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中岡慎太郎全集/文久3年11月6日付武市半平太宛

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寒気ニ御座候処先以過日以来ハ獄中ニ御困之趣、実ニ慨歎ニ不絶候。然ニ私義去月十四日帰著仕宿毛すくも口江参り先生初四五輩之かく相成候義承、実ニ愁歎ニ余候。
夫より段々薩之情実得御意度存居候得共、更ニ便無御座居候処、折柄権吉、先生之番ニ行由承、幸之事ニ付一寸御見舞申上度(候)。帰郷以来同志之者と論紛々ニ而、更ニ定不申、愚昧浅識之者実に案付不申、忙然と罷在申候。京師之模様も兼々切迫之由、千屋金策長(州)より罷帰候段、臣子言べからず事も有之様子ニ而、誠ニ仰天之至ニ御座候。乍併臣子之分として、何ぽ悪逆不道之者といへどもママ毒を奉差上など申事ハ、あまり之事と存候へ共、奸物之所為ニ付何やら分り不申。此上ハ幾重も探ママ之上同者(志)と議論を定べくと奉存候。尚委細ハ権吉出勤ニ付、折を以御対談可成候。先達薩へ罷越候処、薩之情実更分り不申候。彼より御馳走之役人新納十郎と申人参り候処、長州より御使者到来之節、御国之御扱ニ相成候様之致方と同じ事ニ而、更ニ訳分リ不申。夫より段々諸士を尋候処、或ハ旅行或ハ病死抔申、一向逢事不能不止罷帰申候。兼而先生より尋呉候様御申被成候、樺山三円義ハ此度還俗仕樺山清吉郎と名乗、小目付ニ抜擢せられ上京と申事に候。夫ニ彼之大島党ハ皆先達攘夷之後、幽閉御免ニ相成候へ共、いまだ役義抔ハ不仕由、其余之事ハ更ニ分リ不申、実ニ残念至極ニ御座候。帰リかけ肥後之模様承リ候処、肥後もママ之助ママ之助公子上京、此度ハ公武御合躰之処、周施(旋)之由右藩去暮より今春迄ハ、我党頗志を得候処、京都大変より元之如ニ相成、是迄相唱候勤王之者ハ、大体幽閉せられ候様之模様ニ而、大ニ嫌忌御座候由、実ニ御国と大同御座候。尚御推量被仰付度、今日は権吉出勤之様子承候間、あらかじめ得貴意候。次第ニ寒気弥増ニ相成候間、御自愛千万ニ御座候。先ハ右計迄、早々。恐惶謹言

十一月六日
北諸生
先生膝下

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。