮のはじめつかたも、宇治の御幸ありて、皇后宮ひきつゞきていらせ給ひしうるはしき行けいのやうには侍らで、みなかり衣にふりうなどして、女房の車いろ<にもみぢのにほひいだして、ざうしなどもみなくるまにのりてなん侍りし。さき<”白川院の御時は、ざうしはみな馬にのりて、すきかさたゝのかさなどきて、いくらともなくこそつゞきて侍りしか。これ女車にて、これぞはじめて侍りし。きさきの宮には、かぶりにてこそつねは人々候を、これはほういになされてなん侍りし。此のふけのおとゞは、御みめもふとりきよらかに、御こゑいとうつくしくて、としおいさせ給ふまで、ほそくきよらにおはしましき。らうゑいなどえならず、せさせ給ふ。又さうのことは、すべてならびなくおはしましき。うたはさまでもきこえさせ給はざりしに、宇治にこもりゐさせ給へりしときぞ、

  さほがはのながれたえせぬ身なれ共うきせにあひてしづみぬる哉

とよませ給ひけるとかや。ふみのさたなどは、つねにせさせ給ふともきこえざりしかども天台止観とかいふふみをぞ、皇覚とかいひて、すぎうの法橋といひしに、本書ばかりはつたへさせ給ひてけり。日ごとにまゐりて候ひければ、まぎらはしき日も、よふけてなど思いださせ給ひつゝ、としをわたりてぞよみはてさせ給ひける。真言もこのみさたせさせ給ひけるときこえき。としよらせ給ひては、御あしのかなはせ給はざりしかば、わらふだにのりてひかれ給ひ、又御こしなどにてぞ院にもまゐり給ひける。御ぐしおろさせ給ひて、ならにても、山にても、御ずかひせさせ給ひき。御名は圓理とぞきこえさせ給ひし。いづれのたびも、院の御ともにぞ御受戒せさせ給ひける。御子のひだりのおとゞのことおはせしゆかりに、ならにおはしましゝが、宇治殿へはいらせ給はで、おはしましゝを、法性寺殿に、御せうそくありければとく京のかたへいらせ給へと、御かへりごと申させ給ひければよろこび給ひて、としごろの御なかもなほらせ給ひて、はりまとてときめかせ給ひし人の、みやこのきたに、雲林院か。知足院かに侍るなるだうにぞおはして、うせさせ給ひにし。そのはりまとかきこえし人は、よにたぐひなき、さいはひ人になむおはすめり。白川殿に、たゞおなじさまなるはじめにやおはしけん。のちには女院の、はしたものなどいふことになり、つぎに女房になりなどしておはすとぞ、きこえられし。いまにかしこき人にて、法性寺殿の、三井寺の僧都の君、やしなひまして、むかしにかはらぬありさまにてなん、きこえ侍るなる。かの白川殿とて、祇園におはせしは ゆかりまでさりがたく、院におぼしめされておはせしに、はじめつかた、平氏のまさもりといひし、まゐりつかうまつりければをきのかみなどいひけるも、のちにはしかるべき國々のつかさなど、なりたりけれど、猶下北面の人にてありけれど、その子よりぞ院の殿上人にて、四位五位のまひ人などしけれども、内の殿上は、えせざりけるに五節たてまつりけるとし、受領いまひとり、ためもりためなりなどいひしが、ちゝなりし殿上ゆるされたりしかば、忠盛、

  おもひきや雲ゐの月をよそにみて心のやみに迷ふべしとは

とぞきこえし。その殿上ゆるされたりしは、院の御めのとご、知綱といひしがうまごなれば、いとほしみあるべきうへに、ちかくつかはせ給ふ女房の、心ばへなどおぼしめしゆるされたるものにてありしが、こなどあまたうみたりければ殿上せさせんとおぼしめしながら弁近衛すけなどにもあらで、たちまちに殿上せんも、いかゞとおぼしめして、うさの使につかはしけるを、鳥羽院の新院と申して、おはしましゝほどに、長輔ときこえし兵衛佐をつかはさんと、申させ給ひければかの御方に申させ給ふことさりがたくて、さらば為忠は、ことしの五節をたてまつれとてぞ殿上はゆるされける。あまりふとれりしかばにや、口かわくやまひして、十年ばかりこもりゐながら、四位の正下までのぼりしも、三条烏丸殿つくりたりしたびはをとこゝそこもりたれども、をんなのみやづかへをすれば、加階はゆるしたぶとおほせらるとて、顕頼の中納言は、大原うとくおぼゆとぞ、よろこびいふとて、たはぶれられける。左京のかみ顕輔のいはれけるは太夫の大工なるべし。二条のおほみやつくりてもかゝいし、そのみだうつくりても、又院の御所つくりても加階すと、いはれけるときこえしにあはせて、木工権頭をぞ、かけづかさにしたりし。貫之かつかさなればとて、なりたりけるとかや。その人まだをさなきほどなりけるに、白河の法皇の、六位の殿上したりけるに、それがしとめしけるを、人のめしつぎければ藤原の、異姓になるは、あしきことなりとて、もとの姓になるべきよし、おほせられけるも猶むかしの、御いとほしみの、のこりけるとぞきこえし。ためあきらといひし人も、本はためのりといひけるを、白河院のためあきらとめしたりけるより、かはりたるとかや。おほぢの高大貳は、なりのりといひしかども、このころそのすゑは、むねあきらなどいへるは、めしけるよりあらたまりたるとかや。白川院ははかなきこともおほせらるゝことの、かくぞとゞまりける。又御心のさとくおはしまし て、時のほどにおもほしさだめけるは、しなのゝかみこれあきらといひしが、式部丞の蔵人なりし時、女房のつぼねのまへにゐて、ものなど申しけるに、殿まゐらせ給ふとて、庭におりてゐければ女房まゐりて、関白のまいり候ふなど申しければ関白ならばさきこそをはめ。をこのものはあにのともつながまゐるを、いふにこそあらめと、おほせられけるに、はゝきのかみのまゐられたりけるとぞ、女房かたられける。かの雲ゐの月よめりし忠盛は、中々に院かくれさせ給ひてのちにぞいつしか殿上ゆるされたりし。そのとき、殿上のすゞりのはこに、かきつけられたりけるうたありけりときこえしは、みなもとなのるくものうへはなにさへのぼるなりけりとかや。わすれておぼえはべらず。やましろといせと、みなもとゝたひらとを、たいしたるやうにぞきこえし。おなじおりに殿上したりける人のことなるべし。その平氏のこども二人ならびて蔵人になりなどせしも、平氏のおほきおとゞは、白川院の御時は、非蔵人などいひて、院の六位の殿上したりしかども、うるはしくはなさせ給はで、かうぶり給はりて、兵衛佐になりたりしも、蔵人は、なほかたきことゝきこえはべりき。さてまたかのうさつかひにくだられし、兵衛佐はありかたときこえし人のむこなりしが、心ざしやなかりけん。はなれにしかば、いとくちをしくて、なほ御きそくにて、ふたゝびまで、とりよせたりしかども、えすみはてざりしかば、よにうたにさへうたひてありしを、院の御めのとごの、帥のこなれども、ふたゝびまで、とこさりたるあやまりにや。くにのつかさなりしをもとらせ給ひて、ふるさとのせうとに、あまのはしだてもわたりにしは、かの宮内卿へいしの、むこになれりしいとほしみの、のこれるなるべし。そのふるさとに、すみわたる人ときこえしも、よの中によめるうたなど、きこえ侍りき。哥はわすれておぼえ侍らず。


〔ふぢなみの中〕第五

38 御笠の松

ちかくおはしましゝ法性寺のおとゞは、ふけの入道おとゞの御子におはします。御はゝ六條の右のおとゞの御むすめ、仁和寺の御むろと申しし、ひとつ御はらからにおはしましゝかば、そのきたのまんどころ、むかしは白川の院にもまゐりたまひけるにこそ。仁和寺法親王をば、獅子王の宮とぞよには申しし。御母のわらはなにやおはしけん。さてこのおとゞ仁和寺の宮としたしく申しかはしたまひき。ふけのおとゞのきたのかたにては、堀川の左のおとゞの御むすめおはせしかども、それは御こおはしまさでくちをしきことゞもありけるにやよりけん。のちにはうとくなり給ひて、その六条のおとゞの御むすめの、京極のきたのまんどころにさぶらひ給ひけるを、はじめは院にめして宮うみたてまつり給へりけるほどにふけのおとゞわかくおはしける時に、はつかにのぞきてみ給へることありけるより御やまひになりて、なやみ給ひけるを、いのちもたえぬべくおぼゆることの侍れど、心にかなふべきならねば、よにながらへ侍らんこともえ侍るまじ。 又心のまゝに侍らば、いかなるおもきつみも、かぶるみにもなり侍りぬべし。いづれにてかよく侍らんなど、京極の北の方に申し給ひけるにや。いかにも御いのちおはしまさんことに、まさることはあるまじければとて、院に申させ給ひたりければゆるしたまはらせ給ひたりけるとかや。ひがことにや侍らん。人のつたへかたり侍りしなり。さてすみ給ひけるほどに、まづはひめぎみうみ給ひ、又このおとゞをも、うみたてまつり給ひてのち、さてうるはしくすみ給ひけるとぞうけ給はりし。このおとゞ、保安二年のとし関白にならせ給ふ。御とし廿五にぞおはしましゝ。同四年正月に、さぬきのみかどくらゐにつかせ給ひしかば、摂政と申しき。みかどおとなにならせ給ひて、関白と申ししほどに、近衛のみかど位につかせ給ひしかば、又摂政にならせ給ひき。久壽二年七月このゑのみかど、かくれさせたまひて、この一院位につかせ給ひしにも、又関白にならせ給ひしかば、四代のみかどの関白にて、ふたゝび摂政と申しき。昔もいとたぐひなきことにこそ侍りけめ。おほきおとゞにも、ふたゝびなり給へりし。いとありがたく侍りき。藤氏の長者さまたげられ給ひしも、左のおとゞのことにあひ給ひしかば、保元々年七月に、さらにかへりならせ給ひにき。同三年八月十六日、二条のみかどくらゐにつかせたまひし時、いまのとのゝ御あにゝおはしましゝ、右のおほいまうちぎみに、関白ゆづりきこえさせ給ひて、大とのとておはしましゝに應保二年に御ぐしおろさせ給ひてき。御とし六十六とぞうけ給はりし。長寛二年二月十九日六十八ときこえさせ給ひしとしかくれさせ給ひにき。むかしまだをさなくおはしましゝ時、かすがのまつりのつかひせさせ給ひしに、内侍周防のごまつりて、行事弁ためたかに申しおくりける、

  いかばかり神もうれしとみかさ山ふたばの松のちよのけしきを

そのかへしは、をとりたりけるにや。きこえ侍らざりき。いのりたてまつりたるしるしありて、めでたくひさしぐせさせ給ひき。法性寺の御堂の御所などつくりて、貞信公の御堂のかたはらに、すませたまひしかば、法性寺殿とぞ申すめる。むかしより摂政関白つゞきておはしませど、みの御ざえはたぐひなくおはしましき。才學もすぐれておはしましけるうへに詩などつくらせ給ふことは、いにしへの宮帥殿などにもおとらせたまはずやおはしけん。哥よませ給ふ事も心たかくむかしのあとをねがひ給ひたるさまなりけり。管絃のかた心にしめさせ給ひて、さうのことを、むねと御遊などにもひかせ給ふとぞきゝ侍りし。ちゝおとゞばかりは、おはしまさずやありけん。てかゝせ給ふ事は、むかしの 上手にもはぢずおはしましけり。まなもかなもこのもしくいまめかしきかたさへそひて、すぐれておはしましき。内裏の額ども、ふるきをばうつし、うせたるをばさらにかゝせ給ふとぞ、うけ給はりし。院宮の御堂御所などの色紙形は、いかばかりかはおほくかゝせ給ひし。御願よりはじめて、寺々の額など、かずしらずかゝせ給ひき。よかはの花臺院などは、ふるきところの額もむかへかうすゝめけるひじりの申したるとてかゝせ給へりとぞ、山の僧は申しし。又人の仁和寺とかより、額申したりければかゝせ給ひけるほどに、おくのえびすもとひらとかいふがてらなりときかせ給ひて、みちのおくへ、とりかへしにつかはしたりけるを、かへしたてまつらじとしけるを、めの心かしこくやありけん。かへしたてまつらざらんは、しれごとなりといさめければかへしたてまつりけるに、みまやとねりとか。つかはしたりける御つかひの、心やたけかりけん。みつにうちわりてぞもてのぼりける。はしらをにらみけんにも、をとらぬつかひなるべし。えびすまでも、なびきたてまつりけるにこそ。又いづれの御願とかのゑにいゐむろの僧正たふとくおはすることかくとて、冷泉院の御たちぬかせ給へるに、僧正にげ給へるあとにとゞまれる三衣はこのもとにて、みかどのものゝけうたせ給ひたるところのしきしかた、これはえかゝじとて、もじもかゝれでいまだ侍る也。御てならびなくかゝせ給へども、さやうの御よういは、ありがたきことぞかし。またをさなくおはしましし時より、うたあはせなどあさゆふの御あそびにて、もととし俊頼などいふ、ときのうたよみどもに、人の名かくして、はんぜさせなどせさせ給ふことたえざりけり。御うたなどおほくきゝ侍りしなかに、

  わたのはらこぎいでゝみれば久かたの雲ゐにまがふおきつしら浪

などよませ給へる御うたは、人丸がしまかくれゆく舟をしぞ思ふ。などよめるにもはぢずやあらんとぞ人は申し侍りし。

  よし野山みねのさくらやさきぬらんふもとの里に匂ふ春かぜ

などよませ給へるも、心もことばもたへにして金玉集などに、えらびのせられたる哥のつらになん、きこえ侍るなる。からのふみつくらせ給ふ事もかくぞありける。さればふみの心ばへしらせ給ふ事、ふかくなんおはしける。白川院にもみまきの詩えらびてたてまつり給ひ、もとゝしのきみにも、からやまとのをかしき事の葉どもをぞ、えらびつかはせ給ひける。かやうのことゞもおほくなんはべるなり。又つくらせ給へるからのこと葉ども、御集とて、唐の白氏の文集などのごとくにことこのむ人、もてあそぶとぞうけ給はる。 かくざえもおはしまして、日記などもかゞみをかけておはしませば、左大弁ためたかといひし宰相は、日本はゆゝしく、てつらなるくにかな。さきの関白を一の人にて、このおとゞ、はなぞのゝおとゞふたり、わかき大臣よくつかへぬべきを、うちかへつゝ公事もつとめさせで、この殿一の人なればいたづらにあしひきいれてゐたまへるこそをしけれとぞいはれけるとなんきこえ侍りし。


39 菊の露

法門のかたは、またそこをきはめさせ給ひて、山、三井寺、東大寺、やましなでらなど智恵ある僧綱、大とこも、内裏に御讀經などつとむるをりに、みすのうちにて、ふかき心たづねとはせ給ひ、わがとのにて、八講などおこなはせ給ふをりふしのことにつけて、經論のふかきこと、ひろき心、くみつくさせ給はぬことなくなん、おはしましける。御仏供養せさせ給ひける御導師に、菊の枝にさして給はせける、

  たぐひなきみのりを菊の花なればつもれるつみは露も残らじ

などぞきこえ侍りし。御心ばへも、すき<”しくのみおはしましながら、わづらはしく、とりがたき御心にて、ひか<”しきことはおはしまさで、なに事もおどろかぬやうにぞおはしましける。さればよにもにさせ給はで、いづかたにも、うときやうに、きこえさせ給ひて、きんだちなど心もとなく、きこえさせ給ひしかども、世の中みだれいできてのち、もとのやうに、氏の長者にも、かへりならせ給ひき。男公達も、くらゐたかくならせ給ひて、法師におはしますも、僧正ともならせ給ひ、ところ<”の長吏もせさせ給へり。女御きさき、かた<”おはして、よろづあるべきこと、みなおはしましき。むかしときにあはせ給ひたる、一の人にをとらせ給ふ事なかりき。馬をうしなひて、なげかざりけんおきなゝどのやうにて、おはしましゝけにや。くるしきよをすぐさせ給ひてのちは、かくさかえさせ給へり。つくらせ給ひたる御詩とて人の申ししは、   官禄身にあまりてよをてらすといへども、素閑性にうけて權をあらそはず。 とかやつくらせ給へるも、その心なるべし。さやうの御心にや。又このゑのみかどのかなしびのあまりにや。関白にこのたびならせ給ひしはじめに、かのみかど、ふなおかにをさめたてまつりし御ともせさせ給へりし、かちよりおはしますさまにて、御こしのつなをながくなされたりしにやにきにしなしてかゝれてぞすえざまはおはしましける。 いとあはれに、かなしくなん侍りける。二条院くらゐにつかせ給ひし時、関白をば御子にゆづりまさせ給ひて、大殿とておはしましゝほどに、御ぐしおろさせ給ひて、御名は円観とぞつかせ給ひける。このおとゞうせさせ給ふほどちかくなりて、法性寺殿かつら殿など、御らんじめぐらせ給ひて、ところ<”のありさまを、さま<”のふみどもつくらせ給ひてもりみつこれとしなどいふ学生どもに給ひて、和してたてまつり判をさせなどせさせ給へり。のちの世に、仏道ならせ給へるにや。こゝのしなのはちすのうへに、おはしますなど、ゆめにも人のみたてまつりたるとかや。式部大輔永範、ゆめにみたてまつりたるとて、詩三首つくりて給はせける中に、   漢月天にうるはしくしてこと<”くなりといへ共わするゝことなかれ。昔のひ文をもてあそぶことを と、つくらせ給へりけるとて、和して奉らんとしけるほどに、おどろきにけり。夢のうちには都率の内院におはしますと、おぼしかりきとぞ、和してたてまつれるふみにはかゝれはべるなる。


40 藤の初花

去年は二条のみかど、ことしはこの殿の御事、をりふし心あらん人は、おもひしりぬべきよなるべし。贈太政大臣正一位など、のちにそへたてまつられ侍とぞ、きこえ給ふ。きのふ今日のちごに、おはしますを、むかし物がたりにうけ給はるやうにおぼえていとあはれにかなしく侍り。六条の摂政と申すなるべし。又なかの摂政殿と申す人も侍り。太郎におはせしかども、中関白と申ししやうなるべし。このつぎの一の人には、今の摂政のおとゞにおはします。御母はこれも國信の中納言の三のきみにぞおはする。御名は國子と聞え給ふ。三位し給ひつるとぞ、一の人藤氏の御はらの、おほくは源氏におはします。しかるべきことにぞ侍。宇治殿一条殿の御母は、一条の左大臣の御むすめ、のちの二条の関白殿は、土御門の右のおとゞの御むすめ、法性寺殿は六条の大臣、此の殿ふたところは、源中納言のひめぎみふたところにおはしませば、藤氏は一の人にて源氏は御はゝかたやんごとなし。御ながれかた<”あらまほしくも侍かな。いまのよの事、ことあたらしく申さでも侍るべけれど、ことのつゞきなれば申し侍るになん。このおとゞ永暦元年八月十一日、内大臣にならせ給ひて、同月左大将かけさせ給ひき。同二年九月十三日、左大臣にのぼらせ給ひて、永萬二年七月廿七日、摂政にならせ給ふ。御とし廿二におはしましき。やがて藤氏の長者にならせ給ひき。仁安三年二月、當今位につかせ給ひしに、又摂政にならせ給ふ。いとやんごとなく、おはしましける御さかえなり。御あにの摂政殿も、宇治の左のおとゞも、其の御子の大将殿も、長者つぎ給ひて、ひさしくおはしまさば、一の人の御子なりとも、大臣にこそならせ給ふとも、かならずしも、家のあとつがせ給ふ事かたきを、この御ほうにや、おされさせ給ひけん。みなゆめになりて、かくたちまちに摂政にならせたまひ、藤氏の長者におはします。みかさの山のあさ日は、かねててらさせ給ひけん。御身のざえをさなくよりすぐれておはしますとて、内宴の侍るなども、あにをさしおきたてまつりて、そのむしろにまじはらせ給ひき。御心ばへあるべかしく、まだわかくおはしますに、公事をもよくおこなはせ給ふ。おとなしくおはしますなり。閑院ほどなくつくりいださせ給ひて、上達部殿上人など、詩つくり、哥たてまつりなどして、むかしの一の人の御ありさまには、いつしかおはします。心ある人いかばかりかは。ほめたてまつるらん。みかどにかしたてまつらせ給ひて、内裏になりなどし侍らんも、よのためも、いとはえ<”しきことにこそ侍るなれ。ゆくすゑ思ひやられさせ給ひて、しかるべきことゝ、よのためも、たのもしくこそうけたまはれ。此ふたりの 摂政殿たち、みな御子におはしますなれば、ふぢなみのあとたえず、さほがはのながれ、ひさしかるべき御ありさまなるべし。


41 浜千鳥

このちかくおはしましゝ入道おほきおとゞ、御心のいろめきておはしましゝかば、ときめき給ふかた<”おほくて、きたのかたは、きびしくものし給ひしかども、はら<”になんきんだちおほくおはしましき。ならの僧正、三井寺の大僧正、このふたりは、をとこにおはしまさば、いまはおい給へるかんだちめにておはすべきを、北のかたの御はらに、をのこ君たちもおはしまさで、女院ばかりもちたてまつり給ひつるにつけてもおほかたもそねましき御心のふかくおはしましけるにや。御房たちの、をさなくおはしましゝより、おとなまで、ちかくもよせ申させたまはず。いなごなどいふむしの心をすこしもたせたまはゞよく侍らまし。きさきなどはかのむしのやうに、ねたむ心なければ御こもうまごもおほくいでき給ふとこそ申すなれ。関白摂政の北のかたも、おなじことにこそおはすべかめれ。されど年よりては、おもほしなほしたりけるにや。きみだちほかばらなれど、とのゝうちにもおほくおはしましき。源中納言のひめぎみたち、ふたりに、ひとりのは、故摂政殿、いまひとりのには、たうじの殿、又山に法印御房とておはしましき。又ならに僧都とておはします也。又女房の御はらに、右のおほい殿三井寺のあや僧都のきみ、又三位中将殿など申しておはしますなり。又山の法印などきこえたまふ。又すゑつかたに、ときめかせ給ひしはらにおはする、山の法眼など申してきこえ給ふ。をんなきんだちは、女院中宮などおはします。さぬきのみかどの御ときの中宮聖子と申すは、きたのまん所のひとりうみたてまつらせ給へるぞかし。その御ははは、むねみちの大納言の御むすめ、あきすゑのすりのかみのはらの御むすめを、法性寺殿にたてまつり給へりき。かの女院さぬきのみかどくらゐにおはしましゝ、ちゝのおとゞも、時の関白におはしましゝかば、宮の御かた御あそびつねにせさせ給ふ。をり<につけつゝ、むかしおぼしいづることも、いかにおほく侍らん。うづきのころ、みかど宮の御かたにこゆみの御あそびに、殿上人かたわかちて、かけものなどいだされ侍りけるに、あふぎかみをさうしのかたにつくりて、うたかきつけられたりけり。そのうたは、

  これをみておもひもいでよ濱千鳥跡なき跡を尋ねけりとは

とはべりける返し、公行の宰相右中弁とておはせしぞしたまひける。

  はま千鳥跡なき跡を思ひ出て尋ねけりともけふこそはしれ

とぞうけ給はりし。哥は殿のよませ給へるにや侍りけん。拾遺抄にはべる、をのゝみやのおとゞのふること、おもひいでられて、いとやさしくこそきこえ侍りしか。


42 使合

かのみかどくらゐおりさせ給ひしかば、皇太后宮にあがらせ給へりき。このゑのみかどの御時も母后にて、内になほおはしましき。中宮と申ししとき、このゑのみかどの春宮におはしましゝに、ふたみやの女房たち、つねにきこえかはして、をかしきことゞもはべりけるに、ふみのつかひ、いかなるものに侍りけるにか。わろしとて、はじめは蔵人を、東宮によりやられたりければ、返事又少将ためみちしておくりたりけり。其かへりごと、春宮より公通の少将もちておはしたりけり。かやうにするほどに、左のおとゞ中宮の女房のふみもちてわたり給ひたるに、春宮の女房なげきになりて、みやつかさなどゝいかゞせんずると、さま<”ものなげきにしあへるに傅の殿のおはしましたるは、この宮人におはしませば、ことつけにてこそあれなどいへども、からくしまけてわぶるほどに、関白どのわれつかひせんとて、ふみかゝせて、中宮の御方にわたらせ給へるに、女房みなかくれて心えてさしいでねば、とかくしでうちかけてかへらせ給ひぬ。中宮には又これにまさるつかひは、院こそおはしまさめとて、かゝることこそさぶらへとて、うちの御つかひにやありけん。とうの中将とて、のりながのきみ、とばの院の六条におはしましゝに申されければいかにもはべるべきに、女房のとりつぎてをため侍れば、えなんし侍るまじきと、申させ給ひなどしてありときゝ侍りし、のちには、いかゞなり侍りけん。この女院はじめつかたは、うへつねにおはしまして、よるひるあそばせたまひけるに、すゑつかたには、兵衛のすけなどいふ人いできて、めづらしきをりも、おほくおはしましけるに、うへふとわたらせ給ひけるに、しばしみじかき御屏風のうへより、御覧じければきさき十五かさなりたる、しろき御ぞたてまつりたる御そでぐちの、しらなみたちたるやうにゝほひたりけるを、なみのよりたるをみるやうなる御そでかなど、おほせられければうらみぬそでにもやと、いらへ申させ給ひけるときこえ侍りし。うらみぬ袖も、なみはたちけり。といふ、ふるき事なにゝはべるとかや。をりふしいとやさしく侍りけることなどこそ、つたへうけ給はりしか。ひが事にや侍りけん。人のつたへはべることはしりがたくぞ、新院とをくおはしましてのち、この女院は御ぐしおろさせ給ひてけりとなん、きこえさせたまふ。 おなじことゝ申しながらも、いとあはれにかなしく、近衛のみかどの御時の中宮、呈子と申ししも、太政大臣伊通のおとゞの御むすめを、この法性寺殿の御子とてぞたてまつり給へる。此頃九条院と申すなるべし。まことの御子ならねど、院号も関白の御子とてはべるとかや。この法性寺殿は、二条のみかどの御時も、女御たてまつらせ給ひて、中宮にたち給ひき。みかどかくれさせ給ひても、いまの新院くらゐの御時、國母とて、猶うちにおはしましき。みかどくらゐさらせ給ひしかば、さとにおはしませども、猶中宮と申すなるべし。御ぐしおろさせ給へるとかや。まだ御とし廿三四などにや、おはしますらん。このころばかり、上らうの入道宮、院たち、おほくおはしますをりは、ありがたくや侍らん。女院いつところおはします。おほみや中宮、二所のきさきの宮、斎宮さい院などかた<”きこえさせ給ふ。かつはよのはかなきによらせ給ふ。ほとけのみちのひろまり給へるなるべし。


43 飾太刀

ふけの入道おとゞの御子は、法性寺のおほきおとゞ、つぎには、宇治の左のおとゞよりながときこえ給へりし、女君は高陽院と申す。泰子皇后宮ときこえたまひき。法性寺殿のひとつ御はらのあねにておはしましき。長承三年三月のころ、きさきにたち給ふ。御とし四十ときこえき。保延五年院号えさせ給ひき。左のおとゞ、御はははとさのかみもりざねといひしがむすめにやおはしけん。その左のおとゞは御みめもよくおはし、御身のざえもひろき人になんきこえ給ひし。堀川の大納言に、前書とかきこゆるふみ、うけつたへさせ給へりけり。そのふみは、匡房の中納言よりつたはりて、よみつたへたる人、かたく侍るなるを、この殿ぞつたへさせたまへりける。いまは師のつたへもたえたるにこそ侍るなれ。かやうにして、さま<”のふみどもよませたまひ、僧のよむふみも、因明などいふふみならの僧どもに、たづねさせ給ふとかやきこえき。さうのふえをぞ、御あそびにはふかせ給ふときこえたまひし。御てかゝせ給ふ事をぞ、わざとかきやつさせ給ひけるにや。あにの殿に、いかにもおとらんずればなど、おぼしたりけるを、法性寺殿はわれは詩もつくるやうに、おぼゆるものを、さては詩をぞつくらるまじきなどぞおほせられけるとかやきこえ侍りし。法成寺すりせさせ給ふ。塔のやけたるつくらせ給ひて、すがやかにいとめでたく侍りき。日記などひろくたづねさせ給ひ、おこなはせ給ふことも、ふるきことをおこし、上達部の着座とかしたまはぬをも、みなもよをしつけなどして、おほやけ わたくしにつけて、なにごともいみじく、きびしき人にぞおはせし。みちにあふ人、きびしくはぢがましきことおほくきこえき。公事おこなひ給ふにつけて、おそくまゐる人、さはり申す人などをば、いへやきこぼちなどせられけり。ならに濟圓僧都ときこえし名僧の、公請にさはり申しければ京の宿房こぼちけるに、山に忠胤僧都ときこえしと、たはぶれがたきにて、みめろむじて、もろともに、われこそおになどいひつゝ、うたよみかはしけるに、忠胤これをきゝて、濟圓がりいひつかはしける、

  まことにや君がつかやをこぼつなるよにはまされるこゝめ有りけり

返し

  やぶられてたちしのぶべき方ぞなき君をぞ頼むかくれみのかせ

とぞきこえ侍りける。又女えんせさせ給ふ事もあら<しくぞ、きこえ侍りける。いはひをなどいふ、ふるきいろごのみとかや思はせ給ひけるに、よるにはかにおはしたりければかくれておもひかけぬものゝ、うしろなどに有りけるを、もりのり、つねのりなどいふ人どもして、もとめなどして、かくれのあやしのかたまでみけれど、えもとめえてかへり給ひて、またひるあらぬさまにて、かくわたらせ給へると侍りければこのたびはいであひたてまつり、たいめしけるにも、むかしいまの物がたりなどして、ことうるはしく、かへりいでさせ給ひにけり。ふたゝびながら、よつかざりしなどぞいひけると、人はかたり侍りし、この御わらはなはあやぎみと申しけるに、ふけどの法性寺殿、おやこの御なか、のちにこそたがはせ給へりしか。はじめは左のおとゞ、御子にせさせたてまつり給ひけるころ、かざりたちもたせたてまつらせ給ひけるに、

  よゝをへてつたへてもたるかざりたちのいしつきもせずあやおぼしめせ

とよませ給へりけるほどに、すゑには御心どもたがひて、このおとうとの左のおとゞを、院とゝもにひき給ひて、藤氏の長者をもとりて、これになしたてまつり給ふ。賀茂まうでなどは、一の人こそおほくし給ふを、あにの殿をおきて、この左のおほいどのゝ、賀茂まうでとて、よのいとなみなるに、東三条などをもとりかへして、かぎなどのなかりけるにや。みくらのとわりなどぞし給ふときこえ侍りし、ふたりならびて、内覧の宣旨などかうぶり給ひ、随身給はりなどし給ひき。かゝるほどに、鳥羽院うせさせ給ひて、讃岐院と左のおとゞと御心あはせて、この院のくらゐにおはしましし時、白河のおほいみかどどのにて、いくさし給ひしに、みかどの御まぼりつよくて、左のおとゞも、馬にのりていで 給ひけるほどに、たれがいたてまつりたりけるにか。やにあたり給ひたりけるが、ならににげておはして、ほどなくうせ給ひにき。その公だち、右大将兼長ときこえたまひし、御はゝは、師俊の中納言の御むすめ也。その大将殿は、御みめこそいときよらにあまりぞふとり給ひてやおはしましけん。御心ばへもいとうつくしくおはしけり。つぎに中納言中将師長と申ししは、みちのくのかみ信雅ときこえし、御うまごにやおはすらん。その御おとうとは、中将隆長と申しける。それも入道中納言の御はらなるべし。みなながされ給ひて、うら<におはせしに、中納言中将殿はかへりのぼり給ひて、大納言になり、大将などにおはすめり。身の御ざえなども、をさなくよりよき人にておはしますときこえ給ひき。びはゝすべてじやうずにておはしますとぞきこえ給ふ。みやこわかれて、とさの國へおはしけるに、これもりとかやいふ陪従、御おくりにまゐりけるみちにて、さうのことのえならぬしらべつたへ給ふとて、そのふみのおくに、うたよみ給へりけるこそ、あはれにかなしくうけ給はりしか。

  をしへをくかたみをふかく忍ばなん身は青海のなみにながれぬ

とかやぞきゝ侍りし。あをうみはかのしらべの心なるべし。いとかなしく、やさしく侍りけることかな。もろこしに、むかし〓叔夜といひける人の琴のすぐれたるしらべを、このよならぬ人につたへならひて、ひとりしれりけるを、袁孝尼とかやいひけることひきの、あながちにならはんといひけれども、ないがしろにおもひて、ゆるさゞりけるほどに、つみをかうぶりけるときは、このしらべの、ながくたえぬることをこそ、かなしみいたみけれ。此のことのしらべをつたへ給ひけんことこそ、かしこくたのもしくも、うけ給はりしか。びはこそすぐれ給へりときこえ給へりしか。しやうのことをも、かくきはめさせ給ひて、御おほぢのあとをつがせ給ふ、いとやさしくこそ、うけ給はり侍れ。かくてとしへてのち、かへりのぼり給へるに、二条のみかど、びはをこのませ給ひてめしければまゐらせ給ひて、賀王恩といふ楽をぞひき給ひけると、つたへうけたまはる。さてもとのかずのほかの大納言にくはゝり給ひて、うちつゞき大将かけ給へるなるべし。そのほかのきみだちは、みなうら<にてかくれ給ひにける。いとかなしく、いかにあはれに、ぬしも人もおぼしけん。このならにおはせし禅師のきみも、かへりのぼり給ひてのち、うせ給ひにけり。たゞごとゞもおぼえたまはぬ御ありさまなり。この左のおとゞは、このゑのみかどの御時、女御たてまつり給へりき。おほいのみかどの右大臣、公能のおとゞの三君を、御子にし給ひて、たてまつりたまひて、皇后宮多子とぞ申しし。その左のおとゞのきたのかたは、おほいのみかどのおとゞの御いもうとなれば、そのゆかりに、御子にし給へるなるべし。このころは、大宮とぞきこえさせ給ふなり。


44 苔の衣

のちの二条殿の御子には、ふけの入道おほきおとゞ、その御おとうとにて、宰相中将家政、少納言家隆とておはしき。たじまのかみ良綱といひしが、むすめのはらにおはす。その宰相の御心ばへのきはだがにおはしけるにや。三条のあし宰相とぞ、人は申し侍りし。その御子には、あきたかの中納言のむすめのはらにおはせし、まさのりの中納言と申しし、身の御ざえひろくおはしける。つかさをもかへしたてまつり給ひて、かしらおろして、かうやにおはすときゝ侍りし、その御子にて、少将ふたりおはすなる、さきのみまさかのかみあきよしときこえしが、むすめのはらにやおはすらん。おとうとの少将きんまさときこえ給ふ、二条のみかどかくれさせ給ひて、世をはかなくおもほしとりて、高野山にのぼりて、かしらおろしてすみ給ふなれば、御おやの中納言も、それにひかれて、ふかきやまにも、すみたまへるなるべし。むかしこそわかき近衛のすけなど、世をのがれて山にすみ給ふとは、ふるき物がたりにもきこえ侍れ。またにこれこそあはれにかなしく、花山僧正の、ふかくさの御とき、蔵人頭にておはしけるが、よるひるつかうまつりて、りやうあんになりにければかなしびにたへず。御ぐしおろし給ひて苔のころもかはきがたく、入道中納言、後一条の御いみに、みかどをこひたてまつりて、よをそむきて、ふかきやまにすみ給ひけんにも、おくれぬあはれさにこそきこえ給ふめれ。むかしはいかばかりかは、かやうの人きこえ給ひし、九条殿の御子、高光少将、はじめはよかはにすみ給ひてたゞかばかりぞえだにのこれる。などいふ御うたきこえ侍りき。後には多武峯におはしき。又少将時叙ときこえ給ひし源氏の、一條のおとゞの御子、大原の御むろなどきこえて、やんごとなき真言師おはしき。又むらかみの兵部卿致平のみこの、なりのぶの中将、又堀川関白のうまごにやおはしけん。重家の少将とて、左大臣のひとりごにおはせし、もろともに仏道にひとつ御心に、ちぎり申し給ひて、三井寺の慶祚あざりのむろにおはして、よをそむきなんと、のたまひければなだかくおはする君だちにおはするに、びんなく侍りなんどいなび申しけれど、かねて御ぐしをきりておはしければ慶祚あざり、ゆるしきこえてけり。てる中将、ひかる少将など申しけるとかや。中将は廿三、いまひとりは廿五におはしけるとかや。行成大納言 の御夢に、重家のせうそことて、世をそむきなんどいふこと、のたまへりけるを、御堂のおとゞの御もとにおはしあひて、かゝる夢こそみ侍つれと、かたりきこえ給ひければ少将うちわらひて、まさしき御夢に侍り。しか思ふなどのたまはせける。つぎの夜、てらの大阿闍梨房へおはしたりけるとなん。としごろの御心ざしのうへに、ときの一の人の、わづらひ給ふだに、人もたゆむことおほく、よのたのみなきやうに、おぼえたまふことの、心ぼそくおぼえたまへて、さばかりをしかるべき君だちの、その御としのほどにおもほしとり、おこなひすまし給へりし、あはれなどいふもことも、よろしかりしことぞかし。このことを、又人の申し侍りしは、齋信公任俊賢行成ときこえ給ひし大納言たち、陣の座にて、よのさだめなどしたまひけるを、たちきゝたまひて、くらゐたかくのぼらんとおもふは、みのはぢをしらぬにこそありけれ。かやうに、のちのよをぞ思ひとるべかりけるなど思て、いでたまひける夜、しげいへの少将、御おやの大臣殿にいとま申し給ひけるを、おほかたとゞめらるべきけしきもなかりければえとゞめ給はざりけるともきこえ侍りき。行成大納言の御日記には、さきに申しつるやうにぞはべるなる。これはこと人のかたりはべりし也。四条大納言公任の御哥など侍りしかとよ。御集などにはみえ侍らん。又いひむろの入道中納言の御子、成房の中将の君も、おやの中納言のおなじふかきたにゝいつゝのむろならべて、おこなひ給ひしぞかし。義懐の中納言、惟成の弁、このふたりは花山院のをり、かしらおろし給へりき。四条の大納言の御哥、弁の大とくのもとに、

  さゞなみやしがのうら風いかばかり心のうちのすずしかるらん

ときこえ侍りしむかしこそさかりなる人の、かやうなるはきこえ給ひしか。ちかきよには、かゝる人もきこえたまはぬを、このきんふさの少将こそ、あはれにかなしくきこえたまへ。


45 花の山

おほとのゝをのこ公だちは、後の二条殿のつぎに、花山院の左のおとゞいへたゞとて、大臣の大将にて、ひさしく一のかみにておはしき。そのはゝは、みのゝかみよりくにときこえし源氏のむすめのはらにおはす。このおとゞ、関白にもなり給ふべき人におはすれど、御あにの二条殿の御子、ふけの入道おとゞの大殿のうまごにおはするうへに、御子にしたてまつり給ひて、関白つぎ給へれば、大殿のおはしましゝ代より、ふけ殿をたのみに してあれと、おほせられをきてさせ給ひければなにごとも申しあはせつゝすぎたまへりけるに、ふけ殿関白になり給ひて、大将のきたまへりけるを、白河院の御おぼえにて、宗通大納言なるべしときこえければこのおとゞ、ふけどのにいかゞし侍るべきと申しあはせ給ひければいかにもちからおよばぬことにこそあめれ。さるにても、もしすこしのつまともやなると、中宮に心ざしをみえ申し給へ。このいへにいとなきことなれどなど侍りければまことにしか侍事とて、申しいれたまへりければ思ひがけぬ御心ざしなどきこえ給ひけるほどに、白川院宗忠のおとゞ、頭弁におはしけるとき、ゝとまゐれと侍りければおそくやおぼしめすらんと、おそれおぼしけれど、いと心よき御けしきにて、堀川のみかど、くらゐおはしましゝとき、うちへまゐりて申せとて、大将あきて侍るに、むねみちをなし侍らんと思ひ給ふなり。をさなくよりおほしたて侍りて、さりがたく思ふあまりになんなどそうせよと侍りければ、わづらはしきことにかゝりぬと思ながら、まゐり給へりけるに、うちは御ふえふかせ給ひて、きこしめしもいれざりけるを、ひまうかゞひてかくとそうし給ひければ御返事もなくて、なほふえふかせたまひて、いらせたまひにけるを、いそぎて返事申せと侍つる物をと思ひて、おどろかし申されければ、いでさせ給ひて、いかさまにも、御はからひにこそ侍らめ。かくおほせつかはすべしともおもふたまへ侍らず。かゝるおほせ侍れば、おそれながら申し侍るになん。むかしうけたまはり侍りしおほせに、よのまつりごとはつかさめしにあるべきなり。しかあれば大臣大将などよりはじめて、ゆげいのまつりごとまで、人のみゝおどろくばかりのつかさをばよくためらひて、よの人いはんことをきくべきなりと、うけたまはり侍りしより、いとかしこきおほせなりと、心のそこにおもひ給ひてなん、まかりすぎ侍る。この大将のことは、しかるべきにとりて、いへたゞこそ、関白の子にて侍るうへに、くらゐも上らうに侍るをこえ侍らんや。いかゞと思ふたまふるに、下らうなりとも、身のざえなどすぐれ侍らば、そのかたともおぼえはべるべきに、それもまさりたることも侍らず、いかにも御はからひに侍るべしと申せと、のたまはせければかへりまゐられはべりけるに、いそぎとはせ給ひけるに、かくと申しければ院きかせ給ひてしばしさぶらへとて、かさねてめして、えもいはずのたまはするものかな。まことにことわりなりとて、いへたゞおほせくだすべきよし侍りてぞこのおとゞ大将にはなりたまひける。このおとゞの御子は、中納言たゞむねと申しき。その中納言は、はりまのかみ定綱ときこえしむすめのはらにおはしき。中納言いとよき人にぞ おはせし。雅兼の中納言とならび給ひて、五位蔵人十年ばかり、蔵人頭にても十年などやおはしけん。廿年の職事にて、ふたりながら、おなじやうにつかへ給ひしに、むかしにもはぢず、すゑのよには、ありがたき職事とて、をしまれ給ふほどに、中<おそくのぼりたまふとぞ、いたみ給ひける。宰相中納言まで、おなじやうにならびてのぼり給ひき。忠宗の中納言は、中宮権太夫ときこえ給ひき。その中納言の御子は、修理のかみいへやすときこえしはらにおはする公だち、花山院のおほきおとゞ忠雅、又中納言忠親など申して、おやの御子なれば、よきかんだちめたちにぞおはすときこえ給ふ。忠親の中納言、これもおやたちのおはせしやうに、まさかぬの子の、雅頼の中納言と、蔵人頭にならびて、宰相中納言にも、おなじやうにうちつゞきのぼり給ふなるも、いとかひ<”しく、たゞまさのおとゞは、三位中将大臣大将などへ給ひて、おほきおとゞまでいたり給へり。その御子におはするなる、兼雅の中納言は、家成の中納言の、むすめのはらにやおはすらん。それも、三位の中将などきこえ給ひき。中宮権大夫のあにゝて、はりまのすけ、たゞかぬといふ人もおはしけり。おとうとの中納言の、かんだちめになり給ひてのち、おやのおほいどの大将をたてまつりて、少将にはじめてなし申したまひけるとかや。その少将のこに、光家とかきこえ給ひけるを、大臣殿の御子にし給ひて、殿上したまへりける。侍従におはしけるをば、かのこしゞうとぞ人は申しける。おやはかくれて、このあらはれたるとりなるべし。そのおやの少将はこよりのち、殿上もし給ひけるとかや。おほいどのゝ三郎にては、あぜちの大納言經實と申しておはしき。二位大納言とぞ申しし。二位宰相など申しつけたりけるとぞ。その御はゝはみのゝかみ基貞のむすめなり。その大納言の御むすめ、公實の春宮太夫のおほいぎみのはらにおはせしを、院の宮とておはしましゝに、まゐり給ひて、二条のみかどをうみたてまつりてかくれ給ひにき。きさきをおくられ給ひて、ちゝの大納言殿は、おほきおとゞおくられ給へるとぞ。その贈后のひとつ御はらにおはすなる。このころはつねむねの左のおとゞときこえ給ふ。二条の院の御をぢにておはせしうへに、われからもはか<”しくおはするにや。よきかんだちめとぞきこえたまふめる。おやの大納言殿も、あにの中納言殿も、物などかき給ふことおはせずときこえしに、これはふみにもたづさはり給へるとぞきこえ給ふ。御子に中将のきみおはすなる、清隆の中納言のむすめのはらにやおはすらん。この大臣殿の御あにども、おほくおはするなるべし。經定の中納言は、治部卿通俊 のむすめのはらにおはしけるとぞきこえし。そのつぎに、みつたゞの中納言ときこえ給ふも、左のおとゞの御あにゝおはするなるべし。二条のおほぎさいのみやの女房のこにおはせしを、かのみやゝしなはせ給ひて、はるわかぎみときこえし、このころは前中納言民部卿になり給ふとかや。あはぢの大納言の御子は、おほくおはしけるとぞきこえし。おほ侍従などいひてもおはしき。仁和寺に静經僧都ときこえたまひしは、よき真言師にて、しるしある人とてきこえ給ひし。おほとのゝ四郎にやあたり給ひけん。あぜちのひとつはらによしざねの大納言と申しし、をのゝ宮とぞきこえ給ひし。あにの殿よりも、もじなどかきたまひしにや。けびゐしの別当などし給ひき。大殿の五郎にやおはしけん。忠教の大納言、四条の民部卿とぞきこえ給ひし。その御はは遠江守永信がこに、蔵人おりて、つかさもなかりしにや。永業ときこえし人のむすめのはらにおはす。その民部卿の御子どもあまたおはしき。忠基の中納言と申しし、つくしの帥になり給へりしかとよ。かぐらのふえをぞよくふき給ひけると、うけたまはりし。その御子に、六角の宰相家通と申すなるは、重通のあぜちの大納言のやしなひ申し給ひけるとぞきこえ給ふ。 


46 水茎

四條の民部卿の御子は、又俊明の大納言のむすめのはらに、宰相中将教長ときこえ給ひし、のちには左京のかみになりて、さぬきの院のことゞもおはしましゝに、かしらおろし給ひて、ひたちの、うきしまとかやに、ながされ給へりし、帰りのぼり給ひて、かうやにすみ給ふときこえ給ふ。わかのみちにすぐれておはするなるべし。てかきにもおはすとぞ、ところ<”のがくなどもかき給ふなり。又みだうのしきしがたなどもかき給ふとぞきこゆる。佐理の兵部卿、しんのやうをぞこのみて、かき給ふときこゆる、かつは法性寺のおとゞの御すぢなるべし。花ぞのゝおとゞのも、さやうのすぢにかゝせ給ふとぞ、きこえさせ給ひし。宇治の左のおとゞの、ともたか、のりなが、いづれかまさりたると、ときたゞときこえし人に、とひ給はせければさだめきこえんもよしなくて、とり<”によくかき侍りとぞ、こたへ申してし。さだのぶのきみ、人にかたられけるを、たび<とはせ給ひけるにや。申しきられにけりともきこえ侍り。はだへと、ほねとにたとへたるとかや。その入道は人にかたられける。朝隆の中納言は、行成の大納言の消息、ゆゝしくうつしにせられたるとぞきこえ侍るめる。そのせうそくもたぬ人なく、よにおほくはべる也のりなが の御ても、さま<”京ゐ中つたはり侍るなり。宮内大輔も、ひじりのすゝむるふみ、なにかとすぐさずかきひろめ侍りけり。いかに本おほく侍らん。みちかぜのぬしのいますがりけるよにこそ、ひとくだりもたぬ人は、はぢに思ひはべりけれ。宮内大輔は大納言のすゑなれば、よくにらるべきにて侍れど、ひとつのやうをつたへられたるにや。つねにみゆるやうにはかはりてぞ侍るなる。おほぢのすざかの治部卿の御てにぞよくにて侍りける。そのさだのぶのきみは、一切經を一筆にかきたまへる、たゞ人ともおぼえ給はず。よになきことにこそ侍るめれ。五部の大乘經などたに、ありがたく侍るにいとたふときちぎりむすび給へる人なるべし。のりながの御わらはなは、文殊君と聞えき。殿上人におはせしにも、道心おはして、をとこながらひじりにおはすときこえ給ひしかば、いかばかりたふとくおはすらん。その御おとうとにて、かもばらのきみだち、あまたおはすときこえたまふ。その御はゝこそ、うたよみにおはせしか。おほぢのなだかきうたよみなりしかばなるべし。いとやさしくこそ。月やむかしのかたみなるらん。とよみ給へるぞかし。撰集には有教がはゝとていり給へり。奈良仁和寺山などに、僧きんだちもおほくおはすとぞきこえ給ふ。民部卿のつぎに、宮内卿ときこえたまひし、かんだちめにもならでやみたまひにき。


47 故郷の花の色

おほとのゝ僧公達には、山には理智房の座主と申して、をとこ公達よりあにゝおはしけるなるべし。ならには覚信大僧正、三井寺には、白河の僧正増智とて、さぬきのみかどの護持僧におはしき。たゞのりの大納言の、ひとつはらとぞきこえ給ふ。徳大寺の法眼と申ししは、花山院の左のおとゞの、ひとつはらにおはす。心のきゝ給へるにや。法金剛院の、いしたてなどにめされて、まゐり給ひけるとかや。梵字などもよくかき給ふとぞきこえ給ひし。ならに玄覚僧正と申ししもおはしき。うせ給ひしほどに、仁和寺の寛運とかいひし人、みずほうの賞に、僧都になりし、いかなりしことにか。たれが御つかひとかやとて、ひごとに、みてぐらたてまつらるゝことありと、きこしめしたりけるとかや。二条殿の御時にも範俊とかやきこえし、鳥羽の僧正、はやしの中に、しのびてたてられたる。丈六の明王のみだうにて、みずほうおこなはるなど、きこえ侍りし。これらよしなきことに侍り。山の座主行玄大僧正ときこえ給ひしは、やんごとなき真言師にて、とばの院佛のごとくにおもほし給ふときこえき。三昧のあざり良祐といひしやんごとなき 真言師に、こまかにつたへならひ給ひて、心ばへふるまひありがたく、僧のあらまほしきさまにて、さる人まだいできがたくなんおはしける。尊勝陀羅尼の御導師におはしけるに、ひぐらしあることなれば僧膳などいふこともあり。又おのづからたち給ふことなどありけるに、御あふぎのうへに、五鈷おきて、わが御かはりに、とゞめ給ひけるなどをも、いと心にくゝよしありて、めもあやにぞおもひあへりける。鳥羽院御ぐしおろさせ給ひしとしにや侍りけん。七月ばかりより、御わらはやみ、大事におはしまして、月ごろわづらはせ給ひしに、さま<”の御いのりせさせ給はぬ事なく、かた<”より御いのりしつゝたてまつり給ひ、げんざとて、三井寺の覚宗などいふそうたち、うちかはりつゝまゐりても、おこらせ給ひて、あさましくきこえ侍りしに、げんざなどし給ふさまにはおはせねど、この座主のまゐり給ひて、いのりたてまつり給ひけるにこそ、かひ<”しくおこたらせ給ひにければまたのちにも、ほどへておこらせ給へりけるにもたび<やめたてまつり給ひけるとこそきこえ侍りしか。かやうのげんざには、山ぶしをのみたのもしきものにはおもひあへるに、まことしきことは、このたびぞみえ侍りける。山しなでらの尋範僧正と申すぞ、ひとりのこり給ひてこのころおはする。それはもろかたの弁のむすめのはらにや。ならにはきよきそうもかたきをいとたふとき人にぞおはしますめる。和哥こそよくよみ給ふなめれときこえ侍りしか、

  やどもやと花も昔にゝほへどもぬしなき色はさびしかりけり

とよみ給ふ。ことばもいひなれ、すがたもよみすまされ侍る。近院の大臣の、河原院にてよみたまへるうた、

  うちつけにさびしくもあるか紅葉ゝのぬしなきやどは色なかりけり

といふ御うたの心なるものから、よみかへられて、いとやさしくきこえ侍る。又範永が、月のひかりもさびしかりけり。といふ哥の心なれども、それにもかはりて侍り。おなじ御はらのあにゝて寺の仁證法印とてもおはしき。猶僧公だちは、あし法眼など申すもおはしき。またてらに法印など申すも、おほかたをとこぎみ、十五六人ばかりやおはしましけん。


〔ふぢなみの下〕第六

48 絵合の歌

たかつかさ殿の御はらの公だちの御ながれみな申し侍りぬ。たかまつの御はらの、ほりかはの右大臣よりむねのおとゞこそ、関白にはなり給はざりしかども、女御たてまつりなどし給ひ、すゑのきみたちも、ちかくまでくらゐたかくおはする、あまたきこえたまひしが、このおとゞみだうの第二の御子におはす。御はゝは、西宮の左大臣高明のおとゞの御むすめ也。永承二年八月一日、内大臣になり給ふ。御年五十四、大将もとのまゝにかけたまひき。康平三年に右大臣になり給ひき。御とし七十三ときこえき。和哥のみちむかしにはぢずおはしき。哥よみは貫之かねもり、ほりかはのおほい殿、千載の一過とかやある人申し侍りけると申しいだしたる、人はえきゝはべらず。御集にもすぐれたる哥おほくきこえ、撰集にもあまだいり給へり。いたく人のくちならし侍御哥は、はなもみぢたなばた千鳥など、かずしらずきこえ侍るめり。中にも恋のうたは、いたく人のくちずさびにもし侍る、おほくよみ給へりき。こひはうらなしなどよみ給へるぞかし。この御哥のさまは、 めづらしき心をさきにし給へるなるべし。帥のうちのおとゞの御むすめのはらに、君だちあまたおはしき。後朱雀院の御時、女御にたてまつり給へりし、れいけいでんの女御と申すなるべし。みかどかくれさせ給ひてのち、さとにまかりいで給へりけるに、うゑおき給へりけるはぎを、またのとしの秋、人のをりて侍りけるをみ給ひて、よみ給ひける、

  こぞよりも色こそこけれはぎの花涙の雨のかゝる秋には

その女御のうみたてまつり給へりけるひめ宮、かものいつきときこえ給ひき。このみやえあはせし給ひしに、卯の花さけるたまがはのさとゝ、相模がよめるはなだかき哥にはべるめり。三のきみは後三条院の春宮と申ししとき、みやすどころにまゐり給へりき。このおとゞの太郎にては、兼頼中納言おはしき。御はゝは、女御のひとつ御はらなり。いとすゑのはか<”しきもおはせぬなるべし。つぎには右大臣としいへのおとゞ、大宮の右のおとゞときこえ給ひき。この御すゑおほくさかえさせ給ふめり。その御子は宗俊の大納言、御母は宇治大納言隆國のむすめ也。管絃のみちすぐれておはしましける、時光といふ笙のふえふきにならひ給ひけるに、大食調の入調をいま<とて、としへてをしへ申さゞりけるほどに、あめかぎりなくふりて、くらやみしげかりける夜いできて、こよひかのものをしへたてまつらんと申しければ、よろこびてとくとの給ひけるを、とのゝうちにてはおのづからきく人も侍らん。大極殿へわたらせ給へといひければさらにうしなどとりよせておはしけるに、御ともには人侍らでありなん。時光ひとりとて、みのかさきてなん有りける。大極殿におはしたるに、なほおぼつかなくはべりとて、ついまつとりて、さらに火ともしてみければはしらにみのきたるものゝたちそひたる有りけり。かれはたれぞと、とひければ武能となのりければさればこそとてその夜はをしへ申さで、かへりにけりと申す人もありき。またかばかり心ざし有りとて、をしへけりともきこえ侍りき。それはひが事にや侍りけん。かの武能もそのみちの上手なりけるに、たれにかおはしけん。一の人のたれにならひたるぞととはせ給ひければ道のものにもあらぬ法師とかよくならひたるものありけるになん、つたへてはべるなど申しければ猶時光がでしになるべきなりとおほせうけ給はりて、みやうぶかきてかれがいへにいたりて、それがしまゐりたりといはせければいどみて、としごろかやうにもみえぬものとて、おどろきてよびいれければ時光ははなちいでに、ふえつくろひてゐたりけるに、たけよし庭にゐてのぼらざりければそでのはたをひきて、のぼせていかにとゝひければとのゝおほせにて、 御弟子にまゐりたるなりといへば、いと心ゆきて、なにをかならひ給ふべきといふに、大食調の入調なん、まだしらぬものにてうけ給はらんと、思たまふなどいふに、けしきかはりて、太郎子に侍りける公里がまへなりけるを、このわらはにをしへ侍りてのちにこそこと人にはさづけたてまつらめ。これはたちまちにおぼしよるまじきことゝいひければこのきみつたへられんこと、たちまちのことにあらじとて、みやうぶとりかへして、かへりいでゝとしへけるのち、心ふかくうかゞひて、きかんとするなりけり。昔の物のしは、かくなん心ふかくて、たはやすくもさづけざりける。その大納言はさやうにみちをたしなみて、やんごとなくなんおはしける。


49 唐人の遊び

あぜちの御こにては、備中守實綱といひし、はかせのむすめのはらに、右大臣宗忠のおとゞ又堀川の左のおとゞの御むすめのはらに、太政のおとゞ宗輔など、ちかくまでおはしき。右のおとゞは中御門のおとゞとて、催馬楽の上手におはして、御あそびなどには、つねに拍子とり給ひけり。才学おはして尚歯會とて、としおいたる時の詩つくりのなゝたりあつまりて、ふみつくることおこなひ給ひき。からくにゝては、白楽天ぞ序かきたまひて、おこなひ給ひけり。このくにゝはこれくはへて、みたびになりにけり。からくにゝは、ふたゝびまでまさりたることにきこえ侍りしに、ちかくわたりたるから人の、またのちにおこなひたる、もてわたりたりけるとぞきゝ侍りし。としのおいたるを、上らふにてにはにゐならびて、詩つくりなどあそぶ事にぞはべるなる。このたびは、諸陵頭為康といふおきな一の座にて、そのつぎにこのおとゞ、大納言とておはしけん。いとやさしく侍りし、蔵人頭よりはじめて、殿上人垣下してから人のあそびのごとくこのよのことゝもみえざりけり。おとうとの宗輔のおほきおとゞはふえをぞきはめ給ひける。あまり心ばへふるめきて、この世の人にはたがひたまへりけり。菊や牡丹など、めでたくおほきにつくりたてゝこのみもち、院にもたてまつりなどして、こと<のよのようじなど、いと申し給ふことなかりけり。あまりあしそはやくおはすとて、御ともの人もおひつき申さゞりける。思ひかけぬことには、はちといひて、人さすむしをなんこのみかひ給ひける。かうなるかみなどにみつぬりてささげてありき給へば、いくらともなくとびきてあそびけれど、おほかたつゆさしたてまつることせざりけり。あしだか、つのみじか、はねまだらなんどいふなつけて、よばれければめしにしたがひてきゝしりてなんきつゝ、むれゐける。うへなどいふ人もいとさだめ給はざり けるにや、をさなきめのわらはべをぞあまた御ふところにはふせておはしける。しり給ふところより、なにもてくらんともしり給はで、あづかりたるものなどとりいづることあれば、こはいづくなりつるぞなどいひて、よによろこびたまひけりとぞ、おやは大臣にもなり給はざりしかども、このふたりはたかくいたり給へりき。中御門の右大臣宗忠の御子は、宗能の内大臣ときこえ給ふ。みのゝかみゆきふさのむすめのはらにやおはすらん。大臣もじしたまひて、御ぐしおろして、まだおはすとぞうけたまはる、おとなしき人だにこの世にはおはせず。いかなるにかわかきひとのみ、上達部にもおはするよにやとせにやあまり給ひぬらん。ひとりのこりたまへるとぞ。宰相中将など申ししほど、なほしゆるされておはしけるとかや。さぬきのみかどの御時、御身したしき上達部にもおはせぬに、思かけずなどきこえき。さきの關白かなど、あざける人などもおはしけるとかや。おほかたはことにあきらかに、はか<”しくおはして、御さかしらなども、したまへばなるべし、やすきことなれども、をさなくおはしますみかどなど、つねには五節の帳臺の試みなどにいでさせ給ふことまれなるに、さぬきのみかど、おとなにならせ給ひて、はじめていでさせ給ひしに、御さしぬきは、なにのもんといふことも、をさめどのゝ蔵人、おぼつかなくおもへるに、あられぢにくわんのもんぞかしなど、蔵人の頭におはせし時、の給ひなどして、さやうのことあきらかにおはしき。みかどの御さしぬきたてまつることは、ひとゝせにたゞひとたびぞおはしませば、おぼつかなくおもへるもことわりなるべし。このおとゞもさいばらの上手におはして、御こゑめでたくおはすとぞ、その御子は、贈左大臣長實の御むすめのはらに、中納言とておはすとぞ。右のおとゞの御子は、宗成のさ大弁の宰相とておはしき。又刑部少輔宗重とて、びはひき給ふ人ぞおはしける。何事の侍りけるにか。よる河原にて、はかなくなり給ひにけり。いかなるかたきをもち給へりけるにか。またやましな寺に覚静僧都と申ししも、みなおなじ御はらなるべし。その僧都こそ、すぐれたる智者におはすとうけ給はりしか。のりもよくとき給ふとて、鳥羽院などにても、御講つとめたまひき。むねすけのおほきおとゞの御子は、前中納言兵部卿と申すとかや。ふえもおやの殿ばかりはおはせずやあらん。ふき給ふとぞ申すめる。大宮の右のおとゞのきんだちあまたおはしき。宰相中将諸兼と申ししその御子に、少将おはしき。宰相のおとうとに、基俊の前左衛門佐と申ししは、下野守順業ときこえしむすめのはらにやおはしけん。そのさゑもんの佐は、哥よみ詩つくりにておはすときこえ侍りしが、 さばかりの人の、五位にてやみ給ひにしこそ口をしくあまりすぐれて、人ににぬ事などのけにや有りけん。いはもるし水いくむすびしつなどよみ給へるぞかし。九十ばかりまでおはしき。なゝのおきなにもいり給へりけるとぞきこえ侍りし。山の座主寛慶ときこえしも、大宮のおとゞの御子とぞきこえし。大乗坊とかや申しけん。


50 旅寝の床

すゑのこにやおはしけむ。大納言宗通の民部卿と申ししこそ、大宮どのゝ御子には、むねとときめき給ひしか。すゑもひろくさかえ給へり。白河院の御おぼえにおはしき。あこまろの大納言とぞきこえ侍りし。哥をもをかしくよみ給ひけるにこそ。行尊僧正のよゐして、とこわすれ侍りけるを、つかはすとてよみ給ふこそ、いとむかしの心ちして、

  草枕さこそかりねのとこならめけさしもおきてかへるべしやは

かへしはをとりたりけるにや。えきゝ侍らざりき。その公達は、顕季の三位のむすめのはらにおほくおはしき。信通宰相中将と申しし、ふえの上手にておはしけり。是は世おぼえおはすときこえ給ひき。白河院の殿上人に、むさのさうぞくせさせて御らんじけるに、しげめゆひのすいかんきて、やなぐひおひ給へりけるこそ、しなすぐれておはしけるにや。こと人はともひとの様にて、このきみこそこあるじなどいはむやうにおはしけると人の申しし、ひがことにや。わらはやみしてうせ給ひにけりとぞきゝ侍りし。いと人のしなぬやまひにこそ、つねはきゝ侍るに、おほかたはこのすゑの御ものゝけこはくおはするにや。民部卿のうせ給ひけるほどにも、いへまさがありつるは、まだあるかなどの給はせければさも侍らず。はかなくなりてとしへ侍りにしものは、いかでか侍らんなど人申しければうやかきてまさしくありつるものをとの給ひけるは、そのいへまさといふがおやのゆづりたるところをとり給ひけるを、からくおもひけるほどに、よせふみをたてまつれ。あづけんなど侍りければよろこびてたてまつりけれど、あづからざりけるとぞ聞侍りし。いへまさとはさねしげとて、式部大夫とかきこゆるがをぢになんきこえし、故宰相うせ給ひけるにも、卿殿おはしまさねば、候はんとてなんどいひていできたりけるとかや。さてそのところは、むすめたづねいだしてかへざるなどきこえ侍りし。のちいかゞ侍りけん。これならず大宮のおほいどのゝ、ものゝけなどいふものも侍るが、としおいたりける僧のしる所侍りけるを、それもさまたげ給ひければまゐりて、中門の らうにつとめてより、ひたくるまでゐたりけれど、いへ人も御けしきにやよりけん。申しもつがざりけるを、民部卿をさなくて、うつくしきわか君の、あそびありき給ふに、この僧のいとをしくつく<”とをりければとぶらひてわれ申さんとて、殿に申し給ひければ人いだしてとはせ給ひけるに、しか<”の所のこと、こたへ申し侍るなど申しければそのよしあることなどこまかにいひいだし給へりけるを、ことわりの侍らんは、とかく申すべくも侍らず。としごろもしるべくてこそ、ひさしくもしり侍らめ。なにかは申すべからず。いのちのたえ侍りなむずることのかなしくてと申しければいはれのあればとて、かなひ侍らざりければいかにもいのちたえ侍りなんとす。たゞしわかぎみをばなさけおはしませば、まぼりたてまつらんと申しければ、それもゝのゝけにいでけるを、まもらんといひしはなどありければさ申しちぎりおもふたまふれば、まもりたてまつるに、その御ゆかりとおもふによりて、おのづからまいりよるなりとぞいひける。宰相中将の公だちは、基隆三位のむすめのはらに行通中将ときこえ給ひし、つかさもじゝ給へりし、ほふしになりておはするとぞ、ことはらのいまひとりおはするとかや。ふたりながら、いよの入道とぞきこえ給ひし。おもひかけぬやうなる御なゝるべし。 


51 弓の音

そのむねみちの大納言の次郎におはせし、太政大臣伊通のおとゞおはしき。詩などつくり給ふかた、いとよくおはしけり。てもよくかき給ひけり。よきかんだちめとておはしけるに、あまりいちはやくて、よのものいひにてぞおはしける。こもりゐ給へりしをりも、御幸などみ給ひては、百大夫へんじて、百殿上人になりにけりなどのたまひ、またこもりゐたるはくるしからねど、よにまじろはまほしきことは、人のいたくゑぼしのしりたかくあげたるに、うなじのくぼにゆひていでんとおもふなりなど、世ににぬやうにのたまひけり。また信頼右衛門督、むさおこしてのち、除目をおこなへりし、み給ひては、などゐはつかさもならぬにかあらん。ゐこそ人はおほくころしたれなど、かやうのことをのみの給ふ人になんおはしける。こもりゐ給ひしことは、宰相におはせしに、われより上らう四人中納言になれるに、われひとりのこりたり。たとひ上らうなりとも、のちに宰相になりたる人もあり。われこそなるべきに、ひとりならずとて宰相をも、兵衛督をも中宮権太夫をも、みなたてまつりて、ひさしくこもり給へりき。人にきこえられたることもなし。こと人ならばさてもおはすべけれども、はらだちてこもり 給へりしに、為通宰相の太郎子におはせし、さぬきの御かどの、御おぼえにおはせしほどに、太政大臣さきの宰相にて、なりもかへらで、中納言になり給ひき。陣の座の除目に、かんだちめになる例は、これやはじめにて侍りけんとぞきゝ侍りし。内より院に申させ給ひ、はからはせ給へと關白におほせられよなど申させ給ひけるにや。さまで御気色もあしくもなかりければなさむとせさせ給ふを、法性寺のおとゞ関白にて、あるまじきことゝたび<申させ給ひければいつとなくしぶらせ給ひけれど、院にたび<御つかひなどありて、陣の座にて中納言になり給ひにき。御前にておこなはるゝ除目にこそ、かんだちめはなさるなるに、これよりはじまりて、このころはさてなさるゝとぞきこえ侍る。うへの御せうとなれば、殿にはさりがたくおはすべけれど、れいなきことゝ申させ給ひけるにこそ。つかさをもかへしたてまつりて、いりこもり給ひけるとき、びりやうげの車やぶりて、いへのまへの大宮おもてのおほぢにて、とりいだしてやきうしなひ給ひけるは、節會の日にて侍りけるとかや。さてこんのすいかんに、くれなゐのきぬとかきて、馬にてかはじりへ、かねとかいふあそびがりおはしけるみちに、鳥羽の樓をなんすき給ひける。かくて年月をわたりてありかんと思ふと、院の御おぼえなりし中納言に消息し給ひければさもとおぼしめしけれど、うちまかせてもえなくても、みかどのせさせ給ふありざるなりけるなるべし。さきの宰相にて中納言になる例なき事なれど、隆國の宇治にこもりゐて、前中納言より大納言になりたることのなぞらへつべきによりてぞなり給ひける。宰相にまづかへしなさんと御氣色ありけるを、さては有かんともなかりければかたき事なりとはべりけるなるべし、さていりこもり給ひしとき、中院大将まだ中納言など申ししをりにや。そのゆみをかり給へりけるが、つかさたてまつりてかへしたまふとて、

  とゝせあまりてならしたりしあづさ弓かへすにつけてねぞなかれける

とはべりけるかへしに中の院、

  さりとても思ひなすてそあづさ弓ひきかへすよも有もこそすれ

と侍りけるかひありて、右衛門督になり給へりき。御むすめこのゑのみかどの御時、女御にまゐり給へりし、后にたち給ひて、みかどかくれさせ給ひにしかば、御ぐしおろし給ひてけり。九条院と申すなるべし。法性寺殿の御子とてまゐり給へれど、まことにはこの御子なれば、いとめでたき御名なり。きさきにはたち給へれど、院の御むすめ、 一の人などならぬはかたき事にてはべるなる。御みめも御けはひも、いとらうある人になんおはすとて、鳥羽院もいと有がたくとぞほめさせ給ひける。このゑのみかどのかくれさせ給ひて、御ぐしおろしたまひてまたのとし、さ月のいつかの日、皇嘉門院にたてまつらせ給ひける、

  あやめ草ひきたがへたるたもとには昔をこふるねぞかゝりける

御かへし

  さもこそはおなじたもとの色ならめかはらぬねをもかけてける哉

と侍りけるとぞきこえ侍りし。太政のおとゞの太郎にておはせし、さいしやうとてうせ給ひにき。その宰相は二郎か太郎かにおはすとて、おほぢの大納言殿、自他君とわらはなつけ申し給ひけり。その宰相の御子は、このころやすみちの少将と申すなる、侍従大納言の子にし給ひておはしけり。またも御子はおはすとて、伊實中納言と申ししは、顕隆の中納言のむすめのはらにて、むかひ腹とてむねとし給ひしかば、あにの宰相よりもときめき給ひき。あにおとゝみなふえをぞふき給ひし。ふたりながらおほい殿よりさきにかくれたまひにき、これざねの中納言の子に、少将侍従など申しておはす也。むねみちの大納言の三郎にて、季通前備後守とておはしき。文のかたもしり給ひき。箏のことびはなど、ならびなくすぐれておはしけるを、兵衛佐より四位し給ひて、この御中にかんだちめにもなり給はざりしこそくちをしく、さやうのみちのすぐれ給へるにつけても、色めきすぐし給へりけるにや。


52 雁がね

かの九条の民部卿四郎にやおはしけん。侍従大納言成通と申すこそ、よろづの事、能おほくきこえ給ひしか。笛哥詩など、そのきこえおはしていまやううたひ給ふ事、たぐひなき人におはしき。またよりあしにおはすることもむかしもありがたきことになん侍りける。おほかたことにちからいれ給へるさま、ゆゝしくおはしけり。まりも千日かゝずならし給ひけり。いまやうもごばんにご石を百かぞへおきて、うるはしくさうぞくし給ひて、おびなどもとかで、釈迦のみのりはしなどにといふおなじうたを一夜にももかへりかぞへて、百ようたひ給ひなどしけり。むまにのり給ふ事もすぐれておはしけり。白河の御幸に、馬の川にふしたりけるに、くらのうへにすぐにたち給ひて、つゆぬれ給ふところおはせざりけるも、こと人ならば水にこそうちいれられましか。おほかたはやわざをさへならびなくし給ひ ければそりかへりたるくつはきて、かうらんのほこぎのうへあゆみ給ひ、車のまへうしろ、ついぢのうらうへとゞこほるところおはせざりける、あまりにいたらぬくまもおはせざりければ宮内卿有賢ときこえられし人のもとなりける女房に、しのびてよる<さまをやつしてかよひ給ひけるを、さぶらひどもいかなるものゝふの、つぼねへいるにかと思て、うかゞひてあしたにいでんをうちふせんといひ、したくしあへりければ女房いみじくおもひなげきて、れいの日くれにければおはしたりけるに、なく<この次第をかたりければいと<くるしかるまじきことなり。きとかへりこんとていで給ひにけり。女房のいへるごとくにかどゞもさしまはして、さき<”にもにず、きびしげなりければ人なかりけるかたのついぢを、やす<とこえておはしにけり。女房はかくきゝておはしぬれば、またはよもかへり給はじとおもひけるほどに、とばかりありてふくろをてづからもちて、又ついぢをこえてかへりいり給ひにけり。あしたにはこのさぶらひども、いづら<とそゞめきあひたるに、日さしいづるまでいで給はざりければさぶらひどもつえなどもちてうちふせんずるまうけをして、めをつけあへりけるに、ことのほかに日たかくなりて、まづおりえぼうしのさきをさしいだし給ひけり。つぎにかきのすいかんのそでのはしをさしいだされければあはすでにとて、おの<すみやきあへりけるほどに、そのゝちあたらしきくつをさしいだして、えんにおき給ひけり。こはいかにとみるほどに、いときよらかなるなほしに、おりものゝさしぬきゝてあゆみいで給ひければこのさぶらひどもにげまどひ、つちをほりてひざまづきけり。くつをはきてにはにおりて、きたのたいのうしろをあゆみまゐりければつぼね<”たてさわぎけり。中門の廊にのぼり給ひけるに、宮内卿もたゝずみありかれけるが、いそぎいりてさうぞくして、いであひまうされてこはいかなることにかとさわぎければべちのことには侍らず。日ごろ女房のもとへ、とき<”しのびてかよひ侍りつるを、さぶらひのうちふせんと申すよしうけたまはりて、そのおこたり申さんとてなんまゐりつると侍りければ宮内卿おほきにさわぎて、このとがはいかゞあがひ侍るべきと申されければべちの御あがひはべるまじ。かの女房を給はりて、いで侍らんとありければ左右なきことにて御くるまどもの人などは、かちにてかどのとにまうけたりければ、ぐしていで給ひけり。女房さぶらひ、すべていへのうちこぞりて、めづらかなることにてぞ侍りける。からくにゝ江都王など申しけん人も、かくやおはしけむ。おほかたは心わかくなどおはして、 はじめて人のむこにおはせしをりも、てうどのづしかきいだして、呪師のわらはの、御おぼえなるに給ひなどし給ひけり。かんだちめになり給ひても、かもまうでにびりやうにあをすだれかけなどし給ひし、はじめたる事にはあらねども、さやうにこのみ給ひけるなるべし。わかざかりは左中将とて、すきものやさしき殿上人、なだかきにておはしき。五節などには雲のうへ、みなその御まゝなるやうにぞ侍りける。いづれのとしにか。五節に蔵人頭たちのまひ給はざりければ殿上人たちはやみていかにぞやうたうたひ給ひけるに、右兵衛督公行の、まだ別当の兵衛佐など申しけん。その人をおもてにおしたてゝ、成通の中将かくれてうたひ給ひけるを、頭弁うれへ申されたりければそのをりにぞ御かしこまりにて、しばしこもりゐたまへりし。白河院には御いとほしみの人にておはしき。殿上人の中には、たゞひとりいろゆるされておはすとぞきこえ給ひし、雪ふりの御幸に、ひきわたのかりごろもをき給へりとて、心えぬ事におほせらるゝときゝて、資遠とて侍りしけびゐしの、まだわらはにて御まへにも、ちかくつかはせ給ひしに、わび申すよしきかせまゐらせよとの給ひければはかなくうちいだして、なりみちこそひきわたの事、かしこまりて申し候へと申したりければあしよしの御けしきはなくて、まことにきくわいなりとぞ、おほせられける。近衛のすけなどは、かとりうすものなど、はなのいろもみぢのかたなど、そめつけらるべかりけるを、ひきわたのあら<しく、おもほしめしけるにや。讃岐院のくらゐの御とき、十五首の哥人々によませ給ひけるに、述懐といふ題をよみ給ふとて、

  しらかはのながれをたのむ心をばたれかはくみてそらにしるべき

とかうぜられけるとき、むしろこぞりて、あはれとおもひあへりけり。なみだぐむ人もありけるとかや。おほかた、哥などもをかしくよみ給ひき。かへるかりのうたに、

  こゑせずはいかでしらまし春がすみへだつるそらに帰雁がね

などよみ給へるも、きよらかにきこえ侍り。恋の哥どもゝこひせよとてもむまれざりけり。また、ふる白雪のかたもなくなど、わが心より思ひいだし給へるなるべしときこえていとをかし。詩などもよく心えたまへりけるなるべし。左大弁宰相顕業といふはかせのかたられけるは、詩のことなどは、いはるゝきけばなにがし千里などもつくりたるいふにきこえて、心すむわざになんある。万里といふになりぬれば、またいふにもおよばすなどあるはと、けふありなどぞ侍りける。あまりねなきやすき やうにぞおはしける。鳥羽にて、白河院のやぶさめといふこと御らんじけるに、たきぐちなにがしとかいふもの、いむとしけるに、あにゝにてつはものゝおぼえある家のものにてはべるなるがまとたてはべりけるをみておとうとのいるに、あにのまとたてによるか。いとやさしきことなりとて、なき給ひければ二条帥は行兼かやぶさめいむに、公兼がまとたてん、あはれなるべきことかはとぞ侍りける。またある源氏のむさの、やさしく哥よみあそびなどしけるに、さしぬきのくゝりのせばくみえければおのづからのこともあらば、さは、きとあげんずるかなどいひても涙ぐみ給ひけり。また三井寺に侍りける山ぶしの、ほけうになれりけるとかたらひ給ひても、山ぶしゆかしくは、それがしみよなどいふらんこそ、おほみねのすがた、ゆかしけれなどいひても、うちしぐれ給ひけりときこえ給ひき。やすきこともゝのをほむる心にて、かくなんおはしける。おとうとの按察の大納言重通ときこえ給ひしは、みめなどはにかよひ給へりけるが、いますこしにほひありて、あひつかはしきやうにぞおはしける。いと能などはおはせねども、笙のふえふき、びはひき給ひき。法性寺殿にぞつねはしたしくさぶらはせ給ひけるに殿もこの大納言も、すぎておはするのちなども、なつかしくさとかほるかぞおはしける。にほふ兵部卿かをる大将などおぼえ給ひける成るべし。このふたりの大納言たち、御子もおはせで、みな人の子をぞやしなひ給ひける。


53 ますみの影

閑院の春宮太夫と申すも、たか松の御はらなり。贈太政大臣よしのぶと申す。白河院の御おほぢ贈皇后宮の御おやにて、まことの御むすめにこそおはしまさねども、いとやんごとなし。このとのは詩などつくらせ給ひけるとて、人のかたり侍りしは、はるにとめる山の月は、かうべにあたりてしろしとぞきこえ侍りし、またわすれ侍らぬ、これはふみを題にてつくり給へるに、呉漢とかいふひとゝぞいひし。ところの名などをも、さすがに、たど<しくなん申しし、また御哥もうけ給はりき。

  くもりなき鏡の光のます<にてらさんかげにかくれざらめや

と白河院の御事を、伊勢大輔よみ侍りける、その御返しとぞきこえ侍りし。白川院ひとつ御はらの御いもうとは、仁和寺の一品宮とて、ちかくまでおはしましき。聡子内親王と申すなるべし。後三条院うせさせ給ひし時、その日御ぐしおろさせ給ひて、仁和寺にすませ給ひき。さておはしましゝかども、としごとに、つかさくらゐなど たまはらせ給ひき。その御おとゝに、伊勢のいつきにておはせし、三品したまへり。俊子内親王ときこえき。ひぐちの斎宮と申すなるべし。つぎにかものいつき、佳子の内親王ときこえ給ひし、御なやみによりて、延久四年七月にまかりいで給ひき。とみの小路の斎院とぞ申すめりし。斎宮はしはすにいで給ひき。そのおとうとにて篤子の内親王と申ししも、みなおなじ御はらからなり。はじめ延久元年、賀茂のいつきにたち給ひて、同五年に院うせさせ給ひしかば、前斎院にておはしましゝに、おばの女院の御ゆづりにて准三后みふなど給はらせ給へりしほどに、堀川のみかどの御とき、きさきにたち給ひき。みかどよりは、御としことのほかにおとなにおはしければよにうたふうたなん侍りけるとかや。春宮太夫殿はまことの御こもおはせねば、三条の内大臣能長のおとゞのをひにおはするをぞ、こにしたてまつり給ひける。まことにはほりかは殿の御子におはす。これも帥殿の御むすめのはらなり。このうちのおとゞの御子は、中納言基長と申ししは、贈三位済政のむすめのはらなり。弾正の尹になり給へりしかば、尹の中納言とぞ申しし。三井寺に僧都とて御子おはすとて、尹の中納言のおとうと、大蔵卿長忠と申すおはしき。母は昭登の親王の女なり。大弁の宰相より、中納言になりておはせしほどに、中納言をたてまつりて、われ大蔵卿になり、子を弁になされ侍りき。石山弁とぞ申すめりし。賀茂にぞかぎりなくつかうまつられし。中納言までなど、夢にみられたりけるとかや。そのこは左少弁能忠と申しし、詩などよくつくり給ひ、心さとき人になんおはしける。わかくてとくうせ給ひにき。少将入道有家ときこえし人のこに、この弁のおなじなつきたるが、わづらひけるほどに、公伊法印といふ人に、いのりをつけたりけるがおなじ名にてとりかへられたるとぞ、よにはいひあへりし。そのとりかへ人は、まだおはすとかや大蔵卿のおとうとに、やまの座主仁豪と申すもおはしき。南勝房とぞ申し侍りし。又律師などいひて、二人ばかりおはしき。また四位の侍従宗信と申すもおはしき。そのこは仁和寺に〓喜僧正とて、東寺長者にてこのころおはすとぞ、尹中納言のおなじはらにおはせし、三条のおとゞの御むすめは、白川の院東宮におはしましゝとき、みやすどころときこえ給ひし、みかどくらゐにつかせ給ひて、延久五年女御の宣旨かうぶり給ひき。道子の女御ときこえき。ひめみやうみたてまつりてのち、内へもまゐり給はずなりにき。承香殿の女御とや申しけん。御むすめの善子の内親王に伊勢にいつきにてくだらせ給ひしに、ぐしたてまつりてぞおはしける。七十にあまりてうせ給ひにき。この女御は、 またなにとかや申すをんなおはしき。春宮の太夫の御おとうとにおなじ高松の御はらの、無動寺の馬頭入道顕信のきみときこえ給ひし、その御名は長襌とぞ申すなる。十八にてこの世をおぼしすてゝ、ひえの山にこもらせ給ひし、たふとくあはれになど申すもおろかなり。むかしの物がたりどもにこまかにはべれは、さのみやはくりかへし申し侍らん。長家の民部卿と申すもやがて高松の御はら也。御哥どもこそうけ給はりしか。にはしろたへの霜とみえつゝなどよみ給へるも、この御哥とこそきゝ侍りしか。この大納言御こ忠家大納言、祐家中納言など申しておはしき。母はみなみのゝかみ基貞のむすめとぞ、大納言の御子にて、もとたゝ、俊忠二人の中納言おはしき。それは經輔の大納言のむすめの御はらなり。俊忠の中納言は、それも哥よみ給ふときこえ給ひき。堀川の院の御とき、をとこ女のふみかはしにもよみ給へるとこそきゝ侍りしか。その中納言の公達は、民部大輔忠成ときこえ給ひし、又俊成三位とてもおはす也。伊与守敦家のむすめのはらとぞ、その三位の御哥も、このころの上手におはすとかや。哥の判などし給ふとこそきゝ侍れ。この三位、さぬきのみかどの御時、殿上人におはしけるが、みかどくらゐおり給ひてのち、院の殿上をし給はざりければ、

  雲ゐよりなれし山ぢを今更にかすみへだてゝなげくはる哉

とよみて、教長の卿につけて、たてまつられ侍りければ御返事はなくて、やがて殿上おほせくだされけるとぞ。撰集にはあやしやなにのくれを待らん。とかやいふ哥ぞいりて侍るなる。そのあにゝ山の大僧正とて、經たふとくよみ給ふおはすなりときこえ給ふ。


54 竹のよ

みかど關白につぎたてまつりては、御はゝかたの君だちをこそ、みなよにしかるべき人にておはすめれ。九条殿の御子の中に、三郎におはしましゝ、關白たえずせさせ給ふ。十郎にあまり給へりし、閑院のおほきおとゞのすゑこそ、關白はし給はね共、うちつゞきみかどのおほんをぢにて、さるべき人々おはすめれば、その御ありさま申さんとてまづみかどの御はゝかたを申しつゞけ侍る也。朱雀院村上の御おほぢは、堀河殿、冷泉院、円融院の御おほぢは九条殿、花山院のは一条殿、一条ゐん、三条院のは東三条殿、後一条院、後朱雀院、後冷泉院この三代の御おほぢはみだうの入道殿、この十代のみかどは昭宣公と申す堀川殿のひとつ御すゑなり。後三条院こそ、はゝかたもみかどの御まごにておはしませど、御はゝ陽明門院は、みだうの御まごにておはしませば、ひとつ御ながれ なり。白河院の御おほぢ、閑院の春宮太夫のおなじながれにおはしますを、まことの御おやは、閑院の左兵衛督公成、このおなじ御ながれなれど、東三条殿の御すゑにはおはせで、その御おとうとの、閑院のおとゞの御すゑなり。この閑院のおほきおとゞの御うまごにおはせし、左兵衛のかみの御すゑよりつゞき、御かどの御おほぢにおはす。このきんなりの左兵衛督の御子あぜちの大納言さねすゑは、鳥羽の院の御おほぢなり。この大納言の太郎には、春宮太夫公實と申しき。經平の大貳のむすめのはらにおはす。みめもきよらかに、和哥などもよくよみ給ふときこえ給ひき。ふえふきことひきなどし給はざりけれど、こうばいのみちのくにかみにまきたるふえ、こしにさして、ことつめおぼしてぞおはしける。こと人のさやうにおはせば、人もあざけるべきに、よくなり給ひぬれば、とがなくいうにぞみえ侍りし。わかくおはしけるほどにや。右近のむまばに郭公たづねに、夜をこめておはしたりければ女房ぐるまのざしき一人ぐしたる、さきにたてりけるに、ほとゝぎすはなかで、やう<あけゆくほどに、くひなのたゝきければ女のくるまより、

  いかにせんまたぬくひなはたゝくなりといひおくり侍りければ、   やまほとゝぎすかゝらましかば

とつけてかへしたまひにけり。女はたれにかありけん。ゆりばなにやとぞうけ給はりし。いかにもやさしく侍りけることかな。このよには、さやうのことありがたくそあるべき。よみ給へる哥おほかる中にいとやさしくきこえ侍りしは、

  おもひいづやありしそのよのくれ竹のあさましかりしふしどころ哉

とよみ給へるこそ、いづくにかいばみ給ひけるにか侍りけん。からうすのおとしてたうらいだうしなどや、をがみけむとさへおもひやられはべる。そのおほい君は、つねざねの大納言のうへ、そのつぎは、花ぞのゝ左のおとゞのきたのかた、三のきみは待賢門院におはします。つぎざまに、まさり給へることをまろがあねあらましかば、夫などいひて、たきゞおへるしづのをにぐする人にやあらましなどの給はせけるときこえし。さしもの給はぬことを、人のいはせ侍るにも有りけん。またさやうのことはたはぶれたまはん、さも侍りけん。みなこの御はゝ光子の二位の御はら也。春宮太夫の太郎にては、侍従中納言實隆と申しておはしき。その御はゝ美濃守基貞の御むすめなり。この中納言人がらは よくおはしけるにや。院に和哥の會せさせ給ひけるに、哥人にまじりて哥かきたるむねにもいれ、ひきそばめなどはし給はで、いつとなくささげておはしければ御おとうとの、太政のおとゞ、そのをりまだ中納言などにやおはしけん。み給ひて、この人は哥などもよみ給はぬにとおぼつかなくて、御哥み給へはべらばやと申し給ひければなにごとの給ふぞ。前左衛門佐ひがことせられんやはとの給ひける、をかしかりしとぞ侍りける。基俊のきみ、すぐれたるうたよみなん。よき哥なるべしとの給ふにこそとはきこゆれど、哥の道はよきにつけ、あしきにつけて、しゝあひて、我もたび<に、人にもみせあはせなどすることを、わがえぬことはかくおはする事也。そのこにて、れいぜいの宰相公隆とておはせし、わかくて後少将ときこえし、わか殿上人のいうなるにておはしき。そのおとうとに、兵衛佐成隆とておはしける、まだをさなくて、かくれ給ひにき。こと御はらにや。ならに覚珍法印と申ししは、たうじおはす。ざへある人ときこえ給ひ、春宮太夫の二郎におはせしにや。大宮のすけ實兼とかきこえて、のちには刑部卿など申すおはしき。この御なかにかんだちめなどにえなり給はざりき。その御むすめのあはのかみ朝綱ときこえし、むすめのはらにおはしける、女院にまゐり給へりけるが、鳥羽院しのびてものなどおほせらるゝ事ありとて、ほふわうのいださせ給ひけるとぞきこえ侍りし。


55 梅の木の下

春宮太夫の三郎にやあたり給ふらん。これもみのゝかみのむすめのはらにおはせし、太政大臣さねゆきのおとゞは、がくもんもし給ひたる人にておはせしうへに、たちゐのふるまひなど、めでたく、よきかんだちめにておはしける。四位し給ひて、前少納言にていつとなくおはしければおやの春宮の太夫殿は、身のざえなどもあり。よきものにてあるに、くちをしくとのみなげき給ひけるに、うせ給ひてのち、中弁にも、蔵人頭にもなり給ひければみのときなかりしをのみ、みえたてまつりてとぞ、思いでつゝの給はせける。おやの御やまひのほどなども、まろぶしにて、つねはあつかひきこえ給ひけるに、うせ給ひてのち、基俊のきみとぶらひにおはして、梅のえだにむすびつけられける、

  むかしみしあるじがほにて梅がえの花だに我に物語せよ

とはべりければこのおとゞの御かへし、

  ねにかへる花の姿のゆかしくはたゞこのもとをかたみとはみよ

とぞ侍りにける。おとうとの左衛門督より下らうにて、頭にてならび給へるに、頭中将は上らふにておはしけれど、このあにはざえもおはし、いのちもながくて、おほきおとゞまでいたり給へる、いとめでたし。院くらゐにおはしましゝ時、内宴おこなはせ給ふに、詩つくりてまゐらんとし給ふを、御このうちのおとゞは、さらではべりなん。としもあまりつもり給ひ、御ありきもかなひ給はぬに、みぐるしといさめ申し給ひければ中院入道おとゞに、内大臣かく申し侍るはいかゞと申しあはせ給ひければかならずまゐらせ給ふべきことなり。おぼろげに侍らぬことなるに、みかどの御をぢにおはしましゝ、おほきおとゞのまゐらせ給はざらん、くちをしく侍りなどはべりければうまごの実長の大納言の、宰相中将と申ししに、かゝりてこそまゐり給ひけれ。御ぐしおろし給ひしも、中院かくと申し給ひければしか侍まじきことにやとこそ、思ひ給へてすぎ侍れ。おぼしめしたつならば、いとめでたきことに侍り。おなじくはさはりなきほどにとく侍らん。めでたきことゝの給はせければ入道し給ひてぞうせ給ひにし。おとうとの左衛門督は、御こゑめでたく、うたをよくうたひ給ひて、成道の大納言にも、とり<”にぞ申しける。その左衛門督通季と申ししは、春宮太夫の四郎にておはせしなるべし。みめもきよらに、おほきにふとりたる人にておはしき。はゝは二位の御子にて、むかひばらにておはせしかば、あにをもこえて、頭中将、頭弁にて、ならびておはしき。ことのほかによにあひたる人にて、通季、信通とて、ひとてにておはせしに、たちならび給ひけるに、信通の君はちひさく、これはおほきにおはすれば、はゝの二位殿、これはいづれかかたはと申し給ひければ白河院はをとこのおほきなるは、あしきことかはとぞおほせられける。実行の太政のおとゞの御子は、内大臣公教と申しき。すりのかみ顕季と申ししむすめのはらにおはす。その御はゝはうたよみにおはしき。少将公教のはゝとて、集などにおほくおはすめり。ときはの山は春をしるらん。などこそいうにきこえ侍れ。内のおとゞは、わかくよりみめ心ばへも、思ひあがりたるけしきにぞおはしける。蔵人の少将、四位の少将など申ししほど、左右の御てのうらにかうになるまでたきものしめて、月いだしたるあふぎに、なつかしきほどにそめたるかりぎぬなどき給ひて、さきはなやかにおはせて、ゆふつかたなどに、つねに三条むろまち殿に、院女院などおはしますかた<”にまゐり給へば、女房などは、四位少将の時になりにたりなどぞいはれけるとぞきこえし。ざえなどもおはし、ふえもよくふき給ひき。心ばへなどおとなしくて、公事などもよく つとめ給ふ。世のさだなどもよくおはせしを、世の人のやうに、あながちなるついぜうもし給はずなどおはしければにや。いへなどはかなひ給はでぞ有りける。蔵人頭けびゐしの別當などし給ひしもいとよくおはしけり。左大将なんど申すほど、鳥羽院の御うしろみ、院のうちとりさたし給ひしかども、われとくにひとつもしり給はず。賢人にぞおはすめりし。てゝの太政のおとゞよりも、さきにうせ給ひにし、おほかたおとなしきやうにふるまひて、蔵人の頭になり給へりしに、おとうとにおはせし公行の、弁にはじめてなりて、あつひたいのかぶりになし給ひければわれもいまはあつひたひにせんとて、おなじやうにして、うちにまゐり給へるに、成通宰相の中将にはじめてなりて、しばしはすきひたいのかぶりにてとやおぼしけん。うちにまゐり給ひて、頭中将のかぶりをみ給ひて、ひたいにあふぎさしかくして、まかりいで給ひて、やがてあつひたひになりておはしける。成通の御心ばへは、よのさだをばいたくもこのみ給はで、公事などは識者におはせしかど、よのまめなることはとりいられぬ御心にや。蔵人頭も、けびゐしの別當もへ給はず。侍従大納言などいひてすぎ給ひにき。公教のおほい殿は、三条の内大臣ともたかくらのおとゞとも申すなるべし。三条のおとゞは能長のおとゞを申ししかば、いひかぶるなるべし。高倉のおとゞのひめぎみ、清隆の中納言のむすめのはらにおはする院の女御にたてまつり給へり。いまむめつぼの女御と申すなるべし、御名こそいとやさしくきこえ侍れ。そのおとうとのひめぎみは、ちゝおとゞうせ給ひてのち、おほぢのおほきおとゞ、さたし給ひて、今の摂政殿、右のおとゞなどきこえさせ給ひしときまゐり給ひて、きたのまん所とぞきこえ給ふ。おのこ公達は、おなじ御はらにおはする、大納言實房と申すこそ、うちのおとゞうせ給ひて後、三位の中将になり給ふ。ことの外の御さかえなるべし。すゑのこにおはすれど、むかひばらなれば、あにふたりにまさり給へるなるべし。左衛門督実國と申すは中納言にておはす也。このころみめよきかんだちめときこえ給ふ。またふえもふき給ひて、御おやのあとつぎ給ふとぞ。みかどの御師にもおはすときこえ給ふ。かぐらなどもうたひ給ひて、せいそだうの御かぐらにも、拍子とり給ふときこえ給ふ。その御あにゝて左大弁の宰相實綱と申すなるふみなどにたづさはり給ひて、弁にもなり給ふなるべし。僧公達も法眼など申して、山におはす也。又石山の座主などもきこえ給ふ。うちのおとゞの御つぎに、右兵衛督公行と申しし、御おとうとのおはせし宰相までなり給ひて、わかくてかくれ給ひにき。ざえなどもおはしけるにや。弁などにてもつかへ給ひき。 うたこそよくよみ給ひけれ。その御子にあきちかのはりまのかみのむすめのはらに、前大納言實長と申すおはす也。みめよきかんだちめにぞおはすなる。いりこもり給へる、わかき人たちのいかに侍よにか。実慶法眼とて山におはしけるも、うせ給ひにけり。右兵衛督の御おとうとに民部大輔公宗ときこえ給ふおはしき。うつしごゝろもなくて、つねにはものゝけにてうせ給ひにき。みめなどもよくおはしけるときこえ給ひき。みなおなじ御はらからにぞおはしける。顕季の三位のむすめの御はらにおはしけり。左衛門督通季と申しし中納言の御こにあぜちの大納言公通と申すおはす也。詩などもつくり給ふなり。くびの御やまひおもくおはすればにや。たび<つかさもじゝ給ひて、前大納言にておはすとぞ、その御子に、中将侍従などおはす也。通基大蔵卿のむすめのはらにおはすとぞ、前少将公重と申すも、左衛門督の御子なり。哥よみ給ふとぞ。また山に法印など申しておはす也。この人々の御いもうとに、廊の御かたと申して、白川院の御おぼえし給ふ人におはせし、後には徳大寺の左のおとゞの御子、二人うみ給へりき。いまの公保の大納言におはす也。いまひとりは、山に僧都と申すとぞ。左衛門督のつぎには、山の座主仁實と申しし、おなじ御はらにおはせしかば、山僧などは二位僧正などぞ申すなる。いとのうはすぐれたるもおはせざりけれども、心ばへかしこくおはせしかばにや、世のおぼえなどもすぐれ給へりけるにや。よのすゑに、さばかりの天台座主はかたくなん侍る。やまのやんごとなき堂どものやぶれたるも、おほくつくりたて、大衆などの中に、すこしもふようなるをば、よくしたゝめなどせられければよのため、かの山のため、その時はおだやかになんきこえ侍りし。伝教大師のふたゝびむまれ給ふといふ事も侍りけるとかや。白川院のかくれさせ給ひけるに、七月七日にはかに御心ちそこなひて、つとめてより御くわくらんなどきこえて、さだかにものなどおほせられざりけるに、いまはかくとみえさせ給ひけるとき、かねてより忠盛のぬしに、念佛かならずすゝめよと、おほせられおきたりければかくなんうけ給はりしと、為業といふがはゝして、たび<申しけれど、仁和寺の宮など、仏頂尊勝陀羅尼とのみおほせられて、これおなじことなりとの給はせけれど、かねてうけ給はりたるに、たがひておぼえけるに、この僧正の南無阿弥陀佛とたかく申し給へりけるなん、うれしかりしとこそのちにきこえけれ。その僧正は、ざすなどもじゝ給ひて、さかもとに梶井といふところにこもりゐて、四十にあまりてうせ給ひにけり。


56 花散る庭の面

春宮大夫の六郎にやおはすらん。左大臣實能のおとゞ、これも左衛門督山の座主、女院なんどのひとつ御はらからにて、二位の御子におはす。大井のみかどのおとゞとも徳大寺のおとゞとも申すなるべし。御みめも心ばへもたをやかに、いとよき人におはしき。あによりもなつかしく、いうなる人におはせしを、ふみなどつくり給ふことはおはせねど、哥などよくよみ給ひき。恋の哥のなかにも、いうにきこえ侍りしは、うつゝにつらき心なりとも、また命だにはかなからずはなどもきこえ侍りき。又思ふばかりのいろにいでばなど、よき哥とこそきゝ侍れ。又あひみしよはのうれしさになどもきこえ侍りき。こゑもよくおはしけるにや。御あそびにはひやうしとり給ふなどぞうけ給はりし。にはこそ花のなどいふもこの御哥とこそおぼえ侍れ。世のおぼえもことの外におはしき。むかひばらにておはするうへに、人がらよくおはすればにや。三位中将へ給へるもことのほかの御おぼえなり。このころこそ、おほくきこえたまへ。關白つぎ給ふべき人などはなちては、さることも侍らぬにいとめづらしく侍りき。大納言の大将になり給へりしも、ちかくたゞびとのなり給ふこともなきに、いとめづらかになん侍りし。左大臣までなり給へる、閑院のおとゞの後は四代なりたえ給へるに、このとのゝ大将になりはじめ給ひて、あにの太政のおとゞ、この左のおとゞ、右大臣内大臣になりはじめ給ひて、公達もおの<なり給へり。あにの太政のおとゞ、あぜちの大納言とておはせし、大将おとうとになられてこもり給ひしに、一の大納言忠教、二の大納言実行、三にて雅定、第四實能の大納言おはせし、上らう三人をおきて、大将になり給ひしかば、實行、雅定ふたりはいりこもりておはせしを、中院の源大納言雅定、左大将に成り給ひてのちこそ、實行雅定右大臣内大臣になり給ひしか。いづれの中納言とかのまづ右のおとゞの御よろこびに、おはしたりければそのいへのかどに、うま車おほくたちなみて、にはかによつあしたつとて、ことかどよりいりたるにみやりたればかくれのかたまでひきつくろひて、をとこ女いろ<にとりさうずきて、はきのごひなどして、ゆゝしくはなやかにみえけるに、かくと申しいれたれば、ひさしうありて、えぼしなほしにてものがたりまめやかにきこえて、院の御心ざし、かたじけなくなどいひて、はなうちかみて、よろこびのなみだおしのごひつゝしのびあへぬ御けしきなるに、ほどもへぬれば、やう<しりぞきいでゝ、つぎに中院にわたりて、うちのおとゞの、 御よろこび申し給ひければ中門のらうにいぬのあしがたやつこゝのつありて、さりげなるけしきもせず、さぶらひよびいだして、申しいれたれば、つかひにとりつゞきて、はんしりなるかりぎぬにていで給ひて、よろこびにわたり給へるか。大臣は大饗など申してだいじおほかり。なにかとぶらひ給ふなどいひちらしてやみ給ひにけり。ふたりの人のかはられたりしさまこそとかたられけるとなん。徳大寺のおとゞの御子は、右大臣公能のおとゞ、その御はゝ按察中納言顕隆ときこえしむすめにおはす。此のおとゞ、管絃もみのざえも、かた<”おはすときこえき。おやおほぢなどはざえおはせぬに、詩などつくり給ひ、みめも心ばへも、いというなる人にぞおはしける。中納言の大将になりて、右大臣までなり給へりき。このおとゞは、わかくよりこゑもうつくしく蔵人少将などいひて、五節のえんすいのいまやうなどに、権現うたひ給ひける。内侍所のみかぐらの、拍子とりなどし給ひけるも、ほそき御こゑ、いとをかしくぞ侍りける。むねとは詩つくり給ふ事をこのみて、中将などきこえ給ひしとき、きたのゝ人のゆめに、ひさしくこそ、詩などかうずる人なけれとの給はすとて、野径只青草とかいふ詩、はかせ学生など、あまたまうでゝかうじけるに、とし二十にすこしあまり給へる、わかき殿上人の、みめはいとをかしくて、うへの御ぞなどなよらかにきなしたまへるに、ほそたちひらをなど、しなやかにて、まじり給へる、神もいかゞごらんとぞおぼえける。しだいに朗詠したまへりけるなかに、はなやかなる御こゑして、羅綺の重衣たるとうちいでたまへりける、としおいたる人など、なみだをさへながして、むしろこぞりて、めでおもへり。又讃岐のみかど、くらゐにおはしましけるとき、きさいのみやの御かたにて、管絃する殿上人どもめして、よもすがらあそばせ給ひけるに、おほとのもおはしまして、朗詠つかまつれとおほせられけるに、このおとゞの中将など申しけるときに、大公望か周文にあへるといだし給へりけるこそ。御こゑもうつくしう、みかど一の人の事にて、そのよしあることのいうにきこえ侍りける。蔵人の頭より宰相になり給ひしに、中将をぞもとのことなれば、かけ給ふべかりしにみちをへんとにや右大弁になり給へりき。いと身にもおひ給はずなど、思ふ人もありけるに、侍従になりそへ給ひて、たちはき給へるなど、心のまゝにおはせしさま、ことにつけてあらまほしくおはしき。蔵人頭におはせし時も、殿上の一寸物し日記のからひつに、日ごとに日記かきていれなどして、ふるきことをおこさんとし給ふとぞきこえ給ひし。


57 宮城野

このおとゞの御むすめ、俊忠中納言のむすめのはらに、四人おはすときこえ給ふ。おほいぎみはいまの皇后宮におはしますとぞ、この院の位の御時に、きさきにたち給ひし、御名は忻子と申すなるべし。そのつぎにひめぎみおはしき。きさきふたりの中にておぼろげの御ふるまひあるまじ。ほとけのみちにこそは、いらせ給はめと、こおほい殿のたまはせければそれにたがはず、わかくおはすなるに、御ぐしおろし給ひたるときゝ侍る、いとあはれに、この御ことをたれがよみ給へるとかや。

  みやぎのゝ秋の野中のをみなへしなべての花にまじるべきかは

とぞきゝ侍りし。まことにいとありがたく、ちぎりおき給ふ共、そのまゝにおぼしなり給ふ、いと<ありがたくものし給ふ御心なるべし。三の君は宇治の左のおとゞのきたのかたの、ちゝおとゞの御いもうとにおはすれば、御こにしたてまつり給ひて、近衛の御かどの御とき、あねみやよりさきに、十一にてきさきにたち給へり。このゑのみかども此の宮も、そのかみまだをさなくおはしましゝほどに、九条のおほきおとゞの御むすめを、鳥羽院、女院などの御さたにて、女御にたてまつり給へり。法性寺のおとゞのきたのかたは、九条のおほきおとゞの御いもうとにおはすれば、御子とてうらうへより心をひとつにて、たてまつり給へりしに、宇治の左のおとゞ、としごろはあにの法性寺のおとゞよりも、よにあひ給へりしに、あまりにおはせしけにやさすがにひとつにもおしはり給はざりしに、いまゝゐり給ひたる中宮のみ、ひとつにおはしますことにて、ちゝの伊通のおとゞも大納言など申して、つねにさぶらひ給ふ。關白殿も宇治のおとゞも、心よからぬさまにてへだておほかりけるほどに、みかどもかくれさせ給ひ、左のおとゞもうせ給ひて、としふるほどに、二条のみかどの御時、あながちに御せうそこ有りければちゝおとゞにも、かた<”申しかへさせ給ひけれども、しのびたるさまにて、まゐらせたてまつり給へりけるに、むかしの御すまひもおなじさまにて、雲ゐの月も、ひかりかはらずおぼえさせ給ひければ、

  思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲ゐの月をみんとは

とぞおもひかけず、つたへうけ給はりし。かやうにきこえさせ給ひしほどに、みかども又かくれさせ給ひて、よも心ぼそくおぼえさせ給ひけるに、れいならずおはしませばなどきこえて、御ぐしおろさせ給ひてける、御とし廿五六ばかりの御ほどに、おはし けるにやとぞきこえさせ給ひし。この宮なにごともえんなるかた、なさけおほくおはしまして、御てうつくしくかゝせ給ふ。ゑをさへなべてのふでだちにもあらずなん、おはしますなる。またほにいでゝことびはなどひかせ給ふことは、きこえさせ給はねど、すぐれたる人にもをとらせ給はず。ものゝねも、よくきゝしらせ給ひたるとかや。御せうとたちまゐり給ひたるにも、御丁おましなどこそあらめ。さぶらふ人々までよろづめやすく、もてつけたるさまにて、ひとまゐるとて、いまさらにだいばん所とかくひきつくろひ、御木丁おしいでなどせで、かねてよういやあらん。心にくゝぞおはしますなる。こ左のおとゞも中にとりわきて、御心につかせ給ふとてぞ御子にやしなひ申させ給ひける。かやうになさけおほく、おはしますことをやきかせ給ひけん。二条院の御時もあながちに御けしき侍りけるなるべし。この宮たち、おやの御子におはしませば、ことわりとは申しながら、なべてならぬ御すがたなんおはしますなる。たれもと申しながら、院の御あねにおはしますなる、女院こそすぐれて、おはしますさまは、ならぶ御かた<”かたくおはしますなるに、いまの皇后宮にや。いづれにかおはしますらん。まゐらせ給へりけるに、人のみくらへまゐらせけるこそ、とり<”にいとをかしく、みえさせ給ひけれ。女院はしろき御ぞ、十にあまりてかさなりたるに、きくのうつろひたるこうちぎ、しろきふたえおり物のうはぎたてまつりて、三尺のみき丁のうちにゐさせ給へりけるに、皇后宮はうへあかいろにて、したざまきなるはじもみぢの、十ばかりかさなりたるに、うはぎにおなじいろに、やがてこきゑびぞめのこうちぎのいろ<なるもみぢうちゝりたるふたえおり物たてまつりたりけるを、みまゐらせたる人のかたりけるとなん。さてこのおほいのみかどの右のおとゞのをのこ君は太郎にては三位中将と申しし、宮たちのおなじ御はらにおはする、大納言實定と申すなる。つかさもじゝ給ひて、こもり給へるとかや。さばかりの英雄におはするに、人をこそこえ給ふべきを、人にこえられ給ひければくらゐにかへてこえかへし給へる、いとことわりときこえ侍り。詩などもつくり給ひ、哥もよくよみ給ふとぞ、御こゑなどもうつくしうて、おやの御あとつぎ給ひて、御かぐらのひやうしなどもとり給ひ、いまやうなどもよくうたひ給ふなるべし。こもり給へるもあたらしくはべることかな。つぎに三位中将さねいへと申すなるは、蔵人頭より、宰相になり給ひたらんにも、中<まさりて、なべてならずきこえ侍り。やまとごとなどよくひきたまひ、御こゑもすぐれて、これもいまやうかぐら、うたひ給ふ ときこえ給ふ。この御おとうとに頭中将さねもりときこえ給ふも、やまとごとなどならひつたへたまへり。この君だち、みなざえなどもおはして、からやまとのふみなどつくり給ふ。御みめもむかしのにほひのこりて、このころすぐれ給へる御ありさまどもにおはすときこえ給ひ、又いづれの御はらにかおはすらん。やまに法眼とておはすときこえ給ふ。又院のひめみやうみたてまつり給へるひめぎみもおはすとぞ、まことやきたのかたの御はらにや。侍従とておはすなるは頭中将御子にし給ふとぞ、徳大寺のおとゞの二郎には、なかのみかどのみぎのおとゞの御むすめのはらに、公親宰相中将とておはしき。とくうせ給ひにき。つぎに一条の大納言公保と申すなる、左衛門督のひめ君、らうの御かたと申す御はら也。當時大納言におはすなり。ちゝおとゞに御みめはすこしに給へるとかや。おなじ御はらに公雲僧都とてやまにおはすなり。ことはらの御こ僧にて三井寺などにおはすとぞ、春宮の太夫のすゑの御こは民部卿季成と申しておはしき。あづまごとにてぞ御あそびにはまじり給ひけるときゝ侍りし。右京のかみ道家のむすめのはらにおはす。ふみのかたもならひ給へりけり。その御こに、左衛門督公光と申すなるこそ、ざえなどもおはして、詩つくり給ひ、哥もよみてよき人ときゝたてまつるに、これもさきの中納言などうけ給はるこそ、いかに侍るよの中にか。この御はゝ顕頼の民部卿のむすめとぞ、みめもことによきかんだちめにて、ちゝの大納言にはまさり給へりとぞ。きこえよくかぐらなどもうたひ給ふとか。これもゆゝしく、おほきなる人にて、御をぢのみちすゑ左衛門督の御たけに、いとをとり給はずとぞうけ給はる。すべてよき人にこそ、わかくても、てゝの世おぼえよりはことのほかに殿上にゆるされたる、このゑづかさにてぞおはしける。


58 志賀のみそぎ

春宮太夫の御すゑのかくさかえ給ふことも、みかどの御ゆかりなれば、女院の御ことをこそ申し侍るべけれど、その御ありさまは、さきに申し侍りぬ。そのうみたてまつり給へるみや<は一のみこはさぬきの院におはします。二のみこは御めくらくなり給ひて、をさなくてかくれ給ひにき。三のみこはわかみやと申しておはしましゝ、をさなくよりなえさせ給ひて、おきふしも人のまゝにて、ものもおほせられておはしましゝ、十六にて御ぐしおろさせ給ひて、うせさせ給ひにき。御みめもうつくしう、御ぐしもながくおはしましけり。むかし朝綱宰相の日本紀の哥に、

  たらちねはいかにあはれと思ふらんみとせに成りぬあしたゝずして

とよまれたるも、蛭子におはしましける、みやのことゝこそはきこえさせ給へ。むかしもかゝるたぐひおはせぬにはあらぬにや。さがのみかどの御子に、隠君子と申しけるみこは御みゝにいかなることのおはしけるとかや。さてさがにこもりゐたまひて、ひきものゝうちにたれこめて、人にも見え給はで、わらはにてぞおはしける。このころならば、法師にぞなり給はまし。むかしはかくぞおはしける。心もさとくいとまもおはするまゝに、よろづのふみをひらきみ給ひければ身の御ざえ人にすぐれ給ひておはしましけるに、やんごとなきはかせのみちをとけ給ひける時廣相の宰相ときこえける人の、かのはかせになり給ひけるに、小屋とかいふところ、たちよりとぶらひたてまつられけるに、かたきこと侍りけるをば、こまをはやめて、かのさがにまうでゝぞとひたてまつりける。みかどの御こにも、かやうなるさま<”おはしけり。これは仏のみちにいらせ給ひたれば、のちのよのちぎりはむすばせ給ふらん。この宮あかごにおはしましけるとき、たえいり給へりければ行尊僧正いのりたてまつられけるに白川院くらゐもつき給ふべくはいきかへりたまへと、おほせられけるほどになほらせ給ひければたのもしく人もおもひあへりけるに、そのかひなくおはしましける、いかにはべるにか。なえさせ給ひたりとも、御いのちはとをにあまりておはしますべく、又ひとのしるしもたふとくおはすればなほらせ給へども、くらゐはべちのことなるべし。第四のみこは、いまの一院におはします。第五のみこは本仁の親王と申しし、わらはより出家し給ひて、仁和寺の法親王と申すなるべし。きさきばらのみや、法師にならせ給ふこと、ありがたきことゝ申せども、仏の道をおもくせさせ給ふ、いとめでたきことなるべし。この宮いとよき人におはして、真言よくならひ給ひ、御てもかゝせたまひ、詩つくり哥よみなどもよくし給ひき。その御うたおほく侍る中に、みのをにこもりていで給ひけるに、有明の月おもしろかりけるに、

  このまもる有明の月のおくらずは独や秋のみねをこえまし

とよみ給へるとかや。又、

  夏のよはたゞときのまもながむればやがて有明の月をこそみれ

などよませ給へり。またわかくおはせしに、この一二年がさきに、うせさせ給ひにき。四十一二にやおはしけん。をしくもおはします御よはひに、さだめなきよのうらめしきなるべし。また何事も、よにおはぬほどの人ときゝたてまつりしけにやうせたまはんとてのころ、金泥の一切經かきいだして、かうやにて供養し給ひけるに、ひえの山の澄憲僧都を、 院に申しうけさせ給ひて、導師にて供養せさせ給ひけり。そのとき院に御ものまうでに、ぐせさせ給ふべかりけるとかや。ことにえらびたまひて、あらぬかたのそうなりともよくときつべきをとおぼしけんもいとたふとし。こがねの文字をも、院女院などはなちたてまつりては、ありがたきことを、おぼろげの御心ざしにはあらざるべし。女宮は一品宮とておはしましゝは、禧子の内親王とて賀茂のいつきにたち給へりし、御なやみにてほどなくいでたまひにき。長承二年十月十一日御とし十二にてかくれさせ給ひにき。いつきのほどなくおりさせ給ふためしありとも、まだ本院にもつがせ給はで、かくいでさせ給ふ事はいとあさましきことゝぞきこえ侍りし。廿七日薨奏とて、このよし内裏に奏すれば、三日は廃朝とて、御殿のみすもおろされ、なに事もこゑたてゝ、そうすることなど侍らざりけり。みかどは御いもうとにおはしませば、御ぶくたてまつりなどしけり。もんもなき御かぶり、なはえいなどきこえて、年中行事の障子のもとにてぞたてまつりける。みかどは日のかずを、月なみのかはりにせさせ給ふなれば、三日御ぶくとぞきこえける。つぎのひめ宮は、又さきの斎院とて、詢子の内親王と申しし、のちには〓子とあらためさせ給ひたるとぞきこえさせ給ひしは、大治元年七月廿三日にむまれさせたまひて、八月に親王の宣旨かぶり給ひて、長承元年六月卅日、いつきいでさせ給ひて保元三年二月、皇后宮にたゝせ給ふ。上西門院と申すなるべし。永暦二年二月十七日、御ぐしおろさせ給ふときこえき。きさきにたゝせ給ふときこえしは、みかどの御はゝに、なぞらへ申させ給ふとぞきこえさせ給ふ。六条院のれいにや侍らん。この女院のさきの斎院とてからさきの御はらへせさせ給ひし時、御をぢの太政のおとゞのよみ給へる、

  昨日までみたらし川にせしみそぎしがの浦波たちぞかへたる

と侍りけるとなん。秋の事なりけるに、かりごろもおの<はぎ、りうたんなどいとめづらしきに、あふさかのせきうちこえて、やまのけしきみづうみなど、いとおもしろくて、御はらへのところには、かたのやうなるかりやにいがきのあけのいろ、水のみどりみえわきて、心あらん人は、いかなることのはも、いひとゞめまほしきに、おとゞの御うたたけたかくいとやさしくこそきこえ侍りしか。


〔むらかみの源氏〕第七

59 うたたね

ふぢなみの御ながれの、さかえたまふのみにあらず、みかど一の人の御はゝかたには、ちかくは源氏の君だちこそ、よきかんだちめどもはおはすなれ。ほりかはのみかどの御母、賢子の中宮は、おほとのゝ御子とて、まゐり給へれど、まことは六条の右のおとゞの御むすめなり。きさきの御ことはみかどのついでに申し侍りぬ。そのゆかりのありさま、みなもとをたづぬれば、いとやんごとなくなん侍る。むらかみのみかどの御子になかつかさのみこと申ししは、六条の宮とも後中書王とも申す。この御ことなり。ふみつくらせ給ふこと、よにすぐれたまへりき。御哥も世々の集どもにみえ侍るらん。その御子に、つちみかどの右のおとゞと申ししは、はじめて、みなもとの姓えさせ給ひて、師房のおとゞときこえさせ給ひき。御身のざえも たかく、文つくらせたまふかたもすぐれ給ひて、野のみかりのうたの序など人のくちにはべるなり。又月のうたこそ、こゝろにしみてきこえ侍りしか。

  有明の月まつほどのうたゝねは山のはのみぞゆめにみえける

すき<”しきかたのみにあらず、土御門の御日記とて、世の中のかゞみとなんうけ給はる。みかど一の人の御よそひども、その中にぞおほく侍るなる。御堂の御むすめは、おほくきさき、國母にてのみおはしますに、このとのゝきたのかたのみこそ、たゞ人はおはしませば、いと<やんごとなし。その御はらに、ほりかはの左のおとゞ俊房、六条の右のおとゞ顯房と申して、あにおとうとならびたまへりき。ほりかはどのは、さいかくたかくおはして、ふみつくりたまふこと、すぐれてきこえ給ひき。六条殿は、うたよみにぞおはして、判などし給ひき。よのおぼえあによりもまさり給ひて、大納言の大将、中宮のおほんおやにておはせしに、大臣あきて侍りけるを、白川のみかど、おぼしわづらはせ給ひて、日ごろすぎけるに、匡房の中納言に、おほせられあはせければほりかはの大納言をなさせ給へと、うちいだして申しければみかどおほせられけるは、おとうとゝなれども、右大将中宮の御おやにて、このたびならずは、法師にならんといふなり。又上らうども有りて、われこそなるべけれなどいへば、それもすてがたきなりと、おほせられければ大納言大臣になり侍ることは、かならずしも一二といふこと侍らず。なるべき人をえりて、なされ侍るなり。又國のつかさへたる人いかゞなど申し侍りければすがはらのおとゞもさぬきのかみぞかしとおほせられければ江帥申しけるは、はかせはべちのことに侍り。又さいかくたかく侍らんあにを大臣になさせ給はんに、出家するおとうともよに侍らじと申しければ堀川殿はなり給へりけるとぞ。六条のおとゞは、そのゝちにぞなり給ひし。中宮の御おや、ほりかはのみかどの御おほぢにていとめでたくおはしき。のちには大将をば、太政のおとゞの大納言におはせしに、ゆづり申し給ひて、行幸につかうまつり給へりしこそ、いとめづらかに侍りしか。おそくまゐり給ひて、道にて車よりおりて、馬にのり給ひしかば、大将殿よりはじめて、みなおり給へりしに、盛重といひしが、左衛門尉なりしと、行利といふ随身の、陣につかうまつりしを、あがり馬にのせて、さきにぐせさせたまへりければなほ大将にてわたり給ふとぞみえける。このあにおとうとのおほいどの、少将におはしけるとき、隆俊治部卿、御むこにとり申さんと思て、そのときめしひたる相人ありけるに、かのふたりいかゞさうしたてまつりたる と問はれければともによくおはします。みな大臣にいたり給ふべき人なりといひけるを、いづれかよにはあひ給ふべきと、とはれけるに、おとうとはすゑひろく、みかど一の人も、いでき給ふべきさうおはすと申しければ六条殿をとり申したるとぞきゝ侍りし。そのかひありて、みかど関白も、その御すゑよりいでき給へり。ゆきふりのみゆきに、おそくまゐり給ひて、ゆきみんとしもいそがれぬかな。とよみたまへるこそ、いとやさしく、むかしの心ちし侍れ。よる女のもとにわたり給へりけるに、かねてもなくて、かどにくるまのたえずたちければそれをめしていでたまひければもりしげといひしが、いでさせたまふみちに、つねはふしたりければかならずおくれたてまつることなかりけるに、ゐ中さぶらひと、もりしげとふたりともにぐして、いでたまひけるに、馬にのれりけるものゝ、おりざりければゐ中人、ともしたるついまつして、うちおとさんとしけるを、たけきものゝふども、おほくぐしたりけるが、御くるまによらんとしけるを、もりしげ御車のもとにて、皇后宮太夫殿のおはしますぞ。あやまちつかうまつるなといひければまどひおりて、さな<まかりのきねといひければすぎ給ひにけり。つぎの日のゆふぐれに、頼治といひしむさの、おほいどのはまゐりて、御門のかたにて、もりしげたづねいだしてよべかしこく御おんかぶりて、あやまちをつかうまつるらんにとて、かしこまり申しにまゐりたる也。かくとはな申したまひそといひけれど、おほいどのに申したりければめしてみきすゝめなどしたまひけるとぞ。盛重が子盛道といひしはかたりける。


60 堀河の流れ

ほりかはの左のおとゞの御子は、太郎にては師頼大納言とておはせし、御母中将実基のきみの御むすめなり。ふみなどひろくならひ給ひて、ざえおはする人にておはしき。中弁より宰相になり給ひて、ひら宰相にて、前の右兵衛督とて、とし久しくおはしき。としよりてぞ中納言大納言などにひきつゞきて、ほどなくなり給ひし。このゑのみかど、春宮にたゝせ給ひしかば母ぎさきの御ゆかりにて、太夫になり給へりき。うたをぞくちとくよみ給ひける。はやくけさうし給ふ女の百首よみ給ひたらば、あはんといふありけるに、だいをうちよりいだしたりけるにしたがひて、よひよりあか月になるほどに、よみはて給ひたりけるに女かくれにけるぞ、いとくちをしかりける。周防内侍がゆかりなりければ内侍のとがにぞきく人申しける。大納言の御子は師能の弁とて、わかさのかみ通宗のむすめのはらにおはしき。そのあにおとゞに、師教師光などきこえ給ふ、三井寺に 證禅已講とて、よき智者おはしける、うせ給ひにけり。もろみつは小野宮の大納言能実のうまごにて、をのゝをみやの侍従など申すにや。大納言のつぎの御おとうとも、師時の中納言と申しし、そのはゝ侍従宰相基平のむすめなり。それも詩などよくつくり給ふなるべし。大蔵卿匡房と申ししはかせの申されけるは、このきみは、詩の心えてよくつくり給ふとぞ、ほめきこえける。からのふみものし給へることは、あにゝはおとり給へりけれど、日記などはかりなく、かきつめ給ひて、このよにさばかりおほくしるせる人なくぞはべるなる。そのふみどもは、うせ給ひてのち、鳥羽院めして、鳥羽の北殿におかせ給へりけるに、権太夫とかきつけられたるひつども、かずしらずぞ侍りける。宗茂菅軒などいひしがくさうの、上官なりしときはこのきみでしにおはして、くるまなどかしたまへりければ外記のくるまは、上らうしだいにこそたつなるを、中将殿のくるまとて、うしかひ一にたてゝ、あらそひなどしける、哥よみにもおはして、あにの大納言も、この君も、堀河院の百首などよみ給へり。為隆宰相は、大弁にて中納言にならんとしけるにも、宰相中将なれども、大弁におとらず、何ごともつかへ、除目の執筆などもすれば、うれへとゞめなどし給ひける。おほかたのものゝ上ずにて、鳥羽の御堂のいけほり、山づくりなど、とりもちてさたし給ふとぞきこえ侍りし。ゆゝしくうへをぞおほくもち給へると、うけたまはりし、六七人ともち給へりけるを、よごとにみなおはしわたしけるとかや。冬はすみなどをもたせて、火おこしたる、きえがたにはいでつゝよもすがらありきたまひて、あさいをむまときなどまでせられけるとぞ。さてそのうへどもみななかよくていひかはしつゝぞおはしける。この中納言の御子は、中宮太夫師忠のむすめのはらに、師仲中納言とておはする、右衛門督のいくさおこしたりしをり、あづまにながされたまひて、かへりのぼりておはすとぞ、このあにども、少納言大蔵卿などきこゆる、あまたおはしき。おほいどのゝ御子は、入道中納言師俊とておはしき。大弁の宰相より中納言になりて、治部卿など申ししほどに、御やまひによりて、かしらおろし給ひて、たうのもとの入道中納言とぞきこえ給ひし。それもものよくならひ給ひて、詩などよくつくり給ふ。詩よみにもおはしき。このあにおとうとたち、かやうにおはすることわりと申しながら、いとありがたくなん。延喜天暦二代のみかど、かしこき御よにおはしますうへに、ふみつくらせ給ふかたも、たへにおはしますに、なかつかさの宮、又すぐれ給へりけり。つちみかどとの、ほりかはどの、あひつぎて、御身のざえふみつくらせ給ふかたも、すぐれ給へるに、つちみかど殿は、ざえすぐれ ほりかは殿は、ふみつくり給ふこと、すぐれておはすとぞきこえ給ひける。この大納言中納言たちかくつかへ給ひて、六代かくおはする、いと有がたくやんごとなし。この大納言中納言殿たちの詩も哥も、集どもにおほく侍らん。中納言の御子は、少納言になり給へりし、のちは大宮亮とぞきこえける。そのおとうとは、寛勝僧都とて、山におはしけるこそ、あめつちといふ女房の、みめよきがうみきこえたりければにや。みめもいときよらに、心ばへもいとつき<しき学生にて、山の探題などいふこともしたまひけるに、あるべかしくいはまほしきさまに、いとめでたくこそおはしけれ。説法よくし給ひけるに人にすぐれても、きこえ給はざりしかど、あるところにて、阿弥陀仏しやくし給ひしこそ、法文のかぎりし給へば、きゝしらぬ人は、なにとも思ふまじきを、をとこも、女も、身にしみてたふとがり申して、きゝしりたるは、かばかりのことなしとおもひあへり。天台大師の經をしやくし給ふに、四の法文にて、はじめ如是より、經のすゑまでくごとにしやくし給へば、そのながれをくまん人のりをとかん。そのあとを思ふべければとて、はじめには因縁などいひて、さま<”の阿弥施仏をときて、むかし物がたりときぐしつゝ、なにごとも我心よりほかのことものやはある。ことの心をしらぬは、いとかひなし。あさゆふによそのたからをかぞふるになんあるべきなどとき給ひし、おもひかけず、うけたまはりしこそ、よゝのつみもほろびぬらんかしとおぼえ侍りしか。


61 夢のかよひ路

ほりかはどのゝきんだち、大臣になりたまはぬぞくちをしき。春宮太夫は、一の大納言にてときにあひ給へりしに、なり給ふべかりしにをりふし、あきあふことなくえならでうせ給ひにき。わかくおはしける時に、御ゆめに採桑老といふまひをし給ふとみて、かたり給へりけるを、ものに心えぬ人の、宰相にてひさしくやおはしまさんずらむと、あはせたりける。いとあさまし。さいさうといふことはありとても、さい相とやは心うべき。くわといふ木をとるおきなといふ心とも、そのきをとりて、おひたりともいふにつきてぞ心うべきを、かゝるひがことのある也。されば大納言はらだちて、のたまひければにやありけん。さいひける人も、とくうせにけり。又大納言殿もまことに宰相にてひさしくおはしき。むかし九条の右のおとゞの御ゆめを、あしくあはせたりけんやうなることなり。宰相にてひさしくおはせざらましかば、大臣にはなり給ひなまし。又おほい殿の いつきをとりすゑたまへりしかばにや、御すゑのつかさのぼりがたくおはすると申す人もあるとかや。九条どのゝ北の方の宮も、ひんなきことなれど、それはたゞ宮ばかりにおはしき。これはいつきにゐたまへる人を、こめすゑ申したまへりし、たぐひなくや。業平の中将もゆめかうつゝかのことにてやみにけり。道雅の三位も、ゆふしでかけしいにしへに、などいひて、しのびたることにこそ侍りけれ。これはぬすみいだして、とりすゑ給へれど、業平の中将にはかはりて、さきのなれば、さまであやまりならずやあらん。齋宮の女御なども、又いつきのおり給ひて、きさきになり給へるもおはせずやはある。又大臣までぬしのぼり給ひしかば、すゑのかたかるべきにあらず。おのづからのことなるべし。ほりかはどのは、僧子もおほくおはしき。小野法印、山の座主などきこえ給ひき。姫君は、ふけの入道おとゞの北の方にておはせし、のちには、御堂の御前などきこえて、御ぐしおろし給へりき。おとうとのひめぎみは、こにし給ひて、みだうをもゆづり給へるは、ほりかはの大納言の子の弁にぐし給へりけるとかや。それもさまかへておはするとぞ。又このゑのみかどの御はゝ女院も、左のおとゞの御むすめのうみたてまつり給へるときこえ給ひき。このほりかはどのは、七十になり給ふとし、御子のほりかはの大納言殿の、右兵衛督と申しし、ちゝのおとゞの御賀せさせ給ふとて、長治元年しはすの廿日あまり、ほりかはどのにて、御賀したてまつり給ふときゝ侍りしこそ、むかしのこときゝ侍るやうにおぼえ侍りしか。その殿にまゐる僧のかたり侍りしは、るりのみくにのほとけの、人のたけにおはします、かきたてまつりてこそ、かのきしのみのりに、かねのもじになゝまき、たゞのもじの御經なゝそぢ、うつしたてまつりて、僧綱有職など七人、請せさせ給ひて、くやうしたてまつらせ給ふ。一家の上達部殿上人、太政のおほいどの、内大臣と申ししよりはじめてわたり給ひて御仏くやうのゝち、舞人楽人など、左右のまひなどして、のちには御あそびせさせ給ふ。御みき聞こえかはしなどして、いひしらずめでたくきゝたまへりしが、中院の大将わかぎみにおはしける、十八ばかりにて、さうのふえふき給ひけるこそ、その日のめづらしく、なみだもおとしつべきことに侍りけれ。このおとゞよりは、六条大臣殿は、さきにうせ給ひにしかば、その御子の太政のおとゞはほりかはのおとゞに、なにごともたづねならひ給ひて、おやこのごとくなんおはしける。それにひかれて、こときんだちみななびき申し給ひけりとぞきゝ侍りし。


62 根合

六条の右のおとゞのきんだちは、まづほりかはのみかどの御母中宮その御はらに、前坊と、ほりかはのみかどと、をのこみやうみたてまつり給へり。をんなみやは、〓子の内親王と申すは、白川院の第一の御むすめ、いせのいつきにおはしましゝ、中宮うせさせ給ひにしかば、いでさせ給ひて、ほりかはのみかどのあねにて、御はゝぎさきになぞらへて、皇后宮にたゝせ給ふ。院号ありて郁芳門院と申しき。寛治七年五月五日、あやめのねあはせゝさせ給ひて、哥合の題菖蒲、郭公、五月雨、祝、恋なん侍りける。こまかには、哥合の日記などに侍るらん。判者は六条のおほい殿せさせ給へり。周防内侍恋の哥、

  こひわびてながむるそらのうき雲や我下もえの煙成るらん

とよめりけるを、判者あはれつかうまつりたるうたかなと侍りければ右哥人かちぬとてこのうた詠じてたちにけるとなん。二位大納言の宰相におはせしにかはりて、孝善が、ひくてもたゆくながきねの、とよみとゞめ侍ぞかし。永長元年八月七日、かくれさせ給ひにき。そのとし、おほ田楽とてみやこにも、みちもさりあへず、神のやしろやしろ、このことひまなかりける、御ことあるべくてなどよに申しける。この御ことを、白河院なげかせ給ふこともおろかなり。これによりて、御ぐしおろさせたまへり。あさましなど申すもおろかなり。御めのとごの、まだわかくて、廿一とかきこえしも、法師になり侍りし。かなしさはことわりと申しながらも、わかきそらにいとあはれに、ありがたき心なるべし。日野といふところに、すむとぞきゝ侍りし。つぎのとしのあき、むかしの御こと思いでゝ、そのとものぶの大とこ

  かなしさに秋はつきぬと思ひしをことしも虫のねこそなかるれ

とよみて、筑前のごとて、はくのはゝときこえしがもとに、つかはしたりければ筑前かへし、

  虫のねはこの秋しもぞなきまさる別のとほくなる心ちして

と侍りしを、金葉集には、きゝあやまりたるにや。かきたがへられてぞ侍るなる。六条院に御堂たてさせ給ひて、むかしおはしましゝやうに、女房さぶらひなど、かはらぬさまに、いまだおかれ侍るめり。御かなしみ、むかしもたぐひあれど、かゝること侍らず。御庄御封など、よにおはしますやうに、しおかせ給へれば、すゑ<”のみかどの御ときにも、あらためさせ給ふことなくて、このころも、さきの齊宮、つたへておはしますとぞ、きこえさせ給ふめる。


63 有栖川

この中宮のひめみや、二条の大宮とて、女院の御おとうとおはしましゝ、令子内親王とて、齊院になり給ひて、後には鳥羽院の御母まで、皇后宮になり給ひて、大宮にあがらせ給ひにき。いと心にくき宮のうちときゝ侍りしは、侍従大納言三条のおとゞなど、まだげらうにおはせしとき、月のあかゝりける夜、さまやつして、みやばらをしのびてたちぎゝたまひけるに、あるはみなねいりなどしたるも有りけり。このみやにいりたまひければにしのたいのかた、しづまりたるけしきにて、人々みなねたるにやと、おぼしかりけるに、おくのかたに、わざとはなくて、さうのことの、つまならしして、たえ<”きこえけり。いとやさしくきこえけるに、きたのかたのつまなるつぼね、つまどたてたりければ月もみぬにやとおぼしけるに、うちに源氏よみて、さかきこそいみじけれ。あふひはしかありなどきこえけり。だいばんどころのかたには、さゞれいしまきて、らんごひろふおとなどきこえけるをぞむかしのみやばらも、かくやありけんとはべりける。またふるきうたよみ、摂津の子といふ、又六条とてわかきうたよみなどありて、をりふしにつけて、心にくきごたち、おほく侍りけり。為忠といひしが子の、為業といひしにや。いづれにかありけん。かの宮によるまゐりて、ごたちとあそびけるに、ためたゞ國にまかりけるほどなりけるに、とし老いたるこゑにて、やつはしとあまのはしだてと、いづれまさりておぼえさせ給ひしと、たよりにつたへ給へなどいひけるを、のちに又あるごたち、かくことづてし給ふ人をば、たれとかしりたまひたるといひければやつはし、あまのはしだてなど侍りけるに、心え侍りぬといひけるを、つぎの日よべ心えたりといはれしこそ、猶そのひとのことゝおぼゆるなどいひけるをきゝて、つのごとりもあへず、心えずのことや。ゝつはしなどいはんからに、われとや心うべき。ながらのはしといはゞこそ、われとはしらめといひけるも、をかしく、又つちみかどの齋院と申して、〓子内親王と申しておはしき。その齋院は、つねにのりのむしろなどひらかせ給ひて、法文のことなど、僧まゐりあひて、たふときことゞも侍りけり。雅兼入道中納言などまゐりつゝ、もてなしきこえ給ひけるとかや。哥なども、人々まゐりてよむをりも侍りけり。水のうへの花といふ題を、ときのうたよみども、まゐりてよみけるに、女房の哥、とり<”にをかしかりければむくのかみとしよりも、むしろにつらなりて、このうたは、囲碁ならばかたみせむにてぞよく侍らんなど、とり<”にほめられけるとぞ。ゝのひとりは、ほりかはのきみとて、顕仲伯のむすめの おはせしうた、

  雪とちる花のしたゆく山水のさえぬや春のしるし成るらん

  春かぜにきしの桜の散まゝにいとゞ咲そふ浪の花哉

このほかもきゝ侍りしかど、忘れにけり。入道治部卿の、あらしやみねをわたるらん。とよみ給ふ、そのたびの哥なり。白河院哥どもめしよせて、御らんじなどせさせ給ひけり。一院の御むすめなればにや。ことのほかに、あるべかしくぞ、宮のうち侍りける。女房中らうになりぬれば、みづからさぶらひにものいひなどはせざりけりとぞ、きこえ侍りし。この齋院かくれさせ給ひてのち、そのあとに、ほりかはの齋院つぎて、すみ給ひけるこそ、むかしおぼしいでゝ中院の入道おとゞよみ給ひける、

  ありすがはおなじながれと思へども昔のかげのみえばこそあらめ。


64 紫のゆかり

中宮の御せうとたち、をとこもそうもさま<”おほくおはしましき。太政大臣雅実のおとゞと申ししは、中宮のひとつ御はらからにて、六条の右のおとゞの太郎におはしき。その御はゝ治部卿隆俊の中納言のむすめなり。こが のおほきおとゞと申しき。いと御身のざえなどはおはせざりしかど、よにおもく、おもはれたる人にぞおはせし。ちゝおとゞ、わがまゝなる御心にて、ひが<しきことも、したまひけるにも、このおとゞまゐり給ひければとゞまりたまひけり。白川院も、はぢさせ給へりけるとこそ、きこえ侍りしか。醍醐より、僧正の申さるゝことなど侍りけるを、このおとゞに、おほせられあはせければしる所などいくばくも侍らねば、さぶらふものどもに申しつけて、しもづかさなどいふことは、えしり給はぬことになんなど侍りければいとはづかしくあるかなと、おほせられけり。ほりかはのみかどの御とき、この少将とて、入道右のおとゞ、いはしみづのまひ人し給ふべかりけるに、中のみかどの内のおとゞ少将とておはするは、上らうなりけれど、一のまひは、中院ぞおほせられむずらんと、おぼしけるに、ちそく院の太殿の、関白におはするに、みかどもはゞかりて、むねよしの一のまひし給へりければ久我のおとゞきゝつけ給ひて、この少将をばよびとゞめてはらだちてこもり給ひければみかどもいださせ給ひて、心ゆるさむとて、かゝいを給はせたりければしかあらば、いでありかざらんもびんなしとて、よろこび申しなどせられけるに、関白殿 たいめんし給ひて、ことのついでなれば申すぞ。大饗にはおとゞ尊者に申さむずるなり。そのよしきこえしるべきなりなどありて、たのみておはしけるほどに、その日になりて、みせにつかはしたりければ御ものいみにて、かどさしておはしければ俊明の大納言をぞ尊者にはよび給ひける。四条の宮は、むげにくだりたるよかなとて、なかせ給ひけるとかや。りんじのまつりの一のまひ、少将のし給はぬ、やすからぬ心にて、かくたがへ給ふなりけり。その入道右のおとゞ、宰相の中将と申しゝ時、さねよしのおとゞの、三位中将とておはせし、こえて中納言になり給ひけるにも、太政のおとゞ、院をうらみ申し給ふときかせ給ひて、中宮のせうとにて、うちのせさせ給ふ。すぢなきことかなと、おほせられながら、長忠の宰相、左大弁にて中納言になりたりけるを、こを弁になさんと申しけるものをとて、中納言にて七八日ばかりやありけん。ながたゝをば、大蔵卿になしてこの能忠をば弁になしてぞ中院の宰相中将は、中納言になり給ふとうけ給はりし。待賢門院中宮にたゝせ給ひけるにや。白河院盛重とてありしを御使にて、太政のおとゞに、なにごとも、おもふことのかなはぬはなきに、上らう女房なん、心にかなはぬことはあるを、思ひかけず、上らう女房をまうけたることなん侍と、おほせられたりければいかなる人のことにかととひ給ふに、ほかばらのひめぎみのおはしける御ことなりけり。それをきゝ給ひて、御うしろみよびて、そのひめぎみのもとへ、さたしやることゞもはおこたらぬかとゝひ給へば、さらにおこたり侍らずと申すに、いまはそのさたあるまじとありければ御つかひもうしろみも、いとおもはずに思へりけり。御かへりいかゞと申しければうけ給はりぬとばかり申し給ひけり。院はともかくものたまはざりけりとなん。かやうに院にも関白にもはゞかり給はぬ人におはしけり。御心のあてなるあまりに、ものゝかずも、こまかにしり給はざりけるにや。をさめどのするさぶらひ人のもとに、きぬせさせにやれとありければふたつがれうには二ひきなんつかはしつると申しければひとつをこそ、二ひきにてはすれとの給ひて、おどろきたまひけるに、たくみのすけなにがしといふに、とひ給ひければおなじさまに申しけるにこそ、さはえしらざりけるにこそと、をれ給ひけれ。これをいへ人、かたりあひけるをきゝて、兼延といふ近衛とねりは、いづれのくにのきぬとかを、こまかにきりなどせさせ給ふところも、おはしますものをなどいひける、いとはづかしくこそ。このおほいまうちぎみ、おこり心ちわづらひ給ひけるに、白川院より平等院の僧正をつかはして、いのらせ 給ひけるに、おこたりたるふせにむまをひき給ひける。おほかたいひしらぬあくめになん侍りければ院きこしめして、われこそふせもうべけれど、もりしげといひしをつかはしておほせられければ院にありがたきものまゐらせんとて、むさしの大徳隆頼がつくりたる、こゆみのゆづかの、しもひとひねりしたるをとりいでゝ、うるしのきらめきたるさしてすりまはして、にしきのゆづるとりすてゝ、みちのくにかみしてひきまきて、にしきのふくろにもいれず、たゞみちのくにかみにつゝみて、たてまつられたりければいとめづらしきものなりと、たちかへりおほせられけるとぞきゝ侍りし。


65 新枕

このおとゞの御子は、大納言顕通と申してちゝおとゞよりもさきにうせ給ひにき。その御子は、いまの内大臣まさみちの大将と申すなるべし。この大将の御はゝは、よしとしの治部卿のむすめにやおはすらん。又この御あにに、つのかみ廣綱のむすめのはらに、やまのざす明雲権僧正とて、いまだおはすなるこそ、よのすゑには、かやうなる天台座主はおはしがたくうけ給はれ。わがみちの法文をも、ふかくまなび給ふ。かた<”よにたふとくて、御心ばへもおもくおはするにや。山のうへこぞりて、もちゐたてまつりたるとかや。うちつゞきたもつ人、ありがたくきこえ給ふに、大衆などかねならして、おこることだに侍らぬとかや。又太政のおとゞの御子にては右大臣雅定と申して、さきにもまひ人のこと申し侍る。中院のおとゞとておはしき。御はゝは加賀兵衛とかいひしがいもうとにて、下らう女房におはせしかど、あにの大納言よりも、おぼえもおはしもてなし申し給ひき。このおとゞは、ざえもおはして、公事などもよくつかへ給ひけり。さうのふえなどすぐれ給へりける、時元とて侍りしを、すこしもたかへず、うつし給へるとぞ。まじりまろといふふえをも、つたへ給へり。まじりまろとは、からのたけ、やまとのたけのなかに、すぐれたるねなるを、えらびつくりたるとなん。まじりまろといふさうのふえは、ふたつぞ侍るなる。ときもとがあにゝて、時忠といひしもつくりつたへ侍るなり。むらといひて、いなりまつりなどいふまつりわたるものゝ、ふきてわたりけるふえのひゞきことなるたけのまじりてきこえ侍りければさじきにて時忠よびよせて、かゝるはれには、おなじくは、かやうのふえをこそふかめとて、わがふえにとりかへて、我をばみしりたるらん。のちにとりかへんといひければむらのをのこよろこびて、みなみしりたてまつれりとて、とりかへたりけるを、すぐれたるひゞきありけるたけをぬきかへて、えならずしらべたてゝ たびたりければよろこびてかへしえてなん侍りける。そのまじりまろは、時忠がこの時秀といひしがつたへ侍りしを、こも侍らざりしかば、このころはたれかつたへ侍らん。ときたゝは刑部丞義光といひし源氏のむさのこのみ侍りしにをしへて、そのふえを、もとよりとりこめて侍りけるほどに儀光あづまのかたへまかりけるに、時忠もいかでか、としごろのほいにおくり申さざらんとて、はる<”とゆきけるを、このふえのことを思ふにやとや心えけん。わがみはいかでも有りなん。みちの人にて、このふえをいかでかつたへざらんとて、かへしたびたりければそれよりこそ、いとまこひてかへりのぼりにけれ。そのふえをかくたしなみたれども、時元わかゝりけるとき、武能といひて、えならずふえしらぶるみちのものありけるが、としたけてよるみちたど<しきに、時元てをひきつゝ、まかりければ、いとうれしくおもひてえならずしらぶるやうどもつたへて侍りければにや。いとことなるねあるふえになん侍るなる。この右のおとゞ、かゝるつたへおはするのみにもあらず、家のことにて胡飲酒まひ給ふこと、いみじく、そのみちえ給ひて、心ことにおはしける、そのまひも、資忠とてありしまひ人の、政連といひしといどみて、祇園の會に、はやしの日とか。ころされにければ忠方近方などいひしも、まだいといはけなくて、ならひもつたへぬぞ、太政のおとゞの、忠方にはをしへ給へるぞかし。しかあれども、このおほいどのばかりは、えつたへざるべし。政連はいづもにながされて、かのくにのつかさのくだりたるにもをしへ、又この友貞とかいふも、京へのぼりて、顯仲とかいひし中納言にも、をしへなどすときゝしかども、このおほいどのゝつたへ給へるばかりは、いかでか侍らん。あにの忠方は胡飲酒をつたへ、おとうとの近方は、採桑老を天王寺の公貞といひしにつたへて、このころは、そのこどものあにおとうと、すぢわかれてまひ侍るとなん。たゞかたちかゝだ、落蹲といふまひし侍りしは、おとうとは、あにのかたをふまぬさまにまひ侍りしは、めづらしき事に侍りしを、こどもはいかゞ侍るらんと、ゆかしくこの右のおとゞは、御心ばへなど、すなほにて、いとらうある人にておはしけるうへに、のちのよの事など、おぼしとりたる心にや。わづらはしきこともおはせで、いとをかしき人にぞおはせし。まだわかくおはせしころにや。いよのごといふをんなを、かたらひ給ひけるに、ものし給ひ、たえてほどへぬほどに、やましろのさきのつかさなる人になれぬときゝて、やり給へりける御哥こそ、いとらうありて、をかしくきゝ侍りしか。

  まことにやみとせもまたで山城の伏見の里ににひ枕する

と侍りける。むかし物がたりみる心ちして、いとやさしくこそうけ給はりしか。おほかた哥よみにおはしき。殿上人におはせしとき、いはしみづのりんじのまつりの使、したまへりけるに、その宮にて、御かぐらなどはてゝ、まかりいで給ひけるほどに、まへのこずゑに郭公のなきけるをきゝたまひて、としよりの君の、陪従にておはしけるに、むくのかうの殿、これはきゝ給ふやと、侍りければ思ひかけぬはるなけばこそはべめれと、心とくこたへ給ひけるこそ、いとしもなき哥よみ給ひたらむには、はるかにまさりてきこえける。四条中納言、このれうによみおき給ひけるにやとさへおぼえて、又きゝ給ひておどろかし給ふも、いうにこそ侍りけれ。かやうにおはせん人、いとありがたく侍り。出家などし給ひしこそ、いときよげに、めでたくうけ給はりしか。べちの御やまひなどもなくて、たゞこのよはかくて、後の世の御ためとて、右大臣左大将かへしたてまつりて、かはりたまはらんなどいふ御まうけもなくて、中院にてかしらおろして、こもりゐたまへりしこそ、いと心にくゝ侍りしか。御こもおはせねば、あにの御こ、いまの内のおとゞ、又雅兼の入道中納言の御こ、定房の大納言、やしなひ給へるかひありて、くらゐたかく、おの<なり給へり。御のうどもをつぎ給はぬぞくちをしく侍る。内のおとゞの御こも少将とてふたりおはすなり。


66 武蔵野の草

六条の右のおとゞは、おほかたきんだちあまたおはしき。太政のおとゞにつぎたてまつりては、大納言雅俊とておはしき。御はゝはみのゝかみ良任ときこえしむすめのはらなり。京極に九躰の丈六つくり給へり。その御子は、はら<”にをとこ女あまたおはしき。伊与のかみ為家のぬしのむすめのはらに、神祇伯顯重と申しき。もとはさきの少将ひぜんのすけにてぞひさしくおはせし。そのおなじはらに、四位の侍従顯親と申して、後は右京権太夫、はりまのかみなどきこえき。おなじ御はらに、かうづけのかみあきとしとておはしき。中宮の御おほぢにやおはすらん。憲俊の中将ときこえし、のちには、大貳になり給へりき。百郎と御わらはなきこえ給ひき。又摩尼ぎみときこえ給ひし左馬権頭など申しき。このほかにも、かうづけ、越中などになり給へるきこえき。又そう子もおほくおはするなるべし。大納言のおなじ御はらに、中納言國信と申しておはしき。ほりかはの院の御をぢの中にことにしたしくさぶらひ給ひけるとぞきこえ侍りし。哥よみにおはして、百首の哥人にもおはすめり。この中納言のひめぎみ、おほいぎみは、ちかくおはしましゝ摂政殿の御はゝ、 二位と申すなるべし。つぎには、入道どのにさぶらひ給ひて、さりがたき人におはすなり。第三のきみは、いまのとのゝ御はゝにおはします。三位のくらゐえ給へる成るべし。うちつゞき二人の一の人の御おほぢにて、いとめでたき御すゑなり。この中納言の御子に、四位の少将顯國とておはしき。そのはゝは、さきの伊与のかみ泰仲のむすめときこえき。その少将、いとよき人にて、哥などよくよみ給ひき。とくうせ給ひにき。少将のひとつはらのおとうとにやおはしけん。備前前司修理権太夫、越後守などきこえ給ひき。又六条殿の御子に、顯仲伯ときこえたまふ、大納言中納言などのあにゝやおはしけん。そのはゝは肥前のかみ定成のむすめのはらにやおはすらん。哥よみ、笙のふえの上手におはしけり。きんさとゝいひしが、調子をすぐれてつたへたりけるを、うつしならひ給へりけるとぞ。その御子、あはぢのかみ宮内大輔などきこえき。覚豪法印とて、法性寺殿の、仏のごとくにたのませ給へるおはしき。そうこもあまたおはするなるべし。女子はほりかはのきみ、兵衛のきみなどきこえ給ひて、みな哥よみにおはすときこえ給ひし。あね君はもとは前齋院の六条と申しけるにや。金葉集に、

  露しげき野べにならびてきり<”す我たまくらの下に鳴也

とよみたまへるなるべし。ほりかはとはのちに申しけるなるべし。かやうなる女哥よみは、よにいでき給はんこと、かたく侍べし。又やまもゝの大納言顯雅とて、六条のおほい殿の御子おはしき。そのすゑいとおはせぬなるべし。御むすめそ、鳥羽の女院の皇后宮の時、みぐしげどのとておはせし。女院の御せうとの、ひごのぜんじときこえしは、大納言のむこにおはせしかばなるべし。その大納言の御くるまのもんこそ、きらゝかにとをしろく侍りけれ。おほかたばみのふるきゑに、弘高金岡などかきたりけるにや。それをみてせられけるとぞ。いまはのり給ふ人も、おはせずやあらん。ものなどかき給ふことも、おはせざりけるにや。行尊僧正のもとに、やり給へりけるふみのうはがきには、きゝざうはうとうゐんの僧正の御ばうにとぞありける。かんなゝらば、きん<上なくてもあるべけれど、えかき給はぬあまりにやありけん。ことのはもえきこえ給はざりけり。たゞ車をぞなべてよりよくしたてゝ、うしざうしきゝよげにてありき給ひける、車などよくするは、まさなきことゝて、はげあやしくなれども、にはかにかきすゑたるこそ、しかるべき人はさもすると申すこともあるべし。これも又ひとつのやうにて、つやゝかにしたまひけるにこそ。かぜなどのおもくおはしけるにや。ひがことぞつねにしたまひける。 雨のふるに、車ひきいれよといはんとては、くるまふる。しぐれさしいれよと侍りければくるまのさま<”そらよりふらん、いとおそろしかるべしなど、思ひあへりける。かやうのことを、ほりかはの院きこしめして、ひがことこそ、ふびんなれ。いのりはせぬかと、おほせられければ御返事申されけるほどに、ねずみのはしりわたりければさればとう身のねずみつくらせ候ふと、申されければおほかたいふにもたらずとなんおほせられける。これはしなのゝかみ伊綱のむすめのはらにおはするなるべし。おなじはらに信雅のみちのくのかみとておはしき。かゞのかみ家定とて、久しくおはせしが、のちにみちのくにはなり給へりし也。その子は成雅のきみとて、知足院の入道おとゞ、てうし給ふ人におはすときこえき。のちにはあふみの中将ときこえしほどに、みやこのみだれ侍りしをり、左大臣殿のゆかりに法師になりて、こしのかたに、ながされ給ふときこえし、かへりのぼり給へるなるべし。そのなりまさの中将のあにゝもおとうとかにて、房覚僧正とて三井寺にげんざおはすとぞきこえ給ふ。又六条どのゝ御子に、いなばのかみ惟綱のむすめの内侍のはらに、雅兼の治部卿と申す中納言おはしき。さいかくすぐれ給ひ、公事につかへ給ふことも、むかしもありがたき人になんおはしける。詩つくり、うたよみにおはしき。たかくもいたり給ふべかりしを、御やまひにより出家し給ひて、ひさしくおはしき。鳥羽院大事おほせられあはせんとてつねはめしいでゝ、たいめんせさせ給ふをりども侍りけり。この入道中納言のきんだちぞ、この御ながれには、かんだちめなどにてもあまたきこえ給ふ。右中弁雅綱ときこえ給ひし、よくつかへ給ふとて、四位少将などに、めづらしくなりおこし給へりし、とくうせ給ひにき。その御おとうとに、能俊の大納言のむすめの御はらに、たうじ中納言雅頼ときこえ給ふこそ、入道治部卿の御子には、ふみなどつたへ給ふらめ。いへをつぎ給へる人にこそ。おなじ御はらに、そのつぎに大納言と申すは、入道右大臣の御子にしたまひて、たかくのぼり給へるなるべし。その御おとうと、四位少将通能と申すなるは、琴ひき給ふとぞきこえ給ふ。清暑堂のみかぐらにも、ひき給ひけるとなん。師能の弁とておはせし、やしなひ申し給へるときゝ侍りし、これにやおはすらん。六条のおほいどのゝきんだちなど、僧もおほくおはすれど、さのみ申しつくしがたし。山に相覚僧都とて、おほはらにすみたまふおはしき。だいごには、大僧正定海とて、さぬきのみかどのごぢそうにおはしき。なかには山しなでらの隆覚僧正、東大寺の覚樹僧都と申ししは、東南院ときこえ給ひき。みなやんごとなき学生におはしき、又覚雅僧都とてもおはしき。哥よみにぞ おはせし。すゑの世の僧などさやうによまんは有がたくや侍らん。白川院の、いとしもなくおぼしめしたる人にておはしけるに、としよりのきみ、金葉集えらびてたてまつりたりけるはじめにつらゆき、はるたつことをかすがのゝ、といふ哥、そのつぎに、覚雅法師とていり給へりけるを、つらゆきもめでたしといひながら、三代集にももれきて、あまりふりたり。覚雅法師も、げにもともつゞきおぼえずなど、おほせられければふるき上手どもいるまじかりけり。またいとしもなくおぼしめす人、のぞくべかりけりとて、おぼえの人をのみとりいれて、つぎのたびたてまつりければこれもげにともおぼえずとおほせられければまたつくりなほして、源重之をはじめにいれたるをぞとゞめさせ給ひけるは、かくれてよにもひろまらで、なかたびのが世にはちれるなるべし。又山におはせし妙香院の清覚内供などきこえ給ひし、その内供のひとつはらにやはたの御はらにや治部大輔雅光ときこえ給ひしうたよみおはしき。人にしられたる哥、おほくよみ給へりし人ぞかし。あふまでは思ひもよらず。又身をうぢがはのはしはしら、などきこえ侍るめり。その御子には、實寛法印とて山におはす。六条殿の御子は、又をとこも、たんばのぜんじ、いづみのぜんじなど申して、おはしき。はか<”しきすゑもおはせぬなるべし。


67 藻塩の煙

二条のみかどの御時、ちかくさぶらひ給ひてかうのきみとかきこえ給ひしはことの外にときめき給ふときこえ給ひしかば、ないしのかみになり給へりしにやありけん。たゞまたかうの殿など申すにや。よくもえうけ給はりさだめざりき。それこそは、六条殿の御子の季房のたんばの守のこに、太夫とか申して、いせにこもりゐたまへる御むすめときこえ給ひしか。かの御時、女御きさき、かた<”うちつゞきおほくきこえ給ひしに、御心のはなにて一時のみさかりすくなくきこえしに、これぞときはにきこえ給ひて家をさへにつくりて給はり、よにもゝてあつかふほどにきこえ給ひて、みかどの御なやみにさへ、とがおひ給ひしぞかし。御めのとの大納言の三位なども、いたくなまゐり給ひそなど侍りけるにや。あるをりはつねにもさぶらひたまはずなどありけるとかや。かつは御おぼえの事など、いのりすぐし給へるかたもきこえけるにや。かつはきゝにくゝもきこえけるとぞ。おもらせたまひけるほどに、としわかき人なれば、おはしまさゞらんには、いかにもあらんずらん。御せうそこども、かへしまゐらせよとありければ、 なく<とりつかねてまゐらせければ信保などいふ人うけ給はりて、かきあつめさせたまへる、もしほのけぶりとなりけむも、いかにかなしくおぼしけん。御ぐしのたけにあまり給へりけるも、そぎおろさばやとぞきこえけれど、心づよき事かたくて月日へけるほどに、御心ならずもやありけん。むかしにはあらぬことゞもいできて、わかき上達部の、時にあひたるところにこそ、むかへられ給ひてと、きこえ侍るめれ。めし返させ給ひけん、やんごとなきみづぐきのあとも、いまやおぼしあはすらん。いとかしこくこそ。 六条のおとゞいとあさましく、すゑひろくおはします。昔よりふぢなみのながれこそ、みかどの御おほぢにては、うちつゞき給へるに、ほりかはの院の御おほぢに、めづらしくかくすゑさへひろごらせたまへる一の人の御おほぢに、うちつゞきておはしますめり。六条殿の御むすめは、ほりかはの院の御時、承香殿と申しけるは、女御のせんじなどはなかりけるにや。だいごにおはすときこえしちかくうけ給ひにき。ほりかはどの、六条どのゝ御おとうとに、中宮太夫師忠の大納言おはしき。その御はゝは、ほりかはのよりむねの右のおとゞの御むすめなり。この大納言の御こは、左馬頭師澄とて、千日のかうひさしくおこなひ給ひて、のちは大蔵卿と申しき。その御おとうとは、師親の四位の侍従など申しておはしき。又大納言の御こには、仁和寺の大僧正寛遍と申すおはしき。備中の守まさなかのむすめのはらにやおはしけん。たかまつの院の中宮とて、御ぐしおろさせ給ひし、かいの師におはしけり。東寺の長者にて、ちかくうせたまひにけり。中宮太夫の御おとうと廣綱とておはしき。四位までやのぼり給ひけん。摂津の守など申しゝにや。又ほりかは殿などのおなじはらにやおはしけん。仁覚大僧正と申しし、山の座主おはしき。それは中宮の太夫のあにゝやおはしけん。またことはらに、やましなでらの實覚僧正など申しておはしき。荘厳院の僧都と申ししなるべし。


〔みこたち〕第八

68 源氏の御息所

みかどの御おほぢにはおはせねど、春宮やみやたちの、御母におはせしは、後三條院の女御にて、侍従の宰相、基平の御むすめこそおはせしか。その宰相は、小一条院の御子におはしき。その源氏のみやす所、御名は基子女御とぞ申しし。その御せうとにては、春宮太夫季宗、大蔵卿行宗など申しておはしき。みな三位のくらゐにぞおはせし。大蔵卿は八十ばかりまでおはせしかば、ちかくまできこえ給ひき。哥よみにおはしき。ふたりながら、からのふみなどもつくり給ふとぞきゝ侍りし。良頼の中納言のむすめのはらのきんだちなり。女御もおなじ御はらからにおはす。又そのはらに、平等院の僧正行尊とて、三井寺におはせしこそ、なだかき験者にておはせしか。少阿闍梨など申しけるをりより、おほみねかつらぎはさることにて、とをき國々山々など、ひさしくおこなひたまひて、白河院鳥羽院、うちつゞき護持僧におはしき。仁和寺の女院の女御まゐりにや侍りけん。御物のけそのよになりておこらせ給ひて、にはかに大事におはしましけるに、この僧正いのり申し給ひければほどなくおこたらせ給ひて、御くるまに たてまつりて、いでさせ給ひにけるあとにものつきに、ものうたせてゐさせたまへりけるこそ、いとめでたく侍りけれど、つたへうけ給はりしか。僧正哥よみにおはして、代々の集どもにも、おほくいりたまへるとこそきゝ侍れ。笙のいはやにて、

  草のいほを何露けしと思ひけんもらぬいはやも袖ぞぬれける

なとよみ給へり。つたへきく人の袖さへしぼりつべくなんきこえ侍る。おほみねにて、後冷泉院うせさせ給ひて、よのうきことなど、おもひみだれてこもりゐて侍りけるに、後三条院くらゐにつかせ給ひてのち、七月七日まゐるべきよし、おほせられければよめる、

  もろともにあはれと思へ山桜花よりほかにしる人もなし

なとよみたまへる。哥よまざらんは、ほいなかるべき事なるべし。いとゞ御こゝろもすみまさり給ひけんかし。てかきにもおはして、かなの手本など、よにとゞまり侍るなり。ことはら<”にも、勧修寺僧正、光明山の僧都など申しておはしき。その女御の御はらに、御子あまたおはしき、春宮と申して、延久三年二月にむまれ給ひて、同四年十二月に、御としふたつと申しし。東宮にたち給ひき。永保元年八月に、御元服せさせ給ふ。應徳二年十一月八日、十五におはしましゝに、かくれさせ給ひにき。平等院の僧正は、女御の御せうとなれば、東宮の御いみにこもり給ひて、御はてすぎて、人々ちりけるに、ひたちのめのとに、おくり給ふときこえ侍りし、

  おもひきやはるのみや人なのみして花よりさきに散らむ物とは

とよみ給ひたりける、返し御めのと、

  花よりもちり<”になる身をしらでちとせのはると頼みける哉

とぞきゝ侍りし。これは白川院のことはらの御おとうと、後三条院の第二の御子也。東宮とおなじはらに、第三の御子おはしき。輔仁親王と申しき。延久五年正月にむまれ給へり。承保二年十二月に、親王のせんじかぶり給ふ。この御子はざえおはして詩などつくり給ふこと、むかしのなかつかさの宮などのやうにおはしき。哥よみ給ふことも、すぐれ給へりき。円宗寺の花をみたまひて、

  うゑおきしきみもなき世に年へたるはなやわがみのたぐひ成るらん

とよみ給へるこそ、いとあはれにきこえ侍りしか。かやうの御哥ども、むくのかみのえらびたてまつれる金葉集に、輔仁のみことかきたりければ白河院は、いかに こゝに見むほど、かくはかきたるぞと、おほせられければ三宮とぞかきたてまつれる。御なからひはよくもおはしまさゞりしかども、御おとうとゝなればなるべし。詩などはかずしらずめでたく侍る也。よろこびもなし、うれへもなし。世上の心とかやつくり給へりけるを、中御堂と申しておはせしが、のたまひけるは、うれへこそあはれとの給はせけれど、くらゐにはかならずしも、みかどの御子なれど、つぎ給ふことならねば、ものしり給へる人は、なげきとおぼすべからず。かの仁和寺の宮の、利口にこそあれ。なにごとかは御のぞみもあらむな。


69 花のあるじ

三宮の御子は、中宮太夫師忠の大納言の御むすめのはらに、はなぞのゝ左のおとゞとておはせしこそ、ひかる源氏なども、かゝる人をこそ申さまほしくおぼえ給へしか。まだをさなくおはせしほどは、わか宮と申ししに、御のうも御みめも、しかるべきことゝみえて、人にもすぐれ給ひて、つねにひきもの、ふき物などせさせ給ひ、又詩つくり、うたなどよませ給ひけるに、庭の桜さかりなりけるころ、こきむらさきの御さしぬきに、なほしすがたいとをかしげにて、われもよませ給ひ、人にもよませさせ給ふとて、

  をしと思ふ花のあるじをおきながら我がものがほにちらすかぜ哉

とよみ給ひたりければちゝの宮みたまひて、まろをおきながら、花のあるじとは、わか宮はよみ給ふかなど、あいし申し給ひけるとぞ人のかたり侍りし。御とし十三になり給ひし時、うゐかぶりせさせ給ひしは、白河院の御子にし申させ給ひて、院にて基隆の三位の、はりまのかみなりし、はつもとゆひしたてまつり、右のおとゞとてこがのおとゞおはせし、御かうぶりせさせたてまつり給ひけり。御みめのきよらかさ、おとなのやうに、いつしかおはして、みたてまつる人、よろこびのなみだも、こぼしつべくなんありける元永二年にや侍りけん。なかの秋のころ、御とし十七とや申しけん。はじめて源氏の御姓たまはりて、御名は有仁ときこえき。やがてその日、三位中将になり給ひて、そのとしの十一月のころ、中納言になり給ひて、やがて中納言中将ときこえき。むかしもみかどの御子、一の人のきんだちなどおはすれど、かく四位五位などもきこえ給はで、はじめて三位中将になり給ふ。としのうちに中納言中将などは、いとありがたくや侍らん。又そのつぎのとし、保安元年にや侍りけん。大納言になり給ひて、としをならべて右近大将かけ給ひき。よの人宮大将など申して、みゆきみる人は、 これをなんみものにしあへることに侍りし。白河の花見の御幸とて侍りし和哥の序は、この大将殿かきたまへりけるをば、世こぞりてほめきこえ侍りき。

  低枝をりてささげもたれば、紅蝋のいろてにみてり。 落花をふみて佇立すれば、紫麝の気衣に薫ず。 などかき給へりける、その人のしたまへることゝおぼえて、なつかしういうにはべりけるとぞ。御哥もおぼえ侍る、

  かげきよき花のかゞみとみゆる哉のどかにすめる白川の水

とぞきゝ侍りし。管絃はいづれもし給ひけるに、御びは笙のふえぞ、御あそびにはきこえ給ひし。すぐれておはしけるなるべし。御てもよくかき給ひて、しきしかた、てら<”のがくなどかきたまへりき。中納言になり給ひしをりにや。三のみこかくれ給ひにしは、法皇の御子とて、御ぶくなどもし給はざりけるとかや。又うすくてやおはしけむ。院うせさせ給ひしにぞいろこくそめ給へりける。まだつかさなども、きこえ給はざりしほどは、つねに法皇の御くるまのしりにぞのり給ひて、みゆきなどにもおはしける。さやうの御つゞきをおぼしいだしけるにや。院の御いみのほどまゐり給ひて有りけるとき、みなみおもてのかたに、ひとりおはして、さめ<”と、なきたまひて、御てして、なみだをふりすてつゝおはしける、ものゝはざまよりのぞきて、あはれなりしと人のかたり侍りし。寛能のおとゞは、きたのかたのせうとにおはして、あさゆふなれあそびきこえ給ひければ左兵衛督など申しけるほどにや五月五日大将殿、

  あやめ草ねたくも君がとはぬ哉けふは心にかゝれと思ふに

など心やりたまへるも、いとなつかしく、この大将殿は、ことのほかに、えもんをぞこのみ給ひて、うへのきぬなどのながさみじかさなどのほどなど、こまかにしたゝめ給ひて、そのみちにすぐれたまへりける。おほかたむかしは、かやうのこともしらで、さしぬきもなかふみて、えぼうしも、こはくぬることもなかりけるなるべし。このころこそ、さびえぼうし、きらめきえぼうしなど、をり<かはりて侍るめれ。白川院は、御さうぞくまゐる人など、おのづからひきつくろひなどしまゐらせければさいなみ給ひけるときゝ侍りし。いかにかはりたるよにかあらむ。とばの院このはなぞのゝおとゞ、おほかたも御みめとり<”に、すがたもえもいはずおはしますうへに、こまかにさたせさせて、世のさがになりて、かたあてこしあて、えぼしとゞめ、かぶりとゞめなどせぬ人なし。又せでもかなふ べきやうもなし。かうぶりえぼうしのしりは、くもをうがちたれば、さらずはおちぬべきなるべし。ときにしたがへばにや。このよにみるには、そでのかゝりはかまのきはなど、つくろひたてたるはつき<しく、うちとけたるは、かひなくなんみゆる。えもんの雑色などいひて、蔵人になれりしも、この御いへの人なり。うへの御せうとの君たち、わか殿上人ども、たえずまゐりつゝあそびあはれたるはさることにて、百大夫とよにはつけて、かげぼしなどのごとく、あさゆふなれつかうまつる。ふきもの、ひきものせぬはすくなくて、ほかよりまゐらねど、うちの人にて御あそびたゆることなく、伊賀大夫、六条太夫などいふ、すぐれたる人どもあり。哥よみ、詩つくりもかやうの人どもかずしらず。越後のめのと、小大進などいひて、なだかきをんなうたよみ、いへの女房にてあるに、きんだちまゐりては、くさりれんがなどいふことつねにしらるゝに、三条のうちのおとゞの、まだ四位少将などのほどにや。

  ふきぞわづらふしづのさゝやを、

とし給ひたりけるに中務少輔實重といふもの、つねにかやうのことに、めしいださるゝものにて、

  月はもれ時雨はとまれとおもふには、

とつけたりければいとよくつけたりなど、かんじあひ給ひける。又ある時、

  ならのみやこをおもひこそやれ。

といはれはべりけるに、大将殿、

  やへざくら秋のもみぢやいかならむ。

とつけさせ給ひけるに、ゑちごのめのと、

  しぐるゝたびに色やかさなる。

とつけたりけるものちまでほめあはれ侍りけり。かやうなること、おほく侍りけり。そのゑちごは、さこそはかりの人はつらけれといふうたなどこそ、やさしくよみてはべりけれ。かやうなること、かずしらずこそきこえ侍りしか。


70 伏し柴

大将殿としわかくおはして、なにごともすぐれたる人にて、御心ばへもあてにおはして、むかしはかゝる人もやおはしけん。この世にはいとめづらかに、かくわざとものがたりなどに、つくりいだしたらんやうにおはすれば、やさしくすき<”しきことおほくて、これかれ、 そでよりいろ<のうすやうにかきたるふみの、ひきむすびたるがなつかしきかしたる、ふたつみつばかりづゝとりいだして、つねにたてまつりなどすれば、これかれ見給ひて、あるは哥よみ、いろこのむ君だちなどに、みせあはせ給ひて、このてはまさりたり。うたなどもとり<”にいひあへり。あるはみせ給はぬもあるべし。又兵衛のかみや、少将たちなど、まゐり給へば、かたみに女のことなど、いひあはせつゝ、あまよのしづかなるにも、かたらひ給ふをりもあるべし。月あかき夜などは、車にて御随身ひとりふたりばかり、なに大夫などいふひとゝもにかはる<”かちよりあゆみ、御車にまゐりかはりつゝ、ふるきみやばら、あるはいろこのむ所々にわたり給ひつゝ、人にうちまぎれてあそびたまふに、びは笙のふえなどは、人もきゝしりなんとて、ことひきふえなどぞし給ひける。あるをりは、うたよむごたちまうでかよひける中に、ほいなかりけるにや。女、

  かねてより思ひし物をふしゝばのこるばかりなるなげきせんとは

とてたてまつりたりければやがてふししばとつけ給ひて、をりふしには、おとづれたてまつりければこよひはふししばは、おとすらむものをなどあるに、すぐさず哥よみてたてまつりなどして、いたきものとて、つねに申しかはす女ありけり。つちみかどのさきのいつきの御もとに中将のごとかいひけるものとかや。きたのかたは、てかきうたよみにおはして、いというなる御なからひになむありける。あまりほかにやおはしけんときこえしは、鳥羽院くらゐの御ときに、大将殿きくをほりにやりて、たてまつり給ひけるに、うすやうにかきたるふみの、むすびつけてみえければみかど御らんじつけて、かれはなにぞ。とりてまゐれと、蔵人におほせられけるに、おほい殿は、ふと心えていろもかはりて、うつふしめになりたまへりけるほどに、みかどひろげて御らんじければ、

  こゝのへにうつろひぬとも菊の花もとのまがきを忘ざらなん

とぞありける。きさいの御あねにおはすればとき<”まゐりかよひ給ふにつけつゝ、しのびてきこえ給ふことなども、おはしけるなるべし。むかしのみかどの御よにも、かやうなる御ことはきこえて、なほ<などおほせられければあまりなることもはべりけるやうに、これもおはしけるにや。とのゝいろこのみ給ふなど、おほかたうへはのたまはせず、へだてもなくて、ふみどもとりいれて、哥よむ女房にかへしせさせなどし、うへのめのとのくるまにてぞ女おくりむかへなどしたまひける。殿もこゝかしこにありき給ひ ける、いへの女房どもゝ、をとこのもとよりえたるふみをも、そのきたのかたに申しあはせて、うたの返しなどし給ひける。小大進などいふいろごのみのをとこのもとよりえたる哥とて申しあはせける、あまたきこえしかど、わすれておぼえ侍らず。あぜちの中納言とかいふ人の、おほやうなるも、哥などつかはしけるかへりごとに、小大進、

  なつ山のしげみがしたの思ひぐさ露しらざりつこゝろかくとは

などきゝ侍りし。くちとく哥など、をかしくよみて、いづみ式部などいひしものゝやうにぞ侍りし。伊与のごとて侍りしも、中院の大将のわかくおはせしほどに、ものなどのたまひてのちには、やましろとかいふ人に、物いふときゝ給ひて、さきにも申し侍りつる、みとせもまたで、といふ哥よみ給へりしぞかし。かやうにいろこのみたまへるごたち、おほくこそきこえ侍りしか。


71 月の隠るる山のは

このおとゞの御子のおはせぬぞ、くちをしけれど、かへりてはあはれなるかたもありて、なごりをしく侍りて、われものたまはせけるは、いとしもなき子などのあらむは、いとほいなかるべし。むらかみのみかどのすゑ、なかつかさの宮のうまごといふ人々みるに、させることなき人々どもこそおほくみゆめれ。わがこなどありとも、かひなかるべしなどぞ有りける。ひめぎみこそおはすなれ。きたのかたの御はらにはあらで、うちにつかひ給へりけるわらはの、おほくの人のなかに、いかなるすぐせにか、うみきこえたるとなん。上西門院にぞおはすときこえ給ふ。ことびはなども、ひき給ふともしられておはしけるに、月あかきよ、しのびてかきならし給ひけるより、あらはれ給ひけるとかや。又ことはらに、女君きこえ給ふは、たかまつの院にまゐりかよひ給ひて、殿上人の車などつかはして、むかへなどせさせ給ふとかやぞきこえ給ふ。大将殿、いづれのほどにか侍りけん。としごろすみたまひし、れんぜい、ひんがしのとうゐんよりにや侍りけん。なゝ夜、かちより御そくたいにて、いはしみづのみやに、まゐり給ひけるに、光清とかきこえし別當、御まうけたか房とかいふにして、御きそくきこえけれど、ことさらにたちやどることなくて、このたびはまゐらむと、心ざしたれば、えなむいるまじきとて、より給はざりけるに、なゝ夜まゐりはて給ひけるよ、みつといふところにおいて、たてまつりける。

  さいはいとさんぞのおまへふしをがみなゝよのねがひとをながらみて

とよめるを、御神のみことゝたのまんとて、御ふところにをさめさせ給ひて、 かへさにのり給ふ御むまをくらおきながらぞ、ひきて給はせける。その御とも人など、いかばかりなる御心ざしにて、かくかちの御ものまうで、よをかさねさせ給ふらん。あら人神、むかしのみかどにおはしませば、ながれのとだえさせ給ふ御ことにやなど、おぼつかなくおぼえけるに、臨終正念往生極楽、としのびてとなへさせ給ひける御ねぎごとにてぞあはれにかなしくうけ給はりしときこえはべりける。おほいどの、ゝちには大将もじゝ給ひて、たゝ左のおとゞとておはしき。仁和寺にはなぞのといふところに、山里つくりいだしてかよひ給ふに、四十にあまりてや、うせ給ひにけむ。ちかくなりては、御ぐしおろし給ひけるに、すがたはなほ昔にかはらず、きよらにて、すこしおもやせてぞみえ給ひける。いわくらなるひじりよびて、えぼうしなほしにていでゝ、御ぐしおろし給ひける、いとかなしく、みたてまつる人も、なみだおさへがたくなんありける。ゑちごのめのと、かぜいたみけるころ、はなにさして、

  われはたゞ君をぞをしむ風をいたみ散なん花は又も咲なん

とよみたまひけるを、めのとはつねにかたりつゝ、こひ申しける。この大将殿、みかどのうまご宮の御子にて、たゞ人になり給へる、このよにはめづらしく、きゝたてまつるに、なさけおほくさへおはしける。いとありがたく、きゝたてまつりしに、まださかりにて、雲かくれ給ひにけむ。いとかなしくこそ侍れ。かのはなぞのも、雲けぶりとのぼりて、あとさへのこらぬときゝ侍こそ、あはれに心うけれ。そのわたりにまうでかよひける人、

  いづくをかかたみともみんよをこめてひかり消にし山のはの月

三のみこの御子には、また信證僧正とて、仁和寺におはしき。鳥羽院御ぐしおろさせ給ひし時、御戒師におはしき。又山にも僧都のきみなどいひてきこえ給ひき。一定にもなかりしにや。院よりおほい殿にたづね申させ給ひけるとかや。御むすめは、おほい殿のひとつはらに、伊勢のいつきにてくだり給へりき。のちはふしみの齋宮と申しし、これにやおはすらん。又行宗の大蔵卿のむすめのはらに、斉院もおはするなるべし。このころむそぢなどにや、あまり給ふらん。そのいつきにおはせしころ、おほい殿本院にありすがはのもとのさくらのさかりなりけるにおはして、うたなどよみ給ひけるに、女房の哥とて、

  ちる花を君ふみわけてこざりせばにはのおもてもなくやあらまし

とぞきこえし。


72 腹々のみこ

きさいの宮、女御更衣におはせねど、御子うみたてまつり給へるところ<”、ちかきみよにあまたきこえ給ひき。きさきばらのみやたちは、みな申し侍りぬ。ちり<”にうちつゞきおはしますおほくきこえ給ふ。白川院のきさきばらの女宮、みところの外に、承香殿の女御のうみたてまつり給ひしは、伊勢のいつきにおはしき。それは女四宮なるべし。女五宮も、天仁元年しも月のころ、みうらにあひたまひて、齋宮ときこえ給ひき。御はらはいづれにかおはしけん。ひがことにや侍らん。季實とかきこえし、むすめにやおはしけむ。勢賀院の齋院と申しゝも、おなじころ、たち給ふときこえき。それは頼綱ときこえし、源氏のみかはのかみなりしが、むすめのはらにおはすときこえき。七十にあまり給ひて、まだおはすときこえ給ひき。からさきのみそぎ、上西門院せさせ給ひしころ、そのつゞきに、院の御さたにて、殿上人などたてまつらせ給ひけり。とのもりのかみなにだいふとか名ありし人、御うしろみにて、御くるまのしりに、あやのさしぬき、院のおろしてきてわたるなど、きこえき。をとこはこのよには、おほくほとけの道にいり給ひて、御元服もかたくて、うへの御ぞのいろなども、たづねえ侍らぬをり<も侍るとかや。くらゐおはしまさぬほどは、淺黄と日記に侍るなるをば、あをきいろか。きなるか。なほおぼつかなくて、はなぞのゝおほいどのに、たづねたてまつられけるも、をさなくておぼえ給はぬよし申したまふなどきこえし。一宮の御元服のは、きなるをたてまつれりけるなるべし。くらゐまだえさせ給はねば、きなるころもにぞまことにもおはしますらむ。無位の人は、黄袍なるべければをのゝたかむらが、をきよりかへりて、つくりたる詩にも、こふきみきくをあいせば、我をみるべし。しろきことはかうべにあり。きなることはころもにあり。などぞきこえ侍りし。神のやしろのきかりぎぬなども、くらゐなきうへのきぬの心なるべし。かやうのついでに、ある人の申されけるは、つるばみのころもは、王の四位のいろにて、たゞ人の四位と王五位とはくろあけをき、たゞ人の五位、あけの衣にてうるはしくはあるべきを、いまの人心およすげて、四位は王の衣になり、五位は四位のころもをきるなるべし。けびゐし上官などは、うるはしくてなほあけをあらためざるべしとぞ侍りける。仏のみちにいりたまへるは、このころうちつゞかせ給へり。仁和寺に覚行法親王ときこえたまひしは、白河の院のみこにおはす。御ぐしおろさせ給ひて、やう<おとなに ならせ給ふほどに、いとかひ<”しくおはしければさらに親王の宣旨かぶり給ふとぞきこえ侍りし。おほ御むろとておはしまししは、三条院の御子、師明親王ときこえ給ひし、まだちごにおはしまして、御子の御名えたまひければ法師のゝちも、親王のせんじかぶり給はず。その宮につけたてまつりたまひしに、御でしのみやはわらはにても、親王の御名えたまはねども、親王のせんじかぶり給へり。後二条のおとゞ出家のゝちは、れいなきよし侍りけれども、白川院、内親王といふこともあれば、法親王もなどかなからんとてはじめて法師ののち、親王ときこえ給ひしなり。かくてのちぞ、うちつゞきいづくにも出家のゝちの親王ときこえ給ふめる。そのおとうとにて、覚法々親王ときこえたまひしは、六条の右のおとゞの御むすめのうみたてまつり給へりし、法性寺のおとゞのひとつ御はらからにおはす。さきに申し侍りぬ。みかどの御子、関白など、ひとつはらにおはします、いとかたきことなるべし。この御むろは、おほきにこゑきよらかなる人にぞおはしける。真言の道よくならひ給ひ、又てかきにてもおはしけり。みだうのしきしかたなどかき給ふときこえ給ひき。高野の大師の、てかきにおはしければにや。御むろたちも、うちつゞき、てかきにぞおはすなる。かうやへまうでたまひけるみちにて、

  さだめなきうき世の中としりぬればいづくもたびの心ちこそすれ

とよみたまへりけるとぞ。横河の覚超僧都の、よろづのことをゆめとみるかな。といふ哥おもひいでられて、あはれにきこえ侍る御哥也。又仁和寺に花蔵院の宮とてもおはしましき。それはこと御はらなるべし。御母は大宮の右のおとゞの御子に、なでしこの宰相とかきこえ給ひしむすめとぞ、六条殿とかきこえ給ひて、のちには九条の民部卿とおはしけるとかや。このみやはいみじくたふとき人ときこえ給ひき。長尾の宮とも申しき。また三井寺大僧正行慶ときこえたまひしもおはしき。備中守政長ときこえし人の、むすめのはらにおはす。これも真言よくならひ給へるなるべし。この院も、この僧正にぞおこなひのことうけさせ給ふときこえし。法性寺のおとゞ、御ぐしおろしたまひて、御かいの師にし給ふともきこえき。こまの僧正とも申すなるべし。天王寺へまうでたまひけるに、なにはをすぎ給ふとて、

  ゆふぐれになにはわたりを見渡せばたゞうすゞみのあしで成りけり

となむきこえし。ことゝころのゆふべののぞみよりも、なにはのあしでとみえん。げにと きこえはべり。かへるかりのうすゞみ、ゆふぐれのあしでになりたるも、やさしくきこえ侍り。又若御前法眼ときこえ給へりしも、白川院の御子にやおはしけむ。みちのおくのかみ、有宗といひしがむすめのはらにおはすとぞ。ほりかはのみかどの宮たちは、やまに法印などきこえたまひし、のちには座主になりて、親王のせんじかぶり給ひて、座主の宮ときこえき、伊勢の守時經とて、傅の大納言のすゑときこえし、むすめのうみたてまつれるとぞ。又仁和寺の花蔵院の大僧正と申ししは、あふみのかみ隆宗ときこえしがむすめのはらとぞきこえ給ひし。僧正御身のしづみ給へることを、おもほしける時よみたまへりける、

  さみだれのひまなき比のしづくには宿もあるじも朽にける哉

とぞきこえ侍りし。みをしるあめ、時にもあらぬしぐれなどや、御そでにふりそひたまひけむと、いとあはれにきこえ侍り。女宮は、大宮の斎院ときこえ給ふおはしき。やがてかの大宮の女房の、うみたてまつれりけるとなん。又さきの斎宮も、ほりかはの院の御むすめときこえ給ふ。またこのころもおはするなるべし。とばの院の宮は、女院ふたところの御はらのほかに、三井寺の六宮、山の七宮とておはします。御はゝ石清水のながれとなん、きゝたてまつりし。としよりの撰集に、鹿のうたなどいりて侍り。光清法印とかいひける、別當のむすめとなむ。小侍従などきこゆるは、小大進がはらにて、これはさきのはらからなるべし。白河院の御時より、ちかくさぶらひて、とばの院には、御子あまたおはしますなるべし。又そのおなじはらに、あや御前ときこえさせ給ふ、御ぐしおろして、雙林寺といふ所にぞおはしますなる。てらの宮は、ひとゝせうせ給ひにき。やまのは、法印など申しし、親王になり給ふとぞ、又宰相の中将家政ときこえし御むすめ、待賢門院におはしけるも、とばの院の御子うみたてまつり給へりし、吉田の斎宮と申しき。それもうせ給ひて、八九年にもやなりはべりぬらん。あまにならせ給ひて、ちゑふかく、たふとくきこえさせ給ひき。その御母こそは、あさましくてうせ給ひにしか。かうちのかみなにがしとかいひしがこなるをとこのいかなることのありけるにか。うしなひたてまつりたるとて、おやもつみかぶりて、みやこにもすまざりき。又徳大寺の左のおとゞの御むすめとて、とばの女院に候ひ給ひけるも、女三のみこうみたまひて、かすがのひめ宮ときこえ給ふ。冷泉のひめみやと申すにや、そのはゝをかすが殿と申すなるべし。又せが院のひめみや、斎院のひめ宮、たかまつの宮など、きこえさせ給ふも、 おはしますなるべし。とばの院の宮たちは、をとこ女きさきばら、たゞのなどゝりくはへたてまつりて、をとこ宮八人、女宮八九人ばかり、おはしますなるべし。さぬきの院の一のみこときこえたまひしは、重仁親王と申しけるなるべし。その御はゝ、院にぐしたてまつりて、とをくおはしたりけるが、かへりのぼり給へるとぞきこえ給ふ。みかどくらゐにおはしましし時、きさいの宮、一の人の御むすめにておはしますに、うちの女房にて、かの御はゝ、みやづかへ人にてさぶらひ給ひしが、ことの外にときめき給ひしかば、きさきの御かたの人は、めざましくおもひあひて、人の心をのみはたらかし、世の人も、あまりまばゆきまでおもへるなるべし。さりとて、御うしろみのつよきもおはせず。たゞ大蔵卿行宗とて、とし七十ばかりなるが、うたよみによりて、したしくつかうまつりなれたるを、おやなどいひて、兵衛佐などつけ申したるばかりなれば、さるべきかた人もなし。まことのおやは、をとこにはあらで、むらさきのけさなど給はりて、白河のみてらのつかさなりけり。それもうせて、としへにけり。しかるべき人のこなりけれど、をとこならねば、かひなかるべし。つねにさぶらふ、なにの中将などいふ人の、かたこゝろあるなども、めをそばめらるゝやうにて、はしたなくなんありける。されど、たぐひなき御心ざしをさりがたきことにてすぐし給ふほどに、をのこぎみうみいだしたまへれば、中宮にはまだかゝることもなきに、いとめづらしく、いとゞやすからぬつまなるべし。御おほぢの一院もきかせ給ひて、むかへとり給ひて、女院の御かたにやしなひ申させ給ふ。やう<うちの御めのとごの、はりまのかみ、はゝきのかみなどいふ人ども、かのさとや、つぼねなどの女房などかみしものことゞも、とりさたすべきよしうけ給はりて、つかうまつり、わか宮の御めのと刑部卿などいひて、大貳の御めのとのをとこときこゆ。みこも親王の宣旨などかぶり給ひて、御元服などせさせ給ひぬ。かくてとし月すぐさせたまふほどに、くらゐさらせ給ひて、新院とておはしますにも、よにたぐひなくて、すぐさせたまへは、きさいの宮、殿の御わたりには、心よからずうときことにてのみおはします。本院の御まゝなれば、よをこゝろにまかせさせ給はず、うち、中宮、殿などに、ひとつにて、世の中すさまじきことおほくて、おはしますべし。かやうなるにつけても、わたくしものに、おもほしつゝ、すぐさせ給ふに、法皇かくれさせ給ひぬるのち、世の中にことゞもいできて、さぬきへとをくおはしましにしかば、やがて御ふねにぐしたてまつりて、かのくにゝとしへたまひき。一のみこも、御ぐしおろし給ひて、仁和寺大僧正寛暁と申ししにつかせ給ひて、真言など ならはせ給ひけるに、さとくめでたくおはしましければむかしの真如親王もかくやとみえさせたまひけるに、御あしのやまひおもくならせ給ひて、ひとゝせうせさせ給ひにけり。御とし廿二三ばかりにやなり給ひけん。さぬきにも、御なげきのあまりにや。御なやみつもりて、かしこにてかくれさせ給ひにしかば、みやの御はゝものぼり給ひて、かしらおろして、醍醐のみかどの御はゝかたの、御寺のわたりにぞすみ給ふなる。かの院の御にほひなれば、ことわりと申しながら、哥などこそ、いとらうありてよみ給ふなれ。のぼり給ひたりけるに、ある人のとぶらひ申したりければ、

  君なくてかへるなみぢにしほれこしたもとを人の思ひやらなん

とはべりけるなん、さこそはと、いとかなしくおしはかられ侍りし。院の御おとうとの、仁和寺の宮おはしましゝほどは、とぶらはせ給ふときこえしに、みやもかくれ給ひて、心ぐるしくおもひやりたてまつるあたりなるべし。そのとをくおはしましたりける人の、まだ京におはしけるに、白河にいけどのといふ所を人のつくりて、御らんぜよなど申しければわたりてみられけるに、いとをかしくみえければかきつけられけるとなむ。

  おとはがはせきいれぬやどの池水も人の心はみえける物を

とぞきゝ侍りし。又さぬきの院の皇子はそれも仁和寺のみやにおはしますなる、法印にならせ給へるとぞ、きこえさせたまふ。それも真言よくならはせ給ひて、つとめおこなはせ給へりとぞ、上西門院御子にし申させ給へるとぞ。その御はゝは、もろたかの大蔵卿の子に、参河権守と申す人おはしけるむすめの、さぬきのみかどの御とき、ないしのすけにて候はれしが、うみたてまつり給へるとぞ、きこえさせ給ふ。さぬきの法皇、かくれさせ給へりけるころ、御ぶくは、いつかたてまつると、御むろよりたづね申させ給へりければ、

  うきながらその松山のかたみにはこよひぞふぢの衣をばきる

とよませ給へりける。いとあはれにかなしく、又御おこなひはてゝ、やすませたまひけるに、あらしはげしく、たきのおとむせびあひて、いと心ぼそくきこえけるに、

  夜もすがら枕におつるおときけば心をあらふたにがはのみづ

とよませたまへりけるとぞきこえ侍りし。むかしのかぜふきつたへさせ給ふ。いとやさしく、女宮はきこえさせ給はず。いまの一院のみやたちは、あまたおはしますとぞ。きさきばらのほかには、たかくらの三位と申すなる御はらに、仁和寺の宮の御むろつたへて おはしますなり。まだわかくおはしますに、御おこなひのかたも、梵字なども、よくかゝせ給ふときこえさせ給ふ。つぎに御元服せさせ給へる、おはしますなるも、御ふみにもたづさはらせ給ひ、御てなど、かゝせ給ふときこえさせ給ふ。その宮も、みやたちまうけさせ給へるとぞ。おなじ三位の御はらに、女宮もあまたおはしますなるべし。伊勢のいつきにてあねおとうとおはしますと、きこえさせたまひし、おとうとのみやは、六条の院のせんじ、やしなひたてまつりて、かの院つたへておはしますとぞきこえさせ給ふ。又賀茂のいつきにもおはするなるべし。また女房のさぶらひ給ふなる、御おぼえの、なにがしのぬしとかきこえし、いもうとのはらにも、みやたちあまたおはしますなるべし。三井寺に法印僧都などきこえさせ給ふ。又女宮もおはしますとぞ、おほいのみかどの右のおとゞの御むすめも、ひめ宮うみたてまつり給へる、おはしますときこえ給ふ。又ことはらの宮々もあまたおはしますなるべし。二条のみかどの宮たちも、をとこ宮女宮きこえさせ給ふ。その女みやは、内の女房うみたてまつりたまへるとぞ。なかはらのうぢのはかせのむすめにぞおはすなる。をとこ宮は源氏のうまのすけとかいふ、むすめのはらにおはしますとかきこえ給ふ。又徳大寺のおとゞの御むすめのはらとかきこえ給ふは、くらゐにつかせたまへりし、さきに申し侍りぬ。又かんのきみの御おとうとにおはしけるが、うみたてまつり給へる、おはしますときこえさせたまふ。かくいまの世のことを申しつゞけ侍る。いとかしこく、かたはらいたくもはべるべきかな。


〔むかしがたり〕第九

73 あしたづ

いまの世のことは、人にぞとひたてまつるべきを、よしなきこと申しつゞけ侍るになんなどいへば、さらばむかしがたりも、猶いかなる事かきゝ給ひし。かたり給へといふに、おのづから見きゝ侍りしことも、ことのつゞきにこそ、おもひいで侍れ。かつはきゝ給へりしことも、たしかにもおぼえ侍らず。つたへうけ給はりしことも、おもひ出るにしたがひて、申し侍りなん。かたちこそ人の御らんじ所なくとも、いにしへのかゞみとは、などかなり侍らざらむとて、むかし清和のみかどの御とき、かた<”おほくおはしけるなかに、ひとりのみやす所の、太上法皇かくれさせ給へりけるとき、御經供養して、ほとけのみち、とぶらひたてまつられけるに、みのりかきたまへりける、しきしのいろの、ゆふべのそらのうす雲などのやうに、すみぞめなりければ人々あやしくおもひけるに、むかし給はりたまへりける、御ふみどもをしきしにすぎて、みのりのれうしに、なされたりけるなりけり。それよりぞ、おほくしきしの經は、よにつたはれりけるとなん。かきとゞめられたるふみなども侍らんものを、たちばなのうぢ、贈中納言ときこえ侍りし、宰相の日記にぞ、この事は かゝれたるときこえ侍りし。 村上の御時、枇杷の大納言延光、蔵人頭にて御おぼえにおはしけるに、すこし御けしきたがひたることもおはせで、すぎ給ひけるに、心よからぬ御けしきのみえければあやしくおそれおぼして、こもりゐ給へりけるほどに、めしありければいそぎまゐりておはしけるに、としごろはおろかならず、たのみてすぐしつるに、くちをしきことは、藤原雅村といふ学生の、つくりたるふみのいとほしみあるべかりけるをば、など蔵人になるべきよしをば、そうせざりけるぞ。いとたのむかひなくとおほせられければことわり申す限りなくて、やがておほせくだされけるに、みくらのことねり、家をたづねてかねて、かよふ所ありときゝて、その所にいたりて、蔵人になりたるよしつげゝれば、そのいへあるじのむすめのをとこ、所の雜色なりけるが、蔵人にのぞみかけゝるをりふしにて、わがなりぬるとよろこびて、禄など饗應せむれうに、にはかにしたしきゆかりどもよびて、いとなみけるほどに、ことねり、雜色どのにはおはせず。秀才殿のならせ給へるなりといひければあやしくなりて、いへあるじいかなることぞとたづねけるに、ざうしきがめの、あねかおとうとかなる女房のまかなひなどしけるを、この秀才しのびてかよひつゝ、つぼねにすみわたりけるを、かゝる人こそおはすれと、いへの女どもいひければよもそれは蔵人になるべきものにはあらじ。ひがことならむといひければ、ことねり、その人なりといひければ雜色もいへあるじも、はぢがましくなりて、かゝるものかよふより、かゝることはいでくるぞとて、よのうちに、そのつぼねのしのびづまを、おひ出だしてけり。そのことをいかでかくものうへまできこしめしつゞけゝむ。いとをしきことかな。さてはいでつかうまつらんに、よそひのしかるべきもかなひがたくやあらんとて、くらつかさにおほせられて、くらのかみとゝのへて、さま<”のあまのは衣たまはりてぞまゐりつかへける。そのつくりたる詩は、釈尊とかに、つるこゝのつのさはになく。といふ題の序を、かきたりけるとぞ。ことばをばえおぼえず。その心は、めぐりかけらんことを、よもぎがしまにのぞめば、かすみのそで、いまだあはず。ひく人やあると、あさぢがやまにおもへば、しものうはげ、いたづらにおいにたりといふ心なり。又むらかみのみかど、かの大納言に、われなからんよに、わすれず、思いださんずらむやなど、のたまはせければいかでかつゆわすれまゐらせ侍らんと、こたへ申されけるを、をりふしにはおもひいだすとも、いかでかつねにはわすれざらむとおほせられければ、御ぶくをぬぎ侍らで、 このよをおくり侍らんずれば、かはらぬたもとの色に侍らば、わすれまいらすまじきつまには侍べきとそうし給ふ。まことにその契りにたがはず、おはしければのちのみかどの御時も、色ながらことにしたがひ給ひけるを御らんじて、御涙もおさへあへず、かなしませ給ひけるとぞ。かの大納言の夢に、先帝をみたてまつりて、つくり給へる詩、きこえ侍りき。夢のうちに、もしゆめのうちのことをしらましかば、たとひこの生をおくるとも、はやくはさめざらまし。とぞおぼえ侍。夢としりせばさめざらましを、といふ哥のおなじ心なるべし。


74 祈る験

圓融院の御ときにや。横川の慈恵大僧正まゐり給へりけるに、真言のおこなひの時、行者の本尊になることは、あるべきさまをすることにや。又まことに、ほとけになることにてあるかと、とはせ給ひければその印をむすびて、真言をとなへ侍らんには、いかでかならぬやうは侍らんと、こたへ申し給ひければ五壇の御修法に、みかどあはせ給ひて、御らんじけるに、阿闍梨の印をむすびて、定にいりたるとはみゆれども、もとのすがたにてこそはあれと、おほせられければまことに本尊になりて侍を、御さはりものぞこらせたまひ、御くどくも、かさならせおはしましなば、御らんぜさせ給ふこともおはしましなんど申し給ひけるに、たび<かさなりて、御覧じければ大僧正不動尊のかたち、本尊とおなじやうになりて、けしやきしてゐたまひたりけるに、ひろさはの僧正も又降三世になりたまひたりけるが、ほどなくれいの人になり、又ほとけになりなどし給ひけり。いま三人は、もとのさまにて、ほとけにもならず。かく御らんじて後に、大師まゐり給へりけるに、まことにたふとき事ををがみつることの、よにありがたきとおほせられて、寛朝こそいとほしかりつれ。心のみだれつるにや。ほどなくすがたのもとのやうになりかへりつると、おほせられければ、大師の申したまひけるは、寛朝なればまかりなるにこそ侍れとぞゝうし給ひける。 禅林寺の僧正ときこえ給ひけるが、宇治のおほきおとゞにやおはしけん。時の関白殿のもとに、消息たてまつりて、法蔵のやぶれて侍る、修理して給はらむと侍りければ、家のつかさなにのかみなどいふ、うけ給はりて、しもけいしなどいふものつぎかみぐして、僧正の坊にまうでゝ、とのより法蔵修理つかまつらんとて、やぶれたる所々、しるしになむまゐりたると申しければ僧正よびよせ給ひて、いかにかくふかくには おはするぞ。おほやけの御うしろみも、かくてはいかゞし給ふと申せと、侍りければかへりまゐりて、しるしにまうで侍つれ共、いづくなる法蔵とも侍らず。いかに心えぬやうには侍ぞ。おほやけの御うしろみも、いかやうにか、御さた候ふらんなど、おもひかけず、心えぬ御返事なむ、の給はせつると申しければ、こはいかに。さはいかにすべきぞなど、おほせられければとしおいたる女房のあれば御はらのそこなはせ給へるを、みのりのくらとは侍るものをと申しければさもいはれたること、さもあらんとて、まなの御あはせどもとゝのへて、たてまつり給へりければ材木給はりて、やぶれたる法蔵つくろひ侍りぬとぞ、きこえ給ひける。このころの人ならば、関白殿に申さずとも、かくして給ふこと、僧ゐしなどいふものに、心あはせて、とゝのへさせらるべけれども、かく申され侍りとかや。かの僧正大二条殿のかぎりにおはしましけるに、まゐり給ひて、圍碁うたせ給へと申したまひければいかにあさましき事など侍りけれど、あながちに侍りければやうぞあらむとて、ごばんとりよせ、かきおこされたまひて、うたせ給ひけるほどに、御はらのふくれへらせ給ひて、一番がほどに、れいざまにならせ給へりける、いとありがたき験者に侍りけり。経などよみ、いのり申すなどせさせ給はんだに、かたときのほどに、めでたく侍べきに、ごうちてやめ申させ給ひけんも、たゞ人にはおはせざるべし。 むかし勘解由長官なりける宰相の、まだ下臈におはしけるとき、おやの豊前守にて、つくしにくだりけるともにまかりたりけるに、そのちゝくにゝてわづらひてうせにけるを、その子のちゝのために、泰山府君のまつりといふ事を、法のごとくにまつりのそなへどもとゝのへて、いのりこひたりければそのおやいきかへりて、かたられ侍りけるは、炎魔の廰にまゐりたりつるに、いひしらぬそなへをたてまつりけるによりて、かへしつかはすべきさだめありつるに、その中に、おやの輔通をばかへしつかはして、そのかはりに、子の有國をばめすべき也。そのゆゑは、みちのものにもあらで、たはやすくこのまつりをおこなふとがあるべしとさだめありつるを、ある人の申されつるは、孝養の心ざしあるうへに、とをきくにゝみちの人のしかるべきもなければおもきつみにもあらず。有國めさるまじとなんおぼゆると申さるゝ人ありつるによりて、みな人いはれありとて、おやこともにゆるされぬるとなんはべりけるとぞ。そのながれの人の、ざえもくらゐも、たかくおはせし人のかたられ侍りける。 一条院の御ときなどにや侍りけん。六位の史をへて、かうぶり給はれるが、あがためしに、心たかくはりまのくにのつかさのぞみければこと人をなされけるに、たび<すみをすりてかきつけらるれども、おほかたもじのかゝれざりければいかゞすべきとさだめられけるに、はりまの國のぞむ申ぶみを、みなとりあつめて、かゝるべきさだめありて、えらひすてたる申ぶみどもをも、おほつかの中よりもとめいでゝ、みなかゝれけるに、かの史太夫相尹とかいふが名の、あざやかにかゝれたりけるとなむ。齋信民部卿の宰相におはしけるとかや。その座にてみ給ひければちひさき手して、ふでのさきをうけて、かゝせぬとぞみ給ひける。聖天供をしていのりけるしるしになむありける。その供は、勧修僧正とかの、せられけるとかや。たしかにもおぼえ侍らず。かくきゝ侍りしを、又人の申ししは、一条院の御時、長徳四年八月廿五日、外記の巡にて佐伯公行といふものこそ、はりまのかみにはなりたれ。かの國の書生とかにてもとありけるとかや。相尹といふものは、なりたることもみえずと申す人もありきとなむ。


75 唐歌

一條院は御心ばへも、御のうも、すぐれておはしましけるうへに、しかるべきにや侍りけん。かんだちめ、殿上人、みち<のはかせ、たけきものゝふまでよにありがたき人のみおほく侍りけるころになん、おはしましける。つねは春風秋月のをりふしにつけつゝ、はなのこずゑをわたり、池の水にうかぶをすぐさず、もてあそばせたまひけるに、御をぢの中務宮、はじめてそのむしろにまゐり給へりけるに、ならはせたまはぬ御ありさまに、御かうぶりのひたひも、つむる心ちせさせ給ふ。御おびも御したうづも、いぶせくのみおぼえさせ給ひけるに、御あそびはじまりて、藤民部卿四条大納言、源大納言、侍従大納言などいふ人たち、周の文王のくるまのみぎにのせたるなどいふ詩の序、以言ときこえしはかせのつくりたる、詠じ給ひけるにぞ御この御かうぶりも、御よそひも、くつろぐやうにおぼえさせ給ひて、おもしろくすずしくおぼえさせたまひける。かの村上の中務宮、ふみつくらせ給ふみちなど、すぐれておはしましければ齋名以言などいふはかせ、つねにまゐりて、ふみつくらせ給ふ。御ともになむありける。大内記保胤とて、なかにすぐれたるはかせ、御師にて、文はならはせ給ひける。そのやすたねはこれらがふみつくる。えたるところ得ぬ所のありさま、とはせ給ひければこたへ申しけることこそ、からのことのはゝしらぬことなれど、おもしろくきこえ侍りしか。いづれも<、とり<”に侍るをたとひにて 申し侍らんとて、齋名がふみつくり侍さまは、月のさえたるに、なかばふりたるひはだぶきの家の、みすところ<”はづれたるうちに、女のしやうのことひきすましたるやうになん侍。以言詩は、すなこしろくちらしたるにはのうへに、さくらの花ちりしきたるに、陵王のまひたるになんにてぞ侍。匡衡がやうは、ものゝふのあけのかはして、ひをどしとかはしたるきて、えならぬこまのあしときにのりて、あふさかのせきをこゆるけしきなりとぞ申しける。さて宮そこはいかゞとおほせられければすでにびりやうげにのり侍りにたりとぞ、申し侍りけるとなむ。 かの齋信の藤民部卿、たかつかさどのゝ屏風の詩、えらびたてまつられけるに、日野の三位の詩おほくいりたりけるを、義忠といひし、贈宰将の難じて、いろのいと、ことばつゞりて、春風にまかせたりといへる、いとゝいふ文字、平聲にあらず。ひがことなりと申すときゝて、民部卿文集の詩の句の、うるはしきことばゝいろのいとをつゞれりといへるをかんがへてたてまつられたりければ宇治のおほきおとゞ、むづからせ給ひて、いかにかゝるひがなんをば申しけるぞとて、勘當せさせ給ひて、あくるとしまでゆるさせ給はざりければ義忠の三位女房につけてたてまつりける、

  あをやぎの色のいとにや結びてしうれへはとけではるぞくれぬる

とぞきゝ侍りし。よればほどけでとかけるもあり。いづれかまことにて侍らん。 むかしの御つぼねのおやにておはせし越後守の、あがためしに淡路になりていとからくおぼして、女房につけて、そうし給ひけるふみに、昔学の寒夜に、紅涙襟をうるほし、除目の春朝蒼天まなこにあり。とかき給へりけるを、一条のみかど御らんじて、よるのおとゞにいらせ給ひて、ひきかづきてふさせ給ひけるを、御堂殿まゐらせ給ひて、いかにかくはとゝはせ給ひければ女房の為時がたてまつりて侍つるふみを御らんじて御とのごもらせ給へるよし申しければいとふびんなることかなとて、國盛といひしをめして、越前になしたびたるをかへしたてまつるよしのふみかきて、たてまつれとて、為時を越前になさせ給へりしにぞみかどの御心ゆかせ給ひて、こまうどゝ、ふみつくりかはさせんと、おぼしめしつる御けしきありけるにあはせて、こしにくだりて、から人とふみつくりかはされける。

  去國三年孤舘月帰程万里片帆風

  畫鼓雷奔天不雨綵旗雲聳地生風

などぞきこえ侍りし。


76 まことの道

大内記のひじりは、やんごとなきはかせにてふみつくるみちたぐひすくなくて、よにつかへけれど、心はひとへに、ほとけのみちにふかくそみて、あはれびの心のみありければ大内記にて、しるすべきことありて、もよほされてうちにまゐれりけるに、左衛門の陣などのかたにや。女のなきてたてるがありけるを、なにごとのあれば、かくはなくぞととひければあるじのつかひにて、いしのおびを人にかりてもてまかりつるが、みちにおとして侍れば、あるじにも、おもくいましめられんずらむ。さばかりのものをうしなひつる、あさましくかなしくて、かへる空もなければおもひやるかたもなくて、それをなき侍るなりと申しければ心のうちおしはかるに、まことにさぞかなしからんとて、わがさしたるおびをときて、とらせたりければもとのおびにはあらねども、むなしくうしなひて、申すかたなからんよりも、おのづからつみもよろしくや侍とて、これをもてまからんずるうれしさと、てをすりて、とりてまかりにけり。さてかたすみにおびもなくて、かくれゐたりけるほどに、ことはじまりければおそし<ともよほされて、みくらのことねりとかゞ、帯をかりてぞ公事はつとめられ侍りける。池亭の記とてかゝれたるふみにも、身は朝にありて、心は隠にありとぞ侍るなる、中務の宮の、ものならひ給ひけるにも、ふみすこしをしへたてまつりては、目をとぢて、ほとけをねんじたてまつりてぞおこたらずつとめ給ひける。かくてとしをわたりけるほどに、としたけてぞかしらおろして、よかはにのぼりて法文ならひ給ひけるに、増賀ひじりの、まだよかはにすみたまひけるほどにて、止観の明静なること、前代にいまだきかずと、よみ給ひける、この入道、たゞなきになきければひじりかくやはいつしかなくべきとて、こぶしをにぎりて、うちたまひければわれも人も、ことにがりて、たちにけり。又ほどへて、さてもやは侍るべき。かのふみうけたてまつりはべらんと申しければ又さきのごとくになきければまたはしたなく、さいなみければのちのことばもえきかですぐるほどに、又こりずまに、御けしきとり給ひければ又さらによみ給ふにも、おなじやうにいとゞなきをりければこそ、ひじりもなみだこぼして、まことにふかきみのりのたふとくおぼゆるにこそとて、あはれがりて、そのふみしづかにさづけたまひけれ。さてやんごとなく侍りければ、御堂の入道殿も、御戒などうけさせ給ひて、ひじりみまかりにけるときは、御諷誦などせさせ給ひて、さらしぬのもゝむら給ひける、うけぶみ には、参河のひじりたてまつりて、秀句などかきとゞめ給ふなり。   昔隋煬帝の智者にほうぜし千僧ひとつをあまし、今左丞相の寂公とぶらふさらし布もゝちにみてり とぞかゝれはべりける。そのみかはのひじりも、はかせにおはして、大江のうぢの、かんだちめの子に、おはしけるが、みかはのかみになりて、くにへくだり給ひけるに、たぐひなくおぼえける女を、ぐしておはしけるほどに、女みまかりにければ、かなしびのあまりにとりすつることもせで、なりまかるさまをみて、心をおこしてやがてかしらおろして、みやこにのぼりて物などこひありきけるに、もとのめにてありける女、われをすてたりしむくいに、かゝれとこそ思ひしに、かくみなしたることなど申しければ御とくに仏になりなんことゝて手をすりてよろこびけると、つたへかたり侍る。さて内記のひじりを師にし給ひて、ひんがし山の、如意寺におはし、よかはにのぼりても、源信僧都などに、ふかきみのりのこゝろくみしり給ひて、惟仲の平中納言の北白川にて六十巻かうじ給ひけるには、覚運僧都まだ内供におはしけるとき、講師せさせ給へり。このみかはの入道は讀師とかやにてこそは、法花經の心ときあらはせるふみも、點じしたゝめて、そこばくの聴衆どもゐなみて、おの<よみしたゝめられ侍りけり。かくてのちにぞ山三井寺の僧たちも、やすらかによみつたへ給ふなる。つひにからくにゝおはしても、いひしらぬことゞもおはしければ大師の御名え給ひて、円通大師とこそきこえ給ふめれ。かくれ給ひけるに、仏むかへ給ひ、楽のおときこえければそれにも詩つくり、哥よみなどし給ひたるも、もろこしよりおくりはべりける。

  笙謌はるかにきこゆ孤雲のうへ、聖衆来迎す落日のまへ、 とつくり給へり。哥は、

  雲のうへにはるかにがくのおとす也人やきくらんひが聞かもし

とよみたまへりけるとぞきこえ侍りし。 又少納言統理ときこえし人、としごろも世をそむく心やありけむ。月のくまなく侍りけるに、心をすまして、山ふかくたづねいらん心ざしのせちにもよほしければまづ家に、ゆするまうけよ。いでんといひて、かしらあらひて、けづりほしなどしけるを、めなりける女も心えて、さめ<”となきをりけれど、かたみにとかくいふことはなくて、あくる日うるはしきよそひして、一の人の御もとにまうでゝ、山里にまかりこもるべきよしの、 いとま申しけれど、人も申しつがざりけるを、しひ申しければきゝ給ひて、少納言こなたへとて、いであひ給ひて、御ずゞたびて、のちのよはたのむぞなど侍りければずゞをばをさめて、はいしたてまつりて、増賀ひじりのむろにいたりて、かしらおろしたりけれど、つとめおこなふこともなくて、もの思ひたるすがたなりければひじりさる心にてはしたなく侍りければうみ侍べき月にあたりける女の侍ることの、思ひすて侍れど、いぶせく思ひたまへてなどいふを、ひじりみやこにいそぎいでゝ、その家におはしたりければえうみやらで、なやみけるを、ひじりいのり給ひて、うませなどして、人にまめなるものなどこひ給ひて、くるまにつみて、うぶやしなひまでし給ひけり。そのむねまさに、三条院より、哥の御かへし給はりける、

  忘られず思ひ出でつゝやま人をしかこひしくぞわれもながむる

と侍りけるに、なみだのごひはべりければ春宮より、哥たまはりたらんは、仏にやはなるべきと、ひじりはぢしめ給ひけるとかや。たてまつりたる哥も、あはれにきこえ侍りき。

  きみに人なれなゝらひそ奥山にいりての後も侘しかりける

とぞよみてたてまつりける。 公經とかきこえしてかき、ことよろしきくにのつかさになりたらば、寺などもつくらんとおもひしを、河内といふ、あやしき國になりたればかひなし。ふる寺などをこそは、修理せめと思て、見ありきけるに、あるふる寺の、仏のざのしたに、ふみのみえけるをひらきてみければ沙門公經とかきたるふみに、こんよにこの国のつかさになりて、この寺修理せんといふ願たてたるふみ見てぞしかるべきちぎりなりけりといひける。かきたるもじのさまなども、にたるてになんありける。ふしみのすりのかみのやうに、おなじ昔の名をつける成るべし。 大外記定俊といひしが、越中のかみになりて侍りけるに、国のものは、思ふさまにえけれども、國の人のないがしろにおもへるを、あやしみ思て、ねたりける夜のゆめに、むかしこのくにゝ、めくらきひじりの持經者にて有りけるが、むまれて、かくはなりたるぞ。人のあなづらはしく思へるは昔のなごりなるべし。そのひじり、さきのよにかのくにのうしなりける時、法花經一部をおひて、山でらにのぼりたりしゆゑに、持經者になれりしが、このたびはくにのかみとなりて、いろのくろきもそのなごりなりとぞみたり ける。むかしのなごりにや。すゑには法師になりて、え文のかたにこもりゐて、おこなひけるとぞきこえ侍りし。そのこにて、信俊ときこえしも、身はよにつかへながら、仏の道をのみいとなみて、老いのゝちには、かしらおろしなどして、かぎりの時にのぞみては、みづから肥後入道往したりと、いひあはんずらむなど申して、たふとくてうせにけるに、かうばしきにほひありけるなど、きこえ侍りき。


77 賢き道々

常陸介實宗ときこえし人、くすしにたづぬべきことありて、雅忠がもとにゆけりけるに、しばしとて、障子のほかにすゑたりけるに、まらうどきやうようしけるあひだに、かどよりいりくるやまひ人を、かねてかほけしきをみて、これはそのやまひをとひにくるものなりといひて、たづぬればまことにしかありけり。そのなかに、みぐるしきこともあり。をかしきこともありて、えいひやらねば、みな心えたりなどいひて、つくろふべきやうなどいひつゝ、あへしらへやりけるに、まらうとは有行なりけり。いへあるじさかづきとりたるを、とくそのみきめせ。たゝいまゆゝしきなゐのふらんずれば、うちこぼしてんずといふに、さしもやはとやおもひけん。いそがぬほどに、なゐおびたゝしくふりて、はたとひとしきさけを、うちこぼしてけり。あさましきことどもきゝたりとぞ、かたりける。 中比笙のふえの師にて、市佑時光ときこえしが、いづれの御時にか。うちよりめしけるに、おなじやうに老いたるものとふたりごうちて、哥うたふやうによりあはせて、おほかたきゝもいれず、御かへりも申さゞりければ御つかひあざけりて、かへりまゐりて、かくなん侍るとうれへ申しければいましめはなくて、おほせられけるは、いとあはれなることかな。しやうかしすまして、よろづわすれたるにこそあんなれ。みかどのくらゐこそ、くちをしけれ、さるめでたきことを、ゆきてもえきかぬとぞ、のたまはせける。用光といひしひちりきの師と、ふたり裹頭楽をさうかにしけるとぞ、のちにきこえける、そのもちみつが、すまひのつかひにゝしのくにへくだりけるに、きいの國のほどにてや。おきつしらなみたちきて、こゝにて、いのちもたえぬべくみえければ、からかぶりうるはしくして、やかたのうへに出てをりけるに、しらなみのふねこぎよせければその時もちみつひちりきとりいだして、うらみたるこゑに、えならずふきすましたりければしらなみども、おの<かなしびの心おこりて、かづけものをさへして、こぎはなれてさりにけりとなん。さほどのことわりもなきものゝふさへ、なさけかくばかりふきゝかせけんもありがたく、 又むかしのしらなみは、なほかゝるなさけなんありける。 いとやさしくきこえ侍りしことは、いづれの御時にかはべりけん。なかごろのきさき上東門院、陽明門院などにやおはしけん。ちかきよのみかどの御とき、めづらしくうちにいらせ給へりける時、月のあかく侍りける夜、むかしはかやうにはべる夜は、殿上人あそびなどこそうちわたりはし侍りしか。さやうなることも侍らぬこそ、くちをしくなど申させ給ひければいとはづかしくおぼしめしけるほどに、月の夜めでたきに、りん<としてこほりしきといふうた、いとはなやかなる聲して、うたひけるが、なべてなくきこえけるに、又いといたくしみたる聲のたふときにて、無量義經の微啼まづおちて、などいふところをうちいでゝよまれ侍りけるが、いづれも<とり<”に、めでたくきこえければむかしもかばかりのことこそ、えきゝ侍らざりしか。いというなるものどもこそ侍りけれど、申させ給ひけるにこそ、御あせもかわかせ給ひて、御心もひろごらせたまひにけれときゝ侍りし。後冷泉院の御時、上東門院などいらせ給へりけるにや。又その人々は伊家の弁、敦家の中相などにやおはしけんとぞ、人は申し侍りし。ひがことにや。又能因法師、月あかく侍りける夜、いたゐにむかひて、ひさしのふきいた、所々とりのけさせて、月やどしてみ侍りけるに、かどたゝくおとし侍りければ女ごゑにて、とひ侍りけるに、うちより勅使のわたらせ給へるなりとめぶといふものゝまうしければかどひらきていづみのもとに、御つかひの蔵人いれ侍りけるに、おほせごとになん。月のうたのすぐれたるは、いづれかあるとおほせはべりつれば、にはかに馬つかさの御馬めして、いそぎたいめんするよしなど、たれにか有りけん。そのときの蔵人の申し侍りければ、

  月よゝしよゝしと人につげやらばこてふにゝたりまたずしもあらず

といふうたをなむ申しけるが、おなじ御ときのことにや侍りけん。たしかにもきゝ侍らざりき。


〔うちぎき〕第十

78 敷島の打聞

中ごろをとこありけり。女をおもひて、とき<”かよひけるに、をとこあるところにて、ともしびのほのほのうへに、かの女のみえければ、これはいむなるものを、火のもゆるところを、かきおとしてこそ、その人にのますなれとて、かみにつゝみて、もたりけるほどにことしげくして、まぎるゝことありければわすれて、一日二日すぎて、思ひいでけるまゝに、ゆけりければなやみてほどなく女かくれぬといひければいつしかゆきてかのともしびの、かきおとしたりし物を見せでと、わがあやまちにかなしくおぼえて、つねなきをにゝひとくちにくはれけむ心うき、あしずりをしつべく、なげきなきけるほどに、御らんぜさせよとにや。この御ふみを、みつけて侍とて、とりいだしたるをみれば、

  とりべ山たにゝけぶりのみえたらばはかなくきえし我としらなん

とぞかきたりける。哥さへともし火のけぶりとおぼえて、いとかなしくおもひける、ことわりになむ。 又ある女有りけり。とき<”かよひけるをとこの、いつしかたえにければ心うくて、心のうちに、おもひなやみけるほどに、その人かどをすぐることのありけるを、いへの人の、いまこそすぎさせ給へと、いひければ思ひあまりてきとたちながらいらせ給へとおひつきて、いはせければやりかへしていりたるに、もとみしよりも、なつかしきさまにて、ことの外にみえければくやしくなりて、とかくいひけれど、女たゞ経をのみよみて、かへりごともせざりけるほどに、七のまきの、即往安楽世界、といふところを、くりかへしよむとみけるほどに、やがてたえいりて、うせにければわれもよりておさへ、人もよりて、とかくしけれども、やがてうせにけり。かくてこもりもし、またかしらをも、おろしてむと、思ひけれど、当時弁なりける人なれば、さすがえこもらで、つちにおりて、とかくの事までさだして、しばしはやまざとに、かくれをりければよをそむきぬると、きこえけれど、さすがかくれもはてゞ、いでつかへければかへる弁となんいひける。 左衛門尉頼實といふ蔵人、哥のみちすぐれても、又このみにも、このみ侍りけるに七条なる所にて、夕に郭公をきく。といふ題をよみ侍りけるに、ゑひて、その家のくるまやどりにたてたる車にて、哥あんぜんとて、ねすぐして侍りけるを、もとめけれど、おもひよらで、すでにかうぜんとて、人みなかきたるのちにて、このわたりはいなりの明神こそとて、念じければきとおぼえけるを、かきて侍りける。

  いなり山こえてやきつる郭公ゆふかけてしも声の聞ゆる

おなじ人の、人にしらるばかりの哥、よませさせ給へ。五年かいのちにかへんとすみよしに、申したりければ落葉あめのごとしと云ふ題に、

  このはちる宿は聞わくことぞなき時雨する夜もしぐれせぬよも

とよみて侍りけるを、かならずこれとも、おもひよらざりけるにや。ゝまひのつきて、いかんといのりなどしければ家に侍りける女に、すみよしのつきて、さる哥よませしは。さればえいくまじと、のたまひけるにぞひとへに、のちのよのいのりになりにけるとなん。 又おなじゆかりに、みかはのかみ頼綱といひしはまだわかくて、おやのともにみかはのくにゝくだりけるに、かのくにの女をよばひて、又もおとづれざりければ、女、

  あさましやみしは夢かとゝふほどにおどろかずにも成りにける哉

と申したりければさらにおぼえつきてなん思侍りける。かくよむとも、みめかたちやはかはるべきとおぼえ侍れど、むかしの人、なかごろまでは、人のこゝろ、かくぞ侍りける。このことは、その人のこの、仲正といひしが、かたり侍となむ。 参河守頼綱は、哥のみちにとりて、人もゆるせりけり。わが身にも、ことのほかに、おもひあがりたるけしきなりけり。俊頼といふ人の、少将なりけるとき、頼綱がいひけるは、少将殿<、哥よまむとおぼしめさば、頼綱を供せさせ給へ。べちのものも、まかりいるまじ。あらひたる仏供なん。ふたかはらけ、そなへさせ給へなどぞいひける。その哥、おほく侍れども、

  夏山のならのはそよぐゆふぐれはことしも秋の心ちこそすれ

といふ哥ぞ、人のくちずさびにし侍るめる。 ちかきよに女ありけるを、やはたなる所にみやてらのつかさなる僧都ときこえし、小侍従とかいふおやにやあらん。その房にこめすべて、ほどへけるほどに、みやこより、しかるべき人のむすめを、わたさんといひければかゝることのあるに、人のきく所も、はゞからはしければしばしみやこへかへりて、むかへんをりことて、したてゝいだしけるが、あまりこちたく、おくり物などしてぐしければいまはかくてやみぬべき。わざなめりと、おもひけるにつけても、いと心ぼそくてすゞりがめのしたに、哥をかきておくりけるを、とりいでゝ見ければ、

  行方もしらぬうきゞの身なれどもよにしめくらばながれあへかめ

となむ、よめりけるをみて、むすめなりける人は、院のみや<など、うみたてまつりたるが、まだわかくおはしけるに、京へおくりつる人、この哥をよみおきたる返事をやすべき。又むかへやすべきと、申しあはせければかへしはよのつねのことなり。むかへ給へらんこそ、哥のほいも侍らめと、きこえければ心にやかなひけん。その日のうちに、むかへに更にやりて、けふかならず、かへらせ給へとて、あけゆくほどに、かへりきにけり。又そのしかるべき人のむすめを、いひしらず、ゐどころなどしつらひ、はした物、ざうしなどいふもの、かずあまた、したてゝすゑたりけれど、一夜ばかりにて、すゞりがめの人にのみ、はなるゝこともなくぞありける。その女も、大臣家のみやづかへ人なりけるが、はゝのつくしにくだりて、すがはらのうぢでらの別當にぐしたりけるが、法師みまかりにければ都へのぼるべきよすがもなくてをりけるを、そのむすめは、あさゆふに、これを なげきけるほどに、大臣殿、五節たてまつり給ひけるにや。わらはにいだすべき女、ほかのかた<”みたまひけれど、こればかりなる、みえざりければおもふやう有りていふぞ。いはんこときゝてんやと、ありければいかでかおほせごとに、したがはず侍らんと申しけるに、五節のわらはにいださんとおもふとのたまひければいかなることも、うけ給はるべきを。それはえなん侍まじきと申しければあながちにおもふことにてあるに、かまへてきゝたらば、いかなる大事をもかなへんとありければかくまでのたまはせんこと、さのみもえいなび申さで、いでたりけるに、かの大臣殿のわらは、いかばかりなるらんとて、殿上人われも<と、ゆかしがりあへりけるなかに、さかりにものなどいひけるなにの少将などいひける人も、みんなどしけるを、ある殿上人の、めづらしげなし。いつも御らんぜよと、いひければあやしとおもひてみるに、わがえさらずものいふ人なりければうらみはぢしめけれど、さほどおもひたちていでにける。のちに、大臣殿、このよろこびにいかなる大事かあると、ゝひ給ひければくま野にまうでんの心ざしぞふかく侍と申すに、やすきことゝて夫さをなどあまためして、きよきころもなにかといだしたてさせ給ひて、まゐりて、つくしのはゝむかへよせんことを心ざし申してかへるに、よどのわたりにや。みゆきなどの、よそひのやうに、みちもえさりあへぬことのありけるが、けふまん所の、京にいでたまふといひて、よそには、ものともおもはぬことの、いひしらず見えけるほどに、むしたれたる、はざまよりやみえけん。ふみをかきて、京より御ふみとてあるをみれば、大臣殿の御つかひにはあらで、おもひがけぬすぢのふみなりけり。ありつるいはし水の僧のふねの人などみしりたるとも人といひければきゝもいれぬほどに、かた<”思かけず、いはせければいなびもはてゞくだりて、かのつくしのはゝ、むかへとりて、みやこにしすゑなどしたりけるとなむきこえしは、小大進とかいふ人の事にやあらん。 陸奥守橘為仲と申す、かのくにゝまかりくだりて、五月四日、たちに廳官とかいふものとし老いたるいできて、あやめふかするをみければれいの菖蒲にはあらぬくさを、ふきけるをみて、けふはあやめをこそふく日にてあるに、これはいかなるものをふくぞと、ゝはせければつたへうけ給はるは、このくにゝは、むかし五月とて、あやめふくこともしり侍らざりけるに、中将のみたちの御とき、けふはあやめふくものを、いかにさることもなきにかと、のたまはせければ國の例にさること侍らず。と申しけるを、 さみだれのころなど、のきのしづくも、あやめによりてこそ、いますこしみるにもきくにも、心すむことなれば、ゝやふけとのたまひけれど、このくにゝは、おひ侍らぬなりと申しければさりとても、いかゞ日なくてはあらん。あさかのぬまの、はなかつみといふもの有り。それをふけとのたまひけるより、こもと申すものをなんふき侍るとぞ、むさしの入道隆資と申すは、かたり侍りける。もししからば、ひくてもたゆくながきね、といふうた、おぼつかなく侍り。實方中将の御はかは、みちのおくにぞ侍るなると、つたへきゝ侍りし、まことにや。蔵人頭にも、なり給はで、みちのおくのかみになり給ひて、かくれたまひにしかば、このよまでも、殿上のつきめのだいばんすゑたるをば、すゞめのゝぼりて、くふをりなどぞ侍るなる。實方の中将の、頭になり給はぬ、おもひのゝこりておはするなど申すも、まことに侍らば、あはれにはづかしくも、すゑのよの人は侍ことかな。 いづれのとしにか侍りけん。右近の馬場の、ひをりの日にやありけん。女くるま、ものみにやりもてゆきけるに、重通の大納言、宰相中将に、おはしけるときにや、くるまやりつゞけて、みしりたる車なれば、みよき所にたてさせなどしてのちに、わか随身を、女の車にやりて、

  たれ<ぞたれぞさやまのほとゝぎす、

とかやきこえければ女の車より、

  うはのそらにはいかゞなのらん。

とぞいひかへしける。いとすぐれてきこゆることもなく、かなはずもやあらん。されども、ことがらのやさしくきこえしなり。時のほどに思えんこともかたくて、さてやまむよりも、かやうにいひたるも、さる事ときこゆ。又連哥のいつもじも、げにときこえねども、さやうにとふべきことに、侍りけるなるべし。又たしかにも、えうけたまはらざりき。ひをりといふことは、おぼつかなきことに侍るとかや。兼方はまてつがひと申し侍りけるとかや。匡房中納言の、卿次第とかやにも、このことはみえ侍とぞきゝ侍りし。 又いづれのとしにか。まゆみのまとかくることを、とねりのあらそひて、日くれよふくるまで侍りければものみぐるまども、おひ<に、かへりけるにかきつけて、大将の随身に、とらせたりけるとかや。

  梓弓ためらふほどに月かげのいるをのみゝて帰りぬる哉

ひがことにや侍りけん。いづものくにゝて、うせ給ひにし大将殿の、つき給へりしとしとかや。 堀河のみかどの内侍にて、周防とかいひし人の、いへをはなちて、ほかにわたるとて、はしにかきつけたりける、

  すみわびてわれさへのきの忍草しのぶかた<”しげき宿哉

とかきたる、まだその家は、のこりて、その哥も侍るなり。みたる人のかたり侍りしは、いとあはれにゆかしく、その家は、かみわたりに、いづことかや。冷泉ほりかはのにしと北とのすみなるところとぞ人は申しし。おはしまして御らんずべきぞかし。まだうせぬをりに、又堀川のみかどの、うせたまひて、いまのみかどの内侍にわたるべきよし侍りけるに、

  あまのがはおなじながれといひながらわたらむことは猶ぞ悲しき

とよまれて侍りけん。いとなさけおほくこそ、きこえ侍りしか。 ちかくおはせし。よかはの座主の坊に、琳賢といひて、心たくみにて、石たてかざりくるまの風流などするもの侍りき。うたへ申すことありて、蔵人頭にて、雅兼中納言のおはしける時、かの家にいたり侍りけるに、大原のたきの哥こそ、いとをかしくきこえしかど、侍りけるに、うれへ申すことは、いかでも侍りなん。このおほせこそ、身にしみて、うれしく侍れとてなん限りなくよろこびていでにける。その哥は、はなぞのゝおとゞの、大原の房の、たきみにいりたまへりけるに、

  今よりはかけておろかにいはしみづ御らんをへつるたきのしらいと 、 ゝよめりけるとぞ。たはぶれごとのやうなれども、ことざまの、をかしくきこえ侍れば、申し侍るになん。つのかみ範永といひし人は、いづれの山里にか、夕ぐれに、庭におりて、とゆきかうゆき、しあるきて、

  あはれなるかな<。とたび<ながめければ帯刀節信といひしが、日くるれば、ところ<”のかねのこゑ、

とつけたりければあなふわいとなんいひける。そのかみゐでのかはづをとりてかひけるほどに、そのかはづ、身まかりにければほしてもたりけるとかや。 いづれのいつきの宮とか。〔いづれのだいじんげにかありけむ。をとこのしのびてつぼねまちにいりをりければまへわたりするひとありて、かたはらのつぼねにたちとどまりて、まゆみまゆみとしのひによひけれど、いらへざりければうちにも、おどろかすおとほのかにきこえけり。よひかねて、すぎざまに、

  いたくねいるはまゆみなりけり。とくちずさみければうちに。やといひてひけどさらにぞおどろかぬ。

とひとりごちけるこそ、いとやさしくきこえけれ。たれともしらでやみにき。はなやかにいひかはすおとはなくて、こころにくかりしひとかなとぞかたりける。ききけるをとこは、もりいへといひしひととかや。いづれの〕人のまゐりて、いまやうゝたひなど、せられけるに、すゑつかたに四句の神哥うたふとて、

  うゑきをせしやうはうぐひすゝませんとにもあらず。

とうたはれければ心とき人などきゝて、はゞかりあることなどや、いでこんと思ひけるほどに、 くつ<かうなるなめすゑて、そめがみよませんとなりけり

とぞうたはれたりけるが、いとその人うたよみなどには、きこえざりけれども、えつるみちになりぬれば、かくぞはべりける。この事刑部卿とか。人のかたられ侍りしに、侍従大納言と申す人も侍りしが、さらばことわりなるべし。 菩提樹院といふ寺に、ある僧房の、いけのはちすに、鳥の子をうみたりけるをとりて籠にいれて、かひけるほどに、うぐひすのこより入りて、ものくゝめなどしければうぐひすのこなりけりと、しりにけれど、子はおほきにておやにもにざりければあやしくおもひけるほどに、子のやう<おとなしくなりて、ほとゝぎすと、なきければむかしより、いひつたへたるふるきこと、まことなりと思ひて、ある人よめる、

  親のおやぞいまはゆかしき郭公はや鴬のこは子也けり

とよめりける。万葉集の長哥にうぐひすのかひこの中のほとゝぎす、などいひて、このことに侍るなるを、いとけふあることにも侍るなるかな。蔵人実兼ときこえし人の、匡房の中納言の物がたりにかける文にも、中ごろの人、このことみあらはしたることなど、かきて侍とかや。かやうにこそ、つたへきくことにて侍を、まぢかく、かゝることにて侍らんこそ、いとやさしく侍るなれ。右京権太夫頼政といひて、哥よめる人の、さることありときゝて、わざとたづねきて、その鳥の籠に、むすびつけられ侍りけるうた、

  鴬のこになりにける時鳥いづれのねにかなかんとすらん

万葉集には、ちゝにゝてもなかず。はゝにゝてもなかず。と侍なれば、うぐひすとは、なかずや有りけんなど、いとやさしくこそ申すめりしか。


79 奈良の御代

このなかの人の、おぼつかなき事、ついでに申さんとて、万葉集は、いづれの御時、つくられ侍りけるぞとゝひしかば、古今に、

  神な月しぐれふりおけるならのはのなにおふみやのふることぞこれ

といふ哥侍りといひし、古今序に、かのおほん時、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人丸なむ、哥のひじりなりけるとあるに、かの人丸は、かの御時よりも、むかしの哥読とみゆるを、万葉集つくれる時より、古今えらばれたる時までとしはもゝとせあまり、よはとつぎとあれば、とづきといはゞ、大同のみよときこえたるに、もゝとせあまりといふは、さきのことゝきこゆるうへに、人丸はあがりたるよの人とみえたれば、えなむ あるまじき。いかゞとゝへば、まことに、おぼつかなきことを、かくこまかにたづねさせ給ふこそ、いとこゝろにくゝとて、ならのみかど申さんこと、大同のみよのみにもあらずや侍らん。元明天皇ならのみやこに、和銅三年のはるのころ、はじめてうつらせたまひけるに、ながやのはらに、御こしとゞめて、藤原のふるさとをかへりみ給ひて、

  とぶ鳥のあすかの里をおきていなば君があたりはみえずかもあらん

とよませ給へり。はしの目録にも、寧楽の御哥とて、かきつらねて侍るめり。寧楽はならのといひなつくるなるべし。かくてのち七八代は、ならのみやこにぞおはしましける。その御よどもにも侍らん。ならのみかどと申す御名は、三代おはしますかと申す人もありとぞきゝ侍りし。柏原のみかどの御とき、長岡の京にわたり給ひて、十年ばかりありてこの平の京には、うつらせ給ひて、そのみこの、大同のみかども、この京のゝちなれども、ならとはおり給ひてのち、べちの御名なるべし。万葉集に、人丸が哥どものいりたるときゝ侍りしにも、柿本人丸集にいでたりなどいひて、そのよの人とは、きこえずなん侍うちに、ならの京のさきよりも、人丸が哥は、おほくみえ侍るめり。きよみはらのみかどの、よしのゝみやに、みゆきしたまひけるにも、よめる哥侍るめり。輕の皇太子、安騎野にやどり給ふ時の哥とても侍るめり。文武の御ことなるべし。又人丸が讃とて、いづれのはかせにか。つくられたるには、持統文武の聖朝につかへ、新田高市の皇子にあへり。となむ侍るめり。かくてならの御よまでありて、聖武の御時などにも、あひたてまつりけるにやあらんと、申す人あるべし。まことにならのみやこの時には、ありけんと、おぼえ侍ことは、そのかみ人丸といふ集所々きゝ侍りしに、天平勝宝五年の春三月、左大臣橘卿の家に、諸卿太夫たち宴し給ひけるに、あるじのおとゞ、とひてのたまはく、古哥にも、

  あさもよひきのせきもりがたつかゆみゆるす時なくまづゑめるきみ。 といふ哥のはじめ、いかゞと侍りければ武部卿石川卿こたへ給へることなど侍は、高野姫のみかどの御時にこそ侍るなれ。そのほどまでとしたけて侍れども、大同の御ときまでは、いかゞはさのみも侍らんといふに、古今序に、いにしへよりかくつたはるうちに、ならの御ときよりぞ、ひろまりける。かの御よや、哥の心を、しろしめしたりけん。かの御時、人丸なん、ひじりなりける。かゝりけるさきのうたを、あはせてなん、万葉集となづけられたりけるとかけるは、人丸がよにえらばれ たるやうにこそ、きこゆれといへば、まことに心えがたきことに侍るに、そのあひだに、ことばおほく侍うへにおしはかり思たまふるに、貫之ひがことを、かくべきにもあらず。たとひあやまちたりとも、みかどの御らんじとがめずやは侍らん。しかれば、古今のことばにつきて、なずらへ試みるに、ならの御時よりひろまりたると侍る、赤人々丸が、あひたてまつれるみよときこえたり。この人々をおきて、又すぐれたる人々も、くれたけのよゝにきこえ、かたいとのより<にたえずなんありける。さきのうたをあはせてなん、万葉集となづけられたりけるといふは、赤人、々丸が、のちのよゝに、よめる哥どもをあはせて、大同のみよには、つくられたるともや心うべからん。ならのみかどといふは、同名におはしませば、ひとつことなるやうなれども、万葉集の時には、人丸がよのあはねば、ひとつよにはあらざるべし。

  龍田川紅葉みだれてながるめりわたらば錦中や絶えなん

とよませたまへるは、人丸があひたてまつれるみよの、御哥なるべきにやあらん。古今序にたつたがはにながるゝもみぢは、みかどの御めには、にしきとみえ、吉野山のさくらは、人丸がめには、雲かとぞおぼえけるとあれば、のちのみかどの御製とは、きこえざるべし。

  ふるさとゝ成りにしならの都にも色はかはらず花ぞ咲ける

とよませ侍りけるは、大同の御製なるべし。むかしのならのみかどならば、ふるさとゝよませ給ふべからず。この御哥は、ならのみかどの御哥とて、古今の春下に、いれたてまつれり。もみぢのにしきの御哥は、秋下に、よみ人しらずある人ならのみかどの御哥なりとなん侍るも、すこしのかはるしるし、なきにもあらず。しかあるのみにあらず。もしおなじみかどと申すは、おぼつかなきところおほく、もしあらぬ御ときならば、同御名にて、まがはせ給ひぬべきうへに、目録どもにも、

  はぎの露たまにぬかんととればけぬよしみむ人は枝ながらみよ

といふ御哥も、よみ人しらず。ある人、ならのみかどの御哥なりといふをくはへて、三首おなじ御時なるやうにみゆるは、目録のあやまれるにやあらん。おぼつかなき事、よくおもひさだめつべからん人にたづね申させ給ふべき事なるべしといふに、それはたちまちに、さだめえがたく侍る也。又このついでに、たづね申さんとて、万葉集は、億良がえらべる。といふ人あるは、しか侍りけるにやとゝへばいかでか。さやうのことは、その時の人にも侍らず。そのみちにもあらぬ身は、こまかにきゝとゞむべき にも侍らず。しかは侍れど、億良が類聚哥林などには、はるかなる人とみえてこそ、万葉にはひきのせ侍るなれ。天平五年哥にも、筑前守憶良などいひて侍るなるははるかにさきの人にこそ侍るなれ。大同にはあらずや侍りけんなどぞ申しめりしか。


80 作り物語の行方

又ありし人の、まことにや。むかしの人のつくり給へる、源氏の物がたりに、さのみかたもなきことのなよび艶なるを、もしほ草かきあつめたまへるによりて、のちのよのけぶりとのみ、きこえ給ふこそ、えんにえならぬつまなれども、あぢきなく、とぶらひきこえまほしくなどいへば、返事には、まことによの中にはかくのみ申し侍れど、ことわりしりたる人の侍りしは、やまとにも、もろこしにも、ふみつくり人の心をゆかし、くらき心をみちびくは、つねのことなり。妄語などいふべきにはあらず。わが身になきことをありがほに、げに<といひて、人にわろきみを、よしとおもはせなどするこそ、そらごとなどはいひて、つみうることにてはあれ。これはあらましことなどや、いふべからん。綺語とも、雑穢語などはいふとも、さまでふかきつみには、あらずやあらん。いきとしいけるものゝいのちをうしなひ、あるとしある人の、たからをうばひとりなどする、ふかきつみあるも、ならくのそこにしづむらめども、いかなるむくいありなどきこゆることもなきに、これはかへりて、あやしくもおぼゆべき事なるべし。人の心つけんことは、功徳とこそなるべけれ。なさけをかけ、艶ならんによりては、輪廻のごふとはなるとも、ならくにしづむほどのことやは侍らん。このよのことだに、しりがたく侍れど、もろこしに、白楽天と申したる人は、なゝそぢの、まき物をつくりて、ことばをいろへ、たとへをとりて人の心をすゝめ給ふなどきこえ給ふも、文珠の化身とこそは申すめれ。仏も譬喩經などいひて、なきことをつくりいだし給ひて、ときおき給へるは、虚妄ならずとこそは侍るなれ。女の御身にて、さばかりのことを、つくり給へるは、たゞ人にはおはせぬやうもや侍らん。妙音観音など申す、やんごとなき、ひじりたちの、女になりたまひて、のりをときてこそ、人をみちびき給ふなれといへば、ともにぐしたる、わらはのきゝていふやう、女になりて、みちびき給ふことは、浄徳夫人の、みかどをみちびきて、仏のみもとにすゝめなどし給ひ、勝鬘夫人の、おやにふみかはして、仏をほめたてまつりて、よの末までも、つたへなどし給ふこそ、普門の示現などもおぼえめ。これはをとこ女の、えんなることを、げに<とかきあつめて、人の心にしめさせん、なさけをのみ つくさむことは、いかゞはたふときみのりとも思ふべきといへば、まことにしかはあれども、ことざまの、なべてならぬ、めでたさのあまりに、おもひつゞけ侍れば、ものがたりなどいひて、ひとまき、ふたまきのふみにもあらず、六十帖などまでつくり給へるふみの、すこしあだにかたほなることもなくて、いまもむかしも、めでもてあそび、みかどきさきよりはじめて、えならずかきもち給ひて、御たからものとし給ふなどするも、よにたぐひなく、またつみふかくおはすると、よに申しあへるにつけても、中<あやしく、おぼえてこそ申し侍れ。つみふかきさまをもしめして、人に仏のみなをも、となへさせ、とぶらひきこえん人のために、みちびき給ふはしとなりぬべく、なさけある心ばへをしらせて、うきよにしづまんをも、よきみちに、ひきいれて、よのはかなき事をみせて、あしきみちをいだして、仏のみちにすゝむかたもなかるべきにあらず。そのありさま、おもひつゞけ侍るに、あるはわかれをいたみて、うばそくの戒をたもち、あるは女のいさぎよきみちをまもりて、いさめごとにたがはず、この世をすぐしなどしたまへるも、人のみならふ心もあるべし。又みかどのおぼえかぎりなくて、えならぬすぐせ、おはすれども、ゆめまぼろしのごとくにて、かくれ給へるなど、世のはかなきことをみん人、おもひしりぬべし。又みかどのくらゐをすてゝ、おとうとにゆづり給ひて、にし山のふもとに、すみ給ふなども、佛のみちに入りたまふ、ふかきみのりにも、かよふ御ありさまなり。提婆品にとかれ給へる、むかしの御かどの御ありさまも、おもひいでられさせたまふ。ひとへに、をとこ女のことのみやは侍る。おほかたは、智恵をはなれては、やみにまどへる心をひるがへすみちなし。まどひのふかきによりて、うきよのうみのそこひなきには、たゞよふわざなりとぞ、世親菩薩のつくり給へる文のはじめつかたにも、のたまはずなれば、ものゝ心をわきまへ、さとりのみちにむかひて、ほとけのみのりをひろむるたねとして、あらきこと葉も、なよびたることばも、第一義とかにも、かへしいれんは、仏の御心ざしなるべし。かくは申せども、にごりにしまぬ、法のみことならねば、つゆしもと、むすびおき給へる、ことの葉もおほく侍らん。のりのあさひによせて、たれも<、なさけおほく、おはしまさむ人は、もてあそばせたまはんにつけても、心にしめて、おぼさむによりても、とぶらひきこえたまはんぞ、いとゞふかきちぎりなるべきなど、いひつゞけはべるに、ゆくすゑもわすれて、なほきかまほしく、なごりおほく侍りしかども、日くれにしかば、たちわかれ侍りにき。いかでか又あひたてまつらんずる。こんよにうゑきのもとにほとけとなりて、これがやうにのりときて、 人々に、きかせたてまつらばやなど、申ししこそ、たゞ人ともおぼえ侍らざりしか。そのほどと申ししところ、たづねさせ侍りしかども、え又もあはでなん。人をつけて、たしかにみおかせでと、くやしくのみおぼえてこそ、すぎて侍れ。


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