去月十九日一挙事敗れ、却而乱暴之形跡に相渉り、姦賊は益々勢を得、恐多くも御両殿様に朝敵の御名を奉二枉誣一、追討の御沙汰にも及候哉に伝承、一統日夜痛歎に不レ堪恐入罷在候所、右十九日之一条に付、吉川監物様御計にて乱暴之廉を以、罪を朝廷に陳謝に被レ為レ及、三大夫之御所置も御伺に相成候哉と此頃側に承及、一同驚愕仕候。私共其節策略等は分耄も不レ奉レ存候得共、惣管之指揮に随ひ、闕下に推参仕候。爾後追々其節之帷算探索仕候処、朝廷に暴発仕候訳毛頭無二御座一、根元松平肥後守殿悪逆之次第、一朝一夕之事にては無レ之、当六月以来、山崎、嵯峨等に於て歎願之次第、其情実天下四方に貫徹仕、親王以下公卿諸侯方の公論有啄奏上被レ為レ仕候得共、肥後守殿之姦計にて中川宮を頼み、飽迄正論を壅蔽し恣に廟議を矯誣被レ致、毫釐も貫徹之道無レ之、就中当六月廿七日夜、長州兵士乱入と宣言し、俄に兵卒参内し、直に乗輿武家玄冠に被二乗付一、禁内を奉二騒擾一、其後数十日御花畠に止居、頻に追討の詔を強請し、至二甚敷一は洛外に追討の軍を起し、其機に乗じ恐多も 鳳輩を彦根城に遷し奉らんと、姦謀匿計其驕慢不臣の大罪神人与に所レ悪、如レ此大逆賊其儘に閣候ては目睫間の患害不レ可レ測、坐て敵の謀に陥候はんよりは、恐多事には候得共、以二大権道一断然決策、進で天下の逆魁を討し、朝廷不測の大患を除んと、切迫の余り不レ得レ止に出候義と伝承仕候。然所不幸事不レ成、剰嵯峨山崎を潰去仕是迄罷越候段、不レ得レ止義とは乍レ申赧然の至奉レ存候。然に右一挙前一両日、天朝并幕府列藩へ肥後守殿悪逆之罪を鳴し、討伐之義公然申達候事と承及候。然処今若其至意明晰ならず、徒に乱暴を以罪咎陳謝に被レ為レ及、三大夫之御所置迄御伺に相成候ては、前日之挙は全く乱臣狂士の妄動と而已相成、頗る姦賊の術中に陥可レ申候。乍レ恐此比朝廷の御所置と申は、全く賊の姦策に出候事而已に候得ば、今御所置を朝廷に奉レ伺候は科を賊に請も一轍の義に御座有間敷哉。且今一歩を屈し候へば、朝廷は唯賊の欲する所の儘にて、終には手を束ねて追討の軍を受候乎、或は地を裂き科を償ふの極にも可レ至乎。且三大夫其外有名之人々遍く就縛之上可二差出一など虚令可レ有レ之も難レ計如レ斯に至候ては国家之存亡後世の御恥辱如何可レ有二御座一哉、実に不二容易一義と奉レ存候。殊に於二三大夫一は元来姦賊所二厭忌一之国器、何卒非常之御寛典有レ之度事に奉レ存候。何処迄も朝廷の為に討賊攘姦之名義相立候様御所置奉レ願候。若其上にて追討の敵軍向ひ候時は、錦旗を擁し候処の賊を逆ひ、却て其錦旗を奪返し候程の御目途に無レ之候ては、緩急御所置如何と奉レ存候。右廉々名義之所に於ては後来御国典に関係仕不二容易一御義、且此度一挙之面々乱臣狂士同一轍と相成候ては、京師及び天王山に於て死亡仕候者共、決て瞑目仕申間敷、至二私共一候ては天地之間以レ人難レ立者共と相成、痛憤之至に奉レ存候。
右一同泣血奉二歎願一候間、至上御洞察名義相立候様、御所置被レ成被レ下候はゞ難レ有仕合奉レ存候。誠謹誠惶
頓首々々
別紙之趣非分を不レ顧国家重大之事件奉二言上一奉二恐入一候得共、不レ得レ止義に付歎願仕候間、何卒微意之次第、御洞察被二仰付一被レ下候様、御両殿様へ被二仰上一被レ下度奉レ願候。以上
中岡慎太郎
水野丹後殿
中村円太殿
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