中岡慎太郎全集/元治元年3月14日付?池田徳太郎宛

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昨日は態〻御枉杖之処早々空敷御引取之義、御気之毒之きはみニ奉存候。
西郷も昨夕帰邸、都合相尋候処、明十五日昼頃よりなれバ至極都合よろしく趣に、御両府之処、内々頼入置候間、其御考ヲ以、不悪様奉頼候。
扨天下之勢、変遷不一方事、眼を着べき処、果して何処ニあるか相分兼申候へども、当地道ハ四方之人傑往来仕候故、時之流れも分可申候。
当時洛西の人物を論候へバ、薩摩之吉之助、ひととなり肥大、学識あり、胆略あり、常ニ寡言にして最も思慮雄断、偶々たまたま一言を出セバ、碓然人膓を貫き、且、事ニ老練、其誠実武市に似たり。先、洛西第一の英傑ニ御座候。是ニ次で思慮周密、廟堂の論ニ堪ふる者ハ長州の柱小五郎、兵ニ臨みて不惑、機を見て動き、奇を以て人に勝つ者ハ高杉東行是又洛西の一奇才。

其外諸藩英傑ニ度々出合討論仕候事故、愚昧之吾々と雖も時勢の万一を察知する事を得べし。そもそも封建の勢たるや、利害相半す。国家尚安三百年、士気頗惰弱、上下事を忘る。一旦強寇大敵率然我(に)追(る)。於是大命攘夷必戦ニ出候。而して天下是を奉ずる事不能。議論百端、各異の国体於是や不立、是則封建の害ある処也。丑年以来、天下を救ふ者ハ悉く暴客の大功也。暴客も其事大低大卓見有之、然後能く断ズル者ニ似たり。嘗て水藩の暴挙壬戌の勢をかもし、薩州の暴客生麦ニ発し、長州ハ馬関ニ暴発、同藩をして不逃の死地に入れ、而して天下大有為の基本始めて立てり。是則思計に通ぜざるもののよくする処ニあらず、第一其卓見の者は久阪玄瑞といふ寅二郎の門弟にして、英学も少しハ仕、夷情も大ニ知れり。此節ハ最早田舎の迂濶先生に偶々逢、時勢ニ後れ候論(に)乗候てハ何共気の毒にて候間、井蛙の見に落不成候様、遥(に)奉祈候。托尊使斯御座候。

謹言


十四日
中岡慎

 池田国手 梧下

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