三國名勝圖會/巻之三
三國名勝圖會卷之三目錄
- 薩摩國鹿兒島郡
- 鹿兒島之二
- 神社
- 鹿兒島之二
諏方神社宗源殿頭屋 祇園神社鳶石園社 祇園濱 市坊旋次内秖
稻荷神社 稻荷市 春日神社 若宮八幡宮
諏方神社 神明宮 神馬厩 小城權現社
若宫俊寛池 辨才天廟 曾根天神社
萩原天神社 梅林寺 天神池蛙闘 山王社
久富貴宮 船魂廟 紫藤架 大門口辨天廟稲荷社秋葉廟
荒田八幡宮蝮蛇鎭符 一條宮
聖之宮 宇治瀨神社 年之宮 春日神社 天滿宮 愛宕社神社合記 蛭子社 荒神社 住吉社 諏訪神社 太田神社鹽竃神社 高加治廟 天滿宮 蛭兒社 白山權現社
三國名勝圖會巻之三
- 薩摩國
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- 鹿兒島郡之二
- 神社
- 鹿兒島郡
正一位諏方大明神社府城の東北 坂本村にあり、祭神二坐、其一坐 は、建御名方命、是を上社と稱し、一坐は事代主命、是を下社と稱し奉り、神體各鏡櫝を殊にす、上社を左位に崇め、下社を右位に崇め、左右これを合殿に安す、例祭毎年五月五日、是を五月祭と云、七月廿八日、此日大祭也、當社は、鹿見島の總廟にして、鹿兒島五社の第一也、外四社を、祇園神社、稲荷神社、春日神社、若宮神社とす信濃國諏方大明神を迎へて勧請す、今其來由を繹るに、文治二年丙午正月八日、 鎌倉右大將源公、我 大祖得佛公を信濃國鹽田莊地頭Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/90諏方御佐山神事の式とて、尾花ふき、穂屋の廻りの、一村に、しばし里ある秋の御佐山、と作る歌の如く當國に於ても、新たに茅茨を搆へ頭屋と云ひ 訓後、諏訪社より通路の南、棈木川を隔て、三町余の所、頭屋の地を設く、 兒童二人を簡み、頭殿と號し、左右に册き尊む、是勅使奉幣の式にて、頭殿は藏人頭の義なりとす、永享十年の祭禮法様記に詳なり、其頭殿、先六月朔日より別火斎居し、七月朔日に及び修禊し、頭屋に上る、其これに在るの間、凡百の儀式、或は本府諸村、及ひ谷山櫻島の農夫、數日代る〳〵鉦鼓踊りをなし、又市躍散樂等を興行し、人皆興を催す、既にして七月廿八日 に至り、左右の頭殿比廟に詣ふで、奉幣祭祀の盛禮を行はれ、 世々の 邦君詣謁し給ふ、元祿九年、丙子、六月、神祇道管領勾當長上正三位ト部兼連、啓状を以て當社に碑位を晉め、正一位とし、十三年、庚辰、四月、近衛右大臣家凞、諏方大明神五字の
扁額を書して、當社の兩華表に掲らる、されば 大祖公の御時より、かくゆゑある明神にて奕世厚く敬禮し給ひ、數多の神領を附らる、又 浄國公の時、實殿、舞殿、拝殿、本地堂、籠所の類、悉く儼飾を盡され、誠に人の敬によつて神亦益々運を添ふが如し、大宮司職、正五位下本田出羽守親徳なり、社人三十家、皆これに副ふて祀事を助く、安養院別當たり、本地堂は別當寺にあり、即ち本尊なり、○御鎧一領、 大玄公奉納し給ふ、甲斐武田氏の楯無の鎧を模せられしと云、
○宗源殿 本社の右に在り、我 皇國の諸神を奉祀す、天保十年、今邦君参議公此殿宇を修し給ひ、輪奐の美前に過るをあり、且 公の御眞影を安し給ひ、更に詣人多し、 公御徳の盛なる 、大乗院鎭國殿の條に詳なり、Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/93Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/95Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/96〇 和歌- 大慈公、飛鳥井大納言雅威に詠歌を請ひ、當社に奉納し給ふ、
初聞鶯
咲出し、この神垣の、梅かえに、けさ鶯の、はつねをぞ聞、
社頭朝
あきらけき、神の御前に、はふり子か、朝日まちえて、ぬさ手向なり、
〇稻荷の市、 毎年十一月、當社祭日より蓮旬の間、近地通衛數町に亘り、浮鋪を出す、是を稻荷の市といふ、都鄙の男女、日に集り、求るに有らざるものなし、他國に於て、此市と、豊後國府内の濱之市と、肥後國天草の本戸之市とを以て、九州三の 大市と稱ずるとかや、かくて此稲荷の市、最も大なりとす、
春日大明神社府城の東北 坂本村にあり、建饔槌命、經津主命、天兒屋根命、姫大神の四坐を奉祀す、正祭十一月廿八日、本社大和國添上郡春日郷春日神社にして鹿兒島五社の第四とす、神區精麗にして、和光を耀かす、諏方大宮司當社の祭祀を兼ぬ、西壽院別當たり、元禄五年、壬申、十二月大乗院覺慧誌せる當社再興の棟札に、享禄中、平等王院主執㆓務之㆒、彼院絶後、蒙㆓君命㆒、西壽院兼㆓社職㆒とあり、大興寺に、弘治二年云々、春日領云々、又元龜二年、寄進春日領云々の書を藏む、其頃は、當社の事、大興寺より掌しや、
若宮八幡宮府城の北 坂本村にあり、祭神四坐、 應神天皇、神功皇后、玉依姫、 仁徳天皇とす、正祭九月九日、聖榮自記を案ずるに、 齢岳公、前條諏方神を山門院より迎祀して、本府の宗廟とし、且大隅正八幡三の神輿を以て、若宮八幡と號し、勧請し給ふといへり、即ち當社にて、鹿兒島五社の第五なり、又
Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/100Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/101Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/102Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/104Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/105Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/106Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/107Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/109請す、祭神の事は、猶頴娃開聞神社に併せ考ふべし、昔時は殊に大社なりしといひ傳ふ、建久八年、六月薩摩國圖田帳、郡本社、七町五段、鹿兒島郡内と載す、其郡本の社とは、當社を指す歟、初は一之宮大明神と稱す、貞享五年、二月の棟札書すところ亦然り、其神號薩摩國一之宮頴娃開聞神社を薩摩一宮とす、或は水引八幡新田宮を薩摩一宮とす、今本文所謂薩摩一宮は、開聞を 指せるなるべし、に混淆す、故にト部吉田兼連、今の號に改しとなり、元禄十四年の記、一條宮大明神とす、其頃の改號にや、寶永八年、辛卯二月六日の古簿に、一之宮大明神と唱へ候處、近年は一條三社大明神と唱へ候とあり、十月朔日の祭祀、神輿濱下りあり、當社より巽方三町許の海邊、谷山街道の傍、古松樹あり、其處を柴立と呼ぶ、神輿をこれに駐む、故事なり、
聖之宮府城の西 小野村烏帽子形にあり、園田氏宅地なり、祭神詳ならず、例祭十一月廿一日、同社に稲荷を祀る、稲荷は園田の氏神なり、應永
Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/111Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/113Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/114 Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/117Page:Sangoku meisyo zue 1.pdf/118れるといふ、然れば諸所に漂着して、遂に國分に止まりし歟、太平記劔巻曰、蛭子は、天石橡樟船に乗せ奉り、大海カ原ニ推出メ被㆑流給シガ攝津國ニ流レ寄リテ、海ヲ領スル神ト成テ、夷三郎殿ト顯レ給テ西宮ニ御座スト、其海を領するといふを見れば、漁利を此神に祈るもの由あり、神社啓蒙曰、西宮蛭子御前者、蛭子神也、俗號㆓夷三郎㆒、非也、夷者別㆓、一氣神、其在㆓釣磯㆒則號㆑夷、相巖事八十神、大穴牟遅命、拾玉集、慈鎭の哥、西の海に、風こゝろせよ、西の宮、東にのみや、ゑひす三郎、廣田歌合、頼政の哥、れもへただ、神にもあらず、夷だに、見るなるものを、ものゝ哀れは、蛭兒をさして恵比須といへるもむかしよりのことなり、 △白山權現社 吉野村、大磯山下川の北岸にあり、祭神伊弉册尊、菊理媛、本社は加賀國石川郡にあり、當社は 浄國公此所に移して、再興し給ふといふ、初め鎭坐の地審ならず、此、他神廟無數にして、或は某の病を愈し給ひ、或は某の願に應ありと稱じ、世に仰信するの叢祠、殫く擧るに遑あらず、三國名勝圖會巻之三終