三壺聞書/解説

 
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三壺聞書解説
 
三壺聞書の外題は三壺記となつてゐるのもあるが、前者の方が本来の姿である。また原著は十四巻であつたが、後に二十二巻に改めた方が多く流布して居り、同じ二十二巻本にしても、その文章は可なり違つたのがある。今こゝに刊本にしたものは、自蔵の二十二巻本を底本にして、その不審しい点に就いては、石川県庁の蔵本等に因つて訂正を加へたのである。

何故に、吾々に十四巻の原著を採ることをしなかつたか。 ――この事は刊本を作る目的が那辺に存するかを明かにすることによつて、おのづから決定せらるべき問題である。若し吾々が、原著の仏を伝へることにのみ忠実を要するのであつたらば、勿論十四巻本を採らなければならぬ筈であるが、加賀藩の史実を探る為の参考書にするのが主眼であるとしたなら、それが仮令後人の加除を敢てしたものであるにしても、内容の整理せられ、文章の筋も能く通つてゐる方に味方せねばならぬではないか。二十二巻本が十四巻本に比して、如何に精練せられてゐるかに就いては、誠にその序文だけでも比較して見るがいゝ。二十二巻本の序文は、即ちこの刊本の初に載せたものであるから、こゝには十四巻本の序文を抜いて見よう。何れが巧妙で、何れが稚拙であるかに就いては、読者諸君も吾々と所見に一にせられるであらうことを窃かに確信するものである。

夫此の物語は、天文より以来諸国御大将衆の御事を、有増書載奉る中にも、加越能三州の興起を専奉書記。是信長公の御内太田和泉守、御当家の御儒者羅山子道春法印父子、利家公の御内に小瀬甫庵道喜斎、信玄公の御内春日源五郎兄弟、其外の記録に詳にして、珍らしき事にあらず。然れ共右の作者博学賢才にして、聖賢の詞をまじへ、善悪の批評古語を曳用、巻数大部にして、浅才下賤のもの見尽して存知弁る事成難し。昔源平盛衰の物語、信濃の前司行長と哉らん百二十句の物語に作り、生仏といふ盲目におしへかたらせ、是を平家物がたりといふ。其より品々の音曲に出ければ、犬打童子迄知る所也。今オープンアクセス NDLJP:183此御時代の物がたりは、近き事なれども、若輩の人知る事稀也。知らんと欲すれば、大部の書籍求難、適求得て見んとすれば暇なし。いとま有て見るといへども、元気不足健忘のもの、紛然として明ならず。如斯の侘人年々懇望に依て粗記之。高貴の御方の御覧可被成書に非ず。下愚の少童のため也。故に詞賤敷句を短く、幽玄の語を除き、一句に埓の聞ゆるを本とす。本より愚作の書なれば、迷ひの前に是非、夢の内の有無言笑敷コトヲカシ。鷹を鴟と云、鐘を甕と語成す事、天の恐れ不少。去共狂言倚語の戯言也。小山臥などののつとにひとし。雖然算勘の員数なとの不合とは似ざるべし。過にし昔物語に異説有て、まち成事御存知の通り也。此上に諸賢の記録を御覧有ば、弥切磋琢磨と哉らんに成べし。気欝上火の人、ねふりを得ざる時是を見ば、其まゝ眠りもよほし、正気堅固成べきものなり。

前記の序文には、日附もなければ著者の名も載せて居ない。併しこの書の著者が山田四郎右衛門といふ藩の宰領足軽であつたことは、古くから伝へられてゐる。宰領足軽は素より藩僕呢近の諸士の列ではない。藩の荷物が江戸なり京なりに運搬せられる場合に、それを保護監督して同行することを勤務とする微職なのであつた。藩の中期以降に、かうした職名のものは居なかつたのであるが、当時存在してゐたことは明瞭で、延宝の地図には、金沢百姓町から主馬町に入つた所の西側に十二人、東側に七人の宰領者と記して邸宅が描かれて居る。四郎右衛門も或はこゝに住んでゐたのかも知れない。四郎右衛門が藩から受けてゐた宛行は切米三十四俵で、元禄何年かに齢八十六で歿したことも伝へられてゐる。また四郎右衛門の直系子孫が全く絶滅したことは、宝永七年前田綱紀の諮問に答へた割場奉行の言上書によつて確実に知られる。割場には、多数の足軽が属してるるから、綱紀はその奉行に四郎右衛門が後胤の有無を探らしめたものらしい。

才領の者山田四郎右衛門儀、十四・五年以前八十歳余にて病死仕候。子孫は無御座候。只今山田権左衛門と申者、足軽に罷有候得共、右四郎右衛門筋にて無御座候、以上。

 五月十七日(実永六)        斎藤八太夫

              津田久丞

     ○

   足軽小頭栗原太左衛門江相尋申聞趣

四郎右衛門義、せがれ無御座と覚申候。娘一人罷在、中村久左衛門組足軽に縁付候処、四郎右衛門存生之内病死仕候由。

一、四郎右衛門妹にせがれ両人有之、一人は原田又右衛門組足軽、一人は駒井庄太夫組足軽にて、今以御奉公申上候。此外子孫覚不申由。

但太右衛門は、四郎右衛門在世之時分、近辺に罷在候者に御座候、以上。

前記割場奉行の言上書に、十四・五年以前とあるのを、確実なものとすれば、四郎右衛門は元禄九年又は十年に遠逝した訳になる。又こゝにも四郎右衛門を才領の者と書いてゐるから、彼が宰領足軽であつたことは動かすべからざる事実で、古来の考証家中に或は台所同心足軽であつたとしたり、割場附足軽だとしたりしてゐるものゝ誤謬であることは言ふまでもない。かうした地位にあつた四郎右衛門にして、こればかりの書を編纂し得たことは、前田綱紀の学術隆盛時代に於ける一つのあらはれと言はねばならぬ。

三壺聞書の内容は、鎌倉・室町時代の簡単な記述から初まり、信長・秀吉・家康と進むにつれて漸く詳密の度を増し、その中おのづから前田氏の興起を叙し来つて、遂には殆ど加賀藩のみの記事となり、利常薨去の時に擱筆せられてゐる。これは元来前田氏を主題としたものであるが、前田氏を叙するには信長・秀吉・家康を離れることが不可能であり、信長の勃興を論ずるには、遠く鎌倉開府の時に溯らねばならなかつたので、著者が国史の大局を把握してゐた人であるといふことを言へる。その事は同時に、加賀藩の史実を探る目的にのみ供する吾々の参考書として可なり蒼蠅いことでもあるが、さうした不満を著者に対して漏らすべき筋合のものでもなく、どう考へても富田景周が越登加三州志を著した以前に於いて、加賀藩の通史に先鞭を着けた功績は、この足軽山田四郎衛門に帰せねばならぬのである。随つて三壺聞書は、著者の歿した直後に於いて既に可オープンアクセス NDLJP:184なり評判の高かつたものと見え、好書の前田綱紀はそれを探求しようと努力したものであるらしい。

青地礼幹は延享元年七十歳で歿したのであるから、前田綱紀が割場奉行に四郎右衛門のことを下問した宝永七年は三十六歳に当る。随つて礼幹がその著可観小説に書いてあることは正しかるべき筈であるのに、余り信用を置くことは躊躇せられる。可観小説では、綱紀が三壺図書の存否を、四郎右衛門の甥である山田久八に尋ねた所が、遺著一切無いと答へた。それは四郎右衛門が自筆の稿本を荼毘の燃料に供すべく命じて置いた為であつたと書いてゐる。而して又別の条には、原田又右衛門が四郎右衛門から書写して呉わた一本を蔵してゐたので、綱紀はそれを召し上げられたとも記してある。併しこの二つの記事は、相連繋すべきことであるのに、幾分誤聞が交へられたものであらうと思はれる。吾々の推考では、四郎右衛門の自筆本は遺族がないから当然甥又八に伝へられたのであつたが、原田又右衛門が又八の組頭であつた為にそれを譲り受けてゐたものだと解したい。『四郎右衛門妹にせがれ両人有之、一人は原田又右衛門組足軽』と、前の言上書の添付書類に出て居るそれが又八であつたと見ることは、極めて順当ではあるまいか。荼毘の燃料に供すべく遺言したといふやうなことは、四郎右衛門が自著に眷恋としてゐた後掲の跋文に見える体度から考へても、決して有り得ることでは無い。又右衛門が綱紀に三壺聞書を上つたのは、可観小説によると享保四年から十数年前だとなつてゐるから、宝永年間と見られる。而して若し綱紀が、この書を得んが為に、又はこの書を得たが為に、四郎右衛門の遺族を取調べられたとするならば、それは彼の割場奉行が言上書を出した宝永七年こそ、四郎右衛門自筆の三壺聞書が綱紀の手に入つた年だと言ひ得る訳である。精密に中らずといへども、全然見当違ひである程遠くはあるまい。

可観小説に、原田又右衛門の綱紀に上つた三壺聞書を十四巻と書いてゐることも、余り厳密な記事ではない。何故なら、この書は今も侯爵前田家の尊経閣文庫に蔵せられるものであつて、十四巻本といへないこともないが、実は第六巻を上下二冊に分け、外に追加一冊と信連記一冊とを加へオープンアクセス NDLJP:186た十七冊本であるからである。追加一冊は、四郎右衛門が本文中に挿入したかつたが、既に頽齢に及んでそれを実行する精力を失つたから、後人の適当に処置することを希望する意味が、その奥書に添へられてゐるのである。但しこの奥書にも日附と署名とがない。校訂者の自蔵本に『三壺記脱漏、拾遺追加次第不同』と題したのがあつて、これは前記の追加と内容の同一なものであるが、奥書を欠いてゐる。巻尾に『宝暦未稔十月如意日、二五蟠頓六十六歳写之。』とあるけれども、これは原著と関係のあることではない。唯宝暦になるともう著者の追加ですらが謄写流布せられてゐたことを知り得るのみである。信連記の方は、四郎右衛門が追加と同じ意味で三壺聞書と一纏めにして置いたものか、或は単に装釘を同じくした四郎右衛門自筆の叢書の一部が保存せられたものか、この点全く明かでない。外題には『信連記』としてあるから、全然関係のないものかも知れない。

右追加之一冊、所々に書置之追加と、少宛之相違可有之候何も見合、一致に可仕と存申候処に、光陰矢の如く、末短くせまり、気虚胎弱と成て、最早叶不申候間、以来一致に被成候はゞ、黄泉にて可為大悦者也。

これは追加の奥書である。この文から考へても、可観小説がいふやうに、著者が原田又右衛門の為一本を書いて呉れる程の元気があつたものとは思はれず、自家に保存してゐたものが、前に述べた順序によつて、遂に尊経閣の有に帰したものであらう。岩原恵規の筆記には、この自筆本を、杉江空左衛門から綱紀に上つたと伝へて居るが、それは事実ではあるまい。

三壺聞書の十四巻本には更に別種の本があつて、前記追加を第十五巻にしてゐるが、その記載項目が頗る増加せられて居り、殊に第二巻の末家康公の御先祖の事の条の次に、朝敵の事、諸氏の事、摩利支天堂の事、知行割の事の四節、を挿入したものもある。しかしこれ等は凡て後人のなした事であるから、この刊本には採つてない。又第十四巻の加州綱利公御前御輿人の事の条の次の本願寺末寺物語の事の一条は原本にもあるが、何等関係のないことで、二十二巻本には略いて居るからそれに従ふことにした。

オープンアクセス NDLJP:187今古人が三壺聞書に就いて考証した文献の二・三を掲げて見ることにしよう。

〔武家昆目集〕

三壺記は山田四郎右衛門と云者の書集めたる物也。軽き者にかやうに後の宝と成事をば勤て残し置とは難有事也。さしも歴々の何のわざもなく、名を空しく死ゆく事浅ましき事なり。

〔蘭山私記〕

三壺記は前田家の旧記等を書載、好事者の為めには殊の外重宝なる書なり。不仮文飭不失事実、只有の儘に書たれば可謂実記ものなり。此書の作者三壺権左衛門とかやいふ者の書輯めたるよし聞伝へたれど然には非ず。利常卿御代台所同心足軽に山田四郎右衛門と云者、書物嗜にて軍記写本等多く所持致し、渠が編集也。

〔岩原恵規筆記〕

三壺記は山田四郎右衛門と云足軽之聞書共、壺に三つ有を編集しけるに依て爾云と。四郎右衛門は宰領足軽也。昔此名目之足軽有之也。此者直筆之本松雲公御尋之処杉江杢左衛門に有之に付上之。実記也と御意にて結構に認被命、御文庫入に相成由。

〔可観小説〕

享保四年十二月廿八日の話に、原田又右衛門長矩今年八十三歳也。十余年前御尋被成、高岡之城被築年月若覚居候はゞ可申上旨、本多図書を以被仰出。長矩、聞書有之間相考可申上旨御請仕、下宿後相しらべける処、郎年月相知候付、其冊子相添入御覧ける処、此書は即作者四郎右衛門の手跡にて御見覚被成たり。如何やうの訳にて所持致し候哉之旨御尋なり。四郎右衛門義長矩方へ常々心安く出入仕候て、此一部十四冊自筆に相調指越候旨申上ける処、一部不残御所望被遊、則図書を以上之。其後は長矩方には三壺記所持不仕、不存寄俄に指上ける中へ写本も無之旨也。三壺記と名付し子細は如何と御尋之処、右四郎右衛門此聞書を書調ける節、側に壺を置て一つ壺中へ投入置ける処、壺三つに満候て、其後冊子に仕たり。依て三壺記と称し候旨申上候由、原田又右衛門話也。

〔可観小説〕

俗間に三壺記と云記録ありて、三州の故事、前田家御先祖の事等を載たり。三壺何某と云る者の作なるよし聞伝へしかど左にはあらず。山田四郎右衛門といへる台所同心の作なり。山田が事は微妙公以来三十四俵下され、八十六歳にて元禄年中に相果たり。男子無之、女子ばかりにて、婿に山田久八と云者を一所にいたし、此久八へ先年御尋被成候は、四郎右衛門儀三壺記を作り、板行いたさせ候哉、自分に書候書有之哉之旨被仰出、板行之義は勿論、自分作り候もの無之由、久八申上たり。其子細は、四郎右衛門常々遺言にて、我等相果候はゞ、三壺記に限らず、手馴候記録等封印付置候書本数多に候間、夫を以火葬の焚草に可仕旨、堅く申付置候付、其通にいたし不残送葬の時焼捨候。三壺記は四郎右衛門一人の作にては無之、平生脇田九兵衛家へ心安く出入いたしける故、九兵衛も余程迭代(手伝)有之旨。且常々禅学を好みたるよし、市嶋久八話也。

最後に吾々は三壺聞書の題号に就いて一考したい。この書が三壺権左衛門の筆に成つたからだとする一説の不可なることは、最早論ずるまでもないが、可観小説に、著者が三個の壺に草稿を貯へたによつての名だとするものは、確乎たる事実として誰一人疑ふものもないやうになつてゐる。だが、この説も熟考すると少し変ではなからうか。一体壺といふものが吾々の家庭に極めて普通な存在でもなし、仮令有るにしても明意浄凡の傍に用ひられる文房具でもあるまい况んや反古同様に丸めて投け込んで置くものでもないとすれば、壺は原稿整理に恰好な代物とも言ひ難い。随つて三壺の解釈に就いては何か別種の分別が必要らしく思へるではないか。この事に就いては大方の示教を仰ぐもので、吾々にさしあたり名案はない。――序文に『鷹を鴟と云、鐘を甕と語成す事、天の恐れ不少』と見えるが、それと関係してゐるのでないかとも思つたが、一向当らぬやうである。 ――東方絶海に在る蓬萊・方丈・瀛州の三神山は、その形の似たるによつて三壺と言はれる。で或は前田氏の提封加越能三州をそれに擬したから様の酒落でもあるまいかと思はれぬこともない。四郎右衛門はこの書を編するに当つて、オープンアクセス NDLJP:188脇田九兵衛から多分の助力を得たと、可観小説には述べられて居る。この九兵衛といふのは、延宝三年に歿した直能のことであり、朝鮮の帰化人九兵衛直賢の子で、木下順庵の門下でもあつたのだから、かうした成語を外題に用ひたのも、直能の入智恵であらうことの想像は許されぬものだらうか。


  昭和六年七月

       校訂者 日置謙