三壺聞書/巻之二十二


不動国行 骨食吉光 天下一三好郷 江雪正宗 吉本郷 左文字 初雁郷 両方郷 温海貞宗
此の外二百枚内外の郷・正宗の御腰物数多なれ共略せしむ。御脇指は。
豊後藤四郎 米津藤四郎 新身藤四郎 樋口藤四郎 しのぎ藤四郎 飯塚藤四郎 北条藤四郎
此の外三百枚内外の御脇指は数しらず。御太刀には。
三好正宗天下一 対馬正宗 長銘正宗〈利常公より上らるる〉 八幡正宗 横雲正宗 道雲正宗 宗近シノギ 【 NDLJP:173】行平 青木国次 三斎国次 村雲当摩 岐阜国吉 醍醐屋国吉 蜂屋郷 北野紀新太夫 大国綱吉光 一振の影 秋田行平 主馬丸行平 宗近 大坂切刄貞宗
此の外百枚内外の御太刀数多ありといへ共畧せしむ。依之世の中に古作の道具大切になり、一倍増・八割増・五割増と段々に其の出来不出来新古に随ひ、代付折紙等も出すべき由、公儀より本阿弥家に被仰渡、何れも身を持出でたり。他の宝物は年経て朽ちくさりけれ共、金物・土物は幾世を経ても猶見るにいとまなし。上古より以来火事と云ふ事なかりせば、古物の絶えぬる事あらじと、皆人惜みあへりけり。
瑞龍院様御墓所並に寺の山門は正保三年に成就して、御寺いまだ修理不被仰付。依之山上善右衛門に被仰渡、漢土の径山寺の指図の通りを御尋ありて、御仏殿・大方丈・小方丈・衆寮・大庫裡・小庫裡・回廊・鐘楼残る所なく御造営とぞ聞えける。近藤加左衛門・市橋佐次右衛門を被遣て、惣構の堀・土手等を築廻し、寺社御奉行に御扶持人大工どもを山上下知して、申酉戌三年かけて作事漸く出来す。日本無双の職掌の伽藍とこそは見えにけれ。誠に御代を継がせ給ふ報恩謝徳の御志にて、供養執行被成事、難有しとぞ申しける。 同年三月二十一日小松御発駕、四月二日江戸御着、御登城方々御勤等例の如し。然る所に武家・寺方・町中の屋敷共此の年皆替りければ、清泰院様の牛込の御屋敷紀州様へ相渡る由にて、万ぢやうを立て勝示を指し縄張等を致す由を利常公へ注進の所に、今枝民部・塚本治左衛門を被召寄、何方より案内ありての事か、其の方共いかゞ聞きたるぞと御尋の所に、誰も不承由申上ぐる。俄に御機嫌替りて斎藤長兵衛を被召、足軽・御小人五百人計召しつれ、今日の内に家を毀ち可申由急に被仰付しかば、長兵衛は畏りて人足共引具し、御扶持人御大工等も参り、未だ家もあけずして何れも有之所へ押懸け打やぶり、大縄を付け引たふし〳〵する程に、住居のものども家財を取りのけ方々へ持はこび、子をさかさまに負ふとは加様の事なるべし。あわて騒ぐ有様は、唯今高麗陣とやらんの有るかとて、上を下へぞかへしける。然る所に塚原治左衛門登城して御老中にむかひて、たとへ清泰院様御座なくわたらせ給ふとも、中納言殿・綱利公もましませば一旦御断可有所に、御案内もなく如何の御分別に候哉。中納言殿殊の外なる御腹立、此の上には早々先づ替地を被進可然と、地をたゝき声高に申しければ、御老中も理に伏し給ひ、治左衛門宜しく御意得られ候へ、何地にても替地御望次第とありければ、其由利常公へ申上げらる。然らば駒込を御請取可被成とて、駒込にて相渡る。御近所藤堂和泉守殿屋敷につかへて少し不足ありければ、本郷の町と天沢寺をさかひ、近藤登之助殿前同心共をたゝせ可被相渡、御露地等の御普請も御数寄なれば御近所なりとて渡しける。又其の上に苗木山を御望ありて御請取り、前田帯刀殿へ御普請まで被仰付て利常公より被遣。御上屋敷は筋違の外六条本願寺の末寺屋敷を浅草にて相渡し、其の跡をば綱利公へ被相渡。此の三・四ケ所の新屋敷御普請に、江戸中の日用人足幾千万御用開敷事共推察して知るべし。筆紙の及ぶ所にあらず。依之畧せしむ。 万治元年には、御城見付の御門より、方々の橋々の御門・橋台等修理破損等造営の儀、天下の諸侯請取請取に被仰付。別して御天守台の石垣は、加州へ御頼み被成ければ、加州より郡中の人足、其の年の収納に応じ被遣、扶持方銀相渡り、五千人の都合被召寄、御家中より御入用割符して、知行高に応じ取立つる。先づ四千貫目原田又右衛門・中村新之丞・津田孫十郎・平井次郎兵衛に裁許の足軽五十人指添へ、江戸へ到着す。是れ先づ当分普請の道具品々の御用意の為とぞ聞えける。年内より御上屋敷に於て、一尺五寸廻りの五十尋・七十尋の大綱を、諸国の麻苧を買集め幾百本となく被仰付、空車ばかりを十人にてもちあつかふ。大八と云ふ物を五百輛拵へ置き、七・八寸廻りの鉄を延べたる大鍍縄を幾筋となくねらせらる。樫木を以て地車・蝉車共を数十個作り置せられ、藤葛にて大持籠数万挺出来す。鉄てこ・木てこ数万本、御普請道具の其の外に、人足以下の装束のため、いま織の羽織五百人前、だて染の帷子数千人前、手拭に至るまで美々敷拵へ置かせらる。其の外行器・【

殿様御かくれ被遊候事筆にも申葢し難き御事、御心の内同じ思ひに存奉りまゐらせ候。然れば日頃の御心がけおろかにましますまじけれども、かならず御宿へ御越候事御無用にぞんじまゐらせ候。五郎左衛門はちかむかひ【 NDLJP:176】に出、御目にかゝりまゐらせ候。我身事は去年の御いとまごひより、わかれと思ひ定め候へば、今更とは存まいらせす候。其為一筆申まゐらせ候かしく。
と書きて市三郎に出あひ文をまゐらせければ、市三郎披見の後硯を乞ひ返事致さるゝ。
御文の通り、殿様の御事ことのはにも申奉るべき様は候はず。其方思し召の通りは心易思し候へ。五郎左衛門口上にいさい申入まゐらせ候。
と書とゞめ使に渡し、夫よりも両人は同道にて御城まで直に上り、御次にて人々に対面し、一期のをさめに御上下を拝領せんと、河合伝次に御召下し二具取出ださせ頂戴し、是ぞ納めの拝領と涙を流し着しつゝ、御霊前に向ひ謹みて焼香なし奉り、御次の間へ出でらるゝ。其の間に湯漬拵へ、両人にすゑければ、是もをさめの飲食也と頂戴せられ、箸を取り、何れも御暇乞申すとて、市三郎は立出で乗物に乗り、直に日蓮宗三光寺へ急ぎつゝ、敷皮になほり、我主君の同宗に罷成り、黄泉旅行の御供致すなれば以来は禅宗たるべし。今存生の内は代々の宗門なれば、是にて露命を落す也とて、懐中より辞世と見えし物取出して、三方の上に置き、何れもへ一礼して脇指取りて戴、腹十文字に切る所を、和田十郎右衛門刀を振上げ、三千世界を一刀の刄の上に滅却し、千万の妄想を一刹那に脱して大乗の身となれり。竹田氏の手際の程、東は秋田・津軽の果、西は壱岐・対馬迄取沙汰し、其のかくれなかりける。辞世に曰く。
君恩難謝断生命 鮮血淋漓濯梵天
四十三年閻浮夢 無明醒尽一時円
君がいにし死出の山路の道芝も思ひきるには障らざり鳧
原三郎左衛門は、先年三十人衆百二十名にて被召出、原太左衛門養子也。然るに依りて養父の跡目は望も絶えて思ひもよらざりし所に、太左衛門死去の跡二百石被下ければ、余りの忝さに此の恩生々世々有難し、自然の儀もましまさば御供せんと思ひけり。笹田助左衛門是を聞きて、心には思ふとも口にはいはぬ広口也と制しけるが、誠に言葉を不捨していさぎよく御供致しければ、別けて諸人感じけり。堀作兵衛は先年金沢にて御能の時、永原大学幼少の時の横目に付き登城す。又或児小将衆乗物にて登城也。永原乗物を今一人の児小将の若党押しやりて、主の乗物をやらんとす。堀作兵衛彼の若党のつらを思ふさまに打たゝき、永原の乗物を先へ押立てやりにける。其の翌日彼の若党作兵衛宿へ来り打果さんとする所に、人数多ありて取りさへ、若党は宿へ帰る。其の晩に作兵衛中納言様の御耳に立ちければ、作兵衛は難有彼の主人に被仰付、件の若党御成敗被仰付。し難有し、此の御恩いつの世にかはと兼ねて思ひ定めて追腹致しけり。定めて我れ年寄りて行がけの駄賃と人々思ふべし。世に名を留めんと思ふ人々は、御年寄られ候共連立ち申さんと云ふ儘に、いさぎよく腹十文字にかき切る。吉崎由右衛門心得て、乾坤の太刀の光に分破して、名は海老町の煙と立ちにけり。古市左近は、御城にて竹田と一所に金棺に焼香仕奉り、市三郎一所に暇乞して御城を立出でけるに、富山利次公より御尋の条々有之由にて、御家来両人出向ふ。中土居の宿所へ先づ立入り様子を承らんとありければ、両人申しけるは、別の儀にては更になし、年来申談ずるの通り、加賀様御幼少に御座候所に、御恩深き祖父利常公におくれさせ給ひ、陽広院様の御別れより此の度は一入愁傷たるべし。市三郎・左近を江戸に付置被成事、利常公の御心を添ふる様に思召しての儀共也。然れば利常公の御恩を思はゞ、せめて淡路に対面まで存命せらるべしとの御使に我々罷越候上は、一時なりとも見放し申儀難成候と、左近にはなれず罷在る。左近承り、御意の通り御尤にて候、とかく可奉得拝顔と、しばし留の待居たり。左近心に思ふ様は、御供するに留まると云ふ道あらばこそ、遅速は御供になる間敷にてもなし。利次公に日頃の御よしみなれば、御目に懸り御礼等も申上げ、寛々御供致さんと即時に思定め居たりける。其の内に利次公御来駕ありければ、左近先づ畏り奉ると御請申上げゝれば、利次公も御安堵被成、町宿へ御入被成けり。左近は御葬送の御供を三宅野迄相勤め、御遺骸を国松寺へ送り奉り、焼香心静に相勤め、人々に暇乞ひ、いさぎよく追腹をぞ被遂ける。誠に尊霊御在世の御時別けて御念頃にして、此の人に非ずしてはあるへからずと也。命は義に依りて軽しと云ふ事誠なるかな。
不堪君恵赴黄泉 遺命切遮暫時遷【 NDLJP:177】 三十四年風一陣 吹開物外雪花天
江戸より御飛脚到来し、早速御葬送可被執行旨被仰下、能美郡三宅野に相極る。品川左門は迚も御供仕る上は遅速の是非あるべからず。正敷尊霊の五蘊皆空の仏躰を現じまします上は、我もさまをかへ、存生の内は御霊前の御灯を捧げ奉るより外はなしとて、法躰して日夜勤行不怠。其の内に高野山の常灯の火も山本弥次右衛門持参し、三宅野に火屋を立て垣を結廻し、四門を建て白土にて上ぬり、白綾の水引等其の規式残る所なく、善尽し美尽しけり。御名代の御焼香は奥村因幡に被仰付、富山侍従利次公を初め奉り、利治公御名代の焼香は神谷治部、其の外御一門老中何れも三宅野に充満す。山崎虎之助・国沢少次郎・杉江兵助・別所三平四人を四天王と名付く。御前宜しき人々なる故に、落髪して三宅野の御供役儀等相勤む。導師は宝円寺、念誦は国松寺、其の次第規式夫々に相済み、何れも下向退散也。杉本次郎左衛門・野村半兵衛夜通しに野に明かして相守る。厭離穢土欣求浄刹の御有様を見届け奉り、翌日御遺骨を霊器に納め奉り、国松寺へ入れ奉りて高野山へ御送行の御用意とぞ聞えける。斯くて品川左門は、今は思ひ置く事なし、高野山への御供を竹田市三郎・古市左近諸共に、黄泉の長き旅泊の御奉公を勤めんと、内室子供達に遺言し、枇杷嶋を今を限りと立出で、金沢へぞ赴きける。矢田治左衛門・小嶋九右衛門・岡本平兵衛・桜井左七・河口八郎兵衛、其の外不残前後左右に伴ひて、尊霊御末期の御時我を召されけれ共、御存命の御影を拝し奉らず、定めて御待ちなさるらんと、心の中に懸橋を心静かに打渡り、浜通りに輿をやる。日頃見馴し天神の石の塔を見上げつゝ、重ね上げにし塔なれど、限りありてぞ見果てぬる。行衛は北の空なれや、いつも冬には黒雲の、晴間稀なる越路かな。爰は小嶋の里なれや、海士の苫屋も程近し。名は福嶋と聞きぬれど、見ればまだらに薄雪の、消行くよりもつたなきは、有為転変の世の中と、ありし昔を思ひ出で、昔は此の山際より海辺までは七里半、板津の郷と申しつゝ、手取川は山際を安宅の西へ出でしとかや。次第次第に波よりて、川は直に海へ出で、湊の里をなせりと聞く。斯く替り行く世の中を、常と思ふぞ迷ひなる。波音高く風荒れて、うきを身につむ湊也。渡しの舟に乗らんとて。
是やこの彼岸ならむ渡守死出の山路の道しるべせよ
斯く口ずさみ舟よりおり、山々の奥よりも積る白雪は、皆白山の類ひかな。山は動かぬ形をあらはし、古今に至る有様は、是ぞ妙なる山ずみの、替らぬ色ぞ誠なる。弓手や妻手の村々の、秋のかりほの仕舞ひつゝ、皆冬籠りして見えければ、顔淵がたのしみをさこそと思ひやる内に、松任に入りぬれば暫く茶湯を物しつゝ、下々までも飲食をいとなみ出れば、はや野々市を立出でゝ、東を遥に詠むれば、野田の松山生ひしげり、是は当所の高野山、浮世の隙を明らかに、楽み極めはかりなき、命の仏の住み給ふと、心の中に観念し、はや金沢に入りぬれば、浅野川口材木町の町家にしばし休らひける。懸る所に脇田善左衛門参られて、折節天気も晴れてよかりければ御仕合などゝ挨拶之あり。装束改め御寺へ同道也。宝円寺には中庭に畳を敷き、廻りに垣結廻し、幕を打ち待居たり。品川に脇田介添して客殿に上り、手水うがひ心静かに相済まし、仏前へ向ひ、尊霊の御牌前に畏りて心静かに回向せられ、火鉢へ立寄り手をあたゝめ、しばし脇田と物語して居られけり。尊霊の御在世には、御領国は申すに不及、京・大坂・堺・江戸其の外御用聞の者、此の人の取次にはづるゝ事なし。夫に依りて今を最期の事なれば、大かた寺へ参詣し、客殿・衆寮・廊下に列座す。夫より品川立出でゝ、老中を初め人持・物頭次第次第に暇乞ありて、中庭へ下りて幕の内へ入る。河口八郎兵衛に指料の備前長光を形見に見よとてあたへ、則ち是にて介錯仕れと盃をさしかはし、事済みて品川被申は、加様に期延びて御供申す事、臆して遅引に及ぶと思ふ者もあるべし。然らばいか様の死仕たるぞ覚束なしとの人口を恐るれば、幕を揚げて門を開き、山門の外までみちみちたる者共に見物させよと、矢田治左衛門・小嶋九右衛門に被申付、門を開き幕を揚けて諸方を急度詠めやり、白小袖に上下着し、西に向ひ三方の上なる脇指取りていたゞき、つひに子供さへ見ぬ玉の肌を押しはだぬぎ、弓手の脇に押立てゝ、えいやつとかけ声して引廻しければ、河口振上ぐる太刀の光諸共に、夢幻泡影の跡の如し。知るもしらぬも押しなべ【 NDLJP:178】て、袖をしぼらぬ人はなし。別けて与力に召仕の者共、紅涙とゞめ難くぞ見えにける。宝円寺にて葬送し、歯骨を納め小松国松寺へ送り、御霊骨の側に置きにける。高野山への御供には、五人の追腹衆段々に行列す。閏十二月四日に高野山へ送行なし奉る。小幡宮内・九里覚右衛門・野村半兵衛・笠間新助・杉本次郎左衛門・今枝伊兵衛・加古八兵衛、其の外御歩行・御料理人御供にて、泊々にて国松寺読経、御霊供・灯明上げ、高野山天徳院にて御法事執行し、御石塔御位牌造立し奉り、空敷小松へ被帰ける。哀なる御事也。
朱判正宗御脇 〈指目貫芥子、目貫芥子、小刀柄七夕、梨子地蒔絵の箱に入。〉
漢瓢御茶入 袋二つの内漢嶋金襴
定家筆 勢物語
一、本壺 ゑくぼ 水戸中納言様
一、中古茶入 野田遠州所持 保科肥後守様
一、青磁口寄香炉 ひしほ手 同大之助様
一、鶉の絵 安忠庵筆 同新助様
一、土佐筆屏風 源氏馬 同肥後守御内室様
一、紹鴎口広茶入 松平安芸守様
定家筆掛物 書出むかしをとこ
一、古今集 為遠筆 同御前様
新渡壺
小判五千両
一、平野文琳 同弾正様
一、土佐筆屏風 扇子絵押絵 同御内室様
一、古今集 公頼筆 おいち様
銀子二百枚
一、信国脇指 目貫小刀柄益乗 長蔵殿
青磁口寄香炉
一、延寿刀 目貫笄宗乗 浅野因幡守殿
一、青磁口寄香炉 同又六殿
来国俊脇指
一、古瀬戸肩衝 針や 利次公
定家掛物
江戸本壺
左弘行刀
吉光小脇指
銀千貫目
一、古瀬戸肩衝 利治公
一休一行物 住吉玉津嶋
橘本壼
左之刀
行光小脇指【 NDLJP:179】 銀千貫目
一、後拾遺集 定為筆 利治公 御内室様
歌書巻物 尭仁筆 おむめ様
銀子三百枚
一、貫之集 樹瓜火 御前様
小判千両
一、漢丸壺 前田美濃守様
掛物 寂蓮懐紙
井戸茶碗
青江刀
左安吉小脇指
一、伊勢物語 貞敦筆 おくま様
蒔絵重硯箱
金子百枚
一、定家歌書 八条様
一、拾遺集 為相筆 同姫君様
新渡壺
小判五千両
一、長恨歌 尊円筆 若君様
一、伊勢物語 為相筆 常照院様
一、土佐筆 大源氏屏風 女院様
御家来へ被下御遺物の覚
一、金子三十枚 御道具拾枚 前田三左衛門
一、金子二十枚 御道具七八枚 前田丹後
一、金子二十枚宛
前田主膳 小幡宮内 前田主殿 大音主馬
一、金子十枚 御道具五・六枚宛
前田内蔵允 前田平太夫 前田権之助 前田七郎兵衛 前田木工之助 村井藤十郎
一、金子十枚宛
奥野宇兵衛 小幡右京 前田主水 松平久兵衛 神谷治部 九里覚右衛門 岡嶋甚七 岡嶋五郎兵衛 本保加右衛門 本保大蔵
一、金子三枚 御道具二・三枚宛
粟田四郎左衛門 栗田権兵衛 寺西孫市 堀四郎三郎 高畠主水 田辺六兵衛 田辺助六 磯松六左衛門
一、金子十五枚 御道具十五枚 本多安房
一、金子十五枚 御道具七・八枚宛
長九郎左衛門 横山左衛門 前田対馬 津田玄蕃 奥村因幡 奥村河内
一、金子五枚 御道具二・三枚宛
青山将監寺西若狭 永原土佐 山崎長門 永原左京 富田治部左衛門 成田半右衛門 永原大学 篠嶋豊前 竹田五郎左衛門
一、金子五枚宛
岡嶋兵庫 山森森吉兵衛 菊池大学 茨木右衛門 青山織部 神尾数馬 脇田九兵衛 富田勘解由左衛門 江守覚左衛門 寺西主馬允 大橋又兵衛 湯原八之丞 伊藤内膳 浅加左京 中村惣右衛門 青地四郎左衛門 岩田内蔵助 森権太夫 浅野藤左衛門 山崎半左衛門 江守半兵衛
一、金子五枚 御道具二・三枚宛
伴雅楽之助 別所三平 古市孫三郎
一、金子三枚
岡田三十郎 高沢牛之助 神保長八 山崎虎之助 杉江兵助 国沢主馬
一、金子五枚 御道具二・三枚 山本久左衛門
一、金子三枚 神戸治太夫 丹羽平兵衛 福田彦左衛門
一、金子三枚御道具一枚・五両二枚 吉田左近 半田治兵衛 山崎小右衛門
一、金子三枚
吉田忠左衛門 三輪藤兵衛 杉浦仁右衛門 津田宇右衛門 赤尾主殿 佐々木道休 石黒覚左衛門 前田八左衛門 野村治兵衛 吉田平兵衛 坂井与右衛門 福嶋豊左衛門 三浦勘右衛門 日置清兵衛 駒井主水 古江次右衛門 富田治太夫【 NDLJP:180】一、金子二枚御道具一枚五両二枚
富田善左衛門 荒木六兵衛 神戸蔵人 河嶋平左衛門 佐藤久右衛門 平岡小左衛門 杉本次郎左衛門 高田弥右衛門 成田弥五兵衛 田辺佐五右衛門 大石玄哲 加藤正悦 西村六右衛門 遠藤数馬 笹田助左衛門 山本又四郎 長谷川大学 長谷川惣兵衛 高田勘右衛門 谷与右衛門 藤田道全
一、金子二枚
笠間源六 鷹栖甚右衛門 青木輿兵衛 安井源蔵 堀田清左衛門 久津見忠兵衛 加古八兵衛 中尾宗兵衛 野村半兵衛 今枝伊兵衛 清水甚助 山本清三郎 福田八右衛門
一、小判十両
山本治太夫 半田六郎左衛門 原九郎兵衛 坂野市之丞 根来三右衛門 大原伝兵衛 斎田彦助 佐藤儀左衛門
一、金子一枚
宮部弥三右衛門 野村覚之丞 岩田重左衛門 長田市左衛門 沢崎太左衛門 中村小左衛門 西脇勘左衛門 今枝助太夫 改田小平 菊尾五左衛門 安達弥兵衛 福田平八 疋田治部 上村八左衛門 稲垣三之丞 窪田弥八郎 鴨野又右衛門 今村治太夫 桜井九右衛門 疋田平兵衛 高畠権兵衛
一、銀子十枚
山中喜斎 千宗室 岸玄直
一、銀子五枚
長谷川徳左衛門 勝見作右衛門 分部卜斎 任田又右衛門 中村長右衛門 手崎権之丞
一、小判五枚
加藤牛之助 中村半右衛門 今藤加左衛門 市嶋佐左衛門 小原又九郎 石川次郎助
一、銀子三枚
道味 意斎
一、銀子二十枚 おたけ
一、金子十枚
前田美濃殿御袋 前田三左衛門内方 高寿院 九里覚右衛門母 堀三郎兵衛後家 田中六兵衛母 玄昌院内方青山 将監内方 多賀左近内方
一、金子十枚
前田熊之助後室 奥村河内内方 前田又勝母 成瀬内蔵助内方 前田平太夫内方 津田内蔵助内方 奥野宇兵衛母 横山式部母
一、金子五枚
生雲院 奥村因幡内方 品川左門後家 不破彦三母 丹羽織部母 永原左京内方 富田監物内方 青木千太郎母 松平治部内方 藤田清左衛門内方 野村木工兵衛せがれ加右衛門後家 三輪作蔵母 長屋長五郎内方
一、金子三枚 岡嶋市郎兵衛娘二人
一、金子十枚 御道具は江戸にて見合可遣 御娘子様御袋方
一、金子三枚 清泰院様御局
淡路守様御局
広嶋御前様御局
八条様姫君様御局
高尾 今井 松村 滝野 滝野 岩崎
惣金〆
小判〆
道具代
惣金銀
小松に居残り被申衆
赤井権右衛門 小杉久右衛門 根来善左衛門 嶋田清左衛門 今井助太夫 脇田助右衛門 藤村太郎右衛門 不破八兵衛 安藤助左衛門 宇田治右衛門 河村弥右衛門 池上又右衛門 横地善九郎 岩田十左衛門 加古佐太夫 水上左太夫 岡田五左衛門 杉野善三郎 中村彦左衛門 河合助八 岡嶋馬左衛門
〆二十一人【 NDLJP:181】 金沢引越の次第
一番 九里覚右衛門組
二番 大橋又兵衛組
三番 湯原八之丞組
御遺物は右の外御念頃の衆など、兼ねて被仰置衆中へ御帳面の通被遺略也。
御逝去の御跡、御城代に当分横山左衛門忠次在城せられ、諸事御用人窺に随ひて夫々に埒明けにけり。小松・金沢の御年寄衆詮議ありて、御跡の儀共上下御扶持人等、残る者は小松に留め、引越す者は可引越由被相定、斎藤長兵衛於割場夫々に申渡す。中にも御暇を被遣柳田四郎三郎は、常に尊霊の御櫛をあげ申すに付き、高野山へ御供の儀被申渡の所に、御免あれと辞退す。是は下々までも望みて忝く奉存所也。然るに唯今辞退の所は、天の恐れを不軽次第とて、追付き切腹被仰付。日頃の私意専らあらはるゝ所也。伝灯寺千岳和尚は尊霊の報恩奉謝に限りなく、せめて寸志を以て追悼の頌を書き御牌前に納め奉る。其頌文に曰く。万治元年暮。中納言利常公就御逝去。伝灯寺千岳追悼詩文奉捧。
加越能三州隠君松平中納言従三位菅原朝臣利常卿。今茲万治元年著維闊茂暮秋。賜青油幕下之官暇而帰国。穏座未幾。十月十二日被触于暁風。卒然而逝去矣。士農工商靡独不傷悲。就中恩愛甚深之扈従者。昔哂作俑者。即日有致死人。隔日有成程嬰杵臼思人。又有俄髠族。寔陪臣侍士之傷弔。理之所尽情之所窮也。于然野僧宗例。畿内摂州之産。東漂西泊之後。投老於加州城下。而過一生於鉢盂中之処。去承応甲午秋七月。不意呼令登城。彼隠居告曰。当城良岳有故刹。名曰伝灯。雖然屋廬湫隘。柱石傾斜。只存故基已。而若作和上終焉地者。即可作新。余天心之余咽于老涙不獲答而首肯焉。同八月上旬課匠作寮。打鼓普請。尽善尽美。翌年三月落成矣。不移時日入寺。自分以降酬恩謝徳之日未幾年。隠君頓逝計音落耳。似比丘亦落魄断魂。湿却袈裟角者也。時移事去。老涙之隙綴不才。安牌中七箇字於句上。置姓諱官名於句尾而追悼七絶。不憚高見遠識人。不顧禿笔。記以奉呈牌前。若定中有昭覧者。仭比丘惟幸。
一生愛用恣歓悰 可惜不連横合縦
子葉孫枝長葢代 仰高千歳大山松
峯尖岳嶮衆山勢 国泰民安太守情
多少錦鯨捲不容 長季想像意和平
大命俄移似背公 永陪幕下合存忠
嚙牙辛苦守其国 政在旡過不及中
居仁処義与心合 武勇問兮文道答
月俸家資三国財 悖旡出矣悖無納
士重死兮臣重恩 左之刄腹右之髠
黄門深鎖薀山裡 掩室杜詞終不言
神功雖欠従三位 退筆力量猶不異
想是此公丈夫人 郊居深被謝名利
儀規徳行至公道 煩悩菩提成仏場
痛捨身心休慟哭 出生入死不違常
万治元年戊戌仲冬 三住妙心現伝灯千岳宗似蒲拝
前黄門乾公大居士捐舘舎之日。金龕既移野外。有令不能相従。賦拙偈一篇。以述卑懐云。
一道恩光三十年 袈裟湿却夕陽辺
北邯咫尺不能到 空凝黄雲向仏前
右条の一紙、尊霊の御牌前に備へ奉りて、回向追善申し奉りけり。かくて利常公は御逝去被為成、綱利公はいまだ御幼君の御事也。保科正之公の御後見也といへ共、国の風俗善悪の事委細に御存知ましまさねば、金沢老中寄合ひて、今此の時節政道別けて一大事也。君御成長ありて御国入被為迄、諸事の縮等ゆるかせにすべからずと、我意不道の輩をば江戸へ注進せられ滅放し、跡目等の滞有之をも注進申し御一行被成下、寄合所にて頂戴せしめ、何れも安堵の思ひをなし奉る。誠に御代々の人々と云ひ、又は御一門中の事なれば、忠節私なく賢慮をめぐらし、公儀御自分の御入用御納物は会所へ申渡し末々まで無滞相勤め、御郡方御収納の儀、諸奉行手前手前の勘定は御算用場にて吟味す。其の外御作事・御普請方、御下行被下足軽以下の事共をば割場に於いて請払ひ、寄合所御用所と号して諸奉行参りつどひ、老中へ伺ひ命にまかせ相暖ひ、昼夜の油断はなかりけり。寛永十六年・十七年小松へ御隠居の刻、富山・大聖寺三【 NDLJP:182】ケ所へ金沢より引越す者の跡侍屋敷、所々に晶地ありて物淋敷、当君いまだ御幼少にて久々御国入も御座なく、さしてはれがましき事もなし。武家・町方も家宅漸く破損に及ぶ。然る所に俄に小松の大小名引越し、金沢中所々の明地へ屋形を建て、思ひ思ひの作事をいとなみ、金沢居住の人々も、近々殿様御入国可被為成時節なれば、旁以て指置く事難成とて何れも作事を営みけり。江戸大火事の後にてあれば、諸の器財雑具共に跡々に倍して千金を費す。其の時節小松・金沢入込み普請せし故に、材木などは申すに不及、大工・木挽・鍛冶等に至るまで高値なることはかりなし。又あら物等底を払うて売出す。千金を出し是を求め、利常公御若年の御時のごとく、むかしに立かへり、又万歳の初まりと、万民末たのもしく快楽の思ひをなし奉りけり。