予が作品と事実

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本文[編集]

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余が今日(こんにち)まで書きたる小説は最近の数編を除けば、「武蔵野」「独歩集」「運命」「濤声」の四冊に網羅してある。
これを分類すると第一、全く空想から人物も事件も出来上れる者、第二、実際の人物若(も)しくは事件にヒントを得たる者、第三、事実の人物と事件が其小説の主要部を成せる者、第四、実際及び事件を其儘(そのまゝ)描写したる者。先づ此四種の外に出でない。若し人物と事件を別別にして分類すれば更(さ)らに細(こまか)い類別し得んも煩(わづら)はしきが故に大体石の四種と見て可ならんか。然し此四種は豈(あ)にたゞ余のみならず、大概の作者は皆(み)な同様ならんと思はる。


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余は今日まで所謂(いはゆ)る短編小説のみを書き来たりし者なるが短編の中にも長短あり、其長短数十編の中にも第一に属する者は極めて僅少(わづか)である、。第二第三が最も多数。第四も甚(はなは)だ少数である。
其処で今思ひついた作物に就て簡単に説明すると処女作の
源叔父(「武蔵野」に在り)
は源叔父(げんをぢ)其人も「紀州」と称する乞食の少年も実在の人物である。余が豊後(ぶんご)の佐伯町(さいきまち)に居た時分常に接近せるのみならず言葉も交(か)はし其の身の上に就き深く同情を持ちしことある人物である。而(しか)して此一編中に記述したる此両人を持ちしことある人物である。而(しか)して此一編中に記述したる此両人それの身の上の事も事実である。けれども此両人を結びつけたのは余の想(おもひ)で、これを結びつけて初めて此一編が作品となつたのである。
酒中日記(「運命」に在り)
はチヨツとしたヒントが基(もと)になつた作物で、此一編に記述せる事は悉(こと)く余の作(こしら)へた事である。主人公の小学校々長に似た実在人物及び小学校新築といふ事実に触れて、それが基となり余の想(さう)が出来たので、実際の小学校々長は今も健在である、校舎は早く落成して今は多数の児童を収容して居る。
富岡先生(「独歩集」に在り)
は長州(ちやうしう)で有名な富永有隣(とみながいうりん)翁(をう)である。翁は最早(もう)死(しん)だ。けれども余が周防国(すはうのくに)熊毛郡(くまげごほり)に居る時分此翁は田甫(たんぼ)の中の一軒屋に孤独の生活をして三四の少年に漢学を授けて居たのである。余の描いた富岡先生の性格は此有隣翁をモデルにしたのである。郷里出身の栄達者に対しての態度などは有隣翁の逸話を基にしたのである。けれども此翁に梅子なる娘あることなく従(したがつ)て一編に記述せる事件あることなし。余が目的は此一種の人物を描くに在て、此人物を詩化する為(た)めに、あれだけの事件が出来上つたのである。
春の鳥(「独歩集」に在り)
此一編の主人公、白痴の少年は余が豊後佐伯町に在りし時親しく接近した実在の人物で、此少年の身の上の話は皆な事実である。しかして此少年が城山(しろやま)で悲惨な最期を遂げた事は余の想である。余は此少年を非常に気の毒に思ひ、自から進んで其教育に従事して見た事もある。数の観念が全く欠けて居るので如何(いか)にもして此欠陥の幾分となりとも補ひくれんと種々の手段を採(と)つた事もある。けれども此等(これら)は悉く徒労に帰した。そこで余は当時白痴者に就き深い同情と興味を持ち常にこれを念頭に置いて居た。
此少年の事を思うて、人間と鳥獣の差別、生物と宇宙の関係など、随分城山の上で空想に耽(ふけ)つたものである。そして此一編が七八年の後に出来たのである。
巡査(「運命」に在り)
は全くの写生である。本名は高野氏(たかのし)。余が西園寺(さいをんじ)侯(こ)の家に寄食せる時、侯は総理大臣代理であつて三四人の護衛巡査が居た。其一人が高野氏で何時しか余と別懇になり、余は氏の経歴及び人物を知るに従ひ頗(すこぶ)る興味を持つて来た。そこで氏が頻(しき)りに勧誘するに任せ、或日氏の寓居を訪うた。其時の事が此一編である。
余は初めから写生して見る積りで訪問せる故、寓居の模様から、氏の居室の体裁、氏の一挙一動等を十分注意して観た。そして氏が机の抽斗(ひきだし)から自作の『警察論』の一編を出しかけて引込め、見せたくもあり見せたくもなき様子を余は看取して氏をそゝのかして遂に之を朗読せしめ、其他氏の自作の漢詩も皆な余が材料にしてやらうといふ一心からこれを朗吟せしめた。そして一寸(ちよつと)それを拝借と軽く所望して、此等の原稿を持ち帰り、以て此一編を書いたのである。若し此等の原稿を材料とせずして此一編を書いたら骨抜き同様であらうしゃせいぶんなんて、くだらないものだ。どうかすると新聞屋の探訪だ。けれども余の此一編が先づ気に入つたと称した知名の作家もあるやうに聞いたが、世は様々だ。七八年の後、初めてさくひんになる者もある。手帳さへあれば直ぐにでも出来る作品もある。余が此一編も直ぐ書いて大阪の或雑誌に載せ、それを高野氏に見せたら「とう種(たね)にしましたな。」
巡査如きが若しお望みなら手帳を与へよ。きよろきよろせしめよ。記憶に止め難き故事来歴、手紙の文句など是非必要ならば、一寸拝借とでも言ふべし。本願寺の瓦の大(おほき)サが解らず梯子(はしご)をかけて上るべし。実にくだらないことだ。
写生文など言はずに手帳文と言つた方が直截(ちよくせつ)のやうな気がする。
第三者(「独歩集」に在り)
似寄(によ)りの事実があつて余は第三者の心配をさせられた。けれども此編には表はれし男女(なんによ)両主人公の性格と実際の人物とは決して同じではない。たゞ幾分か似通うて居るといふに過ぎない。殊に男主人公の云為(うんゐ)の中(うち)には余自身の閲歴すら雑(まじ)つて居る。
そして此一編は二個の主人公ある如きも女主公の方が重(おも)である。男の許(もと)から逃げ出した当世娘を書くことに力めたのである。されば男主公よりも、より多く女主公は実在人物に近いのである。余は此編で逃げた人を書いた。此次には逃げられた人を書いて見たいと思つて居る。女に逃げられた男。弟子に逃げられた先生、いろ意味の深い事実がある。
◎空知川(そらちがは)の岸辺(「運命」に在り)
これは小説とは言ひ難(にく)からんも、紀行文の積(つもり)で書きしには非ず。若しトルストイ翁のコーカサスの囚人を小説と言い得べくんば、これも同類に近し。
此編の主人公は余自身にして其事件は皆(み)な事実なり。主人公の感想は余の感想なり。
◎あの時分(「濤声」に在り)
此編は全く余が早稲田(わせだ)に在りし頃を思ひ出し、なつかしさに堪へずして書いたもので、事実が八分なら多少の附加(つけくはへ)が二分。しかし心持は少しも変へて書(かい)てない。
「私」は則ち余自身なり。
帽子(「濤声」に在り)
此編は夢を書いたのである。帽子の主人公は一夜余の夢を襲(おそ)ひ、夢さめて後、余をして戦慄せしめた人物である。そして其夢中の事実を心理状態として余に多大の興味を持たしめたのである。余は夢を見て直ぐ其夢を面白しとして書いたのではない。余は数ヶ月の間、此夢の事を忘るゝ事が出来ず、考へて考へたはてが遂に此一編に成つたのである。
この編は第一、第二、第三、第四の何(いづ)れに入れて可なるやを知らず。
牛肉と馬鈴薯(独歩集」に在り)
主人公岡本誠夫(をかもとまさを)の性格は余が好むまゝに描きしなれど彼の演説は余の演説である。而して北海道熱は余自身の実歴にして、空知川の岸辺は此実歴の実証である。又此編に現はれし四五の紳士は皆な実在の人物を借り来て多少とも其俤(そのおもかげ)を写したのである。則ち「竹内(たけうち)」は竹越(たけごし)三叉(さ)君。「綿貫(わたぬき)」は渡辺勧十郎君。「井山(ゐやま)」は井上敬二郎君。「松木(まつぎ)」は松本君平君、而(しか)して此等の諸氏は実際桜田本郷町(さくらだほんがうちやう)の河岸(かし)にあつた倶楽部(くらぶ)で常に気焔(きえん)を吐いて居たのである。
「上村(かみむら)」と「近藤」は余の或趣味を表した想像人物である。


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要するに余の経験に依ると、実在の人物、実際の事件之(こ)れ自身が如何に面白く思はれても、之れを直ちに筆に上(のぼ)すは真の詩を得る道に非ず。必ずkろえを心底最も深き処に蔵して其醗酵を待たざる可からず。然(し)からざれば其詳細の事実は忘却し易いから写生文とは縁が益々遠くならんも、人生の真に触れたる詩を得ることに於て誤(あやまり)は此外にあるまじと思ふ。
然らば余の長短数十編は悉(ことく)然(しか)るかといふに決してさうでない。大多数は事情に迫られ、時を限られ、不満で書き上げて、先づ此場合、此丈(これだ)けの辛苦ならば、此位の作が相当ならんと自ら理窟をつけし者のみと称して可ならん。
制作上の理想は美なれど、実際は遠く及ばない事が作詩の上にも在るとは情けない次第である。

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。