一筆奉二啓上一候。秋冷の時節御座候処、益々御機嫌能御座被レ為レ在、御家内様御一同御安全御渡被レ成候儀と奉二万賀一候。随而私儀今以無異相務居申候。扨当年六月初旬以来、当国征伐として数万の軍勢幕府より差向に相成候処、九州口は老中小笠原壱岐守総大将として、肥後、肥前、幷久留米、柳川、小倉、其外凡二万余の人数を以て、豊前国小倉に陣取相成、長州下の関ゑ打入の都合に候処、長州よりさかよせ致し、軍艦五艘を以、田の浦台場へ打掛け陸軍一千計り上陸に及び、一戦にて同所を乗取候。七月三日大里と申候処に打入、又大に勝利を得、同廿七日又打入、海陸に戦争甚烈敷、朝六時より台場六ケ所乗取り、其中一手は百四五十人位にて、肥後の備に打入、不レ食不レ飲にて七つ時迄戦ひ、右百四十人計の内にて手負死人百十何人に及び、残る者わづかに相成候事にて、其より大戦に及ぶの覚悟に御座候処、老中初幕府の軍勢皆々にげ去、肥後其外に諸国の兵も皆引き、終に当月朔日に小倉の城落城に及び申候。此度の戦は長州甚だ強く、身方千人計にて敵之二万人を打退け候上、兵粮米も四千石計り、大砲百丁余、玉薬幾蔵も有之候。皆々分取致し申候。北口も石州浜田落城にて、天領迄は取込、軍勢多く出張に相成居申候。芸州口今以大戦争にて、未だ勝敗相付不レ申候。いづれ早々勝利に相成、
皇国御一定に相成不レ申ては、万民の苦不二一片一と心痛仕居申候。昨夜も陣所に宿し申候処、十三に相成候家老と、十六に相成候家老と、皆同宿仕候処、食事は梅干にぎり飯の兵粮を食ひ、軍仕度其儘にて元より蚊屋ふとん等も無レ之、かむと枕にて足軽などゝ頭を幷べて伏し居申候。少年ながら必死を極め、戦争等仕、感心の事に御座候。彼是申上度儀御座候得ども、陣中の事故彼是取忙、筆に尽し不レ申奉二恐入一候。先は無事の次第まで申上度、幸便に托し如レ此御座候。恐惶謹言。
寅八月十三日認
道 正 花押
御 父 上 様
御 兄 上 様
初 太 郎 様
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